京都と寿司・ 朱雀錦
(33)「宮内庁・桂離宮」
  
                                                              桂離宮

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 現在世界遺産「古都京都の文化財」には、上賀茂神社、下鴨神社、東寺、清水寺、延暦寺,醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社、高山寺、苔寺、天龍寺、金閣寺、銀閣寺、竜安寺、西本願寺、二条城の
17社寺が登録されているが、今後追加登録される可能性のあるものとして桂離宮と修学院離宮が明記されている。

 歴史
 桂離宮は17世紀に八条宮初代智仁としひと親王が造営を開始し二代目智忠のりただ親王が完成させた八条家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回廊式庭園から成る。 近世の皇族の別荘の実態を伝えるものとして貴重である。
 桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には源氏物語のモデルになったとされる藤原道長の別荘「桂屋」のあった場所とされている。
 智仁親王は、正親町おおぎまち天皇の第五皇子誠仁さねひと親王(陽光院)の第六皇子であるが、豊臣秀吉に子供がなく1586年秀吉の養子となった。 しかし、1589年秀吉の側室淀殿に秀吉の世継鶴丸が生まれたので、養子契約を解消した際、秀吉から3000石を受けた。 智仁親王は、3000石を元手に八条宮家を創立した。 諸大名の石数から比較すると少ないが、天皇が一万石、5摂家の筆頭である近衛家が二千八百石で、公家約130家のうち70家は200300石であるから、宮家としてはまあまあのところであろう。 
 八条宮智仁としひと親王が元和げんな45年(16189)頃知行所の一つである下桂村の桂川河畔に造立された「かろき茶屋」に始まる。 続いて、元和6年より建築と庭園の拡張工事に着手され、寛永かんえい元年(1624)頃には、桂川から水を引いて細流や大池をつくり、築山を築いて、人工の自然風景観のなかに立派な御殿や簡素な茶屋亭を配置したみごとな桂御殿へ脱皮した姿を現した。 現状のうち、古書院を主とする御殿を中心に北と東に広がった大池、その周辺に分散配置した、庭茶屋(月波楼、松琴亭)や山上亭に寛永初年における規模を想像できる。
 智仁親王が寛永6年(1629)4月6日50歳にて世を去った時、長子智忠のりただ親王は、9歳半ばであった。 主人を失った桂離宮はまたたくうちに荒廃したようである。
 智忠親王は、父智仁親王と同じく幼少から学才に優れた。 そして、寛永18年(1642)、24歳の時加賀藩主前田利常の娘富姫ふうひめと結婚した。 この富姫の母は徳川秀忠の娘珠子たまこであり、従って時の将軍家光と後水尾上皇皇妃和子まさこにとって姪にあたっていた。 この関係は幕府に対しても、朝廷に対しても智忠親王の立場をよくするものであった。
 こうして智忠親王は将軍家と加賀二百万石といわれる最大の大名を後ろ楯にした。
 この結婚は政治的にも大事件であったので、家光から銀三百枚、巻物5巻を賜ったばかりでなく、七十万石と噂される嫁入り道具あった。 前田家からは以後八条宮の作業を毎年恒常的に援助がのとのちまで続いたと加賀藩の記録が残されているという。 また、家光からも後、桂の作業に関し、用銀千枚、分銅(分銅形の金塊)3つを賜った。
 経済的な面でも、所領三千石の上に加賀前田家の援助も加わって当時の宮廷の中ではぬきんでて富裕であった。 血縁、環境、才能をもってすれば、智忠親王はまさに近世の光源氏たるべき人であった。 その智忠親王によって桂離宮は現在のような形に整えられたのである。
 桂離宮は世界的に著名であるが、いまだに解決されていない多くの謎が残されている。 桂離宮が営まれた下桂村は、何時ごろから八条宮家の所領となったのか(第一の謎)、造営の正確な年次(第二の謎)、現在の建物や庭のうち、智仁親王の部分はどこからか(第三の謎)。 新御殿は何時誰のために建てられたのか(第四の謎)、一致した見解をもつに至っていない。
 近年御殿群の解体修理が行われたのだが、その調査結果、御殿群の造営経過と各時期の平面の詳細を明らかにすることが出来た。 即ち御殿群の造営は、古書院の造立(第1期)、中書院の増築と古書院取り合わせの改造及び西側付属施設の造立(第2期)、楽器の間、新御殿の増設と古書院・中書院の一部改造及び台所等の付属施設の拡張(第3期)の三度にわたって行われたものであった。 
 元和4年(1618)頃と推定される智仁親王の書状み「来月4日、下桂瓜畑えかろき茶やへ陽明御成申候」とある。 「かろき茶屋」(古書院)に陽明(右大臣近衛信尋)の御成りが予定されている。 ……つまり、第1期の造営は、下桂村が八条宮家の領有となった元和元年(1615)からはじめられ翌2年6月には建物(古書院)が完成していたものと思われる。 しかし、庭園関係の工事はその後も続けられ、一応全体が完成したのは、寛永元年(1624)頃であったと思われる。 しかし、智仁親王が寛永6年薨去すると、桂別業(別荘)は、人手も入らず風水害を受け荒廃いた。
 智忠親王が下桂の知行地へはじめて入ったことに触れた智忠親王の妹梅の宮の消息(手紙)があるが、この消息には残念ながら日付が記されていない。 しかし、梅宮は寛永17年(164012月に西本願寺良如僧正のもとへ嫁しているので、それ以後つまり智忠親王による第二期の造営は、寛永1712月以降であった。 一方、御殿群の第二造営によって増築された中書院には襖と貼付壁に水墨画が描かれているが、これは探幽、尚信、安信の狩野三兄弟の作と伝えられる。 寛永の御所の造替は寛永19年(1642)6月に竣工したが、この時内裏の諸御殿の障壁に探幽、尚信、安信が揃って絵をかいている。 江戸幕府お抱えの絵師である狩野三兄弟が揃って上京し中書院の絵を書くのはこの時期しかないことから、中書院の造立は寛永18年と推測される。
 新御殿の唐紙貼りの襖のうち、大小22枚の襖は大福帳や手習い紙などの反古紙が下貼りとして利用されている。 その墨書の中に年記が記されているものがある。 その中で最も年記の下がるものは、万治まんじ3年(1660)であった。 したがって反古紙あることを考慮すれば、それより12年後の寛文かんぶん元年(1661)か2年以降にこれらの襖は作製されたことに成る。
 新御殿は、御殿群の中でもっとも床面積が大きく棟も一番高い。 また一の間には上段があり、主要室には丸太長押をまわすなど、他の御殿と比べて一段と格が高い仕様となっている。 このことと、寛永元年以降の造営とを考え合わせると新御殿は寛文3年の御水尾上皇の御幸のために新造されたと考えるのがもっとも自然である。
 御水尾上皇の桂御幸は明暦めいれき4年(1658)3月、寛文3年(1663)3月、11月の計3度行われている。 ところで、寛文2年7月智忠親王が薨去し、続いて8月には親王妃富姫も薨去している。 従って後の二度の御幸は、智忠親王の時代ではなく、第三代穏仁やすひと親王の時代であった。
 つまり、明暦4年の第1回目の御幸は、何の準備もなしに突然に行われたものであった。 そのために、御幸御殿を造営して再び御幸を迎えることとなり、その準備中が進められていたが、その途中で智忠親王が没した。 この時新御殿は完成したか又はまじかであったと思われる。 桂の新造御殿に後水尾上皇を迎えることが智忠親王の数年来の望みであったので智忠親王の遺志が受け継がれ、寛文3年に御幸が行なわれたものとみられる。
 この後水尾上皇を迎えるための第三期の造営は、新御殿の造立に止まったのではなく、庭園も大幅に手がくわえられ整備されたものと思われる。
 現存する四つの御茶屋については、各部の技法や飾金具の様式から、造営されたおおよその年代を推定することができる。 それによると、松琴亭の主要部と月波楼は新御殿と同時期と考えられる。 笑意軒はそれよりやや時代が下がるとみられる。 賞花亭は構成材のほとんが後世材に取り替えられているので、年代を推定することは困難だが、くど(竈)の構え方に、松琴亭や月波楼と共通するてんがある。 つまり、第二期に造営された五箇所の御茶屋は、一棟も現存していないことになる。
 後水尾上皇訪問の2年後に当る1665年、八条宮第三代目を継いだ穏仁やすひと親王は23歳の短い一生を終えた。 その後八条宮家には不幸が続きました。 4年後の1669年には八条宮家の行く末を見守っていた常照院が没し、1680年には長命の後水尾上皇も崩御し、もはや桂離宮の由緒を直接明らかにする人は誰もいなくなってしまった。
 4代目長仁親王、21歳、5代目尚仁親王19歳、6代目4歳、と不幸が続き7代目文仁親王は不吉な「八条宮」を「京極宮」改名した。 しかし悲劇は止まらず、10代目盛仁親王は「京極宮」を再度「桂宮」と名称変更したが止まらず、1881年後継者なく桂宮家は断絶した。

施設
 桂離宮の総面積は付属池も含め約6万9千m2余りである。 中央には複雑に入り組む汀線ていせんをもつ池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、書院や茶室に寄せて船着場を構え、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と数寄屋風の純日本風建築物とで構成されている。 苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、知らぬ間に高みにあったり、水辺にあったりしてその変化におどろかされる。 また、桂離宮には真しん、行ぎょう、草そうの飛石があり、庭の敷石で長方形の切石と自然石とを組み合わせた延段のべだんや飛石の変化を楽しみつつ、入江や州浜すはま、築山つきやま、山里等もあり、それぞれが洗練された美意識で貫かれ、晴雨に関わらず四季折々に映し出される自然の美には感嘆尽きることを知らない。 作庭に当たり小堀遠州は直接関与していないとする説が有力であるが庭園、建築ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた工匠、造園師らの技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果であろう。
1.桂垣と穂垣
  桂離宮は桂川の右岸に所在します。 桂離宮の森をいかめしい塀でなく、まるで常緑樹の生垣を
 思わせる桂垣ですっぽりと包んでいる。 桂垣は桂離宮独特のもの、桂離宮
にぴったりの垣根です
 。 垣根の裏に回ると生きている竹を折り曲げ見事に編み上げい
ます。 桂垣の寿命は10年、10
 毎に造りかえる。 若竹の選定、それにいたる維持管
理も大変とか。
  桂垣が北に尽きたところから、西に折れたところから穂垣に変わる。 表門及び通用門が存在す
 る北側の境界を作る。 穂垣は、一定間隔に掘り立てた半割りにした大竹の
柱の中間に淡竹はちく
 小枝を水平に積み上げ、柱に縄で×字に同じ間隔で結ぶ。 半割り
にした竹が全て剣の先のように
 尖っているのも特徴です。

2・入門
  当初は桂川からの流入水の取入れ口であった水路は、明治以降、治水工事によって川床かわとこ
 が掘り下げられたため逆流防止取入れ口は埋められた、小川は堀にかわった。
  その堀に架かる小さな橋を渡ると参観者出入口になる。 門を潜って右の参観者休憩所で時間待
 ちをする。 時間に成ると引率者が現れ、簡単な注意事項の説明の後引率を
開始した。
3・ 表門と御幸門みゆきもん
  離宮境域の北辺、北に突き出した部分のほぼ中央の位置に表門がある。 穂垣より少し内側に入
 り込んで磨き竹の袖塀を左右にもつ太い木の円柱を二本立てて門柱とし、そ
の間に磨き竹の扉を付
 けた簡素な形式なもので、これは藤原道長の別荘「桂屋」の正門
と同形式であると言う。 この門
 は離宮の正門であるが、後水尾上皇の御幸に備えて作
られた門で特別の時だけしか開かれず、日常
 は表門よりさらに西南の奥にある通用門を
利用している。
  御幸門は切妻造りの茅葺屋根で、皮付き丸太の柱はアベマキの木が使われています。 アベマキ
 はブナ科の木で、樹皮はコルク層が厚く表面はでこぼこしている。 また控え
柱はなぐり仕上げ(
 手斧
ちょんなの刃痕を残した仕上げ)のクリ、桁にはクヌギの皮付きまるた、垂木には真竹が使われ
 、女竹の木舞
こまいの上に葦簀よしずの野地のじを置き、茅を噴きまた扉には割竹を目すかしにしたも
 のになっている。
  この様な材料や使われ方は、民間や茶室などに見れるもので、寺院や貴族住宅などの門とは異な
 っているが、桂離宮の庭園内に散在する、御茶屋や門などの多くが、この御
幸門と同じような材料
 で作られている。
  御幸門の右前の四角な切石ここに輿を止め、客は輿を降り歩いて御幸門を潜ったと案内人の説明
 があった。
  御幸門を入ると道は真直ぐ南西に向かって延びている。 御幸道みゆきみちと呼ばれるこの道は、黒
 い小石を敷き詰めて舗装されていて(この手法を霰
あられこぼしと言う)、中央を僅かに盛り上げて
 水はけが良いようにします。
4・外腰掛と蘇鉄山
  御幸道から松琴亭しょうきんていへいたる苑路の起点近くに外腰掛がある。  松琴亭に付属した外
 腰掛であり、茶会の始まる前の待合所として使われた。 外腰掛は、正面三間
の茅葺寄棟造りの軽
 快な造りの建物で、内側に二間の腰掛を造り、その脇に砂雪隠を付
設している。 皮付きの黒木くろ
 き
の柱、曲木の梁と束で化粧屋根裏の小屋を支えている。 
  外腰掛の前面に、南北方向に長さ16m、幅1mの直線に作られた延段のべだんがある。 人工の切石
 や自然石の大小さまざまな石を敷き詰めた道でこれを「行
ぎょうの飛石」と呼んでいる。 この「行
 の飛石」の起点と終点を明らかにする意味を込めて北端に「二重枡形
手水鉢」、南端に石灯籠を据
 えている。
  外腰掛前に蘇鉄山がある。 蘇鉄山の庭は外腰掛からの眺めを主眼に作られたものである。 小
 高い衝立状に盛り上げた築山の斜面に
10数本の蘇鉄が群をなして植えられ前面に石組を配した構成
 をもち、蘇鉄は薩摩の島津家より進上したと伝わる。 ドイツの
建築家ブルーノ・タウトにこの庭
 に相応しくなく、イメージを壊す、有害な素材と酷評
された庭である。
5・卍亭まんじりてい(四腰掛)
  松琴亭の外山の頂上に立つ茅葺宝形造りの九尺四寸(2.84m)四方の小亭。 現在の建物は文化
 2年(
1805)に再建されたもので、松琴亭での茶湯の会の中立なかたつ(懐石のあと後座が始まるま
 で客はいったん席を立つ)の時に、待合休息の用に使われていたもの。 
四隅の柱の間は吹き放し
 になり、方形の四辺の各辺隅に寄せて卍利の中の十字を抜いた
様な形に、四つの腰掛を配したとこ
 ろからその名が由来する。

6・州浜・天橋立・荒磯様・石橋
  外腰掛を出て石橋を渡ると池汀にでます。 ここは一面に扁平で丸い海石を敷きならべ、池に突
 出させて州浜の景色を作っています。 州浜の先には自然石の上に「岬灯籠」
と名付けた置き灯籠
 があり、その向こうには天橋立が北側から南に延びています。 松
琴亭前のこの一郭は海の景色を
 現しています。
  州浜の付け根から浜道がゆるやかに折れ曲がり、起伏しながら延びて松琴亭の東側に掛けられた
 石橋に至ります。 途中、汀に石を立てに並べて厳しい岸壁様を造り、片側
に山の迫った磯部の道
 の情景がある。 また、石橋の東側、二つの流れが合流する岬の
ところに、荒々しい大小の石が数
 多くたっています。 波が強くかかる岩場の海岸で岩
盤から洗い出されたように立つ岩々の姿を現
 したもので、桂離宮の中で最も迫力のある
石組です。
7・織部灯籠
  桂離宮庭園内には苑路に添って多くの石灯籠が設けられており、道の分岐点や中島の突角部或い
 は岬の鼻や手水鉢の傍らの位置に、夜間の照明灯として足元や手元を照らす
とともに、夜の庭に光
 を添えて景観の味わいを一層深めます。
  桂離宮の庭園には、24本の庭灯籠がある。 その中の7本が「織部型」と呼ばれる灯籠である。
 織部型は灯籠の竿の部分が十字型の独特の型をしているうえ、地蔵(マリ
ア像?)の彫り込みが施
 されています。 そのためキリスト教を禁止する法律が発布さ
れた後も役人の目を隠れて密かにキ
 リスト教を信仰した隠れキリシタンの遺物であると
いう説がありますが、まだはっきりと答えは出
 ていません。 多くの学者のうち、桂離
宮の織部灯籠について、織部灯籠がそれまでの説のように
 キリシタンの理解者であった
茶人吉田織部が考え出したのではなく同じ茶人の木下長嘯子ちょうしょう
 し
が神社の前で拾い、庭灯籠に使ったものであってキリシタンには関係ないとする説がある。 とこ
 ろが木下
長嘯子を調べたところこの人物は正真正銘のキリシタンであった。
8・松琴亭
  松琴亭は桂離宮の庭園の中で最も重要な建物です。 北側の池に面して11畳敷の「一の間」と六
 畳敷きの「二の間」を東西に並べ、その北に軒の深い土庇
つちひさし(屋根のある吹放しの土間部分
 )を取り込んでいます。 二の間の南には茶室が接続し、さらにそ
の南には「勝手の間」「次の間
 」「水屋の間」の三室があります。 勝手の間、次ぎの間
の南には吹き放しの板の間で、その中央
 を土間おして、竈を設けています。 ここには、
このほかに炉や棚もつくられていてちょっとした
 料理なら作ることが出来るようになっ
ています。
  屋根は、一の間、二の間が入母屋造りの茅葺、茶室が杮葺きです。 水屋や勝手の間は桟瓦葺と
 なっています。 柱は主に杉の面皮柱で、壁は大阪土です。
  一の間の正面には一間幅の床が作られています。 板床の前面には杉丸太の框であう。 床の内
 側の三方の壁は紺と白の市松模様の張付壁ですが、これは奉書紙の白紙とそれを
藍で染めた紙を交
 互に貼り違えたものです。 この大胆で斬新な意匠は
300年以上も前のものとは思えぬほどで、桂離
 宮全体のデザインのモダンを象徴するものとしてしばし
ば語られている。 床の西脇の半間は袋棚
 を上下に組みあわせています。 上の棚は、両開きの板扉で、
板の裏表には柿渋を塗りその上から
 透明な漆をかけて深い赤みをだしています。 扉金
具の銀色と扉の赤とが、貼付壁の紺と鮮やかな
 対比をなし、色彩的効果を高めています。
   一の間の折れ曲りの部分の西面には一畳大の石炉が設けられ、上部には天袋が作られています。
 石炉は暖房と調理との兼用で、天袋は、料理を入れて、下から、下からの
熱で保温したものと考え
 られます。天袋の小襖には狩野探幽の絵が張られ結紐を形どっ
た引き手がついています。 一の間
 と南の次の間の境には、杉を薄くはいだ板を網代に
組んで作った引き違い戸が入っている。 また
 一の間と二の間の境の欄間は、麻の茎を
縦に密にならべて女竹の横桟で押さえたものです。
  二の間の南西寄りの半間は、天袋付きの違い棚になっている。 棚板より上は一の間と同じ藍染
 紙が貼りつけられ、下の瓢箪形の下地窓(壁土を塗りの押した様に壁の下地
を見せた窓)を開けた
 土壁になっている。 また二の間の東西南寄りに窓が設けられて
いるが、その腰壁は、雑木の小枝
 を寄せ集めて縦に密に貼ったものです。 それぞれの
小枝には微妙な色の違いがあり、これも綺麗
 な意匠の一つと言えるでしょう。
  以上のような松琴亭の室内は、面皮柱や土壁といった草庵風の要素を持つ一方で、意を凝らした
 数々の造形や色彩によって装飾性豊かな空間が出来上がっています。 この
様な建築は、それまで
 になかった新しい傾向のもので、松琴亭のほか月波楼や笑意軒、
中書院、新御殿なども同じ様式の
 中に含めることが出来る。 つまり、桂離宮の建築物
のもっとも重要な特徴は松琴亭の室内で見ら
 れるよに装飾性なのです。 一の間
,二の間の北側と西側には、一面に砂利を敷いた土庇つちひさし
 巡っています。 その柱や桁には
アベマキとカシが使われています。 そして一の間の北には竈よ
 水屋、棚を設えた板敷
が土庇に張り出しています。 このようなつくりを「くど構え」とよんでい
 ます。 竈
や炉は本来裏向きの場所にしつらえるもので、表側に設けるものではありません。 そ
 れをことさら正面の目立つ場所に構えるのは山中の隠遁者の草庵の風情を表す為の手法
と考えられ
 「御茶屋」と呼ばれる建物の特色の一つとなっている。
  松琴亭茶室は桂離宮ただ一つの草庵茶室である。 卍亭から石橋を渡り流れ手水を経て茶室の前
 に立つ。 躙口
にじりぐちの上が連子窓れんじまど、さらにその上に下地窓を重ねている。 内部は三畳
 台目、躙口から一番奥
に、台目構だいめかまえの点前坐てまえざがある。 床柱は杉丸太手斧目付ちょう
  なめつき
と相手柱が雑木皮付ぞうきかわつき、框かまちは真塗しんぬりである。 給仕口は丸めないで袴腰
  かまごし
の形をそなえている。 客座の上は一面に蒲天井、点前坐は化粧屋根裏とし、その一部に窓を
 開け遠州好みの「八つ窓囲」となっている。 八窓の内四窓が点前坐に集まり点前座を
あたかも舞
 台のごとく照らしだす構えとなっている。
   松琴亭の西側に船着場があります。 現在、桂離宮は回遊式庭園として有名ですが、……園路を
 歩いて回るよりも舟で楽器で奏でたり、和歌を詠んだりしながら、あちこち
の御茶屋を巡ったもの
 とかんがえられます。
9・賞花亭しょうかてい 
  松琴亭の西南方向、「大山島」おおやましまと名ずけられた大きな中島の山頂近くに所在する賞花亭
 は洛中の八条殿本邸の庭内奥に所在した茶屋「竜田屋」をここに移築したもの
である。 賞花亭は
 切妻造り、茅葺建築で4枚の畳をコの字形に敷いて、中央の1坪を
土間にしている。 正面と一方
 の側面を開放とし、また、土壁で囲まれた部分にも、下
地窓や竹の連子窓を大きく開いて開放的な
 造りとしている。 土間の一隅に炉を築き、
奥に水屋を備えた。 「賞花亭」の額は曼殊院門跡良
 覚法親王筆。
賞花亭は離宮内で最も高い位置に存在し、離宮外の景色を見渡せる唯一の場所である
 。
 亭の前には花木が植えられ、花を賞する亭、すなわち春に使用する茶屋として建立された。
10・園林堂
  賞花亭の西山裾に西面して建つ園林堂は、八条宮家歴代の位牌と画像を安置していた。また智仁
 親王の古今伝授の師である細川幽斉の画像も安置されていたという。 堂は本
瓦葺宝形造り屋根を
 もつ、方三間の小堂であろ。
11・笑意軒
 書院の前を延びる梅の馬場の南側には、池が堀のように深く入り込んでいる。 その対岸に笑意軒
 が北に正面を見せて立っている。 笑意軒の前は土手になっていて、石段
を5段ほど降りた汀は切
 石護岸の舟着場になっている。 船着場の灯籠は東端に置かれ
ている。 箱型の火袋と箱蓋のよう
 な笠石だけの簡単な石灯籠で、火袋の側面に丸と三
日月と四角の形がくり抜いてあります。 丸は
 太陽、三日月は月、四角は星を現してい
るので「三光灯籠」と呼ばれている。
 
 笑意軒は寄棟造り、茅葺屋根の三方に杮葺の庇を廻し、さらに東側には、杮葺きの差出しをつけ
 ています。 内部は「中の間」「口の間」「次の間」の三室を中心に西に「膳
組の間」と「勝手口
 」、東の差出しに「一の間」と物置と厠を納め、口の間の東と北には
深い土庇を巡らせている。
 
  一の間は三畳敷きの茶室のような狭い部屋、杉の枌板そぎいたを網代に組んだ低い天井です。 東
 と南面に畳床と付書院を備える一方、北面の土壁には下の方に横長の下地窓を
広げると言う一風代
 わった構成になっている。
  中の間、次の間、口の間の部屋の境には襖がたてられているが、その上は開放的な欄間とし、天
 井は三室一連の竿縁天井になっています。 中の間の南側は低い腰壁付きの
窓になっていて、その
 腰壁にはビロードと金箔を組み合わせた斬新な意匠が施されてい
る。 紺や臙脂えんじ色を配した市
 松模様のビロードを鋭い斜めの金箔の面で分割した意匠
は、松琴亭の白と紺の市松模様の張付け壁
 と同じく現代にも通じる新鮮さを感じさせま
す。 しかし、このデザインは最初からのものではな
 く、後に腰張りのビロードに虫食
いが生じたために、その部分を切り取って金箔を貼ったとの記録
 がある。

  このほか、次の間の北側には「くど構え」があります。 また、口の間の北側の小壁には丸い下
 地窓が六つ並んでいる。 また、建物の外を見ると、笑意軒前にある延段は
自然石のみ用い、外腰
 掛の「行の飛石」が男性的な造作であるのに対し女性的な造作で
「草の飛石」と言われている。 
 これらが笑意軒の見所となっている。

  また、笑意軒の南には田園が広がっており、農繁期になると中の間の窓から田植えや稲刈り作業
 を楽しんで眺めたという。
 また、襖の引き手は舟の櫂かいを模ったもので、口の間の東の杉戸の
 引き手は矢形で
ある。 引き手の形の発想は松琴亭と似ているが笑意軒の場合、実際は手のかかり
 が悪
く、大変使い難くなります。 つまり、表面的な造形にばかり気をとられ、実用性がおろそか
 にされている。 笑意軒では、引き手のデザインだけでなく、全体にその傾向が
みられます。 外
 からの形は屋根や壁面の構成に変化がありながら全体には均整が取ら
れていて素晴らしいが、内部
 の部屋の使い勝手は悪く、腰張りのビロードや小壁の下地
窓も外からの視線だけを意識した落ち着
 きの悪いものとなっていいます。 こうしたこ
とから笑意軒は松琴亭よりやや時代が下がって建て
 られたと思われる。
12・月波楼
 月波楼は「一の間」「中の間」「口の間」の三室と土間からなっている。 一の間には、床と付書
 院が設けられ、中の間は北と東を竹の簀の子縁にした開放的な部屋となっ
ています。 南の吹き放
 しの土間は、月波楼の入口であり、一の間や中の間への入口に
もなっています。 その土間の西半
 部は、板敷で、炉、竈,水屋、棚で構成された「く
ど構え」が設けられています。
  天井は一の間に張られているだけで、そのほかは全て吹き抜けとなっています。 そしてそれら
 の各室を軽く包むように起
むっくりのある寄棟造り、杮葺きの屋根が架かっています。 従って障子
 や襖を締め切っても、外気は、土間から中の間へと流れ込み、開放的な欄間を通して一の間や中の
 間に入ってきます。 月波楼は夏向きの御茶屋なのです。
  土間に立って上を見ると舟の底のようになった寄棟屋根の裏全体が眺められます。 竹の垂木
たるき
 、竹の木舞
こまい、葦簀よしず野地のじの化粧屋根裏です。 棟木を支える小屋束は、中央に一本ある
 だけです。
  しかもこの小屋束は、細く曲がっているので、見た目には屋根全体が弱々しい束一本で支えられて
 いるように感じられます。 実際には隅木や竹の垂木も屋根の重さを支え
ているのですが、このよ
 うに見せる事によって軽い屋根が宙に浮いているかのような印
象を与えているのです。 桂離宮の
 建築の中でも特に優れた技法の一つといえるでしょ
う。
13・住吉の松
  庭園観光の最後は住吉の松で終了する。  道順から言えば一番初めのビューポイントである。
  待合室から出て、庭に向かって歩き出すと、通路の奥に背の低い松が植えられている。 これが
 「住吉の松」である。 外からやってきた訪問者から、庭の内部を隠す目隠しと
して植えられたそ
 うだ。 ここで隠されることで、後で見ることが出来る景色への期待
が膨らみます。
14・ 書院御殿の外観
  大池の東中島から眺めた御殿の構成は、正面に古書院の妻側立面の全姿がみえ、その後方に中書
 院、続いて楽器の間が軒先を僅かにみせ、そして新御殿が最後を締めくくり、
奥行きの深い画面を
 作っている。 
  全体に床が高いのが特徴です。 これは洪水で床上浸水を防止するためとか部屋の座敷に座った
 とき、庭全体が見渡せる高さ、或いは最も安定感のある姿黄金比(高さ:幅
=1:1.618)にするた
 めとかの説がある。
  古書院は軒下の広縁柱間が開放され、反対に床下を白壁で包んでいて、杮葺こけらの軽いむっく
 り屋根とつりあった優雅な姿態をもつ。 広縁から突き出した竹縁の露台は月見台
と呼ばれ、ここ
 から仲秋の名月を観賞するにふさわしい桟敷として、月の出の方角に合
わせてその位置を定めたと
 言う。
  中書院と新御殿は縁側を内に包み込んで建具を立て、高床の縁側床下の柱列を吹き放して、古書
 院と対照的な立面につくられている。 その明障子と床下奥の白壁が連続し
た面にならないで深く
 切り込まれ、光の演出により強いコントラストを作りだしている。
15・古書院御輿寄席と真の飛石
  御殿への導入口にあたるのは茅葺切妻屋根の中門であり、その門内へ足を踏み入れると、斜め正
 面に古書院御輿寄みこしよせが一段と高く設けられ、右手に低く旧台所棟の
縁側が奥行きいっぱい
 に伸びており、左手に奥庭との間を区切る高壁が右側の縁側と平
行して立つ。 中門を潜ったとこ
 ろの地面に、正方形の飛石が4個、くの字にならべて
ある。 しかしこの4個の飛石の大きさも間
 隔もことなっている。 測定データーによ
ると一辺の大きさは45.5,45.0、44.5、となり、また飛石の
 間隔は
1.5,4.5,15となります。 即ち、石の大きさは「等差数列」であり、間隔については「等比数
 列」であり、当時日本
ではあまり知られていない遠近法であった。 また右の塀と左の仕切り壁の
 距離と中門
の入口から御輿寄の石段上まで距離の比な1:1.618で、これは最も安定感のある黄金比
 であるという。 このように日本ではあまり知られていなかった高度な技術が各所で用
いられてい
 ると主張する研修者がいます。 
  くの字の飛石から御輿寄下石段まで人口の切石だけで出来た延段が続いている。 この延段を「
 真の飛石」と言う。 桂離宮には、「真の飛石」「行の飛石」「草の飛石」の3
つの飛石があり、
 これを遠州好みの飛石という。

16・古書院
  寛永18,9年ころに、智忠親王が、日常使う「御座の間」として中書院の増築をはじめとする大規
 模 な改修工事が行われた時、古書院も客用に改修され今見るような姿になっ
たと考えられる。
 その間取りは、床の間を備えた一の間に、二の間が付属して接客主
座敷を構成し、一の間の裏には
 囲炉裏の間と詰め所、二の間の裏にはやりの間と膳組の
間を補助座敷にもち、御殿の昇降口である
 御輿寄がやりの間と二の間脇の縁座敷につな
がっている。
 
 一の間は九畳敷で西南隅に一畳大の框床かまちとこがつくられている。 床の内面の壁と床柱脇の
 袖壁外面を襖障子と同じ図柄の白地に黄土色の桐紋を散らした張付壁とし、小
壁は白壁にしあげら
 れている。 柱は床柱が隅丸の面皮柱である他は全て角の四方柾目
の杉柱であり、長押をつけてい
 ない。 二の間は
15畳敷の大部屋で、内部の造作仕様は一の間と同じで、一の間との境、鴨居かも
 い上部に筬欄間
おさらんまをはめ込んでいる。 この両室に見る姿は、当時の上層住宅のつくりであ
 る書院造りよりも手法上簡略化されて
いて、数奇屋すきやの好みが取り入れられている。
  囲炉裏の間は十畳敷の座敷で、真ん中に畳一枚分の大きさの炉が切られているところから、その
 呼称が由来している。 この間は御焚火
おたきびの間とよばれ、番衆の候所さぶらいところ(番をきめて
 日夜交替で出勤し、天皇の側近に奉仕する人の控え所)に相当すると
ころと考えられる。
17・月見台
  古書院一の間と二の間の東面は柱間吹き放しの広縁に作られ、さらに二の間へ前方に位置して、
 広縁から突き出して竹縁の月見台が設けられている。
  この月見台は月を観賞するために設けれた路台で、離宮でもっとも視野が広い場所です。 ここ
 は月を見るために対岸の築山を余り高くせず、月の出を少しでも早く、長く
見られる様に造園が工
 夫されています。 観月の最適な方向を考え、東から南へ若干角
度をずらし造営された月見台は、
 月が中空にかかり、池にその影を映すその時が計算さ
れているという。
18・中書院
  中書院は古書院よりも規模は小さく単純な間取りをもっていて、床と違い棚を矩折かねおれに配置
 した一の間を主座敷とし、二の間,三の間の次の間そして違い棚背面の二畳敷
 納戸からなり、一
 の間から三の間にかけて、畳敷きの入側縁
いりがわえんがつけられている。
   座敷内部は杉の面皮柱が使用され小壁を黄土壁に仕上げ、襖障子の框を朱の拭漆塗ぬぐいうるしぬりにし
 、張壁と襖障子に墨画を描いている点に、古書院主座敷との相違が見られ古
書院よりも角が取れて
 潤いが加えられている。 二の間との境の鴨居上方の木瓜形
もっこうがた欄間にその様子が最もよく伺
 える。
 
 一の間の張付壁、襖障子の山水、違棚上部の袋棚の小襖の四季花の墨絵は狩野探幽、二の間の襖
 障子の七賢人の墨絵は狩野尚信
なおのぶの筆であり、三の間の安信と合わせて、狩野三兄弟がともに腕
 を競っている。
  三の間は、古書院の囲炉裏の間よりも床が一段高くなり、中書院の一の間や二の間の控え座敷と
 して、面皮の床柱をもつ床が一隅に寄せてつくられている。 床の張付壁と
襖障子の安信やすのぶ
 と伝わる雪景色の墨絵が描かれているため雪の間とも呼ばれていま
す。
19・楽器の間
  中書院と新御殿の中間に三畳小間こまの楽器の間がある。 座敷内西の壁面に沿って奥行き63cm
 どのケヤキ一枚板の床が設けられていて楽器を置くための者と伝えている。
  この楽器の間の西に接して、新御殿への廊下を兼ねた広縁が設けられていて、東と南の二面に向
 かって柱間
はしらまを開放し、縁に軽い手摺てすりを巡らしている。 広縁は南に広く取られた広庭に臨
 んで設けられた高床の桟敷で、広庭に作られた鞠場まりば、弓場、
馬場での遊戯や競技のための観
 覧席に用意されたものと思われる。
20・新御殿
  新御殿は、後水尾上皇御幸に備えて造営されたとする説が有力である。 表御座所おもてござしょ
 寝所
しんじょ、奥居間、納戸の諸間からなる共通したタイプに従った平面まどりを持っている。 即ち
 付け書院と桂棚を供えた上段は表御座所一の間における上皇の空間
であり、二の間がその控え座敷
 として付属し、ここにも床が設けられる。 
  一の間の西隅に三畳敷大の上段がある。 上段の框はトチの木。 天井もまた上段の上だけ別に
 つくり、高さは低くして格天井
ごうてんじょうにしあげてる。 南面して櫛形の窓枠をもつ付書院が造ら
 れ、その奥に矩折
かねおれ(直角)に壁に沿って違棚・袋棚・厨子棚を組み合わせた桂棚を設け、こ
 れら両者の上部に小壁をつくる。 この上段内の壁だけ
を張付壁としその黄色の桐小紋きりこもんを散
 らせた図柄は間仕切りの襖障子と共通してい
る。
  新御殿の付書院は単なる装飾手段に止まらないで、実用性も考慮にいれた造りになっていること
 に注目される。 また、普通の付け書院の造りと違ってここでは上段内に机
板が作られて、入側縁
 に突き出していないし、机下に通風口を開いている。 
  一の間・二の間の主座敷の外を矩折かねおれ入側縁いりがわえんを巡らしている。 即ち、明障子で閉鎖
 された内側を広縁で直角に取り囲まれている。 その広縁の内側半分を縁座
敷(畳敷き廊下)に造
 り、外側半分は松板の榑縁
くれえん(板が敷居に対して平行)になり端には高欄を設け、その外に外仕
 切りの建具(明障子等)を立てている。 天井は化粧
屋根裏天井で、座敷の平縁天井と区別して軽
 快に仕上げている。
  一の間と二の間の鴨居上方の月の字形欄間、二の間床脇壁の木瓜もっこうくり抜き、あるいは襖障
 子の引手金具、や長押の釘隠
かくし金具などの意匠に、古書院や中書院と違って装飾的傾向が強めら
 れ、数奇屋
すきや的要素が濃くなっている。
  御寝ぎょしんの間は、新御殿の諸座敷の中でほぼ全体の中心に位置し、四周うぇお座敷で囲まれ
 て外気に直接接していないために、いつでも暗黒の中に閉じ込められた状態
にある。 高貴な人の
 常住の場における、寝室としての専用座敷であるため、座敷の四
壁の意匠は一の間や二の間に共通
 している。 座敷の隅、二の間の床の背面にある位置に塗框ぬりかまちを廻した一畳大の上段をつ
 くり、その上方、長押より低い高さのところに、平面三角形の角棚を設けている。 この棚は御守
 、御剣などを安置するためのものと考えられており、四枚の萌黄唐糸
もえぎからいと綟張もじばり(透け
 てみえるほど目のあらく織った布で紋を織り出したもの)の小障子がはめこまれている。



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