朱雀錦
  (38-2)木島神社関連「日本語民族氏」


日本人のDNA

Ⅰ・日本語の同系語
1.人類のはじまり
 今から数十億年前(ある説では45億年前)、この宇宙に私たちが住む地球が誕生しました。
40億年前生命の誕生。 原始の海(初期の地球はすべて海で、大陸は存在しなかった)で、最初の生物が誕生した(真正細菌と古細菌)。
32億年前、光合成をする生物・藍藻(シアノバクテリア)が現れる。 以後海水および空気中の位酸素が増加する。
 19億年前、最初の大陸・ヌーナ大陸出現する。 以後4~5億年毎に、分裂、破壊、結合が繰り返され、2億6千年前ローラシア(ユーラメリア)大陸が出現する。
 4億1千年前植物・動物が上陸する。 
 2億1千年前恐竜類の繁栄
 650万年前最初の猿人出現
 500万年前人類誕生
 150万年前原人が誕生し、10050万年前にアフリカを出て世界に広がった(ジャワ原人、北京原人)。
 20万年前ホモ・サピエンス(新人=現在の人類)アフリカで進化誕生した。 即ち、我々日本人を含めたモンゴロイド、白人系のコーカソイド、、黒人系のネグロイドの祖先が誕生した。
 7万年から5万年前にアフリカから外へ移住開始した 
 3万5千年~1万年前 後期旧石器時代
 1万3千年~1万2千年前宗谷海峡が水面下に没し日本列島が現在の姿いなる。
 1万年~6千年前中石器時代
 1万年前最後の氷河期がおわる。
 8千年前~   新石器時代
 1万5千年~1000年前 日本の縄文時代
 1000年前~西暦400年 日本の弥生時代

2.日本列島の誕生

 















      鮮新世後期ー更新世前
 
        更新世末

 日本列島は、ユーラシア大陸東端の沿岸沖、東アジアに位置。また太平洋北西の沿海部に位置する弧状、幅300km、長さ3500kmの列島である。
 周囲は日本海、オホーツク海、太平洋、フィリピン海に囲まれている。 列島の太平洋側には千島・カムチャッカ海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、南海トラフとなどの深い海溝があり、全体が地殻変動、造山活動が盛んな活動地域となっている。 また、地球上に確認されている火山の10%程度が日本列島内にあると言われている。 
 地質学てきには、ユーラシアプレートの東端及び北アメリカプレートの南西端に位置する。 これらの二つの大陸プレートの下に太平洋プレートちフィリピン海プレートの二つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島にうなったと考えられている。
 現在の日本列島は、主に付加体と呼ばれる海洋海洋で出来た堆積物からなっている。 かって日本付近はアジア大陸の端であった。 そこへ、はるか沖合で海洋プレートが移動してきて、それが海溝で潜りこみ押し上げ、日本列島の原型がつくられた。
 その後、中新世になると、今度は日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。 2100万~1100万年前にはさらに断裂は大きくなり、西南日本は長崎県対馬南西部付近を中心に時計回りに4050度回転し、同時に東北日本は北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時計回りに4050回転したとされる。 これにより今の日本列島の関東―北海道は南北に、中部沖縄は東西に延びる形になった。 そして、およそ1500万年まえには日本海となる大きな窪みが形成さ、海が侵入してきて、現在の日本海の大きさまで拡大した。 1600万年から1100万年までは、西日本のかなり広い範囲は陸地であった。 東北日本は、広く海に蔽われ、多島海の状況であった。 その後東北日本は、太平等プレートなどによる東西からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥州山脈・出羽丘陵が形成された。 
 北海道はもともと東北日本の続きとサハリンから続く南北性の地塊(中央北海道)および千島弧(東北海道)という三つの地塊が接合して形成されたものである。 
 西南日本と東北日本の間は浅い海であったg、この時代以降の堆積物や火山噴出物で次第に満たされながら、東北日本が東から圧縮されることで隆起し、中央高原・日本アルプスとなった。
 こうして、不完全ながらも今日の弓状列島の形として現れたのは、、第三紀鮮新世の初め頃であった。 約1万8000年前である。 しかし、氷河期には海水準が低下するなどして、大陸と陸続きになることが多かった。 例えば宗谷海峡は水深60メートルと浅いため、シベリア、サハリン・北海道は陸橋で連絡があつた。 氷期には海面の水位が低下し、間氷期には上昇し、その差は100mあった。 紀元前586600年最後の氷期が終わるとマイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没し日本は完全に大陸から離れて現在の姿になった。

3.縄文時代(紀元前14000年~紀元前1000年)
 世界史では中石器時代ない新石器時代になる。 旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及。貝塚のなどがあげられる。
 縄文時代の終りについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀ころまで、多くの議論がある。
 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。 土器形式の区分から、縄文時代には、草生期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。
(1) 縄文時代前に(旧石器時代)
  最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。 最後の氷
 期である晩氷期と呼ばれる約1万
3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と
 温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起っ
た。
  それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸沿いに落葉広
 葉樹林が増加し広がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と落
葉広葉樹
 林で蔽われた。 温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、ある
いはナウマン
 ゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1
万年前までには、
 日本列島からこれらの大型哺乳動物が絶滅してしまった。 

(2) 縄文時代創期
  旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ナウマンゾウ、ヘラジカ等)や中小型哺乳動物
 (いのしし、うさぎ)を狩猟対象としていた。 大型哺乳燈物は季節によって
広範囲に
 移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みな
がら、頻繁に
 移動を繰り返してい
た。 竪穴住居などの施設をともなう遺跡はほとんど発見去れてい
 ない。 

  旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に
 移住生活を繰り返してきた。 旧石器時代から縄文時代への移行期である草創
期には一
 時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていった。 縄
文草創期にな
 ると定住生活が出現する。 

(3) 縄文早期 ・気候の温暖化が進み、海水面が上昇する。
       ・貝塚が出現する。
(4) 縄文中期 ・円筒土器文化(東北地方以北)の成立。 
                ・集落の数が増え、地域を代表するような拠点集落があらわれる、
       ・漆の利用技術の発達。

(5) 縄文後期 ・中期に見られた大規模な拠点集落は減少し、集落の拡散化、分散化が進
        む。

(6) 縄文晩期 ・亀ヶ岡文化が栄える(遮光器土偶文化)。
       ・遮光器土偶た土面など祭器の道具が多く作られ、装身具類も多様と
        る。
       ・北部九州に稲作が伝来する。

4.弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀中頃)
 弥生時代は、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までに当たる時代の名称である。 採取経済の縄文時代の後、水稲農耕を主種とした生産経済の時代である。 縄文時代の晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており、弥生時代の定義からは外れる。 
 平成15年(2003)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年も遡るものであった。 
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を西日本各地で広域地域勢力が形成 され、2世紀末畿内に倭国が成立。 3世紀中頃古墳時代に移行した。 紀元前5(10)世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。 初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡等で水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見された、弥生時代の始まりである。 
 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立小屋や貯蔵穴をつくった。 集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や農機具、蝶地具などに石器を多く使ったが、次第に石器に替えて徐々に鉄器をつかうようになった。 青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。 また、農具や食膳具などとして木器もしばしばもちいられた。
 弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。 即ち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。 また、水稲耕作技術の導入により、開拓や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされっるようになり、集団の大型化が進行した。 大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって争いが発生した。 この様な争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さな国が生まれ、1世紀中頃に「漢委奴国王の金印」が後漢から、3世紀前半には耶馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。

5.日本語同系語
 同系語とは、今は別々の言語となっている二つの言葉を遡って行くと、何処かでいつかは、その二つの言語の基礎語(単語)も、文法も骨格も一つになる関係をいう。 
 日本語の文法的な構造は、アルタイ諸語に属している。 アルタイ諸語は、比較言語学上互いに関係が深いとされる言語のグループの一つ。 北東アジアから中央アジア、アナトリアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語である。 
 これらの諸語の共通性は、例えばインド・ヨーロッパ語族のように定論が確立している語族と比較すると極めて小さい。 そこで、多少存在する類似性は言語接触の結果であり、アルタイ諸語にはそもそも言語的に親戚関係は存在しないとする見解と、これらの言語は1つの祖語をもつアルタイ語族というグループを構成するとする見解が対立している。 明治時代から続いた日本語の同警固の探索の対象は、アイヌ語、朝鮮語、満州語、モンゴル語彙と拡大されていった。 しかし、確かな手ごたえを得ることはできなかった。   19世紀の中頃、イギリスの宣教師コールド、ウエルは、インド南部の言語群がサンスルリット語と別系の言語であることに気付いた。 かれはその言語群を一括し、それにドラヴィダ語という名を付け、1857年に「ドラヴィダ語、すなわち南インド 言語族の比較文法」という大著を発刊した。 ここに「ドラヴィダ語」という語族が確立された。 そして驚くべきことはコールド、ウエルは、その中に、ドラヴィダ語と日本語は同系性を既に論じていたのでした。 
 その研究は日本の言語学者に気付かれず約1世紀に時がすぎた。 日本人では初めて芝烝しばすすむ氏が1970年に「古代における日本人の思考」、1973年に「ドラヴィダ語と日本語」を発表した。 芝氏は宗教学の立場から接近したので研究で発表された単語の数は15個であつた。 
 ついで藤原明氏、江実ごうみのる氏が研究発表された。 4人目に着手した大野晋しん氏は、ドラヴィダ語族という広大な語族全体を対象とするのではなく、その代表的な民族・ドラヴィダ語族について研究した。

6.タミル語
 インドは10億を超える人口を擁し、多様な人種、民族、言語、宗教によって構成されている。 日常の社会生活に使われている言語は850にものぼるといわれる。 言語でまとめると、インド・ヨーロッパ語族が74%、ドラヴィダ語族が24%を占めるといわれる。 そのドラヴィダ語族の一つがタミル語である。 大野晋氏は日本語とタミル語が同系であるという。 その証拠として次の5点をあげている。 
 1.すべての音素(母音aiueo、や子音kstnhmyrw
  と)にわたって音韻の対応がある。

 2.たいおうする単語が基礎語を中心に500ちかくある。
 3.文法上。ともに膠着語こうちゃくご(ある単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を
  付着させるこつで、その単語の分の中での文法関係を示す特徴を持つ)に属し、
構造
  的に共通である。

 4.基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上に対応する。
 5.歌の57577の韻律が共通に乱される。 
 以上は、日本語とタミル語が同系統の言語であると考えることによってはじめて理解できることである、と大野晋氏は記述している。 
 農耕に関することば
 農耕技術をこの日本列島に持ち込んだ人たちが在地の縄文人に技術や知識を伝えたり、農作業への使役ないし協力を求めたとき、彼らは彼らの農耕用語を使ったはずである。 しかし、水田稲作に右関する用語、語彙をもつ国は近隣諸国に存在しなかったが、
7000kmはなれたタミル語にあった。
 農耕にかかわる

分類

日本語の意味

日本語

タミル語

タミル語の補足

耕作地


田んぼ

畦(方言)
畦(方言)
畦(方言)

焼畑(方言)

Fat-akëtam-bo
az-e
kur-o
an-a
ad-e
sir-o
kob-a

pat-ukar tamp-al
acc-u
kur-ampu
an-ai
ant-ai
cer-u
kum-ari

 

 

 

 

 

 

 

 

作物

粟(方言)

早稲

稲*1

in-a

sin-ai

sin-e

was-e

ni

ë-al

tin-ai

tin-ai

pacc-ai

nel

果物の未熟

食品

米*2

餅粉(古語)

 

粢*3

af-a

kum-a

are-e

nuka

 

sit-ögi

kay-u

mot-;

av-ai

kum-ai

kum-ai

ar-ai

nukk-u

-a

-ai

kai-i

-aka

臼の中で粟をつく

臼の中で軽くつく

臼の中で軽くつく

細かく粉にひく

粉々に砕けたもの

-ゴンディ語

 

 

 

1 ニホ(稲叢)のニ。 稲叢いなむらは、にほ(堆)ともいわれ、稲を刈取ったまま積
 み重ねて
おくもの。
2 神に備える米
3 水に浸した生米つき砕いて、種々の形に固めた食物・ 神饌に用いるが、古代の米 食法の一種。



                   2・日本人の起源
1.人類の誕生
 人類の誕生は500万年前といわれる。 300万年前の有名なルーシーと呼ばれる完全な人類化石がエチオピアの大地溝帯(東アフリカ大陸を南北に縦断巨大な谷)で発見された。 いくつもの系統の人類が発生し、生存し、化石を残して滅んでいった。
 150万年前に東アフリカの大地溝帯で原人が誕生し、10050万年前にアフリカを出て世界にひろがった。 ジャワ原人、北京原人。 である。 旧人とも呼ばれるネアンデルタール人がヨーロッパへ進出したのは、50万年前である。
 現代のホモ・サピエンス(新人)は20万年前にアフリカで誕生した。 初期人類は、必要とする日々のエネルギーを植物資源に依存していた。 必要とする。 エネルギーを日常的に動物資源から確保することは困難だった。 アフリカ地溝帯(エチオピア付近)を出た新人は、10万年前には、北上し、死海地溝帯にいた。 この地溝帯は食用植物の品種が豊富で、収穫シーズンが分散して年間を通じて食糧確保が可能だった。 この地で世代を重ね、進化し、石器などの道具を改良していった。 死海地溝帯から発掘された石器が10万年前のののである事より拡散する前には死海地 溝にいたことがわかる。

 
       アフリカ大地溝帯
 
         スンダ大陸

2.モンゴロイドの移動(7万年前~2万年前)
 7~5万年前、地溝帯を出て東へ移動したグループは、インドを通り、スンダ大陸に渡った。 スンダ大陸は、氷河期で海面が下がったために、マレーシア、インドネシア、フィリピンが陸続きになって形作られた大陸で、赤道直下にあり、氷河期でも暖かく、雨もふり、四季を通じて食糧採取が可能な地域で、アジア人(モンゴロイド)揺籃の地となった。
 コーカソイドは、モンゴロイドよりやや遅れ4万年±2万年、ユーラシア大陸のイラン付近から中東・ヨーロッパに移動し、白人種の祖先そなった。 またクロマニョン人はコーカソイドの直接の祖先と考えれれている。 クロマニヨンは移動せずアフリカの地に留まり、黒人の祖先となった。
 5万年~4万5千年前に、一部のモンゴロイドが住んだな大陸からサフル大陸(ニューギニア、オーストラリア、タスアイダニアなどが地続きの大陸であった)に渡りアポリジニーとなった。 スンダ大陸とサフル大陸は陸続きになっていなかったため、船を使った渡海にお技術を、この時期の人達が既にもっていたことを示している このアボリジニーの免疫グロブリンG(Gm)の標識遺伝子調べた結果が、agaxgの混合となっている。 したがって、最初にスンダ大陸に移住してきたのは、agaxgの遺伝子をまった、2波の移住があったものと推察する。
 5~3万年前、アフリカ及び死海地溝帯から、更に移住の新しい波が、3次4次と続いたものと推察される。 スンダ大陸では、グロブリンGの標識遺伝子afb1b3ab3stを持つ人が移住、agaxgの前2波ぼ人達とをあわせ初期モンゴロイドと仮に呼ぶ。 
 3万5千年~3万年前、グロブリンGの標識遺伝子agaxgafb1b3ab3stを持つ初期型モンゴロイドが北上を開始した。 北上開始の理由の1つは、マラリアなどの疫病と想定される。
 いくつかのグループに分かれ、時期を置いて、北上を開始し、当初は、食糧確保と寒さを避けるため、海岸線に沿って北上し、海面が下がっていたため陸化していた黄海を当時の海岸線に沿って北上し、シベリア大陸に向かう。 シベリア大陸へ向かった人々は、途中で、革新的な石器を開発した。 それは、素材の小型化・軽量化と槍先に装着すろ尖頭器せんとうきなど。 これにより、植物性食料を補う動物性食料の確保が可能となり、その毛皮を使い防寒具とした。 
 北上開始した中に、船と渡海技術をもったグループがあった。 そのグループは、台湾近辺を越えた処で、東の海の中に列島を発見し、移住した。 そこは、琉球・沖縄の諸島であった。
 約3万年前は海面が70m程さがっていたため、当時の琉球・沖縄は現在よりもかなり大きな陸地だった。 琉球・沖縄の古代人は、縄文期の海面上昇で、人口を激減させた」と懸念される。
 更に北上すると、より大きな島(九州)を発見した。 そのグループの大多数が移住。 九州から、四国、本州とわたり、北へ。
 津軽海峡は、氷河期も陸地化せず海峡のままだった。 グループの中で、船と渡海技術に「長けた少人数の人達が渡海し、北海道に渡った。 宗谷海峡と間宮海峡は、この時期には陸続きで、北海道から北東部まで、陸上を移動ができ、拡散していった、渡海せずに、北上を続けたグループは朝鮮半島付近を過ぎ、内陸へ入って行く。 食糧確保のため、大型哺乳類お捕食するために、狩りの道具に改良を加えて行き、石器の革新が行われた。 この革新的な石器の技術を生み出したことが、内陸への侵攻が可能となった。
 スンダ大陸では、グロブリンGの標識遺伝子afb1b3ab3stを持つ人達が。、ふるいagaxgの人達を圧倒し、駆逐していった。 この圧倒・駆逐の主な要因は、熱帯性の病原菌に対する抵抗力の差であったと推察する(著者)。 
 シベリア大陸では、食料確保と防寒対策が出来たグループはシベリア各地へとひろがり、生活圏を拡大した。 しかし、2万年前、氷河期の寒気が一段と厳しさを増し、各地に広がっていた新人たちは、寒さと上で絶滅していった。 その中で、バイカル湖周辺は比較的暖かく、食料となる大型哺乳類・マンモスなどが多くせいぞんしたため、その周辺地域に集まった人達だけが、生き延びることができた。 


3.モンゴロイドの移動(2万年前~2千年年前)
 バイカル湖周辺で寒波に耐え、大型哺乳類を捕食する方法を確保し、北方民族となった人たちは、東西南北へ移動を開始した。 そして、北へ向かい東に転じたグループは、1万8千年前~1万年まえにベーリング海峡を越え、アメリカ大陸へ入った。 そして、北米でも南米でも生息していた大型哺乳類を食べつくし、絶滅させながら短期間で南米の先端にまで達した。 アメリカ大陸に入ったのは少数のグループでわたったものと言われている。 限られた通婚範囲の中で、遺伝子の多様性を失い、南米に至る人達は、古いagaxg遺伝子に集約されていった。
 スンダ大陸で主役となった新しいモンゴロイド(afb1b3ab3stのグループ)は、温暖化に伴い北上を開始した。 インドシナ半島のタイ、ビルマ、ミヤンマー、ベトナム、カンボジアに広がり、更に大河を北上し、中国雲南に入った。 東側は中国の貴州、広州に広がり、さらに海岸沿いに北上した。 
 バイカル湖で寒波に耐えた初期型モンゴロイ後は、やや温暖化した2万年~1万年南下した。 その一つのグループは中国の西のチベットとブータンにおちついた。 やや遅れて移動開始したもう一つのグループは長江の中流域に達した。 このグループは稲作の栽培を開始した。 
 稲の栽培は何処で始まったか、諸説紛々であるが、現在は長江が発祥の地と確定されている(「寿司材・米」参照)。 稲作は、長江中流が最も古く、彭頭山ほうとうざん遺跡BC7000年~6000年。 次いで長江下流の河姆渡かぼと遺跡がBC5200年。 BC2100年になり、やっと、長江の上流や准河わいが、黄河こうが中流域に伝播した。
 中国では、新旧モンゴロイドが多様な民族に別れたまま、稲作技術を取得して、適地を求めてモザイク状に広がった。 残された適地が亡くなると、地域間の紛争が勃発した。 伝説に残される黄帝(BC2510~BC2448年)と三苗族の中国を南北に分ける大戦争の末に、三苗族はm敗退し、徹底的に撲滅され、中国史に禍根を残したという。 
 初期型モンゴロイドが主体となった長江文明は、その影響を強く黄河文明に与えた。 その中で、稲作と青銅・鉄器と船の技術を持つたグループが、ビルマ・ミヤンマーに移り、インドへ渡った。 インドからパキスタンで稲作を開始し、新たな文明を築いた。 ハラッパ・モヘンジョダロで有名なインダス文明(稲作文明であった)。 
 この文明は、ある時、徹底的に破壊された。 この破壊をもたらした侵略民族は、白人系(アーリア人)と考えられる。 白色で示されるfb1b3遺伝子は白人系を示す。
 難を逃れたドラヴィダ族はインド中央部から南部で、被圧迫民として現在にのこる。 タミル人はこのドラヴィダ族の構成部族である。
 3600年前、忽然とニューギニア島の北東に位置する島々に現れたラピタと呼ばれる集団がいる。 このラピタは極めて熟達した船舶の技術を持った航海者で、数百年間かけて、ニューカレドニア、フィジー、トンガ、サモアまでの広い海域に広がった。 この海域にラピタ人は約1000年間留まり、2000年前から新たな拡散を開始し、ポリネシア全体にひろかり、南米大陸に近いイースター島からハワイ諸島までひろがった。 忽然と現れたラピタ人→ポリネシア人は、言語的には、中国南部起源説がとかれている。

4、縄文人
 一時的に温暖化した3万年前に。モンゴロイドは、海岸線に沿って北上し、大陸中央のバイカル湖地方までにたっした。 その一部が、当時陸続きになっていた沖縄、日本列島を通り北上した。 その際、居住かのうな地域に一部の人を残した。 
 再び寒冷化し、最も厳し氷期を、生き延びることが出来たモンゴロイドは、優れた狩猟用石器や耐寒衣料を手にして、生き延びることができた地域は、比較的暖かい気温の恩恵を受けたバイカル湖のある地と、海岸に近く、比較的温暖なだけで、その他の管領地域は死に絶えたものと想像される。 日本列島で生き延びたのが縄文人(沖縄。アイヌ系)れあると思われる。

5.バイカル湖地方からの北方型モンゴロイドの移動
 生存に良好な地で発生したモンゴロイドが、北方に移動した所で、思いがけず極寒の気候に出会い、その環境に耐えるための技術を獲得し、同時に耐寒性の体系を獲得した。  温暖化の始まった紀元前18000年~15000年に、寒冷地仕様の体形になった北方型モンゴロイドは、優れた道具と技術を以て、食料となる大型動物を追って四方に移動を開始した。 
 ・  北方へ向かったモンゴロイドは、紀元前15000前~10000年前、ベーリング海峡を越えて
  アメリカ大陸へ、南下を続け、南北の最先端まで到達した。 
   北方型モンゴロイドの中で、東に向かった一族は、サハリンから北海道へ
   南に向かったモンゴロイドは、揚子江(長江)流域へ到達した。 
 モンゴロイドの発祥の地=スンダ大陸では、引き続き西方からの流入もあり、新しい南方型モンゴロイドが主流となる。 温暖化に伴い、南方型モンゴロイドは再び北上を開始した。 東南アジアの河川沿いにも北上し、多くの河川の源流となっている雲南の地に 移住した。
 長江中流へ移住した北方型モンゴロイドが、稲作耕作と帆船の技術を確立した。 稲作・米食が始まると、それ以前の疎らな人口とは比較にならない、極端に大きな人口密度となる。 人口を増やした北方型モンゴロイ路は、上流、下流へ拡散移住を行う。
   長江下流から海岸沿いに北上し山東半島から現黄河流域へ広がる。
   長江上流へ向かった北方型部族は四川省、雲南省へ。 雲南に北上した南方型モンゴ
  ロイ
ドに稲作技術が伝播。
 ・一部は雲南からサルヴィン川(怒河)、メナム川沿に南下しビルマ・ミヤンマー、タ   イへ
   一部は雲南から海岸沿いに西北に上がり、インド大陸へ移住しインダス文明を築いた。

6 弥生人(1)
 中国の「史記」に、秦の始皇帝(BC259210年)に「東方の三神山に長生不老(不老長寿)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を以て、東方に船出し「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王とない戻らなかったとの記述がある。
 中国の古代、殷いん(商しょう)王朝(紀元前17世紀~紀元前1045年)から周王朝(紀元前1046年~紀元前256年)へ変わった時代に長江・准河わいがわ(長江の支流)の河口地域に居た稲作をベースとした民族が反乱の末、民族滅亡へ追いやられた。 滅亡を逃れたその一部が、稲作技術を以て、遼東半島を通り、韓国中部、南部を経て、北九州の玄界灘沿岸に移住した(2900年前から2400年前の期間)。 弥生時代の先駆けである。
 中国・周・戦国春秋の時代から秦が中国全土を統一した時に、滅亡の危機に直面していた、民族が、なぜか、秦の始皇帝の東方進出の一大プロジェクトに乗って、民族大移動を実行した。 近年の中国では、壮大な史実と認められ、日本では、曖昧模糊とした、徐福伝説としてかえりみられなかったが、この大移動の時期が、青銅器・鉄器・水田稲作が一気に日本全国に広がった弥生時代の始まりの時期に相応する(丸地三郎)。 しかし、この説では、日本語の起源の説明ができない。

7 弥生人(2)
 日本語とタミル語が同系であることが確認された。 しかし、これには7000kmも離れた南インドのタミル人が極東の日本まで本当に来たであろうかという疑問が当然生じるであろう。 これに対し大野晋氏はつぎの様に答えている。
(1)東南アジア各地の巨大文化
  マイソール大学のラマンナ博士に「南インドと東南アジアの巨石文化―その比較研究
  」(
1983年)という著書がある。 その広まりの範囲は、インドシナ、マレーシア
 、ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ、ヒィリピン、台湾の及んでいる。 
踏査項
 目は、支石墓、箱式石棺、石碑、石塚、石臼、甕棺、ロクロ、壺、グラフィ
ティ、刻み
 目、鉄器、青銅器、ビーズ、貝輪、胸装いにわたる。

  これによって東南アジア各地の墓制が、南インドの巨石文化の墓制の特徴をおよそ伝
 えていることは知られるであろう。 

  ではどのようにしてこれらの文明の伝播、波及が行われたのか。 それは船によ
る交
 通である。 今日では陸上の交通は安全であり、海上交通は危険が伴うと一般
に信じら
 れている。 しかし古代では、むしろ陸上交通は道路が整備されずに困難
であったのに
 対し、海上交通は天候さえよければ沿岸の航行は容易で、想像以上に
ン距離を航行して
 いた。

 
     奈良県天理市清水遺跡出土
      (橿原考古学研究所蔵)
 
        同左の復元想像図
        (茂在寅男氏原図)

  ここに橿原考古学研究所が所蔵する、奈良県天理市清水風遺跡出土の弥生中期の土器
 片がある。 それには片舷十八本のオールで漕いだ船の絵が描かれている。 
それをも
 とに海洋学の権威茂在寅男教授の復元された図である。

  茂在教授はこれをエジプトのハトシップスト女王の墓に刻まれれあ船と比較している
 。 それには十五人漕ぎで、
21.0メートルある。 またクフ王のピラミッドの前から実
 際に掘り出された船は長さ
45メートル、、紀元前26世紀のものであると証明された。  弥生時代に描かれた舟の絵は数多くあり、茂在教授は古代の交通網はむしろ海路が中
 心であるという。 そして古代の船の大きさが想像を超える
こと、日本の弥生時代の巨
 大な船の実在の可能性が十分考えれることを指摘してい
る。 現にローマ皇帝アントニ
 ヌスの使者は、紀元二世紀に南インドを経て中国の
皇帝に親書をもたらした。 当時の
 東南アジア、西南太平洋の海上交通の盛んなさ
まを想像できる。
  ポリネシア人という、航海術に長じた民族がいた。 最後の氷河期であるヴュルム氷
 期は今から7万年前から1万3千年前頃まで続き、その間、海表面もかなり下
がってい
 ました。 その結果、東南アジアのインドシナ半島やマレー半島からイン
ドネシアのジ
 ャワ島、スマトラ島、ボルネオ島にかけての海域はスンダランドと名
づけられた大きな
 陸地を形成していました。 また、オーストラリア大陸とニュウ
ギニアの間も1つに繋
 がりサルフという名の大陸を形成しました。 

  やがて氷河期が終り、再び地球が温暖化すると、海面は上昇し、スンダランドの大部
 分はか海底に沈みました。 海洋交易を行っていた集団は急速に勢力が衰えま
したが、
 その一方で長距離航海の技術を獲得した一部の集団はさらに南下し、陸地
に定住する人
 々とは異なる風俗習慣を身に着けながら独自の文化を作り上げてき
ました。 この集団
 はインドネシアの島々を通過し、ニュウギニア島の北東アドミ
ラルティ―諸島から、フ
 ィジー諸島、トンガのトンガタブ諸島、サモア諸島まで到
達します。
  精巧な土器の模様など、この時代に開花した文化はラピタ文化と呼ばれメラネシアを
 中心に紀元前
1300年から紀元前500年頃まで栄えたと言われています。 サモアに到達
 した人々は今日のポリネシア文化の基礎とも言える文化を創りあげま
した。
  彼らが再び東に移動を開始するのは 1世紀頃からです。 それは航海術が飛躍 的に
 進化したためです。

  それまでのカヌー航海は、目視できる島から島への移動が基本でした。 高度な技術
 などなくても移動は比較的簡単なもので、風や潮流に逆らって漕いだり、中距
離の場合
 は、行きは海流にのり、帰りは順風に乗って戻るという方法であいた。 

  当時のカヌー製作は5000年以前に南アジアで発生した原型のカヌーと大きく異なりま
 せんでしたが、航海術は飛躍的に進化しました。 その一つは、造船の改良
です。 彼
 らはカタマラン、ダブルカヌー、アウトリガーカヌーという船の改良し、
積載量を増す
 ことに成功した。 カタマランは、
2つの船体(ハル)を甲板で平行に繋いだ船、ダブ
 ルカヌーは、船体を二つ使用し大型のカヌーのこと。 二つの船
体を通常クロスビーム
 を介して連結され、クロスビームの上にデッキがが装着され
ることもある。 アウトリ
 ガーカヌーは、安定性を増すために、カヌー本体の片脇
または両脇にアウトリガーとも
 呼ばれる浮うきが張り出した形状をしている。

  もう一つは、風上に向かって進む「タッキング」という技術を習得したことです。 
 彼らが未知の世界を発見する可能性は飛躍的に高まったのでした。

  紀元前500年頃に北から到来した海洋民族はジフィーやサモア、トンガへ到来しまし
 たが、そこで
1000年ほど停滞しています。 そこから先に島の情報がなく、海しか見
 えない未知の世界だったからでしょう。 

  3,4世紀頃までにはポリネシア全域、即ち、クック諸島、ソシエテ諸島、フェニッ
 クス諸島、ライン諸島、トゥブアイ諸島、トゥモトゥ諸島マルケサス諸島等に
移住し
 た。

 
          ホクレア号
          ホクレア号模型図

   カヌーの仕組みだけでなく、航海術を熟達させたポリネシア人たちは、マルケサ
 諸島付近に到達したあと、しばらくこの地域に停滞したと思われる。 マルケサ
スから
 最初のポリネシア集団がハワイに渡ったのは6世紀から7世紀の頃とされ
ている。 彼
 らがマルケサス諸島にやってきてからハワイに移動するのに数百年の
停滞期間があった
 。 それにはマルケサス諸島からハワイまでの距離
3500kmあまりにも遠すぎた。 
 しかし、そこまでの危険を顧みずなぜ移住したのだろう。

  ホノルルのハワイ・マリタイム。センターにはホクレア号という、全長19m.3程の
 カヌーが展示されています。
これはかってポリネシア人が太平洋を航した時に使った
 であろう双胴のカヌーを復元したものです。 このように小さな
ヌーで何千キロとい距
 離を航海できるとは信じ難いのあったが。 ホクレア号最
の実験航海ではハワイからタ
 ヒチまで1ヶ月と少しであったが、それと似たよう
ものだったであろう。 
  6,7世紀に、ポリネシア人は、
3500km離れた太平洋の1点に過ぎないハワイ1か
 月の日数をかけ正確に到着している。 ポリネシア人は高度な航海術を獲得
ていたと推
 定される。

  日本の弥生時代(紀元前
10世紀~紀元3世紀)には、ポリネシア人は目視でき島々
 はもちろんのこと、目視出来ない海の彼方にある島々に(ハワイを除く)
自由にに航海
 していた。 この事を考えれば、弥生時代、南インドのタミル人が、が日
本に来ること
 は不可能でなかったと言える。

(2)タミル人は日本にきたか。
  第二の質問、タミル人は日本に来たかに対し、大野氏は「来た」と答える。 
   青森県、岩手県北部、秋田県北部には、平内ヒラナイ、洞内ホラナイ、笹内サッサナイ
 、
佐羽内サバナイ、佐比内サヒナイ、沢内サハナイ、田子内タコナイ、毛馬内ケマナイ
 どナイという
地名が何百とある。 また今別イマベツ、原別ハラベツ、苫米地トマベツ
 仁別ニベツ、波宇志
ハウシベツなどベツ・ベチという地名が数多くある。 ナイは小
 川という意味のアイ
ヌ語。 ベツ・ベチも川という意味のアイヌ語である。 こうした
 ナイとベツのつ
いた地名は北海道にも極めて多数ある。 だからナイとベツが北奥の青
 森、秋田の
地名に多くあることは、そこにアイヌ人が住んでいた証拠とされている。 
  これは
研究者の間には異存はない。 ところがこれと同じ趣きのことが、タミルと日
 本と
の間に存在する。 
  タミル語には
Pulam(村・区域)という語があり、kuna pulam(東村)、kuta ulam
 西村)
ten pulam(南村)など広く使われれいた。 ところが、日本書記にフレという
 語があり、次の様に使われている。

  村ふれに長無く,邑に首なし、各封界を貪むさぼりて(景行記40年)
  村邑ふれを剥き掠かすむ(継体記8年3月)

  このfur-eは、タミル語のpul-amとまさしく対応する単語である。 このフレを村の
 意で使う地域が現代日本で一つだけある。 それは長崎県、壱岐の島である。
  壱岐には、東触フレ、西触フレ、北触フレ、南触フレ、前触フレ、後触ウシロフレ、仲
 触フレ
大久保触フレ、西戸触フレ、平フレなどフレという地名が100例ある。 こ
 れは青森
県などにおけるナイ・ベツがアイヌ人の居住の証拠とされているのと同じ考え
 方に
よって、壱岐にタミル人が住んでいたことの証拠とすることができよう。 現に壱
 の島には、弥生時代の巨大な遺構が次々に発見されている。 

  また、日本の方言の中にアッチャ(父)、アヤ(父)、ダンダ(父)、アーヤ(母)
 アッチャ(母)、アッパ(母)、アンマ(母)、アンマー(母)、アンニャ(兄)、ア

 ンネ(姉)ナドノ家族名称が各地にある。 これらすべてに対してタミル語にはぴ

 たりと対応する単語がある。
  
ということは日本へタミルから、文明的な「物」がけが輸入されたのではなく、家族
 単位の移入が存在した結果であると思われる。 つまりタミル人は家族として
日本にき
 て住んだし、集落を形成した地域もあると考えられる。

(3)タミルと日本との間に両者の言語の仲介地となるような場所があるか。
   タミル語又は日本語に近い言語がはなされている所があるか、については、今日のと
 ころ明らかでない。 しかし、実は朝鮮語がタミル語と約
400という対応後をもつので
 ある。

  朝鮮語と南インドのドラヴィダ語との比較文法が、すでに1905年に、HBハルバ
 ートという朝鮮学者によって書かれている。 しかし、その書物は言語学者
に一顧もさ
 れずに打ち棄てるられていた。
 その後、1990年、水原スウオン大学教授姜吉云カンギ
 ルウン
が「古代史の比較言語学的
研究」を発表した。 その中の「伽耶系語の分類比較
 研究」という部分で、そこに
は韓国語とドラヴィダ語との比較語彙1368語が含まれて
 いた。
それを一見すると、タミル語の誤りが点々とあり、単語の吟味もゆるいように
 見えたが、この研究
は重要な内容を含むことが判明した。
  [1] この研究は、タミル語についても朝鮮語についても、語根の構造についての配慮
   がない。

  [2] 音素の対応について厳格な考慮がはらわれていない。 
  [3] 意味の対応についての吟味が大雑把である。
  [4] 単語の用法を文例をあげて説明する配慮がない。
  という弱点をもっている。 それにも拘わらず、この論文は決して無視できないもの
 である。 私(大野)の判断によれば、姜氏の挙げる単語な三割くらいは比較
語彙とし
 て残すことができる。 それは約
400語あり、日本語とタミルとの比較語彙よりわずか
 に少ない程度である。

  従来朝鮮語の系統研究は、ほとんどすべてがツングーす語、モンゴル語など大陸のア
 ルタイ語系統か、あるいはギリヤーク語などを目標として進められた。 しか
し、どの
 言語との間にも正確、厳密な音韻の対応を示す比較語彙を多数提出するこ
とが出来ず、
 研究は止まっているようにみえる。 
400語もの対応後を提出できる言語はまだない。
  すでにおこなった日本語とタミル語との単語比較にあたって私(大野)は、①第一子
 音、②母音、③第二子音(以上の
3要素で語根の形が決まる)に加えて、④意味という
 四つの要素の対応が同時に成立することを持って、対応語とみなしてきた。 
朝鮮語と
 ドラヴィダ語との比較も、これと同じ水準の厳密さが要求される。 そこ
で実際にこれ
 を実際に行ってみると、①③④の三要素は同時に整然と対応するもの
がある、しかし、
 ②の要素、母音に関しては、日本語とタミル語との間に示した
ほど整然たる結果を示す
 ことはかなり難しい。

  それは次のような理由による。
  ① 朝鮮語には古い資料が無い。 朝鮮語の音を表記するハングルが制定されたのは
   紀元
1446年で、それ以前の朝鮮語の資料が極めてすくない。 これは言語比較に
   とって大きなふたんになる。
  ② 朝鮮語の母音体系
    朝鮮語は7個の母音の体形を持って居た。 ところがタミル語の母音はa,i,u,e,o
   5個である。 仮にこの5個の母音体系を7個の母音体系で受け入
れるとすれば、
   安定的な対応関係は成立しにくい。 その上。朝鮮語には
eの母音がない。 その
   結果、タミル語の
eに対して様々な音を当てることになる。 
  そうした制約にもかかわらず、朝鮮語とタミル語・カンナダ語(ドラヴィダ語族)
 比較すると、その間に約
400語の対応語がある。
  さて、タルミ語など南インドの言語と、朝鮮語との同系説はなお言語学的な立証が困
 難であるとしても、朝鮮語と、タミル語・カンナダ語の間の文化語を含む単語
の約400
 語の対応は確実である。 と言うことから、巨石時代の南インドと朝鮮
との文化の関係
 は確かに存在したと考えられる。 つまり日本とタミルとの文明史
的関係は、僅かな、
 孤立した関係でなく、朝鮮を含めた「三角関係」として成立し
たのである。




参考文献
*日本語の源流を求めて                著者 大野晋     発行所 株式会社岩波書店
*日本語の起源                             著者 大野晋    発行所 株式会社岩波書店
*日本人と日本語の起源               著者 安本美典  発行所 毎日新聞社
DNAから導きだされた日本人の起源                   著者 丸地三郎 
*詩論;DNA-日本人の起源とモンゴロイド            著者 丸地三郎 
*カヌーと長距離航海                                                著者 近藤純夫


 













 
 





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