京都と寿司・朱雀錦
(30-1)竜安寺関連・庭園の歴史
当ホームページば旧ホームページビルダー(14)で作成しています、写真等でずれが生じる場合は互換表示(ツール→互換表示設定)することをお勧めします。
* 印刷する場合クーグルクロムで検索することをお勧めします。


30-1)竜安寺関連・庭園の歴史
はじめに
 弥生時代(BC300~AD266)の日本に固有の文化と言えるもどのものはなかった。 庭園も例
外ではなく、観賞するために屋外を造形して「庭」を作ることも、大陸から教えてもらって初め
て知った。 したがって、庭の源流も他の美術と同様に古代朝鮮や中国に求めなければならない
。 

庭園文化が朝鮮または中国のいずれかが、何時伝来したか。 その時期は意外に早く顕宝元年
485既に曲水宴が宮中で挙行されている。 仏教が公伝した欽明天皇13年(552)より67年前
に曲
水宴を挙行している。
 しかし、曲水の宴を催すための施設は、あくまでも機能することを目的とした物であって観賞
を目的としたものでない。 それ故に庭園とはいえない。
 韓国の庭園史学者によると、古代朝鮮の庭園文化はほとんど大部分が中国からの輸入であると
いう。 したがって中国庭園は日本と韓国共通の源流であると言える。 
 百済と高句麗を倒し、三国を統一した新羅は、栄光の象徴として首都慶州の王宮臨海殿に雁鴨
アナブチ庭園を築造した。 その新羅王朝が滅亡して高麗時代になると雁鴨池ははやくも荒廃する

 雁鴨池は最初、日本の飛鳥末期に相当する時期に創庭され、さらに奈良末期に拡張改修されて
いる。 従って日本庭園が発足し形成される途上期にはすでに存在していた。


              1.古代朝鮮の庭園
1 雁鴨池
 雁鴨池がんおうちの概容を述べると、新羅千年の古都慶州市の王宮(半月城)の北東に王宮に付属
 る別宮がある。 その別宮(東宮)の主殿が臨海殿であり、臨海殿前面の雁鴨池に豪華絢爛た
 る石組が展開されている。 池泉は東西200m、南北180m、全面積5100坪、そして300坪の
 島と
200坪の中島と20坪の小島がある。 直角な半島が西南隅から大きく突き出している。
  その切り立った半島上に建物が北から第一、第二、第三と豪華に建っている。 この様に建物
 の
基礎を兼ねた護岸線は幾何学的な直線と直角と垂直から成っている。 これに引きかえて対
 岸の
輪郭は複雑多曲であり、およそ大中の三つの半島から構成されている。 その池岸は勿論
 のこと
三つの中島全てが、長方形に加工した石を護岸のために池底から築き上げている。 こ
 の表現は
護岸を装飾するためで護岸の倒壊を補強する役に立つものでない。

2 百済扶余の宮南池
 中国や韓国には幾何学的な池泉庭園が非常に多く、日本庭園と極端な対照を示している。 し
 かし、一つの系譜が存在するとその反対に対照的な系譜が存在する。 その一つに百済の首都扶
 ふよに現存する自然主義の宮南池きゅうなんちがある。 この池が日本に影響を与えた可能性がある
 。

                       2.古代中国の庭園
1 前漢時代
  前漢第7代の武帝は、日本がまだ弥生時代の中期頃であった建元3年(BC138)、首都長安
 の近
郊に上林苑を築造した。 上林苑の中にある昆明湖の岸辺には昆明湖を天川に見立て東西
 両岸に
牽牛と織姫の石の彫刻を設置した。

2 六朝時代
 「支那庭園論」の中で楽嘉藻らくかそうは「特殊な形をした石を賞美する風習は六朝に唐時代に盛
 んになった」と言っている。
  曹汎は「東晋、宋即ち六朝以降、更に広く造園活動が行われた。 しかし、その時期の園材の
 規模は前漢、後漢の園材に比べて小さく“中園”と言った。 そして南北期になると、巧みで精
 細で小さな小園をつくることが盛行した。 ……この様な小園の興起した一つの重要な原因は、
 その時期に山水画が現れたことである」と記す。
  前漢、後漢時代は本物と同様の巨大な築山を造った。 しかし、六朝時代の最初の王朝、呉の
 時代になると庭石を配置したと推定する、その論拠は、呉や東晋時代には、庭園の規模が中園、
 中築山になるからである。 何ゆえ大築山から中園・中築山になったか。 その理由は、庭石の
 美しさを観賞の対象とするようになると、庭石の大きさには自ら限度があるので、庭石の大きさ
 と均衡の取れた築山に縮小した。 六朝時代の庭園は形式
的には完成していたと解釈できる。
  飛鳥時代に朝鮮半島を経て我が国に伝わった庭園技術は、六朝のものであると言われている。


                      3.我が国の初期庭園
1 方形垂直型池泉の系譜
  飛鳥、奈良期の庭園は現存せず、考古学の分野になる。 昭和48年と55年の2回にわたった
 発掘によって、奈良県明日香村島庄しましょうから一辺42m四方の池泉が発掘された。 池には
 幅約
10mの堤があって、堀の上面も池底も池底面も総石敷きとなり、側面は垂直に石積してい
 る。
  この地は、馬子の墓と伝承される有名な石舞台古墳があるだけでなく、蘇我馬子邸跡である
 と
伝承があることから、蘇我家領有地内の池泉であると思われる。 しかし、「日本書記」に
 記述さ
れた「小嶋を池中に興す、故に時の人は嶋の大臣おとどと日ふ」池泉には方形の記述がな
 く、また
発掘された池には中島が存在せず、別個の池と推定される。
  発掘された方形垂直型池は、当時の歴史的事情からみて敏達天皇10年(581)頃にはすでに出
 来上がっていたと推定される。 さらにもう一つの理由として、日本人好みに改良されることな
 く、朝鮮の形式そのまま模倣しているので築造時期は極めて古いと推定される。 方形池泉の発
 掘例は坂田寺ただ一例にとどまる。
  南北10m、東西6mの長方形で深さ約1mで、島庄と比較して甚だ矮小である。 石神遺跡が
 最初調査されたのは明治35年でその時に須弥山しゅみせん石像と男女抱擁の石像が発掘された。
 この須弥山像は高さ
1.37m、男女抱擁像は高さ1.7m、いずれも内部に細い穴を貫通させた噴水
 装置を備えている。 この須弥山像は(日本書記)の斎明天皇6年(
660)5月に「石上の池の
 辺に須弥山を造る。 … 」と記されている。
   昭和56年に再度石神遺跡を調査して幅5mの石組の溝総延長30mを発掘した。 この溝は池
 の給排水溝と推定される。 以上の知見から、この遺跡は池庭を持つ遊興施設で、噴水機能を持
 つた須弥山石像や男女抱擁石像は池庭の辺に立っていたと推定できる。
   方形池泉は日本庭園史の草創期に伝来したが、二つの遺構を残すのみで全く受け入れられな
 く
姿をけした。 また須弥山石像も創始期に朝鮮から将来されたものの、方形池泉と同様の運
 命を
たどったと考えられる。

2 平面型創期池泉の系譜
  飛鳥、藤原、平城の三京に渡る時代の庭園を二大別すると人口式即ち石敷式池泉と自然式池
 泉
に分類できる。 自然式池泉も倭国の土着基層文化から芽生えたものでなく、人口式と同様
 に朝
鮮から輸入された期式であると推定される。
  人口式とは敷石を庭園一面に敷いている唐絵式系列を意味している。 そして敷石お多量に使
 用している庭園こそが、飛鳥、藤原、平城三時代庭園の主流であったとされている。
   日本土着の文化、即ち縄文時代の文化に石造文化は殆どない。 そして朝鮮文化の影響を協
 力
に受けるようになった弥生時代中期になって石造物が出現する。 即ち石棺と古墳を覆う封
 土(表
土)を風雨から守るための葺石ふきいしが登場してくる。 葺石は封土を風雨から守るだ
 けでなく装
飾として古墳全体に敷き詰める様式は、まさに非日本的である。 葺石で装飾した
 古墳は奈良市
北方のウワナベ、コナベ両古墳ほか数多く存在している。
  日本は木造文化であり石造文化でないため石造美術の遺品は誠に貧弱である。 例えば雁鴨池
 の汀線は方形の切石を高々と積上げて縁取りしている。 日本では雁鴨池を模倣することは、色
 々
の事情で実現不可能であったため、今回島庄で発掘されてように自然石を積んで代用したと
 推定
される。
 @ 石を切り出し方形に切る石工が少ないだけでなく道具も技術も無かったと思われる。
 A 財政的にも高価な切石を使用することは許されなかった。
 B 切石を使用するほど本格的な庭園は何処にも必要なく、高度な庭園を受け入れる文化
  準に達しなかった。
 
C   敷石を敷き詰めることさえ拒否反応を感じる倭人にとって切石を築いて池泉を縁取りする
  などもってのほかであった。
  以上の4項目の理由により切石は使用されず、それに代わって敷石手法が飛鳥時代の庭園草
  創
期から採用された。 しかし焼く130年下った奈良時代になると、使用する敷石の大きさ
  が次第
に小さくなり、末期になると池底には全く敷かなくなり、中島だけにわずかに施す
  ようになった。

1)板蓋宮いたふきのみやの井戸
  庭園以外の敷石手法の作例としては、明日香村にある伝板蓋宮の巨大な井戸がある。この井
 戸を取り巻く大きな敷石による重厚な構造には全く威圧されずには居られない規模である。
   このような敷石手法による装飾は、奈良期及びそれ以前の造形に付随して時折見かけること
 が、
奈良時代を最後は用いられなかった。
  これに対し、韓国では、敷石を施した塚が昔からあるのは勿論のこと、昨今でも常用されて
 いる。
2)小墾田宮おはりだのみや曲水宴施設
  飛鳥期の作例として観賞を対象とした池泉ではないが、小墾田宮の曲水宴遺構が発掘され
 た。
 小墾田に曲水宴の石庭が築造された時期は、島圧方形池泉が築造されてからおよそ20
 後にな
る。 即ち推古女帝は推古元年に豊浦宮とゆらのみやにて即位し、甥の聖徳太子を摂政とし
 た。 そ
れから10年後の推古11年(603)に豊浦宮から程近い小墾田宮移った時、庭園を造っ
 たと考
えられる。 小墾田宮跡から桁行六間、梁間3間の南廂つき東西棟の建物が検出され
 た。 そ
の建物の南側は「南庭」になっている。 この南庭に、須弥山と呉橋があったと思わ
 れる。 即
ち、日本書紀の推古天皇20年(612)に「百済より渡来人路子工みちこたくみ芝耆麻呂
 しきまろ
、皇居南庭に須弥山と呉橋を造る」ときしている。 このような人口造形物を庭園に持ち
 込むことは
倭人の感覚に合わなかったので、飛鳥時代限りで終わっている。 
  ところで須弥山と呉橋が設置された平坦で広い南庭は全域に渡って敷石が隙間なく敷き詰め
 れていた。 この造形された平坦な空間は朝廷の諸儀式に必要であったと推定されるが、ま

 一方では曲水宴を挙行するための施設で、建物(正殿)の南約
20mのところにあった。 
   @     敷石で護岸を化粧した小型の丸池(東西2.8m、南北2.4m、深さ0.5mの擂鉢状)。
   A 前記小池から南西方向にゆるやかに蛇行する敷石式小幅の溝が25m以上延びる。
   B 南東より北西へ流れる大幅な敷石式条溝があり、溝の幅1.51.8m、深さ0.40.6mで蛇
   行せず真直ぐに
47m以上伸びている。
  C その他条溝一本と小池2面がある。
  これらの曲水宴の広場は、一国の政治としての対面上欠く事のできない施設であると同時
 、外国使節のための接待場でもあった。

3 奈良時代の人口式庭園
  昭和50年に奈良市尼ヶ辻町に郵便局を建てるため昭和50年に事前調査を行なった。 その
 結果、宮跡庭園の完全な姿が白日下に現れた。
 () 奈良時代庭園界の実情
   庭園史学界が長い間待ち望んでいた古代の貴重な苑池遺跡、馬子邸跡の方形池泉(飛鳥
  期)、
宮跡庭園(奈良前期)、平城宮東院跡(奈良期)などが発掘された事によって従来
  全く見当もつ
かなかった飛鳥、奈良期庭園の実情をある程度知ることが出来るようになっ
  た。 三つの池泉
の内、特に宮跡庭園池泉は、当時の様相を完全な姿で今日に伝える貴重
  遺構である。 その
特徴を述べる。
   @    池泉の輪郭は従来の日本には全く無い意匠で、漢代に作られた竜文瓦の文様によく似て
   い
る。
   A 池泉は飛鳥、奈良期特有の敷石が池底は勿論池岸の周辺一面に隙間無く敷き詰められて
   い
る。
   B 池泉東岸の約15個より構成される集団石組は、日本庭園石組の原始的作例である。
   C この様に主要な集団石組を諸建築の中央正面に設置する地割りは大陸的である。
 () 東院庭園
  宮跡庭園に次ぐ貴重な遺構といえる。 平城宮東院の庭の上に後期の庭が築造されている。
     昭和51年度調査報告書「園地は上下二層に分かれ、大規模な改修を受けている。 発掘
  に当た
っては、まず上層遺構を検出し、その後に上層池のバラスの大部分を除去し、下層
  園地の全貌
を明らかにした。 このことから遺構は大きく新・旧の二つの時期にわかれ、新
  規は更に二小
期に細分することが出来た。 ……上層園地は下層園地の上で全面的に改修し
  た園地である。
    下層の石組や石敷などの施設を取り外し底から岸辺にかけて全面的に暗灰色粘土を敷き詰
  め、
その上に10cm内外の厚さで玉石を敷いている。 池の概形は下層園地を踏襲するが…
   」報じ
ている。
 ()  長屋王邸跡庭園
   長屋王邸には葺石を利用して形成した敷石式州浜が庭園の一部に造形されているだけで、
  奈
良初期以前の庭園のように池底や池畔全般にわたるような敷石はない。
 
  園地の州浜には5090cmの褶曲を持つ石6個を据えている。 この6個の石は三石づつ
  二
組に別れ、東南から西北に配置されている。 東南の一組は岩石の波状の褶曲を巧みに
  利用し、
中央に小形の石を立て両側から挟みこむように大形の石を据えている。 西北の
  石組は、原形
をすこし移動しているかのようだが、同じように小形の石を挟んで大形の石
  を配置している。
     長屋王邸の庭石こそ日本庭園庭石布石第一号と言える。
     雁鴨池が築造されてから36年後の和銅3年に長屋王邸庭園が作られた。 しかし両庭を
  比較
すると水面と池汀と庭石三者の関係はあまりにも違う。 即ち長屋王邸の庭石は岸辺
  と水面を
連携するため布石されたかのように、庭石と汀線と水面は三者一帯の密接な関係
  を示している。
 () 宮跡庭園「北宮宮跡庭園」
 
   奈良時代以前の庭園は全て埋没しているため発掘に頼らなければならない。 「北宮宮跡
  庭
園」(通称宮跡庭園)は殆無傷の状態で発掘された。 水面の幅は広いところで5〜6
  、」狭い
ところで2m、水深は20センチ、南北の直線長さ約40m、延長約55mである。 
  池泉輪郭は
竜を図案化したもので、その図柄だけでも皇室に極めて関係の深い池泉である
  と推測できる。

    池底は勿論のこと汀の周辺も敷石が密度高く敷き詰められている。 長屋王邸池泉では
  敷石が
殆どなかったことより、敷石は装飾だけでなく、格式を表しているものと推定され
  る。 出土
した木簡から、和銅7年頃の築造と考えられる。
   中国や朝鮮など東アジア諸国を除く外国の庭園と日本庭園の大きな違いは自然石の敷設
  があ
ることで、その自然石の使用が奈良期の庭園からはじまった。 和銅3年頃に築造さ
  れた長屋
王が最初でその時使用された石はわずか6個の配置にとどまった。
     これに対して宮跡庭園の場合は一挙に薬40個に増加している。 更に平城宮東院上層石
  組は、
60個の庭石で構成されている。 従って長屋王池泉からわずか4年で庭石の数量は
  著しく増加
したのは勿論のこと、空間的にも広範囲に布石されて大きな進歩を遂げた。
   平面型盛期池泉に対して末期池泉の特徴は、敷石手法が急激に衰退して次第に消滅して
  行く
過程にある。 その顕著な例として、同じ東院庭園でも、旧庭(下層部)は期に属し
  、新池(上
層部)は末期に分類される。 しかし、新旧両庭の年代差は、わずか35年に過
  ぎないが、その
間様式が急速に変遷(日本化)している。
 () 奈良期造園界の概況
     敷石によって地面を装飾するという平面的造形方は、奈良時代の特徴であるが、飛鳥期
  から
継承したものである。 これに対して庭石の出現が奈良時代からであることは特筆す
  べき重大な事件である。
   庭園の草創期である飛鳥時代主要な観賞対象物を決定するために、あれこれと試行錯誤し
  た。
 小墾田の須弥山や呉橋を設置して観賞物とした。 そしてそれらの人工物は、排除さ
  れ、それ
に代わって自然石が新しく登場すると、これがたちまち定着することになる。 こ
  のように不
動の地位を確保するに当たっては、日本人の意思が強く作用したと推定すち。 
  かくして奈良
時代時代になると自然石が観賞物が独占的地位を確保した結果、日本庭園の性
  格が決定されて
1200年けいかした。
   これら庭石の源流は雁鴨池であるが、その石組の内容は大きくことなる。 それゆえ雁鴨
  池
という特定の庭園の庭石を模倣したというよりも、庭石を配置して観賞する方法を朝鮮か
  ら学
んだと解釈すべきであろう。 即ち、先進国新羅の布石を無条件で受け入れたのではな
  く、日
本の社会主義事情に応じて身分相応で、しかも日本人の性格に合致する布石を選択し
  たのであ
る。

4 自然主義池泉の系譜
 () 白鳳期の自然主義池泉
     藤原宮の自然式池泉は大極殿から東方約50mの地点で南北に長く掘られている。 そして
  池
泉は藤原京へ遷都してきた持統天皇8年(694)ころに掘削したと推定されている。
     万葉集に読まれている勾まがり乃池が造成されて50年後の作となり、自然式庭園も形式的
  に一
応完成した時代である。 猪態兼勝は「飛鳥・藤原の園池遺跡」で次のようにのべてい
  る。「藤
原宮の園池は、内裏外郭と大極殿院の間には挟まれた空間で、南北に細長く湾曲し
  た礫敷の大
池と細長い玉石敷の小池を発見した。 …これまでの3箇所の調査に基づき、大
  池を復元すれ
ば、南北65m以上、東西1540mとなり、池の南西にある建物に面するきし
  には礫を敷き詰めていたことになる」。 この園池は飛鳥期と奈良期の自然庭園とを結ぶ唯
  一の白鳳期遺構である。 その理由は以下の通りである。
   @     本庭を自然主義系列に分類する理由は、池底には敷石ないからです。 本池が「自然主
   義
池泉」の始祖かあるいは一つ前の勾乃池が始祖となる。 「勾乃池」は「方の池」に
   対する
対照的な呼称であり自然池と考えられる。
   A     池汀を礫でたたきしめるという藤原宮の手法が勾乃池からの継承であるか否かが不明で
   あ
る。 したがって礫敷手法としては飛鳥区域から発見されない限り、本池泉が、第一
   号であ
り、奈良期以降も末永く続く受け継がれる重要な手法である。
   B 勾乃池のある島庄付近は、地形が起伏に富んでいるので池泉を作るためには、自然の地
   形
を利用した可能性が強い。 そのための池泉の構造や形状には人為性は非常にすくない
   自然
に依存した可能性が大きいと推定される。 これに対して藤原宮は平坦な土地である
   ため、
池泉の深さや形状が設計者の意図に添って作られている。 また大池から南東方向
    30
mの小池も深さ10cmである。 このように池泉が非常に浅いことは、飛鳥期の方形垂直
   型池泉と
根本的に異質である。
 () 奈良初頭の自然主義池泉
   奈良期作の自然主義池泉の遺構としては、奈良遷都直後の和銅6年(713)頃、平城京の
  北西
端に「西池宮にしのいけのみや」佐紀池が作庭されている。 西池宮ではないかと推定され
  る佐紀池
について、昭和52年の奈良国立文化財研究所年報に次のようにきされている「佐
  紀池は、平城
京の西北にある東西160m、南北150mの不整型の溜池で、明治17年に現在
  の一条通りに築堤
して作られた比較的新しい池である。 池の2/3は特別史跡平城宮跡の
  一部として国有かされ
ている。 一方、北側の1/3は私有地であり、今回の調査はこの部
  分を対象とした。 岸は傾斜約
10度の緩やかな斜面で、拳大の石を幅2m程敷く。 東岸
  には大小の自然石が配されていたらしい。 池底は南へ緩やかに下る。 池
底には厚さ50
   cm
の植物腐敗層があり、奈良時代から平安初期の遺物が出土した。 …佐紀池の北端部が
  奈良時代の園池であったことが明らかとなった。 この地域は奈良山丘陵の谷筋に
あたり
  、自然地形を利用した園池である。 規模と形は現在の佐紀池とさほど大きな差はなか

  たと推定された。
    佐紀池は中世頃に埋められ水田になったとみられ、明治17年に再び農業用ため池として
  つく
られた。
 () 奈良末期の自然主義庭園
   称徳天皇山荘跡の庭園は、西大寺奥院の北北西約200mにある。 この池は幅18m、長径
   55
mあり、その中央西に中島がある。 付近の地形は北西に高く、東南に低く傾き、池の北
  西隅
に湧泉のあった跡がある。 現存する池庭跡地は足を踏み入れようにも沼のようになっ
  ていて
近寄れない。 …かくして当時の自然主義式園池はおそらく、勾乃池をはじめ佐紀池
  も堰堤を
造るだけで簡単に池泉が造れる地形を選んだ。 称徳天皇山荘庭園もその例にもれ
  ず、三方を
山地に囲まれ、作庭するには恵まれた条件をそなえていた。
   山荘の自然主義的庭園が、奈良時代末期に築造されたことは、調査と発掘と文献によっ
  て証
明された。 この奈良末期作庭説確定によって平安初期の嵯峨仙宮大沢池とのつなが
  りも合理
的に説明できる。
 () 八上池
   この池は今日まで一般には単なる溜池とかんがえられていた。 そうした時曲水宴を催し
  た
松林苑の池の候補池として平城宮の北にある八上池が上げられた。 この池は東西約110
   
m、南北約180mのかなり大きないけで、池中に小島が二つある。

4・平安時代より鎌倉時代まで
1 平安時代の庭園
 () 唐絵より大和絵への変革時期
     宮跡庭園、東院庭園等奈良期の庭園は非日本性を更に徹底させた人工性の強い造形で、
  作庭
記流と全く相反する系譜である。 平安初期の庭園は、奈良期の唐絵式に対立する作
  庭記流と
の中間的な造形であると推定する。
   奈良時代の人工的な敷石式系列から脱却する過程にある平安期前半の特色は、日本独自の
  文
化即ち自然主義に大きく変革しようとする過程にあって、進むべき進路を色々試行錯誤
  した時
代であった。 そして初期後半になると、日本の習慣や心情に立脚する「作庭記」
  がいわゆる大和絵式庭園という形態で完成する。
 () 平安時代の庭園
  「作庭記」の著者は藤原道長の孫、即ち関白頼道の子である橘俊綱であるというのが定説で
  ある。 時は平安時代の中期、藤原文化の全盛期である。 従って内容は、寝殿造り建築に即
  応した庭園の造り方や当時の造園手法を詳しく記した造園書である。
    その影響は大きく、平安中期は勿論のこと、末期から鎌倉初期にまで及んだ。   庭園が
  形成される色々な要因として、当時の社会情勢や生活様式非常に重要であるが、さらに直接的
  なに影響を与えるのは、その時代に流行する絵画である。 従って平安後期の庭園が当時大き
  な支配力を持っていた大和絵の造形理論(思想)に忠実であり、平安後期の庭園を作庭記流庭
  園とか大和絵的構成の庭とか読んでいる。
  作庭記流の特徴は庭石による造形が極めて消極的、女性的である。 石組が女性的であるた
 めには石組を受ける地形、すなわち、野筋
のすじ(女性の乳房のような形の低い築山)の起伏や
 池汀の輪郭も当然単純無変化でまければならない。 

  作庭記流の要点は次のとおりである。
 @ まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く閉めている。
 A 中島の形は小判型で少しも角ばったところがなく、低い姿勢を示している。
  B ふっくらと盛り上がった野筋がゆるやかな傾斜をしめしている。
  C のどかな傾斜線が、そのままなだらかに池そこへつながって行くので、池岸が直角に切り
    立ってなく、池底も急角度に深くならない。
  D その最後の条文に「屋の軒近くに三尺(90cm)に余れる石を立つる事特に憚るべし。
     三年のうちに主変事あるべし。 また石を逆さまに立つること大いに憚るべし」と記して
  い
る。 以上のように庭石を据えるに当って、あれも悪いこれも悪いと手も足も出ないと禁
  止
するのでうかつに布石されないことになる。
   京都には神泉苑や冷泉院、朱雀院、淳和院などの庭園があったといえる。 現在ではその
   一部をのこす神泉苑に往時の姿を偲ぶことが出来る。 また郊外の景勝地を選び離宮や別荘
   を営んで庭園をつくるのはこの頃から始まったとされ、京都市右京区嵯峨にある大覚寺の大
   沢池は、嵯峨天皇が離宮の苑池として作ったものの遺構とされ、平安時代初期庭園の貴重な
   遺構である。 その庭園の主要部である大沢の池は北岸に近い大小二つの中島と池中の立石
  、
また北側の名古曾の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影を今日にしのばせている
  。
 平安時代の貴族の邸宅は寝殿造りでその建築様式は普遍化し、それに伴って庭園の様式
  も
寝殿造り庭園(作庭記流)としてその形式を整えていった。
   また平安時代中期から浄土教の影響で西方浄土の極楽に見立てた浄土庭園が流行した。 
   例えば平等院、浄瑠璃寺(木津川市)、旧大乗院庭園(奈良市)、円成寺庭園(奈良市)、
  毛越
寺庭園(岩手県)などがある。
2 鎌倉時代の庭園
 () 日本庭園史学
     日本庭園史が学問として形態を整える上で、最も重要な石組の系譜を体系づけずに日本庭
  園
史学は成立するとは考えられない。 例えば日本建築は和様、唐様、天竺様の三種に分類
  され
ている。
   1) 庭石の状態
 
      庭石を新しい発想に基づいて唐様を三角形、和様を四角形であると最も簡素な原則をた
   て
てみた。
   2) 石組の状態
      北画に範を求める唐様石組が、縦線を強調して峻険さを表現している。 例えば三個の
   石
を組む場合に、同じ高さのいしばかり三個並べるのでなく、一番高い石を中央に立て、
   その
両側に低い石を据えて三角形的な構造方式を取る。 この三角形的な基本型を保ちな
   がら連
続に発展させてゆくために築山を造り、その傾斜面に沿って順次高く、そして奥深
   く構築し
てゆくことになる。 この典型が天龍寺の竜門瀑であり、いわゆる嵯峨流石組の
   手本である。
      これに対して和様は三個の庭石を組み合わせる場合でも高低差のない石ばかりを平面的
   に
構成することを特徴としている。 そのため三個以上の集団であっても、立体的でもな
   けれ
ば、奥行きの深い構成でもなく、ただよこへ幅広く広がり、際立った立石がない。 
   したが
って一石が周辺の石組みを支配征圧するような構成法をとらない。
 () 作庭記流
   「作庭記」の著者は藤原道長の孫、即ち関白頼道の子である橘俊綱であるというのが定説
  で
ある。 時は平安時代の中期、藤原文化の全盛期である。 従って内容は、寝殿造り建築
  に即
応した庭園の造り方や当時の造園手法を詳しく記した造園書である。 
  作庭記流の特徴は庭石による造形が極めて消極的、女性的である。 石組が女性的であるた
   めには石組を受ける地形、すなわち、野筋のすじ(女性の乳房のような形の低い築山)の起伏
  や
池汀の輪郭も当然単純無変化でまければならない。 
    作庭記流の要点は次のとおりである。
  @ まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く閉めている。
   A 中島の形は小判型で少しも角ばったところがなく、低い姿勢を示している。 
   B ふっくらと盛り上がった野筋がゆるやかな傾斜をしめしている。
   C のどかな傾斜線が、そのままなだらかに池そこへつながって行くので、池岸が直角に切
     り立ってなく、池底も急角度に深くならない。
   D その最後の条文に「屋の軒近くに三尺(90cm)に余れる石を立つる事特に憚るべし。 
   三年
のうちに主変事あるべし。 また石を逆さまに立つること大いに憚るべし」と記して
   いる。
    以上のように庭石を据えるに当って、あれも悪いこれも悪いと手も足も出ないと禁止する
    のでうかつに布石されないことになる。
() 竜門瀑
  1) 四条流の竜門瀑
      苔寺山上部枯山水大滝組は、天龍寺、金閣寺の両竜門瀑と共に滝組の三大傑作と評価され
    ている。
 2)天龍寺庭園
     屈曲や凹凸の少ない天龍寺の池泉は、円形に近い輪郭で、鎌倉初期の和様地割である。こ
   れに対して巨大な竜門瀑や石橋や岩島などは模範的な北画的構成である。
     このように池泉は和様の円形であるが石組は唐様という異質の取り合わせは、全く奇妙で
   ある。
    この竜門瀑が何時ころ誰によって構築されたかについては元亭釈書げんこうしゃくしょに「(建長
  に)居ること
13年には京都建仁寺に遷す。 …後嵯峨上皇は道隆のほまれを聞いて、宮中
  招き法化を請われた。」と述べている。 もともと中国より渡来僧蘭渓道隆
らんけいどうりゅう
  請により鎌倉より上洛して建仁寺の住職となった。
     上皇のお招きに応じておそらく文永元年(1265)宮中(嵯峨仙宮)にて禅問に解答申しあ
   げ、上皇がいたく感動された。 その時期と仙洞御所が造営された期間が完全に一致するこ
   
とよし、道隆の作と推定される。
 () 道隆と嵯峨流
    文献派は、天龍寺の竜門瀑も夢窓国師の作と主張しているが、これは明確に否定できる。
 な
ぜならば、竜門瀑という中国固有の題材と言い、また北画的構成であること。 さらに日本
 離
れの重厚冷厳な構造は、大陸よりの来朝者の創作する以外に日本で自然発生する可能性はな
 い。

   金閣寺の前身西園寺山荘の竜門瀑は誰が造ったか、その答えは、竜門瀑の元祖欄渓道隆一派
 であると推測される。 その理由は次の通りである。
  @ 蘭渓和尚が建仁寺の住職になるために上洛したのは、もともと勅請による。
 A 蘭渓を
宮中に召された後嵯峨院の中宮姑子きつこは、西園寺実氏の娘である。
  B 西園寺家は頼朝以来、鎌倉幕府と密接な関係があったので鎌倉幕府と朝廷の窓口の役を持
  っている。
  C 来朝してまもない蘭渓を建長寺開山に招じたのは北条時頼である。 すなわち、
      嵯峨院 → 中宮姑子 → 西園寺家 → 北条家 → 蘭渓
    この人的なつながりとともに重要な機縁は、亀山殿の造営に努力したのは、太政大臣西園寺
  実氏であった。 従って蘭渓が西園寺山荘に竜門瀑を構築したと推定できる。
 () 苔寺の布石時期
     池の輪郭から鎌倉初期の作であることは今や明白である。 それでは現在に残る石組は何
  時
ごろ布石されたのであろうか。
     苔寺の枯滝組は一見和様系庭石のようでありながら、内部構造は唐様的性格が混在してい
  る。 
従来の作庭記流時代には見られない圧倒的多数の庭石を使用している。
     苔寺の山頂部や池泉の布石された「多量の石組」は池泉が掘られた鎌倉初期当初のもので
  な
く、鎌倉中期以降の新系譜であることが判明する。
   和唐折衷の苔寺石組の布石時期は唐様元祖の天竜・金閣寺両竜門瀑が出現した後でなけれ
  ば
ならない。 その両庭に姉妹の竜門瀑が構築される事情にあったのは鎌倉中期のみである
  。 こ
の時代に両庭が共通の依頼主又は同一の作者によって布石される可能性が考えられる
  。 その
共通の依頼主が西園寺実氏である。
     嵯峨流秘伝書に了遍りょうべんと言う石立僧が禅林寺の庭を造ったとあり、調べると苔寺作庭者
  
としての諸条件を一身に集めていることがわかった。
   了遍は、西園寺公経きんつねの孫、左大将実有の息子で、嘉禄かろく3年生まれ、長じて仁和寺に
  
入寺している。 了遍僧正は弘安こうあん10年(1287)に禅林寺殿(離宮)の庭を造っている。
     了遍が禅林寺などに瀑などを造ったのは61歳のときである。 その当時庭を造る責任者は
  相伝
そうでんを受けた者でなければならなかった。 特に上皇の離宮などを造る場合はなおさら
  その資
格を必要とした。 なぜなら「作庭記」が「石を立つるには、多くの禁忌あり、ひと
  つもこれ
を犯しつれば、主常に病あり、ついに命を失い、所の荒廃して必ず鬼神のすみかな
  るべしと言
えり」とあるからである。
     了遍は庭造りの家元、仁和寺の僧正であり、出身が清華であるのは勿論のこと、後深草天
  皇
や離宮禅林寺殿の主亀山天皇にとっては叔父に当る。
   ところがこのように離宮の庭園を作るという最高の実績をもつ了遍は元祖の徳大寺静意と
  共
に山水図の相伝者系図から除外されていた。
   1) 平安中期の造園界は作庭記流が支配的な位置にあったと推定される。 しかし、平安末
   期
になると、消極的な石組の作庭記流に対し積極的な石組を特徴とする仁和寺流が出現し
   た。
 そして初代の徳大寺静意じょうい以下、兼意、林賢、静空など傑出した石立僧の輩出
   により仁和
寺流が造園界の主流になり、本家の作庭記流は衰退しやがて消滅した。
      ところが鎌倉時代初期になって、比叡山より慈円の坊官増円(作庭記流)が仁和寺の石
   立
僧になってから積極的な本流に対抗して消極派(作庭記流)を作った。 増円は師匠慈
   円や
兄に当る九条兼実等を背景に勢力を拡大し仁和寺派内の多数派になり、本来主流であ
   る了遍
や仁和寺派の元祖である静意までも山水図の相伝者系図から除外したのである。
      そして、仁和寺派は「作庭記流」よりの庭を造るのは当然であるが、本来本流である了
   遍
等の積極派は仁和寺派を離脱し、かって存在した嵯峨流を襲名しより積極的な石組(男
   性的
庭園)をめざした。
 2) 秘伝書「山水並野形図さんすいならびにのがたず」(山水図)
   「作庭記」は作庭方法論書として世界最古の物で、王朝の住宅建築様式である寝造りを前
   提として書かれている。 これに対して山水図は鎌倉時代の武家や寺院、公家を含める全て
   
の庭を対象としている。 山水図は美馬入道浄喜が秘伝書5巻を文安5ぶんあん年(1448)僧a
  い伝授した。 僧aは5巻のうち2巻を上下1巻にまとめ「山水並野形図」と呼んだ。 僧

   
aが5巻のうち3巻を除外したか、その理由は不明である。
 () 毛越寺庭園
     奥州平泉の毛越寺もうつじは永久えいきゅう5年(1117)に鳥羽天皇の勅願と二代目藤原基衡もとひ
    ら
の本願によって創建された物である。 その苑池は平安末期の典型的な池泉地割そのまま
  保
った貴重な遺構であるため、かずある庭園の中でも第一級の文化遺産として高く評価され
  てい
る。 従って本庭の石組もまた、当然平安末期の布石であると信じて疑う者はいなかっ
  た。

     池泉の南西には、作庭記流のなだらかな野筋では」なく、明らかに唐様であると判定でき
  る
断崖状の急峻な築算がある。 その築山の突端には高さ2.2mの巨大な立石をはじめとして
  、立
石を主体とする石組が築山の北西部に配置されて、ひときわ人目を引いている。 また
  池泉の
南東部にある岬状州浜や中島にも驚くほだ多量の庭石が配置されている。 とくに中
  島に立つ
2.4mの巨大な石が創庭当初に立てた石であると信じられていた。
    これに対して「日本庭園史新論」は創庭されてから約110年ほど経過した鎌倉中期に、唐
  様
の造形思想に基づいた石組構成であるという見解を提唱した。
   1) 作庭記には「石を堅型に高く据えるな」の禁忌があり、作庭記流の掟が破られてい
   る。

  2) 荒磯造形の矛盾 平安時代の池泉は舟を浮かべ詩歌管弦などして遊ぶことを主要な目
   的と
した。 そのため池泉は出来るだけ広々と大海らしく見えるよう心がけて造られた。
   荒磯
を象徴した石組は作庭記流ではない。
  3)東隅の
大干潟は対岸の円隆寺本堂から視野圏外にあるため布石されず作庭当時の姿を留
   め
ている。 干潟の汀線は大和絵特有の美しい曲線を示していて平安期そのままの原形を
   今も
保っている。
 () 南禅院庭園
   洛東南禅寺の塔頭南禅院庭園が、何時、誰によって築造されたか明白でなく、南禅院研究
  の
根本資料となる「天下南禅寺記」と「百大清規抄」の記載も明確でない。 また、両書に
  登場
する竺仙梵僊じくせんぼんせんが、現存する庭園の造築に果たして関与したかが不明である。
   今ま
で竺仙梵僊が作庭家として浮かんでこなかった。 しかし、両書を読むと現存石組の
  布石者を
竺仙梵僊と推定することが出来る。
  1) 竺仙梵僊の経歴
    竺仙梵僊は1293年に中国淅江せつこう省に生まれ、俗姓は徐じょ氏。 18歳で落髪してよ
   り
幾多の高僧について修行して古林清茂くりんせいもんの法を嗣ぎ、1329年明極楚俊みんきそしゅん
   共
に来朝した。 時に37歳であった。 竺仙は来朝して3年目の元弘げんこう年(1332)に
   北条
高時の要請によって、鎌倉五山の一つ浄妙寺の住職となった。 北条氏が滅びると引
   き続き
足利尊氏の帰依を受けた。 その後、浄智寺南禅寺(十三世、十六世)、真如寺、
   建長寺(二
十九世)住職となり、建長3年57歳で亡くなった。
 2) 天下南禅寺記
   「天下南禅寺記」は南禅寺の住職大有有諸だいゆうゆうちょによって応永おうえい20年(1413
    編著された。 ここで気付くのは、滝をことさら瀑と言う字で表現しているので、唐様の
  竜
門瀑で合ったと推測することができる。 従って唐様瀑こそ、了遍僧正が当時禁忌である
  こ
とを承知の上で作った瀑であったに違いない。
 3) 竺仙梵僊作庭説
   南禅院庭園を調査するための根本資料として「天下南禅寺記」があるが、肝心なことには
   現存する池泉は、亀山上皇時代の池泉と同じ場所であるか、それとも別な場所に新しく掘ら
   れたのかの疑問である。 そこで文献を離れ池泉の地割から判断すると、現在の池泉は、瓢
   箪形を呈している。 その後の埋め立てにより変形しているが、南北朝期の重要な特徴があ
   る。 また南禅院石組の一部には、その当時、まだ日本人には構築することが出来ない純粋
   唐様石組の遺構がある。 従って南禅院庭園の南北朝期作庭説は正等な伝承であることが是
   認できる。 それ故に作者は必然的に来朝僧でなければならない。 その条件に適合するよ
   うに竺仙梵僊は南禅寺第16世住職在任中に作庭したことが古文書に記載されている。
   その他、恵林寺庭園、建長寺庭園等が竺仙梵僊の作庭と推定されている。
 () 池泉地割の変遷
  平安時代初頭に築造された大沢の池は円形状を呈している。 それ以来、平安末期までの
  400
年間と、さらに鎌倉初期と中期の100年合計500年間、池泉は円形を基調とする和様形地割
 り
が造りつずけられた。 それから明確な竜池形の池泉が出現するのははるかに下って室町初
 期の応永おうえい年間であり、それ以降末期までの約
450年は唐様系の地割時代となる。 従って
 和様(円形)池泉と唐様(竜形)の中間に鎌倉末期の模索形と南北朝期の瓢箪形池泉が介在す
 る。
 1) 鎌倉初期の地割
   洛北嵯峨大覚寺の大沢の池は、京都に現存する庭園としては、最も古く、平安初期そのま
   まの池泉輪郭を今日に伝えている。 平安時代は舟遊びを目的としたので中島は一つあれば
   十分であった。
   鎌倉初期に作られた西園寺山荘(金閣寺)の池泉は鎌倉時代に作られた多くの池泉の中で
   は比較的広い面積を保有している。 しかし、現在の錦湖池は、石組を変え中島を-増加し
  た
ため、舟遊びには適さなくなっている。
 2) 鎌倉中期の地割
   鎌倉初期になってからの石組は、苔寺や浄瑠璃時など観賞の対象物として一段大きな存在
   となってきた。 そしてまた同時に舟遊びするにも便利な地割と十分な面積を備えている。
     これに対して鎌倉中期になると池泉が舟遊びのために新しく掘られることはなくなり、庭
  園
の主要目的は舟遊びから池泉の形状や中島、野筋などの地割の変化及び石組を観する方向
  に
移ってきた。 従って池泉の面積は著しく狭くなるが、その代りに、景観を主要な目的と
  す
るために、池泉の片隅にあった中島が観賞の主役となった。
    そしてまた舟が運航されなくなるため、多数の中島が景観本位に配置されて、この時代に
   いわゆる日本庭園の基礎となる地割が形成される。 鎌倉中期には、その時代に相応する円
   形多島式地割が出現した。
        目的の変化による地割と形式分類

鎌倉初期

舟遊可能な回遊式

西園寺山荘、苔寺、称名寺

中円形

鎌倉中期

回遊可能な観賞式

専修寺北池、竜泉寺、天龍寺

小円形

鎌倉末期

石組座視式

専修寺南池、恵林寺、兵主大社

模索型

南北朝期

石組座視式

知恩院、南禅寺、等持院

瓢箪型

 3) 鎌倉末期の地割
   唐様化の経路は、創作、模索、試作、定着、完成、絶頂の六段階に分類できる。 石組が
   上記のような変遷をするための舞台となったのは言うまでもないが、地割の変遷もまた石組
   と同様に六段階に区分しなければならない。 鎌倉末期の地割は模索型である。 模索型の
   作例として兵主大社を挙げることができる。 
   鎌倉中期の池泉は、小面積ながら鎌倉初期の円形基調を依然踏襲している。 これに対し
   て、鎌倉末期になると、いかにして唐様石組を効果的に展開すべきか迷って受け入れの基盤
   となる池泉の形状に一定の地割を見出すに至らず、模索時代に突入する。
    このような混乱時代を経て南北期を向かえようやく瓢箪形に統一される。
 4)南北朝期
     鎌倉中期になると舟遊びは廃れて、池泉は著しく小さくなるかわりに、中島が観賞の対象
   となるため、大きくなり、数も多くなる。 この期までは石組を重視しない「和様地割」時
   代であり、その次の鎌倉末期と南北朝期を「過度期地割」時代に分類し、そして竜池式地割
   が出現する室町初期時代を「唐様地割」時代と「日本庭園史新論」は名づけて、地割を三大
   別している。
 () 鎌倉期庭園史観の相違

 

日本庭園史新論の見解

文献派の見解

来朝僧

仁和寺派

鎌倉中期

天竜寺(蘭渓)

西園寺山荘(蘭渓)

毛越寺(蘭渓)

苔寺(了遍)

 

鎌倉末期

恵林寺(竺仙)

兵主大社

建長寺(夢窓)

恵林寺(夢窓)

南禅院(夢窓)

南北朝期

南禅院(竺仙)

建長寺(竺仙)

宗隣寺

天授庵

天竜寺(夢窓)

苔寺(夢窓)

  時代が南北朝期まで下がったからといって、日本人が三次元の石組を突如として構築出来
   る様になる者ではない。 文献派が夢想国師を竜門瀑の創作者とするためには、唐様石組の
   先駆的作品が少なくとも鎌倉中期頃までには出現していなければならない。 
   天竜寺、金閣寺の両竜門瀑に匹敵する重厚で構造性に富んだ滝組が日本人によって構築さ
   れるには、室町中期の常栄寺の滝組まで待たなければならなかった。 即ち、天竜・金閣の
   両竜門瀑ほどの傑出したぞうけいは、鎌倉中期から室町中期までの「220年間、全く構築さ
   れなかった。 その理由は、唐様石組の出現によって、模索と混乱と対立を生じ造園界はい
   まだかって経験したことのない苦悩を続けた。 そのような事情から鎌倉末期と南北朝期は
   模索のための沈滞期であり、また転換のための寡作期でもあった。 


                     5・室町時代以降江戸時代まで
1.金閣寺庭園
  応永
おうえい元年(1394)足利義満は、その子義持に将軍職を譲り隠居の地を探した。 義満
 は、応永4年西園寺実永より北山第きたやまていを譲り受けた。 それ以来義満は実に14年間の
 期にわたって造園に努力している。 ただし、庭園の本格的な築造は応永
11年から15年に
 けてなされた。 現在の石組の大部分は当時の布石によって占められている。

 1) 中島の仁和寺流石組
   金閣寺庭園の広大な池泉には大小様々な中島や岩島が散在し、また池汀には護岸を兼ねた
   石組もあって絢爛たる空間構造を広げている。しかし、これらの石組は室町初期から江戸初
  期までの間に改修されたと推察されている。 

 2) 任庵主作庭説
 
  満済まんざい僧正は権大納言今小路師冬もろふゆの息子で、義満の猶子となった。 応永2年に
  
18歳で醍醐寺74代座主となり32歳で大僧正とった。 そして義満死後の20年間三管領(斯
  波、細川、畠山)と共に幕政を司り、義持ち死後は義教
よしのりの政治顧問として「黒衣の宰相
  」の貫禄を示した。 満済は、室町初期に相国寺の画僧任庵主
にんあんじゅの監督下で金剛
  院(現三宝院)庭園の布石を行なっている。 満済は任庵主の手腕を最も高く評価し、二

  の間には長い年月の交際があったことが推測できる。 

     そこで25年前の応永10年頃から15年にかけて作らせた金閣寺庭園の有力な布石候補に
   浮び上がってくる。
 3) 金閣寺正面の中島
   中島の面積は昔の約6倍拡大したと言う推定を前提に観察すると、金閣からながめて、中
   島の長さが左右両端の釣合いが取れるところまで、中島を東側に延長したに相違ない。 し
   かし、中島西端は平坦でしかも著しく後退している。 金閣からの眺めはなぜか左右の均
  衡が取れていないように感じられる。 その結果、金閣と中島の中間西よりに、九山八海
    くせんはっかい石をはじめとする岩島を配することによって、中島西端の後退と低さを補足してい
  ることが判明した。

2.浄厳院庭園
  京都に近い近江国には江戸期とそれ以前に作られた古い庭が約60もある。 従って京都の
 90に次、第三位の兵庫県20をはるかに引き離す庭園の宝庫である。 しかし、60庭の
 ち景観の優れた
40庭はすでにかなり詳しく調査されているが、残りの20庭は研究されないまま
 、殆ど白紙の状態にある。 これらの未着手の庭園で何処となく由緒がありそうな庭園に
たま
 たま出会うことが出来た。 その池泉とは滋賀県蒲生郡安土町の浄厳院
じょうごいん庭園であ
 る。
 1) 初期竜池と半島地割
   浄厳院は織田信長が建てたてらである。 この地はもともと近江源氏佐々木六角家の菩提
   寺、天台宗慈恩寺が建っていた。 ところが、佐々木家との戦いに勝った織田信長は、天台
  宗を敵視し、慈恩寺に火を放って灰燼にしてしまった。 そして信長は、かねて親しい関係
  にあった僧を呼んで、浄土宗の浄厳院をその地に創建させた。 しかし、庭園だけは慈恩寺
  時代の遺構であると言う。 佐々木時代即ち室町時代の作庭された可能性がある。
 2) 室町時代初期の庭園
  旧慈恩寺池泉が何時頃創建されたかについて、文献がなく正確なことは判然としない。 し
 
 かし、実測して輪郭を描き出した結果、室町時代初期に応永20年前後と推定される。
3.三宝院の旧石組
  醍醐寺に現存する三宝院庭園は豊臣秀吉の意思によって、秀吉秘蔵の名石、天下一品の藤戸
 石ふじといしを主人石として、秀吉自らが縄張りをして作庭されたことは、文献にきすところであ
  る。 秀吉が現地の地に本格的に作庭工事を開始する以前もともとこの地には金剛輪院があっ
  て、しかも立派な庭園があった。 その金剛輪院の建物を中核として、三宝院という由緒ある
  門跡を再興しようと努力したのが、二条関白左大臣晴良公の息、大僧正義演准后ぎえんじゅごうであ
  る。
  慶長3年(1598)2月秀吉が始めて金剛輪院を訪れた時、既に泉水があったことが伺える。
   糸落の滝組は言うまでもなく和様式であることから、まず相国寺の画僧任庵主(呼称中任和
 尚)
の作が残っていると考えて差し支えない。 池庭に向かって左側の小高い上段部、即ち茶
 室枕
流亭ちんりゅうていの前庭当りは、野筋風のなだらかな築山で旧石組が残存している。
4.銀閣寺庭園
 
1) 二代目善阿弥
   銀閣寺庭園作庭者は、相阿弥であると江戸時代の秘伝書に書かれ、そう信じられていた。
    しかし、昭和初年になると、庭園史学の進歩により、相阿弥は庭園に参加していなしこと
  が
明白となり、そして義政の同朋であり、作庭家である善阿弥の方がはるかに現実性がある
  理由で変更になった。 しかし、初代善阿弥は文正
ぶんしょう元年(1466)に83歳であるから、
   26年後の延徳えんとく4年(1492)には109歳の高齢になっているが彼は97歳で死亡しているた
  め、初代から業を引継いだ二代目善阿弥でなければならない。 そして二代目善阿弥こ
そ、
  銀閣寺庭園の作庭者であるに相違ないと推定される。

 2) 両界石の存在
   銀閣寺の属する系列の名称は山水図の相伝者任庵主から善阿弥へと人脈を転換した争う余
   地のない四条派である。 しかし、現実に任庵主の手法をはたして継承したかがもんだいと
   なる。 銀閣寺の石組を一つ一つ点検した結果l本の特異な石、両界石に対面した。 銀閣
   寺庭園には、山水図48名石の中の僅か1石が配置されているに過ぎなかった。
5.唐様石組の完成
  室町初期と中期を比較すると、初期は秘伝書の制約が優先して、構成が犠牲にされていると
 いえる。 これに対して室町中期になると、伝統の殻から蝉脱せんだつして、石組による空間
 構成美が重視されるようになる。 そのような事由から日本庭園の造形は芸術的に最も優れた
 時代を迎えることになる。 

 室町・桃山時代の庭園が傑出している理由は、植樹即ち自然主義を排除し、庭石を構成素材と
 する  人為的な造形に徹しているからである。 植樹に対する依存度を少なくして、石組に
 よる造形美の構成に努力するならば、庭園の芸術性は向上すると言える。 

  様式的に完成した室町後期庭園の特徴をまとめると。
  @ 観賞の対象物は石組みによる造形であるという認定が徹底してくる。
  A そのため庭石は局部造形から庭園全域にわたっての空間構成的布石をするようになる。
  B 庭園の主要な地域から樹木が駆除されると、石組みによる広範囲で自由自在な空間構成
   が可能になる。
  C かくして観賞の対象物が石組みによって独占される時、芸術性はいやが上にも高くな
   る。

6. 庭園美の価値論
   日本庭園傑作一覧表

庭園名

布石時代

布石者

庭園名

布石時代

布石者

天竜寺竜門瀑

鎌倉中期

蘭渓

保国寺石組

室町中期

雪舟

金閣寺竜門瀑

鎌倉中期

蘭渓

旧秀隣寺石組

室町末期

 

金閣寺中島石組

室町初期

中任庵主

北畠神社石組

室町末期

 

苔寺枯滝組

鎌倉中期

蘭渓

龍安寺石組

室町末期

子建

苔寺池泉石組

鎌倉中期

了遍僧正

大仙寺石組

乱世時代

 

毛越寺石組

鎌倉中期

蘭渓

朝倉館跡石組

乱世時代

 

恵林寺石組

鎌倉末期

竺仙和尚

新三宝院石組

桃山時代

賢庭

銀閣寺石組

室町中期

二代目善阿弥

二条城石組

桃山時代

 

常栄寺石組

室町中期

 

 

 

 

 1) 庭園美とは石組美
   最も理想的な日本庭園とは、庭石を素材とする造形物、または空間構造を主要な観賞
   物とする。
 2) 庭園史観の対立
   文献派は以下の三期を庭園史上の黄金時代としている。
   第一期 平安後期(作庭時代)
   第二期 南北朝期(夢窓国師時代)
   第三期 江戸初期(小堀遠州時代)
   これに対して日本庭園史新論では、次の三期を黄金時代と評価する。
   第一期 鎌倉中期(蘭渓道隆時代)
   第二期 室町時代(画僧、河原者時代)
   第三期 桃山時代(百花争鳴時代)
   以上の三時代に共通する特徴は、石組みによる造形の優れた時代である。
   世界に多種多様な庭園がある中で、日本庭園の特徴は何であるかと問われるば、勿論「石
  組による構成美」である。 外国人が日本庭園を高く評価する理由は、観賞の主要な構造物
 を
アジア東部独特の自然石で構築してあるからである。 それ故に、日本庭園から石組みを
 取り
除いたら跡には何も残らない。 従って、石組みの配置を極力抑制する「作庭期」時代の
 庭園
では観賞に耐える造形は何一つない。
7.唐様石組の絶頂期
  四条流独特の流儀が守られたのは室町初期まで、室町中期になるともはや伝統は消滅したも
  のと考えられる。 なぜなら銀閣寺の石組から四条流の手法を探したが、僅か両界石1石が
 あ
だけで、四条流庭園とは認めがたい。
 1) 室町末期の石組
   室町末期の六庭全部が完全に唐様石組であることは、両派が唐様一本化したことを意味し
   様式的にはこの時代を絶頂期と言うことが出来る。
  室町末期の庭園は形式が整っているため、相当荒廃していても例外なくこころにくいばか
  に傑出している。
 2)     乱世時代石組の特徴
          乱世時代の作と推定される庭園一覧表

 

庭園名

所在地

地割

形式

推定施主

朝倉館

 御湯殿跡

 諏訪館跡

 本屋敷跡

 

福井市郊外

 

空間構成

空間構成

一点豪華

 

枯池

池泉

池泉

 

朝倉氏

観音寺城

安土町

空間構成

枯山水

佐々木六角

名古屋城二の丸南庭

名古屋市

一点豪華

枯池

福島正則

聚光院

大徳寺

空間構成

枯山水

三好義継

願行寺

大和下市

空間構成

枯山水

 

安国寺

靹ノ浦

空間構成

枯池

毛利輝元

退蔵院

妙心寺

一点豪華

枯池

 

南陽寺跡

朝倉館

一点豪華

枯池

朝倉義景

大仙院

大徳寺

空間構成

枯山水

玉甫紹j

三田村家

福井県

空間構成

池泉

 

松尾神社

八日市市

一点豪華

枯山水

佐々木六角

真如院

京都市

一点豪華

枯山水

 

   京都大徳寺塔頭聚光院庭園や広島県靹ノ浦の安国寺庭園その他合計15庭は、室町末期の
  作と
言えるものではない。 さりとて桃山時代の作に分類することも不適当の庭である。
  そこで
室町末期と桃山時代との間の乱世という作庭時代を新しく設定した。 
    即ち弘治こうじ元年(1555)から元亀年(1572)までの18年間特に乱世と称した。 
  世とは川中島の合戦から信長が天下を統一するまでの
18年間を指し、日本中が激烈な戦乱
  の
修羅場となった時代である。
   室町末期50年間の庭園はわずか六庭残っているに過ぎないが、乱世18年間に作られた庭
  は
14庭も残っている。 この数字から考えられることは、乱世の中で近世の幕開けが始ま
  った
と言える。 中世では多種多様な習慣が一部の特権階級だけに独占されていたと考え
  られる。 
造園という作事もその一つであったが、乱世時代になってそれらの制約が取り
  払われることに
なる。 そのために中世とは全く違った開放感によって、予想を超える多
  数の庭を作る気運に
つながった。
8.四条流名石の
  日本庭園史で研究の対象として取り上げる優れた庭園は、おおよそ、江戸初期の作品まで
 、
その総数(ただし奈良期以前を除く)は約300である。 300庭のうち乱世期作の約20
  桃山時代の約50と江戸初期の約180すなわち乱世以降作の庭園が8割を占めてい
 る。 従
って室町末期以前の庭園遺構は意外と少なく特に室町初期以前の庭となると全国で
 も
40にすぎない。
  室町中期以降の傑出した庭園といえば、殆ど禅宗、それも臨済宗の寺院に保有されてい
 る。 
これに引き換え庶民の宗教として出発した浄土宗寺院には庭らしい庭がない。 奈良
 県の願行寺がんぎょうじ、山梨県の三光寺の四庭園は極めて優れた石組を今日に伝えている。
  室町中
期には消滅したと思われた四条流はまだ桃山時代以降も一部で存続していた。 三
 光寺庭園は
四条流の石組手法を豊富に展開している。
  三光寺庭園は、左右になだらかな野筋が横たわり、その前面には和様の護岸手法を守った
 流
水となっている。 すなわち護岸には、四角形の小石ばかりを使用して、典型的な四条流
 の手
法を示している。 この護岸手法のほか、両界石、神主石、関石、霞懸石など「山水
 図」の石
組を多数配置する貴重な庭である。
9.桃山時代の特徴
  桃山時代の石組には他の時代に見られない巨大な量感や力強い稜角の交錯、また武骨で荒
 削
りな迫力、さらには自己顕示や猛々しさと華やかさなどが、複合的に同居している。 し
 かし、
その反面比較的小さな石による石組の庭、例えば三光寺などもある。
  1)     一点豪華的造形
   北宋水墨山水画は室町中期から末期にかけて最高度の発達を遂げるが、一つのまとまっ
  た
山水風景を画題としている。 従って四枚一組の襖や屏風には、視野いっぱいの全景が
  描か
れている。 全景的絵画構成が造園界にも当然影響して、庭園も全景的山水風景を題
  材とし
た。 従って室町末期の滝組や石橋は一つの点景として取り扱われており重要な要
  素ではな
い。
   これに対して桃山時代になると、万事は好みの世相が反映して、造形が前面に大きく出
  る。
 そのため室町時代のじみな空間構成的布石と違って、桃山時代の石組は、誰にも理
  解しやす
くなるが、地割と石組の均衡が破れる。
   鎌倉中期から南北朝期までは、野筋の起伏や中島など地割の変化に面白さを求める時代
  で
あり、石組がまだ軽視されたいわゆる地割り重視の時代であった。 これに対し、室町
  中期
から末期を迎えて石組と地割が平等に重視され均等に配慮されている。 
     そのため両者が相互に協力しあって、石組による空間構成美が最高度に発揮できる。
  ところが桃山時代になると、逆に造形を重視するため、必然的に空間構成の均衡が軽視さ
   れるので、地割が無視される結果となる。 そのため石組美を十分に出し切れないような
  い
びつな地割りに布石するために、傑出した石組の造形が出来ない。 地割りというのは
  「縁
の下の力」のように目立たないが、優れた地割を基盤としてこそ、初めて石組美を最
  高度に
発揮できる。
10. 琳派流庭園
   琳派とは日本画である光琳派の略称であり、尾形光琳によって大成された流派である。
  し
かし、琳派は俵屋宗達をもって始祖としておりその送達の絵が大和絵の系列であり、慶
  長か
ら元和、寛永にかけて充実した創作がなされた。 この琳派の影響を受けて真如院庭
  園は創作されたのではないかと推定される。

 1) 真如院庭園
   真如院庭園はもともと京都市下京区岩上通り五条上るにあった。 ところが本院に隣接
  する高等学校が敷地を拡張す津古とが決定したので寺院はやむを得ず、庭園もろとも立ち

   退くことになった。 そのような理由から真如院に昭和23年に現在の下京区猪熊通り五条
  上るに移転した。 従って貴重な庭園も解体されて引越したが、現在の敷地が旧庭よりや
  や狭いため若干縮小された規模で復原された。 

   枯流かれながれ形式の庭は古くから作られている。 また池畔や中島に礎辺を表現する場
  合、
扁平な小石を敷き詰める例はある。 しかし、本庭のような小判型の平たい小石を鱗
  状に敷き
詰めて流水を表現する手法は類例のない特異な技法であり極めて人為性の強い創
  作である。
   この手法の造形系譜は嵯峨流又は四条流何れの系列にも属さない、そこで本庭創作同時
  期
の桃山末期から江戸初期の絵画史を調べてみると、注意を引いた画家に俵屋宗達がいた
  。 宗
達の作品の中に真如院の緻密な流水手法と共通する描写部がある。 例えば宗達の
  代表作「源
氏物語澪標みおつくし図屏風」などに見られる波浪の表現は手法がそれである。
 2) 無数の小石による反復造形
   枯山水形式による枯流の表現と言えば、一般的手法としては川床に白川砂を敷き、小石
  を適当に撒置下だけで、枯流を象徴したことになっている。 ところが真如院の
場合は、
  徹底した細密画的技法であるだけでなく、「余白を残す」と言う北画特有の描
法を否定し
  ている。 いわゆる琳派お美学と技法を背景として試みられたと推定する。

11 金地院庭園
  小堀遠州が作庭したと伝承する庭園は京都市だけでも12,3庭あるが、文献に裏付けられて
 い
る遺構は金地院こんちいんただ一庭のみである。 この庭は、鶴亀を題材としているため一般
 に理
解しやすいように思われ勝ちですが、難解な庭である。 なぜなら、鶴島の鶴首石や中
 央正面
を占める四角形の拝礼石は、従来の日本庭園に無かった極めて幾何学的な垂直線、水
 平線、直
角などで、形成されている。
  1) 礼拝石配置の理由
  南禅寺の塔頭金地院庭園は、鶴亀を題材とする庭のうちで最も古く、しかも、大規模で、
   幾何学的な直線による色々な造形を今日に伝えている。 その中で最も印象的な存在は、
  鶴
と亀の真ん中に布石された大きな平たい長方形の拝石である。 その石を中心にして、
  右側
に鶴首石と称する長大な四角形の石が突き出しており、その石端に巨大な四角の石柱
  が直角
に立っている。 石の厚さは30cmと推定する。 寄贈者松平土佐上は橋石にと思っ
  て献上
したが、遠州は礼拝石として使用した。
2) 礼拝石の復元的浮上
  30cmの厚さを持つ礼拝石は、現在苔に包まれている。 さらに鶴亀両島を補助的に連携
 る正面奥の大切な石組みも、樹木に隠れているため、両島間に緊張と脈絡がない。 この

 うに金地院の死活を左右する重要な意思を両方とも隠している。 そこで遠州の設計を生

 すために地面すれすれに埋めていた礼拝石を
20cm掘り下げ。 このようにして礼拝石の高さ
 を与えたら、威圧感に満ちた巨大な石が地上に浮上した。

3) 遠州の幾何学的構成
  遠州の作った庭園の特徴は仙洞御所の指図や蓬莱園の古絵図に明示されているように、直
 角と垂直と直線とで構成される城郭的石垣のような護岸である。 遠州の制作であることが
 明白な二枚の古図からもわかるように、好みはまことに重厚で幾何学的である。 この大胆
 な意匠はいわゆる遠州好みで、遠州の造形思想を最も端的に象徴している。 反自然主義的
 造形は吉田織部によって創始され、遠州によって庭園化されたが、この幾何学的な構造美は
 現代芸術に通じている。 
  金地院庭園の鶴亀は、鶴や亀にほとんど似ていなく、抽象的であるが、これを機縁として
 、
写実てきで低俗極まる「鶴亀の庭」が作られるようになる。
12  修学院離宮庭園
  修学院離宮庭園は江戸初期に造られたが、自然順応式庭園である。 即ち人工を表面に出
 さ
ない配慮で作られた修学院では、自然主義的景観が優先するため、石組みによる人工的造
 形が
すくない。 また、自然的要素が絶対的に大きく閉めているだけでなく、皇室が王朝的
 意識の
もとに作庭されている新しい形の庭園である。
1) 作・四両流の習合
  修学院離宮庭園の石組は上、中、下の三御茶屋のおのおの異なった目的で作られている。
 上皇の第一皇女円照寺尼宮が御水尾上皇の修学院の地で、上皇が既に建てていた隣雲亭とい
 う御茶屋を処所としていた。 父後水尾上皇が修学院の地に本格的に離宮造営を決定すると
 、
円照寺尼は、住み慣れた地を引き払い奈良へ移転した。 
  後水尾上皇は下の御茶屋の造営を始め、また上の御茶屋は既存の隣雲亭を整備などして万
  まんじ2年(1659)3月現存する上、下の御茶屋が完成している。 さらに約10年後に弟
 皇女朱宮
あけのみやは現在の中の御茶屋の位置に楽只らくし軒を建てその前面に庭を作って朱宮
 御所とした。
  上、中、下の御茶屋には三種類の異なった庭が作られ、色々な系譜の石組が混合いている
 。 
江戸期の四条流は桃山時代と異なり、もはや嵯峨流と同じく縦の線を強調する立体的な
 造形
となる。 そのため、嵯峨流と四条流とは本質的な区分はなくなった。
2) 林丘寺庭園
  修学院離宮は現在でこそ上、中、下の三つの御茶屋から構成されている。 しかし、明治
 初年までは、上と下の御茶屋のみで、中の御茶屋はなかった。 ところが、明治18年に当時
 の林丘寺門跡尼院の北東部にあたる所だけ残して、その他大部分が宮内省に移管されて中の
 御茶屋が成立した。
  朱宮光子あけのみやてるこ内親王は、寛文10年(1670)朱宮御所(現中の御茶屋)に居住した。
 延宝
えんぽう8年(1680)父法皇が没したのを悲しんで朱宮御所を林丘寺と改めて、自ら開山
 門跡となった。
  中の御茶屋主殿の東側、石段の崖畔に修学院とは異質な男性的石組みがある。 この崩れ
 積みは明治以降、小川治兵衛が約45の庭石を用いて築積した。
 3) 遣水の復活
   平安初期に復活した遣水やりみずの護岸は嵯峨流の影響を強く受けているので極めて造形
  的
である。 これに対して平安時代の作庭流の遣水は曲がり角や湾曲した所などに石を据
  える
程度であって、嵯峨流的護岸石とは全く違う。
   桃山時代に四条流が復活すると、長く絶えていた作庭記流の復古的な潮流に呼び覚まさ
  れ
て江戸初期にに生き返る、修学院の遣水はその代表的な作例である。
                        修学院離宮石組の系譜別明細表

 

 

系譜

作庭年代

上の

御茶屋

隣雲亭

御三社参道右脇枯山水

自然主義

離宮専属庭師

万治2年

昭和9年

中の

御茶屋

楽只軒前池泉前庭

客殿東崖枯山水石組

作・四条合

嵯峨流

寛文10

明治以降

林丘寺

滝組、築山と池泉の石庭

嵯峨流

天和2年

下の

御茶屋

小滝と遣水

枯山水

作庭記流

作・四条合

万治2年

万治2年

(13 南画様庭園
  日本庭園は長い歴史の中で重要な意味をもつ変革を幾度も経験してきた。 その変転の機縁
 は、今までになかった新しい形式の絵画が登場して来る時であった。 絵画の影響によって形
 成された庭園はまた絵画の消長に常に追従してきた。 例えば平安初期に大和絵が完成すると
 庭園もまた大和絵的な構成(作庭記流)をとるようになった。 
   鎌倉中期になると、中国から来朝僧が北画式石組を創作したので庭園史上大変革を生じるこ
 とになる。 このように絵画史と庭園史とは表裏一体の関係にある。
 1) 南画(文人画)の人脈
   江戸初期の中頃(寛文年間)を過ぎると鎖国政策が浸透して桃山時代の豪快な気風はすっ
   かり冷め、世相は萎縮した。 これに即応して造園の石組も気力を失い観賞に耐える芸術的
   な造形も急激に少なくなる。
   庭園がこのような状態に落ちっている時、絵画も同様に凋落期を迎えて、大きな異変が起
   こり始めた。 その異変とは、江戸中期の社会的風潮に乗って南画が大流行し、絵画界の流
   れを大きく変えたことである。
   南画が日本に初めてもたらされた時期は、江戸初期の中葉、承応じょうおう3年(1654)で
  京
都郊外の宇治、黄檗おうばく山万福寺まんぷきじの開山隠元禅師の一行大眉だいび、独湛どくたん等二十
   数人によって将来された。 また万福寺画僧一行のほかに、長崎の興福寺第三世となった逸
   さらに、清より来朝した沈南蘋しんなんぴん、の影響も大きく、これらの人々に刺激されて、わ
  が国の南画の初期模索時代がはじまる。 その代表的な人物として、祇園南海
、彭城百川
  
さかきひゃくせん、柳沢淇園きえんのを挙げることができる。 そのことから万福寺は南画発祥の地
  と言われる。 そして前三人の先駆者は江戸中期の中頃、宝暦
年間に揃って死去したが、こ
  れらの後を受けて池大雅
いけのたいが172376)、与謝蕪村よさのぶそん161683)が活躍す
  るに及び、南画は開花期を迎え大成した。
   隠元禅師が来朝した承応3年(1654)から蕪村や大雅が活躍した宝暦年間まで約100年経
   過している。 蕪村や大雅は江戸中期の中頃から末葉にかけて活躍したので、南画的構成の
   庭園が本格的に出現するのは、江戸中期の中頃以後である。
 2) 南画様庭園の特徴
   江戸初期までは庭石が主体で樹木が従属的、即ち「石主植従」であった。 ところが江戸
   時代中期になると庭石と樹木は対等の立場よりもむしろ主従関係は逆転して「植主石従」と
   なり、丸い刈り込みが景観の主要な構成物に昇格する。 従って江戸中期以降の庭石に明確
   な個性はなく、刈り込みこそ南画様の基本的造形であるといえる。
   南画の山水図では、大きな山岳も小さな樹木もすべて基本的には「半月形」で描かれてい
   るからである。 従って南画的景観を表現するためには、「丸い刈り込み」が必然的に主要
  な構成要素にのしあがり、庭石は付随的存在に成り下がるわけである。






参考文献
  1 古寺巡礼京都(33)竜安寺 著者;杉本秀太郎他 淡交社
  2 京の古寺から(16)竜安寺 著者;松倉紹英他  淡交社
  3 竜安寺石庭 七つの謎を解く 著者;大山平四郎 淡交社
  4 日本庭園史新論 著者;大山平四郎 平凡社

                      [前へ]   [トップページ]   [次へ]