京都と寿司・   朱雀錦
              (35)「宮内庁・京都御所」

                                                       小御所
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A・歴史
1.平城京造営

 桓武かんむ天皇は、延暦えんりゃく3年(784)に都を奈良の平城京へいじょうきょうから京都の長岡京ながおかきょうへ移され、同13年(794)、更に平安京へいあんきょうに遷都された。 
 平城京は現在の京都市中心部に当たる、山背国葛野かどの・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。 都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京、右京を置いた。 市内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。 東西方向に並ぶ町を4列集めたものを「条」、南北方向に4列集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ、番号が付けられていた。 これによりそれぞれの町は左京四条五坊十二町のように呼ばれた。 道路の幅は、小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)、朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。 人口は十数万人、政治、経済、文化の中心で、多くの都市に必要な文明装置を有していたのである。
 大内裏だいだいりは平城京における宮城きゅうじょう(皇居)を指す。 東西約1.2km、南北約1.4kmの広大な区域に、国家儀式や年中行事を行う大極殿や朝堂院、行政施設の太政官等の多数の施設や、天皇の居住する内裏が設置されている。
 大内裏の周囲は築地の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」と言う。 門は最も外側に宮城門みやぎもんが位置し、内裏外郭の門を宮門みやもんと言う。 大内裏の宮城門は、南面に朱雀門、皇嘉門、美福門、北面に安嘉門、偉鑒門、達智門、東面に上東門、陽明門、待賢門、郁芳門 西面に上西門、殷富門、藻壁門,談天門が備えられていた。 このうち上東門と上西門は大蔵通用門として屋根を設けず築地を開いただけの門であったため、「土の門」=「土御門つちみかど」と呼ばれた。 この門を出た通りが土御門大路であり、土御門家はこの地名に由来している。 上東門と上西門を除く12門は「宮城十二門」と総称された。

Heiankyo map.png















































 平安京の造営は先ず大内裏から始められた。 都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、何処からも見えるように大極殿を造り、天皇の権威を示した。 都の傍らの川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。 これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。 運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給された。 また、洪水対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調
整が出来る人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)を作成した。 
 寺院勢力の増大を嫌う桓天皇は、平安遷都約10年前の延暦2年(783)、畿内における私寺の建設を禁止いた。 遷都後、巨大な官寺である東寺と西寺の建設に着手したが、完成までに相当の時間を要した。

2.里内裏等の変遷
() 天徳の火災
   天徳てんとく4年(960)9月23日の夜半、平安遷都以来初めて内裏が焼けた。 真夜中近くで出火の場所は、皮肉
 にも宮中の警固に当たる左衛門の詰所から起こった。 出火の時、村上天皇は清涼殿に寝ていたが侍臣等の走り叫
 ぶ声で目を覚まし、腰輿で冷泉院に避難した。 それは延暦の造営から数えて
170年目、しかも完全燃焼であつた。
  この初度の内裏炎上に対し、再建工事が始められた。 すなわち9月28日には造内裏別当を任命し、30数諸殿舎
 廊門を諸国に割り当てている、
1128日に木造始めを行って着手し、翌年応和元年(96111月までに完成、同月
  20
日天皇は冷泉院より新造の内裏に還幸した。
() 貞元の火災
  内裏二度目の火災は、円融天皇の貞元じょうがん元年(976)5月11日である。 この時中宮煌子の父、関白藤原兼
 通の堀河殿に移った。 堀川殿は二条南、堀河東にあって、南北二町を占める規模を有し、天皇在位中ここで朝議
 が行われ「今内裏」と称された。 村上天皇の冷泉院も同様朝議が行われたが、冷泉院は、もともと天皇家累代の
 御所であるのに対し、堀河殿は関白の私建造物が初めて内裏として用いられたからこの堀河殿を持って里内裏の最
 初とされている。 円融天皇は、ここに一年ほど住んで翌年7月、再建なつた内裏に戻った。

  貞元度新造の内裏はそれから3年目の天元てんげん3年(98011月に消失した。 大納言朝光の居た閑院太政官庁
  、太政大臣頼忠の四条坊門大宮第を経て2か月後新造内裏へ戻った。 ところが、この内裏は2年後の天元5年
 (
98411月に再度火災した。 円融天皇としては実に三度目である。
(
) 一条里内裏
  一条天皇の時代、即ち正暦しょうりゃくから長和ちょうわにかけて、藤原道長、紫式部、清少納言等各界の「天下の一物」
 を輩出した、摂関政治の最盛期であった。 ところがその時期に内裏や貴族宅の相次ぐ火災が起こっているのは、
 決して偶然ではない。 正暦5年(
994)2月弘徴殿こきでん・飛香舎ひぎょうしゃが二度にわたって放火され、長保元年正
 月、東三条殿西対に放火された
ことなどを考えると、内裏火災の原因は失火とばかりはいえない。 特に円融天皇
 代で3度、一条天皇代が4度、三条天皇代が、里内裏を含め3度の火災に見舞われている。

  以下火災状況は下記のとおりである。
  @   長保ちょうほ元年(999)6月14日 平安宮内裏焼失、一条院を里内裏とし、同2年(1000復興内裏に帰るが
  、同3年(
1001)再度内裏焼失平安宮内裏焼失、一条院を里内裏とし
  A  寛弘かんこう2年(10051115日 平安宮内裏焼失、初め東三条第、次に一条院、最後に枇杷殿にと里内裏を
  移動した。

  B 長和ちょうわ3年(1014)2月9日 平安宮内裏焼失、枇杷殿を里内裏とし、同4年(1015復興内裏に戻る。
  C 長和5年(1016)6月2日 平安宮内裏焼失、一条院を里内裏とし、寛仁かんにん2年(1018復興内裏に戻る
  D 長暦ちょうりゃく3年(1039)6月27日 平安宮内裏焼失、京極土尾門殿を里内裏とし、長久ちょうきゅう2年
  (
1041)復興内裏へ戻るが、長久3年(1042)平安宮内裏焼失、一条院を里内裏とし、永承えいしょう元年
  (
1046)復興内裏に戻る。
  E 天喜てんぎ2年(1054)正月8日 高陽院内裏焼失、冷泉院、四条第、京極院、一条院、三条第を里内裏とし、
  康平こうへい3年(
1060)復興高陽院内裏へ戻る。
  F  延久えんきゅう3年(1071)8月28日 内裏落成
  G   治承じしょう元年(1177)4月28日 太郎焼亡の大火にて東は富小路、西は朱雀大路、南は六条大路、北は大内
  裏までの約
180余町(180万m)焼失。 このとき大極殿を含む八省院全部焼失した。
  H  嘉禄かろく3年(1227)4月 再建途中で焼失。 14回もの焼失・再建を繰返したが、嘉禄3年の焼失を最後に
  宮城宮は廃絶した。

() 土御門東洞院殿
   元徳げんとく3年(元弘元年13311022日 光厳天皇は里内裏土御門東洞院殿つちみかどひがしのどういんどので即位し
 た。 後醍醐天皇は、鎌倉の足利尊氏の幕府を認めず新田義貞に尊氏追討の院宣をくだしたが、逆に破れ、都を脱
 し笠置にのがれた。 当時鎌倉幕府の裁定により、大覚寺統と持明院統が
10年毎に天皇を交代させることになって
 いたが、大覚寺統の第
96代後醍醐天皇は幕府の裁定を認めず、また光厳天皇の即位も認めなかった。 ため、南朝
 と北朝が並列することになつた。 光厳天皇は北朝第1代の天皇で、土御門東洞院殿は北朝の内裏として定
着し現
 在に至っている。 当初は、一町(
109m)四方の小規模施設であった。
  @   戦国時代に入ると、禁裏御領であつた各地の荘園が地元の戦国大名や国人領主に略奪され、収入の滞った皇室で
  は後土御門天皇の葬儀が1ヶ月以上も開けず遺体が放置されるなど深刻
な状態であった。 朝廷の財政は逼迫し
  、権威も落ちかけていたが、これを救ったのは、天下の統一に成功した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を含む
  徳川家であった。

    永禄えいろく11年(1568)戦国大名織田信長は、正親町おおぎまち天皇をお護りするという大義名分により、京都を制
  圧した。 この上洛によって、皇室の危機状況に変化が訪れた。

   織田信長は、土御門内裏を本格的な内裏に大改造をすると同時に朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により
  回復させた。

  A   豊臣へ政権が移った後も、信長の政策を継承し、豊臣秀吉は皇室に所領の一部を献上して七千石の禁裏御料を確
  保した。 また、秀吉は市街区域の整理により御所周辺に公家の屋敷を集めて集住させ公家町を整備し、現在の
  京都御苑の原型が出来た。 身分を低かったため、信長以上に自己の権威付けを必要としたからである。 天正

   13
年(1585)、正親町天皇は関白を秀吉に宣下した。 その後も天皇家と豊臣政権はお互いに利用しあい、結果
  的に天皇家
の権威はたかまった。
  B    慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いで勝利しほぼ天下統一を達成した徳川家康は、改めて1万石を禁裏御料とし
  て」確定させた。

    また元和げんな6年(1620)6月8日、第二代将軍秀忠の娘、和子まさこが後水尾天皇の女御として入内すると、
  秀忠は禁中御料として1万石を献上した。 これで以前の禁中御料と併せ2万
15石となった。 又中和門院(後
  水尾天皇の母)領地として別に2千石が献上された。

   和子入内に伴い、天皇御所と同規模の女御御所建設された。 それにあわせ御所の敷地は現在と現在と同程度
  まで拡大された。

    天明てんめい8年(1788)に天明大火災で焼失した際、幕府は老中松平定信に命じて内裏造営に当たらせた。 寛
  政
かんせい2年(1790)、定信は裏松固禅うらまつこぜんの「大内裏図考証」に従い、承明門、紫宸殿、清涼殿などの一郭を
  平安時代の形式で復元再興しています。 

    安政元年(1854)火災にて焼失。 翌年には寛政時と同規模で再建された。 これが現在の京都御所の建物で
  ある。

3.明治維新から現代
   @ 慶応3年(1867)大政奉還により、徳川家より150万石没収、禁裏御料に編入した。
   A 明治2年(1869)東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移る。 それに伴い公家の殆どが東京に
   移転する。

   B (1877)東京の皇居に移った明治天皇が、京都を訪れた際、東京行幸後10年も経づして施設及び周辺環境の荒
   廃した様子を嘆き「京都御所を保存し旧観を維持すべし」と宮内
省に命じた。
   C 明治22年(1889)旧皇室典範により、即位の礼と大嘗祭は京都で執行すると定められ、大正天皇と昭和天皇も
   京都御所で即位に関わる一連の儀式を行った。

   D 昭和20年(1945)戦時中の建物疎開で建築物半分近くが解体された。
     第二次世界大戦後制定された現在の皇室典範では京都で行うという場所の規定がなくなり、平成2年(1990
   の今上天皇の即位にあたり、即位の礼が史上初めて東京にて執り行われた。



B・現在の御所
 今日の京都御所は、かって里内裏であった東洞院土御門殿の後身で、場所も本来の内裏より東に移動している。 規模においては、本来の内裏より大きく、同じく大内裏より小さい。 大内裏はなぜ無くなったか。
 その理由は第一に、秀吉の時より、禁裏御所の周辺に公家や門跡を集住させ、天皇、公家の統制を意図した。 徳川幕府もこの意図を継承し、江戸時代中期・宝暦ほうれき年間にほぼ今日の規模、即ち東西は寺町通〜烏丸通り、南北は今出川通り〜丸太町通り、面積にして11万mにまで拡大された。
 第二に、本来の大内裏より小さい。 大内裏とは、百官の府で、太政官、大蔵省、民部省、式部省など国家権力の中枢部を形成する官庁の所在地であった。 それがここでは存在しない。 なぜ大内裏が消滅したか。 本来の大内裏が天徳4年(
960)に初めて炎上して以来度々被災し、再建・被災を繰り返しながら市中の仮御所=里内裏の方が主に用いられるようになり、大内裏の中にあった官衙かんがは次々と廃絶し、比較的最後まで残ったのは、太政官庁であった。
 ところがこの太政官庁は、本来の機能ではなく、大極殿に代わり天皇即位の場として使用されていた。 鎌倉から室町時代にかけて天皇の多くは内裏で践祚せんそ(天皇の位を受け継ぐ)し、後日太政官庁で即位の儀を挙げる慣わしとなっていた。 しかし、寛正かんしょう5年(1464)7月後花園天皇の譲位のあと後土御門天皇が内裏で践祚し、翌6年1227日太政官庁において即位式を挙げたのが最後であった。 明応めいおう9年(1500)後土御門天皇が崩御された後、小御所で践祚した後柏原天皇は、費用に事欠き儀式を挙げることができず、21年後の永正えいしょう18年(1521)3月紫宸殿で挙行された。
 第三は公務である。 鎌倉に幕府が誕生すると、朝廷では、諸節会など最小限の年中行事は行うはれたであろうが、執るべき公務がほとんどなかった。
 鎌倉時代、幕府との接渉のため関東甲次かんとうもうしつぎが設けられ、西園寺公経さいおんじきんつね以降西園寺家が任じられたが、幕府から伝えられた朝幕に関する重要事項は、関東申次から、摂政関白・院へ伝えられた。 また、その時代では所領をめぐる訴訟などが絶えづ起きており、これを裁くために正応しょうおう6年(1293)記録所が設けられ、結番制けつばんせいで仕事に当たっていた。
 室町時代は、禁裏小番、仙洞小番と言う定められた公卿たちは、毎日または当番の日だけ出仕した。
 京都御所は、築地塀で囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万mである。 御所では毎年春と秋に一般参観が行われる。 
1.参観者は清所門せいしょもんから入り右に進み参観者休所で、館内案内のビデオ等を見ながら時間まで待機する。
  時間前に職員のガイドが現れ、時間通りに案内を開始する。 初めは御車寄おくるまよせである。 昇殿を許された
 者が正式な参内の時の玄関でり、屋根は檜皮葺ひわだぶきで優雅な反りをなしている。
2.諸大夫しょだいぶの間
  清涼殿と御車寄の中程に、宮中参内した者が控える諸大夫間の三室がある。 「虎の間」は別名「公卿の間」と
 言い、参議以上の公家用の部屋で、虎の絵は岸岱がんたい作、「鶴の間」は別名「殿上人てんじょうびとの間」と言い、
 諸侯、所司代、高家などの部屋で、鶴の絵は狩野永岳さく、「桜の間」はそれ以外の者の控えで、桜の絵は原在照
  らざいしょう
作である。

3.新御車寄
  大正4年(1915)、大正天皇の即位礼に際して、天皇皇后両陛下のための玄関として建てられた建物せ、そのご 、昭和天皇や今上天皇も使用された。
4.建礼門
  新御車寄を通り過ぎると朱色の回廊が目に焼き付く。 月華門からは対面の日華門が見通せる。 更に進んで左
 に曲がると建礼門けんれいもんの正面にでる。 この門は正門であるが天皇陛下と国賓だけが使用できる門で、皇后及
 びその他の者は、東側の建春門けんしゅんもんから入門する。

  左には承明門しょうめいもんが紫宸殿の正面に立ちはだかる。 朱色の太い柱の間から白い砂利が整えられた。 広
 々とした南庭が目に入る。

5.紫宸殿
 紫宸殿は南殿とも呼ばれる。  元来紫宸殿は天皇の生活の場所であったが、大内裏消滅後、大極殿に代わり公的
 な儀式の場所となり、天皇の即位や節会、朝賀の儀等公的な儀式が行われる場所であった。母屋の四方に廂の間を
 設け、高床式寝殿造りの建築様式によって東西
33m、南北23mに及ぶ大建築である。 柱と柱の間には、黒塗りの 蔀戸しとみどを吊り、正面中央には、18階段を設けている。 屋根は檜皮葺で一見すると、入母屋造りのようにも見
 えるが、よくみ
ると段差がついていて、その形が兜の錣しころ(頭巾の左右)に似ていることから「錣葺き」と呼ば
 れる様式を採用している。 内部の床は全面、拭板(表面を滑らかに削った板)敷
ぬぐいいたしきで、天井は化粧屋根裏
 となっている。
  現存する御所の主要部分は、平安調の古い様式で復興されているが、これらの建築物には、極めて清楚で日本的
 な美が際立っている。 白木造りの建物と茶色の檜皮葺の屋根の対比では、見事に自然の色を象徴しているし、素
 朴な風情を醸し出している。 自然を愛する傾向が強い日本人は、人工的な華麗さより、素朴な自然を好みが御所
 を始めとして平安建築は簡素で豪壮な姿を見せる。 華美に装飾された建築は、一見目をみはらせるが、長期間生
 活していると飽
きが来ます。 しかし、簡素だからといって直ちに美しいと言えるものでもない。 一般に、装飾
 を多く施して美しく見せることは簡単だが、装飾を抑えてなおかつ美しく見せることは難の業に思える。 そのた
 めには、建築物各部の調和と構成のバランスが不可欠であるが、京都御所もその構成とバランスの良さが際だって
 いる。 例えば黒柱に蔀戸の赤の格子枠は簡素な美しさを醸しだしている。

  母屋の中央には「高御座たかみぐら」と「御帳台みちょうだい」その後ろに有名な「賢聖障子けんじょのしょうじ」が立
 てられている。 現在の「高御座」と「御帳台」は大正2年(
1913)大正天皇の即位の儀の際に制作されたもので
 ある。 明治天皇、大正天皇及び昭和天皇三代の天皇即位式も行われたが、今上天皇の即位式は、この高御座東京
 に運び東京の皇居で即位式が行われた。

  賢聖障子は、中国の三代(夏・殷いん・周)以降、漢や唐の賢聖名臣32名の姿を描いたもので、一間に4名づつ
 描かれている。
  古代から庭造りと信仰は深くつながっていた。 中でも寝殿の前面造られた神と向かい合う
庭は「斉庭」ゆにわ
 呼ばれ、神聖な広場として重要視され、紫宸殿前に広がる白砂の南庭だんていは、屋根のない屋外儀式場としてもち
 られてきた。

5.春興殿
  建礼門前を東に進むと、大正天皇の即位式の時に建てられた春興殿がみえてくる。 京都に御所において行われ
 る最大の行事は、天皇の即位式である。 明治、大正、昭和の三代の天皇はみな、現在の御所で即位の大礼を執り
 行った。 即位の礼は、万世一系の皇位を継承して、日本国並びに日本国民の統合の象徴になることを皇祖皇宗に
 誓い、一般国民に対して宣告する厳粛な儀式であった。 前段の皇祖皇宗に誓う儀式は「賢所大御前かしこどころおんまえ
 儀」、後段の国民へ宣告する儀式は、「紫宸殿の儀」として厳かに執り行われた。 

  旧皇室典範に「日本国天皇の即位の礼及び大嘗祭hさ京都にて行う」とされていたが、昭和22年(1947)に廃止
 されている。 現在の皇室典範には「皇位の継承があった時は即位の礼を行う」とだけ記されている。 今上天皇
 の即位の儀は、高御座と御帳台を京都から東京に運び、宮殿松の間で執り行われた。 
6.清涼殿
  清涼殿は紫宸殿の西北に位置し、東を正面にとした建物平安中期ころまでは天皇の日常生活のであったが、御常
 御殿ができてからは公務の場として使われるようになり、正月元旦の四方拝などの儀式の場として使用されてきた
 。 
 東を正面としている建物の内部には休息のための「御帳台」が置かれている。 御帳台がある東廂の中央に
 は、天皇の席である「昼御座ひるおまし」がおかれた。 東廂の中央、拭板敷きの上に厚畳二枚を置き、中央部に褥
 とね
(座布団)を置き「昼御座」は東庭を東庭に向いて座り、天皇はここで公務をされていた。 昼御座の北側には
 鳥居障子「若菜摘み」(土佐光清作)の襖絵がある。 昼御座の南側に漆喰で塗り固めた「石灰壇」いしばいだんがあ
 る。

  この場所で天皇が毎日斎戒沐浴さいかいもくよくされ、伊勢神宮などに向かって遥拝ようはいされたのである。 石灰
 壇の南側に丸い蓋が置いてあるが、これは塵などを入れるもので、「塵壺」と言われ、冬季には暖を取る炉として
 使われ「地炉」とも言われていた。 御帳台の北側に天皇の寝室である「夜御殿よんのおとど」がある。 塗籠ぬりごめ
 (周囲を壁で囲んだ部屋)に畳二枚を敷き、その上に畳一枚を重ね「大宋たいそうの御屏風おんびょうぶ」二双で囲まれ
 ている小さな部屋があり、かってはここが天皇の夜お休みになられたところである。 

  清涼殿の前の白砂の広い平庭には、向かって右側に呉竹くれたけ、左側に漢竹かわたけが籠ませに囲まれて植えられ、
 その意匠は、蔀戸と同じで「源氏格子」と称する雅やかなものが使われている。 この東庭には、軒先を北から南
 へ清水を流し、その北端に「滝口」と名付けられた
20p程度の段差を設けた「御溝水みかわみず」が存在する。
 ちなみに滝口は、警護の者の控え所であり、清涼殿の警護に当たる者を、滝口の武士と呼び、高山樗牛の小説「滝
 口入道」の主人公となった。

7.小御所
  紫宸殿の北側に建つ小御所は、平安時代の内裏には存在せず、中世以後に建てられたもので、皇太子の儀式や将
 軍、諸大名の引見の場として使用された。 その姿を初めて現したのは、鎌倉時代の建長度造営の閑院かんいん内裏
 であった。
  南北朝時代になると規模も大きくなり、東小御所と言われ、後光厳ごこうごん天皇の践祚や元服もこの場所で行われ
 た。 その後、室町時代に入り移動・縮小されたが、応永度おうえいど
13941428)御造営によって、現在の場所
 となったとされる。 明治維新の際、王政復古の大号令
が発せられた小御所会議は、186712月9日の夜、この建
 物で行われた。

  母屋は上段、中段、下段の三室に分かれ、四方に廂がつけられている。 三室はすべて畳が敷かれ上段は折上
 小組格天井おりあげこくみごうてんじょう、中段は小組天井、下段は格天井と異なった形式をとっている。 四方の廂の床
 は拭板敷きで、天井は全面、化粧屋根裏。 部屋の境は、筬欄間にしたり、書院造りの影響も見受けられるが、上
 段の床や棚、帳台構、廂に使用された建具には宮廷特有の方法が採用されている。

  皇太子の儀式を初め、種々の行事に利用された小御所は、上段、中段、下段の各室に日本の名所や王朝の風俗な
 ど純大和絵的な画題が描かれている。 安政度造営では、狩野永岳えいがくの上段の間、鶴沢探真たんしんは中段の間
 、勝山琢文かつやまたくぶんの下段の間といった京都在住の狩野派系画家が担当している。 また東廂は原在照はらざいしょう、南
 廂は梅戸在親うめとざいしん、北廂は岡田為恭ためちかなど原派を中心とした京都を代表する諸派の画家が襖
 絵を描いている。

  その後、昭和度造営では菊池契月けいげつ門下の総力をあげて制作されたが残念ながら昭和29年(1954)の火災に
 より建物ごと焼失し、現在は現代の画家によって再現された絵がはめられ
りる。
8.御学問所
  小御所の北側にある書院風の建物が御学問所である。 蔀戸に代わって舞良戸まらいどが取り付けられている。 
 親王の宣下や謁見、月例の和歌の会、御講始めなどが行われた。 

  鎌倉時代末期、後宇多天皇が内裏の万里小路殿までのこうじでんに設けたのが最初とされて天皇や皇太子、親王
 などの学問の場とされた。 その後、使用目的に、いろいろと変化があり、置や平面も変動したが、宝永ほうえい
 (
170411)御造営によって形式が固定されている。
  簀子縁すのこえんや階段など、一部に寝殿造りの形式を残しているが、全体的には書院造りの様式で統一されている
 。 内部は、六室から構成され、東側には上段、中段、下段の三室、西側には、菊の間、山吹の間、雁の間の三室
 を有する。 菊の間の東面に床と千鳥棚とよばれる棚があり、三種の神器のうち二つである剣璽けんじ(草薙剣くさなぎのつ
  るぎ
と八坂瓊曲玉やさかにのまがたま
を臨時に置いておく剣璽棚として用いられることもあった。
  御学問所の障壁画は、上段の間は狩野永岳が「十八学士登瀛洲図」じゅうはちがくしとえいしゅうずを、中段の間は岸岱がんたい
 「蘭亭らんてい図」を、下段の間は原在照が「岳陽楼図」がくようろうずを描くなど、公的な空間であった東側の三室が中国
 的な題材を取り上げた漢画であった。

  また菊の間は岡本亮彦すけひこが「菊図」を、山吹の間は円山応立まるやまおうりつが「山吹図」を、雁の間は岸連山れんざん
 「芦に雁図」を描き、私的な空間であった西側の三室は写生風の絵画で諸大丈間と同じくその部屋の名前は襖絵に由
 来していた。

  狩野永岳が描いた「十八学士登瀛洲図」は、唐の太宗が弘文館こうぶんかん学士となった18名の賢者を顕彰するために描か
 さえたことに倣ったものとされる。 

9.御常御殿
 御学問所を通り、御池庭おいけにわの北にある長押門なげしもんを潜ると、御内庭ごないていに入る。 すぐ左にある書院造りの大
 きな建物が御常御殿おつねごてんである。 右には御内庭の築山つきやまがあり、静かに遣水やりみが流れ、四季折々の木立に
 は赤・黄・緑など様々な色に変化、水面に映える。 その前には天皇が日常を過ごされた御常御殿が御内庭いと一体
 となる演出を見せている。

  近世以降、清涼殿に代わって天皇の日常生活の空間となった御常御殿は、部屋が三列に並んでおり、南側の公的
 な儀式に使われる三室は、上・中・下段にわかれている。

  上段の間には、狩野永岳が「尭仁賢図治図」ぎょうにんとじずを、中段の間には鶴沢探真が「大禹戒酒防微図」たいうかいしゅ
  ぼうびず
を、そして下段の間には座田重就が「高宗夢賜良弼図」
こうそうむしりょうひつずをえがいている。 「尭仁賢図治図」は
 帝鑑図で。尭という古代中国の帝が、四人の賢
人を任用して国の東西南北を納めさせたという故事に基づいている
 。 「大禹戒酒防微図」は禹という帝が国を乱すとして酒を禁止したという故事。 「高宗夢賜良弼図」は、唐代
 の皇帝・高宗が夢に見た良臣を探し出して登用するという故事からきている。

  上段の間の帳台には、王者の象徴として武家の御殿にも好んで使われた「桐竹鳳凰」が描かれていた。 鳳凰の
 描かれた帳台の奥は、三種の神器の中の草薙剣くさなぎのつるぎと八坂瓊曲玉やさ
かにのまがたまを納める「剣璽の間」に
 なっており、土佐光清が「四季花鳥図」をえがいている。

  御常御殿の中列や北側の列の部屋は、天皇や女官たちの生活の場であり、障壁画の題材も一転して温和で柔らか
 くなっている。 天皇の日常の御座所であった一の間には、狩野永岳が、「山桃復野桃日紅錦之幅、門柳復岸柳風
 宛麹塵之系」という漢詩の意味を表現した襖絵を描いており、御寝ぎょしんの間には土佐光文が「竹に虎図」を描写
 している。

 その他の御常御殿の襖絵は以下のとおりである。
   二の間「花鳥図」岸岱作。 三の間「和歌を表した絵」円山応立作。
 御清の間「住吉図」「雲雀図」「鶉図」吉田元鎮作。 次の間「宇治川図」長沢蘆鳳作。
 申口の間「谷川熊図」。 申口三十帖の間「常盤木に猿図」中嶋華陽作。
 御小座敷上の間「和歌を表した絵」中嶋華陽作。 御小座敷下の間「耕作図」塩川文麟作
 落長押の間、墨絵「山水図」国井応文作。

 杉戸絵??「安摩に舞図」と「陵王納曾利図」りょうおうなそりず原在照作・。

     「曲水図」と「蹴鞠図」岡本亮彦作。 「田辺の雁図」と「池上の鶴図」中嶋来章作。
     「武陵桃源図」と「王質囲碁図」山田龍淵作
     「葡萄に栗鼠図」と「秋葵に猫図」梅戸在親作
     「柳に鷺図」と「「檜に蝉図」大口義郷作、
        「松に鷹図」と「牡丹に白鴎図」磯野華堂作
     「陶淵明帰去来図」と「赤壁図」森寛斉作
  これらは、安政度御造営の際に描かれたものだが、狩野派や土佐派、円山・四条派、岸派、原派、森派など京都
 画壇の諸派が筆を振るっている。 特に格式を重んじる空間は狩野派や土佐派が担当している。

10. 御池庭
  小御所や御学問所の前に、白砂を手前にして北から遣水やりみずを通しながら、奥に池が広がるという、典型的な寝
 殿造り様式を踏襲した御池庭おいけにわがある。

  白砂に続いている洲浜には栗石が敷き詰められていて、平安調の好みを偲ばせるが、一方で、どこか江戸時代の
 大名庭園の印象も抱いてしまう。 それは、洲浜に置かれた飛び石の豪快な配石や欅橋のデザイン、灯篭によるも
 のとされる。

  かっては東山や比叡山の山並みを取り込み、雄大な風景を満喫することができた。 たとえば、大文字山の送り
 火が見えたそうであるが、現在では樹木の陰で望めない。

  また、小御所と御学問所の間にある空間は蹴鞠の庭と呼ばれ、現在でも国賓などがある際には、古式豊かに蹴鞠
 が披露されている。

11. 御内庭
  天皇が日常生活を営まれた御常御殿から迎春こうしゅん、御涼所おすずみしょ、聴雪ちょうせつなどをつなげていた渡り廊下と
 平行して水の流れも連なっており、御内庭ごないていとしてそれぞれ異なる風景を保っていた。 
  御常御殿は全体的に書院造りの様式を取り入れており、基になる様式は平安朝の古制に求めている。 例えば、半
 蔀のある南面の階の南側に梅が対で植え込まれていたり、遣水が東面を静かに曲折して流れていたり、随所に平安朝
 の様式が見て取れる。

  水の流れに沿って、下流から土橋、中島へは豪快な自然石の石橋、上流には八つ橋が架けられていた。 土橋の
 先は築山上の茶席の「錦台」きんだいへとつながり、また八つ橋の先は泉殿の「地震殿」じしんでんへとつながっていた。
  地震殿はその名の通り、地震の際の避難所であった。 また、中島から連なる苑路はキリシマツツジが多く植えら
 れた植栽のみの散策路で、春にはこの一帯が真紅に染まり、見事な彩を添えている。
  迎春付近で、御内庭を貫いている流れは二つに分かれて、一方はそのまま東に向かって林の中を流れていく。 
 もう一つの流れは西に分かれて、御涼所の手前で「竜泉」りゅうせんと呼ばれている。 
  方形に近い池の中央には中島があり、三方向から石橋がかけられ、それぞれ聴雪の庭や泉殿や迎春の前栽へとつ
 ながっている。 竜泉と言われるだけに池水は清らかであり、また護岸の石組みも選び抜かれた材料によって格調
 の高さを誇っている。 

  池のほとりには、手水鉢のような青銅の置物があり、これに水を満たし蛇口をひねると水が流れてくる仕組みに
 なっている。 また、水際には玉石が敷き詰められるなど、水をうまく使った涼やかな意匠が感じ取る事のできる
 空間である。 

  明治天皇はたいそうこの御涼所を好まれ、東京遷都後も、「東山のぼる月みしふるさとの涼みの殿こそこいしか
 りけり」と詠まれ、お偲びになられたといわれる。

  流れは御涼所から聴雪へ連なる吹き抜けの渡り廊下の下を曲がりくねって、聴雪の東南の床下を通り、庭の東側
 を大きく曲がりくねって、泉殿の流れへ通じている。
  この流れの周辺には、飛石が配置され、美しい植栽と苔
 で埋められ、一種の露地風となっている。 そして、聴雪の北の奥には「蝸牛かたつむりの庭」と呼ばれる枯山水があ
 る。 白砂を敷
いた池の中央に苔むした島があり、その上に立っている石は須弥山しゅみせんを現している。
12. 御三間
  御常御殿の南西に御三間おみまがある。 明治天皇が祐宮さちのみやの幼少時に「御手習い始め」「御読書始め」をされ
 た場所と言われている。 部屋は上・中・下段の間の三つの部屋があり、涅槃会ねはんえ、茅輪ちのわ、七夕、蘭盆会うらぼ
  んえ
、などの年中行事の他、西縁座敷に座敷を設け、能などにも利用されていた。 

  上段の間には、天皇が大極殿で群臣から新年の祝賀を受ける「大極殿朝賀の図」が大和絵の住吉弘貫によって描
 かれている。 中段の間には、現在の葵祭に当たる上賀茂。下鴨神社の祭
りの行列を表した「賀茂祭群参の図」が、円山派の駒井孝礼こまいこうれいによって描かれた。 下段の間には、五月の騎射に先立ち、天皇が左右馬寮めりょう、諸国
 の馬をご覧になる様式の様子を表した「駒引こまびきの図」が岸派の岸誠がんせいによって描かれた。 

  これらの三図は、みな年中行事を絵画化しているのが大きな特色で、いずれも美しい彩色を用いて、晴れやかな
 雰囲気を醸し出している。

  以上で参観コースは終了するが、面積では、半分強であり、半分弱が非公開となっている。
13. 迎春・御涼所・聴雪・御花御殿「非公開」
  御常御殿の北にある竜泉の門を潜ると迎春こうしゅん・御涼所おすずみしょ・聴雪ちょうせつの建物が連なる。 その建物の前
 (東側)には竜泉の庭が広がる。 迎春は安政度の御造営の際に孝明天皇の希望を入れ、御書見の間として建て増
 しされた二間の質素な建物である。 その部屋には名の」通り「迎春」という額が掲げられている。 この部屋
 の北側に連なって御涼所と聴雪が、自然と調和する穏やかな
御涼所は迎春の北にある建物で、寛政度の御造営によ
 って建てられた・。 京都の厳しい暑避けるために風通しの良い工夫がされた寝殿風の建物である。

  火灯窓から見る竜泉の庭の景観は絵を見るようであり、庭に流れる遣水と木立からの涼風を迎え入れる空間が、
 部屋を明るく見せている。

  聴雪には、御涼所から北に向かって吹き抜け廊下を通る。 聴雪は安政3年に、孝明天皇の好みで増築された数
 寄屋建築である。 お茶室として遣水がすぐそばまで流を作っている。 近
くには枯山水の庭「蝸牛かたつむりの庭」が
 ある。 聴雪の中の間、床脇の違棚の地袋には、四条派の祖・呉春ごしゅんによって、「鸚鵡図」おうむずと「果物籠図」
 が描かれている。

  御花御殿は聴雪の西側にある。 檜皮葺書院造りで四部屋ある。 明治天皇がまだ御幼少(祐宮)時に「四君子
 の間」にある、襖絵の竹の葉や幹に筆でなぞった跡や、墨を飛ばしたり「落書き」が残っており、別名「落書きの
 間」と呼ぶ人もいる。

14.
 皇后御常御殿、飛香舎、若宮御殿、姫宮御殿「非公開」
  皇后御常御殿は天皇の御常御殿に相当する皇后のための御殿である。 聴雪の北西に白壁の長押塀に囲まれ、檜
 皮葺書院造り様式の建物が皇后の御常御殿である。 各部屋は襖で仕切られ、上段の間にも極彩色の襖絵がある。
  御化粧の間には「新樹」(塩川文麟)、くすろぐための御小座敷・上の間の障壁に「三保富士図」(狩野永岳) 、床の袋棚、小襖は、「紅図」「水に鮎図」(円山応挙)が見られる。  御寝の間の小襖には「近江八景図」
 「曲水の宴」「駒迎図」(岸岱)、御仏間などにも襖絵が描かれている。
  皇后御常御殿は天皇の御常御殿に当たる建物で、北西に若宮御殿と姫宮御殿がある。 その北には、皇后御常御
 殿の正殿として飛香舎がある。

  若宮御殿の上段の間には「蹕輦受言図」(勝山琢眼)、杉戸絵「梅に鷹」(勝山仲衡)の襖絵が描かれている。
  姫宮御殿の上段の間(西側)に「列女伝」「列女伝周室三母図」(狩野蔵之進)、二の間に「竹に雀」(山田龍
 淵)の襖絵や武田熙信が描いた杉戸絵が残されている。 

  飛香舎は平安内裏の建築様式をに越している。 寛政度の御造営の時に再興された檜皮葺入母屋屋根の寝殿造り
 、建物の南の坪庭に藤が植えられているために、飛香舎は別名「藤壷」と言われている。 

参考文献
*平安京1200年;(財)平安建都1200年記念協会発行
*平安京から京都;(株)小学館、編者上田正明
*平安京ーその歴史と構造ー;吉川弘文館、著者北村優季
*平安京年代記;京都新聞社

*平安京への道しるべ;吉川弘文館、著者、土田直鎮
*平安京と京都;(株)三一書房、村井康彦
*平安物語;(株)小学館、村井康彦
*京都御所入門;東京書籍(株)著者、渡辺誠

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