京都と寿司・ 朱雀錦
(34)宮内庁・修学院離宮
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A.歴史

1.家康の朝廷対策

 徳川家康は、根本的な対朝廷対策として、宮廷に残存する一切の豊臣色を排除せんとした。 それには結局のところ秀吉と近かった後陽成天皇の退位が必要であった。 慶長3年(1598)8月、秀吉が再び立たないのを確認するやいなや、直ちに朝廷における豊臣氏の影響を断つために後陽成天皇の退位を促進し、次期天皇の選択に手を染めたのである。
 後陽成天皇の第一皇子良仁(かたひと)親王は、秀吉の推薦を受け皇太子となるのは確定的であった。 しかし、秀吉の息のかかった皇子が天皇になくことは断じて承服しがたいところである。 家康は命じて慶長6年(1601)3月、14歳の皇子を仁和寺へ連れ去り、そこで出家させようとした。 ところがこの皇子なかなかのきかんぼうで、出家の儀式を整えたにもかかわらず抵抗した。 そこで僧たちは皇子の手と足を取り無理やり頭を丸めてしまった。 後の覚深(かくしん)法親王である。 第二皇子は病弱であり天皇には不適格であった。 他に今一人後陽成天皇自ら希望した人物がいた。 天皇の実弟八条宮智仁(としひと)親王である。 しかし智仁親王は、一時秀吉の養子になった前歴があり、家康は無論のこと反対したし、また親王も紛争の渦中に入ることを好まなかった。
 そこでおのずと浮上したのが第三皇子政仁(ことひと)親王である。 第三皇子の生母は後宮(こうきゅう)第一の女御藤原前子(さきこ)でその父は関白太政大臣近衛前久(さきひさ)(後藤原の長者となる)で、皇子の背景が甚だ強力である。 家康は政仁皇子こそ意中の人であると決意した。 後陽成天皇はこの時病気で、医師の「御病歴」によると「人と合うのを好まず、独居して精神が沈みがち」で鬱病の傾向があると思われた。 朝廷では、幕府が介入して退位の準備と思える仙洞御所の工事が無遠慮に進行しているのに焦慮し、慶長15年3月、勅使を駿府にいる家康に派遣し、朝廷の意向も確かめずに、仙洞御所の完成が近づいている不条理を詰問した。
 家康は、朝廷の出方を待っていたかのように、逆に幕府の公文書もって強硬な態度を示した。 その内容要約すると次のようになる。
  一、譲位の御決意あるべし。
  二、新帝御即位のため、急いで政仁親王の元服をなさるべきこと。
 三、後陽成天皇は、従来から御母・新上東門院と御不和であるが、早く和解なさるべきこと。
 朝廷側では、家康の公文書に返事をしなければならないが、帝の精神状態が普通出ないため帝の意向を確認できず甚だ困惑した。 紆余曲折があったが慶長151130近衛信尹(このえのぶただ)は会議を代表して家康に手紙をおくった。
 かくしてようやく慶長15年(16101223日、政仁親王の元服が子御所で行われた。 続いて立太子の儀が翌年2月11日に行われることになり、儀式の準備万端整っていたのに、当日になって、突然後陽成天皇から差し止めの使者がきたため、ついに皇太子となる機会を逸したのである。 後陽成天皇が政仁親王の立太子を停止することによって、間接的に家康への復讐を計られたのである。 しかし、家康には何等打撃をうけなかった。 却って政仁親王が父帝による筋違いの痛烈な憎しみの矢面に立つ結果となった。
 慶長16年(1611)4月12日、政仁親王の即位式が挙行された。 しかし、季節外れの大雨で式は中断された。 政仁親王は天皇たるべき最高の服装である礼服礼冠(れいふくらいかん)に身を固め清涼殿にあった。 午前10時近くようやく晴れ間が見えたので、この時とばかり、式を急ごうとした。 ところがまたも障害が生じた。 所もあろうに、紫宸殿上で、近衛信尹と二条昭実との間で争論が始まった。 儀式の一部に即位潅頂(そくいかんちょう)があり、それを誰が行うかについての争いだった(歴代二条家の者が行うことが多かった)。 御殿の薄暗い隅から静かに立ち上がり争う二人に近づいた裏頭(かとう)(袈裟を頭に被り目だけだす僧兵姿)の老人がいた。 この人こそほかならぬ徳川家康だった。 禁中のみで行う即位式であり武家の参列は許されていなかった。 それでも押して出てきたのは、家康の選んだ皇子の重要な儀式にかねて不安を感じていた。 裏頭している限り、その人物はここに存在しないと認められている。 家康は一言も発せず、二条昭実を指した。 この場に存在しないはずの家康が即位式を指令して無事に式を終わらせた。 新天皇後水尾は時に16歳、少年の域をでない。 そして、家康によって即位し得られたという負担はそれ以後新帝に付きまとうことになった。

2.幕府の基盤確立
 家康の政治の根本方針は、幕府の基盤の確立であった。 その方針の一環として、豊臣氏に傾いた朝廷を是正し、さらに一歩進めて、徳川氏と宮廷の円滑を計ることであった。 そして、家康によって帝位を得た後水尾天皇に、家康にとって孫であるところの二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)の入内を策した。 入内の件は、後水尾天皇即位後、すでに朝幕間に話合いが進められて、これについての幕府の責任者は藤堂高虎だった。
 ところで幕府は、他面、大阪城に籠もっている秀吉の遺子の始末をしなくてはならなくなった。 
これこそ家康に残された最後の仕上げである。 よって入内の話は一時中断された。
 慶長19年(161410月家康73歳の老年であった。 徳川方の総大将は秀忠としたが、実権は大御所が握っていた。 徳川軍は幕府軍6万と諸大名の軍を合わせ約20万、これを迎える大阪勢は、秀頼の手勢と関ヶ原役の落ち武者や浪人を集め約10万。 到底徳川の敵ではないとおもわれたが、大阪軍は意外と善戦した。 朝廷の介入もあり、ついに一時の和睦を余儀なくした。 これは秀吉の正室高台院の嘆願により朝廷が動いたのである。
 停戦中に徳川方は大阪城の堀を埋めてその勢力を削ぎ、改めて翌年慶長20年4月夏の陣と言われる2度目の戦いを挑だ。 大阪城の落城は5月8日。 秀頼は切腹、淀殿は自害を躊躇したところ荻野道喜なる者が刺し殺し、主君と共に多くの家臣が自害した。 秀頼には千姫腹でない庶子国松8歳と7歳の一女があったが、捕らえられ、国松は六条河原で斬首された。 妹は女子故に鎌倉東慶寺に入り、天秀尼と称して生を終えた。 これで豊臣氏は完全に滅亡した。
 家康は精力的に政治力を結集して幕府の基礎固めに専念した。 徳川幕府の基本方針の確定は江戸城ではなく実に二条城で行われた。 
 豊臣氏壊滅の慶長20年(1615)、改元あって元和(げんな)元年(7月13日)となった。 改元と前後して「武家諸法度」を発布した。 「武家諸法度」は慶長16年に武家から誓約書を取り付けた3ヶ条に金地院崇伝等が起草した10ヶ条を付け加えた13ヶ条でこれが幕府の対大名政策の大筋となった.
 続いて同年9月に、「禁中並びに公家衆諸法度」が発布された。 家康、秀忠及び関白二条昭実が連署している。 幕府に協力した公家衆が予想していたよりはるかに厳しく、かってない強圧的な文体で天子の行動をも強く規制している。 この法度は宮廷に衝撃を与えた。
 高徳の僧尼のみが着ることが許される紫色の法衣である袈裟は、もともと天皇がそれにふさわしい者に与えるものであった。 ところが、幕府は1613年紫衣法度によって僧侶達は天皇の許しを得る前に幕府の承認を得ねばならぬと勝手に決定してしまった。 しかし、それを無視して1627年、後水尾天皇は沢庵宗彭(たくわんそうほう)玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)等十数人に紫衣を与えたので、幕府は、これを無効とした。 それに抗議した沢庵らを流刑にしてしまった。 これを紫衣事件と言う。 

3.和子の入内
 将軍秀忠及び大御所家康は大阪の役が終り、慶長20年(元和元年)5月から8月までの長期間滞在のあと二条城を出発し、将軍は江戸へ、家康は駿府へと帰城した。 しかし、帰着して間もなく家康は病になり、大御所病むの飛報は忽ち四方に達し、秀忠は勿論江戸から急行した。 諸大名の見舞いも多く、ため駿府には宿がなく遠くの宿場町に分宿せねばならなかった。 また朝廷からは興意法親王(こういほうしんのう)をはじめ多くの公家が訪ねた。
 そのうち、家康の病は意外にも一旦快方に向かったのである。 とにかく小康を得ているうちに諸種の懸案が決定された。 その一は、家康が公家の最高官たる太政大臣となったこと。 その二は、一時中断されていた秀忠の娘和子入内の話が再燃し、藤堂高虎がこの件の一切を任されることになった。 元和2年(1616)4月17日家康は薨去(こうきょ)した。 のち朝廷から正一位東照大権現の神号が贈られた。
 和子の入内が決定的になったのは、元和4年(1618)4月8日、後水尾天皇の実弟近衛信尋(のぶひろ)が江戸へ下向したのを契機としている。 信尋は近衛信尹(のぶただ)の養子となり近衛家を継いだ人である。 
この下向に多くの公家衆が同行した。 幕府側では藤堂高虎はもとより老中本多正純、土井利勝、安藤重信等も出席して信尋を厚く饗応した。 信尋の一行が京都へ帰ると、所司代板倉重宗は、同年6月21日「女御入内のご用意あるべきこと」を武家伝送広橋兼勝に申し入れいよいよ入内は進行するかに見えた。 実はそうではなかった。 「お与津事件」である。 その頃後水尾天皇には心を通わせた女性がいた、権大納言四辻公遠(きんとう)の娘典侍与津子がそれである。 1618年に皇子賀茂宮を生み、1619年6月20日に再び皇女梅宮が生まれる。 入内の直前であったから秀忠が梅宮誕生に激怒し、入内問題をめぐり、朝幕間で膠着状態に陥った。 この時朝幕間のパイプ役で奔走していた藤堂高虎が後水尾天皇からその家臣と愛人与津子の排除を画策し、公家武家伝送の広橋兼勝を通して、家臣の公家6人が処分された。 天皇の側近万里小路充房、四辻季継、高倉嗣良は流罪、中御門宣衡、堀川康胤、土御門久脩は出仕停止の処分を受け天皇が愛する与津子に会うことは厳しく禁じられた。 25歳の若き後水尾天皇は、恋人を遠ざけられたうえ、信頼する家臣を処分されさぞ激怒下だろう。 そんな天皇の気持ちとはかかわり無く、藤堂高虎は天皇の実弟近衛信尋を口説き、天皇の怒りに抗しながら、和子の入内を成功させたのである。
 元和5年(1619)7月25日将軍秀忠の上洛となり、後水尾天皇も引見された。 これより先、後水尾天皇の住まわれる内裏を徳川幕府が建造した。 徳川氏による第一回目の内裏造営であるので大いに力をつくした。 この完成が建長19年(1614)だから慶長度内裏と通称する。 ところが、和子入内が決定したため、新女御の御殿を大々的に拡張増築する必要が生じた。
 元和6年(1620)5月8日、二代将軍秀忠の娘、源和子は入内のため江戸を出発あした、 武家からの入内の前例はあるが、今度ほどの大規模なのは前代未聞だろう。 何しろ70万石をもって入内費用に充てたという。 老中酒井忠世と土井利勝が供奉(ぐぶ)の責任者で近畿の大名達がこれに加わった。
 5月28日、和子は二条城にはいる。 入内の儀は6月8日であったが、和子の軽い病気で18日まで延期となった。 午前8時頃から女御の荷物が新造の女御御所へと運び込まれる。 非常な量である。 例えば長持ち160棹、屏風箱30、更に長持ち100棹その他という具合である。
 女御お行列が二条城を出たのは正午頃だった。 まず先頭に雅楽を奏しながらゆっくりと歩居て行く楽人の群れがあり、それに途方も無い大行列が続く。 中心の女御は新しい牛車に乗り、これは金銀梨地の蒔絵で飾られた。 当時の習慣で婚儀に要する費用は全て嫁方が負担した。 そこで女御が持参した土産というのが金銭・品物を含め驚くべき量、70万石を費している。 主上への献上品は勿論のこと、宮廷に属する全ての人々にくきわたった。 この時、後水尾天皇は25歳、和子は14歳であった。 将軍秀忠は入内を記念して小御所の庭園を改修し、文庫を初めとする小殿舎を建てて献上した。 庭園の設計は元和6年末、小堀遠州が行っている。 池に反橋三ヶ所と水鳥番所などがあったのを新しく長さ30間ばかりの橋をかけ中央に「御亭」をつくった。 橋を渡った所に御文庫が出来た。 後水尾天皇の愛書は有名であった。 秀忠の親切を最も感謝された。
 元和7年2月24日、新御文庫に書籍を移し始めた。 主上自ら諸種の書物を整備されたが中でも有名なのは「新雕皇朝類苑」を新鋳銅活字をもって勅版されたことである。 原本は麻沙板宋版の「皇宋事宝苑」を改題して出版されたものである。 他に「関東群書治要」「大蔵一覧」「異朝図書集成」を勅版された。 後水尾天皇のめざましい文化事業である。

4.二条城行幸
 元和9年(1623)5月 将軍秀忠は、家光を同伴して上洛してきた。 秀忠が将軍を継いで19年目にあたり、そこで家康の例に倣い、家光を三代将軍たらしめんとしたのであり、今一つは、娘和子が女御になって後、初めての対面という儀礼もある。
 三代将軍たるべき家光は、家康と同じ幼名竹千代を名乗り、秀忠の次男である。 母は浅井長政の末娘達子。 慶長9年(1604)7月17日生まれ、 慶長6年生まれの長男長丸は早世していたので、「生まれながらの将軍」と言われていた。
 家光が将軍となる段取りが、家康、秀忠と異なるところがあった。 初代と二代目までは、朝廷に出向き紫宸殿前で将軍宣下を受けた。 しかし、家光の場合は勅使を伏見城へ呼びつけ、自分は上段の間に居座ったまま、宣旨(せんじ)(天皇の命を伝える文章)を受けた。 それだけ幕府の勢力が増した。 そして、家光以後の将軍は上洛することなく、江戸城にあって宣旨をうけたのである。
 ただし、将軍宣下の御礼に参内した家光の威容は、牛車に乗り諸大名を引きつれ、所司代を供とし、長蛇の行列を組んだので、京の町人を驚かせた。 三代目が最も華美な行装を整えたのである。 御所へ入って長橋局(ながはのつぼね)で休憩すると公家衆が先を争って慶賀を述べた。 いよいよ主上の前で三献を賜る。 次いで将軍に供奉した御三家も盃を戴く。 次に女御御殿へ参った。 女御は将軍の妹和子である。 しかし、女御となれば家光は臣下なのでその礼をとり、御盃を戴いた。 徳川も三代となって、女御が妹であることをもって、天下の諸大名を威圧し得たのだった。
 新しく大御所を称した秀忠は、禁中御領として壱万石を献じた。 これで以前の御領と併せて2万1549升5合となった。 又中和門院領地として別に2千石が献ぜられた。
 かって豊臣秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎え盛宴をはったが、秀忠、家光も秀吉に劣らぬ準備をして後水尾天皇、中和門院、女御和子及び女御所生の女宮二方を二条城に招待し、朝幕間の親和を計ると共に威容を諸大名に誇示しようとした。 世に言う二条城行幸盛儀である。
 準備は寛永元年(1624)2月頃からはじめ、寛永3年の行幸を目標としてなされ、総費用金三万三千百六十六両3分、米九千九百八十三石一升三合を費やした。 二条城二の丸に主上のための別殿を建築し、御用の器具も全部新調で、主上の分は黄金、中和門院、女御の分は金銀を交えた。 往復の行列は全て宮廷の方式で全公家衆の服装も新調した。 秀吉の聚楽第行幸よりも大規模で、前例のない儀式だった。 伝統を守りえないほど盛大なこの行粧で「寛永有職」と称する。
 寛永3年9月6日、二条城行幸。 主上の乗り物は鳳輦(ほうれん)である。 行幸は五日間に渡った。 その間宮廷の御一行及び主な公家衆が二条城に宿泊したのである。 第一日は秀忠、家光に天盃を賜る。 第二日には秀忠から主上に銀三万両その他、和子中宮へは一万両、進上した。 午後2時頃から雅楽の伴奏で舞楽が催され、後水尾天皇が自ら雅楽の一員として琴を演奏された。 第三日に主上は城の天守へ上られ四方を眺望された。 毎日ご馳走攻めである。 馬場で乗馬を観覧、次は公家衆の蹴鞠。 次は夕方から和歌御会があり、徹夜となった。 第四日は猿楽の催し。 この頃になると公家衆の中で沈酔する者がでだした。 そして第五日に主上を始め還幸となった。

5.譲位
 女御和子に始めて懐妊の兆しがあった。 秀忠の喜び非常であった。 秀忠は女御に天皇を継承すべき皇子の誕生をどれほど期待していたか知れない。  元和9年1119日女御のお産があった。 ただし、皇女だった。 いくらかの失望はあったもののまだ皇子誕生の望みを得た。 女一宮は興子(おきこ)内親王と(おくりな)された。 同時に女御和子は中宮となられた。
 寛永2年(1625)中宮は再び妊娠された。 寛永2年9月13日生誕あったのはまたしても女二宮で中宮御所の失望と狼狽は甚だしかった。 寛永3年1113日、ようやく待望の皇子に大喜びしたものの3歳で夭折。 寛永5年9月27日また皇子の生誕を見たが一ヶ月以内で夭折。
皇子の夭折が続いて一層悪化した。 寛永6年8月27日にまたしても皇女、寛永9年6月5日に皇女、寛永11年9月1日に皇女。 これ以後中宮に御子は一切生まれなかった。
 寛永6年11月8日午前8時頃、突如として禁中から御触れが公家衆全員にきた。 早速束帯(そくたい)の正装で宮廷に集合せよというのである。 公家衆は何事かと判断に迷いながら参殿した。 二条康道が昇殿してきてようやくそれが譲位の式典であると伝えられ、一同色をうしなった。 驚くべきは中宮御所すら、その日に譲位が行われることは知らなかった。 それは熟慮された結果が唐突の譲位が行われた。
 33歳の後水尾天皇は、18年間の天皇生活を回想する。 思えば私の人生は屈辱の連続であった。 幕府はまず法度によって我々公家を政治から遠ざけ、文芸に専念させようとした。 これはまだ良い、面倒な政治など幕府に任せておいて、書歌に没頭するのも悪くは無い。 しかし、私の最愛の女を差し置いて、徳川の正室として押し付けてきたのも腹が立つ。 更にひどい仕打ちは、私の紫衣の許可にけちをつけ、親愛なる沢庵、玉室、江月などの名僧を流刑にした。 そして「早く隠居しろ」とでも言っているように31歳の隠居所を造り、ついに婢女(はしため)のような者を拝謁させる始末。 これほどの屈辱を感じたことはない、もはやこれまで無念であった。
 ・芦原よしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思わず。
 後水尾天皇は幕府への痛撃を込めた一首を残して11月8日、突然譲位した。
 寛永7年(1670)9月12日興子内親王が即位されたが、時に8歳の養女だった。 のちの明正天皇である。 幕府として、女帝なのは残念だったが、とにかく明正天皇は和子中宮の所生であり、曲りなりにも将軍家は朝廷の外戚となりえたのだった。
 後水尾天皇は上皇として生活を始められ、中宮和子は、この後東福門院と称した。

6.皇位継承
  退位された天皇を上皇とも仙洞とも称する。 後水尾上皇となられると、上皇の外出は御幸(みゆき)と呼び変えられる。 そして天皇の時の行幸につき所司代の了解が必要であり行列も大きかったが、上皇の御幸は規模が小さくやや自由になり、所司代も比較的緩やかに承諾するのが例だった。
 かなり無理を予想しての皇位に即けた明正天皇は、やはり幼き女帝のゆえに様々な所外があった。 宮廷精神の中核である祭祀(さいし)、特に四方拝のごときは女帝では出来ない.幕府としても是正を希望したが、適当な次帝が無いので、しばらくそのまま経過した。
 宮廷の年中行事の最初は、元旦の四方拝であった。 主上は午前四時に起床、御手水の後、御湯殿で身を清める。 御湯殿の位置は一定ではない。 御所には風呂はない。 板の間の一室に、冷暖の御湯を準備し、主上は湯帷子(ゆかたびら)を着用のまま御湯にかかられる。 そして束帯を召し、まだ夜が明けない暗さの内に、内侍が燭をとって清涼伝へ主上を導き、大宗障子(たいそうしょうじ)という屏風を引き廻した中で主上一人、天地四方を配される。 これが天子の祭祀であった。 天子は祭祀の最高の司なのである。
 秀忠の死後間もなく、寛永9年(1632)7月16日、春日の局が2度目の上洛をした。
 家光は、朝廷に対する内々の特命は春日の局を使った。 朝廷の慣例では、天皇と対面できるのは、高官に限られていた。 春日の局は官位はなく、天皇から見れば(はしため)程度で、そのような者と対面することは屈辱と感じたようである。 
 春日の局は東福門院御所を訪れて申し入れをした。 東福門院に皇子の誕生が無くとも、後宮の誰かが皇子を生んだならば、その皇子を東福門院の養子となされ、その上で、男子の天皇となさるが適当であろうとの幕府の意向を伝えた。

 その結果、明正女帝の御弟素鵝宮(すがみや)が前面に押し出されて、やがて親王宣下となり紹仁(つくひと)親王としょうされることとなった。 公式の母は東福門院、生母は壬生藤原光子である。 寛永201021日紹仁親王は、11歳で即位した。 後光明天皇である。 この後光明天皇は在位は僅か11年間天然痘によって急に崩御された、22歳であった。 しかし、後光明天皇に猶子(ゆうし)がいた。 後水尾上皇の19皇子高貴宮(たてのみや)、後の識仁(tuguhito)親王である。 当時、五ヶ月にも満たな嬰児で、皇位継承されるのは無理であった。 それで、後水尾上皇の皇子で寛永141116日降誕の良仁親王が高松宮好仁親王の嗣となっていたのを止め、つまり離縁して、皇位を継承させることとした。 ところがまたもや、幕府から、横槍が入った。 幕府が付けた条件は「今後客殿と楽只軒良仁(nakaひと)親王が天子として不適格であると判断された場合には、一歳の嬰児の宮に位を譲らるべきこと」と言うのである。 すると良仁親王の天子たる立場は不安定きわまるもので、いかにも天子代行に過ぎない。
 承応(じょうおう)3年(16541128日、即位、18歳。 これが後西院天皇である。 しかし、極めて温和な天皇だったので、その位置に堪えるとも無く、堪えた。

7.修学院利宮
 慶安4年(1651)4月2日徳川三代将軍家光が没し、その混乱が収まらぬ5月6日、後水尾上皇は突然髪をおろし法体となる。 即ち出家していよいよ俗事から解放され、自由に晩年を暮らしたいとの意向を明らかにした。 法体となる4年前、早くも庭園に詳しい金閣寺の住職鳳林承章(ほうりんしうしょう)らに命じて衣笠山山麓に敵地を探させたが、金閣寺や竜安寺など古くからの別荘が禅寺として栄え思わしい敷地が見当たらなかった。 
 後水尾上皇と東福門院との間柄は年と共に親和してきた。 上皇よりも女院に属しているとする離宮が少なくとも三ヶ所ある。 長谷(ながたに)、岩倉、(はた)(えだ)の山荘であった。
 慶安元年(1648)2月22日、後水尾上皇が今日岩倉へ御幸になる。 東福門院、女三宮顕子(あきこ)内親王その他女房の乗り物30丁、所司代板倉重宗は初めは徒歩、後騎馬にて先導した。 東福門院付き武士野々山共綱は女房衆の後に騎馬して御供。次に鳳林承章、次に後宮藤原国子の父その他が肩輿に乗って供奉する。 相当な大行列」である。 途中上賀茂で休憩。 御茶や弁当を開く。 鳳林は上皇の御前へ出てお話する。 岩倉に到着。 所々に番所が出来ており、所司代や御所付き武士の命令で番侍が守っている。 朝食は三位御局(後霊元天皇生母・当時24歳)が御膳をたてまつる。 朝食後上皇の御供して背後の山に登る。 山中十町余に所々御茶屋あり、種々御飾り道具目を驚かす。 山上に於いてやや時間をかけ、上皇は方々所々の風景、山々、谷々を遠望、御研究になる。 今晩のご馳走は、東福門院及び所司代の御振舞であった。 みな酒をくむ。 その後解散、上皇及び女院はあと四日間長谷に御逗留された。
 岩倉は三離宮中最大であった。 今一つ、幡枝御殿は松ヶ崎から山一つ隔てた所で三方を小山で囲まれ、東に眺望が開けているので、比叡山が借景となる。
 承応4年(1655)3月13日、この日は後水尾法皇にとって運命的な一日となった。 早朝法皇は東福門院と共に長谷の山荘へ向かう途中修学院の地にある草庵に、かって恋人与津子に産ませた一粒種、第一皇女梅宮を訪ねた。 「修学院」の名は、平安時代、佐伯公行(さえききみゆき)が勝算を開山として天台宗の建てたので、その寺名が地名となったものである。 この時、法皇60歳、梅宮37歳になっていた。 朝かゆをご馳走になり、三人は草庵から少し離れた山上にある御茶屋に移る。 かって法皇自身が「隣雲亭(りんうんてい)」と名付けた茶亭である。 久しぶりに隣雲亭からの広大な比叡山の眺めを欲しいままにした法皇は瞠目し、驚きを隠さなかった。 これまで、新しい山荘の候補地として長谷、岩倉、幡枝を行ったり来たりしていた、それらの山上の茶屋からの比叡山の眺めに満足できずに決めあぐねていた法皇は、この修学院の地で自分の探し求めてきたものについてついに出あったのである。 
 梅宮は、寛永9年(163214歳で鷹司教平(たかつかさのりひら)と結婚したが、6年後病弱を理由に離別されてしまった。 その後禅僧一糸文守(いっしぶんじゅ)の法話を聞いて深く感動し、ついに22歳で髪を下ろして出家し文智尼(ぶんちに)と名乗った。 梅宮は、得度間もなく各所で修行し、その後修学院に草庵を結び、人里離れたこの地で信仰生活を続けていたのである。 承応4年(165537歳になった文智尼はこの修学院から奈良八島(やじま)の地(奈良市古市町)に移り円照寺(えんしょうじ)の開祖となった。 寛文7年(1667)東福門院は、自ら腹を痛めたことのないこの恵まれない義娘に対して実家徳川家に円照寺領地二百石を与えるよう迫っている。 また11年後の延宝6年(1678)にさらに百石追加し合計三百石を認める幕府の朱印状が現在も保管されている。 更に、寛文9年(1669)文智尼が一層の修行地を求め八島から現在地(奈良市山村町)に寺を移した際、移転費用千両を東福門院が寺に寄進したのである。 和子入内の際、和子の実家徳川家が、梅宮の実母与津子にした仕打ちや本来ならば第一皇女として前途ある梅宮が,嫁ぎ先から離別され、「僧尼の道」を選択せざるを得なかったこと、それらは直接東福門院の責任ではなかったが、一生を通して義娘文智尼への心遣いをわすれなかった。
 修学院の地は、御幸の時、比叡山延暦寺に帰属していたが、丁度この時、法皇の弟10皇子堯恕(ぎょうじょ)親王が天台座主だったので、この地を延暦寺から借用される便宜があった。
 離宮の地は、比叡山に登る雲母坂のほとりで背後に低い山々を負い、その反対側は、遠く京都の市街地を見晴らし、その向こう連山がある。 裏山の谷は渓流となり、離宮に流れすぎて下の田畑を潤す。 当時の音羽川は離宮の近くを通っておりそれらの川と渓流を堰き止めれば容易に池がつくれる。 これが浴龍池(よくりゅうち)であって離宮景観の中心となった。
 工事は山からの渓流と付近を流れる音羽川の流れとを浴龍池に引き入れる仕事からはじめるべきで、相当大きな堰堤を作らねばならぬ。 現在の堰堤を見ると池に接する側は西浜といい、池の外側の大斜面を大刈込という。 池及び周辺の地質は花崗岩の風化土である。 池を掘っているうちに硬い岩盤がある。 それを掘り残して出来たのが、池の中の三つの中島である。 堤の用土は池を掘った時に出た土と堰堤の外側を彫り上げて用土としている。 今窮邃亭(きゅうすいてい)が建っているのが最大の島であるが不思議なことに島名がない、他に美保ヶ島と万松塢(ばんしょぉう)がある。 こうして浴龍池はなった。 そしてたまたま池を見下ろす岡のある地形ゆえ、そこに眺望を楽しむための建てた建物が、即ち隣雲亭である。 ただし、法皇と東福門院が文智尼を訪れた時存在した隣雲亭と同じ場所かどうかは不明である。 この景観が他の庭園で見られない雄大なものである。 上の御茶屋と称せられる一帯である。
 御幸のある場合、行列はまず下の御茶屋に着く。 そこで上の御茶屋に登る仕度をし、食事その他の準備、御幸に同行するかなりの人数を収容する場所もいる。 その設備として下の御茶屋と称せられる区域に寿月観(じゅげつかん)及びそれに付属する建物がある。
 創建当時、中の御茶屋は存在しなかった。 この中の御茶屋は幕末まで林丘寺の一部であった建物が明治以後修学院離宮に加えられたものである。 明治以後の編入といえ、法皇は存命中にはしばしばその建物を修学院離宮と合わせて利用しており、事実上離宮の一部であった。 修学院離宮が完成し、上下御茶屋の二つ構成で遊戯を繰り返しているうちに法皇は、どこか物足りなく感じたのではないか。 しかし、上下の御茶屋できてそれほど時間のたたぬうちに、当初の計画になかった御茶屋新たに作ることは、なにかと差しさわりがあったのであろう。 そこで寛文8年(1668)上の御茶屋と下の御茶屋のほぼ中間に一棟朱宮光子(あけみやてるこ)内親王の居所として建立したのが楽只軒(らくしけん)でその後、東福門院の奥対面所を移設して客殿とした。

B.施設
 比叡山の山麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は、上、中、下の三つの利宮(御茶屋)からなり、上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を連結する松並木の道と両側に広がる田畑とで構成されている。 総面積54万5千m2を越える雄大な離宮である。 明治期に宮内省の所管となるまでは離宮を囲む垣根も全周にはなく、自然に対して開放された山荘であった。 
 下離宮には、建設時では最大の建物の湾曲閣があったが、比較的早い時期に失われ、今は南を庭園に囲まれた寿月観が残っている。 中離宮には、楽只軒と客殿があり、やはり南に庭がある。 上離宮は、修学院離宮の本領であって、谷川を堰き止めた浴龍池と呼ぶ大きな池を中心に据えた回遊式庭園となっている。 その浴龍池を一望におさめる東南の高みには隣雲亭、中島に窮邃亭がある。 山麓に広がる離宮のため上と下の離宮の標高差は40m近くあり、大小の滝に加え水流の早い小川もあり、何処にいても絶えず水の音を聞くことが出来る。 昔は畦道にすぎなかった松並木からの眺める風景もまたすばらしい。 
1.表総門
 今もなおひなびた民家の残っている離宮への道の突き当たりに正面入口に相当する表総門がある。 2本の丸
 太の間に、竹を並べた扉を付けた簡素な造りで、桂離宮の表門と共通したデ
ザインとなっている。 
御幸門
  表総門から左へ緩やかなカーブを描いて緩い坂となった松と楓の並木道を小砂利を踏みつつ上っていくと、
 御幸門
(みゆきもん)
が見えてくる。 身分の高い人の行幸の折に使われる門である。離宮の
創建当時とは、位置もデザインも
 異なるが、軽快な
杮葺(こけらbu)き屋根に花菱模様の透かし彫りのある扉を持つ軽やかな門となっている。
中門
  御幸門を入って右折れすると、下御茶屋の出入口にあたる。 中門(ちゅうもん)がある。 たすき掛けの木の扉を付
 けた簡素な木の門で、欄間の透かし彫りは、大変明るく斬新である。
袖形灯篭と朝鮮灯篭
  中門を潜ってすぐ左手は十段ほどの石段となっており、その上に奥まってすきっとした簡素な構えの寿月館
 の
御輿寄(みこしよせ)が見える。 「御輿寄」とは輿に乗った客のための玄関のことである。 
 御輿寄せへ向かう道の傍ら池の中島に珍しい形の遺子灯篭が立っているのが見える。 着物の袖の形に似てい
 るところから袖形灯篭と言われ、またワニが口を開けているように見えるとこ
ろから鰐口灯篭とも言われる。
 直線的な大変モダンなデザインである。
   中島を過ぎたところの四角く背の低い灯篭は朝鮮灯篭と呼ばれ、朝鮮半島の寺院や墓所に見られる珍しいも
 の。
寿月観
  中島の石橋を渡って緩やかな坂道の飛石を登っていくと、十数歩にして寿月観前のすがすがしい白砂敷きの
 庭に出る。 寿月観は下御茶屋で最も重要な建物であり、法皇の御幸際の拠点
なったところである。 池を掘
 った土を盛り上げ石垣で土留めをした高所に建てられている。 
内部は6室からなっており、屋根は杮葺(こけら
  ふ
)
き、入母屋造りと寄せ棟造りでLの字形に配されてい
る。 周囲には楓やつつじが多く、寿月観の紅殻色の外壁が
 、春夏には青葉に引き立ち、また
秋冬には紅葉に映えて、四季それぞれの環境によく調和する。
  軒の深く出た庇に、扁額がかかっている。 「寿月観」の三文字、は後水尾法皇の筆である。今ここにある
 「寿月観」の建物は創建の者ではなく、文政年間に再建されたものだが、その姿
や間取りは、昔のものを復旧
 したものだといわれている。 後水尾法皇が「寿月観」と名付け
たのは「下御茶屋」がこのように整備される
 以前のことであったらしい。 東福門院を
母とする顕子(あきこ)内親王の「岩倉殿」に法皇が御幸されたとき「寿月観」
 の扁額を正保5年(
1648
賜ったという記録がある。
  左手の縁から内部に入ると「二の間(12畳)」、「三の間(6畳)」がある。 障子を開いて前庭を眺める
 と、白砂には、墨絵の如く、飛石が点々と打たれている。 その向こうに見える木
の茂みに、春には桜の花が
 咲き、秋には紅葉が鮮やかに色づく。 東側に滝があり石組の上を
水の糸が静かに垂れ、中央の三角形の石を
 富士山に見立て「富士の白糸の滝」と呼ばれている。 
ここから始まる遣水(やりみず)は樹々をぬって曲折しつつ緩や
 かに斜面をさらさらと流れる。
  扁額の架かった縁の内部が「一の間(15畳)」となり、一間半の床の間に三畳の上段の間がある。 その天
 袋に鶴の絵、地袋には岩と蘭の図が描かれ、
原在中(はらざいちゅう)の筆と伝えられる。 欄間に花菱の透し彫りがある
 。 「二の間」の襖を開けると四畳半の部屋の向こうに、「取次の間」
が見え、御輿寄に通じる二の間と三の
 間の間には七宝模様の透かし欄間が見える。 
  また、また南妻破風(はふ)に掛かる「蔵六庵(ぞうろくあん)」の扁額も法皇の筆であり、もともと寿月観の北側に建物で、家
 臣の控え室であったものを取壊し、そこに取り付けられていた額だけを移動したも
の。 「蔵六」は「雑阿含
 経
(ざつあごんきょう)
」にある語で、頭と尾と四肢の六つを隠す意味から亀のことを指
している。 家臣がまるで亀の様に自分
 の姿を隠して控えているのをみて法皇が「亀の庵」と
して名付けたのであろう。 
三つの茶屋の連絡路
  下御茶屋の東側、裏門を出ると小砂利の広場となっている。 これまで居た壁に囲まれていた視界は、衝撃
 的に変化する。 そこで比叡山、北山、東山の大パノラマが眼前に広がる。 こ
こから先は松並木の坂道が、
 見渡す限り田圃のなかを延々と続く。 
中御茶屋
   中御茶屋は、上、下の御茶屋が出来て約十年後の寛文8年(1668)、第8皇女朱宮光子内親王のために作ら
 れた別荘である。 朱宮御所を前身とする。 朱宮御所は父法皇の死後、その
霊を弔うために朱宮が、仏門に
 入ると同時に林丘寺となった。 そして、明治
17年(1885林丘寺より客殿と楽只軒を寺から切離し、中御茶
 屋とされたものである。
8.中御茶屋の三つの門
  連絡露を右に折れて進むと、更に並木道が一直線に走り、その先に中御茶屋の表門が開かれている。 この
 門は修学院離宮全体の表総門や桂離宮の表門と同様の意匠となっており、二本
の丸太の門柱の間に竹の扉を取
 り付けている。 表門の中は広場となっており、その左手の石
段を登ると、左右にそれぞれ林丘寺旧表総門と
 中御茶屋中門がある。
   林丘寺旧表総門は瓦葺切妻屋根を戴せた厳しい造りで、もと東福門院没後、その形見として女院御所より移
 されたものである。
楽只軒
  楽只軒(らくしけん)の名称は延宝(えんぽう)4年(1676)の記録にみえる。 古図によると「朱雀御所」は最初この建物だけで
 その後に東隣に「客殿」が他から移築され、西隣に「大書院」が新築され、規模の
大きな「林丘寺」となった
 。 しかし、明治
19年(1886)にいたって林丘寺が離宮から分離され、大書院等が移された。
 
 建物の南側には、前庭に向かって広く板敷きの縁が延長し、室内との間に「板戸」と「明り障子」が、3本
 引きとして建て込んである。 これは古い形式で、今日の雨戸のように一本溝
となっていない。
  前庭はあまり広くないが、その中に小池がある。 水面が地平よりかなり低くくぼんでいるので、見下ろす
 ようにも感じられる。 縁側の軒下に、白い砂が敷かれているので、晴れた日
には、日差しがそれに映えて、
 室内が照明を受けたように明るい。 縁先に据えてある靴脱ぎ
石の肌が半分黒く、他の半分が白みかかった片
 身代わりなのも珍しい。

  庭から楽只軒の縁側に上ると畳縁があって、その奥に「一の間(6畳)」と「二の間(8畳)」が並ぶ、一
 の間は、正面に一間の床が付属している。 その床の左脇の壁に古い張付けが残っ
ていて、金地に吉野山の景
 が描かれている。 
狩野探信(かのうたんしん)1653718)の作であるが黒ずんでいる。 長押の上にかかる扁額に書か
 れた「楽只軒」の文字は後水尾法皇の筆跡。 

  隣室の二の間の壁にも竜田川の図と紅葉の図が描かれているが林丘寺時代の護摩のために、ひどくすすけて
 いる。 一の間の絵と共に、新しい頃にはさぞ見事であったと想像される。 
  この室内は、寺院というよりも、もっと家庭的な親しみを感ずる。 
10客殿
  楽只軒前の小池にかけられている石橋を渡り、山道のような急傾斜を登っていくと、平庭に出る。 その庭
 の正面に客殿がある。 この客殿は、東福門院がなくなられたあと、その女院
御所にあった奥対面所を形見と
 して、ここに移したものである。 また光子内親王が、後水尾
法皇が亡くなられた後に、仏門に入られ、「林
 丘寺」を起こしたので、この客殿の奥に宗教建築
に必要な仏間が増築された。
  しかし、客殿は、宮廷建築で、しかも女院の住まいであったため、その建物の外観にも内部にも、みやびや
 な性格がはっきりと目立つ。  屋根は
杮葺(こけらふ)きであるが、軒は二重垂木の堂々たる宮殿建築である。 四周
 とも板張りの縁側がつけられ西北隅で楽只軒と連結している。 
  そのため下御茶屋が数奇屋風であったのに対し、この中御茶屋は宮廷的で、しかも女性的な艶麗さが濃い。
 正面の右端には、板縁の入隅となって、そこに矩形(くけい)の靴脱ぎ石が低く置かれている。 つまり、そこが客殿の
 入口となっているのであるが、建築的な取扱いはそれだけであるのに、入口
としての構えをはっきりと構成し
 ている。 その簡明な意匠は、機能的にも造形的にもみごと
である。 直角ばかりの組合せを、すっきりした
 非対称にまとめた手際は鮮やかである。 
  意匠の華やかさは、客殿の内部において一層優美に開花する。 内部は「一の間(12畳半)」、「二の間
 (
10畳)」、「三の間(10畳)」分かれているが、そのうち一の間と二の間は南側に畳縁を付属している。 
 この間取りは、古い寝殿造りの庇の間に由来する。 
  客殿の内部から庭を眺めると、まるで絵巻の如く、庭木が今のように茂り過ぎない時代には、はるか一乗寺
 や曼殊院辺りまでが、室内から見渡せたであろう。 また、ここでも室内に庭か
らの水音が響いてくる。 滝
 口の音と、遣り水の音が、耳に聞こえてくる。 
   一の間の室内を見渡す。 一間半の飾り棚は「霞棚」と呼ばれ、桂離宮の桂棚や醍醐寺三宝院の醍醐棚とと
 もに「天下の三棚」と並び称されるほど、一般に名高い。 これは大小五枚の棚
板を互い違いに組み合わせて
 吊るしあたかも春霞が棚引いている様に見える飾り棚である。 
小襖には、染物の図や更紗模様が描かれて、
 ういるが、その工芸的な配色や羽子板形の引き手
は、いくぶん技巧的過ぎるが、ここでは室内の鮮やかな色彩
 と共に女院御所にふさわしいエレ
ガントな装飾効果を発揮している。
  畳縁出入口の杉戸の表と裏に、狩野秀信の筆と言われる祇園祭りの山車(だし)と網の中の鯉の絵が描かれてい
 る。 特に鯉の絵はあまりに真に迫る出来栄えのため夜毎に杉戸を抜け出して庭の池で泳ぐので網を描かせた
 という伝説がある。 この網の中の鯉は幕府の放った網の中でがんじがらみの人生を送った法皇自身をえがか
 せたものであろうか。
  また奥の内仏間へ通ずる二枚戸の表には祇園祭の放下鋒と岩戸山の図が描かれている。 
  客殿の裏へ回ると榑板縁(くれいたえん)(敷居と平行に板を張った縁)が鍵の手にいる。 低い手すりを「網干の手摺」と
 呼ばれるもので、その縁内部に「
内仏間(ないぶつま)」がある。 室内の正面に仏壇があるり、地袋に張った扉面には四
 季の図が描かれている。 その欄間が水玉透になっているのも
珍しい。 このように内仏間の様式は特殊であ
 る。 客殿の表側が宮廷風の様式めいた意匠で
あるのに対して裏側の室内は、くだけた意匠となる。 これは
 客殿が林丘寺の付属となった際
に、内仏間がここに新しく増築されたので、従って時代も様式もことなる。
   なお、内仏間の位置は楽只軒の一の間に接近しているが、土地の高低のため五尺ばかり高台となっている。
 したがって七段ばかりの階段が楽只軒へ通ずる廊下に設けられている。
 その階段を逆に楽只軒の南縁から登っ
 ていくと客殿は中二階の高さにある。 だからカギの
手に曲がった階段の途中から見上げると目のすぐ上に客
 殿の杉戸がみえる。 その戸の表面に
は祇園祭の船鉾の図が極彩色で描かれている。 扉を引き開ければ、そ
 の奥は客殿の一に間に
続き、室内には金色と群青の色彩が輝いている。 だから階段下の護摩の火によって黒
 くすす
けた楽只軒から階上の客殿に登って杉戸を開くと室内が目の覚めるような美しさに変化する。 
   それゆえ祇園祭の図を描いた杉戸は芝居の引き幕のごとく演出効果を発揮している。
11、上御茶屋
  下御茶屋から、真直ぐに松並木の連絡路の緩やかな坂道を歩いていくと、約200mで上御茶屋の御成門に達す
 る。 道中巨大な大刈込みが見られる。 上御茶屋は、ダムで谷川を堰き止
め山腹に巨大な人工池を造ったも
 ので、
15m程の深さの池を四段の石垣を積んで土留めされている。その武骨な石垣をあらわにしないために、
 三段の高生垣を仕立て、上部傾斜は大刈込み
で覆って美しく仕上げている。 大刈込みは数十種の樹木の混植
 で造られているので各季節ご
とに、それぞれ趣のことなった彩を楽しむことができる。
  連絡路の終点御成門は杮葺き屋根、花菱形のくり抜きのある欄間、木の扉は下御茶屋御幸門にそっくりの造
 りである。 
  御成門を入り、石段を登りつめると、隣雲亭に達する。 ここは宮海抜149m。 修学院離で最も高いところ
 である。 正面には山端、松ヶ崎、宝ヶ池、
深泥(みぞろ)ヶ池が望まれ、又右手には、岩倉、鎌倉、貴船の山々が続き
 、さらに左手には京都市街、愛宕山、西山に至るまで広々と見
晴らすことが出来る。 その雄大な展望は、季
 節により天候により刻々とへんかする。 後水
尾法皇が実に70数回にも及びこの地を訪れたのもうなずける。
  上御茶屋は、谷川をダムで堰き止めて造った浴龍池と呼ばれる巨大な人工池を中心とした回遊式庭園となっ
 ている。 また園路には隣雲亭、窮邃亭等を設け、高所に立てば、園内を一望
できるだけでなく、遠くの名勝
 も望むことが出来る借景の庭である。
12.隣雲亭
  高所に建つ隣雲亭はその強風に耐えるために緩やかな勾配を付けた杮葺屋根の大変素朴な建物である。 内
 部についても目立った飾りはほとんど無く、床も、棚も付けてない。 自然の
大風景の展望のために設けられ
 たこの亭にとっては、細部の装飾はむしろ邪魔になるだけで、
勤めて簡素に飾り気無く仕上げられている。 
 唯一の装飾と言うべきものは、西と南に面した
深い廂の下の漆喰固めの白い土間に、赤や黒の賀茂川石を1個、
 2
個、3個の組合せによって点々と描いた模様である。 これは「1,2,3石(ひふみいし)」と呼ばれ、大変モダンな
 デザインである。
  隣雲亭の北側には、四畳分の三方吹きさらし露台のような板間があり、そこを洗詩台(せんしだい)と呼んでいる。
 ここは音羽川の中腹を流れてきた滝の音を聞きながら詩歌を読む場所であったとい
う。 洗詩台の東側裏手に
 は変わった形の「山寺」と呼ばれている灯篭がひっそりと建てられ
ている。 かって離宮が建つ前の修学院の
 地に後水尾法皇の娘文智尼の草庵があった頃、既に
法皇の命によってこの地に「隣雲亭」という名の建物があ
 った。 寛文7年(
1667)に同名の建物が離宮に造られ、延宝4年(1677)に焼失するが、享保6年(1721
 の霊元法皇の御幸に
その名が見えるので、焼失ご再建されたのであろう。 しかし、文政6年(1823)にも大
 修理
の際再建されたので現在の隣雲亭は四代目と言うことになる。
13.雄滝と滝見灯籠
  隣雲亭より坂道を北に降りると流れの速い渓流に差し掛かる。 そこにかけた石橋に立つと東の木立の奥に
 高さ約6mの垂直に切り立った石の壁を白布をかけたように落下する滝が見え
る。 これは雄滝と呼ばれ、音
 羽川から引いた水は滝を落ちると石橋の下まで激しく流れる、
石橋の下流は静かに流れて池に注いでいる。 
 近くには、滝を見る絶好の場所を示すかのよう
に、優雅な滝見灯篭がたっている。
14.楓橋
  雄滝より更に道を北に進むと、昔の建物の痕跡らしい礎石が数個点在している。 これはもと外腰掛のあっ
 たあとである。 外腰掛から、池の東岸に沿ってさらに進むと池の中島に建つ
窮邃亭に渡るための橋が見えて
 くる。 高脚の素朴な木端で、付近に楓が多く、秋にはこの橋
が紅葉の見所になることから「楓橋」と名付け
 られている。
15.窮邃亭
  楓橋を渡った中島には窮邃亭と呼ばれる創建当時から現存する唯一の建物である。 宝形屋根の頂上に菊花
 紋の擬宝珠をつけた軽やかな数奇屋造りの茶室がある。 南と東は廂を深くし
て、土間と縁をめぐらし、池に
 面する北と西は肘掛窓となっている。 内面は
18畳の一室で、その六畳分を後水尾天皇のための上段の間とし
 て、黒漆
(かまち)で仕切り、その他に床の間も飾り棚も無く、茶屋のための水屋が付属する高の、簡素な造りとなっ
 ている。 南軒下の「窮邃」の
扁額は後水尾法皇自身の筆である。 八角形を二つ並べ、三つ組の水引で結ん
 だ斬新なデザイ
ンとなっている。
16.千歳橋と千貫の松
  窮邃亭の建つ中島と万松塢(ばんしょうう)と呼ばれるもう一つの中島とを結ぶ橋を千歳橋と呼んでいる。 この橋は石組の
 基礎の上に一枚石を渡して床とし、その上に宝形と寄棟の異なる二つの屋根を
乗せた中国趣味の強いデザイン
 となっている。
  これは文政7年(1824)、離宮の大修理の際の京都所司代内藤信敦が寄進したものという。 
 上御茶屋の自然に順応したソフトムードとはおよそかけ離れた堅苦しい意匠であり、修学院離宮全体で唯一の
 汚点である。 しかし、この橋の傍の
千貫(ちぬき)の松と呼ばれる巨大な赤松は、まるで鳥が羽を広げたような素晴ら
 しい姿である。
17.万松塢の腰掛
  万松塢の西側には、四方吹放しの杮吹きの屋根を付けた簡素な腰掛がある。 腰掛の紅殻色は周囲の松の緑や
 池の青と強いコントラストを示しており、庭園の良いアクセントとなってい
る。 池に面して船着場もあるの
 で、船遊びの折、ここに上って休憩したのであろう。
18.土橋と三保ヶ島
  窮邃亭の建つ中の島(島名は無い)から北岸に渡る土橋は、栗の木で造られ素朴なものであるが、手の込んだ
 手斧
(ちょんな)
がけの手すりや、小さな菊花紋の留め金具は印象的である。 
  橋の上から東を眺めると、遠く比叡山と浴龍池に浮かんだ三保ヶ島が展開する。 この島は、もと山続の尾
 根を削って島として利用したもので、松が多いことから比叡山を富士になぞらえ、
三保の松原にちなんで、三
 保ヶ島と呼ばれている。 またこの三保ヶ島と窮邃亭の建つ中島、
そして万松塢の三つの島が、まるで巨大な
 龍が背骨を水面から出して水浴しているような姿な
の興意法親王で、この池を「浴龍池(よくりゅうち)」と名付けられ
 たという。 
  土橋から東を望むと、紅葉谷が展開し、ここから眺める秋の燃えるような紅葉は実に見事である。 また、
 西に目を向けると西浜の伸び伸びとした海辺の様な景観が人の心を和ませてく
れる。
19.御舟小屋と舟月場
  土橋を渡り、北岸の道を進むと止々斉(ししさい)跡に出るが、その岸辺には簡素な屋根付きの舟小屋があって、その水面
 を照らすべく崩家形灯籠が低くすえてある。
  北岸西端には、切石を2段に組んだ船着場があり、傍らの縦長の立石が目を引くが、これは舟を繋ぐ綱を結ぶ
 ためのものである。 御舟小屋の後方にはもと止々斉と呼ばれる茶屋があっ
た。 かって止々斉は、上御茶屋
 で最も大きくかつ重要な建物であり、浴龍池の展望によく、
また御舟小屋を利用した船遊びの拠点であり御幸
 の際、ここで休憩や食事をされた。 しかし、
宝永6年(1709)仙洞御所に移され、天明8年(1788)の仙洞
 御所の火災で焼失した。

参考文献
  *修学院離宮   著者 田中日佐夫/大橋治三 新潮社出版
 *修学院離宮   著者 谷口吉郎       株淡交新社出版
 *修学院と桂離宮 著者 北小路功光      平凡社出版
 *修学院離宮物語 著者 宮本健次       彰国社出版

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