京都・朱雀錦
(1)「京都と鯖寿司



葵祭

 京都と葵祭の話
 京都は海からはなれており、交通機関が発達していなかった昔は、新鮮な海水魚を食べることは困難でした。しかし、平安時代の産業は農耕農業と漁業であり、動物性たんぱく質は魚介類が中心であったと推定されています。日本の最初の法律である大宝律令(710年)には、朝廷への調(税)として29種類の海産物が挙げられている。当時の需要量においてアワビ・わかめ・カツオ・アラメ等が多いこと、運送や貯蔵の関係から、乾燥物、塩蔵物で納入された。
 平安貴族は何を食べていたか、当時は農業技術もそれほど発達せず、庶民においては、麦類や栗・キビなどの雑穀が基本で、腹持ちを」よくするため粥状にしてかさを増しいた。
 和名類聚抄わみょうるいじゅしょうによれば貴族は米を常食にしていた。また、麺類も遣唐使によって伝来していた。
 平安時代の調理法は、当時ですらすでに「包丁」と呼ばれる料理人は存在していた。ただ調理法としては蒸す・煮る・焼く程度しかなくい炒める・揚げるなどに当たる調理法はなかった。
 庶民の食事に関しては、新鮮なものを食べる機会はほとんどなく、干し物や漬物などのきくもので飢えをしのいでいて料理という概念はほとんどなかった。
 平安時代にも寿司は存在したが、滋賀県の「鮒ずし」で代表される馴れ寿司で現在の寿司になったのは江戸時代になってからである。当初の鯖街道は、白石から根来を通り山越えをする小浜街道が主流であった様である。」この街道は18里、すなわち72㎞と遠く、しかも起伏の激しい山道、標高900m前後峠を4つ越えなければならない、難所の多い道でした・鉄道や自動車が普及うる以前の時代には、若狭湾で取れた鯖は行商人に担がれて徒歩で京都まで運ばれた、一人で担げる荷物は平均30㎏。冷凍技術の無かった当時は、生鯖を塩でしめて、昼夜歩き続け、京都についた時には、丁度良い塩加減になっていたと言う。塩鯖は天皇への献上品でもあった様です。輸送コストを考えたら。上流階級や金持ちの町人にした変えない高価な食材であったr¥と推定されます。しかし、江戸時代になり、若狭街道(現在の国道号線)が開通すと、荷車の運行が可能となり、当時のレベルでは大量輸送が可能となりました。とき同じくして、18世紀半ば日本海で鯖が大量に獲れるようになり、(この豊漁は1980年代まで続く)、大量の塩鯖が若狭地方から京都に運ばれました。そして、塩鯖は高級食材から庶民の食材に変わりました。
 京都は、鮮魚の入荷が困難であったため、塩鯖を使った料理が研究開発され、一番ヒットした料理が鯖寿司であった。特に三大祭(葵祭、祇園祭、時代祭)にはなくてはならない料理になり、三大祭りには全ての家庭で鯖寿司を作ったといわれます。






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