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                              京都・朱雀錦
(29)世界遺産・銀閣寺



世界遺産・銀閣慈照寺観音殿(銀閣)・国宝・世界遺産

    Ⅰ.銀閣寺の歴史

1.東山周辺
 慈照寺じしょうじの山号を東山といい、二字の山号となっている。京都の東に連なる山々、如意け岳(大文字山)を中心に穏やかに続く山容は、古来、女性のやさしさにたとえられており、「東山」ひがしやまと称されて数々の歌に唱われ、人々に親しまれている。慈照寺はその東山の山並みの北部に位置しており、その「東山」をもって山号としているのである。
 この辺り一帯は早くから歴史の中に現れたところである。慈照寺裏側に沿って白川しらかわの清流がながれており、その流れは門前から南へ下り、三条通の辺りへ達しているのだが、この白川の流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡などもみられ、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されている。そしてこの辺一帯には、東に法然院,霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂などと古くから寺院が営まれ、また北山と同じく平安時代には天皇の御陵、火葬場が所在し、都人達の火葬所としてあてられ、菩提を供養する寺院が多く営まれた。平安時代の中期に至る所の地に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営されて、後に慈照寺となるのである。
 浄土寺の草創のことはあきらかでないが、平安時代初期、円珍(智証大師、814-891)がこの地の浄土寺に住んでいたという。 986年、有明親王の妃・藤原暁子ぎょうしが入寺し尼になる。平安時代中期、歌僧・恵慶えぎょう(?-?)が住し、和歌の序を作を作ったことが知られている。1019年、第25世天台座主・明救(みょうぐ)は、天台宗の浄土寺を創建した。寺はそれ以前よりに存在していたともいう(『日本紀略』)
 1036年、5月、第68代・後一条天皇が亡くなる。浄土寺の西の原で火葬され、一時、当寺に遺骨が安置された。
浄土寺の草創当時のことは詳らかではないが、寛平3年(8911029日に寂した叡山の智証大師円珍がこの寺に住んだことや、寛和2年(986)3月、藤原暁子ぎょうしが入って尼となったこと、また同年中(985987)歌僧恵慶が当寺に住して和歌の序を作ったことが知られている。のち、天台座主二五世明求みょうぐ(醍醐天皇の孫)が寛仁年中(10171021)に堂宇を再興して住し、浄土寺座主と称したという。その後、長元9年(1036)五月、後一条天皇の仙骨が当寺へ安置され、また後白河天皇の代に、天皇の寵ひめ丹後局(平業房の妻)が亡夫のために一宇を建て冥福を祈り、安元元年(1175)8月に建春門院平滋子がひそかにこの堂に参詣し、」寿永元年(1182512月に丹後局堂に供養を行い、後白河天皇もしばしば当寺へ参詣されている。
平安時代の終わり頃から寺院の門閥支配が確立されるが延暦寺も例にもれず天台座主は特定の末寺によって独占的に就任するようになる。この特定の分院門跡もんぜき(皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ)と呼ばれている。延暦寺山内の門跡寺院金剛寿院の主、天台座主第七十三世円基が、承久年中(12191222)に当寺に住するに及び、浄土寺は金剛寿院の配下となり、門主は浄土寺に住するようになり、浄土寺門跡の住房がいとなまれた。
 下って足利時代にいたり、第六代将軍義教よしのり公の第三子義躬よしみが当寺において出家し、義尋ぎじんと号して門主となったが、やがて兄義政によって呼び戻され、義視よしみと称し将軍の後継者となり、遂にはそれがもとで応仁の大乱がおこり、義視がかって住した浄土寺は全く跡形もなく焼失してしまった。その跡に、兄義政によって山荘が営まれるようなろうとは、夢だに見なかったであろう。

2.足利氏
 足利氏あしかがしは、清和源氏である。清和源氏せいわげんじは、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。清和源氏の子孫を起源とする源姓又は流派は日本人の名字において非常に多く存在する。
 源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族である。
 清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称した。中でも第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子孫が著しく繁栄した。
 中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立した。
 その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が出た。また一部は公卿となり、堂上家として竹内家が出た。
 足利氏あしかがしは、日本の武家のひとつの軍事貴族である。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族河内源氏の流れを汲み、下野源氏の嫡流で鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉ごもんようの地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫のに足利氏があり、藤原姓足利氏に対して源姓足利氏という場合がある。通字は、「義」または「氏」うじである。
*通字とおりじとは、平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってから後の日本では「通字(とおりじ)」あるいは「系字」といい、家に代々継承され、先祖代々、特定の文字を諱に入れる習慣があった。これにより、その家の正統な後継者、または一族の一員であることを明示する意図があった。足利氏は2字の名前のうち「義」か「氏」のいずれか1字を入れています。
(1)出自 平安時代に河内源氏の3代目棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫(本籍)とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏をなのった。
(2)平安・鎌倉時代
 足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。
 足利義氏以降、上総・三河の守護職を務める。また三河足利氏(吉良氏)、足利尾張守家(斯波氏)などの別家を分出し、さらに細川氏、仁木氏、桃井氏、一色氏、小俣氏、加古氏、石塔氏、畠山氏、今川氏、上野氏、戸崎氏などの庶流を分出し、一族は全国に広がった。
 源氏将軍家滅亡後も北条氏とは婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持してきた(後述)が、第4代当主・足利泰氏は鎌倉幕府に無断で自由出家(一説では、謀反の疑いがあったとされるが真偽は不明である)・引退し、第5代当主・足利頼氏と上杉重房の娘の間に生まれた第6代当主・足利家時は霜月騒動に関連して自害したと言われている。一方で、家時の死は北条時宗への殉死によって北条氏からの猜疑を回避する要素があり、その結果幕府滅亡直前まで足利氏は北条氏の信頼を受けたとする見方もある。 第7代当主・足利貞氏は正室である北条一族の金沢顕時の娘・釈迦堂殿との間に長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため上杉重房の子、頼重の娘・上杉清子との間にもうけた足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ(現在の研究では貞氏高義貞氏(復帰)尊氏と継承されたと考えられているが、高義は歴代には数えられない)。清子との間には尊氏と並んで両将軍と呼ばれた足利直義ももうけている。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。
 そもそも祖先の源義国は源氏の源義家の子ではあるが傍流に過ぎなかった。孫の義兼と源頼朝が縁戚関係にあって従弟であったこともあり、義兼は早くから幕府に出仕、その血縁もあって頼朝の声がかりで北条時政の娘を妻にして以来、前半は北条得宗家と、幕政後半は北条氏の庶流でも有力な一族と、幕府に近い北条氏との縁戚関係が幕末まで続いた。また、官位などの面においても、足利氏当主の昇進は北条氏得宗家の次に早く、後に北条氏庶家並みになるものの、それも彼らの昇進が速くなった事によるもので、足利氏の家格の下落によるものではなく、依然として北条氏以外の御家人との比較では他に群を抜いていた。また、足利氏は平時においては鎌倉殿(将軍)への伺候を、戦時には源氏の門葉として軍勢を率いる事で奉仕した家柄であった。特に北条氏にとっても重大な危機であった承久の乱で足利義氏が北条泰時・北条時房を補佐する一軍の将であった事は、北条氏にとっても嘉例として認識され、足利氏を排除する意図を抑制することになった。その結果、源氏将軍断絶の後、有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされるようになっていた。そのため、幕末の後醍醐天皇の挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた。
(3)足利義量よしかず 
 第4代将軍足利義持は、応永30年(1423年)318日、嫡子の義量よしかずに将軍職を譲った。将軍職譲渡後の425日に等持院で義持は出家した。この出家は秘密とされており、側近の満済すら知らなかったという。秘密にした理由は後小松天皇ら朝廷が反対するのを恐れたためだったとされ、出家直後は畠山満家、細川満元、山名時煕、赤松義則、大内盛見ら既に出家して法体であった大名しか面会を許されなかった。義持出家の理由は、俗世を離れて自由の身となり、かつての父・義満のように奔放な政治活動をするため、また深く信仰している禅の奥義を極めるためだった。
 39日には9日後に義量の将軍宣下を行なうように申し入れており(『満済准后日記』)、318日、17歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任した。就任の日には諸大名が、320日には僧俗が群参して馬や太刀を献上して祝ったという。応永31年(1424年)1013日には参議に任命されて廟堂に列した。大御所となった義持はまだ38歳であり、これは自らが父の義満に早くに将軍職を譲られた例を踏襲したとされている。
 義量は疱瘡を患うなど生来から病弱であった上、大酒飲みでさらに健康を悪くしたと言われている。15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられている。 幕政においても隠居していた義持や有力管領らの存在もあって実権は無いに等しかった。死の23年ほど前から病を得て様々な治療や祈祷を受けていたが、応永32年(1425年)227日に父に先立って急死した。享年19(満17歳没)。
 義量には嗣子が無く、また義持に他に男子がいなかったため、義持が将軍代行として正長元年(1428年)に死去するまで政務を執ることになった。
4)足利義教よしのり 
 第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っており、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮で籤引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。
 117日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義円ぎえんだった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる。結果は19日に諸大名によって義円に報告され、義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。
 312日に義円は還俗して義宣よしのぶと名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。414日には従四位に昇任したが、将軍宣下はなかった。このため鎌倉公方足利持氏が将軍となるという流言が走り、京都に不穏な空気が流れた。427日、長く続いた応永の元号が改められ、正長元年となったが、これは義宣の強い意向によるものであった。
 正長2年(1429年)315日、義宣は義教よしのりと改名して参議近衛中将に昇った上で征夷大将軍となった。改名の理由は「義宣」よしのぶが「世忍ぶ」に通じるという俗難(噂)があり不快ということだった。
1)義教の政策
 将軍就任を果たした義教の目標は、兄義持の長い治世のうちに失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活であった。施策の手本は父・義満に求めたと考えられており、義満時代の儀礼などの復興を行っている。
 参加者の身分・家柄が固定化された評定衆・引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とすること、管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接諮問するなど、管領の権限抑制策を打ち出した。また、管領を所務沙汰の場から排除する一方で、増加する軍事指揮行動に対処するために、軍勢催促や戦功褒賞においてはこれまでの御内書と並行して管領奉書を用いるようになった。また義満と同様に、みずから駿河国へ下向し、富士山の遊覧を行っている。さらに財政政策においても、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させ、兵庫へ赴いて遣明船を視察するなど、幕府権力の強化につとめた。また社寺勢力への介入を積極的に行った。しかし義満時代とは将軍が立脚する基盤は大きく異なっており、実態もまた大きく異なるものとならざるを得なかった。
  義教は有力守護に依存していた軍事政策を改め、将軍直轄の奉公衆を再編、強化して独自の軍事力を強化しようとした。そして鎌倉公方足利持氏が、正長から永享に改元したにも拘らず正長の年号を使い続け、また鎌倉五山の住職を勝手に決定するなどの専横を口実とし討伐を試みる。これは関東管領上杉氏の反対に遭い断念するが、代わりに大内盛見に九州征伐を命じた。盛見は戦死したが跡を継いだ甥の大内持世が山名氏の手を借りて渋川氏や少弐氏・大友氏を撃破、腹心となった持世を九州探題とし九州を支配下に置いた。
2)永享の乱と結城合戦
 鎌倉公方の足利持氏は自分が僧籍に入っていないことから、義持没後には将軍に就任できると信じており、義教を「還俗将軍」と呼び恨んでいた。先の年号問題は持氏の妥協で決着が付いたものの、比叡山の呪詛問題、それに永享10年(1438年)には嫡子足利義久の元服の際に義教を無視し勝手に名前をつけた(当時は慣例として将軍から一字(諱の2文字目、通字の「義」でない方)を拝領していた)ことなどから、幕府との関係は一触即発となっていた。
 そんな時にたびたび持氏を諌めていた関東管領上杉憲実が疎まれたことにより 身の危険を感じて領国の上野に逃亡し、持氏の討伐を受けるに至る。義教は好機と見て憲実と結び、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し、同11年(1439年)に関東討伐に至った(永享の乱)。持氏は大敗して剃髪、恭順の姿勢を示した。
  しかし、義教は憲実の助命嘆願にも拘らず持氏一族を殺害した。その後は関東に自己の勢力を広げていくために実子を新しい鎌倉公方として下向させようとしたが、これは上杉氏の反対にあって頓挫している。なお、8代将軍義政(義教の三男)の代になって政知(義教の次男)が幕府公認の鎌倉公方として関東に送り込まれ、義教の計画が実行に移されたかたちになったが、結局政知は鎌倉入りを果たせぬまま伊豆堀越にとどまり、堀越公方と称されることとなった。
3)最期
 永享9年(1437年)頃から赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れていた。永享12(1440)、義教は満祐の弟・赤松義雅の所領を没収して、その一部を義教が重用する赤松氏分家の赤松貞村に与えた。   嘉吉元年(1441年)624日、満祐の子の赤松教康は「鴨の子が多数出来」したことと、結城合戦を終えた慰労という名目に、義教の「御成」を招請した。当時、将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であった。義教は大名や公家ら側近を伴って赤松邸に出かけたが、猿楽を観賞していた時、突如屋敷に馬が放たれ門が一斉に閉じられた音がした。義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と答えた。その直後、障子が開け放たれ甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の武士安積行秀あさか ゆきひでが義教の首をはねた。享年48(満47歳没)。将軍の同行者のうち山名熙貴、京極高数は義教と共に殺害され、大内持世がこのときの傷が元で翌月に死去、正親町三条実雅らが負傷した。強権的であった将軍が殺害されたことで指揮系統が混乱したため、京都市内(洛中)ではそれ以上の混乱は生じず、赤松満祐・教康父子は討手を差し向けられることもなく播磨に帰国する。 76日、義教の葬儀が等持院で行われた[35] 710日には満祐討伐の第一陣として赤松貞村が出兵し、711日には細川持常・山名教之が出陣した。二ヶ月半後、山名持豊(宗全)らに追討されて満祐父子は死亡し、赤松氏嫡流家は一旦滅亡した。
(5)悲運の将軍
 足利 義政あしかが よしまさ14361490、在職14491474)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成よししげ。幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなる。東山文化を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた。
 義政は、永享8年(1436年)12日、第6代将軍・足利義教と側室日野重子の間の子として生まれた。永享8年は珍しく正月に立春が無く、暮れの12月になって立春がやってくる。母重子の胎内でわずか二日で一春を数え、誕生において二春。そしてその年の12月において立春を迎えて三春を数えることになり、このような幸運児義政は「三春和歌義務と称してその前途を祝福された。しかし実際は人々の祝福と期待とは裏腹に、重い圧力と苦渋に充ちた波乱の生涯おおくることになるのれある。
 義教にとっては五男であり、嫡子足利義勝の同母弟であった。幼名は三寅、のちに三春と呼ばれている 嫡子義勝が政所執事・伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、義政は母重子の従弟である烏丸資任の屋敷にて育てられた。幼君の養育かかりには幕府の奉公衆大舘氏の一族で、当時並ぶものなき才女といわれた御今おいまが選ばれ、今参局いままいりのつぼねとして幼君の養育にあたった。三春若君もこの御今になつき、ついには母重子よりも御今の方に強く影響されるようになっていった。
 そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった。
 父将軍義教は生来の激しい性格から、彼の権威に背く者は、大名であれ公家であれ容赦なく処罰した。ある時、義教が直衣のうしを着けて参内した折、東坊城益長が笑い声を上げたのにいかり、彼の領地を召し上げてしまったという。こうしたことが数えればきりがないほどであったのである。世間では「万人畏怖の人」と恐れられ「悪将軍」と呼ばれるほどえあった。しかし、義教が将軍になったころは、管領足利持氏を初め多くの守護大名たちが反抗的であり、難しい局面のぞむ義教としては厳しい態度をとらざるを得なかったのである。
 義教は皇室を崇敬し、綱紀を粛正して強臣を制圧し、管領持氏を滅ぼして大いに幕威を伸長した。しかしあまりにも峻厳にすぎたために多くの反感を招き、嘉吉元年(1441年)624日、父が嘉吉の乱で赤松満祐の一条邸にまねかれて観能中に、満祐によって殺されてしまった。これが有名な嘉吉の乱である。当時の社会思潮である下克上げこくじょうの現れである。
1)将軍職就任
  嘉吉元年(1441年)624日、父が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄の義勝が第7代将軍として継いだ。嘉吉3年(1443年)712日、義勝も早逝したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。若君を補佐したのは管領畠山持国であったのだが、かっての義満を補佐した力量ある人物たちに比べ、三春(義政)を取り巻く側近の臣は持国を初め皆人格、力量共に劣っていたのであった。そして間もなく管領となったのが細川勝元であった。勝元にしてみてもこの時ようやく16歳であり、山積する難問題を処理するにはあまりにも若過ぎた。そして義満には義堂周信ぎどうしゅうしん(相国寺建立を進言、五山文学を代表する学問僧)、絶海中津ぜっかいちゅうしん(周信と共に「五山文学の双璧」)、春屋妙葩しゅんおくみょうはなど優れた禅僧たちがおり、彼らについて実参実究、大いに人格を高めたのに対し、義成の場合はしばしば禅寺へ参詣しているものの、厳しい禅の修行のためでなく、当時の五山僧たちとの交流は、一種の芸術的、文学的な面での遊びの要素が多かったのである。
2)三春から義成よししげ 
  文安3年(1446年)1213日、三春は後花園天皇より、義成の名を与えられた。このとき、後花園天皇が宸筆を染め、天皇による命名といった形式が取れられていることから、先例に倣ったものとされる。また、「成」の字が選ばれた理由としては、「義成」の字にどちらも「戈」の字が含まれていることより、戊戌の年に生まれた祖父・足利義満の武徳が重ねられたと考えられている。
3)吉書きっしょ
  文安6年(1449年)416日、義成は元服し、同月29日に将軍宣下を受けて、正式に第8代将軍として就任した。また、同日のうちに吉書始を行って、宮中に参内している。
 吉書きっしょとは、年始・改元・代始・政始・任始など新規の開始の際に吉日を選んで総覧に供される儀礼的文書のこと。また、吉書を総覧する儀式を吉書奏きっしょのそう・吉書始きっしょはじめと呼ぶ。
 平安時代には吉書を天皇に奏上する吉書奏きっしょのそうという儀式が年始の行事として行われた。これは除目前に行われた吉書の官奏に由来するとされ、弁官・外記・蔵人らが吉書を天皇に奏上する儀式で、用いられていた吉書は年料米や不動穀、寺社への祭幣料などかつて律令制のもとで機能していた事項に関するものが多かった。それが官司や皇親・中宮・女院・公卿の政所においてもこれを模倣した吉書奏が行われるようになっていった。
 武家政権においても同様に将軍が吉書を総覧して花押を据える儀式が行われ、これを吉書始きっしょはじめと呼ばれた。吉書始の最古の例は『吾妻鏡』元暦元年106日条(11841110日)に公文所の新造に合わせて吉書始が行われたことが記されている。その後、年始や将軍代始などに際して政所などから選ばれた奉行(主に執事・執事代クラス)が吉書を作成し、これを将軍が総覧する吉書始めが慣例化した。だが、親王将軍時代以降、次第に年始の吉書始以外は行われなくなった。
4)春屋妙葩しゅんおくみょうは
 甲斐国(山梨県)の生まれ。母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺の住職となり、室町幕府に対して五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言。幕府は楼門建設の援助をしたが南禅寺と紛争状態であった園城寺がこれに抗議。比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展する。
1369年(応安2/正平24年)に管領の細川頼之は楼門を撤去させる。妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺に隠棲する。頼之は妙葩との和解のために会談を求めるがこれを拒絶。対して頼之は門徒の僧籍剥奪を行う。足利義満の命により、1376年に絶海中津とともに日本に帰ってきた汝霖良佐に法を授ける。
 1379年(康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰する。妙葩は頼之が失脚する直前に丹後を出立しており、政変への関与も考えられている。
 3代将軍足利義満の帰依を受け、同年1010日、初代の僧録となる。同年、義満の要請により全国の禅寺を統括。その後、嵯峨宝幢寺を開山。さらに義満は相国寺を創建すると妙葩に開山第一世を請じたが、妙葩はこれを固辞。やむなく師の夢窓疎石を開山始祖とし、妙葩は第二世住持となった。実質的には妙葩が相国寺を開き、五山十刹制度を作り五山派を興した。五山版の刊行なども行い五山文化の発展に寄与した。また多くの弟子を育て、彼らは日明貿易を行う際に幕府の外交顧問となった。
5)義政の初政・義成から義政
 義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる判始ことはじめの儀式を行った。判始の後に管領細川勝元が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった。享徳4年(1455年)ごろまでは管領の命令書である管領下知状が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年(1452年)には最初の御判御教書を発給している
*「判始の義」は、平安時代以降の朝廷及び鎌倉時代に、年始・改元・代始・政始・任始など新規の開始の際に吉日を選んで総覧に供される儀式があった。室町幕府はほぼ同じ内容のものを「判始の義」と称し実施していた。
 享徳2年(1453年)613日、義成は改名し、義政と名乗った。その理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)の諱が、成仁親王と決まったことであった。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、義政も慣例に従ったのであった。
  彼を取りまく近臣たちはそれぞれ私的な利害関係に走り。私腹を肥やす者が多くなり、また重子及び養父伊勢貞親も政治に干渉して権勢を振りまわし、次第に混乱に落ち込んでいった。
  そのころの農民たちの生活は全くの危機に瀕していた。荘園領主たちが課税のしわ寄せを農民に押し付けてきたためであり、彼らは荘園領主の圧力に対抗して土一揆を起こし、また一方では関所撤廃を要求して交通労働者、運搬業者が蜂起し、いわゆる馬借ばしゃく一揆が起こるという騒然たるありさまであった。この頃18歳を迎えた義成は名前を義政と改める。しかし、義政には将軍として独自の政策を実施することは認められておらず、すべて側近の者たちが政治を私物化し歪曲していた。
  このような中で、義政のことを心から心配していたのが、彼をおむつのうちから育て上げた今参局いままいりのつぼねであった。彼女は才女であった。見るに見かねて政治に口を入れざるを得なったのであろう。今参局は世間の非難に耐えた。義政の生母重子とも激しく対立した。人々は彼女を側室の様に言いふらしたが、決してそのような仲でなかったのである。
  義政が康正元年(145519歳の夏に日野家から16歳の富子を正室に迎えたか」ら、御今は義政から次第に遠さかってゆく。母重子と対立しても、妻富子との「対立はさけたのであろう。
 幕府財政は義教の死後から、土一揆の激化で主要な収益源である土倉役を失い困窮を深めていた。しかし康正元年(1455)の分一銭徳政改正などの税制政策により、義政の親政期から幕府財政は急速に回復していった。康正2年(1456)には長年の懸案であった内裏再建を達成し、7月には義政の右近衛大将拝賀式が盛大に執り行われた。さらに義政は寺院や諸大名の館への御成を頻繁に行ったが、これは贈答品を受け取ることによって幕府の収入を増加させることにもつながった。義政は「毎日御成をしてもかまわない」と側近に語っている。一方で康正3年には義就が上意と称して度々軍事活動を行い、激怒した義政は度々所領を没収している。

  享徳2年頃から義政は父義教の儀礼を復活させ、長禄2年(1458年)には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の号)御代の如くたるべし」と宣言し、義教の側近であった季瓊真蘂を起用し、義教路線の政策を推し進めていくことになる。特に武士に横領された寺社本所領の還付を求める不知行地還付政策は、義政終生の政策課題となった。
*季瓊真蘂きけいしんずい (14011469
 室町前期の臨済宗の僧。赤松氏一族。足利義教の命で鹿苑院僧録の補佐となり五山官寺を統轄し,後世,蔭涼職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)と呼ばれた。しかし赤松満祐による将軍義教暗殺の嘉吉の乱(1441)が起こり,その一族であることから一時職を退いた。義政の代になり長禄2(1458)年復権して政治力をふるい始め,政所執事伊勢貞親と共に守護大名の継嗣問題などにも容喙し,応仁の乱(1467)が起こる原因のひとつをなしたとされる。
  3月には嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が、後南朝から神璽を奪還し、830日に朝廷に安置された。義政はこの功績で1014日に赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。これに先立つ89日に、赤松氏の旧領播磨国守護であった宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。
  同年に異母兄の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まった(堀越公方)。 それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で長禄合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子松王丸(義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。
6)今参局の失脚と混乱
  富子は長禄3年(1459)の男子を死産した。すると、すぐに今参局が呪い殺し
たとのうわさが立ち、この噂に便乗するかのごとく、重子、富子は義政を動かし、御今を琵琶湖の沖ノ島へ流してしまい、遂には刺客を差し向けた。「蔭凉軒日録」いんりょうけんにちろく(鹿苑寺の公用日記)の長禄3年1月24日の条に、「今月十八日、不慮の義によって、御今上郎逝去。今月二十日所七日に当たり雲沢軒において仏事を営む」とあり、「不慮の義」とあることからこの辺の事情が推測でき容。彼女は女でも自害できるはず」として切腹したといわれる。みごとに自害して果てたことであろう。このことを等持寺に参詣している時に知った義政は、幼時から世話になった局を死にいつぁらしめたことを後悔して、所領を菩提寺に寄進して霊をとむらったのである。
 長禄3年(1459年)正月に今参局が呪詛の疑いで失脚し、かわって近臣の伊勢貞親(141773)が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていった。また同年には畠山政久が赦免された。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された花の御所の「上御所」に移り、親政の拠点として位置づけようとした。貞親は義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり、幕府財政再建についても大きな功績があり、右大将拝賀式では大名並みの扱いを受けている。一方で守護大名達の反発は強まっていった。

3.文正の政変
 文正の政変ぶんしょうのせいへんは、文正元年(146696日に室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を失い、自分の政治を行えなくなり、応仁の乱に進む原因となぃた。
(1)背景
 将軍足利義政は将軍の専制政治を確立しようとして乳父で政所執事の伊勢貞親と鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂を登用、諸大名への内政干渉を図った。
・伊勢貞親いせさだちか14171473)、桓武天皇の流れを汲む伊勢平氏、8代将軍足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443年)には管領畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454年)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが(文安6年(1449年)から二階堂忠行が在任)、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆・番衆・奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった。・分一銭制度ぶいちせんせいど 
  中世・近世において,基準額の何分の1かを徴収する臨時的な賦課。(1)室町幕の発布した徳政令のうちに,債権・債務額の5分の1ないし10分の1の分一銭を幕府に納入する条件で,債権の確認または債務の破棄を認めるとするものがあり,分一徳政令と呼ばれた(分一徳政)
・季瓊真蘂きけい しんずい14011469)は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑
院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏。 赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。
・享徳の乱きょうとくのらん 関東管領と鎌倉公方との対立事件
  享徳3年(1454)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方くぼうの足利成氏しげうじが,関東管領かんれいの両上杉氏(山内上杉・扇谷上杉)と対立した。足利成氏が、享徳3(1454)年の暮れ,成氏の鎌倉西御門の御所に上杉憲忠を招かれて謀殺したことにより発生した。
  8代将軍・足利義政は、関東の騒乱をおさめるため、幕府公認の新たな関東公方として異母兄の政知を派遣されたが、いろんな思惑が入り乱れる中で、関東にまともに入る事が出来ず伊豆に留まった。伊豆堀越に拠点を置いた事から『堀越公方』と称される。結局、伊豆一国のみを支配するという中途半端な立場になってしまう
・長禄合戦 1458年9月室町幕府は五十子陣いかっこじん(平城)へ諸大名に命じて足利成氏の征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏と甲斐将久は両者がお互いを警戒して動かなかった。
  斯波氏の重臣・甲斐氏は越前国の在京守護代を世襲する家柄であり、甲斐将教が室町幕府第3代将軍・足利義満から所領を安堵されて以降の応永・永享年間には毎年甲斐邸に将軍の渡御(訪問)を受けるという、直臣ともいうべき待遇であった。これは、将軍家が斯波氏の勢力増大を内部から抑制するための措置として甲斐氏を優遇したともいわれるが、事実、甲斐氏は主家の斯波氏に匹敵するほどの権勢と実力を有し、独立的な地位にあったのである。甲斐将久(常治)は応永27年(1420)の父・将教の没後に家督を継いで主家を補佐した。
 永享8年(1436)9月末に斯波氏惣領・斯波義郷が没してその嫡子・義健がわずか3歳で家督を相続することになった際には、斯波氏庶流斯波持種とともに後見にあたった。しかしその義健も享徳元年(1452)9月に嗣子なく病没したため、持種の子・義敏が越前・尾張・遠江の3国の守護職と家督を継承することになったのである。しかし義敏はしだいに将久と不仲になっていき、康正2年(1456)には将久と争論を起こして8代将軍・足利義政に訴えている。
 義政の調停によって長禄2年(1458)2月末に和解が成ったが、越前国支配をめぐる対立は水面下でなおも続き、彼の地で軍事抗争が勃発することになった。
(2)経緯
 1459年8月斯波義敏は関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前国守護代であった甲斐将久の反乱の鎮圧を行ったため、足利義政は抗命を理由に斯波家の当主交代を行い、斯波義敏の子の斯波義寛へ当主を交代させた。長禄合戦は甲斐将久が勝利したが、直後に甲斐将久も没し、関東派遣は見送られた。
 享徳3年(1454)に畠山持国の息子義就よしひろと甥の政久が争い細川勝元と山名宗全が政久を支持した時、義政は義就を支持、宗全を隠居させた隙に義就が上洛、翌年の持国死去の家督相続を認め近臣に取り立てた。また、不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図る一方、関東で反抗した古河公方足利成氏討伐のため越前・尾張・遠江守護斯波義敏や奥州の大名に動員を命じた。
  ところが、それらは頓挫していった。義就は義政の意向と称して政久追討をしながら大和の軍事介入と土地の横領をしたため義政の信頼を失い、宗全が復権した影響もあって寛正元年(1460年)に家督を政久の弟政長に替えられ吉野に没落、勝元の支持を受けた政長は寛正5年(1464)に勝元の後任の管領に就任した。関東の派遣も義敏と執事の甲斐常治が越前で長禄合戦を起こし、義敏が命令に従わず越前の常治派討伐を優先したため、義政は義敏を追放、義敏の息子松王丸を当主に交替させた
 (武衛騒動)が、斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった。義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。
*武衛騒動
 将軍家政所執事の伊勢貞親は8代将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家政所執事の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して文正元年(1466年)に貞親を幕府から追放した。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。
1)守護大名家への介入
 寛正2年(1461年)、義政は斯波氏の家督を交替させて松王丸を廃立、遠縁で渋川氏出身の義廉を当主に据えた。この意図は義廉の父渋川義鏡が幕府によって新たな鎌倉公方として関東に送られた義政の異母兄の堀越公方足利政知の執事であり、寛正元年の駿河守護今川範忠の帰国で戦力が減った影響から義鏡を斯波氏当主の父として斯波軍を動員できるようにする狙いがあった。だが、寛正3年(1462年)に義鏡が関東で幕府方として古河公方と対峙していた扇谷上杉家と相模の権益を巡って対立、失脚したためその意義が薄れていた。
  寛正4年(1463年)、母の日野重子の死去で大赦を行い、義就と義敏を赦免し た。更に寛正6年(1465年)10月、勝元の要請で伊予の河野通春討伐に逆らい通春を支援した大内政弘に討伐命令を下したが、密かに政弘を支援した上、政弘の元にいた義敏に貞親と真蘂を通して上洛を命じ、1229日に上洛した義敏は翌30日に実父の斯波持種とともに義政と対面(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)して名実とともに赦免をされることになるが、これを知った義廉が義政に迫って30日付で義廉が引き続き領国を支配し、義敏の被官が勝手な行動をすることを禁じる幕府の奉行人奉書が出された。奉書を受けた興福寺(越前国内に荘園を持つ)の尋尊は義政の行動について「上意の儀太だ其意を得ず」(『大乗院寺社雑事記』寛正61229日・30日条)と困惑を表明している。
 翌文正元年(1466年)723日に家督を義廉から義敏に交替、730日に政弘も赦免した。一連の行動の真意は、幕府に逆らい一旦敵となった3人を赦免することで勝元と宗全の大名連合に対抗、幕府派に取り込む意図があった。
2)反発、合従連衡
 だが、義廉はこの義政の計画に反発、大名家との派閥結成を目論んだ。義廉は関東の堀越公方補強のために斯波氏当主に置かれたが、上記の通り実父義鏡が失脚したことと、義政から斯波氏の同族である奥州探題大崎教兼との取次を命じられたが成功しなかったため、義政はかつて大崎教兼と取り次いでいた義敏の復帰を考え赦免した。危機感を抱いた義廉は義敏復帰と自分の廃立を阻止するため、諸大名の結びつきに奔走した。
  寛正6921日、義政は春日大社の社参で大和に下向したが、義廉も家臣の朝倉孝景と共に同行した。この時に大和の国人で義就を支援していた越智家栄が義政と対面、同年8月に挙兵した義就に朝倉孝景が太刀を送り、翌年の5月に義就派の大和国人古市胤栄が義廉の被官となっているため、赦免されたものの逼塞していた義就を取り込み、春日社参の裏で越智家栄・古市胤栄と繋がりを持ったと推定されている。8月に伊予に渡海した大内政弘が幕府に逆らったことも、政弘の義理の祖父に当たる山名宗全が連携、越智家栄の仲介で義就と繋がったと見られ、文正元年8月に宗全の娘と義廉が婚約、山名派の結成が進められた。
3)政変
 斯波氏当主の交替に反発した宗全は一色義直や土岐成頼と共に義廉を支持したが、825日に義政は斯波氏当主となった義敏に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与え、義敏・松王丸父子は出仕した。
 9月、伊勢貞親は義政の弟義視が謀反を企んでいると義政に讒言し、その殺害を訴えた。ところが、95日夜に義視が細川勝元邸に入り、貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると勝元に訴えた。翌6日に勝元は出仕、義政に申し開きをして、罪を問われた貞親と季瓊真蘂、義敏と赤松政則は京都から逃げた。義敏は家督問題で貞親・真蘂と繋がり、政則は真蘂と同族であり、赤松氏再興に真蘂が関わっていたからとされる。
4)政変以後
 側近を失った義政は独自の政治を行えなくなり、諸大名中心の政治へと移行し ていく。政変後の914日、斯波氏の家督は義廉に戻された一方、義敏が3ヶ国守護に任命された825日に義就が吉野で挙兵、政長の領国河内を攻めた。幕府は義就征討のため出陣を決めたが、義就は宗全と義廉支援の下12月に上洛、翌応仁元年(1467年)15日に畠山氏当主と認められ、8日に政長が管領を罷免され
義廉が管領に就任、18日に上御霊神社で義就と政長が激突(御霊合戦)、敗れた政長は勝元の屋敷に匿われた。
  政変の意義は、義政・貞親らの関東政策で家督交替の危機を感じた義廉が義政の政策で赦免されていた義就を取り込み、宗全とも組んで派閥を形成して貞親・真蘂・義敏を追放したことにあるが、宗全らは勝元が管領に在任していた時期に家督交替が行われていたことから勝元の関与も疑い対立、派閥形成の一因となった。一方の勝元も政長の罷免で危機感を抱き、報復のため諸大名を上洛させ、応仁の乱に繋がった。
  なお、乱の原因に義政の正室日野富子が息子の足利義尚を義政の養子となった義視に対抗させるため、宗全を後見人に頼んで義視の後見人勝元と衝突したという説が一般的だが、義尚の誕生以前に宗全ら山名派が形成されたため、異説もある。そもそも、義政・富子・義視ら足利将軍家関係者と細川勝元・山名宗全ら有力守護大名の間では義尚成長までの中継ぎで義視を立てる合意が成立しつつあったのに義尚を養育していた伊勢貞親はこれを反発して義視を追い落とそうとしたのが文正の政変の原因ではないかとする見方もある。

4.応仁の乱
 応仁の乱おうにんのらんは、室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約11年間にわたって継続した内乱である。足利将軍家の権威・権力が失墜したことにより起きた、室町幕府内の長きにわたる政治抗争の結末。細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍が、幕府の主導権をめぐって争った。
 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、それぞれの領国にも争いが拡大した。
 明応2年(1493)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。(1)背景
1)足利義政の8代将軍就任
鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍足利義持の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺されてしまう。この混乱を収束させたのは管領細川持之と畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449)に正式に将軍職を継承した。
2)細川氏・山名氏の連携と、管領畠山持国の隠居
 管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。持国には子がなかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。
 そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏・遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452)に死去)。
  このため享徳3年(145443日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏」の内紛に対し、細川勝元、山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、821日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した。難を逃れた畠山持国は828日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。126日に宗全が但馬国に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった。
  なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。
3)管領細川勝元と畠山義就の対立
 翌享徳4326日(1455)に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を 相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、長禄2年(1458)に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。長禄3年(1459)には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。
  寛正元年(1460920日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(1463415日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた。
4)足利義政の関東政策と斯波氏
 一方、関東では、享徳3年(1455)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏を討伐するため、長禄元年(1457)足利義政は、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は鎌倉へ下向出来ず、長禄2年(1458)伊豆国堀越に留まった(堀越公方)。足利義政は斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱を起こしたため更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。さらに寛正2年(1461)、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし、渋川義鏡が扇谷上杉家の上杉持朝と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した
5)足利義政と政所執事
 畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏、小笠原氏、六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府政所執事であり、義政側近の伊勢貞親が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。
  この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった。ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった。
 また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458)、勝元が宗全の勢力削減のため、長禄の変で赤松氏遺臣が功績を建てたことを根拠に赤松政則を加賀守護職に取り立てたことから両者は激しく対立した。後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。
6)足利義視の還俗と義尚誕生
 足利義政は29歳になったが今だ子はなく、生存している足利宗家の男子は3のみと断絶が危惧される情勢にあった。寛正51126日(1464)、義尋は還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。まもなく義視は、義政の正室日野富子の妹である日野良子を妻に迎えたが、これは義政と富子のとりもちによるものであった。『応仁記』一巻本には義政が「男子が生まれても僧門に入れる」と義視に約束したという記述があるが、確証はない。
  寛正61123日(1465)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生する。義尚は出生当時から「世嗣」として扱われていたが、義視の後継者待遇も変わらずに順調に昇進を続けており、20歳以上離れた義尚後継までの中継ぎとして扱われていた。
  富子の依頼により山名宗全が義尚の後見人とされたという『応仁記』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが、近年では反証もあげられている。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の伊勢貞親であり、むしろ宗全は赤松政則を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる。更に、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465)から文明6年(1474)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている。
(2)文正の政変
 文正元年(1466723日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。さらに825日には越前・尾張・遠江守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている。しかし勝元はこれを拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した。貞親ら側近グループは守護大名の抵抗により窮地に追い込まれた。
 95日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。義政は一旦これを認めたが、96日に義視は居館であった今出川殿を脱出し、宗全の屋敷を経て勝元の屋敷に移った[19]。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴えた。これを受けて義政は伊勢貞親を切腹させるよう命じた。貞親は逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し14日に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。
(3)経過
1)御霊合戦
 文正元年(146612月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた 畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。
  年が明けて12日(1467)、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて室町第に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。16日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し、勝元側は御所巻に失敗した。
  118日、政長は自邸に火を放って上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は天皇や上皇らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる。
2)大乱前夜
 山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った。そして四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。35日に改元されて後の応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。
  宗全は520日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった。
3)開戦と東軍の足利義視推戴
 応仁元年(14675月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。
 そして526日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。夜明け前、東軍は成身院光宣(興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、611日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。
  京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した[32]。将軍義政は28日に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた。
  ところが63日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、68日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが。東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した。
4)西軍大内政弘の入京と義視の逃亡
 西軍は614日に大和国の古市胤栄、19日に紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始めたが、823日に周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。
 大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。91日に攻めかかった武田勢を畠山義就・朝倉孝景が追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた[注釈 3]918日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、103日に発生した相国寺の戦いは激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。
  朝廷においては103日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、125日に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
5)斯波義廉の管領解任
 応仁2年(1468317日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、321日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。52日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、58日に勝元が宗全の陣を、81日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。
  管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する御前沙汰なども管領不在のまま行われていた。だが、応仁2年(1468)、幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に義廉は和睦を提案し、山名宗全と畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、710日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。
6)義視の西軍入りと大内軍の優勢
 応仁2年(1468922日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝 元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏1016日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、1110日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。1123日(1219日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。
 一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。
  大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(14702月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。
  これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によっ」て何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。
7)各勢力の動向
 東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して官軍の体裁を整え、西軍は賊軍の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視とともに西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。
 宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない関東八ヶ国及び伊豆・甲斐(鎌倉府管轄)は享徳の乱の最中にあったが、将軍義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側が西軍と連携する動きもあった。文明7年には関東管領上杉顕定の後見人の越後守護上杉房定(実父)が西軍の能登守護畠山義統とともに東軍の畠山政長が領する越中を攻撃している。
※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。
8) 細川勝元と山名宗全の死去
 文明3年(1471年)521日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに下剋上である。西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。
  文明4年(1472)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。
  文明5年(1473)の318日(415日)に宗全が、511日(66日)に勝元が相次いで死去した。宗全の死を契機に、双方で停滞していた和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫している。
9)足利義政の隠居と和睦交渉
 1219日(1474)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。
  文明6年(14743月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた。
  文明643日(419日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政 豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼 を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。
  一方、西軍の土岐成頼の重臣で従三位の奉公衆斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。
10)終息
 文明7年(14752月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された。西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した。翌文明8年(14769月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した。
  主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明91477922日に河内国に下国した。113日、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された。大内軍が1111日(1477)に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した。義視・義材(後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。こうして西軍は解体され、9日後の1120日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」とされているものの、その後の消息は不明。
 この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。


                         Ⅱ.東山文化
 かって、14世紀末から15世紀末までにかけてのほぼ一世紀のうちに、平安京いらいのこの「王城」の地において日本文化史上屈指のをさかせた。「北山文化」と「東山文化」である。
 
第二章 民衆生活点描
1.惣村
2.寄合
3.服装
 上層の町衆と中・下級の武家の服装が接近します。もともと直垂ひたたれというのは家の常着つねぎであったのが、上流武士の礼服化し、直垂の変形である大紋だいもん・素襖すおうが中・下級武士の礼服となった。ところが、上層町衆も素襖と袴の組み合わせを礼服としたのです。ちょっと見たところ直垂と素襖の区別がつかないのです。
 大紋というのは直垂のバリエーション(変化)したもので背中の中央と両の衽おくみ(襟えり)に定紋が付いたものです。素襖は大紋のバリエーションで、胸紐などの紐は組紐でなく皮紐になっていることと、袴の腰紐が、大紋、直垂が白であるのに対し共ぎれをもちいている。


      直垂 
 
    大紋
 
    小袖
 
    小袖

 富裕な町衆の女房は三枚ないし五枚の小袖を重ね着し、帯をしめ、その上から打掛をはおっていた。これが礼服である。
(1)直垂
  直垂は原始的な構造ですから古代から用いられましたが、こうした「垂領たりくび」つまりVネックの衣服は、袍のような丸い「上領あげくび」の衣服よりもグレードの低いものとして扱われ、長く庶民の服でした。平安後期に活動的なところが評価されて武士が着用しはじめ、鎌倉時代になると幕府に出仕する時の通常服となりました(上級武士は水干ですが)。鎌倉時代後期には水干に代わって武士の代表的な衣服となり、さらに室町時代には礼装としての地位を占めるようにさえなります。武家の服装を代表するものとなりました。
  江戸時代には束帯などを除いた一般的な最高級礼装となりました。この場合、袴は長袴を用います。 幕末維新期に直垂が復活します。鉢巻きを付けた梨子打烏帽子なしうちえぼしを付けた装束が公家や大名の間に礼装として用いられました。明治初期にも無位の藩士達の朝廷出仕の制服として用いられました。明治5年9月、新橋~横浜間の鉄道が開通した式典では、西郷隆盛や大隈重信など顕官がこの装束で参列しましたが、同年11月の太政官布告で大礼服を西洋風に定められ、この服制は廃止されました。
 現在では、雅楽の楽師や祭礼の供奉人、大相撲の行司の装束に見ることが出来ます。直垂の区分、直垂は直垂、大紋だいもんと素襖すおうに大別されます。これらは室町時代に生まれたバリエーションです。大きな違いは原則として直垂には裏地を付けて、大紋と素襖には裏を付けないこと、胸紐や菊綴結きくとじむすびが、直垂と大紋は丸組紐であることに対して、素襖は革リボンであることです。直垂と大紋の外見上の大きな相違は、大紋にはその名の通り、大きな家紋の文様が染め抜かれることです。
1) 直垂は、左右の前身頃を引き違えて合わせて着る垂領たれくびの上衣と、同色の袴を組み合わせた装束です。本来はこの上衣を直垂と呼びましたが、共生地の袴をはくようになってから、装束全体を「直垂」と呼ぶようになりました。上衣は二幅仕立、袵おくみがなく、腋を縫い合わせません。襟の左右に紐(胸紐)を付けてこれを結んで前を留めます。
   直垂が礼服化しますと、生地も高級になり、公家装束のような広袖となって、袖丈も長くなりました。また水干のように背中中央や両袖など5か所に菊綴が付けられました。この菊綴は水干と違って房状ではなく、丸組紐を組んで8の字にした「もの字」の菊綴結を置いています。ただし鎧直垂よろいひたたれは房状の菊綴を用います。
   胸紐むなひもは、古くはごく単純なもので、水干の影響からかごく上の位置にありましたが、室町時代に形式化するに従って位置が下がり、付け根もハート形に装飾するようになりました。
   原則として袖括りの紐は表に出ないで内側に籠める「籠括」で、末端の結び余りだけが袖下に出ます。これを「露つゆ」と呼びます。現在では、見映えのこともあってか、狩衣と全く同じ薄平の袖括りを付けるのが一般的なようです。
   袴は6幅。現在は切袴ですが、鎌倉時代には裾に紐を通して括り袴にしていた」ようです。その形状は鎧直垂に残っています。室町時代には括り紐のない切袴となり、江戸時代の礼装としては長袴を用いました。袴にも4か所、菊綴結を付けて装飾とします。袴は同色が原則ですが「直垂袴姿」と称して別色を用いることもあり、室町時代には礼装として白い大口袴をはいた姿も用いました。袴の紐は白が基本で、色を変えるときも身と共生地は使いません。生地の地質は、本来は布(麻)ですが、礼服化してから生絹すずし、精好せいごう、紗しやなどの絹織物を用いるようになりました。色や文様は自由であり、特別な定めはありません。足は足袋をはかず素足が正式です。
・直垂を着る状況
   日常着である直垂も時代が下るに従い公服、礼服化しました。江戸時代には最高レベルの礼服になっていました。公家も内々に着用していました。今日では雅楽の楽師の一般的な服装になっています。また行司装束としても用いられています。
・大紋だいもん・素襖すおう
 室町時代に直垂が礼服化しますと、いろいろなバリエーションが生まれました。
大 紋
2)大紋だいもん 大紋は、正しくは「大紋直垂」と言います。外見は直垂と同形式ですが、布地が単で裏を付けないこと、生地が原則として布(麻)であることです。この名称の由来は、袖、背、袴の膝、それに袴の両側と腰などに大きな家紋を、白く抜いていることからきています。
3)素襖すおう 室町中後期以降に大紋の変化したしたものですが、大紋は、胸紐や露、菊綴結が丸紐であるに対して、素襖はそれがテープ状の革紐です(歌舞伎衣装では大紋も素襖も革紐や布製です)。そのため「革緒の直垂」とも呼ばれます。また染め抜く家紋が大紋より小さいのも特徴です。さらに直垂や大紋の袴の紐が原則として白であるのに対し、素襖は共生地です。
 江戸幕府の礼装としては下級者の衣服でした。
江戸幕府の礼装

三位以上、四位参議・侍従以上

直垂

風折烏帽子

四位

狩衣(裏地あり)

同上

五位諸大夫

大紋

同上

六位以下許可ある諸士

布衣(裏なし狩衣)

同上

六位以下の諸士

素襖

侍烏帽子

(2)小袖
 小袖こそでは、日本の伝統的衣装の一つ。現代日本で一般的に用いられている、和服(着物)の元となった衣類である。袖口の開きが大きく、袖丈一杯まで開いている袖の形状を、大袖おおそでと言うのに対し、「小袖」は袖口の開きが狭いことから付いた名称である
平安時代
  公家装束において、平安時代初期までは下着として単が使われたが、中期以降の国風文化興隆に伴う服飾の変化により、単は巨大化して下着としての用を為さなくなった。その代わりに、庶民の着ていた筒袖の着物を下着として着用するようになる。このような公家装束の下着として加えられた小袖は、当時の庶民衣類の転用と考えられている。
 室町時代後期(戦国時代)になると、下克上や治安の低下などから、袖が小さく活動的な小袖が表着として武家の夫人の正装に採用されるようになり、安土桃山時代には、お市の方肖像画に見られるような、豪華な打ち掛け型の小袖などが作られるようになった。また、武士の礼装となった裃でも、小袖を表に出す着方が通例となり、小袖は上着に昇格した。この頃の小袖は「桃山小袖」といわれる。
 その後、江戸幕府による士農工商の身分制により、武士などの上層階級では小袖の柄行きが固定化されてしまうが、京・大坂などの上方や、江戸の富裕な町人は、平和になった余力を衣類に向けるようになり、手の込んだ小袖が誕生する。しかし、やはり華美に過ぎるとして、しばしば江戸幕府より禁令が出ている。また、北海道・樺太・北方領土の役蝦夷の間でも小袖が着用された。この時代の代表的な小袖として、慶長小袖、寛文小袖、元禄小袖がある。
 江戸時代も後期を過ぎると、公家の間でも儀式以外では小袖を着るのが通例となり、また、小袖自体の袖も平和な時代の中で華美になり、巨大化して振袖が誕生、そのため「小袖」と言う名称自体が実態に合わなくなり、使われなくなってしまった。現在では「小袖」というと、束帯や十二単など宮廷装束の下着を指す。
(3)狩衣かりぎぬ 
狩衣は、平安時代以降の公家の普段着。もともとは狩の時に着用したのでこの名前がついたが、活動的であることから次第に普段着として定着した。その後、時代を経るに従って公服としての色彩を増し、直垂に継ぐ四位の武家の礼服ともなった。ただし、狩衣姿での参内(御所への出入り)は一切認められなかった。明治時代以降には、神職の常装となった。狩衣装束の構成は、下着を着て指貫(あるいは差袴)をはき、狩衣を着るだけである。また、立烏帽子をかぶる。普段着という性質上、狩衣の色目・紋様は全くの自由である。ただし、禁色は避けられた。なお、白色の無紋狩衣・無紋指貫の形を「浄衣じょうえ」といい、専ら神事に用いられた。

 
    
    狩衣
 
    狩衣
 
 
     浄衣
 
    水干

形状・構成
 袍や直衣と同じ「襟紙えりがみ」という芯を入れた盤領あげくび(まるえり、立首の円い襟)で袖の広い衣装だが、身頃は半分の一巾で脇を縫わずに袖を後ろ身頃に縫いつけ、腕の上げ下げがし易くなっている。脇のあいた部分からは単ひとえが見えるが、現代の神職などは略すことが多い。
 襟の留め方は袍と同様に「蜻蛉かげろう」という留め具を受け口に引っ掛けるタイプのもので、形状の似る水干(紐を結んでとめる)とは襟で見分けることが出来る。
 袖には「袖括そでぐり」と呼ばれる紐が通してあるので、紐を引けば巾着のように袖口が狭まった。この紐は、若年ほど幅広で派手なものを用い、以後だんだん目立たないものとなる。中世以来の伝統を踏まえて江戸時代に完成したしきたりでは、元服後しばらくは菊綴じのない毛抜型(二色の撚紐計四本を装飾的に縫いつける)で、その後「薄平うすべ」という薄く幅広の組紐(現代の神職装束で「平露へいろ」と呼ぶもの)となり、中年では「厚細」という厚みのある組紐(のちに用いなくなった。組織は帯締めに使う「ゆるぎ打ち」に類する)、老年では「縒括」といって右撚りと左撚りの紐二本を並べて通した(現代の神職装束で「細露」と呼ぶもの)ものにする。なお、裏のない狩衣の場合、年齢にかかわらず「縒括」を用いた。
 白小袖の上に単(あるいは袷仕立ての衣)を重ね狩衣を着用する。帯は「当帯」
ておびと呼ばれる共布の布帯を用い、立烏帽子をかぶる。袴は現在は指貫さしぬき(括り緒の袴)あるいは差袴さしこ(切袴きりばかまの一種)が一般的だが、室町時代までは下級貴族は六幅(指貫は八幅)の白い麻布で仕立てた軽快な狩袴を合わせた。さらに身分が低いと四幅の狩袴を使うこともあった。
狩衣の歴史
 狩衣はもともと都の中産階級の人々のお洒落しゃれ着であった布衣に由来する。布と言う字からも解るとおりもともと麻布製の素朴なものであったが、動きやすさを好まれて貴族が鷹狩りなどの衣装として採用し、平安初期には上皇以下の貴族の日常着になった。奈良・平安前期には野行幸(天皇の鷹狩)に供奉する者は摺衣(すりごろも)を着たが、その影響か初期の狩衣は摺りが多かった。
 平安時代中期には国風文化の隆盛とともに「みやび」と言う価値観・美意識が広まった。貴族たちは狩衣の表地と裏地の色に工夫を凝らし、裏地の色が薄い絹を通して表にほんのり現れる様子に優美な名称をつける「色目」が考え出された。ただし、上級貴族の場合、四十歳を迎え「四十の賀」の祝いの後は老人と見なされ白い裏地しか使えなくなった。
 平安時代末期の院政期に入ると、直衣に続き狩衣で院御所に出入りすることが一般化する。上皇本人も狩衣を着用するため「布衣始」ほういはじめの儀式のあとは自由に狩衣を着ることができるようになった。下着に白小袖を使うようになったのもこのころである。
 近世武家社会において狩衣は礼服と認められ、武家では侍従に任ぜられない四位の正月の江戸城の礼装とされ、無紋の布衣は旗本クラスの礼服とされた(厳密には無位の幕臣の内幕府が布衣を許したもの。許されない者の装束は素襖)。(ちなみに四位で中将・少将・侍従に任ぜられる者の礼装は直垂、それ以外の四位が狩衣、五位は大紋、許された無位は布衣、それ以外の無位は素襖。江戸幕府では、三位以上に昇るのは御三家・御三卿と前田家のみ。上級の大名は四位となる。その他の大名・高家は五位に叙せられ、六位以下への叙任はなかった。また、将軍宣下や仏事など、将軍が束帯や衣冠などを着るときは、五位以上は同じ装束を着た) また、四位侍従以上も国元などで狩衣を用いたが、徳川家(宗家・御三家・御三卿)を除く武家の狩衣は原則として裏をつけることができなかった(1869年(明治2年)に諸侯五位以上も公家に準じて許可された)。
 近世の公家では殿上人以上大納言以下、布衣は地下人クラスが参内に付き添うときなどに着用された。なお鎌倉時代以降、公家の大臣以上は小直衣を使用したため(正確には摂家は内大臣以上に、清華家は近衛大将に任ぜられたときから使用)、狩衣を使用しない。上皇は、中世では小直衣と狩衣を共に着ることができたのであるが、近世の上皇は小直衣が中心で狩衣の使用例はほとんど認められない。
 明治初期には朝廷出仕の際の礼装になったが、明治5年に太政官布告により礼服が洋服となり、狩衣は公服としての役目を終えた。
 現代では、神職の常装として着用されている。神社本庁の制度では、二級以上は裏のある狩衣を用いることができるが、三級以下は四季を通じて単狩衣であって、身分の上下によって裏をつけることに制限のあった近世の名残を伝えている。なお三級以下は無文の平絹もしくは顕文紗などの生地に限られているが、近年では平絹の狩衣(布衣)を用いる者はまずいないし、紗以外の生地も等級を問わず使用されている。三級以下の単狩衣は当然撚括であるべきだが、この点もあいまい化されているようである。
(4)水干すいかん 
 水干は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なためともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴ふさきくとじの装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した。
 平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。
 貴族の着装の機会は、院政期から鎌倉時代に、上皇が宇治などの遠所に御幸するときに供奉の貴族が用いた例などを挙げることができる。しかし、室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少したが、幕府の服飾制度からは脱落している。女子用としては白拍子が用いたことが良く知られている。
 第二次世界大戦後は女子神職の略装として掛水干が用いられた。昭和63年、女子神職の装束が新たに制定されて、神社本庁の服制から一応省かれたが、規定の付記に、当分の間用いることができると書かれている。したがって現在も水干を用いている女子神職もいる。

           立烏帽            風折烏帽子  
  布目風折烏帽子

梨子烏帽子 
 
   侍烏帽子

(5)烏帽子
 烏帽子とは平安時代から現代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のこと。初期は薄い絹で仕立てたものだったが、のちに黒漆を塗った紙製に変わる。庶民のものは麻糸を織ったものである。衣装の格式や着装者の身分によっていくつかの種類があり、厳格に使い分けた。正装の際にかぶる冠より格式が落ち、平安から室町にかけては普段着に合わせて着装した。中国の烏帽が原型ではないかという説がある。
 明治以降は髷を結う習慣が失われたため、頭にすっぽりとかぶり掛緒を顎にかけて固定するタイプのものが用いられることが多い。大相撲の行司が着用しているのを見ることができる。これに反して、明治初期の公家は大きい烏帽子を多用していた。 作り方。材料は和紙、特に明治以前の物の質が良い。洋紙を使ったものもあるが和紙は軽くて繊維も長い事から丈夫に加工できる。和紙に糊を塗り3枚重ね、くしゃくしゃに丸めて糊を馴染ませていく。「しぼ」(烏帽子の凹凸)が象られた銅板に載せ、ささら(刷毛状の道具)で「しぼ」を浮き立たせる。乾燥させた後、柿渋を塗り2枚を繋ぎ縁を付け、立体にするため金属の型に巻き付け糊と小手で接着し温める。烏帽子正面の「顔」を整えて中心と縁に縁取りを巻き、漆を塗って仕上げる。
 烏帽子の種類
1)立烏帽子 
 烏帽子の中では最も格式が高い。狩衣(まれに直衣にも)に合わせ、左右から押しつぶした円筒形。現在も神職などが着用する。金色のものは祭りに参加する稚児の衣装として現在も見ることができる。艶消しのものは葬祭用とされる。
2)折烏帽子広義には立烏帽子を折ったものの総称。狭義には中世において髻巾子形の部のみを残して他をすべて折り平めて、動作に便宜なようにした烏帽子で、「侍烏帽子」と呼ばれ武士や庶民が使用した。現代でも大相撲の行司が着用する。室町時代末に形式化して、江戸時代には素襖着用時の舟形の被り物になり、納豆の包装に似ていることから「納豆烏帽子」とも呼ばれた。
3)揉烏帽子薄布を用い、五倍子で染めたり軽く漆をかけて揉んだりして柔らかくした烏帽子。
4)鉄烏帽子文字通り、鉄製の烏帽子。闘鶏神社に湛増が用いたとされる鉄烏帽子が伝えられている。
5)風折烏帽子 立たて烏帽子の頂が風に吹き折られた形の烏帽子。狩衣(かりぎ)着用のときにかぶる。右折りは上皇、左折りは一般が用いた。鵜匠が被る烏帽子。
6)神道烏帽子神社で神職が使用する烏帽子は通常、立烏帽子である。また、舟型侍烏帽子、御三年侍烏帽子、行司烏帽子、白張烏帽子、平礼烏帽子、引立烏帽子、平安朝式高烏帽子、風折烏帽子、福娘金烏帽子などを使用する神社もある。なお、立烏帽子には懐中用、懐中用張貫がある。風折烏帽子にも懐中用がある。


                       Ⅲ.建築物
A.建築物

 
        銀閣寺門前
 
          総門

 
         銀閣寺垣
 
         銀閣寺垣

(1)総門
 総門の辺りは、古図と同じであり、足利幕府第八将軍足利義政が創建した当時の面影を残しているものと思われる。蟹真黒かにまぐろの石畳を踏みしめて慈照寺(銀閣寺)を訪れる人が最初に潜る門が西向きの総門である。
 当寺の総門は寛政12年(1800)の再建で、門の様式は薬医門です。薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれています。
 基本は前方(外側)に2本の本柱と、後ろ(内側)にある2本の控え柱の4本の柱で屋根を支えます。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。屋根は切妻本瓦葺です。
(2)銀閣寺垣

 総門を潜ると突当り、右折すると二十間(50m)の通路は、視界いっぱいに参道1)総門 
 総門の辺りは、古図と同じであり、足利幕府第八将軍足利義政が創建した当時の面影を残しているものと思われる。蟹真黒かにまぐろの石畳を踏みしめて慈照寺(銀閣寺)を訪れる人が最初に潜る門が西向きの総門である。
 当寺の総門は寛政12年(1800)の再建で、門の様式は薬医門です。薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれています。
基本は前方(外側)に2本の本柱と、後ろ(内側)にある2本の控え柱の4本の柱で屋根を支えます。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。屋根は切妻本瓦葺です。

 
         受付
 
          中門

(3)中門ちゅうもん 
 銀閣寺垣の通りから中門は見渡せません。入口が見えないのも、参道の両脇の生垣が高いのも防衛所の戦略かもしれません。両生垣の何処かに敵兵が隠れているかもしれません。突当りを左折すると受付があり、その先に中門があります。中門は、江戸時代、寛永年間(16241644)に建立された。現在位置寄り、約1.8m(1間)東にあった様ですが、創建当初とあまり差はない。門の様式は総門と同じ薬医門である。違っているのは、総門の屋根が本瓦葺であったのに対して中門の屋根は杮葺きです。
 寺院建造物の屋根は瓦葺が標準です。瓦には本瓦と桟瓦の二種類があります。日本に瓦が伝わったのは、6世紀末の飛鳥時代です。『日本書紀』には「百済から4人の瓦博士が渡来した」との記述があり、飛鳥寺の瓦が日本最古のものと伝えられています。これが本瓦です。その後は、都のあった近畿地方を中心に、地方にも瓦が広まっていきました。しかし、瓦を使用したのは寺院だけのようでした。当時寺院の頃を瓦と呼んでいたようです。西暦694年には藤原京の宮殿で初めて瓦が葺かれ、平城京、長岡京、平安京でも使われました。桃山時代以降は戦国武将も城に瓦を採用するようになりました。
 江戸時代、大火事が多発しました。当時藁葺屋根が主流でした。当時徳川幕府は、火災の原因に藁葺屋根にあるとして瓦の使用を奨励しました。丁度その頃、現在の滋賀県三井寺の瓦師西村半兵衛が丸瓦と平瓦を結合させた桟瓦を考案しました。それ以後急速に瓦や根が普及したと言われています。民間住宅の屋根瓦は殆ど桟瓦ですか。寺院は伝統を重んじ以前として本瓦を、使用しています。
 本瓦は高価であるが、それなりの価値もあるようです。奈良法隆寺五重塔は金閣寺と同様、推古15年(西暦607)建立の、世界最古の木造建築ですが、何度かの落雷をうけながら現存できたなは本瓦の効果も否定できないとしています。
 寺院建築に桧皮葺や杮葺きを使用する例は少なかったが、神仏習合の影響で、その枠が崩れて来たようです、

 
         庫裏
 
         大玄関
 
        庫裏前庭
 
  
         宝処関

4)庫裏前庭 
 中門を潜ると庫裏前庭にでますが。この庭園も創建当初から存在する庭のようです。しかし、庭の後ろの建物は全く違う。創建時には、主要な建物として常御殿(義政の居室)、会所(会合処)、それぞれの目的に合わせ西指庵、東求堂、観音堂、泉殿、釣殿、船舎、寝殿、総門、中門等十数の建物があったと言う。現在残っているのが東求堂と観音殿(銀閣)の二建物だけである。現在、この二つの建物に方丈、庫裏、大玄関、西指庵、泉殿、釣殿,船舎、寝殿、総門、中門が建設された。このうち、庫裏前庭に面している建物は、庫裏、大玄関、宝処関の三つの建物である。
 庫裏前庭の場所面積は創建当時とほぼ同じである。現在は、大海原を思わせる白砂の中に点々と赤松と五葉松が植えられ格調高い庭であるが、創建当時の庭は、何がどのように植えられていたか不明である。
(5)庫裏・大玄関
 庫裏は天保8年(1837)に再建された。庫裏は、寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。なお現代では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多い。庫裏は大規模寺院では独立した建物であるが、一般寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多い。一般の民家とよく似た建物も多い。禅宗の寺院では、伽藍の守護として韋駄天が祀られていることがある。
 建物には、世界のどの国にも人の出入りする出入り口は必ずあります。しかし、玄関は日本にしかない。日本特有の建物です。
 世界の民族は大きく分類すると裸足族と靴族に分かれます。裸足族は外出するときは、勿論裸足ですし、家に帰っても裸足の生活です。家の中での生活様式には、「地べた生活様式」と「椅子生活用様式」の二タイプありますが、一づれの生活様式でも、玄関は不要です。
 靴族は靴を履いて外出しますが、帰宅しても多くの人は靴を履いたまま、イス座の生活様式にはいります。その為玄関は不要となります。
 日本では、外出する時は、靴を履いて外出するが、帰宅すると、主として床座の生活に入るため玄関が必要となる。それでは、この玄関はいつできたか。永正6年(1509)建立大仙院方丈の玄関が、日本最古、世界最古の玄関である。
(6)宝処関ほうしょかん 
 宝処関は方丈の玄関である。延徳2年(1490)義政が山荘で亡くなると。義政の遺命により、東山殿を臨済宗相国寺派の禅寺に改め、寺号は義政の院号・慈照院殿喜山道慶に因み慈照寺とした。臨済宗の僧・夢窓国師を追請(勧請)開山とし、相国寺の宝処周財を初代住持に迎えた。
 宝処関は江戸時代、寛永年間(16241644)に建立され、初代住職宝処周財に因み、ほと命名された。門の様式は唐門である。
 唐門は、名前は中国名になっているが純然たる日本建築の門の様式の一つである。上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風はふを唐破風といい、この唐破風のつけられた門を総称して唐門という。唐門には正面に唐破風をみせる向むかい唐門と、妻に唐破風をつける平ひら唐門とがある。門には柱が2本だけ立って屋根をのせる棟門むなかど、中央に2本の本柱を立て前後に2本ずつ控柱を立てる四脚しきゃく門、さらに正面を3間とし、前後に柱を立てる八脚(はっきゃく)門があるが、唐門でももっとも簡単なものは棟門に唐破風をつけただけの向唐門、平唐門である。
 日本では、柱や鴨居を額縁に見立てて庭園を鑑賞する額縁庭園という、鑑賞方法あある。宝処関では花頭窓が開けられ、庭園の景色が花頭の枠内に綺麗に枠内に収まり額縁庭園を楽しむことができます。

 
      宝処関花頭窓枠庭園
 
        方丈(本殿)

 
         方丈
 
    坪庭と銀閣寺手水鉢

(7)方丈(本殿)(京都市指定文化財)
 方丈(本殿)(京都市指定文化財)は、江戸時代、寛永元年(1624)に建立された。宮城豊嗣による。西に玄関、六間取方丈様式による。南の中央、室中正面に扁額「東山水上行」が掛る。西の間、東の間、上間などがある。与謝蕪村、池大雅の襖絵(複製)で飾られている。南西に付玄関。外周に舞良戸の板戸。前面1間通りを柱間吹き放しの広縁、西端に玄関廊。桁行15m、梁行10m7間半5間。入母屋造、杮葺こけらぶき
 銀閣寺の方丈。方丈は寺の本堂も兼ねており銀閣寺の方丈には釈迦牟尼仏が安置されている。また方丈正面には向月台や銀沙灘に代表される庭園が広がり、庭園のさらに奥には月待山が借景として控え、方丈から見る月待山は絶景といわれている。なお本堂には、応仁の乱を引き起こした足利義政と妻である日野富子の位牌も安置されている。
 本堂西の間、江戸時代の与謝蕪村(1716-1763)筆の下間げかんの間の紙本墨画「棕櫚しゅろに叭叭鳥ハッカチョウ(東南アジア分布・ムクドリ科飼鳥)図」12(173×92.2)がある。「異時同図」の技法により、東から北、西へ鳥が飛び立つ様を動画のように連続して描いた。
 ほかに室中の「飲中八仙図」は、酒に酔う仙人を介抱する童子の様を描く。上官奥の間に「山水人物図」がある。江戸時代、明和年間(1764-1772)の作という。
  上間じょうかんの間、池大雅(1723-1776)筆の「琴棋きんき書画図」(1760)は、文人の嗜む琴、棋、書、画が題材になっている。
 室中のみ正面を桟唐戸さんからどとして仏殿風につくる。庫裏に近い隣室が下間(げかん),遠い方が上間じようかんと呼ばれる接客室である。上間の奥は祖師の居間で住持の間といわれ,没後は衣鉢いはつの間と呼称する。…
〇文人画家「与謝蕪村と池大雅」の巨匠コラボの「伝匠美」世界遺産銀閣慈照寺方丈(本堂)にある、江戸時代の文人画家与謝蕪村(171683)筆の「飲中八仙図」「山水人物図」「棕櫚に叭叭鳥図」の3作品36面と池大雅(1723-76)筆の「琴棋書画図」の12面、計48面の紙本墨画淡彩の「襖絵と壁画」を「伝匠美」で再現しました。  経年にともなう虫食いや破損部分は監修者の指導の下、バーチャル補修にて認識できる程度に目立たなくしております。
〇与謝 蕪村よさ ぶそん1716年~1784年)
与謝蕪村は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅しゃいん」など複数ある。
経歴
 摂津国東成郡毛馬村けまむら(現:大阪市都島区毛馬町)に生まれた[1]。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承とげんの墓が残る。20歳の頃、江戸に下り、早野巴人はやの はじんに師事して俳諧を学ぶ。敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。
 42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。天明31225日(1784117日)未明、68歳の生涯を閉じた。
 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。絵は独学であったと推測されている。
 俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』[5]まで待たなければならなかった。

 
   方丈西の間「棕櫚と叭叭鳥図」蕪村
 
    同室中の間「飲中八仙図」蕪村
 
  同東の間「琴棋書画図」池大雅
 
   同上の間「山水人物図」蕪村

〇池 大雅いけの たいが1721776年)
 池大雅は、日本の江戸時代の文人画家 (南画家)、書家。幼名は又次郎。雅号は数多く名乗り、大雅堂たいがどう、待賈堂たいかどう、三岳道者さんがくどうしゃ、霞樵かしょうなどが知られている。 妻の玉瀾ぎょくらんも画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者とされる。
 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれる。父を早くに亡くし経済的に苦しい中、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
 川端康成の蒐集品として著名な「十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜(便利さ、よろしさ)を画題に大雅と蕪村が共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。小品ながら、文人の理想とする俗塵を離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめな色彩で活写している。


         書院 
 
       書院大広間

    弄清亭・流水無限 
 
     弄清亭・薫園清韻

(8)書院(非公開)
 平成5年(199311月、延べ10年の歳月をかけて落慶となった新書院。大広間に飾られた明治の世界的画家、富岡鉄斎の大江捕魚図の襖絵が圧巻です。
 ゆったりとながれる大河そここで網を下ろす者、釣り糸を垂れる者など、さまざまに魚を捕る姿が見られる。一方、芦辺の汀に繋がれた舟の中、あるいは大樹の下で酒を酌み交わす者もいる。大江の流れに沿って展開する漁楽の営みの広々とした光景が描かれている。画中に書き込まれた賛は筆者鉄斎自らがこの光景を説明したものである。
   剖活魚沽美酒酔臥芦處視名利若敝蹝爾
  (活魚を剖き、美酒お沽い、酔うて芦處に臥す、名利をのぞむは敝蹤へいしの若ごときのみ)
 捕れたばかりの魚を料理し、美味しい酒路を買ってきて大いに酔い、芦の生い茂るところでゆったりと体を横たえる。こうした生き方にくらべると、世俗の名利を望み求めようとするのは実につまらないことだ。明治33年1月、鉄斎64歳の作品である。
〇富岡 鉄斎とみおか てっさい、(1837 1924年)
 富岡鉄斎は、明治・大正期の文人画家、儒学者、教員。日本最後の文人と謳われる。歴史学者・考古学者の富岡謙蔵は長子である。
 京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励んだ。はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
 安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学んだ。文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
 30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。
 明治26年~37年(18931904年)、京都市美術学校で教員に就任す。大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。享年89
作品と画業[編集]
 画業は歳を重ねるごとに次第に認められ、京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)、京都美術協会委員(1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)、帝室技芸員(1917611[5])、帝国美術院会員(1919年)と、順風満帆だった。この間の明治29年(1897年)に田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足させ南画の発展にも寄与しようとした。また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。 鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。
 「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。
(9)弄清亭ろうせいてい 
 銀閣寺弄清亭は平成8年(1996)に再建されました。弄清亭には御香座敷があります。銀閣寺ではかつて、室町幕府第8代将軍・足利義政がお香を焚いて楽しんだとも言われています。
 香道は、茶道・華道・能などとともに室町時代に誕生、上流階級の贅を極めた芸 道として発展してきた。なかでも香道は、それら中世芸道のエッセンスを凝縮した文化として洗練度を高め、当時としては非常に稀少な東南アジア産の天然香木を研ぎ澄まされた感性で判別するという、独自の世界を構築するに至った。東山文化のリーダー足利義政の側近だった志野宗信が香道を体系化、江戸時代には貴族、僧侶、武士、町人、更に一部農民にまで志野流の門人は増大していく。以来、志野流は、香道発祥以来の歴史と伝統を500年に亘り父子相伝によってひたむきに守り続け、唯一絶えることなく現代に継承し現家元で20代を数えるまでに至る。近年は、香りブームの中で、高尚な伝統文化としても再び見直され世界からも注目を浴びております。
 志野流香道の祖・志野宗信しのそうしんは室町幕府第6代将軍・足利義教あしかがよしのり、室町幕府第7代将軍・足利義勝あしかがよしかつ、足利義政の近臣として仕え、足利義政から香の式を考案するよう命を受け、御香所預ごこうしょあずかりで、内大臣・三条西実隆さんじょうにしさねたかとともに香合こうあわせなどをもとに志野流香道を創始しました。

 
         東求堂

         同仁斎 

10)東求堂とうぐうどう 
 東山時代は、日本文化史上もっとも輝かしい時期の一つだった。義政の山荘のなかで、二つの建物だけが残存している。おそらくこの二つの建物のもっとも意外な特徴は、室内の造作が我々をおどろかせないということである。また、義政の世界とれわれの世界を厖大な時の流れが隔てているという実感を与えないことである。それどころか、どの部屋も実に見慣れた感じで、ふだん我々が目にする無数の日本の建物とあまりによく似ているので、それが500年前の部屋であることを忘れてしまいそうである。現代の日本で使われている半透明の紙をとおしてあかりを中に入れる障子(明障子)な平安時代後期には考案されていました。そかし、その当時は障子を作成する工具が開発されていなかったのです。東山時代には、中国で縦切鋸と鉋が開発され、それらが日本に導入され東山時代には障子の作成が可能となっていたのです。障子は後世の日本建築にとって欠かすことのできない特徴となった。「同仁斎」に足を踏み入れた時、なぜ我々が親しみを覚えるのか、障子はその理由を解き明かしてくれる。
 四畳半の茶室「同仁斎」は日本中至る所の寺や個人の家にある同じような無数の部屋に似ていて、それはこの茶室があらゆる部屋の原型であるという簡単な利湯による。十六世紀以後に建てられたあらゆる和風建築は、この部屋の建築様式に負うものがおおい。障子、違い棚、四畳半の茶室、天井、四角柱、机、そして花や工芸品を飾るために配された空間は、いずれも義政の山荘で決定的な表現に達した書院造の建築の特徴である。この建築物は、まさに日本の生きた文化の一部をなしている。
 もちろん、親しみを感じたり、日本独特のものに思われたりするのは、銀閣寺の建物の内部の造作ではない。庭、池、樹木、周囲の景色のすべてが、我々を自然にとけこませ、自然との一体感を覚えさせて、それは何世紀にもわたる無数の日本人の理想だった。
 現存する建物の屋根は入母屋造り、桧皮葺の住宅建築だが、三間半四方という正方形平面の仏堂である。純粋住宅建築には正方形はない。西南二間四方に阿弥陀を安置する。この持仏堂の額字名として義政が、西芳寺の西来堂のごとき阿弥陀に関係あるものを推薦するよう側近の禅僧横川恵三に命じ、結局、仏典の一句「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」に因む「東求」を選んだ。西芳寺の西来堂の西を単に東に変えたわけでないが。結果的に東求堂となった。
10-1)東求堂の移動説について
 東求堂は、名所案内のなかで比較的早い時期の「雍州府志しょうしゅうふし」(貞享元年【1684年】刊、山城国地誌・黒川道祐筆)でもすでに方丈の東の現在位地に描かれている。また、解体修理の際に、側柱に土台が入っている、すべての柱に根接ぎをほどこしてあるのは移築に由来する者と考えられなくもないと、江戸期に方丈建築の改築の際に現在地に移築し跡地の整備を兼ねて銀沙灘や向月台が築造されたと推定された。しかし、東求堂は、西指庵とほぼ同期の造立になり、日常性と宗教性を併せ持つという点でも共通の建物である。東求堂の現在の位置は、その西指庵一郭のすぐ西側に当たる。また、かっての常御殿の東奥にあたり、私的な御座の間のある建物の位置としてふさわしい。南に蓮池があったという記録も現状とあう。前述した湯殿・厠との関係にくわえ、後述するように、泉殿から東求堂へ行っている記録とも矛盾しない。従って東求堂の位置に大きな変更はあり得ないと考えられる。
 東求堂の東北に向かって西指庵・超然亭方面へ登る道があるが当時からあったことであろう。東求堂の縁の床「隔簾」は簾を隔てて梅を見る「隔簾梅」に因む命名であり、庭の梅は西指庵の庭にまで及んでいた可能性がある。常御殿の建築時に「集芳」という額名の床がある渡廊が出てくるが、常御殿から東求堂に行くためのものではないかとおもわれる。これらによって現在の東求堂の位置は、創建当初位置であると考えられる。現在であれば数メートル、10数メートルの短距離であれば、解体することなく移動ができますが、当時は移動のための工具や技術もなく、1メートルの移動でも一度解体して再度組み建てなければならばかったのです。このため創建当初の位置で移動はないかったとかんがえられる。

 
       打割製材
 
       室町時代の大鋸

 10-2)東求堂の建築技術
 同仁斎の写真を見ると、現在の家屋の室内殆ど変わりません。これは建築技術うえで、飛躍的な発展があったと考えられる。建築初期の大まかな歴史は下記となります。
A. 飛鳥・奈良時代(中国建築様式)
 この時代は、外国特に中国建築技の導入期です。日本の古代建築は竪穴住宅と掘立柱住宅でした。いずれも土中に柱を埋め込む方法ですから柱が腐食し、20年程度で建て替えが必要です。中国建築様式では礎石式柱が用いられました。これにより柱の腐食亡くなりました。
B.平安。鎌倉時代(寝殿建築)
 中国は靴履きで椅子の生活様式でしたから下は土間でしたが。寝殿建築では床がつき、床座生活は可能となったのです。しかし、室内は障子や襖の他建具はなく、屏風、衝立等で仕切り建具の代用をしていたのです。
C.室町時代以降(書院造り)
 障子、襖等の建具が出来、天井もはられ。現在に建築に類似してきます。工具が未発達のため薄板や障子の桟の様な細板の製材が出来なかったのです。
 室町時代になりようやく縦引き鋸のこと平鉋かんなができ、薄板や障子の桟にする 板の製造が可能になったのです。
 それでは縦切鋸のない時代の製材法はどうであったか。それは数本の楔くさびを用いる打割(箭割やわり)製材法半分にわります。右面と左面が同じ時、まっすぐにひびがはいり。真っ二つに割れますが、微妙にどちらかに圧力に差があると、差に応じ斜めにひびが入り、ひび割れ通りに割れます。半円を半分に更に半分に割る場合、左右は相似形でなく、片方は厚板、片方は半球になり、これを真っ二つ割ることは非常に難しい。寝殿造の頃は縦切鋸も平鉋も無かったのです。
 厚さを揃えるのには平鉋か必要です。縦挽鋸と平鉋が中国から日本に伝わったのは室町時代に入ってからです。この時代になってようやく障子、襖が作れるようになり天井を張ることが出来るようになったのです。東求堂はそのはじめなのです。
 ここで工具(鋸)の歴史をのべます。
10-3)鋸の歴史
                      鋸の発展史・年表

 
  古墳時代
  法隆寺奉納鋸
 
 飛鳥・奈良時代
 木の葉鋸推定
 
  室町時代
 二人引大鋸組立

     室町時代同左大鋸 

  安土桃山時代・・かがり鋸 

    戸時代.前引き大鋸 
 
     江戸時代同左

・紀元前
 鋸は紀元前1,500年前後の古代エジプトの金属製の鋸や古代バビロニアの都市シュメール・ウルから、黒曜石で作った鋸が発見されたのをはじめ、南フランスからは旧石器時代の燧石ひうちいし製の鋸が発見され、ヨーロッパからはたくさんの石の鋸が出土している。
・縄文時代
 旧石器時代から縄文時代にかけて、刃のギザギザに欠けた石器や硬い魚の骨の突起の多い部分を、肉や植物を切るのに使われていました。
・弥生時代
 大陸から鉄の文化が伝わってきた弥生時代、石斧から鉄斧に移行。これにより石器はほとんど姿を消し、鉄製木工具が主流となる。
・古墳時代
 鋸の登場は4世紀頃の古墳時代前期といわれ、鋸の出土品も十数例を数える。鋸といっても木材切断用ではなく、装身具などの加工用、つまりヤスリみたいなものだった。日本国内の古墳出土の鋸のうち、型式としては5世紀の河内アリ山古墳出土のものが最古のものといわれる。法隆寺献納宝物の鋸
・飛鳥・奈良時代
 6世紀に入ると仏教伝来と共に、木工具は大きな飛躍を遂げる。中世の絵巻によく登場する木の葉鋸をはじめ、わが国の古代の鋸はすべて横挽鋸だった。室町時代の半ばまで縦挽鋸はなかったといわれています。それまでは、建築材としての柱や梁、桁あるいは板類などは箭割りやわりという楔を打ち込む技法で割っていた。
  木の葉鋸の推定形状
・室町時代
 室町時代中期に縦挽き用の鋸として大鋸おがが伝来。わが国での縦挽鋸の始まりは15世紀半ばから。
・安土桃山時代: 1573-1603
 桃山時代から江戸時代初期にかけては、城郭や城下町の発達により、建築需要が急増。製材に大きな技術革新をもたらした大鋸は、間もなく文献や絵画から姿を消し、変わりに一人挽きの縦挽鋸 「鑼かがり」 と 「前挽き大鋸」 が登場。
・江戸時代
 17世紀ごろから、鋸の用途別細分化が進み、今日の鋸のほとんどが出揃ったといわれている。

  前挽き大鋸(江戸時代)
明治時代、 江戸時代末期から明治時代にかけて、建築界にも西洋の技術が流れ込み、縦挽き、横挽きが兼用できる両刃鋸が考案され、明治後半から普及。
10-4)花道
 平安時代の典型的な美術は、絵巻物と障子絵だった。絵巻物は、普段は展示されず、収納されているところから取り出し、所有者がそれを両手で何か平らな表面の上に広げて見せるのだった。障子絵は部屋を仕切る建具、即ち襖。屏風、衝立などに描かれていたから、部屋の常設の装飾の一部をなしていた。この種のものはいつも見ることが出来る反面、季節の変化や」何かの特別な機会にあわせて簡単に替えることはできなかった。
 鎌倉時代中期から、たくさんの掛物が中国から輸入された。これらの掛物は。伝統的な日本建築の部屋に飾りにくかった。壁に掛けるにしても、その壁面の空間はあまりにせますぎた。かりに壁に空間があったとしても、掛物には絵と周囲の壁との間を仕切るヨーロッパの絵画の額縁の様なものがなくて、壁に対して剝き出しのように見えた。結局、掛物の下に机を置くことが習慣となり、机の上には香炉や花瓶、燭台しょくだいなどの美術品が飾られるようになった。これらの美術品は、絵が掛けられている空間の輪郭をはっきりさせるのに役立った。
 絵画や美術品が展示される部屋の内部にその場所を確保するにあたって次に取られた措置は、掛物をかかける壁の下に机を据え付けるような形で一種の棚を作ることだった。押板と呼ばれるこの棚は壁に掛けられた絵の空間のいわば基部をなすもので、同様に美術品を置く格好の場所でもあった。
 押し板は幅が2~6メートル、奥行きは約40㎝あった。浅い奥行に対して不釣り 合いに広い横幅は一般は、一般に三幅対の掛物を横に並べて飾る中国の一般の慣習に従うことから来たのだった。
 この押し板は東山時代になって初めて登場する「床の間」の前身をなすものだった。床の間は押し板とはかなり異なる構造をもち、また絵画や美術品を飾る空間の枠組みとしてさらに効果を発揮する垂直の柱が配されていた。これにはほっそりした樹幹がよく使われた。やがて床の間は、およそ客をもてなす日本のあらゆる部屋にかかせない要素となった。中国美術を数多く収蔵していた義政は、様々な収蔵品の美を客とともに楽しむために、折に触れて展示する絵や美術品を取り換えた。
 押板の上によく飾られた中国の陶磁器の中に、花瓶があった。日本人は確かに、かなり昔から花瓶に花を挿していた。すでに七世紀の奈良朝のころから人々は神仏に花を供えていて、その花は容器のようなものに入れていた。しかしながら当時の人々は、花を効果的に美しく挿すことが必要だとは考えなかったようである。重要なのは花を供えることであって、その供え方でなかった。
 平安時代、花の美は歌人たちによって言及された。しかし歌人たちが詠じたのは主に庭の花で、花瓶の花でなかった。鎌倉時代と室町時代初期には、中国から輸入された花瓶が陶磁器工芸の傑作として珍重された。しかし、これらの花瓶は必ず花を入れるために使われたのでなかった。かりに花瓶に花が入れられるとしても、美的効果を上げるということにはおかまいなく、唯無造作に刺し込まれた。
 花瓶の中の花が芸術の一形式になり得るということに最初に気付いたのは、足利義政であり、花道(華道)芸術を誕生させた。
 東山殿の部屋を飾ったのは絵と調和するように考えられた生け花だった。花の色と大きさは絵にそぐわないということのないよう慎重にえらばれた。
 文明8年(1476)2月2日、相国寺の僧亀泉集証が、薄紅梅一枝、深紅梅一枝、水仙数茎を献上した。義政は喜び立阿弥を召して花を立よと命じた。立阿弥の「立花」はたいそう見事な出来栄えであった。喜んだ義政は立阿弥に」酒を賜った。この時の成功が、立阿弥に初めて華道家としての名声をもたらしたという。
 立花様式を発明したのは、一般に立阿弥でなく池坊流の流祖といわれる池坊専慶いけのぼうせんけいとされている。花の形と色を美しく組み合わせるだけで満足しなかった専慶は、寛正3年(1462)、この独特な立花様式を創案した。専慶は自分の立花を、七本の「枝」のそれぞれに象徴される仏教的解釈によって説明した。立花に一つの規範を与えることで専慶は立花を「道」にまで高めた。
 花を美しく生ける日本人の非凡な能力は、真矢世界中で認められている。数多くの外国人が日本人の師匠の元で熱心にその技術を学び、稽古にうちこんでいる。
 義政が生け花に喜びをかんじたとしても、おそらくそれ以上に庭園に興味を抱いていた。義政は晩年を東山ですごすという結論をくだすと、その隠居地は自分の趣味に正確に一致して完璧殿ければならなかった。この決意が義政に自分の行く手を塞ぐ障害をすべて排除することを決意した。
 この土地を山荘の用地にすれば避難を巻き起こすことを承知の上で、義政があくまでここにこだわったのは、平地と近隣山々との組み合わせが築庭に理想的だったからである。
10-5)池坊 専慶いけのぼう せんけい(生没年不詳)
 池坊専慶は、室町時代中期の京都頂法寺(六角堂)池坊の僧侶。小野妹子の末裔とされる。
 室町幕府の将軍足利氏をはじめとする権力者の邸宅や寺院には、床の間の原形といわれる押板や違い棚などが設けられ、花瓶も飾られました。このような座敷飾りの方法は、将軍の身の回りの世話をする同朋衆によって整備されていき、仏に花・香・灯明をささげるための三具足(花瓶・香炉・燭台)も採り入れられ、真(本木)と下草からなる「立て花」が立てられました。
 そうした中、寛正3年(1462)、六角堂の僧侶・池坊専慶が武士に招かれて花を挿し、京都の人々の間で評判となったことが、東福寺の禅僧の日記「碧山日録」に記されています。座敷飾りの花や専慶の花は、仏前供花や神の依代といった従来の枠を超えるもので、ここに日本独自の文化「いけばな」が成立したということができます。
 池坊に伝わる「花王以来の花伝書」は、現存する最古の花伝書といわれ、専慶より少し後のいけばなの姿を示しています。そこには、立て花に加えて掛花や釣花など、様々な花が描かれており、いけばなが人々の生活に浸透していた様子を知ることができます。 奥書には文明18年(1486)から明応8年(1499)までの相伝由来が記されています
10-6)茶の湯の誕生
 庭園と生け花、他の芸術に対する義政の優れた批判眼もまた、個々の芸術の保護育成の双方にやくだった。これらの芸術のなかで茶の湯ほどよく知られているものはない。恐らくこれはあらゆる伝統芸術の中でも最も日本的なものである。日本人は義政の時代以前にも、よく茶を飲んだ。しかし義政が親しい仲間と茶を飲み、自ら茶をたてた四畳半の座敷は当時のみならず後世に至るまで多くの日本人が見習うべき手本となった。義政は、単なる優雅な気晴らしに過ぎなかったものに将軍家の御墨付を与え、儀式化された茶道へと発展させる道をひらいた。それが、ついに偉大な千利休の「侘茶」となって大成した。
 「茶湯」という用語はすでに奈良興福寺の僧の日記「経覚私要抄」の文明元年(14695月の項に見ることができる。茶道創り出した功績は能阿弥に帰されることが多い。能阿弥は第一に中国絵画の専門家で、また(宗祇そうぎの弟子の「七賢」の一人として)練達な連歌氏でもあり、絵師であり、書家であり、香の調合の名手でもあった。これらの腕前に加えて、能阿弥は恐らく専門の鑑定家として欠くことのできない中国美術の個人収蔵品をもっていた。
 千利休の茶の高弟である山上宗二やまのうそうじ154490)に利休の茶道を伝える最も信憑性の高い史料とされる「山上宗二記」がある。その中で宗二は、能阿弥が最初に義政に茶の湯の興味を抱かせた時の事を次のように語っている。
 能阿弥は、三十年間にわたって茶の湯に打ち込んできた奈良称名寺に住む村田珠光じゅこう14231502)のことを義政にはなした。珠光は、孔子の道も学んでいた。能阿弥はさらに、茶の湯の秘伝を含めて自分が珠光から学んだことをすべて義政に言上した。勿論、小壺、大壺、花入、香炉,香合、絵、墨蹟など古美術に対する義政の好みは見事なものだったが、これらすべてを組み合わせた茶の湯に勝るものではなかった。さらに、禅僧の墨蹟は特に茶の湯で重要だった。珠光は一休から圜悟えんご禅師の墨蹟を得て、仏法もまた茶の中にある証拠としてこれを自分の茶の湯を高めるためにつかった。能阿弥の推挙に義政は珠光を召し出し、自分の茶の湯の師匠と定めたという。
11)観音殿(銀閣)

 
    観音堂(銀閣)北東側

     観音堂(銀閣)南西側
 
     観音堂(銀閣)東正面

    観音堂(銀閣)屋根

室町期以後、禅宗の隆盛とともに大陸風の楼閣寺院が出現する。重層建築は意匠として重要であったほか、眺望が利く高層部は天下を睥睨へいげい(にらみつける)する意図も併せ持っていた。

 銀閣は金閣と共に中世のいわゆる楼閣建築或いは庭園建築として貴重な遺構である。しかも金閣は炎上したあと、昭和の復興であり、銀閣こそ中世の建築そのものであり、一層大切なものである。通称銀閣寺といわれるこの寺は、言うまでもなく足利義政が営んだ東山山麓の東山殿で、義満の北山殿と並ぶものであった。当初は会所や常御殿を中心に観音殿・東求堂などが建てられ、池をもつ広大な庭園が造られていた。しかし、中心的建築である会所や常御殿はすでになく、今は池に当面する銀閣及び南面する東求堂と庭園くらいが昔の姿を伝えている。
 中世ちゅうせいは、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す(一般に5世紀から15世紀) 日本の中世とは、院政期から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半までの期間を指す日本史における時代区分である。 おおまかには、鎌倉時代と室町時代をさす。しかし、建築史の中では鎌倉時代と室町時代の間に大きな落差がある。これには工具の違いが関わってくる。
 室町時代の初めに中国から縦挽鋸たてびきのこと鉋かんなが伝わり、各種板材や桟(縦横の各種木材)の製材が可能となり、壁た建具の製造か可能となたうた。これによr、建築様式が、寝殿様式から書院様式の進展かのうおなったのである。寝殿建築の室内は柱だけで、壁も建具もなく。移動可能な屏風、衝立、几帳等で壁や建具の代用をしていたのです。
 銀閣は、中世、特に室町時代の遺構を伝える重要な建築物であり国宝です。
 楼閣ろうかく建築とはなにか、重層の建築物をいう。たかどの、高楼のこと。塔と類義であるが、塔は本来仏塔を指し、tower の訳語としての塔は近代に入っての用法である。それ以前の高層建築は一般に楼閣、高楼という呼称が用いられていた。
 日本における楼閣建築の始まりは弥生時代の望楼(見張り台)に求められる。しかし一般的には重層の建築物はほとんど利用されず、外見上重層である仏塔も一階のみに部屋を設け二階以上は屋根だけをかける場合が多かった。貴族の邸宅に見られる寝殿造、書院造も平屋建てを前提とした様式であった。
室町期以後、禅宗の隆盛とともに大陸風の楼閣寺院が出現する。重層建築は意匠として重要であったほか、眺望が利く高層部は天下を睥睨へいげい(にらみつける)する意図も併せ持っていた。


        銀閣寺初層内陣
 
       地蔵菩薩と千体地蔵菩薩
 
            潮音閣内陣
 
     観音菩薩坐像

 一方、16世紀後半に、軍事的必要性および戦国大名の一円支配強化から、望楼を起源とする「天守」(天守閣)が現れ、城郭建築の象徴として一世を風靡することとなる。他方、寺院における楼閣建築も日本独自の発展を見せ、その例として京の金閣、銀閣、西本願寺の飛雲閣など優れた木造楼閣が現れることとなる。
 慈照寺が一般に銀閣寺の名で知られるように、銀閣はこの寺の代表であり、また東山そのものの象徴的存在として広く国民の間に認識されている。東山文化と言えば銀閣、銀閣と言えば東山文化というわけである。この認識が北山文化との関係に対応していることはいうまでもない。
 その銀閣の名は、後年、江戸時代に発生し普及したものである。正式の名称は観音殿、二階建てである。銀閣は東及び西面8.24メートル、南面5.39メートル、北面6.96メートルの北に出っ張りをもつ矩形平面、二重、宝形造ほうぎょうずくり、杮葺こけらぶきの楼閣建築で、長享3年(1489)に建設または移設された。金閣に対して銀閣と並び称されるが、銀箔を置いた後は認められない。しかしながら、現存遺構からいえばこの後に現れる外観三重の本願寺飛雲閣に連なる門として重要な意味をもっている。

 

 一階は東向きで「心空殿」と言い、内部は六畳敷の座敷、広縁を伴った二間四方の室(板敷)の仏間でからなっており、全体に座禅の道場として構成されたものとみられ、あわせて書院造の特色をよくしめしているてんも注目されている。仏間には、創建当初の物と思われる室町時代製作の小振りの地蔵菩薩坐像と、その周囲を小さな立像の千体地蔵仏が安置されている。
 二階は禅宗様(ただし高欄は和様の組高欄)とされ、「潮音閣」という。柱はすべて方柱で比較的細く、東の正面に園を設け、南半分の四畳ほどの鏡天井で広縁のように扱って二方(東と南)は障子や壁などのない吹きっぱなし、その北は六畳大で正面は腰高障子こしだかしょうじ(「腰」とは障子の場合下の板の入ったところ。この高いのが腰高障子)を立てている。広縁の後ろが最大の部屋で拭板敷ぬぐいいたじき(鉋仕上げの板間)、ここも腰板障子をたてている。天井は格縁ごうぶちを二本ずつ集めた吹き寄せ格天井である。六畳の奥は拭板敷きで、ここから会場に上がれる。このように一階はすべて住宅風に扱い、細い柱に長押なげし(柱を水平方向につなぐもの)、障子または板戸・舞良戸まらいどに白壁、柱頭の組物は舟肘木ふなひじきである。舟肘木は唯一の和風組物で、和風建築の特徴でもある。
 板敷きの仏間には、創建当初のものと思われる室町時代製作の小振りの地蔵菩薩坐像とその周りを更に小さな立像の千体地蔵仏が安置されている。
・拭板敷ぬぐいいたじき 昔、板敷には、手斧チョンナ仕上げの板敷と手斧仕上げの後槍鉋で表面を平滑に仕上げたものを拭板敷と呼んだ。現在では鉋仕上げが標準であり拭板敷となっている。座敷の板間は拭板敷であったことより、過去に拭板敷きであった場所の板の間を拭い板敷きとよんでいる。
・舞良戸 書院造りの建具の一つ。框かまち(縁材)の間に板を張り、その表裏に桟さん(舞良子)を横あるいは縦に間隔狭く取りつけた引違い戸。
 二階は潮音閣ちょうおんかくと称し、ほとんど禅宗様でまとめられている。東正面に三南は両脇の間に花頭窓かとうまど、中の間に桟唐戸さんからちとの戸口としている。三つ並んだ花頭窓の上の張り出した部分の上には如意の頭を並べたような「如意頭飾り」があり、禅宗様要素が多いと言うものの、内部天井は和様に属する格天井ごうてんじょうであり、縁まわりの高欄も和様である。これは金閣寺三階が禅宗様に統一されているのと違ったてんである。なお軒は一階が疎垂木木舞裏まばらてんじょうこまいうら(屋根裏)の住宅風であるのに対し、二階は同じく粗く配った疎垂木ではあるが、地垂木の先に繰型くりかたと渦を彫ったのは金閣と同じく、組物も禅宗様三斗みつとである。

一階の屋根は四方に回り、上部に高欄こうらんつきの縁をつける。二階の屋根は檜皮葺ひわだぶきの宝形造ほうぎょうづくりで屋頂に露盤ろばんを据え鳳凰を上に飾る。

 内部は16畳ほどの板敷禅宗様仏間になっており、板の間の東西に各一列の腰掛が」不随している。中央西より、東向きに須弥壇が置かれて観音像が置かれている。観音菩薩坐像は室町時代製作になる当初からのものであるが、台座や光背の背後の木造洞窟には銀閣の修理の際に取り換えられた古材が用いられている。

 

11-1)銀閣は新築か移築か 銀閣寺は、二階建ての楼閣建築で観音像を安置していることから、歴代将軍邸にあった観音殿の形を伝えるものと言われていたが、銀閣では、観音像と建物が整合していない。二階に安置される須弥壇と観音像は、現在、池のある東を向いているが、二階は、南正面と北に扉口があり、建築的には南が正面であり、もとは南向きに安置されていたと思われる。それにしても、東西に張り出している畳床(座禅の床ではなく)腰掛であり、観音殿に相応しくない、以上により。
① 観音殿(銀閣)の建物は他所にあった世俗的な庭園建築を移築したとみられる。
② 観音殿として再開の際、1階だけを、池のある東に正面が向くように90度回転し、それにともない構造・間取りを変更し、種々改造した。
  前身の想像復元図はいかのようになる。
① 屋根は世俗の建築として入母屋造であったとおもわれる。
② 現在、二階全体は唐様で統一されているのに、高欄だけは和様の跳高欄はねこうらんが四方に巡っています。
 高欄は、下から地覆じふく,平桁ひらげた,架木ほこぎの三本の横材が斗束ますづかに支えられ,斗束の間に平桁を支える栭束(たたらづか)がある。隅や端の納まりによって,親柱をたて上に擬宝珠(ぎぼし)をおく〈擬宝珠高欄〉,親柱を使わず架木先端を長く,平桁と地覆先端をわずかに出す〈組高欄〉,架木先端をそらせる〈刎(はね)高欄〉などがある。階段には登り高欄を用い,昇り口には袖高欄をつける。…

 
        跳高欄
 
  
      擬宝珠高欄     

③ 復元して間取りが変わるものは一階東北部。
 六畳の奥、いま押入れの部分が廊下になる。その北側は二室に分かれ、西の室は棚が復元され大目畳二畳の広さになるから棚は茶湯棚、室は茶湯間と考えられる。
 ではどこにあった建物を移築したのであろうか。二階は、西芳寺舎利殿を模した金閣三階と共通部分が多いととが注目される。違いは金閣の四方対称に対し、銀閣前身建物は正面性がつよいことである。それらの条件に。かなうものとして高倉殿の庭内に南面して立っていた東亭・西亭・中亭の三亭のうち中亭があげられる。選ばれた中亭の額名「攬秀らんしゅう」は、勝景を「まとめてうえから見下ろす」という意味に解釈できようから、二階閣」であったと考えられる。義政が死の床で立てた観音殿はこの攬秀亭を移築したものと推定される。
 高倉殿は、現在の京都府京都市中京区にあった邸宅。三条殿・三条高倉殿とも呼ばれ、室町幕府の足利将軍家の邸宅として用いられた。
 幼少にして8代将軍になった足利義政は、当時母方の一族である烏丸資任の邸宅で育てられていたが、資任の邸宅をそのまま烏丸殿と称して居住し、室町殿・三条坊門殿のどちらにも入らなかった。室町殿は早世した7代将軍足利義勝(義政の兄)が死去した場所であったことから、義政の御所を室町殿ではなく三条坊門殿に移すことになったが、諸大名の反対により室町殿に変更された。これは、尊氏以来、守護や幕臣たちは将軍の居宅の周囲に住むことが求められ、将軍が居宅を変えると彼らも屋敷を移転させていたが、ここにおいて、守護達は下京にある三条坊門殿よりも烏丸殿と同じ上京にあり自分達の屋敷を移転させる必要性の無い室町殿を望んだことによる。また成長した義政も父・義教に倣って室町殿に住むことを希望したことによって守護達の考えを結果的に追認した。その結果、義政は室町殿・東山殿へと移り住み、三条坊門殿は用いられることなく。
 当時西芳寺は、女人禁制であったため、母は西芳寺の庭園を見ることができなかった。そこで義政は母・日野重子のために高倉殿に西芳寺の庭に似た庭園を作庭したという。そして母・重子死去後は、この庭園はあれはてていたと思われる。外山英策氏が、「此のごとく先ず観音殿の第一重,第二重の名が定まり,然して後に仏が造られ、建物が出来るという奇観を呈した」と記された(「室町時代庭園史」)ようにその造営過程は不自然であった。氏は、その原因になふれられていなかったが、観音殿が旧建物の移築だったためであった。観音像の岩洞も、金閣と建仁寺のものを取り寄せており、何れかを使用したとみられる。義政は観音懴法を禅僧に行わせる計画であったが、実施前に死去した。

 
   銀閣寺鳳凰

   擬宝珠 
 

   金閣寺鳳凰
 

    中国鳳凰

11-2)屋根の鳳凰は初からあったか
 現在、観音殿(銀閣)の屋根は杮葺きで、二階屋根は宝形造ほうぎょずくりで銅の鳳凰が上がっている。だが「山州名跡志」には「宝形造瓦葺、棟上瓦擬宝珠ぎぼし」とあり「都名所図会」(安永9年【1780】刊)にも宝珠が描かれている。それがその後の絵図(慈照寺蔵、寛政4年【1792】以前)になると鳳凰に変わる。これは金閣の銅製鳳凰に倣ったとみられる。
 当初は、華奢な構造からみて瓦葺であったはずはなく、おそらく建設当初の金閣のように杮葺きか桧皮葺。宝形造、擬宝珠を載せていたものとおもわれる(「室町政権の首府構想と京都」)。としている。 「山州名跡志さんしゅうめいせきし」は江戸時代白慧はくえが記した京都地誌で、正徳元(1711)年に刊行された22巻にも及ぶ詳しい書です。元禄年間に実地踏査を行い、神社・仏閣・名所旧跡の由来、縁起等を記したものです。当時の現状と古書の記載との相違を考証した結果が、随所に取り入れられている山城国研究の基本書と言えるものです。
 著者の白慧は、坂内直頼の僧名で山雲子とも号し、「山城四季物語」等、幅広い分野の著作を残しています。 書の中で擬宝珠とあるのは、宝珠の間違いと思われる。義政が観音殿を移築及び改築した際、もし義政が鳳凰を採用していたら、後の者が勝手に鳳凰から宝珠に変えることは考えがたい。観音殿の建設は死期が迫ってきた末期の建設であり、時間のかかる鳳凰の鋳造を避け、既成の宝珠を採用した可能性は高いと考えられ、「室町政権の首府構想」の説は正しいと思われる。
 しかし、現在の観音殿の構造は華奢であり、瓦は不適であり、初期の観音殿屋根は杮葺きか桧皮葺であったとする説には疑問がある。瓦と杮葺きか桧皮葺では重量が異なり、下材がことなる。しかし、瓦葺から杮葺きか桧皮葺、杮葺きか桧皮葺から瓦葺の変更例はいくつもあり、初期の観音殿の屋根は現在と同じ杮葺きか桧皮葺であったと断定できないと思う。
 鳳凰ほうおうは、中国神話の伝説の鳥、霊鳥である。鳳皇とも言う。日本を含む東アジア広域にわたって、装飾やシンボル、物語・説話・説教などで登場する。
◎形態
 紀元前2世紀頃前漢の時代に成立されたという中国最古の類語辞典『爾雅じが17章によれば、頭は鶏、頷あごは燕、頸くびは蛇、背は亀、尾は魚で、色は黒・白・赤・青・黄の五色で、高さは六尺(180㎝)程とされる。『山海経』「南山経」では鶏に似ており、頸には「徳」、翼に「義」、背に「礼」、胸に「仁」、腹に「信」の紋があるとされた。後漢の字典『説文解字せつもんかいじ』(最古の部首別漢字字典)では、前は鴻ひしくい、後は麟きりん、頸は蛇、尾は魚、顙ひたいは鸛こうのとり、腮えら・あごのしたは鴛おしどり、紋様は龍、背は虎、頷は燕、喙は鶏と記された。南朝の時代に成立した『宋書』巻二十八志第十八では、頭は蛇、頷は燕、背は亀、腹は鼈すっぽん、頸は鶴、喙くちばしは鶏、前部は鴻、尾は魚に似ており、頭は青(緑)、翼を並べるとされる。
◎日中の相違 後世、中国と日本ではそのデザインに変化が生じた。
 現代の中国では一般に、背丈が12-25尺(3.67.5m)の大きさがあり、容姿は頭が金鶏きんけい、嘴は鸚鵡オウム、頸は龍、胴体の前部が鴛鴦おしどり、後部が麒麟、足は鶴、翼は燕、尾は孔雀とされる。
 これに対し日本では一般に、背丈が4-5尺(1.21.5m)ほどに小さくなり、その容姿は頭と嘴が鶏、頸は蛇、胴体の前部が麟、後部が鹿、背は亀、頷は燕、尾は魚であるとされる。しかし、中国も日本も鳳凰を五色絢爛な色彩に設定し、羽には孔雀に似て五色の紋があり、声は五音を発するとされる。
◎その他の特質
 春秋時代の『詩経』『春秋左氏伝』『論語』などでは「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされ、『礼記』では麒麟・霊亀・応竜とともに「四霊」と総称されている。
 鳳凰は、霊泉(醴泉れいせん(甘い泉の水)だけを飲み、60-120年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐ごとう(青桐あおぎり)の木にしか止まらないとい。『本草綱目』によれば、羽ある生物の王であるとされる。
 鳳凰の卵は不老長寿の霊薬であるとされるとともに、中国の西方にあるという沃民国よくみんこくやその南にある孟鳥国もうちょうこくにも棲むといわれ、その沃民国の野原一面に鳳凰の卵があると伝えられる。また仙人たち(八仙など)が住むとされる伝説上の山崑崙山に鳳凰は棲んでいるともいわれる。
11-3)銀閣に銀箔が貼られたか

 
     残存白土
 
      亀甲紋
          条帯紋
 
    黒漆仕上げ

     白土仕上げ 
 
     文様仕上げ
 
    現在の銀閣
      銀箔貼3D
     白土明礬3D 

2007年秋に始まった100年ぶりの銀閣修復工事で、次の2つのことが発見されました。
❶ 2階の屋根の下の梁には、文様があった。

❷ 2階の壁面には白土とミョウバンが塗られていた。
 ❶の紋様は、「亀甲紋」と「条帯紋」です。真っ白な白土のカンバスの上に、ミドリや赤の色鮮やかな、亀の甲羅を模した文様(亀甲紋)や帯状の紋様(条帯紋)が描かれたとおもわれます。現代時の感覚に合わないかもしれません。しかし平安時代に建設された平等院のデザインはこのような感じのものでした。平安時代にはこのようなデザインは好まれたのかしれません。それを表したのが下記の絵図です。
❷ 白土を分析した研究所(東京芸術大学狩俣公介助教授)の一つが、予想外のものを検出しました。それは大量のミョウバン。ミョウバンは古来、絵の具の上に塗って、にじみ止めとして使われてきました。しかし、今回発見されたミョウバンは、通常の量をはるかに上回りました。往時の銀閣は何と二層の壁一面に、黒漆の下地、そしてガラス質の「白土」に「ミョウバン」を混ぜた白土が塗られていたのです。
 ミョウバン(明礬)とは、1価の陽イオンの硫酸塩 と3価の金属イオンの硫酸塩 の複塩の総称である。 溶解度は温度によって大きく変わる。水に高温でより多く溶ける。水溶液は弱酸性である。媒染剤や防水剤、消火剤、皮なめし剤、沈殿剤などの用途があり、古代ローマ時代から使われてきた。上質の井戸がない場合、質の悪い水にミョウバンを入れて不純物を沈殿させて飲用に使うこともあった。また、腋の制汗・防臭剤としても使用されていた。天然のミョウバンは白礬はくばんとも呼ばれ、その収斂作用、殺菌作用から、洗眼、含嗽に用いられることがあった。
 食品加工や料理の用途としては、根菜や芋類・栗のアク抜きの他、甘露煮などを作る際に、細胞壁と結合して不溶化することで煮崩れを防ぎの料理にも使用され用途の広い薬品です。
 狩俣公介助教授は、これは 「ミョウバンを使って、銀箔を代用したのではない」、と考えられましたのです。そこで次の試みがなされました。銀閣の壁面に漆ウルシが塗られていたことはわかっているので、漆の上に白土を塗ります。その上に、ミョウバンを塗ってみたのです。
 「白土というのは、非常に伸びがよくて、立体物に彩色さいしきするには都合がいのです。ミョウバンを粉になるまですり潰つぶします。すり潰したミョウバンを、お湯で溶いて、白土の上に塗り重ねていきました。できあがったものに光を当てると・・・・・白土だけ(左)と比較すると、違いは歴然です。ガラス質を含むミョウバンが、白土の上で煌きらめいています。
 あるグループがこれを3Dで表現しました。3Dは。次元コンピュータグラフィックス(三次元コンピュータグラフィックス、: three-dimensional computer graphics)の略称で、コンピュータの演算によって3次元空間内の仮想的な立体物を2次元で ある平面上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある画像を作る手法である。
 現在の実写真と3Dの写真では大きな差があるが、これは技術上の差が大きく、実際にはこれだけ大きな差はないのでなかろうか。問題は②銀箔3Dと③白土明礬の差であるが、3Dの写真では似た感じであるが実際はどうであったか。一回の施行で終わり現在に伝わらなかったのは不評であったと考えられる。
11-4)月待山 つきまちやま
 「わが庵(いお)は月待山のふもとにて かたむく月のかげをしぞ思ふ」    足利義政
東山三十六峰の第十峰にあたる月待山は、如意ヶ嶽(第十一峰、通称大文字山)北側の山裾にある、標高194メートルの小さな山である。別名銀閣寺山とも呼ばれます。
 庭園から近い月待山の稜線越しに、中秋の名月の姿を見ることができる。銀閣寺を造った足利義政は月待山を眺めながら月を待ちわび、こう詠んだ。
 毎年秋、中秋の明月の夜、銀閣寺では義政をしのぶ月の宴が催される。茶を喫し親しい人々と月を愛でる。義政は月をこよなく愛したと伝えられている。
 銀閣を月との関係で考えてきた研究者がいる。大森正夫教授(京都嵯峨芸術大学建築意匠学)、これまで京都の数々の寺院で調査を行い、建物にこめられた意味を読み解いてきた。大森さんが銀閣で注目したのは建物が向いている方向。銀閣は東を向いて建てられている。その先には義政が月待山と名付けた山がある。
 大森さんは義政の時代どのように月が見えたかを計算した。年月日をいれると月や星の軌道がたちどころに分かるソフト、銀閣から見た地形データと合わせ、山のどこから月がでたかを調べたところ、驚くべき事実が明らかになった。月は地球の軌道との関係で同じ日であっても毎年で場所が違う。銀閣が作られていた1489年の月の出は、まさに銀閣が向いている方向とぴったり一致した。

 
       銀閣寺境内図
 
        月待山

①銀閣寺境内図 
 境内図及び右写真の一番高い山が大文字山と呼ばれる如意ケ嶽、二番目の高い山が別名銀閣寺山、義政が月待山と称する山です。境内図では錦鏡池の真東に月待山があります。 旧暦9月15日の名月の夜、月待山の背から満月が現れ、真直ぐ池の上を通るというのです。




         B.庭園(国の特別史跡・特別名勝)
 足利義政は、銀閣寺の庭園を作庭するにたり、西芳寺に模して作庭したと言われています。そのため、義政は、自ら西芳寺に出向きその意匠の擬らされた西芳寺庭園を学び研究したようです。このことが歴史的書物「蔭涼軒日録」に詳しく記載されており、義政自ら石や樹木まで運んだとされています。
 銀閣寺の庭園は月待山麓に広がる約2万㎡の広大な池泉回遊式庭園で、足利義政自ら作庭家の善阿弥と相阿弥に作庭を指示しとしたと伝えられていますが、室町末期、15代足利義昭と三好長慶との戦いで焼失し、江戸時初期宮城豊盛が普請奉行を務めて復興させたものである。
 現在ある建物や庭園は東山文化特有の「わび」「さび」を取り入れた質素なものとなっていますが、銀沙灘や向月台がある庭園は日本文化の粋を極めた見事な光景となっています。
◎相阿弥そうあみ(?~1525年)は室町時代の絵師、鑑定家、連歌師。姓は中尾、名は真相しんそう)、号は松雪斎・鑑岳。父は芸阿弥、祖父は能阿弥。
 祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、唐物奉行も務めた。阿弥派の絵画の大成、書院飾りの完成、書画の管理・鑑定、造園、香、連歌、茶道など多方面で活躍した。狩野正信に対して画題・画本の選択や画事の相談を行なったりもしている。更に正信の子・狩野元信は、墨の調子を相阿弥に学ぶべきだと忠告されたとの話もある。
○画家としては三条西実隆『実隆公記』等にその活躍が記され、「国工相阿」と称されている。また『翰林葫蘆集』には相阿弥の描いた書斎図に題して、「国工相阿に絵んこを請い、且つ又予に就て賛詞を求む」とある。一般に五山文学において、絵師に画を求める時の常套的な表現は「工に命じて」描かせるというもので、絵師の名さえ記されないのが通例である。それに比べ、ここでの「我が国の名画工相阿弥に頼んで描いて貰った」という表現は、非常に丁寧であり、相阿弥の画技は一般の職業画工より高いランクが与えられていたことがわかる
○鑑定家としての側面を見ると、『蔭涼軒日録』には相阿弥が唐物の値付けをしている記述が頻出する。応仁の乱以降、足利将軍家の財政難に絵画の名作集である「東山御ひがしやまぎょもつ」売りに出し、堺の豪商や町衆たちの手に渡るといった流行が起きた。「東山御物」は主として中国人画家筆の中国画で相阿が弥秀作であると鑑定した作品のみを集た作品集である。

 
                錦鏡池東より西・観音殿を望む(ビューポイント)
 
             錦鏡池南より北・東求堂えを望む

*『蔭涼軒日録』いんりょうけんにちろく 
 蔭涼軒日録は、京都相国寺塔頭鹿苑院 ろくおんいん内の蔭涼軒主3人の日記。 61冊。季瓊真蘂 きけいしんずい ,益之宗箴 えきしそうしん,亀泉集証きせんしゅうしょう3代にわたる公用日記61冊。季瓊の永享7 (1435) ~文正1 (66) 年と,亀泉の文明 16 (84) ~明応2 (93) 年の 40年間に及ぶものが残ったが,関東大震災で焼失。室町時代初期,禅宗の寺院,禅僧の人事権は最初鹿苑院主にあったが,季瓊が室町幕府9代将軍足利義教の保護を受けて以来,蔭涼軒主に移った。当時の禅宗の制度,文物,室町幕府の政情や武家社会の動静などを知るうえに不可欠の史料である。
〇作庭家として
 ①庭園青蓮院築山泉水庭
 ②龍安寺方丈庭園(諸説あり)
 ③慈照寺庭園
 ④長楽寺庭園
 ⓹願泉寺庭園
◎作庭記庭園
 銀閣寺庭園は相阿弥が作庭記の手法に基好き作庭されたと察れています。それでは、作庭記手法とはなにか、作庭記庭園とは何かについて概略を記します。
 作庭記さくていきとは平安時代に書かれた日本最古の庭園書である。『作庭記』の名称は江戸時代中期に塙保己一の編纂した『群書類従』に収められて流布したもので、それ以前は『前栽秘抄』と呼ばれた。まとまった作庭書としては世界最古のものと言われる。
 作庭記』は寝殿造の庭園に関することが書かれており、その内容は意匠と施工法であるが図は全く無く、すべて文章である。編者や編纂時期については諸説あるが、橘俊綱であるとする説が定説となっており、11世紀後半に成立したものと見られている。

 庭記の内容

 『作庭記』の構成は「石を立てん事、まづ大旨をこころうべき也」「石を立つるには様々あるべし」「嶋姿の様々をいふ事」「滝を立つる次第」「遣水の事」「立石口伝」「禁忌といふは」「樹の事」「泉の事」「雑部」の各章から成る。 「石を立てん事……』の冒頭部分では、以下のように作庭に当たっての3つの基本理念が示されている。これらの理念は、今日の作庭にもそのまま当てはめることができる先進性と普遍性がある。
  1.立地を考慮しながら、山や海などの自然景観を思い起こし、参考にする
  2.過去の優れた作例を模範としながら、家主の意趣を配慮しつつ、自らのデザイン感覚で仕上げる
  3.国々の景勝地を思い起こし、優れた部分を吸収し、必要に応じて作品に当てはめる『作庭記』には陰陽五行説・四神思想に基づいた禁忌や、風水の方法が示されいるなど、庭園造りに当時からその影響が見られる。 一方で、植物の性質に沿った植栽や、池の造成法など合理的な技術論も数多く記述されている。
『作庭記』は「枯山水」という語の初出文献である。ただし、『作庭記』の枯山水は池を中心に設計される寝殿造庭園の中で、水手から離れた場所に作られる石組みを指す局部的手法のことであり、室町時代に流行し、今日理解される枯山水様式とは異なる。
庭園の改修
 その後,足利将軍家の衰退とともに寺運は衰えていきますが,それに追い打ちをかけたのが,天文19(1550)11月,三好長慶みよしながよしと十三代将軍足利義輝あしかがよしてるとが当地附近で戦った天文の兵火大部分の建物が焼失しました。

 江戸時代に入ると,銀閣寺は徳川家康より35石の寺領を与えられ,方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い,荒廃していた庭園の修築にもつとめました。現在の庭園も,大半がこのときに修築されたものです。

 また明治時代には,廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受けて一時逼迫しましたが,住持の努力によって東求堂・方丈・観音殿などを修理しました。また東求堂の北側に義政時代の遺構弄清亭(ろうせいてい)を再興し,さらに庭園にも手を加えて,見事に復興をとげました。
 現在の庭園は、ほとんどが江戸時代に改修され、義政時代に作庭した初期の庭園はごく一部しか残っていないと言われています。

  
      北斗石と分界橋
 
  �       浮き石

(1) 北斗石と分界橋
 銀閣寺庭園は錦鏡池きんきょうちが中心の庭園です。錦鏡池は瓢箪がくびれた形をしていて、その右側(西側)は、観音殿(銀閣)に東面しています。錦鏡池の西端は観音殿に突き当たると右側(北側)にこぶのように吹きでいます。その首根っこに架かっているのが分界橋ぶんかいきょうです。
  この橋により大池と小池に分断されています。分界橋とは大界と小界に分断するという意味なのだろうか。分界橋は自然石2枚で構成された石橋である。錦鏡池には七つの橋がある「都名所図会みやこずえ」ではそれぞれに名前が記されています。
 『都名所図会』は墨摺すみずり六册本で名所図会本の先駆けとなったものである。本書は本文を京都の俳諧師秋里籬島あきさとりとうが著し、図版を大坂の絵師竹原春朝斎あきはしゅんようさいが描き、京都の書林吉野屋から安永九(1780)年に刊行された小池の中央あたりに北斗石があります。錦鏡池には、座禅いし、大内石、浮石、北斗石の四の名石がありますがこれらの名石は、諸侯が寄進したものです。寄進は義政に限らず、信長も秀吉も、家康も行われ、末になるほど大型化したようです。秀吉の大阪城ではどうして運んだか想像を絶する巨石が遠路はるばる送られ寄進されています。
11) 九山八海石くざんはちかいせき 
 織田信長が永禄12年(1569)二条城建設に際し、慈照寺庭園から名石「九山八海石」を引き抜いて持ち去り、二条城の庭に据えたという。すなわち九山八海石があったのです。九山八海石とは何か。仏教の宇宙論です。須弥山と言う高い山があり、その周囲を月、太陽、地球及びたくさんの星が回っているのだと言うのです。その豆粒にょうに小さな地球の中に我々人間がいるのです。そしてこの須弥山は八つの海と九つの山に囲まれている。九山八海の概論です。
 キリスト教や回教で人間も地球も神の創作であると言っていますが、仏教では5世紀に現代に通用する宇宙論ができていたのです。アインシュタインを初めヨーロッパの知識人の多くが仏教の宇宙論を知りおどろきました。現在ヨーロッパには隠れ仏教徒が100万人いるという。
 分界橋の分界とは、九山八海の大宇宙界と須弥山の小宇宙香界両界を分ける橋かもしれません。
(2) 浮石
 浮石は分界橋の左(南側)、大池の西中央当たりにあります。月の出る一は毎日、毎年少しずつずれます。義政在住の時代満月は、義政が月待山と命名した、通称大文字山、東山三十六峰第十一峰如意ケ嶽の次に高い、東山三十六峰第十峰の背中から出現する、満月は子午線をえがきながら錦鏡池めがけて進んできます。そして錦鏡池上に近ずくと湖面に姿をうつします。そして月影は真直ぐ浮石に近づきついに浮石の上を通過するのです。当時に人は、月を直接見るよりも湖面に反射して映る月を好みました。
 銀閣と呼ばれる観音殿が錦鏡池に映るように設計し整備されている。錦鏡池に映る銀閣寺の光景は朝方が一番美しいといわれている。
 銀閣の対岸から見る錦鏡池に姿を映す銀閣の光景は境内随一のビュースポットとなっている。

 
         仙人洲
 
        迎仙橋
 
         龍背橋

        仙袖橋 

(3) 仙人洲せんにんす 
 仙人洲とは仙人の住む国のことである。仙人とは何か?仙人とは、中国本来の神々(仏教を除く)や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの。神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理する。仙人や神仙はいずれも自分の体内の陰と陽を完全調和して、道教の不滅の真理を悟った。彼等は道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる。基本的に仙人という言葉は男性を指すが、女性の仙人もかなりいるようです。
 錦鏡池は瓢箪形の池ですが龍背橋の辺りが一番細くこの当たりで90度に折れ曲がり西側と北側の二つのブロックに分かれます。西側の池のほぼ中央にあります。
 錦鏡池には二つに中の島がありますが、その大きな方の中の島が仙人洲です。護岸の少ない平安調のなだらかなしまです。
4)迎仙橋げいせんきょう 
 迎仙橋は仙人洲の北側に架かり、仙人洲に渡ることのできる唯一の橋です。錦鏡池にある七つの橋の一つで、西側から進んで、分界橋の次の2番目の橋になります。
 仙人でしか渡れないような細い天然石の一本橋です。
(5)龍背橋りゅうはいきょう 
 龍背橋はその錦鏡池を西北に二分する位置に架けられた石橋です。龍背橋は、銀閣寺七不思議の一つです。実は現在の慈照寺の庭園は足利義政が造った創建当初のものではなく、江戸時代に改修された庭園です。義政が最も愛した庭は、世界文化遺産にも登録されている「西芳寺さいほうじ通称・苔寺)の庭だと言われています。西芳寺には「西芳寺十境さいほうじじゅうきょうと呼ばれる、自然との繋がりを重んじた10の景観があります。十境とは天台摩訶止観まかしかんに由来する言葉で、空間を意味します。義政はその西芳寺十境を模して「東山殿十境」を造りました。その十境とは、東求堂・心空殿しんくうでん・超然亭ちょうねんてい・西指庵せいしあん・釣秋亭ちょうしゅうてい・弄清亭ろうせいてい・太玄関たげんせき・龍背橋りゅうはいきょう・夜泊船よどまりぶね・錦鏡池。このうち、現存しているのは東求堂・心空殿・龍背橋・弄清亭・錦鏡池の5つです。 龍背橋は分界橋から東に進んで三番目の橋になり、メインの観光通路になります。
(6)仙袖橋せんしゅうきょう 
 白鶴島には左右一つずつ二つの橋が架かっています。仙袖橋は白鶴島の架かる西の橋で、分界橋から東に進んで四番目の橋です。またこの庭では1,2を競うビューティー・ポイントとして知られています。白鶴島の中央に枝ぶりの良い松がすわり、額縁に入れたらよい絵になりそうです。


       白鶴島 
 
          仙桂橋
 
         濯錦橋
 
         臥雲橋

(7)白鶴島はっかくとう 
 白鶴島の読みは「はくつるしま」ではなく「はっかくとう」です。錦鏡池は「きんきょういけ」ではなく「きんきょうち」です。錦鏡池に架かる7の橋は、「分界橋ぶんかいきょう」、「迎仙橋げいせんきょう」、「龍背橋りゅうはいきょう」、「仙袖橋せんしゅうきょう」、「仙桂橋せんけいきょう」、「臥雲橋がうんきょう」「濯錦橋たっきんきょう」橋はきょうとよみ「はし」と読むはしは一つもありません。禅宗寺院では中国模倣が非常におおいようです。
 雪舟(14201502)が明時代、守護大名大内教弘の命令で2年間留学しましたが、その時中国には学ぶべきものは何もないといいました。もはや中国に学ぶべきものは何もないといったのは雪舟が初めかもしれません。
 写真は東求堂の反対側から見た写真です。東求堂側から白鶴島を見ると島の先に三尊石有鶴の首に見えるそうです。そして左右の橋は白鶴の羽にかわり、白鳥が今にも飛びたたんとしている姿に見えるそうです。
(8)仙桂橋せんかきょう 
 白鶴島の東側即ち、仙袖橋の反対側に架かる橋が仙桂橋です。この橋も隠れた見どころの一つになっています。錦鏡池に架かる七つの橋の内室町時代から伝わる唯一の橋がこの仙桂橋なのです。
 細くて長い橋、手摺のないはし、こんな橋を渡って大丈夫、現代人は主でしょう。しかし、当時の人はこれで十分だったのでしょう。旅の最高の喜びは新しい発見です。その場所(観光地)に行くかなければ見らないものを見。聞けないものを聞き、触れないものをさわる。それが最大の楽しさでなかろうか。
 「観光」の意味は下記のとおりです。
 [語誌]漢籍では、もともと国の威光を見る意で、国の文物や礼制を観察するという意味があった。日本でも中世以降ほぼ同様の意で用いられてきたが、現在のような単なる遊覧の意味で用いられるようになるのは、比較的新しく、明治期後半からである
(9)濯錦橋たっきんきょう 
 錦鏡池の北側の湖岸線は分界橋をスタートに東に進み迎仙橋を通り龍背橋で北側に約90度方向を変える。錦鏡池は中央でくびれた変形瓢箪型であるが、説明上くびれた西側の池をAの池、北側の池をBの池と命名する。
 龍背橋を通過したAの北岸線はBの西岸線となり仙袖橋を通る。仙袖橋を通過した西岸線はコの字を作りBの東岸線となり北上する。途中仙桂橋に出会い臥雲橋にたっする。
 一方龍背橋を観光通路は南下し丁字路にぶつかる。東に進むと臥雲橋に達する。反対の西方向・銀閣方向に進むと濯錦橋の方向に行く。
濯錦橋たっきんきょうは人工的な切り石で出来でいる。多分江戸時代の初期宮城丹波守豊盛の修復したものと思われます。濯錦橋は分界から東に進んで錦鏡池を一周し、最後に到着する橋ですが、反対に西に向かって湖岸を一周すると最初に出会う橋です。
10)臥雲橋がうんきょう 
 錦鏡池の源泉は洗月泉からきています。洗月泉の水は谷を通り錦鏡池に流入しますが。その谷に架かっているのが臥雲橋。この橋も、仙桂橋を除く六の橋は江戸時代初期宮城丹波守豊盛の復元改修によるものです。

 
                  銀沙灘
 
        向月台

11)銀沙灘と向月台
 慈照寺(銀閣寺)境内には銀沙灘と向月台と呼ばれる白川砂の砂盛りがあります。銀閣寺の東側の月待山に上る月を観賞するために作られたとか、月光を反射させて本堂を照らすためであるとかの説があります。銀沙灘の灘とは中国の西湖を表しているとされ、白川砂を波状に整形ひし、その奥には白砂を盛り上げたものが向月台です。向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものともいわれています。銀沙灘も向月台ま「月」に関係するもののようです。
 この銀沙灘と向月台は何時誰が作ったのであろうか。相国寺鹿苑院主(金閣寺の住職)の歴代の日記『鹿苑日録ろくおんにちろく』に記されているところでは、1615(元和元)年、銀閣寺は「梵宇一新、新奇景観」であったという。これは、銀沙灘と向月台のことをいっているように思われ、この時にできたものと推定できます。
 銀閣の隣にある向月台こうげつだい(円錐を切り落としたような形の砂盛)と銀沙灘ぎんしゃだん(波打つような砂の基壇)が初めて記録に登場するのは、1780(安永9)年の都名所図絵においてである。この時の向月台は平坦な渦巻き状の砂紋に過ぎなかった。1799(寛政11)年の都林泉名勝図絵では、わずかに隆起した向月台が見られる。さらに1864(元治元)年の花洛名勝図絵になると、現在のように円錐状の砂盛になっている。現在は銀沙灘では66cm、向月台は180cmくらいの高さとのことです。つまり、この不思議な造形は、「(ローマではないが)一日にしてならず」だったのだ!
 毎朝6時になると銀閣寺の庭園である、銀沙灘に職人たちが入り、丁寧に庭を耕してその模様を整えます。そして、銀閣寺の職人たちは雨や風によって、傷んでしまう庭園を1カ月に1回作り変えて、訪れる者を魅了しています。
 この銀沙灘と向月台は何時誰が作ったか不明ですが。ちまたにはいろいろな噂は流れています。
❶ 元和元年(1615)に銀閣寺再建の普請奉行を務めた宮城豊盛みやぎとよもりが本堂(方丈)を建立した時、銀閣前の池の砂をかき出して作ったのだという。
❷ 想像の話
 あの向月台は、正真正銘の砂の山である。お庭で使う白砂が余ってしまい、庭師の棟梁が、一時的な砂置き場として工夫を凝らして台円錐形の砂山にしました。棟梁なりに周辺の風景に合わせて造ったのが今の形。棟梁は、次の庭の修復の為にと思っていましたが、数日後、日本の美に造詣が深い人物が銀閣寺に現れ「これこそ、わびさびよ。銀閣寺にぴったりな砂山。うん。素晴らしい」と大絶賛。棟梁は、寺の住職からお礼と共にその話を聞き、壊す事が出来なくなってしまいました。棟梁は、この話を墓まで持っていこうと決め、生涯誰にもその真実は話しませんでした。
 ある日、住職は棟梁に、あれはどんな意味があるんじゃと聞いた。 棟梁はとっさに「台の上に座り月を見る。どこかの文献に書かれていた。とても有難い形なんじゃ」
「ほう、月を向かえる台じゃとな。ならば、向月台と名付けよう」棟梁は、益々 真実を墓まで持っていこうと心に固く決めるのでした。そして現代に至ります。
❸ 岡本太郎の話
 銀閣寺の庭の意匠は独特です。まっすぐに波うつ銀沙灘ぎんしゃだんと、円錐を半分で切り取ったような向月台こうげつだい。その幾何学的な文様は、古い京都の庭には他に見られません。現代画家の岡本太郎は、京都の庭の中で銀閣寺庭園がことのほかお気に入りだったと言います。
  
彼は、京都の庭園には失望させられるものが多かったが、銀沙灘や向月台は「私の発見したよろこびの、もっとも大きなものの一つだった」と述べています。
 そして、この庭園の解釈についてあまり論及されてこなかったことは、「日本庭園史の穴だ」と表現しています。いかにも岡本太郎らしい、独特の言葉です。 さらに岡本氏は、月の夜には、銀沙灘が湖となり、向月台の頂上が満月に比せられるのだという、独特の解釈を試みています。
  また銀沙灘や向月台は、義政の時代からのものではなく、江戸時代に作られ始めたと言われていますが、詳細は不明です。いつからどのように始まったのか、誰がどのような意味をこめて作ったのか。 謎に満ちている庭です。
❹ 銀沙灘と中国の西湖
 銀沙灘の灘は中国の西湖(世界遺産)を意味し、西湖の風景を阿波らしたものと意見がある。中国の西湖はどのような湖か。
  上海市から新幹線で1時間ほどの距離にある杭州市はんじょうしの西湖しーふーを模したともいわれる。庭園の発祥は中国であることから、日本庭園には西湖を模したものが作られることがある。例えば、小石川庭園(東京)の「西湖の堤」や、養翠園(和歌山)などが挙げられる。中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。20116月の第35回世界遺産委員会で世界遺産(文化遺産)として登録された。

 
     中国の西湖(世界遺産)
 
      西湖の夕焼け

 ・位置:杭州市西郊にあることから西湖と呼ばれている。
・水深:干潟であったことを示すように、西湖の水深は平均1.8m、最も深いところは約5mある。
・大きさ:南北3.3km、東西2.8km、外周15km、水域面積6.5平方km
・西湖にまつわる伝承は多い。
 中でも有名な伝承は中国四大美人の一人、西施せいし入水にまつわる物です。
 西施は楊貴妃ようきひ、王昭君おうしょうくん、貂蝉ちょうせんと共に中国古代四代美女の一人で。
 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施がいた。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江(西湖)に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。

 
        座禅石
           大内石

12)座禅石
 「都みやこ名所図会」では座禅石は池中にあり淡路島山の俤おもかげあるとしている。この座禅石は、池の中にあって瀬戸内海に浮淡路島をイメージしているようであう。各所のに座禅石はあるが座禅石の定義はない。鹿児島県には西郷輝彦と大久保利光が座禅したとされる座禅石があり、名所となっている。銀閣寺座禅石の正式名称は慈照寺(銀閣寺)夢窓疎石坐禅石となっている。

 日本庭園史の研究グループには、戦前(第二次世界大戦)より、文献派と様式派の2つのグループが存在する。文献派は文字通り、文献のみを基礎として。当時の事情を研究するほうしきである。これに対し、様式派の研究方式は、全国の主要な庭園を実測調査し、地割や石組を各時代別に区分して特徴や共通点を抽出し、またその時代を中心とする前後の庭園との関連性や変動を総合的に研究している。
 様式派の研究方針及び研究方法は完璧である。それに対し文献派の研究方針及び研究方法は旧来の古い方法を引き継ぎ研究方針及び研究方法は不完全で信頼性に乏しい。文献派は夢窓疎石は沢山の庭園を作庭したとしているが。様式派は夢窓疎石が作庭したと称する庭園をすべて調査したが、夢窓疎石が作庭した証拠のあるものは一か所もなかったとしょうしている。
 足利義政は西芳寺に20回前後足を運び研究した後、善阿弥孫の一族相阿弥に作庭を命じている。したがって夢窓疎石が銀閣寺庭園に関与する隙間はなかったと思われる。錦鏡池に夢窓疎石座禅石があるには、実作庭者ではなく名誉名とおもわれる
13)大内石
 大内氏の寄進した石で、瓢箪型池の北側の池にある。座禅石が白鶴島の北にあるのに対し大内石は白鶴島の南の居心地のいい場所に座っている。書により、寄進ではなく義政が奪ったのであるとしている者がいるがこれは間違いである。将軍は大将の大将であり部下を統括しなければならない。部下を統括するには部下の信頼がなければ統括できない。部下の物を奪う様では大将にはなれない。
 応永4年(1397年)、義政の祖父・義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満は大内討伐の計画をしたという。もしこれを実行していたら大内氏は没落していたかもしれないのです。
 大内氏は二度と同じ間違いをしないでしょう。義政の協力要請があれば喜んで協力したと思います。  錦鏡池には、北斗石、浮石、座禅石、大内石の4つの岩島がありますが、4つ含めて銀閣寺の七不思議に入っています。

 
       千代の槇(推定樹齢500年)
 
              コケ庭

        銀閣寺型手水鉢
 
              八幡宮

14)千代の槙(推定樹齢500年)
 銀閣寺(慈照寺)境内にある槙の植物分類は裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属のラカンマキ。スギ苔を生じる平庭の中程に植えられている。植物分類では、植物界・裸子植物・マツ綱・マツ目・マキ科マキ属イヌマキ(カランマキ)。北半球で進化し繁栄している針葉樹がマツ科(Pinaceae)であるのに対し、マキ科はナンヨウスギ科(Araucariaceae)とともに南半球を代表する針葉樹のグループである。分布の中心はオーストラリアやニュージーランド、およびその周辺の太平洋の島々である。世界的には200種近くあるが、日本はマキ科分布の北限にあたりマキ属イヌマキとナギ属2種のみが分布するが、イヌマキの変種とされるラカンマキは,葉の長さが短く,幅がせまい。樹高も5m程度が普通で,全体的に小さいため,家庭の庭木や生け垣に用いられることが多い。また,チョウセンマキ は,葉の様子が似ているため「マキ」と名がついているものの,イヌガヤ科に属し、マキ科とは縁遠い。
 古語では「マキ」とは,スギ,ヒノキ,コウヤマキなどの上質の材を指す。それより劣る材として,「イヌマキ」といわれる。このためマキ属にはマキという種は存在しない。 千代の槙の推定樹齢500年は銀閣寺の歴史とほぼ同じ年齢である。
15)銀閣寺手水鉢
 銀閣寺型手水鉢は、僧侶の袈裟(けさ)の文様に似ているから袈裟型手水鉢とも言われています。なお手水鉢は茶人・千利休せんのりきゅうも写しを造ったとも言われています。東求堂(国宝)と本堂(方丈)を繋ぐ廊下近くに置かれています。手水鉢には市松模様が彫られ、
一般的に手水鉢は神仏の前で口をすすぎ、手を洗って身を清める為の水を貯める器でした。その後茶の湯に取り入れられ、趣を加えたものが露地に置かれるようになり、つくばい(蹲踞・蹲)とも言われています。
 手水鉢には自然石の野趣を重視した富士型・一文字型・鎌型・舟型・誰が袖型・司馬温公型・あんこう型などがあります。
  袈裟は僧侶が着る僧服のひとつです。袈裟は四角い布きれを縫い合わせ、大きな長方形の一枚の生地になるように仕立てられています。日本では法衣の上に袈裟を着けます。袈裟は縦に縫い合わせた布の数(条(じょう))により、五条袈裟・七条袈裟・九条袈裟などと言われ、五条袈裟は作業着、七条袈裟は普段着、九条袈裟以上は正装用に使われています。
16)八幡宮 
 銀閣寺八幡社は江戸時代中期の1682年(天和2年)から1686年(貞享3年)に記された地誌「雍州府志ようしゅうふし」に「八幡をもつて鎮守とす」と記され、銀閣寺の鎮守社とも言われています。銀閣寺八幡社は足利氏など清和源氏せいわげんじの守護神である八幡神を祀っています。

 
     ツノゴケ植物門

     ゼニゴケ植物門 
 
     マゴケ植物門


 17)コケ庭 
 義政は銀閣寺庭園を作庭する際、金閣寺より、西芳寺庭園の研究が盛んであった。西芳寺はコケが多くコケ寺として著名であるが、銀閣寺庭園も西芳寺に劣らずコケがおおい。ここではコケについて述べます。

コケ植物の分類と特徴
  世界に存在する植物は大きく分けると、種[タネ]で繁殖する種子植物と、胞子で繁殖する胞子植物に分けられ、苔は胞子植物にあたります。さらに胞子植物は、維管束[いかんそく](吸い上げた水や養分を運ぶ内部組織)があるシダ植物と、維管束がないコケ植物に分けられます。
 コケ(植物の学名はカタカナです漢字は通称名となります)は、界に約2万種、日本に約1800種が確認されていますが、まだまだ分かっていないことも多いため、分類が難しい植物と言われています。
 コケ植物は、水を吸い上げるための根は持っておらず、葉や茎の細胞が直に水分を吸収するという特徴を持っています。(根のように見えるものは仮根[かこん]と呼ばれるもので、草体を支えるためのものです。2006年頃からコケ植物の分類方法が変更されました。DNAの発見によりDNAによる分類に変更されたのです。以前の分類方法では、コケ植物といえば「コケ植物門」という分類の下に、蘚類[セン綱](蘚網)[タイ綱](苔網)、ツノゴケ綱(ツノゴケ綱)という分類がありました。
蘚類は「マゴケ植物門」、苔類は「ゼニゴケ植物門」、ツノゴケ類は「ツノゴケ植物門」と呼ばれるようになりました。一見、分類の名前が変わっただけのようにも見えますが、各分類学では大来な変化なのです。この3つの門の総称が「コケ植物」となります。
1)ツノゴケ類
 ツノゴケ植物門は、コケ庭や苔盆栽に使用されることはまず無い。ツノゴケ植物門の見た目は、胞子体が角[つの]のように生えるという、決定的な特徴がありますが、胞子体が生えていないときの見た目はベタッとした葉状体であり、葉状体のゼニゴケ植物門のような見た目をしているため、見分けるのが難しいようです。また、ツノゴケ植物門の全ての種[しゅ]が、ラン藻類(細菌類の仲間)と共生しているという特徴もあります。ラン藻類は苔に寄生[きせい]しているわけではなく、苔に窒素固定産物(養分)を提供しているため、相利共生[そうりきょうせい](互いに利益のある共生)となります。ツノゴケ植物門の代表的な苔は、ツノゴケ、ナガサキツノゴケ、ニワツノゴケなどがありますが、世界に約400種、日本に約20種しか知られてい。
2) ゼニゴケ植物門
 ゼニゴケ植物門は、ゼニゴケやジャゴケが代表的。そのため、見た目は葉状体うじょうたい(草体が葉と茎に分かれていないもの)で、ベタッとした平たい葉のイメージが強い。しかし、ゼニゴケ植物門の大部分は茎葉体の姿をしています。また、ゼニゴケ植物門の葉は中肋が無く、丸みを帯びているものが多いです。特にゼニゴケは特徴的で、葉に吸盤状の無性芽器むせいがきをつけます。そこから無性芽を雨などの水を利用して放出することで、ししんを大量に増やすことができるのです。胞子体の蒴は4つに裂けるように開き、弾糸だんしと呼ばれるバネのような糸状のものを胞子と一緒に放出し、胞子を遠くまで飛ばします。また、胞子体はマゴケ植物門のように長く残らず、役目を終えるとすぐに枯れるというのも、特徴の一つとなっています。ゼニゴケ植物門の苔は、見た目が嫌われることも多く、苔庭の外敵です。ゼニゴケ植物門の代表的な苔は、ゼニゴケ、ジャゴケ、ムチゴケ、ウロコゴケなどがあり、世界に約8000種、日本に約600種が確認されています。 マゴケ植物部門苔テラリウムや苔盆栽、苔玉などで使用される見た目の美しい苔は、ほとんどがこのマゴケ植物門です。見た目の特徴は、茎葉体[けいようたい](草体が葉と茎に分かれているもの)であり、茎から螺旋状に葉が出ているものが多いです。また、多くの場合は葉に中肋ちゅうろくとよばれる中心の軸があります。
※ 厳密には「茎葉体」とは、維管束のある植物に使う言葉ですが、便宜上、形状だけの意味で「茎葉体」と表現しています。そもそも、コケ植物は葉と茎の区別が無い植物とされていますが、ここでは便宜上「葉のようなもの」を「葉」、「茎のようなもの」を「茎」と表現しています。
  茎は直立して上に伸びるものや、匍匐[ほふく]しながら横に広がるものがあり、生長の仕方は様々です。胞子は胞子体の蒴さく(胞子嚢ほうしのう)の中で成熟します。蓋が外れて蒴歯が開くと、中の胞子が放出されます。マゴケ植物門の代表的な苔は、スギゴケ、ヒノキゴケ、ホソバオキナゴケ、タマゴケ、ハイゴケなどがあり、世界に約1万3000種、日本に約1100種が確認されています。

 
          お茶の井
 
          洗月亭

18)お茶の井
 湧水する「お茶の井(相君泉そうくんせん)」かって義政の茶の湯に使われ、現在でも茶会に用いられているそうです。この水は地下水ではありません。これは伏流水になります。
  地下水ちかすいとは、広義には地表面より下にある水の総称です。地下水には浅井戸水と深井戸水の2種類があります。浅井戸水は第一難透水層を通過し第二難透水層の上に滞留する地下水で降雨から1020年経過しています。深井戸水は第一難透水 層と第二難透水層を通過し第3難透水層に滞留する地下水で降雨後100年程度経過しているといわれています。地下水は地層を通過する際、地中の無機物を溶出し硬質になりやすいが、伏流水は地中の無機物の溶出もほとんどなく、軟水ですから茶の湯には適していると思われます。
19)洗月泉
 
洗月泉は錦鏡池の南東部に位置する滝で山肌から湧き出る水を錦鏡地に導く役目を果たしているとされています。 月待山から出たつきはこの洗月泉に映ります、その時に泉のさざ波がまるで月を洗っているように見えることからその洗月泉という名前が名付けられたそうで、室町時代末期に第15代足利義昭と三好長慶による戦いが銀閣地周辺で行われ、その時の兵火で銀閣と東求堂を全部焼失ました。さらにその後山崩れから、銀閣寺庭園は破壊され荒廃したようです。
 銀閣寺相君泉・洗月泉は昭和に田中泰阿弥たなかたいあみらが発見・発掘した言われています。昭和4年(1929)に洗月泉の滝の石組が発見・発掘されました。
田中泰阿弥は1898年(明治31年)に新潟県柏崎市に田中泰治として生まれました。その後作庭家・庭師になり、孤高の「庭匠」とも言われました。田中泰阿弥は銀閣寺茶席の露地・相国寺しょうこくじの庭園・金地院こんちいんの庭園・智積院ちしゃくいんの庭園・天龍寺の庭園・等持院とうじいんの庭園などの作庭・補修・補修計画策定などに携わりました。
19-1)作庭記による滝の作庭について
 銀閣寺庭園は、義政が善阿弥と相阿弥に作庭を命じたとしており、両氏の作庭法は作庭記による。ただし「作庭記」の文章は非常にながく、至る所に禁句がらい、文章を適当に省略する。

12 滝をたてる順序 
滝の作る順番
滝をたてるには、第一に水落の石をえらばねばならぬ。その水落の石は、作り石の様に面の滑かなのは面白味がない。滝が三四尺にもなれば、出石の水落が美しくて、面の癖づいたものを用いるべきである。但し水落がよくて面がよく癖づいていても、左右の脇石をよせ立てるのに釣合わなければ、無益である。水落の面がよくて、左右の脇石も釣合いそうな石を立て終えたら、少しもゆがめずに根元をかためてから、左右の脇石をよせ立てさせるのである。その左右の剛石と水落の石との間は、何尺何丈あっても、底から頂きまで、埴土をやわらかに打ちこしらえて、厚く塗りあげてから、石まぜにただの土も入れて築きかためるべきである。滝は第一にこれをよくよく用意すべきである。その次に、右方が上座であれば、左方の脇石のかみにそへて、よい石の直立したのを立て、右の方の脇石の上に、少し低く左の石が見える程度に立てよ、左方.が上座ならば、右の次第で反対に立てるのである。さてその上の方は平らな石を少々立て渡すのである。それも専ら水のみちの左右に、遣水などの時の様に立てたのはよくない。ただ忘れた様に散らして立てても、水をそばへはやらない様に考えて立てなければならぬ。中行の背の出たものも少々あってよい。次に左右の脇石の前に、よい石の半はほど低い石をよせ立て、その次には、その石の望むにしたがって、立て下すのである。滝の前は殊の外に広く、中石など数多くあって、水を左右へ分けて流したのが格別よい。その次には、遣水の儀式が宜しいであろう。滝の落ち方は種々あって、人の好みによる。はなれ落ちを好むならば、面に横かどのきびしい水落の石を、少し前にかたむけて据えるのである。
伝い落ちを好むならば、少し水落のおもての角の欠けた石を、少しばかり仰向かせて立てるがよい。伝い落ちは、整然と糸をくりかけた様に落すこともある。又二三重に低い前石をよせたてて、左右へあれこれやりちがえて落すこともあるのである。

13 滝をたてる順序
■ 概要 
滝の作る順番 ■ 口語訳

滝を高く立てることは、京中ではむっかしいであろう。但し、内裏などならばないとは限らない。成人の申したことには、一条の大路と東寺の塔の空輪の高さは、等しいとかいうことである。そうすると、上の方から水路に少しずつつ左右の堤を築き下して、滝の上に来るまで用意をしたならば、四五尺の高さには必ず立てられるであろうと思われる。
又滝の水落の巾は、高下にはよらないのではないか。自然の滝を見ると、高い滝は必ずしも広くなく、低い滝でも必ずしも狭くはなく、ただ水落の石の寛狭によるのである。但し三四尺の滝になると、二尺余より過ぎてよくない。低い滝の広いのは、色々の難がある。一には滝の丈が低く見える。一つには井堰にまがう。一つには滝の咽喉が明らかに見えるので、浅い様に見えることがある。滝は思いがけない岩の間から落ちた様に見えると、木暗く奥ゆかしいのである。だから水を流しかけて、咽喉が見える所には、よい石を水落の石の上に当る所に立てたならぱ、遠くからは岩の中から出る様に見えるのである。
15 滝の落ちる様々を言う事  略
25 禁忌 ■概要
石の禁止事項 ■口語訳
.もと立っていた石をふせたり、もと臥せていた石を立てたりすると、その石が必ず霊石となってたたりをする。
2.平盤のもと伏せていたものを立てて、高所や低い所からでも、家に向けるならば、遠近(近場、遠場に)問わず祟りをする。
3.高さ四尺—五尺もある石を東北に立てはいけない。或は霊石となり、悪魔が入ってくる足がかりとなるから、その家に人が永く住みつくことができない。但し南西に三尊仏の石をたてむかえればたたりをしない。悪魔も入ってこない。
4.家の縁よりも高い石を、家の近くに立ててはならない。これを犯したならば、凶事が絶てないし、しかも家主は長く住む事ができない。但し社寺の堂舎ならばその祟りはない。
5.三尊仏の立石を、正しく寝殿に向けては成らない

 


作庭記では、おとなしい滝を指導し、激しい滝の作庭は禁止しているのです。

 
        醍醐寺三宝院藤戸石
 
          同左藤戸石

19-2)藤戸石ふじといし 
 織田信長が、二条城を建設する際、銀閣寺境内、洗月泉の近くにあった藤戸石と九山八海を織田信長が持ち去ったというのです。藤戸石とは何か。実は、天下の名石で、天下を治めるものが所有すべき石だったのです。そして藤戸石を名石にしたのは歌舞伎「藤戸」でした。歌舞伎「藤戸」のストーリーは以下の通りです

藤戸の戦い(浮洲岩)
いわゆる源平の合戦の折、備前国児島の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)において、「藤戸の戦い」(藤戸合戦、児島合戦)が行われた。
•寿永3年(1184年)2月「一ノ谷の戦い」で敗れた平氏は西へ逃れるが、瀬戸内方面を経済基盤としていたために、備前備中などの豪族も大半が平氏家人であり依然として瀬戸内海の制海権を握っていた。
•元暦元年(1184年)9月、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かい10月には安芸国まで軍勢を進出させるも、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれてしまう。さらに平行盛は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう)に500余騎の兵を入れ山陽道を防衛させたため、源氏は攻めあぐねる。
この時に追討軍(源氏方)の佐々木盛綱は、地元の漁夫から浦が浅瀬になることを聞き出す。その浅瀬の目印が地元で「浮洲岩(うきすいわ)」と呼ばれていた。
藤戸の戦い(浮洲岩)いわゆる源平の合戦の折、備前国児島の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)において、「藤戸の戦い」(藤戸合戦、児島合戦)が行われた。

•寿永3年(1184年)2月「一ノ谷の戦い」で敗れた平氏は西へ逃れるが、瀬戸内方面を経済基盤としていたために、備前備中などの豪族も大半が平氏家人であり依然として瀬戸内海の制海権を握っていた。

•元暦元年(1184年)9月、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かい10月には安芸国まで軍勢を進出させるも、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれてしまう。さらに平行盛は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう)に500余騎の兵を入れ山陽道を防衛させたため、源氏は攻めあぐねる。

この時に追討軍(源氏方)の佐々木盛綱は、地元の漁夫から浦が浅瀬になることを聞き出す。その浅瀬の目印が地元で「浮洲岩(うきすいわ)」と呼ばれていた。
 

義政は、銀閣寺を建設すると、藤戸石を、金閣寺から銀閣寺に移した。織田信長は、藤戸石を所望し、二条城の庭に設置した。豊臣秀吉は天下を統一すると主の亡くなった二条城から、自分の城である。聚楽第に移した。甥豊臣秀次を後継者とし聚楽第を譲渡し、自分は伏見城に移った。しかし、実子秀頼が生まれると秀吉と英次は不仲となり、秀次に切腹をめいじた。不要になった聚楽第は廃棄し、聚楽第にあった藤戸石は醍醐寺三宝院に譲渡した。藤戸石を聚楽第から三宝院への移動は、まるで大名行列の様相であったという。


         眺望台への石段 
         漱蘚亭跡
 
          建仁寺垣
 
        展望台より

20)銀閣寺上下階段
  展望台に通じる回遊コースである。

21)漱蘚亭跡
  銀閣寺漱蘚亭跡はかつて義政が絵師・相阿弥そうあみに苔寺(西芳寺さいほうじ)の庭園を模して作庭させた庭園跡と言われています。庭園は枯山水式庭園の漱蘚亭跡と錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園の上下二段の庭園だったと言われています。漱蘚亭跡は江戸時代に山崩れで埋没した。漱蘚亭跡には崩れかかった石組・泉・水流の跡が残されています。
22)建仁寺垣 
 ここでは、銀閣寺垣でなく建仁寺垣が張り巡らされています。建仁寺垣はもっとも一般的な竹垣の一つ。約2m間隔で丸竹の親柱を立て、その間に幅3cm前後の割り竹を縦に密に並べ、要所をしゅろ縄で結んだもの。京都の建仁寺で初めて作られたとされています。銀閣寺垣は建仁寺垣の一種、建仁寺垣が5段程度と高いのに対し、三段程度と低いのを銀閣寺垣といいます。
23)展望所
 銀閣寺境内で最も高い場所、銀閣寺境内は勿論のこと、吉田山、左大文字、さらにその先の愛宕山まで京都市全域を眺めることができます。

 

 

 

 








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