\
                              京都・朱雀錦
(30)世界遺産・龍安寺


世界遺産・龍安寺石庭(特別名勝・世界遺産)

 龍安寺は、京都市右京区龍安寺御陵下町13にある臨済宗妙心寺派で、石庭で知られる。 山号を大雲山と称し、本尊は釈迦如来、開基細川勝元、開山義天玄詔である。「古都京都の文化財」の一部として平成6年(199412月世界遺産に登録された。

                         Ⅰ.龍安寺の歴史
 寺地は、衣笠山を背景に建設された天皇の御願寺ごがんじである四円寺しえんじの一寺、円融寺旧跡に当たる。四円寺は、白河の六勝寺ろくしょうじ(平安時代後期、天皇、皇后が白河に建てた6つの寺院で、全ての寺院に「勝」の字が付くことからこれらの寺を六勝寺と総称した)に比して「円」の名を冠して衣笠に建立された御願寺で、円融天皇の円融寺、一条天皇の円教寺、後冷泉天皇の円乗寺、後三条天皇の円宗寺の四寺を言う。
 円融寺は天元てんげん6年(983)、円融天皇により建立された。天皇亡きあと衰退したが、風光に恵まれた跡地に左大臣藤原実能さねよしが山荘を営んで徳大寺を建立した。更にこの地を時の権大納言徳大寺公有きんありから細川勝元が譲り受け、宝徳ほうとく2年(1450)龍安寺を建立した。
 実能は、保元の乱では、藤原頼長に敵対して後白河天皇に付き勝者側となった。乱後、左大臣にのぼり、徳大寺を建立し、徳大寺を家名とした。公有は、実能から数えて12代目に当たる。
 龍安寺の開基細川勝元は、父持之もちゆきの死により、16歳で八代将軍足利義政の管領職を継いだ俊秀で、若くから禅門に傾倒し、妙心寺塔頭養源院の義天玄詔ぎてんげんしょうに深く帰依した。
 龍安寺の寺号は中国北宋の兜卒従悦とそつじゅんえつに学んだ張商英と従悦の故事にもとずき、二人の交友が義天と檀越の勝元の関係とよく似ていることにちなんだ。張商英は、北宋の宰相で、龍安山の兜卒寺で従越禅師に会い、仏教について教えをうけ感銘した。その龍安山の龍安をとり、寺号を龍安寺とした。
 勝元の庇護による龍安寺の開創は、本山妙心寺の復興の基礎ともなった。龍安寺には七堂伽藍も整えられ、義天による教化には修行の僧に止まらず、多くの人々から慕われた。そうして義天は、臨済宗妙心寺派で初めて紫衣しえを勅許された。紫衣は天皇から高僧に与えられる紫の法衣で、もと唐の則天武后のころ高僧の表彰として始まった。この紫衣の勅許は格式を表し、それまで天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、方寿寺と言った京都五山の高僧に与えられ、妙心寺は大徳寺とともに五山から山隣派さんりんはと言われ格下と看做されていたが、ここで五山と同格になったことを意味した。 
 名実ともに妙心寺派の拠点であった龍安寺も妙心寺とともに応仁の乱に巻き込まれ堂塔、塔頭を失った。悲嘆にくれる雪江宗深せつこう(義天お弟子)を一族挙げて支援し、妙心寺とともに龍安寺の復興に当たったのは勝元であった。 
 しかし、勝元は完成を見届けることなく、工事開始まもない文明5年(147944歳の若さで急逝した。 11年に及んだ乱の後、龍安寺は、続いて妙心寺とともに寺勢を高め、塔頭も次々に建てられて旧容を回復してゆく。寛政3年(1791)に京都奉行所へ提出した古絵には23寺の塔頭が見え、龍安寺は本山妙心寺とともに寺容が整えられている。しかし、寛政9年(1797)の火災でこうした塔頭のほとんどを焼失した。 
 
方丈は、焼け残った西源院方丈を移設して再建され、現在に至っている。 明治維新、幕府などから付与された730石の寺領がなくなり、広大な田畑山林は没収され国有となり、全国の寺院が疲弊したように龍安寺も例外ではなかった。塔頭は、明治元年(1868)の神仏分離令以後、廃仏毀釈が激化し、廃寺になったものもあった。今は、西源院、大珠院、霊光院だけが往時の姿を伝えている。 

                 Ⅱ.境内

 
      山門・薬医門
 
          庫裏

1.山門(薬医門)
 バス停の傍にある竜安寺前交差点を北の方向に進むと「山門」に着く。規模は小さいが、門柱も太くしっかりとした正門である。5本線の筋塀が風格を高めている。門の様式は薬医門。屋根は本瓦葺二垂木です。
 薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食やぐい」からきたと言われています。また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。
 基本は前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支えます。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。門柱(本柱)の後ろに控柱が2本設けられた4本柱の門です。本柱の上には冠木(柱の上にあって柱を貫く横木)と称する太い横木(桁けた)がのります。後ろの控え柱の上にも冠木よりやや細い桁が載ります。この二本の桁の上に左右と真ん中に(写真参照)3本の梁が乗ります。この3本の梁の先の部分にもう一つ桁をのせます。言葉を換えますと。本柱の上の冠木の前後に冠木に平衡して桁を置くことになります。すなわち薬医門は4本柱と3本の桁、3本の梁せ構成された門になります。また、龍安寺山門の薬医門は本柱の上の梁は小さな梁で支えられています。下の小さな梁を女梁、上の大きな梁を男梁といいます。薬医門は、正門の脇に小さな片開扉がついているのが特徴です。正規の時間になると。両開きの正門は閉鎖されますが、正規時間外の火急の用の場合は、脇扉の使用が可能になっています。 社寺だけではなく城郭や邸宅にも多く使われた門です。

 
         庫裏玄関
 
        庫裏団体入口
  

2.庫裏
 参道を進み、石段を上がると、正面に禅寺の特徴を備えた「庫裡」が見える。庫裏は寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。なお現代では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多い。庫裏は大規模寺院では独立した建物であるが、一般寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多い。一般の民家とよく似た建物も多い。 歴史ある寺院では、文化財に指定されているものもある。禅宗の寺院では、伽藍の守護として韋駄天が祀られていることがある。
  当庫裏は、江戸時代の寛政9年(1797年)に火災で焼失し、その後再建されたものである。禅宗特有の妻側を正面にしてある、妻飾りは二重虹梁蟇股にじゅうこうようかえるまた、懸魚は拝みに1か所、種類は蕪懸魚かぶらげぎょです。
 庫裏には一般観光客の二つの入口はり。庫裏(くり)の授与所(売店)で、このつくばい形の栓抜きやお守りが扱われているので、 石庭の拝観受付がある庫裏には、視覚障がいのある人向けに、石庭のミニチュアが置かれています。

 
          方丈

        方丈平面図
 
 
           室中
 
         礼の間より
 
        書院の間
 
          南側広縁

 
     龍図(皐月鶴翁筆)
 
    金剛山図(皐月鶴翁筆)


3.方丈(重要文化財)
 龍安寺の方丈は、明応8年(1499)に建立されたが、寛政9年(1797)の火災で焼失。現在の方丈は、塔頭西源院の方丈を移築したものである。
 西源院の方丈は、慶長11年(1606)、織田信包のぶかね(織田信長の弟)によって建てられた。 方丈は通例の塔頭方丈と同じ六間取りの平面形式であるが、規模はかなり大きく、南側に広縁幅一間半、仏間一間半、眼蔵一間、さらに北側広縁一間がついて梁間はりま合計九間の18m。 桁行は、室中三間半、両脇間二間半、東西広縁各一間の合計十間半で21mとなり、一回り大きくなっている。 天井は高 く、南側の三室は、襖と低い竹の節欄間で軽く仕切って広い空間をつくっている。書院には、違い棚と花灯窓の出書院を設け桃山時代らしい雄大な禅宗方丈と言える。
方丈は塔頭住持の居室と客殿を兼ね,一般寺院の本堂の役割を果たす。護持仏や祖師像,位牌をまつる南の中央の間を室中しつちゆうと呼びます。室中の奥、即ち北側の部屋は仏檀を置き仏間となるかまたは、寝室である眠蔵みんぞうとして使用されます。
 庫裏に近い部屋、通常東側の部屋を下間げかんと言います。下間の南側、即ち室中の室を礼の間で、接客室となります。庫裏か遠い部屋、通常西側の部屋が上間じょうかんです。上間の南の室が檀那の間で、檀那来場の際の控えの間です。上間の北側の室は衣鉢えはつの間です。衣鉢の間は、衣鉢いはつを継ぐからきた名称です。衣は袈裟、鉢は托鉢の鉢で、宗教・学問・芸術などの各流派で、弟子が師から奥義を授けられる。また、先人の業績を受け継ぐ意になります。
 南の三室は襖を外せば、一室の大広間として使用できるよう設計されています。北側の三室は襖を外せば一室の大広間となるよう設計されています。北側の三室は個室的性格の部屋です。
 現在の方丈は、 元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもので、この方丈は。慶長11年(1606年)、織田信包のぶかねによる建立です。
 織田信包は、織田信秀の4男、信長の弟、信長時代、12人の男兄弟のなかでは格別な地位にあった。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長と信忠が殺害された後は、豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領した。
 天正18年(1590年)、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄3年(1594年)9月に至って改易された。
 その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)6月には丹波国氷上郡柏原(兵庫県丹波市柏原)36000石を与えられる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹後田辺城攻撃などに参戦したものの、戦後に徳川家康は信包の罪を問わず、所領を安堵された。
 大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。家督は三男の信則が継承した。本来ここには狩野派の手による襖絵があったが、それらは明治初期財政難で売却したものと思われます。現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、1953年(昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである。
 皐月靏翁は、明治~大正~昭和に京都で活躍した南画家。富岡鉄斎画伯に師事し山水画や赤富士など多くの作品を描く。その味わい深い筆致は、京都市内の老舗の和菓子店や蕎麦屋の看板に現在も用いられています。
 韓国の金剛山を何度も訪れ仙人の境地を学び、集大成は、京都龍安寺に数年の月日を掛け描かれた「龍の図」の襖絵が残されている。南画(なんが)は、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。

 
             方丈南庭園(史跡・特別名勝)

(1)    石庭(特別名勝・史跡)

  方丈南庭の特別名勝・史跡・史跡「方丈庭園」は竜安寺石庭としてあまりにも有名で、昭和501975)にエリザベス英女王夫妻が絶賛したことはよく知られている。この石庭のどこが素晴らしいのか。
 庭とはなにか、敷地内の建築物の無い敷地はすべた庭である。この庭に、見栄えが良くなるように木や草を植え人工的に整備された施設を庭園といいます。
 絵画は1枚の紙の平面に、山や川、人家を入れた風景を描きますが、庭園は庭の地面に石や木、を用いて自然の景色を表現します。絵画が芸術であるように庭園も芸術です。芸術とはなにか、何を良しとするか。一つは大である。太平洋に向かって海を眺めたとき、その素晴らしさに感動するはずです。その逆に狭い坑道にはいると恐怖感に襲われます。人間は広い望みあこがれますが狭い環境や景色をきらいます。世界最古の東洋庭園は、中国の上林苑じょうりんえんである。漢の武帝が紀元前138年に作庭した、周囲300里(1200㎞)の広大な庭園である。フランスのベルサイユ庭園は1000ヘクタールの巨大な庭園である。巨大であれば、人は素晴らしいと感じるのです。
 初期の庭園は東西共に巨大です。巨大であることが、すばらしいことです。しかし、巨大な景色を巨大な面積で表現しても芸術性は高いとは言えないでしょう。小さな面積で大きな景色を表現することに成功したのが日本庭園でさり、日本庭園のすばらしさであると私は理解している。
 龍安寺庭園はわずか100坪(330平方メートル)の敷地に広大な景色をとじこめているこれが素晴らしいのである。
 第2点目はバランスです。今男の子が真っすぐ直列に並んでいるとします。この直列は、見ているだけで美しく、安定感をあたえます。ところが、その直線の中の一人が右に飛び出したとします。そうすると、安定感が不安定感に変わり、快感が不快感に、美しさが、醜さに変わります。人間の本能は安定を求め不安定を拒否しているのです。
 こんどは反対に左側に飛び出したとします。そうすると急に不快感が快感に変わり醜さが美しさに変わります。これはバランスが取れたのです。この時のバランスを非左右対称バランスといいます。バランスには、左右対称バランスと非左右対称バランスがあります。右と左の構図が全く同じものが左右対称バランスです。フランス庭園もイタリア庭園も左右対称バランスです。中國も朝鮮も左右対称を重視しています。日本の、華道は非左右対称バランスです、日本庭園も非対称バランスを重視しています。
 龍安寺の石庭の15の石の並び、なんとなくバランスがとれていると思いませんか。
1)石庭の作者
  龍安寺石庭の作者は誰かという謎が、昔からいろいろな作者の名前があげられてきました。「龍安寺石庭・七つの謎を解く」の作者大山平四郎は、相国寺の僧子建しけん(画号・是庵)を挙げている。その理由は。
① 子建(14861581)は相国寺に30年間居住した雪舟(14201502)の画法を嗣いだ可能性があること。
② 妙心寺霊雲院の庭園は子建が作庭した、その作庭時期が1528年と推定され、龍安寺の作庭時期も1536年頃と推定され、両庭園の作庭時期がほぼ同じである。霊源院の開祖が大休宗休だいきゅうそうきゅうで龍安寺の住職も兼ねていた。また霊雲院と龍安寺の大檀那は共に細川管領家であった。
③ 子建は雪舟の弟子であった可能性がある。常栄寺庭園は雪舟の代表作でり、子建は雪舟の庭園をモデルとして龍安寺の石庭を作庭した。
④ 中根金作氏は、小次郎・清二郎を可能性ありとしています。

 


  霊雲院庭園・子建作庭(名勝)
 
  常栄寺庭園・雪舟作庭(名勝)

2)作庭の時期
  「竜安寺石庭・七つの謎を解く」の著者大山平四郎氏は天文5年(1536頃と称している。その理由は。
  龍安寺中興の祖と言われる特芳禅傑とくほうぜんけつの法語集である「西源録」第三巻の「龍安禅寺函丈上棟題語」というところに、上棟式は「実隆公記」と同じ日に行われ、…と記されてある。以上より龍安寺石庭が作られたのは、方丈上棟直後であると推定されたのである。 
 もともと、禅院の方丈は原則として南向きである。そして正面の庭、即ち南庭は、仏教的儀式を執り行うために白砂を敷いた庭である。そのため、当時は鑑賞目的の庭園を作るわけにはいかなかったのです。
  龍安寺はもともと細川家の菩提寺として建立された。勝元の嗣子政元は長享元年(1487)に管領となり、亡父の遺志を継ぎ、再建に努め、特芳和尚を住職に迎え、龍安寺中興の祖とした。
・大徳寺と妙心寺は天皇ゆかりの寺院であり、室町幕府の統制下に入ることをきらい幕府の統制下に入らない、五山十刹いかに願い下げしていた。当時五山十刹寺院を(禅林派)それ以下を(林下りんか)とよんでいた。ことに当時の天下僧録司そうろくし、つまり禅林を総括し取り締まる役職にあった鹿苑院ろくおんいんからは、血涙を飲まされるような仕打ちがたび重なつた。しかし隠忍自重しなければならない弱い立場にあったので、妙心寺の別格本山である龍安寺の南庭に、鑑賞物を作るような禁制を犯して、僧録司より叱責される口実を作ることはまず考えられない。
・子建が作庭に極めて卓越した手腕をもっていたことは、有名な庭園をもつ西芳寺の住職に任じられただけでも重文知ることができる。
  西芳寺は、応仁の乱勃発の翼々年、即ち文明元年(1469)4月23日、兵火を受けて灰塵に帰した。文明18年(1486)浄土真宗の中興の祖と仰がれる蓮如上人が」修復している。年(1534)に再び戦禍をうけたので、その復興のための住職に6年(1537)、子建が任命されたのである。天文9年(1540)の時の修復費用は、西芳寺の大檀那藤原氏の援助によるのもだるが、それでも十分寺復元されたわけでなく、それから3年後天文12年(1543)、子建が作庭した霊雲院の住職大休禅師に帰依していた、武将今川義元公に寄付をあおいでいる。しかし、洪水による被害で壊れやすい護岸などが、子建によって修理されたと思うが、護岸や岩島に横三尊石組が数か所散在している。
  龍安寺石庭の通称になっている「虎の子渡し」の石組、すなわち横三尊の特殊技法は、龍安寺石庭と西芳寺の池泉以外の庭園には全く存在しない。この共通性は龍安寺石庭を、子建の作庭と考える重要な論証の一つである。
・方丈南庭の宗教的役割の軽減
  平安時代ころまでは、南庭を儀式の場所とする制度が厳守されていた。しかし、その後鎌倉時代には、方丈内の庇の場所である広縁が儀式場に当てられ、次第に南庭が」利用されることは少なくなっていった。さらに室町時代になると、建築物の内部が式場となり、南庭の実用的意義がなくなるとともに面積も狭くなった。
・妙心寺派の地位向上
 龍安寺「方丈上棟」の明応8年(1495)このことの妙心寺は、京都五山より寺格が低く、なにごとにも落ち度がないように慎重な態度であった。しかし、それから37年経過した天文6年(1537)ごろは、後奈良天皇が霊雲院にたびたび行幸されるようになり、寺勢は著しく高くなった。
 また一方、足利家は名前だけの将軍で、政治の実権は細川管領家に移っていた。従って足利家を大檀那とする相国寺と、細川家を大檀那に持つ竜安寺との関係は、従来とはまったく形成が逆転した。 特に天皇が帰依されていた大休禅師の兼管する龍安寺の方丈南庭に庭石十五個程度の布石することは、相国寺の僧録司である鹿苑院に遠慮しなくてもさしつかえないまでに情勢は変化していたと考えられる。 かくして天文6年10月3日に、西芳寺住職任命の下知が出たのを基準におけば、龍安寺石庭が作られたのは、おそらく前年の天文5年頃ではないかと推定される。これに対し昭和の遠州と言われる中根金作氏は江戸初期可能性が高いと称しています。
3)独立式か借景式か
・独立説の論理
  象徴化された芸術としての庭園を一方で要求していながら、他方で写実的(自然主義的)な要求を持つはずがないというのである。この理論の根底に「天然自然の風景は、それがどんなの美しくても芸術ではない。芸術とは人為的ななものでなければならない」という。
  このように誇り高い禅院の庭に、借景は必要ないというのが、借景否定論者の考え方である。
・土塀の高さ
 石庭面から杮葺きの塀の峰までの高さは、南側の塀でだいたい1.9メートルである。これに対する比較資料として、借景を目的としない方丈南面の土塀の高さを示すとつぎのようである。
妙心寺塔頭玉鳳院                    3.15メートル
大徳寺本坊方丈南庭                3.10メートル
この二例と比べて、龍安寺の塀は低く、借景を目的としているとかんがえられる。

 
       龍安寺石庭
 
       石組と配置

 
     5石組(主石群)
 
     4石組(中央奥)
 
     3石組(横三尊)
 
          2石組
 
          1石組
 
       15石配置図

4)布石
石庭は幅約25メートル、奥行き約10メートのおよそ七十五坪(壁際まで入れると約100坪)築地塀で仕切られた長方形、地表には白い砂を敷き詰め、15個の石を配しただけの枯山水である。 
  庭園を作る時、まず庭のどの位置に重点を置くかを決定するにあたり、庭を取り囲む環境を見渡して、最も比重の大きい風物と対照的な法国、最も重要な造形物を設置する。この主要な造形(主石群)が庭園の性格を決定し、その他の庭石は全て主石群に対応するようつぎつぎに配置してゆく。そして全体としてバランスが取れていなければならない。
5郡(主石群)
 龍安寺の主石群の位置は、石庭の最も東側に、前述の原則通り布石されれています。その主石の形状は、はるか遠く東の空に優美な曲線を描く東山の容姿と対照的な男性的な庭石です。5個の石組で石の種類は中央の主石と写真では見えない右の石がチャートです。
 チャートは、堆積岩の一種。ケイ酸の殻 をもった 放散虫などのプランクトンの遺がいが堆積して固まってできた堆積岩の一種。褐色,赤色,灰色,緑色などのものがある。緻密で,主に石英からなり,硬く,ハンマーでは傷がつかない。目で見える化石は含まれないが,顕微鏡的な放散虫の化石を多く含むことが多い。昔は火打ち石として利用された。
 変成岩の元のチャートは,平均水深30004000mの大洋底(海洋プレート上)にゆっくりと放散虫の遺がいが積もってできたものである。それがプレートの動きで地下深部に沈み込んで結晶片岩などの広域変成岩になったり,花こう岩などのマグマの熱でホルンフェルスになったりする。
 左の脇石と右の飛び石は緑色片岩、左の塀に近い飛び石は石英片岩である。緑色片岩りょくしょくへんがん、は変成岩(広域変成岩)の一種で、結晶片岩のひとつ。 緑色片岩という語は、岩石学や鉱物学の観点で厳密に用いられる場合と、やや広い意味で用いられる場合がある。特に日本では後者の用法がみられる。
 玄武岩に代表される火成岩などが、比較的に低温・低圧のもとで広域変成作用を受けて生成されたもので、変成岩としては変成度合いが小さいものである。豊富に含む緑色の成分と、発達した面状構造(片理)がみせる縞模様によって外観が美しいとされ、日本では庭石などに愛好されている。
・4石組(中央奥)
  石組は、背後の地形や風物と対応して布石される。庭園の東側と西側の性格の異なった石組が展開されている。このような東西それぞれ異なった性格の石組を連結する役目の配石が、正面塀際に低く長く横たわる石である。この石こそ作者の最も苦心を払った布石とおもう。この石には、小太郎・清二郎と言う名が刻んである。中根金作氏はこの両人がこの石庭の作庭の可能性が高いと称しています。
 石の種類は、大きい石が、細粒花崗岩、小さい石が緑色片岩である。細粒
花崗岩は火成岩の1種、火成岩は地表近くで急速に冷却すると軟質に火山岩となり深層でゆっくり冷却すると、硬質の花崗岩になります。
・3石組(横三尊)
  向かって右手(西側)に三つの石組がある。そのうち石庭の中央に近い3石組は「虎の子渡し」の通称をもっている。丸味を帯びた大きな緑色片岩が親の虎で、右脇のちいさな丸石2個を子虎に見立てた。普通の三尊石組は、中央に高い本尊があって、左右に脇侍が控えている。龍安寺の横三尊は主石が左端に行き、丸く伏せた小さな脇侍石が右側に二つ寄り合っている。横三尊は、西芳寺の子建の修復した庭園に存在するだけである。これは龍安寺庭園の作者が子建であるとする説の根拠の1つである。
 虎の子渡しというのは空想の産物です。「虎の三匹の子には必ず一匹、性の猛悪なものがいる。そこで、母虎が一匹づつ連れて川を渡るとき子供だけ残しておくと、この猛悪な子が他の子を食べてしまう。母虎は川を渡るにはまず猛悪なものを一匹対岸に渡し、次に他の子を連れて渡り、戻るとき猛悪の子を連れて帰り、次に別の子を連れて渡り、最後に猛悪の子を連れて渡る」これが中国説話の「虎の子渡し」である。
・1石組(西北隅石)
  まず亀の甲羅によく似ている。石庭中では大地に深く根差している印象をあたえる。手前の大き目の石はチャートで両脇は緑色片岩である。左の遠くにある主石(5石組)は、高い石を使い、それに対する手前の副石は低い平石を使いバランスをとっている。作者がもっとも重点を置いているのは全体のバランスであり。バランスの取れた状態が最も美しい状態であろう。
2石組
  石庭を構成する5群の石組は、それぞれ2個以上の庭石で構成されている。なぜならば、1個の石だけでは自然のままの姿であって、人為的とはいえない。すくなくとも二個以上の自然石を組み合わせることによって、自然が創り得ない日本独特の石組美が創造されるからである。
  古くから7・5・3はめでたい数として喜ばれ、その半面、偶数の2・4・6は忌み嫌った。また作庭の上でも、偶数は実際に石組するのがむずかしくさけられてきた。しかしながら龍安寺の作者はこの二個組の手法にあえて挑戦して、見事に成功している。
・七五三型式
  石組が「七五三」というめでたい数で構成されているのは龍安寺だけでなく、これに近い数で作られている庭園は、大徳寺や妙心寺などにもいくつか見られる。しかし、七五三という定型化した配列様式を、石組に試みたのは龍安寺が最初とおもわれる。
5)石庭の面積
 龍安寺の現在の方丈は、寛政9年(1797)の火災後の寛政11年に同境内の西源寺より移建したものである。
 現在  石庭 開口 24m  奥行 10.5m 平方 250㎡ 76
 焼失前 石庭 開口 25.5m 奥行 10.5m 平方 267㎡ 81
     東庭 開口 11.5m 奥行 12m  平方 138 42
 作庭当初石庭 開口 25.5m 奥行 12m  平方 306㎡ 92
                東庭 開口 11.5m 奥行 12m  平方 138㎡ 42
  以上のように現在の石庭の広さは、間口(開口部)24メートル、奥行き10.5メートル。面積250㎡(76坪)です。

 
      南庭(石庭)西塀
 
       遠近法透視図方

6)遠近法(遠近透視図法)
  南庭(石庭)の西塀をご覧ください、南に行くほど高さが低くなっていることがわかりま
す。これは絵画の視覚芸術である遠近法えんきんほうを採用しているためです。遠近法は、視覚的に遠近感を表現する手法の総称である。狭義には、遠近表現法のうち、平行線の収束を用いた遠近透視図法を指します。

  人は絵や画像といった2次元平面から空間の奥行きを感じられる。視覚芸術において、本来空間が存在しない2次元平面に空間を感じさせるすなわち遠近感をもたらす手法が遠近法です。透視図法、別名線遠近法はその代表的な一種であり、しばしば遠近法とも呼ばれます。透視図法によって描かれた図のことを透視図といいます。
 遠近法を用いますと近くの物が遠くにあるように感じます。すなわち、庭園を広くみせる工夫です。
  ヨーロッパで遠近法を絵画に取り入れたのは1314世紀、イタリアの画家チマブーエ(12401302)が最初である。遠近法が絵画の世界で一般化するのは、ルネサンス以後である。
  日本では江戸時代浮世絵が全盛期ですが、浮世絵には遠近法は使用されていません。遠近法が日本で使用されるようになったのは明治以降と考えられる。

 
         黄金比
 
       ピラミッド・黄金比

7)黄金比の石庭
   黄金比おうごんひとは、次の値で表される比のことである.
     1 : 1 +√ 5÷ 2     これを展開すると下記のようになる。
      1 : 1.6180339887…
   黄金比は貴金属比の一つである(第1貴金属比)。
   幾何的には、a : b が黄金比ならば、
     a : b = b : (a + b)
   という等式が成り立つことから、縦横比が黄金比の矩形から最大正方形を切り落とした残りの矩形は、やはり黄金比の矩形となり、もとの矩形の相似るという性質がある。この比は「デザインを美しくする」などといった巷間よく語られている。 伝承では、古代ギリシアの彫刻家ペイディアス( 紀元490年頃 - 紀元前430年頃)が初めて使ったといわれる。
  「黄金比」という用語が文献上に初めて登場したのは1835年刊行のドイツの数学者マルティン・オーム(オームの法則で有名なゲオルク・オームの弟)の著書『初等純粋数学』。1830年頃に誕生したと考えられる。
  長方形は縦と横の長さの比が黄金比になるとき、安定した美感を与えるという説がある。これはグスタフ・フェヒナーの1867年の実験を論拠としている。しかし、フェヒナーの実験の解釈については肯定的もしくは否定的な様々な見解がある。フェヒナーの理論は、証明されていないが、黄金比はパルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物や美術品の中に見出すとされてきたが、これらは後付けの都市伝説であるものが含まれる。一方で、意図的に黄金比を意識して創作した芸術家も数多い。
  黄金比は、長方形の形状の物の縦横比に利用されることが多い。例えば、名刺をはじめとする様々なカード類などである。 自然界の巻貝の渦巻きも黄金比に近いと言われています。石庭の縦横も偶然かもしれないがほぼ黄金比です。
8)糸桜
  豊臣秀吉は、天正16年(1588)2月24日、方丈前庭の糸桜を見て和歌をよみました。供奉ぐぶの大臣もこれにならった。秀吉他6名は糸桜のことばかり詠じて石庭お歌の題材にした者は一人もいなかったといいます。糸桜とは枝垂れ桜のことで、糸桜の生えていた場所は石庭の西北隅で、作庭当初の石庭の教会を示す雨溝に接していた。その幅わずか1メートに満たない狭い空き地に植えられていた。桜の根株は、石庭の西北隅あつたことが確認されています。大山氏は故に、この時石庭はあったとしています。中根氏は逆に、秀吉は石庭につて何も語っていないからこの時期にはなかったとしています。
9)油土塀
  土塀はかつては日本のどこでも見られたきわめて基本的な塀の造りであり、古くなり、朽ち始めてからはまた異なった味を醸し出し、日本人の美学に馴染む非常に優れたものであったが、近年、より安価なブロック塀をはじめ、コンクリート製の工法の簡便な多くの製品に押されて減少している。
  基本的には以下の方法によって造られる。
  粘土質である山泥や土を採取し乾燥させ、石灰、藁とフノリを加える。材料はほとんどは地元で取れたものを使うことが多い、粘土は乾燥すると収縮しひびが入る。このひび割れを防止するため、石灰、藁,フノリをいれる。粘土は乾燥すると収縮し極度のひび割れが発生するが、石灰は乾燥すると逆に膨張し粘土のひび割れを防止する。藁・フノリもひび割れ防止剤である。これにナタネ油を混ぜて作った土塀を特に油土塀と呼ぶもので、通常のものより強度が高く、耐候性にも優れる。

 
           西庭
 
       仏殿への歩廊

(2)西庭
 西庭にはコケ庭と仏殿に通じる歩廊があります。白砂、白一色、色は乏しいが、初めの内は知りたいことが多く、興味いっぱい、自分では感じないが、大脳は結構疲労しています。西庭は、石庭と対照的。樹木と苔の庭園です。日本人は昔から利用できるもの巧みに利用していました。苔を鑑賞物としてる利用しているのは日本だけです。西庭の苔庭は、石庭付かれた大脳を癒してくれるでしょう。
 仏殿、開山堂は寛政9年(1797)、方丈と共に焼失したが、200年ぶりに、昭和56年(1981)に完成した。この歩廊はその時建設されたものである。ただし、寛政9年の火災で焼失する前の歩廊は現在の歩廊より南にあったようである。
 西庭には仏殿に行くための渡廊があります。仏殿の後方には昭堂(開山堂)、前方には鐘楼がありますが、全て非公開です。

 
           北庭
 
       吾唯足知の蹲踞

(3)北庭
 北庭は細い樹木ある庭であるが、ここに「吾唯足知」の蹲踞があります。方丈の北西に茶室蔵六庵があり、北庭の東が茶室蔵六庵の露地になり、ここに「吾唯足知」の蹲踞が置かれているのです。蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石が置かれています。蹲踞には真ん中が四角くなっており、それを囲むように「五・隹・疋・矢」の4字が刻まれています。また水を溜めておくための中央の四角い穴が、4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されているのが見どころであり、吾唯足知われただたるをしると読むことができます。
 この蹲踞は、水戸黄門、即ち徳川光圀みつくにが「大日本史」の編纂に当たって、西源院本「太平記」(重要文化財)を借りたことに対する謝礼として寄進されたものと言われています。
 「吾唯足知」とは、お釈迦様の仏遺教経ぶつゆいきょうぎょうの「知足のものは、貧しいといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧しい」という教えを取り入れて、」うまく図案化したものであり、仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じるものがあります。

 
      東庭と龍安寺垣
 
          侘助椿

(4)東庭
 西庭、北庭、東庭はほぼ同系統の苔庭です。庭の各所に龍安寺垣が置かれています。龍安寺垣は龍安寺垣は、背の低い透かし垣で、足下垣として代表的な垣です。外観が金閣寺垣、光悦垣、矢来垣の要素もあわせもっており、仕切りを目的に設けられることも多くあります。2重に重ねた割竹を組子にし、ななめに組むことでできる菱形模様が特徴的。垣の高さは多くが40センチから1メートル前後となります。
 この庭には豊臣秀吉(15371598)が愛した侘助椿が現在も枯れることなく立派な花を咲かせています。豊臣秀吉が亡くなってからすでに420年がたっています。樹齢は420+X10年=500年に近いかもしれません。
1)椿
 因みに、椿は日本誇る数少ない日本原産種です。椿という字は日本で誕生した字です。植物学上の種であるヤブツバキ(学名:Camellia japonica)を指して、その別名として一般的にツバキと呼ばれている。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である。ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶こうさんちゃという。
  歴史的な背景として、日本では733年『出雲風土記』にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。中国では隋の王朝(583618)の第2代皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように、海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。榴の字は、ザクロを由来としている。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは国際的には認められていない。中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。「椿」の字は日本が独自にあてたものであり、中国においては椿といえば、「芳椿」という東北地方の春の野菜が該当する。
  英語では、カメリア・ジャポニカ (Camellia japonica) と学名がそのまま英語名になっている珍しい例である。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけた。
  日本原産。日本では北海道南西部、本州、四国、九州、南西諸島から、それに国外では朝鮮半島南部と台湾から知られる。

 
      勅使門(重要文化財)
 
      茶室蔵六庵内部

(5)勅使門(重要文化財)
 龍安寺勅使門は昭和50年(1975)に西源院せいげんいんの唐門を移して建立されました。唐門はかつて江戸時代後期の寛政9年(1797)に食堂じきどうから出火した火災により、方丈・開山堂・仏殿とともに焼失しました。勅使門は昭和50年(1975)に英国・エリザベス女王が来日して訪問した際に使われました。その後1985年(昭和60年)にこけら葺の屋根が全面改修されました。 一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。
 一般的に唐門は切妻造きりづまづくり・入母屋造いりもやづくりの屋根に丸みをつけて造形した唐破風からはふがついた門です。唐門は豪華な彫刻が施されたものは向唐門むこうからもん、唐破風が妻にある簡素なものは平唐門ひららもんと言われています。唐門は平安時代後期に見られるようになり、桃山時代が隆盛期と言われています。
  龍安寺勅使門は唐破風からはふのこけら葺です。勅使門には牡丹唐草ぼたんからくさの欄間らんまがあります。 唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造きりづまづくり・入母屋造いりもやづくりの屋根の妻の三角形の部分です。
(6)  蔵六庵(非公開)
 茶室「蔵六庵」は、17世紀初期に千宗旦門下の茶人僖首座きしゅその作ったものとされている。 現在の茶室は昭和4年3月の火災後に忠実に復元された。 入口の扁額に掲げた「蔵六」とは頭、尾、四足の六つを甲羅の中に収める事から亀の意味とされ、仏教的には「六根を清浄に収める」の意であるとされる。 内部は、四畳一間で、床の間の前に幅一尺四寸の中板を入れ、それに炉が切ってある。 点前畳の南側の壁に道庫口どうこぐち、その上に掛障子の小窓があり、裏には水屋道庫がり、その上の棚に灯火を置いて、小窓の掛障子から茶室内を照らすようになっている。 珍しい作りの茶室である。  蔵六庵にある「知足の蹲踞つくばい」は水戸藩主徳川光圀公の寄進と伝わる著名なものである。  水溜に穿った中心の口を共有すれば「吾われ唯ただ足たるを知しる」と成り「知足の者は貧しい言えども富めり、不知足の者は富めりと言えども貧」という禅の格言を謎解き風に図案化したものとされている。 
(7)エリザベス女王の訪問 
 エリザベス女王は、1926年4月21日、ヨーク公アルバート王子とエリザベス妃の第1子・長女として誕生し、母エリザベスと祖母メアリーの名をもらいエリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウインザーと命名された。163612月、父アルバート王子の兄であるエドワード8世の退位を受けジョージ6世としてイギリス国王に即位するとエリザベス王女は王位継承第一位となった。
 1947年エディンバラ侯爵フィリップと結婚、チャールズ(第1王子)、アン(第1王女)、アンドルー(第2王子)、エドワード(第3王子)の4人の子女を出産した。1952年2月6日父ジョージ6世国王が崩御し、25歳の若さでエリザベス2世としてイギリス女王に即位した。
 昭和50年(1975)5月来日し、龍安寺の石庭を見学されてから有名になり世界的に有名になったという記事が出ていますが。これは間違いです。その当時日本庭園な世界から高い評価を受けていたのです。高い評価を受けていたから、日本に行ったら日本庭園を見学したい、日本庭園の何処を見たらいいかと言えば龍安寺の石庭になるでしょう。日本人の多くが日本の良さを知らないのです。世界の文化の面で最も永居を与えた国は何処かと聞かれたらあなた方は何処と答えますか、フランス、イギリス、ではないのです。日本なのです。

 明治大の初期、ヨーロッパの文化の高さに驚き、多くの日本人は全ての面でヨーロッパの方が優れていると思い違いをしました。文化の面で日本の方がヨーロッパのよりはるかに進んでいたのです。
 中世のヨーロッパはキリスト教全盛期でした。地球を造ったのも神、人間を作ったのも神、創作は神の仕事で人間のすることでないとしていました。そのため音楽家が音楽を作曲しても創作と言えば神を侮辱する行為として禁じられたため音楽家は創作と言わず変曲と称したのです。キリスト教の束縛から解放されたのはルネサンス以後です。ルネサンス以後、産業革命がありました。ヨーロッパが先進国になったのは産業革命以後です。産業革命以後以後ですそれまでは東洋の方が先進国だったのです。 ヨーロッパではルネサンス以後キリスト教の影響を受けることなく自由に創作活動ができるようになりました。この頃は写実主義でした。そのころ日本では浮世絵が全盛期でし、最もヨーロッパ人を驚かせた一つは、葛飾北斎の富獄百三十六景神奈川沖浪裏という版画があります。この大きな浪は本当の大波ではありません。北斎が感じた浪です。この絵は画家だけでなく芸術家が衝撃を受けました。ドビッシーの代表作の一つに「波」という30分弱の交響詩があります。その後日本の影響を受けて印象派が誕生し、ヨーロッパ絵画の主流になったのです。
1)東洋文化
 ヨーロッパは全ての面で先進国ではなかったのです。産業革命以前は東洋の方が先進国だったのです。東洋では中国が先進国で、日本は中国から多くを学びました。それも宋の時代まででしょう。
 画家雪舟は城主大内教弘のりひろの命を受け明に渡航しましたが。中国に学ぶべきものは何もないと称し、固有の画風を確立しました。中国に学ぶべきもの無いといった最初の人物ではないかと思います。仏教の発祥国インドは回教徒の国に征服され、仏教の中心は中国に移った。日本は中国から仏教を学んだ。密教系仏教は空海と最澄系僧が中国で学び持ち帰り、真言宗天台宗として発展させ密教の中心は中国から日本に移った。その後中国では禅宗が盛んでした。
 その後、中国では禅宗が盛んになります。初め、栄西や道元が中国に渡り仏教を学んだがこの時代になると高僧が日本の求めに応じ容易に日本に渡来するようになった。 その後、異民族の蒙古族と満州民族に征服された。元朝と清朝は共にチベット仏教を信仰していた。2016年の中国の国勢調査によると。
 ・無宗教+民俗信仰(儒教,道教)  73.57
 ・仏教                                                      15.87
 ・キリスト教                                          2.53
 ・イスラム教                                          0.45
 ・その他                                                  7.6
 この結果より、元時代以降仏教は停滞から衰退へと向かった可能性がある。すなわち、東洋文化の中心は仏教を含め中国から日本移動していたと考えられる。
2)ジャポニスム時代 
 19世紀末期から20世紀初頭にかけての日本ブームのことである。19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)への出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた。1870年には、フランス美術界においてジャポニスムの影響はすでに顕著であり[1]1876年には"japonisme"という単語がフランスの辞書に登場した。フランスの翻訳家ルイ・ファビュレは、「日本は巨人のような大股で世界に登場し、今日世界中の眼がこの国に注がれている」と記している。
 ジャポニスムは画家を初めとした芸術家に多大な影響を与えた。たとえば、ゴッホによる『名所江戸百景』の模写や、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。 なお現在も製造、販売されているフランスのかばんメーカーのルイ・ヴィトンの「ダミエ」キャンバスや「モノグラム」キャンバスも、当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。
 葛飾北斎や喜多川歌麿を含む浮世絵師の作品は、絶大な影響をヨーロッパに与えた。なお、影響を受けたアーティストとして、ピエール・ボナール、マネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、クロード・モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトなどがいた。
 あらゆる芸術分野で影響を受けたが、版画が特に影響を受けた。ヨーロッパで主流だったのはリトグラフであって、木版画ではなかったが、日本の影響を抜きにして、ロートレックのリトグラフポスターについて語れない。木版画によるジャポニスム作品としては、モノクロではあったものの、ゴーギャンとフェリックス・ヴァロットンがあげられる。
 日本の芸術は東洋のトップどころか世界のトップにいたのです。エリザベス女王が紹介して有名のなったのでなく、日本のマスコミが日本の素晴らしさに気付いていなかったのです。

4.仏殿(非公開)
 方丈の西側にある新しい建物が仏殿である。ご本尊を祀り、重要な儀式、法要を行う本堂を仏殿と言うが、竜安寺ではその本堂が無いことから、長い間方丈を代用していた。 その際には拝観を一時停止しなければならなかった。 そのために寛政9年(1797)の焼失以来約200年ぶりに総工費約3億7千万円を費やし、昭和5156年(197681)までの5年半かけて完成した。 設計は工学博士大森健二氏が担当し、妙心寺に伝わる古図に基づいて、場所、規模ともに消失前に近い姿に復元した。
  材は、すべて樹齢1千年から1千二百年の台湾檜を使用し、柱は柾目まさめ柱を使用してあります。木材の木目には、柾目と板目があります。木材を縦断した場合、年輪を縦断すると直線の木目がでます。直線だけの木目の材を柾目材といいます。ところが材木の根本と先では太さが異なり年輪うぃ縦断できない部分が発生します。この場会、舌状の模様ができます。これを板目といいます。1本の丸太から板または柱材を製材すると、必ず板目がつきます。柾目の板又は柱材をとるためには木材を4分の1にカットし、4分の1材から板又は7柱材に製材しなけれな。そのためには巨大な木材が必要であるが、日本では数百年前に本州では取り付くし九州の山奥で見つけた巨木を京都まで運んでいた、日本には1000以上の巨木は存在しないとおもわれる。
 入母屋造り、五間四方、約1552であり、屋根は銅板葺であります。檀家の法要などに使用し、左側の祭壇には天皇家の位牌、右側の祭壇には歴代住職の位牌が安置してあります。天井には日本画家武藤彰氏が描いた龍の絵があり、直径2mの円形の中に、墨と金泥で描かれている。

5.昭堂(非公開)
 仏殿とその背後の昭堂をつなぐ拝殿には、各段家の位牌が安置してあります。昭堂とは、禅宗寺院院で祖師の像や位牌を安置しておく堂のことで、開山堂、享堂ともいいます。正面に本尊の釈迦牟尼仏、向かって左側に妙心寺開祖の日峰宗舜にっぽうそうしゅん、(室町時代の院勝作、高さ43㎝)その横が竜安寺開山の義天玄詔の位牌である。
 義天は天性剛毅で、衆僧は恐れはばかったが、死に臨んで弟子たちにその画像を作ることを禁じた。細川家の意向で紫衣を勅許されために、義天の画像は紫衣を着けることになるが、先師日峰の黒衣の像に遠慮したのである。そのため弟子たちは、木造に変えて先師日峰の坐像と同じ高さの位牌をつくりいまに至っております。戒名は「勅諡大慈慧光禅師和尚」です。

      
 
      義天玄昭位牌
 
      日峰宗舜像・院勝作

 
         細川廟
 
       細川勝元像

6.西庭園(非公開)
 西の庭は、昭和56年(1981)仏殿が完成した翌年、室町時代風に復元されものである。 広さ1000坪、庭の中央辺りに2間四方の瀟洒な宝形造りの建物は、龍安寺開基の細川勝元を祀る細川廟である。昭和58年(1983)に建立されたもので、扉は室町の旧昭堂の遺構である。廟内には江戸時代の制作になる細川勝元像が安置されている。勝元像の左手前には、「細川嫡流上屋形管領職家代々」とある細川家歴代管領の位牌が並んでいる。
 細川廟内に安置される龍安寺開基の細川勝元像は、衣冠束帯に威儀をただし、右手に笏しゃくを執り、両足底を合わせて上畳あげたたみ上に座る姿にあらわされる。表情は口髭と顎髭を蓄え、やや老相の趣がある。桧木材の寄木造りで内刳りを行い、玉眼を嵌入する。首枘くびほぞの墨書銘により、明暦4年(1658)に京都の大仏師右京種久たねひさにより制作されたことが分かる。この吉野右京種久は同じ龍安寺昭堂に安置される特芳禅傑像の銘にある吉野右京と同一人物である。さらに醍醐寺三宝法院弥勒堂の空海・聖宝の2像を造っており。それらと同様に技術的にすぐれており、鎌倉的な写実主義への復古的傾向がみられる。
 
細川勝元の墓、細川政元の墓、細川高国の墓、細川稙国の墓、細川氏綱の墓がそんざいする。

7.塔頭
 明治維新で百町歩の田畑山林が没収され、全国寺院が」疲弊したと同様龍安寺も疲弊のどん底に陥り宝物の一部処分などもおこなわれました。江戸時代の「雍州府志ようしゅうふし」では21の塔頭、さらに「国花万葉記」では16の塔頭があったとされていなすが、時代とともに塔頭も退転し、現在は大珠院、西源院、霊光院が鏡容池の北岸に残っているだけです。
(1)霊光院れいこういん 
 塔頭霊光院、今は、無住の小堂、霊光堂だけが、鏡容池畔に残されている。安土・桃山時代、1583?、細川昭元の室・宗倩尼そうせんにが、妙心寺44世・月航玄津げっこう-そうしん(普済英宗禅師)に請じて創建したという。
  宗倩尼(?~1582)は、安土・桃山時代の女性、お犬の方おいぬのかたとも呼ばれていた。尾張国(愛知県)の生まれ、武将・織田信秀の娘、織田信長の妹。尾張国大野城主・佐治信方に嫁ぎ、一成を産む。1574年、夫が戦死した。1577年、京兆家当主・山城国槙島城主・細川昭元(管領・細川晴元の嫡男)に再嫁した。細川元勝・長女(秋田実季正室)、次女(前田利常の正室・珠姫の侍女)を産む。美貌の誉れ高く、30余歳で病没した。法名は「霊光院殿契庵倩公禅定尼」。龍安寺に肖像が残り、妙心寺44世・月航宗津の賛がある。かつての境内は、境内北西にあったという。大正期(1912-1926)、現在地の塔頭・大珠院の東に移された。その後、伽藍は失われるが、寺籍は残されている。

 
      塔頭霊光院
 
       塔頭大珠院

(2)塔頭大珠院だいしゅいん 
 室町時代、1493年、妙心寺22世・興宗宗松こうじゅう-そうしょうにより創建された。当初は洛中にあり、大珠寺だいしゅじと称した。また、同年、利貞尼が慈斉禅師に帰依して創建したともいう。 1532-1555/1541年以前、龍安寺境内に移されている。安土・桃山時代、1600年、石河光吉により再興されたともいう。
 江戸時代、1626年、石河重正は、亡父・雲岳宗林(石河光吉)の菩提ために再興した。一宝頊座元を中興祖に請じた。
1)興宗宗松 室町時代中期-後期の臨済宗の僧・興宗宗松こうじゅう-そうしょう1445-1522)。諡号は 大猷慈済禅師。悟渓宗頓ごけい-そうとんの法を嗣ぐ。妙心寺、大徳寺の住持になる。1494年、美濃・守護代斎藤利国に招かれ大宝寺を開く。78歳。
2)利貞尼 室町時代中期-後期の僧・利貞尼(りていに、1455?-1536/1537)
 関白・一条兼良の娘・細姫。野間入道の娘(甘露寺親長の養女)とも。美濃の豪族・斉藤利国の妻となり、夫の戦死後、悟渓宗頓禅師の弟子につき尼となる。妙心寺に大珠院、聖沢院、天授院、東海庵を寄進した。81?
3)石河貞清 安土桃山時代-江戸時代前期の武将石河貞清いしかわ-さだきよ?-1626)。通称は兵蔵、号は宗林、光吉(三吉)。美濃(岐阜県)の生まれ。父は石河光重正室は真田信繁(幸村)7女・おかね(於金殿)。豊臣秀吉に使番として仕える。1590年、小田原征伐で功を挙げ、1590年、尾張犬山城主。豊臣家の信濃木曾の太閤蔵入地代官。1591-1593年、文禄の役で名護屋城の普請工事を担う。1600年、関ヶ原の戦いで西軍・石田三成方に与し、犬山城に稲葉貞通・典通父子らと籠城した。城陥落し敗走、戦後、所領没収される。池田輝政により助命され、剃髪し宗林(雲岳宗林)と号した。京都で茶人・商人(金融業)とし て過ごした。
 ・ 龍安寺・大珠院(北区)に、真田信繁(幸村)夫妻の五輪塔を建立した。
4)真田信繁 安土桃山時代-江戸時代初期の武将・真田信繁さなだ-のぶしげ1567-1615)。幼名は源次郎、史料に幸村の名はない。信州(長野県)上田城主・真田昌幸の次男。母は右大臣菊亭(今出川)晴季の娘。1585年、一次上田合戦で徳川氏と戦い、上杉景勝の人質になる。1587年、父が豊臣秀吉に従し、大坂城へ出仕。1600年、関ヶ原の戦で、父と共に石田三成方につき上田城で籠城した。敗戦後、父と共に高野山麓の九度山に流された。1611年、父死去、1612年、出家し好白と号した。1614年、大坂冬の陣で、城外堀の天王寺口に出城「真田丸」を築き奮戦する。1615年、夏の陣で松平忠直に敗れ戦死した。49歳。
・真田幸村の墓 大珠院前、鏡容池中の小島にある。幸村の女子の一人が、京都の石川備前守に嫁しており大珠院がその菩提所であったため、この地に石川氏によって建てられたもの。大珠院は非公開となっている

 
      塔頭西源院
 
       西源院庭園

(3)塔頭西源院せいげんいん 
  細川勝元(1466-1507)が、徳大寺家より境内地を貰い受け清源庵せいげんあんを建てる。後に院号を高源院こうげんいんに改めた。その後(年代不詳)、移され西源院と号し、これを前身とするともいう。1489年、細川政元が特芳禅傑とくほうぜんけつを請じて再建したという。大休宗休だいきゅう そうきゅう468-1549)が中興する。近代、1888年、龍安寺塔頭・東皐院とうこういんを併合している。
1)細川勝元ほそかわ-かつもと 
 幕府管領細川勝元(1430-1473)。持之の子。 1442年、13歳で家督を継ぐ。 1445年、管領になり、以後数度再任され21年間在任した。摂津、丹波、讃岐、土佐国守護になる。1441年、嘉吉の変の後、山名持豊(宗全)の女婿となる。1460年、畠山義就を失脚させる。だが持豊と対立し、将軍家の跡目を巡り勝元は足利義視、持豊は足利義尚を支援し、応仁・文明の乱(1467-1477)の一因になった。勝元は東軍総帥になる。44歳。
 妙心寺の義天玄承、特芳禅傑に帰依した。龍安寺、丹波・竜興寺を創建した。和歌、絵画に親しみ、医書『霊蘭集』を著した。墓は龍安寺(右京区)にある。
2)特芳禅傑どくほう-ぜんけつ
  室町時代の臨済宗の僧・特芳禅傑(1419-1506)。諡号は大寂常照禅師。尾(愛知県)の生まれ。幼少で出家、東福寺、龍安寺の義天玄詔、美濃・汾陽寺ふんようじの雲谷玄祥、伊勢・大樹寺の桃隠に師事、1473年、妙心寺・雪江宗深の法を嗣ぐ。龍安寺、丹波・竜興寺、摂津・海晴寺、妙心寺開堂、1478年、大徳寺住持。瑞泉寺、1488年、再興された龍安寺に帰り中興開山になる。1492年、丹波・竜潭寺(旧大梅寺)開山。1504年、龍安寺・西源寺で隠退する。諡号は大寂常照禅師。西源寺より出された語録に『西源特芳和尚語録』。88歳。詩文に秀でた。弟子に大休など。
3)細川政元ほそかわ-まさもと
  室町時代後期の武将・細川政元(1466-1507)。幼名は聡明丸。勝元の子。 1486年、管領になり、亡くなるまで在任した。室町幕府の三管領の一つ、細川家の嫡流・京兆家当主。摂津、丹波、讃岐、土佐の守護になる。1482年、摂津国人茨木氏を討ち、1488年、京都で土一揆を鎮圧した。1493年、将軍足利義材(義稙)と畠山政長を討つ。新将軍に足利義澄を擁したが、義材は抗した。1504年、内衆薬師寺元一の反乱を鎮圧する。だが、養子・澄之(関白・九条政基の子)の擁立を図る内衆香西元長らに暗殺された。42歳。
4)大休宗休だいきゅう-そうきゅう 
 室町時代の臨済宗の僧・大休宗休(1468-1549)。諡号は円満本光国師。幼 くして東福寺・永明庵で出家、龍安寺・特芳禅傑に師事、印可を受けた。その没後、西源院、龍安寺、妙心寺の住持。晩年は霊雲院を開創し住した。今川義元の招きにより、駿河国・臨済寺を開山、妙心寺・尾張国瑞泉寺などを歴住した。1542年、後奈良天皇は大休に印記を受ける。天皇より円満本光国師の諡号を賜った。著『見桃録』。82歳。特芳禅傑の三哲の一人。
5)東皐院とうこういん 東皐院は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、籌室ゅうしつにより開創された。1888年、龍安寺塔頭・西源院に併合された。
6)庭園 江戸時代、1799年の「都林泉名勝図会」に西源院の庭園について記されている。「塔頭東皐院の林泉は遠景を興とす。坐して八幡、山崎、淀川のながれ、小倉の江、伏見、鳥羽、羽束師など鮮かに見えて、風光微妙なり」とある。 かつて、借景の庭として南に八幡、山崎、伏見、鳥羽まで見渡せたという。
7)精進料理 境内で庭園を望み精進料理、七草湯豆腐を頂くことができる

 
          パゴダ
 
       涅槃堂(納骨堂)

8.鏡容池 
(1)パゴタ
 五十八代住職・松倉招英まつくらしょうえいおよび無事に帰国した戦友達が太平洋戦争下にビルマ(ミャンマー)で戦死した戦友を慰霊するために昭和45年(1970)に建立した白いパゴダです。
 ビルマの戦いは、第二次世界大戦の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・国民革命軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。
 ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蔣ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蔣ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。
 日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。
 パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語である。日本では多く、ミャンマー様式の仏塔のことを指す。 東アジア諸国の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための宗教的建造物である。パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語である。日本では多く、ミャンマー様式の仏塔のことを指す。
 東アジア諸国の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための宗教的建造物である。

(2)涅槃堂ねはんどう(納骨堂)
 涅槃堂(納骨堂)、昭和四十五年(1970)に建立された。3間2間半方形屋根、2垂木、本瓦葺、禅宗様式の建造物。檀家の遺骨を納める堂。

 
          弁財天
 
         水分石

 
    スイレンの花
 
    スイレンの葉
        スイレン地下茎
 
   ハスの花と葉
 
    ハスの花托
 
    レンコン

(3)  鏡容池(名勝)   鏡容池は境内の南側半分を占めるほどの巨大な池で、四季折々の花が彩る回遊式です、平安時代の頃は、貴族が舟を浮かべて遊んだといわれています。歴代の住職が植栽に励んだため、この池は、5月から9月までは黄色や赤のスイレンの花が群生し、6月には白や紫の花しょうぶが咲き乱れる。鏡容池の周りに見られる花木には、1月はツバキ、ロウバイ、2月はツバキ、ボケ、3月はウメ、アセビ、ネコヤナギ、ユキヤナギ、4月はサクラ、こでまり、5月はサツキ、カキツバタ、アヤメ、フジ、6月はスイレン、ハナショウブ、7月はスイレン、アジサイ、8月はスイレン、9月はスイレン、ハギ、10月はススキ、11月はモミジ、12月はサザンカと言うように年間花が絶えることが無い。また、秀吉が絶賛したと伝えられる侘助わびすけ椿の老木が書院中庭のかたわらで今も枯淡な趣を添えている。 鏡容池を中心とする回遊式庭園は、国の名勝に指定されている。
 今、龍安寺の前庭に広がる池泉「鏡容池きょうようち」は、円融法皇による円融寺の園池といい、また山荘として引き継いだ徳大寺実能や孫の実貞は作庭に長けていて、二人が作庭した名残という。いけいは渡り鳥が飛来し、「鴛鴦おしどり池」とも呼ばれていた。東西120メートル、南北約65メートル、面積は2万6千平方メートル。多島式庭園であった。
1)弁財天
  260002の大きな鏡容池の中に当初6つの島があった。そのうち三つガ消え現在は、弁天島、伏虎島ふしとらじまと無名の島の三つがある。無名の島には真田幸村の墓があるという。最大に島弁天島には、弘法大師作と伝わる弁財天・毘沙門天・大黒天が祀られています。また、豊臣秀吉が鏡容池には霊力があると礼拝した弁財天を祀ったともいわれています。
  弁財天べんざいてんは、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神で あるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
 日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国 で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神むなかたさんじょしんの一柱である市杵嶋姫命いちきしまひめと同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。古くから弁才天を祭っていた社では明治初頭の神仏分離以降は、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。瀬織津姫が弁才天として祀られる例もあるが少ない。
2)水分石みずわけいし 
  水分石みずわけいしという普通名詞はない。一般に滝石組の一種で滝壺付近や流れに配置し水流を左右に分けるために使用される石です。これは確定した専門用語であるかどうはわからないが。鏡容池では水深を図る目安として利用されています。
  鏡容池は鑑賞用の池であるが、近隣農家の貯め池として利用されたことも あったようである。また大雨が降った時の調整池としての利用が可能である。水深の管理は重要です。
3)睡蓮と蓮
 鏡容池の代表植物は睡蓮である。ところが、スイレンとレンゲは同じ環境に生育し、似た葉と似た花をもつが、スイレンはスイレン目、スイレン科、スイレン属に属し,ハスはヤマモガシ目ハス科ハス属に属し、両社は親戚同士ではなく他人同士である。
-1 スイレンの花と葉 
  地下茎から水面に浮水葉を浮かせその上に花をさかせる。 開花は種類によって異なるが、午前10咲き、午後3時頃閉じる物が多い。睡眠時間が長いことから睡蓮の名が付いたちいう。花の寿命は3日程度。葉は深い切込みがある円形葉。
-2ハスの花と葉 
  スイレンと同様、浮水葉を浮かせその上に花を咲かせるものと水面から高く葉を伸ばしその上に花をつけるものの2種類がある。開花は早朝、昼には閉じます、見ごろは710時。葉は円形、ロータス効果があるのが特徴である。ロータス効果とは、葉の表面が「突起微細構造」で水を弾く特徴がある。② ハスの花には巨大な花托がある。花托はどの花にもあるが小さく目立たない。この花托が非常に大きく、蜂巣ににていることから、ハチスがハスになったと言われている。
③ 地下茎 最も大きく違うのは,ハスの地下茎はレンコンと称し食用になるが、スイレンの地下茎は食用として利用しない。中国では代用食品して利用している。ベトナム、食用しているが、その利用方法はふめい。


 




                       [前へ]     [トップページ]     [次へ]