京都・朱雀錦
(37-1)平安神宮関連・遷都の歴史


平城京・大極殿

                遷都の歴史」
延暦13年(7941022日桓武天皇は平安京へ遷都した。これは持統天皇が持統8年(694)飛鳥浄御原宮あすかきよみがはらから藤原京に遷都され、平城京、長岡京市と4回目の遷都であった。いずれも中国唐の都「長安京都城」をモデルにしたとされている、それでは「長安京都城」はどんな都城であったか順次調べてみよう。

                        1.長安都城
 秦の始皇帝は紀元前221年中国全土を統一し、咸陽かんようを都とし秦王朝を開いた。しかし、始皇帝が紀元善210年に没すると国は乱れた。秦を倒し全国を統一した劉邦りゅうほうは漢王朝を開いた。都は、咸陽の郊外に新たに創建し長安城と命名され、前漢、後漢、北周、随などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。また、西都さいと、大興だいこう、中京ちゅうけいと呼ばれていた時期もあったが、宋が都を開封とするまで各王朝の首都として存続した。千年以上続いた世界最大の都市長安京都城が実際にどのような都市であったか、明確ではありません、それは、長安城の事を伝えた諸文献に矛盾が多いからです。 しかし、近年の発掘調査により次第に全容が解明されつつあります。 


() 長安都城の規模形状
 長安城は長方形お呈し広大な規模で、実測により、東西9721m、南北8651.7m、総面積84km2にも達している。羅城らじょう(都城の外郭)の城壁は版築はんちく

法(土塀や基礎部分を堅固に構築するために古代からもちられてきた工法。両側を板などで囲み、入れた土を硬く突きかためる)で造られている。 
 長安城の羅城の外に幅9m余、深さ4mの防御用の壕が検出されている。羅城内に南北に走る縦方向の街道が11本、東西に走る横方向の街道が14本ある。

 
   長安城大明宮遺跡と長安京地図
 


() 里坊
 羅城内の縦横の街路は沢山の方形区域に分けた。これらの方形区域は普通「坊」或いは「里」と呼ばれ、中に官署、役人や庶民の住宅、寺院などの建築が配置されている。坊の数は時期により増えたり減ったりしていた。唐の始めには108坊、朱雀大路の西に55坊、東に53坊あった。
 里坊の規模は、皇城南の南北の長さは1~8列は500544m、9列は590m、東西の幅は朱雀大路を
んで第1列は東562m、西558m、第2列は700m、683m、第3~5列は10221125mである。


() 市場
朱雀大路の東西に市場があった。西市場の規模は南北1031m、東西927m、周りに版築塀取り囲み、市場の中に幅16mの南北方向と東西方向の平行な道路が2本ずつあり、交差して「井」字をなして、市場を9つの長方形に分割していた。道路の両側に側溝がある。考古発掘では一部に規模の小さな家屋の跡が検出された。これらの家屋は道に面して軒を並べており、商業を営む店舗と思われ、出土ひんから、レストラン、鉄器屋、彫刻屋、宝石屋、陶器屋、葬儀屋など様々などさまざまな業種の店舗が存在し、商工業の発展していたことが証明された。
 東市も西市と同様、長方形で南北1000m余、東西924m。東市の中にも縦横交差して「井」字型の道路があり、幅はいずれも30m近い。東北隅に楕円形の池とその池に通じる用水路跡がみられた。


() 皇城
 皇城こうじょう(天子の居住する城)、羅城の中央北よりにある。皇城は長方形で、東西南の三面は城壁に取り囲まれているが、北は塞がず横街で宮城と隔てた。皇城の東西は2820m、南北1843.6m、周囲9.2km、面積5.2km2で、皇城の東・南・西の三面の城壁には合計7つの城門がある。 


(
) 宮城
 長安城に大極宮、大明宮、興慶宮の三つの宮城がある。
 [1] 大極宮
  長安城の最も北側、皇城の北側に置かれている。大極宮は長方形で東西2820.3m、
南北1492.1m、周囲8.6km、面積4.2km2で、四面に版築法で造られた宮壁があり、垣根の幅は18mで羅城の城壁よりも丈夫にできている。 大極宮の東西にそれぞれ南北方向の壁が設置されている。この2面の壁によって宮城は東側に東宮、中央に大極宮、西側に掖庭宮の三つに分けられる。この三つの宮の範囲は、南北の距離はともに1492.1mであるが、東西の距離はそれぞれ異なる。中央の大極宮は1967.8m、東宮は150m、掖庭宮は702.5mである。文献の記載によれば大極宮城の四面には七つの門が設けられていた。
 [2] 大明宮
  長安城の北側城壁に接して設置されていた宮殿で、唐の第2代皇帝太宗(在位62649
が父高租(在位61826)の隠居所として建てたのに始まる。第3代高宗(在位64983)は662年、これを改築して翌年大明宮に移って政務うぇお執った。大明宮は、唐の諸宮殿の中で最も規模が大きく、最も壮麗な宮城であり、高宗以降の唐代皇帝の多くはこの宮殿に居住し、政務を執った。
 大明宮の宮壁は、南壁は1674m、即ち羅城の北面城壁の東の部分である。西壁は2256m、北壁は1135m。東壁は、東北角より南に1260m下がって東にまがって304m進んで、そこから南に曲がって1050m。大明宮の4辺に文献上15の城門がある。
 [3]
 興慶宮
 興慶宮は第6代玄宗皇帝(在位71256)の宮殿、興慶宮のあった場所で、今日の興慶宮公園の付近に位置する。興慶宮の東側は羅城に接し、東市の東北角に接する。東西1250m、南北1075m、面積1.34km2。4面に8つの門があった。南側の中心部に面積1.8万m2の楕円形の龍池があり、池岸に沈香亭、龍堂などの遺跡がある。


              2.藤原京
 藤原京ふじわらきょうは、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本歴史上最初で最大の都城である。また日本史上最初の条坊制じょうぼうせいを布いた本格的な唐風都城でもある。
 藤原京の着工は天武5年(676)に始められたが、686年天武天皇崩御ため一時中断したが、持統4年に工事再開、持統8年(694)飛鳥浄御原あすかきよみがはら宮から藤原京に遷都した。完成は遷都後10年の704年頃と推定されている。
 藤原京の存在が確認されたのはそれほど古くはなく、発掘調査によって最初にその大極殿が確認されたのは昭和の時代に入ってからである。切っ掛けになったのは、昭和8年(1933)現・橿原市高殿町にある鴨公小学校の増築工事の際、礎石や白鳳時代の古瓦層が発見され、日本古文化研究所が翌年から発掘調査を開始した。 
 当初大極殿の位置から東西1.1km、南北3.2kmと小規模な都城を推定していた。 これを「岸教授の藤原京説」と言い、広く一般に認められ定説っとなった。ところが平成8年(1996)藤原京の西京極、東京極と見られる道路が、岸節の都城の外から相次いで発見された。これらの新知見に基づいた「大藤原京」説が生まれた。 


() 藤原京の見本は何処か
 大藤原京で最も目につくのは、「宮」が都城の中心存在することである。藤原京は
先進国唐の長安城に倣って建設されたものと考えていたが、長安城の「宮」は都城の北辺中央部に設置されている。ところで、藤原京のプランは、儒教の経典の一つである「周礼」の考工記匠人営国条「工人営国、方9里、旁三門、国中九経九緯、経涂九軌、左祖右社、西朝後市、市、朝、一夫」の影響であると言う。 これによれば、国(王城)は9里四方の正方形で、各辺に3門ずつを開き、内部には縦横9条ずつ、9軌(車の轍で8尺)の幅の道が設けられた。そして中央の宮闕きゅうけつ(宮殿)の左(東)に祖先の霊を祭る宗廟を、右(西)に土地の神を祭る社稷しゃしょくを置き、前面(南)に朝廷を後方(北)に市を置き、市と朝廷の面積は1夫(100歩 四方)である。
 確かに1010坊説では、京の形は正方形でその中央に宮が位置する。 京内には縦横に9条ずつの大路が走る。さらに藤原京跡から出土した木簡によれば、明確な位置は分からないが宮の北方にあったようである。
 これはまさに「周礼に合致する。しかし、本場の中国にも「周礼」に基づいた都城はない、なぜ日本にあるのか。
 藤原京建設の30年前の天智年(663)に百済救援に向かった日本軍は朝鮮半島の白村江はくすきのえに於いて、唐・新羅の連合軍に大敗したが、その後は、国内の防衛体制の整備に専念して遣唐使を中止し、唐との正式な国交は途絶えていた。遣唐使の派遣を33年ぶりに復活したのは、藤原京遷都の8年後であった。遣唐使派遣を中断した天智天皇以前には、中国の都城に倣った都城の計画などまだなかったであろう。
 そこで、都城造営の知識を中国の書物に求めた結果、儒教の古典「周礼」に出会ったのであろう。


() 宅地の有様
  持統5年(691)藤原京の宅地が貴族や役人の、その位に応じて支給された。 この頃3700坪程の宅地を1町(119×103m=12000m2)と呼んでいた。貴族や役人の位は48段階あり、その第13段から16段までが1町の広さの宅地の受給資格者であった;。それから上は右大臣が4町、その他が2町でした。第17段以下、位の無い者まで世帯の中の青壮年男子の数に応じて1町ないし半町、最低四分の1町(3000m2)が支給された。


() 瓦葺宮殿
 日本では、藤原京で初めて宮殿の建物の屋根に瓦を葺くようになった。藤原宮まての飛鳥地方の宮殿が瓦葺ではなかった。日本では、瓦葺屋根は寺院から始まった。日本で最初の本格的な仏教寺院であり、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(正式名。法興寺)が用明天皇2年(587)に建立された・これが日本で初めての瓦葺建築である。古代では、瓦葺は」寺院の特徴で、寺のことを「瓦葺」と呼ぶこともあるほどでした。


(
) 火葬の始まり
 現代日本における火葬の普及率は欧米諸国のどこよりも高い・この火葬は最初の古代都市、藤原京の周辺ではじまった。日本の仏教が、特に火葬を奨励した形跡はない。 当時、首都や道路の近くで死者を埋葬することを禁止しています。首都の膨大な人口に見合う土葬用の墓地を亰の近くに確保するのが困難だったためとかんがえられる。

(
) トイレ
 藤原京の人口は、岸俊男氏の推定で2~3万人、鬼頭清明氏の試算では4~5万人です。岸氏推定する藤 原京の面積は6.5km2であるから、人口密度は4600人/km2、奈良県で人口密度の高い大和高田市が4350人/km2。この当りが岸説による藤原京の人口密度に近い。大藤原京説による人口5万人とすれば2000人/km2となる。最近市制をひいた香芝市(5800人/24.2km2=2099人/km2)が面積や人口からもつとも藤原京にちかい。
 1300年前の藤原京は現在の大和高田市や香芝市程人口が集中していたたけ、ゴミとし尿処理など都市問題が発生していた可能性がある。
 藤原京の発掘調査で、トイレの跡が発見されている。 宅地の隅に長さ1.5m、幅30㎝ほどの長楕円形の汲み取り式トイレや街路の側溝の水を宅地に引き込んだ水洗式のトイレもある。またトイレの底土には、トイレットペーパーの代用に使った木切れ(糞ペラ)や食物かす、回虫の卵や花粉等が観察され、当時の食生活、健康状
 態等が推測できるという。


() 藤原京も都市名
 「日本書紀」には持統8年12月の記事に「藤原宮に遷居する」とあるが、「藤原京」と言う文字は一度も現れず「新益京」しんやくきょうという一般名詞で記述されている。 「藤原」の名称は、藤原宮が所在する周辺の地名を「藤井が原」と呼んだことに由来する。この「藤井が原の地名がつづまって「藤原」となったが、藤井が原の範囲は
 藤原宮周辺の限定的なおのであった。この都を「藤原京」と呼ぶようになったのは明治以降のことです。 歴史家喜田貞吉氏がその著書「藤原京」の中で「藤原宮」に附する京を「藤原京」と呼ぶと提案し、そが一般化したものです。 「藤原宮」は歴史的に由緒のある固有名詞であるのに対し「藤原京」の方は、歴史家喜田しが作った名前だったのです。


(
)  藤原京の規模
  藤原京の発掘作業は続けられてきたが、70年たった現在も藤原京の規模は正確には確認されていません。しかし、大藤原京の規模は、5.3km四方ですくなくとも25km2あり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の規模なるのは確実です。


()  藤原京はなぜ短命だったか
 都城史上画期的な都城であった藤原京は、わずか16年しか続かず、和銅3年(710)に平城京に遷都した。その理由としてはいくつかの要因が指摘されている。
 その1 歴代遷都の伝統の残余。その2大宝令にふさわしい都城の建設が必要という理由。その3藤原京の地勢の悪さが指摘されている。即ち北高南低の地であるため、南面より、天皇の場が低くなる。道路側溝に流した汚物が宮城の方に流れてくる不具合があった。それは現実の汚物のみならず、側溝や河川で行われる御祓いの祭儀で流される宗教的穢れも流れてきうる不具合。その4は遣唐使のもたらした長安都城に関する情報の影響を重視する。 
 遣唐使の派遣は、天智8年(669)以来長らく中断していたが、大宝律令が制定された大宝元年(701)に32年ぶりに任命され、翌年出発し慶雲元年(704)に帰国した。執節使栗田真人、大使高橋笠間らの一行である。 
 彼らは藤原京を建設し、大宝律令も完成させ、年号も定めたのを機に派遣されたが、彼らの見た長安都城の様相は、藤原京とは全く異なったものであった。 そのため、長安都城に倣った都城を建設する必要が生じたのである。

 
 

          藤原京地図                        平城京地図

                         3.平城京
 平城京は奈良盆地の北端の平城山丘陵の南裾に立地したことにより、藤原京で指摘された地勢の悪さを克服することが出来た。即ち北高南低となり、天皇の位置が最も高く且つ、木津川や大和川にも接続しやすくなった。藤原京から平城京に遷都は、和銅3年(710)3月10日、元明天皇により行われた時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、また、平城京は一度で、出来上がったのではなく、途中聖武天皇、淳和天皇、と平安京遷都後平城天皇の3回の大改造があり、結果的に長岡京遷都まで継続的あるいは断続的に工事は続いたと考えられる。 


(
) 都市計画
  平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に別れ、更に左京の傾斜地には外亰げきょうがもうけられている。東西軸には一条から九条大路(十条については後術)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532m、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地ついじによって区画され、更にその中を、東西・南北に三つの道で区切って町とした。京域は、東西約4.3km(外亰を含めて6.3km)、南北4.7km(北辺を除く)に及ぶ。平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外亰げきょうとよぶ。又、右京の北辺は二町分北に張り出しており、これを北辺坊と称する。面積は25km2である。


() 大垣工事  
 藤原京と平城京の大きな違いの一つが宮城の周囲をめぐる外囲、大垣であった。 藤原宮の大垣は純和風の掘立柱塀であったが、平城宮の大垣は中国古代建築法の「版築工法」を採用した。版築工法は、土を硬く突きあげた土塀で、造営には多くの労力が必要であった。
 道具としては、4本の丸太と2枚の板(堰板せきいた)、それに土を突き固める棒が必要です。まず丸太を2本ずつ組合わせて2列に地面に埋め立て、丸太の上端が開かないように横木で連結します。そして堰板を丸太の内側に沿って枠を作り、板枠内に土を入れ板と丸太間に楔を打ち込み形を調えると準備完了です。だいたい10㎝程の厚さの土層が6㎝(60%)の厚さになるまで打ち固めたのち、ふたたび土を入れて同様の操作を繰り返し、堰板の幅いっぱいまで突き固めが終わると、楔を抜いて板をはずし、板を上に持ち上げて、再び同じ作業を繰り返します。こうして作った土塀の上に屋根を設け、瓦を葺いて仕上げます。 
 版築塀の大きさは、地面の部分の幅(基底幅きていはば)が9尺(約2.7m)、塀の上端部幅は7尺(約2.1m)、高さ13尺(約3.8m)と推定されます。平城宮の大垣は、東院を含めて総延長約4.5kmあり、そのうち門の部分を除いて約4.2kmが大垣の長さです。
 この大垣を完成させるに要した人員数を平安時代の「延喜式」木工寮の規定などを参考に概算すると、版築塀を築く作業員は約4万人、土を運ぶ作業員、2~3万人。 
 結局、大垣関係で約6~7万人、瓦関係で約9万人、屋根工事関係で4~5万人として合計20万人もの人が平城宮の大垣工事に駆り出された計算になる。一日100人が働いたとして2000日、年間300日とすれば6~7年間かかることになります。

() 掘立柱建築
 平城京発掘調査の結果ほとんどが掘立柱建築であったと言う。掘立柱は、地面にあけた穴(堀形ほりかた)の中に、柱を立て、その根元を地中に固定する形式の柱です。そして、平地や土檀どだんの上に掘立柱を用いた建物を掘立柱建物と呼んでいる。 この建物形式は、内裏正殿をはじめとする宮殿や役所、貴族の邸宅から庶民住宅に至るまで広い範囲にわたってもちいられていた。 
 これに対して礎石上に柱を立てる形式の礎石建物は、ごく限られた建物にしか見られません。たとえば、宮城の門、大極殿、朝堂、役所の正庁、寺院などの公共的、象徴的な建物に採用されたのです。掘立柱は、縄文時代とそれに続く弥生・古墳時代の建物の柱はすべて掘立柱が使われていた。竪穴住居の柱も高床式の倉庫の柱も掘立柱です。
 それでは地域の住宅事情はどうであったであろうか、竪穴住居は縄文時代早期(約9000年前)に現れ日本全土に普及、竪穴住宅の全盛期であった。弥生・古墳~平城時代、米と鉄を持った弥生民族が九州に上陸すると、米作技術と鉄器具の使用が西日本から東に向かって波及した それと同時に、鉄器具の使用により、竪穴住宅と異なる
大型の掘立柱建築(以後掘立柱建築と言う)が出現したが、地方豪族の居館にしか見られなかった。奈良時代、平城京はでは、掘立柱建築が普通でしたが、地方ではまだ、竪穴住宅が一般的でした。特に東日本では奈良時代から平安時代中期にかけて竪穴住居集落後が沢山発見されている。しかし、機内では、7世紀に既に竪穴住居から掘立柱建築に移行していたので、平城京内では、竪穴住居は全く存在しなかった。
 掘立柱建築の欠点は柱が重力により沈み易い、柱の高さ朝政が困難の二つが考えられる。に対しては、柱穴(堀形)の底に、栗石や枕木、礎盤等をいれ、柱の沈下防止をおこなっている。についは、礎盤の下に楔を入れたり、腕木と枕木も組合わせ等で柱高さの微量調整を行い建築技術が進歩し、掘立柱建築による大型建築が可能になっていたとかんがえられる。


() 瓦
 瓦葺きの屋根は日本では飛鳥寺(588年)が初めてで以後1世紀以上経っていたが,一般住宅にまで普及していなかった。しかし、平城宮ないには瓦葺建築が多く見られた。大極殿をはじめ役所の主だった建物は瓦葺でした。当時は本瓦葺ほんかわえあぶきといって、丸瓦と平瓦を交互に組合わせてふきました。普通の平瓦で大きさは幅が30㎝、長さ40㎝、重さ4㎏もありましたから作るのも運ぶのも大変でした。しかも必要な瓦の枚数が膨大でした。薬師寺位の寺院なら中心の伽藍だけで約30万枚は必要でしょう。また平城宮では、たとえば第二次大極殿で3万枚、第1次、第2次朝堂で80万枚、宮城全部では 500万枚くらいでしょう。しかも、役所など何度も改築され、そのたびに新たな瓦を焼かなけ ればならず、奈良時代を通して、瓦工房はひっきりなしに生産していた。丘陵に瓦窯跡が50カ所あるという。


() 大極殿
 大極殿は、天皇の即位式や元旦、朝賀の儀式や国家的な大礼を行うときに天皇が出御する宮城の中心的建物である。従って規模は宮内で最大で桁行9間けん、梁間はりま4間。柱間17尺(約5mであった)。建物の側面と背面には扉や壁を設けたが、正面は拭きっぱなしになっていました。屋根は瓦葺、基壇付の礎石建て、木部を朱色に塗った豪華な唐風建物でした。
 建物の基壇床面はすべて切石敷になっており中央に天皇の玉座があり高御座たかみぐらが置かれています。そして北側にあるほぼ同規模の後殿こうでん(正殿の控えの建物)と共に龍尾壇りゅうびだんと言う壇上に建っていた。壇の南には前庭が広がっており、全体が築地回廊ついじかいろうに囲まれて広大な一区画をなしていた。 


(
) 朝堂院
 朝堂院は公の儀式や政治のための場で、大極殿、朝堂、朝集殿ちょうしゅうでんの三区画から構成されていた。このうち朝堂には臣下が着座して政務をとる12棟の建物とそれらを取り囲む広 い庭があった。その南側にある朝集殿は官人たちが朝廷に出勤する時に時間まで待機する場所であった。この朝集殿の一つが、唐招提寺の講堂で、平城京の建物の中で現存する唯一の例である。


() 内裏
 内裏は天皇の日常生活の場であが、同時に毎日の政務を行う執務室でもあった、 また、大極殿で元旦の朝賀を受けたあと、天皇は内裏正殿に移り身分のある家臣(五位以上)に褒美を 与えて宴会を開くのが仕来りであったから儀式の場でもあった。


(
) 宅地
 平城京の人口 沢田吾一氏説;約20万人。岸田俊男氏説;約7万5千人(人口増加を見積 もっても10万前後)。最近では、45万説もあるが、一般的に約10万人と推定されている。 〃 人口構成 高級貴族は約100人、常勤の中級役人は600人程度。人口が10万人とすれば、住民全体の約0.7%に過ぎず、住民の大半は歴史に 名残さない、庶民であった。宅地の割り当て、民の住宅は国から割り当てられていたが、位によって広さが異なり、位が低くなるにつれて宅地も狭くなり、宮からもはなれていく。五位以上の貴族はたいてい五条大路より北に住んでいた。宅地の割り当て基準三位以上4町(67000m2)、四~五位1町(16000m2)、六位1/2町(8000m2)六~七位1/4町(4000m2)、七位1/8町(2000m2)、七~八位1/16町(1000m2)八位1/32町(500m2)、無位1/64町(250m2)


() 役人の勤務
 宮で働く役人は約8000人。平城宮の朝は早い。平城京では漏刻博士ろうこくはかせが中務省陰陽寮の水時計で時を計り、開聞時間になると守辰丁しゅしんていという小使いに鼓を打たせる。
 最初お鼓で朱雀門以下宮十二門、や亰城の羅城門などが開かれれる。 1時間ほどして、次の鼓が鳴り響くと、朝堂や内裏の門が開き、役人達はどの門から入るかちゃんと決まっている。各門にはそこを入る者の札があった。
 宮城で(働く役人の数は、貴族を構成する5位以上の高級役人が150人、6位以下の中・下級役人が約600人、位をもたない役所の下働きが約6000人、さらに宮中の人夫などが1000人、合わせて約8000人が、夜明けとともに宮城周辺の大路に、馬や徒歩で出勤してくる役人達であふれ、開聞と同時にその人波はどっと中に吸い込まれる。
 高級役人は朝集殿で衣服を調え、十二堂が並ぶ朝堂院に入って政務を執る。勤務時間は、三時間半から四時間、退朝鼓がなると政務は終わる。短かいようだが、実際にはその後朝堂院外の各役所の曹司ぞうし(役人の部屋)で実務的な仕事をかたずける。
  当時の役人の仕事は、基本的に今の役所と変わりない。計帳をもとに力役を課したり、租税を見積もり、財政を算する。 


(10) 下水道
 平城京の道路には、大路にも小路にも、必ず道の両側に側溝を設け、下水道の役目をはたしていた。そのため。両側の側溝のうち一方の溝の幅を広く、底も深くして上流から引いた水が常に流、宅地からの汚水がそのまま佐保川や堀川に流れるようにした。京内の側溝は素掘りの溝であったが、宮内の溝は格段に立派な造りであった。
 ところで、これらの溝は手入れしないでそのままにしておくと、土砂やごみが底に積もります。溝の流れを良好に保つには最低、年1回は溝さらいをしなければなりません。平城京の側溝の総延長は約200㎞あり、溝さらいは大変な労力であるが、奈良時代の70年間、河川も含め水路管理は大変しっかりと考えられる。

(11)
 井戸
 上水道が発達するのは、日本では、江戸時代になってからである。 それまでは人々は湧水や河川あるいは井戸から水を汲み、運び、水甕などにためてつかった。平城京内では、もっぱら井戸を利用していた。1/16町や1/32町の狭い宅地にも井戸が必ずあった。


(12) 市
 当時、市内で一番賑わう場所は市場で、西市と東市があった。 そして物資の運搬が容易にできるよう、西市では市の東側に、東市では市内を貫くように堀川が設けられていた。市を管理したのは、西市司にしのいちつかさ・東市司という役所で、商品の価格を定めたり偽物がないか、数量、寸法にごまかしがないかどうかの監視をし、また他の官庁のために必要物資の購入する仕事もしていた。
 市は午後開かれ、月の前半は東市、後半は西市と言うように交互に行われた。 「延喜式」によると東市51店、西市33店があり、米麦、塩、海産物などの食料品や絹、糸等の衣料品、針、筆、墨、土師器、櫛などの日用品のほか装身具や武具、牛馬まで売買うられていた。また、市の広場では、大道芸やアトラクションもおこなわれ人々をたのしませたが、罪人の処刑が公開された。


(13) 食事
 食器は、貴族も庶民も土師器はじきを使用していた。土師器は日本古来(全世界に有)手作りの土器、野焼きで製造。焼成温度は800900℃と低温で赤褐色。
 一方、古墳時代、既に須恵器すえき技術は伝わっていた。 須恵器は、轆轤を使い登窯で製造した土器で、肉厚は薄く製品は均一で、焼成温度は1100℃以上と高く、青灰色で堅く、主に貯蔵用の甕などにつかわれていた。
 中級の貴族のメニューを見ると①枝豆、栗、里芋の盛り合わせ、②ホヤ、米麹を使った飯鮓いずし(発酵食品)、③鮎の醤ひしお煮。④鹿の膾なます(生の鹿肉を細かく切り、醬と酢で和えたもの)、⑤漬物(茄子・青菜の塩漬けと瓜の糟漬)、⑥汁(干イワシを浮かせたホンダワラの汁)、⑦白米、⑧酢(調味料)、⑨塩(調味料)、⑩清酒
庶民の食事は、①ヒジキの醬煮、②汁(キノコと青菜の汁)、③玄米、④塩(調味料)、⑤糟湯酒で、庶民は一汁一采であった。
  いずれの簡素な料理であるか、飯鮓や膾等今日の「寿司」つながる料理が目につく(「寿司の歴史」参照)。食材として、枝豆、里芋、茄子、瓜、大根等野菜、各種の魚介類や海藻類、栗、ナツメ、カヤの実等の果物等が用いられた。 調味料は古典的な調味料「塩」と「酢」をベースに醤油・味噌前身「醬」や「末醬」が使われていた(「寿司材塩」、「寿司材酢」参照)。清酒、は慶長5年(1600)兵庫県伊丹市「鴻池」製造販売されたとしているが、それよりはるかに古く奈良時代に「清酒」及び「酒糟」存在したことが木簡出土により証明されている。「麦縄」むぎなわまたは「策餅」さくべいと呼ばれる麺類が古代中国から仏教とともに伝来した。小麦粉と米粉を水を入れて練り、塩を混ぜて縄状にして乾燥させる。 食する時はゆでた後に、醬や酢などをつけて食した。 奈良時代の後半市でも商われるようになった。また、一方縄が太くなり油で揚げてデザートに変化した。

   

           長岡京鳥瞰図                           平安京地図

                        4.長岡京
 長岡京は、延暦3年(784)桓武天皇の勅命により平城京北へ40㎞の長岡の地に、延暦13年(794)まで存在した日本の首都。長岡亰は、京都盆地の西南に当たる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、山崎津や淀津と言った港も完備し、水陸交通の至便な地であった。 
 長岡亰の建設に当たっては、丘陵を削り、谷や平地を埋め建て、平坦化した敷地に平時右京をモデルに設計されたと考えられている。朱雀大路をメインストリートに置き、その北端には皇居や役所などが収まる長岡宮が設けられた。長岡宮の宮域は、北を1条大路(又は北京極大路)、南を2条大路、東西を両1坊大路で囲まれる東西約1㎞、南北約1.6㎞の地域で、宮内には内裏、朝堂院を始め2官8省の建物が立てられました。そして、朱雀大路の東を左京、西を右京とする東西約4.3㎞、南北5.3㎞の広大な亰がもうけられた。
 亰内は、条坊制と呼ぶ1800尺(約533m)を基準とする方眼で割り付けられ、これを坊(街区)とし、坊の境は東西方向に北京極から9条、南北方向は左京右京ともに1坊から4坊までの大路で区画した。坊はされに小路によって16分割した町(120m四方)に細分され、番号が付いた。道路の幅は大路で2415mであった。桓武天皇はなぜなぜ長岡亰遷都をおこなったか。桓武天皇は天智天皇系の天皇であつた。一般に、天武天皇系の旧勢力が強い、平城京を嫌っての遷都だと言われているが実態はどうであったのか。

(
) 藤原仲麻の乱
 聖武天皇と光明皇后の間には男子が育たず、娘・阿倍内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。天平勝宝元年(749)8月19日父聖武天皇の譲位により即位し孝謙天皇となった。藤原仲麻呂は叔母光明皇后の信任をえて次第に台頭し孝謙天皇が即位したときには最高の権力者になっていた。孝謙天皇は子供がなくいずれ誰かに譲位しなければならなかった。 そこで、仲麻呂は、聖武天皇系に皇子がいないことより、舎人親王の子で、天武天皇の孫で、且つ自分の娘婿である大炊おおい王を孝謙天皇に推薦し、皇太子に付けることに成功した。 天平宝字2年(758)8月孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が誕生した。ところが、退位後、孝謙上皇は、一人の男性と恋に落ち、激しい情念の炎を燃やした。40半ばにして初めて知った性の快楽に女帝は盲目になり溺れていった。時の太政大臣藤原仲麻呂は上皇と道鏡の関係が噂の域を脱し抜き差しならぬ男女の仲になっていることを確認し、上皇に道鏡の関係を絶つよう厳しく諫言する決意をした。仲麻呂は自分が擁立した淳仁天皇にその役を押し付けた。淳仁天皇は気は進まないが、やむなく引き受け、近江国保良ほら宮石山寺近く)にいた上皇に、諫言の手紙を送った。
 上皇は、天皇の諫言を受けて烈火のごとく怒り、即刻保良宮を引き揚げて平城京に帰還した。帰還後、上皇は、5位以上の官人を朝堂に集め、詔をくだした。そして上皇は現帝に対
 していう。「傍系の貴方を天皇に引き揚げたのは私です、だから、貴方は私を慕い、私の命
 令に従い、自分勝手に振る舞ってはいけません。 それなのに、貴方は私に対し言ってはいけないことを言い、してはならないことをした」と激しく叱責し「今後は、貴方は恒例の祭祀などの小事だけを行いなさい。国家の大事、賞罰、人事、予算執行など全て私が取りしきることろします」と天皇の権限の大部分を奪い取ったのである。この処置は天皇にたいする懲罰というより、大臣藤原仲麿の権限の剥奪を意図した大胆不敵な挑戦であった。賞罰と人事権を奪われた仲麻呂は手足をもがれたイナゴのように身動きがとれず逼塞を余儀なくされた。
 孝謙上皇が宣命を発して2年後の天平宝字8年(764)仲麻呂は軍事力により孝謙と道鏡に対抗しようと、大外記
だいげきの高丘比良麻呂たかおかのひろまろに諸国の兵600の動員を命じたが、比良麻呂は後難を恐れ、孝謙上皇にと密告した。上皇は少納言山村王を淳仁天皇のもとに派遣し、皇権発動に必要な駅鈴と天皇御璽ぎょめい(印鑑)を奪回させた。失敗を悟った仲麻呂は、一族を率いて近江に逃れ、兵力を集めたが、兵力に勝天皇軍に敗れた。
  反乱を鎮圧した上皇は翌日から早速論功行賞に着手した。藤原豊成を右大臣、道鏡を一躍大臣禅師に抜擢し、自ら重祚
ちょうそ(一度退位した天皇が再び皇位につくこと)して称徳しょうとく天皇になったのである。

() 光仁天皇即位(709782在位770781
 最大の障害仲麻呂を抹殺した女帝には誰はばかることなく権力を行使した。 当然のことながら側近に道鏡を侍はべらし、いちいち道鏡の意見を聞き、ほとんどが道鏡の意見に沿って行われた。道鏡は僧侶で、政治には全く素人であったから、その意見は政策の整合性は乏しくちぐはぐで場当たり的なものが多かった。称徳天皇が重祚してから崩御するまでの6年間、政治らしい政治は全く行われなかった。女帝は政治音痴で、その上女性特有の嫉妬と猜疑心が強く、道鏡への執心から公私をわきまえず、道鏡の言いなりでやたらに土木事業をおこなって財政を窮乏させた。 
  神護景雲じんごけいうん4年(770)2月称徳天皇は病気になり、病状は好転せず8月4日崩御された。 後継天皇は、称徳天皇崩御のその日、天智天皇の孫である光仁天皇に決定した。
 右大臣吉備真備は天武皇統にこだわり天武天皇の孫文屋浄三とその弟に大市の二人を後継候補に挙げたが、藤原一族に一蹴された。藤原仲麻呂の乱以後、退潮著しく、代わって、官位の低かった吉備真備が右大臣のまで昇進し、藤原家の最大のライバルし生長し、藤原一族の地位をおびやかした。そこで心機一転の巻き返しが、天武皇系から、天智皇系への乗り換えだったのです。藤原一族のクーデターは成功し、吉備真備は失脚し、後に藤原一族の黄金時代を迎えるのでした。 
 白壁王は天平9年(73730歳の時に従四位下に蔭位おんいされた後も官職につくでもなく、鳴かず飛ばずの状態であった。ところが天平宝字元年(757)に正四位げになってから翌年正四位上、三年後に従三位、六年後には中納言に任じられ、とんとん拍子の昇進をとげた。その理由は、聖武天皇の皇女で孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王を正妃に迎えたからである。 
 藤原一族が白壁王を後継天皇に擁立したのも井上皇女の夫君であり天武系の皇族を説得させる一つの要因であった。宝亀3年(772)3月、「井上皇后呪詛事件」が摘発され、廃皇后、廃皇太子となり、皇太子の選定が必要となった。藤原百川等が、強力に推した山部親王が皇太子にきまった。宝亀10年(779)7月百川が没すると、天皇は初めて藤原氏から解放され、自らの政治方針を発表した。それは「官を省き役を見つめる」すなわち、朝廷の冗員を整理削減し、人民の負担となる労役の徴集中止することであった。そしてもう一つの方針は以前から断続的に行っていた奥羽地方の蝦夷征伐であった。 


() 桓武天皇
 桓武天皇は本来ならば皇位つけない出生であった。無位無官の山部王が初めて官位を得たのは、天平宝字8年(76428歳の時であった、本来皇族が蔭位おんい(祖先や父の功労によって子孫に官職を授けること)を受けるのは21歳からと定められていたが、山部王は、一般の皇族にしては遅く、28歳になってやっと従五位下に叙されたわけである。しかし、二年後に従5位上に昇り、大学頭に任じられた。大学頭は大学寮の長寛で本来当代一流の学者が任命されるのが通例で、学問の分野でも一流の学者であったらしい。  天応元年(781)父光仁天皇譲位により即位した。時に45歳、父72歳であった。  桓武天皇は父上皇の意向も受けて、その政治方針を踏襲するとともに、同母弟早良親王を皇太子とした。
 [] 桓武天皇の初期の政治
  まず手始めに光仁天皇時代に発案された「官を省き役を息やめる」政策を踏襲し、実行した。天皇は、
 次のように勅し、造宮(営繕)、勅旨(秘書)の2省と法化(?)・鋳銭(造幣局)の2司を廃止した。
  天皇は、2省、2司の廃止を断行し、小さな政府を政治目標として称徳天皇時
代に底をついた国家財
 政の立て直しに着手した。また、当時調庸の納入は国司の一人が専任になって輸送隊を編成して
 上京する。納入の際、本省も役人が品質検
査する、その検査の時厳しい評価を受けないように役人を袖の下をつかって買収し、粗悪品が国庫に収まるようになった。これに対し刑罰を復活した。
[] 長岡遷都
  桓武天皇は旧権威に覆い尽くされた平城京が嫌いであった。 天武系の皇族や貴
族によって隅々まで支配された朝廷、朝廷と権威に迎合した僧侶、真の仏教を布教しない南都仏教それが称徳天皇時代の平城京であった。そういう思い一致し意気投合した男いた、それが藤原種継ぐであった。種継も桓武天皇と同様、卑しい出目から、藤原一族の本流から外れ、逆立ちしても出世の望みがなく、有り余る才能と血気を持て余していた。 
 天皇は遷都の遺志を秘して初政は、もっぱら人心の安定と国家の財政再建に重点を置いて積極的に行った。その真の目的は遷都にあった。遷都には巨額の資材と莫大な労働力が必要である それを獲得するためにはそれなりの用意が必要である。 そのため、天皇はひたすら節約政策をとり、国民の休養に勤めた。 
 延暦3年5月桓武天皇は、いよいよ長岡遷都の計画を世間に公表した。この年は、甲子きのえねの年で中国の繊緯しんい説によれば政治上の変革の年とされていた。 天皇は即位当初からこの甲子の年を狙って遷都を実行しようと決めていたのである。 その為即位以来、その体制を作るために慎重に人事を進めてきた。
 天皇がこの計画を発表する際一番気にしていたのが早良さわら皇太子とその周辺の臣たちの賛否であった。天皇は遷都の人事に当たって、造営使など遷都に関わる主要なスタフは天皇の息のかかった者のみを任命し、皇太子周辺者を意識的にはずした。その典型的な例が大伴家持を征夷大将に任じたことである。 
 天皇は当時征夷大使である藤原小黒麻呂を中納言として都に呼び戻し、老将大伴家持をあえて陸奥へ送ったのである。5月の人事異動の数か月、新都の候補地である長岡むらを視察させた。視察後1ヶ月も経ないうちに造営使の人事を発令した。藤原種継、佐伯毛人、紀船守、石川垣守、海上三狩、大中臣諸魚、文室忍坂麻呂、日下部雄道等五位以上10人が任命された。中でも中納言藤原種継が長岡亰造営の主導権を握り、桓武天皇の期待に応え、はたまた自らの政治的使命にかけて造都事業に邁進した。その手法は一見強引とも見え、守旧派にとっていまいましい存在であり、その地位をおびやかす存在であったろう。天皇はそのような強引な種継ぐに全権を委任した。
 延暦3年(784)6月造都開始し、その年の11月は天武天皇が新宮に移動されている。たとえ昼夜の突貫工事でおこなっても、わずか5か月で。宮殿が出来るとは考えられない。多分難波宮や平城宮の一部を移築したものと思われる。しかし、たとえ移築としても大建築を解体、運搬、組み立てを5か月で行うのは至難で、種継の力量が伺われる。


 [] 種継ぐ暗殺
  桓武天皇の熱意による長岡亰造営事業は、種継をトップとする造営使たちの努
力によって当初は順調に工事が進捗していたが天皇と種継の結束の硬さ、親密さに快く思わぬ人も多かった。種継が天皇の信頼を嵩にきて独断専行することに反発したのである。なかでも天皇が行幸などて、宮廷を不在にする時、その代役を務めた早良皇太子は種継の専横に激しく抗議し、天皇に「種継を追放して下さい」と直訴したほどである。
 勿論、天皇は皇太子の要求を即座に拒否し、種継を側近中の側近としていよいよ重用するのであった。天皇の皇女・朝原内親王が伊勢斎宮に決まり、伊勢大神宮に出発することになった。桓武天皇は皇女を伊勢と大和の国境まで見送った。その後平城宮に留まっていた。 長岡亰の留守は例によって早良皇太子が守っていた。9月23日の夜、藤原種継は暴漢の」放った二つの矢によって胸を撃ち抜かれ、間もなく死亡した。時に種継49歳であった。
   「種継暗殺さる」の報は、平城宮の桓武天皇に早馬で知らされた。朝廷は直ちに犯人の捜査に乗り出した。そして首謀者として大伴継人、大伴竹良等数名が逮捕し、厳しい追及によって輪郭がわかってきた。首謀者の継人は「故中納言大伴家持相謀して曰く、よろしく大伴、佐伯両氏に唱え以て種継を除くべし。因って皇太子に啓もうして、遂に事を行う」と供述したという。種継暗殺関係者の処分がきまった。家持は死亡していたが、位階を没収された、関係者はそれぞれ遠流となった。 最後に早良皇太子も、廃皇太子の上、淡路に流罪とななった。しかし、皇太子は無罪を叫び、食を絶って自害した。時に36歳であった。


 [] 長岡京の放棄
   「種継暗殺事件」以後、桓武天皇には不運な出来事度重なり発生した
     妻藤原旅子の母死亡、2年後旅子死亡
     天皇の母・高野新笠の死
     天皇の皇后藤原乙牟漏の死
     妻坂上叉子の死亡
     疫病の大流行、皇太子安殿親王(早良親王、廃皇太子後)病気で(倒れ
回復せず、陰陽師に
      占わせたけっか、早良廃皇太子の怨霊に言われ、天
皇それをしんじる。
     平城京は、和銅3年(710)遷都するが実際に建設工事完了は数十年後
であった。長岡亰の
      遷都は、延暦3年(784)であるが、工事は進行中で、
宮殿の極一部が完成しているに過ぎなか
      ったと思われる。
     延暦11年(792)6月、長岡亰は猛烈な風雨に襲われ、翌日桂川が氾
濫し、長岡京は完全に
      水没した。
    これが天皇に長岡亰撤退を決断させたと考えられる


 [] 蝦夷」征伐
    (「世界遺産・清水寺」・坂上田村麻呂 参照)


                  5.平安京
 平城京は現在の京都府京都市中心部に当たる、山城国葛野かどの・愛宕あたご両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央部に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京、右京を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、唐の長安城に
倣うものであるが、城壁は存在しなかった。 
 都城の基準点となったのは舟岡山である。この岡の中央から真南に引いた線を都の中心線とし、都城を左右に分ける中央道、朱雀大路(現千本通り)を通すことにあった。次に双ヶ岡の東の線を南北に引いて右の端とし、それを西京極とした。って朱雀大路から右端の西京極までの距離が754丈(2.285 km)となる、そこで東端
の線は朱雀大路から東の同距離をとって東京極と定めた。南北の端はどうして決めたのであろう。衣笠山と双ヶ岡の中間から東西に引いた線を北端として、これを一条大路とした。南端は右京の西側を流れる桂川が東大曲する当たりと西京極と交うところを南端とし、その基点から東西に線を引き、これを九条大路とした。
 次に河川の整備である。旧賀茂川の流れは、船岡山の東側から南下し現在の堀川に流れており、旧高野川の流路は下鴨神社の東側から南西方向に斜行していた。 この二つの河川の流路を変更することであった。
 一つは斜行している高野川を都城の東北端から真っ直ぐ南下させ、同時に、旧賀茂川を上賀茂神社あたりから水路を掘り都城の東北端で高野川に合流させ、合流点以下を新しい賀茂川とすることにし、旧賀茂川は流水量を調節して狭くし堀川と称することにした。


() 平安遷都
 桓武天皇の遷都執念は長岡京失敗にもかかわらず一向衰えなかったと考えられる。天皇の意向をいち早く察知した和気清麻呂は、京都(山背国葛野郡宇太村)への遷都をすすめた。
 長岡亰は土地が狭く発展性がない、今後は対外的な関係も多くなり、宮中の組織は拡大していくことになるでしょう。古くは葛野かどのを大国おおくにと呼び、それに対し小国(弟国おとくに)というのが乙訓の呼称から生まれたとされている。  また葛野の地は西に山陰道はもとより、東は山一つ越えれば近江であり、地形は南に向かって開け、桂川を利用すれば淀川本流に通じており、交通も便利である。 しかも、古来から賀茂上下大社が勢威を示し、太秦を中心に秦氏が繁栄し、その経済力は極めて大きく、祖先の秦河勝が建立した広隆寺は全国的に知れた名刹であった。
 地勢を見ると、北、東、西が山に囲まれ南が開けており、北部の山間を縫って大小の河川が中央盆地を潤している「四神相応の地」であった。 というのは。東に流水(賀茂川)があるから「青竜」、南に湖沼(巨椋池)があるから「朱雀」、北に山「北山」があるから「玄武」、西に大道(山陰道)があるから「白虎」と対応している。しかも北高南低の地勢であるからこれは黒龍水性の地で正に都城として理想
的な地である。
 延暦12年正月、天皇は大納言藤原小黒麻呂等に現地視察を命じ、遷都の意向を内外に示した。視察使の適地報告を受けると、6日後に長岡京の取り崩しを命じ、3月には新京内に取り込ま」れたのうち44町を3年間の収穫代金価格で買い上げをおこなっている。延暦13年(7841022日桓武天皇は新京への遷都を敢行した」。長岡京取り壊しから遷都まで1年9カ月であった。


() 宅地と口分田
 遷都の1年前の延暦12年(793)天皇は菅野真道等に命じて親王・公卿から亰の一般市民(亰戸)までを対象に、それぞれの身分に応じて、上は1町(100アール)から一戸主(32分の1町)までの宅地が班給された。 
 郊外の公民は国司・郡司の支配に置かれ、戸籍・計帳に登録されると口分田くぶでんが班給される。これに対して亰戸は亰識きょうしき・坊冷ぼうれいの配下に置かれた。同じように口分田の班給を受けたが、京中には当然口分田はないから周辺の郡部に班給されたため、耕作が不便で、徐々に口分田から離れるようになった。


() 羅城門
 平安京は、長安城に倣って造営された都城とじょうである。都城とは、都の周囲を羅城らじょう(城壁)で囲み、都の内外は羅城の何カ所かに設けた門で連絡するという城塞都市のことであるが、日本は中国とは異なり異民族の侵略を経験したことがなかったので、平城京等と同様、大規模な羅城も門設置しなかったが、朱雀門の南先端の羅城門のみ都城の正門として建設した。 
 羅城門は、二重の楼閣からんる巨大な門であったが、創建間もないころ台風で転倒し、その後再建されたものの、10世紀末に再び台風で倒壊すると、その後再建はなかった。


() 条坊制
  平安京は南北の大路を基準に九区分し(条という)、東西も大路を基準に左右各亰四区分ずつに分割した(坊という)。このように条と坊によって区分された一区画は、たとえば「左京三条三坊」などと表現されたから、平安京の構造原理を条坊制という。
 この坊という区画は、東西南北に走る小路によって更に16町に区分されたが、この一町の面積は40丈四方に相当し(1万6000m2)これが基本単位とされた。 そして一坊の16町を四町毎にまとめて保と言った。従って一坊は四保、16町から構成されていることになる。京中は全体で284保、1136町から構成されていたことになる。一町は更に南北に八、東西に四に分割された。前者は北を基準に北一門から北八門まで、後者は朱雀大路を基準に左京は東へ西一行から西四行まで、右京は西へ東一行から東四行まで区分した。これを四行八門制という。32分してできた
一区画は一戸主へぬしといって庶民の宅地の基準となった。 
 一戸主は間口5丈、奥行き八丈という東西に細長い区画であったから、これが現在も京都特有の「うなぎの寝床」と言われるような宅地の形態をうみだす原因となった。 これをもとに一戸主の面積を計算すると、40平方丈=360m2=約110坪である、


(
) 保と京職
 保という単位が亰中支配の基準単位となった。即ち亰中の行政や警察の機能を担当した機関を京職きょうしきというが、その左右の京職の下に条ごとに条令、坊ごとに坊長が置かれ、その末端として保ごとに保長が置かれ、実際の実務を分担したのである。 これは律令に規定されていた「5保」の制を受け継いだものと考えられる。またこのさいどんは唐令から継受したものである。このような京職・坊長の職務は、後に検非違使と保ほ刀禰とねに取って代られる。


(6) 内裏と里内裏   (「京都御所」参照)
(
) 平安京の人口
 平安京の人口について、信頼できる戸籍や計帳が存在せず、それには代わる人口算定に使用できる資料もなかったので、十分な検討もおこなわれなかった。しかし、近年井上満郎市が平安前期の人口を「12万人前後」と発表した。その根拠は以下の通りである。
 平安京全体を1216町とし、そのうち大内裏域80町を除いた1136町を京域とおさえる。そして持田康彦氏の研究を前提に、五位以上、の貴族。官人の163人、六位以下の官人を600人とする。そして貞観13年(871)の水害記事から一家族の平均値6.22人を求め、それを乗じて、当時の貴族・官人層の人口を5368人と推定する。更に五位以上の貴族・官人に従者として支給された資人の人数を律令に基づいて計算し、資人合計を6905人とする。そして先の貴族・官人の人口を加えた1万2273人が亰城に居留する人口である。また、藤原京の時の住宅班給基準と延暦4年(785)の貴族の構成から、その面積を求め、それを約600町と算定した、同様、諸国から上京して諸司厨町に居住する人々の人数を産出するために、まず諸司厨町の面積を古図から」41町と算定し、それに承和5年(838)の記事から求めた40.06町に22人が居住したという数値を乗じて、諸司厨町の人口を1万5033人であるとしている。 
 京城1136町から貴族・官人の居住区600町と諸司厨町(41町)、東寺、西寺、東西市等「特別区」42.5町を減じて、残った452.5町が市民の居住区であるとする。 そして条坊制の原則によれば一町に32戸主が設置されたはずであるから、市民の居住区全体では、452.5×32=1万4480戸主となる、これを、家族の平均値である
 6.22をかけあわせると、9万66人が一般市民の人数である。これに貴族・官人(12273人)と諸司厨町(15033人)加えると117,372人になる。


() 市
  東西市は、遷都の4ヶ月前の延暦13年7月1日に建設されたが、その場所は、東市が七条坊門南・七条北・大宮東・堀川西にあり、西市は七条坊門南・七条北・堀川東・大宮西にあった。当初その規模は四町であったが、10世紀には経済活動東西南北に各二町の外町を持つようになり、規模は三倍に拡大した。 
 市は、「牛も時」(1214時)に始まり、日没前鼓の合図で終了した。また、市は、東西の市が同時に開催されるのではなく、月の前半は東市が開かれ、後半は西市が開かれた。また、東西市の取扱商品が異なり、東市が錦、帯、布、太刀、香、麦など51品目、西市が土器、牛、絹、味噌など33品目でしたが、そのうち染皮・油・菓子・米・塩など17品目は両市の共通の品物であった。しかし、10世紀末から11世紀初頭が機能を停止し、続いて平安時代の後半官営の最後の東市も消滅した。それに代わって登場してきたのが個々人の店によって構成された交易の場所らる町で、平安時代末期には三条町・四条町・七条町が出現した。


(
) 家屋
 4世紀ころから八世紀にかけて中国から高度な文化が仏教とともに入ってきて日本化され、多くの寺院や貴族の住居がつくられた。やがて八世紀になるとある一つの形を持ち始めてくる。 貴族文化と言われる、平安時代の寝殿造しんでづくりがそれである。 
 寝殿造は、平安時代の貴族の住宅の様式である。寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられる、東西に対屋たいやと呼ばれる付属的な建物を配し、渡殿わたどので繋ぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。
 寝殿は、檜皮葺ひわだぶきの屋根で木造の高床式家屋である。開放的な造りで、室外とは蔀戸しとみどなどで仕切る。前方には池・築山などのもつ庭園が造られた。 家は身分を表す。誰でも好きなように作ることはできなく、三位以上の上流貴族の邸宅に見られ、敷地は平安京の条坊保町の制により一方一町(約120m四方)を標準に、敷地の周りに築地ついじ壁をめぐらした。
 京都は794年遷都して以来1000年以上現存し、その間何度となく、建て替え工事を行っているため、考古学的資料がほとんどなく、庶民がどのような家に住んでいたかは不明である。ただ、宇治上神社拝殿は、鎌倉初期のT建築であるが、平安時代の住宅建築様式で、日本最古の住宅建築である。(「世界遺産・平等院」・「世界遺産・宇治上神社」参照)
(10)
 庭  「庭園の歴史」参照

参考文献
*漢長安城と阡陌・県郷亭里制度 著者古賀登  発行所雄山閣
*国際後援会「東アジアの古代都市」   編集奈良女子大学21世紀COEプログラム
*飛鳥古亰・藤原亰・平城京      著者寺沢龍、発行所草思社
*古都発掘-藤原亰と平城亰 著者田中琢、発行所岩波新書
*平城京古代の都市計画と建築b 著者宮本長二郎、発行所草思社
*平城京再現 監修坪井清足、発行所新潮社
*平安京その歴史と構造 著者北村優季、発行所吉川弘文館
*平安京年代記 京都新聞編集・発行所
*平安京への道しるべ 著者土田直鎮、発行所吉川弘文館
*平安京1200年 編集発行 財・平安建都1200紀念協会
*平安京から京都 編集上田正昭、発行所小学館
*平安京と京都 著者村井康彦、発行所三一書房
*平安京くらしと風景 著者木村茂光、発行所東京堂
*日本型建築の歴史と未来像 著者菊竹清訓、発行所学生社
*古建築の見方、楽しみ方 著者瓜生中、発行所PHP

 







 





 




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