京都と寿司・ 朱雀錦
         (29)「世界遺産・二条城」・徳川家康



                                   二条城二の丸御殿
  
                                                
 

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A. 二条城

 1.二条城の歴史
()  二条城の建立
  近世、京都には二つの二条城が築かれている。 その一つは織田信長が足利将軍義明のために下立売町
 付近に築城した二条城。 そうしてもう一つは
京都市中京区二条城町にある現在の二条城です。
  現在の二条城は、慶長けいちょう5年(1600)関ヶ原役において覇権を確立して3年後の慶長8年(1603
 征夷大将軍就任を期に、京都御所の守護と将軍上洛の折の宿泊所として
造営された城である。 家康は慶
 長8年2月伏見城において将軍宣下を受け、3月に
新築の二条城に入城重臣や公家衆を招いて将軍就任の
 祝賀をおこなった。 これは二代
秀忠と三代家光まで行われたが、四代家綱以降は行われていない。
  元和げんな5年(1619)秀忠は、娘和子まさこを後水尾天皇に入内じゅだいさせるため二条城の改修工事を行
 い、元和6年、和子は二条城から御所にはいった。

() 後水尾天皇の行幸
  寛永かんえい3年(1626)9月家光が三代将軍となり、秀忠が大御所おおごしょとなると、家光は後水尾の行
 幸を迎えるために、二条城の大改造を寛永元年(
1624)から3年かけて行った。 城の地域は、西に拡
 大され、それまでの地域を二の丸とし、拡大した部分に本丸が構築された。 従来西北隅にあったとされ
 る天守閣が取り払われ、新たに本丸の西南角に五層の天守閣が築かれた。

  後水尾天皇は、9月6日に関白以下を従え二条城に行幸され、10日までの五日間滞在れその間、様々
 行事が催されたが、3日目の9月8日天皇の所望で、天主をご覧にな
った、中宮、女院も一緒である。 
 天皇が天守から遠望されることは、計画になかった
ようだ。
  この時造られた二条城に天守は五重で、石垣から棟まだ14間、石垣の高さが10間あった。 従って水
 面から棟までは
24間(24×1.843.2m)の高さになる。 当時、周辺には二階建てより高い建物は殆ど
 なかったどので、
1314階建てビルの窓からの眺望はすばらしかったと思われる、天皇はお帰りの日の
  10
日再度、天守閣に昇られたという。  幕府は寛永元年の5月頃から従来の地を西へ広げることに着
 手し、寛永2年に入って
から本格化したが、小堀遠州(政一)等が工事奉行を務めた。 最も重要な建物
 である
行幸御殿は寛永2年5月21日に上棟の運びとなり、二の丸御殿と本丸御殿も寛永2年の末には出
 来上がっていたようである。 寛永3年6月には門、櫓や付属する建物の工事
も終わり、6月20大御所
 秀忠の入城を迎えた。 寛永元年から3年かけて建てられた二
条城の天守、本丸御殿、二の丸御殿、行幸
 御殿の内本当に新築されたのは行幸御殿だけ
で、あとは他所からの移築と考えられている。
(3)    四代家綱から幕末まで
  行幸御所等の行幸施設はわずか5日使用されただけで、後水尾天皇行幸の翌4年1627)から四半世
 紀かけて仙洞御所等に移築された。 

  幕府の権力の象徴であった天守閣は寛延かんえん3年(1750)落雷により焼失した。 そして天明てんめい
 8年(
1788)同心長屋、東番衆小屋、本丸御殿、多門櫓、隅櫓は市中の大火の飛び火によって焼失した
 。 同心長屋と東番衆小屋は再建されたが、本丸御殿、多
門櫓および隅櫓は再びその姿をもどすことがな
 かった。 このようなことから、二条城
は特に公的な役割を担うことなく、この間主不在でありつつも京
 都における徳川家の出
城的意味を持つ時代であった。 後水尾天皇の行幸後、寛永11年7月に、家光が
  30
7千の軍勢を引き連れて入城して以来、第14代家茂いえもちが文久3年(1863)入城するまで229年間
 城主不在であった。
  徳川最後の将軍となった第15代慶喜よしのぶは慶応2年(186612月、二条城において将軍宣下を受け、
 翌
10月この城で大政奉還し、将軍職を辞した。 つまり、二条城は徳川幕府のはじまりと終わりの舞台
 であった。

() 明治維新後
  明治元年(1868)太政官の所管となる。
  明治4年(1871)3月13京都府に移管、6月26京都府庁となる。
   明治6年(1873)2月から16年(1883)頃までは陸軍省の所管となったが、京都府庁はそのまま置か
 れた。

  明治17年(1884京都府庁から宮内省へ移管された。
  明治26年(1893)明治天皇の命により旧桂宮御殿を本丸内へ移築し、その際、彼泉水庭園も作庭され
 たが、明治
28年(1895)明治天皇の指示で彼泉水庭園は芝を主体とした芝庭風築山式庭園に改作された
 。
 大正元年(1912)大正天皇御即位の饗宴の儀式が行われ、二の丸庭園南庭及び二の丸御殿北側など
 は、増改築、清流地区(同心長屋、東番衆小屋地区)には饗宴施設が造営さ
れた。
  昭和14年(1939)宮内省より京都市に下賜され、同年土地建物が史跡、二の丸御殿が国宝に、二の丸
 庭園が名勝に、本丸御殿、隅櫓など
22棟が重要文化財に指定された。
  昭和15年(1940)より恩賜元離宮二条城として一般公開された。
  昭和27年(1952)二の丸御殿が新国宝に指定される。
  昭和28年(1953)二の丸庭園が特別名勝の指定をうけた。
  昭和40年(1965)清流園が作庭された。
  平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして二条城は世界遺産に登録された。 
  昭和51年(1976)には200万人/年を超える観光客を記録し、現在でも約125人/年の観光客を迎えて
 いる。


 2、建造物
            [] 二の丸御殿(国宝)
 江戸初期の慶長年間に築城された遺構を残す貴重な建築群である。 築地塀ついじへいや土蔵に囲まれ、総敷地面積は3万m2。 車寄くるまよせに続く遠侍とおざむらい、式台しきだい、大広間、黒書院、白書院の建物が雁行がんこう型に連なっており、どの建物からも庭園が観賞できるよう設計されている。
 慶長期の遺構を残す、後水尾天皇の行幸が行われた寛永年間に大幅な改修が行われており、明治時代には一時京都府庁や離宮ともなって手が加えられている。 廊下の天井絵は明治30年ころ新しく描かれたもの、格天井ごうてんじょうとなっており、格縁ごうぶちにつけられた飾金具は往時のもので中央に葵紋が浮彫されている。
()「東大手門」(重文)
  二条城の正門。 桁行13間、門の部分は間口5間。 本瓦葺、入母屋造で、棟上に鯱しゃちが上げられて
 いる。 櫓門やぐらもんという石垣と石垣の間に渡櫓わたしろを通して下に門
を開ける形式の門。 階上の櫓に
 衛兵が詰めており武者窓が開かれる。 武者窓の左右
に開かれた窓は石落とし。 寛永3年の後水尾天皇
 行幸に際し、天皇が潜る門を人がい
る形式の門を避け、その後再び現在の櫓門にもどされた
()「東南隅櫓とうなんすみやぐら
  城壁の東南隅に設けられた櫓。 東大手門から南に延びる多門塀たもんへい(城壁の上塀)に接し、2層で
 外は漆喰の塗りごめ、東南に出窓を設け石落し矢座間やざまを備える。
 城壁の西南隅に設けた西南隅櫓が
 唐破風であるのに対して1層、2層の間に南北に千鳥
破風を飾る。 西側に延びる多門塀は現在短く残さ
 れているがかっては城壁の
  4周に巡
らされており、長く続く白壁を霞に見立て「霞城」と呼ばれたこともある。
()「番初ばんしょ
  警備の侍が詰めていた場所、正面10間(19.6m)、奥行き3間(6.06m)、前2間の畳敷きに二条座番
  にじょうざばん
と呼ばれた武士が、詰めており、当時の様子が人形を使って復
元されている。 門番所をのこ
 す城郭は極めて珍しく貴重な遺構である。

()「唐門」(重文)
  切妻造、桧皮葺の四脚門。 前後に唐破風をつける向唐門むこうからもん形式。 両側に築より一段高く堂
 々たる。 軒下には雲竜、竹虎、牡丹、唐獅子などの精緻な彩色彫刻
や飾金具で、荘厳されており二の丸
 御殿への正門として豪華な装飾を誇る。

()「車寄くるまよせ」(国宝)
  二の丸御殿の玄関、桧皮葺、入母屋造で正面に唐破風をつける。 床は四半敷しはんじきと言う石や敷瓦
 を斜め
45度の角度に敷き詰める形式、軒下には鳥や牡丹などの華麗な装飾が施されている。
  なお、二の丸御殿に入る前、この車寄に向かって左奥に見える大屋根は遠侍とおざむらい母屋屋根の妻部
 で、三角形に見える部分の縦横に組んだ木の格子の裏に板を張った木連格子きずれこうしと言う形式。 菊の
 御門をはじめ巨大な飾り金具が取り付けられており圧
倒される。
()「遠侍とおざむらい」(国宝)
  二の丸御殿最大の建物。 車寄から入ると正面に「柳の間」、その奥が「若松の間」(非公開)、そし
 て主室である「勅使の間」と続くが、一般の拝観は「柳の間」から左の「三の間」「二の間」と巡るよう
 コース取り去れており、「勅使の間」は最後に見るようになっている。 「柳の間」は「若松の間」と共
 に受付に当たる部屋で、控えの侍が詰めていた場所。 腰高明障子こしだかあかりしょうじ下や北側の襖絵に柳が
 描かれているところからの呼称。 「三の間」「二の間」「一の間」はすべて竹林に虎と豹が金碧障壁画

  きんぺきしょうへき
で描かれており、3部屋とおして「虎の間」と呼ぶ。 
 「三の間」「二の間」は将軍謁
見に訪れた外様大名の控えの間、「一の間」は徳川家の侍の控えの間だが
 、徳川家康が豊
臣を臣下にした証として慶長16年(1611)に豊臣秀頼を大阪城から呼びつけた際、この
 部屋で謁見が行われたことで知られている。 
  秀頼は加藤清正、浅野行長らに守られて
この部屋に通されたと伝えられる。 なお「虎の間」に描か
 れた虎や豹は、毛皮を見て想像の上で描かれたので、豹は当時
別の動物ではなくメスの虎だと考えられて
 おり、従って雌雄の虎を描いたことになる。
  「勅使の間」は朝廷からの使者を迎えるための部屋で、上段の間と下段の間に別れてる。 現在の拝観
 コースでは二の丸御殿の最後に見る様になっている。 「上段の間」
21畳)は、正面に床の間、違い
 棚、南面に帳台構を備えており、本来北側のある付書
院は省略され腰高障子とされている。 床の間には
 「青楓図」あおかえでずが描かれ、違い棚の貼付壁は上部に楓の枝、下部に岩と海棠かいどう(バラ科)が描か
 れている。
  違い棚上天袋小襖は向かって右から梅、山吹、桜、牡丹の絵。 これらの小襖裏にもタンポポと
スミレ
 が描かれており見えない部分にも装飾が施されていることにおどろかされる。 
「下段の間」(35畳)
 の南面には金地に桧の林が描かれ太い幹は長押の上まで伸びて描
かれ、源氏雲がたなびく風情は見事であ
 る。 「若松の間」(非公開)、天井は全体にぶ
どうの蔦が広がって描かれており、格天井の格縁を葡萄
 棚に見立てて描がかれた巧みな構図。 なお、遠侍の障壁画は二条城古図に貼られた付箋によると、狩野
 派の絵師道味
うみと真設しんせつの二人とされているが、狩野永徳えいとくの弟宗秀の子真説の作とする説が
 力。

()「式台しきだい」(国宝)
  式台は、色台とも書き、挨拶を意味する。 将軍に従って入城した老中が詰めていた部屋。 諸大名か
 ら献上品を老中が取り次いだ。 表が「式台の間」で、裏には老中が
控えた「老中の間」3室がある。 
  「式台の間」奥の間いっぱいに描かれた松は狩野探幽かのうたんゆ25歳の作と伝えられる。 2本の老
 松が左右に枝を伸ばし、長押の上まで広がる雄渾ゆうこんな絵で大広間の巨松に続く予兆よちょうを感じさせ
 る。 天井は格天井ごうてんじょうで向い合った孔雀が図案化されている。
 「老中の間」は帰路に拝観する
 。 3室とも長押下の部分だけ雁や鷺が描かれ、長押
の上は白壁のままで天井も板張りである。 一の間
 は春夏の芦雁図ろがんず,二の間は秋の田圃落雁図でんぽらくがんず、三の間は冬の雪中柳露図せっちゅうりゅうろずと四
 季が描き分けられ、老中が事務を行う内向きの穏やかな雰囲気である。

()「大広間」(国宝)
  二の丸御殿で最も公的性格の強い部屋。 将軍が諸大名と謁見を行う場所であり、徳川最後の将軍とな
 った慶喜が慶応3年(
1867)に在京諸藩の藩主や老中を招集し、大政の奉還を告げた部屋でもある。
  一の間は上段の間で将軍が座る場所。 天井は中央が一段高く作られた二重折上格天井にじゅうおりあげごう
  てんじょう
となっており、この下が将軍の御座所ござしょ。 床の間、違い棚、
付書院、帳台構えを備えた格式
 の高い部屋で、松の巨木が床の間壁や長押を突き抜けて
壁面全体に描かれる。 松は不変の繁栄と権威の
 象徴で将軍の威光を示す。

  二の間は下段の間で上段の間との境には黒漆塗の框かまちと天井下に小壁が設けられ仕られる。 壁面
 には「松孔雀図」が描かれ、三の間と続く。 長押上の欄間には飛翔
る鳳凰と牡丹が豪華に彫りこまれて
 おり、将軍家の富貴を象徴する。 現在人形を使
って将軍謁見の場面が再現されており、上段の間の将軍
 の右手に刀小姓かたなこしょうを従え、
下段の間右手には老中、左手に高家、若年寄が控え、手前に諸大名
 が拝謁す る。 上段
の間と下段の間を合わせると92畳敷となる。
  三の間の障壁画は「松孔雀図」。 全面に松の巨木が低く枝をいっぱいに伸ばし、太い幹上に孔雀が凛
 とした姿を見せる。 中央の長押上には極彩色の孔雀、唐松、牡丹が透
かし彫りされた欄間が入れてある
 。 この欄間は四の間と共通の欄間で
35cm以上の桧の一枚板に彫られており、四の間側には唐松、牡丹
 、バラがほられどちらも利裏面の彫り
物が見えない。
  四の間は帰路に拝顔する。 「槍の間」やりのまとも呼ばれる。 大広間に中で最も広く52畳半。この襖
 が有名な「松鷹図」まつたかず狩野探幽たんゆうの代表作でもある。
 巨松と流水の中に獲物を見つける大鷹
 が描かれており、部屋全体に力強さをみなぎらせ
る。 天井は78面からなる格天井で図案化された孔雀
 が描かれる。

()「蘇鉄の間」(国宝)
  大広間と黒書院をつなぐ板敷の大廊下。 江戸時代の「松の廊下」に当る。 出入口の杉板や壁面に狩
 野探幽による「蘇鉄そてつの絵」が描かれていたことからの名称。 かってこの二の丸御殿の庭園には
15
 本の蘇鉄が植えられており、これらの蘇鉄を観賞する
部屋であったととも言われている。
(10)「黒書院くろしょいん」(国宝)
  大広間に対して小広間とも呼ばれ、将軍が親藩や譜代と私的に対面する応接室の役割を持つ。 一の間
 、二の間、3の間、四の間、牡丹の間から成る。
 「三の間」は譜代大名の控えの間で、別名「浜松の
 間」といい、長押の上の壁面には
浜辺に続く松原が 長押の下に松と田圃に鷺が描かれている。 「二
 の間」は下段の間で「桜の間」とも呼ばれている。 壁面には桜花図の絢爛たる
八重桜が咲き乱れ、網代
 垣あじろがきと竹垣を前景に、桜の背後には、清らかな流れ、番
 つがの山鳥や小禽しょうきんが遊ぶ。 探幽の子
 」狩野尚信なおのぶ
20歳の秀作。 なおこの二の間は一の間より1間分広く取られてがる。
  「一の間」は上段の間で将軍の御座所。 大広間と同じく床の間、違い棚、付書院の書院飾りが設けら
 れるが、床脇に違い棚が鉤形かぎがたに2つ作られており、大阪城本丸の白書院と同じ構成である。 床の間
 には老松、付書院の腰高障子には楼閣山水、その横の戸襖には紅梅と桜の柴垣が描かれ、反対の壁面には
 、長押の上まで咲き誇る八重桜、その下には水辺に雉とツツジがえがかれており、大広間の峻厳な雰囲気
 と打って変わって私的で穏やかな空間演出。
  「四の間」は帰路の拝観となる。 「菊の間」とも言い、南北の襖慧に流水と垣根に菊の絵が描かれる
 。 「牡丹の間」黒書院と蘇鉄の間をつなぐ回廊。 北と西の襖に流
水に咲き乱れる牡丹が描かれている
 ことからの名称である。

(11)「白書院しろしょいんj(国宝)
  二の丸御殿の最も奥に位置する建物。 将軍が日常の生活を行うための場所で、居間や寝室として使用
 されたもので、障壁画は、公私の対面所である大広間や黒書院と一変
して淡彩による水墨画が描かれる。
 探幽や尚信の師である狩野興以こういの力作で情
感にあふれ、見る人の心を休ませる力量は見事である。
  「一の間」が上段の間で寝室となる。 床の間、付書院、違い棚、帳台構を有する座敷飾り。 描かれ
 ているのは中国の雪景山水や早春の港町の風景、あるいは楼閣や農村
の情景である。 違い棚の天袋には
 、紅白の可憐なナデシコが色を添える淡彩による山
水図で、長押の上にも浮かび上がるように淡い色彩の
 山水が描かれている。
 天井は、
52面に分かれ、意表を衝くように濃彩による四季の草花が散りばめ、将軍の寝所にふさわしい
 構成である。

  「二の間」は下段の間。 楼閣山水図、各部屋の四面が連続する構図で構成される。
 
 「三の間」は水墨淡彩で花鳥図がえがかれている。
  「四の間」は非公開。
(12)「二の丸御殿台所」(重文)
  非公開。 二の丸御殿の東に建つ。 調理を行う御清所おきよどころと盛り付けや配膳を行う台所の2棟の
 建物をつないだもので、北側が台所、南側が御清所。 台所の板の間に
は入り口横に中二階をつけて見張
 り台としている。 寛永期に建てられたもので、総床
面積は、約700あり、それぞれ棟に煙出けむりだし
 を付けている。

(13)「釣鐘」
  二の丸庭園の入口横に置かれた2基の釣鐘は、、二条城と京都所司代しょしだいとの連絡用に使われた鐘で
 、双方に1基づつ置かれていた物。 京都所司代は二条城の北側にあり、
幕府の政務期間である二条城と
 所司代は幕末の中で緊迫した状況に置かれており、薩摩
藩や長州藩など朝廷の動向に備えてお互いに急を
 知らせる必要があった。
(14)「二の丸庭園」(特別名勝)
  慶長7年(1602)から8年にかけて徳川家康が築城された時に作られた庭園に、寛永んえい3年(1626)
 徳川家光が後水尾天皇行幸に際して作業奉行であった小堀遠州に命じて改修を命じて改修を加えたもの。
 行幸のために、現在庭園に入って左の芝生に行幸御殿や中宮御殿が建立、池の中に御亭おちん、池の奥に長
 局なかつぼねなどが立てられていた。 

  当時は本丸の西南に5層の天守閣がそびえており、景観の一部となっていた。 これらの建物は行幸が
 終わった翌年から次第に撤去、移築され、その後8代将軍吉宗の時代
に改修が行われたあと次第に荒廃し
 、第
15代将軍慶喜が上洛時には、池は枯渇し、樹木も殆ど無かったと伝えられる。
  明治維新後二条城が宮内省の管轄となってからは5回以上の改修があり離宮として使用されていた時代
 に行われた改修が現在の景観の基礎である。

  現在の庭園は書院造庭園で神仏蓬莱しんぶつほうらい思想を反映したもの。 池中央に蓬莱島を置き、北に
 亀島、南に鶴島を配して西南隅に2段の滝を設ける。 四つの石橋、回路
をつなぎ池の汀には変化に富ん
 だ色彩豊かな石を組み上げ神仏の雰囲気をかもしだして
いる。 別名を「八陣の庭」とも称される。 な
 お、池の3島は鶴島側から蓬莱島を
見ると亀の型に、亀島側から蓬莱島を見ると鶴の型に見えるように設
 計されていると言われている。

  池の北にある蘇鉄は15代将軍慶喜が撮影させた写真に写っており、少なくとも150以上経過している
 。 八代将軍吉宗の時代に書かれた二の丸庭園の古図には
15本の蘇鉄が描かれており、現在残る1本も
 位置が一致する。

(15)「土蔵長屋門」(重文)非公開
  二条城に残る3つの米蔵の1つ。 土蔵長屋門となっており、北側から台所へ入る為にはこの土蔵に挟
 まれた長屋門を通らなければならなかった。 

(16) 御清所」(重文)非公開
  調理場である。

            [] 本丸御殿(重文)
 内濠に囲まれた部分168002(妬く5200坪)を本丸と言う。 創建当時の本丸は徳川家康が建てた二の丸御殿から23年を経過した寛永3年(1626)三代将軍家光が、後水尾天皇の行幸を仰ぐため、小堀遠州(政一)等を奉行として、西国19藩に二条城の改築を命じて、伏見城の天守閣、御殿その他を移し、同時に本丸御殿を築き城としての形態を整えたとつたえられる。
 しかし、その後寛延かんえん3年(1750)の落雷で天守閣が焼失し天明てんめい年(1788)市中火災で本丸御殿の殆どが焼失し荒廃した。
 明治維新二条城の所管が転々とし明治17年(1884)宮内省の所管に移り天皇の離宮となった。 明治26年(1884)明治天皇の命により、旧桂宮御殿を本丸内にうつした。
 この旧桂宮とは四親王家の一つであった。 初代智仁親王(後陽成天皇の弟君)が八条宮として天正てんしょう18年(1590)宮家を創立されたのがはじまりで、今出川屋敷(本邸)及び桂離宮を造営された。 その後六代文仁親王が京極宮に、九代盛仁親王が桂宮と改称した。 文久2年(1862)に淑子すみこ内親王が11代目を相続されたが明治14年(188110月に亡くなられ、その後継承の宮がなく、宮内省預かりとなっていた。
本丸御殿が今出川屋敷として建てられた時は、建坪1357.45坪(44802)、棟数55の大建築で、全ての建物が移されたのではなく主要な部分が本丸内に移された。 移築された建築面積は1652(約500坪)、で、玄関、御書院、台所及び雁之間、御常御殿の四棟がそれぞれ廊下でつながり、宮家の建物として完全な形で残されている。 唯一の建物で、重要文化財に指定されている。 建設の時期は弘化こうか4年(1847)である。
(17)「本丸櫓門」(重文)
  二の丸と本丸をつなぐ門。 現在は内濠に架けられた橋を渡って門に入るが、寛永初期には二の丸御殿
 から二階建ての渡り廊下が架けられていた。 巨石が積まれた石垣は
当初の本丸の城壁であり、将軍の居
 城にふさわしい量感を誇る。

(18)「玄関」(重文)
  公家住宅の堂々たる造りで、正面27.3m、奥行き23.4m、入母屋造り桟瓦葺さんかわらふき、大きな唐破風の
 車寄をつける車寄の屋根は銅板葺。 桂宮家にあった当時は牛車仕
様であったため、車寄せは正面のみが
 開けられていたが、移動に際しては馬仕様に応じ
るべく左右の壁を取り除いた。 内部は20畳のジュウ
 タン敷き玄関部に
12畳の「取次の間」(衝立ついたてが置かれた空間)およびその裏の面談所2室、大廊
 下を挟んで「殿上
んじょうの間」「公卿くぎょうの間」に「使者の間」、玄関部を挟んで反対側に内玄関を備
 える。 
車寄を入った正面に「取次の間」に置かれた衝立は四条流絵師大原呑船おおはらどんしゅうの「波濤はと
  う
に鷲図」。 呑舟は阿波の出身で、京都に出て大原呑饗どんきょうの養子となり、松村呉春門下の柴田義董
  しばたぎと
うに師事した絵師。 山水、人物を特異とした。

(19)「御書院」{御書院、御中書院、雲鶴}(重文)
  桁行南面16.5m、東西16.7m、梁間西面10.8m、北面13.5m入母屋、桟瓦葺き。 本丸御殿の公式対面
 所、表対面所ともいいう。 3室の公式対面所「御書院」と四季の障壁画が描かれた「御中書院」おちゅうしょ
  いん
及び3室の「雲鶴の間」からなる。

 ①「御書院ごしょいん」の一の間は14畳の御座所で上段の間。 床の間、違い棚を備え、天井は格天井ごうてん
   じょう
、違い棚上の天袋には、「四季草花に錦花鳥」図が描かれており、原派3代の原在照はらさいしょう
  手になる。 在照は安政年間の内裏造営 に関わった御用絵師。 二の間は
14畳の公家用の間。7 三
  の間は
21畳の武家用の間、「揚舞台あげぶたの間」でこの部屋と西側廊下の畳をあげると能舞台とな
  る。

 ②「御中書院おちゅうしょいん」は四季の風物がそれぞれ描かれた4室から成る。「春之間」10畳は円山派三
  代応震おうしんの養子である四代円山応立応おうりゅうによる春の
景。 応立も安政の内裏造営に関わった。
   違い棚天袋の住友大明神図は冷泉為恭
れいぜいためちかの筆とされる。 夏之間との境には卍離崩しの欄
  間をはめており、違い棚の後
ろは紙貼り障子を入れ明り採りの役目をしている。 「夏之間」は10
  襖絵は円山派田村挙秀たむらきょしゅう。 春の間の東にあり、廊下の
境には竹之節欄間で吹き抜けとなり
  、春之間と共に意匠を凝らしている。

   「秋之間」10畳、襖絵は岸竹堂きしちくどう。 竹堂は最初狩野永岳、後に岸連山れんざんに師事して岸
  家を継いだ。 春之間の北にあり、四隅の柱に蚊帳の吊金具が取り付け
られており寝室に使用されてい
  たと考えられる。

   「冬之間」8畳 襖絵雪景図は円山派の星野蝉水ほしのせんすい。 夏之間の北側にある。 室名の如
  く雪景色で統一され松、竹、梅、杉などの樹木で積雪の有様を描いています。

   以上の4室の天井は竿縁天井で極めて質素な造りとなっている。
 ③ 「雲鶴之間」
   一之間は8畳、二之間は8畳、三之間は6畳。 表御居之間とも呼ばれ、内対面所として使用された
  所。 四季の間とは一間の廊下をへ隔てて北側にあり、東から一之間、
二之間、三之間の三室があり、  「緑青地に雲、鶴」の版画で統一されている。
(20)「御常御殿」(重文)
  桁行き31.7m、梁間西面13.6m、東面8m、西妻入母屋東寄棟造、三階棟造、屋根桟瓦葺き。 御常御
 殿のみ方向を
90度転回させて設置されている。
  宮家の日常生活に使用されていた部屋で、移築に当って本丸の全体的な構成について考慮し湯殿と厠
  かわや
は北側に移された。 屋根は他の建物が、中央を凹ました反屋根とているのに反し、中央を膨らませ
 たいわゆるむくり屋根として周囲との調和をはかっている。 室内の境は何れも襖で仕切られ、周囲の畳
 廊下との境は腰付障子を建てており、各室毎に幕末の絵師によって障壁画がえがかれている。

 ①「一之間」(奥御座所、松鶴之間)12.5畳。 襖絵は狩野永岳かのうえいがく。 宮様の御座所になってい
  る。 東側に床の間、違い棚を設け、南側の畳廊下に張り出して付書が設けられており、天井は竿縁天
  井さおぶちてんじょう。 
内部は松と鶴を主題とする一連の障壁画で飾られ、違い棚天袋には飛翔する鶴、地
  には岩上に亀を描き、周囲の松・鶴と呼応して吉祥的な画題となっている。 

 ②「二之間」(草花之間)15畳、襖絵は中島来章中島なかしまらいしょう。 次之室になっている。 四季の草花
  が西面の春から始まり、南、東、北面へと季節を移して描かれてい
ます。 一之間と東側の三之間境に
  は筬欄間おさらんまと明り」障子をいれており、障子の組子は変化に富んだ掛け合い組で、趣のある構成
  を見せています。

 ③「三之間」(耕作之間)10畳、襖絵は中島華陽かよう。 「二之間」の東に接し、控え之間になってい
  る。 障壁画は四季を通して農村の稲作風景が西面から始まり、南、東、
北へと展開されています。
 ④「四之間」(御寝之間ぎょしんのまきじ間)10畳、襖絵は長野祐親すけちか 宮様の御寝所になってい
  る。 東面中央に書院棚形式の飾り棚を棚を備え棚には地
袋と天袋を設けています。 障壁画は春秋の
  「花鳥図」を主題とし、天袋小襖には「砂
子散しに小鳥」地袋は「柴垣に萩」などが描かれ手います。
   二・三之間と共に、四隅の柱に蚊帳の吊り金具が取り付いている。
 ⑤「五之間」(萩之間)10畳、襖絵は八木奇峯やぎきほう 更衣室又は控之間で、南西の襖を開けると階
  段口があり、三之間と五之間から三階
への昇り口となっている。 周囲の障壁画は萩を主題とし、所々
  に流水や岩石が配置
されている。
 ⑥「六之間」(女官控間)9畳。 御寝之間の東側にあり、宿直女官の控室になっている。元はこの南側
  の畳廊下に続き
11間の渡り廊下があり、湯殿・厠があったが、現在は北側にうつされた。
 ⑦「御化粧之間」6畳。 六之間の東に畳廊下を隔てて位置している。
 ⑧「御茶所」(台廚之間)、東室6畳、西室7畳。 御化粧之間の東側にある、配膳室であり、老女の部
  屋にもなる。

 ⑨「湯殿・厠」六之間の渡り廊下の端から北側に移された。 湯殿は3畳の控之間と
  板
間からなり、板敷きの上に風呂桶を置き、外から湯を運んだ。 床板は中央に向
  かっ
て勾配を付け樋によって排水が出来るようになっている。
⑩「御二階」(文化財指定では中二階) 南室6畳、北室9畳。 何れも侍女の控え室。
⑪「御三階」(御座所)(文化財指定では二階)11畳、次の間12畳、控之間10畳。 西方の床の間付き
  の部屋が御座所。 東の部屋が次之間で御三階での御寝所であり、北
側の部屋は移築の際増築された部
  屋で控之間。
 縁側は南側に二室を通して作られ、雨戸を仕舞うと吹きっ放しとなり、本丸庭園 が
  一望見られ、すばらしい展望を示してくれます。 天井は化粧屋根裏で吹き寄せ垂木
仕舞い、欄間には
  櫛形窓を設けるなど、一階の座敷とは違った数奇屋風の意匠で、私
的なくつろいだ部屋となっている。
(21)「台所」及び「雁之間」(重文)
 ①「台所」 桁行12m、梁間9.7m、切妻造、屋根桟瓦葺き、移築時雁之間を接続して一棟としている。
  移築後、明治
39年(1906)火気取り扱いの危険を理由にして、従来ぜんたいが板間であった台所の北
  半分の床板を撤去して土間に改め、これに合わせ
せて戸口や窓、物入れの位置を低くする改造が行われ
  た。 今回の修理の際、痕跡調
査及び文献資料から改造の事実が判明したので、もとの姿に復原した。
 ②「雁之ま」 桁行10.8m、梁間7.9m、入母屋造り、屋根桟瓦葺き、西質5畳、東室18畳、襖絵中島」来
  章、門跡寺院住職の控室。

(22)「本丸庭園」
  天明てんめい8年(1788)の大火で御殿、隅櫓、多門櫓などが消失し、庭園も延焼したと思われる。 
 現在の庭園は明治
28年(1895)5月23日、明治天皇が行幸されたおりに改造を命じられ、7ヵ月半の改
 修をへて明治
29年に完成した芝庭風築山庭園である。  東南隅隅に月見台用の築山が配され芝生が敷
 き詰められた広々とした庭で改修当時流
行していた西洋風庭園の永享をうけている。
(23)「天守閣跡」現在見晴らし台となっている天守台は石垣の高さ約21m、敷地面積は44502で、寛永3
 年(
1626)に伏見城から移築された5層の天守閣があった。 
(24)「石段」 本丸の周囲に配された横長の石段は非常時に備えて左右、中央どちらからでも一気に駆け上
 ることが出来るもので、このような石段を岩岐がんきと言う。

Ⅲ 内濠外
(25)「北西土蔵」(重文)二条城に残る3つの米蔵の一つ。
  2間(3.6m)×23間(41.1m)の規模を誇る巨大なもの。
(26)「南西土蔵」(重文)二条城に残る3つの米蔵の一つ二の丸御殿台所北土蔵、北西土蔵と共に城米を備
 蓄した米倉で、現存するのは二条城
のみで貴重なもの。
(27)「南中仕切門」(重文)三代将軍家光によって造営された、西二の丸へ通じる通路を仕切った招造まね
 きづくり、庇つきの門である。

(28)「桃山門」(重文)二の丸と本丸の間にある南北の通路の南端を守ったのがこの桃山門である。
(29)「鳴子門」(重文)二の丸と本丸の間にある南北の通路の北端を守ったのがこの鳴子門である。
(30)「桜の園」
(31)「梅林」
(32)「北中仕切門」(重文)三代将軍家光によって造営された、西二の丸へ通じる通路を仕切った招造まね
 きづくり、庇つきの門である。 家康公時代には、この門の北に太鼓櫓
があり、その東には天守があった
 といわれる。

(33)「加茂七石」かもしちせき 北中仕切門(重文)を出た北側に置かれた石群。 古来賀茂川水系の上流で
 採れる名石として珍重された7種類の石で、西から畚下石ふぐろいし(貴船川)、
紫貴船石むらさきいし(貴
 船川)、紅加茂石べにかもいし(賀茂川)、賤機石しずはたいし(静原川、蜘
蛛の糸の様な模様から糸掛石いと
 かけいし
とも言う)、畑石はたいし(雲ヶ畑)、鞍馬口(鞍馬)、
八瀬真黒石やせまぐろいし(高野川)。 畚
 下石の畚は土砂を運ぶ「もっこ」のこと。 「畚下
し」ふぐろおろしと読む。 新年最初の最初の寅の日
 に鞍馬に参拝する習慣があった。 
畚下石は火打石の原石で鞍馬辺りで採れたらしい。 その時、参拝者
 に畚下石を畚下し
で売ったようだ。 崖の上から畚もっこをおろし、そこに代金を入れると引き上げ、か
 わり
に畚下石をいれて下ろすと言う商売のやりかただったらしい、「畚下し」が「畚下石」ふぐろいしとな
 ったとのこと。
(34)「清水園」二の丸の北側に広がる庭園。 家康による築城当時は不明。 「洛中洛外図」などには天守
 閣の一部と園路がこの部分に描かれている。 この天守は家光の改に際
して淀城に移された。 そのあと
 に同心の住居が造られ幕末までこのような建物があ
った。
  明治前期には緑地となり、大正4年(1915)の大正天皇即位式饗宴場として饗宴施設が建設されたが
 、御大典終了とともに施設の一部は岡崎の京都会館付近に移設され、ほ
かは撤去された。 その後、七代
 目小川治兵衛おがわじべえによって疎林式そりんしき庭園に復旧
されたが、昭和25年には駐留軍がテニスコー
 トとして使用、戦後の昭和
40年に現在の庭園が造園され、高山義三ぎぞう市長によって「清流園」と命名
 された。
  東側は芝生を敷き詰めた洋風の庭でイギリスのリチャード皇太子とダイアナ妃が入洛したおり呈茶が行
 われた。 西側の和風庭園との境近くに「ライオン岩」と親しまれる
巨岩がる。 西側は池を中心に和楽
 庵と香雲亭の2棟が建てられた池泉遊式山水庭園で、
茶会やその他の行事に使用される。 
  映画やドラマのロケ地として使用され、「暴れん坊将軍」などでは度々登場している。 また春秋には
 市民茶会が開かれ、茶室和楽庵わらくあんや香雲亭こううんていに抹茶や茶の茶
席が設けられ、大勢の喫客で
 賑わう。

 ① 和楽庵は表千家の残月亭ざんげつていを写した本席と広間の副席から成る。
 ② 香雲亭は河原町二条一帯(現ホテルフジタ辺り)にあった保津川や高瀬川の開墾で知られる京都の豪商
  角倉了以すみくらりょうい邸から移築した物で、同時に同邸の庭園から
 800個余りの庭石を運び、これに篤志
  家からの寄贈を受けた
300個の石と合わせて汲み上げた。
(35)「西南隅櫓」(重文)
(36)「西門」(重文)非公開 一説には徳川慶喜が大阪へ落ち延る際に使った門と言われ
 る。
(37)「多門塀」(重文)
(38)「旧二条城石垣」旧二条城の石垣を復元したもの。
  歴史上、二条城の名で呼ばれる城は4つほどあり、室町幕府第13代将軍足利義輝よしてが造営した城が
 最初で、現在の京都御所西南、平安女学院一帯にあった。 2番目がそ
の場所を中心として織田信長が足
 利義昭よしあきのために造営した城。 後に二人の関
係が、悪化したため信長自身の手で破壊した。 3
 番目が現在の二条城であるが、他に
信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二
 条新御 所」がある。
  ここに復元されているのは2番目の信長が作り、自分で破壊した城の 石垣で
 ある。 地
下鉄工事に伴って発掘され。

B 徳川家康
          1.徳川家康系譜と生い立ち
 徳川家家康は天文てんぶん11年(15421226日三河国額田ぬかた郡岡崎場内で誕生した。 父は松平弘忠ひろただ、母は水野忠政ただまさの娘於大おだい。 幼名は竹千代、元服して元信、元康、永禄えいろく6年(1563)7月頃家康と改名し、同9年の年末に徳川改正を正親
おうぎまち天皇から認められた。 

家康が生まれた家の松平氏、即ち後の徳川将軍家は、三河国加茂郡松平郷(現在の豊田市松平町)から出たという。 その地は、岡崎から北信濃国伊那谷を結ぶ中世からの街道を見下ろす標高806mの六所山ろくしょざんの山麓にあり、奥三河高原の一画に位置する。 六所山の山麓に今でも格式高い高月院があり、松平氏の始祖親氏、二代泰親、三代信光の墓がある。
(1)  平家一、二代
  始祖親氏の生没年不詳だが、松平太郎左衛門信重の婿となってから、松平郷南方の山上に城を築いて本
 拠とし、周辺の中山七名を切り取ったという。 二代目泰親は岩津城
を築いて松平郷から移り、さらに南
 に進出し岡崎城を築き、岩津じょうは信光に与えた。

(2)    三代目信光
  3代信光は、岩津城を本拠として、周辺お攻め取り、文明年間(146987)には、矢作川を越えて安城
 城を攻め取り、西三河の三分の一を征服して、松平党発展の基礎を
作った。 信光には子女が多く、後
 の
14松平のうち7家が信光の子を始祖としている。
() 5代・6代目
   5代長親は、永正えいしょう3年(1506)今川氏親の命を受けた伊勢新九郎(北條早雲)の率いる大軍の侵
 略を受けたがよく戦って退けたが、明眼寺住職の斡旋で和睦し。松平
氏は、今川氏の旗下にはなった。 
 6代目信忠には諸説があるが実権がなく、早く息子
清康に家督を譲り隠居した。 
() 七代清康
  7代清康は大永たいえい3年(1523)家督を継ぎ、翌4年5月、命に従わず岡崎城に立て篭もる一族松平
 信貞を攻撃して屈服させた。 定信の居城であった旧岡崎城は破壊し、
現在地の新岡崎城を建立し以後松
 平氏の本拠地となる。

  清康は、享禄きょうろく2年(1529)尾島城(西尾市)を攻め取り、享禄3年には尾張にも出兵し、岩崎
 郷(日進市)、品野郷(瀬戸市)を奪う。 その一方で、東三河の牧野氏
の今橋城を攻め落とした。 渥
 美郡に進軍すると、
戸田市は戦わずに降伏した。 この間に北方・説楽郡の菅沼一族、奥平一族、宝飯
 郡の牧野氏等東三河国衆の多くが従属を
申し出た。 ただす、三河の東端八名郡の熊谷氏だけが服属を拒
 んだためこれを攻め落
とた。 ここに。 ここに三河の国統一を成し遂げた。
  三河統一の勢いに乗った清康は、 天文てんもん4年(153512月、清康は1万余の大軍で尾張に進軍。
  織田信秀の弟信光の守る守山状今まさに織田信秀を攻めようとして
尾張国森山に陣した。 この折、重
 臣の一人阿部弥七郎に誤殺された。 これを境に松
平家ふ急速に衰退した、これを「森山崩れ」と呼ぶ。
  森山出陣の頃、清康の家臣である阿部定吉が、織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった
 。 清康はこれを信じなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して
疑念を抱いていたらしい。 このた
 め、定吉は嫡男弥七郎正豊を呼んで「もし自分が謀
反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔
 白を証明してほしい」と誓書を息
子にてわたした。
   そして森山布陣の翌125日早晩、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。 これを正豊は、父が清康
 に誅殺された為と勘違いし、本陣にいた清康を背後から斬殺した正
豊はその場で殺された。
() 八代広忠
  八代広忠は、父清康が「森山崩れ」で不慮の死を遂げた時は、10歳だった。 松平一党は「森山崩
 れ」に乗じ岡崎に侵攻した織田信秀の大軍を撃退したが、叔父松平信貞
は岡崎城を押領広忠を追放し、自
 ら松平総領家を称したが、松平一族の支持をえられな
かった。た。 阿部定吉は我が子正豊の大罪を償う
 ため、広忠を奉じて伊勢に亡命し、ついに今川義元の援助を三河の国毛呂城に移った。 ここで岡崎の家
 臣大久保忠俊らとはかり、天文てんぶん6年(
1537)5月ようやく広忠は岡崎城に復帰した。
  しかし、広忠亡命中に東三河は今川氏に占領され、西三河は織田氏の侵略を受けていた、天文10年、
 岡崎の老臣たちは広忠に尾張・三河の国境、刈屋の城主水野忠政の娘(於
大)を娶らせ、その連携によっ
 て独立を維持しようとした。 翌天文
11年(15421226日竹千代が誕生したが、しかし、翌12年7月
  12
日に水野忠政が没すると、嗣子信元は織田信秀に属したので、広忠はやむをえず、於大を離別した。
  その間、広忠の叔
父にあたる三木の松平信孝が反旗を翻したので、広忠は三木城を攻め落としたが信孝
 は
織田側に逃亡した。 様子を伺っていた上和田城の松平忠倫ただともも同じく織田方についた。 織田
 信秀は松平氏の内部分裂に乗じてしきりと攻撃に出てきたので、広忠は、今
川義元に援軍を求めたところ
 、竹千代を人質に出すことを要求し 、広忠もやむなく承諾
した。
  天文16年(1547)8月、6歳の竹千代は家臣に守られ岡崎を出発したが、途中船でから渥美半島の田
 原に渡ったところ、その城主戸田康光が竹千代を奪い織田信秀の元に
送り届けた。 康光の娘は広忠の後
 妻であったから広忠にとって予期しない事件であっ
た。 信秀は喜んで、広忠に対して織田氏に服属する
 よう求めたが、広忠はおうじなか
った。
  広忠は織田方に通じた家臣一族を各個攻撃する一方17年3月に今川援軍を得て小豆坂合戦で織田軍を
 破ったが、広瀬城主佐久間全孝が放った刺客に天文
17年(1548)3月6日に刺殺された、広忠はこの時
  24
歳であった。
  これを知った義元は直ちに、大軍を送って岡崎城を接収して城代を置き、11月には安城を陥落させて
 城将織田信広(信長の庶兄)を捕虜として家康と交換した。 八歳の竹
千代は義元の下に送られた
 () 人質竹千代
  織田信秀の元に送られた家康は、熱田の加藤頼盛のもとにおかれ周囲のものも同情して、平穏な生活を
 していた。 生母於大の方は、阿古屋あごやの城主久松俊勝に再縁してい
た。 人質になって3年目、父
 が死んで8ヵ月目に家康は岡崎に帰ってきた。 しかし、
岡崎にいたのは半月足らずで、さらに駿府へ移
 って、今川義元の人質となって
12年を送ることになった。 義元も松平氏を潰すことは考えておらず、
 織田氏との緩衝帯として
岡崎の利用しようとしていたから、虐待することなく無事な生活を送っていた。
  駿府の臨済宗の僧太原崇孚たいげんすうふ(雪斎せっさい)は禅僧としては優れていたが、また軍学に通じ
 、しばしば今川勢の将として参戦している。 小豆坂の戦いで、織田信秀
を破り、ついで安城城の織田信
 広を捕らえて、家康と交換したのも雪斎であつた。 家
康はこの雪斎について学んだという。 ただし、
 家康が
14歳の時無くなっている。
  家康は弘治こうじ元年(1555)に元服して、義元の一字を与えて、幼名の竹千代を改め元信もとのぶと称
 した。 時に
14歳である。 今川義元は城代を送って松平領を支配し、その租税なども駿府に運び、戦
 いがあれば
松平の家臣を先鋒にして、その死を省みず、岡崎の将兵は無念の涙にくれた。 この苦難時
 代に、松平の家臣がよく団結したのは大きな力であった。

  家康は弘治3年、16歳の時、関口義広の娘と結婚した。 妻の名前も年齢も伝わらず築山殿といわれ
 ていた。

          2.織田信長と同盟時代
() 桶狭間の戦い
  今川義元と織田信長に抗争は絶えず行われ繰り返されていた。 駿府の義元、甲斐の武田、相模の北条
 氏康の三者はそれぞれ対立と同盟の三角関係があったが、天文
231554)には三者間の講和ができ、
 義元の嫡子氏真うじざねに氏康の娘が嫁ぎ、信玄の子義
信には義元の娘が嫁ぐなどした。 これにより義元
 は後方の憂いが無くなったので、永禄えいろく3年(
1560)5月、2万5千の大軍を率いて駿府を出発した
 。 義元は三河をほ
ぼ勢力圏に入れていたほか、尾張東部の一部に進出していたため、清洲はそれほど遠
 くなかった。 家康はその先鋒を命ぜられ、熱田の南方2里程にある大高城を守る鵜殿長照うどのながて
 ために兵糧輸送の任務を負かされた。 信長は大高城の近くに鷲津・丸根に二塁を設けて、大高城の孤立
 を図ったので、城中の食料が欠乏したのである。 家康はその任務を果たし、更に丸根の塁を攻めて、守
 将の佐久間大学を討
  ち取った。 鷲津の塁は義元の武将朝比奈泰能やすよしが攻略した。 義元は二塁の奪取を喜び、家康
 に鵜殿長照に代わって大高城を守らせ、自身は其れより一里ほどの桶狭間(豊明市)に陣を敷いて休息し
 ていたところ、清洲から疾風のごとく襲い来た織田信長のために一瞬にして首を奪われ、全軍が敗走し
 た。
 これを聞いて家康は、大高城を発して岡崎にいた今川氏の将兵が引き上げるのを待って、岡崎に
 入城した。 

) 織田信長と同盟
  家康は駿府にいて、今川の情勢は充分に知りつくし、義元死後の今川は頼むに足りないと判断し他ので
 あろう。 永禄5年(
1562)に織田信長が連盟を申し入れてくると決然としてこれに応じた。 旧来の
 外交政策を大転回させたのである。 信長としても、
西方に力をそそぐためには、松平氏と結んで背後の
 憂いをなくしておくことが得策であ
った。 勿論家臣の中には反対するものもあったが、その理由の一つ
 には、 家康の妻子
や家臣の妻子が多く人質として今川方に預けられていたからである。 家康は其れを
 犠
牲にした。 冷酷とも言える家康の性質は、戦乱の世を生き抜くためには必要な要素であった。 はた
 して吉田城(豊橋)内にいた宿将の妻子多数は、氏真の命によって、串刺しの極刑に処せられた。 ただ
 し、家康の妻の築山殿と長男信康のぶやす、長女亀姫は、鵜殿長照に嫁した義元の妹の孫と引き換えに駿府か
 ら取り返すことができた。 
  翌永禄6年信康と信長の娘徳姫との婚約が結ばれた。 二人とも五歳で 4年後に結婚した。 元康の名をかえ家康と称したのもこの頃である。
() 一向一揆
  家康にまずはじめに襲い掛かったのは一向一揆で、永禄6年9月から翌年2月まで続いた。 一向宗
 (浄土真宗)の勢力は戦国社会不安と貧困の増大に伴い急速に進展し、
三河にも本願寺派が幾つか出来、
 武士の信者も数多くなった。 一揆は一つに纏まるこ
は少なく、西三河全域にに渡って、農民、武士の各
 階層に東条城主吉良義昭、上野城主
酒井忠尚等も加わった。 
  戦闘の過程では、一揆軍の岡崎城攻撃に備えて大久保党が守る和田の砦を一揆が攻めた際、家康が岡崎
 城から出馬して激戦となった。 ある史料に「鉄砲放つこと、雨の降
るがごとし」と記されているが、家
 康は危なく、九死に一生をえる場面もあった資
金力のある一揆方(教団)はかなりの数の鉄砲を用意し、
 家康方の苦戦は其れによると
ころがかもしれない。
  一揆方は、和田合戦をピークに、一揆の大将分も三、四人討ち死にし、降伏者もでた。 一揆に呼応し
 た吉良義昭、荒川義広、酒井忠尚らも家康軍に攻められ退去した。 家康
は一揆方の家臣の多くを許した
 が、一向宗は禁止した。

  家康の勝因は、主要門徒武士の多くが一向宗を捨て家康に付いたことであった。
() 浜松城
  永禄11年(1568)織田信長は足利義昭を奉じて京都に入り、10月に義昭を将軍職につけ、また岐阜に
 戻った。 
12月に武田信玄が南下して駿府に向かうと今川氏真は戦わないで遠江とおとうみの懸川(掛川)に
 逃れ、信玄は駿府城に入った。 この時信玄は家康に対して、大井川を境にして遠江は家康、駿府は信玄
  が取るという申し込みがあったといい、家康は同月に行動を起こして遠江に入った。

  遠江もまた小豪族が各地に割拠していたが家康が侵攻すると、たやすくその旗下に服する者が多く、家
 康は
12月の内に引馬(浜松)城に入って、懸川(掛川)城を攻撃し、12年(1569)5月には掛川城に
 いた今川氏真も城を捨てて海路駿河を経て伊豆の戸倉
に移った。 そして永禄12年中に遠江の全域が家
 康の支配下になった。 

() 三方ヶ原の戦
 [] 信玄西上作戦の意図
   信玄は、15代将軍足利義昭から信長打倒の後内書ごないしょを得て、着々と信長包囲網をつくりあげて
  きや。 まず、背後の憂いである北条氏と「甲相一和」こうそういちわといわれる同盟を結び、つぎに石山
  本願寺と手を結んだ。 本願寺は一向一揆を越前で起こし、上杉謙信を牽制する役目をはたした。 そ
  して、将軍義昭を通じて、朝倉義景・浅井長政とも歩調をそろえたのである。 そしてこの包囲作戦の
  意図は  勿論上洛であろう。なぜなら信長を倒せば、上洛の障害が全くなくなるから、何時でも上京
  が可能になるのが、その理由の1つである。 そして元亀げんき3年(
157210月3日に甲府を出発し
  たが、信玄は病気をおしての出発したのがその理由の2である。 上洛まで考え
ていたら病気のまま出
  発する記にはならなかったであろう。 更に武田軍の進軍が三
方にわかれ、しかも敵の居城を1つ1つ
  潰しながら進むという性急な上洛とは正反対
な行動がその理由の3である。 また当時の軍隊は兵農分
  離ではなく日常は田畑を耕
し、いざ合戦となると鎧をつけたのであり、信長にように家臣を安土城に強
  的に移
たのは極稀であった。 したがって合戦も農繁期を避けて、極力農閑期である冬に行い、上洛
  を考えると、旧暦
10月3日の出発ではおそすぎるというのが、その理由の4である。 以上の4点の
  理由から元亀3年時点の信玄の西上の目的は、上洛にある
のではなく、織田信長の打倒と見るべきであ
  ろう。 そして信長の死後における最
の強敵上杉謙信は関東管領の立場を守り、将軍の命に従うだろう
  から戦わずに済むと
読みがあったと思われる。したがって信長との一戦を交えるまでは極力兵の損失を
  少なくしなければならない。 そのために浜松城を守る」徳川家康にどう対処する
かが重要な問題にな
  る。

 [] 武田軍の遠州侵入
   1010日に遠江に侵攻し、そこで武田側についた天野氏が道案内をし、只来たたらい城、天方あまかた
  城、飯田城と次々に徳川方の城を落とし、続いて各和かくわ城、久野城を攻め掛川城・高天神城を牽制し
  た。 この牽制には浜松城と掛川城・高天神城とを
断する目的があった。 其れを察した徳川軍は早速
  出陣し、三個野みかの・一言坂
ひとことざかの戦いとなって、ついに武田・徳川両軍が激突した。 野戦を得
  意とする武田軍は
徳川軍を破り、敗走する徳川軍に一言坂で追いついた。 その時、徳川軍の殿軍しん
  がりを勤めた活躍したのが本多平八郎忠勝であった。 武田の武将が、「徳川に過ぎた
るもの二つあり
  、唐の頭と本多平八郎」と言いはやした見事な武者ぶりであった。 唐
の頭はヤクの尾毛で飾った兜で
  貴重なものであった。

   さて浜松城に逃げ帰る徳川軍を追走するとかと思いきや一言坂から北上し、二保城
を攻めた。 しか
  し、二保城はなかなか落ちなかった。 天竜川から水を汲むための釣瓶つるべを壊すことによってやっと
  開城したのが
1219日で二ヶ月を費したのは、信玄の誤算であった。
 [] 信玄のおびきだし
   信玄は徳川軍の浜松籠城だけはなんとしても避けなければならない。 そのために、信玄は、徳川軍
  をおびき出し一撃を与える作戦を練った。 秋葉街道を南下して、浜
松城を攻めると思わせておいて、
  そこから逃げるように西上すれば、追いか けるよう
に徳川軍は出てくるに違いない。
 [] 合戦開始
   武田軍西上の知らせを聞き、籠城か合戦か迷っていた家康は、とうとう思い腰を上げた。 そして、
  追分辺りまで出っ張り、武田軍が北西に進むのを注視していた。 も
し武田軍が祝田ほうだの坂を下り
  始めたら背後を襲い、狭い急な坂道の途中で武田軍を打
ち破ろうと考えていたに違いない。 しかし、
  武田軍は祝田の坂手間まで来ると進軍
を止め、回れ右をして徳川軍と相対してしまった。 徳川軍は、
  そのまま丘を下れば
武田軍に追撃される、かといって二倍以上の武田軍に攻め込むわけにも行かず、蛇
  に
にらまれた蛙のような状態になってしまった。
   徳川軍は八備えの鶴翼の陣を敷いたのに対し、武田軍は魚倫の陣を敷いた。 こ陣形から両軍の合戦
  に臨む意識の違いが読み取れる。 即ち、家康運は、家康を守る
ことに最大限の力を注いだ守勢の構え
  であり、それに対し武田軍は、大軍の余裕か ら、
一の隊が攻め疲れたら、二の隊が繰り出し、相手を
  休ませない攻撃の構えである。 互
いに陣構えを進ませながら両軍は台地の上に膠着状態に陥った。 
  午後5時頃武田方
の野武士が石を投げるのを合図に合戦が始まった。
 [] 家康敗走
   まず、先鋒同士が激突し、石川隊と小山田隊はほぼ互角であったが、小山田隊は急に後退し、山県隊
  と入れかわつた武田軍が押し出すと本多隊が加わり、武田軍は押し
戻されると馬場隊が加わった。 こ
  こまでは互角の戦闘であったが、勝頼隊が参戦す
ると徳川軍の第一隊が崩れ敗戦の色が濃くなってきた
  。 徳川軍は家康だけは打たす
まいと、次々に身代わりになって家康を逃すことに終始した。 三方ヶ
  原を走り南下
した家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。 討たれた兵千騎、と多くの家臣を失い、
  家康にとって屈辱的な敗戦であった。 そのため敗戦直後に自画像(徳川美術館)を
描かせ自ら戒め
  た。
 織田援軍の佐久間信盛は、なすべくもなく、目だった働きをすることなく尾張に逃げ帰った。
  その攻めを受けてか、高野山に追放された。

(6)    長篠の戦い
 []  長篠の戦前の状況
   三方ヶ原の戦の後、信玄は、浜松城はそのままにして三方ヶ原の西方刑部おさかべで天てんしょう元年
  (
1573)の春を迎えたが、更に西に進み三河の菅沼定盁の野田城を攻撃し2月に陥落させたが、信玄
  の病気が悪化し帰途に着いたが、信濃の伊那駒場でなく
なった。 53歳であった。
   家康は、三方ヶ原の戦の後の天正元年(1573)9月、三河の長篠城を武田側から奪い取った。
 [] 長篠の戦い
   信玄の死から3年目の天正3年(1575)4月、跡目を継承した武田勝頼は1万5千余の軍勢を率い
  て甲斐を出発し三河に進撃した勝頼は、5月6日、二連木にれんぎ城(豊橋市)、牛久保(豊川市)城に攻
  めいってこれに放火し、更にその先鋒は、吉田城まで出陣していた家康の軍勢と衝突した。 家康はか
  ねて武田軍の侵入を知るや三河の岡崎から出陣し、相軍のうち7千を嫡男信康に預け、自らは5千余の
  将兵を率いて吉田城に入城していたのである。

   山県昌景やまがたまさかげの率いる武田軍の先鋒は、この日の戦いで徳川軍を圧迫すると翌日には、
  吉田城を包囲した。 家康が軍勢を城内に引き上げたのに対抗した
のである。 
   この度の勝頼の三河進撃の第一目標は、長篠城の奪還にあった。 信玄の死後、武田を裏切って徳川
  についた作手城の奥平貞昌が徳川方の手に落ちた要衝の長篠城を守
っていたため、勝頼としても放置で
  きなかったのである。 だが、この背後には遠大
な狙いがあった。 前年以来流浪の将軍足利義昭から
  上洛と将軍援護を求められてい
たことである。 当の勝頼は、この将軍御内書に一方ならぬ篤い思いを
  抱いていた。 
しかし、何よりも上洛の志を半ばにして病没した信玄の「武田の柱旗を京に」という
  遺言が重くのしかかっていたかである。 

   長篠城攻撃は、5月11日からである。 勝頼は総軍1万5千を八隊に編成して長篠城を包囲した。
  これに対して長篠城主奥平貞昌は、家康から派遣された松平景忠・
伊昌これまさ父子等の援兵を加えて
  僅か5百の兵に過ぎなかった。 長篠城は信濃の伊那
地方と東三河を結ぶ交通上の要衝に位置するが、
  一方では水勢の激しい滝川と大野川
に挟まれた台地上に位置する天険の要害であった。 城方は、寄せ
  手の大軍に対して
籠城で対抗した。 初日の戦いは武田方寄せ手が竹束を盾に城の南門へ攻め寄せたの
  にたいし、城方は城内から切って出、谷川の下まで撃退した。 この折、寄せての放
棄した竹束を焼却
  したが、寄せては翌日にも新たな竹束を用いて襲来した。 武田方
はかなり強引な力攻めを行い、城方
  の将兵数十人が倒されたが、寄せても多くの犠牲
者を出した。 本丸から大鉄砲で狙い討ったのである
  。 そこで、
13日の深夜、武田方は闇夜に乗じて瓢丸ふくべまるの占領を画策したのだが、塀まで攻込ん
  だところを矢の
一斉射撃似合い寄せての中に多くの負傷者をだした。
   結局のところ守備兵の安全を
優先して瓢まるから兵をひきあげた。 この櫓は武田方にわたり、勢い
  を得た圧倒的
多勢の武田方が金堀りで土塁に穴をあけ、進入路を確保するなど神経戦に出た。 そ
  て
14日の武田の総攻撃で兵糧蔵を奪われ絶対絶滅の危機に陥った。 
   この城兵の危機的状況にあって武田軍の厳重な包囲網を掻い潜り、緊急を家康に知らせることに成功
  したのが鳥居強すくね右衛門えもん勝商かつあきであった。 彼は
15日岡崎城の家康に事の仔細を報告すると
  直ちに長篠城に戻るところを勝よりに捉えられ、磔
刑にされたのだが、武田方は「援軍は来ない」と伝
  えれば助命すると提案し、これを
鳥居は承諾する。 しかし、甘言を逆用して「援軍は数日以内に来る
  」と知らせた。 
これにより城兵の士気が一挙に盛り上がったのである。
   勝商が岡崎に駆けつけた時、岡崎城は既に信長とその嫡男信忠の率いる田方の援軍で溢れていた。 
  信長は、3万余の軍勢を率いて
13日岐阜を出馬し翌日には岡崎に入ったのである。 ここで徳川の8
  千と合流した。 鳥居勝商の報告を聞
くや16日、出発、18日長篠城の西方数kmに位置する設楽原くだらが
   はら
に着陣した。 

   設楽原は原といっても川に沿って丘陵地がいくつも連なる場所であって、相手陣の遠まで見通せるほ
  ど視界の良い場所ではなかったが、信長はこの地を戦地に選定し 、
小川、蓮吾川を掘りに見立てて防
  御陣の構築に努める。 更に三重の土塁に馬防柵を
敷くという当時の日本としては異例の野戦築城だっ
  た。 つまり、信長側は無防備地
に近い鉄砲対を主力としてこれを守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術
  をとった。
   一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに群議が開かれた。 信玄時代からの重鎮たちは撤退
  えお進言したと言われるが、勝頼は決戦を行うことを決定した。 そ
して、5月20日、長篠城の牽制
  に
3000ほどを置き、残り1万2千を設楽原に向けた。
   5月20夜、酒井忠次率いる鉄砲500丁えお持った3千と言う織田・徳川連合軍が密かに豊川を渡り、
  長篠城近辺に留まる武田支軍に対し、尾根伝いに南から後方へ回り
込むと翌日の夜明けには長篠城包囲
  の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。 
これにより武田方は、主将の河窪信実をはじめ多くの
  名のある武将が討ち死にした。 
これにより長篠城の救援と言う第一目標をはたした、設楽原に進んだ
  武田本隊の退路
を脅かすことにも成功した。 
   5月21日、武田軍が動き合戦が開始された。 織田・徳川連合軍3万8千と武田軍1万2千による
  戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)。 結果は、織田・徳川軍の大勝
利であった。 織田・徳川軍は
  6千名近い犠牲者を出したがが、武田軍は1万2千名
の犠牲者をだし、しかも織田・徳川軍の犠牲者は
  名もない足軽雑兵であったのに対し、
武田軍の死者は、武田四天王の山県、内藤、馬場を始めとして、
  そうそうたる顔ぶれ
で、その被害は甚大であった。
   通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍
  を前に、当時最強と呼ばれた武田騎馬隊は成すべくも無く殲滅された
とされるが、様々な論点から異論
  が存在する。

   しかし、武田軍が大打撃を受けたのは事実であり、多くの優秀な将兵を失った武田軍は、勝頼の下に
  再編成を強いられるがこれに失敗し、急速に衰退し天正
10年(1582)滅亡しあ。

          3.豊臣秀吉時代
() 小牧・長久手の戦い
 [] 東海の雄となる
   天正10年(1582)信長は武田討伐の軍を起こし、勝頼を自殺させた、勝頼37歳であった。 家康は
  占領していた駿河を得て三河、遠江と合わせ三国の主となった。 穴山信君
のぶきみは武田の重臣であっ
  たが、勝頼とはしばしば対立した。 信長に降伏した
穴山の旧領を安堵した。 信長は、駿河、浜松を
  経て4月
21日安土城に帰着した。 家康は穴山信君と共に5月15日に安土に赴いて、加封や旧領安堵
  の礼を述べたが、その
馳走役ちそうやくを命ぜられた明智光秀の反乱はその半月後で、この接待に関係が
  あつた
と言われている。 家康と穴山とは信長に進められて京都を見物し、堺に行っていた時に本能
  寺の変を聞いた。 家康はすぐに帰国の途につき、宇治田原から信楽、関、
四日市を経て伊勢の白子か
  ら船に乗って岡崎に帰った。 落ち武者などは野武士など
に襲撃略奪されるのが常で、この時も穴山信
  君は宇治田原でころされた。 

   武田勝頼滅亡の跡甲斐の国主にはった河尻秀隆は一揆のために殺され、甲斐の領主はなくなった。 
  これに乗じて北条氏政も徳川家康も甲斐攻略を企てた。 家康は甲
斐の新府に北条氏は同荒神子わかみ
  に陣し、
80間に及んだが決戦は無く、冬になって和議の結果、甲斐、信濃の二国は家康、上野沼田領
  は北条氏の手にまかされたが、家
康に服した真田昌幸まさゆきの本領信濃上田は上野沼田領にあり、家康
  から替地を貰うこ
とになった。 また北条氏直うじなおに家康の二女督とく姫を嫁がせることにした。
   こうして家康の領土は、三河、遠江、駿府、甲斐と信濃の一部におよんだ。
 [] 秀吉の台頭
   本能寺の変後いち早く明智光秀を討って、信長の弔合戦をした羽柴秀吉は、織田氏の宿臣・老将の間
  にあって一頭地を抜き出した形となった。 翌天正
11年(1583)には秀吉に対抗する柴田勝家・織田
  信孝のぶたかと戦い賤ヶ岳
しずがたたけで勝家を破り、自殺させて、越前・加賀制圧し、岐阜城主であっ
  た信孝も逃亡し自殺した。
   この時、
信長の二男信雄は安土城にいて兄秀忠の嫡子三法師丸さんほうしまる(秀信ひでのぶ)の名代として
  秀吉に味方した。 勝家が滅びたあと、伊賀、伊勢、尾張の三国を与えられて長
島城にいた。 
 [] 小牧・長久手の戦い 
   信長の次男北畠信雄は弟神戸信孝が秀吉に逆らって自害に追い込まれたころから、秀吉の野望に自分
  が利用されていると気づき、秀吉への敵対をはっきりと示した。
 この頃まで、徳川家康も秀吉とは友
  好的な関係にあった。 秀吉が賤ヶ岳で勝家を
破ると、勝利を祝い秀吉に「初花の肩衝かたつき」の名器
  を贈っているが、秀吉が信孝を
殺し、織田の重臣を次々と倒し、自分の勢力を増大して来るのをみて何
  時か秀吉と戦
わねばならない時が来るのではないかと思っていた。
   そんな家康に、12年2月頃、北畠信雄が近づいてきた。 かって同盟を結び兄弟付き合いをしてい
  た織田信長の遺児のために力を貸すのが信義と考えた。
   信雄は3月6日、秀吉に通じている三人の老臣岡田重孝、浅井長時、津川雄春を誅殺した。 これが
  秀吉に対する宣戦布告であった。
   家康は美濃大垣城主池田恒興や金山城主森長可にも助勢を求めたが、池田や森は秀吉からも誘われて
  、結局二人は秀吉側についてしまったから、家康の目論見は大きく
外れてしまった。 池田恒興はもと
  から秀吉の部下ではないがこの際手柄を立て認め
られたいと考え3月13日、木曽川対岸の犬山城を攻
  め落とした。 森長可は尾張の羽
黒に陣を進めた家康の武将奥平信昌,酒井忠次と戦ったが、破れて
   300
余の犠牲をだした。
   羽黒での敗戦を聞いた秀吉は、急遽、大軍を率いて大阪を出陣、犬山城にはいり、28日には、家康
  本陣の小牧山から2
kmの楽田にまで軍を進めた。 そして10万とも8万とも言われる秀吉軍と、3万
  とも1万6千とも言われろ家康・信雄連合軍が楽田
と小牧にそれぞれ本陣を張り対峙たいじすることに
  なった。
   小牧の戦いでは秀吉軍は兵力において優勢であり、犬山、楽田を抑えていたものの、敵地に入り込ん
  でいて、後方の連絡を絶たれて危険があり、家康・信雄軍は地の利は
得ているものの兵力が劣勢でどち
  らも下手に動くことが出来ず膠着状態で4月に入っ
た。 しかし、緒戦の羽黒の戦いで、敗れた森長可
  と其れを助けることが出来なかっ
た池だ恒興は、名誉挽回を考えて、4月4日秀吉に、「家康を小牧山
  に縛り付けておい
て、その隙に留守になった家康の本拠、三河を突いて、後方との連絡を絶てば、勝利
  が得られる」と進言した。 秀吉はこの三河侵攻作戦には賛成出なかったが、再度に
わたって恒興が進
  め、甥の三好秀次がこの作戦を支持し、自ら大将になって指揮した
と志願したため、やむなくきょかし
  た。
   4月7日秀次は1万余を、池田恒興、1万余、森長可3千余、堀秀政3千余は、南下して三河に向か
  った。 秀次は柏井に着きそこに陣した。 八日夜にはその陣を撤
して南法の長久手に向かって進軍し
  た。
   家康は秀吉別働隊の動きを甲賀者の報告でしって、8日榊原康政、大須賀康高ら 4000余を先発させ
  その夜に矢田皮北岸の小幡城に入城させた。 家康本隊は、先発隊の後
を追うように小牧を出発、井伊
  直政の兵
1800を先発して本多正信、内藤正成ら旗本軍3000を加えて八日夜半に小幡城に入った。
   9日未明には長久手を過ぎて、白山林で小休止すると、9日未明小幡城から出て待機していた大須賀
  ・榊原軍が左右から、水野忠重、丹羽氏次が後方から一斉攻撃され
た。 この奇襲によって秀次軍なす
  術なくほぼ壊滅する。 
   家康の出陣した事を知って秀吉は2万余を率いて長久手に向かったが時既に家康は小幡城に兵を集め
  、小牧山に戻ってしまったから、秀吉はなすべくのなく、楽田に
ひきかえした。 死者は秀次軍2500
  、家康軍
590余をだした。
   やがて本陣を小松寺に移し、城の守備を固めて小牧山の家康と対峙し、どちらも隠忍自重してともに
  動かず。 5月に入ると、堀秀政を楽田に、加藤光泰を犬山にいれ、
て守らせ、主力を率いて尾張を撤
  退し、美濃にある家康・信雄連合の諸城を攻めた。
 この後も、8月28日には双方、楽田と岩倉にお
  いて対陣するも戦闘はなく。 秀吉
10月6日大阪にかえった。
   戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀、伊勢に侵
  入し、その殆どを占領した。 秀吉は合戦から半年以上たった
 1111日に、秀吉側に伊賀と伊勢半国
  割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを
受諾した。 信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分
  を失ってしまった家康陣営は
1121日についに兵を引いた。 信雄は伊賀、伊勢半国割譲させられ伊
  賀は脇坂安治、伊
勢は蒲生氏郷に分け与えられた。
   その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松に送り、家康との講和を取り付けた。
  家
康は返礼として次男於義丸おぎまる(結城秀康)を秀吉の養子にするため大阪に送った。 こうして
  、小牧の役は幕を閉じた。

() 関東移
 [] 北条氏滅亡
   秀吉は天正16年(1588)4月に、後陽成天皇を聚楽第に向かえ時に天皇の前で諸大名に対して「関
  白殿の命にはいかなるものにも背かない」と言う誓約をさせ、その日
参列しなかった大名にも同じ誓約
  書をださせた。 しかし、小田原の北条氏政、氏直
父子は躊躇したため、天正18年(590)秀吉の小田
  原攻めによって、北条氏は7月
11日氏政、氏照兄弟は自殺・氏直は降伏して、高野山にながされ、北
  条氏は滅亡した。
 []  関東移封
   7月13日秀吉は小田原城に入ると、北条氏の旧領伊豆、相模、武蔵、下総しもふさ上総かずさ、上野の
  六か国を家康に与え、家康の本領である、三河、遠江、駿府、甲斐、
濃は、織田信雄に与えることにし
  た。 しかし、信雄はもとの尾張、伊勢、をその
まま領したいといって、秀吉の命に背いたため、秀吉
  の勘にふれ、下野
しもつけの那須に追放し、佐竹義宣に預けられた。
   家康にとって三河や遠江は父祖数代の汗と血の結晶である。 一方、関東は北条5代の民生になれ親
  しんできた領民が新領主に対し一揆を起こす可能性がある。 
   家康は関東移封の命を受けると、駿府には帰ることなく、そのまま江戸に入った。 もっとも、家康
  を関東へ移すことは、すでに4月のうちに秀吉から伝えらてていた。
 
  家康は密かに家臣をやって江戸城やその周辺調査をさせてあった。 まず最初に上水道の建設に着
  手していた。 そして8月1日に江戸城に入城した。 この日は江戸時
代を通じて八朔はっさくの日(8
  月1日の意)で、新穀の贈答や豊作祈願の日、諸大名が
登城し祝辞をのべた。 小田原でも鎌倉でも無
  く江戸を城地と定めた。
   江戸は海上を通じて諸国の物資を自由に集められるほか、隅田川によって関東奥地にも通じるが、な
  によりも平坦な道路は四方に達する。
   家康に与えられた領土の石高は関東六ヶ国で240万石、在京賄料として、近江、伊勢、遠江、駿府な
  どで
10万石とあわせ250万石である。 まず徳川氏の直轄領は江戸周辺に集めることにした。 次に小
  給の家臣の知行は江戸周辺か、遠くても江戸から
一夜どまりの地域に配置した。 これは江戸城の在番
  などに交替で勤務できるように
する必要があった。 そして大知行は遠隔地に置き、外敵に対する防備
  とした。
() 文禄・慶長の役
  秀吉は日本史上比類ない才能を持った人傑であったが、晩年においてやや拡大妄想におちいったとしか
 思われない。大明征伐と言う途方も無い計画が秀吉の思い上っ頭
脳の中に形勢された時、豊臣家の覇権は
 崩れはじめた。
 [] 文禄の役(15921593
   天正15年(1587)九州征伐の際、対馬の宗義智が服属を申し入れてきた。 秀吉はその帰順を受け
  る条件として、朝鮮国王から人質を取り、朝鮮国王が秀吉に随身するよう交渉するように命じた。 対
  馬の宗氏はいわば朝鮮国の仲介貿易の窓口であった。 
かって倭寇禁圧に功があり、その褒賞として朝
  鮮国王から貿易の独占権を認められ、
特例を除き宗氏の認可なくしては朝鮮国との交易不可能であっ
  た。 
   朝鮮通の義智は、
これは不可能であることは知っていたが、秀吉の厳命に服さねばならず、自ら朝鮮
  に
わたり、訴えたが、秀吉の望む回答は得られず、交渉は決裂した。
   文禄ぶんろく元年(1592)4月16万の大軍を送った。 当時、明の冊封さくほう体制下にあり、軍事的に
  は明の保護下にあり、日本からの侵略は全く考えていなかったた
め、軍備のなく、軍事訓練もしてなく
  日本軍に対する抵抗が殆ど出来なかった。 し
かし戦争の終盤では兵站線が伸び過ぎ食糧欠乏の危機に
  った。
   幾度も講和の話合いをするが、秀吉の要求は、明・朝鮮が飲める条件ではなかった。
  文禄2年5月15日明国の使節が名護屋に到着し、23日より具体的な講和交渉にはいった。 28日秀吉
  は和議の条件として、明国の皇女を日本の天皇の后とする、勘合貿易
を復活させる、朝鮮の皇子と大臣
  を人質とする、朝鮮南部の4道を日本のものとする、
など7ヶ条を明国使節にしめした。 6月下旬明
  国使節は名護屋をさった。 秀吉の
示した講和条件は、現地遠征軍の苦労や苦戦を知らず、全く強硬な
  もので、そして明
国・朝鮮側にとってとうてい承諾できる内容のものではない。 明国側は既に日本軍
  を朝鮮南部に追い込んでいるという背景から強気であったので、交渉は、決裂ではな
く継続にした。
   明国使節が帰国すると、小西行長は家臣の内藤如安を明国使節に同道させ漢城に派遣した。 行長は
  如安要求したがその開きは大きく難航した。 「講和をまとめれに
は秀吉の降伏文書が必要である」と
  送ってきた。 これを受けた行長は明の外交官と
教義の末、偽の降伏文書を作り、其れを明国朝廷に送
  ることにしたのである。 石田
光成もこれを認めた。 その背景には、とにもかくにも講和して撤兵さ
  せなければな
らない、と言う思いがあったのだ。 再び明国が猛攻をかけたら日本軍は日本軍は壊
  しかねない状態にあった。
   一方、秀吉は偽装文書がでていることは知らず、自分の要求が通ったと思い込んでいた。 日本軍は
  撤退を開始した。 海戦における大敗で多くの船を失っていたため、
船便の手配も事を欠き、乗船の順
  番を籤引で決める」ありさまだった。 朝鮮に渡っ
た日本軍15万人余の内5万人ほどが死亡したと言
  われる。 
 [] 慶長の役(15971598
   慶長元年(1596)8月29日、明国柵封正使・楊方亨が大阪に到着、9月1日秀吉大阪城で引見し
  た。 使節は明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げた。 
これらの品は、明皇帝から秀吉
  にたいする処遇を暗に示す物で遭ったが、秀吉はそれ
に気づかない。 翌2日正使を大阪城に饗応し、
  秀吉は明皇帝から送られた王冠をつ
け、赤装束の服を着て上機嫌だった。 酒宴のあと猿楽などが催さ
  れ、秀吉にしても
上々の首尾と幹事ていたところである。 宴が終わって秀吉が明皇帝からの国書を
  僧・承兌
じょうたいに読ませた、小西行長は事前に承兌に「日本国王」と言う部分を「大明皇帝と」読み
  替えてくれるように頼んでおいたのだが、承兌は「特に爾を封じて日
本国王となす」とそのまま呼んで
  しまった。 しかも秀吉が先にみんに要求した7ヶ
の条件については何もふれられていなかった。 秀
  吉に送られた赤色の官服は皇帝
より格の下がる国王のものだったのである。 秀吉が激怒したのは言う
  までも無い。 
再び朝鮮への出兵が命令された。 即ち慶長の役のはじまるいである。
   慶長2年(1597)2月、秀吉は朝鮮再出兵の陣立て書を発表した。 総計14万余の兵が動員された
  が、外征は、はたして泥沼に陥いる状態になった。国内の動揺と武将
の不満を無視して行われた再征に
  おいて戦線は瞬く停頓し苦戦がつづいた。 秀吉は
心身ともに老衰の度を加えていく。
   8月18日秀吉が没したという情報は正確につたえられなかった。 秀吉の喪を隠したまま五大老・
  五奉行による停戦工作が始められた。 秀吉の死後
10日立ってから停・撤退の命令が出され、10月1
  日現地につたえられた。 
1120島津義広が巨済島を離れて第二次朝鮮出兵、慶長の役は尾張をつげ
  た。 終戦を宣言する講和条約を
結ぶ間もないまま撤兵し、朝鮮とは国交断絶となり、朝鮮各地に戦い
  の爪あとを残し、
多数の人を無残に殺しただけであった。
   この2度の戦役において石田三成、小西行長、福原長堯ら「文治派武将」と加藤正、福島正則、黒田
  長政ら「武断派武将」の欠く確執が深まり、この対立感情が関
ヶ原の役にまで尾を引く一因となるので
  ある。
          4.征夷大将軍
() 諸大名の心をつかむ
  慶長3年(1598)8月秀吉は伏見城において63歳でなくなった。 家康は一般に律な男とみなされて
 いた。 信長との長い同盟の間、ただお一度も信長を裏切らなかた。 
秀吉とは厳しい対抗関係にあった
 にも関わらず、一旦臣従してしまうと、そ後は驚く
ほど従順であった。 相した家康の律義さに訴えて、
 我が子秀頼の将来をそうとし、
その保証として家康の孫である千姫を秀頼の正室とすることを約束させ
 た。 
さらに、五大老・五奉行を集め有名な遺言状をかいた。 「秀頼こと成り立ち候よに頼み申し
 候、何事も、このほかには思いのこす事なく候」と哀切なる書状を残しが、
その死と共に変動がしょうじ
 た。
  慶長4年正月に7歳になった秀頼は、伏見城から大阪城へ移った。 豊臣譜代の将もまた大阪へ移る。
 すると大阪と伏見という二つの中心ができ、全国諸大名の指は」
伏見の徳川家康から発せられた。 
  秀吉は生前に諸大名の婚姻は秀吉の承認を得ることを条件にし、死の直前にも確認ている。 しかし、
 家康は、伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政らと単独で婚約を結だ。 
これに対して、秀頼が大阪に移った
 直後に、前田利家、宇喜田秀家、毛利輝、上杉景
勝らの四大老や五奉行が講義して、その専断を責め、諸
 大名も二派に別れ伏見の家康
の下に集まったもの、大阪の利家のもとに集まり対立した。 その間、川忠
 興、浅野
幸長、加藤清正が調停に立って、2月になって家康と四大老や五奉行の間で誓紙が交換され、
 利家が伏見へ行って家康似合い、家康が大阪へ行って利家訪問して一応解決
した。 ところが前田利家が
  それから間もなく閏3月3日に大阪亡くなった。 
利家の死によって反徳川勢は一大痛撃を受けたが、
 特に石田三成は窮地に陥った。
 朝鮮戦争、特に慶長の役で「文治派武将」と「武断派武将」の対立が激
 化し、中で
秀吉の腹心の部下である石田三成に非難が集中した。 武断派の加藤清正、福島正、黒田長
 政、細川忠興、加藤義明、浅野幸長、池田照正等のいわゆる「七将」は機があ
れば三成を誅殺しようと考
 えた。 しかし、三成は利家の看病を口実に利家おを離れ
なかった。 さすが七将もこれには手が出せな
 かった。
  利家が死ぬとその夜、七将たちは、三成を捕らえ殺戮しようと計画した。 これを知った三成は、女篭
 に乗りのり伏見を逃れ、家康の下に助けを求めたのである。 三成は
反徳川派の首謀者の一人であり、家
 康が、三成を捕らえ、七将に渡すことも、自らが三
成を成敗することができる。 家康はそれをしないと
 考えた。 なぜなら、窮鳥懐中に
入れば猟師もこれをころさず。 助けを求めて逃げ込んだ自分を殺すよ
 うであれば家康
の武名はすたるであろう、家康はしないと考えた。 知恵者三成の考えそうなことであ
 る。 しかし、それを実行するには智恵ばかりでなく勇気も必要で、三成は智恵と勇気
両方を兼ね備えた
 武将であった。 しかし、家康は更にその上を行っていた。 三成を
隠居させ、佐和山城に蟄居させた。
() 関ヶ原に戦い
 [] 上杉景勝討伐
  上杉景勝は慶長4年(1599)2月、会津にかえった。 越後から会津に移封されて日が浅いので新領土内の整理をするというのが理由である。 ところが帰国すると直ちに取りかかったのは、諸城の修理、道路の開、武具の造整備、浪人の召抱え等々全て戦争準備と思われることばかりであった。 3月13日は謙信の23回忌を口実に領内の各城主を若松城に集めて軍議を練った。
  こうした事実は勿論、大阪城の家康の下に逐一報告されている。 家康は、毛利、宇喜多と相談した上で、使者を会津にくだし、異心なきことの誓紙をだし、すみやかに、上京を諭した。 内容は以下のとおりである。
  ①      景勝を速やかに上洛させること
  ②      景勝に異心無ければ、誓紙を出すべきこと
  ③       堀家からの申し分が出ている。 なにぶん弁明あること。
  ④     この春、前田利長に問題があったが、内府の温和な処置で収まった。 
  ⑤    韓国再再征の議あり、この相談もあり、上洛のこと。直江はこの書簡を見て翌日返事をしたためた。
  ①    当国についての風評がとんでいるようだがそれはやむを得ない。 すぐ目と鼻の京・伏見の間でさ
  え風評が終始した。 こんな遠国にあらぬ噂はつきものである。
  ②   景勝は一昨年国替え後直ちに上洛、去年9月下国したばかりだ。 すぐ上洛せよと言うのでは国の仕
  置きをするひまがない。
  ③     異心無ければ誓紙を出せというが、一昨年末、大老・奉行の出した数通の誓紙はすべて反故になっ
  ている(家康が破った)。 
  
 ④ 堀などが色々讒言
ざんげんしているようだが、讒言をうのみにするのは不公平だ。
 ⑤ 前田家を思い通りに処置された由、内府の威光はたいしたものだ。
  ⑥    武具を集めるのがなぜ悪い。 上方武士は茶器などを集めるが、田舎武士は槍、鉄砲、弓矢を集め
  る、国によって風俗が違う。 不審に思うのがおかしい

 ⑦ 道路や櫓づくりをなぜ咎める。 景勝に逆心あれば道路を閉ざして防備に努める。
 ⑧ 韓国再再征などばかげた嘘はいい加減にして欲しい。 直江、一世一代の啖呵である。 家康ほどの
  者にこれだけ言いたい放題のことを言い切った男は後にも先にもいない。
 家康は当然、上杉討伐のた
  めに自ら率いて出陣することを宣言した。

 [] 三成挙兵する
   家康が大阪を去って東下すると同時に、三成は行動開始した。 三成が最初に挙兵意図を具体的に打
  ち明けたのは安国寺恵瓊
えけいであろう。 毛利を味方に引き込むためにはどうしても安国寺の働きが必
  要だった。 ついで年来の親友だった大谷吉継に打
ち分けた。 大谷はむしろ家康に近いほうで、家康
  の命を置けて東国へ下る途中、三
成から是非会いたいとの迎えがきた。 合って見ると、このままでは
  天下は家康のも
のになる。 我々太閤恩顧の者は到底黙認することは出来ない。 家康追討の兵を挙
  げたいとはじめて大事を打ち明けた。 大谷はおどろいて、家康の実力声望は天下を
圧している。 と
  ても貴公のかなう相手でないと説得したが、三成の意思は固く聞き
入れなかった。 大谷はついに決心
  した。 とても勝ち目の無い戦いであるが、石田
との年来の友誼にそむくのは武士として恥ずべき事だ
  、石田と共に死ぬことにしよう
と、同意した。
 
  三成は、安国寺を使って総大将になってもらった。 照元は7月16日大阪城西の丸に入った。 そ
  の日前田玄以、増田長盛、長束正家らの奉行が連盟を持って家康弾劾
の檄文を発表した。 

 家康は、前田恐喝し、罪も無い景勝を討ち、大老・奉行を一人ずつ放逐しようとしている。 こんな状況では秀頼さまを孤立させることになり、秀頼様をお守りたてることは出来ぬ。

 そして、輝元、秀家の名で、太閤の恩を忘れぬものは、秀頼様への忠節を尽くすために兵を出しても
  らいたいという書面を各大名あてに発した。

   この訴えに応じて、一応大阪方に集まった諸大名は照元、秀家以下吉川広家、小早川秀秋、真鍋勝茂
  、長宗我部盛親、小西行長、蜂須賀家政、毛利秀包ひでかね、脇坂
安治、島津豊久等々、そして石田、
  大谷、増田、長束、前田、安国寺らであった。
 [] 家康の根回し
   石田三成ら西部の挙兵は会津征伐のために東下した家康の隙を狙った行われた。 しかし、会津遠征
  は石田三成に挙兵させるために家康が仕組んだ誘導作戦であったと
見られている。
   太閤の死後、家康は五大老の筆頭として実権を握り次第にその勢力を扶植してきた。 しかし、この
  ままでは、終生豊臣二世秀頼の臣下の地位に甘んじななくてはならない。 
家康は天下が欲しかった。
   それには武力で、秀頼を圧倒しなければならない、そこ
で思いついたのが誘導作戦であり、その相手
  が石田三成であった。

   しかし、内心は別にして、表面的には会津征伐の名目は、太閤の死後上洛せず、秀頼様への出仕を怠
  っている上杉景勝を征伐するという、あくまでも豊臣家のための義
戦であるという口実が用意されてい
  た。 それゆえ家康の東下には徳川家臣団のほか、
福島正則等豊臣家の武将も出兵要請を受け協力せざ
  るお得なかった。 

   会津遠征に際し、家康は豊臣家の武将の多くに参加を求めた。 それは、家康留守の隙に乗じて、三
  成が挙兵した場合に備え、豊臣家武将の勢力分割を計かつた。
   さて、家康が三成らの挙兵を知ったのは7月20日のころであった。 あらかじめ張り巡らせていた
  情報網から、三成の行動が次々ともたらされていた。 そこで家康は
下野小山で軍議を開き作戦絵を指
  示した。 結城秀康を上杉の押さに残し、秀忠を主
将とする一軍に東山道進発を命じ、自らは7月26
  日小山の陣を引き払い、8月5江戸
に帰着している。 家康が3万2千の兵を率い江戸を出馬したのは
   26
日後の9月1日であった。 既に、これより先に西上した先発泰は8月13日に岐阜城を攻め落と
  し、
赤坂付近に駐屯していた。 家康はゆっくりと東海道を上り、9月14日の正午、赤坂の先発泰と
  合流した。
 だが、家康は、石田らの挙兵を知った7月 24日から9月14日の約50日の間に、勝利の
  ための方策を講じ、形勢を有利なものい展開させていた。 決戦前の9月
14日までの間に外様の諸将
  に当ての手紙は約
16082名に出している。
   まず第一のグループは先鋒隊客将たちで、その手紙に多くは岐阜城における功を賞したり、中には彼
  ら自身の野心と欲望を満足させるものある。

   第二は各地に在国していた諸将宛の物で量的には
70%以上をしめたいる。 奥州では伊達政宗に、
  上杉景勝や佐竹善宣の監視をお願いしている。 九州でも東西に分か
れて対立していたがその中で注目
  したのが加藤清正である。 黒田如水を通して接触
し東軍に引き入れるのに、成功している。
   西軍の諸将の中には全くの成り行きで三成等の挙兵に巻き込まれた者もいた。 このような立場にあ
  った西軍の将にたいしては家康は音信を通して接触を保った。
   家康は全国の諸大名の諸大名と音信を通じ、協力を求め、恩賞を約束し、時には威嚇手段を用いなが
  ら驚くべきほど周到な策をを施し、合戦に臨んで、あらかじめ内応
や中立の約束を取り付けていた。 
  かの関ヶ原合戦の勝敗を決する鍵となった小早川
秀秋の裏切りと、吉川広家、福原広俊を通じて行わせ
  た毛利軍の戦闘への不参加とい
う密約も決戦前日の14日に取り付けていた。
 [] 関ヶ原合戦
   家康は14日諸将を集め、戦略を問うた。 家康はかって老練な武田信玄のためのに」浜松城から三
  方ヶ原に誘い出されて大敗した苦い経験があった。 城攻めは時間がかかるうえ十倍の兵力が必要だ、
  なんとしても石田三成の西軍の主力を大垣城からださなくてはならなかった。 家康は一陣を止めて大
  垣城に備え、主軍は佐和山城を襲ってこれを屠
ほうむり、更に大阪に向かって進むべしと決定した。
   一方、三成にとって大垣城をの死守より佐和山の守備こそ重要である。 三成は大垣城を退却するこ
  とを決意した。 三成は
14日午後7時福原長幸に7千5百の兵を与えて大垣城を守らせ、その他の全
  軍は家康軍に先回りし関ヶ原に布陣した。家康の
策にはまったのである。
   東西両軍の布陣は15日未明に完了した。 関ヶ原の決戦に参加した両軍の兵力は痛切に従えば東軍
  7万4千、西軍8万2千、総計
15万6千となっている。 この計算の基礎は、同書によれば、慶長5
  年(
1600)4月、島津義広から義久に送った書簡に、兵は百石ごとに3人とありこれを基準としてい
  る。 しかし、通常百石ごと1人であ
るが、秀頼に忠節を示す意味で通常の3倍したことになり、全藩
  が3倍出すことは考
えられない。
   注目すべきは、関ヶ原に集まったこれらの兵員のうち、まったく戦闘に従事しなかったものが多かっ
  たことだ。 毛利秀元、吉川広家、長宗我部長束、安国寺の兵も戦
闘に加わっていない。 その数2万
  6千、更に戦闘の半ばで西軍から東軍に内応した
もの小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱の兵2万。 そ
  うなると西軍の実戦力は3万5
千前後となる。 これに対し、東軍は7万4千の兵力に内応軍を加える
  と9万4千と
なり、東軍の勝利はまさに当然の帰結であった。
   東軍の松平忠吉とその舅の井伊直政とは物見と称して先鋒福島隊の前に出ると、突然、西軍の宇喜多
  隊に向かって発砲し、戦いを挑んだ。 これを見て福島隊は直ちに
宇喜多隊に向かって射撃を開始し、
  宇喜多隊もこれに応じ、ここに大合戦の火蓋が切
られた。
   まさに一進一退の状況である。 この間、島津隊は両側において激戦が展開されているにも関わらず
  、鳴りを静めて動かない。 三成は自ら馬を走らせて島津の陣に来、
助力を請うのだが、島津豊久は、
  今日の戦いは各隊別々に全力を尽くして戦うのみ、
前後左右の他の隊のことを顧みる暇はないと冷たく
  言い放した。 
   戦闘開始以来4時間、まだ勝負は決しない。 東軍も西軍も今や最後の切り札として小早川秀秋の出
  動にぞみをかけている。 家康も時間がたつにつれ次第に不機嫌
になっていった。 内応にも時期があ
  るそしてもはやその時期が来ている。 秀秋
陣に向かって誘いの鉄砲を打ち込んでみよと命じた。 鉄
  砲を
10挺ずつ秀秋陣に向かってつるべ打ちにぶっ放した。 小早川秀秋はこの時まだ決断がつかず内
  応を躊躇し
ていたが、ようやく決断し、大谷隊に向かって雪崩れのごとく突入した。
  大谷吉継
はかねてから、秀秋の裏切りを充分警戒しちたので、直ちに600の決死隊を持って秀秋隊にあ
  たった。 この時西軍には思いがけない事態が出現した。 中山道を隔て大
谷の陣に隣していた、脇坂
  安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの諸隊が秀秋に呼
応して裏切った。 大谷は秀秋の裏切りは予
  想していたが脇坂らについては予想外で、
大谷隊はついに崩れた。
   大谷吉継は、病で両眼わずらい白布で顔を覆ってい、輿に乗って指揮していた。
  家
臣の湯浅五助が戦況を逐一報告していたが、全軍敗れると聞くと首討て、醜い首は人目にさらすな
  と命じ、自害した。 五助は大谷の首を隠すと敵陣に駆け入り討ち死に
した。 秀秋の裏切りは西軍
  将士に絶大な衝撃をあたえた、小西がまず崩れ、続いて宇喜多
がくずれ石田が最後まで頑強、勇猛な
  戦いぶりをみせたが孤立しついにくずれた。
   西軍各隊すべて敗走したあと、ただ、島津隊のみが残った。 福島まさのり、本多忠勝、小早川秀秋
  らの諸隊が島津隊に襲いかかった。 島津隊の総数わづか
1500だ。 もはや万事休す。 島津義久は
  適中突破し牧田から西南へ走ろう。 全軍火の玉のご
とく一団となりまっしぐらに東南に向かって突
  進
する。 乱戦のうちに豊久は討ち死にした。 義久はその間に福島隊の追撃を退け、牧田川を越え
  た。 従うものわずか
80余人であった。
 [] 天下取りの基盤固め
   9月15日決戦で大勝すると西軍首謀者捕殺、10月1日石田三成、小西行長、安国寺恵瓊えけいを処刑し
  た。 戦後の論功行賞により、東軍に味方した諸将は何れも優待され
所領をふやしたが、西軍に荷担し
  た大名の運命は実に惨憺たるものであった。
   石田、
小西、宇喜多、安国寺、長束、大谷の領地は当然没収された。 西軍に味方した諸将は島津
  を除けば殆ど領地を失ったり減らされている。 改易又は減封された外様大名
93名にのぼり、その
  没収総石高は
632万告千石という膨大な額であった。 そしてそれらの空白地に、東軍に属した功労の
  あった外様大名に恩賞として配分すると共に、
徳川一門、譜代に分け与えたり、或いは直轄領に組み入
  れたりしたが、これはのちの
幕藩領国の基礎を固めるものとなった。 ちなみに家康自身も250万石か
  ら
400万石となり最大最強の大名としての地位を不動のものとした。
() 大阪の陣
 [] 徳川・豊臣の対決
   家康はかって豊臣家五大老の地位にあったが、関ヶ原戦勝の後、朝廷に奉請して右大臣征夷大将軍に
  任ぜられ、江戸に幕府を開くと始終関係が逆転した。 豊臣二世の
秀頼は摂津、河内、和泉の三国の
   65
万国を領する一大名の地位に転落した。 
   そして
さらに、将軍職を嫡子の秀忠に譲り大御所と称すると、徳川・豊臣両氏の対立は避けられな
  いものとなった。 秀忠の将軍就任は、徳川政権の永続性を意味するものであ
ったから、秀忠の二代将
  軍就任に対して秀頼は慶賀の使者をもださなかった。
   慶長16年3月、後水尾天皇即位の儀に出席するために上洛した家康は、大阪の秀頼と会見しようと
  考え、京都二条城への出仕うながした。 これは、豊臣氏に対して徳
川の臣従を強制したことにほかな
  らない。 一方、家康から出仕を求められた大阪城
では、気位の高い淀殿が秀頼の上洛を拒み、「……
  その儀於いては、親子共に自害ある
べし」とまで放言したが、結局は周囲のひとびとに説得され、秀頼
  の上洛をさせられ
たと言う。 
   やがて家康は、大阪討伐を考えるようになった。 天下を目指す家康にとって秀頼の生きる道は徳川
  の臣下に成る以外にはなかった。 臣下に成ることを快く思わない
豊臣親子は討伐しかなかったのであ
  る。 
   家康は豊臣氏に諸社寺の造営事業を進め大阪城内の金銀を浪費させる策をとりながら武力行使の口実
  をつかむ機会を狙っていたが、その待ちに待った絶好の機会が訪れ
た。 慶長1911月のことで、秀
  頼が京都方広寺に奉納した梵鐘の銘にあった。 「国
家安康・君臣豊楽」の二句にたいして、豊臣を君
  として楽しむ一方、「家康」という文
字を分解して呪詛していると難癖をつけた。 これに対して大阪
  方は、造営の奉行を
務めた片桐旦元かつもとを駿府に下って弁明させた。 旦元は家康の内意として秀
  頼が大
阪城を去って,他に移るか、秀頼が自ら東国に下って和を鋼か、淀君を人質として関東に下す
  か、この三つの一つを選ぶしかないとうけとった。
   この時、淀君も大蔵の
局を駿府へやった・ 家康はこれに対し、秀頼のことは悪く思っていないとい
  い、鐘
銘のことはなにもふれなかった。 二人の話が全く違い旦元は疑われ大阪城を去った。
 [] 大阪冬の陣
   方広寺鐘銘事件をめぐる葛藤により、徳川氏との対決がもはや避けられないと悟った大阪方は、抗戦
  を決意し、諸国に兵を募った。 秀頼は豊臣恩顧の外様大名の協力
を当てにしたがその期待は裏切られ
  た。 しかし、真田幸村、長曽我部盛親、毛利勝
永、後藤又兵衛をはじめとする浪人たちが群集し、そ
  の兵力は
10万人と言われた。 この時、大阪城に入城した浪人たちの多くは、徳川氏に対し遺恨を抱き
  、再び戦乱
の世に引き戻し、立身出世の機会を得たいと願う野心家の群れであった。
   当時、豊臣家の禄高は65万石にすぎなかったが、大阪城には、故太閤秀吉が残した莫大な金銀があ
  った。 京都から金座の後藤家の者を呼びいれ、大判1枚分に相当す
る即席の金貨を造り、入城した浪
  人達に配り与えた。 にも関わらず。 落城した大
阪城の焼け跡から、金28千枚、銀24千枚、現
  在の貨幣に換算して約
400億円に上る金銀が発見された。
   冬の陣の戦闘は1119日から1221日の講和締結まで焼く1ヶ月半にわたって行われた。 大阪の
  陣は家康にとって生涯の総決算と言うべき戦争であった。 この
戦争で家康は、幾多の戦闘体験によっ
  て身に着けた戦術と戦略の限りで、遺憾なく発
揮している。
   まず、兵器に目を向けた。 多数の鉄砲の他大量の大砲を集めた、しかも大砲は従来の規格のものだ
  けでなくオランダやイギリスから
10数門の強力な大砲を購入させた。また鉄製の大盾を用意させ、城
  内から打ち込んでくる鉄砲玉を防ぐために家康が考案
したものでこの時初めて使用した新兵器であっ
  た。 こうした強力な新兵器を備えた
が、力攻めを嫌い神経戦、心理戦を駆使して講和に持っていくこ
  とを考えた。 そこ
で昼夜の区別無く砲撃を繰りは得し城兵の神経を悩ませるとともに、一方では城中
  の
織田有楽、大野治長等と和平工作を進めた。
 [] 講和
   東西の和平会談は1218,19日の両日に行われた。 使者は徳川側は本多正純と阿茶局(家康の側
  室)、城方は常高院、そして会談の場所は東軍に属する京極忠高の陣で
あった。 この和平会議は極秘
  に行われた。 そのため詳細な内容については明らか
ではない。 この大阪城の濠の埋め立てについて
  、従来二ノ丸、三ノ丸濠だけをうめ
る約束を破り本丸の内堀まで埋め立てたとされているが、実際はそ
  うではないらしい、
この和睦交渉の際に論議された総堀及び二の丸、三の丸の破却の内容に両者の認識
  が
何処まで一致していたか疑わしいふしがある、いやむしろ徳川方が意図的にそのことを明確にする
  ことを避けたと思われる。
   東軍方は1222日の誓書交換の終了を待っていたかのように20万人の兵士を総動  員して数日の
  内に二、三の濠はもとより本丸お濠も埋め立てたのでした。 大阪方で
は惣掘といえば二ノ丸、三ノ丸
  の外側の施設を意味した。 ところが徳川方は惣堀は
文字通大阪城のすべての堀と解し、大阪方の講義
  を無視し冬の陣和睦の数日後には本
丸のみの哀れな姿になってしまった。
 [] 大阪夏の陣
   冬の陣の講和は再出兵を前提とした高度戦略であった。 濠が埋められ大阪城が丸裸同然と成ると徳
  川方は再び大阪方の挑発にかかり、和議の際の誓約を無視した新した新しい要求を突きつけた。 それ
  は、秀頼が大阪城を退去して大和または伊勢に国替えするか、新規に召抱えた浪人どもを場外に放出す
  るかどちらかを選べというのである。 しかし、この要求は全く無理で、窮地に追いつめられた大阪か
  たはよく慶長
20年4月再び兵を挙げた。しかし濠を埋められた大阪城は無力だった。
   東軍は厳しい寒気の中で金城鉄壁の大阪城を相手とした包囲宣は決して容易なものではなかった。 
  そしてその勝利も戦争の長期化するのを嫌った家康が打った謀略といえる巧みな講和戦略によるもので
  あつた。 それに対しこの度の再戦(夏の陣)は初めから短期決戦が予想された。

   夏の陣の動員された兵力は、諸書によってまちまちであるが、東軍15万、大阪方5万5千ほどであっとみられる。
   5月5日の夕刻に総大将の家康。秀忠父子の着陣を
得て東軍は直ちに戦闘状態に入り6日、7日の2日間で
  大阪方に完敗された。
   5月8日の正午轟音と共に倉庫が燃え上がった。 徳川方に送り届けた千姫に託した助命嘆願の無力
  を悟った秀頼・淀殿母子は自害し、大野治長以下の近臣も爆薬に火をかけて殉死した。 秀頼は、千姫
  との間には子供がいなかったが、側室から生まれた国松8歳と7歳の女子がいた。 二人は落城の際は
  京都に逃れたがやがて捕らえられ国松は京都六条河原で斬殺されたが、女子は千姫の養女となり鎌倉の
  尼寺東慶寺に入れられ天秀尼てんにゅうにと称した。

参考文献

       郷土・史跡研究会編「二条城元離宮」

       武田恒夫編「日本美術全集18・姫路城と二条城」

       内田仁著「二条城庭園の歴史」 東京農大出版会発行

       河原書店編集「京都・」世界遺産手帳・二条城」 河原書店発行

       児玉幸多著「戦国の英雄たち・家康の戦略」 小学館発行

       藤野保編「徳川家康辞典」 臣人物往来社発行


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