京都と寿司・ 朱雀錦
(38)「木島神社と秦氏」
                          木島神社

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                  A木島神社
 所在地   京都市右京区太秦森ケ東町
 主祭神   御祭神は天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、大国魂神おおくにたまのかみ
       穂々出見命
ほほでみのみこと、鵜茅葺不合命うがやぶきあえずのみこと、瓊々杵尊ににぎみのみこ
 
正式名称は木島坐天照御霊神社
このしまにますあまてるみたまじんじゃで、通称木島このしま神社又は「蚕かいこの社やしろ」と呼ばれている。 創祀時期は不詳であるが、かってこの地の勢力者であった秦氏が、水の神を祀ったのが始まりとされている。
 旧郷社。 秦氏ゆかりの神社で「京都府地誌」は推古天皇12年(604)の勧請するとある。 確実な史料では「続日本紀」大宝元年(701)4月3日条に「山背国月読神、樺井かばい神、木島神等の稲を今より、以後は中臣氏に給え」という勅によって、それ以前の鎮座であることが知られている。 延喜の制には名神大社となり、四度の官幣および相嘗あいなめさい祈雨祭きうさいにあずかったが、特に祈雨の神として崇敬された。 
 創祀以来、朝野の崇敬あつく、「梁塵秘抄」巻2の歌にも、
 「金かねの御岳みたけは一天下、金剛蔵王釈迦み弥勒、稲荷も八幡も木島も人の参らぬ時ぞなき、太秦の薬師がもとへ行く磨を、しきりに止むるこ木島の神」
があるように、参詣者が絶えなかったことがうかがえる。 神階は、天安てんあん3年(859)1月27日に正5位下が授けられ、長久4年(1043)5月10日に正一位が授けられた
(1)養蚕こかい神社
  養蚕神社は本殿の右にあり、蚕の神と保食神うけもちのかみ、木花開耶姫命このはなさくやひめのみことを祀る。
  養蚕、機織を司った秦一族の繁栄地に因んで創祀されたもので、養蚕、機織、製糸業者の信
 仰が篤い。 
   また、末社には三井家の祖と言われる三井越後の守高安命たかやすのみことを祀る顕名あきな神社、承久の乱で
 当社 の境内にて戦死した三浦胤義たねよし父子を祀った魂鎮たましずめ神社が合祀三十八所神社がある。
(2) 三つ鳥居
  三つ鳥居は、3柱鳥居・三面鳥居とも呼ばれ、本殿の西、元糺池の中にある。  三方正面の石鳥居で、鳥居
 の 中心に組石の神座があり、御幣を立て三方から遥拝出来るようになっている。 
   糺池は、四季を通して池底から清水が湧出、禊の行場であるが、毎夏第一の「土用の丑」の日に、この池水
 に手足を浸すと「しもやけ」や「脚気」にかからないという民間信仰がある。
  元糺とは、下鴨神社にある糺に対して言ったもので、社伝では、賀茂の明神はこの地から移られたといわれ、
 糺すの名もこれによって下鴨に移したといわれている。
  現在の鳥居は、天保てんぽう2年(1831)に再考された鳥居は、全国でも珍しい三本柱で、京都御
 所内、厳島神社の唐破風鳥居、北野天満宮内伴氏社の伴氏鳥居と共に京都三鳥居と言われる。

(3) 天塚古墳
  木島神社より正南約750m、太秦松本町にある。 塚は、長さ71m、二段築成の前方後円墳
 で、ほぼ南面している。 前方部が著しく拡大し、高さも前方部の方がやや高い。 
内部主体
 は横穴石室からなり、後円部の中央西側ちお前方部のくびれ部分との二か所にある。  明治20年(1887)く
 びれ部の石室を発掘した際、鉄製馬具類や鉱金刀類等が銅鏡、碧玉類とともに出土した。 
  この古墳は、6世紀前半の築造で、秦氏一族の首長の墳と見られる。 嵯峨野地方現存古墳中、墳丘・内部
 構造・出土遺物共にそろっているのは、ここだけで、学術的に貴重な存在となっている。  石室内には、現在
 、 白清稲荷が祀られている。 


                               B 秦氏
 古代日本に「秦王国」を築き上げた秦氏の人々は、秦氏族の遠祖は、秦始皇帝と称している。
 これを如実に示すのが、京都太秦に所在する広隆寺の「広隆寺由来記」であり、そこには、始皇帝の孫「胡苑」の末裔となっている。 「三国志魏書」辰韓伝によれば、
 辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役うぇお避けて韓国にやってきた昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したので、ここに居住したのだと自称している。 言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。
 秦氏は、日本に移動したかを理解するためには、朝鮮の歴史を理解しなければならない。 初めに朝鮮の歴史を勉強してみよう。

                  1.朝鮮の歴史
(1) 百済の歴史
  漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし朝鮮半島に楽浪郡など四郡を設置したBC108年から、百済・新
 羅が国家として体裁を整える4世紀中頃までを原三国時代と言い、金海時代、三韓時代、部族
 国家時代などの名称で呼ばれてきた。 三韓とは、文献に現れる馬韓マハン、辰韓チナン、弁韓ピヨンナン
 でいずれも昔の辰国である。 馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、三韓(旧辰国)の大王
 とした。
  漢江ハンガン流域、現ソウル市南部を中心とした馬韓の小国の伯済国は、以後連盟王国とし生長
 し、馬韓に代わる新しい政治勢力の中心となって発展したとされている。
  「三国史記」の百済建国は、紀元前18年となっているが、記述自体に対する疑問があり紀元
 前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説がある。 高句麗と同様ツングース系扶余族の流移民
 (支配層)と土着民(被支配層)からなる国とされている。 
  中国が支配のために置いた帯方郡たいほうぐんに近くにあった伯済国は、その文化的影響を受けて
 成長した側面のある。 4世紀初め、西晋せいしん王朝内部の混乱によって関心の薄れたころ帯方
 郡を馬韓が攻撃しているが、その中心はすでに伯済国であったと思われる。
 4世紀半ば近肖古
 王代までには、周囲の諸国を併合して領城国家として成長してくる。  北には先進の高句麗があった。  この
 ころ対高句麗戦に活躍したのは、太子近仇首クングスで、371年には高句麗軍の平壌城ピヨンソンを攻めて占領した。
  その時王故国原王を戦死させている。  その一方、東の新羅の勃興をにらみつつ伽耶地域へ進出し、安羅
   アルラ
、加羅カラ(大伽耶ラーガヤ)、卓淳タクスンをはじめとする伽耶諸国と通じて親交を結んだ。 また、倭とも接近する
 ことになる。  「七支刀」しちしとうは近肖古王代に太子近仇首が倭王に贈ったもので、百済と倭の同盟関係の樹
 立を記念したものである。 
  高句麗は広開土王(日本では、好太王)が391年に即位すると積極的な領土拡大をはかり、百済も攻撃した。
 百済はこの戦いで、371年に獲得した平壌城を奪い返された上に、58城邑の700村を奪われ、更に王子を人質
 に取られた(396年)。 これにより百済は首都を漢城から錦江流域の熊津 へ移した(475)。
  熊津遷都以後の百済は王権が弱体化、支配勢力が交替して、国力の衰退とともに政治的不安に苦しむに至
 った。  こうした状態から社会が安定して国力が再び回復するのは、東城王から武寧王に至るときで、この時
 、地方に22擔魯たんろうを設置し、王の子弟や宗族を王・侯に封じ地方に対する統制担強化した。
  一方。 熊津は高句麗の攻撃に備えた一時的な首都で、百済が新しい発展の拠点を用意するためには、もっ
 と広い場所に新首都を建設する必要があった。 そうして次の聖王は泗沘しひへ遷都し、百済の中興を企てるよ
 うになった。 この時中央及び地方制度を強化し、仏教の信仰を企てることによって国家の精神的な土台を固
 めた。 
  百済の聖王は、551年、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻したが、 552年
 、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。 
  642年、百済は、新羅の国西四十余城を奪い、更に新羅の唐への要衝路である党項城とうこうじょうを高句麗ととも
 に襲い、南部の中心地である大耶城だいやじょうを奪った。
  645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と
 加羅地方を侵略した。 
  655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の三十三城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。 唐は遼
 東郡に出兵したが大きな効果はなかった。  658~659の唐による第3回の高句麗への出兵が行われるが、こ
 れが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。 
  第31代(百済最後の王)義慈王ぎじおうは即位すると直ちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。 642年
 に王族とその母妹女子4人を含む高名人士40人を島に追放した。  しかし、王権強化のための義慈王の極端
 な措置のため、王族と貴族の間の対立が深刻となって、百済支配層の分裂が発生するようになった。 655年
 高句麗と組んで新羅の30城を奪ったこの頃から連戦連勝で傲慢になった義慈王は酒食に走り、既に朝政を顧
 みなかったという。  またこれを厳しく諌めた成忠を投獄したため、その後諌言する者はいなくなった。
  660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅も5万の兵で出陣した。 新羅軍は黄
 山之原で勝利すぃ、唐軍は白江で百済軍を破り、王都の泗沘を攻めた。  義慈王は一旦は旧都熊津城に逃
 れたが、皇太子共に降伏し、百済は滅亡した。
  百済滅亡以後、唐軍の主力が帰国すると、各地で国の復興を企てる抗戦が展開された。 百済遺臣で王族
 の鬼室福信等が、日本に人質に送られていた豊璋を擁立して百済復興運動を起こし、200余の城を回復した。
  百済滅亡3を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、人質として滞在していた百済皇子
 である、扶余豊璋を急遽帰国させとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。 しかし帰国した豊璋は百
 済王に推載されたが、実権を握る福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛がおきた。 やがて唐本国か
 ら劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江で決戦し大敗した。

(2) 高句麗の歴史
  高句麗は、古代東北アジアにおける大国であった、 百済、新羅とならぶ朝鮮三国の一つとして知られるが、
 なかでもとりわけ早くんに政治的成長を遂げた。 高句麗を構成する主要民族は、百済支配層と同じ、ツングー
 ス系扶余族である。 鴨緑江の中流域及びその支流渾江の流域などの谷部や山地を本来の住地として紀元前
 1世紀初めに興起し、668年に内紛を機に唐・新羅連合軍の攻撃を受けて滅んだ。  700年余におよぶその興
 亡は激動する東北アジアの中でひときわ光彩を放った。
   2004年、北朝鮮の「高句麗古墳群」と中国の「高句麗の首都と古墳群」がユネスコ世界遺産に同時登録され
 た。 その登録概要には、…考古学的考証などを通じて導きだされた高句麗建国時期は紀元前277年である。
  しかし、”「三国史記」高句麗本記”には下記のように記されている。
  『 国を高句麗と号したので、高を氏とした。 時に二十二歳
   考元帝の建昭2年(前37年)、新羅の始祖の赫居世の二十一年「甲申の歳」なり 』
  上記のように三国史記は、朱蒙の建国年を記しているが、なぜか新羅の始祖が併記されている。
  三国史記が成立したのは12世紀で、ずっと後世の作品です。 6世紀以後の記述についてはかなり信憑性が
 高いと言われている。 この記述によると、新羅の国が出来たのは、紀元前57年のことになります。 「三国史
 記」に  は、勿論紀元前57年とは書いてありませんが、「三国史記」には王様が何年に何をされたとずっと出て
 きますそれを逆算しますと紀元57年に新羅が成立したことにんばるわけです。
 歴史上に新羅が登場するのは4世紀以降である。  三国史記の著者である金富軾は新羅系高麗人で、悠々
 の歴史を有する高句麗に対抗して、新羅の建国時期を意図的に古代にずらしたことが疑われるが、辻褄を合わ
 せるために 、高句麗の古代史を新しい時代に置き換えたようだ。 こうなると高句麗の継続年数は、700年で
 はなく940年に なる。
  高句麗は扶余から南下した朱蒙によって建国された(BC277年)。 朱蒙は扶余の支配階級内の分裂、対立
 の過程で迫害を避けて南下し、独自の高句麗を建国した。 高句麗は鴨緑江の支流である佟佳江流域の卒本
 地に位置した。 この地域は大部分山と深い渓谷からなる山岳地帯で、土地が痩せていくら働いても食料が不
 足していた。 高句麗は建国の初期から周辺の小国を征服して平野地帯に進出しようとした。 そして鴨緑江辺
 の国内城へ移って5部族連盟を土台にして発展した。 その後、活発な征服戦争で、漢の郡県を攻略して遼東
 地方に進出し、また、東方へは高原を越え沃沮よくそ(朝鮮半島北部に日本海側に住む)を征服し、献納させた。
  高句麗も扶余と同じく王の下に大加がいて、彼らはそれぞれ使者、早衣、先人などの官吏を率いて独立して
 勢力を維持した。 そして重大な犯罪があれば、諸加会議によって死刑に処し、その家族を奴婢にした。 
  高句麗の社会は、扶余から移ってきた流移民と鴨緑江流域の土着民集団が結合して生まれた。 これらの部
 族は中国文化と地方の遊牧文化に接した経験が類似していたため、高句麗は結束力を強化し、征服国家体制
 へ転換することができた。 
  高句麗の成長過程で太祖王の時代は極めて重要な時期であった。 まず周辺地域に対する征服と統合がよ
 り活発に展開させ、顕著な対外発展が遂げられた。 威鏡道地方の沃沮を征服して満州地方へ勢力を拡大さ
 せ、楽浪に対しても始終圧力を加えた。 このような対外的発展に助けられ王権が成長し、高氏による王位の
 独占的世襲が行われるようになった。 集権的官僚組織が整い始めたのもこの頃のことであった。 また中央
 集権国家体制へと進展した。 
  三国の中で最も早く発展した高句麗は2世紀後半になって体制の中央集権化と王権の強化に新しい進展を
 もたらした。 従来の部族的伝統の5部族が行政的な5部に変わり、王位継承は、兄弟相続から父子相続へ変
 わった。
  3世紀中頃に衛が高句麗との挟み撃ちで、満州一帯で独自な勢力を育ててきた公孫を滅亡させるや、高句
 麗は中国勢力と正面から対決するに至った。 この過程で衛の侵入を受けたこともあったが、4世紀はじめに
 高句麗は、楽浪郡を討って中国勢力を追放することに成功した(313)。 しかし、その後、北から前燕、南から
 百済の侵略を受けて国家的な危機を迎えることになった。 高句麗が危機を迎えることになったのは、部族別
 に散らばっていた力を組織的に統率できなかったところに原因があつた。
  こうした状況を克服して国家体制を大きく改革しながら新しい発展の土台を整えたのは小獣林王しょうじうりんおう(17
 代、在位371~84)の時のことだった。 即ち、仏教の受容、大学の設置、そして律令制度の導入など、まさしく
 地方に散在していた部族勢力を効果的に統制し、中央集権国家への体制を強化するものであった。 
  小獣林王の時の体制改革にもとずいて広開土王の時代には国力を外に膨張させ、その諡号おくりなが意味する
 ように広い領土を確保した。 遼東方面を含んだ満州の大部分の地域が高句麗の版図となり、南側では百済
 を圧迫し、新羅を助けて南海岸の一部地域に侵入した倭軍を撤退させたこともある。  当時の活発な征服事
 業については、国内城に建てた広開土王陵碑にその内容が記録されている。
  その後、長寿王のときには国内城から平壌に遷都し、高句麗発展の新しい転機をもたらした。 高句麗の平
 壌遷都は、国内では王権を強化する契機となり、外には百済と新羅を圧迫要因となった。
  6世紀末、南北朝に分裂していた中国が随によって統一されると、高句麗はその圧力を受けるようになった。
  当時の国際情勢は、突厥とつけつ(トルコ語族)から高句麗、百済、倭の南北につながる連合勢力が構築されて
 いた。 この勢力は随に負担を与え、これに対抗して新羅と随の連合ができた。 
  一方、高句麗は遠く中国の遼西地方を攻撃して隋の圧迫を予防しようとした。 これに対して、隋の文帝と煬
 帝が引き続き高句麗を侵略した。 とくにに随の煬帝は113万の大軍を動員して高句麗を侵攻した。 しかし、
 高句麗は乙支文徳いつしぶんとくの巧みな誘導作戦で薩水で隋の大軍を撃破いた(612年)。
  随に続いて唐が立つと、高句麗は国境に千里の長城を築いて侵略に備えた。 さらに淵蓋蘇文えんがいそぶん
 穏健派を粛清して行政と軍事権を掌握し、唐に対しては強硬に対応した。 これに対して唐の太宗は直接17万
 の高句麗に侵入した。 唐軍は遼河を越えて遼東城を占領し、続いて安市城を包囲した。 安市城では、民の
 すべてが力を合わせて60余日間も唐軍を迎え勇敢にたたかった。 その間に高句麗軍の全面的な攻撃の気
 勢をみ て、唐の太宗は撤収せざるを得なかった(645年)。
  高句麗・百済の圧力に苦しんだ新羅は、積極的な対唐外交を推進していた。 そうして高句麗侵略に失敗し
 た後、再侵略の機会を伺っていた唐と手を握った。 新羅・唐連合軍はまず、百済を攻撃した。 新羅の金庚信
 と唐の蘇定方がが率いる連合軍が百済の泗沘城を攻めと義慈王は泗沘城を脱走したが、連合軍に追い詰め
 られ、熊津城で降伏し、百済は消滅した。 
  百済を滅ぼした後、新羅・唐連合は水陸両面で高句麗を攻撃下が、高句麗の強力な抵抗で成功しなかった。
  高句麗の宝蔵王は、先代栄留王の弟太陽王の子で、先王を殺したは淵蓋蘇文によって王位に付けられ、
 王としての実権は以ていなかった。 666年実力者淵蓋蘇文死ぬと彼の三人の息子即ち、男生ナムセンその弟、
 男建ナムゴン、男産ナムサンとが対立した。  跡目争いに敗れた男生は追われて唐に降伏を申しでた。 唐はそれ
 を好機として、667年、服属した男生に先導させ遼東方面に兵を進めた。 その翌年新羅と共に王都。長安城を
 攻撃した。 この唐・新羅連合軍お攻撃に王都は持ちこたえられず陥落し、宝蔵王以下高句麗官僚は降伏し
 高句麗は滅亡した。

(3) 新羅の歴史
  中国の歴史書「三国志」の韓伝3世紀前半辰韓には12国あり、この時、新羅はまだ存在していなく、新羅は西
 暦300年前後に成立します。
  漢江以南の地域に辰(馬韓、辰韓、弁韓の前身)が早くから成長し、辰の紀元前2世紀ころ古朝鮮の妨害で
 中国の交通が阻止されていた。 しかし、古朝鮮滅亡後大挙して流民が南下して新しい文化が普及し土着文化
 と融合して社会が一層発達した。 
  辰韓十二国に斯盧さろ国がある。 斯蘆国が基盤となり、周辺の小国を併せて発達していき、国家の態をなし
 たと見られている。 新羅は、朴赫居世パク・ピョッコセによって建国された(BC57年)。 初期には朴、昔、金の3部
 族が連盟して王に該当する尼師今イヤグムを選出したが、やがて続いて6部族連盟体に発展した。
  「秦書」には、377年に前秦に初めて朝貢したと記されており、382年にYは新羅王楼寒ろうかんの朝貢が行われ、
 その際に新羅の前身が辰韓の斯蘆国であることを前秦に述べたとされる。 この「楼寒」については王号の「痲
 立千」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。 記述から第17代奈勿尼師今の即位
 (356)が新羅のう事実上の建国年とも考えられる。 従って第1代赫居世から第16代訖解までの王は伝説上
 の王として取り扱われている。
  周辺諸国を征服して慶北地方一帯の大国に成長した新羅は4世紀後半、奈勿尼師今ときになって中央集権
 国家に発展した。 このとき新羅は領土を洛東江流域まで拡張し、内部的には体制の整備を断行した。 そし
 て朴、昔、金の三姓が交互に王位に上ることに代わって金氏による王位継承が確立した。 大首長という政治
 的意味をもつ痲立千が王号として使用されたのもこうした王権の伸長を表したものである。
  奈勿王以後の金氏の王位世襲は、高句麗の軍事力と密接な関係がある。 新羅沿岸に出没する倭寇を撃
 退するために高句麗の軍隊が新羅の領土内に進駐したときもある。 以後、新羅は制度の改革を推進し、高
 句麗の干渉を排除しながら発展した。 水利事業と牛耕によって農業生産力を増大させる一方、郵駅と市場
 を開設することによって物資交換が活発になった。 これとともに高句麗に依存していた対外関係から脱却し、
 百済同盟を結ぶことになる。 
  新羅が中央集権国家に飛躍的な発展を始めたのは6世紀の初めからであった。 第22代智証王のときに政
 治制度は更に整備され、国号を斯蘆国から新羅へ、痲立千から王に修正した。 新羅という国号は、王の業績
 が日ごとに新しくなって四方を網羅するという意味をもったものでこれは王室が地方の支配勢力を確実に掌握
 していたことを示している。 
  この時期に新羅は首都の行政区域を整備しつつ地方の州・郡を整備した。 同時に州に軍主を派遣して治め
 ることにより地方制度を軍事制度と平行に整備した。 続いて律令が頒布され、官位、官服が定められたばかり
 でなく、骨品制度が整備されて中央集権国家体制を完備していた。
  また次の第23代法興王は乾元という独自な年号を用いることによって、新羅が中国と対等の国家であること
 を誇示した。
  その後、高句麗は長寿王の時代に首都を平壌に移して(427)百済と新羅に対する圧迫を本格化すると新羅・
 百済同盟ができるなど戦いはより激烈になった。 高句麗が百済の首都・漢城を陥落させて朝鮮半島中部地
 域まで掌握するようになると危険意識を持った百済、新羅の両国は同盟関係を強化して高句麗の勢力膨張を
 けん制した。 百済と新羅が力を合わせて高句麗を追い出し、漢江流域を奪還することに成功したのは6世紀
 中頃のことであった。 しかし、この時新羅は、百済が回復した地域を一方的に新羅領土に編入させた。 これ
 により120年間続いた両国の同盟関係はくずれた。
  新羅の第24代真興王はの時花郎制度(新羅の青年貴族集団;平時は道義によってみずから鍛え、歌楽や
 名山勝地での遊楽を通じて精神的、肉体的修行に励んだ。 そして宣旨には戦士団として戦った)によつて多
 くの人材を輩出する一方、国力を征服事業に集中させた。 洛東江流域と漢江流域の中部地方を確保しその
 勢力が咸鏡道かんきょうどう地方にまで達するようになった。 とくに漢江流域の掌握は、三国競争の主導権が新羅
 に移る契機になった。 以後、新羅は黄海をとおして直接中国とつながることによって外交的な攻勢まで強化す
 ることのできる有利な足がかりを作った。 
  そして高句麗侵略に失敗した後、再侵略の機会を伺っていた唐と手を握った。 新羅・唐連合軍はまず、百済
 を攻撃した。 百済の首都泗沘城を攻撃すると、短期間で落城し、660年百済は滅んだ。
  百済を滅ぼした後、新羅・唐連合軍は高句麗を攻撃したが高句麗の抵抗で成功しなかかった。 しかし、支配
 層の内紛が起きて高句麗の国力が弱体化すると新羅・唐連合軍はこの期を逃さず、再び高句麗を攻撃した。
 そして高句麗の平城も陥落した(668年)。
  百済、高句麗が倒れると唐は、百済の昔の土地に熊津郡督府、平壌に安東部護府を設置し、はなはだしきは
 新羅本土に鶏林大都督府けいりんだいとくふを置いて、朝鮮半島全体を確保しようとした。 これに対して新羅は百済、
 高句麗の遺民と連合して唐と全面的に対決した。 
  新羅の対唐戦争は百済地域の駐屯軍を攻撃することから着手し、続いて高句麗地域まで広げられた。 唐も
 やはり新羅の攻撃にあって、侵略軍を引き続き投入したため熾烈な戦闘を各所で展開した。 新羅は買肖城で
 唐の20万の大軍を撃破して主導権を掌握した。 つづいて錦江河口で唐の水軍を殲滅し唐勢力を完全に追い
 出し三国統一を果たした(676年)。

(4) 伽耶の歴史
  「三国志」の「魏志東夷伝」に3世紀頃弁韓12ヶ国が登場する。  ところが司馬遷の「史記」の記録に「真番
 しんばん(漢朝により朝鮮半島に設置された地方行政機構)の傍衆の国、上書して天子に見えんと欲するも、また
 関を擁して通せず。 元封2年、漢は渋何をして論さしむ云々」とあるとおり、紀元前3世紀、漢の武帝の時に朝
 鮮半島南部の諸国が中国に国交を求めようとしたことがわかっている。 その中に伽耶諸国が含まれていたと
 推測される。
  「三国遺事」‹駕洛国記›に本伽耶の始祖誕生と国の始まりについて次のように伝えている。
  天地開闢てんちかいびゃく(せかいの始まり)の後、この土地にはまだ国号がなく、それに君臣の呼称もなかった。
  …後漢の世祖光武帝の建武18年壬寅みずのえとら3月禊浴の日(村人が川辺に集まり、穢れを洗い流し、杯を交
 わす行事)に、土地の北側の亀旨クジで、何か呼んでいるような不思議な声がした。 2,300の村人がそこに
 集まってみると人の声のようであるが、姿はみえない。 その声が「ここに人はいるのかいないか」というので、
 九千たちは「私達がここにいる」というと、その声はまた「ここはどこだ」といった。 「ここは亀旨だよ」するとまた
 その声は「皇天が私に命ずるに、ここに行って新しい国を建て王になれというので、下りてきた。 お前たちはす
 べからく山の頂上の土を掘りながら”亀よ!亀よ!首を出せ!出さねば焼いて食ってやる”と歌いながら踊るが
 よい。 そうすれば大王を喜んで迎えることになるんだ」といった。  九千たちは言われるとおりに、皆喜んで
 歌い踊り、しばらくして空を仰ぐと紫色の縄が天から垂れてきて地面についた。 その縄の下の端を探してみる
 と、赤い布に金色の函が包まれていた。 開けてみると黄金の卵が6個入っていて、日輪のようにまるかった。
  6個の卵は童子に化けていた。 容貌は甚だ怪偉であった。 床に座らせてみんな拝賀し、うやうやしく接待
 した。 …その月の15日に即位した。 初めて現れたというので「首露」と懐けた。 あるいは「首陵」ともいった。
  国を大駕路国または伽耶国と言った。 即ちこれが六伽耶の一つである。 他の5人はそれぞれ行って五伽
 耶の主となった。 
  六伽耶の始祖誕生と国の始まりは、後漢の世祖光武帝18年壬寅3月であったと書かれている。 この年は西
 暦42年で金官伽耶の始祖露王と五伽耶の王たちが同時に誕生し、同月15日に即位したというのである。
  3世紀当寺の伽耶地域には、弥離弥凍国、古資弥凍国、古淳是国、半路国(半跛国の誤写)、楽奴国、軍弥
 国、弥烏邪馬国、甘路国、狗邪国(金官伽耶)、走漕馬国(卒痲国)、安邪国(安羅国)、瀆廬国(東莱郡)の12
 ヶ国があるが、六伽耶との関係は明らかではない。 
  韓国が新石器時代から青銅器(無文土器時代)への移行時期には諸説があって紀元前1000年から紀元前6
 世紀まである。 いずれにしても日本における弥生時代より数百年から300年まえに新石器段階から脱皮しいち
 早く農耕時代に入っている。  無文土器時代の遺跡から、アワ、ヒエ、キビ、モロコシ、コメ等の穀物が出土す
 る。 従って稲作の開始年代は紀元前数世紀に遡ることが確実である。
  伽耶地域から発見された考古学的出土の特徴は青銅器に比して初期鉄器の比重が重く、初期鉄器時代の
 代表的な生活遺跡である貝塚が南海岸一帯に分布している。 争点を残しているが金海文化期の上限を紀元
 前後から1世紀初葉に設定する学者が多い。 この時期の貝塚遺跡から瓦質土器、鉄刀子とうす(小刀)、鉄斧、
 鉄鏃やじりなどのような利器類が多数発見されている。 
  衛氏朝鮮(紀元前195~104年)の墳墓から出土する漢式鉄斧と朝鮮半島中南部の初期鉄器時代の遺跡から
 出土する鉄斧形態が明らかにことなる。 慶尚道地域鉄資源の鉱石の採掘と製錬を通して製鉄技術が独自に
 発達した。 優秀な鉄器文化は農機具の鉄器化をもたらした。 牛馬を利用して深耕による生産力の向上、墳
 墓から出土する鉄器具の中に農機具が多いのは農業が当時の基幹産業であったことを証明している。 
  朝鮮半島南部は、もとより韓ハン族の住地であった。 「三国志」によれば、馬韓50余、辰韓12、弁韓12合わせ
 て70余の小国が分離していたと伝えている。 これら朝鮮族の小国のうち、4世紀半ばになると次第に他を圧し
 て勢力を持つものが登場する。 馬韓の伯済と弁韓の斯盧で、伯済は百済、斯盧は新羅となる。 両者は諸小
 国を吸収・合併・連合して大きな領域を形成していく。 この2国に吸収されず残った小国群を伽耶諸国と称す
 る。
  2,3世紀ごろ金海の金官伽耶を主軸にした小国連盟体が形成された。 伽耶諸国は、周辺の強力な征服国
 家だった新羅、高句麗加羅果てしない侵略の受けながら、一時は洛東江中流域まで進出し、5世紀まで国家を
 保全した。 これは何よりも敵の武力侵入を撃退できるだけの強い軍事力を保有していたことに起因するものだ
 った。
  しかし、朝鮮半島内で高句麗と百済の間の勢力争いが熾烈になると、高句麗の軍隊が洛東江流域まれ進出
 するに至った。 こうした渦中で伽耶連盟王国内に今までいた小国が離脱していった。 これによつて、金官伽
 耶は大きな打撃を受けた。  
  5世紀以後の伽耶は、戦争の被害を受けていない。 高霊地方の大伽耶はその中心が移り、連盟の勢力図
 が再編された。 一方、新羅の膨張に刺激されて早く成長をとげた伽耶連邦王国は、陜川、咸陽、河東の地域
 を包括する勢力圏を形成し、中国の南朝に使臣を送ったこともあったし、新羅や百済と同盟して高句麗に対抗し
 たこともあltyた。 しかし、ついに三国のような中央集権国家としての政治的発展をとげることは出来なかった。
  これは、地域的に百済と新羅の中間に位置して両国の角遂の場となり、両国の圧力を受けて不安定な政治
 状況が続いたためである。
  6世紀前半に、大伽耶連盟王国は百済、新羅などの侵略を受けて、その南部地域から縮小され始めた。 そ
 うした中で伽耶南部の小国が大伽耶に不信をもち、再び金官伽耶を中心にして連盟王国を造ろうとしたので、
 新羅はこの地域に百済と倭の勢力が影響を及ぼすことをおそれて急遽、軍隊を起こし、併合した(532年)。
  一方、大伽耶連邦王国は新羅と結婚同盟を結んで勢力をかろうじて維持したが、しばらく後に分裂が生じて
 その勢力が弱まりついについに新羅に併合され伽耶は消滅した(562年)。
  

               2.我が国への民族の移動
(1) 日本語族
   日本語はアルタイ語系であると言われてきた。 アルタイ語は、インド・ヨーロッパ語、アフロ・アジア語とともに
 世界の三大言語と言われている。 アルタイ語は下記のように分類される。
  Aツングース語 ①沃沮よくそ・扶余ふよ・百済くだら(支配層)・高句麗こうくり・渤海ぼっかい 
             ②粛慎しゅくみん・挹婁ゆうろう・勿吉もつきつ・靺鞨まつかつ・女真じょしん・金・満州
             ③朝鮮・韓国、④アイヌ語、⑤日本語
  B蒙古語     ①モンゴル語、②ダウール語、③ブリヤート語、④トンシャン語、⑤パオアン語、⑥康家語、
             ⑦シュラ・ユグル語、⑧モングォル語、⑨モゴール語
  Cトルコ語    ①オグズ語群,②トルコ語、③アゼルバイジャン語、④トルクメン語、⑤ガガウズ語
            ⑥キプチャク語、⑦タタール語・クリミヤ・タタール語、⑧バシュキール語、⑨カライム語
            ⑩カラチャイ・バイカル語、⑪カラカルパク語、⑫カザフ語、⑬キルギス語、⑭クムク語、
            ⑮ノガイ語
            北東語群 ⑯アルタイ語、⑰トウバ語、⑱ハカス語、⑲ショル語
            ⑳ヤクート語群、21サハ語、   22ブルガリア語群、23チュバシン語
 アルタイ語類似語又は周辺国
 A ウラル語    フィンランド語、ハンガリー語、ラップ語
 B チベット・ビルマ諸言語  チベット語、ビルマ語、レプチャク語
 C インド・イラニアン諸言語 ヒンディ語、ペルシャ語、ベンガリー語、ネパール語、シンハリーズ語(スリランカ)
 D ドラビド語   ①タミル語、②マラヤラム語、③カンナダ語、④テルグ語
  従来から、日本語はアルタイ語系であるちと言われてきた。 もしそうとすればアルタイ語系国の中に、日本の
 同系語がなければならない。 同系語とは、いなは、別々の言語となっている二つの言語をさかのぼって行くと
 、何処かで何時かは、その二つの言語の基礎語(単語)も文法も一つになる関係。 
  明治時代以来、100年以上にわたって、日本の言語学者は、日本の同系語の検索を続けた。 アイヌ語、朝鮮
 に始まり、全てのアルタイ語で確かな手ごたえがなく、チベット、ビルマへと目標を転々としたが顕著な結果はえ
 られなかった。 チベットの南はインドで、インドはサンスクリット(インド・ヨーロッパ語族)で対象外であり、研究
 は座礁した。 しかし、実はサンスクリット語群の南に、別の語族があった。
  しかし、19世紀の中頃。イギリスの宣教師ロバート・コールドウエルは、インド南部の言語群がサンスクリット
 語と別系の言語であることに気付いた。  彼はその言語群を一括して「ドラヴィダ語」と言う名を付け、1857年
 に「ドラヴィダ語、すなわち南インドの言語族の比較文法」という大著を公刊した。 そして驚くことにコールドウ
 エルは、その中に日本語を引き合いにだして、ドラヴィダ語と日本語との同系誠を既に論じていた。 その研究
 は日本の言語学者によって気づかずに時が過ぎた。 日本人としては芝烝しばすすむ氏が1973.4年に「ドラヴィダ語
 と日本語」を発表し、この研究に先鞭をつけた。  その後藤原明氏と江実ごうみのる氏がドラヴィダ語の研究をおこ
 なったが、大野晋すすむは、ドラヴィダ語の中のタミル語を研究しタミル語は日本語の同系語であると発表した。

(2) 旧石器時代
  地球上に生命が誕生したのは20億年前と言われている。 しばらく温暖な気候が続いたが、約100万年前より
 寒冷な氷河時代に入り、地質学では洪積世こうせきせと呼ぶ。 氷河時代を、文化史の上では、旧石器時代と言い
 、この時代に人類が出現した。 北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)やピカントロプス=エレクツス(直立
 原人又はジャワ猿人)の人骨が発見された、4,50万年前に出現したと考えられている。 続いて20万年まえ
 にネアンデルタール人及びクロンマニヨン人が出現した。 彼らは、ホモサピエンス即ち我々の祖先にあたる。
  旧石器時代は、前期(400万~20万年前)、中期(20~4万年前)、後期の三期(4万~1万3千年前)に分か
 れている。 日本には従来、前期及び中期には、石器はないのが定説であった。
  ところが、昭和6年(19*31)早稲田大学の直良信夫なおらのぶお博士が兵庫県明石市西八木の海岸付近で崖崩
 れの中から古い人類の腰骨を発見した。 しかし、当時の学界はこの新発見を信用せず、黙殺された。
  この骨に注目したのが、人類学の長谷部言人はせべことひと博士である。 原始人類の骨であると認め、昭和32年
 (1948)7月、これを「明石人」と名付けて学界に発表した。 続いて昭和25年(1950)栃木県安蘇郡葛生町で
 腕の骨発見、昭和32年(1957)、愛知県豊橋市牛川町で上腕骨発見、昭和34年(1959)静岡県引佐郡三ヶ日
 町只木で下顎骨発見と発見が続いた。 また、人骨だけではない、昭和24年(1949)群馬県新田郡笠懸村岩宿
 で旧石器発見、以後関東ローム層下の赤土層から、旧石器出どが報告されている。 

(3) 細石器(細石刃)
  旧石器後期を旧石器時代と新石器時代の中間期そして中石器時代とも言う。  クサビ形細石器3万~2万
 年前、中国東北部からシベリアのツングース族居住地域で開発発達したと考えられている。 世界各地の広い
 範囲で出土し日本国内の遺跡は、北海道、東北が多く、近畿以南は出土しない。  細石器さいせっき(細石刃
 さいせきじん)とは、打製石器の一種で、小型かつ刃の特徴を持つ石器で、この技術を持ったツングース語族が、北
 から流入し、日本の東北部に定着したと考える。ある。
  関東以西では半円錐細石が分布する。 これに関しては、ナイフ形石器文化から日本独自に発展したという
 説や中国大陸の華北形細石がの影響を受けたという説がある。 

(4) 縄文時代
  新石器時代は、伝統的な石器時代の最後の部分とされる時代で、主に磨製石器が使用されるが、打製石器
 も使用される。 この時代は土器の使用も加わり、我が国では縄文時代という。 従来我が国の旧石器時代の
 前期及び中期には人間は存在と考えられていた。 しかし、上述の様に、その定説は否定されつつあるが、当
 時の在住う人口は微々たるものと思われる。  旧石器時代、我が国は大陸と地続きであり、我が国が現在の
 列島になったのは、紀元前8千年ころで、石器時代我々の祖先は大陸から容易に流入することができた。 
  国立民族学博物教授小山修三氏は、縄文時代、及び弥生時代を中心とする人口の推定を行っている。 
 ① 旧石器時代の人口は、日本全体で3千人程度であったであろう。
 ② 旧石器時代には人口は、日本列島にほぼ均一に分布していたと見られる。 
 ③ 縄文時代の人口が最大になるのは、縄文中期で、約26万人であ。 
 ④ 縄文時代の終わり、約2千年まえには、人口は、7,8万人までに落ち込む
 ⑤ 縄文時代には、人口の96%は東日本に集中していた。
 ⑥ 弥生時代になると人口は百万人近くになる。 
 ⑦ 弥生時代になると縄文時代とは逆に、西日本の人口が多くなる。
 ⑧ 奈良時代には、日本の人口は八百万人程になる。
  縄文時代の人口が東北日本に偏っていることは、細石器時代に引き続き、当時先進民族であったバイカル
 湖付近のツングース民族が、北から流入し東北日本に定着したのではとの意見もある。 しかし、縄文人の全
 てが北方系民族ではなかった。 国立遺伝学研究所宝来聡助手のグル―プは、埼玉県浦和市内から出土し
 た約六千年前の縄文時代前期の頭蓋骨など五体の人骨から遺伝子を抽出して、世界的に明らかにされている
 現代人の六人の者や、宝来氏が独自に集めた現代人95人(日本人61人、欧米人16人、アジア・太平洋地域人
 11人、アフリカ人7人)の物と比較した。 その結果、ミトコンドリアの塩基配列のうち、比較できた950個は、。大
 陸系ではない東南アジアの現代人お一人の配列と完全に一致した。 しかし、大陸系のアジア人とはかなり違
 っていた。 現代日本人との比較では、約三分の一に当たる22人が、190カ所のうち、1~2箇所を除いて一致
 したものの、残りの三分の2は、最高7か所で違っていた。 これは、日本人には大陸系を含めいろいろな起源
 があるという定説と合っている。 
  この結果、、縄文時代の関東に、東南アジアの人と共通の祖先をもつ集団が住み着いていた可能性がある。

(5) 弥生時代
  人類が今日のような文明と繁栄に向けて歩みだすきっかけとなったのは、自然にある物を取って食べる生活
 から自分の力で食べ物を作る段階に入ったことだろう。 そして、日本人の場合、その第一歩は、米作りを始め
 たことと言える。 その時期は縄文時代の終わりころから弥生時代の始めにかけてで、紀元前2百~3百年ご
 ろのことと考えられる。 従来朝鮮又は中国と考えられていた。 お隣朝鮮では、日本より3百年以上前から稲
 作栽培をしており容易に流入で来たと考えられる。 次に中国である。 米には日本型とインド形がある。 イン
 ド型は米粒が細長い、日本型粒長が短く丸みをおびている。 日本型の発祥地はインドの北部山間部から、安
 南地方(ベトナム)お通り、中国揚子江流域ち伝わり、ここが最大の生産地となつた。 揚子江流域から伝わっ
 たというのが最有力であった。 
  もしそうだとしたら、農業用語のコメ、イネ、ハタケ、タンボ、等の同系語が相手国にあるはずです。 例えば、
 タバコ、コンペイトウ、パンなどは、室町時代末期にポルトガル人が母国からキリスト教と一緒に日本に持ち込
 んだもので、ポルトガル語のtabako,confeito,paoという単語が物と一緒に日本に入った。 カッパ、サラサ、ジュ
 バン、ビロード、ボタンもポルトガル語のcapa,saraca,gibao,veludo,botao,が日本語に入った。 ところが、朝鮮に
 も、中国にもこれらに対応するところが、タミル語にはこれら単語の全ての同意語が見出される。 したがつて、
 稲作技術は、韓国や中国ではなく、タミル国から大野晋氏等は主張されている。
 [a] 同系語
    同系語とは、今は別々の言語である二つの言語をさかのぼって行くと、どこかでいつかは、その二つの言
  語の基礎語(単語)も文法も骨格も一つになる関係をいう。
   日本語は、言語でいう膠着語こうちゃくごで、ある単語に接頭語や接尾語のような変態素を付着させることで、そ
  の単語の文中での文法関係を示す特徴を持つている。 これは、アルタイ語の特徴で、朝鮮語、ツングース
  語、モンゴル語、トルコ語も同じであるが、タミル語も同様である。 
   稲作に関係する単語をあげると、ハタケ、タンボ、アゼ、クロ(関西ではアゼ、関東から北はクロという)、イネ
  、アワ、コメ、ヌカに対応するタミル語がある。
 [b] 交通手段 
    しかし、74kmもある遠い南インドからどうやって日本のに来たのか。  今日では陸上交通は安全であり、
  海上交通は危険が伴うと一般に信じられている。 しかし、古代では、道路を開きそれを管理することは非常
  に大きな労力が必要だった。 それに対し、海上交通は海が荒れた時、風向きが目的に合うまで、港に停泊
  し、順風を間って近い港から港へと渡って行く、天候さえよければ沿岸の航行は容易で、想像以上に遠距離
  を航行していた。 
   ところが、天理市清水風遺跡から、船の形と思われる弥生時代の土器のかけらが出土した。 オールが片
  側に18本、両側で合わせて36本ある。 この土器をもとに船の専門家茂在寅男教授の復元した図がある。
  真ん中に帆を立て、36人で漕いだ。  茂在教授が描いたこの図は、エジプトのハシプスト女王の墓に刻まれ
  た船をモデルにしている。 それは15人漕ぎで21.5mある。 フク王のピラミットの前から実際に掘り出した船
  は、長さ45m、紀元前26世紀のものであると証明された。 弥生時代の土器に描かれた舟の絵は数多くあり、
  茂在教授は古代の交通はむしろ海洋が中心であると言う。 そして古代の船の大きさが想像を超えること、日
  本の弥生時代の巨大な船の実在の可能性が十分考えられることを指摘されている。
   実際に、南インドから日本への航行が可能かどうかを実験した者がいる、それは岩田明氏である。 岩田氏
  は東京商船大学卒業後、世界を3週した経験を持つ航海士で、楔形文字の刻まれた粘土板の中に、一隻の
  船の建設に必要な材料を列挙した表がルーブル美術館に所蔵されていると聞き、ルーブルを訪れて、その資
  料を入手した。 そして広島大学の吉川教授の助力により、その一隻表は、舷側の助材195本、木釘7200本、
  と言うように記されていることを知つた。  その一覧表の材料全部を使い、鉄の釘やエンジンは用いず、船の
  建設が可能かどうか、岩田氏は南インドケララ州ペイプール市の造船会社と協議し復元建設を開始した。
   岩田氏の依頼に応じて造られた舟は全長15m、帆2枚、総トン数30トン、岩田氏が船長として指揮をとってお
  り、7人のタミル人を漕ぎ手に雇って、平成4年(1992)3月17日、南インドを出発、コロンボ、シンガポールを経
  て台湾の基隆により、沖縄まで来たが6月17日久米島沖で大きな三角波に遭い転覆した。 船は引き揚げら
  れ、横須賀に展示されている。 こうした船によってタミル人が海洋を航行し、東南アジアからオセアニアまで
  遠く航海し、交易に力を注いでいたと考えられる。 
   類例として、メソポタミヤ、バーレイン、インダス河口を往来していた船が存在したことが知られている。
   また、マダガスカル島の言語とインドネシア語が同系だということが、言語学者によって承認されている。 
  一直線にインド洋を渡ったのか、沿岸に寄港しながら航行したのかは不明であるが、古代の海上交通は、今
  日の我々の想像よりはるかに発達していた証拠である。 これは、広大な太平洋に分布しているポリネシア
  語族の範囲を見ても頷かれる。 遠隔の地にあるハワイ、イースター、マリオの言語は等しくポリネシア語族で
  ある。 それは海上交通が彼らを継いだとしか考えられない。
 [c] 何を求めて日本に来たか
    交易は売買である。 タミル人は、日本に稲作の字術を伝えるだけでなく、それに相当する見返りがあった
  はずで、それは真珠でなかったのではなかろうか(大野晋氏)。
    「万葉集」に白球しろたま、真珠またま、鰒球あわびたまという言葉が30数例ある。 その採れる場所として球洲すず
    
の海(石川県)、奈呉なごの海(富山県)、伊勢の海(三重県)、近江の海(琵琶湖)、阿胡根あごねの海(和歌山
  県)、筑紫(九州)などが万葉集に歌われている。 その他「球」とだけある歌が97例ほどあるが、球というだけ
  で真珠を指す場合もあつたであろう。
   最古の記述である中国の歴史書「魏志倭人伝」に「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。 皆徒跣はだし。 屋
  室あり、…真珠、青玉をだす。 その山には丹あり」とある。  この「魏志倭人伝」の記述や「万葉集」の例を
  みるろ、日本は真珠の産出の多い国であったと思われる。 また真珠は国際的に宮廷で珍重され、民間でも
  愛用されていたと推測できる。 
   タミルのベンガル湾に流入する河口の入り口にコルケイと言う港があった。 そこへギリシャやローマの王侯
  ・貴族が香辛料と真珠を求めてきた。 つまり、南インドは真珠の生産地でもあり、集散地でもあった。 
   南インドのタミルは日本とギリシャ・ローマとの海上交通の中間点に存在し、タミル人は海運に熟していた。
  これらを考えるとタミル人が貴重な真珠を求めてアジア大陸の東端の島国・日本まで海を越えてくることはあ
  り得るのではなかろうか。
 [d] 我々はタミル人に日本語を教えました。
   私ごとであるが、1975年結果的にタミル人に日本語を教えることになりました。  N社はインドSF社に合成
  繊維技術輸出を行い、SF社は、その技術に基づき南インドのチェンナイ市(当時はマドラス市)郊外に合成繊
  維工場を建設した。 我々はこの工場の運転開始に伴い、技術指導を担当するメンバーであった。 私は、昭
  和49年(1974)12月3日このチームの団長として単独でインドに先行しました。 工事の進行状況見ながら運
  転開始の時期を決定しその時期に間に合うよう、日本に残してきたメンバーを2回に分け呼び寄せました。 メ
  ンバーの構成は係長(大学卒)と作業長(高校卒)を一組にした13人のメンバーであった。 作業長の一人か
  ら、日本語しか知らないわれわれがどうしてインド人指導したら良いかと質問された。 そこで私は、ルーマニ
  アでの経験から、我々技術屋は技術用語に日本語を交えて話しても、意志は通じますと答えたら。 解りまし
  た、日本語でいいですね、ということになり我々のメンバーは、日本語でタミル人(タミル系インド人)作業者を
  指導したのです。 ところがルーマニア人作業者は、自国語以外の外国語一切覚えようとしなかったのに対し
  、タミル人は一所懸命に日本語を勉強し、短期間で日本語で会話が出来るようになったのです。 そしてタミ
  ル人曰く、日本語簡単に覚えられます。 文法も同じであるし、言葉も非常に良く似ているいった。 私は、タミ
  ル語が、日本語に近いと言う話は聞いたこともなく狐につまれた感じであった。 
   私が日本を発ち、インドに到着した1974年は、コールドウエルが1857年ドラヴィダ語について発表したが日本
  人の言語学者に気づかれず、芝烝氏が日本人そしてその存在に始けて気づき、「ドラヴィダ語と日本語」を発
  表した年で、我々グループがタミル人に日本語を教えたのはその翌年であった。 
 
(6) 大和王朝と日本語及び日本民族
  紀元前667年、日向の国高千穂宮にあった神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと(神武天皇)はここを船出して大
 和入り征旅に歳をかさね、各地で敵対する尊長太刀を平らげて最後に強敵長髓彦ながすくねひこを討ち、大和の橿原
 で即位する。 これが「古事記」「日本書紀」にきされている。 大和王朝成立の記録である。 これは、史実と
 は異なる、神武天皇の大和朝平定の時期は不明である。
  弥生時代末期の2~3世紀ころ、各地にムラがたくさんあり、各村には長があり、これらの村のいくつかを支配
 した首長あるいは、豪族とみなせる者もいた。 人々は、彼らの首長を厚く葬るという思想を持っていた。 しか
 し、そうした身分んの高い人の墓を特別に大きく盛り上げることはしななかった。 
  3世紀の後半になると、古墳特に前方後円墳が出現する。 古墳が盛んに作られるようになった3世紀後半
 から7世紀を古墳時代という。 大和王朝はこの時代に成立、発展したと考えられている。
  日本民族の形成及び日本語の成立は諸説がく、統一見解はない。 日本語及び日本人種は多くの民族の集
 積であるとされている。
  旧石器時代(中期)には、僅かではあるが、旧石器人がいたと考えられる。 旧石器時代後期(中石器時代と
 も言う)になると細石器(楔型)を持つたツングース語族がバイカル湖方面から北側を通り流入し東北日本に定
 着した。 また別種の細石器を持った民族が場所は不明であるが大陸から流入に西日本に定着した。 縄文時
 代にになると北方から民族の流入し東北地方に定着したと考えられる。 詳細不明であるか同時に南方から流
 入しがあったと考えられる。
  弥生時代になると、稲作の栽培技術を持った南方系(東南アジア人又は南インドのタミル人)流入した。 これ
 らの民族が混合なれ。原日本人及び現日本語が形成された。  さらに大和王朝構成民族が加わり、現在の
 日本語と日本民族が完成したとの考え方がある。



               3.秦氏
(1) 秦氏のルーツ
、 秦氏の人々は、秦氏族の遠祖は秦の始皇帝であるとしていた。 これを如実に示すのが、京都太秦に所在す
 る広隆寺の「広隆寺由来記」であり、そこに収載されている「秦氏家系図」には、始祖に秦始皇帝の名が記され
 ている。

 秦王朝 ┌二世胡亥 ┌胡苑(辰韓王第1世)─陽父(辰韓王)─孝武王(辰韓王)─古礼知巳─┐
 始皇帝─┴ 扶蘇───┴三世子嬰                                      │
  ┌ ─────────────────────────────────────────── ─
  └諸歯巨知(辰韓王)─┬那堤巨知─弓歯君─恭己叱君(辰韓王)─泫成君(辰韓王)─竺達君(辰韓王)┐
                 └伽耶巨知                                          │
  ┌───────────────────────────────────────────
  ┕鎮成君─考徳君─尊義君─武安君─┬功満君─弓月君 
                         ┕ 助解公─然能解公
 ● 「新撰姓氏録」では、秦氏は自らを秦の始皇帝の子孫と称し、倭漢やまとあや氏も漢の高祖劉邦の子孫と称し
  ている。 しかしいずれも「日本書紀」に書かれた、所伝である。 彼らはそれぞれの王朝の遺民を称していた
  として、中国系の民族とする見解がかっては有力であるが、しかし、戦後は、朝鮮半島の渡来人とする説が
  支持されている。 秦氏の故郷は新羅・伽耶方面とする説が有力である。」
 ● 両氏が秦と漢という中国の王朝名を氏の名にしている事実は、軽視できないのではないだろうか。 近年で
  は西本昌弘が、秦氏の祖先を「辰韓地方に広がっていた中国系外来人」として、倭漢の祖先を楽浪郡・帯方
  郡から移住した漢人移民に当ている。 両氏がこの名を称し始めたのは「日本書紀」編纂時よりかなり以前か
  ららしい。
 ● 西本氏が秦氏の祖先の故郷に想定する辰韓地方は、後の新羅の領地に相当する朝鮮半島南部bの東側
  に当たる小国である。 「三国志」魏書辰韓伝によると、ここに住む人々は自らの祖先について、秦の時代に
  重い課役を避けて中国から朝鮮半島に移住したのだと言っていたらしい。 彼らの話す言語も秦の人に似て
  いたという。 「秦韓」とも呼ばれていたというから、実際に中国からの移民と考えても間違いないだろう・

(2) 秦王国
  推古天皇16年(608)、随の皇帝は裴世清はいせいせいを使者の代表として倭国に派遣した。 「隋書」の倭国伝は
 、使者の百済からの順路を次のように記している。
  「『竹斯国』つくしに至り、又東して秦王国に至る。 其の人華夏に同じ。 以て夷洲と為すも、疑うらくは、明らか
 にする能はざるなり。 また、十余国を経て海岸に達する。 竹斯国より以東は皆倭にぞくする。」
  秦王国の人は「華夏と同じ」と書いてあるが、「華夏」は「中華・中国」の意である。 随使は秦王国の人々を中
 国人だと聞き、この国は「夷洲(台湾)」ではないかと思ったと言う。 「又十余国を経て海岸に達する」とあり秦
 王国は海から隔たった地のようである。
  秦氏は渡来氏族の中で最大の氏族である。 秦氏が何時、何処からきたのか。 五世紀前後に最初の渡来
 があり、百年ほど断続的に朝鮮半島の南部の伽耶地域を中心にして新羅に及ぶ範囲から渡来したと考えられ
 る。 
  中国の史書に記された「秦王国」は諸説ある。 豊前ぶぜん地方は古代秦氏の分布がきわめて高い地域であっ
 たことは「正倉院文書」を見れば明らかである。 大宝2年(702)豊前国戸籍によれば、秦+勝姓の総人口に対
 する比率は、仲津郡丁里で94%、上三宅郡塔里で96%、三宅郡加田久里で82%、全体の平均で93%を占め
 ている。 大和岩雄をはじめ多くの研究者が秦王国は豊前にあったものとみとめている。 尚、古代朝鮮では日
 本の長おさ(村長)位をスグルと言い勝又は村主の漢字を当てているので、この場合の勝は姓ではなく長クラ
 スの者と解釈すべきでないかと思う。
  西暦5世紀前後から約100年の間にどの程度の秦氏一族が我が国に流入しただろうか。 「欽明記」元年
 (629)8月条に、以下の記事がある。
  秦人、漢人等、諸蕃の投化おのずからもうける者を召し集め……(秦人、漢人等、諸蕃国から帰化した者を召集して
 、国郡に安置し、籍に登録した。 秦人の戸数は全部で7053戸あり、大蔵掾を秦伴造とものみやっことした。 大蔵掾
 は、大蔵省の三等官であるが、秦大津父のことを指している。 伴造は、陶器部等、農業以外の労働者の管理
 統制者。 即ち、秦大津父を全国の秦氏の管理者に任命した。)
  秦人、漢人などすべての渡来人を召集して各国郡に住まわせ、戸籍に登録したという。 全国的な戸籍は日
 本で初めて、670年天智天皇の下で作られた庚午こうご年籍ねんじゃくまで待たなければならない。 しかし、屯倉みや
  け
(全国に設定された直轄地)のような限られた地域の戸籍であれば、欽明朝の後期には作成されはじめてい
 た。 これによると秦人の戸数は全部で7053戸であったという。 古代の1戸の平均値は25人/戸とされてい
 たので、単純に25を掛けると
                7053戸×25人/戸=176,325人≒17万人強となる
  日本古代の人口については、古くは沢田吾一氏の推定(奈良時代の総人口6~700万人)、近年ではより精
 密な鎌田元一氏の推定(8世紀前半440~450万人、奈良末期~平安時代540~590万人)がある。 いま仮に
 6世紀前半の人口を400万人でえ計算すると
             17万人÷400万人=4.25%≒4%となる
  これは、日本人及び日本語形成されてから最大の民族流入になるであるおう。
  我が国に渡来した秦氏の原郷と見られる朝鮮半島南部の伽耶遺法に近い地理的条件から見て、豊前の「秦
 王国」は渡来秦氏の拠点となり、その拠点を経由する形で、おそらく一部のエリートが畿内のの中央政権に参
 入し、組み込まれていったものと推測される。
 [1] 宇佐八幡宮
    秦王国の地は豊前といっても、最初は祓川の上流の香春の地であり「豊前風土記」には次のように記され
  ている。
   「鹿春かはるの里。 此の郷の中に河あり、瀬清し、因って清河原きよかわらの村と号なずけけき。 今、鹿春の郷
  と謂うは訛れるなり。 昔、新羅の国の神、自ら渡り来て此の河原に住みき。 使名付けて鹿春の神と曰う。
  叉郷の北に峯あり、」
   「風土記」では、「鹿春」かはるの原義は「河原」でそれが「鹿春」「香春」と表記された。
   香春岳の神を祀る香春神社は、最初は採銅所のある三ノ岳にあった。 後一ノ岳の南麓に新宮を創祀し、
  古宮(本宮)と新宮を「両社」と号した。 この新宮が後には本宮的性格を持つ。この山の銅で八幡社の御神
  体の鏡を鋳造したので、この山は鏡山と言われた。 
   鏡山としての香春岳の神は母子神であった。 「延喜式」神名帳には「辛国息長大姫大目命からくにおきなおおめの
    みこと
神社」「忍骨おおほね命神社」に「豊比咩とよひめ神社」が加わった。  「辛国」は「加羅国」を意味し香春神社の
  神であったが、辛国姫は神功皇后の化身で同一人物とし神功皇后を意味する「息長大姫」を合体した。 「忍
  骨命おしほね」は母神の子であるが天照大神の子「天忍穂根」から天を除いた神名であるとし、その母である天
  照大神あまてらすおおみかみの別名「豊比咩」を追加した。 このように八幡神が大和政権の政策によって八世紀以後
  国家鎮護の神となった。
   八幡神の本社は、宇佐市南宇佐の御許おもと山(標高647m)の北北西、通称「小倉山」という丘陵にあり、
  現在は宇佐神宮と称している。 古くから文献に登場するが「宇佐宮」「宇佐八幡宮」呼ばれ親しまれるように
  なったのは貞観じょうがん元年(859)山城国の石清水いわしみず八幡神に八幡神が勧請されてからである。
   全国約11万の神社のうち、八幡社が最も多く、4万600社ある。 、宇佐神宮は4万社あまりある八幡社の総
  本山である。
   八幡宮の最大の祭j事は放生会ほうじょうえであった。 その祭事でもっとも重要なのは、香春岳の銅で作られた
  神鏡を香春の採銅所にある古宮八幡宮から豊前のほぼ全域を15日間かけ宇佐の和痲浜わまのはままではこぶ
  神幸行事である(現在は行なっていない)。
   朝鮮では、部落祭等の祭に旗の行列ともいえるほど多数の旗が立つ、八幡やはたは多くの旗を立てた祭祀
  様式に名付けられたものと考えられる。
 [2] 秦氏一族の分布
   日本で最大の氏族は、藤原家でも、徳川・松平家でもない。 秦氏である。 秦氏史研究会の調査によれ
  ば、北は北海道、南は沖縄まで日本全域に秦氏一族は分布している。 その分布は以下のとおりである。
        沖縄・九州地区           四国地域              近畿地域
       沖縄県     6家       高知県     19家       兵庫県    415家
       鹿児島県   15家       愛媛県    367家       和歌山県    59家
       宮崎県    66家        香川県    119家       奈良県    105家
       大分県    276家       徳島県    119家       大阪府    664家
       熊本県    30家       小 計     624家       京都府    167家
       佐賀県    15家                           滋賀県     34家
       長崎県    58家          中国地方           小 計   1444家
       福岡県   735家       山口県     81家
       小 計   1201家       広島県    282家          北海道・東北
                          岡山県    63家        福島県   141家
          北陸地域         島根県    312家        山形県    13家
       福井県   40家        鳥取県     6家         秋田県    6家
       石川県   14家        小 計    744家        宮城県    25家
       富山県    9家                            岩手県    7家
       新潟県   82家        関東地方              青森県    10家
       小 計   145家        山梨県    54家        北海道   250家
                         神奈川県  373家        小 計    452家
         中部地方          東京都    627家
       三重県   222家       千葉県    262家
       愛知県   209家       埼玉県    267家
       静岡県    62家       栃木県    24家
       岐阜県    23家       茨城県    41家
       長野県   144家       群馬県    33家
       小 計   660家       小 計   1681家          全国合計6953
   最も多い地域地域は関東地域の1681家、続いて近畿1444家、沖縄・九州地域の1201家であるが、県単位
 では、「秦王国」が存在しと考えられる福岡県が735家で一番多く、2位大阪府の664家、3位東京都の627家、4
 位兵庫県の415家、5位愛媛県の367家、一番少ないのは、沖縄県、鳥取県、秋田県の6家、全国で約7千家あ
 る。


  

参考文献
 *昭和京都名所会(洛西)     著者 竹村敏則   駸々堂出版
 *京都・観光文化検定試験
 *韓国の古代遺跡(百済・伽耶) 監修 森浩一    中央公論社
 *高句麗の歴史           監修 森浩一    中央公論社
 *古代の新羅と日本         著者 有光教一   株・学生社
 *新羅の政治と社会         著者 末松保和   吉川廣文館
 *伽耶国と倭地            著者 伊 錫暁    新 泉 社
 *韓国の歴史             訳者 大槻 建    明石書店
 *日本語の起源           著者 大野 晋   岩波新書
 *日本語の源流を求めて      著者 大野 晋   岩波新書
 *日本人と日本語の起源      著者 安本美典   毎日新聞社
 *日本人はどこからきたか     著者 岩田明    騎虎書房
 *日本人はどこからきたか     著者 斉藤 忠   株・講談社
 *超古代人の謎と不思議      著者 佐治芳彦  株・日本書院
 *「秦王国」と後裔たち       発起人 秦繁治   秦氏史研究会
 *日本にあった朝鮮王国      著者 大和岩雄   白水社
 *謎の渡来人秦氏          著者 水谷千秋  文芸春秋
 *秦氏とカモ氏            著者 中村修也   臨川選書












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