京都と寿司・ 朱雀錦
(31)「世界遺産・西本願寺」・親鸞
 
 
                          西本願寺・阿弥陀堂

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A西本願寺

1.本願寺・西本願寺の歴史
() 親鸞は弘長こうちょう2年(12621128日、末娘覚信尼かくしんにに看取られながら、静かに息を引き
 取られた、享年
90歳であつた。 本願寺第3世覚如作「本願寺聖人伝絵」ほんがんじしょうにんでんね(以後「伝絵
 」)は臨終を叙
したあと葬送について次のように記している。 「……洛陽東山の山麓、鳥部野の南
 辺・
延仁寺に葬したてまつる。 遺骨を拾て、同山麓鳥部野の北辺、大谷に是をおさめおりぬ」。 
 終焉の地は現在の三条富小路柳池
りゅうち中学校の位置、遺骨を納めた墓所は今の知恩院御影堂の東方
 山の斜面だったと推定されている。

  その墓は当初木柵で囲んだ方形の中央に石造の笠塔婆を立てた簡素なものであった。墓参する門弟
 達はその整備を計画し、文永9年(
1272)大谷の西にある親鸞の末娘覚信尼の住む地に墓堂を建て墓
 を移動させ「大谷廟堂」とし、覚信尼を大谷廟堂の守護後
に留守職るすしき)とし、関東の門弟達が維
 持費を負担した。 永仁3年(
1295)頃、親鸞木像が堂に安置され以後「大谷影堂」と呼ぶようにな
 った。

( 2) 覚如
   覚信尼の孫で親鸞の曾孫に当る覚如は影堂を「本願寺」として寺院化を図った。 初代は親鸞、2
 で善鸞の子如信から正しい教えの口伝を受けたと称し代
3世留守職に就任した。 本願寺中心の門徒の
 結合を訴えたが、関東門弟達がこれに反発し、やがて独自
の法脈系譜を唱へ独立的教団への道を歩む
 ことになった。 その後第4~7世の善如、綽如
しゃくにょ、功如、存如の時期には大きな活動が見られな
 かった。

() 蓮如
   応永22年(1457)蓮如が第8世を次ぐと状況は一変する。 蓮如はこの時43歳になっていたが、寺
 には父存如の正妻と若い嫡子応玄がいて、彼には本願寺相続の芽はなか
た。 親戚にも信者にも応玄
 の家督相続を疑うものはなかった。 ところが、寺主決
定の最後の瞬間、一家の実力者で加賀から出
 てきた叔父本泉寺如乗の強引な推挙によっ
て形勢逆転、本願寺相続は蓮如と決定、先代未亡人と嫡子
 とは追放された。

   鎌倉時代以後、大陸からの文化・生産手段の輸入に伴って、南北朝の戦乱にもかかわらず農業の生
 産力はかなり大きく増強されて在地農民の力が強まっており、守護地頭た
ちはもはや一般農民や名主
 、国人層の全部を把握する力を持っていなかった。 それだ
けに将軍や管領の地位も常に不安定で動
 揺が激しかった。 特に室町時代の後半になる
と、新田の開発が盛んに行なわれ、沿岸堆積地帯、湖
 岸、平野の農村地帯は急速に人口
も増え富裕になりつつあった。 そういう地帯の農民は、東北や山
 間僻地と異なり地域
的にも精神的にも団結しやすく、反抗組織を作り易くなっていた。 今まで納献
 してい
た荘園領主から開放されたい欲求がうなれ、強まりつつあった。
   たまたま都市近郊の布教で多少の成果をあげた蓮如は、念仏宗教排撃の叡山の僧兵に 追われ、近江
 、越前吉崎へと移った。 大聖寺川を隔てた対岸は加賀国だった。 この
両国には早くから親鸞の教
 えの種が撒き散らされていた。 北陸の各地から蓮如の説教
を聴き、指導を求める名主、坊主、長老
 達が殺到し、葦の茂った沼澤地帯は家が軒を連
ねて大きな門前町に変わった。 ここで蓮如の講和を
 聴き、最近の御文と名号(南無阿
弥陀仏の六文字の掛け軸)を頂戴した人々は自分の村に戻るや、他
 力本願の 有難い教え
を宣伝した。 これまで死ねば生前の悪行、悪念の報いで地獄に落ちるより他
 なしとあ
きらめていた民衆は目の覚める思いだった。 そして広大無量の阿弥陀仏に対する信心とい
 う点では階級の区別なく一致する。 「南無阿弥陀仏」は「万国の労働者よ団結せ
よ」と同じように
 名主、国人だけでなく被支配階級、被差別身分の大部分をも奮起・団
結させた。
  他方、権力者たちは四分五裂して、味方を求めていた。 足利将軍の親衛隊として知られていた守護
 富樫政親に味方して一向宗門徒が武力蜂起した。 しかし翌年以降は政
親に反乱、ついに勇将政親を
 攻め滅ぼした。 加賀は日本で始めての「坊主、国人、百
の国」となった。 蓮如は六字名号の礼金
 で山科に荘厳な大伽藍を営んだだけでなく、
大阪石山にも立派な本願寺を営んだ。 それほど一向宗
 が全国に広く流布して莫大な寄
付が休みなく献上されたのである。
() 一向一揆と織田信長
   これに続く実如、証如、顕如は加賀を基地として北陸一帯どころか機内や東海地方まで門との大軍が
 転戦して暇もなかった。 宗主は教団の教主のみならず数カ国にわたる
俗世的君主権と大軍の統率権
 を掌握して全国的にも、上杉、武田、織田、毛利の諸 豪」に
も勝るとも劣らない強力な神俗王国を
 形成した。

  織田信長は、天下統一の障害になる、一揆勢力の殲滅に乗り出した。 長篠の戦いで武田軍を破り後
 顧の憂いを絶つと、越前一向宗の攻撃にかかった。 織田軍は大軍で一
向宗門徒を包囲し、一向宗門
 徒は降伏を申し入れ下が許さず、老若男女を問わず無抵抗
の者も全員殺害した、その数3~4万人と
 言われている。 伊勢長島は、寺院に立て篭
もる門徒約2万人を8万人の大軍で攻略し全員殺害した
 。 紀伊雑賀は大軍で攻めるも、
攻めきれず一時的休戦で兵をひいた。 石山本願寺の攻略は彼生涯
 最大の難事業となっ
た。 彼はキリシタン達から学んで大型鉄甲艦7艘を2年かけて建造した。 日
 本では
見たことのない巨大な大砲3門と無数の長砲を積載した軍艦には門徒小船対抗できず、壊滅し
 た。 大阪湾を海上封鎖された本願寺は兵糧と兵員の欠乏においこまれた。 

   信長は、陥落にこだわっていては天下征服に間に合わないと計算し、勅命で講和するよう工作した。
 信長は正親町
おうぎまち天皇による斡旋を依頼し、本願寺もその和睦を受け入れ滅亡を回避した、その
 際長男教如は、信長を信用せず徹底抗戦を主張したため、
顕如は教如を義絶した。 和睦によりおそ
 らく
10万以上の門徒の生命が救われたであろう。 11年わたる一向宗との戦いは幕を下ろした。
   天正10年(1582)6月2日本能寺の変が起こり信長は自害した。 後陽成天皇は顕如に教如の赦免
 を提案し、6月
27日教如は顕如より義絶を赦免された。 豊臣秀吉が政権を掌握すると、本願寺は秀
 吉と友好な関係を保った。 そして秀吉の都市計画に従い、
天正13年(1585)大阪天満、同19年京都
 の現在地に寺基を移転させた。
() 西本願寺と東本願寺の分裂
 文禄元年(1592)弟11世顕如が没し、長男教如が本願寺を継職した。 しかし翌年母如春尼にょしゅんに
 が突然、三男准如に本願寺を譲ると記された「顕如譲状」を豊臣秀吉に提
出し、教如の継職に疑義を
 訴えた。 秀吉は教如ら関係者を大阪城に呼び出し詮議し、
教如が10年継職し、その後准如が継職す
 るという裁定をくだした。 その際同道した家
臣が裁定に反発。 それに秀吉が激怒し、教如を即座
 に隠居させ、隠居させ三男准如
に本願寺継職を命じた。
  秀吉没後、政権確立過程の徳川家康は隠居の教如と密かに接触し、慶長7年(1602教如に現在の
 寺地を寄進し、本願寺を別立させた。 ここに本来一つの本願寺は教団と
もども二つに分派した。 
 以後所在地より通称西本願寺と東本願寺が成立した。

() 本願寺系譜
  ①親鸞┬善鸞 ─②如信
     └覚信尼─覚恵─③覚如─④善如─⑤綽如しゃくにょ─⑥功如─⑦存如─⑧蓮如┐
 ┌──────────────── ────────────────────┘
 └⑨実如─円如─⑩証如─⑪顕如┬⑫准如(西本願寺)─⑬良如┬寂円──⑰法如─┐
                └⑫教如(東本願寺)    └⑭寂如┬⑯湛如 │
                              九条兼晴┴⑮住如 │
   ┌───────────────────────────────────┘
   └⑱文如┬暉宣─⑳広如─(21)明如┬(23)勝如─(24)即如
       └⑲本如        └(22)鏡如

2.建造物
() 御影堂ごえいどう(重要文化財)
  本願寺の中核となる最大の建築は御影堂で、元和げんな3年(1617)の大火災後、寛永んえい13
 (
1636)に再建上棟されたものである。 南北31間(約57m)、東西24間(約 45m)、734畳に及ぶ
 全国屈指の大御堂である。 宗祖親鸞の木像を安置している。 こ
の御影堂は親鸞没後10年には、そ
 の墓石を納めるために建てた大谷廟堂に起源をなすも
ので、本願寺発祥の基点となった象徴的建築で
 ある。 多数の門徒を収
 容するため外陣
じんが極端に広く、室町時代に始まった本願寺の御堂の特徴をよく示している 。 
  重要文化財指定名称は「大師堂」。 これは、親鸞が明治天皇から見真大師の大師謚号を贈られた
 ためで、堂内に「見真」お額か掲げられている

() 阿弥陀堂(重要文化財)
  御影堂と同様大火災後、一旦再建されたが、小規模のため、宝暦ほうれき10年(1760 改めて建造さ
 れ、御影堂に次ぐ大御堂で、南北
22間(約42m)、東西21間(約37m)、492畳で、本尊阿弥陀如来
 像を安置している。 御影堂と阿弥陀堂の両堂が東面して並立
するのは、初期の本願寺が東山大谷に
 あつた時代に始まった本願寺の伝統的な伽藍形態
で、本願寺のみならず真宗一般の伽藍の特徴となっ
 ている。

() 書院(国宝)
  御影堂の南西に位置する。 近世書院造を代表する建築の一つである。 入母屋作り、本瓦葺きで
 、平面規模は桁行き
38.5m、梁行き29.5m。 南側の対面所と北側の白書院からなるが、両者は元来別
 々の建物であった。 対面所の主室は欄間に雲と鴻
こうのとり透彫りにするところから、「鴻も間」と
 も呼ばれる。 広さは下段
162畳、上段を含め203畳、天井は格ごう天井とする。 襖、壁等の障壁画
 は本願寺お抱えの絵師の渡辺了慶の筆
と推定されている。 正面奥(北側)は東西方向に長大な上段
 とし、中央に大床
おおどこ左に帳台構ちょうだいかまえを設ける。 上段の東には床高をさらに一段高め
 た上々段があり、
違い棚と付書院つけしょいんを設ける。 対面所の西側には雀の間、雁の間、菊の間が
 あり、
北側には納戸2室を挟んで白書院である。 白書院は西側から東へ三の間、二の間、一の間(
 紫明の間)からなる。 一の間には変形
10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。 な
 お、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台とし
の間(紫明の間)からなる。 一
 の間には変形
10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。 なお、対面所と白書院三の間
 は、畳を上げると板敷きで、能舞台とし
ても使用できるように工夫されている。
  寺の文書によれば、対面所は元和げんな3年(1617)の西本願寺の火災後まもなくの建築で、当初は
 御影堂の南にあったが、寛永
10年(1633)に現在地に移築したという。
 
この時に対面所と白書院を合体させたものと推定される、従って、白書院は寛永10年以前の建物とい
 うことになる。 書院は原則非公開。 期日を限って特別公開の行なわれ
る場合があるが、それ以外
 の時期には事前の許可が必要である。

 () 黒書院及び伝廊(国宝)
 黒書院は対面所及び白書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。 桁 けたゆき21.5
 m、梁行
はりゆき13.9m。 明暦めいれき3年(1657)の建立と分かる。 屋根は寄棟造、杮こけら葺きで
 、母屋部分と庇部分に分けて2段に、葺く。 前述の白書院が表向
きの接客空間で、金地障壁画や彩
 色透彫などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は
宗主の生活の場としての内向きの空間である。
  屋根は前者が瓦葺に対して杮葺きとし、
内部の意匠は水墨の障壁画、土塀、面皮柱、棹縁さおぶち
 井やや遅れて明暦
めいれき3年1657)に完成したがもと宗主の御座所で内向きの室であった。 日本
 独特の書院建築
のなかでも、もっとも発達を遂げ成熟した機能を示すものとして日本を代表する貴重
 な
文化遺産となっている。
() 北能舞台(国宝)
  書院(対面所及び白書院)の南北にある能舞台のうち北側のもの。 正面入母屋造、 背面切妻造、
 桧皮
ひはだ葺き。 修理時に天正てんしょう9年(1581)の墨書が発見されたが、これは部材に貼られた
 紙に書かれたもので、ただちに建立年代を示すものとは考えてい
ない。 正確な年代は不明ながら、
 穢土時代初期の建立で、現存する能舞台としては最
古のものと言われている。
() 南能舞台 (重要文化財)
  南能舞台は元禄7年(1694)建造である。 北能舞台とともに本願寺の芸能及び文化の側面を象徴
 的に示す建築である。 往時は日常的に能や謡曲が楽しまれたが、それは
公家・武家との重要な交流
 手段であり、また年中行事にも付随してしばしば能が模様さ
れた。 その片鱗は現在も遺され、毎年
 宗祖隆誕会に南能舞台において往時さながらに
能・狂言が演じられている。
(7)     玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間(重要文化財)
   虎之間の建物は文化財の名称では、玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間とされ、建築年 代は桃山時代
 、一説では伏見城あるいは聚楽第の遺構と言われている。 虎の間には江
戸時代後期の画家吉村孝文
 らの制作とみられる「竹林群虎図」があるが、現在劣化によ
り肉眼ではほとんど確認できないが、赤
 外線で撮影すると消えた虎がくっきりと写しだ
されるとのこと。 今後、顔料の成分などを分析して
 復元する予定とのこと。

() 唐門(国宝)
   境内の南側、北小路通に面して建つ。 境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入り口
 であるのに対し、唐門は書院(対面所)の正門である。 前後に計四本
の控え柱をもつ四脚門よつあしも
  ん
形式で、屋根は桧皮葺き、正背面は唐破風からはふう造、側面は入母屋造とする。 中国の許由きょゆ
 う
と張良ちょうりょうの故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金めっき金具で各所を装飾しており、日暮し眺めて
 も飽きないとされることから「日暮門」
の俗称がある。 伏見城の遺構とも伝えるが確証はない。 
 寺の記録によれば、元和3
年(1617)の寺の火災の翌年に、旧御影堂門を移築したみのというが、移
 築前の建立年
代ははっきりしない。 
() 飛雲閣(国宝)
  境内南東隅の滴翠園てきすいえん内,滄浪池そうろうちの名付けられた池に面して建つ、三階建ての庭園
 建築である。 三階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠
も左右相称を避け、変
 化に富んだ外観をもつ。 古来、豊臣秀吉の聚楽第の遺構とつた
えるが、確証はなく、実際には江戸
 時代の建物と推定されている。 1階は池から船で
直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段
 を設けた主室の招賢殿
しょ うけんでん、八景の間、茶室憶昔席いくじゃくせきなどがある。 憶昔席の部分の
 みは建築年代が明確で、寛政
7年(1795)、茶人薮内竹蔭ちくいん等によって増築されたものである。
 二階は周囲の板
戸に三十六歌仙の像を描いた歌仙の間、三階は摘星楼てきせいろうと名付けた8畳で、
 1・2
階の書院風に対して草庵風の意匠となっている。 飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期
 日を限って特別公開される場合がある。
(10) 黄鶴台(重要文化財)
  飛雲閣から西に延びる渡り廊下で結ばれている黄鶴台おうかくだいは、杮葺寄席棟造りの床の高いたて
 もの。 黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風を持つ蒸風呂
と鉄釜などがある。 蒸
 風呂は上の窓や板戸の開閉により温度を調節できる。

(11) 鐘楼 (重要文化財)
(12) 本願寺大書院庭園 (特別名勝及び史跡)
  寛永年間に築造されたが、桃山の様式である。 豪華な山尊滝組、須見須弥山石組、 鶴亀島、蓬莱
 山、洛中最大を誇る切石橋、名実ともに一流である。 枯山水。 訪問予
約、非公開。
(13)  滴翠園 (名勝)
   滴翠園てきすいえんは飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。 池を主としこれを巡っ
 て亭舎を配置し、桜、梅等の花木を植え、大石を用いた石組にも見るべき
ものが有る。 西部には茶
庭を付属する。 飛雲閣は三層の楼閣であって最下層に設け
られた御船入りによって池に通じるようになってい。 本園は優秀な庭園建築を中心とする庭園として貴重である。
3.美術工芸品
 ① 紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影)附:絹本著色親鸞聖人像(安城御影)、  (国宝)
   絹本薯色親鸞聖人像(安城御影副本)
 
 ② 「観無量寿経註」親鸞筆                                                                    (国宝)
  ③ 「阿弥陀経註」親鸞筆                                                                        (国宝)
         熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰)附:伏見宮貞敦親王御添1、飛鳥井雅章添状1巻(国宝)
  ⑤ 三十六人家集37                                                                              (国宝)
  ⑥ 絹本薯色聖徳太子像                     (重要文化財)
  ⑦ 絹本薯色親鸞・如信・覚如三上人像                       (重要文化財)
  ⑧ 絹本薯色善信上人絵(琳阿本2巻)              (重要文化財)
  ⑨ 絹本薯色慕帰絵詞、画隆章、隆昌、久信筆 10             (重要文化財)
  ⑩ 絹本薯色雪中柳鷺図(伝趙仲穆筆)              (重要文化財)
  ⑪ 銅鐘(梵鐘)                        (重要文化財)
  ⑫ 「歎異抄」2巻 蓮如書写奥書                (重要文化財)
  ⑬ 「教行信証」6冊                      (重要文化財)
  ⑭ 「唯信抄」親鸞筆                      (重要文化財)
         「浄土三経往生文類」自筆本(略本)            (重要文化財)
         尊円親王詩歌書巻自筆本(鷹手本)             (重要文化財)
         版本「観無量寿経優婆提舎願生偈註『浄土論註』」上下2帖  (重要文化財)
     建長8年親鸞加点奥書                   (重要文化財)
  ⑱ 「伏見天皇宸翰歌集」(99首)               (重要文化財)
  ⑲ 「栄花物語」15帖                     (重要文化財)
  ⑳ 「恵信尼自筆書状類」覚信尼宛(10通)           (重要文化財)
  (21)「証如上人極官関係文書」3幅、2巻             (重要文化財)
  (22)「親鸞自筆書状類」(4通)2巻               (重要文化財)
  (23)「天文日記(光教日記)」自筆本 56冊、11巻         (重要文化財)
  (24)「本願寺御影堂留守職歴代譲状」(18通)12巻         (重要文化財)

B親鸞聖人
          1.血筋と生まれ
  親鸞の娘覚信尼の孫宗昭そうしょう(覚如房)が永仁えいにん3年(1295)に編集した「本願寺聖人親鸞伝絵」(以下「親鸞伝絵しんらんでんね」という)によると、親鸞は承安しょうあん3年(1173)に生まれた。 母の名前の記録がなく、母の名前も、生まれも不明であるが、父は藤原氏の一流の日野家に属し、父は日野有範ありのりで最後は皇太后大進であった。

          2.出家して叡山に上る
 親鸞は治承じしょう5年(1181)の春は出家して青蓮院しょうれんいんの慈円じえんの門に入っ
た。
 親鸞の祖父経尹つねただの放埓ほうらつ(かってな振舞い)記憶が朝廷にはまだ生々しく生きている。 父有範の官職が皇太后宮大進(従5位程度)に止まったのもそのせいにする学者もいる。 それだから親鸞が親鸞が9歳で出家したことはも経尹の放埓が影響しているとの見方がある。 「親鸞伝絵」によって親鸞の師とされた慈円は、右大臣九条兼実の弟で、後鳥羽上皇の信頼も厚く四度天台座主ざす歴任し、延暦寺三門跡寺院の一つである青蓮院の四代目の門主であった。 従って、親鸞が出家したのは山上の青蓮房ではなく、青蓮院の一部になった京都の白河房であったとされている。
 親鸞がそれから建仁元年(1201)までの20年間を延暦寺内で暮らした。 その間の修学の様子を「親鸞伝絵」は次のように録している。 『天台宗の先徳の慧思えし、智覬ちぎの教学を修め、空くう・仮・中ちゅうの三観を成し遂げ、恵心えしん・檀那だんなと当時の叡山の教学を支配していた二流のうちでは恵心流に属していた』と言うのである。
 親鸞が叡山の堂僧であったことは、恵信尼書状の発見によって初めて知られた。 叡山の堂僧は不断念仏を行なうのが務めであり、常行三昧堂じょうこうさんまいどうに住した。
 不断念仏が、常行三昧堂で行なわれたことからも知られるように、それは承和じょうわ14年(847)唐から帰朝した円仁が始めた常行三昧の形の変わったものである。 常行三昧は「般舟はんしゅう三昧経」の説に基づき90日道場内の仏像の周囲を歩きめぐって阿弥陀仏の名を念じ唱える行である。 不断念仏も、称名を絶やさない点では常行三昧と同じであるが、ただその期間が短いことだけが違って普通は三日か七日である。 不断念仏を行とするものは、三昧の境地に入ることができる。 三昧とは、心を一つの対象に集中して散り乱さぬ状態であって、心がこの状態に達したときに、正しい知恵が起こって真理を悟ることが出来る。 念仏する者がその境地に達するには、何よりも先に源信の「往生要集」に説いているように、持戒堅固の生活をしなければならない。 持戒を怠ると心の平静を失って心を一つの対象に集中ができなくなるからである。
 親鸞が延暦寺で堂僧であったことは、清僧としてその生活を送ったことをしめしている。 若い時代の親鸞が戒かい(行動規範)、定じょう(意識を一定の対象に集中させること)、慧え(真理を見通す心の働き)の三学(重要な修行道)を修め真理を体得しようと努めたことは疑いない。

          3法然の門に入る
 親鸞は建仁けんにん元年(120129歳の時に堂僧生活に終止符を打ち、叡山を離れ法然(房号ぼうごう『呼び名』は、法然、諱いみな『実名』源空)の弟子となった。
 恵信尼書状に次のようにい書かれている。
 親鸞は悟りを求めて叡山を下り六角堂に百日籠もって祈念したが、もうあと五日で満願という95日の暁に聖徳太子が偈げ(四句の漢詩)を作って姿を現した。 親鸞はそれに感激して直ちにその暁に六角堂を出て、法然を尋ねて面会した。 親鸞はその後、六角堂に百日籠もったと同様に、百日間欠かさず法然を尋ねて法を聞いた。 その結果、後世のことは、善人・悪人の相違がなく一様に生死を離れることができる、その道を一筋に説く法然の教えを聞き分け得心した。 親鸞は、法然の行くところならば、人は何といっても、たとえ悪道に行かれるだろうと申しても何処までも付いて行く覚悟である。 法然に出会って教えを受けていなかったら自分は一生迷い続けていたであろうと思った。
 親鸞が法然の門弟となったのは、六角堂で救世くぜ観音垂迹すいじゃく(仏が神の姿で現れる)の聖徳太子が偈の指示を得たのが決定的な要因であった。 問題は、偈がどのような内容でもっていたかと言うことである。 恵信尼は弘長こちょう3年(1262)2月10日に娘の覚信尼に与えた書状の中にその本文をわざわざ書いて送ったと述べているが、その後散逸したらしく、現在西本願寺の宝庫にはそれに当るものが存在しなかった。
 赤松氏は親鸞が見たのは聖徳太子の「女犯偈」であると考えた。 その後、親鸞の自筆と考えられる偈の古写が発見され、親鸞が実際に見た実務であることが明らかとなった

   行者宿報説女犯ぎょうしゃしゅくほうせつにょぽん、我成玉女身彼犯がじょうぎょくにょしんぴぽん
   一生之間能荘厳いっしょうのけんのうしょうごん、臨終引導生極楽りんじゅういんどうしょうごくらく
 次に偈の持つている意味合いである。 「仏道に入って修行しているものが前世につくった宿因の報いとして妻帯することが時は、自分が玉女の身と成って妻となり、一生の間よくその身を飾り臨終には引き導き極楽に生まれさせる。」
 この偈を授けられて親鸞が感銘したことから考えると、当時、親鸞の悩みは性欲を中心とするものであったことは疑いない。 昔から性の問題ほど仏道の修行者を悩ませたものはないであろう。 仏教の修行者で出家しないものは正常な夫婦関係を行うことを認められ、それ以外のみだらな性行為が禁止されているだけであるが、出家の修行者は一切の性行為が禁止され独身の生活を送らなければならない。 この禁を犯した僧尼は教団外に排斥されると、律で厳重にさだめられている。 執着を去り心の安らぎを得て、はじめて正しい知恵に達することができる。 それには所有欲を断ち切ると一緒に愛欲に打ち勝たなければならない。 物心つかない幼い時に出家した者が、ようやく成人して、経典を学んで出家の意義を知り、棄欲に徹しようと持戒に励みかけたところに青年期がやってくる。 当然事実として愛欲の思いが高まって、道を求める真剣な心をさいなんでやまない。 ことに常行三昧の堂僧はよくまねかれて貴族の邸に行って不断念仏を行うことが多かっただけに、女性の活躍する俗世間に接する機会が多かった。 青年期に達した親鸞が常行三昧堂の堂僧として、戒行を守り三昧に入って弥陀の仏身・浄土を観想する境地に至りたいと願えば願うほどその心のうちに破戒してもと思う欲が強まり、ともすれば心の安らぎが失われ観想どころか一心不乱の念仏さえできない。 29歳の親鸞は苦悩のあげく、叡山を下りて六角堂に籠もって祈念せざるをえなかった。

          4ひたむきな勉学と結婚
 法然の門に入った親鸞は綽空しゃくくうの法名を与えられ、法然の教義の深奥を見極めようと努力し、日々の生活に新しい意義を感ずるようになった。 法然は善導ぜんどう(浄土真宗七高僧の一人)の「観経疏」かんきょうしょに導かれて専修念仏の門に入っただけに「偏依善導」を建前とした。 法然の教えを極めるには、なによりも善導の論釈を読破し、その真意に徹する必要がある。 善導には「五部九巻」と言って「観経疏」四巻、「法事讃」ほうじさん二巻、「観念法門」かんねんほうもん、「往生礼讃」おうじょうれいさん、「般舟讃」はんじゅうさ、各一巻の著述がある。 これらの論釈は奈良時代に既に日本に輸入され書写流布したが、その後「般舟讃」だけが所在がわからなくなり仁和寺の宝庫で発見されたのは法然死後5年を経過した健保けんぽ5年(1217)であった。
 親鸞が法然や他の門弟に先立って宋から新渡の「楽邦文類」に注目し宋人の浄土教についての考えを知ろうとして努めた。 親鸞の宗教は「偏依善導」とも言うべき面は法然と同じであるが、法然と親鸞の宗教に大きな違いが存在する。 その相違の由来は多岐にわたり一概に言えないが、宋代の浄土教学に関する関心の有無によって大きく影響されている。
 「楽邦文類」を読む前に、叡山で中国浄土教の研究を深めた親鸞の精進が吉水の法然門弟で頭角を頭角をあらわした。 法然も次第に親鸞の存在に注目するようになり、元久げんきゅう2年(1205)になつて法然の主著「選択集」せんじゃくしゅうの書写を許した。
 「選択集」は受戒して年数の長い僧か、求道心の強い僧が選ばれて書写を許されていた。 書写を許されたのは、親鸞以外では、幸西、弁長、隆実、証空、長西の5人に過ぎなかったと伝えられる。
 親鸞は何時妻帯したか、史料が皆無で推測するしかない。 吉水時代には、妻帯していなかったと考えるより妻帯していたと考えるのが妥当である。 親鸞には前後二人の妻があって、史料の多い恵信尼はのちの妻であると考えられている。

          5専修念仏の停止と流罪
 法然を中心とする専修念仏教団をめぐる外部の情勢も微妙に変化し始めた。 法然を熱心に支持した九条兼実も建久けんきゅう7年の政変によって失脚し、朝廷を支配するのは、名実ともに後鳥羽上皇であった。
 このような形勢に中で専修念仏の迫害にまず乗り出したのは延暦寺であった。 延暦寺は建仁けんにん3年(1203)に学生がくしょう(仏教を研究する僧)と堂衆どうしゅう(下級僧)の深刻な内争が再燃して以来、一山あげて混乱していた。 当初堂衆が城郭を構えて学生を攻撃したために、朝廷は武士を派遣して堂衆を攻撃させた。 そのため内争は複雑となり長期化した。 混乱のさなか、専修念仏者が無遠慮に天台・真言宗の教法を正法でないと批判したことが、長期の内争でいらだっている延暦寺の学生を刺激した。 延暦寺が何時ごろから抗議したか不明であるが、元久げんきゅう元年(120411月7日法然は起請きしょうを送
り、昔叡山にいて三観の修行をしたことを述べて慇懃に延暦寺の抗議を容認する態度に出た。 さらに同日、「七箇条起請」を作成して門弟の行為を厳重に規制した。 法然は起請の末尾で、専修念仏を説き始めた安元あんげん元年から現在まで30年間経過したが、はじめは無事であったのに、ここ十年間は門弟のうちに無知不善の者が加わって弥陀・浄業・釈尊の正法を汚したとのべた。
 延暦寺側は一応納得したが、法然があまりに慇懃な誓詞を延暦寺に送り、門弟の行き過ぎを厳しく非難したことに屈辱感を覚えた門弟は「師上人の言葉はみな裏表があるから、中心のことはわからない。 外部はいかおうに受け取られても真意はそれとことなる」といいふらした。 門弟の無思慮な言動が、折角鎮静しかけていた専修念仏反対の火の手を煽り、諸宗は一致して朝廷に禁止を要求するようになった。 後鳥羽上皇は、それに対して法然がその行き過ぎを認め赦免状を院庁に提出しているから憤慨するにあたらないと諸宗の要求を制止した。
 事態は専修念仏側が有利に進んでいたが、翌建永けんえい2年(1207)の正月になると形勢が急変した。 それというのも、12月9日に始まった後鳥羽上皇の熊野御幸の間に上皇のを寵愛受けていた女房らが、罪状を調査されている遵西や住蓮房の主催する別時念仏に結縁し、外泊すると言う事件が起きた。 上皇は1228日に京都還幸されたが、この事件を知って、上皇は専修念仏者に裏切られたと思った。 1月24日専修念仏停止の宣が下され、2月8日専修念仏者の逮捕、9日法然、行空、幸西、親鸞は流罪、遵西、住蓮房は死刑に処せられた。
 親鸞の建永2年(1207)から建暦けんれき元年(1211)までの四年有余の越後で流罪生活で注目されることは恵信尼と同居し、承元じょうげん5年(1211)3月3日に信蓮房即ち明信が生まれている。 親鸞の第3子でその上に、小黒おぐろ女房と善鸞がいたとかいてある。
 建暦元年(12111117日に法然は勅免され、流刑地の讃岐国から京都東山大谷に帰った。 勅免の理由は定かではないが、法然の衰弱がはなはだしいことを考えてかも知れない。 後鳥羽上皇も専修念仏の禁止はそれほど賛成ではなかった。 ただ、一時の怒りから弾圧されたものであったから、興奮が去れば禁止令を解く気持ちに次第に傾いたのであろう。 親鸞も法然と同日付で赦免された。 しかし、親鸞は直ちに京都にかえらなかった。 その第一の理由は、赦免からわずか、二ヶ月後の建暦2年(1212)正月25日に法然がなくなったこと。 第二の理由は、信蓮房が生まれたことであろう。

         6.関東稲田に移る
 流罪赦免後の越後の国に暫時居住した親鸞は、建保けんぽう2年(1214)に妻子を伴って常陸の国を目指して出発した。
 この常陸国稲田で親鸞はが「浄土三部経」を千部読経しようとしたことである。 その動機は衆生利益しゅじょうりやく即ち、読経の功によって、全ての人間が苦界を脱して極楽に生まれることを念願することにあった。 「浄土三部経」を読むのは正行しょうぎょうである。 親鸞はそう考えて千部の読経を発願し、その功徳を広く法界に廻向えこうしようとしたのであるが、4~5日してはたと思い当ることがあった。 弥陀の本願を信じ称名念仏する一念に往生を決定しえた喜びを持ったものが、その喜びを他人に分かち与え、弥陀の本願を信ずるように教え導くことこそ、真実に仏恩を報ずることである。 師の法然は、読誦どくじゅ、観察、礼式、称名、讃供養、の種の正行のうち、称名行を選び出して正定業しょうじょうぎょうとなし、その他の行を助業じょぎょうとしている。 それであるのに正定業の名号のもかに、なにの不足があって助業である読経を行なうとするのか、親鸞はこのように反省して即座に「浄土三部経」千部読経を中止した。
 親鸞が常陸国の笠間郡稲田郷に居を占めた理由について色々考えられているが重要なのは、稲田に移住してから元仁げんにん元年(1224)ごろまでに「教行信証」の初稿本が出来ている事である。 親鸞が稲田に移住した主な動機は、「教行信証」を著わす便宜を考えてのことであったと思われる。
 下野国宇都宮からこの地方にかけて鎌倉時代に勢力のあった鎌倉幕府御家人のうちでも名門の宇都宮氏の領地であった。 一門の長老頼綱は北条時政の娘を妻とし、源頼朝とは義兄弟の間柄であった。 頼綱は武士であるが和歌をよくし、法然の門弟であったといわれる。 宇都宮頼綱は専修念仏と関係が深かったが、稲田郷を直接領していたのは、その弟、塩谷朝業ともなりであった。 朝業も兄と同様和歌を嗜んだ。 朝業は将軍実朝の信任厚く外出の際お供することが多かったが、実朝死後は出家した。 朝業が出家したあと笠間郡を領したのは、二男笠岡時朝であったが、建保2年に親鸞が常陸に移住した時は11歳であった。
 越後から常陸国に移った当時の親鸞にとって、和歌や仏像などはおそらく眼中になく上は釈尊の説いた「浄土三部経」からはじまって下は師の著「選択集」に到る絶対他力の信の道を明らかにすることであった。 この願いを達成するためにはなによりも一切経が自由に見られるところに行かなければならない。 稲田はそういう意味でも親鸞を引き付けた場所であったと考えられる。

       7・教行信証
 親鸞は常陸国笠間郡稲田の恵まれた文化的条件を利用して「教行信証」の初稿本を完成した。 「教行信証」の正しい書名は「顕浄土教行証文類」といい、教、行、信、証、真仏土、化身土の六巻からなっている。 ほかに初めに総序、信巻の主部には別序、化身土巻に末尾には後序が付せられている。
 「教巻」は阿弥陀の本願を説くのを主旨とし南無阿弥陀仏を経の体とする「無量寿経」が真実の教主であることを明らかにするために著されたものである。
 「行巻」は阿弥陀如来の名号を専心して唱えることは、往生浄土の真実の行であって、衆生の救済を本願とする阿弥陀の選択された清浄の願心から現れたものであり、名号において阿弥陀の願心が了解されるのが信であるから、行信は不離でなければならないことを説きあかすために著した。
 「信巻」は行信不離を強調する行巻を受けて、信が自力によって固められるものではなく、他力の廻向によることを明らかに著され、「教行信証」のうちでも最も眼目に当たる部分である。
 「証巻」は、真実の行信を得た者が正定衆(往生すべき身)のうちに加えられ、必ず滅
めつど即ち涅槃の境地に至り、生死を超越した悟りを開くことを明らかにするために著された。
 「真仏土巻」は、光明無量・寿命無量の誓いによって成立した真の仏と浄土の姿を明らかにするために著した。 この巻も真の仏を不可思議如来、真の土を光明無量土と讃嘆する親鸞の私釈から始まり、二つの願を明らかにする「無量寿経」の本文を載せ、異訳経をも併載することは他の諸巻と同じであるが著しい相違は、それに続いて密教経典である「不空羂索神変真言経」を引用して阿弥陀の報土が清浄であることを強調していることである。

          8.門弟の動き
 承久の乱で追討の宣旨を受けた鎌倉幕府が逆に朝廷の軍を打ち破り、頼朝の死後、久しく続いた内争で気のめいていた幕府関係者はこの勝利で生気を取り戻した。 親鸞は、後鳥羽上皇のみじめな敗北の原因は、上皇が女房等の専修念仏者との蜜通を理由に不当に専修念仏を弾圧したことの当然の報いであると報じた。 親鸞はそのように考えて「教行信証」の後序に記した。
 親鸞はこのように朝廷・幕府に近づこうとせず、悟りの道を求めつつも生きるために必ず少々の罪悪を犯さなければならない在家の仏教者の側に立って彼らに真実の「教行信証」を信仰する喜びを説いた。 その親鸞の考えに共鳴し、門弟になる者は次第に増加した。
 「親鸞聖人門侶交名牒」によると親鸞の一生を通じて門下は下野国6人、常陸国で20人、下総国で3人、奥羽両国で7人、武蔵国1人、越後国1人、遠江国1人、洛中で7人、所在不明で1人、計48人、その他の史料で23人、総合計76人となる。
 さて親鸞に親しく面接してその口から教えを受けた門弟は「面接口決くけつ」と言われたが、その多くはそれぞれに道場を作り、自らその主となり、多数の信者を集め、何々の門徒と称した。 道場の規模については具体的に判明しないが、道場主も親鸞同様に出家精進の生活をするのではなく、肉食妻帯の生活を営んだ。 中には耕作したり、商業に従事したりした。 したがって道場といっても特に伽藍風の建物があるわけでもなく、道場主の私宅をそのまま転用したものが多かったと思われる。 本尊は阿弥陀仏の名号か又は名号を中心に左右に竜樹りゅうじゅ(浄土真宗7高僧の第一祖インド僧)、天親てんじん(同第二祖インド僧)以下三国の高僧、法然、親鸞の肖像を配した「光明本尊」を安置したものが多かった。

          9.善鸞の異議

 親鸞の息子善鸞が関東へ下向したことから始まる。 下向の理由は、関東教団の中で「地獄へ落ちるべき悪人こそ救われる対象なのだから、現世でどんな悪行をしてもよいのだ」と言う造悪無碍ぞうあくむげの説がはびこり始めたため、これを憂えた門弟達が親鸞に下向の要請をした。 これに対して、高齢の親鸞が自分の代理として善鸞を派遣した。 その時期は建長けんちょう4年(1252、親鸞81歳)前後とするのが一般的である。
 善鸞は、造悪無碍的風潮に対抗するため「行儀を守って念仏に励まなければ功徳はない」という趣旨のいわゆる「賢善精進」に類した教化を進めると共に現地の政治的権力と結んで造悪無碍的念仏者の取り締まりをはかたと見られる。 そしてその傾向が次第にエスカレートすると、今度は自分が父親鸞から夜一人だけ秘伝の伝授を得て下り、」常陸、下野の親鸞門弟達は間違った教えを受けたのだと称して自らのカリスマ化を計ったらしく、関東教団は大いに動揺した。 しかし、その元凶が善鸞であることが容易に京都につたわらないうちに、善鸞は常陸と下野の門弟達を鎌倉幕府へ偽り告訴し、念仏が弾圧される事態となった。
 やがて、親鸞にも事の真相が伝わり、すべて我が子善鸞の所為であることが判明したことから、ついに建長8年(1256)5月29日、涙ふるって善鸞に対し、親子の縁を切ることを申しわたした。 

   10・涅槃に入る
 親鸞伝絵のなかで、親鸞の死を叙述した覚如の文章から彼の親鸞に対する尊敬の態様を感じ取ることができる。 この時代の高僧の死には大なり小なり瑞相を持って語られることが多かった。 それに対して覚如は、臨終来迎を拒否した親鸞の死らしくそうした瑞相を一切記していない。 文章の拡張を高めるための技巧と若干の美化は認められるものの、粛々とその死を叙述している。
 しかし、実際の親鸞の臨終はもっとあっけないものらしかった。 90歳という当時としては超高齢ともいうべき年齢でおそらく老衰のような死亡だったと思われる。 最後を見取った人々にとっては瑞相もないあっけない臨終はやはり物足りないものだったらしい。
 葬儀を終えた翌日、覚信尼は越後の母へ父の死を報告した書面のなかにそうした気持ちを書いたようで、その書面を見た恵信尼は……親鸞の臨終の状態がどのようであろうとも、浄土へ往生は少しも疑わないと、妻として親鸞への強い信頼感がうかがえる。

参考文献
* 古寺巡礼京都20「西本願寺」        著者;大谷光真、大喜直彦、淡交社
* 蜷川幸雄著;NHK国宝への旅(11)春日大社・西本願寺・薬師寺より、
   「京都・西本願寺・飛雲閣」                日本放送出版協会
* 赤松俊秀著;人物叢書「親鸞」                  吉川弘文館
* 平松令三著;歴史文化ライブラリー(37)「親鸞」         吉川弘文館
* 伊藤延男著;探訪日本の古寺(8)京都三(洛中・洛南)より、「西・東本願寺」
                                 (株)小学館
* インターネット「Wikipedia」より


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