京都・朱雀錦
(37)平安神宮と時代祭



世界遺産・マチュ・ピチ

 所在地 京都市左京区岡崎西天皇町97
 主祭神 桓武天皇、孝明天皇
 社格等 官幣大社、勅祭社、別表神社

                  A.平安神宮の概要

1.歴史と建造物
 今でこそ天皇陛下の葬儀は神道で行われているが、明治までの皇室は、仏教の徒であり、奈良時代の聖武天皇から、江戸時代末期の孝明天皇まで仏式で葬儀が行われ、宮中には「お黒戸」(黒戸御所)と言われる仏間あり歴代天皇の位牌が祀られています。 従って天皇自身が〖神〗になることなど考えられないものでした。
 ところが明治22年(1889)の大日本帝国憲法が制定され、その第1条「大日本帝国ハ天皇之ヲ統治ス」と第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」の規定かから「天皇神格化」の思想が生まれた。「怨霊でない天皇」を祭る神社第1番は、伝説上の初代天皇、神武天皇を祭神とした奈良県の橿原神宮かしはらじんぐうである。 大日本帝国憲法制定の翌年明治23年(1890)は、日本書紀に伝える神武天皇が即位してから二千五百年目に当たると言うので、その記念事業として畝傍山の麓の神武陵墓(幕末にまったく新しく築造されたもの)の脇に新たに広大な社殿群が創立された。
 橿原神宮建設から5年後の明治27年(1894)は、都が平城京から平安京に遷都してから千百年に当たるので、記念事業として、平安遷都を行った桓武天皇を祭る神社の建設運動が起った。 
 市民「有志」からの「献議」をうけて、京都市が開始した形式をとってはいるが、実態は国家事業であった。 
 明治25年(189210月、平安遷都千百年紀念協賛会が設立されて「平安神社」(仮称)の創建準備が始まった。 紀念祭協賛会の発起人114人は、華族38人を始め政界、財界の著名人が名を連ね、総裁に有栖川宮ありすがわのみや熾仁親王たるひとしんのう(後小松宮こまつのみや彰仁親王あきひとしんのうと交替)を総裁に迎え、会長に近衛篤麿公爵(後貴族院議長)、副会長に佐野常民伯爵(日本赤十字社の創設者)が就任した。 設立集会は、総理大臣邸で行われた、近衛会長の他内務、外務など大臣4人も出席している。 「設立趣意書」には、平安遷都千百年祭を「紀念祭ハ乃チ主トシテ(桓武)天皇ヲ追慕シ奉ルノ大祭ナリ」している。
 紀念殿として平安京の大極殿の復元を図る「模倣大極殿」を建設し、記念祭の日程は、最初から、遷都の千百ではなく、翌年の桓武天皇が平安宮大極殿で最初の朝賀の儀を行った延暦14年(795)を記念日として、明治28年(1895)を目標とした。 また紀念祭の日程と重ねて、同じ岡崎の地で第4回内国勧業博覧会を開催することも、最初からの計画であった。
 敷地としては、洛東の吉田山の南に広がる岡崎の地が選ばれた。 この一帯は、平安時代には、法勝寺などの六勝寺が甍を並べていた旧跡であるが、明治の中期には畑と藪の連なる田園地帯であった。 
 地鎮祭は明治26年9月に挙行された。 社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院ちょうどういん(八省院)を縮小(長さで約8分の5)して復元したものであつた。 設計は内務省技師伊東忠太(後東京帝国大学教授、著名な建築学者)等が、当時の研究と技術の粋を尽くして完成した。
 第4回内国勧業博覧会のメイン会場になり、平安神宮の外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿を縮小した模倣大極殿で、寝殿造り、碧瓦本葺、朱塗、高さ169.7m、桁行33.3m、梁行12mである。 模倣大極殿の右西南に白虎楼びゃっころう、左東南に蒼龍楼そうりゅうろうが付属する。 白虎楼、蒼龍楼ともに、平安京朝堂院の様式を模したもので、屋根は、四方流・二重五棟の入母屋造り、碧瓦本葺が施されている。 建坪25坪、桁行及び梁行32.5尺(9.85m)と表示されている。
白虎楼の南に樂殿、蒼龍楼の南には、結婚式場に使われる神樂殿があった。
 また、前庭には大極殿に向かって右に「左近の桜」、左に「右近の橘」が配置され季節を彩り、龍尾檀りゅうびだんという勾欄が設けられて境内を南北に仕切っていた。
 基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11.12世紀)の第3次朝堂院を再現したものとなっている。 ただ、大極殿と応天門の間には本来は、会昌門かいしょうもん(中門)と朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼しょうらんろうと栖鳳楼せいほうろうという楼閣が付属していたが、これらは平安神宮では復元されていない。 また、平安
宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、近年の研究によれば平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。
 201012月、大極殿、蒼龍楼、白虎楼、東西歩廊2棟、応天門の6棟が国の重要文化財に指定された。また参道の大鳥居(高さ24.2m)をはじめ、額殿、斉館、神楽殿、神門翼廊、西祭器庫、西門及び西外廻廊、東祭器庫、東神庫、東門及び東外廻廊、透塀、及び後門、内廻廊、南歩廊の14施設は、国の登録有形文化財に登録された。


2.神苑
 明治時代の代表的な日本庭園として広く内外に知られている平安神宮神苑は、社殿を取り囲むように南神苑、西神苑、中神苑、東神苑の四つの庭から構成されている。 面積は33,0002(約1万坪)、作庭は名作庭家七代目小川治兵衛(通称「植治」)で国の名勝に指定されている。


(
) 南神苑「平安の苑」
  仙台市長が苗木寄贈した八重紅枝垂桜の名所。 桜開花時期はたいそう賑わう。 平安時代の庭園の特徴である「野筋」のすじ(野の道に似せた道)と「遣水」やりみず(庭園に水を引き入れ作った流)を取り入れた様式が特徴で、特に「平安の苑」は、平安時代に著された書物(伊勢物語・源氏物語。古今和歌・竹取物語・枕草子)に記載されている200種余の植物が、その一節の紹介とともに植栽されている。
  南端にチンチン電車が置いてある。 このチンチン電車は、平安神宮の創建と同じ明治28年、平安遷都1100年を記念して京都市内に設置された、日本で初めての電車である。その縁の深さから廃止になった年からこの一隅へ展示されている。

 
            南神苑
 
            西神苑

() 西神苑
 この神苑の中心は白虎池ビャッコイケである。この池は浅く水生植物が多く植えられている。池の辺には「花菖蒲が群生し、初夏から秋口にかけて池の水面に睡蓮とコウホネ(スイレン科の属)が彩りを添えます。花菖蒲には、伊勢系、肥後系、江戸系を中心に日本古来の品種場かり 200種、2000株が咲き競います。見頃を迎える6月上
旬から下旬には、白虎池上に「八ッ橋」が架かり一層の風情がまします。茶室「澄心亭ちょうしんて」があり、毎月第2日曜日に月釜が開かれています。

 
            中神苑
 
            東神苑

() 中神苑
  本殿裏を通って中神苑へ向かう。 ここは本殿裏手にあたり、昼間も暗いほど木がしげっている。中神苑を流れる小川にはセタシジミが生息すると言う。 これは琵琶湖の湖水が疎水を通り流入し、現地の琵琶湖で絶滅の危機に瀕している生物がこんなところで生き続けているのが面白い。西神苑から小川沿いに鬱蒼とした林間を抜けると一瞬に視界が開け蒼龍池ソウリュウイケの風景が広がります。 池に浮かぶ中島まで臥龍橋がりゅうきょうと称する飛石が配置され、周囲はカキツバタが群生しています。
 臥龍橋は、天正年間に豊臣秀吉によって造営された三条大橋と五条大橋の橋脚が用いられています。 この橋を渡る人には、「龍の背に乗って池に映る空の雲間を舞うかのような気分を味わっていただくという小川治兵衛の作庭の意図が織り込まれています。
 カキツバタ、紫色のカキツバタおよそ1000株が蒼龍池を彩るのは5月上旬から下旬であるが、その自然で素朴な景色の中に一層貴賓にあふれた品種の一群があります。 光格天皇がご遺愛されたので、白地に紫の模様が入り、千代紙で折った鶴をそのままそっとおいたような姿に「折鶴」の名が付けられています。


(
) 東神苑
  東神苑は巨大な栖鳳池セイホウイケが占める。池の真ん中に橋殿が架かっているのが大きな特徴である。橋殿は、正式には「泰平閣たいへいかく」と言う。 泰平閣の中央には楼閣が作られ、屋根の上に鳳凰を頂く。  北から南を望むと、栖鳳池の辺に立つ尚美館しょうびかん(貴賓館)や釣殿の泰平閣越に東山連山を借景とした雄大な眺めが広がります。中国の伝説の仙郷「蓬莱山」を現した「鶴島」と「亀島」は松を頂いて池に浮かびます。 泰平閣で休むと、広大で池に周囲の風景が溶け込み、立体的で奥行きのある風景が繰り広げられます。




               B・時代祭
 平安神宮の例大祭は1022日で、桓武天皇が延暦13年(794)のこの日に平安京に遷都したことを記念するものです。
 明治28年(1895)に平安遷都千百年祭が挙行された日でもある。 毎年この日は、朝から平安神宮を出発した。紫の鳳輦ほうれん(天皇の乗り物)をかたどった神輿2基が、京都御所の建礼門前に仮設された行在所あんざいしょ(御旅所)まで神幸(遷宮や祭礼に際し、神体が神輿などに乗って御旅所・祭場に渡御とぎょすること)があります。行在所で祭典があり、午後帰還します、「時代祭」と呼ばれるのは、その神輿の帰り道に、桓武朝から明治維新までの各時代の風俗行列が、神輿の神幸列を先導するからである。 
 第1回の時代祭り行列は、明治28年(1895)の平安遷都千百年記念際に行われた。 以後毎年続けられている。小学校区毎に京都市民の間に作られた平安講社がそれを支えてきた。桓武朝から明治維新までの各時代の風俗を再現した行列が、維新の山国隊を先頭に順次時代を遡さかのぼって続きますが、第1回の平安講社の列は、延暦文参朝列から、徳川城使上洛列まで、6列で、しかも年代順でした。第2回から時代を遡る形に代わり回を重ねるごとに行列は順次増加し現在は20列まで増加している。
 時代祭りは、賀茂祭や石清水祭のような伝統的神事の厳粛性は見られないが、近代的な市民生活にふさわしい新しい時代のフェステバルとして見るべきでしょう


順番  行列次第・説明
1 先導と先達(明治時代)

 時代衣装を着けた行列を案内するのが先導ないしは先達であり、京都府警の騎馬警官隊と一般市民から選ばれた未婚の着物姿の女性及び名誉奉行(京都府知事・京都市市長・市会議長議長時代祭協賛会長)と総奉行(平安講社)

 
           維新勤皇隊
 
           織田信長

2 維新勤王隊列 
  幕府の遺臣が東北地方で反抗した際、丹波の国北桑田郡山国村の有志が山国隊を結成し、官軍に参加した時の行装を模したもので、三斉羽織に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻又は赤熊しゃぐまを被り脚絆、足袋、草履をはき、刀に佩び、鉄砲を携えた姿です。尚、この山国隊は、時代祭の始まった当時は、同村有志が奉仕していましたが、大正10年より京都市内の朱雀学区が代って奉仕するようになった。
3 幕末志士列(江戸時代)  
  昭和41年孝明天皇百年を記念して、ご祭神に関係深い維新志士列を行列に加えることになったものです。当初、この奉仕は講社の第八社に委ねていましたが、昭和45年から京都青年会議所が受け持つことになりました。
4 徳川城使上洛列 
  徳川幕府は大礼や年始等の際に必ず城使を上洛させて、皇室に対する礼を厚くしました。そして城使には親藩・譜代の諸侯が選ばれ、特に御即位の大礼には将軍家名大が多数の従者を従え、その服装や器具等は非常に華美なものであったと言われている。
 行列は普通の場合を模したものであり、城使は乗物(本列では騎馬)、目付頭以上の者は騎馬でありました。 駕籠は幕末当時の形式をとったもので、先頭の槍持、笠持、挟箱持ちの「ヒーサー」の掛け声や動作は正に当時の面影を偲ばせる。

5 江戸時代婦人列 
・和宮 御祭神孝明天皇の皇妹で、後に将軍家茂の後台所となられた。行列は輿入れ16歳頃の
 近世女房装束で、女嬬を従えた宮廷内での御姿を表したもの。
・蓮月 寛政3年生。 和歌、文筆
 に優れ、のち尼となり蓮月と称し、風月を友とし
才女の誉れ高い女性・。
・中村内蔵助の妻 享保の頃、京都銀座に巨万の富を築いた内蔵助の妻で、行列は当
時才女の
 衣裳比べの会で抜群の誉れを得たという「翁草」の記事による
・玉瀾 お梶の孫にあたる玉瀾は池大雅の妻で、閨秀画家として夫と共に南画をよく
し、和歌にも
 秀でた女性
・梶 梶は女流歌人で、元禄・宝永の頃に祇園で茶屋を営んでいました。歌集に「梶
の葉」がある。
・吉野太夫 江戸時代寛永の頃、京六条三筋町の名妓でのちに灰屋紹益の妻になった。
・出雲阿国 出雲大社の巫女で、京都で念仏踊りを演じ、歌舞伎の起源をなした。 行
列の弟子を
 連れた扮装は京都大学の徳川家所蔵品等により考証されたもの。
6 豊公参朝列(安土桃山j代)  

 行列は豊公参朝のうち最も盛儀であったと伝えられている慶長元年(1596)5月 の秀頼初参内と、同2年9月の元服の時を模したものである。参内の乗物は特に盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車びんろうげからひさしくるまといい、檳榔の葉で葺き、すだれ等の色文装具等は最高の様式であります。牽馬には豊公時代の遺宝の廬の高蒔絵の鞍を模し、前後に従う大名は実祭は、もっと多数であるが、行列はその一部を表したもの。
 服装は当時特に一日晴れとして規定以外に許されたもので、衣冠の姿も普通でなく、袴を付、太刀も武家風である。牛童、牛飼等は公家風であるが徒歩の者は、当
時の武家風の特徴を表している。
7 織田公上洛列          
 応仁の乱により京都は非常にさびれ、皇室も大いに衰微した。 永禄11年(15689月織田信長は皇室の御招きに応じ、兵を率いて上洛、皇居の修理や都民を落ち着かせ、その復興に努めた。 行列はその織田公上洛を模したもので、立入宗継は命を受け、粟田口に織田公を出迎えたとされている。
 この時代に注目すべきことは、戦いに鉄砲が導入されたことである。 甲冑の多くは胴丸で、各部に鉄板を入れ、いわゆる当世具足の新形式で、江戸時代にかけてもちられた。
 (室町時代)       

8 室町幕府執政列        
 武家風俗を中心とするもので、足利将軍を先頭に将軍を補佐し政務を管理する管領の斯波・細川・畠山の三氏、御家人の軍事・裁判を司る侍所の山名・京極・一色・赤松の四氏のいわゆる三管領・四職の主要氏族が御供衆として従います。 また公家・法中・御博士・医師など他の列にない平成になってからの新しい特徴のある風俗を表現している。
9 室町洛中風俗列       
 庶民の間に流行したと言われる、風流笠を中心に男性が女装して太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊る「風流踊り」などの室町時代の風俗や衣装を再現している。 また踊りは音頭取りなどの「中踊り」ち、小袖姿で踊る「側踊り」で構成されている。
(吉野時代)
10
 楠公上洛列        

 元弘3年(1333)5月後醍醐天皇が隠岐より還幸された折、楠公は一族郎党を率いて聖駕を兵庫にお迎えし、先駆して上洛させたことは同公一代の盛事とされている。 行列はその楠公を中心としたもので、甲冑は平安中期より鎌倉時代に盛んに用いられた大鎧、殊に腹巻、胴丸が多く、楠公は紫末濃縅むらさきすそおどしの大鎧、兵庫鎖太刀に豹の鞘、正季は逆沢潟縅さかおもだかおどしの大鎧に革包太刀、蛭巻太刀を重ねて巻、侍大将は卯花縅の胴丸を付けて、何れも小刀を挿している
11 中世婦人列         
 ・大原女 洛北大原の婦人は古来、薪・炭等を頭にのせ、亰の町へ売りに出る風習があった。行
 列は室町末期の大原女姿である。
・桂女 洛西桂には古来桂包という婦人の髪を包む風習ありました。この姿で街へ鮎
や飴売りに出
 たり、その旧家には巫女を業として婚礼、出産に呪文を唱えに行く者もあった。 これらを桂女と
 称した。 行列は室代の小袖に桂包をしたすがたです。

・淀君 太閤の側室で長政の娘で、秀頼の生母行列は、桃山時代を代表する豪華な打掛に間衣、
 下着、小袖に刺繍の帯をい締め、扇を持った外出姿。
・藤原為家の室有名な「十六夜日記」の著者で、息子為相の領地争いのために鎌倉幕
府に訴え
 て東下りした時の旅姿。市女笠いちめがさに虫垂衣むしたれぎぬ(笠の外
周から薄い布を
 垂らす)、半足袋に草履を履き、道中安全を祈る守袋を架け、訴状を文杖にさしています。従者は
 道中の要用を入れた唐櫃をかついでいる。 

・静御前 源義経の愛妾でもと白拍子。 鶴岡八幡宮社で頼朝の意を気にせず、義経を恋慕う歌
 舞を行ったことで有名。 行列では白拍子時代の姿で、水干、単小袖、白の切袴を着け、立烏帽
 子を被り鼓を持っている。童女が一人が従い衣傘を差しだしている

    鎌倉時代
12
 城南流鏑馬列

 流鏑馬やぶさめは平安朝以来行われた騎射きしゃの技で、馬場に三ヵ所の的を立て、射手が馬を馳せつつ矢継早にこれを射るものである。
  承久3年(1221)5月後鳥羽上皇は朝威回復を計られ、流鏑馬に託して城南離宮
に近畿10余国の武士1700余人を召し集められ、華美を競い武具を飾って行われたち伝。行列は狩装束の射手武士を中心に5組で組織されている。 
 狩装束の騎馬の武士は綾藺傘あやいがさを被り直垂ひたたれ(男性和服)を着け、手に弓懸はゆがけ(皮製手袋をはめ、左手には射籠手いごて、腰下に鹿皮の行縢むかばきをうがち、物射沓ものいぐつを履き箙えびら(矢御入れる道具)を負い、太刀、腰刀、鞭を偑は(帯のつける)もち、弓、長刀を郎党に持たせる爽さっそうとした姿である。

    藤原時代
13
 藤原公卿参朝列   

  平安時代中期以降、藤原氏の盛時に於ける文武両様の姿を表したもので、同末期強装束こわしょうぞくが起こり、大いに容儀が整えられた頃の服装に倣ったものであり、後世の装束とはやや異なっています。行列は夏の様式で、文様、形式等はいずれも当代のものによって作られている。
14
  平安時代婦人列  

・巴御前 木曽義仲の寵愛を受け、義仲没後尼となる。行列は、巴の武装を「源平盛 衰記」により
 現したもので、天冠に鎧を着け、太刀を腰に付け長刀を持っています。 従者は折烏帽子に腹巻
 を着け、小刀を腰につけ馬杓をっている。

・横笛 建礼門院の雑司で、滝口時頼と恋におち、時頼出家後、嵯峨に彼れを尋ねて行った時の
 市女笠に桂姿であった。
・常盤御前 源頼朝の夫人で頼朝亡き後、三児(牛若、乙若、今若)を連れて六波羅
へ名乗り出た
 時の姿を模したものであります。
・紫式部 藤原宣孝の妻で、上東門院に仕え「源氏物語」の著者。服装は女官の略装
である。
・清少納言 清原元輔の女で「枕草子」の著者・ 服装は正装
・紀貫之の女 貫之は延喜の名歌人。 村上天皇の時代、清涼殿の梅が枯、その代わ
りに西亰
 から徴収された桜が偶然にも枝に付けてあった女の歌から貫之庭の梅と分かったという
 故事に拠ったもので、当時の袿うちき単小袖、濃紅の切袴を着け、
手に梅の小枝をもって
 いる。

・小野小町 平安時代前期の女流歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。出羽の国の郡司小野良
 貞の女で、才色兼備の女性である。服装は平安初期の特殊な姿で、当時の神像を参照して作ら
 れたもの。

・和気広虫 和気清麻呂の姉で法均尼と言い、慈悲心深く多くの孤児を養育し、これが孤児院の起
 源となったと言われます。 服装は還俗の時の姿で、奈良朝の上衣、裙もすそ、帯を着け、比礼
 ひれ(薄くて細長い布)をかけ扇を持った姿。そして男女児各二名が従っている。

・百済王明信 従三位(女官では最高位) 百済王敬福きょうふくの孫。 李白の子。右大臣藤原継縄つぐただの妻。桓武朝廷の内侍所ないしどころの尚侍しょうし(女官長)。桓武天皇の信頼厚く、延暦9年の詔でも「百済王らは朕の外戚なり」宣べるられている。
   延暦時代
15
 延暦武官行進列   

  武官の坂上田村麻呂が東征を終えて平安京に凱旋する様子を再現して行進する。 武官行進列は正倉院御物や古墳の出土品などによる考証で、将佐、主将、副将は騎馬で、口取、従者、矛持、弓持は徒歩で進行する。

 

            巴御前
 
           清少納言

16 延暦文官参朝列  
  延暦時代の公卿諸臣が朝廷に参上する状況を模したもので、その服装は、朝服(後 の束帯の基をなすもの)と言い、巾子こじ(冠の直立部分)が広く羅の柔らかな冠を被り、直刀式の儀刀に金銀の腰帯をしている。行列中三位は浅紫、四位は深緋、五位」は浅緋、六位は深緑の袍を着用し、三位は蘇芳色すほういろ(黒味を帯びた赤色)総ふさの三懸さんかい(馬の飾り)を着けた馬に乗り進みます。 
 尚、行列の三位は、前行列が平安神宮にもど還り着いた時、全員を代表して御鳳輦の前で祝詞を奏上します。

17 神饌講社列      
 京都料理組合奉仕時代祭り当日の神饌物を奉献する役目の人達で、御饌長みけんちょ・副御饌長及び水干の議員により組織されている。
 18 前列   
 御神幸列の直前を行くので前列と言われる。雅楽の伶人れいじん、迦陵頻伽かりょうびん(想像上の鳥)、胡蝶等優美な衣装の列、又多数の狩衣装束のお供が従います。 
  尚、行列は平安神宮の宮本と言われる錦林、新洞区より奉仕、御神幸列に前行することになっている。 
19
 神幸列 
 御賢木おさんがきを先頭に
、御鳳蓮ごほうれんを中心とした信仰の行列です。先の御鳳蓮が西本殿の孝明天皇、後の御鳳蓮が東本殿の桓武天皇で、宮司以下神職が前後につき従って御神幸されます。 即ち、御祭神がこの京都を御巡幸になって市民の安らかな状況お親しくご覧になられるおのです。 各行列は、この御神幸のお供をして進行するわけで全行列中主たる意識を持つ列であります。
20
 白川女献花列    
 行列は京都の古くから働く女性の代表の一つである北白川の女性が箕に季節の花を入れて京都の町を売り歩く姿を現したものであり、白川女風俗保存会で予てから郷土の伝統を保存したとの意向があって時代祭への奉仕を希望したところ、昭和43年より献花奉仕列として参加が認められ行列の末尾を飾ることになった。
21 弓箭組列       
  丹波国南桑田、船井両郡には昔源頼政に従い、もっぱら弓箭きゅうせん(弓矢)の技に秀でた人達が多く、その子孫の人々もまた弓箭組」と言う組織を作り、常日頃より射術を研究していた。延暦の昔、桓武天皇平安遷都の際、その御列の警護に当たったとも言われ、また維新の際には山国隊と共に東北鎮護に当たったとも伝えられています。お供の人々は引立烏帽子に直垂ひたたれ(一般的な和服)を着け、太刀を持ち弓箭を携えています。




参考文献
*漢長安城と阡陌・県郷亭里制度 著者古賀登  発行所雄山閣
*国際後援会「東アジアの古代都市」   編集奈良女子大学21世紀COEプログラム
*飛鳥古亰・藤原亰・平城京      著者寺沢龍、発行所草思社
*古都発掘-藤原亰と平城亰― 著者田中琢、発行所岩波新書
*平城京―古代の都市計画と建築b― 著者宮本長二郎、発行所草思社
*平城京再現 監修坪井清足、発行所新潮社
*平安京―その歴史と構造― 著者北村優季、発行所吉川弘文館
*平安京年代記 京都新聞編集・発行所
*平安京への道しるべ 著者土田直鎮、発行所吉川弘文館
*平安京1200年 編集発行 財・平安建都1200紀念協会
*平安京から京都 編集上田正昭、発行所小学館
*平安京と京都 著者村井康彦、発行所三一書房
*平安京くらしと風景 著者木村茂光、発行所東京堂
*日本型建築の歴史と未来像 著者菊竹清訓、発行所学生社
*古建築の見方、楽しみ方 著者瓜生中、発行所PHP

 

 

 






 





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