京都と寿司・ 朱雀錦
           (28)「世界遺産・金閣寺」




                                   陸舟の松・書院
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1.概要

 金閣寺の正式名称は北山鹿苑寺ほくざんろくおんじと言い、京都市北区金閣寺町1にある臨済宗相国寺派の寺院で、平成6年(1994)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。
 この地には、鎌倉時代に藤原公経(西園寺公経さいおんじきんつね)の豪華山荘北山第きたやまていの有った場所である。 公経は源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻としたことから、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉された。 しかし事前に知らせた情報が、幕府の勝利に貢献した。 その後、幕府のバックアップもあり、朝廷の実権を握った公経は、氏寺西園寺の建立を思い立った。 公経は北山の伯家の敷地に着目し、尾張国松枝庄と交換して手に入、北山に大きな池を掘り西園寺と伽藍の北側に山荘北山第を建立し、後公経派西園寺を号した。
 鎌倉時代繁栄を極めた西園寺家は鎌倉幕府の滅亡に追随して滅亡し、義満よしみつのころには豪邸山荘北山第は荒廃していたと言う。 義満は応永おうえい4年(1397)正月、河内の領地と交換で入手した北山第の大改修工事が始まった。 工事の費用は百万貫を超えたと推定されている。 百万貫は現在の貨幣価値から計算すると優に百億円を超える。 義満は工事完成の翌年からここに移り住み、北山殿きたやまどのと称されるようになった。
 北山殿に移り住んだ義満は、それまで室町殿で行われていた、一切の行事を、北山殿で行うように改めた。 義満は対中国貿易を思い立ち、応永8年5月使節を遣わし、翌9年9月に、明の国書を携えた明使が到着すると。 北山殿に彼らを迎えた。 これらの貿易で義満は巨利を得た。
 一世の栄華を極めた義満にとって応永15年3月8日に行われた後小松天皇北山殿行幸は、まさに最大の栄誉であった。 28日の還幸まで連日酒宴を催し、猿楽道阿弥が舞踊を演じ、連歌、船遊、蹴鞠、白拍子舞など連夜の歓待であった。 そして天皇は実に20日も北山殿に滞在されたのであつた。 それまでにもそれ以後にもこのような長期滞在は例がないが、これは次期将軍を義嗣よしつぐに継がせる準備であったと言われる。 15歳の義嗣は20日間の行幸のあいだ終始父義満の脇に坐し、天盃拝受をはじめ晴れの役を務めたのに対し、将軍義持よしもちはその間一度も北山殿に出向かなかった。 親子の対立はかなり深いものと推定された。 おそらく義満の寿命がながければ、義嗣の将軍は実現したであろう。 しかし、悲しいかな応永25年正月義嗣は兄義持によって殺されるのである。
 将軍義嗣の布石を終えたばかりの義満は、体調を崩し、応永15年5月1日発病し、6日死去した。 51歳であった。
 北山殿は、応永261111日北山女院が崩御されると、将軍義持により取り崩し決定し、懺法堂せんぽうどうは等持寺、宸殿は南禅寺に、公卿間くぎょうのまは建仁寺に、天鏡閣は南禅寺方丈閣にそれぞれ移動し、舎利殿(金閣)と護摩堂等一部だけとなった。 それ以後、義満の遺言により、禅寺となり、山号を「北山」寺号を、義満の法号「鹿苑院殿准三宮大相国天山道義大禅定門」により「鹿苑寺」と称し北山鹿苑寺が誕生した。 
 応仁の乱で多くの寺院は焼失したが、金閣寺は幸い難を逃れた。 しかし、昭和25年(1950)7月2日未明放火により国宝金閣寺は全焼し、同時に室町幕府3代将軍足利義満木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻等文化財6点も灰燼に帰した。 
 夕方、同寺弟子の見習い僧侶であり大谷大学生の林承賢(舞鶴市出身)が金閣寺の裏にある左大門の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっているのを発見し、放火の疑いで逮捕し、自分が放火したことを認めた。 
 彼の母親は京都府警の事情聴取のため京都に呼び出されたが、事件の顛末を聞かされて衝撃を受け、帰途、山陰本線の列車から保津峡に飛び込んで自殺した。 彼は、服役中に結核と重度の精神障害が進行し、刑務所から病院に移されたが1956年病死した。
 後にこの事件を題材に三島由紀夫の小説「金閣寺」、水上勉の小説「五番町夕霧楼」、「金閣炎上」などの文学作品が作られた。

2.歴史

(1)少年期
  義満は、延文えんぶん3年(1358)8月22日、第2代将軍義詮よしあきらの嫡子として生まれる。 尊氏と共に武家政権の樹立に奔走した弟の直義ただよしは文和ぶんわ元年(1352)尊氏のために害あせられて足利氏の政権は尊氏の嫡子義詮のために確保されていたが、尊氏らの奉ずる持明院統の皇室は、神器と共に連れさらわれ吉野に幽閉された。 持明院統の中でわずかに残った後光厳天皇が神器なくして皇位についた。 その翌年には尊氏の庶子で直義の養子直冬ただふゆや山名時氏・師義父子らが南朝に応じ京都に進軍し、義詮は追い出された。 鎌倉にあった尊氏は急遽上洛し、義詮も軍を返しようやく京都を奪還した。 しかし、文和ぶんわ4年(1255)正月3度目の南軍の京都侵入を許し、延文元年(1356)正月にようやく奪還したが、その翌々年、すなわち延文3年4月30日尊氏は54歳で死去した。 義満はこのような時期に生まれたのである。
 しかし、足利氏諸将の間に不和が生じた。 尊氏の寵を得ていた仁木義長は、尊氏の後ろ盾が無くなると、急速に力をつけてきた執事細川清氏に排斥される。 清氏は幕府の実権を握るが、強引な行動が多く、政敵も多かった。 反対派は清氏打倒を計画し、清氏の留守中義詮に訴え、義詮は後光厳天皇に、清氏追討を仰いだ。 清氏は若狭に逃れ、無実を訴えるが、受け入れられないと見ると、南朝に下った。 康安こうあん元年(136112月、楠木正儀、石塔頼房、細川清氏の率いる南軍は、大挙して京都に進撃し、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ武佐寺(近江八幡)に入った。 この時、義満は侍臣に護られて建仁寺に逃れた。 北野義綱に護衛され赤松氏の居城白旗城に入った。 この時義満は4歳であった。 これからしばらくの間、義満は赤松則祐に養育されたのである。 
 近江へ走った義詮は、間もなく南軍を撃つて京都に回復し、斯波義将しばよしまさを管領とした。 貞治じょうじ3年(1364)義政は京都に帰った、7歳であった。 貞治6年(1367127日義詮は病気で38歳で死去すると、義満は10歳で第3代将軍となる。 義詮は、生前、細川頼之を管領に補し教導を託した。

(2) 頼之の補佐時代
  細川氏は足利氏の一族である。 頼之は、貞治元年幕府に反抗して四国に拠った同族の細川清氏を討った功により四国の鎮定に当てたが、今回管領に取立て幼将軍義満の補佐を託した。 
  頼之が義政の補佐するに当たり、第1に考えたのは、将軍の権威を高めることであった。 元来足利氏は源家の名流とは言うものの長らく北条氏の権力下にあったもので、それが後醍醐天皇の倒幕運動に応じて武家勢力が集合し、北条氏に代わって幕府政権を樹立したのである。 したがってその傘下に諸将はいずれも北条氏の治下に志を得ず、建武の中興の政治に飽き足らず、自己の勢力を足利氏によって拡張しようとする者達であった。 従って足利氏の幕下には勢力争いが絶えず行われた。 殊に南朝との対立から幕府に志を得ない者は、直ちに南軍に走って幕府に対抗する有様で、将軍は常に強力な諸将から脅かされる状態にあった。 このような状態のなかで幼将軍義満の補佐役となった頼之としては、まず将軍の権威を高めることが最大の関心であった。
 「細川頼之記」に内法三箇条を挙げている。
 1.幼君に近習する士の邪曲を禁じる
 2.義満の学問の師を務めるのに、能書博学の人を退けて篤実無欲の人を選ぶ
 3.侫坊ねいぼうという6人の法師置いて殿中を徘徊させ諛言媚態ゆげんびたい(おせじ、こびる)して追従
の言を専らとさせ、その忌むべき風を諸人に示し、近習や大名建
 のこれ
に類する行為を抑制した。
この様にして将軍義満の権威は次第に増大して諸将を威伏せしめ、幕府の隆盛をきたした。
 応安
おうあん元年(1368)4月15日に義満は11歳で元服、翌年応安2年(1369)正月1日室町幕府第3代将軍となった。 またこの頃の幕府の政務はすべて管領細川頼之によって行われてきたが、応安5年(13721122日義満は15歳で、判始の式を行い、七カ国の吉書きっしょ(年始等、奏覧に供する儀礼的な文書)にはじめてその判形はんぎょう(花押かおう)を据えた。

(3)南北両朝の合一
 永和元年(1375)義満は18歳となり、4月25日公卿として始めて参内した。 これより先応安6年1120日には、参議に左近衛中将を兼ね従3位に叙し、ここに武家足利義満はまた公卿としての生活を持つことになったのである。 祖父の尊氏や父頼義詮はその官位は正二位権大納言に叙任されたけれども、その一生は戦乱のうちに終始して公卿としての面はまったくなかったが、義満が将軍になってから管領細川頼之の施策よろしきを得て将軍の権威ようやく重く武臣のみならず廷臣からも一目されたのである。
 康暦こうりゃく元年細川頼之の強引な施策から反対派の反発が激しく失脚、斯波義将しばよしまさが管領に再任された。 頼之反対派の土岐頼康や京極高秀らは許され、頼之に反抗して丹後に籠もった春屋妙葩しゅんのくみょうはも上洛して南禅寺の住持となった。 義満の明察と管領の施策よろしきを得たのであろう、武将間の不和がようやくその影を潜め、義満は後顧の憂い無く、公卿生活が出来るようになった。
 山名氏は源義家の子義国を祖とする源氏一門で、守護大名として山陰地方に勢力を張り、また赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つに数えられていたが、山名氏清のとき、一族で全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を占め「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。 しかし、その結果将軍義満から危険視され、義満は山名一族離反の謀略を試みる。 そして明徳めいとく年(1391)、氏清は義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月に京都へ攻めるも、幕府軍の反撃にあって氏清は戦死してしまった。 戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、但馬と伯耆の二箇国となり、一族は大幅にその勢力を減じ、幕府の勢力は確固不動のものとなると共に、南朝の勢力は日々狭められ、京都回復の望みは全く放棄せざるを得なくなったのである。
 一方、南朝においても強硬論者が退陣し、両者の間に和平の機運がが沸き起こったのである。 新しく山名氏に代わって和泉・紀伊の守護となった大内義弘が尽力し、義満は吉田兼熙を使者として南山に送り、南朝では吉田宗房と阿野実為が斡旋にあたり、漸く講和条件が成立した。
 「南北両朝の合一」(近衛家文章)
「御合体の事、連々兼熙卿を以って申し合わせ候処、入眼の条珍重に候。 三種神器帰座あるべき上は御譲国の儀たるべきの旨、其の意を得候。 自今以後、両朝の御流相代々御譲位治定せしめ候ひ畢ぬ。 就中諸国衙悉皆御計たるべく候。 長講堂領においては、諸国分一円持明院殿の御進止たるべく候。此等の趣を以って、吉田右府禅門相共に執奏あるべく候。 御入洛の次第等、なお兼熙卿に申し含め候、其意を得べく候か。 恐々謹言十一月十三日 阿野前内大臣殿 」このうち御譲国の儀は南朝方としては名分上強硬に主張したものらしい。 しかし、実際においては神器の授受も譲位の形式ではなく帰座の形式であった。
 明徳めいとく3年(13921025日、京都の朝廷では神器帰座の日を占定ぼくてい(占いで決める)し、駕輿丁かよちょう35人、輿長こしおさ10人を南朝に差向け、大内義弘が護衛のためお迎えにむかった。 南朝では1028日、天皇は神器とともに吉野を出発され、橘寺で一泊、29日奈良に着かれ興福寺で宿、翌日10月1日は雨のため逗留、2日奈良を発ち夜に入って嵯峨大覚寺に着かれた。
供奉の人々は皆鎧よろい・直垂ひたたれを着、関白は直衣のうし姿であった。 かくして3日には陣定の儀があり、5日には日野大納言資教
を上卿
じょうげとし、参議安居院・左中弁日野西資国らが大覚寺に参
   直垂      直衣   じ、嵯峨から土御門東洞院の皇居まで筵道の上を神器に供奉して帰った。

 そしてその夜から三カ夜の御神楽が奏された。 ここに後醍醐天皇の吉野還幸以来57年ぶりに皇室は統合されたが、実質は南朝が幕府に降伏したのである。
 南北両朝が合一し、神器が南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇にわたされれば、ここに当然後亀山天皇にたいする待遇問題が生ずる。 ことに講和の条件が譲国の儀によるとすれば先皇に対する太上天皇の尊号を上たてまつることは当然のことである。 しかし、この講和条約は幕府と南朝との条約でそこに北朝が関与していたかどうかは不明であるが、北朝は講和条約を認めず、当然南朝の皇位も認めていない。 そのため神器の帰座に当たっても、文治ぶんじ元年神器が西海から帰洛されたときの例「壇ノ浦戦いで平家を破り、安徳天皇が所有していた三種の神器のうち、宝剣
(天叢雲剣
めのむらくものつるぎ)は紛失したが八咫鏡やたのかがみと八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを得た」によったのである。 従って尊号の問題も、建武3年に光明天皇から後醍醐天皇に上たてまつられた詔書の例によって、二年ののち応永おうえい元年(1394)に実現を見たのである。 
 義満は、講和条約の第一条を曲がりなりにも果たした。 次に第三条の諸国国衙領を御領として進ずるも一応果たされたとおもうが、第二条の皇位の送位は将来の問題として先送りしているがその意志はまったく無かったものと考えられる。 結局彼の政治的権謀から出たものとされている。

(4)日本国王
1) 倭寇
  義満の天下統一事業最後の仕上げは外交問題であった。 
  すでに13世紀の後半、モンゴル襲来のころから、わが九州の辺民が朝鮮南部の沿岸を侵す事件が頻
 発して、当時の高麗王朝はこれを倭寇と呼んだ。 倭寇の活躍は
14世紀中ころから大規模になって
 慶尚道
けいしょうどう沿岸一帯を荒し、更に陸地深く侵入して人畜を略奪し、首都開城を侵して政府を脅か
 し、中国の山東地方まで進出した。

  倭寇と呼ばれる海賊が東アジアの沿岸で活動したのは13世紀から16世紀までであるが、通常南北朝か
 ら室町初期、朝鮮半島を中心に中国沿岸にも活動した倭寇を前期倭寇、
戦国時代、東シナ海から南方海
 上で活動した倭寇を後期倭寇と呼んで区別している。

  倭寇の根拠地は朝鮮側の資料に「三島の倭寇」と記されているように壱岐、対馬、松浦五島地方であ
 った。 その規模は、2,3隻の海上の一匹狼的な者から、百隻、二百
隻更に五百隻に及ぶ組織化され
 た海賊船団として活動するものもあった。 
  貧しい身な
りで船、武器などの装備も貧弱なものであったが、その規模に応じて甲冑をつけ馬に乗
 て、従卒を従え朝鮮半島の内陸部まで侵入して略奪を行うものであった。

  倭寇の攻撃目標は、海上では米を運ぶ船、陸上では倉庫であり、その略奪物は、米等の食料品と捕虜
 としての人間であった。

  貞治ていじ6年(1367)高麗使節が来朝して海賊の禁圧を請うた。 幕府は先例に従って朝廷の指令を
 仰ぎ、義詮が使節に面したものの確たる回答を与えなかった。 当時
南朝の征西将軍懐良親王が博多を
 占領し北九州を制圧していて義詮としては答えに窮す
る状態であったからである。 義満の代に入って
 、永和元年(
1375)高麗は使節を博多に送り、折りしもお懐良軍を北九州から駆逐した新探題今川了俊
 に接触し海賊の禁止
を請うた。 今川は倭寇の捕らえた捕虜を朝鮮に続々送りこれに答えた。 1392
 高麗を倒した朝鮮王朝を建てた李成桂
りせいけいは早速使節を博多に派遣し、倭寇の禁圧を求め、今川は
 、この新王朝とも通門を重ねその歓心を買った。 義満は今川の異心を疑って探
題を罷免したものの今
 度は、今川と九州で競っていた大内義弘が今川以上に外交活動を
展開した。 今川・大内の表立った外
 交は義満の統一事業の妨げになる。 大内を堺で
滅ぼしたのち、朝鮮の国書に答える形で、自ら日本国
 大相国の名で使節を送った。

2)  冊封さくほう 
  冊封とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。 これによっ
 て作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。 冊封を受けた国の君主は、王や候
といった中国の爵号を授か
 り、中国皇帝と君臣関係をむすぶ。 この冊封によって中国
皇帝の(形式的であるが)臣下となった君
 主の国のことを冊封国と言う。
 冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦を使用することなどが義務付
 けられ、中国か
ら出兵を命令せれることもある。 その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対し援
 助をもとめることができる。

  中国では洪武帝が元を北に追いやり、明が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。 朝鮮
 半島に於いては高麗に変わって李氏朝鮮が興り、明の冊封を受け朝鮮王
とされた。 日本では朝廷が分
 裂し南北朝と言う特殊な状況でもあり、南朝の征西将軍
であった懐良かねなが親王が、北朝に対し自勢力
 の正統性を主張するため日本国王として冊
封をうけていた。 したがって懐良親王のみが正式の交渉相
 手で、「日本国王懐良」の表
文携行することが正式の使節として明に受け入れられる不可欠の条件であ
 った。 

  応永おうえい8年(1401)義満は「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上たてまつる」と書き出した国
 書をもたせて使節を明に送った。 翌年明使が「璽
なんじ、日本国王 源道義……波濤をこえて遺使来
 朝す」云々の明帝の詔書と大統暦とをもたらした。 暦の班示は
服属を認める象徴的行為である。 明
 船が兵庫港に入ると、義満は兵庫に出向いて明船
を見物し、ついで明使を北山第に迎え跪ひざまずいて詔
 書を拝見した。 そして翌年、明使
を送って再度遺明使が発せられ、使節は「日本国王臣源表す」云々
 という義満の上表文
を携えて海をわたった。 義満はここに正式に明の冊封をうけたのである。 つい
 で応
11年明使は新帝(永楽帝)の「璽、日本国王源道義…………来り朝貢す」云々の詔と金武の「
 日本国王之印」及び勘合符
かんごうふ百道をもたらした。 勘合符は正式の発遺船であることを証明する
 ための照合印で
 あって、これより
150年に及ぶ対明勘合貿易の制度がここに揃ったのである。 義満の明に対する態度
 について当時から批判があり、明使待遇(明使の前で、跪
ひざまずいて詔書を拝見)の度が過ぎると管領
 斯波義将をはじめ多くの家臣が批判し、明の冊封
を受ける以上、中国暦を使い、日本国王を名乗るのは
 やむを得ないが臣を使うのは最低
であるとの批判を受けている。
  義満の対明交渉の目的とするところは貿易による利益である。 中国の冊封体制は周辺諸国を名目上
 の臣下にするが、朝貢に対し同等以上の返礼で償っている。 わが使節
の献ずる方物に対して明帝から
 の礼物があり応永
14年明使のもたらした別帳によれば、花銀1千両、銅銭一万五千貫以下種々の礼物が
 記載されている。 義満はその返礼の多
さに息を呑んだと言うから、数倍の返礼があったものと思われ
 る。
  応永
14年の遺明船が帰ったときの利益は20万貫と言われている。
(5)第4代将軍足利義持
 義持(13861428)義満との父子関係は険悪であったとされ、応永元年(1394)に
9歳で義満より将軍職を譲られるが、義満の在世中は実権がなかった。 

 応永15年(1408)5月6日義満は死んだ。 51歳であった。 すでに応永元年義満は征夷大将
軍を子の義満に譲っていたが、晩年になって義持より
14も年下の弟に当たる義嗣を偏愛し、次期将軍の布石がひかれつつあったが、時の管領の父で幕府の元老である斯波義将が強く義持を推し継嗣と決まった。 また、義満は御小松天皇の准父であることより、義満が死ぬと直ちに朝廷より太上法皇の尊号宣下があったが、これも斯波義将の先例なしとの意見で辞退を申しで撤回された。
  義満の北山殿は義満死後一年後、舎利殿(金閣)と2つの建物を除き他の建物の取壊しをきめた。 義持は義満の開いた日明外交を根本的に変えた。 義満の死去翌年の明からの弔問使は受け入れたものの応永18年来朝の明使は父の遺言と称し断固拒否し兵庫港で追い返したのである。 爾来20年義持一代の間、ついに対明外交は開かれることは無かった。
 義持の初政には義満とは反対の政策や措置がめだった。 しかし、実際の基本政策では義満の路線を踏襲した政治を行っていた。 その人柄も派手で陽性な義満とは反対の地味で沈潜型の人物であった。 義持は、畠山満家を管領に登用して幕府政界の二大巨頭である細川・斯波にたいして第三勢力的な役割を担わせ、この管領を主宰とする重臣会議で幕府の重要事項を図らせた。 義持政治20年間で最大の事件は、応永23年(1416)の上杉禅秀ぜんしゅうの乱であった。 関東の前管領上杉禅秀が足利持氏を倒そうとした事件であるが、弟義嗣がからみ自分の地位を狙ったことがわかり、義嗣を捕らえ相国寺に幽閉した。
 義持は、応永30年(1423)将軍職を義量よしかずに譲ったが、わずか2年後病死した。 義持は前将軍のままで幕府に臨んだ。 義持は、源氏の氏神神社である石清水八幡宮に詣で、男子誕生の願を掛け、おみくじを引いたところ大吉が出、すっかり有頂天となる。 まだ生まれぬ子供を信じ、後継者を選ばなかった。 しかし、応永35年(1428)1月、浴室で尻の傷を掻きむしって、感染症に係り重態にかかった。 群臣が、後継者を決めるよう懇願するが、義持は拒否し、群臣達が評議して決めるように命じた。 評議の結果、義持の4人の弟から一人を籤引きで定めることがきまり、義持もこれを了承した。 
 1月18日義持死去。 享年43歳。 義持の死後、籤引きによって将軍職は義教が継ぐことになる。

(6)第6代将軍足利義教と明貿易
 足利義教(13941441)義満の3男、4代将軍義持の同母弟、足利幕府将軍の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って義円と名乗り青蓮院門跡となった。 その後153代天台座主となり、「天台開闢かいひゃく(ひらく)以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた。
 応永32年、兄の4代将軍義持の子である5代将軍義量が急死し、義持も正長しょうちょう元年(1428)1月重病に陥った。 義持が後継者の指名を拒否したため、群臣建ちの評議が行われたけっか、管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮で籤引きを行い、義持の弟である梶井義承、大覚寺義昭、虎山永隆、義円の中から将軍を決めることになった。
 1月17日、畠山満家が石清水八幡宮で籤を引き、翌日18日の義持死亡後に開封され、義円が後継者に決まった。
 将軍就任を果たした義教の目標は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活であった。 施策の手本は父義満に求めたと思われる。 また、先代義持が門戸を閉ざした対明外交を再開しようとして永享えいきょう4年(1432)使節に5隻の勘合船をつけて明に派遣した。 義持の通交遮断後・再び激しくなった倭寇の活動に悩む明の意に答え、勘合貿易のもたらす巨利を得ようとしたのである。 国書の書式が問題となり、政治顧問満済まんざい僧正の意見に従い「日本国王源義教」と書いて、これが以後の定式となった。
 義満時代の遺明船は幕府船で約60隻が日明間を往復した。 幕府は積荷の1割を召し上げ、膨大な収入を得た。 天文てんもん16年(1547)まで19100隻以上が派遣された。 日本が銅を輸出し、明から銅銭を輸入したのはいわば国際的に通用する外貨の獲得にあたる。 これは、将軍義満の「通貨発行権」実現への遠大な構想があるとされる。
 現に四角い穴の開いた永楽通宝(永楽銭)はおびただしく輸入され、室町時代から江戸初期まで日本の標準通貨として通用した。
 義満の時代、遺明船は、幕府船であったが、中期以後は、公貿易割合が低下し、細川船、大内船、三十三間堂船などが渡航し、守護大名や寺院による私貿易が活発となった。 明から輸入された主なものには銅銭、生糸、糸綿、薬草、砂糖、青磁器、書画、漆器などがある。 一方、日本から明に輸出した主なものは、銅、刀剣、硫黄、蒔絵、扇、純金など、硫黄は島津氏、銅は但馬、美作、備中、備後の守護による献上と、将軍義満から皇帝への進物であった。 瑪瑙は加賀国守護富樫氏や禅宗五山からの進物であった。
 京都はそれまで将軍と天皇が所在する政治・文化都市に過ぎなかったが、勘合貿易により特需が発生し経済の中心となった。


                      3.建造物
(1) 金閣(舎利殿)「京都市指定文化財」
 金閣寺の通称を持つ鹿苑寺ろくおんじは、室町時代の初め応永おうえい4年(1397)第3代将軍足利義満が西園寺家の北山第を得て、建築、造園の工事を興した大邸宅がもとで、金閣の他に寝殿、会所などの主要殿舎や付属建物が庭園とともに営まれ、金閣もその中の一つで、舎利殿と呼ばれていた。
 それらの多くの殿舎が滅びた中で金閣のみは昭和25年7月まで健在であったが、その2日夜、寺僧林養賢により放火され全焼した。 しかし、幸いにも明治37年(1904)から2年にわたる武田五一博士を主任とする解体修理があり、そのとき詳細図が造られた。 その詳細図を手がかりに元の姿に復興されたのが現在の金閣である。
 古い金閣が出来たのは応永5年(1398)ころで、その後、度々大小の修理が行われている。 明治修理以前は各層の外まわりに多くの柱が添えられて外観が良くなかったが、これはみな取り除かれ昔のさっぱりとした姿になった。 しかし、窓や柱間装置などは明治の修理では復元されなかったが、今回の復興では原型に復元されている。
 鏡湖池のほとりに建つ三層閣、金閣は池に臨んだ、いわゆる庭園建築で銀閣、飛雲閣とともに「京都三閣」といわれる。 金閣と銀閣ではそれぞれ三層、二層が仏殿風になり、下層は住宅風と様式が違っていつが、少しの不調和も感じさせない。 西芳寺の舎利殿も二層の建築だったから金閣はこれを模したといわれ、しかし、多分はじめてと思われる三層の庭園建築とし、一層上部は縁だけで屋根が無く、三層は内外ともに金箔置きと言う新意匠であった。 ただし、一層、二層と縁がかさなり屋根のない造りは唐招提寺鼓楼がそうであり、金箔を置くのも古く中尊寺金色堂に先例がある。 ただし、金閣が直接これを参考にしたとは言えない。
 初層、二層は短形で同形同大、すなわち東西約11.7m、南北8.5mで、一階は、「法水院ほうすいいん」とよばれ、西側には船着場と池に突き出した漱清そうせい(釣殿つりどの)を持つ寝殿造りの阿弥陀堂です。 正面広縁の前は柱が4本しかなく、しかもそれが吹き放しで、一間入ったところは五間とも全部蔀しとみを入れる。 それは平安時代からの貴族住宅、寝殿造りの一部を受け継ぐものである。
 二層は「潮音洞ちょうおんどう」と呼ばれる書院造りの観音堂で、板壁(金箔置き)や舞良戸まらいど(横に多くの桟をもつ戸)などを用い、一階の蔀とは変わった扱いをしている。
 初層と二層は、挿肘木さしひじきで持だされた幅広い縁で分けられている。 もしこれが屋根であったらおそらく気のきかない鈍重ものとなったであろう。 縁に細い簡単な高欄を組み、それが全体の調子を和らげている。

 この上に正方形の三重か乗る。 これを「究意項くっぎょうちょう」と言う。 禅宗様式から離れないようにつとめかつ軽快に造られている。 花頭窓や桟唐戸さんからと、組物やまわりの高欄などはみな禅宗様である。 内部は一室、全部に渡って金箔(漆塗りの上に純金の箔を張る)を置く。 天井は平面の鏡天井である。 屋根の勾配はすべて緩く、屋上には金銅こんどうの鳳凰を置く。 鳳凰の姿は、平等院鳳凰堂のそれを受け継ぎ、頸には宝珠付けながら全体は生気は乏しく、鳳凰堂のような迫力はない。 

(2)庭園(国の特別史跡・特別名称)
 三代将軍義満は将軍職を除くと応永4年(1397)に市外北方の北山の地に山荘「北山殿きたやまどの」造営した。 そこには鎌倉時代の中期には、公卿西園寺金公経の北山第きたやまていがあったところだ。 北山第の庭園が義満の時代を経て江戸時代に至るまで、いくつかの変遷があった。
 寛政かんせい2年(1790)に作成された「北山鹿苑寺絵図」には金閣の前面は現在とあまり変わらない鏡湖池きょうこちが描かれている。 しかし、鏡湖池の南側に「池」と記された涸れ池が存在している。 鎌倉時代の「中務なかつかさ内侍ないし日記」や「増鏡」には、西園寺時代の北山第には大きな園池が作られていて滝が落ちていたと記されている。 この池が鏡湖池の原形になったと考えられる。 
 「北山鹿苑寺境内之図」(1645)や秋里あきさと籬島りとう著「都名所図会みやこのめいしょず」(1780)では、すでに現在の鏡湖池部分しか描かれていないことからすると、園池の南側部分を改修したのは江戸時代より前ということになる。 義満が園地の周囲に立てた宸殿、天鏡閣てんきょうかく、懺方堂せんぽうどう、公卿間くぎょうのまなどの建物は、息子の四代将軍義持によって応永27年(1420)に他所に移されている。 建物がなくなり、景観的に必要性が薄れていたので、管理を容易にするためもあって、この時期に園池の南半分を遮断した可能性が最も高い。
 江戸時代になってからは、もう一度変化が生じている。 文化年間(
180418)に刊行された「北山鹿苑寺金閣図」では、園池を分断する土手は撤去され、二つの池の中央にある中島には両岸から二つの橋が架けられている。 江戸時代後期、一時期だったが金閣寺の園池は義満の北山殿の姿に戻されていたことになる。
 1) 鏡湖池きょうこち又はきょうこいけ
   金閣から鏡湖池きょうこちと池中の島などがよく見える。 南方の芦原島あしわらしまが最大でその北にいわ
  ゆる鶴亀二島と九山八海石くせんはっかいせき、それに金閣東脇の夜泊石やはくせきなどを配置し、衣笠山を取り入
  れた室町時代の代表的な名園である。 されている。 この庭は、西園寺家の山荘を手に入れてから
  大規模な石組の変更を行っているがそれには当時の諸大名が競って石を献納してその名がつけられた
  畠山石や赤松石、細川石などが用いられている。

 2)「銀河泉」「厳下水」「龍門滝」
  池裾には、義満がお茶の水に用いたと伝えられる「銀河泉」ぎんがせん、義満が手を清めたと言う「厳下
  水」
がんかすい、中国の故事登竜門にちなんだ「鯉魚石」りぎょせきの3つが並んで設けられ今なお清水を
  たたえている。

 3)安民沢あんみんたく 
  金閣の建つ鏡湖池の背後の一段高い山腹にある池で、雨賜沢、望雲沢とも言う池で、樹林に囲まれ奥
  深い感じがする。 旱天
ひでりが続いても涸れることなく、雨乞いの場ともなされた。 池の中に小島
  があり、白蛇塚と言う多層石塔があり、西園寺家の鎮守などもつたわる。 西園寺家の山荘時代の面
  影の残る場所である。


(3)夕佳亭せっかてい 
 安民沢から東へ上がったところにある茶室で亭の名より「南天の床柱」「萩の違い棚」で名高い。 江戸時代、鳳林和尚が後水尾法皇を迎えるために茶人金森宗和かなもりそうわに作らせた茶室で、「夕」日に映える金閣が「佳」いという意味から「夕佳亭」せっかていと名付けられたが明治の初めに焼失し、現在の建物は、明治27年(1894)に再興されたものである。
 この茶室は三畳で奥に勝手、前に土間を取った草庵風のもので、屋根は茅葺である。 土間には竈かまどがあり、上の天井は竹と芦とを主材としていて、見上げると急勾配である。 土間の沓脱石を上がれば三畳の席で正面右に床がある。 この床柱が「南天」で有名なもの。 床内部は壁を塗回ぬりまわしとし、隅に柱を見せない。 炉は上り口に近い畳の左手に切られていて、上の天井は竹の棹縁天井さおぶちてんじょうである。  「萩の違い棚」は床に向かって右に設けたほぼ三角形の棚である。 なおこの前から一段高い二畳大の室があり、語水尾法皇を迎えた時の御座所というが、これも明治の再興である。 茶室前の手水鉢は「富士型」と呼ばれ、石灯籠などとともに義満邸から移したと伝える。

(4)方丈
 金閣寺の本堂に当たる。 単層入母屋造りで桟瓦葺。 「鹿苑寺」の扁額へんがくを掲げる。 延宝えんぽう6年(1678)後水尾天皇の寄進により、再興された。 応仁の乱で多くの殿舎を失い、おびただしい仏像群も破壊と略奪に遭った。 文明17年(1485)八台将軍義政が金閣寺を訪問した時最上階に安置されていたという阿弥陀三尊や25菩薩像はすでに失われていた。 
 現在の金閣寺の本尊は聖観音菩薩坐像である。 寺の本堂である方丈に、梵天像と帝釈天像を脇侍として安置されている。 台座底の銘文によれば、この像は金閣寺復興に当たった文雅慶彦ぶんがけいげん和尚が方丈再興と同年の1678年に仏師の忠円ちゅうえんに命じて補修させたという。 しかあし、体躯に比べ頭部が大きい特徴や肩幅の狭い表現、強い弧を描く衣文などから、金閣寺草創の14世紀後半ごろの陰派いんぱ仏師による作とみられる。
 1) 木造聖観音菩薩坐像 像高:40.4cm 室町時代
   方丈の須弥壇上に安置される。 頭上に高く髻もとどりを結い、頭髪は毛筋彫り、百豪相びゃくごうそうをあ
  らわし、定印を結んで結跏趺坐
けっかふざする。
 2) 方丈と陸舟りくしゅうの松
  陸舟の松は樹齢約600年で、義満遺愛の盆栽から移したものと伝わる。

(5)不動堂
 金閣寺の前身である西園寺公の山荘に不動堂の名があり、西園寺の北山第きたやまていから義満の北山殿きたやまどのへの変遷を伝える堂。 不動明王立像を安置する石室の礼堂らいどうとして建立されたと考えられている。 境内の東北端に位置し「お火焚ひたき」など独自の民間信仰を伝える。
 本尊石像不動明王立像(石不動)は、像高:164cm、弘法大師作と伝えられるが、実際は鎌倉時代の作品。 貴族の日記に帰されるほど古くから篤く信仰された像。 石室内部に安置され、狛犬1体は現存するが、往時は二天像も配していた。 肩幅55cmの堂々たる体躯で、石造の光背をもつ。 普段は非公開であるが、毎年2月3日(節分)と8月16日(大文字送り火)に開扉法要かいひほうようが営まれその後公開される。 この不動さんは首から上の病気、特に眼病に霊験あらたかといわれる。

参考文献
* 古寺巡礼京都20「金閣寺・銀閣寺」村上慈海著 淡交社
* 週間古寺を巡る(11)金閣寺・銀閣寺 小学館編 小学館
* 仏教新発見 相国寺・金閣寺・銀閣寺 朝日ビジュアルシリーズ、朝日新聞社
* 庭園の中世史 飛田範夫著 吉川弘文館
* 金閣寺 三島由紀夫 新潮社
* 足利義満 日本歴史学会編 吉川文庫
* 足利義満 佐藤信一著 平凡社

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