京都と寿司・  朱雀錦
           (42)「声明の来迎院」

 
            来迎院内陣三尊像

1.来迎院
(1)歴史
 平安時代前期、仁寿年間(851854)、慈覚大師円仁(794864)は、天台声明の修練道場として開いた。中国天台山を模して堂塔を建立したとつたえられるが、その後、衰微する。
 1094年良忍が来住し、天台声明を確立し大原魚山流とした。以後、大原は勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を持って付近一帯は「魚山大源寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。
 1109年、聖応大師良忍により再興され、来迎寺と称される。この頃、薬師、釈迦、阿弥陀仏の三尊を安置し、三尊院ととばれたと言う。
 1156年比叡山延暦寺は大原に梶井門跡の政所を設け、以後、来迎院、勝林院、念仏行者などを統括、管理した。 
 室町時代、1426年、焼失した。
 永享年間(14291441)再建される。
 天文年間(15321555)、改修される。現在の本堂が建てられた。江戸時代、梶井門跡支配となり、朱印地69石を領し、諸堂も建てられた。近代、塔頭の浄蓮華院、蓮成院、善逝院、遮那院などが独立し、総称としての来迎院は、現在の本堂にのこされた。
門跡支配となり、朱印地69石を領し、諸堂も建てられた。近代、塔頭の浄蓮華院、蓮成院、善逝院、遮那院などが独立し、総称としての来迎院は、現在の本堂にのこされた。

 
                来迎院本堂と前庭

1)円仁 
 平安時代前期の天台僧円仁えんにん794864)。属性は秦、号は光乗房、諡しごう は聖応しょうおう大師。下野しもつけ国(栃木県)に生まれた。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事し、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒をうける。比叡山で「12年の籠山行ろうざんぎょう」(「千日回峰行」に並ぶ比叡山の難行)に入る。5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾げあんご(修行僧の集団生活による一定期間の修行格)講師、。東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修くしゅれんぎょう(熱心に仏道修行を続けること)を続け、夢中に霊薬を」得て心身回復し、法華経書写を初め、」小塔を建て写経を収めたという。横川(よかわ)の中堂を建立した。836年、837年、渡唐に失敗、838年、最期の遣唐使として渡。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し国清寺で学ぼうとしたが許可が下りないかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青龍寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法(「蘇悉地羯羅経そしつじからきょ」うの略)を授かる。また、悉曇しったん(梵語)、止観しかん(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。
 854年、第3世天台座主に着く。
862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。9年6か月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。江戸・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。60歳。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。

 
       来迎院略縁起
 
       魚山大原寺

2)良忍 
  平安時代後期の融通念仏宗開祖・良忍りょうにん1073-1132)。追諡は聖応大師。尾張国(愛知県)に生まれた。1083年、比叡山に入る。比叡山の東塔檀那院実報房辺に住した。堂僧となり、良賀に師事、出家。禅仁・観勢から円頓戒脈を相承する。山門派(延暦寺)と寺門派(三井寺・園城寺)との対立を嫌い、山を下りる。1094年、大原に隠棲し、大原・勝林院の永縁らに従い、声明梵唄を学ぶ。その後、常行三昧堂から念仏と読経(声明)を切り離して独立させ、天台声明を統一し大原声明を完成させた。1117年、融通念仏を創始した。1127年、鳥羽上皇(74)の勅願により、河内平野に修楽寺の別院(大念仏寺前身、日本初の念仏道場)を開いた。最期は来迎院で没したという。天台大原魚山声明中興の祖。60歳。
  融通念仏は阿弥陀仏の夢告により、「一人の念仏が万人の念仏に通じる」とした。念仏唱える者は自分だけではなく万人のためにも唱え、万人が一人のためにに唱えることで念仏の功徳が高まると説いた。
③来迎院略縁起(全文)
 当院は天台宗に属し文徳天皇仁治年間(1851)に天台宗第三代座主慈覚大師円仁の草創にはじまり山号を魚山と称するのは中国五台山の乾偶にあり一峰の名に由来する。中国仏教の声明業の本模であった。慈覚大師が、中国の唐の時代に五台山に学び、親しく詣でて呂律の妙音を学び、帰朝後比叡山を五台山とみなし、その乾(北西)に当たるこの地を号して、声明音律を宣揚せんよう(公表)せられ梵唄声明業の発祥地とされた。その後、喜保2年(1095)聖応大師良忍が声明大原魚山派を興しました。
④魚山大原寺ぎょざんだいげんじ 
 魚山は山号である。この名は中国の五台山声明の中心地の名に因んでつけたものである。この山は昔は上院来迎院と下院勝林院とからなり大原寺と称した。大原の名は中国五台山の近くの大原だいげんという都市の名からとったものである。現在の大原の地名は寺の名前から呼ばれるようになった。
 中興の聖応大師以後の隆盛期(鎌倉時代)には、両院の坊の数は49院に及び、一里四方の現境内を持ち初年まで続いた。宗教法人律が改定されるにおよんで一山が解散し、それぞれ独立寺院となった。現在は、来迎院・勝林院に各支院二院と三千院内に往生極楽院を残しいる。し天仁元年鳥羽天皇の勅を奉じて来迎院の堂宇を建立され、その宣揚されてより天台主の梵唄声業の本山として又修行道場として今日まで法燈をまもられている。
 魚山声明を確立した良忍は本願上人と呼ばれ、来迎院を上院本坊として多くの坊が統率されました。これに対して勝林院が下院本坊となります。

 
       ⑤本堂蔀戸しとみど 
 
       ⑥本堂内陣

 
      ⑦本堂外陣肖像画1
 
     ⑧本堂外陣肖像画2

1)本堂⑤
  本堂は、三間四面の入母屋造り、妻正面、正面三間とも蔀戸しとみど、屋根は銅板葺、天文2年(1533)再建と伝わる。
和様建築わようけんちくとは、鎌倉時代に中国から伝わった建築様式(大仏様、禅宗様)に対して、それまで日本で寺院建築に用いられてきた寺院建築の様式を指す。単に和様わようとも呼ばれた場合には和様建築のことを指す場合もある。もともと寺院建築の様式は中国から伝わってきたものであるが、平安時代の国風文化の時代に日本人好みに洗練されていった。大寺院では規模の大きな仏堂もあるが、住宅風に柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間の仏堂も造られた。鎌倉時代に中国から新たな様式が伝わってくると、従来の様式との違いが意識されるようになり、やがて和様という言葉が生まれた。
  中世においては、禅宗寺院では禅宗様、密教寺院には和様(一部に大仏様を取り入れた折衷様)と宗派と建築様式の区分もあったが、近世に入ると様式の折衷化が進み、密教寺院に一部禅宗様の要素が取り入れられることもあった。
  和様の特徴
 ⅰ.柱の上部同士を補強するため、長押を打つ
 ⅱ.組物の間に蟇股かえるまたまたは間斗束けんとづかという部材を置く
 ⅲ.
 ⅳ.柱は太く、天井を低めにしたものが多い
 ⅴ.床を張り、縁側を造る
 ⅵ.床下に亀腹を築く
2)来迎院内陣 三尊像及び両脇侍安置①⑥
 本堂須弥壇。
  堂内中央に四本柱で内陣を構成し、上段須弥壇に三尊を、下段に脇侍の不動明王と毘沙門天をお祀りしています。
 中尊 「薬師如来坐像」89.7 (重文)木造寄木造漆箔、平安時代後期作右脇侍「阿弥陀如来坐像」59.4㎝(重文)木造寄木造漆箔、平安時代後期作左脇侍「釈迦如来坐像」 58.8㎝(重文)木造寄木造漆箔、平安時代後期三体とも国の重要文化財の指定をうけています。中尊が際立って大きく、創建当初から本尊であったと言う。通常三尊は、本尊に対し格下の仏が脇侍になるのが普通である。この三尊は何れも如来であり、三体とも同格と考えるべきでなかろうか
 手前向かって右、毘沙門天立像。左、不動明王立像。
 須弥壇上部天井は繰上げ天井で天と側面に絵が描かれた非常に印象的な荘厳です。内陣の天井は、二人の飛天のが描かれている。
3)本堂外陣肖像画⑦⑧
  本堂後ろの外陣には、普段は良忍により建てられた如来蔵に納められている寺宝の曼荼羅、肖像画が期間限定で展示されています。
 ⑦本堂外陣肖像画1では左は慈覚大師真筆の両界曼荼羅、中央は浄土曼荼羅・弥陀来迎三尊
  、
右は五仏頂曼荼羅です。
 ⑧本堂外陣肖像画2では
  左端は「融通念仏宗開祖・聖応大師」、その右「天台浄土教開祖・恵心僧都」中央「比叡山横川中興・元三大師」、右端「日本天台宗開祖・伝教大師」の肖像画です。


      ⑨来迎院正門 

   ⑩鐘楼(京都市指定文化財) 

 
     ⑪良忍墓(重要文化財)

       ⑫同左 


      ⑬獅子飛び石 

       ⑭鎭守 

4)来迎院正門
  三千院門跡と刻まれた石柱前の魚山橋を渡り、呂川ろせんに沿って更に上流(東)へ向かう。歩き始めてすぐに朱塗の門にであう。この門は三千院門跡の正門に当たる「朱雀門」で、不断は閉ざしている。さらに200mほど歩くと魚山大原寺上院・来迎院の山門となる。
  門の様式は医薬門。2本の」本柱は太く、お城の門のように頑丈だ。屋根は銅板葺で棟は瓦葺と変った屋根である。
 薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食いやぐい」からきたと言われています。また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。
 構造は、基本は前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支えます。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。
5)鐘楼 (京都市指定文化財)
  鐘楼しょうろう、しゅろうは寺院内において梵鐘を吊るすために設けられた建物をいい、鐘堂、鐘つき堂、鐘楼堂とも言う。また、梵鐘は撞くかねであり撞楼しゅろうという字をあてることもある。室町時代、永享7年(1435)制作。
 鐘楼しょうろうとは、寺院や教会などにおいて鐘を設置するために設けられた施設。ただし、「鐘楼」と称していても東洋の鐘と西洋の鐘には様式に違いがあるほか、建築学の文献等では教会建築のカンパニーレ(鐘塔)は鐘楼と別に立項されることもあり様式的には違いがある。
 奈良時代の伽藍では経蔵と東西に向き合うような形で建てられた。しかし平安時代以降になると伽藍での配置はさほど厳格ではなくなった。
 室町時代になると、山門と一体化し、鐘門となった事例もある。
 鐘をつくことは供養であるとされ、中宮寺の天寿国曼荼羅に入母屋造の鐘楼がある。その中には鐘が吊るされ、人が撞木でそれを撞くところが描かれている。古い例に法隆寺西院のものがある。切妻造、腰には組こうらんがめぐらされている。のちに、法隆寺東院、新薬師寺、石山寺のような袴腰造、東大寺のもののようなふきはなちのものも現れた。
 重い鐘を吊り下げることを前提とした建物のバランス構造となっていたため、戦時中に供出された鐘楼では重い石を吊り下げたとの話もある。
6)三重塔(重要文化財)
 ⑪⑫聖応大師良忍上人の墓という三重石塔、鎌倉時代後期作、基礎、方形の軸、笠が別石で積み重ねられている(良忍墓)。高さ2.82m、花崗岩製鎌倉時代前期作。(重要文化財)
 良忍は、鳥羽上皇の勅願により河内に日本初の念仏道場を開き、後に融通念仏の総本山の大念仏寺となりました。最期は来迎院で亡くなりここに葬られています。
 江戸時代中期の安永2年(1773)「聖応しょうおう大師」の謚号を賜りました。
7)獅子飛び石
 良忍の声明を聴いた獅子が、あまりの美しさに陶酔し、境内を飛び回り、石になったという石。現在の獅子飛石は石ではなく三重の塔です。

 
        ⑮地蔵堂
 
     ⑯聖応大師八百歳諱


     ⑰如来蔵(経蔵) 

         ⑱収納庫 

8)鎭守社
  鎮守神ちんじゅがみは、特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神であ る。現在では、氏神、産土神と同一視されることも多い。鎮守神を祀る社を鎮守社いう。中国の伽藍神に起源を持つといわれる。日本の寺院においても、仏教が伝わり、神仏習合が進む中で、寺院守護のための神祇が祀られるようになり、のちに寺院以外の建造物や一定の区域の土地にも鎮守神を祀るようになった。
 現在では、鎮守神はその土地に住む神(地主神)だと考えられることが多いが、元をたどれば、鎮守神は、地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神である。つまり、人間がある土地に人工物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀ったのである。そして、地主神は鎮守神に従順に服属し、その活動を守護・補佐することが期待された(ときには地主神が抵抗し祟りを起こすこともあった。しかし、時代とともに鎮守神の本来の意味は忘れられ、地主神との混同が起こり、両者は習合する結果となった。こうした鎮守神は、寺院・邸宅・荘園・城郭などに祀られ、村落においても祀られるようになった。
9)地蔵堂
  インドに起り,中国を経て日本にもたらされたという地蔵菩薩の信仰。地蔵は地獄に落ちて苦しみにあう死者を,地獄の入口で救済すると信じられることから,地獄の入口を村境にあてはめて,境の神の信仰と結びついた。また地獄に落ちる者は,在来の信仰との習合においては,主として祀ってくれる子孫をもたない無縁の霊であって,未婚のまま死んだ人とされる場合が多かったために,地蔵と子供の霊とが結びつき,地蔵を子供の神様とする理解が強くなった。地蔵が童形で現れ,田植えその他の農耕の手伝いをしてくれたという伝説や,子供の病気や安産の守護神として広く信仰されるのは,このような考え方に基づく。境の神などとの混同から,他界との境に立つとか,文字どおり地下にいるというような理解もあって,「地蔵浄土」「猿地蔵」などの昔話に,主要な役割を果すことになった。
  明治時代、役目の終わった地蔵菩薩像が特定の寺院に集められた、この寺蔵堂の
地蔵像もその種の物とかんがえられる。
10)聖応大師八百歳諱 御廟の手前にある石碑です。聖応大師生誕800年を記念して、昭和6年(1931に建立されました。「聖応大師八百歳諱」と記されています。
11)如来蔵
 良忍が経蔵として創建したと伝えられている。蔵内に、来迎院如来蔵聖教文書類{如来院の如来蔵(経蔵)に伝来した聖教しょうぎょう、文書もんじょ類の一括で、良忍自筆本も含む}(重要文化財)が諸像されていた。
12)収納庫

2.音無滝及び周辺
(1)音無滝
 来迎院から約300m北に進むと音無滝おとなしのたきがあります。音無滝は三千院さんぜんいん裏山にあたる標高約681メートルの梶山かじやまを源とする律川りつせんに形成された落差約20メートル・幅34メートルの分岐瀑です。律川は梶山を源とし、その後西流し、国道367号の呂川橋手前で呂川(りょせん)右岸に注いでいます。
 音無の滝は声明の天才的演奏家であった聖応大師(良忍)が声明の練習をしていたとき、滝の音が音律に同調して音が消えて無くなったと言われ、この滝を「音無」と名付けたと言われています。
 滝は二段になって一枚岩を流れ岩の表面に水が跳ね、何とも涼しげです。
 良忍上人はじめ、家寛(後白河法皇の声明の師)、湛智など代々の声明法師は、この滝に向かって声明の習礼をさされたという。初めは声明の声が滝の音に消されて聞こえず、稽古を重ねるに従って、滝の音と声明の声が和し、ついには滝の音が消えて、声明の声のみが朗々と聞こえるようになったと言う。それで音無の滝と名づけられたと言われている。
途中、小さい滝があるためそこが音無の滝と勘違いしたまま帰る方も多いようですので間違いないように奥まで進んでください。観光地からほど近く、訪れる人も少ないのでゆっくりと癒しの時間が欲しい方におすす

 
                    ⑲音無滝

   

(2)浄蓮華院(宿坊)
 耒迎院塔頭の一つ。院内には、人間国宝・香取正彦氏の鋳造の鐘があり、自由に突くことが出来ます。鳴り響く鐘の音は雪の大原に響き渡っていくようで、澄んだ音色が染み渡ります。
 大原にある宿坊です。お勤め、法話は自由参加。座禅、写経なども出来ます。料理は新鮮な山の幸を使った精進料理が頂けます。
(3)勝手神社
 勝手神社 勝負運・学問の神様・合格祈願。吉野勝手神社(奈良県吉野町)を総本社とする 全国28 勝手神社の1社 勝負運・学問の神様・合格祈願 創建は不明。白山権現を合祀している。
 鳥居は台輪式、笠木はW式タイプ、笠木と島木は共に反り増しあり襷墨、額束と扁額あり。 勝手神社は、来迎院を建立した良忍上人が天治2年(1125)に声明道場の守護神として大和多武峯より勧請したと伝わる。
 祭神は勝手明神かってみょうじんを祀る。三千院、来迎院、勝林院など魚山ぎょざんの守護神として崇敬された。


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()  売炭翁石仏ばいたんおうせきぶつ              音無の滝
  律川りつせん沿いに作られた、2mほどの大きな売炭翁石仏がある。 鎌倉時代中期の石仏で、欣求浄土を願ったこの地の念仏行者たちによって作られ、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物になっている。
 売炭翁は、唐の白居易はくきょいの詩の題名。 炭焼きの老人が苦労して焼いた炭を、宮中の役人に勅命だといってただ同然でかいとられてしまうことを詠じた風刺詩。 このあたりは小野山の中腹に位置し、昔は角を焼く炭竈があったという。
() 服部神社 
服部神社は、勝林院町の鎮守社で、1月に修正会、10月に御湯、11月にはお火焚行事が行われる。
服部天神宮はっとりてんじんぐうは、大阪府豊中市の南部、服部に鎮座する神社。少彦名命と菅原道真を主祭神として祀る。関西では「足の神様」として知られている。
 由緒
 御鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。この頃はまだ、小さな祠だったという。しかし允恭天皇の御世に服部連を賜姓されたのは秦氏ではなく伊豆国造族の麻羅宿禰(麻羅足尼)であり、その祖神が少彦名命と見る説もある。
 783年(延暦2年)、藤原魚名は大宰府に左遷され筑紫国へ向かったものの、当地で病没。祠の近くに葬られた(「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が今も境内に残る)。約100年後の延喜元年(901年)、菅原道真が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めるまま、路傍の祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻して任地へ辿り着けた、との言い伝えがある。菅原道真の没後、天神信仰の高まりと共に当社にも菅原道真を合祀することとなり、新たに堂宇が建立された。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、菅原道真の故事にちなみ「足の神様」として崇敬を受け
(6)安積積石垣㉔㉕
 三千院周辺は石垣が多い。 三千院境内を取り囲む石垣、その延長線上にある来迎院の石垣、律川りつせんに架かる未明橋を越えた実光院の石垣これらは全て穴太積石垣とされている。
  穴太積石垣は、滋賀県大津市坂本近くにある穴太の石工集団(穴太衆)が積んだ石垣のことを言うが、基本的には自然石を積み上げる野面積である。
この穴太衆を一躍有名にしたのが、織田信長が築いた安土城を穴太衆が積んだと言われたことに始まる。 しかし、近年では安土城の石垣すべてが穴太衆であると言う考え方は否定されている。 安土城の石垣は非常に多様な積み方がなされ、特定の石工集団だけで石垣を積ませたと考えられない。 従って穴太衆も関わって積まれたというのが妥当である。
 石垣は加工程度によって、野面積み・打ち込みつぎ・切り込み接ぎの3つに分けられる。
    野面積のづらづみ 
  自然石をそのまま積み上げる方法である。 加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士が噛み合っていない。 そのため隙間や出っ張りができ、敵にのぼられやすいという欠点があったが排水性に優れており頑丈である。 
 技術的には初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代のことである。
 野面積の一種として穴太積がある。 穴太積の極意は“石の声を聞く”だそうで、つまり“石の一つが収まるべき所におさまる”ということで石に一つの形状を考慮しながら積んでいくのが穴太積だという。
  ② 打ち込み接ぎ 表面に出る石の角や面を叩き、平たくした石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方式である。 関ヶ原の合戦以後、この手法が盛んに用いられた。 野面積より高く、急な勾配が可能になる。 
  ③ 切込み接ぎ    方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法である。 慶長5年(1600)以降、隅石の加工から徐々に平石にまでわたるようになり、江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになった。 石材同士が密着しているので排水出来ないため排水口が設けられる。

3・文化財
  その他の文化財には、下記がある。
 ()
  最澄(伝教大師)の得度や受戒に係わる文書類3点を一巻としたもので、最長の伝記資料
として極めて貴重なもの。 東京国立博物館に寄託。
 () 日本霊異記中下2帖(国宝)
  平安時代後期にさかのぼる日本霊異記の古写本で、同書の中・下巻の現存最古本として日本文学史上貴重なものである。 京都国立博物館に寄託。
 () 来迎院如来蔵聖教文書類(重要文化財) 来迎院の如来蔵(経蔵)に伝来した聖教しょうぎょう、文書もんじょ類の一括で、良忍自筆本を含む。
 () 三重石塔(良忍の墓とされる)[重要文化財]

 

 

 









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