京都と寿司・ 朱雀錦
(36)「宮内庁・仙洞御所」
  
                       大宮御所・御車寄

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A 仙洞御所の歴史

1.持統上皇
 仙洞御所せんとうごしょとは、皇位を退かれた天皇(上皇、院)の御所で、また後院ごいんとも称した。
 後院は、平安時代の初期、嵯峨天皇の時に始まるが、最初の上皇は持統天皇であった。 持統天皇は、天智天皇の娘・鸕野讃良うののさららで、13歳の時に叔父の大海人おおあま皇子(後の天武天皇)に嫁した。
 日本古代最大の内乱である壬申の乱じんしんのらんで天智天皇の太子・大友おおとも皇子を破った天智天皇の弟・大海人皇子(天武てんむ天皇)が天皇を継承した。
 天武天皇13年(685)頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后と草壁皇子が共同で政務を執るようになった。 しかし、天武天皇の死(68610月1日)の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。 
 大津皇子は草壁皇子より1歳年下であるが、天武天皇には愛されていた。 才学あり、詩賦の興りは大津より始まると「日本書紀」に記されるが、草壁皇子にたいしては何の賛辞も記されていないという。 二人の母の地位は高く、姉妹であって、大津皇子は早く母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。 草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
 しかし、具体的にどのような計画があったのかは史書に記されていない、皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。 そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、なにか不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座に潰したのではないかとの説もある。
 ところが、持統3年(689)4月、草壁皇子が病死したため、皇位継承計画は根本的に狂ってしまった。 草壁皇子の軽皇子(後の文武天皇)は当時7歳で、あまりにも幼く、立太子に立てることができず、やむなく皇后(鸕野讃良)自ら即位することにした。
 持統天皇は、持統11年(文武元年:697)8月1日に、15歳の軽皇子(文武もんむ天皇)に譲位した。 日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極こうぎょく天皇に次ぐ二番目であった。
 舒明じょめい天皇の死後、継嗣となる皇子が定まらず、舒明天皇の皇后寶王女たからのひめみこが天皇を継承したこれが皇極天皇である。 在位中は、蘇我蝦夷えみしが大臣として重んじたが、その子入鹿いるかは自ら国政を執った。 しかし、皇極天皇4年(645)6月12日、蘇我稲目いなめ、馬子うまこ、蝦夷えみし、入鹿いるかと四代にわたり、政権を掌握していた蘇我氏の専横に憤慨した中臣鎌足なかとみのかまたり(後の藤原鎌足)は、天皇家へ権力を取り戻すべく、舒明天皇の皇子でかつ皇極天皇の子供である中大兄皇子なかのおうえのおうじが(後の天智天皇)と計り、蹴鞠の会で暗殺した。 翌日には蘇我蝦夷が自ら邸宅に火を放ち自殺し、蘇我体制は終止符をうった。 
 皇極天皇は、退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが拒否されたため、敏達びたつ天皇の孫で、皇極天皇の同母弟である軽かる皇子(孝徳こうとく天皇)に譲位した。 しかし、実権は中大兄皇子が握っていた。
 これに対し、持統天皇は、譲位した後も、天武天皇と並び座して政務を執り、太上天皇(上皇)の尊号が贈られた。 太上天皇だじょうてんのうは、皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号で、皇極天皇が弟。孝徳天皇に譲位した例はあるが、この時には、太上天皇の尊号は贈られていなく、持統天皇が最初の太上天皇になった。 以後、奈良・平安時代をとうしてほぼ慣例化する。 そこで早晩問題となってくるのが上皇の居場所である。 事実、聖武上皇は薬師寺、孝謙上皇は法華時を居所としたが、特に孝謙上皇と淳仁天皇との政治的対立はきわめて深刻であった。

2.嵯峨天皇と薬子の変
 桓武天皇の長男安殿親王あてのみこは(後の平城天皇)は、延暦4年(7851125日、叔父早良さわら親王が、藤原種継暗殺の関連で失脚し、早良親王に代わり立太子された。 だが、病弱であった上に父桓武天皇との関係も微妙であった。 藤原薬子の長女を安殿親王の妃として迎えた。 しかし、長女はまだ幼い年齢だったので後見役として母親である薬子も一緒に内定した。  ところが、安殿親王は、妃である長女をそっちのけにして母親の薬子と愛し合うようになってしまった。 この話を聞いた父桓武天皇は激怒し、藤原薬子を宮廷から追放を命じた。 
 延暦25年(806)3月17日に父帝が崩御し、同日践祚せんそ(天皇の位を受け継ぐこと)、大同元年(806)5月18日平城天皇は即位した。これ以降正式に、即位に先立って践祚を行ってその後に即位式を行い、践祚と即位の区別がなされるようになった(但し、正式ではないが、文武天皇や桓武天皇の先例もある)。 平城天皇は弟の神野かみの親王(嵯峨天皇)を皇太子とした。 これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったとおもわれる。 だが、翌年には早くも天皇の異母弟伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死においこなれている。 
大同4年(809)4月1日、平成天皇は発病し、病を早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は禍を避けるために譲位を決意し、在位僅か3年で神野かみの親王(嵯峨天皇)に譲位して太上天皇になった。 退位した上皇は、平安京には適当な居所なく、平安遷都ご空き家になっていた旧平城宮を居所にした。 
 薬子の変は、藤原薬子等が中心となって乱を起こしたものと考えられていた。 しかしながら、律令制度下の太上天皇と天皇との職制が重複していることによって発生した事件と評価されるようになった。
 平城天皇は、政権を担当ししばらく経つと藤原薬子を呼び戻し尚侍ないしのかみ(天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の言上を天皇に伝える女性の役職)に任命し再び寵愛した。 一方、即位した嵯峨天皇は、平城天皇の息子・高岳たかおか親王を皇太子とし、新たに蔵人頭くろうどのとうという役職を設置します。 これは内侍の役職と同じ天皇の言葉を臣下に、臣下の言上を天皇に伝える男性の役職で、嵯峨天皇が藤原薬子を遠ざける作戦と見られた。 これらのことは平城上皇を刺激した。 
 ところが療養した甲斐あって平城上皇は健康状態を取り戻し、再び政治の表舞台に立とうと考えはじめ、平城上皇の周囲には平安遷都によって権力失った平城京の旧勢力が続々と集まりだした。 こうなってくると最初は黙殺していた嵯峨天皇も、さすがに、兄・平城上皇の動きに神経を尖らせざるを得ない状態になってきた。 

 一触即発の状態となる中、大同5年(810)9月6日、ついに平城上皇は「都を平城京に戻す」との詔みことのり(天皇の命令)をだします。 嵯峨天皇は、平城上皇の宮殿の造営責任者という名目で征夷大将軍坂上田村麻呂さかのうえたむらまろと藤原北家の藤原冬嗣を平城京へ派遣し、極秘任務として平城上皇の監視役を命じていたが、これを知ると、平城上皇が戦の準備を進める前に平城京の周囲の関所を速やかに封鎖、平城上皇が地方から兵隊を集められないようにしておき、そして準備が整った9月10日、嵯峨天皇は藤原仲成(薬子の兄)を捕え処刑した。 これは平安字だしの政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以後1156年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も死刑は無い。
 嵯峨天皇のあまりに素早い対応に驚いた平城上皇は、藤原薬子と共に手近な兵を集めて一旦東国に出て再起を図ろうとしたが、嵯峨天皇はそうはさせじと9月11日に坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、平城軍の進路を阻止した。 かわないとみた平城天皇は平城京にもどり、9月12日に藤原薬子は自殺し、平城上皇は剃髪しいて仏門にはいり、内乱は終結した。
 この乱の最大の教訓が、上皇の処遇であった。 第一は、天皇を後見するものとしての太上天皇(上皇)の権限が強化され、それをいかにコントロールするかであり、第二は上皇の譲位後のも宮内のしかるべき建物にすんだが、早晩独自の居所が用意される必要があったことである。 
 ところが嵯峨天皇の時、譲位後、平城旧宮に遷御した平城上皇が、平安京の官人達に平城遷都を呼びかけるという、いわゆる「薬子の変」がおこり、その教訓から設けたのが、嵯峨天皇による二つの後院「朱雀院」と「冷泉院」であった。 天皇権と上皇権の関係の整備は、たしかに奈良時代から平安初期にかけての時期の重要問題であり、後院の設定はその一つの解決策であったとみなされている(境浪貞子)。
 さてこのようにして用意された朱雀院と冷泉院はともに京中(大内裏の外)にあった。
 朱雀院は、朱雀大路西、三条南・四条北に位置し、右京四条東の8町を占めた。 これは大内裏に次ぐ規模で、建物は寝殿つくりで、内裏にじゅんじて仁寿殿、宣陽殿などもあったことがしられる。 承和じょうわ年間(83448)に成立したとみられるが、天暦てんりゃく4年(850)火災に遭い、そのご村上天皇により再興。 しかし、円融天皇(969984)以降は後院として使われる異なる次第に荒廃、その役割を里内裏に譲った。
 後者の冷泉院は、大内裏の東に隣接し、左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を占めた(現在の二条城の北東部分に該当)。 多くの殿舎を備えた寝殿造であったという。
 弘仁こうにん年間(81024)頃に離宮として成立、嵯峨天皇は譲位後ここを後院として、承和元年(834)まで居住した。 嵯峨上皇没後はその皇后橘嘉智子の御所となる。 子の仁明天皇は、内裏修復の間はここを御所とした。 次の文徳天皇も居住。 その後は陽成上皇が後院として活用した。 後に村上天皇も仮御所とした他、冷泉上皇が後院とあい、後冷泉院の里内裏にもなった。 
 なお始めの名称は「冷然院」であったが、火災による焼失と再建を繰り返したことから「然」の字が「燃」に通じ不吉であるとされて天暦8年(954)の再建の際に「冷泉院」に改称した。
天喜てんき3年(1055)に殿舎を壊して一条院へ移築、以後の消息は不明である。

3.近世の仙洞御所
 日本の歴史上、天皇親政は平安時代中期の貴族政権の成立以後、まったく行われておらず、また中世以降は、単なる形骸を留めるにすぎなかった。 信長、秀吉時代の天皇や公家衆は、軍事上はおろか政治的にも経済的にもほとんど何等の支配力をもたなかった。 しかし、それにも拘わらず、権力者にとってもなお十分な政治上の利用価値があり、それは伝統的権威であった。
 戦国時代に在位した三代の天皇、即ち、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである。
 第106代正親町おおぎまち天皇は,弘治こうじ3年(1557)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚したが、当時の天皇や公家達はすでに生活に窮するほど貧窮しており、戦国大名毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼をあげられなかった。 正親町天皇は、元就に褒美として従五位下、右馬頭うまのかみという位階を授け、皇室の紋章でさる菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。 朝廷の財政は逼迫し、権威も地におちていた。 永禄11年(1568)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。 この上洛によって、皇室の危機は脱した。 信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復さたその一方で、天皇の権威を利用した。 
 豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ盾とした。 結果的に天皇家の権威はたかまった。
 天正てんしょう14年(1586)孫の和仁かずひと親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。 しかし、その場所がどこか定かでない。 正親町の送り名は、生前ゆかりの地名が冠せられることがあることから、平城京の正親町(上京税務署近く)にゆかりの地即ち仙洞御所があった可能性がある(藤岡道夫)。
 徳川家康は 関ヶ原の戦に勝利すると、関ヶ原の役の戦後処理を通して豊臣政権下の領国体制を大きく組み換え徳川氏を中心とする新領国体制を制定した。 慶長8年(1603)室町幕府の継承者として後陽成天皇から征夷大将軍に任じられた家康は二年後の慶長10年、三男秀忠に将軍職を譲って、徳川氏による将軍世襲の体制を強化した。
 家康は関ヶ原に勝利すると直ちに京都を掌握し、奥平信昌を京都所司代に任じた。 職掌は朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制、裁判、五機内、丹波、近江、播磨八ケ国の公事、京都・奈良。伏見奉行の統括などで、大阪城代と並び江戸幕府の西国支配の中枢的役割を果たす重要な職制であって、これは信長、秀吉の政策を延長させたものであった。
 家康は自らを頂点とする武家官位制の中に、諸大名を編成することによって将軍制を強化した。 家康は、武家の官位は幕府の推挙によって叙任すべきことを後陽成天皇に奏請し、許可を受けた。 それには二つの重要な意味がある。 一つは、征夷大将軍は、天皇から任命されながらそれ以下の武家の官位は、幕府の推挙によって、天皇が追認することになる。 このことは、武家官位の事実上の任命権が天皇から幕府に移ったことを意味している。 二つは、そのことによって、公家官位の志向による天皇と大名との結びつきが切断されると共に、大名は、家康を頂点とする幕藩制的国家秩序の中に編成されながら将軍との従属関係を強化したこと。 
 家康は、根本的な対朝廷制作として、宮廷に残存する一切の豊臣色を排除せんとした。 それには結局のところ秀吉と近かった後陽成天皇の退位が必要であった。 後陽成天皇の退位を促進し、次期天皇の選択に手を染めた。 後陽成天皇の第一皇子良仁かたひと親王は、秀吉の推薦により皇太子なることが確定的であったが、家康は断じて承服できなかった。 第二皇子は、生来病弱で天皇には不適であった。 後陽成天皇自身自ら希望したのは、天皇の実弟八条宮智仁としひと親王であった。 しかし、智仁親王は、一時秀吉の養子になった前歴があり、家康は無論のこと反対した。 そこで、おのずと浮上したのが第三皇子政仁ことひと親王である。 第三皇子の生母は後宮第一の女御藤原前子さきこでその父は関白太政大臣近衛前久さきひさ(後藤原の長者となる)で、皇子の背景が甚だ強力である。 家康は政仁親王こそ意中の人であると決意した。 しかし、そのころより天皇のご様子がおかしくなり、天皇からの返事がもらえなくなった。 医師の「御病歴」によると「人と合うのを好まず、独居して精神が沈みがち」で鬱病の傾向があったと思われる。

 幕府は天皇の回答が得られないまま、後陽成天皇お譲位後の仙洞御所の準備を開始した。 義演准君(真言宗僧侶)日記慶長10年7月7日の項に「内裏御屋敷北方へひろがり並び院御所を被建御即位の御仕度云々」とある。 10年9月頃からこの地域に含まれる八条宮を始めとし一条、鷹司、九条の他、山科言経、船橋秀賢、冷泉為満など10指にあまる諸公家を移動、禁裏を拡張し、後陽成天皇のための仙洞御所を禁裏に北接する地域に新造した。
 朝廷では、幕府が介入して退位の準備と思える仙洞御所の工事が無遠慮に進行しているのに焦慮し、慶長15年3月、勅使を駿府にいる家康に派遣し、朝廷の意向も確かめずに、仙洞御所の完成が近づいている不条理を詰問した。 家康は、朝廷の出方を待っていたかのように、逆に、政府の公文書をもって強固な態度をしめした。 
 一、譲位の御決意あるべきこと
 一、新帝即位準備のため急いで政仁親王の元服をなされること
 朝廷側では、家康の公文書に返事をしたければならないが、帝の精神状態(回答がなくよきにはからえの言葉のみ)が普通でないため帝の意向が確認できず甚だ困惑した。 紆余曲折があったが慶長151130日近衛信尹のぶただは会議を代表して家康に手紙を送った。 かくしてようやく慶長15年(16101223日、政仁親王の元服が小御所でおこなわれた。 続いて立太子の儀が翌年2月11日に行われることになり、儀式の準備万端整っていたのに、当日になって、突然後陽成天皇から差止めの使者が来たため、ついに皇太子となる機会を逃したのである。 後陽成天皇が政仁親王の立太子を停止することによって、間接的に家康への復讐を計られたのである。 しかし、家康には何ら打撃を受けなかった。 却って政仁新王が父帝による筋違いの痛烈な憎しみの矢面に立つ結果となった。 
 家康の政治の根本は、幕府基盤の確立であった。 その方針の一環として、豊臣氏に傾いた朝廷を是正し、さらに一歩進めて、徳川氏と宮廷の円滑を計ることであった。 そして、家康によって帝位をえた後水尾天皇に、家康にとって孫であるところの二代将軍秀忠の娘和子まさこの入内を策した。 入内の件は、後水尾天皇即位ご、すでに朝幕間に話合いが進められこれについての幕府の責任者は藤堂高虎だった。 ところで幕府は、他面、大阪城に籠っている秀吉の遺児の始末をしなくてはならなくなり、一時見合わせた。
 将軍秀忠及び大御所家康は大阪の役が終わり、慶長20年5月から8月までの長期間滞在の後二条城を出発し、将軍は江戸、家康は駿府へと帰城した。 しかし、帰着して間もなく家康は病になり、大御所病むの飛報忽ち四方に達し、秀忠は勿論江戸から急行した。 家康は一時小康を得てるうちに諸種の懸案が決定し、その1つは、一時中断されていた娘和子の入内の話が再燃し、藤堂高虎がこの件の一切を任されることになった。 元和げんな2年(1616)4月17日家康は薨去した。 
 和子の入内が決定的になったのは、元和4年(1618)4月8日後水尾天皇の実弟近衛信尋のぶひろが江戸へ下向したのを契機としている。 正に表面では事態は円滑にいるかのようであった。 実はそうではなかった。 後水尾天皇は元和4年に23歳である。 宮廷の常識としてこの年齢で後宮の存在は当然である。 権大納言四辻公遠きんとうの娘典侍与津子がそれであった。 しかも入内の交渉が進行中、1618年皇子賀茂宮を生、さらに1619年6月、皇女沢宮、後の文智王女を生んだ。 幕府としても天子に後宮が今後将来存在するであろうことは、習慣上承知していたに違いない。 しかし、和子入内の相談が行われている最中、梅宮の誕生に秀忠が激怒し、幕府は入内の延期を申しいれした。 天皇の苦衷を近衛信尋に訴えた宸翰が2通存在する。
 それには。 「このたび、藤堂高虎がいろいろ親切にしてくれた事は感謝し難いほどである。 そして、入内がまたまず当年は延期されたことも大体承知している。 おそらく自分の〘行跡〙が秀忠公に合わぬ故と推量している。 このような次第で入内が遅延することは朝廷も幕府も面目が立たないであろう。 よって自分には弟も多くいることであるから誰でも即位させられ自分は落髪出家でもして逼塞してしまえば事は済むと思われる。 入内が本年中延期されるのが確かであるならば、ここに述べたように譲位する意思があり、また実行できるよう、藤堂高虎に世話をしてほしい。 これがかのうならばのちのちまで親切を忘れないであろうこと申しつたえられたい。 元和5年9月5日
 入内問題をめぐり、朝幕間で膠着状態に陥った。 この時朝幕間のパイプ役で奔走していた藤堂高虎が後水尾天皇からその家臣と愛人与津子の排除を画策し、公家武家伝送の広橋兼勝を通して、家臣の公家6人が処分された。 天皇の側近万里小路充房、四辻李継、高倉嗣良、は流罪、中御門宣衡、堀川康胤、土御門久脩は出仕停止の処分を受け天皇が愛する与津子に合うことは厳しく禁じられた。 25歳の若き後水尾天皇は、恋人を遠ざけられたうえ、信頼する家臣を処分されさぞ激怒しただろう。 そんな天皇の気持ちとは関わり無く、藤堂高虎は天皇の実弟近衛信尋を口説き、天皇の怒りに坑しながら、和子の入内を成功させたのである。
 33歳の後水尾天皇は、18年間の天皇生活を回想する。 思えば私の人生は屈辱の連続であった。 幕府はまず法度によって我々公家を政治から遠ざけ、文芸にさせようとした。 これはまだ良い、面倒な政治など幕府に任せておいて、書歌に没頭するのも悪くはない。 しかし、私の最愛の女を差し置いて、徳川の正室として押し付けてきたのも腹が立つ。 更にひどい仕打ちは、私の紫衣の許可にケチをつけ、親愛なる沢庵、玉室、江月などの名僧を流刑にした。 そして「早く隠居しろ」とでも言っているように31歳の隠居所をつくり、ついに婢女はしため(春日局)のような者を謁見させる始末。 これほど屈辱を感じたことはない、もはやこれまで無念であった。
 ・芦原よしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思わず。
 後水尾天皇は幕府への痛撃を込めた一首を残して11月8日、突然譲位した。
 寛永7年(1630)9月12日興子おきこ内親王が即位されたが、時に8歳の幼女だった。 後の明正めいしょう天皇である。 幕府として、女帝なのは残念だったが、とにかく明正天皇は和子中宮の所生であり、まがらなりにも将軍家は朝廷の外戚となりえたのだった。 後水尾天皇は上皇として生活を始められ、中宮和子は、この後東福門院と称した。

               B現在の仙洞御所
 京都御苑内の東側、京都御所の東南に、築地塀に囲まれた仙洞御所がある、築地内はさらに二つのブロックに分かれ、「仙洞御所」と北西隅に位置する「大宮御所」からなっている。
 仙洞御所とは、皇位を退かれた天皇(上皇、法皇)の御所である。 仙洞とは本来仙人の住処をいい「せんどう」ともよまれる。 そこから転じて退位した天王(上皇、法皇)の御所をいった。 仙洞御所は、後院とも院御所とも言い、常に設けられたものでもなく、また一定の場所に定まったわけでもない。 
 現在の地に仙洞御所が最初に造られたのはご水尾上皇の譲位を予測した徳川幕府が、寛永4年(1627)に小堀遠州を作業奉行に任じて造営を始めたことによる。 しかし寛永6年の突然の辞意には間に合わず、上皇は一時内裏の北側にある女院御所に移り、翌7年に完成した新しい仙洞御所に入った。 これと同時に中宮東福門院(和子)の住まいも仙洞御所の北西に、新しい女院御所として整えられた。 庭園はこれより遅れ、寛永13年(1636)に完成した。
 後水尾上皇の仙洞御所は、上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建された。 その後、霊元れいげん、中御門なかみかど、桜町さくらまち、後桜町、光格こうかくの五代の上皇の仙洞御所として使用されたが、その間も宝永ほうえい5年(1708)、天明てんめい8年(1788)に」、焼失、再建を繰り返す。 幕末の嘉永かえい7年(1854)の大火で京都御所とともに焼失いたのを最後に、ちょうどその時上皇も女院も織られなかったこともあり、安政の内裏造営に際しては周囲の築地塀が再建されたにとどまり、敷地内の諸建築は造営されなかった。 上皇がおらず、空位だったからである。
 現在では建物としては建物としては大宮御所の東側の塀を潜って仙洞御所の庭に入った処の右側に立つ茶室「又新亭」ゆうしんていと、南池の南側にたっている茶屋「醒花亭」せいかていを残すのみである。
 当世きっての文化人であった後水尾上皇は、ことに詩歌、立花、茶道、学問、仏教に心を深く寄せられたが、34歳で譲位し84歳で一生をまっとうするまで、この仙洞御所において最後の貴族文化「寛永の宮廷文化」を華やかに繰り広げた。 二代池坊専永、豪商で茶人の灰屋紹益はいやしょうえき、金閣寺の鳳林承章ほうりんしょうしょうなど、一流の文化人に彩られたサロンとなった殿舎は今はなく、池の水面と風にそよぐ樹木に、在りし日の姿を思い浮かべることができるだけとなった。
 大宮御所とは、皇太后の御所をいう。 現在、築地塀内北西隅にある大宮御所は、慶応3年(1867)に英照えいしょう皇后(孝明こうめい天皇の女御)のために女院御所の跡に造営されたものである。 英照皇太后が東京に移られた後は、御常御殿のみを残して整理され、現在に伝えられている。
 庭園は、仙洞御所の作事奉行さくじぶぎょうであった小堀遠州が寛永7年(1630)の御所の完成に引き続いて作庭したもので、古図によれば仙洞・女院御所とも石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池をもっていたようである。 しかし、改修拡張等により遠州当時の遺構は南池東岸の一部に僅かに認められるにすぎない。 延享えんきょう3~4年(17467)にかけて女院御所の庭園(北池)と仙洞御所の庭園(南池)が堀割でつながれた。
1.建築
 北西の一隅にある大宮御所は、明治5年(1872)まで英照皇太后のお住まいであったが、現在は、天皇皇后両陛下や外国元首等が入洛された際の御宿舎として用いられている。 その南は仙洞御所の殿舎が建ち並んでいた跡であるが、現在は松林となっている。 東側一帯は女院御所と仙洞御所の庭園が堀割によって結ばれて一体となって発展した回遊式大庭園である。
 総面積9万1千m2余りで、そのうち大宮御所の面積は約1万6千m2、仙洞御所の面積は約7万5千m2である。
(1) 又新亭
  北池の南西、大宮御所と壁を隔てて茶室「又新亭」ゆうしんては静かに佇む。 ここは以前、修
 学院離宮の上御茶屋から移築した「止々斉」ししさいが立っていたが、後に焼失。 「又新亭」
 は、その跡地に明治17年、近衛家から移された茶室である。
  この茶室は近衛家に出入りしていた裏千家十一世玄々斉げんげんさいの好みと言われ、裏千家に
 ある「又隠」ゆういんの写しである。 建物は北西隅から玄関土間、広間六畳、水屋、茶室四畳
 半などが、南東に雁行している。 茶室の急勾配の茅葺屋根とほかの部分の緩やかな杮葺き
 屋根がよく調和し、侘びた佇まいを見せている。 

  茶室の内部は、北側に台目床を構え、南側に躙口にじりぐちと下地窓したじまどを開ける。 西側
 は
茶道口、その脇に洞庫どうこ(壁に仕込んだ戸棚)を配するなど、平面構成は「又隠」とそ
 っく
りである。 目立って異なるのは東側で、「又隠」では下地窓一つだけなのに対し、こ
 こでは大
きな丸窓を開け、室内にふんだんに明かりを取り入れている。 
  茶室の南東には露地があり、仙洞御所の苑路とは四ツ目垣で区切られている。 また建物
 の
南には茅葺の中門が立っているが、これは利休形の茅門。 茶事の時には中潜りとしても
 利用
できるようになっている。
(2)醒花亭
  南池の南端に華やかな朱に塗られた土壁の杮葺き屋根の茶屋「醒花亭」せいかていが立っている
 。 
この建物の来歴については詳しいことは分かっていない。 四畳半の茶の間を中心に、
 水屋、寄付よりつき(茶席の待合所)、玄関土間などを配し、渡り廊下で雪隠せっちんに接続される
 。 
茶の間に設けてある付書院は、上部に稲妻形にデザインされた障子をはめ込んだ違棚が
 ある
が、貴人の好みらしく斬新な意匠だ。
  醒花亭の「醒花」は李白の詩から取られたもので、入側東、鴨居の上に拓本の額ととし掲
 げ
られている。 額の字は中国明の時代の文徴明の筆である。 この建物は煎茶でいう三店
 式(酒
店、飯店、茶店)ともいい、いずれの場合でも利用できるように造られている。
  東の庭には「ふくろう」の銘のある手水鉢を据え、飛石を配し、銭型の蹲踞つくばい(茶
 庭の
手水鉢)と、加藤清正の献上品と言われている朝鮮灯篭が植え込みによく調和している
 。 
杮葺きの屋根を注意深く見ると、南側の屋根の端が、他とは違う仕上げになってことに
 気付く。 通常は、積み重ねた杮板の端部をそのまま見せる
のであるが、ここでは、板を端
 部に巻き込んで緩やかな曲線を作り出している。 このような
技法はあまり類を見ないが、
 巻萱まきかやと呼ばれている珍しい手法である。

     2.庭
(1)小堀遠州の作庭
  後水尾天皇の譲位後の住まい、仙洞御所造営の任を賜ったのは、徳川幕府の命じた作事奉
 行
小堀遠州であった。 今も作庭の名人として名を残す遠州は、その天才ぶりを遺憾なく発
 揮し
て、我が国の造園史上画期的な仕事をここに完成させたといわれている。 
  その際だった特徴の一つは、切石を配した直線をダイナミックに多用していることにある
 。
 例えば現在の南池と呼ばれている池は、切石を垂直に積んで石垣にしたもので、あたか
 もプー
ルのようであったらしい。 遠州の作庭を個性付けていた切石の護岸は、今日指摘さ
 れている
ように、城郭美を彷彿とさせる、いわば武家好みの世界である。 当時類例を見な
 かったこの
造形は、王朝好みの宮中にあって相入れないものであったろう。 しかし、遠州
 の仕事の中で
も傑出していると評価されているこの作庭も、度重なる火災により再建される
 たびにその個性
が消滅していった。 策定からわずか50年後には、ほぼ現在の原型が出来上
 がったようである。
  現在、切石護岸の名残は南池東岸にわずかばかり偲ぶことができるのみである。 
  女院御所の池(北池)と仙洞御所の池(南池)が掘割でつながれたのは、桜町上皇の御代
 延享4年(1747)であった。 仙洞御所の庭はこれをもって今日の姿になったのである。
(2)北池
  仙洞御所へのくぐり戸を入ると、奥に北池が広がり、正面の林の先には東山の如意ケ岳が
 垣間見える。 あたりの木々が落葉する冬季にはっきりと望むことができ、東山を借景として造園された
 ことをよく物語る景色だ。 苑路沿いに左に進むと六枚橋が見えてくる。 六枚橋の御影石がゆったりと
 した弧を描き、気品ある佇まいだ。 この入り江は阿古瀬ケ淵あこせがふちと呼ばれているが、昔紀貫之の邸宅
 があった処と伝えられ、貫之の幼名“阿古久曾あこくそ”が淵の名の由来という。 六枚橋を渡り鎮守社の築
 山のうねりに合わせて、緩やかな曲線を描く砂利敷きの苑路が延びている。 線形だけでも美しい道筋だ
 が、山側が根笹、池側が野芝で、新緑
の頃は緑の濃淡、冬は枯れた芝の黄色と笹の緑が鮮やかに
 道を隔てて分かれ、北池の見どころとなっている。 のびやかな曲線の苑路は、仙洞御所全
 体に共通する手法だ。 やがて道は鷺島(藤島とも中島ともいう)へ渡り、やはりゆるやか
 な苑路をたどって行けば東岸に通じる石橋にでる。 以前は土橋であったが、大正時代に三
 条白川橋の石材を筏状にかけたものである。
(3)南池
  18世紀半ばに北池と南池とをつなげた掘割に架かっているのは紅葉もみじ橋、堀の西の紅葉
 山
が橋の名となっている。 堀の両側は杉苔で覆われ、紅葉の頃の風情は極彩色の障壁画の
 中を
歩くような幽玄な世界だ。
  南池は出島、八つ橋、中島、州浜など、地味な雰囲気の北池と対照的に、華麗な景観が展
 開
する。 出島は切石の護岸と自然石とを組合わせた独特の手法で、遠州の手による大徳寺
 弧篷庵こほうあんの忘筌ぼうせん(小堀遠州代表作・非公開)の席露地に類似する。 近代的な感覚
 をところどころ強調する切石の護岸は、点々の配された自然石を見事に浮かび上がらせる。  東岸の護岸の石組みと、さらに北に続く切石の汀は、遠州の作庭をそのまま残すもので、
 我が国の造園史上貴重な遺構である。
  中央の中島は、かっては一つの島であったのを二つに分け、西岸とは八つ橋で結び、東岸
 と
は反橋そりばしで結んだ。 
  八つ橋は以前木橋であったが、明治28年に石橋に替えたもの。 その時添えられた藤棚の
 紫
の花が八つ橋にこぼれんばかりに咲き乱れる頃が、仙道御所の春のクライマックスだ。 
 この
橋詰に滝殿、東岸寄りの島に橋殿、釣殿、また反橋を渡ったところには鑑水亭があった
 。 南
池全体を見下ろすと、中島によって池の景色が寸断されていると思われるが、本来、
 今は無い
これらの建物から池を望み庭を観賞しようと意図した結果である。
  八つ橋から眺める出島も素晴らしく、樹木に覆われた築山が芝生の裾をゆったりと水面に
 伸
ばし、まさに静寂そのものの景観をみせている。
  鑑水亭跡からさらに東岸を苑路に沿って進むと小高い築山がある。 階段を上り詰めると
 石
垣で固められたところがあるが、ここは仙洞御所で最も高所にあたる。 この悠然台と呼
 ばれ
ていた物見から洛中、洛外、さらに祇園祭の山鉾巡行まで望めたという。
  東岸を南に回ったところにある「醒花亭」から左前方の西岸へと幅広い州浜が続く。 州
 浜
は王朝庭園を象徴する造形で、水辺の優しさを表現するものだが、ここでは壮大なスケー
 ルで
展開する骨太の景となっている。 やや単調な印象もあるが、州浜に根を下ろす松や桜
 が影を
落とし、存在感あふれる空間を織りなす。 州浜の玉石は小田原藩主の献上で、領地
 小田原の
海岸の石を領民に集めさせ、石1個に米1升を与えたところから“小田原の1升
 石”と言われ
ている。 州浜が延びる苑路沿いの桜の馬場は、周辺に桜が多く植えられ、春
 の気分にあふれ
た空間となっている。
     3.大宮御所
 大宮御所はかっての女院御所の流れを汲むもので、現在の御殿は、慶応3年(1867)孝明天皇の妃、英照皇太后のために造営されたものである。
 ここに女院御所が営まれたのは後水尾上皇の仙洞御所造営と同時にで、二つの諸殿はそれぞ長い廊下でむすばれていた。 この建物もたびたび焼失、再建を繰り返したが、幕末の火災後仙洞御所は再建されなかったが、女院御殿は皇太后の殿舎としてよみがえった。
 明治以降、多くの建物が撤去されたが、大正天皇の即位式を京都御所に置いて執り行うに当たって、再整備がお紺われた。
 英照皇太后が明治5年に東京に移られてからしばらく空院であったが、現在は、天皇皇后両陛下や外国の元首が入洛する時の宿舎にあてられている。 古くはダイアナ妃が、最近では。皇太子妃雅子様がお泊りになられた。
 大きく張り出した唐破風からはふの御車寄や、やわらかな檜皮葺ひわだぶきの三層の屋根など、女院御殿らしい穏やかな雰囲気を漂わせる外観は寝殿造りにちかい。 しかし、大正年間内部を洋風に改め、周りにガラス戸がはまっている。 御常御殿の前庭は紅梅、白梅、竹林、松が植樹され松竹梅の庭と言われている。



参考文献
*平安京1200年;(財)平安建都1200年記念協会発行
*平安京から京都;(株)小学館、編者上田正明
*平安京ーその歴史と構造ー;吉川弘文館、著者北村優季
*平安京年代記;京都新聞社
*平安京への道しるべ;吉川弘文館、著者、土田直鎮
*平安京と京都;(株)三一書房、村井康彦
*平安物語;(株)小学館、村井康彦
*京都御所入門;東京書籍(株)著者、渡辺誠
*秘蔵写真で知る京都御所入門 ;東京書籍、著者渡辺誠
*京の離宮と御所 ;JTB日本交通公社、編集安藤典子


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