京都と寿司・  朱雀錦
   (40)声明の里「大原」


                       声明の里「大原」

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 大原は声明
しょうみょうの里と言われている。 平安時代初期に最澄・空海がそれぞれの声明を伝えて、
天台声明、真言声明の基となった。 比叡山東塔常行三昧堂の堂僧良忍は良賀に師事し、不断念仏を
修める。 
23歳の頃京都大原に隠棲して念仏三昧の一方で、分裂していた天台声明の統一をはかり大
原声明を完成させた。 それ以来大原は声明道場の中心となり声明の里と言われるようになった。 
声明は、仏教の典礼で用いる仏教音楽のことであるが、宗教と音楽は密接な関係がある。 仏教は紀
元前5世紀ころ、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が開いた宗教であるが、声明は仏教と伴に
、インドガンジス川流域から四方に伝えられ、中央アジア、中国をへて日本に到達した。 声明は仏
教が伝わったそれぞれの国例えばネパール、ミヤンマ、タイ、カンボジア、ベトナム、中国、朝鮮等
でそれぞれの国の民族音楽と融合しながらそれぞれの国の音楽となった。 即ち声明は、グレゴリオ
聖歌が西洋の音楽体系であるように東洋の音楽体系であった。 声明はグレゴリオ聖歌と並び世界音
楽の二大体系である。

 まず、西洋の音楽体系であるグレゴリオ聖歌について眺めてみることにする。


       A.グレゴリオ聖歌(キリスト教音楽)と西洋音楽
1.古代ギリシャの音楽
  古代ギリシャでは詩の朗読や劇の上演に際して音楽が演奏されたと考えられている。 また、神
 を祭る儀式の場でも散られた。 劇に付随する音楽(歌唱)というアイデアは、後にイタリアのフ
 ィレンツェにおける古代ギリシャの音楽のルネサンス、即ちオペラ誕生のモデルとなった。
 古代ギ
 リシャでは音楽理論がある程度確率していたと考えられる。 今日の音楽に関する用
語はその多くを当時のギ
 リシャ語に負う。 ピタゴラスは音楽と数学は宇宙の秩序に通じると考え、正律音調を発見した。
  また竪琴を弾いて精神を病む人に聞かせたといい、音楽療法の元祖とも考えられる。 プラトン
 は混合リデア調や高音リデアは悲しみをおびており、イオニア調やリュディア調は柔弱だったり、
 酒宴に ふさわしく、ドリス調とプリュギア調は戦士にふさわしい、など論じている。 

  今日知られている音楽は不完全な断片的な楽譜が10曲あまり、知られているに過ぎないくどのよ
 うな音楽であったか推測の域をでない。

2.古代ローマの音楽
  古代ローマでは併合したギリシャの音楽の影響を受けていたとされるが、楽譜は伝わっておらず
 、実態は不明である。
3.初期キリスト教の音楽(グレゴリオ聖歌)
  音楽におけるヨーロッパ的なものの形成はグレゴリオ聖歌に始まる。 初期キリスト教の音楽に
 ついて知り得ることは古代ギリシャ音楽についての知識よりはるかに少なく、とくにはじめの4世
 紀は厚いヴェールに覆われている。
  グレゴリオ聖歌が資料の上から確認できるのは8世紀から9世紀にかけてである。 

  これは9世紀に、初歩的な記譜法であるネウマ譜が普及した。 現れ各地で使用され譜記されるよ
 うになったためである。 ネウマ譜とは、歌詞の上に印された腺・点・↗・↘・→などからなるで、
 歌手はすでに記憶してしまった楽曲を思い出すことが出来るのである。 初期のネウマ譜は、音高
 を明示しないネウマ譜であったが、
11世紀になると4本の譜腺が見られ、C音(ハ音記号)とF音(
 ヘ音記号)が付ほぼ現在の記譜になる。

  8~9世紀以前は、記譜法は、口承により伝えられた楽曲をネウマ等で記譜したものと考えられ
 ている。

  フランク王国のカール大帝は46年間の治世の間に53回の軍事遠征を行い、征服した各地に教会や
 修道院をたてた。 グレゴリオ聖歌は、主に9世紀から
10世紀にかけて、西欧から中欧地域で発展
 し、伝承した。 教皇グレゴリオ1世が編纂したと広く信じられたが、カール大帝がローマとガリ
 アの聖歌を統合したものと考えられている。

4.中期キリスト教の音楽(ポリフォニー技法時代)
  宗教が全てを支配していた中世において学芸は宗教における有用性によって序列あるいは存在さ
 え決められた。 学問のうち最も上位にあるのは神の存在証明を行い、キリスト教の教育を研究す
 る神学である。 その次が「神学の侍女」たる哲学であった。 音楽に対する当時の教会は両面価
 値的姿であった。
 「…神を讃える聖歌に涙しました。 しかし、一方では歌が快楽へ引き込む危険性を恐れた…」中
 世の音楽事情を物語る言葉である。 つまり、典礼音楽を歌詞と音楽の両面に分けて、前者に感動
 するのは良いが、後者に感動することは許されないのである。

  音楽においてユニゾーンとは「1つの響き」を意味している。 グレゴリオ聖歌はユニゾーンで歌
 われる。 グレゴリオ聖歌では「一度に一つの音高」という形で歌われる。 だが、グレゴリオ聖
 歌は殆どの場合、グループで歌われるため厳密には同じ音高でうたっているとは限らない。 例え
 ば女性や少年は男性より高い声(
1オクターブ上)で歌っているのである。

  グレゴリオ聖歌が編纂された時期にはポリフォニー即ち多声(2声、3声、4声)音楽はあった
 が、宗教的立場より除外されたと考えられる。 やがてポリフォニーが侵入、遂に主流になってい
 った。
 創造は、資料無き無から有を生みだす奇跡を意味する。 これは全能の神のみが行える行為
 であり、人間が神の行為を行うことは以てのほかである。 音楽で「創る」と言う行為を行う
 作曲家という存在もありえなかった。 

  作曲は許されなかったが、それに代わるものとして聖歌に挿入句を入れる物が現れた。 トロー
 プスである。 つまり、宗教詩の二つの単語の間に、註釈なり、賛美の言葉を付加する方法である
 。

5.ルネサンス時代
   14世紀から15世紀にかけてのヨーロッパは飢饉、黒死病、戦争が相次ぐ中で農民、民衆の反乱が
 頻発し、都市内部の権力抗争も激化するというように、社会経済は危機的状況を迎えている。 こ
 の世の迷える人間をキリスト教会が教導し、それを世俗権力が支える中世という時代は命脈が尽き
 かけていた。 民衆の宗教感情は、もはや既成の教会を中心とする信仰の在り方に満足しなくな
 っていた。 後の宗教改革に通じる性格がみられた。

  音楽の歴史で用いる「ルネサンス」の概念は、美術史に由来するものである。 ルネサンスとは
 、ギリシャの古典文化を規範とし、それに並び越えようとする創造の時代であるが、ギリシャの音
 楽が事実上一切知られなかったルネサンス時代に、この概念を通用するのは不都合であった。 し
 かし、
15世紀には音楽においても中世的なものから近世紀的なものへ極めて大きな転換がおこなわ
 れた。

6.ルターの宗教改革
   1520年の大勅書「主よ、立ちて」でルターがカトリックから破門され、1555年のアウグスブルグ
 の和議で「」臣民は君主が信仰する宗教に従わなければならない」とされたことにより、プロテス
 タントとカトリックが分裂した。 これにより音楽の分野にも大きな影響をうけた。 音楽を愛し
 、優れたリュートとフルートの奏者であるルターは、宗教音楽から世俗音楽までのあらゆる音楽
 を人間が神のもとに近づく強力な手段であるとした。 そのため非常に単純で
 聞きやすい歌の制作を促した。

  またルターは、音楽を初等教育の段階から教育課程に組込ませた。 中世以降のドイツの初等教
 育では、典礼を目的とした歌は教師と生徒の重要な科目であった。 この改革により音楽教育が広
 く浸透し、音楽の通念に関してはカトリック世界との断裂をもたらした。

7.バロック音楽
   16世紀末から18世紀半ばにかけての約150年間はその後の音楽の歩みを決定する、もろもろの改革
 を彩られた時期である。 今日の音楽を支配するあらゆる要素、音楽形式、作曲技法、オーケスト
 レイション、美意識などは、この時代にはじまり発展したのである。 

  オペラ、オラトリオ、ソナタ ——そこから派生した、シンフォニー、コンチェルト、グロッソ、
 ソロ・コンチェルトなども、この時期に誕生し、それと同時に ———長調・短調の調性が確立され、
 ポリフォニーに代わって伴奏つきモノディの形が支配的になって行くのである。

  今日のオペラの原形や、声楽から独立した形での器楽はこの時期はじめて確立された。 
 1)オペラの成立 
   セバスチャン、カルデン、モリエール、シェィクスピアの時代に、多くの劇が音楽付で上演さ
  れ、一方音楽劇の諸形態が育成された。 その土壌の中から生まれたのがオペラである。 その
  契機は古代ギリシャの音楽劇の再興があろうとも、その土台は「アカデミー」であり、また対照
  の原理と運動性の強調を求めた反宗教改革の諸芸術と同一の基盤を持ち、演劇に最も密接に結ば
  れる必要性を有していた。 修辞法や描写が本質的な意味を持つようになる。 この意味で、オ
  ペラこそバロック音楽の至高の表現形態であり、オペラとその影響を受ける大規模な声楽曲が、
  バロック音楽の本流として君臨するのである。

 2)器楽の発展
    16世紀における音楽活動の多様化、楽譜印刷の普及から従来とは比較にならないほど多量の音楽
  消費が契機となって初めて器楽は独自の領域を所有するようになる。 ヨーロッパ全域における
  楽器制作の急速な膨張がそれを支えた。 ここに
17世紀へかけての器楽の興隆が約束された。
 3)通奏低音
   通奏低音
つうそうていおんとは、主にバロック音楽において行われた演奏形態の一つ。 低音部の旋律に
  即興的な和音を付け加えて伴奏する演奏形態である。 伴奏楽器が間断なく演奏し続けるという
  ことからこの名がある。 通奏低音パートの楽譜には最低声部の旋律だけが示され、旋律楽器は
  楽譜どおり演奏するが、和音楽器では楽譜を見ながら和音を即興的につけて演奏する

 4)長調・短調の調性の確定
   西洋音楽の特徴である長調・短調の調性が確定した。 メロディーや和音が、中心音と関連づ
  けられる音組織を調と呼ぶ。 狭義には、伝統的な西洋音楽において、全音階の音から構成され
  る長調と短調の二つの調が知られ、それぞれ全音階のドの音とラの音が中心である。 すなわち
  、長音階を用いる調が長調であり、短音階を用いるのが、短調である。 

 5)アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(16781741
   アントニオ・ヴィヴァルディは、バッハ、ヘンデルに並びバロック時代を代表する音楽家。 
  イタリアのヴェネツィア出身。 司祭で作曲家。 理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイ
  オリンを学ぶ。 
25歳で司祭に叙階(聖職に付くこと)される。 司祭になった年にピエタ慈善
  院附属音楽院でヴァイオリンを教える。 後に楽長に当たる協奏曲長として作曲活動を行う。
   彼は約
500のコンチェルトを書いたが、その中の230がヴァイオリンのためのものであった。 
 6)ヨハン・セバスチャン・バッハ(16851750
   ヨハン・セバスチャン・バッハは、西洋音楽史上最も重要なバロック音楽の作曲家。 1685
  3月
21日、ドイツ、チューリゲン州アイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロウスの末子として生ま
  れた。 同じ年の2月
23日にヘンデルが生まれており、僅か1カ月後の誕生である。 J・Sバ
  ッハの最初の教師は兄ヨハン・クリストフであった。 バッハが9歳の時に母が死去、
10歳の時
  父が死去し、オールドフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られた。
      1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職し、まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニスト
  になった。 すでにバッハの能力は高く評価されており、次々と様々な職に就き、1708/年再びヴ
  ァイマルの宮廷オルガニストになる。 同時に遠戚のマリア・バルバラ・バッハと結婚した。 
  1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境のなかで数多くの名作を作曲した。
   1720年領主レオポルト候に従って旅行中に妻が急死する不幸に見舞われた。 翌年、宮廷歌手
  のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケンと再婚した。 彼女は有能な音楽家であった。 初めのバ
  ルバラの間に7人の子が生まれ、ナグダレーナの間に13人の子が産まれた。 バッハは幅広いジ
  ャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手掛けた。 その様式は、通奏低音
  による和声の充填を基礎とした対位法的音楽と言う、バロック音楽に共通して見られるものであ
  るが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、更に
  それを極限まで洗練進化させたものである。 従って、バロック時代以前に主流であった対位法
  的なポリフォニースタイルにまたがり、結果的に音楽史上の大きな分水嶺のような存在となって
  いる。
   ドイツの東西分断などの事情で難航し2007年に「新バッハ全集」103巻が完成した。 「新バ
  ッハ全集」には1100の作品が収められている。 現在も作品の整理が継続中である。
8.古典派音楽
  古典派音楽はクラシック音楽の歴史において、1730年から1810年なで続いた時期の芸術音楽の総
 称である。 古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派の勃興
 と並行している。 従って古典派音楽の隆盛は、バロック音楽とロマン派音楽の間に位置してい
 る。 
  古典派音楽の特徴は、バロック音楽の特徴であつた通奏低音がなくなり、バロック以前の音楽だ
 ったポリフォニー(多声音楽)からホモフォニー(和声音楽)に変わったことである。 さらに、
 古典派以降の交響曲や管弦楽曲の基礎を成し、多くの交響曲や協奏曲、弦楽四重奏などの作品が生
 みだされた。 特に、古典派音楽の業績として高く評価されているのは、調性音楽の代表的な楽式
 であるソナタ形式の確立です。 また、ソナタ曲の一種である交響曲や協奏曲、二重奏~五重奏の
 室内楽曲なども古典派時代に多数作曲されています。
  古典派時代に活躍した作曲家にはハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトがい
 る。
 1
ソナタ形式
    ソナタ形式は、基本的に①序奏、②提示部、③展開部、④再現部、⑤結尾部の5部から構成
   されている。
   ① 序奏 特に大規模なソナタ形式の作品にはしばしば、序奏を伴う。 この序奏は、主部の
    動機、主題等を用いたものや、あるいは主題とは全く関係なく、気分的な準備を行うものまで
    さまざまである。 
   ② 提示部 提示部では、二つの主題が提示される。 一つ目の主題を第1主題と言い、これは
    主調(中心となる調子)で書かれる。 二つ目の主題を第二主題といい、第1主題が
長調の
    場合は属調(元になる調の完全5度上の調)、短調の時には平行調(元になる調と調号が等
    しい調)で書かれるのが一般的である。
     第二主題は第一主題に対して調を変えるのみならず、その主題としての性格を対照させる
    ことが多い。
  ③ 展開部 展開部では、提示部で提示された主題を様々に変形、変奏させる。 激しい転調を
   伴う場合が多く、全曲中きわめて緊張感が高まる部分である。 代表的な例では、まず主題を
   様々に転調し、次いでフーガ風・ポリフォニックに重ねた後、展開部の最後には属音を保持し音
   響的に頂点を築いた後、再現部の冒頭で和音的な解決へと導く。
  ④ 再現部 再現部では、二つの主題が再現される。 通常、第一主題、第二主題ともに主調で
   再現され、これによって両主題の対象が解消される。 よって、再現部では、緊張は概ね低い。
     そしてコーダーにはいるものもある。 この、第二主題が、提示部では主調以外で演奏され
   て緊張が高かったのが、再現部では主調または同主調で演奏されて緊張が低くなる。
  ⑤ 結尾部 大規模なソナタ形式んはしばしば、終結部がつく。 これはこれまでの主題を中心
   に、楽章を終止に持って行くための部分である。
 2)交響曲
   交響曲は、主に管弦楽によって演奏される多楽章からなる大規模な楽曲である。 原則として
  4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定
  義されている。
   17世紀イタリアでオペラの序曲がカミフォニアと呼ばれていたが、G・B酸マルティーニがこ
の序
  曲のみを独立させ、演奏会用に演奏したのが起源とされる。 また。バロック時代の合奏協奏曲
  も交響曲の成立、発展に影響を与えたとも考えられる。 古典派により交響曲の形式は一応の
  完成をみた。 
 3)協奏曲
   今日では主として1つ又は複数の独奏楽器と管弦楽によって演奏される多楽章からなる楽曲
  を言う。 古典派以降の独奏協奏曲は原則として3つの楽章によって構成される。 交響曲同様
  に、第一楽章は基本的にソナタ形式であり、それに加えて、終楽章がソナタ形式であることが多
  い。 
 4)弦楽四重奏曲
   弦楽四重奏による楽曲を言う。 一般には、複数の楽章からなり、多くは交響曲やソナタと同様
  、急―緩―舞―急の4楽章から構成されており、第1楽章がソナタ形式となる。 弦楽四重奏の
  父として知られるハイドンが切り開いたジャンルである。 
 5)ピアノ四重奏曲
   ピアノ四重奏は、室内楽曲の形態の1つ。 通常は、ピアノ、ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロ
の4
  つの楽器の編成による楽曲である。 一般にソナタと同じ構成をもつ複数の楽章から構成される
  。 即ち、急―緩―舞―急の4楽章または急-緩―急の3楽章から構成されており、第1楽章が
  ソナタ形式となるのが基本である。 古典派時代から盛んになる。
 6)フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)
   フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、オーストリアのローラウに生まれる。 幼少より音楽の才能を発
  揮し、6歳の時、親戚の家に送られ、音楽の勉強を始めた。 1740年ウイーンのシュテファン大聖
  堂のゲオルク・フォン・ロイターに認められ、ウイーンに住み後聖歌隊の一員となる。 1749年声
  変わりのため、聖歌隊を解雇され、フリーの音楽家になる。 知識不足を補うため勉強励み、初め
  て弦楽四重奏とオペラを作曲した。 この頃より評判が上がり始める。 
   1759年ボヘミアカール・モルツィン伯の宮廷楽長を経、1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、
  エステルハージ家の副学長の副楽長になり、楽長死後、楽長に昇進した。 当主ニコラウス・エ
  ステルハージ侯爵は音楽に対する理解者であり、ハイドンの作品に理解を示し,芸術家に必要
  な物、例えば専属の小オーケストラを毎日貸すなど、様々な形で創作環境を整えた。 ニコラウス
  死去ご解雇される。 1791~2年、1794~5年イギリス訪問は大成功を収めた。 1796年エステル
  ハージ家の楽長に最就任。 1802年持病が悪化、1809年死去いた。
    ハイドンの作品の総数は、未完、断片、紛失、偽作などを含めると纏めるのは困難であ
る。
  今日作品目録に記載されているものに、器楽曲が890曲、内104曲の交響曲、83曲の四重奏曲
  塔がある。
 7) ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト(1756~1791)
   モーツアルトは1756年1月27日、ザルツブルク(現在のオーストリアの都市)に生まれる。当時
  は神聖ローマ帝国領であった。 父レオポルド・モーツアルトは元々哲学や歴史を納めるために
  大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷  作曲家・
  ヴァイオリニストであった。 父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少から音楽教育を
  与えた。 3歳の時からチェンバロを弾き始め、5歳の時は最初の作曲を行う。
   11歳頃の作曲譜も発見された。 父と供に音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コ
  ロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツアルト親子は何度もウイーン、パリ、ロンドン及びイタリア
  各地に大旅行を行った。 これは神道の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたいするためで
  あったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗した。  
   1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。 また同年、ボローニャのアカ
デミア・フ
  ィラルモニカの会員に選出される。 しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、例えば同年作曲された初のオ
  ペラ「ポントの王ミトリダ-テ」は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった。
   1777年ザルツブルクの職を辞し、ミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。 1781年25歳のモーツアルトはザルツ
  ブルク大司教コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日コロレドと衝突し、解雇される。 ウィーン
  に定住を決意し、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版で生計を立てる。 
   1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚した。 コンスタンツェは「魔弾の射手」の作曲家
  カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従妹であった。  1786年5月1日、オペラ「フィガロの結婚」をブルク劇場で
  初演、翌年プラハで大ヒットした。   5月父レオポルトが死去する。 10月には新作の依頼を受け、オペラ「ドン・
  ジョヴァンニ」を作曲し、プラハエステート劇場で初演した。 しかしこのころから借金依頼が頻繁に行われる。
   ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り借金を求める手紙が残されて
  いる。 モーツアルト自身の品行が悪く、高級な仕事に恵まれなかったことに大きな原因がある。 1791年11月か
  ら体調が悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日に35歳10ヶ
  月の若さでウイーンで死去した。
   妻コンスタンツェとの間には4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァ
  ーだけで、残りの4人は乳幼児の内で死亡している。  フランツは職業音楽家となり、「モーツアルト2世」を名乗
  ったが、二人に子供はなく、モーツアルトの子孫はない。
    モーツアルトの作品総数は断片も含めて700曲以上に及ぶ。 作品はあらゆるジャンルに渡り、声楽曲(オペ
  ラ、宗教音楽、歌曲)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲)のどちらにも多数の作品が残されている。
 8) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)
    1770年12月16日神聖ローマ帝国(現ドイツ)のボンで父ヨハン、母マリア・ナグダレーナの長男としてうまれ
  た。 ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕ってい
  た祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。 ベートーヴェンの父も宮廷の歌手(テノール)であいっ
  たが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。 1778年にはケルン
  の演奏会に出演し、1782年幸いクリスティアン・ゴットオープ・ネーフェの教えを受けることとなった。 
   1787年最愛の母病死(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事と掛け持ちで
  家計を支え父や幼い兄弟達の世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 またその頃、ピアノ即興演奏の名手とし
  て名声を博していた。
   20歳代後半頃より持病お難聴が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者(発音は不自由しないが聞くことが困
  難)になる。 音楽家としては聴覚を失うことは死にも等しい絶望感から、1802年には「ハイリゲンシュタットの遺
  書」を記し自殺も考えたが、強靭な精神力でこの苦悩を乗り越え、再び生きる決意をした。 またその頃父は死亡
  (1787年)していた。
    1804年に交響曲第3番を発表したのろ皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベ
  ート
ヴェンにとって傑作の森と呼ばれる時期となる。  40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年は
  ほぼ聞こえない状態にまで陥った。 そうした苦悩の中で造られた交響曲第9番や「ミサ・ソレムニス」と言った大
  作、ピアノソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示す者であった。
   1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。 交響曲第10番
  に着手するも未完のまま、翌年」1827年3月26日56年の生涯を終えた。 その葬儀には2万人もの人々が駆け付
  けるという異例のものとなった。
    ベートーヴェンは1815年には完全に聴覚を失っており、そのためにそれ以後の作品の作曲態度には一種、奇
  異な点が見られた。 彼はつんぼになったことによって、彼は以前にも増して自分の瞑想の中に没入することが
  出来た。 彼の最も偉大な業績は「フィデリオ」と「荘厳ミサ曲」に並んで9曲の交響曲、32曲のピアノソナタそれに
  17曲の弦楽四重奏曲である。
 9) フランツ・シューベルト(1797~1828)
   シューベルトはウィーン近郊で生まれた。 ドイツ系農民の息子である父のフランツ・テオオールは教区の
教師を
  していた。 母エリーザベト・フィッツの間に14人の子供が生まれ、内9人が早世した。 彼は12子として生まれた
  。 シューベルトは5歳の時、父から普通教育を受け、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。 1808年シュー
  ベルトは、コンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。 その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウ
  ィーン樂友協会音楽院の前身校で宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室を持っていた。 ここにシューベ
  ルトは17歳まで所属した。  1813年の終わりに、シューベルトは変声期を迎えたため、コンヴィクトを去り、兵役を
  逃れるため、父の学校に教師として入職した。 父はグンベンドルフの絹商人アンナ・クライアンベックと再婚して
  いた。
   1816年父の学校を辞めフリーの音楽家になった。 コンヴィクト時代の友人の一人シュウパウンの家ではシュー
  ベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショッパーはシューベルトを訪ね、フリーの音楽家の道を勧
  めた。  シューベルト は彼の勧めに応じ、父の学校を辞し、しばらくショッパーの客人となった。
  ゾンライトナ
  ー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していたことがあったことからシューベルトに自由に自宅を使
  わせていたが、それは間も無くシューベルティアーデと呼ばれシューベルトを称えた音楽会へと組織された。 シ
  ューベルトは完全に赤貧であった。 職を辞し、公演で稼ぐ事もできなかった。 しかも、彼の音楽作品は只でも買
  う出版社はなかった。 しかし、友人達は真のボランティアの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食糧を、他の者
  は必要な手伝いにやってき、金を持っているものは楽譜の代金を支払った。 
   1827年3月26日、ベートーヴェンが死去した。 シューベルトは葬儀に参列した後で友人たちと酒場に行き、「こ
  の中で最も早く死ぬ奴に乾杯」と音頭をとった。 この時友人達は大変不吉な予感を受けたと言う。  事実、彼の
  寿命はその翌年に尽きた。 シューベルトは「冬の旅」などの校正を行ったが、11月14日になると病状が悪化して
  高熱にうなされ、19日兄フェルディナントの家で死去した。 31歳9ヶ月の若さであった。 遺体はシューベルトの
  意を酌んでベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。
   彼の名声は主として歌曲にあり、現在603曲が残っている。 その内の数曲例えば「美しき水車小屋」や「冬の
  旅」は一連の物語を成している。 70曲は詩人ゲーテの詩に作曲したものである。 
9.ロマン派
  ロマン派音楽は、文学・美術・哲学のロマン主義運動と関連しているが、音楽以外の芸術分野でロマン主義が
 1780年から1840年まで続いたのに対し、音楽で慣習的に使われているロマンス主義の時代は、それとは異なり、
 古典派音楽の時代と近代・現代音楽の間に挟み込まれている。 従って、ロマン派音楽は、だいたい1800年代
 初頭から1900年代まで続いたとされている。
  ロマン派の時代にバロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表すために「調性」という概念が
 確立された。 バッハ・ハイドン・モーツアルト・ベートーヴェン等によって示された偉大な機能和声法を、ロマン主義
 の作曲家は自分たちの半音階的な新機軸に混ぜ合わせようと試みたのである。 より一層の動きのしなやかさとよ
 り大きなコントラストを実現するため、またより長大な作品の需要を満たすためである。 
  ロマン派の作曲家は、音楽を詩に見立てたり叙情詩や物語の構成に似せたりした。 それと同時に、演奏会用作
 品や演奏のためより体系化された基準を彼らは創り出した。 ロマン主義の時代には、ソナタ形式など以前の習慣
 が規則化された。 歌曲の作曲に於いては、旋律や主題にますます焦点が向けられた。 循環形式がいよいよ積
 極的に多用される中で旋律の強調は現れた。 当時ありがちだった長めの楽曲にとって、循環形式が重要な統一
 の手段であることは明らかだった。
  以上の傾向はみな程度の差はあれロマン派音楽以前にも現れていたが、ロマン主義の時代はそういったものが
 中心的に追及されるべきものとされたのであった。 
  ロマン派音楽時代の代表的な作曲家には、ジョアキーノ・ロッシーニ、カ
ル・マリア ・ フォン・ウェーバー、フラン
 ツ・シューベルト、エクトル・ベルリオーズ、フェリックス・メ ンデルスゾーン、フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、
 ニコロ・パガニーニ、ヨハン・ シュトラウス、ロベルト・シューマン、ジュゼッペ・ヴェルディ、リヒヤルト・ワーグナー、 
 アントン・ブルックナー、アレクサンドロ・ボロデン、ヨハネス・ブラームス、カミーユ・サン=サーンス、モデスト・ムソロ
 グスキー、ピヨトール・チャイコフスキー、アントニオ・ドヴォルザーク、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、ジャコモ・ピ
 ッチーニ、グスタフ・マーラー、
 1) 循環形式
   クラシック音楽における循環形式とは、多楽章曲中の2つ以上の楽章で、共通の主題、旋律、或いはその他の
  主題的要素を登場させることにより楽曲全体の統一を図る手法である。 ブラームスの「交響曲第3番」のように、
  共通主題が楽曲の始めと終わりに出現する場合や、ベルリオーズの「幻想交響曲」のように、楽曲中のあらゆる
  パツセージで共通主題が姿形を変えながら出現する場合などがある。
 2) 半音階
   半音階トハ、隣り合う音の音程関係が全て半音で構成されるような音階。 十二平均律に含まれる半音階はた
  だ一種類である。 本来は、全音階における音階が半音変化下音を伴って構成される音階であり、結果的に音階
  構成音の音高が半音の間隔で配置されている。 調性の存在する音楽に於いては、例えばG#とA♭は、たとえ
  同じ音高で発したとしてもG#はGが半音高められたもの、A♭はAが半音低められたものといったように別の音と
  して定義づけられる。 これに対し、調性のない音楽(例えば12音技法によって作曲された楽曲)に於いてはG#
  とA♭の区別はなくなるが、そのかわりに半音上下に存在するG、Aともなんら関係性をもたない独立した音として
  扱われる。 
10.現代音楽
  西洋音楽を約2世紀にわたって支配していた調性体系は、19世紀後半、救いようのない飽和状態に達した。 調
 性体系の内部の全ての道が探索し尽くされてしまったために、もはや調性の境界のぎりぎりまで来てしまったと言
 えるだろう。 こうして新しい音楽の可能性を探すことが急き立てられた。 このような革新に対する不安に特徴づけ
 られる19世紀と20世紀の境目の数年は同時代の人々から新し物に揺り動かされる現代音楽の時期であると知覚
 された。 
  何人かの作曲家は、元の調性体系という土壌から大きく離れないように見える。 彼らは周囲を取り巻くテリトリー
 の中で、まだ汚染されていない音楽素材を獲得するために、たったいくつかの出口だけを作った。 例えばムツログ
 スキー、ヤナーチェク、 バルトーク(部分的にストラヴィンスキー)は自らの祖国の民族伝承から着想をえたのに対
 し、ドビッシーは東洋音楽の遺産と古い教会施法に向き直った。 一方、シェンベルクや彼の弟子のベルクやヴェー
 ベルンといった他の作曲家たちは、新しい道を決然と歩いていた。 調性に支配された過去へと続く橋を全て壊し、
 彼らは完全なる無調へと到着し、そして12音技法を打ち立てた。
  現代音楽の始まりは、シェンベルクと彼の楽派が最初に無調音楽を作曲した。  1910年周辺とされていた。 し
 あしながら……基本的には伝統的な音楽の概念とされるほど異なっていないことに気が付いた。 そんな中に、西
 洋の音楽を概念的に根底から否定する本当の破壊する物がいくつかあった。 
  そのうちの1つ目は、時間の中で実現する過程としての音楽の概念の否定である。 音楽には<「終り」が存在し
 ない:楽曲は、絵から目を逸らした時のように終わる>。
  この「時間を超越した」音楽の基本的な概念は」、特にフランス世界でふかめられた。  それは、ドビュッシー、サ
 ティの中にもまた、)パリの周辺で長い間活躍していたロシア人のストラヴィンスキーの中にもみられる。 音楽の決
 定的な要因として時間の流を止めることは、その他の2つの顕著な余波をもたらした。 まず1つ目に、前後の音と
 の関わりから解放された、単独の音に特別な注目が与えられたことである。 
  2つ目に、音楽を、人間の感情の推移ではなく、職人的な厳格さを持って構築する音のオブジェとしてみなすこと
 で、計画的に音楽に於いて人間性を失わせることになった。 らゆる形而上学的な主張が追放され、音楽は抽象的
 で機械的なからくり、人間の人生自体を統制する執拗な装置の無常で皮肉な架鏡に変身した。 この反ロマン派的
 で魔法を解かれたような態度において、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーは相通ずる。 少し前まで、この3人の
 作曲家は、彼らのポジションがシェーンベルクの無調性よりも一層、反伝統的であるとまだ理解していなかった批評
 家たちからむしされ(サティ)、「反動主義者」の烙印を押されていた(ラヴェルとストラヴィンスキー)。
  現代音楽の作曲家には、バルトーク・ベーラ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、セルゲイ・プロコイエフ、アルテュール
 ・オネゲル、ニコライ・リムスキー・コルサコフ、アレクサンドル・ボロディン、デムスト・ムソログスキー、レオシュ・ヤナ
 ーチェク、クロード・ドビュシー、モーリス・ラベル、エリック・サティ、アルノルト・シェーンベルク、アーロン・コープラン
 がいる。


                       B.声明と我が国の芸能
 これまで声明しょうみょうという語は仏教の典礼用語として、奈良仏教と真言・天台宗で使われていた。 しかし、伝
来の経緯によって同じころ中国から伝えられた曲であっても声明と呼ばず引声いんぜいと呼んだ例もある。 また臨
済主や曹洞宗では中国から伝わった宋音そういんでうたう曲を梵唄ぼんばいと言って声明とはいわなかった。 つま
り仏教音楽を包括する名称が存在しなかった。 
 国立劇場は国の機関であり、国が宗教に係わることは禁止されている。 国立劇場が国立劇場開場記念公演と宗
教音楽を取り上げた際、「宗教音楽」は現代の造語であり「声明」はある音楽のジャンルをであることより、この用語を
採用した。 現在では声明と言う語は仏教の声の音楽全般を指す語として定着したようだ。
 日本音楽の原典である声明の発祥地は大原であるとされているが、それより以前天平勝宝4年(754)に東大寺大
仏開眼法要の時に声明を用いた法要が行われた記録があり、奈良時代には、声明が盛んに行われていたと考えら
れる。 雅楽は、5世紀頃から9世紀頃までに大陸から伝ったと考えられている。

                 1.神楽かぐら 
 神楽は、神道の神事に於いて神に奉納するために奏される歌舞である。 「かぐら」の語源は、「神座」かくくら・か
みくらが転じたものとする説が一般的である。 神座とは「神の宿るところ」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女
が集まった人々の穢れを祓ったり、神憑りとなって神の意志を伝えたり、また人々の側からは願望が伝えられるなど
、神人一体の宴を催す場であり、そこで歌舞が神楽と呼ばれるようになった と考えられる。 古事記及び日本書紀
においては、岩戸隠れの段でアメノウズメが神憑りして踊ったという神話が神楽の起源であるとされる。
  普通神楽には大まかに宮廷の御神楽みかぐらと民間の神楽すなわち各社などに伝わる里神楽さとかぐらとに分
けられた。ところで宮廷の御神楽は今でも宮中賢所かしこどころで行われているが、その形が定まり恒例化するよう
になったのは11世紀であった。 11世紀前においても、宮廷に神楽はあったがその形はそれ以前のものとはかなり
ことなっていた。 インドから伝わった雅楽が、中国の民族の影響を受け出来た中国雅楽が、5世紀頃から9世紀頃
日本に伝わり、日本古来の神楽と混合し現在の御神楽・里神楽に変身したものと推定される。
 里神楽は一般に神楽と言われるもので主なものは以下のとおりれある。
(1) 巫女神楽 巫女が舞う神楽
   神憑りのために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。 前者の特徴は順・逆に  回って舞うことで、その古態を残す。 囃子に合わせ鈴・扇・笹・榊・幣など依代となる採物を持って舞う。
(2) 出雲流神楽 佐陀大社の御座替神事を源流とする神楽。
   この神事(佐陀神能)は取替えた御座ござ(藺草で編物)を清めるための採物舞と神話や神社縁起を劇化した
  神能などから成り、この流れを汲んだうえで演劇性を高めた神楽が中国地方中心に全国に広がっている。 特に
  島根県西部に伝わる石見神楽の系流は、子供にも人気のある娯楽芸能として確立されている。
(3) 伊勢流神楽 湯立と神楽が結びついたもの。 
   伊勢外宮の摂末社の神楽役たちが行った物が広まったと考えられている。 霜月神楽、花祭とも言われる。 
  釜を据えて湯を沸かし、巫女などが自ら、或いは周囲のその湯お振りかけてきよめる湯立に、採物あるいは着面
  の神楽が加わる。 
(4)獅子神楽 獅子舞の一種
   風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を廻って祈祷や御払いを行う。 二系統あり、東北地方の山伏神楽
  と伊勢などの太神楽だいかぐらがある。
(5)太神楽 
   伊勢神宮や熱田神宮の神人が各地を巡って(回檀)、神礼を配り、竈祓いや村の辻 での悪魔祓いとして行っ
  た神楽。 獅子舞と曲芸からなる。 伊勢太神楽の獅子舞は 回檀先の多くの村々に移入され、それからは伊勢
  太神楽系の獅子舞と呼ばれる。  熱田派は江戸開府の際に本拠地を江戸に移した。 余興として行われた曲
  芸は舞台芸としての太神楽に発展、江戸太神楽や水戸太神楽となった。

                       2.雅楽
 日本の雅楽を世界音楽史の立場から見ると、3つの大きな特徴がある。 その1は、日本の雅楽は日本古来の神
 楽と音楽(中国定義の雅楽と俗楽)合流して出来たもので言い換えると、日本をはじめ古代アジア諸国(中国、朝
鮮、西城、イラン、インドなど)の音楽の集大成の形を取っていること。 その2は、古代アジア諸国では古代音楽の
姿は殆ど失っているのに対し、日本では今日まで存続していること。 その3は、ヨーロッパ唯一存続する古代音楽
グレゴリオ聖歌は単音の声楽で楽器もなくまたハーモニーもない単純音楽(宗教思想による選択である。 前期参照
)であるのに対し、雅楽では楽器の伴奏があり、ハーモニー」「もついていた。
 雅楽の原義は「雅正の舞楽」で、「俗楽」の対。 国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が
演奏する曲目の内洋楽を除くものとされる。 多くの器楽曲で宮廷音楽として継承されている。 現在でも大規模な合
奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。 
5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸から儀式用の音楽や舞踏が伝わるようになり、大宝元年(701)の大宝令に
よってこれらの音楽と合わせて日本古来の音楽や舞踏を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。
 この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑りんゆう楽等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。
 任明天皇(833~50)の時、雅楽は左に唐楽、林邑楽、右に高麗楽、新羅楽、渤海楽という左右両部制をとった。 
律令対生は、政治組織の上でも左右編成を盛んに用いた。 しかしこの左右両部制は単なる雅楽の分類ではなく9
世紀には政治的にも顕著となった左右の競合的傾向を内包していた。 ところがその後、左右近衛などの衛府官人
が相撲・競馬などの勝負楽として利用することが盛んになった。
平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を
担うようになった。 貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能異なる宮
廷音楽としての雅楽が発展していった。 
平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降は活動の主体であった殿上
人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。 室町時代応仁の乱が起こり戦場となった京都の楽人は地
方に四散し、舞楽衣裳の大半が焼失した。 このため宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。 古代国家の荘厳で
あった雅楽は古代国家の解体とともに消滅し、雅楽の命脈が尽きかけていた、この危機をすくったのが豊臣秀吉で
あった。 
 10世紀には、雅楽伝承のため京都、奈良、大阪に三方楽所(大内楽所、南都楽所、天王寺楽所)を設置していた。
 雅楽は宮廷の祭事だけでなく、宗教儀式にも必要であり、天王寺楽所が僅かに命脈を保っていた。 秀吉は天王
寺楽所を中心に離散している楽人を呼び集め雅楽の復興に努めた。 正親町天皇、後陽成天皇の代になると四天
王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていだ。 
江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所、天王寺楽所、京都方の楽所を中心に禁中様楽人衆を創設し宮中の雅楽
の復興をおこなった。 

                       3.散楽 
散楽さんがくは、日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、記述,幻術、人形回し、踊りなど、
芸術的要素の濃い芸能の総称である。 起源は西域さいいき(東トルキスタン)の諸芸能とされる。 何世紀にも渡っ
て、中央アジア、西あじあ、アレクサンドリアや古代ギリシャ、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で徐々に中
国にもちこまれていった。 それら諸芸能の総称として、また宮廷の芸能である雅楽に対抗するものとして中国の隋
代に散楽と懐けられた。 日本へは奈良時代に、他の大陸文化と共に移入された。 
 天平7年(735)に聖武天皇が見たという記録がありこれが散楽についての最初の記録である。 天平年間のいず
れかに、雅楽寮に散楽戸が置かれ、国家機関で養成されることになった。 平安時代ににも演じられた。 しかしそ
の演出者が嗚滸おこ(常識外れ)の人と評価が記録されている。 庶民性の強さや、猥雑のためか、桓武天皇の時
代、延暦元年(782)に散楽戸制度は廃止された。 
散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、民衆の目に触
れるようになった。 やがて各地を巡り散楽を披露する集団も現れ始めた。 こうした集団は、後に、猿楽や田楽の座
に吸収、或いは変質していった。 鎌倉時代に入ると、散楽という言葉は聞かれなくなる。
 散楽のうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展した。 曲芸的な要素の一
部は、後に歌舞伎に引きつがれた。 滑稽劇は狂言や笑いを扱う演劇になり、独自の芸能文化を築いていった。 奇
術は近世初期に手妻「となった。 散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡くぐつ(歌に合わせた舞わせる操り人形)とな
り、やがて人形浄瑠璃へと引き継がれていった。 このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響は計り知れないも
のがある。


                        4・田楽
 田楽でんがくは、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。 楽(音楽)と踊りなどからなる。 「田植えの前に豊
作を祈る田遊びから発達した」
 平安時代に書かれた「栄花物語」には田植えの風景として歌い踊る「田楽」が描かれており、大江匡房の「洛陽田
楽記」によれば、永長元年(1096)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族達の様子
を天皇にみせたという。 平安後期には寺社の保護のもと座を形成し、田楽を専門に躍る田楽師と言う職業的芸人
が生まれたとある。
また宇治市史「第3節宇治猿楽」には下記の様にきされている。 平安時代「白川田楽」と言う大きな座が存在した。
 宇治離宮社(現在の宇治神社、宇治上神社)は地元住民の鎮守社であったが対岸の平等院が、藤原摂政家の庇
護のもとで大いに発展する。 この神社の離宮祭りは、藤原氏一族挙げての祭礼で、京都や奈良の諸大社の祭礼に
勝るとも劣らぬ盛大なものであった、右大臣藤原宗忠の日記に「見物の下人数千人、河お北岸に着く小舟数千艘、
瓦を並ぶる如し」とある。 祭礼の催物は、競馬、田楽、神輿及び巫女、馬長童めんちょうわらべ(馬に乗った童)1つ
物(扮装した子供等)、田楽、散楽、競馬の騎乗者等の盛大な行列で、田楽法師は60余人が参加している。 しかし
、田楽という芸能自体、鎌倉時代末期には猿楽に押され衰退する。 宇治において猿楽が文献に現れるのは離宮祭
り平安時代の末期に田楽と共に猿楽が出現したいる。


                         5.能楽
 能楽のうがくは、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成をみた。 日本の舞台芸能の一種。 重要無形文化財か
つユネスコ無形文化遺産である。 能とは元々能芸・芸能の意をもつ語であって、猿楽以外にもこれが用いられてい
たが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能が省略となり、猿楽を能楽と呼称することが一般的となった。
 猿楽は、散楽のなかの舞楽化されたものだったが、やがてそれは猿楽という名称の基散楽芸を合わせ含むように
なった。 能を完成させた観阿弥と世阿弥は時宗じしゅう系の法名を持っており、時宗の踊り念仏のもつ鎮魂儀礼と
しての側面や、時宗が深く係わっていた蓮歌が後術する夢幻能の成立に強く影響したとの指摘がある。 また中世
の勧進聖が上演した唱導劇お夢幻能の形式に強い影響を与えたとされる。 時宗の踊念仏は民衆の極楽往生願望
が根底にあったが、同時に死者の追善供養の場でもあった。 即ち生前の行いによって地獄に落ちた死者を、踊念
仏への供養によって救うという考え方である。 こうした発想が12世紀から14世紀にかけて、寺社の造営資金を集め
るための勧進興行において、それまで「翁」のような呪術的性格を持っていた猿楽は、生身の人々を主な観客と想定
する芸能へと進化していた。
(1)能楽の語義
  江戸時代までは猿楽と呼ばれていたが、明治14年(1881)の能楽者の設立を機に能楽と称されるようになった。
 明治維新により、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者たちは失職し、猿楽という芸能は存
 続の危機を迎えた。 これに対し、岩倉具視を始めとする政府要人や華族たちは資金を出し合って猿楽を継承する
 組織「能楽社」を設立。 芝公園に芝能楽堂を建設した。 この時発起人お九条通孝らの発案で猿楽と言う言葉は
 能楽に言い換えられ、以降、現在に至るまで、能、式三番、狂言の3種の芸能を相承する概念として使用され続け
 てる。
(2)能楽の担い手
  能楽を演ずる者は能楽協会に所属する職業人としての能楽師(玄人)の他、特定の地域や特定の神社の氏子集
 団に於いて保持されている土着の能・狂言・式三番を演じる人々、能楽協会会員に月謝を払って技術を学ぶ愛好
 家、学生能サークルが存在 する。 
  能楽協会会員即ち玄人の能楽師及び彼らの素人弟子達の技術は、「シテ方」「ワキ方」「囃子方」「狂言方」の4
 種類に分けられる。 「囃子方」のなかには更に「笛方」「小鼓」「大鼓」「太鼓」の4種類の技能集団がある。 「ワキ
 方」「囃子方」「狂言方」は「三役」と呼ばれる。 これらの技術は歴史的に数多くの流派を生みだしてきたが、現在
 までに廃絶した流派もそんざいしている。 通常、ある流派を学んでいる人間がたの流派に移ることはない。
  各流派の最高責任者は宗家他の伝統芸能における家元に相当する。 現時点で能楽協会会員者数(所属能楽
 師数)以下のとおりである。
  シテ方 観世流(561)、宝生流(270)、金剛流(100)、金春流(120)、喜多流(54)
  ワキ方 下掛宝生流(24)、福王流(20)、高安流(16)
  笛方  一噌流(17)、森田流(48)、藤田流(4)
  小鼓方 幸流(31)、幸清流(9)、大倉流(18)、観世流(7)
  大鼓方 葛野流(12)、高安流(13)、石井流(10)、大倉流(13)、観世流(1)
  太鼓方 金春流(25)観世流(16)
  狂言方 大蔵流(92)、和泉流(56)
 ▲ 玄人の養成
   能楽師の多くは何代も続く能楽師の家に生まれた者であり、幼少時から父親による訓練を受ける。 彼らの中で
 最終的に玄人として身を立てる決断をした者は、所属する流派の宗家の家に数年間住み込んで修業し、玄人とし
 ての初期訓練の仕上げを行う。 玄人として能楽協会会員となった後も能楽師としての訓練は生涯続けられる。
(3)能舞台
  以前は能舞台は神社等に作られ、舞台の屋根が青天井に晒されていた。 そのため、照明は日光と白洲からの
 反射光によっていた。 明治以降、能舞台と見所けんしょ(客席)の全体を建物でくるむ形式が増え、これを「能楽堂
 」と呼ぶ。 この場合、屋根の上に能楽堂の天井がある形式になる。
  一方で、戦後「薪能」(本来の薪能は日中から演能を始め、夕暮れまで演じる形式だった)と称して夜間の野外能
 が盛んになり、この場合仮説の能舞台も用いられる。  舞台の床と寸法が適当で、四方に柱があり、橋懸を用意
 できれば、能はいかなる場所でも演じられる。
  能舞台の構造
  ① 鏡の間 シテの控え所。 ここで装束をつけ、面をかけるための専用鏡がある。  また演能の前後に諸役と
   挨拶を交わし、上演の前には囃子のお調べがかなでられる。
  ② 橋懸はしかがり 歌舞伎の花道と同じように演技の場として重視される。 舞台に対してだいたい110番前後
   の角度で取り付けられ、正面の客から見やすくなっている。
  ③ 舞台 常寸京間三間四方。 後方から正面に向けて縦に板を渡す。 材は桧が多い。 足拍子の響きをよくす
   るために要所に甕を生けている。 滑りを良くするためにおからや米ぬかで乾拭きをしてつやを出す。 舞台に上
   る際にはどんな場合にも白足袋を履くことがもとめられている。
  ④ 目付柱(角)、シテ柱、脇柱、面を付けると視野が非常に狭くなるので、舞台上ではこれらの柱を目印にして舞
   う。 従って柱は演能上必須の舞台機構であり省略することが出来ない。 また「道成寺」の鐘を吊るために、天
   井に滑車が、笛柱に金属製の輪が取り付けられている。 
  ⑤ 地謡座じうたざ 能の際、、地謡が2列になって座る位置。 舞台と同じく板を縦に敷く。 地謡座の奥には貴
   人口きじんぐちと呼ばれる扉がついているが、現在ではなったく使われない。 また、かっては地謡座の後方に
   地裏と呼ばれる客座があったが、今では行われていない。
  ⑥ 横板 舞台とは違って板を渡しているところからこの名がある。囃子方が向かって右から笛、小鼓、大鼓、太
   鼓の順で坐るために、おのおのの部分を笛座、小鼓座といったりもする。 能の場合、小鼓と大鼓は床机しょう
   ぎを用いる。
  ⑦ 後見座 後見gs座る為にこの呼び名がある。 後見が通るために、横板は後半分を開けて囃子方が座ること
   になっている。
  ⑧ 狂言座 アイがここで中入りまで着座しているためにこの呼び名がある。
  ⑨ 階きざはし 三段の階段。 現在では実用されていないが、江戸時代の正式の演能の際には、開演前に大
   目付がここから舞台上に昇り、幕に向かって開演を告げた。
  ⑩ 白洲しらす 現在では簡略化されているが、能舞台が戸外にあった時代には客席と舞台との間に玉砂利を
   敷き詰めていた。 海を象徴する。
  ⑪ 一の松、二の松、三の松 橋掛での演技の際の目印にする。 橋掛の向こう側にも二本の松が植えられてい
   る。 
  ⑫ 楽屋
  ⑬ 幕口 五色の布を縫い合わせた揚幕がある。 左右の幕番が竹を利用して(これを本幕という)、シテやワキ
   が出入りし、曲趣に応じて幕の開け方にも違いが設けられている。 囃子方や後見などが舞台に出入りする際
   には幕を上げずに、片側をめくって人を通す。 これを片幕という。
  ⑭ 切戸口きりどぐち 能の際の地謡や、能以外の上演形式の際に出入りする人が利用する小さな出入り口。 
   舞台で切られた葯がここから退場するので臆病口とも言う。 
  ⑮ 鏡板 大きな松の絵が描かれる。 春日大社の影向の松がモデルであるとされる。 神の依代としての象徴
   的意味のほかに、囃子の音を共鳴させる反響板としての役割も果たしている。

                        6.歌舞伎
 歌舞伎かぶきは、日本固有の演劇で、伝統芸術の一つ、じゅうよぬむ系文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺
産に投獄されている。 
 歌舞伎は、人形浄瑠璃と並んで江戸時代の日本人…主として三都を中心とする都市町人層…が彼ら自身の社会
形成と軌を一にして産み落とし、以後およそ250年を通じて、なでるように慈しみ育ててきた芸能遺産である。 歌舞
伎は統一的な理論に基づいて創造されたものではなく、都市町人の実生活それ自体の推移変遷とともに、その要求
するところについて実践的にさまざまの様式を生みだし、それを積み重ねる方法によって膨らんだものである。
(1) 語源
   歌舞伎と言う名称の由来は、「傾く」かたむくの古語にあたる「傾く」かぶくの連用形を名詞化した「かぶき」だと
  言われている。 戦国時代の終り頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変わ
  った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちを「かぶき者」ともいった。
   そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596~1615)
  に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。 慶長8年(1603)京都で始めたと言われる。 その後阿国を
  模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。 これが今日の連なる
  伝統芸能「かぶきの語源となっている。  この「かぶき」の「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのは
  その後のことだった。 寛永」6年(1629)に女歌舞伎が」禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽
  に連なる「祇」の字を用いた「歌舞規伎」
(2) 歴史
 1) ややこ踊り
    芸能の呼称として「かぶき」という名が与えられた時、それは女性お中心とした踊りの芸能であったことはよく
   知られている。 すなわち「歌舞伎踊」であった。 「かぶきおどり」という呼称の史料における所見は、慶長8年
    (1603)5月6日「慶長日件録」に出る記録である。 慶長8年から遡る事約20年、天正9年(1581)の前後から
   京都 ・奈良近くに「ややこ踊」と呼ぶ女性芸能が育っていた。 天正10年には加賀国出身を名乗る8歳と11歳
   の芸能者が奈良の春日神社の若宮拝殿で法楽(芸能を奉納すること)と称し観衆の前で演じている。 これは
   舞台芸能として認められていたことが分る。
 2)女歌舞伎
   女歌舞伎を支えた基本的な条件が、極めた現世的な好色性にあったことを否定することは出来ない。 出雲阿
  国の出目は、現在も謎に包まれているにしても、彼女及びその一座を構成した人たちが身分賤しい賎民の出身
  であり、遊女兼帯、即ち売春を兼ねた女性たちの集団であったことはほぼ間違いない。 出雲大社の巫女という、
  その名乗りに縁を求めるとするなら、彼女は散所さんじょ(貴族や社寺に隷属し、労務を提供する代わりに年貢を
  免除されている人々。 多くは賎民視された)出身の巫女の一人だったという見方もできる。 歌舞伎踊が創始さ
  れて、成功すると、これを模倣する女歌舞伎の芸団が幾つも作られた。 
   阿国歌舞伎の舞台及び楽器(笛、小鼓、大鼓、太鼓)は、猿楽の様式そのまま襲って用いたとされている。 演
  目は記録によればややこ踊以来の念仏踊、小原木踊、飛騨踊、などの名が知られている。 それらのレパートリ
  ーの間に、猿若と呼んだ道化の役者が出て、さまざかな素朴な物真似を演じた。 例えば、寸劇「茶屋のおかか」
  では、茶屋女の所にまちの歌舞伎者が通りかかって、一緒になって流行の小歌踊を踊るという趣向の「歌舞伎踊
  」が生みだされ、それが当たってこの芸能の将来を決定したのである。 
   慶長8年を降ること僅か26年、寛永6年(1629)10月江戸で「此頃府下の於いて女歌舞伎惣踊等致候義堅御制
  禁申達候に付、以来相止可申事」の通達があり、同時に禁制は京都・大阪にも及んだ。 これは、女歌舞伎に限
  らず、女舞、女浄瑠璃など女性芸能者の一切が禁止された。
 3) 若衆歌舞伎
   前髪立ちの美少年の魅力を中心としたかぶきである。 女歌舞伎が成立していた慶長初年のころ、一方に稚児
  や若衆による踊、狂言がすでに芸団を組織して興行しており、それが慶長8年からあまり時を経ない時期に「童カ
  ブキ」などと称していた。  さて、女歌舞伎が禁止された寛永6年以降、一挙に増加したと考えられる。
   若衆歌舞伎は、承応元年(1652)6月27日、町奉行の通達により禁止された。 その理由は衆道の流行とそれ
  に伴う風俗紊乱ということになっていた。 寛永6年(1629)から、承応元年(1652)までの23年間を若衆歌舞伎時
  代と言う。
 4) 形成期(若衆歌舞伎)
   承応元年若衆歌舞伎禁止後、再開許可を得て以後の歌舞伎は全て野郎歌舞伎といえなくないが、通説では元
  禄以前の期間を野郎歌舞伎と呼んでいる。 
   若衆歌舞伎の時代にも、女性役を演じる女役は存在したが、技術よりも容色が重視された。 しかし、野郎歌舞
  伎では、「女方」を専門に演じる俳優が登場し、技術的に女性らしさを表現する方向へと発展していった。
   この時代に、小舞と並んで拍子舞という新しい様式の舞が生まれた。 小舞はもともと狂言部の芸からでて、若
  衆に継承され女方成立後。女方で行われるようになった。 当期の舞台の主要な担い手は、若衆、若女方、道化
  方の三者であったが、その道化方の芸として成立したのがここに言う拍子舞である。 
   見世物芸は若衆歌舞伎の頃からはじまったが、当期になると篭脱け、放下ほうか(品物を空中に投げ上げて曲
  取する)、宙返り、碁盤人形(操り人形の一種)、曲鼓その他さまざまな見世物が、狂言の間に挟んで行なわれた
  。   続き狂言が行われるようになる。 続き狂言とは、筋の長い物語を複数の場面に分けて上演する物をいう。
 5) 創造の「ちから」とその特徴
   内容的に「続き狂言」の形態が生まれてくると、あとは世界の拡大へと用意されていた。 そこに至って浄瑠璃
  の摂取が始まる。 歌舞伎はあるストーリーを獲得し、何番続きかの狂言をしくんでいくうえで、ごく身近で便利だ
  ったから絡繰りの筋立てを盗みとって自分の物としたものがある。 歌舞伎狂言の演目は、人形浄瑠璃の演目を
  書き換えたものと、歌舞伎狂言として創作された物に大別される。 人形浄瑠璃の演目を着換えたものは、丸本
  物・義太夫物・義太夫狂言・でんでん物などと呼ばれる。 一方、歌舞伎狂言として創作されたものは、純歌舞伎
  と呼ばれる。
   内容としては、時代ものと世話ものに大別される。 時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷き
  とした実録風の作品や江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世前に仮託した作品をいう。 一方、
  世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう。 
   設立当初の歌舞伎は「役柄」をもたなかった。 先行芸能である能には、シテ・ワキ・ツレ、或いは狂言に於いて
  もシテ・アド・立衆などの役柄名を無視することからはじまった。 女歌舞伎の主役、スターである女性を「大夫」あ
  るいは「和尚」と呼んだ。
   しかし、これは役柄の名ではない。 道化役の「猿若」だけが役柄名に近いニュアンスを持っている。 それは後
  に出来る道化方に吸収されることになる。 
 6) 元禄歌舞伎
   寛永10年代における幕府の集権的な政治機構の整備、それに歩調を合わせ着々と進められていた鎖国体制
  は、寛永14年(1637)に起こった島原の乱を直接の契機として寛永16年7月の令によって完成した。 寛政から元
  禄にかけて全国市場形成の担い手として、強大な経済力をバックに登場したのが都市の新興町人や都市近郊農
  村の在郷町人たちであった。 彼らの経済的実力を地盤としていわゆる元禄文化は形成された。  しかし、その
  元禄文化は華やかに装飾邸であり、明るく開放感に満ちて、上昇期町人の創造エネルギーの燃焼を感じさせる
  一方に、早くもひしひしと町人社会に迫ってきた鎖国体制下の閉塞感や身分制度の確立によって、「分を越える」
  ことを許さず、類型化を進めた政治権力の重圧を反映しなくてはならなかった。 
   幕府の禁止令は相も変わらず、次から次へと、また幾度も同じ内容を重ねて出し続け、元禄歌舞伎はそうした
  体制に対して一時的に妥協を示しながら、直ちにべつの側面を伸長させると言うやり方で飽くなき創造をやめなか
  った。
   元禄間近にした京都の町、享楽の中心地である四条河原町に、歌舞伎・操浄瑠璃の小屋がたちならんでい
  る。 延宝4年(1676)に八坂神社に献納した絵馬によると、四条大橋東詰めに七つの歌舞伎と操浄瑠璃小屋が
  ならんでいた。 その小屋は、それ以前の舞台だけに板屋根を張り、周りを竹矢来たけやらい(竹をあらく交差さ
  せて作った囲い)で囲い、客席は屋根はなく、土間にむしろを敷いて座る取った粗末な形式のものから、進んで、
  客席にも板屋根がつき囲いも板塀に代わり、仮説的な簡単な舞台から、常設の劇場への移行であった。 それは
  、一方において島原の固定遊里の成立と並行している。 悪所(遊里と芝居町を指した語)の観念を明確にするも
  のであった。 劇場の定着・機構の整備に伴って、役者を含めた各座の従業員の数も次第に増加した。 例えば
  、天和元年(1681)の11月、大阪大和屋座の番着けによると、一座の人員は85人に及んでいる。 そのうち役者
  の数が62人であるから、その他の劇場関係者は23人となる。

                     7.人形浄瑠璃
 955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられた)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定され
た。 また、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産
の代表的な一覧表」に掲載され、世界無形遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登
録で正式に登録された。
 今日「文楽」の名で知られている人形浄瑠璃はなおかなりの愛好者を得て人々の間に生き続けている。 作家近松
門左衛門の名は紫式部や芭蕉ともに日本文学史上最も偉大な作家としてあまりにも有名である。 しかし、近松以
前に浄瑠璃にはすぅでに長い歴史があったことや、義太夫節はもと、浄瑠璃節における諸流派の1つであったと言う
事実、更に、文楽も本来、人形浄瑠璃の1つの座の名称であった。
 人形浄瑠璃は、浄瑠璃、三味線、人形の三位一体によって成立すると言われている。 その第Ⅰ「浄瑠璃」は語り
の芸能として、直接には平曲や説教などとともに唱導にその源に発し、さらに遡ってはるか古の口承の文芸につな
がる。 単調であつた曲節は、第二の要素である「三味線」との結合によって進歩し、繊細な表現に耐えるものとなっ
たが、さらにこれは結合した操りの「人形」なるものは、信仰的意味を持つ神聖な存在として、これまた深く民衆の生
活の中に生きたものであった。 
1.歴史
  「尺素往来」
しゃくそおうらいには下記の様にかかれている。 南北朝時代の僧侶(唱導の徒)は、散所に住み村から村
 へと歩き寺社の縁起をかたった。 語り者達が最も力を込めて語ったものは、神仏の利益が、現在から未来にわた
 て、いかにあらたかなものであるかという霊験談であり、また、寺社がいかに尊い由来を持っているかを解く縁起談
 であった。 勧進を請け負う聖ひじり(高僧)達にとっては説法の効果いかんは彼らの生活にもつながる。 説得力
 を増すためには土地々々の庶民の生活感情を考慮に、現実味のある内容を語りの中に組み込んでいく。 現在聞
 き手の人々が住んでいる土地に明神として祀られている神社のその本地が阿弥陀、薬師、地蔵などの仏であって
 、そのいわれは如何に?」という切実な疑問に対して出来るか、納得のいく形で答えなければならない。 やがて
 神信仰の伝播者であった巫女などが、単なる説話の媒介者たる遊芸人と同調するにつれて、説話の内容もそのも
 のと唱導の要素を薄めて語りそのものに対する興味を中心としたものになった。 「説教」の語りは全体的に言えば
 、本地譚衆生済度しゅじょうさいど(迷い苦しむ衆生を救い、悟りの世界に導く)の宗教的勧化か又は未繁昌の祝
 儀かに帰着する。
  語りの頂点をなす哀話の特徴的なものは、主人公の漂泊放浪と哀別離苦で、これを語り手自ら啼泣して語り、聴
 衆の涙をさそうのであった。 それは本来の語りの帰結である。 
  「浄瑠璃」は元やはり「説教」系の語り物に由来すると考えられている。 現存する最古の作品である「浄瑠璃物
 語」(室町時代中期作、作者不詳;金売吉次に連れられて奥州へ下る牛若が、三河矢矧やはぎの長者の娘浄瑠璃
 御前と結ばれる恋物語)は、浄瑠璃姫と牛若の恋物語である。 新しい節回しによつて人気を得、この節回しを
 「浄瑠璃」の名で呼ぶようになったと考えられる。 その成立は15世紀中頃と推定される。
  初期の浄瑠璃が扇拍子や琵琶を伴奏にしていたと推定される。 従って節奏は素朴単調な物であった思われる。
 これが、やわらかみを帯び抑揚に富む節回しに至ったのはやはり、三味線というそれまでにない複雑多様な音階を
 連続的に自由に弾奏だんそう(弦楽器の演奏)できる新楽器との結合が成立したからである。 その時期は17世紀
 初頭の頃であろうか そして更に一段飛躍的に進展させたのは西宮の傀儡子
 くぐつし(旅芸人、日本で初めての職
 業芸能人、操り人形劇を行う)に出合い、操り人形との提携が果たされたことであった。
  傀儡子はもと中国大陸かえら散楽とともに渡来したもので、その故郷は遠く中央アジアにあるらしい。 人形には
 手傀儡
てくぐつと懸糸傀儡いとあやつりくぐつとがとがあった。 16世紀中頃から文献にその名が見えるが、その一人
 西宮の疋田某が初めて浄瑠璃・三味線の提携をしたと伝えられている。 こうして、浄瑠璃、三味線、人形の三要
 素が合体することによってここに人形浄瑠璃なるものが成立した。 
  既に慶長年代(1596~1615)の末には操り浄瑠璃が京都で興行されたとの記録もあるが、新興都市江戸で人気
 を博し、寛永(1624~44)ごろの杉山丹後掾
すぎやまたんごのじょう・薩摩浄雲等が明暦・寛文(1655~73)にかけて活躍した
 。 ことに和泉大夫の始めた荒々しいエネルギーを発散する金平こんぴら浄瑠璃は素朴殺伐な江戸の気風に合致
 し大流行した。 京都では、このころ江戸の浄瑠璃が虎屋源大夫、喜大夫に寄て伝えられ隆盛にむかい、ややおく
 れて山本土佐掾、宇治加賀掾が現れた。 土地柄おだやかな調子に特徴のある浄瑠璃であった。 一方、大阪で
 は井上播磨掾が活躍した。  金平風を得意とし、硬軟自在の播磨節を確立し、大阪浄瑠璃中興の祖といわれた。
 この門より竹本義太夫がでた。
2.人形浄瑠璃の展開
  人形浄瑠璃は慶長年代(1596~1615)総合芸能といて京都で行われたが、やがて江戸で流行するに至った。 
 しかし寛永年間(1624~44)江戸から伊勢宮内が上京し、ついで虎屋喜大夫(明暦3年・1657)とその師虎屋源大
 夫(寛文年間1661~73)が上京した。 源大夫の門から井上播磨掾や山本角大夫を輩出し大阪に住んでいた伊藤
 出羽掾座から岡本文弥が出、宮内の名代宇治嘉大夫が京都が興行すると京阪の浄瑠璃は活気を呈するにいたっ
 た。 井上播磨掾と岡本文弥は大阪で栄え、山本角大夫と宇治嘉大夫は京都で人気を得たが、延宝末年(1681)
 播磨掾が没した後に、大阪に新しく竹本義太夫が櫓を上げた。 その後元禄7年(1694)に文弥が、道13年に角大
 夫が没すると京都の宇治嘉大夫と大阪の竹本義太夫が斯界を導くことになった。
 (1) 宇治嘉大夫
    宇治嘉大夫は延宝3年(1675)に櫓をあげ同年に受領じゅりょう(優秀と認めた職人・芸人に授ける官位)して
  加賀掾と称したが、その優美な語り風は京都人の好みに合い、人気を得たのである。 当時、芸能は士農工商
  以下の賎民の人達の担当する賤しい職業と考えられていた。 加賀掾が能 界に入ろうといた時、親類・朋友から
  非難された。 加賀掾は当初能をやりたいと考えたが、その道の人でなければ入れないことを知って浄瑠璃大夫
  となったのである。 それまでの説教や金平節の流を脱し、新しい浄瑠璃の方向を打ち出した。 まず「竹子集」を
  刊行し、「浄瑠璃に師匠なし、只、謡を親と心得るべし」と説いた。 その謡によって浄瑠璃の品位を高めようとし
  たのである。
 (2) 竹本義太夫
   竹本義太夫は井上播磨掾の弟子、清水理兵衛に学び、後加賀掾のワキをつとめやがて竹屋庄兵衛の後援で、
  貞享じょうきょう元年(1684)大阪道頓堀に竹本座を起こした。 これに対し、加賀掾は、翌貞享2年大阪に下って
  義太夫と競演した。
   この時加賀掾には井原西鶴が「階」と「凱陣八島」を提供し、義太夫がには近松門左衛門が「賢女手習井新暦」
  と「出世景清」を提供したのであった。 最初は義太夫の「賢女手習井新暦」の評判がよく、次に加賀掾の「凱陣
  八島」が好評であったが、途中で火災を起こし加賀掾は京都に帰り、義太夫の地位は安定した。 この時、義太
  夫35歳、加賀掾51歳であった。 元禄14年義太夫が受領して竹本筑後掾となってから名実ともに第一人者となっ
  た。 加賀掾が謡を親としたのに対し、義太夫は「むかしの名人は、浄瑠璃を父母とし て、謡・舞等は養い親」と
  した。 これは浄瑠璃の独自性を強調したものである。 
 (3) 近松門左衛門
   近松門左衛門は、「作者の氏神」と崇められた天才であったが、その彼が一番努力したのは、作者の地位の向
  上であった。 当時、作者の地位は歌舞伎役者や浄瑠璃の大夫に比べて低く、作者の著名も認めがたい風潮に
  あった。 近松は、長年の努力の結果、神や仏と崇められるまでにいたった。 
   近松が最初浄瑠璃作家となった延宝・天和(1673~84)のころは浄瑠璃の方が歌舞伎より盛んであったが、貞
  享・元禄(1684~704)と進につれて歌舞伎の方が盛んになり、近松は、その流行する歌舞伎の座付作者となっ
  ているのである。 けれども歌舞伎も元禄を過ぎると停滞を生じ、逆に大阪の浄瑠璃界では、からくりの竹田出雲
  が竹本座の座本となって、新しく発展しようとしていた。 近松はその竹本座の専属作者となって大阪に下るので
  ある。 近松が始め加賀掾のもとで浄瑠璃を作った時の給金は不明であるが、歌舞伎作家となった時は年1貫匁
  (約40万円)と言われている。 それが竹本の専属となって50両(約120万円)の給金を取り、更に100両にしたと
  いわれている。 歌舞伎作家のときの給金は、役者の最低の部類の金額に当たるが、竹本座に専属として抱え
  られたときには、竹本筑後掾に次ぐ地位を与えられている。 
   その後、操り芝居は次第に発達を遂げ、近松没後20年位の間に現在のような姿となった。 

                       8.平曲
 平曲
へいきょくは、物語の音楽のジャンルもしくは一演奏様式。 盲目の琵琶法師が琵琶をかき鳴らしながらかたった
「平家物語」のメロディ及びその演奏様式で、物語琵琶の一つである。
(1) 沿革と概要
  「平家物語」の語り本は、当道座*とうざに属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。 これを「
 平曲」と呼ぶ。 ここでいう「語る」とは、節をつけて歌うことであるが、内容が叙事詩的なので「歌う」といわずに「語
 る」というのである。 平曲に使われる琵琶を特に平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型の物がおおく用い
 られる。 なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも「平家物語」に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的には全くべつもので、これらは平曲とはよばない。
  平曲は、音楽史的には、盲僧琵琶の流れに属し、声明のなかの語り部である「講式」の大きな影響を受けて鎌倉
 時代中期に成立し、楽琵琶を採用している。 伝承では12世紀の末頃、東国生まれの盲目の僧生仏が語ったのが
 はじまりであると言われている。
  平曲は、今日伝承されている語り物の中では最古の「平家物語」をテキストとしていることに名称の由来があり、「
 平家物語」の一章段が平曲の1曲となっている。 平曲の起源については、諸説ある物の、一説には鎌倉時代にお
 ける天台宗の民衆教化のための唱導芸術として成立したとも言われる。 平曲は、娯楽目的ではなく、むしろ鎮魂
 の目的で語られたと言うのが本願寺の日記の中で考証されている。 「平家物語」は後世の音楽や芸能に取入れ
 られていることが多く、ことに能の修羅物というジャンルにはこれに取材した演目が多い。 平曲の流派としては当
 初は八坂流と一方流いちかつりゅうの二派が存在したが、八坂流は早くに衰え、現在は一方流が僅かに残ってい
 る。 一方流は江戸時代に江戸の前田流と京都の波多野流に分れたが、波多野流は当初から振るわず、前田流
 のみ栄えた。 この時代、平曲は江戸幕府の保護のもと、伝承され、安永5年(1776)には名人と謳われた荻野検
 校が前田流譜本を集大成して「平家正節」へいけまぶしを完成し、以後同書が前田流の定本となった。
  明治維新後は、明治政府の盲官制の廃止にともなって当道座が公儀の庇護を離れて解体し、そのため伝承者も
 減少した。 平成20年(2008)現在では三品検校の弟子であった今井氏が生存するのみとなっている。
  平曲は、昭和30年(1990)3月19日に国の選択無形文化財(重要無形文化財以外の無形文化財のうち経費の一
 部に公費の補助を充てることができるもの)に選択されて保護の対象となった。
 * 当道座
とうどうざ中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織。  仁明にんみょう天皇の子である人
   康
さねやす親王盲目であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えた。 人康親王の死後、そ
   ばに仕えていた者に検校
けんぎょうと勾当こうとうの官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校
   とされた。
   鎌倉時代、「平家物語」が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。 その演奏者は、源氏の長者である村
 上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。 室町時代は、室町幕府から庇護を受け、久我家が本所となった。 江
 戸時代は江戸幕府が公認し、寺社奉行の管理下に置かれた。 江戸時代、当道座に属する盲人の数は、江戸時
 代を通じて常時3000人程度だったとされる。 
(2) 平曲の構成と音楽的特徴
  平曲は「曲節」と称される類型的な旋律の組合せによって構成されている。 そのうち、旋律をともない語りの部分
 に「語り句」、旋律をともなう句は「引き句」と称される。 「語り句」には、素声しろごえ、ハズミの2種がある。 「引き
 句」は、①「口説くどき」の類 、②「拾ひろい」の類、③「節ふし」に分類される。 「口説」類は、1つの音節(1個の
 母音を音節主音とし、その母音単位)に1音をあてて作曲され、四度ないし五度程度の音程を上下する比較的単純
 な旋律ともなうものであり、「拾ひろい」はシラブル様式(1音節に1音を当てる)ではあるものの「口説」類に比較す
 ると、複雑で数多くの音をもち入る者である。 「節」類は旋律の聞かせどころとなる部分であり、多くの場合メリマス
 (1音節に2音以上の音符を当てる)となって、「三重」、「中音」、「下り」などと称される旋律を含んでいる。

                      9.地歌
 地歌
じうた(地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄な対する地(地
元=上方)の歌であり、当道という視覚障碍者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法
師唄ともいう。 長唄とともに「歌もの」を代表する日本伝統音楽の一つであり、また三曲(地唄三味線、筝、胡弓の
三種の楽器の総称)の一つである。
多くの三味線音楽の中でも最も古くまで遡ることが出来るもので、多くの三味線音楽の祖であり、江戸時代を通じて
他の三味線音楽分野に多大な影響を与え続けてきた。 義太夫節など各派浄瑠璃や長唄も元々地唄から派生して
たと見なすことが出来る。 また三味線音楽の人形浄瑠璃や歌舞伎と結びついて発展してきた。 近世邦楽の中に
あって純音楽的性格が強く、舞台芸能とは比較的独立している。
(1) 概要
  三味線を用いた音楽としては、初期に上方で成立していた地唄は、元禄頃までは江戸で演奏されていた。 その
 後、江戸では歌舞伎踊の番礎音楽としての長唄へと変化、河東節かとうぶしなどの浄瑠璃音楽として普及し、本来
 の地唄そのものは次第に演奏されなくなった。
  幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。 明治以降には生田流系筝
 曲と共に、東京へも再進出し、急速にひろまった。 現在は沖縄を除く全国で愛好されている。 ただし、東京では「
 地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがある。 地歌舞は他唄に舞を付けたものであって、最初から舞のために作
 曲されたものではない。 
(2) 江戸時代初期
  地歌は三味線の伝承とほぼ同時に始まったと考えられるので、三味線音楽の中で最長の歴史をもつ。 即ち戦
 国時代末期に琉球を経由し大阪の堺に入ってきた中国の弦楽器三弦を、平曲を伝承していた当道座の盲人音楽
 家(琵琶法師)達が改良して三味線を完成させ、琵琶を弾く撥によって弾き始めるという形で三弦音楽として地唄が
 始まったと考えられる。 中でも石村検校は三味線音楽興隆の祖と言われる。
  その後も地唄に、主に当道座の盲人音楽家達によって作曲、演奏、伝承された。 現在で最も古い楽曲としては
 、江戸時代初期に完成されたと考えられる「三味線組歌」がある。
(3) 江戸時代中期
 ① 組歌の停滞と長唄の発生
   組歌は小歌曲を幾つか連ねた形式だが、やがて飽きられ、元禄の頃には、一貫した内容を持つ「長唄」が作曲
  されるようになる。 これは江戸の検校たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有
  名である。 やがて上方でもこれに倣って曲が作られるようになる。 また、長唄は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏とし
  ても使われるようになり、長唄として発展してゆく。
 ② 手事物てごともの 
   一方、この頃から歌ばかりでなく「さらし」「三段獅子」「六段恋慕」など、歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲
  が生まれるようになる。 この部分を「手事てこと」という 。  こういった形式の曲を「手事物」という。 手事物は
  初めのころは、まだ曲も少なく、音楽的にも比較的単純なものがおおかったが、江戸時代後期に大発展し、地唄
  を代表する楽曲形式となる。
 ③ 端唄
   端唄には二つの意味合いがある。 江戸端唄の前身を指す場合と、短い上方唄(地唄)を指す場合がある。 江
  戸端唄は、江戸時代中期以降におけるにおける短い歌謡の総称である。 1920年代までは小唄も端唄の名で呼
  ばれていたが、その後端唄唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。 
   端唄が流行したのは特に天保の改革以後のことである。 これは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶
  民が三味線を弾くことを禁止されてしまった。 歌舞伎興行などは事業として営業は続けられたあ、街角の稽古場
  で三味線を教えることは禁止されてしまった。  10年程たった後ようやく解禁された。 そこで庶民等は再び三味
  線を習い始めたが、長く楽器を触っていなかった者にとって長唄のように 長い曲はむつかしかった。 そこで、覚
  えた小曲をすぐに弾くことが出来るという理由で、端唄がもてはやされるようになった。
 ④ 三曲
   もともと地唄三味線、筝、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家体が専門とする楽器であり、総称し
  て三曲という。 これらの楽器によるそれぞれの楽器である地唄、筝曲、胡弓楽が成立、発展してきたが演奏者
  が同じでも種目として別々の音楽としてあつかわれており、初期の段階では異種の楽器同士と合奏させることは
  なかった。 しかし、元禄のころ、京都の生田検校によった、三弦と筝の合奏が行われるようになり、地唄と筝曲
  は童子に発展していくことになる。 
   現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に筝の手が付けられているのが多く、三弦音楽として
  地唄に成立し、ほぼ同時かその後に筝曲が発展してきたと考えられる。 ただし筝曲の「段もの」は後から三弦の
  手が付けられたものであり、外にもしばしば胡弓曲を三弦に取入れられたものである。 胡弓との合奏も盛んに
  行われ三弦、筝、胡弓の三つの楽器、つまり三曲で、合奏する三曲合奏が行われるようになった。 このような環
  境の中で地唄は、三弦音楽として発展した。
 ⑤ 謡
   18世紀末には、終りの藤尾句当こうとう(役所の事務官)が能の詩章を取り入れた曲をいくつも作曲した。 これ
  を「謡うたい」と呼び、「屋島」「虫の声」などがゆうめいであり、このご能に取材した曲がいくつも作られた。 叉元
  禄のころから浄瑠璃の半大夫節や永閑節えいかんぶしなどが地唄に取入れられた。 さらに18世紀後半には、
  繁大夫節が地唄に取入れられ、検校たち自身が浄瑠璃で作曲することになっ た。 「紙治」「橋づくし」などが知
  られた曲である。 このような地唄は劇場音楽との関わりも持っている。
 ⑥ 作もの
   同じ頃滑稽な内容を持つ「作さくもの」と呼ばれるジャンルも生まれた。 これは「おどけ物者」とも呼ばれ、「曲
  ねずみ」「たにし」「狸」などの動物が主人公で、知恵を絞って難を逃れる内容の物がある他、「寛活一休」」「浪花
  十二月」等もあり、物語性も非常に強く、擬音を用いるなど地球では特殊なジャンルと言える。 関西系地唄筝曲
  家が伝承している他、宮城派等のの他派も演目に挙げることがある。 
(4) 江戸時代後期
 ① 手事物の完成
   江戸時代中期から後期にかけて、音楽性の高い楽曲が数多く作られるようになった。 手事ものを大成したの
  は18世紀末に大阪で活躍した峰埼句当であり、彼は前述のように「雪」等の端唄もつくるがその一方で、「残月」「
  越後獅子」など手事を技巧的で長い物とし、三味線が大いに活躍する曲を多数作曲した。 三ツ橋句当は曲中の
  手事の数を増やし、より長大で変化に富んだものとした。 こうして地唄は器楽的な側面を強くしている。
 ② 替手式筝曲
   文化の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどでユニゾンに近かった筝の合奏を改め、もとの三味線に対し
  てことなった旋律をもった筝パートを作るようになった。  これを「替手式筝曲」と呼び、更に八重埼検校等によっ
  て洗練されて行く。 三味線同士の合奏も盛んでやはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「替
  手」(原曲の楽器の旋律に代替させ得るべつな旋律)が色々作られ、また元の曲と合奏できるように作られた別
  の曲を合わせる「打ち合わせ」など、三曲合奏とtもにさまざまな合奏が発達」した。
 ③ 京もの
   この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。 まず松浦検校が京都風な洗練を加えた手事物の曲も多く作り、
  以後京都で作曲された手事物の曲も多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「亰もの」「亰風手事もの」
  と呼ぶようになる。 さらに菊岡検校が京都で手事物を多数作曲した。 それらの殆どの曲には同時代に活躍し
  た八重埼検校が筝のパートを作曲しており、地歌・筝曲の合奏曲といて発展し、地歌としても最盛期を迎えたと
  言える。 と同時に地歌と筝曲は殆ど一体化した。 ここに来て地歌はもはやこれ以上進む余地がない程、三味
  線の技巧の極致に達した。
 ④ 筝曲の独立
   光崎検校は、楽曲として高度に発達を遂げ飛躍的な発展の余地が少ないと思われた地歌からまだ発展の余地
  のある筝に目を向け、筝のみの音楽を幾つか作った。 こうして筝曲が再び独自に発展を始めることになり、以後
  吉沢検校に受け継がれて、次第に発展してゆく。
(5) 明治以降
   明治時代になると、筝曲が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。 勿論、全く作らなかったわ
  けではないが、筝のみの作品が圧倒的に増えていく。 それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまったこ
  と、西洋音楽や明清楽の音楽の要素を筝の方が容易に取り入れることが出来ること、恋愛や遊里色のある三味
  線に比べて明朗で清新な時代精神に筝の音色が合致していると思われたことが理由としてあげられる。 また新
  政府によって当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな
  変化であった。
   権威を失った検校たちは困窮した。 反面こうして地唄は一般にも広まり、特に江戸中期以降は地歌が盛んで
  あった東京をはじめとする東日本に生田流系筝曲とともに地歌が再び広まる機会となった。
   大阪を始め西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。 やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌
  は筝曲、尺八とともに全国に普及し嘉禎音楽となり、広く愛好されるようになった。 

                     10.日本舞踏
 日本舞踊は、Japanese danceの和訳、つまり日本のダンスの総称である。 そもそも舞踊とは、明治の始めに劇作
家の坪内逍遥と福地桜痴が考案した翻訳造語の一つで、本来は英語のdanceの和訳にあたる。 やがて日本伝統
の「舞踊」をダンスの翻訳語である「舞踏」と区別する必要性から、「日本の舞踏」という表現から用いられるようにな
り、これが定着して今日にいたる。
(1) 日本の舞踊の種類
  日本の伝統的な舞踊は、舞い、踊り、振りの三種類に大別される。
 ① 舞い 荘重な歌や音楽に合わせて、摺り足やしずかな動作で舞台を廻るもの。 貴族的で、舞台芸能として長
  い歴史をもつ。 
   神楽
かぐら ;神社儀式に奉納
   舞楽
ぶがく ;宮廷・宗教の祭祀に披露
   田楽
でんがく;民間祭礼に於いて披露されるもの
   猿楽
さるがく、白拍子しらびょうし、延年えんねん、曲舞くせまい、幸若舞こうわかまい
               
;歌+舞の様式
   能楽
のうがく;舞台演劇化したもの
 ② 踊り 軽快な歌や音楽に合わせて、足を踏み鳴らして拍子を取りながら、動きのある手振り見振りでうね回るも
  の。 庶民的で、江戸時代人ってから発達した。
   ・念仏踊り、・盆踊り
 ③ 振り 歌や音楽に合わせて、日常的な動きやしぐさを舞踊として表現するもの。  江戸時代に歌舞伎や人形
  浄瑠璃の発達に伴い派生した。
   ・屏風を立てた座敷でまうもの;上方舞い
   ・舞台演劇化したもの    ;歌舞伎舞踊
 ④ その他 比較的新しい舞踏
   ・日本武術を舞踊化したもの;棒の手、剣舞、詩舞
   ・近代以降の舞踊     ;新舞踊、歌謡舞踊、吟詠剣詩舞
(2) 狭義の日本舞踊
  日本舞踊には、現在200を越える流派が存在する。 その中でも特に、花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流
 を「五大流派」とよんでいる。  現在継承されている日本舞踊の流派は多数ある。 嘉永5年(1852)に発行された
 番着けにh14流派が掲載されたが、大正時代に急増。 第二次世界大戦後に分脈化、創流がいっそう進み、日本
 舞踊協会加入が120、未加入や新舞踊の流派を加えるとおびただしい数にのぼる。
  「五大流派」と呼ばれる流派は以下の通りである。」
 ① 花柳流
はなやぎりゅう 
   嘉永2年(1849)、花柳壽輔じゅすけが創始。花柳壽輔は四代目西川扇蔵に学び、歌舞伎舞踊の振付師として
  重きをなした。 初め子女の習い事として浸透したが、現在では組織量の強さで名取約1万5000人を擁する最大
  の流派となっている。
 ② 藤間流
ふじまりゅう 
   宝永年間(1704~1710)に初代藤間勘兵衛が創始。 二代目に女婿は勘兵衛を襲名せず、勘十郎家を名乗
  り、2代目の弟勘右衛門家に分れる。 
   3代目勘右衛門は2代目の養子で歌舞伎役者の7代目松本幸四朗。
   4代目勘右衛門は3代目の3男で歌舞伎役者の2代目尾上松緑
   5代目勘右衛門は4代目の長男で歌舞伎役者の初代尾上辰之助
   6代目勘右衛門は5代目の長男で歌舞伎役者の4代目尾上松緑
  藤間勘十郎派は、藤間大助によって立てられた。 大助は養父の勘兵衛門との仲が悪く、和解するものの、養家
  に遠慮して分家し初代勘十郎を名乗った。
   2代目から5代目までは女で、劇場振付
   6代目勘十郎は、藤間勘祖2世
   7代目勘十郎は、女、藤間高子、藤間勘祖3世
   8代目勘十郎は藤間遼太
 ③ 若柳流
わかやなぎりゅう 
   明治26年(1893)、初代花柳壽輔の門から出た花柳芳松が若柳吉松(後若柳壽童)と改名して創始。 花柳界
  で発展したため手振りが多く、品のある舞踊である。
 ④ 西川流
にしかわりゅう 
   元禄年間に始まり、2代目西川仙蔵が確立。 300年の歴史を持つ。
 ⑤ 坂東流
ばんどうりゅう 
   化政期(江戸後期の町人文化)を代表する歌舞伎役者、さ3代目坂東三津五郎を祖とする。 3代目坂東三津五
  郎は江戸歌舞伎きっての舞踊の名手で、所作事に多くの名作をのこした。 単に踊るだけではなく、作品を常に演
  劇的にとらえ、“演じる  ”ことを大切に扱うところに特徴がある。






参考文献
* 声明の研究」      著者 岩田宗一「法蔵館」
* 声明          編集 木戸敏郎「株音楽之友社」
* 声明          著者 木戸敏郎「日本音楽叢書」
* グレゴリオ聖歌の世界  著者リチャード・L・クロッカー「株音楽之友社」
* 名曲が語る音楽史    著者 村田和紀夫「株音楽之友社」
* 音楽史の名曲      編者 美山義夫「春秋社」
* 音楽の歴史(Ⅰ)    著者 マック・パンシェル「株RARCO出版局」
* 音楽の歴史(Ⅱ)    著者 マック・パンシェル「株RARCO出版局」
* 西洋音楽の歴史(Ⅰ)  著者 M・カッロッツオ「有・シーライト・パブリッシング」
* 西洋音楽の歴史(Ⅱ)  著者 M・カッロッツオ「有・シーライト・パブリッシング」
* 西洋音楽の歴史(Ⅲ)  著者 M・カッロッツオ「有・シーライト・パブリッシング」
* 日本の古典芸能1「神楽」編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 日本の古典芸能2「雅楽」編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 日本の伝統芸能1「神楽」著者 高橋英雄「小峰書店」
* 東儀秀樹の雅楽     監修 東儀秀樹「岩崎書店」
* 平安朝音楽制度史    著者 荻美津夫「吉川廣文館」
* 日本の古典芸能3「能」 編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 日本の古典芸能6「舞踏」編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 日本の古典芸能7「浄瑠璃」編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 日本の古典芸能8「歌舞伎」編集 芸能史研究会「株・平凡」
* 宇治市史         編集 林屋辰三郎「宇治市役所」
* 宇治猿楽と離宮祭    編集 宇治市歴史資料館「宇治市歴史資料館」
* ウィキペディア    


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