京都と寿司・朱雀錦
(43)寂光院と平家物語


寂光院本堂

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所在地 京都市左京区大原草生町676
宗派等 天台宗尼寺 清香山玉泉寺寂光院 開基 伝・聖徳太子

                A.寂光院
1.歴史
 寂光院は寺伝によれば、推古天皇2年(594)に聖徳太子が父帝の用明天皇の菩提を弔うために
、自作の地蔵菩薩像を安置して建てた寺という。 初代の住職は聖徳太子の乳母である物部守屋
の娘・玉照姫が出家して恵善比丘尼えぜんびくにを名乗って務めたと「寂光院の寺宝美術」に記
されている。 しかし、「聖徳太子伝私記」等に記されている聖徳太子建立の46カ寺に寂光院の
寺名は見当たらないという。
 寂光院の創建については、もう一つの説がある。 ずっと後の江戸時代に発行された松野元敬
著「扶桑京華志」(寛文5年・1665)や水雲堂孤松子著「京羽二重」(貞享2年・1685)に寂光
院の開基は良忍と記されている。 良忍は12歳で比叡山にのぼり、東塔檀那院の良質について得
度した。 しかし、23歳のころ大原に隠棲し、来迎院と浄蓮華院を創建した。 仏教音楽の声明
を大成すると共に阿弥陀如来の霊告を受けて、一人の念仏が万人の念仏と相、即ち融通するとい
う融通念仏を唱え、名帳みょうちょう(大念仏に参加した者の名を記した帳面)を携えて広く人
々に勧進した聖であった。 研究者の中にはこうした良忍の足跡から、寂光院は来迎院配下の子
院として創建されたのでないかと推測する人がいる。
 平安時代の大原の里一帯は朝廷の牛馬を飼育する「大原牧」が置かれ、大原女が洛中へ売りに

行く炭や薪などを特産品とする近郊村であった。 と同時に比叡山の麓に位置する別所として、
俗化した比叡山を嫌う僧侶が山を下り仏道修行する隠遁地となっていた。 また大原は極楽往生
を願う貴族の草庵や坊が築かれていた地でもあった。
(1) 建礼門院と寂光院
  建礼門院が寂光院と深いかかわりを持つのは、平宗盛・清宗親子と共に源氏方に生け捕りと
 なり、都に戻ってきてからである。 国母として栄華の頂点に立った時からわずか5年、悲嘆

 のどん底にうち沈んで、建礼門院は文治元年(
1185)4月27日、京都に帰って来た。 落ち
 く間もなく出家することになり、5月1日、女院は東山の長楽寺で阿証房上人を戒師として

 をおろし、布施として安徳天皇が今はの際まで着ていた形見の直衣のうしを上人に贈ったと
「平
 家物語」は伝えている。 しかし、吉田経房の日記「吉記」は、大原の湛斅たんごうが戒師を

 めたとしてある。 湛斅は良忍の弟子で来迎院の念仏聖であった。 女院が出家した後の6

  21
日、捕虜となっていた宗盛と清宗が近江国で斬首された時、その場に臨んで二人に欣求浄
 を説くなど、平氏とかかわりのある僧であった。 女院と寂光院を結びつけたのも、一説に

 光院の開祖と言われる良忍の弟子湛斅と推測する者がいる。

  全てを失って帰洛した建礼門院の暮らしをかろうじて世話し援助したのは、女院の妹である
 藤原隆房の北の方と藤原信孝の北の方であった。 ところが7月9日、大地震に襲われ住む家

 も不自由となり、女院は都から離れ人目のつかない山里でひっそりと余生を送りたいと願うた
 。 
すると仕えていた女房が大原の寂光院を勧めた。 この女房は最後まで女院に付従って忠
 節
を尽くした阿波内侍あわないじであったろうか。
  阿波内侍は、語り本系の「平家物語」では少納言入道信西しんぜいの娘、読み本系の「平家物
 語」
では信西の子貞憲の娘となっている。 信西は保元の乱で後白河法皇の総師として勝利を
 おさ
め、乱後の論功行賞で平清盛を厚遇し、子の成範と清盛の娘を婚約させ清盛一家と親密な
 関係
にあり、建礼門院と阿波内侍は深い縁で結ばれていた。
(2) 大原御幸
  建礼門院は、この年秋に寂光院の庵室に入った。 女院が乗る御輿の世話をしたには藤原隆
 房の北の方であった。 一冬越して翌年の文治2年(
1186)4月、ひっそりした山奥の寂光院
 に後白河法皇がお忍びで御幸された。

  仏教説話集「閑居友」の「建礼門院女院御庵に忍びの御幸の事」によれば。
  後白河法皇は平安末期に30余年も院政を敷き勃興する武家と対決・妥協を図りながら激動の
 時代に公家政権を維持し続けた。 平清盛との関係は、最初、極めて親密で、後白河法皇と清

 盛の妻時子の妹、平滋子を溺愛し、その間に憲仁親王がうまれた。 法皇は清盛と計り六条天

 皇を退位させ憲仁親王を即位させた。 その即位した高倉天皇に建礼門院徳子が後白河法皇の

 養女となって入内したのであった。 しかし、清盛の勢力が強まると、法皇と清盛の関係は、

 親密から対立に変わり、ついに清盛は法皇を幽閉する事態に発展する。 

  やがて、法皇は源頼朝に平家討伐を命じ、壇ノ浦合戦で平家一門を滅亡させた。 合戦から
 一年後、かろうじて生き残り、大原にひっそり暮らす建礼門院を、討伐命令者の法皇が残酷に

 も訪ねたわけである。
  建礼門院の庵室には粗末な身なりの老尼がいるばかりだった。 法皇が「女院はどちらに」
 と尋ねると「山に花摘みに」と答えた。 法皇は身分の高い女院自らがどうして花摘みなどに

 と驚くが、老尼は「仏の国に生まれようと願う出家修行が目的だから当然のこと」という。
  女
院の住まいの様子を見れば、一間には阿弥陀如来と観音・勢威両菩薩の三尊仏が安置され
 、も
う一間には寝室らしい、粗末な紙の衣などが置いてあった。 襖障子に経文が書かれ、机
 には
読みさしの経典が広げられて、かって宝物に囲まれた宮中とは比べようもない有様であっ
 た。 

  法皇があちらこちら見て回るうちに、上の山から黒染めの衣を着た尼二人が崖道を伝いなが
 ら降りてくる。 その一方が建礼門院であるが、女院は花籠を腕にかけ、岩ツツジの束を手に

 持っている。 だが女院はなぜ花を摘みにでかけたのであろうか、花を何に使おうというのだ

 ろう。この時代、仏前に水を供えることはあっても、花を供えることはあったとは言えない。
 やはり花を手向けることで弔いの気持ちを深く表していたのであろう。 花は建礼門院の気
 ちを表す手だったのであろう。

  やがて山から尼二人が降りてきた。 あまりの変貌ぶりに一同茫然となってしまった。
  女院は、法皇と対面し、法皇が「さぞかし何事も不如意ふにょい(経済的に苦しい)なことだろ
 うね」などと、さまざまに問いかけたのに対し、女院は「どうして不如意なことや苦しいこと

 がありましょう。 すべて素晴らしい仏道への善き導き手でございます」と答え、平家一門の

 都落ち以来の変転ぶりを語った。 
  都に構えた一門の屋敷を焼き払った時、立ち上る煙を見て涙にくれたこと。 落ち延びた屋
 
島では、宮中とは打って変わって弓矢ばかりに囲まれた生活だったこと、そして行方知れぬ海
 上で最後に恐ろしい武士たちが乗り込んできたことを話した。 壇ノ浦の場合はまさに修羅

 、あるものは三種に神器の神璽を捧げ、ある者は宝剣を持って安徳天皇のお供をすると海に

 え、生き残った者も情け容赦なく目の前で斬られ、ある者は縄に縛りつけられた。 そうし

 中で女院の母二位尼は、安徳天皇を抱き、まず伊勢神宮を次いで西方を拝んで入水したが、

 もに海に身を投げようとした女院に「女人は殺されることはない。 生き残って安徳天皇と

 の後世を弔ってくれ。 親子の関係のある者の弔いは、願いかなうものだ」と押しとめた。 
  「ですから身を捨てて後世を弔えばきっと諸仏諸菩薩は願いを聞いて下さいます。 これこそ
 仏道の善き導き手です」と女院は法皇にかたった。 そうするうちに月傾き、お供の者達は涙

 にぬれつつ帰っていった。
  建礼門院のあまりに哀れな庵室生活の窮状を救うため、法皇は大原御幸があった翌年の文治
 3年(
1187)2月、源頼朝は平宗盛の旧領摂津国真井、嶋屋両庄を贈って体面を保てるように
 はかった。
() 女院崩御
  女院崩御に関して「平家物語」は、女院は寂光院で建久年(1191)春2月紫雲たなびく中阿
 弥陀如来の手にかけた五色の糸に導かれて浄土に旅立ったとしている。 それに伴い寂光院本
 堂後ろの山手には「建礼門院大原西陵」があり、翆黛山すいたいざんの麓に女院に仕えた女官(阿波
 内侍、大納言佐局だいなごんさすけのつぼね、侍部卿局じぶきょうのつぼね、左京太夫、小侍従局)たちの墓という五
 基の小塔がある。 しかし、読み本系「平家物語」の
68歳崩御説や角田文衛氏の女院は数年大
 原住い後、妹婿藤原隆房所管する白河の善勝寺に移り
69歳で崩御した説があり、事実はこれに
 近いと考えられている。
4) 建礼門院崩御後の寂光院
  寂光院の「歴代大比丘尼譜」によれば、13世紀前半は建礼門院の官女が5代妙境、六代妙照
 、七代妙圓と次々に住持を務めたという。 しかし、七代妙圓の没後、次の八代妙覚の没する
 鎌倉幕府滅亡の翌年までに約90年もの隔たりがあり、さらに八代妙覚の没年と応仁の乱の最中
 に当たる九代等源の没年との間には約140年もの間があり、興廃が繰り返されていたと考えられ
 る。
  室町時代後半になると寂光院は荒廃していたらしい。 その寺を永正10年(1513)に修理し
 たのが近江国守護佐々木高頼の五男・真玄であった。 真玄は近江国坂本の来迎院も再興し、
 弟子で妹の等春を寂光院の住持とした。 「歴代大比丘尼譜」には十代院主として等春が記さ
 れて享禄4年(1513)に寂した。 以来寂光院は来迎寺と密接な関係が結ばれ、寂光院主とな
 る比丘尼は必ず来迎寺で得度する弟子寺になった。
  戦国時代が安土桃山時代へと時代が激しく変転して行く中で、寂光院は再び荒廃した。 こ
 の壊廃の危機を救ったのが、浅井長政の長女で豊臣秀頼の母、淀殿であった。 慶長4年
 (1599)、淀殿の寄付を得て改築が進められ、4年後、見事に本堂が再興された。 今も本堂前
 に掲げる額銘に「寂光院御再興、黄門秀頼御母儀、浅井備前守息女、為二世安楽也」と刻むの
 は。このためである。 「現世と来世の安楽のため」と淀殿は述べるが、おそらく改築は自発
 的な意思ではなく徳川幕府の圧力によるものであっただろう。 再興と同時に、秀頼から寺領
 30石が寄進された。

2.境内
(1)本堂
  本堂は淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1569~1615)再興したもので桃山時代頃の建築の特
 徴を残していたとされる3間4面の、杮葺こけらぶきの本堂であったが、平成12年(2000)の不審
 火で消失した。
  再建は小松智光前院主の「すべて元通に」の言葉通り、焼け残った部材を調査し材木を吟味
 して、5年の歳月を経て平成17年6月2日に杮葺きの新本堂が慶した。 檜材で、屋根は杮葺
 き。 正面3間奥行3間で、正面左右2間と側面角間は跳ね上げ式の蔀戸しとみどで内側障子戸と
 してある。 本堂軒下の豊臣秀頼寄進と伝える扁額も消失したが、写真をもとに復元された。
(2) 参道の石段
  草生くさおの上流の畔にある寂光院の入口の木戸をくぐると苔生した風情のある参道の石段に
 沿って古紅葉の木立が続く。 紅葉に彩られた秋風の風情は格別である。 春の新緑もさわや
 かである。
(3) 山門 江戸時代
  石段を登り終えたところにある小さな檜皮葺ひわだぶきの山門で、その向こうに寂光院の小さな
 本堂がたたずむ。
(4) 汀みぎわの池
    池水に汀みぎわの桜散り敷きて波の花こそ盛りけり
  文治2年(1186)4月下旬、後白河法皇が忍びの御幸で寂光院お建礼門院の閑居を訪ねた折
 の一首である。 都から遠く離れた寂光院は、全く通う人もない奥山の里で、庭の草花が茂り
 合い、御堂の汀池の浮き草が波に揺れ、遅咲きの桜が咲き、岸辺には山吹が咲き乱れる様子を
 うたったものである。
(5) 梵鐘「諸行無常の鐘」 江戸時代 126㎝×70.8φ㎝
  本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が
 懸っている。 鐘楼の梵鐘は笠型やや高く、鐘身は銅張少なく、乳の間は4区で5列4段の乳
 を4面に配する。 前後に配された撞座つきざはかなり下方になり八葉蓮華文を鋳出する。 鐘
 身に黄檗宗16世の百癡元拙ひゃくちげんせつ撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があ
 り、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で浄土宗僧侶であった。 鋳物師は近江国
 栗太郡高野庄辻村在住の大田西兵衛重次である。
(6) 四方正面の池
  本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設ける
 。 池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のど
 こから見ても正面となるように、回りに植栽が施されている。
(7) 雪見灯篭 桃山時代  鋳鉄製 総高115.3㎝
  本堂に向かって右手にある置型の鉄製灯籠で、豊臣秀吉寄進と伝えられる。 宝珠、笠、火
 袋、脚の4区からなる。 笠は円形で棟をもたず、軒先は花先型である。 宝珠台は造出して
 いる。 火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に53の桐文様を透かし彫りにし、上方に欄間
 を設け格挟間ごうざまの煙だしとし、1面を片開きの火口扉とする。 台は円形で、台下に猫
 三脚
を付けている。 銘文はないが、制作も優れ保存も良好で貴重な鉄灯籠である。
(佐局、治部郷、右京太夫、後列が小侍従局である。

3.文化財
(1) 本尊六万体地蔵菩薩
  女院が崩じて、寛喜元年(1229)寂光院に新たに本尊の地蔵菩薩像が造られた。 大原来迎
 院宗寂如の発願によるものである。 寺ではこの本尊の地蔵菩薩を六万体地蔵菩薩と呼んでき
 た。 実際、昭和61年(1986)に地蔵菩薩が重要文化財に指定され、その後解体修理が行われ
 たとき、体内に実に3,522体の木造地蔵菩薩が納められているのが見つかった。 本尊周囲
 の堂内にも3,225体の小像が安置されており、合わせて六千体を超える小像が祀られていた
 のであり、六万体地蔵菩薩と呼ぶに相応しいことが分かった
  地蔵信仰では、地蔵菩薩は六道の衆生を教化救済する「六道能化地蔵菩薩」といって広く親
 しまれ右京太夫(平資盛側室)も「後世を弔ってほしい」と依残した平資盛を偲び、資盛の古
 い手紙を文字が見えないように裏打ちして六道で衆生の苦しみを救う六種の地蔵を描き供養し
 ており、新造の本尊には平家一門への追福が色濃く込められているように思われる。
  寂光院地蔵菩薩立像は平成」12年5月9日未明、損傷した元の鎌倉時代の本尊に代わって、
 小野寺久幸氏を大仏師として美術院により再興され、平成17年6月に開眼供養された。 小野
 寺し曰く、再興に当たっては元の本尊の調査資料や、当時の御院主の記憶などを基に、木取や
 彩色に至るまで出来るだけ忠実に当初の姿に再現することを心掛けたという。
  羅災した旧本尊は全容が炭化し、今は保存処理が施され収納庫に安置されている。
(2) 旧本尊地蔵菩薩及び納入品 重要文化財
  地蔵菩薩立像(焼損)及び像内納入品(重要文化財)は平成12年(2000)5月9日、寂光院
 は放火により、桃山時代に建立された本堂とともに、鎌倉時代制作の本尊地蔵菩薩立像や三千
 余体の小地蔵菩薩及び建礼門院像・阿波内侍などすべて焼けてしまった。
  地蔵菩薩の表面は大きく焼損したが、幸いに像内に納められていた寛喜元年(1229)造立願
 文や法華経要品、大乗大集地蔵十輪経、大楽金剛不空真実三摩耶経、梵綱経などの経文類、鎌
 倉時代の横笛、刀子、唐。宋銭、さらに3千余体の小地蔵尊等の納入品は無事であった。
  焼損した地蔵菩薩は重要文化財指定が継続され、直ちに美術院において風化防止処理が施さ
 れた。 火災で焼損した3千体余の小地蔵尊とは別に像内にはさらに3,416体の小地蔵尊像が納
 入されていた。 その多くは像高10~15㎝の彩色像で、もとは像内に無造作に納められていた
 が現在は修理を施されて桐箱に整理されて保存されている。 この他に最も保存状態が良い1体
 は別存されていたもので、当初の色彩をよく残している。 また刳り抜き厨子にはより
 小さな地蔵菩薩がおさめられていた。
(3) 建礼門院像 平成時代 寄木造 像高69㎝
  消失前の建礼門院坐像は、木造、檜の寄木造で、制作は江戸時代頃である。 女性には珍し
 く結跏趺座けつかふざの座り方で、浄土宗の黒染めの衣をきている。 現在の寂光院は天台宗であ
 るが、中近世には天台・浄土兼修の尼寺院であったからである。新像の制作は阿波内侍ととも
 に、平安仏所江里康慧仏師に依頼し、1年有余の歳月を経て完成した。 扉に美しい大原に自
 生する草花を配した溜め塗り 塗の厨子の平安仏所の故佐代子夫人(人間国宝)の手になる
(4) 阿波内侍 平成時代 寄木造 像高69.5㎝
  消失前の阿波内侍は藁芯に書状類を貼りかためたいわゆる張子の像であった。 消失後の焼
 け残った書状類から室町時代後期ころの年号のあるものが発見されており、制作は室町時代こ
 ろであると推定されている。
(5) 平家琵琶 江戸時代 「木枯」83.0㎝×32.3㎝、「深夜」78.2㎝×32.5㎝
  享和元年(1801)春、寂光院で催された安徳天皇600年御忌に平曲を奉納した西尾芳重なる者
 が、天明8年(1788)に78歳で他界した祖父良慶の菩提を弔うために、生前から「平家の物
 語」を楽しみ琵琶で平曲を嗜んでいた由緒ある祖父遺愛の琵琶(銘「木枯こがらし」)を寄付し
 た。 西尾芳慶、芳重は「平安人物志」に平家琵琶の名手として載る西尾芳瑞、西尾順庵の同
 族であろう。 尚、寂光院では江戸時代より「深夜」という銘の平家琵琶がある。 
(6) 筝
  寂光院には、2面の筝(13弦)が伝わる。 筝は、日本伝来の楽器である。 一般に「こと
 」と呼ばれ」「琴」の字をあてるが、正しくは「筝」であり、「琴きん」は本来別の楽器であ
 る。 最大の違いは、筝では」柱じと呼ばれる可動式の支柱(駒)で弦の音程を調節すること
 に対し、琴きんでは柱がないことである。
  上方の筝には元禄12年(1699)の年号があり「屠維とり」と銘じているが、屠維は干支の
 「巳つちのと」の別称であり、これは中国古代の太歳紀年法からとられた銘である。 
  もう一つの筝は無銘。
(7) おぶと 江戸時代 26.5㎝×14.5㎝
  「おぶと」とは藺草で作った草履のことであ、鼻緒が太いことから緒太おぶととよばれた。
 形といい、編み方といい普通の藁草履類とは違った独特なものがり、いかにも貴人の履物の趣
 がある。 寺伝では後白河法皇が大原御幸のおりにお召になっていたものという。 
(8) 御船板 時代不詳 19.0㎝×42.0㎝
  壇ノ浦で入水した安徳天皇が乗船していた龍船の朽ちた船板の一部であると伝える。 保存
 箱の墨書によれば、寛政3年(1791)にこの船朽板の帛紗ふくさと桐箱を光相院殿が寄付したと
 ある。 光相院とは尾張徳川家八代宗勝の8女葵姫のことで、内大臣九条道前の室となった。
 帛紗はその形見かも知れない、安徳帝を乗せた船の伝えの真偽はともかく、蓮礼門院が我が子
 安徳天皇の菩提を弔う形見として寂光院では大切に保存してきたものである。
(9) 能面 平成時代
  平成19年(2007)に京都の能面師によって「建礼門院ゆかりの松に託した思いでを後世に伝
 えたい」として、寺伝では樹齢千年と伝える姫小松の松材から作った能面が奉納された。
  姫小松は高さ18mに達する古木だったが、7年前に本堂が放火で全焼した際の炎にさらされ
 て、痛みが激しくなり、平成17年には根元から3m残して伐採された。 大納言佐局だいなご
 んすけのつぼねに因んだ「小姫」、建礼門院をイメージした「若女」、阿波内侍を表現した
 「深井」の3面である。
(10) 書院の襖絵 明治時代 
  書院には、明治、大正期の京都画壇を代表する日本画家たちによって、「平家物語」に因ん
 だ襖絵が描かれている。 玄関には三宅呉暁みやけごぎょうの「枯木野猿図」、一の間には谷口香嶠
  たにぐちこうきょう
の「晩桜散花図」、二の摩には山本春挙やまもとしゅんぎょの「穉松図ちしょうず」、三の
 間には都路華香つじかこうの「蘿月図うげつず」、四の間には原在泉はらざいせんの「壇ノ浦図」がある。


 



(



                         B.平家物語
1.成り立ち
 平家物語の正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(
1240)に藤原定家によって書
写された「兵範記へいはんき」(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候
也」とあるため、それ以前に成立したと考えられる。

 平信範のぶのりは桓武平氏高棟流の流れをくみ、俗に「日記の家」とよばれた学者の家系であり
、実務官僚でもあったため、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動や、朝廷の儀典に
ついて知るための基本資料となっている。

 更に「兵信範」原本の特徴は、大量の紙背しはい文章(紙が貴重であった時代、正規の文書の裏
に書かれた文書)の存在があげられる。 信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴
訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容がうかが
える貴重な資料となっている。 これにより、平家物語という題名は後年の呼称で、当初は治承
物語と呼ばれていたと推測される。

2.作者
 作者については古来多くの説がある。 最古のものは吉田兼好の「徒然草」で「後鳥羽院の御
時、信濃前司行長しなののぜんじゆきなが稽古の誉ありけるが(中)この行長入道平家物語を作りて、
生仏しょうぶつといいける盲目に教え語らせけり」とあり、信濃前司行長なる人物が平家物語の作
者であり、生仏という盲目の僧に教え語り手にしたとする記述がある。

 信濃前司行長は漢詩文の達者であったが、朝廷の論議の番に召されて際「七徳の舞」の二つを
忘れ「五徳の冠者」と仇名されたのを憂えて出家、それを哀れに思った慈円が引取って弟子にし
た。 やがて「平家物語」を作り琵琶法師に語らせたという。

 信濃前司行長の存在は疑わしいが、平安末期の貴族藤原行隆の子、行長が有力である。 行長
は源平の争乱期に八条院に仕えて蔵人になり、摂政九条兼実の4男で八条院の猶子である良輔に
仕えて下野守となった。 漢詩文をよくして元久2年(
1205)の「元久の詩歌合」にも漢詩を出
している。 良輔が亡くなって以後の消息は不明だが、同じ年に朝廷で番の論議があったことが
しられている。
 信濃に縁のある人物として親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。 この西仏
は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃の国の名族滋野氏の流れを
汲む海野小太郎幸親の息子で幸男とされており、太夫坊覚明の名で木曽義仲の軍師として、この
平家物語に登場する人物である。 ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承の
みで、資料的な裏付はない。

3.諸本
 現存している諸本としては、以下二つがある。
 ① 盲目の僧として知られる琵琶法師(当銅座に所属する盲人音楽家)が日本各地を巡って口
  承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの。
 ② 読み物として増補された読み本(増補系、非当道系と)系統のもの。
 (1) 語り本系
   語り系は八坂系と一方系に分けられる。
   八坂系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。 一方
  、一方系所諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧
  の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」に特徴がある。
   語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら「歌う」と言わずに「
  課たる」というのである。 これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで
  、小型のものが多く用いられる。 なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家
  物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的には全く別なもので、これらを平曲とは
  よばない。
   平曲の流派としては八坂流と一方流の2流が存在したが、八坂流は早く衰えた。 一方流
  は江戸時代に前田流と波多野流に分かれたが、波多野流は当初から振るわず、前田流のみ栄
  えた。 安永5年(1776)には名人と言われた荻野検校けんこうが前田流譜本を集大成して「平
  家正節へいけまぶし」を完成、以後同書が前田流の定本となった。
   明治維新後は幕府の庇護を離れた当銅座が解体したために伝承する者も激減し、昭和期に
  は館山甲午はこだてやまこうご(1894~1989)、名古屋に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正
  保・土居埼正富の3検校だけとなったが、平成20年現在では三品検校の弟子今井某するだけ
  となった。

4.平家物語概要
 (1) 巻第1 物語の成長
   目次 ①祇園精舎、②殿上闇討、③鱸すずき、④禿髪かぶろ、⑤我見栄花、⑥祇王、
  ⑦二代后、⑧額打論、⑨清水寺炎上、⑩東宮立、⑪殿下乗合、⑫鹿谷、⑬俊寛沙汰、
  ⑭願立、⑮御輿振、⑯内裏炎上

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

   祇園精舎で病気になった修行僧は無常堂に移されます。 やがて臨終を迎えると四隅にあ
  る玻璃はり(水晶)鐘が自然に鳴って「諸行無常の偈」を説き、病僧は安心をえて滅に入るこ
  とができたという説話にもとずいているが、「平家物語」がこの偈をどのように取り上げる
  か。
   正木信一氏は、巻第1のタイトルを「物語の成長変化」とし、さらに下記のように三つの
  部分に分けて考察している。
  1)人間像の描き換え
    序文「祇園精舎」は雪山偈の正確に言えば第一句だけを引用し、救いのない思想を提示
   した。 次にそれらを実証するためぬ、異朝(中国)、本朝(日本)合わせて8人の人物
   を列挙し、これらの反逆者がすみやかに滅亡した理由を儒教道徳に反したからだと説いた
   。 彼らが滅んだのは「諸行無常=生滅の法」ではなく、王権力に反逆したことが原因だ
   というのです。 ここまでは、作家は仏教と儒教という、全く異質の二つの思想が縦横に
   一つの物語をおりなして行こうとしていることが見て折れる。
    さてその反逆者の系譜の延長線上に平清盛が登場します。 つまり、清盛は、はじめか
   ら「反逆者」というレッテルを貼られ、滅亡の運命を背負って、しかし、彼の有様が「伝
   えるこそ心も詞ことばも及ばぬ」と言う表現でここに姿を現したのです。
    彼の先人たちは、いわば仏教や儒教うの常識によって測定できるものでした。 それが
   清盛はちがいます。 「心も詞ことばも及ばぬ」などと言うのは、常識では捉え切れない程
   の大きさです。 しかもなお作者は彼を反逆者の系譜に位置づけ、「諸行無常、盛者必衰

     」の法則のなかに包み込もうとした。
    彼の家系は、桓武天皇の末裔、血筋は極めて高貴ですが、この天皇から五代目の高望王
     かもちおう
が臣籍に下ると、その子国香くにか以降、正盛までは代々国司で、殿上人にはなれま
   せんでした。 ところが、正盛の子、忠盛は、前々から寺を建てたいと願っていた鳥羽上
   皇へのために、得長寿院という三十三間の御堂を建て本堂の左右に五百体づつ、合わせて
   千1体の仏像まで作って上皇に献上しました。 
    すっかり喜んだ上皇は、さっそく彼を但馬守に任じ、さらに「内の昇殿を」ゆるしてし
   まいます。 こうして忠盛は殿上人という最高級貴族の仲間入りをはたしました。
  2)祇園精舎は乗越えられるか
    何とか出世したい貴族たちにとって、贈答は日常茶飯事、さらに同僚達を蹴落としても
   のし上がりのためには手段を選ばない、そこへ忠盛という新しいライバルが出現したので
   す。 彼らが軽蔑していた武士。 今度は一致団結して忠盛を排除しようとします。 忠
   盛を闇討ちにする計画が練られました。 事前にこれを知った忠盛は周到な準備を整えた
   上で、沈着・深謀・剛胆・機転、郎等家定の協力をえて、彼らの計画を挫折させ、上皇か
   ら褒められさえした。
    ここでは逆に、古代的貴族の敗北と、彼らと対立し、彼らを乗り越えて古代権力の体制
   を侵食していく新興武士階級の勝利を歌い上げたのです。
    次の鱸すずきの前半は、彼の歌の歌人としてのエピソードによって無教育な乱暴者どころ
   か雅の世界における大きな存在感を、作者はやはり忠盛の側に身をおいて描いている。
    彼が死ぬと、跡を継いだ清盛の瞬く間の出世、そしてそれが熊野権現のおかげという五
   段に続く。
    こうして天下を握った清盛の専権と横暴の「祇王」はしばしば「平家物語」全体の縮図
   だといわれる。 でも最後には四人とも救われます。 これは救いを捨てた祇園精舎の路
   線から明らかに外れている。
  3)波乱
    その頃、内大臣の左大将師長が太政大臣になるので左大将を辞任すると清盛は右大将重
   盛を左大将に、宗盛を右大将にしたため、近衛の大将になり損ねた大納言成親が日頃平家
   の横暴に不満をもつ中流貴族たちを一味として、平家打倒を陰謀した。
 (2) 巻第2 対照的構造
   目次 ①座主流、②一行阿闍梨之沙汰、③西光被斬、④小教訓、⑤少将乞請、⑥教訓城
  ⑦烽火の沙汰、⑧大納言、⑨阿古屋之松、⑩大納言死去、⑪徳大寺之沙汰、⑫堂集合戦、
  ⑬山門滅亡、⑭善光寺炎上、⑮康頼祝言、⑯卒都婆流、⑰蘇武
  1)山門事件から大僧正流罪へ
    京都大火の翌5月、突如延暦寺座主明雲大僧正の流罪が決定した。 本人は勿論延暦寺
   全山としても、青天の霹靂でした。 理由は、賀茂の国の座主領を国司師高が取消して国
   有地としたところ、座主が恨んで衆徒を扇動し訴訟起こした。 それが先月の都の大火と
   なり、内裏炎上にまで及んだ、責任はすべて明雲にあるというのである。 
  2)密告
    新大納言成親を中心とするグループの平家打倒を目指す陰謀は、この一味から大将とし
   て期待されていた摂津源氏多田蔵人行綱の密告によって清盛の知る処となった。 一網打
   尽、なかでも西光は清盛に対して歯に衣を着せぬ悪口雑言、激怒した清盛の命により彼は
   口を裂かれうえ首を斬られた。 
 (3) 巻第3 栄華の象徴は没落の象徴
   目次 ①赦文、②足摺、③御産、④公卿揃、⑤大塔建立、⑥頼豪、⑦少将都帰、⑧有王
  ⑨僧都死去、⑩辻風、⑪医師問答、⑫無文、⑬燈炉之沙汰、⑭金渡、⑮法印門燈、
  ⑯大臣流罪、⑰行隆の沙汰、⑱法皇被流、⑲城南之離宮
  1)心と顔
    巻第3」は、①中宮御産の筋、②一ノ谷後日談の筋、③重盛死去の筋、④清盛クーデタ
   ーの筋の四本の筋が絡まりながら進行しています。
  2)悲喜こもごも
    流人の赦免状をもった使者、丹左衛門尉元康は鬼界が島へ上陸するとまず流人たちの名
   を呼びます、成経、俊寛、康頼の順です。 しかい、俊寛は赦免にもれ、一人孤島に取り
   残されることになります。
    御産が近付くと中宮の陣痛は激しくなるばかり、そこへ法皇が新熊野への途中から急の
   御幸です。 「錦帳で御座を作り」お経、祈祷すると、「御産平安のみならず、皇子」誕
   生した。 この時法皇と清盛は冷戦状態にあったが、ここでは、法皇に技あり、清盛は完
   全に一本とられました。
    「今度の御産に勝事しょうじあまたありける」異常なことが沢山あったなかから、二つのハ
   プニング(将来を暗示するような不吉な出来事)をとりあげている。
  3)異変
    治承4年(1180)4月29日突然都を激しい辻風が起こった。 その時重盛の体から灯篭
   の火のようなものがでて、パッと消えたとか、都に帰って幾日もたたないうちに重盛は病
   気になりました。
 (4) 巻第4 運命の年治承4年
   目次  ①厳島御幸、②還御、③源氏揃、④鼬いたちのさた、⑤信蓮、⑥鏡、⑦山門牒状
  ⑧南都牒状、⑨永僉議、⑩大衆揃、⑪橋合戦、⑫宮御最期、⑬若宮出家、⑭通乗之沙汰、
  ⑮ぬえ、⑯三井寺炎上
  1)外戚政治
    2月21日突然譲位、春宮践祚せんそがありました。 この度の譲位は、清盛の強要による
   ものでした。 かって鳥羽法皇が崇徳天皇をだまして近衛天皇に譲位させたときのことを
   、「保元物語」が全く同じ言い方をしていました。 その時の崇徳上皇の不満が保元の乱
   を起こした最初の原因でした。 しかし、高倉上皇はご白河法皇を憎みません。 むしろ
   法皇の身の上を心配し、悲しんでなにとか舅清盛の機嫌をなおすために3月上旬、厳島へ
   参詣しようときめました。 
    19日の夜明け、御幸は出発、夜のうちに鳥羽殿につきました。 久々の法皇、上皇父子
   涙の対面でした。 翌日、海路安芸の国へむかいました。 「なか2日御逗留」の間,経会
   、舞楽、神主、国司らの加階叙位、帰りは歌を詠ませ、藤の花をめで。 優雅な船旅でし
   た。
  2) 乾坤一擲
  3)武と歌
 (5) 巻第5 ほころび=権力の末期
   目次 ①都遷、②月見、③物怪之沙汰、④早馬、⑤朝敵揃、⑥咸陽宮、⑦文覚荒行、
  ⑧勧進帳、⑨文覚被流、⑩福原院宣、⑪富士川、⑫五節の沙汰、⑬都帰、⑭奈良炎上
  1)都遷り
    頼政事件がひとまず片付くと息つくまもなく、 都遷りです。 古来、都を定めたり、
   移したりするのは、天皇によってきめられてきました。 従って、今、清盛が遷都を決定
   し、強行した時は、分不相応な悪行と眉をひそめる人もあり、その権力の強大さを讃嘆は
   しないまでも、あきれるばかりであった。
  2)古き都に来て見れば
  3)夢の不思議
  4)怪僧そして富士川の壊走
    頼政がクーデターを企てた時、以仁王もちひとおう(後白河天皇の第3皇子)の令旨を諸国
   の源氏に伝えたのは為義の子、十郎行家でした。 しかし、頼朝の決起を「平家物語」は
   、。令旨でも頼政の檄でもなく、怪僧文覚の画策として語られている。 
  5)内裏竣工・都帰り
    同じ年の11h月13日内裏の竣工「主上御幸」をもって遷都が完了した。 「都帰り」は
   強大な権力の発動と見えた「遷都」から半年、主上の新内裏への移住から20日、横紙破り
   の清盛に、世論が勝ったのでした。
 (6) 巻第6 世界がかわる
   目次 ①新院崩御、②紅葉、③葵前、④小督、⑤廻文、⑥飛脚到来、⑦入道死去、
  ⑧築島、⑨慈心房、⑩祇園女御、⑪嗄声、⑫横田河原合戦
  1)古代の死
    治承5年(1181)正月の宮中行事は何一つ行わず、不吉な年を感じさせた。 高倉上皇は
   、前年の後白河院幽閉、クーデター、以仁王の横死、都帰りなどの重なる心痛によって「
   御悩」、さらに南都大寺と仏像経巻の消失を聞くと、病状は悪化、正月14日、21歳の若い
   命をとざしました。
    新院の即位は8歳、元服前の幼主の時空、十戒・五常の実践者として、具体的な逸話が
   列挙されます。
  2)巨人の最後
    四面楚歌の兆候が見え始めたわけですが、平家一門の人々は誰一人、これが近い将来の
   滅亡につながるとは思っていませんでした。 まず東国・北国追討の大将軍を宗盛が自ら
   買って7日門出となりましたが、入道の発熱で都に留まった。 彼の熱病の症状はよく知ら
   れている。 この熱病はまさに灼熱地獄そのものでした。 それは仏罰に違いありません
   。 その中でも彼は「今生の望み一事ものこる処なし」と言い切り、自分が死んだ後は「
   堂塔を建て供養すべからず、頼朝の首をはね、頼朝の首を、我が墓の前にかくべし」とゆ
   いごんした。
  3)天下騒乱攪乱
    清盛の死の直前、北陸の地に奇異な事件がおこりました。 清盛が木曽に備えて越後守
   に任命した城助長が変死した(落雷か?)。 弟助茂が、長茂と改名して越前守となり、
   横田河原で木曽軍と戦うが、木曽軍の完全な勝利でした。 
    年が明けて寿永2年(1183)年頭行事は「常のごと」く行われなしたが、南都北嶺の大
   衆、熊野、金剛山の僧徒、伊勢大神宮の神主・神官に至るまで、平家に背いて、源氏に心
   を寄せるありさまでした。 
 (7) 巻第7 凋落の秋
   目次 ①清水冠者、②北国下向、③竹生島詣で、④火打合戦、⑤願書、⑥倶利伽羅落、
  ⑦篠原合戦、⑧実盛、⑨玄昉、⑩木曽山門牒状、⑪返牒、⑫平家山門連署、⑬主上都落
  ⑭維盛都落、⑮聖主臨幸、⑯忠度都落、⑰経正都落、⑱青山之沙汰、⑲一門都落、⑳福原落
  1)世界は回る。
    北国の義仲と東国の頼朝との不和という、……とりあえず義仲が嫡子義高を人質として
   頼朝の許に差出して当面の問題はひとまず解決した。 こうして後顧の憂いを解消した義
   仲は東山・北陸両道の勢5千余騎を従えて京にせめ上がると宣告します。
    都ではさっそく諸国の武士を招集しましたが、「東山道は近江、美濃、飛騨の兵どもは
   参ったけれども東海道は遠江より東は参らず、北陸道は若狭より北は兵共一人も」きませ
   んでした。 平家の威令の届く範囲は、驚くほど縮小してしまったのでした。
    とにかくまず義仲を追討して、その後頼朝を討とうと維盛以下「大将軍6人、しかるべ
   き寺340余人、都合総勢十万余騎、都を立って北国へ」向かいました。 途中「権門勢家の
   正税、官物、みな奪い取り、道のほとりを次第に追補して」通ったので「人民こらえずし
   て山野にみな飛散」というありさま。 いままで、そして今度も、平家の招集に応じて若
   い働き手がはせ参じた地域です。 平家が急速に地域住民の支持を失うのは当然でした。
  2)北陸の草の露
    信濃にいた義仲は前線基地として越前に火打が城を築きました。 険しい岩石、川、池
   に囲まれた難攻不落の堅固な城とみえました。 ところが場内にいた平泉寺の長史斉明威
   儀師が平家に内通し、重要な情報を提供したため遂に城は平家に攻め落されてしまった。
    つづいて両軍は加賀国篠原の合戦にそなえます。 しかも、ここ砥浪山の山中で八幡宮
   を見つけ、願書を捧げて勝利を祈った。 しかし、神明の加護おりもさらに現実的に木曽
   の勝利を確実にしたのは、やはり、彼の優れた戦略・戦術でした。 義仲は開戦を日が暮
   れるまで引き伸ばし、日が暮れかかった頃を見はからって、三方の山から一斉に白旗と鬨
   を挙げ大軍に見せかけて敵の浮き足になった処を総攻撃し大勝した。
  3)都落
    こうして木曽5万の大軍は天台2千の衆徒を味方に引き入れ、十分な確信と態勢をもっ
   て都へ攻め上ってきます。
    7月24日の夜明け、宗盛は六波羅で建礼門院に合い、法皇と天皇もつれて、都落ちする
   決意を告げます。 彼女も涙ながらにすべてを宗盛に任せるほかあらませんでした。 
    ところが、その夜、宗盛の意向を知った法皇は密かに法住寺の御所を脱出し、鞍馬へ身
   を隠しました。 誰も気付きませんでした。 平家は勿論、京中が大騒ぎになりました。
    午前6時、6歳の天皇と国母建礼門院が同じ御輿で出発、三種の神器は運び出しました
   が、取り忘れた宝も多くありました。
 (8) 巻第8 次代をになう者
   目次 ①山門御幸、②名虎、③緒環、④大宰府落、⑤征夷将軍院宣、⑥猫間、⑦水島合戦
  ⑧瀬尾最期、⑨室山、⑩鼓判官、⑪法住寺合戦
  1)木曽登場
    安徳天皇を都に呼び戻すことが出来ないとすれば、改めて都で天皇を立てなければなり
   ません。 故高倉院の第二皇子を皇太子として西国へ連れて行ってしまいましたから候補
   者は都に残った第3、第4皇子ということになります。 二人の王子が法皇の前に呼び出
   されました。 第3皇子はこのお祖父さんを嫌って泣いたものですから追い出されました
   。 第4皇子はおじいさんの膝に抱かれてにこにこ喜んだので、次の天皇ときまりました
   。 是が後鳥羽天皇です。
    都では安徳天皇を見限って、崩御も待たず、譲位の手続きも経ず、三種の神器なしで新
   天皇の践祚を強行したのはまさに前代未聞でした。
    さて、大宰府のある豊後の国司は刑部卿三位頼輔卿、代官に任じた子息頼経に平家を追
   い出せと指示しました。 頼経は緒方三郎維義に命じました。 平家は結局この緒方のた
   めに大宰府を追い出されてしまいました。 瀬戸内海をあちこち流浪するうち、小松重盛
   の三男清経は平家の未来に失望いて、海に身を沈めました。
  2)鎌倉・京都・西国
    頼朝が鎌倉に射ながら征夷将軍の院宣をうけた。 院の使者は中原康定、頼朝は院宣拝
   受の場所を鶴岡の若宮と定め、受取の役には和田義澄を指名いました。 院宣の入った箱
   を義澄が受取って頼朝に捧げます。 しばらくして康定に康定に返された箱には砂金が百
   両入っていました。 豪華な酒飯が進められ、引き出物として、馬3匹のほか、厚綿のき
   ぬ二領が長持ちに準備してあり、紺藍摺、白布千端がつまっていました。
   翌日は頼朝の邸での饗応です。 その席で、頼朝は木曽と行家のわがまま、藤原秀衡及び
   佐竹隆義が頼朝の命にふくさないことを非難し、急ぎ追討すべきよしの院宣を賜りたいと
   要求しました。 その日上洛するという康定をさらに二日間引き止め、今度は私人として
   の康定に膨大な引き出物です。
 (9) 巻第9 死の美学
   目次 ①生けずきの沙汰、②宇治川の先陣、③河原合戦、④木曽最期、⑤樋口被討伐
  ⑥六ケ度軍、⑦三草勢揃、⑧三草合戦、⑨老馬、⑩一二之懸、⑪二度之懸、⑫逆落、⑬越中
  ⑭前司最期、⑮忠度最期、⑯重衡生け捕り、⑰敦盛最期、⑱知章最期、⑲落足、
  ⑳小宰相投身
  1)敵はいずれか
    寿永3年、正月10日過ぎ木曽が平家追討のために門出という時に、頼朝の差し向けた東
   国の兵数満騎が美濃・伊勢に着いたという情報を得、木曽は出発を取止めて対応します。    しかし、彼の主だった部下の千六百余騎を瀬田・宇治・一口いもあらいへ派遣したのち
   、彼の手元には百騎ばかりいかのこっていませんでした。
  2)宇治川
    頼朝は、生けずき、する墨という2匹の名馬を秘蔵していました。 梶原源太影季には
   、彼が望んだ生けずきの代わりに、する墨をあたえました。 そのあと遅れてやってきた
   佐々木高綱に、頼朝はどうおもったのか、生けずきを佐々木にあたえました。 佐々木は
   「この御馬で宇治川の真っ先にわたるべし候べし」と誓いました。
    ……はっと気付いた佐々木はとっさの機転、盗んで来たのだと、梶原は原の虫がいえ、
   「さらば影季もむすむべかりける物を」とてドットわらった。
  3)願わざる死
    信濃から木曽に従っていた美女巴は「ありがたきつよ弓精兵」「一人当千の兵つわもの」で
   木曽勢が七騎になるまで打たれませんでした。
    木曽が落ち延びるコースはいくつかあったが、今井が気になるので、伊勢田に向かいま
   した。 今井も800余騎が50騎ばかりに打たれてしまい、主人が心配になったので都の方へ
   取り返すと、大津の内出の浜で木曽に行き合うことが出来た。 「(主従)契はいまだく
   ちせざりけり」と二人はてをとりあって喜び、今井が巻いて持たせていた旗を差し上げる
   と、散らばっていた部下たちが四方から集まってきて、300余騎になりまいた。 そこへ現
   れた甲斐の一条勢6千余騎の中へ、この300余騎で突っ込んでゆきました。縦横十文字に奮
   戦、50騎ばかりになりました。 それからあそこで、500騎、ここで100騎と駆け抜けるう
   ちに主従5騎にななつたが、巴は討たれませんでした。 ここで、木曽は、木曽は巴に「
   おのれは、女なれば、いづちへもゆけ」と命じmした、……こうして、今井と主従二人き
   りになった。そして駒を並べてゆくうちに、また新手の敵が50騎程現れました。 今井と
   同じ所で死にたいという義仲を、今井は、その馬の口を取りて引とめ、切腹を促し向こう
   に見える松原を勧めた。 木曽は「さらば」と粟津の松原へ馬を走らせます。夕暮れの迫
   る頃、薄氷の張った深田とも知らず、馬をざっと打ちいれると、頭までもぐってしまった
   。 全く動けない。 今井がゆくえのおぼつかなさに振り向くと、三浦石田」の次郎為久
   が木曽殿の首を取りました。 石田の名乗りを聞いた今井は「今は誰もかばう者はない」
   と太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに落ち、自害した。
  4)福原復帰
    平家は去年の冬の頃から八島(屋島)を出て摂津の福原に移り、山陽・南海両道の軍兵
   十万余騎で西一の谷、東生田の森を固めていた。
  5)行動が状況を変える
    「正月29日、範頼、義経院参して、平家追討を奉聞」すると法皇から三種の神器を「事
   ゆえなくかえしいれ奉れ」との仰せ。 敵を全滅させるよりも難しい注文である。
    源氏は四日に押し寄せるはずでしたが、清盛の命日と聞いてひとまず攻撃を遠慮しまし
   た。 大手の大将軍は範頼、都合5万余騎、2月4日午前8時半頃出発、その日の午後5
   時頃摂津国昆陽野こやのに陣を取る。 搦手の大将軍は九郎御曹司義経、都合1万余騎、同
   日の同時に都を立って丹波路にかかり、二日路を一日で播磨と丹波の境なる三草山の東の
   小野原に」こっそりつく。
    注目しなければならないのは、義経が二日路を一日で走破し、その日のうちに小野原に
   到着したことです。 平家の方では、まさか今夜攻めて来るとは思いもよらず、明日の戦
   いのたに、十分の睡眠をと、ぐっすり寝込んだその夜中に源氏1万余騎の襲撃「平家の方
   は、弓取る者は、矢を知らず、矢取る者は弓知らず」
  6)冒険
    5日の暮れがたに、範頼軍は昆陽野をたって生田の森に近づきます。 源氏は悠々と英
   気を養い、平家は「今やよするまいと、休むこころも」ありませんでした。
    6日のあけぼの、義経は1万のうち7千余騎を土肥実平につけて、一の谷西の手へ向か
   わせ、自身は3千余騎で鳥越を落そうとする。 ……義経は平家の城郭をはるかに見回し
   ていたが、「馬どもを駆けさせてみよ」といわせて、鞍を置いた馬を追い落とした。 あ
   る馬は足を折って転げ落ち、ある馬は無事駆けおりてゆく。 義経はこれを見て「馬ども
   はそれぞれの乗り手が注意すれば傷つくことはあるまい。 それ、駆け下れ、義経を手本
   にせよ」といって、まず三十騎ばかりとともに先頭をきっておりた。 大軍がみな続いて
   下った。
 (10) 巻第10 人間は変わる
   目次 ①首渡、②内裏女房、③八島院宣、④請文、⑤戒文、⑥海道下、⑦千手前、⑧横笛
  ⑨高野巻、⑩維盛出家、⑪熊野参詣、⑫維盛入水、⑬三日平氏、⑭藤戸、⑮大嘗会之沙汰
  1)いけどり(念仏その1)
    いけどりになった重衡は、6条を東へ渡された後、院から八島へ帰りたければ、3種の
   神器を都へ返し奉るように申し伝えよ、との仰せをうけました。 重衡は、「兄宗盛をは
   じめ、一門の者は神器と私の命と引き換えにはしないでしょう、ひょっとして母二位の尼
   はそう言うかもしれませんが、しかし、このまま院宣をお返し申すのは恐れ多いこと、と
   もかく申し送ってみましょう」と手紙を書くことにします。
    八島へ、三種の神器を返還せよという院宣(八島院宣)と重衡の書簡が届きます。 重
   衡の予想通り、二位殿は泣いて嘆願しましたが、八島からの返事は「否」でした。
    請文が到着して事実がはっきりすると、彼は鎌倉に送られることになりました。 平家
   最高幹部の一人です。 彼の処断は頼朝に一任されたのです。
    頼朝との対面の場。 重衡は従三位、頼朝は正四位、宮中の席次は重衡の方が上です。
   重衡には敗軍の将の卑屈さは微塵のありせん。 まことに堂々としています。 しかし、
   予想した通り、頼朝は焼亡の責任を追及してきました。 重衡は先に法然上人の前では(
   大将軍であった自分の罪)と言っていたのんに、ここでは「故入道の成敗にもあらず、重
   衡が寓意の発起にも非ず」とこれをはっきりと否定します。 そして、保元・平治以来の
   清盛の功績をあげて、頼朝が朝廷にたいする反逆者でああったこと明確にし、「帝王の御
   仇を討つたつ者は、七代まで朝恩失せずともうすことは、きわめたる僻事にて候ひけり」
   と「本文」を否定する法皇の法皇への憤懣を頼朝にぶつけました。 鎌倉の武士たちが重
   衡の立派な態度に涙」する。
  2)妄念(念仏その2)
    小松の三位維盛は妻子を忘れかねて身と心の分裂に悩んだ末元暦元年3月15日ひそかに
   八島を抜けだした。
    三山の参詣を済ませたので、………念仏して来迎を得、成仏得脱すれば妻子を浄土へ導
   くことが出来ると結びました。
    その時維盛は「たちまちに妄念を翻して、高声に念仏百遍ばかり唱えつつ、『南無』と
   唱ふる声ともに、海へ 」入りますと、与三兵衛と石堂丸も続いて海に沈んでいきました
   。
  3)義経問題その1
    9月12日、範頼は平家追討のために3万余騎で西国へ出発、播磨の室に着きますと。 
   鎌倉を出たときから、対木曽戦でも一の谷戦でも、大手は範頼、搦め手は義経と、いつも
   コンビを組んできた兄弟でした。 それが今度は義経の姿が見えません。
    「吾妻鏡」の2月25日条に、頼朝から後白河法皇に宛てた書簡がある
 平家追討の事
 右畿内国源氏平氏と号して、弓箭に携わる輩、並びに住人等、義経が下知に任せ、率すべきの由、」仰せくださるべ候。 海路容易かならずと雖も、殊に急ぎ追討すべきの由、義経に仰せらるる所也。 勲功の党に於いてはその後頼朝計らい申し上ぐるべく候。

    機内近国の武士は義経に従わせるよう、仰せ付けください。 海路は容易くはないでし
   ょうが、殊に急いで追討するよう、義経に命じます。 勲功を立てた者のうち誰を賞する
   かについては、後に頼朝が計らいます(頼朝の同意なしに勝手におこなってはなりません
   )という分けです。 ところが法皇は頼朝に相談しないで独断で範頼・義経を任官させて
   しまいました。
    全ての武士を皆掌握しようとする頼朝と、義経を身辺に引き付けて、頼朝に対する対抗
   馬に育て、両者の均衡の上に乗って自らの安定を図ろうとする法皇と、その間に挟まれて
   、しかし、二人の高度の政略に全然気付かない義経、という三人の位置です。 「平家物
   語」はその重要な部分に目をつぶってしまったために、状況がぼやけてしまいます。 後
   の頼朝・義経の不和が表面化してきた時、原因を梶原の纔言ざんげんだけにしぼらざるえなか
   った。
 (11) 巻第11 第二の修羅、そして三悪道
   目次 ①逆櫓、②勝浦、③嗣信最期、④那須与一、⑤弓流、⑥志度合戦、⑦鶏合、
  ⑧壇ノ浦合戦、⑨遠矢、⑩先帝投身、⑪能登殿最期、⑫内侍所都入り、⑬一門大路渡、
  ⑭鏡、⑮文之沙汰、⑯副将被斬、⑰腰越、⑱大臣殿被斬、⑲重衡被斬
  1)義経問題その2
    頼朝はやはり義経を起用せざるをえなかった。 義経は、元暦2年(1185)2月3日に
   都立って雪津国渡辺から八島へ、範頼も同日に都を立って摂津国神崎から山陽道へ、それ
   ぞれ平家追討の兵船を揃えて出発の準備を整えました。
    16日、渡辺・神崎の両所から出発しようとした時、突然大暴風雨に襲われた。 船は散
   々に破損し、船出は延期となった。 
    ここで、なれていない戦をどう戦うかと評定を行うが、この時梶原と義経が正面衝突す
   る、いわゆる逆櫓さかろ論である。 梶原は、馬と違い船は急に押し戻すのが容易でないか
   ら、。艫ともと舳へさきの両方に櫓を付け、両側に舵を付けどの方向へも簡単に動けるように
   しようと言いますが、義経はこれを逃げ仕度と決めつけると梶原は進むだけしか考えない
   のは猪武者だと言い返した。
    彼はこういう権威を背景として梶原を抑えつけ、船頭を脅して強引に四国へ渡りました
   。 これは、部下に問いかけながらその自発性を引き出してきた今までの姿勢とは百八十
   度変換しています。 しかし、ここで彼は梶原から離れることで持ち前の奔放さを発揮し
   ます。 嵐をついて渡辺を出た二百余艘のうち、阿波にについたのはわずか5艘、三日か
   かる海路を3時間という乱暴な離れ業であった。海辺防備の一隊を蹴散らし、近藤六親家
   という土地の武士を捕えて案内をさせ、阿波民部重能の弟桜間の介能遠の城を落し、八島
   に近ずきます。 18日、高松の在家に火をかけて八島の城に攻め寄せます。 平家は大軍
   の襲来と思い、皆船に乗って沖へ漕ぎ出しmした。 
  2)額縁の中の絵
    扇の的です。 後藤兵衛の推薦で選び出された那須与一は、万一射損じたらと、辞退し
   ます。 すると「判官大いに怒って『鎌倉をたって四国へ出向く連中は義経の命令に背い
   てはならぬ。 少しでも文句を言う者はここを去って帰るべし』」、与一は「これを射損
   ずるものならば、弓きり折り自害」と覚悟して馬お海へのりいれました………見事命中。
    22日、渡辺に残っていた二百余艘の船どもが、梶原を先頭に、たっと八島について、人
   々に笑われました。
    義経は諏訪にわたって、兄範頼と一つになりました。
    熊野の別当湛増は、頼政事件ではいち早く平家に通報した男ですが、今度は、源氏に着
   こうか平家につこうかと迷って、新熊野で権現に祈誓したところ、白旗に着けとの託宣が
   あった。 それでも不安で、赤い鶏七つ白い鶏七つを権現の前で勝負っせました。 する
   と赤い鶏は1つも勝てず、皆負けてしまい、そこで、はじめて源氏に着こうと決意して、一
   門千余人、二百艘の船で壇ノ浦へ向かいました。 また伊予の河野四郎通信も百五十艘の
   ふねで源氏に合流しました。 源氏は三千余艘、平家は千余艘、元暦2年3月24日の午前
   6時に源平矢合わせと決めました。  その日、またまた判官と梶原とが同士討ちしそう
   なトラブルがおきました。 梶原が先陣をさせてほしいと言いますと、判官は自分が先陣
   を切ると言い張り、。エスカレートして最後には二人とも太刀の柄に手をかけるまでにな
   りました。 判官は三浦の介、梶原は土肥次郎がそれぞれとりついて必死にんだめた。
    いよいよ開戦、」梶原の活躍は目覚ましく、その日の高名の一の筆に記されました。
    新中納言知盛は大音声を挙げて全軍に下知した後、宗盛の前へ行って言って阿波民部部
   が心変わりしたと思われます、首をはねましょかと言いますが、宗盛は許しません。 平
   家の計略に身分の高い人を粗末な兵船に乗せ、下賤な者を唐船に乗せて、源氏が立派な唐
   船に高貴な人がいると思ってそちらを攻めたら取込めて討とうと言う手筈でしたが、阿波
   民部が内通してしまったので、源氏は平家の大将軍が姿をやつして乗っていた兵船を狙っ
   て攻めてきた。
    源氏の兵どもが平家の船に乗り込んで着ました。 いよいよ最後、世の終わりの時が来
   ました。 二位殿は、天皇を抱き、「浪の下にも都があります」といって、海の底に沈ん
   でいきました。 これを見た建礼門院は、左右の懐に焼き石と硯をいれて海へ入りました
   が、源氏の武士に引き揚げられました。 女房達が口々に「あなあさまし。 あれは女院
   にてわたらせたまふぞ」と言ったので、判官に申し出て御所の踏めに移しました。 大納
   言佐殿は内侍所の唐櫃を持って海へ入ろうとしたが、袴の裾を船端に射付けられ、裾が足
   にまつわうぃついてたおれてしまったので、兵どもに取とどめられてしまった。 
    教盛・経盛兄弟は鎧の上に碇を背負い、手を組んで海へ入りました。 小松の資盛・有
   盛兄弟と従兄弟の行盛とは手に手を組んで一緒に沈みました。 そういう中で、宗盛親子
   は海に入る気色なく、船端に立って四方を見回し、茫然としていた。 侍どもはあまりの
   情けなさに、そばを通るようにして大臣を海に突き落した。 子息右衛門督はこれをみて
   すぐ飛び込みました。 ほかの人は鎧を着たり、重たい物を身に着けていtのですが、こ
   の二人は身軽で、そのうえすぐれた水練でしやので、一向沈みませんでした。 泳ぎ回っ
   ているうちに、伊勢三郎に引き揚げられました。
    教経の最期の超人的な奮戦とその死の後知盛は「見るべき程の事は見つ。 今は自害せ
   ん」という有名な言葉を残して、乳母子とともに、鎧を二領ずつ着て海にはいった。
  3)額縁のない絵
    「見るべき程の事」とはなんだったのであろう。 富士川の失態、北国戦の参拝、それ
   環を知盛は都で苦々しく思っにちがいない。 都落ちでは、上皇が平家を見捨て、彼の義
   弟摂津基通が途中で車の向きを変え、さらに叔父頼盛まで鳥羽で、「赤じるし切捨て」都
   へかえったこと、その後、一の谷では一問の多くをういなった。 はっきり見えたものは
   、25日神器が明石に着きました。 内侍所と神璽とで宝剣はありませんでした。
  4)義経の問題その3
    義経は決定的な失策を犯してしまいました。 敵将大納言と時忠の娘を妻にし、彼女の
   言うままに、いったん押収した平家方の機密文章を封も切らずに時忠に返してしまったの
   です。 しかも都の上下は「ただ九郎判官ほどの人はなし。 鎌倉の源二位何事をかしい
   だしたる。 世は一向判官のままにてあらばや」と批判したのですから、これを漏れ聞い
   た頼朝は激怒しました。
    宗盛を鎌倉に護送する途中で、義経はまた大きなミスを重ねます。 宗盛の命乞いに同
   情して「義経が勲功の賞に申しかえて、御命ばかりはたすけ参らせ候べし」と約束してし
   まったのです。 許されない独断と越権でした。
    金洗沢で宗盛父子を受け取ると、そこから義経を腰越へ追い返した。 「勲功の賞」を
   信じきっていた義経にしてみれば、頼朝の仕打ちは理不尽そのものだったに違いありませ
   ん。 平家殲滅は自分がいなければできなかったはず、様々な危険を冒してたたかったの
   もひとえに兄頼朝のため、げんじのためでした。 そのいろいろな苦労話も聞いてもらい
   たいし、自分の戦法についての兄の評価も聞きたい。 そういう話題で兄弟が意見を戦わ
   すのはどんなに楽しいことだろう。 褒めてくれなくても、せめて慰労の言葉一つくらい
   はあってもよいのではないか。 それを、宗盛らの身柄だけよこせ、お前は近ずくことも
   ならないとは、あまりにもひどい……。 おさえきれぬ憤懣、しかし、彼は数度の起請文
   を書いたのち、血涙を絞って「腰越状」を大江広元に送りました。 無駄でした。 
    こうなった一番の原因は、梶原の讒言でも頼朝の猜疑心でもありません。 義経自身の
   意識や行動における階級制と政治的感覚の欠如が、彼の命取りになったにおです。 彼が
   どういう階級を代表してどういう階級お戦うべき位置にあるかについて彼の認識は、木曽
   と変わりはありませんでした。 彼の名乗りが、「鎌倉殿の代官」「頼朝の舎弟」から「
   太夫判官・左衛門尉」へかわったのは、叙位任官によって彼が戦うべき敵の網にとりかこ
   まれてしまったわけです。 それ気付かな彼には、後白河と対立する頼朝の姿がまるきり
   見えないのです。 
  5)二人の凡夫
    宗盛は頼朝の前に引き据えられました。 それは先の重衡とは全く対照的でした。 と
   うてい一門の総師・武将とは言えない卑小な人物です。
 (12) 巻第12 諸行無常 是生滅法
   目次 ①大地震、②紺掻之沙汰、③平大納言被流、④土佐房被斬、⑤判官都落
  ⑥吉田大納言沙汰
  1)義経の問題その4
    梶原が讒言してもしなくても、頼朝は法皇に操られている義経が信頼できません。 自
   分が排除される理由が分からない義経は頼朝に恨みました。 二人の間の溝は深くなるば
   かりです。 
    頼朝は刺客や討手を差し向けます。 11月2日、義経は反頼朝の態度を明らかにし、武
   士共の義経に従うべき由の院宣を手にして鎮西へ向かうのですが、彼の乗った船は暴風の
   ため住吉に打ち寄せられてしまいました。 是も「平家の怨霊のゆえ」と思われたと「平
   家物語」は語ります。 義経は吉野・奈良を僧徒に追われてにげまわった末、都から、北
   国を経て奥州へ落ち延びて行くと、そのあとへ、頼朝の代官として北条時政が入京、奉請
   によって八日にはあらためて義経追討の宣下です。 「平家物語」はこの朝令暮改をただ
   「世間不定」と嘆くのみでした。
  2)永く絶えにけれ
    平家興亡史の最期章は、六代譚です。 維盛の遺子六代は、一女性の密告によって北条
   時政に捕えられた。 時政は頼朝の忠実な代官でしたが、この12歳の少年の、光源氏の再
   来のような美しさと賢さとは、時政に殺すことをためらわせた。 その間に乳母の女房の
   訴えを聞いた文覚が動き始めます。 文覚は頼朝と掛け合ってくるから二十日まで、六代
   の首を斬るなといって鎌倉へゆきました。 
    文覚が北条に約束した二十日の期限を過ぎたので、北条も不本意ながら六代を斬らなけ
   ればなりません。 駿河の千本松原で、次々に辞退する切り捨てを選び患うところへ、間
   一髪頼朝の御教書を懐中した文覚の弟子が駆け付けました。
    親子は再び再開を喜び、その後六代は文覚に伴われて高雄へ上り、時々母に会いに来る
   という、父を失った後の親子にも、ひとまず平穏無事な毎日が続きました。
    さて、頼朝は六代と文覚に対して警戒を緩めませでした。 六代が自分と同じようにい
   つ謀反を起こすのかでないか、その時文覚葉かって自分にしたように六代に力を貸すにち
   がいない、という不安が彼の心をさらなかった。 恐れた母の言葉に従って、六代は十六
   の春出家、文覚に暇を乞うてまず高野山に登り、滝口入道に合って、父の最期を詳しく聞
   き、熊野に詣でて」父の跡をめぐり、菩提をとむらってなくなく都に帰りました。 
    後鳥羽天皇は御遊に熱中し、政治は乳母の御の局に任せきり、文革は天皇を廃を越えて
   止、高倉天皇第二皇子守貞親王を即位させようと計ります。 事は露見して文覚はとらえ
   られ、八十を超えた老いの身を隠岐へ流されます。
    三位禅師と呼ばれて高雄に行いすましていた六代はさる人の子ななり、さる人の弟子な
   り、と言うわけで、鎌倉から頻繁に要請があり、ついに召し捕られ関東におくらえれへき
   られた。 それにより平家の子孫は途絶えた。
 (13) 巻第13 寂光院
   目次 ①女院出家、②大原入り、③大原御幸、④六道之沙汰、⑤女院死去
  1)怨憎会苦の展開
    壇ノ浦で引き揚げられた建礼門院は、東山の麓吉田にあった奈良法師の旧坊に入り、そ
   こで長楽寺の印西上人を戒師として出家します。 それは彼女にとって救いなったでしょ
   うか。 彼女は出家だけでは生を隔て我が子に一歩も近づくことが出来ませんでした。 
   それどころかむしっろいっそう遠ざからなければならなくなりました。 というのは、彼
   女は壇ノ浦以来無一文でsから、史の上人に引くべき布施がありません。 手元にあるの
   は亡き安徳天皇が身投げ直前まで来ていた直衣なおぎぬだけぜす。 それは死んでも握りしめ
   ていたい形見でした。 でも自分がもっているのと、上人に布施として捧げるのと、どち
   らが我が子の成仏に役立つでしょう。 彼女はこれを手放しました。 その決断は一つの
   大きなハードルを越えたことでした。
    大地震の後大原の寂光院に移りました。 翌年、後白河法皇はこの大原の庵室に女院を
   訪れました。 壇ノ浦は、建礼門院にとって「愛別離空」の場でした。 それ以後の彼女
   は、「生老病死」のうち、生きることが苦でした。 そして今、ひたすら我が子の菩提を
   祈ってやっと常寂の毎日にたどり着いたこの聖地へ土足で踏み込まれたように感じたのも
   、無理はありません。 後白河院こそが頼朝と共に彼女の愛児を奪い、一族を滅亡に追い
   込んだ張本人なのですから。 裏山から下りてくる途中で上皇の姿を認めた彼女は、まず
   、会いたくないと思います。 それを屋代本の女院はまず、
    ①「聖衆来迎をこそ待つるに、思いの外に法皇の御幸成たる口惜しさよ」と長い間の怨
     念を噴出し、続いて、
    ②「此の有様にてみへ進せん事心憂うかなしくて」
   と法皇にたいするか険悪・拒絶の姿勢を露骨に表明します。 まさに「怨憎会苦」おんぞうえく
   、ここで彼女は、山へ引き返すこともできず庵室へ帰ることもしたくないと迷いますが、
   内侍の尼の、早くお目にかかってお帰し申し上げなさいというアドバイスに従って庵に帰
   りました。 そして「泣き泣き」御前に出て、涙の対面です。 
  2)大原御幸
    こうして月日が過ぎるうちに、文治2年の春の頃、後白河法皇は、建礼門院の大原の閑
   居のお住まいを御覧になりたいと思いになられたが、2月3月の間は、風が激しく、余寒
   もまだきびしくて、峰の白雪は消えず、谷の氷もとけていなかった。 春が過ぎ、夏がき
   て、賀茂の祭りも終わったので、法皇はまだ世の明けぬうちにお立ちになって、大原の奥
   へ御幸になった。
    お忍びの御幸であったが、お伴の人々には、徳大寺・花山院・土御門以下公卿が6人殿
   上人8人で、それに北面の武士が少々お供した。 鞍馬街道をお通りになる御幸なので、
   かの清原深養父きよはらのふかやぶが建立した補陀落寺ふだらくじや小野の皇太后宮の旧跡を御覧に
   なったて、それから御輿にお乗りになった。 遠山にかかる白雲は、すでに散ってしまっ
   た花の形見に思われ、青葉となった梢には、春の名残が惜しまれた。 頃は4月二十日過
   ぎの事などで夏草の茂る中を分けて行かれると、はじめの御幸なので見なれておられるこ
   ともなく、人の通う跡のない有様をお察しになって、哀れぶかくお思いになった。 
    西に山の麓に一棟の御堂がある。 それがすなわち寂光院である。 古めかしく造られ
   た庭の池や樹々の植え込みが、いかにも由緒ありげな所である。
     甍やぶれては霧不断きりふだんの香をたき 枢とぼそおちては常住じやうじゅうの燈をかぐ
    (屋根瓦は崩れ落ちて、堂内に流れこむ霧は、絶え間なくたきき続ける香のようであ
     り、はずれた扉からさしこむ月は常にともしつづける常夜灯の明かりのようである)
   というありさまも、このような所をいうのであろうか。 庭の若草は茂りあい、青柳の糸
   を垂れた枝は風に乱れ、池の浮草が波のまにまに漂うさまは、錦を水にさらしているかと
   みまちがうばかりてある。 池の中島の松にからんでいる藤の花が紫に咲いている色の美
   しさ、青葉にまじって咲く遅桜は、春のはじめの初花よりも珍しく、岸辺には山吹が咲き
   乱れ、幾重にも重なる雲の切れ間から聞こえてくる山郭公ほととぎすの一声も、法皇の御幸を
   お待ちしているかのようである。
    法皇はこれをご覧になって、このようにお詠みになられた。
     池水にみぎわのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりけれ
    (池のほとりの桜が水面に散り敷いて、波の上が今は花盛りだ)
    古びた岩の間から落ちてくる水の音まで、由緒ありげで趣ぶかい所である。 緑の蔦か
   ずらの垣の向こうにみどりの眉墨のような山が望まれ、絵に画いても鉛筆もおよばない情
   景である。
    女院の庵室をご覧になると、軒には蔦や槿あさがおが這いかかり、忍草なじって忘草がはえ
   て、
     瓢箪しばしばむなし、草顔淵がんえんが巷ちまたにしげし
     藜藋れいでうふかく鎖せり、雨原憲げんけんが枢とぼそをうるほす
    {飲物や食物をいれる瓢ひさごも箪たん(竹製の丸い容器)もしばしば空になる、貧しい顔
     淵の家のあたりは草が生い茂り、密生するあかざに囲まれた原憲の家の扉は、雨にぬ
     れている}
   といったありさまである。 屋根を葺いた杉の皮もまばらとなって、時雨も、霧も露も、
   隙間から差し込む月の光とあらそうようにもれてきて、ふせぎとどめることができようと
   もみえなかった。 後ろは山、前は野辺で、ささやかな小笹をさやさやとならして風がわ
   たってくる。 世を離れて住む身の常として、つらい、悲しいことがそまつな住居の竹柱
   の節のように多く、都からの便りも、目を粗く結った柴や竹の垣根のように間遠である。
   たまたま訪れるものは、峰を木づたいにとびまわる猿の声や、薪を切る木こりの斧の音だ
   けで、これらのほかは緑に茂る樹木や蔦ばかりで、たずねて来る人もまれな所である。
    法皇は、
    「だれかいないか」とお呼びになったが、お答え申す者もいない。 かなり過ぎてかれ
   ら、老い衰えた尼が一人まいった。
    「女院はどこへおいでになつたのか」と仰せられると、
    「この上の山へ、花をつみにおでかけになりました」と申した。
    「そのようなことお仕え申しあげる人もいないのか。 いかに世を捨てた御身とはいい
   ながら、まことにおいたわしいことだ」とおっしゃると、この尼の申すには、
    「五戒を守り十善を保った御果報もお尽きになったので、いまこのような苦しいめにお
   あいになっていらっしぃます。 これお身を捨てる御修行となさって、どうして御身を惜
   しまれることがございましょうか。 『因果経』には『過去の因を知りたいと欲するなら
   、現在受けている果報を見よ、未来の果報を知ろうと欲するなら、現在のその因を見よ』
   と説かれています。 過去・未来の因果の道理を悟りになられたなら、すこしもお嘆きな
   さるわけはありません。 悉建太子しったたいし(出家前の釈迦)は19歳で伽耶城かやじょう
   を出て、檀徳山のふもとで、木の葉を綴り合せたもので肌をかくし、峰にのぼって薪をと
   り、谷に下って水を汲み、難行苦行を重ねた功によって、ついに仏の悟りをひらかれまし
   た」と申した。 この尼の様子をご覧になると、絹か布か見分けることもできないものを
   つなぎ合わせ着ていた。 このようなありさまでこういうことを申すのは不思議なことだ
   とお思いになって、「いったい、おまえはどういう者か」といわれると、この尼はさめざ
   めと泣いて、しばらくはご返事も申し上げない。 少したって、涙をこらえながら申すに
   は、「申し上げるにつけてもおそれ多く存じますが、故少納言入道信西の娘で阿波の内侍
   申した者でございます。 母は紀伊の二位と申しましたが、かってあれほど深くご寵愛く
   ださいましたのに、お身忘れなされたのにつけても、わが身の衰えのほどが思い知らされ
   て、いまさらなんともいたしかたなく存じます」といって、袖を顔におしあて、涙をこら
   えきれないありさまは、まことに哀れで見ていられないほどであった。 法皇は、「それ
   では、おなえは阿波の内侍であったか。 今はすっかり見忘れていたが、ただ夢のように
   おもわれることだ」といって、御涙をとどめかねておられた。 お供の公卿・殿上人も、
   「不思議な尼だと思っていたが、まことにもっともなことであった。」とそれぞれ申しあ
   われたのであった。
    あちらこちらご覧になると、庭の千草はしっとりとおいた露の重さに、垣根に倒れかか
   っており、垣根の外の田には水があふれて、鴫しぎのおり立つすき間もみわけられない。 
   御庵室におはいりになって、襖を引きあけてご覧になると、一間には来迎の三尊の像が安
   置されており、中央の阿弥陀如来の御手には、五色の糸がかけられている。 左には普賢
   菩薩の画像、右には善導和尚、及び先帝安徳天皇の御肖像をかけ、法華経八巻や、善導の
   九帖の御書もおかれてある。 宮中でたきしめられていた蘭麝らんじゃの匂いにすっかり
   かわって、今は仏前の香の煙がのぼっている。 あの維摩詰ゆいまきつの一丈四方の居室
   の内に、三万二千の席を設けて、十方の仏たちをお招き申したというのも、このようであ
   ろうかと思われた。
    襖にはさまざまな経典の中の重要な文句を色紙に書いて、ところどころに貼られてあっ
   た。 そのなかに、大江の定基法師が中国の清涼山で読んだという、
     笙歌遙カニ聞ユ孤雲ノ上 聖衆来迎ス落日ノ前
    (笙の音がはるかかなたの一つの雲の上から聞こえてくる。 落日の光の中にもろもろ
     の仏・菩薩たちが迎えに来て下さる)
   という詩も書かれてある。 少し離して、女院の御製と思われる一首がある。
     おもいきや深山みやまのおくにすまひし雲いの月をよそにみんとは
    (かって宮中でみた月を、このような深い山の奥に住んで遠く離れたところでみること
     になろうとは、おもってもみなかったことだ)
    その傍を御覧になると、御寝所と思われて、竹の御竿に痲の御衣、紙の御夜具などかけ
   られてある。 あれほど日本や中国の善美をつくした数限りない綾羅錦繍りょうらきんしゅうの御
   衣装も、今はすべて夢なってしまった。 供奉ぐぶの公卿殿上人も、それぞれ栄華を極めて
   いたころの御有様を見申しあげたいので、それが、今のことのように思われて、皆涙の袖
   しぼられけたのであった。
    そうしているところへ、上の山から、濃い墨染の衣を着た尼二人が、岩のかけ道伝いに
   おりなやみながら下りてこられた。 法皇は是を御覧になって、
    「あれはだれか」とお尋ねになると、老尼は涙をおさえて申すには、
    「花篭をひじにかけ、岩つつじを取りそえてお持ちになっていられるのは、女院でいら
   っしゃいます。 薪に、蕨を折そえて持っていますのが、鳥居の中納言伊実これざねの娘で、
   五条大納言邦綱卿の養子となり、先帝の御乳母であつた、大納言佐で……」と申し終わら
   ぬうちにないた。 法皇もまことに哀れ深いことと思いになって、御涙をとどめかねてお
   られた。 女院は「これほど世を捨ててしまった身といいながら、いまこのような有様を
   おめにかけるのは恥ずかしい、このまま消えてしまいたい」とお思いになったがなんとも
   いたしかたないことである。
    夜ごと夜ごとに仏前に供える水を汲んでは袂を濡らすうえに、早朝山路の露に袖もしめ
   り、しぼりかねたのであろうか、山にもおもどりになられず、御庵室にもおはいりになら
   ずに、御涙にむせばれて、ただ茫然とお立ちになっておられるところへ、内侍の尼がまい
   って、花篭をお受け取りもうした。



参考文献
1)「平家物語」         全訳注;杉山圭三郎 発行所;株式会社講談社
2)「平家物語」内から外から    著者;正木信一  発行所;新日本新書
3)「平家物語」日本の古典を読む  著者;市古貞次  発行所;株式会社小学校
4)日本古典文学全集「平家物語」 著者;市古貞次  発行所;株式会社小学校
5)「平家物語考察」        著者;清水賢一  発行所;近代文芸社
6)京の古寺から「寂光院 」   著者;小松智光  発行所;株式会社淡交社
7)古寺巡礼京都「寂光院」    著者;瀧澤智明  発行所;株式会社淡交社


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