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                              京都・朱雀錦
(41)声明の勝林院


勝林院・本堂(市指定文化財)

 勝林院しょうりんいんは、京都市左京区大原勝林院町にある天台宗の寺院。正式には魚山大原寺勝林院ぎょざんだいげんじしょうりんいんと号する。本尊は阿弥陀如来。声明の中心地であった中国の長安の外にある山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名称に由来する。法然上人二十五霊跡第21番札所で三千院の北にある。別称として「問答寺」、「証拠堂」とも呼ばれる。古くから来迎院(左京区大原来迎院町)とともに天台声明の道場であった。

1・勝林院の歴史
1)      円仁 平安時代前期の天台宗の僧・円仁えんにん794-864)。姓は壬生、円仁名、諡号は慈覚大師 。下野国(栃木県)の生まれ。9歳で大慈寺の広智に学び、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、その最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て回復し、『法華経』書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。838年、最後の遣唐使と して渡り、9年間学ぶ。847 年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰った。新羅声明を天台声明として取り入れ、その祖となる。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。東京・瀧泉寺、山形・立石寺(円仁の遺体納葬の入定窟がある)、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。『顕揚大戒論』ほか、唐滞在記である『入唐求 法巡礼行記』(4)を著す。70歳。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。
 円仁は、法華経と密教は同等であり、円密は一致するとし、天台密教(三部密教、
胎蔵部、金剛部、蘇悉地部)を確立した。また、浄土教を一乗思想として天台宗に取り入れた。
2)寂源じゃくげん794864)円仁の9代目の弟子、勝林院の創建者。俗名は源時叙みなもとのときのぶ、宇多源氏、左大臣源雅信の八男である。 天延元年(987)頃、同年に出家した兄の源時道の後を追うように出家した。当時摂政・藤原兼家を牽制しうるほどの政治力を有した左大臣源雅信の子である時叙がなぜ出家したかその動機は不明である。出家後は比叡山に登って覚忍に師事した。 
 長和2年(
1013)に延暦寺と園城寺の対立を避ける形で大原に移りすみ勝林院を創設し、浄土信仰・法華信仰の研鑚に励んだ。義兄藤原道長を始め多くの貴族の多くの人々から崇敬を受けたて出家前の官名より大原入道少将ともしょうされた。 
3)      良忍 勝林院で声明を始めたのは、良忍である。良忍りょうにん10731132は、尾張国知多郡の領主・秦道武の子。 生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名付けられました。12歳で比叡山にのぼり、良賀僧都のもとで得度し、光乗坊良仁と名乗った。 良忍と改名したのは大原に隠棲して後のことである。 
 声明は、日本の伝統音楽の一つである(「声明の里大原」参照)。元来、声明はインドの宗教音楽で、声明は仏教と伴にインドから中国に伝えられた。「三国志」最大の英雄・魏の武王(曹操そうそう)の第4子、曹植そうしょくが「魚山」で梵天の声を聞き、後にこれに詩文を付け、整理して曲譜に纏めた。声明「梵唄ぼんばい」は、ここから始まったとされている。 
4)      大原三千院近くの地名を魚山と言う。 曹植そうしょくが魚山で遊んだ時、空中から響く梵天の声に妙音を感じ、後にこれに詩文を付け、声明「梵唄ぼんばい」を作ったとの故事に因んで魚山と名付けられたと伝えられている。 
5)1156年、比叡山延暦寺により、大原に梶井門跡の政所(三千院)が設置され、以後、来迎院、勝林院、念仏行者などを統括、管理した。
 その後、声明音律「大原流」は継承され、天台談義所、写経所になる。魚山声明のうち、勝林院は下院流と呼ばれ、来迎院は上院流といわれる。院内の坊として宝泉院、実光院、普賢院、理覚院、龍禅院などが建てられた。
6)勝林院は大原問答の行われた場所でもある。法然は、承安5年(117543歳の時、浄土宗を開き、比叡山をおりて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。以来、農民、町民、公家や武士など、あらゆる階層の人々が、法然上人のもとに、真実の仏法を求めて聴聞に足を運ぶようになった。吉水の急速な発展は仏教各宗派からの妬みをかいました。
 法然上人
54歳の時の大原問答も、それが原因です。大原問答は、天台座主が、 法然上人を大原の勝林院に呼び出し、聖道門の学者たちが総力を挙げて法論に挑んだ。聖道門側は、三論宗の明遍、法相宗の貞慶など三百余名の学者が論陣を張り、弟子二千人余りが大原に終結した。対する浄土門側は、法然上人ただ一人、身の回りの世話をする弟子が僅かに同行しただけだった。
 聖道門側が激しく切り込みます。「浄土門が、聖道仏教より勝れているとは、どういうことか」。法然上人は、理論整然と答えられます。「衆生が救われる点において、浄土門がすぐれている。なぜなら、聖道門は人を選ぶ。知恵の無い者、修行ができない者には求められない。しかし、浄土の法門は違う。阿弥陀仏が、どんな人も必ず救い採ると、本願を建てておられるからだ」。問答は一昼夜に及んだが、法然上人は、いかなる難問にも経典の根拠を挙げて論破した。
 聖道門の学者は、法然上人の高徳に伏し、“知恵第一の法然房”“勢至菩薩の化身”と讃えたのである。 感銘を受けた二千人余りの参集者も、異口同音に念仏を称え、その声が、三日三夜、山野をこだましたと言い伝えられています。
7)  鎌倉時代、1239年、隠岐で亡くなった後鳥羽天皇の遺骨は、遺詔によりこの地に運ばれ大原陵に埋葬された。遺骨は勝林院に安置され、水無瀬離宮(大阪府島本町)の建物が移され法華堂が建てられた。
8)     室町時代、1476年、内裏焼失により、第102代・後花園天皇7回忌が勝林院で執り行われ、勅使が参向する。導師は堯胤法親王による。宮中法要の御懴法講おせんぼうこうを代周修する。9)   江戸時代、1659年、第108代後水尾院中宮・東福門院が融通念仏を受ける。
 1736年、本堂は焼失した。旧本尊「証拠の阿弥陀」も失われる(寺伝)。安永年間(1772-1781)、現在の本堂、西林堂、鐘楼が再建されたという。
 1778年、現在の本堂は徳川家の寄進により、第117代・後桜町天皇の常御所を移して再建された(寺伝)
10)近代、1868年以降、勝林院の院号は、それまでの四坊総称から本堂の呼称()になる。4院の内、宝泉院、実光院が残り、2院が勝林院を交互に管理している。境内には、かつて、鎌倉時代の後鳥羽上皇(82)陵、鎌倉時代の第84代・順徳天皇陵もあったが、宮内省移管になり現在の大原陵になる。

2.建築物・庭園
1)①②本堂 
 本堂は、証拠阿弥陀堂とも呼ばれている。江戸時代、1736年に焼失した。近代以前の本堂は、院内4房の総本堂だった。1778年、徳川家の寄進により、第117代・後桜町天皇の常御所を移して再建された。(寺伝)
 正面に71間の吹き放し、周囲に縁、擬宝珠勾欄が付く。中央正面に桟唐戸、 左右に2間の蔀戸、中央3間に欄間彫刻。内部は奥行6間内外陣5間、正面1間は吹き放し、中央方1間の内陣に本尊を安置する。76間、入母屋造、正面3間に向拝付、杮葺である。しかし、再建から約250年がたち、近年は礎石の沈み込みによる建物全体の傾きやシロアリなどによる虫害が深刻化。 屋根は、軽い縋る破風である。
・屋根2018年9月の台風では屋根が破損したため、現在はトタンで覆う応急措置を施しているとのこと。
・屋根は縋る破風となっている。本屋根と向拝屋根の軒先は直線でなく凹型曲線を描いています。このような屋根を縋る破風といいます。セキレイやヒヨドリは、直線ではなく、リズミカルに上下して飛びます。このような曲線の屋根は縋る破風といいます。ところが、破風は妻側装飾板の名称で軒先の名称ではありません。

            ②本堂  
   ③証拠阿弥陀如来と脇侍


  ④お江の方(崇元源院)位牌
 
        ⑤問答台

2)③本堂室内 仏像
  丈六の本尊「阿弥陀如来像(証拠の阿弥陀)(6m)は、本堂に安置されている。旧本尊は、平安時代、長保・寛弘年間(999-1012)に康尚(?-?)作という。お堂の中央に安置されている本尊の阿弥陀如来坐像は「大原問答」の折りに奇瑞を示したことから「証拠の阿弥陀」と通称されています。
 文治2年(1168)、勝林院住職の顕真が法然をまねいて、延暦寺・金剛峯寺・東 大寺などの高僧らとともに念仏の教えについて問答を交わしました。法然は白熱する論議の中で、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できると経典を引用しながら説きました。すると本尊が光を放ち、法然の主張が正しいと証明したのです。集まっていた多くの聴衆たちは、どんな人でも等しく極楽往生できることができると知り、大いに喜んで三日三晩絶えることなく念仏を唱え続けたといいます。 江戸時代、1736年、本堂焼失とともに旧本尊は失われたという。その後、江戸時代、1737年、仏師・香雲により造立(補修)されたという。
 本尊の手元に五色の綱「善の綱(ぜんのつな)」が結ばれる。これに触れると阿弥陀如来と結縁を得られる。このうちの白綱は、葬儀の際に入口の小橋・来迎橋(未明橋)の外に置かれた棺と結われる。墓地へ納骨する際に、綱を骨壷に垂らす。これは、阿弥陀如来が極楽浄土に導くための儀式であり、平安時代から続く慣わしという。
 
脇侍の「不動明王立像」は、室町時代後期作、木造、彩色。
 「毘沙門天立像」が安置されている。左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。
 「十一面観世音菩薩像」は、かつて北野天満宮の本地仏だった。近代以降、1868年の神仏分離
 令後の廃仏毀釈とともに当寺に遷された。学業成就の信仰を集める。楠の一本造。

3)④お江の方おごうのかた(崇元源院)位牌
 お江の方は、織田信長の妹お市の方の娘であり、徳川三代将軍徳川家光の母である。お江の方の菩提が当寺に合ったようです。江戸時代初期、将軍徳川家光の時代に家光の乳母春日局の願によりお江の方(崇源院)の菩提のために本堂が再建されました。しかし残念ながら享保21年(1736年)正月の火災により本堂は焼失しました。現在のたてものは安永7年(1778年)に再建です。
4)⑤問答台 大原問答が行われた台。
 文治2年(1186年)、顕真の招請により、勝林院で法然が浄土宗義について明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたっての問答が行われた。これを「大原問答」という。顕真らが法然に12の難問を投げかけていったものであるが、法然はそれらに対して念仏によって極楽浄土へ往生できることをはっきりと示した。その時に、本尊の阿弥陀如来が光を放って法然の主張が正しいことを証明してみせたという。そのため本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事している。
5)⑥向拝柱の几帳面
  向拝柱は、三千院往生極楽院向拝の柱の面と同様、几帳面仕上げとなっていま す。この柱の面取り加工の目的は、出来上がりの角柱は、角が90で厳しく頭等をぶつけると怪我をしたり、柱も損傷されやすく、これを防止しうるため。四角柱の角を切り落とし、疑似八角とします。これを面取り加工といいます。柱の面取り加工の幅は時代によりことなります。例えば、室町時代の面取り巾は、柱の1/7、安土桃山時代は110、江戸時代は114となり、時代が進むほど面取りの幅は小さくなります。したがって、面取りの幅は建物の建設建築時期を知る時代判定に利用されています。この面取り面は、実用性だけでなく。装飾されるばあいもあります。この面取り加工は、実用性だけでなく、装飾に利用されることもあります。面と取り面に2本の溝を掘り三つの山を彫ったものが几帳面です。
 几帳面の名称は建具几帳面から来ています。平安時代の建物寝殿造の屋内は柱だけで壁がありませんでした。壁の代用にしたのは移動式の建具衝立、屏風、几帳です。几帳は1間弱の横棒に布を吊るした簡素な遮蔽具です。この立て柱の変取り加工は同様の装飾面であった湖から几帳面の名がうまれたのです。また、細かいところまで気を配りながら行動することを几帳面といいますがこの面取り面から生まれたのです。

 
       ⑥几帳面
 
       ⑦本堂前のコケ庭

 
     ⑧」鐘楼(重要文化財)
 
    ⑨宝筐印塔(重要文化財)

6)⑦本堂前庭園 
 一方、本堂前のコケ庭は見事である。前述の通り、スギゴケはコケ類のなかでは、日光光線を好むコケである。本堂前庭は立ち木もなく太陽光線が潤沢な庭であり、スギゴケに適する環境であることが原因あろうと思われる。
・向拝柱 往生極楽院向拝柱と同様几帳面である。前述
7)⑧ 鐘楼 (重要文化財)
 こちらは境内入口の右手にある鐘楼しょうろうです。鐘楼は、江戸時代の寛永 年間(16241645)に春日局(かすがのつぼね)の寄進により再建されたもの。一方、梵鐘は無名ながら時代は古く、平安時代中期のもので重要文化財に指定されています。鐘楼は境内にあり、除夜の鐘は2345分から参拝者全員つくことができる。事前の予約は不要とのこと
8)⑨宝篋印塔 (重要文化財)
 鎌倉時代後期 正和五年( 1316)、花崗岩、高さ 264㎝。宝篋印塔は本堂に向かって右側の小高い場所に建っており。正和年間の銘文を持つ宝篋印塔は、他にも数基京都市内にあるが、この時期の宝篋印塔は大型で洗練された形式を持ち、この勝林院の宝篋印塔も関西における典型的な鎌倉時代後期の様式で、完形と言うこともあって非常に美しい塔である。

 
      ⑩平井乙麿歌碑
 
     ⑪法然上人腰掛石

 
      ⑫モリアオガエル
 
     ⑬モリアオガエル卵

9)⑩平井乙麿
 境内入口の左手にある、蔵のそばに建てられている歌碑。ここには歌人・平井乙麿(ひらいおつまろ)が残した歌が刻まれていました。
 「苔の上を まろぶがごとく 流れゆく 呂律(りょりつ)の里の 弥陀の声明」意訳すると・・・、「僧侶が奏でるお経の旋律は、まるでこの境内の苔の上をゆっくりところがるように流れていくんだなぁ・・・」
10)⑪法然腰掛石
 勝林院正面向かって左手前、実光院の外塀の北東角に石はあります。法然上人は比叡山から幾度となく勝林院に通ったのでしょう。この石を腰掛石と呼ぶようになったのも村人たちがその光景を一度ならず目撃したからでしょうね 要な神社仏閣はほとんど見た、なにか他に面白いものはないか? という向きに最適な歴史的モニュメントです。京都にはいたるところにあるんですよね。というマニアは江戸時代にも。三千院が大原に移転する以前、江戸時代の有名な観光ガイドブック「拾遺都名所図会」には、大原エリアの見どころとして「法然上人 腰掛石」がしっかりと解説されていました。
11)⑫⑬モリアオガエル
 勝林院周辺はモリアオガエルの繁殖地です。水が溜まるようにした所には、毎年モリアオガエルが産卵にやってきます。今年は既に本種の卵塊1つが、水際の枝から下がっています。本種の産卵は主に、夜~朝にかけて行われていると思われます。産卵は樹上で行われることが、本種の最大の特徴です。
 上のモリアオガエルは雄。ため池に陣取って発声していました。鳴くのは雄だけです。上の写真のように、雄は、喉の「鳴のう」という器官を膨らませて鳴きます。縄張りを宣言し、雌を誘うために鳴きます。産卵が始まる前、雄は陸上や水面で発生し、雌を待ちます。雌がやってくるとすかさず背中に抱き着きます。そして、雌は雄を背負った状態で木に登り、産卵が始まります。この時、1匹の雌に10匹くらいの雄が群がることがあります。

                           3.宝泉院

 
        ⑮宝泉院三門

    ⑯外からみた五葉松 

(1)宝泉院
 ⑮宝泉院は、大原勝林院町にある天台宗の寺院。山号は魚山、本尊を阿弥陀如来とし、実光院とともに勝林院の僧坊の一つである。創建は諸説あり詳細は不明である。長和3年(1013)勝林院とほぼ同に創建されたとする説と・「声明目録」を著し、声明の大家として知られる宗快法印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建されたという説がある。
 「両院僧坊歴代記」によれば宝泉坊としての開基は幸淵(1477-1559)である。幸 淵の名が記録に出るのは元亀2年(1471)9月の後土御門院三回忌の御懴法講の記録からであり、これは書院の再建年代として伝わる年代と合致する。

(2)庭園
 宝泉院には、盤桓園ばんかんえん、鶴亀庭園、宝楽園ほうらくえんという3つの庭園を有する。日本では「庭屋一如ていおくいちじょ」という考え方がある。庭は外に出て見るだけでなく室内に居ながらにして庭を見て楽しむという考え方がある。庭は単に外で見るだけの物ではなく庭と建物は一体の物であるという考え方から「庭屋一如という。また。障子を外すと左右の柱、上の鴨居、下の敷居で額縁の形になることから、一般に額縁庭園とも呼ばれている。宝泉院では、「たちさりがたい」という意味で盤恒園と名付けられています。

 
     ⑰-1盤桓園・五葉松
 
 ⑰-2盤桓園・樹齢700年(天然記念物)

1)盤桓園⑰
 樹齢約700年の「五葉の松」は、庭園の南側に生息する。樹高は11m、枝張りは 南北11.5m、東西14mで、樹冠は、ほぼ扇形である。根回りは425cmで、地表部と、高さ1m程の部分で幹が分かれる。3本の幹のうち、中央が最も大きく、樹冠の大部分を占める。樹勢も旺盛であり、ゴヨウマツの大木として貴重なものであることから「宝泉院のゴヨウマツ」は平成3年(1991年)4月、京都市の天然記念物に登録-される。ゴヨウマツは、三上山(近江富士)を象ったとされている。高浜虚子 はこの松を「大原や 無住の寺の 五葉の松」と詠んだ。

 
      ⑱-1鶴亀庭園

      ⑱-2鶴亀庭園

2)鶴亀庭園
 ⑱-1,2盤垣園の隣には小さな池泉庭園がある。こちらは江戸中期に作庭された鶴亀庭園である。池の形を鶴、築山を亀と見立てる。鶴亀庭園には樹齢300年の沙羅双樹が植えられている。ただし、サラソウジュ(沙羅双樹)は、フタバガキ科サラノキ属の常緑高木は、耐寒性の弱い熱帯樹で、日本での生育は不可能です。日本の寺院に聖樹として植わっている木のほとんどは、本種ではなくナツツバキである。
 写真⑱-1と写真⑱-2の池の上部は築山で亀をイメージしているという。⑱-2は池の半分が写されている。池は鶴が羽を広げた所をイメージしているとのことである。

 
       ⑲-1宝楽園1

       ⑲-2宝楽園2 
 

       ⑲-3宝楽園3 

       ⑲-4宝楽園4 


       ⑲-5宝楽園5

      ⑲-6宝楽園 6

3)宝楽園
 ⓹~⑩宝楽園 新しい庭園、歴史は無いが力作である。
 宝楽園1長野県の造園業者・園冶(えんや)によって平成17年(2005)に作庭された枯山水「宝楽園」。太古の海を想像した庭園であり、日本庭園としては珍しく上から見下ろせるような苑路を設けています。
 「古事記」の国つくり神話に次のように書かれています。イザナギ、イザナミ の二神は天浮橋天の浮橋に立ち矛で混沌とした地上をまぜました。この時、矛の先から滴りたのが大島です。これが日本列島の原型です。宝楽園1は、二神が天浮橋から地上を見下ろしている情景かもしれませ、円錐形の山は富士山、富士山の左の島が日本列島。富士山の前の島はアジア大陸、その前の島はヨーロッパ大陸にみえます。
 宝楽園2 築山の周りには宝船石や蓬莱山に見立てた蓬莱石などが取り囲んでいる。
 宝楽園3 立石で組まれた三尊石は海石であり、ここでは念珠石と呼ばれている。手前の亀の甲羅のような石は亀甲石(きっこうせき)と呼ばれ、縁起の良い石と言われている。ここでは雲に見立てている。
 宝泉院4こちらには立石の上に石橋が組んでいる宝楽園5手水鉢は平石で囲まれたユニークなのも。
 宝楽園6全体として神仙世界をイメージした庭園であり、近代庭園ながらも、ここでしか楽しめない一度は訪れて見たい名園といえよう。
 庭園を、どのように見、どのように感じるかは鑑賞者の自由です。日本庭園は、世界から高い評価を戴いただいています。しかし、日本庭園を作庭できるのは日本人しかいません。昭和の小堀遠州と言われた中根金作は約300の庭園を作庭しまた、そのうちの多くが外国です。中根金作は日本にしか知られない日本の作庭家でなく、世界中に知られる世界の作庭家なのです。
 
        ⑳水琴窟

        ㉑血 天井

4)水琴窟
 客殿西側のお座敷に、理智不二(りちふに)と命名された珍しい二連式の水琴窟。濡れ縁から飛び出している2本の竹筒に耳を当て、二つの水琴窟が埋まっているのか、それぞれ音色が違います。水琴窟とは何か。
 水琴窟すいきんくつは、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつています。水琴窟という名称の由来は不明である。
 水琴窟は手水鉢の近くに設けられた地中の空洞の中に手水鉢の排水を落とし、その音が地上に聞こえるように設計される。この時、排水は滴水化して落とす。具体的な過程としては、縦穴を伝って流れ落ちた水が水滴となって空洞の底面に溜まった水に落ち、その際に発せられた音がヘルムホルツ共鳴によって増幅され、縦穴を通して外部に漏れる。
5)血天井
 坊内にある「血天井」は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いの際に徳川家臣鳥居元忠以下数百名が自刃じじんした時の血痕である。
 慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、鳥居元忠い伏見城を預けた。 家康は前夜、伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は300ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。 将来殿が天下をとるには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大阪方の大軍が包囲した時は討ち死にする他ないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れ出して欲しい」とこたえた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで分かれたと伝わる。
 家康らの出陣中に石田光成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1800人の兵力で立て籠もる。元忠は最初から玉砕を覚悟で勇猛果敢に戦い、小早川秀秋の率いる4万人の大軍と激戦し、耐え抜いたが遂に力尽き、13日後残兵数百人が自刃し落城した。家康は、元忠の忠義を賞賛し、自刃した武将の霊を慰み、供養するため血痕が残る床板を家康に縁のある京都の複数の寺、宝泉院、正伝寺、源光庵、養源院、宇治市の興聖寺等の天井板として使用した。

                           4.実光院
(1)概要
 実光院は、寂源上人が声明を伝承する為に建立した天台宗魚山大原寺勝林院の子院で、勝林院の子院には宝泉院・実光院・普賢院・理覚院・龍禅院などの僧坊が所在していましたが、実光院もその一つである。
  寂源は、平安時代に唐から声明を伝えた比叡山の僧、円仁の9代目の弟子で、宇多源氏、左大臣・源雅信の八男、俗名は源時叙ときのぶです。天延元年(987)頃、同年に出家した兄源時通の後を追うように、出家しました。エリートコースに在りながら何故出家したか動機は不明です。
 出家後は比叡山に登って覚忍に師事し、長和2年(1013年)に延暦寺と園城寺の対立を避ける形で大原に移り住み、勝林院を再興した。寂源は大原で浄土信仰・法華信仰の研鑽に励んで様々な苦行を行い、その度に毘沙門天が現れて寂源を守護したと伝えられている。また、義兄・藤原道長が度々寂源を尋ねて講説を受けたほか、赤染衛門ら多くの人々から崇敬を受けて出家前の官名より大原入道少将とも称された。万寿元年(1024年)2月上旬頃より腫物を発病、32日に死去した。

 
    ㉓-1契心園(池泉鑑賞式)1

   ㉓-2同左・庭屋一如・遠景 

(2)庭園
1)池泉鑑賞式庭園(契心園)①②
 池泉鑑賞式庭園は客殿の南側に広がる主庭園で、契心園と呼ばれている。江戸時代後期の作庭で、律川から引いた滝を落とす心字池がある。正面に石造の五重塔を乗せる築山の松は鶴を、池の島は亀を表している。旧普賢院以来現存する庭園。客殿の南側に位置する。江戸時代後期の作庭。この庭園も宝泉院の盤桓園と同様、「庭屋一如」、即ち額縁庭園となっています。
 
    ㉔-1回遊式庭園・回路1

    ㉔-2回遊式庭園・回路2 


    ㉔-3回遊式庭園・池 

    ㉔-4回遊式庭園・遠景 

2)回遊式庭園①②③④
  池泉回遊式庭園 - 旧理覚院境内は、現在の実光院客殿の西側に位置する。旧理覚院の荒廃していた庭を歴代の住職が整備したもので、金毘羅山や小塩山を借景とするために庭木を低く仕立てた開放的な庭園である。写真④では、遠景の高い山は完全に庭の一部にがになっているこれは日本庭園の特徴です。

 
   ㉔-5回遊式庭園・不断桜秋

   ㉔-6回遊式庭園・不断桜春 

3)不断桜⑤⑥
 旧理覚院庭園には樹齢100年を超える十月桜が植えられており、不断桜と銘されている。この桜は十月初旬に開花し、十一月中頃に秋の満開を迎える。冬になると開花のペースが落ち花の量が減るがわずかづつ花を咲かせます。四月初旬に再び春の満開を迎える。十月から翌年四月まで絶えずに花を咲かせ続けるため、秋には紅葉と桜、冬には雪と桜、春には石楠花と桜を同時に見ることができる。
 不断桜は、山桜とオオシマサクラと掛け合わせた園芸種です。鈴鹿市白子の原木は天然記念物に指定されています。

4)草花
 多くの山野草が地植えされているため四季折々に次のような花が楽しめます。
 

 
  ㉕-1カタクリ
 
   ㉕-2利休梅

 ㉕-3イカリソウ 
  
   ㉕-4都忘れ


   ㉖-1蛍袋 

  ㉖-2夏椿 

  ㉖-3京鹿の子 

  ㉖-4半夏生 


  ㉗-1秋海棠 

  ㉗-2大文字草 

  ㉗-3ホトトギス 

  ㉗-4紫式部 

 
    ㉘-1椿

  ㉘-2万両 

㉘-3セリバオウレン 

 ㉘-4梅花オーレン 

◎春
25-1 片栗 カタクリは、ユリ科カタクリ属に属する多年草。山地の林内に群生し、1 2枚つく
 葉にはまだら模様がある。春先に独特で見栄えする紅紫の花を咲かせたあと、地上部は枯れる
 。種子で繁殖するが、発芽から開花まで
8 - 9年ほどかかる。球根から片栗粉が作られていた。
25-2 利休梅りきゅうばい バラ科ヤナギザクラ属、・中国の揚子江下流域を原産とする落葉樹で
 、明治末期に日本へ渡来した。開花は4~6月。主張し過ぎない清楚な
花が茶人に好まれ、茶
 庭に使われることが多い。名前も千利休にちなんでおり、
「千利休の命日に咲く」という逸話
 も。

25-3イカリソウ イカリソウはメギ科イカリソウ属 の落葉多年草。低い山地の雑木林に生え、茎
 の先が
3本の葉柄に分かれて、3枚の小葉がつく。春に淡紅紫色の錨形の花を咲かせる。観賞用
 や薬用に栽培もされる。
 
25-4 ・都わすれ キク科ミヤマヨメナ属、原産地      日本 など花言葉穏やかさ別れ 短い恋 しばしの憩い また会う日まで など開花時期4月〜6月
25-5・梅は、バラ科サクラ属の落葉高木,実は食用になる。
25-6不断桜 ヤマザクラとオオシマサクラと掛け合わせた園芸種です。
25-7・石楠花 キク類ツツジ目・科・属・シャクナゲ亜属、寒冷地に分布します。
25-8・ヒメジャガ アヤメ科アヤメ属の多年草。和名はシャガより小型似ているから開花時期 
 4月〜6月
・カキツバタ アヤメ科アヤメ属の植物である。
・セッコク(石斛)、単子葉植物ラン科の植物。薬草、健胃、強壮作用などがあり、漢方薬とし
 て用いられている

◎夏
26-1蛍袋 桔梗ききょう科。 ホタルブクロ属、斑点のある・開花時期は、 6月。まさに「袋」形
 の花。「花の中に蛍を閉じ込めると、その明かりが外へ 透けて見える」ところから、提灯ちょ
 うちん
の古名がある。

26-2夏椿 ツバキ科ナツツバキ属 (落葉高木 夏6月に咲く白椿である。平家物語に出てくる沙羅
 双樹サラソウジュと表現されている樹木は、じつは本当の沙羅
双樹サラソウジュではありません。
 本当の沙羅双樹サラソウジュは「沙羅(サラ)の木」というインド原産のフタバガキ科の樹木で
 高さ
30mにもなる熱帯の常緑樹なんで、日本では生育できないため、白椿を沙羅の代用にしてい
 ます。
26-3京鹿の子 科名:バラ科、多年草、原産地:日本、大きさ:背丈2060cm横幅20
 ~
50cm、花(5~8月)、日本産の園芸種(原産種ともされますが現在自生は見られません)
 で、とても歴史があります。赤紫の花穂と掌状の葉が和の趣を感じさせます。花はシモツケに
 似ていますが草姿と葉が違います。また、シモツケソウによく似ていますが、全体的に大振り
 になります。株は自然と姿がまとまるので手間はかかりません。茶花や日本庭園に用いられま
 すが自然風の庭にもよく合います

26-4半夏生はんげしょう ドクダミ科ハンゲショウ属原産地日本、フィリピン、中国名前の通り半分
 白くなって化粧しているようになる頃とも。多年草です。ドクダミと同じく地下茎で増えるの
 で、地植えにするとよく広がります。水辺や湿地に自生していることから、湿潤な土を好みま
 す。葉が美しく白くなるには日光も必要なので、日当たりの良い場所~明るめの半日陰くらい
 の場所で育てるのに向いています。背丈は
50cmから1mくらいになる大型の宿根草で冬期は地上
 部分はなくなります。

26-5河骨コウホネ スイレン科コウホネ属に属する水草
26-6七段花しちだんか ヤマアジサイの変種。六甲山の特産種。
26-7山紫陽花 ガクアジサイは日本原産の原種、ホンアジサイはガクアジサイを改 良した園芸種
 。ヤマアジサイは、ガクアジサイでもホンアジサイでもない

26-8睡蓮 スイレン目・科・属、ハス属と異なりレンコンはできない。
◎秋
27-1秋海棠しゅうかいどう シュウカイドウ科シュウカイドウ属(ベゴニア属)に分類される多年
 生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み。ヨウラクソウ(瓔珞草)、相思草
 、断腸花、八月春とも呼ばれる。

27-2大文字草 イモンジソウ(大文字草 )は、ユキノシタ科ユキノシタ属に分類される多年草の
 1
種。和名は、花が「大」の字に似ることからついた。

27-3ホトトギス ホトトギスは日本の特産種で主に太平洋側に自生する多年草です。日陰のやや
 湿った斜面や崖、岩場に見られ、葉のわきに、直径23cmで紫色の斑点のある花を13輪上
 向きに咲かせます。茎はふつう枝分かれせず、まっすぐか斜めに伸び、場所や地域によっては
 弓なりに垂れることもあります。古くから栽培されているシロホトトギスのほか、斑入りの園
 芸品種も流通しています。

27-4・紫式部 ムラサキシキブ(紫式部)はシソ科の落葉低木である。日本各地の林などに自生
 し、また果実が紫色で美しいので観賞用に栽培される。

27-5ツワブキ(石蕗 )は、キク科ツワブキ属に属する常緑多年草である。海岸近くの岩場などに
 生え、初冬に黄色い花を咲かせる。若い葉柄は食用になる。観賞用に
庭園に植えられることも
 ある。

27-6不断桜 前述
27-7梅擬き ウメモドキ(梅擬き[3]、梅擬、学名:Ilex serrata)とは、モチノキ科モチノキ属の
 落葉低木。和名の由来は、葉の形がウメの葉に似ていることからこの名がある。

◎冬
28-1椿ツバキ ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹
28-2万両・千両・百両・十両・一両 万両・千両・百両・十両・一両の実は、何れも秋から冬に赤熟
 し、
その赤い実も小粒です。そのため古来、これらの赤い実を付けた植物は、お正月の縁起物
 としてもてはやされ
てきました。一両はアカネ科、」十両・百両・万両はヤブコウジ科、千両
 はセンリョウ科です。

28-3セリバオウレン(芹葉黄連)は、初春、雌雄異株の白い八~十弁花を咲かせる ンポウゲ科オ
 ウレン属の常緑多年草です。この白い花弁のように見えるものは、萼です。
葉は23出複葉の
 根状葉で、小葉はセリ
()の葉のように深裂します。根茎から花茎を出して開花し、 新しい葉
 を出しますが、ユズリハ
(譲り葉)  と同様、新葉が出ると古い葉が枯れます。
28-4バイカオウレン(梅花黄連)日本固有種の キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属バイカオウ
 レン種の常緑多年草です。
東北南部~九州、四国の山間地の林縁に自生します。 糸状の茎が地
 下を這って繁殖し葉を出します。
葉は5葉でウコギ(五加木)の葉に似ていることから、別名
 でゴカヨウオウレン(五加葉黄蓮)と呼ばれます。
春、細長く伸びた茶色い花茎先に梅花のよ
 うな白花を咲かせます。
しかし、この白花のように見えるのは萼で、本当の花は中央にある小
 さな黄色いさじ状のものです。
花後には船の形をした袋果がなります。


5.大原陵

 
    ㉙-1大原陵表示板

       ㉙-2大原陵 

 承久の乱で配流となった後鳥羽上皇と順徳天皇親子の」陵。 鎌倉時代23年間上皇として院政を敷いた後、1223年の承久の乱で鎌倉幕府の執権北条義時に敗れ隠岐に流されたまま」なくなった第82代後鳥羽上皇の十三重塔とその皇子で佐渡へ配流となった第84代順徳天皇の二つの陵墓がある。










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