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A 広隆寺
所 在 地 京都市右京区太秦うずまさ蜂岡はちおか町32
宗派山号 真言宗系単立。 山号;蜂岡山。 開基;秦はた河勝かわかつ
Ⅰ歴史
仏教が正式に日本に伝わったのは欽明天皇13年(552)10月、百済の王、聖明王が仏像経論を我が天皇に献上したときからである。 時あたかも氏族の跋扈すろ時代で、神道一辺倒の神別と進歩的な皇別が仏教の採否について争った。
平安時代初期に書かれた「新撰姓氏録」では、姓氏を、皇別、神別、諸蕃の3つに分別している。 皇別こうべつは、皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す、神別しんべつは、日本神話に現れた諸神の後裔、諸蕃は、朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫である。
このようにして神別の代表者たる物部氏と皇別の代表者たる蘇我氏(孝元こうげん天皇の曾孫武内宿祢の後裔)との間で争いが起こり、587年丁未ていびの変で廃仏論者の物部守屋が討滅された。 先の仏教公伝の35年後であった。 これより先用明天皇は、神道を学ぶと同時に仏法も信じられ、仏教は一歩一歩とその伝播の基礎が築かれた。 用明天皇の第二皇子・厩戸豊聡耳うまやどとよとみみ皇子、すなわち聖徳太子(母;穴穂間人皇女)の出生に及んでにわかに仏法興隆に向かうこととなった。
太子が三十三代推古天皇の摂政官の大任を負った時は20歳の若さであった。 国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を取入れて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。 また、仏教を厚く信仰し興隆に努めた。 ことに仏教に帰依して三経義疏(聖徳太子によって著されたとする「法華義疏」「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」の総称である。 それぞれ「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の三経の注釈書である。)を製し、民心の統一を計られた功績は以外で、我が国仏教の創祖とあがめられている。 太子が三宝興隆のために日本に建てた寺は四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、法起寺、葛木寺をもって太子建立の七大寺という。
(1) 広隆寺
広隆寺の起りは「日本書紀」の韓巻22条に推古天皇11年(603)1月、秦河勝公の本拠地山城国葛野郡かどのぐん太秦の地に蜂
岡寺を建立したのである。 そして本尊は現存する弥勒菩薩半跏思惟像であると思われる。 即ち広隆寺交替実録帳に「金色弥
勒菩薩壱帯体居高2尺8寸、所謂太子本願御形」とあるのが本尊だと称している。
一方、延喜17年(917)藤原兼輔撰の聖徳太子伝の集大成である「聖徳太子伝暦」によると、
「推古天皇12年の秋8月に太子、大和国いかるがの宮に良臣秦河勝に語られるに、吾前夜不思議なる夢をみた。 この地から
北56里余りの一つの美邑に遊んだ。 楓林が生い茂り……まことに殊勝な土地である。 この林の中に汝等の親族達がねんごろ
にもてなしてくれた。 秦河勝稽首けいしゅ(頭を地に着くまで下げてする礼)して言うに、臣の住む葛野と夢は同じです。 太子こ
の地を見んと駕篭を命じ、その泉河のほとりに宿りたまう。 太子侍臣達に言われるに『吾以後二百五十年に一聖僧にて寺を建て
道を弘め大いに仏法を興す。 この僧は他人に非ず、我後身なり』かたられた。
250年後とは、当寺中興の道昌僧都が出られたときに当たる。 その弟子達は法相を伝承して仏教は繁興するなり。
翌日楓楓野大堰の郷に至り見給うに。お夢と同じく、楓林の中に大桂樹あり、異香芬馥いこうぶんぶく(香りが香ばしくみちている)とし
てその樹うつろにして小宝閣あり、孝明絢爛とする。 衆人これを未しも蜂群れあつまって奇声を発し……(確かにそこには、楓林
に大きな桂の古木があり、無数の蜂が飛んでいた。 太子の目にはそれが羅漢が説明しているようにみえたのである)」
ここにおいて太子は宮殿を作って楓野かえでの別宮となされた。」
太子言われるには、この処は非常に地形に優れて、南が開けて広く果てし無く、北は峰々が峨々としてそびえ、東に川あり、にし
の道開け、四神相応して宮城を擁護し、実に扶桑無二の境地である。 ……聖皇再び都をここに遷して釈典を興隆し、苗裔びょうえい
(子孫)累々として(続くこと。 このことを皇帝に奏文して太子は秦河勝に命じて蜂岡寺を建立せしめた。
寛平11年(890)の広隆寺資財交替実録帳によれば、広隆寺は推古天皇11年(603)着手、30年(622)に完成している。
仁徳天皇の御代みよ(年代?)普洞王ふどうおう(弓月王ゆずきおうの子)が朝廷に絹織物を献上し、天皇がこれを着て肌の感触が柔軟
だったことから波陀はだ姓を賜わり、漢字の秦を当て「はた」と読ませた。 その子秦酒公は、雄略天皇の御代(年代?)、秦氏1万8
千余人を集め養蚕絹を織って山のごとく積あげて天皇に献上したので、天皇より、㝢都満佐うずまさの号を賜った。 これに漢字の
太秦を当てた。 その後酒公は、伴造とものみやっことなり、全国の秦氏を統括した。 当時の京都地区の秦氏は葛野川(桂川)の流れる葛
野平野に定着し、自らの技術を生かして開拓と殖産に力を注いだ。 当時,京都地域の秦氏は葛野地方のみならず、巨椋池以北
の山城北部一帯に反映繁栄し、海外文化の扶殖にしたがっていた。
欽明天皇時代、山城国紀郡深草里(伏見区)にいた、秦大津父おおつちは伴造とものみやっことなり、秦氏を統括すると同時に、国家の財
政をあずかる要職である大蔵の官(大蔵掾じょう)に任ぜられた。 その子孫秦伊呂具いろぐが元明天皇の和銅4年(711)伏見稲荷
を建立した。 また、秦忌寸都理はたのいみきとりは松尾神社を建立し、代々神官として神に仕えた。
広隆寺を建立した秦河勝は、酒公の六代目に当たる。
広隆寺は弘仁こうにん9年(818)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。 承和じょうわ3年(836)に広隆寺別当に就任し
た道昌は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。」 その後、久安きゅうあん6年(1150)にも火災で全焼し
たが、この時は比較的短時間で復興し、永万えいまん元年(1165)に諸堂の落慶供養が行われている。 現存する講堂(重要文化財
)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられる。
(2) 歴代別当
法相宗ほっそうしゅう、三論宗さんろんしゅうから真言宗への移り変わったことをしることができる。
① 第一代別当道昭は、法相宗の第一人者。 白雉はくち4年(653)遣唐使の一員として入唐し、玄奨三蔵げんじょうさんぞうに師事して法
相教学を学ぶ、斉明さいめい天皇6年(660)頃帰国。 晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。 700年に72歳で没した際、 遺命により、日本で初めて火葬に付された。
② 第二代別当道慈は三論宗の僧。 大宝2年(702)唐へ渡り、西明寺に住して仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に
選ばれた。 養老2年(718)帰朝。 日本三論宗の代伝とされる。
③ 第三代別当道勝~⑥第六代別当玄
⑦ 第七代別当明澄の時代に、法師秦鳳は縁起資財表とう窃取して逃亡するとの記がる。
⑧ 第八代別当宣融の時代、弘仁9年(818)4月19日、非常の火災があり堂塔、僧房ことごとく灰燼に帰す、縁起資財帳等すべて
焼亡散失し、広隆寺創建よりここに至るまで215年である。
⑨ 第九代別当道昌 広隆寺中興開山とされている。
弘法大師十大弟子の一人で、俗姓は秦、讃岐国香河郡出身、幼にして家を離れ仏門に入る。 元興寺明澄に師事して三論宗
を学ぶ。 弘仁9年(818)東大寺において受戒した後、天長5年(828)高雄神護寺において弘法大師に従い、真言密教を学び、
灌頂を受けた。 承和3年(836)正月11日、広隆寺別当になり、中興を遂げた時に39歳であった。
道昌と弘法大師の関係を見ると道昌は「弘法大師行状要集」においては、三論学徒として上っている。 ……少なくとも広隆寺
は三論宗の学系に属しているといえる。 このことは単に広隆寺だけでなく元興寺、大安寺等も三論宗に属していた。 しかし、
法 相宗がおこり、更に三論教学は、弘法大師の遺告の中で、真言宗徒は必ず三論、法相宗を学ぶべきと述べている。 真言
宗の興 隆と同時に、飛鳥時代に作られた古い寺院はすべて真言宗に合同されたものとかんがえられる。
(28) 第28代別当信証の長承ちょうしょう元年(1132)に鳥羽院が当寺に御参籠され、種々御霊験があった。 そこで、勅願料所として
近江国犬上郡二季八講料、近江国甲賀郡和太庄不断供花料、同森尻庄等の寄進を受けた。当寺が中世における経済的基礎
を確立することができた。
(29) 第29代大別当寛滴の時「久安6年(1150)」庚午正月19日金堂等全焼するが、御本尊新堂に移すとある。
(30) 第30代大別当寛敏の時、再興のことを公家に申し入れした。 時の権力者藤原信頼の働きにより、炎上16年目にして金堂、
廻廊、鐘楼、経蔵、大門、中門悉く完成した。
(31)第31代別当は東寺長者であった禎喜権少僧正が兼務
(32)第32代~49代別当は、親王が補任され、第50代で終わり、その後は、大覚寺と仁和寺の兼務になった。
Ⅱ伽藍
(1) 楼門
広隆寺の正門に相当し、三条通りに向かい南面してたつ。 三間一戸さんげんいっこ(正面の柱間はしらま三つで、中央が戸口)の楼門で
ある。 「楼門」というのは、二重の門であるが、一重と二重の間に屋根がなく縁があるだけで屋根は二重にあるだけの形式の門
である。 現在例では、鎌倉時代が最も古く、滋賀県大野神社の楼門が最古のれいである。
広隆寺の楼門は江戸時代、元禄15年(1702)の造営という。 様式からもそのころの建築と認められる。 全体として型通りで一
重柱も高く、その上に縁を支える三手先みてさきの和様組物があり、中央には彫刻を入れた蟇股かえるまたを置く。 縁の上には低い柱
がたつ。 柱上もまた和様三手先組物を組み、軒には細かく配置した垂木を二段に構える(二垂木ふたるき)。 屋根は、現在桟瓦葺
さんかわらぶきであるが、当初は多分杮葺こけらぶきか檜皮葺ひわだぶきであろう。 一重の正面両側に金剛柵こんごうさくがあり、仁王像を置く。
このような門は江戸初期ないし中期の楼門の典型と言い得られる。 その左右は築地塀ついじへいが続く。
(2) 講堂(重要文化財)
楼門の北側に南面してたつ丹塗の仏堂で、その塗の色から、「赤堂」とのいわれている。 当寺も、推古天皇の時に創建されて
以来、何回か火災に遭い、復興を重ねている。 久安6年(1150)正月火災の後、永万えいまん元年(1165)6月13日落慶供養された
建築の一つと考えられている。 即ち当時の「五間四面堂」がそれで、丈六阿弥陀、丈六地蔵と同虚空蔵菩薩が安置されていたこ
と、現在の講堂安置諸仏とが合うこと・それに内部における様式手法の古様などからそのように見られているのである。 しかし、
現在の講堂は「五間四面」でなく、それより規模が小さい。 そのうえ、外回りにほとんど、室町時代の永禄8年(1565)及び江戸時
代以後に変改造替されて旧様を残していないところから、一般に「七間四面堂の金堂が永禄頃甚だしく荒廃していたのを縮小して
現状のようにされたと解釈されている。 しかし、これも直ちに承認することは難しく思われる。
現在の講堂は桁行五間、梁間」四間、一重、寄棟造、本瓦葺の、遠望したところわりに建ちの高い建物である。
外観では古式の失われているいるのに反し、内部は平安時代の古式が良く残されている。 その第一は、一間通りの四方を除
いた三間二間にわたる部分の構架式である。 それは柱頭上に組んだ三斗組の組物から前後に長大な梁(大紅梁だいこうりょう)を
架け、その上二箇所に板蟇股を置き、更に小さな紅梁とその上に板蟇股とで構造される方式で「二重紅梁蟇股式」という構架式で
ある。 これは奈良時代以来、近世に至るまで和様系の建築に賞用された形式である。
京都では、平安以後の物がなく、平等院鳳凰堂の翼廊、尾廊に古式の物が見られる。 鎌倉時代になると蓮華玉院本堂
(三十三間堂)にあらわれている。 そこで広隆寺の講堂の「二重紅梁蟇股式」は様式手法から見れば鳳凰堂より遅れ三十三間
堂に先立つ。
(3) 上宮王院じょうぐうおういん
講堂の北にある檜皮葺の大建築が上宮王院(本堂)で聖徳太子三十三歳の等身像が安置されている。 正面は宮殿風の建物
で、享保きょうほ年間(1716~36)の造営である。 平面は凸形で、前方五間四間が外陣げじん(礼堂らいどう)で、これに続いて前後五間
左右三間の部分が後方に張出、最後部の正面三間奥行き二間分の祠堂しどう(寺で檀家の位牌をまつる堂)となり、そこに尊堂が
祀 られている。 外観は宮殿風といいながらも開山堂のような印象を受けるし、神社の権現造ごんげんづくり(本殿と拝殿の2棟を一体
化し、間に石の間いしのまと呼ばれる一段低い建物を設けるのが特徴。 日光東照宮、北野天満宮)を思わせるものである。 正
面は吹き出しの広縁とし、五間広縁の内側、正面が九間、側面三間の部分が外陣となっている。 この奥は軒の組物も出組(柱
から一つ前に出た肘木ひじき上に軒桁のきげたがくる組形、一手先ひとてさき)として、一層仏堂風にされているが、外陣の方は、桟の細か
い舞良戸まらいどや格子に組んだ蔀しとみなどを用いて住宅風に扱われている。
外陣内部は、九間三間分が、一面の広い格天井ごうてんじょう。 格天井の格間ごうまは左右17、前後10、合計170ある。 その裏板(
天上板)にはそれぞれ極彩色でいろいろな草花、花木を主として描き、他に楽器や紋章、扇面などが一面にみられて華麗である。 このような美しい天上で多数の格間が百花図のように描かれているのは、古建築では、延暦寺根本中堂、中陣の二百枚の百花
図に次ぐものではなかろうか。
内陣は、外陣中央に続き、正面に壮麗な厨子が設けられている。 中央に軒唐破風のきからはぶが付けられ、法隆寺の聖徳太子をお
祀りした聖霊院しょうりょういん内陣の厨子と同様なつくりである。
その前の天井は水平でなく、唐破風の内部のように曲線形の輪垂木わだるきを用いた輪垂木天井とでもいうべき天井としてあるが、これは開山堂と拝堂(外陣)と祠堂(内陣)とをつなぐ室の天井として適当な方式といえよう。
(4) 太秦型石灯篭
この石灯篭は、書院の前庭にあり、石屋や植木屋の間では太秦型と称して有名なものである。 堂々たる鎌倉時代の灯篭で、
笠の上の受花うけばな宝珠が惜しくも後補であるが、笠以下は当初の当初の物である。 基礎はこの種の灯篭(六角形灯篭)では六
角が普通であるが、ここでは円い平面である。 その上端うわばの蓮弁は水平に近いのが珍しいが、各弁の曲線は美し。 その
中心に竿が立つ。 注意すれば気が付くが竿にエンタシス(膨らみ)をもっている。 竿の中節四方に蓮花文の飾りがあるが、鎌倉
時代の好みの一つである。 中台側面は二区に分れ横連子をいれる。 中台以上が大振りなので荘重感が出ている。 笠は低く
、しかも重々しいが、軒反りも美しく、蕨手も古調をもっている。
(5) 桂宮院(国宝)
桂宮院は講堂や上宮王院から外れた西のほうにあり、築地塀に囲まれた一郭をなしている。 その中に本堂がある。 八角円堂
いわゆる八角堂で、一重、檜皮葺の落ち着いた建築である。 八角平面の仏堂と言えば、古くは、法隆寺夢殿等がある。 これら
は皆石の基壇上に立つ内外とも土間の建築である。 実はこれが本来の姿で、大陸系の形をよく伝えているものである。
しかし、桂宮院本堂は違う。 基壇のような石積はなく、わずかに八角形に布石ぬのいし(長い石)或いは葛石かずらいし(住宅
の基礎立ち上がりに当たる部分に使用する石)と言えるべき石を置いたに過ぎず、その上vに低木造の縁を付けている。 縁の下
は漆喰ぬりの「亀腹」かめばらがある。 屋根も上品で精練された檜皮葺である。
この本堂は大変珍しい八角円堂で、その特異点を一口で言えば「八角円堂の日本化、住宅化」である。 平安時代後期になると
、住宅の面でも各部に日本的な表現手法、構造を持った貴族住宅→寝殿造→が大成された。 一方、桂宮院本堂は、内部の春
日厨子に聖徳太子像を祀っていた(現在は霊宝館)。 仏堂の従体躯化は平安時代に盛んに行われたが、鎌倉時代にそれは八
角堂にまで及んだのである。 この本堂の造営年代は建長3年(1251)の勧進帳があることからおよそその頃のものと考えられて
おり、様式手法もその頃をよくあらわしている。
Ⅲ文化財
(1) 弥勒菩薩(宝冠弥勒)[国宝] 像高;84.2㎝
「人間存在の最も清純な、最も円満な、最も永遠な姿のシンボル」とドイツの実在主義哲学者ヤスパースbが讃辞を呈した通り
、この弥勒菩薩の前に立つと、人は誰でもおのから心の安らぎを覚える。
この弥勒菩薩の姿から苦悩の陰りはすこしも認められない。 それは、人間界の苦悩から全く解脱した姿である。 永遠の安息
の姿であるといえる。 目に僅かに両端の反り上がった三日月形で開けるでもなく、閉じるでもなく、伏せて瞑想しているようであ
る。 両眉の線は眉間によって二本の鋭い線となって鼻筋を通し、素朴なうちに明晰な感じを覚えさせる。 この素朴さは、また、
口にも表れ、口の両端をやや吊り上げて微笑を浮かべるが、目や頬や口元に見られる穏やかな肉付けは、素朴で鋭い線を内包し
ながらも保上枝をつく、えもいわれぬ右指の形と一緒になって不思議な安らぎの感じがにじみでている。 まさに造化の神の妙技
と言うべきであろう。 頭上には宝冠弥勒の称を得るもとになった四方に、張り出しのある宝冠を戴く。
胴は頭に比べて細く、肉付けもわずかで、やや右に傾き、頬杖をつくり自然な形をとり、自然な形をとり、台座に腰を下ろし、左足
を踏み下げ左膝の上に、右足首を載せ、右膝で右肘を支える。 この型の仏像を一般に半跏思惟像はんかしいぞうとよぶ。 側面から見
ると、ほっそりした胴から両足が素直に伸びて、百済観音に見るような穏やかな感じが出ている。 しかし、百済観音のように正面
観と側面感との間に断絶はなく斜め側面から見ても、一応まとまった姿になっている・。
この弥勒菩薩の構造は、宝冠から仏体・台座に至るまで一木から彫りだし、後頭部、背面・台座の底の三方から内刳し、後頭部
・背面には蓋板を当てている。 もとは金箔を貼っていたが、現在はほとんど剥離している。 戦後この像の材質が松と判明した。
日本にも松はあるが、他にもっと彫刻に適した良材が豊富なので彫刻に不向きな松を使うことはあまりない。 すくなくとも、飛鳥、
白鳳時代の遺品で松を使った彫刻は他に一体もないことより、朝鮮で制作されたものと判断された。
(2) 弥勒菩薩(宝髺弥勒・泣き弥勒)[国宝] 像高;66.4㎝
さきの宝冠弥勒と同形式の台座に座る半跏思惟像である。 宝髺ほうけいを高く結うことから宝髺弥勒といい、また、目がうるみ、
大きな唇の両端を押仕上げ、べそをかいているように見えるといわれ、泣き弥勒とも呼ばれる。
この弥勒像は、金堂に安置された7体の仏像のうちの一つとされている。 しかし、推古天皇11年、秦河勝が、聖徳太子から仏
像を賜ったことが記されているが、「日本書紀」には、「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊像」がが上記2
体の弥勒菩薩のいずれかでかに該当する確証はない。
この弥勒像は、宝冠弥勒と違い、全身に金箔がよく残っり、宝髺から上膊を含む胴を一木で作って、像底から内刳し、台座にか
かる裳先は、縦に四材を寄せ、台座もまた別材で作る。 変わっているのは、両肩から下がる天衣てんねの垂下部と右足首にか
かる装裾の部分を皮で作っている点であろう。 相好は抒情的な宝冠弥勒とは違って顔の各部の造作が大きい
うえ、彫が深く頬杖つく指も長く直線的に伸びて表情の厳しさを強調する。 また外観して胴には幅と厚みが
まし、四方、八方どこからみても安定した堂々たる威容を示す。 これらは宝冠弥勒より造形的には時代の進
んだ様式を示している。 像の材質は楠で、日本で制作された可能性が高い。
(3)聖徳太子(重要文化財)像高;57.9㎝
寺伝によると、聖徳太子は推古天皇12年に、河勝を首長とする秦氏が繁栄していた地に楓野別宮を造営したと
伝えるが、後に別宮を改めて桂宮院が創立された。 この聖徳太子は、元々桂宮院に祀られていたが、現在は
霊宝館に移されている。 柄香炉えこうろを持って半跏の姿勢で椅子に座るいわゆる孝養きょうよう像で太子16歳の時、
父用明天皇の病気に際して、日夜仏に念じて、天皇の全快を祈っている姿を現している。 この像は、鎌倉時
代の太子信仰の紅葉に伴って流行した孝養像の定石であり、髪を美豆良みずら(左右に振り分けた髪を両耳のと
ころで結ぶ古代童子の髪型)に結い、父天皇の病気を心痛する表情として気品のある白い豊満な顔は柳眉をさ
かたて、口元をきりっと引き締めている。 衣の襞はやや大まかだが、写実的に表現され、衣の文様は、胡粉
(白色顔料)を盛り上げたうえに彩色を施し、若々しい太子にふさわしい華やかさを添えている。 椅子の背
板にある極彩色の牡丹唐草文はちょうど太子像の光背の役目をしている。
(4) 聖徳太子像 像高;148㎝
推古天皇11年11月1日、当時33歳の聖徳太子が太秦蜂岡寺の秦河勝の邸に臨まれ、仏像を授けるて寺を建立
せしめたのが広隆寺の開創であり、その当時の太子の御姿を上宮王院に祀っている。 この太子の尊像は古来
より、天皇の黄櫨染こうろぜん桐竹鳳麟きりたけほうりんの御束帯(御即位または宮中の儀式で着用される最高の義服)が増
進され、各天皇御一代を通して着用される嘉例である。 現在は今上陛下の御衣を召されている。
(5) 男神像・女神像(重要文化財)
聖徳太子の頃、秦河勝が出て、太子本願の尊像を賜り、これを本尊とする広隆寺を創建したのである。 広
隆寺にとって秦河勝は大檀那にあたる。 この一組の神像(男神像・女神像)は河勝夫妻像とつたえられるが
、両像とも顔のみ入念に制作し、胴体は、ほとんど衣の襞も彫らず、簡単に仕上げている。
この像は、神殿の奥深く鎮座し、人目に触れない神像の祀り方からきた特徴である。 神像は、平安時代初
期(9世紀)に仏像彫刻の影響を受け制作され始めるが、初期は仏像同様の表現をとる神像がおおかった。
その後時代が進むと体部の簡素化が次第に進み、平安時代末期になると、頭、同、膝を一本から彫りだし、頭
部だけに奥行きがあるが、膝のではほとんどなく、衣の襞も極めて簡略にした神像が多くなった。 そういう
神像の変遷から見ると、この一組は、もと膝部を別材に彫ったあとを示す枘穴ほぞあながあるので、神像としては
古い方に属する作品である。
(6)弥勒菩薩像(重要文化財)塑像 像高;83.7㎝
京都には稀な塑像そぞうである。 弥勒は、初めの菩薩として修行するが、釈迦滅亡後56億7千万年を経て、如
来となりてこの世に現れ、釈迦の教えを再び広める。 従って弥勒像には菩薩像と如来像の二通りがある。
先にあげた半跏思惟は菩薩の方で、これは如来である。
印は右手施無畏印せむいん(人々を安心させる)、左手与願印よがんいん(人々の願いを聞く)で、釈迦如来と同じ印
になっているが、寺では弥勒と呼んでいる。
頭部の螺髪らはつ(巻貝粒形の髪)は大粒で先が尖り、目は上下瞼とも大きくうねり、小鼻の大きな鼻、分厚
く突き出ている唇など、なかなか雄偉な相好になっている。 胸巾は少し狭いが、衣の襟をきっとたてて胸を
大きくはだけ、膝には長く左右に広げてゆったりと結跏趺座けつかふざ(両足を組合わせて座る)する姿は威容があ
る。
塑像は、木の心棒に荒縄まいたものや像形を刻んだ気を芯として粘土を塗り重ねたもので、奈良時代後期に
盛行した。 像の相好や衣の襞の渋滞ぶりから平安時代初期とおもえる。
(7)不空羂索観音像(国宝)像高;313.6㎝
不空羂索観音像ふくうけんさくかんのんは講堂に安置された7体の仏像の一つ、檀像で東北隅に安置されている。 檀像
は、もともと南方産の香木白檀で作った白木のままの一木造像のことであったが、その後、白木の一木造像は
すべて檀像といわれ、この像もそういう意味での檀像であったが、後世に彩色が塗られている。
この像の表現は天平彫刻の特徴が濃厚にでている。 腕は八本あり、左右均斉に張り出して、3mを超すす
らりとした長身の体躯は、特に下半身が長く、体の肉付けが柔らかそうで、少年の体を思わせる。 顔も肉付
けが豊かで、体と共通する伸びやかさがある。 それは天平彫刻の乾漆像に似た弾力のある柔軟な表現だが、
胸の前で堅実心合掌と呼ばれる不空羂索観音像独特の両指先を反らした力強い合掌によって、全体が強く引き
締められている。
この像は、天平彫刻の様式を留めながら、弘仁9年(818)以前の時期に制作された貞観彫刻であったかもしれ
ない。
(8)吉祥天立像(重要文化財)
広隆寺には吉祥天像が五体もある。 いずれも一木造の立像で、左手には宝珠を持っている場合が多い。
⑤の吉祥天だけは右手にもっている。 上衣に丸首のものと左前に重ねたものとの別があるが、全て一番上に
は両肘くくりがあって先端がラッパ状に開く一種の作業着をまとい、その下から、長い袖を左右に下げ裳も(腰
から下にまとう衣服)を地まで垂らし、両足だけ出すのが特徴である。 ⑤の吉祥天は丸首の下に右前に重ね
る下着が見えるのが他とかわっている。 宝冠を戴くのは③の吉祥天だけで他は頭頂に宝髺を結い、頭の周囲
に天冠台を廻らすだけである。 ①の吉祥天が最も古く9世紀にさかのぼる重厚さを示し、猪首いくび(首が太く
て短)で撫で肩、衣には鎬しのぎ(刀の刃と棟の中間を走る稜線)立った太い波と細い波が交互の繰り返す飜波式
ぼんぱしき衣文えもんが刻まれている。 他はほぼ10世紀の彫刻様式を示し、飜波式もあまり目立たず、衣の襞の彫は
浅くなり、②のように極端に襞の彫を省略するものもある。
日本における吉祥天の信仰は、天平時代の金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうきょうの流行に端を発している。
(9) 日光菩薩(像高;175㎝)・月光菩薩(像高;174㎝)[重要文化財]
平安時代後期以降の広隆寺は、霊験薬師に対する信仰が中心になって栄えた。 それに清水寺の観音や鎌倉
寺の毘沙門天と同様、貴賤老若男女を問わず群参する民衆の寺であり、特に5月5日の霊験薬師の縁日で賑わ
った。 このような都の人達の熱烈な信仰を集めた霊験薬師にたいして、康平こうへい7年(1064)に藤原資良
すけよしは、仏工長成法橋に命じて日光、月光両脇侍菩薩と守護神である十二神将像を造立させた。 資良は伊賀守
・丹波守を歴任した受領ずりょう(国司)で、藤原貴族では傍系であった。 しかし、当時の倣いとして「受領は
倒れるところで土を掴め」式に任地で富をかき集めたことは確かである。
この諸像の作者である仏工長成法橋とは、定朝の弟子で、仏師で初めて法印の位に昇った長勢その人であろ
うと思われる。 長勢は法定寺等で諸像造立し、82歳の高齢で世を去っている。 後世三条仏師の租と仰がれ
、その仏所所属の仏師は、多く名の一字に円を用いたので、円派ともよばれる。
二菩薩の相好は上瞼をほぼ水平に、下瞼を弧状に引いて平等院阿弥陀像の慈眼を偲ばせ、小さい小鼻、形よ
き唇など、全てが優雅に整って美しい。 藤原彫刻の最盛期の作品にふさわしい造形を完成している。 藤原
彫刻は、定朝・長勢あたりで定朝様じょうちょうようと呼ばれる様式が完成以後は、新様式の鎌倉彫刻が現れるまでの
長い期間、定朝様の退屈きわまる量産が繰り返された。 これは、なだそのマンネリ化に陥らない前の作品で
ある。
(10) 十二神将像(国宝)
因達羅いんだら大将(115.4㎝)、 額爾羅あにら大将(120㎝)、 迷企羅めきら大将(114.5㎝)、
宮毘羅くびら大将(123㎝)、 伐折羅ばちら大将(114.2㎝)、 安底羅あんてら大将(115.1㎝)
珊底羅さんてら大将(122.2㎝)、 波夷羅ばいら大将(121.2㎝)、 磨虎羅まこら大将(117㎝)
真達羅しんたら大将(1193.7㎝)、招社羅しょうとら大将(121.5㎝)、毘羯羅ひかつら大将(112.7㎝)
この十二神将は、霊験薬師像の守護神として、康平7年に藤原資良が仏師長勢に命じて日光、月光両菩薩像
と共に造立させたと文献にある。
十二神像の完全に残る例は、平安時代までに限ってあげてみると、天平時代のなら新薬師寺像、平安時代の
兵庫東山寺像、同奈良東大寺像くらいしかない。 そのうちこの一組はその姿の優雅なことでは、随一で、神
将像にありがちな誇張された表現が極めて少ない。 なかでも宮毘羅、安底羅、珊底羅、磨虎羅4体の出来が
よく、忿怒の表情が優れているうえ、四肢のバランスが完全で、急激な動作を抑えてかえって、内に充実した
力を籠めることに成功している。
(11) 阿弥陀如来像(国宝)像高;263.6㎝
古来より著名な阿弥陀像である。 この阿弥陀像については、広隆寺縁起資財帳次のように書かれている。
金色阿弥陀仏像壱躯居高八尺 故尚蔵永原御見所願 細色地蔵菩薩像壱躯居高六尺五寸 細色虚空地蔵菩薩像
壱躯居高六尺五寸 己上倹校権津法橋上人位道昌願
永原御見所に尚蔵と付いているのは、この阿弥陀像が、永原御見所の尚蔵時代の制作である事を意味する。
永原御見所は、淳和天皇の女御亭子で、阿弥陀像の造立は、淳和天皇の在世中の天長年間(824~34)と推定さ
れている。
丈六の巨像で表面の厚い漆下地のため構造がよくわからないが、頭胴根幹部はおそらく一木造であろう。
相好はほぼ直線的な瞼が鋭く光る切長い目、豊かで引き締まった頬、顔の中心にまとめられた小さな鼻と口な
どによって、抑揚に富んだ天平彫刻とは一種違った威厳を示している。 体躯は奥行きも幅もある堂々たる威
容を示し、膝を大きく左右に張って安定感があるが、衣の襞はそれほど深くも太くもなく、また、貞観彫刻独
特の鎬しのぎも立っていない。 天平彫刻を継承しながら、また新しい表現を試み、しかも同時代の貞観彫刻とも
一線を画した、いわゆる奈良様彫刻の発展のあとを示している。
この像で注目すべきは印相である。両手とも親指と薬指とをまげて、胸の前で向き合わせるいわゆる説法印
(釈迦が最初に説法したときの身振り)をむすぶ。 この説法印は、法隆寺の壁画や奈良時代の阿弥陀像に広
くみられる。
(12) 地蔵菩薩(重要文化財)像高;182.4㎝
縁起資財帳に「倹校権津法橋上人位道昌願」と記されてある仏像。 道昌が権律師であった貞観6年(864)
から同10年までの間の制作と思われる。 いま表面は白木に近いが資財帳によれば当時は彩色像であった。
頭と胴を一木で作り、」それに横木で膝部をつくって寄木で膝部を作って寄せる構造で、見るから一木造らし
い厳のような感じの仏である。 その顔は奥行きが深く、両肩が左右と前に盛り上がって、頭が堂にめりこん
だように見える。 顔は肉付きが豊かなうえ鼻筋が短く、口鼻が接近しているためその表情は重厚である。
上瞼がうねっている目、幅広い小鼻、両端を跳ね上げた唇、分厚くたくましい耳など、特徴のある造作がその
表情に神秘的な感じを当て得る。 体にまとう厚ぽたい衣には、鎬しのぎ立った大波と小波の襞が交互に繰り返
され、貞観彫刻の特徴とされる飜波式ぼんぱしき衣文の典型的な形を見ることができる。
しかし、宝寺を載せる左手の豊かな肉付きと細くしなやかな指の曲げ方を見ると、厳のようなこの地蔵にも
、温かい血が通っているかのが感じられる。 宝珠を持った地蔵としては、最古の遺品にあげられよう。
(13) 虚空蔵菩薩(重要文化財)232.2㎝
これも道昌を願主として造立された仏像でさっきの地蔵菩薩と共に、講堂の中尊阿弥陀像の脇侍となってい
る。 虚空蔵菩薩は、虚空即ち大空が無人であるように、無量の福徳を授けてくれる仏で、左手の三面宝珠を
載せた白蓮華が、その功徳を表している。 道昌はこの虚空蔵菩薩の他にも、嵐山にある虚空蔵菩薩を本尊と
する法輪寺を再興するなど、虚空蔵菩薩の熱心な信者であった。
この像は、一本造りで、重厚な相好、太い腕、衣の所で見える渦巻きなどに貞観彫刻の特徴が見える。 胴
が細く、上半身が童子の様に柔らかく肥えているのは、密教像としての特徴である。そこには、南部的信仰と
密教との融合させようとする道昌の立場をうかがうことができる。
(14) 千手観音菩薩(国宝) 像高;266㎝
この千手観音はさきの不空羂索観音像と相称的位置にあたる講堂の西北隅に安置されている。 40本の腕を
もつ千手観音で、唐招提寺金堂像のように本当に千本をもつ例よりこの方が普通である。 太くて長い腕を用
いるのは唐招提寺も同じだが、唐招提寺像が胸の中央を中心にほぼ円を描いて放射状に腕を開いていているの
に比べて、これは左右横方向に束ねるような形で、その壮大さにおいては、唐招提寺に一歩譲っている。 し
かし、9世紀間もなく造立されたことには間違いなく、千手観音としては、天平時代の藤井寺像と唐招提寺像
に次ぐ古像である。
千手観音は十一面観音と並んで、天平時代以後盛んに信仰された密教像である。 しかし、この変化観音は
、空海請来の金剛・胎蔵両界によって体系づけられた純密じゅんみつ(正純密教)とは違って、空海以前に請来され
た個々の雑密そうみつ(雑部密教)による造立で、山岳寺院に好んで配置された。
この像は、貞観彫刻らしく、相好には厳しさをたたえ、衣には飜波式衣文を刻しているが、貞観彫刻に多い
上半身のだぶついた肉づきや裳裾を地までだらりと下げる重苦しい姿とは違い、両踵を」露出し、軽快な感じ
をだしている。
(15) 菩薩形立像(重要文化財) 像高;99.3㎝
この菩薩形立像は、頭上に戴く金属製の山形宝冠の梵字の「ア」と「バン」の二字を透かし彫りし、左手に
宝珠を持つ密教像で確かな尊名は分からない。 しかし、密教像でありながら立像としてまた、板光背を着け
ている点に、南部的と言われる特徴が認められる。 もとは表面を彩色していた一木造像で、現在では光背を
除いて彩色はほとんど剥落している。 下顎が膨れた顔に眉・鼻・口を大きく鎬しのぎを立ててくっきり彫りだす
が、重厚な顔の造作も目が眠っているようで、一見うっとうしい印象を感じさせる。 肥満した体には、肉付
けがだぶつき、体にまとまう衣には、飜波式衣文が現れている。 その衣の襞は写実からは程遠く、うねうね
と続いてよどんでいるようである。 しかし、それでも一般的に言って、貞観彫刻のもつ魅力は、10世紀以後
の彫刻をはるかに引き離している。
それは、都会的な洗練さに欠け、体全体のプロポションも悪いかもしれない。 しかし、寄木造りによって
プロポションの完全な表現を目指そうとした藤原彫刻は、かえって立体としての不安定感と薄っぺらな奥行き
感と増大させ、彫刻本来の量塊聖を失ってしまった。 この幾分素朴さを持ちながら。たくましくがっちりし
た仏像に限りなく愛着を覚える。
(16)聖観音像(重要文化財) 像高;147.9㎝
実録帳に「従五位下良階貞則よしなりさだのりの願」と記されている。 願主貞則が従五位になった貞観11年(865)
から実録帳が完成した同15年の閑に、この仏像が制作されたのであろう。 その下ぶくれの顔は、ふくれ上っ
た上瞼、鼻筋が太く、小鼻の張出した鼻、分厚い唇が実に特徴豊かに刻まれて、官能的な感じを出している。
それはまた、いかり肩の肩幅を広く取りながら、胴を細く引き締め、乳の下線と腹の上線に肉のたるみを表す
線条を彫り出した上半身や腰を左に捩って立つ姿勢によって、一層強められる。 下半身は裳が地まで垂れて
少し重苦しいが、側面から見ると、奥行きの浅い体を巧みに屈曲させて、リズミを感じさせる。これらの特徴
に伺われるように、貞観彫刻はインド的官能の表現ともいえる独特の造形が試みられた時代であった。
(17)地蔵菩薩像(重要文化財) 像高;90.6㎝
これは大堰おおいの里人が端相を表した朽木の菩提樹から求め出した霊験あらたかな地蔵で、埋木地蔵と呼
ばれる。 久安6年(1150)の大火と貞応じょうおう年間(1222~4)の盗難と2回の災難にあったが、その度ごと
に奇瑞を表して無事であった。 久しく広隆寺内の十輪院に安置されていた。 一木で作った典型的な貞観彫
刻で、右肩を大きく肌脱ぎ、右足を少し浮かせて立つ。 髪際はつさい(髪の生え際)をくっきり彫り出した顔は
、押しつぶしたような横幅が広く、太い眉と切長の目と固く結んだ口が印象的である。 上半身も肩幅が広く
、乳が盛り上がり、腹にはたるみがあって、幼児の体を想像させる。 下半身につけた裳には、角ばった太い
襞がx字状に刻まれ、両股の隆起しているさまを表す。 像全体はすこぶるどっしりしているが、裳裾が蓮台上
面より離れて左右に開き、像全体に動きを与えるとともに、重苦しさを救っている。 地蔵菩薩としては屈指
の古像で、何処から見ても立体的によくまとまった力強い彫刻である。
(18)不動明王(重要文化財 像高;74.4㎝
不動明王も一木造りの典型的な貞観彫刻である。 頭には毛筋を刻まず、束ねた髪を顔の左耳の前に垂らす
。 両眼を大きく見開き、上の歯で下唇を噛む。 体は著しく肥満し、肩幅が広く、太鼓腹である。 左肩か
ら右脇にかけた条帛や下半身につける裳には、浅い鎬波式衣文を刻んでいる。
不動は、大日如来の使者で、その駆使に甘んじる卑しい童子形に表すのが原則である。 この不動の悪魔的
な顔や上半身に見られる柔らかな肉身のモデリングはその原則に基づいている。 しかし、この不動は既に如
来の使者としての低い地位から向上し、慈悲で衆生に接する菩薩では手に負えない極悪の衆生を救うため忿怒
の姿になってあわれる。 大日如来の機能の一班を担当している。 そのことは、不動の名に背かぬ盤石のご
とき堂々たるこの威容を実に雄弁に物語っている。
火炎光背の向かって左上に横向きの鳥の頭が見えるのは迦楼羅かるら(金翅鳥こんじちょう)炎と称する不動像独特の
光背である。 これは後世の作品である。
(19)毘沙門天(重要文化財) 像高;135㎝
この像は、久安6年の火炎の時であろうか押しつぶされて両腕をもぎ取られるほどの災害を受けた。 だが
堅牢な一木造のおかげで、おおむね当初の威容を残している。 顎の張った顔には、東寺の兜跋とばつ毘沙門天
のような大きな目とへの字に結んだ大きな口が目立ち、頭に密着するような低い兜をかぶる。 その一風変わ
った風貌がなかなか勇ましく、捨てがたい魅力を持っている。 彫りは浅いが、鎧や裳のひだを滑らかに刻み
、腰をかすかに左に捩じり、体重を左足にかけ、左右をやや浮かせ、そのままつま先を軽くあげる。 その風
貌といい姿勢といい、写楽の描く役者絵の様だ。 細くくくった両袖が差し上げた右腕の肘と左脇に上腕を密
着させ左腕の肘に巧みにバランスを作っているのも、心憎い。 背面もまた手を抜かず、丁寧に彫刻し、裳に
は側面に波状のひだを、背景中央には、鎬の立った切れ味のよい同心円状のひだを刻む。
(20)持国天像(重要文化財) 像高;121.9㎝
増長天像(重要文化財) 像高;125.4㎝
広目天像(重要文化財) 像高;125.2
四天王のうち多聞天を欠いて、現在三体伝わっている。 いずれも一木造で、下半身が重く、まるで岩から
生え出たような太い体をゆするように睨み付け、咆哮する。 目に異質の黒い瞳をはめ込む技術上の点も共通
しているのである。
その制作年代が東寺講堂の出来た承和じょうわ6年(839)い頃と大差がないとすると、これは道昌(広隆寺中興
開山)ゆかりの仏像と言うことになろう。 腰ひもや裳のひだの鋭い彫り方、小像といえ細部まで手を抜かな
い堅実な手法が随所に表れている。
(21)多聞天像(重要文化財) 像高;130.5㎝
この像は先の貞観彫刻の四天王三体は欠けていた多聞天を補充するため制作されたのかもしれない。 前の
三体とはちがって頭部は大きく腰の捻り方もぶっきらぼうで、岩から生えたような迫力がない。 それに袖の
ひるがえしかたがおおえさで全体のバランスを失っている。
(22)五髻文殊像(重要文化財) 像高;99.4㎝
頭部に五つの髻もとどいがあるので五髻文殊ごけいもんじゅといい、またその真言(呪文)が梵字からなるところから五
字文列ともいう。 文殊は童子の相に作られている。 この像も目の細いふくよかな童顔で、体も柔らかく太
っている。 相好がやさしく、衣の襞が穏らかな起伏を見せているので、ほぼ10世紀末期の制作と思われる。
風化のため彩色が全て剥離し、修理しているところが多いが、彫像の五髻文殊としては最古の遺品である。
現在、光背、台座すべて失っているが、当初は獅子に乗っていたであろう。 文殊には髻と真言との数によ
って、五字の他に、一字、六字、八字等の区別がある。
(23)阿弥陀如来像(重要文化財) 像高;132.7㎝
元桂宮院に安置され、隋の煬帝ようだいが聖徳大師に奉献した仏像だと伝えている。 肉髺にくけい(頭の頂上にあ
る肉の盛り上がったところ、如来のみにある)が高くおっとりとした顔に特徴がある。 肩はなで肩で、衣を
通肩つうけん(右肩を脱ぐ偏袒右肩へんだんうけんに対して両肩とも衣をかける着方)にまとい、下着にx文字に衣のひだ
が流れる。 正面観は細身だが、側面観は奥行きがあって、腹を出し、腰を少し引いて立つ。 左手ともひと
指し指と親指を曲げ、右手を前に左手を垂れる印を結ぶ。 これを阿弥陀の如来印と呼ぶ。 この姿の阿弥陀
は平安時代後期以後量産されたが、これは一木造のほぼ10世紀頃の制作で、この姿の阿弥陀としては、古い作
例に属する。
(24)大日如来像(重要文化財) 像高;95.5㎝
大日如来像(重要文化財) 像高;74.5㎝
大日如来には、金剛界大日と胎蔵界大日の二種類がある。 空海が請来した両界曼荼羅は、金剛界と胎蔵界
の両界からなり、それぞれ別個の密教の教理を図示しているが、大日如来は両界ともその中心に位置している
。 両者は印を異にし、金剛界の方はちょうど忍術使いがするように、胸の前で人差し指を立てた左て拳の上
に、左人差指を握って右拳を重ねる印を結ぶ。 広隆寺の二体の大日如来はいずれも胎蔵界大日である。 62
の方は頭が小さく体の奥行きの浅い扁平な姿だが、制作された時期は両者ほぼ同じで、久安きゅううあん6年の火災
後まもなくのことと思われる。 両者とも低い宝髺、鉢の開いた天冠台、瞑想しているような表情、肉付けの
穏やかな上半身、さざ波のような裳のひだなど、多くの共通点を持っている。 像高の高い像の光背は痛んで
いるが、当初の物が残り、二重円相の周囲の縁光部に透彫唐草を付けていたが、現在は頭光部の向かって右上
に、ごく一部を残すのみである。 平安時代の光背の残る例は極めて少ないので欠損部があるとはいえ、繊細
な透彫で飾った光背がここに見られるのは、たいそう有難いことである。
(25)如意輪観音像(重要文化財) 像高;71.5㎝
この像も元桂宮院に安置され、桂宮院の本尊になっていた。 桂宮院は聖徳太子の楓野別宮のあった所と伝
える。 如意輪観音と呼ばれるこの半跏思惟像は、聖徳太子ゆかりの四天王寺聖徳太子ゆかりの四天王寺や中
宮寺の信仰の中心になった。 元々半跏思惟像は、釈迦が成道する以前の悉達しつだ太子(釈迦の出家前の名)を
表していたのだが、弥勒が未来に成道して仏法を広める菩薩であるところから、弥勒を表すようになった。
それが伝来してくると、聖徳太子が日本の仏教の租と仰がれ、且つ悉達太子と同様太子であったところから聖
徳太子と悉達太子がオーバーラップして半跏思惟像の信仰が盛んになった。
半跏思惟像が如意輪観音と呼ばれるのは、思惟(思考)形が共通しているところから来たのだが、密教の如
意輪観音は、正しくは半跏思惟像ではなく、輪王坐と言われる右膝を立てて両足裏を合わせる座り方である。
しかし、密教の流行によって、次第に半跏思惟像を如意輪観音と呼ぶようになった。 この像は腕を膝から離
して頬杖を作った変わった姿で、低い宝髺の鉢の開いた天冠台の形、穏和な相好そうこう、流麗な衣のひだなどで
、平安時代後期の仏像の特徴を表している。 その衣も変わったもので、襟を合わせる下着の上に丸首の衣を
つけ胸高に帯を締めて、まるで天部像のような姿になっている。
(26)千手観音像(重要文化財) 像高;256㎝
千手観音ははじめ頭部だけ知られていたが、大正11年楼門の上で胴体が発見され、現在の様に組み立てられ
た。 いわゆる丈六の巨像で、材料はヒノキを用いもとは金箔を表面に貼った漆箔像であった。 頭と胴は、
前面に二材、背面に二材を寄せて造り、膝に横木を寄せ、腕四十二本を付ける。 然し大変な傷み様で、現在
腕は十三本しかない。 像内は内刳され、そこに寛弘かんこう9年(1012)にこの仏像を制作した旨の墨書があ
る。 穏和な表情の千手観音で、貞観彫刻の厳しさは、一掃され定朝の出現がすぐ近くにあるのを思わせる。
この仏像が制作された頃は、皇族や藤原道長をはじめとする藤原貴族が盛んに広隆寺の霊験薬師に参詣して
いる。 このころ最も活躍していた仏師は、定朝の師康尚である。 藤原行成が寛弘7年10月5日に広隆寺に
参詣した時、自分が注文した仏像が出来上がったので、作者仏師康尚に絹二疋を与えていることが行成の日記
でわかる。 その二年後に完成したこの千手観音は康尚の作品にふさわしい優美な姿で、その様式は、久寿きゅう
じゅ元年(1154)造立の京都峯定寺ぶじょうじの千手観音に正しく継承されているように平安時代を通じて定朝末
流の模範となっていた。 したがってこの千手観音は、美術史上重要な作品いなっていた。
(27)蔵王権現像(重要文化財) 像高;100㎝
蔵王権現ざおうごんげんは密教のように身を青黒く塗った忿怒像だが、密教像ではなく日本の修験道で案出され
た尊像である。 勿論その基になったのは密教の金剛童子とか明王部の尊像であったろうが、平安時代中頃か
ら役行者えんのぎょうじゃの感得と伝えて、このような奇妙な像が、山伏の行場である清浄な山岳に祀られるようにな
った。
像は岩座まで一木で彫り出した蔵王権現で、両耳の上にそれぞれ炎髪を逆立て瞋目しんもく(目を怒らす)開口
し、右手を高く上げて、人差し指と中指を伸ばすいわゆる剣印を結び、左手は腰にあて、右足を少し浮かせて
、立つ。 剣印は蔵王権現の印になる場合が多いが、一般には腰に当てる左手を剣印にするようである。
胸飾り、臂釧ひせん(上膊じょうはくの飾り)、腕釧(腕飾り)を細く刻みだし、条帛や短い裳に鎬立ったひだを彫
るなど、ほぼ10世紀後半のほぼ古い様式を示す。
(28)准胝観音像(重要文化財) 縦横;108.1㎝×54.8㎝
准胝じゅんてい観音像は過去無量諸仏の母と言われた准胝仏母ぶつぼといわれる。 小野流では六観音の一つに加え
るが、広沢流では不空羅索ふくうけんじゃく観音がその代になっている。 敬愛・求児・延命に功徳があり、醍醐寺の
開山、聖宝(832~909)の修した准胝法によって朱雀、村上両帝が誕生されたと伝えている。 さまざまな形
像があるが、この図のように三目十八臂像が最も多い。 白衣を着け、白蓮華座に結跏趺座けっかふざ(座る)し、
この蓮華座を難陀なんだ(釈迦の異母弟)、跋難陀ばつなんだ(難陀の弟)の二竜王が支え、上方左右に二浄居夫が舞
い下りるという図柄は、儀軌ぎき画(密教で仏等を供養儀式)です。 光背の頂部から雲が出て、そこに七仏が
並んでいる。 内身、裳、蓮弁はすべて白色で、衣のひだの一つ置きに、また蓮弁の中心部に、薄い緑青でぼ
かしを入れ、全体に淡泊な色彩になっている。 制作年代は、鎌倉時代前期と思われる。
(29)能恵法師絵 (重要文化財)縦横;21.2㎝×701.5㎝
詞三段・絵三段からなる一巻の絵巻で、首尾とともに完全ではないうえ、途中でも抜けているところがある
。 高山寺の華厳縁起に似た画風で、人物を大きく立体的に描き、顔を淡墨で描いたうえで、焦墨(濃い墨)
で鋭く要所を描きおこす特徴がある。 またこの絵巻物では、絵の中に詞を書き込む形式をとっているが、華
厳縁起では、会話を書き込むだけで詞まで画中にあるのは珍しい。 これは絵巻が後に絵本に発展していく過
程を早々と示したものとして、注目される。 鎌倉時代中期頃の作品で、その独特の画風と構成によって絵巻
の名品に数えられている。
能恵は平安時代に生存していた東大寺の僧であるときいったん頓死して地獄に行ったが蘇生して地獄での見
聞さを人々に語ったので、その当時有名な人であった。 平安時代では、この世に生とし生きる物は、すべて
地獄,餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの世界即ち六道を生まれ変わり、死に変わりして、その外にでるこ
とが出来ないと考え、輪廻転生りんれてんしょうの六道思想が流行し、これらの不思議な話を絵巻物にした物語で、地
獄落ちの恐怖におののく当時の人々の真剣な心情を推し量ることができる。
(30)十二天像(重要文化財) 縦横;144.5㎝×41㎝
十二天というものは、密教の道場を守護する十二の護法神で、道場の八方と天地二方を神に日、月二天を加
えて成立する。
閻魔―南方、伊舎那夫―東北方、月天―月、風天―西北方、火天―東南方、梵天―天、地天―地、水天―南方
、帝釈天―東方、日天―太陽、毘沙門天―北方、羅刹天―西南方
十二天には古来三組の有名な画像が知られている。 最も古いのが9世紀頃制作された奈良西大寺の十二天
で、各天が鳥獣座に乗ると言う特色がある。 次に京都国立博物館の十二天(東寺旧蔵)で、仏画の最盛期で
ある院政時代の大治だいじ2年(1127)に制作された。 鳥獣座の西大寺本に対して氍毹座くゆざ(毛織物の敷物)
に座る点に特徴がある。 以上の二組はともに掛幅装けけふくそう(掛け軸)だったが、残りの一組が当寺の十二天
で、何れも立像に描かれ、六曲一双の絹に描いた掛け軸だったが、この十二天屏風の系統を引いている。
十二天屏風の起源については東寺に伝わる東宝記によって知ることが出来る。 東宝記によると、昔東寺で
灌頂の儀式(密教で仏弟子になるときの儀式)が行われるとき、楽人達が十二天の面を被り、装束をつけて行
列する習わしがあった。 ところが次第に装束が紛失してしまったので、その代りに略儀ではあるが、十二天
屏風を制作して、道場に立ち入るようになったと言う。
その初めに平安時代後半であったらしいが、現在残っている東寺十二天屏風は、鎌倉時代初期の建久けんきゅう2
年(1191)の制作で、筆者は、絵師宅間勝賀である。 広隆寺の十二天も宅間勝賀の筆と伝えているが、実際
には鎌倉時代後期の制作らしい。 東寺の十二天屏風は、水墨画に見るような渇筆かつぴつ(かすれのある線)を
伴う筆勢のある墨線が用いられているので名高く、宋画の影響を受けた画風と考えられている。 そしてこの
十二天も渇筆こそ用いないが、変化に富む墨線、金泥で描いた模様、誇張された夫々の姿態など、鎌倉時代後
期の仏画の特徴が表れている。 図像的にみると、東寺十二天屏風を模範として制作した痕跡が各天に見られ
る。
(31)広隆寺縁起資財帳(国宝) 縦横;27.5㎝×752㎝
寛平かんぴょう年間(889~98)制作の広隆寺資財交替実録帳とほぼ同文で同じ「秦公寺印」はたのきみのてらのいんを全て
の字面に押している。 実録帳に比べて、巻首部及び五十行ほど欠失していることがわかるほか、実録帳にあ
る雑公文ぞうくぶん項が何故か欠けている。 その実録帳の雑公文の項に、貞観15年(873)と仁和2年(886)に
作成した資財帳各一巻が記録されているが、この資財帳の巻末に、新格きゃく(格とは、律令を部分的に改める
ため、臨時に発せられ詔勅しょうちょく・官符の類)と称して、貞観10年の大政官符を引用しているところからみて
、貞観15年の資財帳と判明する。 律令制時代にあっては、官立の寺及び私寺でも寺額を賜って官寺に準じ又
は取り扱いを受ける定額寺じょうがくじは定期的に縁起資財を官に提出しなければならなかった。
これにより、広隆寺は、推古11年に秦河勝が聖徳太子から弥勒像を貰い受け、これを本尊として同30年に完
成いた寺であることがわかる。
(32)広隆寺資財交替実録帳(国宝)縦横;27.5㎝×856㎝
広隆寺の資財の明細を記した政府に対する報告書は、仏物、法物、常住僧物、通つう物、水陸田、雑公物、別
院の各部に分れる。 全ての字面にわたって、「秦公寺印」の朱印が押され、内容もよく似ている。 その制
作年代は、文中に現れる年代が寛平元年を下限としているので寛平年間と思われる。 その巻首には広隆寺の
縁起を次のように記している。
『 右の寺(広隆寺)の縁起、推古天皇天下あめのしたをしろしめす三十、歳は壬午みずのえのうまに次やどる。 大花上
秦造河勝、上宮太子(聖徳太子)の奉為おんために建立する。 ところ也、枯の願文及至財帳等、弘仁9年の火
災に逢い、皆ことごとく焼亡す。 玆これによって更に件くだんの帳を立つるがのごとし。 』
この弘仁9年の火災による広隆寺の被害は極めて大きかった。 この非常時の広隆寺を復興したのが、秦氏
の一族で南都元興寺の僧であった道昌でさる。 中興の師道昌の影響は極めて大きく古流寺が平安時代を通じ
て、ほぼ一貫して南都的性格を堅持していたことは、広隆寺の仏像を一覧すればおのずから明らかである。
(33)梵鐘(重要文化財) 形状;45.5㎝×31.2φ㎝
日本で珍しい鉄製の鐘で、銘文によると建保けんぽう5年(1217)11月に秦末時が発願し、広隆寺の本尊霊験薬
師仏に寄進したもの。 小型で胴張のほとんどない、簡潔な形のうちに、がっちりした強力さが感じられる名
鐘である。
B.秦氏
「木島神社と秦氏」のB.秦氏を参照ください。
[木島神社と秦氏]
参考文献
* 古寺巡礼「京都広隆寺」 著者 矢内原伊作 淡校社
* 昭和京都名所図会(洛西)著者 武内俊則 駸々堂出版
* 京都観光文化検定試験 淡校社
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