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                              京都・朱雀錦
(44)三千院



三千院御殿門

    1.三千院の歴史
概要
 三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本(現・滋賀県大津市坂本)に移され、度重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は大原に移転して以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。一方、境内にある往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年(明治4年)に梶井門跡の本坊がこの地に移転してきてからその境内に取り込まれたもので、三千院と往生極楽院は元来、別々の寺院である。
 境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。また日本音楽の原点であり声明しょうみょう発祥の地として著名である。

1.大原
 洛北大原はもと大原荘、または大原郷といい、愛宕郡に属したが、現在は左京区になっている。高野川の上流、比叡山麓下の細長い山間渓谷地に開けた小盆地に過ぎないが、風光明媚の地として知られ、四季折々の眺めも素晴らしく、山野の」かもしだす雰囲気が一抹の安堵感抱かしめ、今なお「山里」と呼ぶにふさわしい所である。平安時代のころは、幽静閑雅の地として、この地に隠栖する者が輩出いた。特に恵心僧都源信(9421017)が寛和元年(985)に著した「往生要集」に強く刺激された比叡山内の僧建ちは、腐敗脱落した宗門への批判を抱き、世俗的な栄誉名刹を厭うあまり、頽廃した山頂を逃れる者がふえはじめた。その折、一部が仏道修行のちとして選び、草庵を営んだのが大原であった。
 かれらはここに草庵や房舎を建てて住み着き、ひたすらに「欣求浄土」を願って読経三昧の生活を送った。これらが集落化したのが別所である。その多くは殆ど消滅し、その後さえも定かでないが、なかでも比較的よく規模が整って残っているのは、現在三千院の本堂となっている往生極楽院のみであろう。
 往生極楽院阿弥陀堂は、平安末期の久安4(1148)の建立で、高松中納言実衝さねひらの妻・真如房尼が29歳の若さで夫を亡くし、供養のために建てた常行三昧堂とされています。真如房尼は、90日間休まず念仏を唱えながら、ひたすら仏の周りを回る不眠不臥ふみんふがの業を約30年間も続けたといわれています。
 次いで左大臣源雅信みなもとまさのぶの子、時信ときのぶ19歳で発心出家し、法号を寂源じゃくげんと号し、長和2年(1013)大原に入った。ここで勝林院を開き、天台の四種三昧(常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)を修行すること40年余年に及んだ。寂源は大原における早期の念仏者の一人である。
 しかし、大原別所の発展に画期的な出来事は、良忍りょうにんの大原入りであろう。彼は天台を学んだもののあきたらず、大原に下って往生祈願の生涯を送った一人であった。良忍は一人の念仏を万人に融通して往生に」導くという、いわゆる融通念仏の教義を唱えた。その門流派大原に栄え、来迎院を初め多くの堂宇が建てられた。
 また良忍は声明の一派を起こした。声明は節をつけて唄えるお経のことで、梵唄ぼんばいともいう。発生地は古代インドで、バラモン教の賛歌を仏教に取り入れ、教文を梵語で歌えるのが始まりと言われる。その後、中国の山西省五台山で流行していたのを慈覚大師円仁(749864)が修得し、帰朝後、大原の地を」声明の本源と定めたという。しかし。円仁が大原に在住したという史料もなければ、堂塔を建立した跡もさだかでない。おそらく良忍が、円仁の声明を洗練し、念仏布教の一助としたものであろう。これを世に「大原声明」としょうした。
 大原一帯を魚山ぎょうざんと呼ぶが、それは中国、山東省にある小高い丘、魚山に由来する。南に大きく迂回する黄河こうががその下に流れているが、三国時代(221265)の英雄の一人曹操そうそうの第四子「思」がこの山の散策を好んだ。父在世中はその詩作のずば抜けた能力故に寵愛されたが、曹操の死後兄弟の妬むところとなり領地を転々とされるようになった。彼の散策を兄弟たちが自らの地位を脅かすものとして怪しんだ。その結果彼は「陳」の国で没して「思」の号をおくられ、「陳思曹植そうしょく・そうち」と称されるようになった。
 ある日、曹植がまだ魚山にいた頃、彼は天上から楽の音を聴き、その旋律に作詞して中國梵唄ぼんばいのもととしたという伝説と、インド仏教の世界観(「俱舎論くしゃろん」)に「世界の中心に須弥山しゅみせんありその周りを囲んで九山八海くせんはつかいあり。その一つに魚の姿に似た山あり」とされたことが結びついた。
 中国ではその山の位置を探して魚山がこの地に当たるとし、詩人として今もその才能が褒められている曹植の故事に因んで、魚山を中国声明(中国では梵唄)発祥の地とした。これに模して日本声明の発祥の地として大原を当てたものである。
 大原別所は、しかし、本寺の俗化を嫌う求道者だけではなく、洛中の喧騒を嫌うて山里に身を潜めた者も意外に多く、彼等も同じように庵を結び、念仏に余生を送ったが、なかには 単に山里生活にあこがれて来住する者もあった。
 文徳天皇皇子惟喬これたか親王(844897)は藤原氏を母系としないために皇太子になれず、出家遁世して大原に隠棲され「伊勢物語」で広く知られた。権中納言源顕基あきもとは「あはれ罪なくして配所の月を見ばや」と語った風流貴公子であるが、長元9年(1036)後一条天皇崩御を悼んで出家し、叡山横川の楞厳院りょうごんいんに入ったが、間もなく大原に閑居した一人である。また、「小倉百人一首」の一人として知られる歌僧良暹りょうぜんは叡山の僧で、祇園別当となり、康平年間(105865に紫野雲林院で亡くなったが、大原にしばし隠棲していた。
 その後、平治の乱に連座し、出家した藤原貞憲(少納言信西入道の息)も大原に隠棲した一人である。貞憲は建礼門院を大原に誘った阿波内侍の兄で、笠置の解脱上人貞慶じょうけいの父にあたる。更に平安末期担うと有名な「大原三寂」と呼ばれた藤原為忠(貴族・歌人の子息)がいずれも入道し、寂念・寂超・寂然と称した。

 かくして大原の山里生活は平安末期に至って盛行した。しかしそこは何といっても天台の別所であり、念仏行者の修行場であり、結縁けちえんの人々の来訪は、孤独と自由を臨むものにとっては、必ずしも相応しい所では」なかった、されば鴨長明(11531216)も初めは大原に5年ばからり隠棲していたが、後に洛南日野山に」移り、建礼門院もまた大原を去って都にもどった。天台の歌僧慈円僧正(11551225)が、この頃はもと住む人や」厭いとふらむ」都に帰る大原の里とうたったことは、その間の事情をうかがわせる。

2.三千院

 三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦年間(782 - 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源という。後の「梨本門跡」の名はこれに由来している。
 円仁(794864)は自坊を弟子・承雲じょううんに伝えた。その地に貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の里坊(山寺の僧が山下の人里に設ける住まい)を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称した。梶井の地名と、加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったという。
 元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある。
 最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所まんどころが設置された。
 これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。政所は極楽院(現・往生極楽院)に隣接して建立された。
 大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。前述の惟喬親王(844 - 897年)が大原に隠棲したことはよく知られている。本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073 - 1132年)も大原に住んだ。 山号の魚山は魏の曹植が陳の魚山に遊んだ際に、空中より聞こえた梵天の讃を筆を執って写し梵唄と名付けたという、声明発祥の故事にちなんだものである。
 坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467 - 1477年)で焼失し、大原の政所を本坊とした。元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。これにより、本坊は大原から移転した。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学とその附属病院が建っている。
◆歴史年表
 奈良時代、788/延暦年間(782-806)、最澄(767-823)は、比叡山延暦寺を開いた。その際に、東塔南谷の梨木の大樹の下に建てた住房・円融房えんゆうぼう/えんにゅうぼうを開創した。これを始まりとするという(寺伝)
 円仁(794-864)は自坊を弟子・承雲じょううんに伝えた。傍らに梨の大木があり梨本と呼んだともいう。 850年、円仁は声明業の精舎を大原の魚山に建てたともいう。
 平安時代、860年、第56代・清和天皇の勅により、4世・承雲が堂塔を修造する。最澄自刻という薬師如来を本尊とし、一念三千院、また円融院(円融坊、梨本坊とも)と称した。東坂本(大津市)の梶井に、円融房の里坊もあったという。この年、承雲により梨本門流が創始された。続く明快により梶井門流が創始される。
 985年、源信は妹・安養尼を阿弥陀三尊に給仕させるために、極楽院を建立したともいう。
 1086
年、白河上皇(72)は、東坂本梶井(加持井)里に前中宮職賢子の菩提のために御願寺円徳院を建立した。円融房は本坊になったという。梨本門跡の中心になる。

 1118年、円徳院に、第73代・堀河天皇第2皇子・最雲法親王が入寺する。初の宮門跡になるともいう。
 1125年、良忍は声明道の守護神として、大和多武峰より勝手神社を勧請した。
 1130年、最雲法親王が14世門主に就き、以後、代々の法親王が住持する門跡寺院になる。梶井宮(梨本門跡、梶井門跡)と称した。
 1148/1143年、真如坊尼は、亡き夫・高松中納言実衡(さねひら)の菩提のために、常行三昧堂(往生極楽院)を建立し、阿弥陀三尊を安置した。当時29歳の真如房尼は、亡くなるまでの30年間に渡り、90日間休まない「不眠不臥」の行を続けたという。1148年、極楽院勢至菩薩像が造立される。
 1156年、現在地(左京区大原)に、梶井門跡の大原支配の政所まんどころ(大原寺の加預)が置かれ、別当代が設けられた。
 1157年、第77代・後白河天皇が、御所の仁寿殿で法華懺法(御懺法講)を行い、以後、導師に歴代梶井宮門主が任じられた。
 1183年、後白河法皇が比叡山より逃れた際に、円融坊が御所として使われた。
 鎌倉時代、1232年、本坊を焼失する。以後、各所を転々とした。東坂本、東山小坂、西の京、東山白川、東山三条高畠、東山中山、東山岡崎へ移る。
 1331/1250年、北山紫野の船岡山に移る。
 南北朝時代、1368年、門跡寺院として後白河法皇に始まる御懺法(御懺法講)が定式になった。 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により、梶井門跡坊の焼失後、大原の政所を仮御殿とした。
 1571年、織田信長の比叡山焼討の際に、門主は大原の地に移る。
 江戸時代1659年、第108代・後水尾天皇、東福門院は大原御幸の際に極楽院を仮御所とした。
 1668年、極楽院が修理落慶になる。

 1679年、後水尾法皇は極楽院に一切経を寄付する。
 1697/1698年、第107代・後陽成天皇皇子・43世・慈胤法親王の時、御所東の河原町御車小路(河原町広小路、梶井町)に本殿(住坊、里房)を建立する。以後、梶井宮御殿の持仏堂を三千院と呼ぶ。また、1698年、徳川綱吉により天台座主になった慈胤法親王のために、梶井町の土地、寺領を寄進される。後、その住房を梶井宮の本坊とし、歴代門跡の住居になる。
 幕末、宮中御懺法講が途絶える。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏棄釈が起こる。50世門主・昌仁法親王は還俗し、梨本宮守脩親王になる。本坊は廃止され、里坊(梶井御殿)の寺宝は大原政所に移される。
 1871年、大原の地に移る。梶井門跡大原政所を本坊、本殿とした。正式に三千院門跡と呼ばれる。江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。以後、往生極楽院も含め、三千院と呼ばれるようになる。
 1885年、旧門跡は復称をゆるされ、三千院門跡と称した。
 1896年、境外仏堂の常行三昧堂の往生極楽院を本堂とし、阿弥陀如来を本尊にした。
 1898年、英照皇太后の一周忌に当たり、御懺法講が復興される。以後、天皇家年忌法要で修される。
 1926年、宸殿が建立される。
  現代、1951年、懺法講を一般にも入帳加入させる。
 1955年、救世観音菩薩が一般公開になる。極楽院など諸堂の修理が始まる。
 1957年、客殿、玄関の修理が終わる。
  1965年、諸堂修理が終わる。デューク・エイセスの歌う「女ひとり」が流行した。
 1967年、客殿(後の竜禅院)の修理が終わる。
  1969年、極楽院三尊、壁画の修理が行われた。
 1979年、御懺法講が年間行事として定められる。
 1989年、金色不動堂が建立され、金色不動明王立像が安置される。
 2002年、阿弥陀三尊像が国宝指定になる。秘仏の本尊・薬師瑠璃光如来像が初めて開帳される。
 2006年、円融蔵が新築になる。

3.声明前記

声明しょうみょうとは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、サンスクリットなどの音韻論・文法学を指す。転じて、仏典に節をつけた仏教音楽を指す。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。本項ではこの仏教音楽について主に記述する。 声明しょうみょうは仏教音楽であると同時に日本音楽の原点である。

1)仏教の誕生

 仏教は、古代インドの王国マガダ国(現在のインドのビハール州に存在)の国内およびその周辺にあたる、古代インドの東部地域に興った宗教で、ゴータマ・シッダールタの教えを基にしている。このことから、仏教は今日現存する宗教のなかで最古の部類となる。

 ゴータマ・シッダールタ(仏陀)は仏教の歴史的創始者である。初期の文献によれば、彼は古代インドのコーサラ国領にある釈迦族の小国(現在はネパール国内)に生まれた。このことから、彼は「釈迦牟尼(シャカムニ)(釈迦族の聖者)として知られた。釈迦族は氏族の会議体によって統治されており、ゴータマは支配氏族のひとつに生まれたため、バラモン(婆羅門)と話す時には自らをクシャトリヤと称した。初期の仏典では仏陀の生涯は描かれていないが、紀元前200年頃以後の文書では様々な神話的脚
  色を含んだ伝記(本生譚、本生経)が残っている。これらの文書に共通して、ゴータマが氏族の長としての人生を放棄したこと、禁欲的な修行者(沙門)として一定期間生活して様々な師のもとで学んだ後に、禅定(瞑想)によって涅槃(煩悩を滅すること)と菩提(仏の悟りの智慧の覚醒)を得たこと、が描かれている。
 仏陀は仏弟子に対し、行った先の地域の言葉で教えを広めることを求めた。仏陀は、シュラーヴァスティー(舎衛城)、ラージャガハ(王舎城)、およびヴァイシャーリー(毘舎離)の近郊にいることが多かった。仏陀が80歳で入滅するまでに、数千人が彼に付き随った。
 仏陀の入滅後 400年間の間に、仏教には様々な活動が見られた。部派仏教(今日、上座部仏教だけが現存している)の成立、および大乗仏教、密教および横断的な部派の成立である。新しい経典が受け入れられ、古い技術が改訂された。
2)入滅
 1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー(英語版)がネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。
 シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
 ネパール中南部のティロリコート(英語版)と、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワー(英語版)の両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って論争になっている。
 1898年にイギリス駐在官WC・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。
 生没年
 釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教と南伝仏教の経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない。
 宇井伯寿や中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80
で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。
 主な推定生没年は、
・紀元前1029 - 紀元前949 : 「正法眼蔵」による説
・紀元前624  - 紀元前544 : 南伝仏教による説
・紀元前565  - 紀元前486 : 北伝仏教の『衆聖点記』による説 数え年で80歳、満年齢で
 79
年間となる

・紀元前466  - 紀元前386 : 宇井説
・紀元前463  - 紀元前383 : 中村説等があるが、他にも様々な説がある。
 なお、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された。この遺
 構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確
 実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中
村説は否定されることになる。ただし、
 問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある。

3)文字の無い時代(口伝時代)
 釈迦が存在している時代には文字(サンスクリット語)は存在していなかった。
サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派インド語群に属する古代語である。 釈迦入滅時に、文字が存在したか、存在しなかった。
 サンスクリットは、古代インド・アーリア語に属する言語。インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの仏典がこの言語で記された。
 漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本など漢字文化圏でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である。
 サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派インド語群に属する古代語である。
 リグ・ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)をはじめとするヴェーダ文献に用いられていたヴェーダ語をその祖とする。ヴェーダ語の最古層は、インド・イラン語派イラン語群に属する古典語であるアヴェスター語のガーサーの言語(古アヴェスター語)と非常に近い。
 ヴェーダ語は紀元前5世紀から紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、体系が固定された。その後、彼の学統に属するカーティヤーヤナおよびパタンジャリがこの理論の補遺及び修正を行い、最終的に整備された。この3人、とくにパタンジャリ以後の言語は古典サンスクリットと呼ばれる。古典サンスクリット成立後も、5世紀のバルトリハリなどの優れた文法学者が輩出し、文法学の伝統は続いていった。
 パーニニの記述からはサンスクリットが北インドの広い領域で使用されていたことがうかがえるが、この時期にはすでにサンスクリットは文語化しており、インド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる)が用いられるようになっていた。紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王によって刻まれたインド現存最古の碑文であるアショーカ王碑文はサンスクリットでなくプラークリットで刻まれており、また上座部仏教(南伝仏教)の仏典もプラークリットに属するパーリ語で記されているのは、この言語交代が当時すでに起こっていたことを示している。しかしサンスクリットは典礼言語として定着しており、宗教(ヒンドゥー教・仏教など)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間にわたって用いられた。こうしたサンスクリットの伝承者はおもにパンディットと呼ばれる学者であり、彼らは膨大な文章の暗記を行い、それを読誦し、口伝によって後世へと伝えていった。
 グプタ朝(320550年)ではサンスクリットを公用語とし、カーリダーサなどに代表されるサンスクリット文学が花開した。この時期には碑文は完全にプラークリットからサンスクリットで刻まれるように変化しており、また7世紀ごろには外交用語として使用されるようになっていた。10世紀末のガズナ朝以降、デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、北インドで交代を繰り返した中央アジア起源のインド王朝はペルシア語を公用語としたが、この時期にもサンスクリットの学術的・文化的地位は揺らぐことはなかった。
 釈迦入滅の時点にインドに文字が存在したかどうかである。釈迦入滅の時期、インドはバラモン教の全盛期であった。バラモン教の重要な文献、ヴェーダ文献・リグ・ヴェーダが存在する。リグ・ヴェーダの最古のものは紀元前1500年頃ヴェーダ語で記載されかものである。問題はこの文献が何時記載されたかである。もし、紀元前1500年に記載していたら、釈迦入滅時ひはヴェーダ語(文字)が存在していたことになる。しかし、答えは、後世の記載です。
 
ヴェーダ語とは、サンスクリットの古い形である。インド・ヨーロッパ語族の中で、最も古い時代に共通のインド・イラン祖語から分化したインド・イラン語派言語のひとつで、インド語群に分類される。
 紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王によって刻まれたインド現存最古の碑文であるアショーカ王碑文はサンスクリット語でなくプラークリットで刻まれている。プラークリットはサンスクリットを基礎(prakr̥ti)として生じた方言の一種とかんがえられている。即ち釈迦入滅の頃は釈迦の教えを書き留める文字が存在しなかったが、全インドを統一したアショーカ王の死亡時には文字が存在したと考えられる。しかし、釈迦の生没は南伝仏教では紀元前624年~ 紀元前544年、北伝仏教では紀元前565年~ 紀元前486年と100年弱の差があります。
 声明は、釈迦の教えを一般大衆や後継者に伝授するためには、釈迦の膨大な教えを暗唱しなければあらない、容易に暗唱するための手段として声明が考案されたと推定されます。
 仏教が誕生したのは紀元前554年~480年、キリスト教が誕生したのは西暦7080年に誕生している。そしてイスラム教は最も遅く610年頃に誕生している。そしてこの三大宗教宗教と言われる三つの開祖の教えは文字による書類でなく。口伝で伝えられているのす。そしてその型式は物語です。日本の各地の昔話が親子代々口伝により現在にまで伝えられていますが、三つの宗教の教祖の教えは文章ではなく物語として伝えられているのです。しかし、日本の昔話には節はありませんが、三つの宗教の原書(開祖=教祖の教え)教えには、節があります。この節を仏教では声明といいます。キリスト教ではグレゴリオ聖歌、イスラム教では、アザーンです。

(4)インドの声明
 古代インドの学問分野(五明ごみょう)の一つ。五明とは、声明(音韻論・文法学)・工巧明(工芸・技術論)・医方明(医学)・因明(論理学)・内明(自己の宗旨の学問、仏教者の場合は仏教学)の5種類の学問分野を指す。インドは古来から音楽の国である。特にナーガー族は音楽を好む民族で、マハーパラータ、ラーマヤーナ等にも明らかである。インドの五明学の中の聲明はその一つで、紀元前数世紀ころから発達していた。紀元前六世紀に仏が出られた頃には文字が確定しておらなかったので人は口から耳へと伝えてきた。そこで暗唱する事が必要であるため写瓶相承という姿でつたえられた。
*写瓶相称 師から弟子へと教法が次々に受け継がれていく際、その教法の授受が、あたかも一器の水を他の一器に移すように、一滴たりとも遺漏なくすべてが伝えられ、受け継がれていくこと。

(5)中国の声明
 中国で仏教声楽を指した言葉として「梵唄」という語が用いられた。梵唄の成立の詳細は不明ではあるが、『法苑珠林』などの記述から魏の曹植に始まるというのが通説となっている。
 インドから仏教とともに仏教声楽ももたらされた。中国とインドでは言語も音楽文化もまったく異なるために、そのままの形で受容されることはなかったが、仏典を基にした歌詞や、梵語の音韻を活かした朗々とした音声など、漢語の声調を基調とした梵唄として発展を遂げた。梁代に書かれた『高僧伝』には、経師と呼ばれる経文の読唱に長じ、梵唄を作曲する声楽専門の僧が名を連ねている。

(6)日本の声明
 声明という語は仏教の式典用語として、奈良仏教と真言・天台,および天台系の諸派におのいて、仏典をサンスクリット語でうたう梵讃ぼんさんや唐音とういんでうたう漢讃かんさんなど外来のを指す用語に使われていた。伝来の経緯によって同じころ中国からつてられた曲であっても声明と呼ばずに引聲いんぜいと呼んでいた。また臨済や曹洞などの禅宗では、宋音そういんでうたう中国からつたえられた曲を梵唄ぼんばいといって声明とはいわなかった。さらに、平安・鎌倉時代に造っれタ日本製の講式や和讃なども声明の範囲には入っていなかった。つまり、仏教の声の音楽のすべてを包括する名称は存在しなかった。
 声明という用語を、仏教の声の音楽のあらゆるジャンルを包括する用語として最初に使ったのは、国立劇場開場記念公演として初めて仏教の声の音楽コンサートを開催した時であった。仏教音楽という語は現在の造語であり、かつ国が宗教に関与してはいけないという憲法の規定に触れることになる。声明という名称は伝統音楽のジャンルの名称で。一応主教から切り離した型となり得る 。文字の形にも発音にも趣があり、世間には知られていない意外性もある。こうして声明公演として世に出た声明という名称は、いままで世間でも国立劇場と同じ意味に使うようになっている。いわば商品が物品の名称になった物で、現在では声明という語は仏教の声の音楽全般を指す語として定着した。しかし昭和41年以前の出版物では声明という語は狭義にしか使われてい
1)一般的日本音階
 日本音楽の種類は広範囲にわたるが、幾つかに分類することができます。音階でみると西洋の 長音階のドレミファソラシから四番目のファと七番目のシを除いたドレミソラの五音を用いた音階で、半音を 含まないのが特徴であり、四・七が抜けているので「ヨナ抜き音階」と言われるそうです。
 日本音階は古来中国から音楽理論から生まれた音階といわれ、古くは「呂旋法りょうせんぽう 」といいました。この五音の開始音を変えたラドレミソの音階は「わらべ歌」や「民謡」に多いの で「民謡音階」と言われた。ソラドレミと変えると「雅楽」や「声明しょうみょう」、「君が代」や古 い民謡で用いる「律りつ)旋法」になるのです。明治のころに歌われた「蛍の光」をはじめとす るスコットランドやアイスランド民謡の替え歌がすんなりと受け入られたのも、それらが「ヨナ抜き音階」 であったからです。又、一方半音を含む五音音階を用い、「律旋法」からミファラシドという「都節( みやこぶし)音階」が生まれ、近世邦楽のほとんどがこの音階を使用するようになった。この音 階を転回してラシトレ゙ミファソの第四音レと第七音ソを抜いたヨナ抜き短音階となる。哀愁を帯びたこの 音階は、演歌に不可欠の音階として広く愛好されています。
1.1)天台常用声明より
◎ 日本音階の基本音(主音)は壱越音であり、洋楽長調の基本音(主音)C音である。洋楽短調 の基本音(主音)A音である。声明音階の基本音(主音)は宮音である。
◎声明は、三種・五音ごいん・七声しちせい及び12律から構成されている。五音は宮きゅう・商しょう ・角かく・徴・羽うの五音階からなっている。七声は五音に上下半音の嬰えいと変へんとの2 音を加えてたもので、嬰は、西洋音楽の#シャープ(半音上がる)、変は♭フラット(半音下がる )と同じです。三種とは呂ろ・律りつ・中ちゅうの三旋です。五音に変宮・変微を加えたもの が呂旋、五音のみであるのが律旋、嬰商・嬰羽を加えたものが中旋である。

                              十二律表
          日本所用の律名             中国古代の律名     洋楽平均律調
  1               壱超いちこつ                    黄鐘こうしょう                      D  
                断金たんぎん                    大呂たいりょ                        ♯♭ 
  
              平調ひょうじょう                太簇たいそう                        E   
                 勝絶しょうぜつ                    夾鐘きょうしょう                    F  
                 下無しもむ                       姑洗こせん                          ♯♭
                 双調そうじょう                  仲呂ちゅうりょ                      G     
  
              鳧鐘ふしょう                    すい賓すいひん                    ♯♭       
  
              黄鐘おうしき                    林鐘りんしょう                      A       
  
              鐘鸞らんけい                      夷則いそく                          ♯♭       
  
10         
  盤渉ばんしき                      南呂なんりょ                        B      
  
11
         神仙しんせん                   無射ぶえき                         C      
  
12           
 上無かみむ                      應鐘おうしょう                     ♯♭        
  
            壱越いちこつ                    黄鐘こうしょう                     D

2)十二律
  十二律じゅうにりつとは、中国や朝鮮、日本の伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの 音である。洋楽にお音階は、1オクターブを12に等分した音階であるが、中国から伝来し我が 国で採用している邦楽(雅楽、声明を含む日本音楽全)の音階も1オクターブを12に分割した 音階である。しかし、その分割のしかたが、洋楽と邦楽では大きく異なるのである。
  洋楽の音階は1オクターブを12に等分割していますが、邦楽では、「三分損益の報」を取っ ています。その前に1オクターブとは一体何を知らなければなりません。1オクターブとはドか ら始まり次のドまでとイメージする方が多いでしょう。実は、その「ド」と「次のド」には明 確な定義があります。 我々は「ある音を基準として、周波数比が2倍になる音」を「1オクター ブ上の音」と呼んでいます。つまり、真ん中のドより5音上の「ラ」の音を440Hzとした場合、 1オクターブ上の「ラ」は880Hzとなるわけです。逆に、周波数比が1/2なら1オクターブ下に なります。
  中国での十二律が出たのは、基準となる黄鐘(こうしょう)の音を、長さ周尺9寸、内径三分三 厘八毛の竹の底を閉じて吹いて出た音とした。このようにして黄鐘の音が決まると、九寸の三 分の一を取って、六寸としてこの音を林鐘とした。次に六寸の三分の一の二寸を加えて八寸と して太簇とした。このようにして、三分の一を取り去り、その三分の一を加え、次に三分の一 を取るというように十二回繰り返してできたのが譜例1である。音の高さを順に並べたのが十 二律である。このようにして三分の一を加えることを益、取り去ることを損の字で表して、こ れを「三分損益の法」というのです。
  前記の十二律表に周波数(ヘルツ㎐)を補足しますと下記になります。

     洋楽音名   ヘルツ        和楽音名    ヘルツ
     D  レ                                         壱越                    573.33
          C ♯ド                                     上無                    536.89
           C  ド            528                     神仙                    509.62
          B  シ             495                     盤渉                    483.75
          A ♯ラ         466                     鸞鐘                    453
          A  ラ       440                     黄鐘                    430
          G ♯ソ      415                     鳧鐘                    402.67

  日本の雅楽の基準は壱越の音であるが、洋楽はドレミファでド音が音階の基準となっています。し かし、音の調律する時は、Aの音(ラの音)を基準にしている。オーケストラで ヴァイオリン系楽器 が調弦するときにオーボエの吹くAの音に全員が合わしている。
 雅楽律(十二律)洋楽(十二平均律)の各音の振動数を比較する為にA音が440Hzである洋楽のそれ ぞれのドレミファの音を、雅楽の黄鐘の430Hzを基準にして計算された表が 図の6の雅楽・洋 楽振動対照表のようになる。シは同じであるが、ドは4、レは4、ミは1、ソは5、ドは7Hz多く 、逆にファは18Hzも少ないのである。雅楽のメロディを洋楽の五線譜で表すことは困難である ことがわかる。
  日本の声明は陰陽五行説に基づいた中国の音楽理論が基礎となっている。声明は宮・商・角・ 徵・羽という5音からなり、呂・律・中曲と呼ばれる音階、旋律に関する3つの概念に則ってパ ターン化されている。これらの概念は天台、真言など流派によって解釈が多少異なる。
  儀礼の場において、呂曲、律曲は四箇法要や二箇法要などの場を飾るための曲として使われ 、呂曲のほうが相対的に重要な地位を占めている。中曲は日本独自の様式であり、儀礼と儀礼 の間をつなぐ、本尊に願いを伝えるなど、儀礼を進行させるための実用的な機能を持つ[4]。現 存する日本語歌詞の声明のほとんどは中曲に属する。
3)旋法と調子
  洋楽にハ長調(C)やニ短調(Dm)などの調子や旋法があるのと同じように、 聲明でも調 子があります。 旋法としては律(りつ)と呂(りょ)の2つが定義されています。

       律の旋法         呂の旋法
   
  上の図は、壱越調の場合の律と呂の旋法を五線譜に表したものです。 このように宮(第1音) と角(第3音)との差が、 完全4度(半音5つ分)であるものを律、 長3度(半音4つ分)で あるものを呂というのです。また、上の図のように第1音が壱越(D)の音で 始まる調子を壱 越調といいます。 同様に第1音が双調(G)で始まるものを双調といいます。
  理論的には、12音のそれぞれに律と呂の旋法があり、 全体では24の調子があるはずですが、  真言宗の聲明では伝統的に次の5つの調子を使用することになっています。壱越調の呂、平調 の律、双調の呂、黄鐘調の律、盤渉調の律
4)声明の発展
  天台声明からでた盲僧琵琶が、鎌倉時代の初めに成立した平曲へいきょくの起源になったと言 われる。琵琶という楽器は、古代から雅楽で用いられており、これを楽琵琶という。盲僧琵琶 と楽琵琶は構造が若干異る。盲僧というのは盲人で僧形となっている者だが、仏門に入ったわ けでなく、寺社に所属する賎民としての扱いを受けていた。そうした僧形の盲人たちが平家滅 亡の記憶も消えやらぬ頃、平家物語の詞章を琵琶に合わせて語り諸国を流浪して歩いたのであ る。 平曲の詞章は平家物語であり、その作者といわれるのは信濃前司行長である。徒然草(第 244段)が伝える逸話によれば、行長は御鳥羽院の御代(11821184)に七徳の舞のうち二つ を忘れたので『五徳の冠者』と異名をつけられ、情けないと思い遁世した。慈鎮和尚が面倒を みるうちに行長は平家物語を書きあげ、生仏(しょうぶつ)という盲僧が作曲して語ったのが 平曲の始まりという。これは雅楽の衰退と新興の音楽の発生を物語る暗示に富んだ逸話である 。平曲は江戸時代の末期までは盲人組織の当道座が幕府の庇護を受けていたため保たれてきた が、明治に入り当道座が解体されるとともに衰退。 今日では数人の伝承者によってわずかに絶 滅を免れている。なお浄瑠璃・長唄などの中に「平家」あるいは「平家ガカリ」という旋律型 があるが、これは平曲の曲節を模倣したものである。
5)日本音楽へ
 その後、声明は、平曲―猿楽(能)―歌舞伎―浪曲―歌謡曲と発展した。

(7)キリスト教の声明
 キリスト教は、ナザレのイエスが起こした様々な奇跡を信じ、更に彼を旧約聖書に言及されている、キリスト(救い主)として信仰する宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(カトリック教会・プロテスタント・正教会など)は「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。彼の軌跡は新約聖書にまとめられている
 キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぎ、イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった。
 紀元前6年ないし紀元前4年ごろナザレのイエスがベツレヘムに生まれる。ナザレのイエスが刑死する3年ほど前、ナザレのイエスはガリラヤで宣教を開始する。山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある。紀元後30年ごろナザレのイエスが刑死された。
 50年ころパウロはイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。70年ころ無名の著者はマルコによる福音書を記した。80年代、無名の著者はルカ福音書を記し、イエスの復活信仰が確立した。
 95年から96年ごろ、著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される。パウロの死んだ年は60年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された。小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた。キリスト教的な終末信仰が確立した。
 ユダヤ教からのキリスト教の自立
 60年代、ヤコブ、ペトロ、パウロが死ぬ。66年から70年、第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊したころ、ユダヤ教からキリスト教が自立した。
 4世紀以降神学論争が激しくなり、教会が分裂をするようになる。暴力を用いる過激な教派が生まれてくる。
 380年、テオドシウス帝はキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。381年、コンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議がニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。
 392年、国教となったキリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の信仰活動が帝国内において禁止される。
1)キリスト教の聖書
  キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書はユダヤ教の正聖書です。旧約聖書 とは、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群。全24巻から成り立ち 、律法(トーラー : Torah)、 預言者(ネビイーム : Nevi' )、諸書(ケトゥビーム : Ketuvim) に分類され、3つの頭文字TNKをとり、タナハ (Tanakh ヘブル語) と呼ばれる。 律法と呼ばれ る文書(モーセ五書)を核に、預言書(神からの啓示である預言の記述)および歴史書、諸書 と呼ばれる詩や知恵文学を加えたものをさす。
   現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている。紀元前4世 紀頃から、ギリシア語訳が作られるようになった。有名なものにアレクサンドリアで編纂され た七十人訳聖書がある。
  聖書はキリスト教の聖典であり(ただし位置付けは教派により異なる)、旧約聖 ) と新約聖 書 からなる。キリスト教では、イエス・キリスト以前の預言者と神の契約を旧約と言い、キリ スト以降のキリストの言葉や奇蹟を弟子たちがキリストの死後書いたものを新約聖書と称して いる。
  旧約」「新約」の「約」とは、神との契約のことで、2世紀頃からキリスト教
徒の間で呼ばれ 始めた。「『新約』はユダヤ教での神との契約を反古にして、神と新たに契約したということ であり、旧約聖書は教典の役割を果たさないものである」と捉えるのは誤りであり、例えば新 約聖書マタイ伝の一節「天と地が消え失せるまで、すべてが成し遂げられるまでは、律法から 一点一画も消えることは無い」(5:18)に見るように、キリスト教においても旧約聖書は決して 無視できない書であり、正典に数えられている。
  イエスの言葉や行いは、まず、口伝として、大切に言い伝えられました。その口
伝を編集し て、最初に書かれたものが、「マルコによる福音書」です。60年代のことです。イエスが処刑 されたのは、西暦30年頃です、イエス死後40年後のことです。70年代には、「ルカによる福音 書」と「マタイによる福音書」が書かれました。もう1つの「ヨハネによる福音書」の成立は、 100年頃と言われています。
  正典とは、カノンとも言います。ものごとの基準、規範となるものという意味です。ですか ら、聖書正典といえば、キリスト教信仰の最高の規範になるものという意味です。教会が正典 と認めているものを、まず挙げておきましょう。旧約聖書は46書、新約聖書は27書あります。
2)グレゴリオ聖歌
   グレゴリオ聖歌は、西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ロー
 マ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽である。

 グレゴリオ聖歌は、主に9世紀から10世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発
 展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇グレゴリウス1世が編纂したと広く信じられたが、
 現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられている。

   その後、歴代の教皇によって曲目はふやされ、13世紀ごろまで発展を続けました。これらの
 曲を総称してグレゴリオ聖歌とよんでいます。

  この聖歌はどの曲もふしが一本のみでできており、伴奏もありません(日本の声明に類似)
 。まだ男声のための曲ばかりです。時代が進むにつれてヨーロッパ人の耳にも何だか物足りな
 さが感じられるようになり彼らは、この聖歌のふしに別の高さの音を同時に重ねる工夫をはじ
 めました。今日あるようなヨーロッパ音楽の見事な多重性はこのようにして始まったのです。
 皮肉なことに、本体のグレゴリオ聖歌そのものは徐々にすたれ、十八世紀ころには、一般の教
 会ではほとんど用いられなくなってしまいました。それに代わって7⃣重厚な合唱音楽が全盛を
 誇ることになったのです。 

  しかし、やがて音楽家たちの手によって復興がはかられました。とくにフランス
のソレーム
 やドイツのボイロンといった修道院が注目を引きましたが、結局、ソレームの唱法を基にして
 二十世紀の初めにピオ十世の布告によってグレゴリオ聖歌は復活しました。


(8)イスラム教の声明
 イスラム教は、唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教と呼ばれる。
ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。
 今日、ムスリムは世界のいたるところでみられる。異論はあるが、2010年時点で16億人の信徒があると推定されていて、キリスト教に次いで世界で2番目に多くの信者を持つ宗教である。ムスリムが居住する地域は現在ではほぼ世界中に広がっているが、そのうち西アジア・北アフリカ・中央アジア・南アジア・東南アジアが最もムスリムの多い地域とされる。特にイスラム教圏の伝統的な中心である西アジア・中東諸国では国民の大多数がムスリムであり、中にはイスラム教を国教と定め、他宗教の崇拝を禁じている国もある。
預言者ムハンマド
 「イスラーム」とは、唯一神アッラーへの絶対服従を意味しており、モーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)も預言者として認めている。ただし、イエスもムハンマドもあくまで人間として考えており、それゆえ、イスラーム暦の元年はムハンマド(570632)の年生没は重視されていないが、彼の死亡した西暦632年頃は、文字は普及しキリスト教の新約聖書も旧約聖書も文字化され書籍になっていす。神から託された啓示は口伝でつたえられ、彼の死後、弟子により編集され書籍になりました。それは、キリスト教の新約聖書が書籍かして500年後のことです。
 口伝と言えば九州長崎県に、隠れる必要の無くなった現在でも隠れキリシタンのグループが現在も存在しているようです

 
    ②隠れキリシタン協会

     ③隠れキリシタン集会
 

 島原の乱が勃発したのは寛永14年(16371025日、この乱で8000人のキリスト信者が死亡しました。明治の初期キリスト教禁止令は解かれから100年経過しましています。口伝にそれなり魅力があるのかもしれません。
 コーラン(クルアーン)は、イスラム教の聖典である。イスラームの信仰では、唯一無二の神(アッラー)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は114章からなる。
 コーランは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「コーラン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル=クルアーン」と呼ばれる。
1)コーラン(クルアーン)の成立と正典化
  コーランの成立経緯は、コーラン自身とハディース(預言者ムハンマドの言行録)、およびム
 スリム(イスラム教徒)の伝承によれば、以下の通りである。

  アラビアヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであ
 った西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた
 。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリール(ガブリエル)が彼のところにあらわれ、神から
 託された第一の啓示を与えた(この最初の啓示時期はラマダーン月のライラトルカドル(英語
 版)という説がある)。

  はじめムハンマドはこれをジン(魔人)に化かされたものかと思い怖れたが、やがてこれを
 真に神から与えられた啓示と信じて、自ら啓示を受け取って人々に伝える使徒としての役割を
 務めることを決意した。そうして啓示はムハンマドが死ぬまで何回にも分けて下された。

  ムハンマド自身は文盲であったため、彼を通じて伝えられた啓示はムハンマドと信徒たちの
 暗記によって記憶され、口伝えで伝承され、また書記によって記録され伝承された。また、啓
 示されたクルアーンの一部は、ムハンマドの生前から彼に直に接した信徒たちによって木の板
 や棕櫚の葉、石などに文字としてその都度記録されていたことはハディースなどでも伝えられ
 ている。しかし後にムハンマドに直に接し啓示を記憶した者たちが虐殺されはじめ、記憶を留
 めるためにクルアーンを一冊にする作業がはかられ始めた。このように書物の形にまとめられ
 たクルアーンをムスハフという。

 まとめられる以前は、イスラーム共同体全体としての統一した文字化が行われなかったため、
 次第に伝承者や地域によって内容に異同が生じたり、伝承者による恣意的な内容の変更や伝承
 過程での混乱が生じはじめて問題となっていた。

  これに対し危機感が抱かれ、初代正統カリフのアブー・バクルの時期(632 - 634年)に、
 ムハンマドの秘書を務めたザイド・イブン=サービト(英語版)によって、初のクルアーンの
 編纂が行われ、続いて、第3代正統カリフのウスマーンがクルアーンの正典化を命じ、650年頃
 、再びザイド・イブン=サービトを中心として、クルアーンの編纂が行われて1冊のムスハフに
 まとめられた。ウスマーンは公定ムスハフを標準クルアーン(ウスマーン版と呼ばれる)とし
 、それ以外のムスハフを焼却させた。このためウスマーン版を除くムスハフは現在までのとこ
 ろ発見されておらず、クルアーンに偽典や外典のたぐいは存在しないとされる。

2)イスラム音楽(声明)
  イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすものとして容認していない。従
 ってイスラム教国には、音楽が存在しないことになる。しかし実際には宗教活動のうえには「
 アザーン」「タジウィード」という音楽らしきものが存在するのである。

   中近東諸国を中心として、西はモロッコから東はインドネシア、フィリピン南部に広がるイ
 スラム教徒による宗教的音楽慣習の総称。ここで「宗教的音楽慣習」ということばを使ったの
 は、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすものとして容認してはいない
 からである。しかしながら、さまざまな宗教行事や儀式などで現出する音現象は、そうした担
 い手の意識とはかかわりなく、音楽的表現としてとらえうるものである。その様態はイスラム
 社会を構成する民族と同じくらいに多様であるが、ここでは教義的要因と民族的要因の両方を
 考慮に入れて、全イスラム社会にほぼ共通する音楽的慣習、および局地的にみられるものでは
 あるが、きわめて特徴的な慣習について考察することにする。

  これは正統派によって容認された音楽的慣習で、スンニー派、シーア派、その他ほとんどの宗
 派に共通し、イスラム圏全域にみられるものである。

❶タジウィード
  その一つが、礼拝式などにおけるコーランの読誦どくしょうもしくは詠唱である。その起源は7
 世紀後半にさかのぼるが、ユダヤ教やキリスト教の音楽伝統にではなく、古代の呪文じゅもん
 前イスラム期における詩の詠唱に由来すると考えられている。いわば語りと歌の中間様式をと
 り、読誦的側面については、聖なるテキストを正確に伝える目的から、抑揚、発音、休止の方
 法やテンポに関して厳格な規則タジウィードが成文化されている一方、コーランをより感動的、
 効果的に伝えるために、詠唱的側面については、世俗的旋律に基づいてはならないという点を
 除けば、比較的自由である。コーランの詠唱は、教義上、芸術音楽や民俗音楽とは切り離して
 考えられてはいるものの、アッバース朝時代には当時の民衆歌や舞踊歌の旋律にあわせて詠唱
 することが流行したし、またエジプトやトルコには明らかにアラビア音楽の旋法マカームに影
 響を受けたメリスマ(一つの母音を旋律化して延ばして歌う)様式も存在する。しかし、そう
 した世俗化は一時的、局地的な現象であったし、また詠唱の基本的特徴はいまなお芸術音楽か
 らは独立しており、過度に装飾を施したり楽器で伴奏したりすることは避けられている。

❷アザーン
  第二の音楽的慣習に、礼拝の時を告げる呼びかけとしてのアザーンがある。アザーンは、毎
 日5回と金曜日ごとの集団礼拝の際に専門の朗誦師ムアッジンによって唱えられる。その文句は
 定型的で7句(シーア派の場合は8句)からなり、呼びかけが行われる時間と礼拝の重要度に応
 じて反復や特定の変形を伴う。アザーンはミナレット(尖塔(せんとう))の上から一度、そし
 て礼拝の前にもう一度モスクの中で詠唱される。アザーンを行う際の条件は、コーラン読誦の
 それに類似している。すなわち、ことばの明確な理解のために発音法などが厳しく規制されて
 いるが、詠唱的側面については特別の規則はない。そのため、狭い音域で同一テンポで行われ
 る単なる呼びかけに近いものから、広い音域とマカームに類似もしくは関連した旋律構造をも
 つメリスマ装飾のついた詠唱まで、地域によってさまざまな違いがある。もっとも近年、録音
 テープや拡声器が使用されるようになって、アザーンの音楽的多様性が衰退してきたという指
 摘もある。

❸讃美歌
  第三の音楽的慣習には、さまざまな賛美歌や祭礼の歌が含まれる。
(1) ムハンマド(マホメット)の生誕祭マウリードにおいては、ムハンマドの生涯が叙事詩的に語
 られることが中心行事であるが、語りに先だちまずコーランが読誦され、語りの間や語りのあ
 とに合唱賛美歌テブシーヒが歌われる。

(2) スーフィーや異端諸派が行うムハンマドの昇天(ミュラージュ)祭では、特別に作曲された合
 唱作品(トルコではミラーシエとよばれる)が披露される。

(3) スンニー派アラビア諸国とトルコにはムハンマドをたたえた歌ナアトがあり、通常は無伴奏で
 歌われる。

(4)金曜日の集団礼拝式や祭日には、ドゥアー(祈願)やタクビール(「アラーは偉大なり」とい
 う賛美の文句の詠唱)がモスクの聖職者によって行われる。その様式は単純な読誦から高度に
 芸術的な歌いぶりまでさまざまに異なる。

(5) 巡礼者の出発や帰還に際して歌われる巡礼(ハッジュ)の歌がある。これはほとんどの場合、
 合唱もしくは合唱のリフレインを伴う独唱によるが、エジプトではミズマール・バラディーと
 よばれる器楽伴奏(ミズマールというオーボエとタブル・バラディーという円筒型太鼓による
 )で歌われる。

(6)ラマダーンにおいては、1日の断食の開始と終了、および夜の祈りの時間が声と楽器によって
 告げられる。その楽器にはトルコではダブル(大きな円筒型太鼓)かズルナ(ダブルリードの
 気鳴楽器)、モロッコではンフィール(トランペット)が用いられる。また早朝には、1日の断
 食前の食事の時を告げる歌が夜警によって歌われ、トルコではとくに、テムシートとよばれる
 賛美歌が夜の祈りの時間にミナレットから歌われる。さらにラマダーンの終わりに催される宴
 会では、詠唱的な祈りが行われる。こうした賛美歌や祭礼の歌は、トルコではイラーヒ(狭義
 には神聖な芸術歌曲をさす)、アラビアではカシーダ、パキスタンやインドではカッワーリー
 と総称されるが、いずれも世俗的芸術音楽の影響を強く受けたものである。

Ⅱ.建造物と庭園

 
        ④大原の里
 
   ⑤大原バス停より三千院

1.大原
 京都駅よりバスで約1時間大原バス停に到着します。京都駅から、63.968.7㎞、車での所要時間は時間~1時間10分となっています。戦乱や政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、出家・隠遁の地としても古くから知られています。
 バス停には左右2か所の出入り口があります。左方向寂光院行き、1.2㎞徒歩15分、右方向三千院、650m、徒歩10分との表示がある。バス停は高野川と若狭街道に挟まれています。



                      ⑥鯖街道


(1)若狭街道(鯖街道)
 右手の若狭街道を横断し三千院に向かいます。若狭街道は現在の小浜市から若狭町三宅を経由して京都市左京区の現出町商店街に至る若狭街道を指し、おおむね国道27号や国道367号に相当します。往時の若狭街道は現在の国道367号ではなく大見尾根を経由する山道であったほか、それぞれの国道ではバイパス道路が建設されているため旧道(指定解除)となっている区間もあるため必ずしも一致しない。広義では現在の嶺南から京都を結んだ街道すべてを若狭街道とよびます。またこの街道は鯖街道とも呼ばれました。
 鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれた。冷凍技術のなかった当時は、日本海で捕れた生サバを塩でしめて陸送する方法が取られ、京都まで輸送するのに丸1日を要したが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている。夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったといわれる。運び人の中には冬の峠越えのさなかに命を落とす者もいた。しかし、冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされている。
 鯖街道によって、サバだけでなく多くの種類の海産物なども運ばれた。平城宮の跡や、奈良県明日香村の都の跡で発掘された木簡からは、若狭から鯛の寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定され、鯖街道の起源は1200年以上、あるいは約1300年前と考えられている。また、現在の橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡には塩の荷札が多数見つかり、鯖街道を利用して塩も多く運ばれたとみられていました。鯖街道と言われたのはこの道1本ではありません。複数あります。主のものでも下記があります。
1)若狭街道 鯖街道と称される経路は複数あります。最もよく利用されたのが小浜から熊川宿
 (現:福井県若狭町)・朽木村(現:滋賀県高島市)を経て、京都の出
町柳に至る若狭街道で、
 一般に言われる鯖街道はこの経路のことを指しています。

2)琵琶湖経由 小浜から琵琶湖北西岸の今津(現・高島市今津町)へ抜け、琵琶湖上の水運を経
 由して大津まで行き、京都へ至るルート

3)西近江路 今津から琵琶湖の西岸を陸路で辿るルート。おおむね現在の国道161号に該当す
 る。

4)根来・針畑ルート
5)西鯖街道 小浜でなく高浜町を起点とし、福井県道16号高浜線から頭巾山を越え、京都では
 周山街道と呼ばれる国道162号を通る最も西側のルートである。
戦国時代まで、この街道は日本
 海から日本の首都京都に来るための、また更に太平洋側に来るためのメイン道路だつたのです。

 江戸時代に整備された、東海道及び中山道は京都の始点は賀茂川三条大橋を始点としているが、
 大津から出町柳を通るルートや、五条大橋通るルートもある。

   豊臣秀吉は伏見城建設に際し琵琶湖の海運を最大限利用したのです。日本海に集積した荷物は
 琵琶湖北岸の今津に集め、今津から琵琶湖の水運を利用して大津に運んだ。その後大津から陸伏
 見を通るルートを活用した、京都、大阪からの物資も運搬にも、賀茂川・淀川をおおいに利用し
 たている。

    江戸時代から明治時代にかけて北前船が活躍しました、主として北海道の産物を本州で売り
 、北海道に必要なものを本州で購入して北海道で販売しました。北前船には前期と後期がありま
 す。後期では本州南端を回り、瀬戸内海を通り大阪にたっしましたが、前期では、若狭湾が南の
 終点でした。従って北前船の積荷は若狭おろされ、陸路馬車等で琵琶湖の北岸塩津まではこばれ
 、塩津から大津までは船輸送、大津から伏見までは陸送、伏見から、京都又は大阪までは賀茂川
 、淀川を利用し販売されていた。即ち江戸時代には若狭街道はメイン街道でなくなっていたと考
 える
 

 
      ⑦三千院参道
 
     ⑧大原女の小径

 (2)大原女の小径
 若狭街道を横断し、10m程度進むと三千院の表示板に出合う。案内に従い左に折れ細い道をすすむ、暫く進むと「大原女の小径」の表示板が面に着く、この道は「早乙女の小径のようだ、名前に相応しい感じの良い小径であとしばらく進むとと「しば畑」の看板が下記のように」書かれています
1)        紫蘇しそ 

 大原は日本一のしその里
大原の地形や気候などがしそ栽培に適しています。 しその品種は祖先伝来の色・味・香りの良いちりめん種を守りそだてています。主に伝統の「しば漬」や「梅干し」などの材料として用います。

 
       ⑨しそ畑看板
 
         ⑩紫蘇

 シーズン外れで、畑には、しそはありませんでしたが、しそ植物は以下のとおりです。シソ(紫蘇、学名:Perilla frutescens var. crispa)は、シソ科シソ属の植物で、芳香性の一年生草本である[4]。中国原産で、各地で広く栽培されている。
 なお、シソには品種が多く、それらの総称を「広義のシソ」、基本品種である  チリメンジソや代表的な品種であるアカジソ を「狭義のシソ」という場合がある。本稿において特に明記しない限り「紫蘇」または「シソ」とは、「広義のシソ」の意味である。食用にする葉の色により赤ジソと、その変種の青ジソがあり、大葉は青ジソの別名である。
名称
 漢名(中国植物名)では「紫蘇」で、和名の「シソ」は漢名の読みに由来する。「紫蘇」は伝説で若者が蟹による食中毒を起こし死にかけた時に、シソの薬草を煎じて飲ませたところ回復したことから、紫の蘇る草の意味でついた。もしくは、蟹を食べて食中毒になり死にかけた子供に、紫のシソの葉を食べさせたところ蘇ったため、この草を「紫蘇」と呼ぶようになったとも伝えられている。漢字の「紫蘇」は、もともと赤ジソに由来する。
 葉の色によって赤ジソ・青ジソに大別され、葉のしわが多いものはチリメンジソと呼んでいる。特徴
 シソはヒマラヤやミャンマー、中国南部などが原産で、広く栽培されている。日本には中国から伝わったとされ、縄文時代の遺跡からもシソの種実が出土しているものの、本格的な栽培が始められたのは平安時代とされている。
 一年草で、茎は四角形で直立し高さ1 m程になる。葉は対生に付き、長い柄があり、広卵形で先端は尖り、縁には鋸歯があって緑色または赤みを帯びる。品種によっては葉が縮れる場合もある。花期は晩夏のころで、花穂が次々と開花する。花序は総状花序で、白から紫色の花が多数できる。
 シソは本来赤ジソのことで、青ジソはその変種である。芳香の異なるエゴマは近縁種で、互いに交雑しやすい。独特の清涼感のある香りを有することから、虫がつきにくい。しかし、ハスモンヨトウやベニフキノメイガ、ヨモギエダシャク、ミツモンキンウワバなどの幼虫は、シソの葉を好んで食べるため、栽培に当たっては注意が必要である。また、ハダニやバッタもシソを食べることがある。大原女の小径には所々に愛らしい大原女像が置かれています。

 
     ⑪大原女の小径と呂川
 
      ⑫大原女の像

2)呂川りょせん
 大原女の小径の脇を流れる小川は呂川りょせんと呼ばれています。三千院は左右二つの小川に挟まれています。南側を流れる川を呂川、北側を流れる小川を律川りつせんといいますが。これは正しい河川名は南側が南谷川、北側が来た谷川です。即ち、呂川は南谷川、律川は北谷川となります。それではなぜ、呂川、律川と呼ぶようになったか。それは三千院が声明の寺院だからです。
 「呂律がまわらない」という言葉があります。舌が滑らかに動かないために話しにくく、言葉が不明瞭になることを呂律が回らないと表現されます。
 「ろれつがまわらない」とは、酒を飲んで酔っ払った人が、「何を言っているかさっぱり分からない」ような状態によく使われる。
 酒で言語障害が起き、舌がもつれることが原因と見られ、最近では「酒」だけではなく「老人性の病気の症状」とされ、その治療の処方が提案されてる。
 だが「ろれつ」の語源は「呂律」であって、仏教の儀式や法要で僧が唱える歌のような曲「声明しょうみょう」の音階のこととする説が定着している。
 西洋音楽的にいえば、「呂」は「短調」であり「律」は「長調」に近い。 同じ「声明」でも、時により「呂」で謡うこともあり、「律」で謡うことがあった。 この「呂」と「律」の音をうまく使い分けできないことを「呂律ろりつが回らない」といいました。
3)声明しょうみょう 
 声明しょうみょうとは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、サンスクリットなどの音韻論・文法学を指す。転じて、仏典に節をつけた仏教音楽を指す。日本では、梵唄ぼんばい・梵匿ぼんのく・魚山ぎょざんともいいます。
 日本の声明は陰陽五行説に基づいた中国の音楽理論が基礎となっている。声明は宮・商・角・徵・羽という5音からなり、呂・律・中曲と呼ばれる音階、旋律に関する3つの概念に則ってパターン化されている。これらの概念は天台、真言など流派によって解釈が多少異なる。
 儀礼の場において、呂曲、律曲は四箇法要や二箇法要などの場を飾るための曲として使われ、呂曲のほうが相対的に重要な地位を占めている。中曲は日本独自の様式であり、儀礼と儀礼の間をつなぐ、本尊に願いを伝えるなど、儀礼を進行させるための実用的な機能を持つ。現存する日本語歌詞の声明のほとんどは中曲に属します。

2.三千院
 延暦7年(788)、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷とうどうみなみだに(比叡山内の地区名。)に自作の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源とされています。貞観2年(860)清和天皇の勅願により承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・滋賀県大津市坂本)に円融房の里坊(※1)を設けました。この里坊を円徳院と称しました。そしてここに加持(かじ。密教の修法。)に用いる井戸(加持井)があったことから、「梶井宮」とも称されるようになったといいます。
 元永元年(1118)堀川天皇の皇子の最雲法親王さいうんほっしんのう(兄は後の鳥羽天皇。)が梶井宮に入寺したのを皮切りに、以後歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺するようになったことから門跡もんぜき寺院(※2)となり、「梶井門跡」とも呼ばれるようになりました。
※1…里坊は山寺の僧などが人里に設ける僧房、住まい。
※2…門跡寺院とは、平安末期から鎌倉前期にかけて登場する、皇族出身者などいわゆる貴種きし
 ゅ
(貴い家柄の生まれの人。)が入室・住持したことで別格扱いされるようになった寺院のこと
 を言います。

 保元元年(1156)、延暦寺は京都の大原に住みついて秩序を乱す念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院、往生極楽院(現在の三千院境内に配置されている阿弥陀堂)などの寺院を管理するため、現在の三千院のある地に政所まんどころ(以下、大原の政所という)を設置しました。
 一方、坂本の梶井門跡の寺域は、貞永元年(1232)の火災を機に今の京都市内の各地を転々としました。しかし落ち着いた先も、京の町を焼け野原にした応仁の乱(室町時代。14671477)によって焼失し、大原の政所に移転することになりました。そして元禄11年(1698)江戸幕府の第5代将軍徳川綱吉によって京都御苑と鴨川の間にある公家町の一角(現在の上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている)に寺地が与えられたことにより、梶井門跡はここに移ることになりました。
 明治4年(1871)になると、大原の政所が梶井門跡の本殿と定められて、「三千院」と改称されました。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ら明治4年に大原に移転する以前の三千院は、梶井門跡という呼び名が一般的でした。この梶井門跡は応仁の乱で罹災したのち、大原の地に本院を移しました。
 江戸時代になって、5代将軍の徳川綱吉から京都御所に近い河原町御車小路の土地を寄進され、梶井門跡は大原から洛中へ移転します。ただし寺の事務や雑務を取り扱った政所(まんどころ)という家政機関は、そのまま大原に残していたわけです。
 明治維新を迎えると、門跡寺院の住職を務めていた皇族たちは、揃って還俗しました。梶井門跡の住職は守脩(もりおさ)親王で、この人物も僧侶をやめて、明治3年に梨本宮(なしもとのみや)となります。住職が不在となった洛中の梶井門跡は廃寺と決まったため、仏像や寺宝は大原にあった政所に運ばれました。そしてこの大原の政所を本院とし、梶井門跡の持仏堂だった「三千院」を寺の名称と定めて、明治4年に再スタートを切ったという次第です。


    ⑬桜の馬場入口 
 
     ⑭春の桜の馬場


    ⑮三千院門前商店街 
 
     ⑯秋の桜の馬場

(1)桜の馬場
 桜の馬場という名称は日本各地には存在しているようです。乗馬や馬術の練習および馬術競技や競馬を行う場所を馬場というが、もともとは古代の日本で兵の騎射会の会場を意味していた。馬場は朝廷の武徳殿の前にあり、端午の節会には天皇も騎射を観覧し、武徳殿左右の近衛府・兵衛府にも調練のための馬場を設置していた。
 江戸時代になると、江戸中に馬場は散在していて、周辺の武士たちの調練に使われてきた。同時期のヨーロッパなどでは早くもスポーツがさかえていて、一般の庶民もいろんな球技を楽しんでいた。ギリシアのむかしは別にしても、イギリスにはクリケットや蹴球、ボーリングのようなものは貴族から農民までどの階層の人たちにも普及し、そのための場所にも不足はなかった。村にはヴィレッジ・グリーンがあり、ロンドンにはムア・フィールドやスミス・フィールドがあった。一方日本では、スポーツにあたるものをみると、庶民にとってスポーツらしきものは相撲などで、武士がたしなみとして練習した馬術や弓術もあったが、庶民は馬に乗ることを禁ぜられており、明治になるまで武士階級に独占されていた。弓術はその後一部庶民のものとなって、楊弓とか土弓といわれたが、盛り場の遊びとして存在したにすぎなかったという。


       ⑰鉈捨藪跡 
 
       ⑱同左説明板

 
     ⑲二つの名を持つ橋
  
       ⑳津川

 江戸では、郊外の高田馬場と市中にあった馬場は、その面積の大きさと景観の美しさからいっても、現在の運動公園にふさわしいものであった。江戸名所図会には、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場と高田馬場の3つが描かれ、嘉永2(1894)の切絵図では15ヵ所みられるが、馬喰町馬場や高田馬場のように、江戸時代を通じて存続したものは極めて少なくて、大部分は火災後に新たにつくられたり、馬場だったところが、武家地となって消えたりもしている。江戸城北の丸にも設けられ、朝鮮通信使の馬上才(曲馬)を将軍が上覧したことから朝鮮馬場と呼ばれた。
 馬場の堤に桜を植えることが多くそのままを地名となったためです。三千院の桜の馬場はその名の如く、桜の馬場は桜だけでなく、紅葉も多く、春は桜の馬場、秋は紅葉の馬場でにぎわっています。

 
        ㉑南門
 
        ㉒朱雀門


       ㉓御殿門 
 
       ㉔御殿門と桜

写真説明
⑬ 桜の馬場入口
⑭ 春の桜の馬場
⑮ 三千院門前商店街
⑯ 秋の桜の馬場
⑰⑱鉈捨なたすて藪跡、源平盛衰記で活躍する熊谷直実の話。
 熊谷直実くまがやなおざね11411208)は,武蔵国熊谷郷出身の武士。一ノ谷の戦い で源氏軍が平家軍に大勝しました。この時、直実は、平家の若武者、平敦盛を打ち取るが、息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって戦の無情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負う。これが後の出家の動機となったといわれる。この時のことは「平家物語」の中に描かれ、能や歌舞伎でも熊谷直実の無常観として上演されている。文治2(1186)年,天台僧顕真(113092)が法然を大原勝林院に招き専修念仏に関する論議を行った(大原問答)。法然が敗れた場合,直実はその法敵を討ち果たそうと袖に鉈を隠し持っていたが,法然に諭されて投げ捨てたと伝えられる。この石標はその伝承地を示すものである。
⑲⑳ 三千院は、二つの小川に挟まれています。桜の馬場を西に進むと律川りつせに架かる朱色の
 橋に出合います。この橋をわたると、実光院。勝林院、宝泉院に行けます。ほの橋は珍しく二つ
 の名前をもつています。三千院の方からだと「未明橋」、勝林寺側は「茅穂橋」と書かれていま
 す。

㉑ 南門は簡素な鉄製の観音開きの門で、人間の出入り用ではなく、大型荷物や大型荷物大型トラ
 ックの出入り可能な門になっています。

㉒ 朱雀門
  三千院の朱雀門すざくもんは、往生極楽院の南側にある朱塗りの門です。明治初期に三千院が
 大原へ移転する以前の、極楽院を本堂としていた時代には正門として使用されていたのがこの門
 です。江戸時代に再建されたものです。

  豊かな自然に囲まれた京都の里山、大原。その高台にある三千院の境内には自然の地形が残り
 、四季折々の表情を見せる。朱塗りの小さな朱雀門と真紅の紅葉、杉木立に広がる緑の苔がさえ
 ます。

  陰陽学では南方向は清潔にしなければならない場所として便所など不潔なものを置くことは凶
 として嫌いますが、人の出入り口は吉で、多くの場合玄関、門は南側に設置することを奨励して
 いす。

 

  ㉕東・青・青龍
 
  ㉖西・白・白虎
 
  ㉗南・朱・朱雀
 
  ㉘北・黒・玄武

 古代の中国では、東西南北の四方を青竜せいりゅう、白虎びゃっこ、朱雀すざく、玄武げんぶの四神がそれぞれ守護していると考えています。
青竜せいりゅうせいりょうは、中国の伝説上の神獣、四神の1つ。東方青竜。蒼竜そうりゅうと もいう。天之四霊とは蒼竜、朱雀、玄武、白虎のこと。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山せいざん・青林せいりんのように緑色植物の色であり、本来は緑色を指しているとされる。
  東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。
白虎びゃっこは、中国の伝説上の神獣である四神の1つで、西方を守護する。白は,五行説では西方の色とされる。細長い体をした白い虎の形をしている。また、四神の中では最も高齢の存在であるとも言われている。(逆に、最も若いという説もある)俳句において秋の季語である「白帝」と同義であり、秋(西・白)の象徴である。
朱雀すざく、すじゃく、しゅじゃくとは、中国の伝説上の神獣(神鳥)で、四神(四獣・四象)・五獣の一つ。福建省では赤虎(せきこ)に置き換わっている。 朱雀は南方を守護する神獣とされる。長生の神とされ、天之四霊の一つである。翼を広げた鳳凰様の鳥形で表される。朱は赤であり、五行説では火の象徴で南方の色とされる。同じく中国古代の想像上の鳥である鳳凰とは異なるが、同一起源とする説もあり、同一視されることもある。 あくまで神格のある鳥であり、信仰の対象 ではあるがいわゆる悪魔や唯一神、列神の類ではないことが最大の特徴である。
  俳句において夏の季語である「炎帝」・「赤帝」と同義であり(黄帝と争った古代中国神話の神とは別)、陰陽五行説では火であり、夏(南・朱)の象徴である。春・秋・冬の場合はそれぞれ「青帝(蒼帝)」・「白帝」・「玄帝」と色に相応する前があるが、夏の場合は「炎帝」しか普及していない(「赤帝」はほぼ使われておらず、「朱帝」に至っては歳時記に掲載されていない) 。なお、夏のことを「朱夏」ともいう。
❹玄武げんぶは、北方を守護する、水神。玄は黒を意味し、黒は五行説では北方の色とされ水を表す。脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多い(尾が蛇となっている場合もある)。ただし玄天上帝としては黒服の男性に描かれる。
  古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えている。
 「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥げんめい」(「冥」は「陰」を意味し、
玄武は「 太陰神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の蔡邕は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、北宋の洪興祖は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、唐宋以降には伝わらなかった。
 俳句において冬の季語である「冬帝」・「玄帝」と同義であり、冬(北・玄)の象徴である。なお、冬のことを「玄冬」ともいう。
  門の様式は、四脚門、屋根は杮葺きです。塀の石垣は野面です。門の様式は門の構造によって命名するもの使用の用途によって決めるものがあります。四脚門は本柱が左右い本ずつ小計2本の本柱と、各本柱の前後に控え柱が1本ずつ左右の控え柱は小計4本で構成されています。本柱と控え柱の合計は6本になります。控え柱は人間の脚に似ているとして、本柱を除き控え柱だけをかぞえ、四脚門といいます。
 朱雀門はかっては往生極楽院の正門であったようですが、現在は三千院に吸収され通常使用されない開かずの門となっています。 屋根は杮葺きです。杮葺きは板屋根の一種ですが板を薄く割りますので、桧皮葺と類似の感覚をあらえます。朱雀門の左右の石垣塀は野面積みです。

 
                 ㉙穴太積石垣

(2) 御殿門
 三千院は門跡寺院です。歴代皇族が住職を勤められています。皇族のお住まいの門であることにより御殿門と称するのでしょう。
 御殿門の様式は薬医門であるが。通常の薬医門とは異なる。まず本柱が大黒柱ように太い。大軍が攻めてきても破られないお城のようだ。
 通常の薬医門は本柱2本と控え柱2本の4本柱が基本へ門に接続する壁の一部に脇門をつけ、正扉を閉めたのち脇門から出入りできるようになっているのが特徴で医者がこの門を採用した時、急患が出た場合、何時でもはいれるようになっている三千院の薬医門は本柱両脇にそれぞれ柱があり、6本柱となっている。しかも門に接続する壁は屋根に届くほど高い。
 屋根は本瓦葺である。江戸時代火災が多発した。当時は茅葺屋根が主流で瓦の使用は殆ど寺院以外は採用していなかった。幕府は火災の原因に茅葺YS音にあるとかSんが恵かわらに使用を奨励した。そのころ大津の西村半兵衛が桟瓦を発見した。本瓦は平瓦と丸瓦の二種類を使うが、半兵衛は平瓦と丸瓦を接合した桟瓦を開発した。これにより瓦が急速に普及したのである。 しかし、本瓦にもそれなりの特徴があり、寺院では現在も本瓦をしようしている。
①穴太積石垣
 この写真の石垣は、御殿門を潜って正面にある石垣である。三千院は前面の桜の馬場や素晴らしい石垣塀で取り囲まれ、いづれも穴太積とおもわれるが、特にこの石垣が素晴らしい。この石垣の何処が素晴らしいか。
 ⅰ)大・中・小様々な大きさの石が使用されている。
 ⅱ)石と石隙間が石垣前面を通してほぼ一定で、おおきな隙間が殆どみられない。
 ⅲ)穴太積は自然石を用いる野面積のずらずみであり、玉石垣のように飛び出し石になるはずで
   す、100個あれば100個すべてが飛び出しでない。


(3)穴太積
 穴太衆あのうしゅうは、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。石工衆いしくしゅう、石垣職人いしがきしょくにんとも称す。
 穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったという。
 現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊さとぼうと呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。
 穴太積あのうづみ(穴太積み)は、野面積(野面積み)を指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称であり、穴太衆が手がけた野面積の石垣のことを言う。しかし、野面積のことを穴太石垣と誤解されることもある。穴太衆は石垣職人であり、したがって、実際は玉石積や切石積も行えた。
 京都大学で穴太積とコンクリ―とブロックの強度試験を行った結果穴太積の強度がすくれていることが確認された。 滋賀県甲賀市甲南町から水口町にかけての県立自然公園を通る新名神高速道路で西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙い穴太積の採用を考えた際、現代建築に適用可能かどうかを試すための初実験として京都大学大学院による穴太衆積とコンクリートブロックによる擁壁を並べて最大荷重250トンをかけて実験した結果、荷重200トン時点でコンクリートブロックの方が先に亀裂が入り、荷重230トンでコンクリート崩壊のおそれがあり実験中止となる結果を示した。この結果を受けて、工事現場から出土した花崗岩などを再利用した高さ3.5m、長さ260mの石垣が同区間へ採用・新造されている。

 
     ㉚野面積・清州城

      ㉚-1野面積・竹田城 


     ㉚-2打込接ぎ・淀城 

      ㉚-3打込接ぎ・仙台城 

1)石垣の積み方
  穴太積を理解するためには石済みの基本を理解する必要がある。戦国時代に城郭が発達すると
 ともに石垣も発達し、全国各地に穴太衆・越前衆・尾
張衆・長袖衆など石垣衆という石工集団が
 現れ、建築を担った。

  戦国時代以降の石垣は、主に「空積からずみ」という技法が用いられる。対して、粘土やモル
 タルなどを練りこんで石同士を接着する積み方を「練積ねりずみ」という。練積みはコンクリー
 トやモルタルを接着材として石垣施工に用いられている近代工法での例が多い。城郭で用いられ
 た例は少なく、鎌刃城(滋賀県)などに見られる。また加藤清正が手がけた慶長15年(1610
 )の名古屋城天守石垣は裏込めに三和土を用いた一種の練積みである。

◎構造
  石垣の石は、石垣の出隅に積まれる隅石(角石すみいし)と法面に積まれる築石つきいや平石
 ひらいし
で構成される。底の部分の石のことを根石ねいしといい、最上部に据える石のことを天端
 石てんばいしという。

  盛り土または既存の斜面に段状の切り目を施し(切り土)、底にあたる根元に溝を掘って(根
 切り)根石を置き並べ、砂利や割栗石という小さく砕いた石を積み石と斜面の間に詰めながら(
 裏込〈うらごめ〉)石を積み重ねる。地盤が弱い場合は、根切り部分に松材の杭を打ち丸太を並
 べる梯子胴木(はしごどうぎ)という基礎を敷いた[2]。松材は、水中に沈めておくとほとんど
 腐敗せず長持ちするため、梯子胴木は主に水に接する石垣の基礎に用いられた[1]。築石や平石
 の裏込石側(尻側)には介石を添えて角度を決める。尻側が上がっている石を逆石といい滑りや
 すく孕みの原因となる。

  積む石については、以下に述べるが、無加工であるものや加工したものも用いる。切込み接ぎ
 や打込み接ぎのように加工した石を用いる場合は、石同士との隙間が狭まり排水効率が弱まるた
 め排水路や排水口が通される。

 ㉚ 清州城 野面積で乱積
 ㉛ 竹田城 野面積で乱積みより、布積みにちかい。当初野面積=穴太積とかんがえられていは
  な、穴太積でないと判定された。 

 ㉜ 淀城  打込み接ぎで乱積み
 ㉝ 仙台城 打込み接ぎで布積み
2)分類
ⅰ.石の加工程度による分類
   石垣は、加工程度によって、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの3つに分けられる。「
 接ぎ(はぎ)」とは、つなぎ合わせるという意味である。野面積みが最も古い年代に現れた積み
 方で、次に打込み接ぎ、切込み接ぎの順であるが、切込み接ぎの石垣が現れた以降も野面積みの
 石垣が見られることもある。

 a.野面積のづらづみ 
    自然石をそのまま積み上げる方法である。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性
  がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、いまでいうロッククラ
  イミングのような感じになっていますので敵に登られやすいという欠点があります。 一方利
  点として、排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、
  本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代のことである。野面積みの一種として穴太積み(
  あのうづみ)があげられるが、穴太積みは穴太衆が手掛けた石垣であって、特に野面積みの一
  種をいうものではない。穴太衆の技術の高さを誇示する為に江戸後期以降用いられた呼称であ
  る。

 b.打込接うちこみはぎ
     打込接ぎは石に多少の加工をしてから積み上げる手法です。表面に出る石の 角や面をたた
  き、なるだけ平たくしてから石と石の接触部分(接合面)の隙間を
減らして積み上げます。
  石垣を見たときに多少の凹凸はありますが、隙間はかなり少なくなっています。
関ケ原の戦い
  以降は、野面積みより高く、急な勾配が可能になることもあり、
この打込接ぎが盛んに用いら
  れました。

 
    ㉚-4切込積・福井城

     ㉚-5切込積・大阪城 

 
  ㉚-6布積・野面積

  ㉚-7布積・打込接ぎ 

  ㉚-8布積・切込接ぎ 

 
   ㉚-9乱積・野面積

   ㉚-10乱積・打込 

  ㉚-11乱積・切込接ぎ 

c.切込み接きりこみはぎ
    切込接ぎは徹底的に石を加工してから積み上げる手法です。四角く整形した石材を密着させ
  るため、隙間はほぼありません。現代のブロック塀のように同サイズの石が積まれているわけ
  ではありませんが、それなりに大きさも揃えられた石がびしっと積まれています。

     江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになったといわれており、非常に強度が強
  いのでもっとも高い石垣を築くことができる反面、石材同士が密着しているので排水できない
  ため排水口が設けられています。

ⅱ.積み方による分類
  石垣の積み方は、布積と乱積の2つに大きく分けられる。石垣最上部の天端てんばが垂直になっ
 た箇所を雨落あめおとしといい、その下に反りがあるものを「寺勾配」、雨落としが浅い・無い
 ものを「宮勾配・扇の勾配」という。

 a.  布積ぬのづみ
    方形に整形した比較的おおきな石を目が横に通るように積み上げる方法で、整層積みせいそう
  づみ
ともいう。目地が通っているので、強度に問題がある。現在でも擁壁事業(土留工事)で
  用いられているが、現在はコンクリート擁壁の表面にモルタルを接着剤とした練り積みであり
  、強度的問題は無い。

 b.乱積らんづみ 
    大きさの違う自然石の平石、加工した平石をさまざまな方向に組み合わせ、積み上げる方法
  で、乱層積らんそうづみともいう。安土桃山時代以降に用いられた。
また布積の発展型とされる
  、「整層乱積み(せいそうらんづみ)」もある。大
きさの違う長方形の石を使い、横目を通さ
  ないため布積より崩れにくい。

c. 巻石垣
    石垣が孕んで(脹らんで)崩落する事を防止するために既存の石垣の前面に築いて補強する
  石垣。現存する城跡もあるが中でも鳥取城天球丸の巻石垣は球面になっており現時点で確認さ
  れている唯一の球面石垣である。

  ㉚-4福井城は切込接ぎで布積みです。
  ㉚-5大阪城は切込接ぎで乱積です
  ㉚-611 石材の三つの加工方法と二つの積方で六種の石垣があります。
   以上は通常の石垣です。特殊な石垣として以下の物があります:

 
    ㉚-12巨石(蛸石)大阪城
 
    ㉚-13谷積・彦根城


    ㉚-14亀甲積・佐賀城 

    ㉚-15玉石積・横須賀城 

 ㉚-12 蛸石 大阪城内巨石ランキング第一位、
    表面積59.43236畳)重量108t      備前池田忠雄寄進。
 ㉚-13 谷積たにづみ 彦根城の天秤櫓
    谷積みは別名、落積おとしづみともいいます。「平石ひらいし」の隅を立てて積む積み方で、  石を斜めに落とし込んで積む方法です。ちなみに隅以外の普通のところに使う石は平石と呼ば
  れます。

  -14 亀甲積きっこうづみ 
    亀甲積みは石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種です。見た目が亀の
  甲羅のように見えるため、こう呼ばれています。それまでの積み方と比べて、亀甲積みは力が
  均等に分散するため崩れにくいが、石を積むのに技術を要すること、またあまり高い石垣を築
  けないため、江戸後期に低い石垣に用いられた例しかありません。

  -15 玉石積たまいしづみ 
    玉石積みはその名のとおり玉石を用いた積み方です。亀甲積み同様、見た目ですぐにわかり
  ます。頑丈でないため石垣を高くすることはできないので、あまり使われた事例はないのです

 
      ㉛玄関と客殿

      ㉜客殿・坪庭 

(4)客殿
 西側の大玄関から続く書で、一部は慶長度の紫宸殿の旧材を用いて作ったとつたえる。書院は大正元年に修補されました。一部は慶長度の紫宸殿の旧材をもちいて作ったと伝えられています。
 明治39年、客殿各室には、当時の京都画壇を代表する画家たちの襖絵が奉納され、当時若い世代であった竹内栖鳳、菊池芳文、重鎮であった望月玉泉、今尾景年、鈴木松年といった新旧の画家たちの競演となっていました。奉納された襖絵は、現在は宝物館である円融蔵に所蔵されており、随時展示替えをし、公開しております。
1)      玄関(写真㉛) 玄関は書院の一部また書院に接続しています。玄関はどこ国にもある施設
 と考えている人が多いと思いますが玄関は日本固有の施設です。人の出入りする出入り口は世界
 中どこの国にもどんな建物にもあります。しかし、玄関という施設のあるのは世界中日本だけな
 のです。

  世界の人類を靴族と裸足族に分類することができます。裸足族は外出するときも裸足、家に帰
 って室内でも裸足です。靴族は外出するときも靴を履き、家に帰っても靴履きです。ただし、最
 近では日本の影響をうけたのか(ヨーロッパ、中国、韓国)、外では靴家に帰ると裸足にまる人
 が増加しているようです。しかし、まだ玄関を作る所まではなっていないようです。

2)坪庭(写真㉜)
  書院の玄関から上がり客殿に進む途中立派な坪庭にであう。庭とはなにか、敷地のうち、建物
 の無い地面が庭である。多くの国では庭の価値は低く、庭に対する関心は低い。庭の価値が高く
 庭を最も高く評価しているくには日本です。その最たるものが坪庭で。日本庭園は日本が世界に
 誇る文化ですが、その中でも坪庭は日本を代表する文化かもしれません。

  この壺庭の小さな島は見方によっては、大海に浮かぶ日本列島にも見えます。狭い庭の、実に
 賢い有効活用です。

  日本以外の外国ではなぜ庭が発達しないのか。日本では村外れの一軒家。何処でも見られる風
 景です。銃の所有認められ自衛が可能な国は別として、村や町に集約し時には城壁の中で生活し
 ました。其れは治安が悪かったからです。ヨーロッパでは、屋根に明り取りの窓をつけ住居とし
 て活用しています。土地は広くても。家を建てる土地は少なかったのです。

  一方、中国では、土地はすべて国家のもので自分の家を建てる土地を購入することも出来ない
 のです。土地の使用権は認められても所有権はみとめられないのです。

3)客殿(写真㉝-1
  客殿は梶井門跡第四十世応胤法親王おういんほうしんのう153198)が、後継者である最胤さい
 いん
法親王のため、豊臣秀吉の禁裏修理の余材をえて天正年間(157392)、建立されたもの
 です。
内部は西の間、鞘の間、聖の間、、上の間、御座の間等よりなる。
   大正元年(1912)に 修補され、各室の襖には、今尾景年けいねん・鈴木松しょうねん・竹内
 栖鳳せいほう・菊池芳文ほうぶん・望月玉泉もちづきぎょくせんなど当時の京都画壇を代表すつ画家
 の絵がえがかれました。

 
    ㉝-1当初の客殿
 
    ㉝-2現在の客殿


    ㉞-1聚碧園東側 
 
    ㉞-2聚碧園 北→南


    ㉞-3聚碧園 西→東

    ㉞-4聚碧園南西→客殿 

4) 現在の客殿(写真㉝-2
   現在の客殿は、襖は取り外し、平成18年に開館した収蔵庫兼展示室円融蔵に時時展示されて
 います。
屋外の庭は聚碧園です。日本庭園は外だけで見るのではなく室内から眺めるようにも 設計されています。これを「庭屋一如ていおくいちにょ」といいます。庭と建物の調和がとれて一 体になるように設計された空間が広がるの意味です。また左右の柱と上の鴨居、下の敷居で額縁 が構成され、額縁の中絵画になることから額縁庭園という人もいます。
5)聚碧園しゅうへきえん 
   聚碧園は宸殿の下方にあり、石垣と生垣によって上方にある有清園と区切られている。どちら
 の庭園も、元々過剰な造形や装飾はさけ、自然な庭園をめざしている。聚碧園は金森宗和かなも
 りそうわ
15841657)の作庭だとの寺伝があるが確実な史料はない。けれども宗和と親交を持
 った第48世門主慈胤親王の様な僧侶もおり宗和
作庭に関与した可能世があるが、それはあくま
 でも可能性である。

  客殿の庭園、聚碧園は池泉観賞式庭園で美しい小庭である。面積は約255坪。東部は山畔を利
 用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成しています。ま
 た奥部に鶴亀の石庭が残っているが、概して弱く、蓬莱山水としての末葉というべく、江戸中期
 も末葉頃の作庭であることをしめしている。いっせつに客殿再建のとき、金森宗和(1584
 1656
)をして修復せしめたといわれ、往時は東屋や茶亭も配置されていたものと思われるが、
 京都市中に御里坊が建てられてからは、大原はしだいに軽んじられ、ていえんも荒廃に傾き、次
 いで明治維新の変革にあって知行もなくなり、したがって修理もできず、再建当時の恩顧影をう
 しなったのである。

(5)宸殿
 宸殿は昭和元年(1926)に再建された新しい建物である。宮中で行われた御懴法講おせんぼうこう等の法儀を執り行うためにたてられたもので、当院にとっては最も重要な建物である。ゆえに外観は紫宸殿に模して宸殿造とし、内陣には本村薬師如来(非公開)と御懴法講に餅られた楽器類が安置されている。
 御懴法講は、過去の悪行を反省し、心を清らかにする天台宗の重要な儀式である。宮中御懴法講は保元2年(1159514日に仁寿殿じじゅでんにおいて後白河法皇が行ったのを初回とする法要である。 保元の乱(1157)が公卿や武士が入りみだれた骨肉の争いであったことから、両方の死者を弔って法要が行われたと考えられている。
 最澄や円仁が中国から移した法華懴法と例時作法が骨格となり、引声いんぜい作法や法華経講読などがヒントになっているが、基本は後白河法皇の手になるものと思われる。朝(題目)夕念仏という天台の寺院における勤行が基になっている。初期は再々おこなわれたが、やがて三カ日、一日の法要となり、その後も天皇や皇族の回忌などに行ってきたが、文久3年(1836)の仁考皇太后17回忌を最後に宮中御懴法講は途絶えた。明治政府が宮中における仏教儀式を禁じたことによる。

 
                 ㉟御懴法講(声明)

1)        御懴法講おせんぼうこう 
  例年5月30日三千院宸殿にて古式豊かに行われます。声明は日本音楽の原点です。平曲、浪曲
 、小唄、歌謡曲も声明から発展したものです。鴨居の上の「三千院」の額は、江戸時代の前期、
 第112代霊元天皇(在位166361687)の勅額です。三千院の由来はこの額からきています。

   この法要は明治31年(1898)以後大原の地で復興され、その後昭和54年(1979三千院59
 世神原玄祐門主かんばらげんゆうもんすの代に明治天皇70聖忌法要として以後、毎年5月30日を
 御懴法講の報修日ほうしゅうびと決め、一年一会いちえではあるが、「声明例時しょうみょうれいじ
 「声明懴法・律様りつよう」「声明懴法・呂様りょよう」を毎年ごとに繰り返すことになった。全
 てにの法要に「声明」が館寛冠せられている。

  宮中御懺法講の伝統に従ってドウ法要の導師(調声ちょうせい)は三千院の歴代の門主がつとめ
 ている。大原一円の寺院と比叡山の僧が出仕する習わしがたもたれ、今も宮中から勅使の参詣が
 こな割れている。

   御懴法講は、小さな厨子に安置した後白河法皇像の開扉かいびょうに始まり閉扉へいびょうとと
 ともにおわる。昭和の再開にさいして安置されたもので、どこまでも後白河法皇の創始された法
 要であることを明らかにし、同時に法皇への敬意を表明している。この法要は」雅楽と声明の緊
 密な関連を知る善き機会となっている。

 
     ㊱-1宸殿
 
     ㊱-2宸殿向拝柱

2)      宸殿(写真㊱-1
  一重入母屋造、二垂木、瓦葺、向拝付、外壁は蔀戸。
  宸殿は門跡寺院特有のもので、御懴法講等主要な法要はここで行う。有縁の天皇及び歴代門主
 の御尊牌を祀る。

3)        寝殿向拝の柱の面取り(写真㊱-2
  「銀杏面」 柱が角材である場合、その角を削っておくことを「面取(めんと)り」といいま
 す。寺院建築の場合、柱の面取りの比率が高いほど、時代が古いと言えるのです。木の幹はもと
 もと丸いものですが、それをいったん、角材とする場合、かなり削らなくてはなりません。そし
 て出来上がった角材をさらに削るわけですから、実は贅沢(ぜいたく)な使い方です。ですから
 時代が下るに連れ、立派な檜(ひのき)の木もなかなか手に入らなくなったのでしょう、「面取
 り」の割合が小さくなってきました。

  宸殿の向拝の柱は単純は面取りでなく「銀杏面」という特殊な装飾面加工が施されています。
 非業に珍しい柱です。


(6)往生極楽院
 三千院の歴史の源とも言える簡素な御堂です。平安時代に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられます。また往生極楽院は、今は三千院の一堂宇だが、もとは真如房尼しんにょぼうにが永治元年(1141)2月に亡くなった夫高松中納言実衡さねひらのために建てて大原の一寺をなした常行三昧堂でもあると称している。まことにささやかな入母屋造の御堂で、正面3間、奥行き四間。正面は広縁をもち蔀戸で、丈六の本尊阿弥陀坐像と脇侍きょうじの観音、勢至せいし菩薩坐像の三尊(国宝)はこの世の極楽を表していると言われていると言われる。勢至菩薩の胎内背面部の墨書から久安4年(1148)の作であることがわかっている。狭い御堂内を大きく見せているのは、船底天井の構造である。大きな三尊を収めるための工夫であり、殆ど類例をみない工法である。天井には二十五菩薩来迎図、本尊は以後の来迎壁には両界曼荼羅を描き、また外陣の小壁には千仏を描く。極彩色の來迎のさまは剥落が激しいが、かっての色彩による荘厳は充分である。ここで注目されるのは、両脇侍の御姿である。蓮台上にやや前かがみになって、正座の、いわゆる「倭坐やまとすわり」である。日本の生活史の中で、主として胡坐あぐらであった時代から正座に移る過程を物語る貴重なお姿といわれる。

                 ㊲-1阿弥陀三尊(国宝)              ㊲-2倭座り

 
      ㊲-3往生極楽院側面(重文)

    ㊲-4往生極楽院正面(重文) 

 
            ㊳当初の船底天井絵

1)      阿弥陀三尊(国宝)(写真㊲-1,2
像高阿弥陀如来233㎝ 脇侍132
この建物は米山徳馬氏の研究によって高松中納言実衡の後室、真如房上人の建立
になることが藤
原恒経房の日記である吉記を用いて明らかにされている。藤原実衡さねひらは管弦の道に長じていたことが藤原頼長の日記・台記に記されており、亡くなったのは永治元年(
1142)2月9日で当時49歳であった。
 この往生極楽院の本尊及び両脇侍ぞうは、往生要集を著わし、浄土教の祖と緒れる恵心僧都源信(9421017)の作とつたえられるが、勢至菩薩菩薩の胎内背面部の墨書によって久安4年(1148)の作と判明しており、恵心僧都の作でないことは確定しています。
 往生極楽院に祀られている阿弥陀三尊像はお堂に比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴です。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表しています。堂内中心に鎮座する阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちたお姿です。なお、建物は重要文化財、阿弥陀三尊像は国宝に指定されています。さてこの阿弥陀三尊は、平安後期の阿弥陀三尊の基準作と言えるものであるが、その材質・構造は文化庁の修理報告書によれば、三尊とも檜材を用い、正中矧しょうちゅうはぎ(内刳済の材)を中心とした寄木造彫眼像である。本尊は八角形の裳懸もかけ宣字形台座せんじざ(横から見た形が漢字の宣に似ているところからいわれ、如来に用いられる)に結跏趺坐けっかふざし、印相は両手とも第一指と第二指を結んで、右手を胸に左手を膝上においた、通形の来迎印をとる。光背は二重円向拝で、頭光・身光部ともに圈帯に蓮華唐草と梵字十三個を彫りだし、周縁部には蓮華唐草を彫りこみ,化仏十三体を置く。両脇侍は蓮台上に跪坐し、八葉蓮華の中心に放光を差し込んだ頭光を負い、観音菩薩は蓮台を捧げ、勢至菩薩は合掌するという、典型的な、かつ台座・光背ともに完備した。来迎三尊像である。このように両脇侍が正座した例はすくなくない、福島県願成寺・京都府三室戸・西乗寺・常照皇寺・島根県清水寺・愛媛県保安寺、そしてもと奈良県安養寺に伝わった熱海救世美術館像などがある。いずれも平安時代後期の作で、浄土思想の風靡をおもわせる。こうした作例の中に合って本造はさすがに中央作らしい出来栄えをしめしており、代表的作例といってもよいだろう。脇侍は柔和で穏健な作例の多い平安後期の彫像の中に合って、壮年の威厳を備えた成熟した相貌と豊かな体躯に彫出されており、注目される。とくに、両腿部のふくらみには張りがあり、他像の扁平なつくりとはことなり、股間に垂れる裳の折り返し部分の奥行のある表現は類品のなかでも傑出しており、この像の作者の名は不明であるが、卓抜な技量を有していたことをうかがわせる。
 つぎに当時の極楽往生思想は、厭離穢土欣求浄土という言葉にもみられるように入水・焼身という現実逃避的な傾向も存するが、今昔物語に見られる往生信仰者の行動には無気力な面はなく、感銘深い令が幾つか記録されている。なお、建物は重要文化財、阿弥陀三尊像は国宝に指定されています。
2)往生極楽院(写真㊲-3,4) (重要文化財)
 本堂は、桁行四間、梁間三間、一重、入母造で正面に一間の向拝を持った、杮葺こけらぶき、妻入りの仏堂である。この造営年代については直接の史料はないが、本尊阿弥陀如来の脇侍の胎内に久安4年(1148)の銘があり、内部の古材や装飾文様なども平安後期の末か、鎌倉初期頃の姿をあらわしているので、一般にその頃の造営と考えられている。しかし、内部が古様を伝えているにもかかわらず、外回りは何回かの修理や変更、特に近世初期の元和2年(1616)頃の修理で古い所が変えられてしまったのが惜しまれる。
 現在の外観は正面三間は蔀しとみ(こまかい格子の裏に板を張った吊り上げ式の建具で、この場合上下に分かれていて半蔀はじとみという)の内側に内側の障子(中の間は普通の4枚立て、両側の間は一筋の溝に二枚の障子が立つ「親子障子」)、一間の向拝(階段のところ)には江戸時代後半の蟇股や木鼻がついている。側・背面は板戸に障子あるいは板壁である。四方に高欄(手摺)付きの縁が巡っている。
 このように外回りは江戸時代初期その他の修理や現状変更で古式を伝えていないのが惜しまれれるが、御堂の内部は本尊阿弥陀如来、跪坐される珍しいお姿の観音勢至両菩薩や背後の来迎壁(仏堂の内部にある仏壇の後方の壁。)、これら尊像の安置される内外陣の平面、それに内陣天井まわりなどに当初の物が伝えられていて、昔の姿を目の当たりに拝することができる。まず御堂の平面形式であるが、平安時代に最も盛んだった阿弥陀如来を本尊とする、いわゆる「阿弥陀堂」にみられる諸形式のうち、この御堂の正方形または前後にやや長い矩形の平面で、中央に四本の柱を立てて区切った内陣を取り、その四方を回れるように外陣としたもので、「一間四面堂いっけんしめんどう」ともいわれる形の典型である。
3)船底天井絵(写真㊳)
 この御堂で他の「阿弥陀堂」と殊に違った点の第一は尊像上の天井で、一般に小組格天井こぐみごうてんじょうか折上組入天井などであるところが山形に板を貼った、いわゆる船底天井であり、この種の現存最古例でもある。天井壁画は、時代の経過や香煙たために下からでは判事難い、ころが本尊後ろの来迎壁に」描かれた金胎両界曼荼羅はよく残っていて美しい色を見せて有難く、これらから昔の天井まわりの華麗さが想像できる。
4)縋すがる破風はふ(写真㊲-3,4
 往生極楽院の屋根の軒は直線ではなく先端がやや上に反っている。これをややななめ③からみるとリズミカルな曲線に見える。セキレイやヒヨドリの飛び形は直線ではなく上下に浮き沈みしながら波状にリズミカルな曲線を描いてとぶ。往生極楽院の屋根の軒の曲線も同様の曲線である。この手法は「縋すがる破風はふ」と呼ばれている。一番著名なのは宇治神社拝殿(国宝)である。宇治神社拝殿は屋根の美しさに定評があるが、ここでも縋る破風が採用されています。ところで破風とは何か

 
 ㊴-1切妻破風

 ㊴-2入母屋破風 

 ㊴-3千鳥破風 
 
 ㊴-4むくり破風
 
  ㊴-5唐破風
 
 ㊴-6縋る破風

破風とは、元は切妻造、入母屋造の屋根の妻側部分を広く示す名称でそれぞれ❶切妻破風,❷入母屋破風という。屋根の平側に、ドーマーのようにあえて部分的な切妻造の屋根をつけて破風を生じさせ、屋根装飾とした例が日本の神社建築や城郭建築に見られる。日本では平安時代ごろ以降に❸千鳥破風や❻唐破風が現れた。
 破風板の形状で分けると,一般的な反り破風,反対に盛り上がると❹起り(むくり)破風という。神社・仏閣などの建築にみられる、本屋根の軒先から一方にだけさらに突き出した部分・向拝の破風を縋る破風という。即ち縋る破風は破風の一種の名前であり。混乱を招き好ましい用語でないとおもわれう。
5)往生極楽院向拝柱の几帳面
 往生極楽院向拝の柱は面取り工法のうち最も手の混んだ装飾である几帳面である。…方柱は平安時代以降,角を落として面(めん)をとるが,そのとり方は時代が下ると小さくなり,平安時代は5分の1前後(片方の面の見付の寸法を柱幅で除した割合)であったものが,江戸時代では約12分の1ないし20分の1前後となる。これを切(きり)面というが,そのほかに桃山から江戸時代には唐戸(からと)面(直線ではなく丸い面で,両端に決りが付く)をとるものが現れ,さらに❶几帳(きちよう)面(唐戸面の丸い面を直線で尖らせたもの)へと進む。

 
 ㊵-1極楽院向拝柱の几帳面
 
 ㊵-2几帳面柱
 
   ㊵-3几帳と几帳台

6) 几帳 寝殿造建築の室内は柱が樹立して壁はなく一室の大部屋となっていた。
 固定いるだけで部屋を仕切る壁も建具もほとんどなく、固定の壁も移動可能な建具もなく部屋が必要な場合几帳または壁代かべしろで遮蔽しが壁の代用をしていた。几帳(きちょう)は、平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種である。壁代(壁の代わりのものの意) は宮殿・寺院で吹放しの室内の臨時の間仕切りとして用いる、布または筵むしろを上の長押なげし(横木)から下の長押まで、かけ垂らしておく。
  几帳は几帳台に薄絹を懸けたた遮蔽物であるが、この時使用する几帳台の面から几帳面の名前から几帳面の名前が誕生した。
7) 几帳面な性格
 「几帳面」は、細部にわたって行き届き、きちんとしている様子を意味する言葉です。「几帳面な人」「几帳面な働きぶり」などの表現で用いられます。几帳面な人は、仕事を丁寧に行ったり、時間をしっかりと守ったりすることが特徴です。 そのため、何でも安心して任せられる人として評価されることが多くみられます。
 語源は、平安時代に使われていた家具の細工です。「几帳」という家具が、貴人用に使う間仕切りや風除けのための家具として用いられていました。几帳の角を削り、細工として刻み目を入れた部分が「几帳面」と呼ばれており、隅々まで丁寧に細工が施されていたことから、そのようなきちんとした様子を「几帳面」と表現するようになったとされています。

(7)有清園ゆうせいえん  
7-1)宸殿~往生極楽院


     ㊶-1有清園宸殿前.春 

    ㊶-2有清園宸殿前・秋 

 
     ㊶-3有清園宸殿から

    ㊶-4有清園往生極楽院から 

 
    ㊶-5有清園往生極楽院から
 
   ㊶-6有清園西門から

 往生極楽院を浄土の宝楼園に見立てると、その周庭となっているこの庭の池は、あたかも極楽浄土の宝池を偲ばせる。有清は謝霊運の詩「必ずしも糸と竹とに非ず、山水清音有り」を出典として名付けられたもので、一に有精・有声。霊清ともしるす。平安末期に琳賢法師(戦国時代の絵仏師)が作庭したものを近世の造園家として知られる金森宗和(158541656)が修補に手を加えたとただ伝える。ただし証があるわけでない。
  本庭は全面積約五百坪(16502)。山辺を利用して上部に三段式となった立派な滝組を配し、渓谷式に水を流して下部の池泉に注ぐようになっている。この滝を「細波さざなみの滝」と呼んでいる。また池は南北に細長く、変化に富んだ曲線の汀をつくり、清澄な池中には大小の二島(左に亀島、右に鶴島)すぉ設けるなど、自然式は技法を用い、周囲の渓谷に巧みに合致するように配慮されている。」江戸初期の池泉回遊式庭園です。
  因みに本池は往生極楽院の荘厳の為に造られたのではなく、防火用水池を主とし、合わせて鑑賞庭園という説があります。

 
   ㊶-7有清園三段式・細波の滝

      ㊶-8有清園弁天池亀島 

 
     ㊶-9弁天池亀島と紅葉

     ㊶-10南端より弁天池 

-1春夏の緑の景観も素晴らしいが㊶-2秋の紅葉は更に素晴らし、同じ場所でありなが別世界で
  す。

 ㊶-3,4,5,6宸殿から往生極楽院間は広いコケ庭です。コケを庭にとりいれたのは世界で、日本だけ
  です。コケに葉はに日本庭園の特徴でさり、日本が世界に誇る庭園の一つです。

 コケ庭全般を見渡すと色の感じが異なります。往生極楽院に向かって右側(西)側が緑が濃く  、左側(東)が緑にの色が薄いことに気付くでしょう。緑の濃いエリヤの苔は杉苔類です。緑色  の薄いエリアは杉苔以外のコケです。

往生極楽院を浄土の宝楼園に見立てると、その周庭となっているこの庭の池は、あたかも極楽浄土の宝池を偲ばせる。有清は謝霊運の詩「必ずしも糸と竹とに非ず、山水清音有り」を出典として名付けられたもので、一に有精・有声。霊清ともしるす。平安末期に琳賢法師(戦国時代の絵仏師)が作庭したものを近世の造園家として知られる金森宗和(158541656)が修補に手を加えたとただ伝える。ただし証があるわけでない。
  本庭は全面積約五百坪(16502)。山辺を利用して上部に三段式となった立派な滝組を配し、渓谷式に水を流して下部の池泉に注ぐようになっている。この滝を「細波さざなみの滝」と呼んでいる。また池は南北に細長く、変化に富んだ曲線の汀をつくり、清澄な池中には大小の二島(左に亀島、右に鶴島)すぉ設けるなど、自然式は技法を用い、周囲の渓谷に巧みに合致するように配慮されている。」江戸初期の池泉回遊式庭園です。 因みに本池は往生極楽院の荘厳の為に造られたのではなく、防火用水池を主とし、合わせて鑑賞庭園問い当た者だとという説があります。
  コケ植物コケ類は、世界中でおよそ2万種ほどが記録されている。大きく分類すると蘚類・苔類・ツノゴケ類の3に分類される。ツノゴケ類は希少植物でめったにであわないから。通常コケ類といえば、蘚類せんるいと苔類たいるいの二種類である。これをまとめて蘚苔類せんたいるいと呼ぶ。
  このうち蘚類は繊維状で美観がよくコケ庭に利用されていますが、逆に苔類はゼニゴケと呼ばれ美観が悪く、コケ庭ではもっとも嫌われる迷惑植物であり雑草とともに、庭から排除されています。したがって通常コケと言えば蘚類をさし、コケ庭の苔は蘚類である。更に蘚類は直立する物と横に延びるに分類されます。直立するコケ、即ちスギゴケ、コスギゴケ、ウマスギゴケ等は太陽光線を比較的好むコケです。横に延びるコケは太陽光線をあまり必要としないコケです。自然界で太陽光線の薄暗い処でコケの群生を発見したらその時のコケはほとんど横にのびるコケです。コケの寿命は3~5年と言われています。はじめ植えたコケがそのエリアに適さない場合別種のコケに生え変わります。参道の東側にスギゴケが無いのは太陽光線が不足していてスギゴケに適さないエリアだと考えられます。
7-2)弁天池
-7細波さざなみの滝往生極楽院の東側に比較的大きな弁天池があります。ここも有清園の一部のよ
 うです。東側に山があり、山の傾斜を利用して三段式の庭園になっています。そこに滝があり、そ
 こに滝があり、細波の滝と呼ばれています。

-8亀島と鶴島 弁天池には大小二つの島があります。大きい島が亀島、小さ い島が鶴しまです。
 二つの島は沢飛び石を使って渡ことができます。亀島の沢飛石
の近くに立石があります。これが亀
 の頭だそうです。そうなると亀のしっぽのほうに鶴島があることになります。

-9 秋の紅葉も素晴らしいようです
-10弁天池は南北に長い池です。この池はたんに鑑賞池衣ではなく、非常時は防火用水としても活
 用出来るよう配慮されているようです。

 
   ㊷-1わらべ地蔵・杉村考作
 
   ㊷-2わらべ地蔵・杉村考作
 
     ㊸-1紫陽花苑
 
     ㊸-2紫陽花苑
 
      ㊸-3ホンアジサイ
 
      ㊸-4ガクアジサイ

7-3)わらべ地蔵(写真)
 往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さなお地蔵さまたち。有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでくださっているようです。わらべ地蔵と名づけられたこのお地蔵さまたちは、石彫刻家の杉村孝氏の手によるものです。
 その苔むした様子からは意外な感じを受けますが、平成になってからおかれたようです。今では、すっかりお庭になじんでいます。杉村孝氏は、静岡の方なので東海地方のたくさんの寺院にわらべ地蔵さんがおられます。特に、静岡市の寶泰禅寺にはすごく多くのわらべ地蔵さんが、しかもユニークなお地蔵さんがおられます。京都では、南禅寺塔頭の牧護庵にも置かれていますが、門前のわらべ地蔵以外は、門内のお庭の中にあり拝観することはできません。
-4)紫陽花苑(写真㊸14
  アジサイ(紫陽花)は、桜、椿と共に日本を国花です。わらべ地蔵エリアを通り、金色不動堂へ向かう参道脇にはさまざまな数千株(3000本)の紫陽花が植えられており「あじさい苑」と呼ばれています。
 見頃の時期には、山紫陽花、小紫陽花、額紫陽花珍しい星紫陽花など、沢山の種類の紫陽花が花を咲かせています。梅雨の不快感をしばし忘れてしまうくらい美しい紫陽花達を楽しめるでしょう。アジサイ(紫陽花)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種である。広義には「アジサイ」の名はアジサイ属植物の一部の総称でもある。 狭義のアジサイ(ホンアジサイ)は、日本で原種ガクアジサイから改良した園芸品種で、ガクアジサイに近い落葉低木。6月から7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼(がく)が大きく発達した装飾花をもつ。ガクアジサイではこれが花序の周辺部を縁取るように並び、園芸では「額咲き」と呼ばれる。ガクアジサイから変化し、花序が球形ですべて装飾花となったアジサイは、「手まり咲き」と呼ばれる。
  栽培、アジサイの花は装飾花であり、果実を作らない。このため、アジサイの繁殖は挿し木でおこなう。梅雨期に主に挿し木によって繁殖させている。日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用に広く栽培され、多くの品種が作り出されている。原産地は日本で、ヨーロッパで品種改良されたものはセイヨウアジサイと呼ばれる。変種のアマチャは稀に山地に自生するが、多くは寺院などで栽培されている。また、漢方で用いないが、民間では薬用植物として利用できる。本種は有毒植物であり、牛、馬等草食動物が食すると死亡例が報告されており、園芸や切り花として利用する際には取り扱いに注意が必要である。
 名称、アジサイの語源ははっきりしない。日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラック に付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。
  特徴 青色と紫色の花落葉広葉樹の低木で、樹高は1 – 2メートル。葉は対生し、葉身は厚く光沢があり、淡緑色で葉脈のはっきりした卵形で、周囲は鋸歯状。夏を過ぎると、黄白色や黄色に黄葉する。花期は6 - 7月。花序は大型で、若い枝の先端に紫(赤紫から青紫)の花を咲かせる。一般に花といわれている部分は装飾花で、大部分が中性花からなり、4枚の萼片が大きく変化したもので、花弁状で目立つ。
*装飾花そうしょくかとは、たとえば一つの花序で周辺部の花のみに花弁が大きく発達し外見は花であ
 るが、雄蕊、雌蕊が無く本来の花ではない。例えばアジサイの花がそうである。紫陽花は品種改良
 によって誕生した園芸種である。アジサイは品種改良により誕生した。原種のガクアジサイを調べ
 ると、周辺部のみ装飾花でその他の花には雄蕊雌蕊が存在している。品種改良の過程で装飾花とな
 った。
 花の色 花(萼)の色はアントシアニンという色素によるものである。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。同じ株でも部分によって花の色が違うのです。

 
     ㊹-1石楠花
 
    ㊹-2石楠花とわらべ地蔵

-5)石楠花(写真㊹1,2
 広い境内は四季を通して楽しめますが、春は桜やシャクナゲが楽しめます。
 ❶ 聚碧園では、お抹茶をいただきながら庭園を眺めるのもいいかも
 ❷ 弁天池 満開のシャクナゲと少し上にある桜の花弁が池に落ちて、綺麗です。
 ❸ コケの上に寝そべるわらべ地蔵さんをバックにシャクナゲが咲いています。
 ❹ 観音堂付近には白いシャクナゲがたくさん咲いていました。
 シャクナゲ (石楠花) は、ツツジ科ツツジ属 、無鱗片シャクナゲ亜属、無鱗片シャクナゲ節の総称である。 主に低木だが、高木になるものもある。また、日本ではその多くのものがツツジと称される有鱗片シャクナゲ亜属のものを欧米では Rhododendron と呼んでいる。
  分布 主として北半球の亜寒帯から熱帯山地までのきわめて広い範囲に分布し、南限は赤道を越えて南半球のニューギニア・オーストラリアに達する。特にヒマラヤ周辺には非常に多くの種が分布する。
  特徴 いずれも派手で大きな花に特徴がある。花の色は白あるいは赤系統が多いが、黄色の場合もある。シャクナゲは葉にロードトキシンことグラヤノトキシンなどの痙攣毒を含む有毒植物である。摂取すると吐き気や下痢、呼吸困難を引き起こすことがある。シャクナゲは常緑広葉樹にもかかわらず寒冷地にまで分布している。寒冷地に分布する種類のなかには、葉の裏側を中にした筒状にして越冬するハクサンシャクナゲなどがある。日本にも数多くの種類のシャクナゲが自生しているが、その多くは変種であり、種のレベルでは4種または6種に集約される。
 このほか、園芸用品種として数多くの外国産のシャクナゲが日本に導入されて
おり、各地で植栽されている。

 
     ㊺-1金色不動明王
 
     ㊺-2採灯大護摩法要


     ㊺-3茶所和心堂 

     ㊺-4草木供養塔 

(8)金色不動堂(写真㊺-14
 金色不動堂は、護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年4月に建立されました。金色不動堂の本尊は、智証大師円珍(814891)作と伝えられる秘仏金色不動明王です。毎年4月に行われる不動大祭期間中は、秘仏のその扉はご開扉され、約1ヶ月間お姿を拝するこができます。
 『不動大祭』 期間 令和4416()515(日)
428日の不動縁日を中日として約1ヶ月間、秘仏の金色不動明王を御開扉します。間中、お不動様の特別朱印『紺紙金泥金色不動明王御朱印』(一体500)は授与致します。
・『不動大祭開闢 採灯大護摩供』日時 令和4416()時間 午前9時 秘仏金色不動明王開扉の
 護摩供法要 午後1330分 修験道総本山聖護院御門主による採灯大護摩供法要

・『不動大祭中日法要 焼供供養特別護摩供』日時令和4428()午前11
・『子ども福引』日時:令和453()55()
  時間:9時~17時場所:不動堂前広場対象:小学校6年生までのお子様
1) 採燈大護摩供法要さいとうだいごまほうよう写真㊺-2
  採燈大護摩とは、不動明王の智火で煩悩を焼きつくそうとする、屋外で行われ る儀式です。山伏
 が境内に設けられた護摩壇で願いの書かれた護摩木や絵馬、願い扇等をお焚き上げし午前
1130
 に、一斉にほら貝の音が響き、山伏の大行列が始まります。その後、各堂での読経後、
2メートルに
 なるまで積み上げられた生の桧葉ひばに、
200名の山伏の読経と共に点火します。
  前作法として、山伏問答や法弓・剣・斧の作法等が行われます。 山伏問答とは、修験者として知
 るべき知識を聞くもので、山伏の真疑を確認し、答えられたものが護摩道場への入場を許されるとい
 うものです。

  近畿各地の天台系山伏が参集する大規模な行事として、多くの参拝の方々においでいただいていま
 す。

2)茶所和心堂(写真㊺-3) 無料休憩所 お茶がいただけます。
3)草木供養塔(写真45-4
 4月12日 草木法要 諸天の神々を招き集めるため声明を唱えます

(9)観音堂(写真㊻-1,2
 観音堂内には金色の観音像が祀られており、御堂両側の小観音堂には三千院と縁を結ばれた方々の小観音像が安置されています。観音菩薩の起源や性別には定説がない。『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(傅亮『光世音応験記』、張演『続観世音応験記』、陸杲『繫観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。

 
  ㊻-1観音堂
 
 
   ㊼-1二十五菩薩慈眼の庭
 
       ㊼-2同左

1)二十五菩薩慈眼の庭菩薩に模した25の庭石を並べ、「補陀落浄土ふだらくじょうど」を表現しているという。
 補陀落ふだらくは、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。
 日本では、熊野の地を根の国・常世とこよ国とみる信仰にもとづき,那智山には古くから多数の修行者が入山し,修験道が成立するに及んで,その拠点となった。熊野三山のなかでも特異な位置を占め,那智滝を中心として信仰が展開してきた点や,熊野那智大社にまつられる熊野夫須美ふすみ大神が万物生成をつかさどる産霊の転化した神であり,その本地が千手観音とされたことから観音の補陀落ふだらく浄土(補陀落山)とされてきた。
 作庭は、中根庭園研究所。同社の創立は、昭和の小堀遠州と言われた中根金作。二代目は息子・中根史郎現在は三代目である。

   

10)その他
1)弁財天
  弁才天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
  日本の弁才天は、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命いちきしまひめと同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。
   サラスヴァティーは、聖なる河とその化身の名である。水の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻である。他方で弁才天は、音楽神、福徳神、学芸神の性格に加え、戦勝神の性格も持つものがあり、像容は、2臂像と8臂像の2つに大別される。2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。8臂像は、8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれるが、その全てが武器に類するものである。
   日本ではこれらの経典に基づいて、8本腕の戦闘神的な弁才天と、2本腕の琵琶を持つ弁才天とが形作られた。
  中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とさる。池の中の弁天堂に祀られていることの多い弁財天ですが、ここには池もお堂もありません。 手前にある小さな祠には白蛇の姿をした宇賀神が祀られてます。『京の七福神』のうちの一つとなっており、そのほかの『京の七福神』は恵美須(ゑびす神社)、大黒天(妙円寺)、毘沙門天(毘沙門堂)、布袋尊(長楽寺)、福禄寿(護浄院)、寿老人(行願寺)です。この琵琶を奏でる女神は、幸福・技芸・財宝を授けてくれるとされています。
2)阿弥陀石仏(売炭翁石仏)
  金色不動堂の北、律川にかかる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されています。この石仏は高さ2.25メートルという京都市内では最大級石仏が仮屋の中での単弁の蓮華座上に結跏跌座けっかふざで、定印じょういんした阿弥陀如来は、おそらく「欣求浄土ごんぐじょうど」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物です。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁ばいたんおきな旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになったと伝わっています。

 
  ㊿-1おさな地蔵1

  ㊿-2 おさな地蔵2

  ㊿-3 おさな地蔵3
 
  ㊿-4おさな地蔵4
 
  ㊿-5おさな地蔵5
 
  ㊿-6おさな地蔵6

3)おさな六地蔵(写真㊿16) 
 あじさい苑を通り朱色の橋を渡って律川を超えると左右に可愛いお地蔵さんが並んでいる。右側の地蔵列がおさな六地蔵のようだ、しかし、おさな六地蔵は6体ではなく8体ある。六地蔵は六道即ち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道思想に基づいて地蔵菩薩の像を6体並べて祀ったものである。ここは子供の世界、六という数にこだわらなくてもよいのであろう。
4)円融蔵えんにゅうぞう (写真51-1,2
  平成18年秋に開館した重要文化財収蔵施設で、展示室を備えています。円融蔵には、三千院開創以来の仏教・国文・国史、門跡寺院特有の皇室の記録や史伝等、中古・中世・近世にわたって書写され蒐集された、典籍文書―平安時代から」江戸時代まで、8371点を所蔵しております。また、展示室には現存最古と言われる往生極楽院の「舟底天井」を原寸大に設え、藤原時代の人々が現世に往生極楽を願い、浄土思想に基づいて描かれた天井画が、赤外線カメラを使った調査により創建当時の顔料のまま、極彩色に復元されました。

   









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