朱雀錦
  (38-1)木島神社関連秦氏



日本・中国・韓国の対照年表

1・秦氏
1.秦氏の出目
 秦氏はたうじは、「秦」を氏の名とする氏族である。 「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神
14年(283)百済から日本に帰化した弓月(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半には盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられており、その出目は明らかでなく以下の諸説がある。
  秦人しんじんが朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫である。
 新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した。
  新羅系渡来氏族。 聖徳太子に仕えた秦河勝はたのかわかつは新羅仏教系統を信奉してい
 たが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。 

  百済系渡来氏族。 「弓月」の朝鮮語が百済の和訓である「くだら」と同音。同義で
 あることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。 また、「日本書紀」
における
 弓月君が百済の
120県の人民を率いて帰化したとの所伝(古くからの言い伝え)もこの
 説を補強する。

  中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。 また、羌族がチベット・ビル
 マ語派に属するチベット系氏族であって。同言語においてハタは辺鄙の土地、
ウズは第
 一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する
第一に長官」を
 意味する。 同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することか
ら、ウズマサは「第一
 の都市」を指す。

  五胡十六国時代に氏族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説。  景教
 (キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。 平安行は碁盤
 の目のような十字路で構成されているたねに景教と関連がある、とも言われている。


2.秦始皇帝
 古代日本に「秦王国」を築き上げた秦氏の人々は、秦氏族の遠祖を秦始皇帝としていた。 これを如実に示すのが、京都太秦うずまさに所在する広隆寺の『広隆寺由来記』であり、そこに収載されている「秦氏系図」には。始祖に秦始皇帝の名を記している。 
 秦は、中国の王朝。 紀元前778年の周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。 統一から滅亡までの期間(紀元前221年~紀元前206年の15年間)を秦朝、秦時代と呼ぶ。 
 紀元前900年頃に周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績をあげたので嬴えいの姓を賜り、太夫となり、領地を貰ったのが秦村(現在の張家川回族自治県)であったという。 五代襄公じょうこうは紀元前770年に周が西戒に追われ東遷した際に、周の平王を擁護した功で周の旧地である岐に封じられる。 これ以降諸侯の列にはいる、秦の初代である。 9代穆公は巧みな人使いと信義を守る姿勢で領土を広げ西戒の覇者となり、隣の大国晋にも匹敵する国力を付けた。 
 紀元前247年に政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋りょふいがにぎっていた。 紀元前241年、趙ちょう・楚・魏・韓かん・燕えんの五ヵ国連合軍が攻めて、きたがが、函谷関の戦いで撃退した。 紀元前238年に呂不韋が失脚して政が実験を掌握した。
 政は、趙、楚、魏,韓、燕、斉を滅ぼし紀元前221年中国を統一した。 政は自ら皇帝を名乗った(皇帝を称する始まりで、始皇帝という。
 始皇帝、嬴えいせいは、天下を分けて36郡とし、度量衡・貨幣、文字を統一。国境に延長5000kmにおよぶ万里の長城を築き、在位37年、紀元前20650歳で歿した。

3.秦氏族の渡来
 伝説によると、秦始皇帝が死亡すると宦官趙高は、始皇帝の子女22人を始めその臣下、血縁者数何人を処刑し、実権をにぎり、長男扶蘇ふそ2世皇帝を傀儡としたが、紀元前202年劉邦に敗れ秦王朝(2世胡亥こがい・3世子嬰しえい)は滅亡した。
 「広隆寺来由機」収録の「秦氏系図」は以下のとおりである。
始皇帝┬末子二世胡亥こがい ┌三世子嬰しえい    辰韓王  辰韓王
   └長男  扶蘇ふそ ┴胡苑(辰韓王1世) 陽父 孝武王 古礼己知
┌─────────────────────────────────┘
│辰韓王              辰韓王     辰韓王    辰韓王
└諸歯巨知 ―那提巨知 彊君 恭己叱君 法成君 竺達君 鎮成君
┌────────────────────────────────┘
└孝徳君 尊義君 武安君 功満君 弓月君
                 助解公 然能解公 










 日本書紀の記述
・応神天皇14年是歳。(西暦283年→403年)
 弓月君百済来帰。 因以奏之日。 臣領己人夫百二十県而気化。 然因新羅人拒否。 
 皆留加羅国。 爰遣葛城襲津彦。 而召弓月之人夫於加羅。 然經三年、而襲津彦
 不来焉。
 応神天皇14年は、和合変換では283年になる。 しかしこの和合変換は、神武天皇が紀元前660に存在したと仮定して作成された年表で、歴史的には承認されていない。 弓月君が渡来した応仁14年は、中国史と対応すると、西暦403年になある。
記述によれば、
応神天皇14年(403)に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。 弓月君は120県の民を率いて帰化を希望したた、新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 しかし、3年が過ぎても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。 そこで応神天皇16年(405)9月。新羅による」妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰へぐりのつくのすくねと的戸田宿禰いくはのとだのすくねが率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。 新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
 弓月君が渡来した西暦403405年ころの朝鮮は三韓(馬韓・辰韓・弁韓)から百済・新羅・高句麗の3国時代に切替わる端境期にあたった。 朝鮮半島の南西部では、百済が馬韓を倒して誕生したが、その時期その時期は明確ではない。 西暦347年百済王余句が中国に朝貢してこり、建国はこの頃と推定される。
 高句麗は。「三国史記」等によれば朱蒙しゅもう(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとし、考古学や史は高句麗は紀元前2世紀の古朝鮮の滅亡時期の周辺に捨てに存在していたとしている。
 紀元前1世紀中頃から漢の玄莵げんと郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費がかさむため放棄され始め、替わってツングース民族の夫余や高句麗などを冊封する間接支配に切り替えた。 即ち中国の植民地であった楽浪郡(朝鮮半島北西部)、玄莵郡(朝鮮半島北東部)を領有した。 最盛期には満州南部から朝鮮半島のだいぶ部分を領土としたが興亡が激しく数度絶滅の危機にさらされ、668年新羅と唐の連合軍にほろぼされた。
 辰韓は、朝鮮半島南東部にあり、南に弁韓とせっし、後に新羅と重なる場所である。 もともと6国であったが、後に別れて12国になった。 そのうちの斯蘆が後の新羅になった。 辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。
「三国志」によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名付けたという。 彼等の話す言葉には秦語(長安都の言葉で、この亡民が秦代~前漢代に渡来したことを物語る)で、秦韓とも書いた。 秦人は)王にはならず、辰韓は王にはならず、辰韓は常に馬韓を主としてちいており、これは代々相承した。 
 新羅の前身は辰韓の12国の1つ斯蘆しろ国である。 「太平御覧」で引用する「秦書」には277年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒ろうかんの朝貢がおこなわれ、その際に新羅の前身が辰韓の斯蘆であることを前秦に述べたとされている。 この「楼寒」に該当する王は、新羅第17代奈勿尼師今なこつにしきん王に比定されていろ。 奈勿尼師今王が即位した356年が新羅の実質上の建国年とも考えられている。 梁の職貢図しょくこうずでは、あるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であった。
 職貢図と、古代中国王朝皇帝に対する周辺諸国や少数民族の進貢の様子を表した絵図で、周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章と共に絵図として絵がしている。 特に「梁職貢図」が有名で蔵書は10数万巻に及ぶという。
 中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中央民族が建てた国だと主張している。 
 上田篤(建築学者・執筆者)は「秦の始皇帝が天下を握った紀元前221年ころには、秦以外の全ての国々は消滅した。 すると、大陸内には、もはや亡命する国さえない。 そこで、何万、何十万というかっての権力者とそれに繋がる人たちの多くは、海外、或いは漢民族の支配圏以外の国々への亡命の道を選んだのではないのか。 」
 「梁職貢図」でも、記されているように、辰韓の一部であった初期の新羅のような弱小国は、常に外敵の侵略に脅かされ、中国や日本(大和朝廷)のような大国の保護ないし属国(冊封)にならなければ国を維持することができなかった。
 そのうえ、辰韓は、馬韓の指揮下にあり、決して居心地によい国でなかったと考えられる。 そこで弓月君は、大和王朝に、秦人(辰韓人のうち中国人)の移民を相談したところ、希望が受け入れられ、秦人の移民を決意したものと考えられある。
 弓月君が渡来したのは、世界史では西暦403年になる。 西暦403年は和暦では履中4年になる。 従って、日本書紀の応神14年は誤りである。 同じく、120県民渡来は、西暦405年で和暦では履中6年になり、日本書紀の応神16年もあやまりである。
 秦氏が秦人(辰韓人)をつれて日本に帰化した西暦400年代は、民族移動時代(西暦300年から700年代)の時代である。 中でも著名なのはゲルマン民族の大移動である。 375年フン族に押されてゲルマン人の1派であるゴート族が南下し。ローマ帝国領をおびやかしたことが大移動の始まりとされている。 
 弓月君は120(別記では127)県の民を率いて帰化したとされるが、これは民族の移動と考えられる。 その規模はどの程度ものであったのか。
 「三国志」東夷伝によると、馬韓の人口は、10余万戸(世帯)、辰韓と弁韓合わせて4~5万戸と記されている。 馬韓・辰韓の1戸の平均値は不明であるが、日本の古代の平均値は25人/戸で、単純に25を掛けると
 馬韓      10万戸×25人/戸=250万人
 辰韓・弁韓 4~5万戸×25人/戸=100125万人となる。
韓は任那の前身、辰韓は新羅の前身であり、弁韓の人口は辰韓の人口と比べると思われるがその比率は不明である。 いま仮に辰韓と弁韓の比率を2:1とすれば
辰韓は100125万人×2/3=66.6万人~83.3万人。 
弁韓は100125万人×2/3=33.3万人~41.6万人となる。
 辰韓人のうち何%が日本に移住したか不明であるが、半分が残り新羅人となり、半分が、日本に移動し秦人になったと仮定すればそれぞれ33.3万人~41.6万人となる。
 かなり大きな数字となるが、当時、行われていた民族の大移動、例えばゲルマン民族の大移動と比較すれば不可能な数字ではないであろう。 

4.秦王国
 推古天皇16年(608)、随の皇帝は裴世清はいせいせいを使者の代表として倭国に派遣した。 「随書」倭国伝に次のように記されている。
「百済を渡り、行きて竹島(全羅南道地域)に至り、南に●たん羅国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)を経,廻はるかに大海の中に在り。 また東して一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に致り、東して秦王国に至る」
中国の史書に記されている「秦王国」は諸説がある。 豊前ぶぜん地方は、古代秦氏はたうじの分布が極めて高い地域であったことが「正倉院文書」の大宝2年(702)豊前国戸籍によれば秦部+勝姓の総人口に対する比率は、仲津郡丁里で94%、上三宅郡塔里で96%、上三宅郡加自久里で82%で全体の平均で人口の93%を占めている。 多くの研究者が秦王国は豊前にあったものと認めている。 
 わが国に渡来した秦氏族の原郷と見られた朝鮮半島南部の加羅(伽耶)地方に近い地理的条件から見て、豊前の「秦王国」は渡来秦氏族の拠点となり、その拠点を経由する形で、おそらく、一部のエリートが畿内の中央政権に参入し、組み込まれていったものと推定される。 
 現在の北九州北東部一帯である。 宇佐八幡宮の最大の祭事宇佐法生会は、宇佐から50Km離れた豊比売社(採銅所・古宮八幡宮)で香春岳産出銅を用い御神体の鏡を鋳造し、それ宇佐八幡宮に奉納ことえを祝う祭事である。 この神輿が巡行する旧豊前田川、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐各郡が秦王国の勢力範囲と見られる。
 北九州豊前国の秦王国から、秦人は日本全国に分散した。 しかし、全国に分散した秦人の定住者と原住民の騒動の記録は全くみられ無いという。 これは朝鮮での経験が生かされているものと考えられる。 朝鮮では各国の境界が曖昧で、誰からも文句を言われないように境界に緩衝地帯が沢山あった。 その緩衝地帯に、秦国の苦役に服することを嫌って逃亡しら流民や趙。魏、燕、楚、斉等の亡民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構成した。 秦人は日本でも、日本人が住んでいない緩衝地帯をさがしだしそこに住み着いたもいのと思われる。
 半田康夫(日本史学者)の調査によると、現在沖縄・九州地区の秦家総数1201家は全国的に見れば、関東、畿内に次ぐ第3位だが、都道府県では福岡県が735家第一である。 また、大隅の地には、大隅国の創立以前から、秦王国の移住者がおり、和同6年(713)の大隅隼人の乱でで秦王国から移住した人たちから身の危険にさらされ、その護衛のため。豊前から5000人が移住した。 薩摩藩主島津家は清和源氏頼朝落胤の後裔とされているが、実は秦氏族惟宗これむね朝臣の子孫である。
 大分県も276家と福岡県と共に圧倒的に多い。 そも理由は、両県にまたがってあった豊前「秦王国」の存在抜きに考えられない。 古代豊前国住民の90%以上を占めていた秦氏族が時代とともに一部は西方の筑紫地方に、一部は東方の国東半島、あるいは南方の大分平野方面に移動した結果と思われる。 
 四国の長宗我部氏は秦河勝の子・広国の後裔であるとしている。

5.日本の歴史に大きく貢献した秦氏
 アジア大陸から朝鮮半島をへて渡来した秦氏の歴史は少なくとも3~4世紀まで遡り、ちょうど大和朝廷が成立した頃と重なります。
 秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、秦氏はその財力と土木技術を生かして、灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、特に、山麓に囲まれた山背の開発と発展に大きく貢献しました。 そして、八幡神社や広隆寺はじめとする多くの神社を全国に設立した。 また、養蚕や機織り、酒造りも手掛け、楽器や紙と様々な文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。 さらに政治・経済においても秦氏の影響力は図りしれず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、その絶大な経済力を背景に多くの寺院を建立し、朝廷にたいして強い影響力を保持したが故に、最終的には平安京さえも短期間で造営する原動力となった。
(1)秦酒公たのさけのきみ 
  曽祖父の功満こうまん王は、仲哀天皇8年(?)の帰化。 祖父弓月君は、応神天14
 年(
403)に、120(又は127)県の民を率いて帰化し、金銀玉帛ぎょくはくを献上した。 帝は大倭朝津間郡を下賜され、養蚕と織絹に従事させ、朝廷に織った絹を献上するよう
 に命じた。 その後、帝は「秦氏が献上した絹織物は、柔らかくて
暖かいため、身体に
 ぴったり合う」と言い、普洞王に波陁はだの姓を賜った。 

  弓月君の孫秦酒公はたのさけのきみは、秦の民が分散して諸氏のもとに駆使されている
 を憂いた。 雄略天皇は、雄略
15年(471)、全国の秦を纏めて酒君な与え秦の首長に
 した。 養蚕・絹織に励み、庸調として献納した絹布が山積みになったため、その賞と
 して太秦うずまさの姓を賜る。

(2)秦大津父おおつち 
  秦大津父は、5世紀後半から6世紀前半ごろの、欽明天皇が即位する以前、秦大津父
 なる人物を優遇すれば天下を治めることが出来るという夢告があり、これを求
めたとこ
 ろ秦氏の主王な居住地である山城国の紀郡深草(京都市伏見区)に発見し
た。 大津父
 は商業に携わっており、伊勢からの帰り道、2匹の狼が争うのを止め
させて命を永らえ
 させた経験をはなした。 欽明はこれを聞いて喜び、大津父を近
侍させ、遂に即位する
 と大蔵省の役人に任じたという。 この説話は安閑天皇・宣
化天皇と欽明の対立を暗示
 するで、秦氏一族に商業活動を行う者がいたことが確認
された。 
  山背紀伊郡人秦大津父が大蔵の官に任ぜられ、伴造とものみやっことなり、秦人を首長に
 任命された。 大蔵掾おおくらのじょう(第3等官)として日本全国に分散する秦人
の戸籍
 調査を行うと同時に秦人ぼ首長として秦人を掌握した
 欽明天皇が欽明元年(569)、
 「秦人はたひと・漢人あやひと等、諸蕃しょばん(朝鮮・中国
人)の帰化した者を召し集めて
 、国郡に安置し、戸籍へのふみたあに編貫した。

  これは日本で最初の戸籍調査である。 しかし、人民を対象とする律令制度の戸籍調
 査は、天智9年(
670)最初である。 欽明天皇は、帰化人を戸籍で管理しようと考え
 たようである。 この時の戸籍調査では、秦人の戸籍は
7053戸であった。
  古代の1戸の平均は、およそ25人/戸とされている。 単純に25を掛けると
     7053戸×人/戸=176,325人≒17万人となる。
  日本古代の人口については、古くは澤田吾一氏の推定(奈良時代の総人口650万人)
 、近年ではより精密な蒲田元一氏の推定(8世紀前半
440450万人、奈良時代末期~
 平安時代
540590万人)がある。 いま仮に、6世紀前半ころの人口400万人で計算
 してみると、秦氏の人口
17万人は、その約4%になる。
  日本の総人口が400万人と仮定した場合、馬韓、辰韓の人口はどの程度か。「三国志」の10万戸に、単純に25人/戸を賭け出した250万人は馬韓の人口数は大き過ぎる。 現在世界各国の人口を参考にする。
日本  123.9百万人
韓国  51.2百万人
北朝鮮 25.1百万人
 日本の人口を400万人としたとき、辰韓は南朝鮮の西半分であるから、ぽおよそ韓国の半分とみなすことが出来る。 ゆえに
 123.951.2×0.5=400:x x=25.6×400÷123.982.6万人
 馬韓人の人口が82.6としたとき、辰韓人の推定人口は何人になり、その半分が
日本に移住したとしたらその数は、
 10:4~5=82.6:x x=33.041.3万人
 仮定辰韓人=(33.041.3)×2/3=2227.5万人

 移住辰韓人=1113.7万人となる。 
 仮定の辰韓からの移住者人数1113.7万人と戸籍の人数17万人ほほぼ近い値になった。
(3)秦河勝
  6世紀から7世紀前半にかけて活躍した聖徳太子の側近。 山背国葛野かどのの人。
 野秦造河勝、川勝秦公とも書く。 山背国の深草地域(京都市伏見区)及び葛野
地域に
 居住する秦氏の族長的地位(太秦うずまさ)にあり、その軍事力や経済力を背
景にはやく
 から聖徳太子の側近として活躍した。 「上宮聖徳太子伝闕記ほけつき
は用明2年(
 587
)の物部守屋の追討戦に「軍政人」として従軍、聖徳太子を守護して守屋の首を切
 るなどの活躍を伝え、秦氏の軍事力あ上宮王家の私兵として用い
られた。
  初め桂川(葛野かどの川)の西岸に住み着いた秦氏は大陸の高度な土木灌漑技術を駆使
 し、葛野大堰かどのおおいという一種のダムを築造した。 そこから水をひいて流域
を農耕
 ・住居地にした。 これにより、その富は数倍にもなったという。 これは
古代日本に
 おける最大規模の河川工事である。 

  葛野大堰を作り、流域の東岸と西岸を広く農耕可能地化した秦氏は、桂川を越え嵯峨
 野に進出したがその時代は5世紀後半とみられる。 

  中国の天命思想に基づき天皇の地位を道鏡に禅譲しようとして失敗した称徳天皇派、
 後継者を指名しないでなくなった。 群臣が天皇に選んだのが光仁天皇(
770781
 であった。 

  光仁天皇は、天智天皇の孫で673年天武天皇の即位から約100年続いた天武系天皇か
 ら、天智天皇への復活であった。 光仁天皇の次には、天武天皇の血をまっ
たく継承し
 ない百済王の子孫である高野新笠にいがさを母とする桓武天皇(
781806)が即位し
 た。 天皇即位には、母の血統が重視されるじだいであって異例の
即位であった。
  新王朝の樹立にともない桓武天皇は、天武系の皇城である平城京からの遷都を計画し
 た。 こうして
784年長岡亰への遷都が行われる。 ところが、遷都の翌年長岡京造営
 長官でらった藤原種継が暗殺された。 背後に桓武天皇廃位計画があっ
たとされ、さら
 に二度の大洪水に見舞われ桓武天皇は、再遷都を和気清麻呂の建言
によって決意する。 こうして選ばれたのが平安宮であった。
  平城京の造営長官は藤原小黒麻呂おぐろまろであった。 長岡亰と平安京の造営され
 山背国は、秦氏の根拠地であった。 山背国は、
794年の平安京遷都にあたり、山城国
 と改称された。 藤原種継の母と藤原小黒麻呂の妻は、秦氏の出身である。 
また、村
 上天皇の日記によると「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。 

  秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族お財力を上げて取り組んだ。 
 営関係の役職にも、多くの名を連ねている。 
秦氏が京都地区で建てた寺社には、木島
 神社、大酒神社、広隆寺、松尾大社、伏
見稲荷大社がある。
  ① 木島こじま神社、「蚕の社」ともよばれている。
  ② 大酒神社、祭神は、「秦の始皇帝、秦酒公、秦弓月王、」、1012日夜行わ
   る祭礼「牛祭」は「鞍馬の火祭」、「今宮のやすらい祭」とともに「京都の三
大奇
   祭」と言われている。

  ③ 広隆寺 秦氏の氏寺、京都最古の寺院、聖徳太子建立の日本七大寺の1つ。 
   国宝第一号、弥勒菩薩半跏像がある。
  ④ 松尾大社 酒の神様としてゆうねい。 祭神は秦氏固有の神でない、秦氏が入植
   以前の神を継承したもの・

  ⑤ 伏見稲荷大社 稲荷神社の総本山、初詣参拝者数、全国第4位、近畿で1位、
   人に人気、祭神は秦氏固有のかみでない、秦氏が入植以前の神を継承したも
の・


参考文献
* 「秦王国」と後裔たち   編集;秦氏史研究会 発行所;歴史調査研究所
* 日本にあった朝鮮王国   著者;大和岩雄   発行所;白水社
* 謎の渡来人秦氏      著者;水谷千秋   発行所;文芸春秋
* 秦氏とカモ氏       著者;中村修也   発行所;臨川選書
* 超古代人の謎と不思議   著者;佐治芳彦   発行所;日本書院
* 韓国の古代遺跡      著者;東 潮    発行所;中央公論社
* 伽耶国と倭地       著者;尹錫暁    発行所;新泉社
* 古代の新羅と日本     著者;有光教一   発行所;学生社
* 新羅の政治と社会     著者;末松保和   発行所;吉川弘文館
* 高句麗の歴史と遺跡    編集;東 潮    発行所;中央公論社















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