京都と寿司・朱雀錦

「                (46)「天台宗三門跡・
妙法院

妙法院・庫裏(国宝)

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所在地 京都市東山区妙法院門前町447
宗派等 天台宗 南叡山なんえんざん妙法院門跡寺院 本尊;普賢菩薩 開基;最澄


                            Ⅰ歴史
 妙法院みょうほういんは、京都市東山区七条に位置し、京都国立博物館とは東山通りを隔てたその東側、高い石垣の上に五本の筋の入った築地塀をめぐらし、境内敷地約1万坪、建坪約1千坪を擁し、有名な三十三間堂を管理し、その高い歴史的由緒を誇る巨刹として今なお輝かしい法灯を掲げる霊場である。
 妙法院は、三千院、青蓮院とともに天台宗三門跡寺院の1つであり、さらに曼衆院、毘沙門堂を加え、天台宗五門跡(五箇室門跡)の1つでもある。 明治維新まで門主は代々天皇直系の法親王が相承したので、皇族門跡と呼ばれている。
1.妙法院の発祥
  最澄は、日本国中に六ケ所の宝幢院(天台法華院)を建て各宝塔ごとに1千巻の法華経を納
 、その功徳を持って日本国を護持し、王道楽土の実現に資せんと壮大な誓願を発したが、比

 山は仏教の須弥山に相当する世界観の中心であるとし、山上には中原(中央)と全国的(包

 的)を意味する二つの塔が建てられ、中原は近江側、全国的には山城側に位置した。 他の

 か所の宝塔は、東方の上野国、南方の豊前国、西方の筑前国、北方の下野国のそれぞれ宝塔

 指すものである。 かくして近江側の宝塔は、東塔院、山城側の宝塔院は、西塔院と呼ばれ、

 この二つの中心に多数の伽藍が建てられてゆき、更に天長
10年(833)に造られた横川の根本
 中堂を加えて比叡山三塔が出来、これが壮大な比叡山上の天台教団延暦寺の境域区画の行政的
 称へと発展した。
  青蓮院の古代中世の記録を集大成した「門華記」には、妙法院は比叡山西塔の宝幢院に始ま
 るとしている。 また、「叡岳要記」によると、三代恵亮えりょうが嘉祥年中(
84850)宝幢院
 を建立し千手観音像を安置し、仏前で清和天皇の即位を祈願したと伝わる。
  安徳天皇の時代、皇太子の擁立を巡って第一皇子惟喬これたか親王を推す紀氏と第四皇子惟仁れひ
  と
親王を推す藤原氏の対立が激化し、まず双方より力士をだして相撲させ勝負を決めることにな
 った。 惟喬は那都羅(名虎、)、惟仁は善雄をだしたが、那都羅の力が善雄を圧倒してい

 ので、惟仁は、恵亮は法の救いを求めた。 そこで恵亮は大威徳法を修すると、惟喬側でも

 済阿闍梨に密教祈祷を行って対抗した。
  いよいよ相撲が始まったが、那都羅が優勢で、惟仁側の要請を受けた恵亮は、独鈷杵どつこしょ
 を執って自分の頭脳を破り、取出して炉火に投げ、大威徳に供えた。 すると形勢は逆転し善

 雄が勝ち、惟仁が太子となりやがて即位して清和天皇になった。
2.宝幢院の検校
  妙法院では、第1代恵亮と第2代延昌の間隔が時代的に離れすぎており、当然両者の間に何
 代かの人物が想定される。 果して「僧官補任」によれば、この間に、②常清、③延最、④増

 命、⑤湛誉、⑥深行、⑦仁照、⑧弁日の7人が記入されている。 そこで「僧官補任」に従う

 と、第9代延昌、第
10代昭日、第11代陽生(第21座主)の後、妙法院では教円とあるが「僧
 任」では⑫暹賀、⑬勧命、⑭聖救、⑮覚慶、⑯院源、⑰成秀、⑱妙導、⑲如源、⑳実誓の9人

 入っている。
3.本覚坊の登場
  第12代暹賀せんがは、第18代座主良源の弟子でその住坊を本覚坊といい、西塔東谷にあった。
 本覚坊は宝幢院の子院的な存在であった様に見られるが、良源の自坊となってから独立した寺

 院として発展したと思える。
4、平安末期の妙法院
  第42代目に当たる宝幢院検校に快修が就任した。 彼は第52代天台座主でもあったが、「天
 台座主記」には、本覚院又は妙法院と称し、さらに綾小路祖師と注記されている。 快修の父
  藤原俊忠は歌人で有名な藤原俊成(定家の父)の兄弟であった。 次の昌雲は、快修の兄忠成
 の子で、快修と昌雲は叔父甥の関係であった。 
  妙法院が日本史に登場するのは後白河法皇の時代である。 後白河天皇は、在位3年足らず
 で譲位し、保元3年(
1158)には上皇、嘉応元年(1169)には出家して法皇となった。 この
  間、後白河上皇は譲位後の居所(院御殿)である法住寺殿の造営を進め、永暦2年(1161)か
 らはここに住み、院政が行われた。 また、御所の西側に千体千手観音像を安置する、歴史上

 名高い巨大な仏堂、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛により造進 され、長寛2年(
116412
 月
27日落慶供養があった。 後白河上皇は、永暦元年(1160)、御所の鎮守社」として比叡山
 の鎮守社である日吉社を勧請し、新日吉社いまひえしゃとした。 この新日吉社の初代別当に昌雲
 が任命された。
5.妙法院門跡の実質的発足。
  妙法院の門主系譜は、最澄を初代とし、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16
 代が昌雲となっている。 一方、「僧官補任」では第
42代快修(第52代天台座主)、第81
 守をもって宝幢院検校系図は終了している。 以上の様に妙法院と「僧官補任」両系図が全

 異なっている。 宝幢院の下で発祥したはずの妙法院が宝幢院を管理においていたのに本末

 倒の形で鎌倉時代宝幢院は衰え、事実上、快修以後、彼の門流が支配していたのである。
 門
 跡の称号は、中世より殆ど皇族の住職となる寺院に対して用いられてきたので、妙法院門
跡は
 、実質上第
18代尊性法親王(後高倉院皇子)に始まると言えよう。 法親王は、安貞元年34
 にして座主の宣命を綾小路御坊(洛東八坂)において受け、安貞2年4月6日比叡山に登り、
 西塔妙法院において印鎰いんやく(座主の職印と宝蔵の鍵)を受けた。
 
 尊性が妙法院に入るに及んで、金剛念仏三昧院検校職は妙法院門主が兼ねるようになった。
 
さらに、義空上人寄進去れた大報思寺検校職も妙法院の支配下に入り、藤原雅子寄進の摂津国
 田中荘、高階宗泰寄進の越前国織田荘が加わり妙法院門跡領としてクローズアップされた。
  天台座主の地位は、青蓮院・梨本両門跡から選ばれ、鎌倉期に入ると両派閥の武力闘争へと
 発展したが、妙法院門跡の台頭で三者鼎立の形勢が生まれた。
6.蓮華王院(三十三間堂)の創立
  蓮華王院の地は、永延2年(988)右大臣藤原為光が自宅を寺として、法住寺とした由緒有る
 所であった。 この寺は長元5年(
1032)焼失した。  後白河天皇が譲位後、永暦2年
 (
1161ここに御殿を建て移られた。 中山忠親の日記「山槐記」によると、周囲十余町の面
 積にわた
り、その中にあった堂舎大小八十余の建物を壊して敷地にされ、人々の恨みを買われ
 たらしい。 
その後の研究によると、その場所は鴨川の東の七条末から八条末の十余町、西は
 鴨川の東岸か
ら東は今の東山通りを越え現在の妙法院境内の中程まで達していた。 
  現在の三十三間堂の東側、東山通りを挟んで南北に北殿と南殿の両御所があり、狭義の法住
 寺殿は南殿を指したようである。 最勝光院は三十三間堂の南、東側に大きな池を隔てその東
 には今熊野社がたてられた。 

7.蓮華王院炎上と復興
  慶長元年(1249)3月23日午刻うまのこく、晴天強風の中で姉小路室町から出火、三条以南、
 八条以北西洞院以東、京極以西煙と火の粉が空を覆い、遂に蓮華王院に飛火、先ず五重塔い引

 火、続いて三十三間堂に延焼した。 人々が堂に飛び込んで仏像搬出に努めたが、中尊は首と
 左手だけを取出し、千手観音のうち百五十六体と二十八部衆を取り出した。
  再建h、建長
 3年(
1251)7月24日法勝寺金堂で行われ8月10日上棟式があった。 建長6年(1254)正月
  23
日本尊が法勝寺金堂から運び込んでおり、その前年に堂舎は落成したが、落慶供養は文永3
 年(
1266)であって、10年以上遅れたが、千体仏を揃えるのに時間を要したと思える。
8.受難期の妙法院
  尊教は第99代天台座主、永仁4年(1296122149歳で補任されたが、失政多く、一山を
 大混乱に陥れた。 尊教が寵愛する性算は私財を蓄え、衆徒の支配を企てた。 これに対
し、
 円恵は座主の性算寵愛を非難し、書状を持って公卿に訴えたようとしたが、性算に阻止さ
れた
 。 そこで円恵は、徒党とはかり、八王子山に立て籠もり、逆木を植え、人々の参詣を停
止し
 、三千衆徒の訴えと称し、座主の政務を妨害した。 そこで永仁5年(
1297)8月、座主の配
 下の門徒は八王子山に押し寄せ、円恵等を生捕して武家に渡した。 翌年9月
19日夜、大講堂
 その他
3か所に放火した。 かくして、大講堂、文殊楼、五仏院、鐘楼、政所、定法院、浄眠坊
 、実相院、定心院、同鎮守、等が灰燼に帰した。
  鎌倉幕府は放火犯究明のため宇都宮三河守・二階堂備中前司を上京させ、座主は罷免、性
 は獄に投ぜられた。 座主は良助法親王に代わり、妙法院は青蓮院の支配下にはいった。
  
 しかし、嘉元元年(
1303)将軍 宗尊親王に謀反の企てがあったとして将軍が配され、将軍の猶
 子であった良助も門跡を停止され、漸く妙法院は、青蓮院の管理から離れることがで
きた。
8.方広寺大仏殿
  これより先天正12年(1584)、船岡山に一大巨刹建立を企て大徳寺の古渓宗陳の提言を入れ
 て、万歳山天心寺と称し、正親町天皇より宸筆の額をたまわった。 この寺は東大寺に並ぶ大

 仏殿を営む予定であったが、古渓が秀吉から追放される事件が起こったため中止となった。
 
  天正
15年(1587)、秀吉は改めて東山に大仏殿造建の計画を起こした。 前田玄以を総奉
 とし、高野の木食もくじき興山こうざん上人応基おうごをを総監督とし、奈良より大仏師宗貞そうてい
宗印
 はじめ大工を招き、土佐・木曽等より材木を集めさせた。 文禄2年(
1593)9月24上棟、
 同4年(
1595)完成し、9月21日聖護院道澄どうちょうを別当として知行1万石が与えられた。 
 寺名は方広寺と称した。 大仏の素材は木像に漆喰を塗る方法で唐人の指図を受けた。 
大仏
 の高さ約
19m、大仏殿は高さ約49m、南北約88m、東西約54m壮大なものであり、また境内は
 、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含
む広大
 なものであった。
9.千僧会勤修
  文禄4年(1595)9月25日、秀吉は亡き両親のための法会を大仏殿経堂で営み、八宗の僧
 を請じて最初の千僧会を営んだ。 即ち真言・天台。律・五山・日蓮・浄土・時宗・一向の
 宗百人で実数八百人が出仕し、住持照高院道澄を導師とした。 八宗の僧侶が参会する千僧

 法会は全ての仏教宗派を秀吉に従属させる意味をもち封建君主の寺院統制開始にほかない。
  以後千僧会は毎月末に修せられたが、秀吉没後は毎月一宗になり、四月と六月のみ八宗が出
 仕した。 会場の経営のほか各宗には1棟宛て仏殿が与えられており八仏殿に出仕の控え所と

 しての意味をもっていたのであろう。 それに対し会場の経堂は秀吉の御所として造営された
 。
  三宝院門主義演の日記によると、秀吉は妙法院をこの御所に移させ妙法院の本坊とし、
 千僧
会が修せられた際には法会や経営の管理に当たらせる目的で妙法院をここに移さ勢田と見
 られ
っる。 
  毎月八百人の供養僧膳部方の献立、本膳はゴボウ、こんにゃく、煎麩、アラメ、汁あつめ、
 めし、小汁、はひや汁、菓子、中酒からなる。 その材料が一年分で五百五十三石9斗、料理

 人二百人として七十三石、1か月大蝋燭10丁で1石2斗、中蝋燭30丁で1石2斗、蝋燭1年
  28
石8斗、仏前供物常燈不断香など140石7斗、惣計799石4斗の費用であった。
  また、出仕僧へ布施は1宗に対し1回三十五石とされ、妙法院を含め二百八十石が支出され
 た。 それに対し秀吉は妙法院に法事料を寄進しており、慶長元年(
159610月1日付秀吉朱
  印知行目録では1600石とある。 さらに文禄2年215石、文禄4年、300石が寄進され、合
  2115
石となる。
  それが、徳川家康の時代になると改めて合計1633石とされた。
11.大仏の被害と善光寺如来
  慶長元年閏7月」13日夜丑刻うしのこく(2時)洛南を中心とする地震が発生した。 在家の破
 、死者数を知らず。 大仏殿の柱が2寸ほど地中に沈んだが無事であった。 本尊は大破し

 、胸や左手が崩れ落ちた。
  地震のあと秀吉は夢に甲斐国善光寺如来を見た。 それから数度あらわれ、9月7日には眼
 前に権現があらわれ、京洛阿弥陀峯に鎮座したいと告げがあったので、木食上人を呼び、信州

 より遷座するよう命じた。 甲州(信州の誤り)より駿河境まで藩主浅野長政が運び、それよ

 り沿道はそれぞれの大名が護送し、慶長2年7月
18日方広寺に鎮座が行われた。 その行列は
 、
先頭に天台宗、真言宗両宗僧各150人が2列に並び、次に木食興山乗輿、奉行警固数百人、次
 に警固武士数百人、次いで如来の輿、浅野長政、照高院導照、妙法院常胤法親王、三宝院義演
 、
大覚寺空性親王、聖護院興意法親王、梶井最胤法親王、竹内覚円法親王が続き、洛中男女こ
 ぞ
って、見物し、盛況を極めた。 破損した大仏は撤去し、台座の蓮花光背はそのままとい、
 台
座の上に宝塔を立て阿弥陀はその前に立てたものであろう。 
  しかし、かように大層をかけた善光寺如来が翌3年8月17日あっさり本国に帰坐されてしま
 った。 真相は不明だが、秀吉病に罹ったのは、仏像遷座の祟りと悩み、北の政所と淀君が返

 還をすすめたとの噂がある。 慶長3年(
1598)8月18日、63歳をもって伏見城で没し、同22
 日阿弥陀峯に法務たれた。

12.豊国社創立
  慶長4年(1599)4月18日豊国大明神の神号を賜り、豊国社正遷宮があり、七日間社頭に
 千人の僧が供養を修し結願日に猿楽があった。 また8月
17日一周忌に神楽が奉納され、勅使
 日野大納言光宣・奉行蔵人砂弁経遠が参向した。 神主は吉田兼見が任命され社僧として弟

 梵舜ぼんしゅんがこれを後見した。 

13.方広寺の復興と大阪の陣
  豊臣秀頼は慶長4年(1599)、木食興山に命じて大仏(銅造)の復興を図るが、慶長7年
 (
160212月4日、新造の大仏鋳造工、胎内より出火、光背に燃え移り、堂内に広がった。 
 廻廊は東
方を焼き、照高院は全焼したが、妙法院や豊国神社は無事であった。 火は12月9日
 まで燃え
続けた。 当時大仏は木食上人が奉行で台座の蓮花膝の辺まで鋳られていた。 関ヶ
 原の合戦
で上人は隠退し、文列院勢誉に代わった。 多門、持国の二天並びに脇侍一尊が出来
 、大仏が
ほぼ出来上がり、足場も取り外し始めたところであったという。 義演は、最初から
 良材で造
るべきを唐人の言葉通り漆喰で造ったから、地震で破裂して凍った土のようになった
 。 それ
から度々模様替えが行われた結果、この始末であると憤慨している。
  そこで秀頼は慶長14年(1609)正月、重ねて大仏殿復興の事業にのりだした。 遠く日向・
 土佐・備中諸国から材木を集めた。 西国の諸大名は米あるいは2万石、1万石、5千石と大

 阪に送り、費用を援助した。 造営は片桐且元・森出雲守が奉行となり江戸より小島久右衛門

 等が監使に出向き、毎日工匠数万人を集め、莫大な秀吉が備蓄していた千枚分洞を右河三右衛
  門勝正が奉行し、後藤徳乗に命じて改鋳せしめ、分銅一を金九百五、六十枚にした。 この事
 業は徳川家康のすすめもあり、彼は豊臣の財力を消耗させる魂胆であったと噂された。 同
15
 年(
1610)6月12日地鎮祭と鋳始めの儀式が行われ、三宝院義演が導信となった。
  慶長19年(1614)、方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。 総奉行の片桐
 且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。 

  且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の指導や日時の報告などを遂次行っているが、開眼供養と
 大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下をめぐり、対立を生じていた。 7月
26
 日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であること、大仏殿棟札・梵鐘銘文

 が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の

 延期を命じた。

  8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。 以下の通りであ
 る。

 東福寺 御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄)
     
国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執
    政将軍之諱可乎、」不可過用捨、(守藤)

 天竜寺 御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、
    憚至極候、(令彰)

 南禅寺 銘文中ニ、相公御名乗之ニ字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相
    列
位無之事、(宗最)第一相公御諱ノニ字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、
    縦ニ字続候事モ、文章
ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事(景洪)
 相国寺 銘之中ニ、大御所御諱被諸之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、
    其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)

 建仁寺 銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
 林羅山 「右僕射源朝臣家康」
     右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
    右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラル官也、他ノ敵ヲホロホ

    シ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕云う、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候

    ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
     「国家安康」
    国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候
   沙汰之限ノ事、(林羅山)
    鐘ト申物ハ、奇徳不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニ
   マシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイれ、縁語ヲトリテ申

   也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ、賞翫ノ
物ナ
   レハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及
候、但
   御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、
賞翫ノヤ
   ロウニ、承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ
如クニ候、
   御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダ
サレバ、生前
   死後ノ大幸也、(清韓)

  「君臣豊楽」
   
君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ、「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム
   下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル

   、(林羅山)

   是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候(清韓)
  この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものである
 との俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割った

 ことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解をしめしたものの、呪詛までは言及
 し
なかった。 
  しかし家康の追求は終わらなかった。 例え、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかった
 としても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為

 は犯諱であることは間違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であった。 家康のこの件

 にたいする追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇殿の問題化へ

 の関与も当時の史料からはうかがえない。 しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福

 寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。 清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっ

 ては大坂城に籠り、戦後に逃亡したが捕えられ、駿府で拘禁されたまま
1621年に没している。
  慶長
19年(1614)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、
 康は且元と面会しない。 しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家

 は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。 9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての

 信が問題の要因であるとし、崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で
 、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするように要求したという。

  且元は大坂に戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言
 した。

 ・秀頼を江戸に参勤させる
 ・淀殿を人質として江戸に置く
 ・秀頼が国替えに応じ大阪城を退去する
  この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。 秀頼や木村重成
 からの調停があったものの、
28日に高野山に入るとして大阪城を出ることを決めたが、これは
 秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められた。 
10月1日
 片桐且元、貞隆は大阪城を退去した。

  且元は慶長18年に秀頼から1万石を加増させた際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の
 命により拝領している。 このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあるこ

 ととなり、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。 家康

 はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大阪の陣が勃発している。

14.豊臣氏滅亡後
  大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡した。 元和元年(1615)徳川家康は、豊国社を廃して大仏殿の
 裏に移し、神社の別当である照高院は廃され、別当道勝法親王は聖護院へ戻された。 またこ

 れに伴い、妙法院常胤法親王を大仏殿の住職として寺領千石を寄付された。

  家康は朝廷に奉じて豊国大明神の神号を配し、阿弥陀峯の山に秀吉の墳墓を営み国泰殷俊山
 雪龍の法号を贈った。 豊国社の祠官荻原兼従は祭主の地位を解かれたが所領千石は認められ

 た。 妙法院常胤法親王には照高院の地を下され、大仏殿守護のため更に三百石を加増された
 。 
豊国社の解体は社僧梵舜が尽力し、社宝を妙法院に移管した。
15.法親王日記と坊官の日記
  近世の妙法院は、古代、中世と異なり、遙かに詳細な足跡を辿ることが出来る。 それは準
 拠すべき長期間の記録が寺に伝わっているからである。 この記録は大別して二種類あり、1

 つは歴代門主となった法親王の日記である。 他は坊官が控えた日記である。 日記を遺した

 法親王は、堯恕・堯恭・真仁・教仁の4人でこれを合計しても数十年にもならないがその期間

 が近世前期から幕末まで分散していて、寺の変遷を把握するのに好都合である。 そのうえ、

 坊官日記が寛文
12年(1672)にはじまり、幕末まで現存し、多少の欠本は生じているものの、
 ほぼ連続して約二百年間にわたる記事が伝存し、手に取るごとく妙法院の歴史が再現できる。

16.大仏殿修造
  江戸時代に日本三大大仏と言えば、奈良の大仏(東大寺)、鎌倉大仏(高徳院)、と京の大
 仏
(方広寺)を言っていた。 寛文2年(1662)5月1日大地震で大仏殿が破損し、本尊も小
 破
したが、幕府の命令で木像に変更した。 同7年1123日木像が完成し、12月2日開眼供養
 があったが、奉行より、仰々しい儀式にするなとの達しがあり、堯恕法親王は簡単な修法をす

 ませ、総門が開かれ、人は自由に参詣できるようになった。 破損した仏像の銅は銭貨とした
 。 
宝永通宝と裏側に文字のあるのがそれだという。 
17. 朝鮮使節の参詣
  天和2年(1682)7月26日、朝鮮使節が大仏殿へ来るので、同月17日には行列の通道筋の
 々には修理が申渡された。 修理の方法を示した書付が町内へ渡されたが、それだけでなく、

 大仏殿廻りや廻廊のほか耳塚の辺,三十三間堂辺の掃除に住民を駆り出し、人夫合計四百七十

 二人に対し一人宛て、九合の米が与えられ、芝刈りの人足は上下の柳原村及び塩小路村から出

 され合計
289人に対し一人宛て1斤の米が配されている。  朝鮮使節一行は26日午後2時頃到
 着、赤飯、酒肴・菓子などが振る舞われた。 大仏殿の見
学は半時程で、続いて三十三間堂に
 進んだ。 使節の一行が宿舎本圀寺に戻ったのは午後4時
頃であった。 僅かの時間にも拘わ
 れず、寺も町屋の準備は大変であったという。 

18.七卿落ち
  幕末の文久3年(1863)の8月18日の政変において7人の公卿が京都から追放された。 天
 皇を慕う尊王と外国人を日本から追放する攘夷と言う言葉が流行していた。 当時、その急先

 鋒となって活躍していたのが長州藩であった。 長州藩は、三条実美などの公卿と協力して尊

 王攘夷のために様々な朝廷工作をおこなった。 この様な長州藩のやり方に不快感を表しいた

 のが島津藩でした。 島津藩も長州藩と同様に尊王の考えを持っていたが、政治は幕府と朝廷

 が協力して行くべきという公武合体の立場であった。 また、京都の治安を守っていた会津藩

 も長州藩に対し良い印象を持っていなかった。 

  そんな中、長州藩が、天皇の大和行幸を企画し、その時に大和から幕府追討の号令を発する
 ことを企画した。 長州藩の陰謀を知った薩摩藩は、会津藩と同盟を結んで長州藩を京都政界

 から追放することを企画した。 

  薩摩藩と会津藩は、8月18日の午前4時に行動を開始した。 武装した両藩兵は、京都御所
 の各部門に配置され、長州藩が御所内に入れないようにがっちりと警固した。

  長州藩はこの事態に仰天した。 今まで天皇のためと思って行動してきたのに、朝目が覚め
 てみると一夜に天皇の敵になっていた。 御所に入れなくなった長州藩とそれを支持していた

 三条実美ら7人の公卿は、妙法院の宸殿に集まり、今後どうすべきかを話し合いした。 話し

 合いの結果、一旦、長州藩に落ち延びることにし、
19日未明に長州藩士の久坂玄瑞に率いられ
 て、京都から立ち去った。

Ⅱ境内
 
 伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。 境内は西側正面に玄関、その左手に庫
裏、右手に宸殿が建ち、東側の境内奥に大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが建つ。 これらの堂宇の間は渡
り廊下で繋がれている。 本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、やや離れた境内東南方に建つ。 
1) 表門 東大路通り東側に、格調の高い5本の白線をもつ土塀に囲まれ、唐門と並んで建つ。
 妙法院の山門でかつ通用門である。

2)唐門 土塀の南端近く、高い石段上に建ち門跡寺院らしい偉観である。 切妻造、杮葺の四
 門で江戸時代後期の「妙法院境内図」に四つ足御門と記されている。 寺伝には桜町天皇下

 とするが、この間(
173547)の妙法院日次記には、寛保15年(174111月の修理の記事はあ
 るが、桜町天皇の下賜の記載がない。 また享保
15年(1730)4月に復活した新日吉社祭礼で
 、「四つ足御門」が門主の神幸拝所とされ、以後のならいとなっており、唐門の建造は同
年以
 前に遡る可能性が高い。

3)玄関 (重要文化財)江戸時代
  境内の西側正面に建つ入母屋造杮葺きの南北に長い建物で、唐破風屋根の式台を設ける。 玄
 関と大書院はともに重要文化財で、元和5年(
1619)後水尾天皇中宮東福門院(徳川秀忠の
 娘)
入門の時造営された物を賜つたものと伝え、純然たる書院造りで、桃山時代過度期の風調を残してい
  る。 妙法院の殿舎には桃山時代の金碧きんぺき障壁画の作品が多く残されていつ。  三つの間に飾る巨
  大な松樹を主題とする襖絵は、桃山気風にあふれたもので、狩野派の手になり、特に注目に値する。 20面
  にも及ぶ襖絵は、その画風様式から二種類に大別され、重厚で豪快な永徳様と、優雅で女性的な光信様が
  認められ、永徳、光信親子の絵が混在している。 
4)明治天皇妙法院行在所
  慶応4年(1868)8月29日明治天皇は、天智天皇山科料・孝明天皇後月輪東山陵を拝した後、妙法院で休憩
 した。 また、明治13年(1880)7月16日孝明天皇陵に参拝し、泉涌寺還幸の途次に妙法院で昼食のため休憩
 した。 この石標は明治天皇休憩地の妙法院をしめすものである。 昭和9年(1934)11月に史跡名勝天然紀念
 物保存法により史跡に指定されたが。昭和23年(1948)6月に他の明治天皇関係史跡とともに指定が解除され
 た。
5)庫裏(国宝)
  寺伝では、妙法院は延暦年間(782~806)、伝教大師創立の古刹で京都国立博物館の東に西面し、南寄り
 の唐門の奥に宸殿本堂、唐門の北、表門の奥に庫裏、玄関とそれに続く大書院・白書院以下の広大な殿舎が
 つながれ建ち並んでいる。 そうした中で庫裏は特別大建築であり、正面に大きな破風をみせている。
  この庫裏は、数ある京都の台所にの中で最も大きい方に属して、二条城二の丸御殿の台所、大徳寺庫裏に
 次ぐ大面積であり、また国宝指定の庫裏はこれと宮城県松島の瑞巌寺のものだけである。 構造形式は
 21.76m×23.68、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺で、これに唐破風の玄関が付いている。 建築年代は確実で
 はないが、様式から桃山時代と考えられる。 屋上には大棟と北流れの屋根面に煙出しがある。 後者の鬼瓦
 に「慶長9年(1604)拾月吉日」「大仏住人弥西衛師」とへら書き位がある。 一方、妙法院が現在地に移された
 のが慶長19年(1614)で、この庫裏は伝えるところでは、文禄4年(1595)に豊臣秀吉が八宗の僧10人づつ集め
 て千仏供養をした建築という。 それでは妙法院が現地に来るまでにすでにあったことになる。
   この庫裏は大体正方形に近い平面で、前方3分の1ほどが土間、残りは板敷きの広い部分と18畳敷きの2
 室、8畳の1室をとり、正面に法間、向唐門造の玄関をとるが、その他は規則正しく大体6尺5寸(約2m)間隔に
 柱を立てている。 千仏供養を行ったなら当時は大規模な竈やこれに伴う設備をしたであろうが現在はみられ
 ない  板の間の広大な部分は、およそ中央に柱間四間にわたる大空間をつくっているが、これを中心とした上
 部の屋根構造(小屋組)を見上げたい。 恐ろしいような巨材が前後左右に架けわたされ、その上に束が無数と
 いえるほど立って、貫で整然と固めた構造は、大寺の庫裏に常に見るところである。 古民家の同種のものと共
 通しているが、ここでは格段に大きさで圧倒される。 
  庫裏は本来内部の用向きの場だが格の高い唐破風屋根の玄関を備えていることでもこの建物が、尋常な庫
 裏でないことが窺える。 入母屋造で、正面の破風に巨大な三つの猪目懸魚いのめげぎょを懸ける。 屋根に
 は大棟上のほか、左側屋根上にも小棟をだして煙り出しが設けられ、2つの煙り出しがある。 ほぼ正方形の巨
 大な庫裏で、千僧供用との寺伝もうなずける。
6)大書院(重要文化財)
  庫裏の奥の廊下を東に進めば、大書院に行く、この方は真の書院造で江戸初期の典型的な宮廷建築であ
 る。 寺伝では、元和5年(1619)、後水尾天皇の中宮東福門院が入内された時の旧御殿の一つを移築したとい
 う。 構造形式は桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、杮葺で、実尺は柱真々で三十二尺五寸(約9.85m)
 に三十九尺(〃11.8m)である。
  南を正面として正面だけに広縁を設け、吹放し、その奥が室内となっている。 この建築は規則正しく柱真々
 六尺五寸(197㎝)ごとに柱を立てている。 内部は正側面とも3:2の割合で十字形に分けられた四間取り(田
 の字型平面)で、東南の「一の間」12畳で最高の室とし、その西の「二の間」18畳で最大の広さである。 東西
 比は2:3となっている。 一の間の奥東北の間は8畳、南北比は3:2となっている。 その西の間は12畳で、表
 と同様、東西比は2:3また、南北の比も3:2となっている。 
   一の間には床・違い棚と左側には帳台構えを設け、縁側には付書院を設けた本格的な書院造りである。 
 障壁画は寺伝に言う東福門院御殿造営の元和5年より古い桃山時代を見せ、園城寺おんじょうじや修学院離
 宮を担当した狩野光信(1565~1608)と彼の周辺絵師によるとされる。 
  このことや鬼瓦に慶長8年(1603)の刻銘をもった点などから、豊臣秀頼が隣地に再建した照高院御殿建築と
 する説がある。 確かに帳台構えの引手金具は修学院離宮襖の引手の意匠が極めて近くその見解がうなずけ
 る。 床・棚廻りで気付くのは、そのころに飾った貼付絵に続かないものがあることで、この辺から見て移築のと
 き現状に変更されたとも考えられるが、全体として違和感がなく落ち着いた雰囲気の中に本格的な崇高さが感
 ぜられる。   天井、二の間との境は細い木を縦繁に組んだ筬欄間おさらんまでこれも高貴な本格的な書院に
 多いものである。 その他、長押や棚廻りの棚まわりに用いた金具など気の利いて美しいものである。
7)白書院
  大玄関、大書院が対外的な用に供された格式高い空間であるのに対し、白書院は最も奥に位置し、門主の私
 的な空間という意味合いが強い。 内部の間取りは、「一の間」が一番奥にあり、最高の室で十三畳半、次が
 「二の間」で、十七畳半、その下に五畳の細長い室が付いている。 
   一の間は正面に一間半の床が室内に張り出しており、その左が棚、右が付書院である。 床・棚には貼付
 け絵、襖にも風景画が描かれ、天井は棹縁天井で、数寄屋風の入った、ごく瀟洒な建築である。 即ち、棚は
 三段からなり、いわゆる醍醐式棚を連想させる)透彫をもつ巧みな構成である。 付書院上部は花頭窓の上部
 曲線を用いている。 床の間が室内に張り出すのは、同天台宗門跡の曼衆院小書院などに見られ、この書院も
 これに近い17世紀半ば頃に出来たと考えられる。
  近世の書院造りでは、奥向きの私的空間に、水墨画の瀟洒な障壁画が描かれる。 白書院も例にもれず枯
 淡の美で満ちている。 山水図は、一の間、二の間の境の襖絵で、四条派の祖、呉~春ごしゅん(1752~
 1811)の府で。 二の間は月僊げつせん(1741~1809)の筆になる群仙図である。 
8)宸殿
  宸殿は、門跡寺院の建物中でも、重要行事を執り行う中心堂宇で、妙法院の旧宸殿は、天台5室門跡で、最
 大規模を誇ったが、明治時代初期に失われた。 現在の宸殿は明治31年(1898)の新造で、入母屋造、檜皮葺
、本尊は阿弥陀如来で、京都千本今出川の般舟三昧院はんしゅうさんまいいん護持してきた鎌倉時代の花園天
 皇以降の天皇・皇后・中宮の「御位牌」60数基が奉伺ほうしされており、前三代の天皇皇后御祥月しょうつき(
 年忌)には宮内庁よりの御代拝をお迎いして法要がが奉修されるそうである。 
  なお堂内長押に懸る華鬘けまん(荘厳具)や法令の散花供養に用いる華籠けこ(法要の時、散華に用いる花
 篭)も延長8年(1680)に般舟三昧へ調進されたものが使われている。 
9)本堂(普賢堂)江戸時代
  本堂は境内の南東端に、ほかの御堂とは独立して建つ。 重文の普賢菩薩騎象像を祀る三間四面の二重宝
 形造の本瓦葺建物で、妙法院の本堂にあたる。 本尊は通常左右に両脇侍像を配した三尊とするが、ここでは
、普賢菩薩騎象像のみの単尊である。西側正面に桟唐戸の観音開扉と、その左右に花頭窓を設けた瀟洒な建
 物である。 寛政11年(1799)に建立され、それまで小書院に安置されていた普賢菩薩騎象像を移動した。
 10)護摩堂
  大書院の南東に西面して立つ。 瓦葺の宝形造の建物で、正面三間、奥行二間の板敷の主室には奥一杯に
 仏壇えお設け、不動明王立像を中心に、千手観音如来、大日如来、阿弥陀如来など密教仏を祀って中央に護
 摩壇を設置する。 この建物は、比叡山西搭東谷の常住金剛院を前身とし、17世紀中頃には妙法院に移された
 後、南側に仏間を設けるなど、増改築が加えられ、享保8年(1723)に落慶している。 天台門跡寺院中でも密
 教修法(御修法みずほう:①正月8日から7日間、大内裏の真言院で行われた仏事、②貴人の家などで行われ
 る加持祈祷)を行う道場建物の様態を最もよく残した貴重な遺構である。
11)御座の間
  明治天皇御成の御殿
12)名勝「積翠園」
  積翠園しゅくすいえんは妙法院境内の北辺にあった名園で、平安時代末期の庭園様式を残し、平の重盛の邸宅、
 小松殿の園池だったとも言われている。 伊藤東涯「積翠園記」や歴代法親王の日記、坊官の日次記ひなみき
 などによると、積翠という蓮池を中心に機種もの花や樹木があり、積翠亭と呼ぶ東屋で法親王お客たちが、東
 山の借景お楽しみ、詩会に興じ、花の名を議論したという。 惜しまれることに、庭の大半を昭和29年(1954)京
 都専売公社病院敷地として売却12)七卿落碑
  文久3年(1863)8月18日に薩摩・会津両藩がクーデターを起こし、尊王攘夷公卿派の三条実美さねとみら七公
 卿が妙法院で対応を協議した。 反攻は無理との結論に達し、公卿らは西国へ落ちのびた。 有名な「七卿落」
 である。 この碑は、幕末の政治情勢の分岐となったことを顕彰し建立された。 


                               Ⅲ文化財
1)普賢菩薩騎象像(重要文化財)
  平安~鎌倉時代 木像 漆箔彩色  像高 140㎝(57.8㎝)、本堂安置  法華経を根本の経典とする天台宗
 では平安時代普賢菩薩の信仰が盛んである。
  これは法華経の勧発品かんはつぽんにこの経を読誦すると、普賢菩薩が六牙の白象に乗って現れ、その人を
 守護してくれると説い ているからである。 また法華賢経の中に普賢菩薩が当方の浄妙国土からこの世に現
 れる様子を次のように説いている。
  普賢菩薩の乗る白象は、足下に蓮華を生じながら虚空を踏んでやってくる。 はなきは未藪みぶ蓮華(蕾の蓮
 華)をとり、頭上には三化人うを戴く。 化人の一人は金輪、一人は摩尼珠まにしゅ(宝珠)、一人は金剛杖こんごうしょ
 う
を持つ。 また象の背には七宝荘厳の鞍を置き、その上に蓮華台をのせ台上に普賢菩薩が結跏趺坐けっかふざ
 する。 法華の行者の前についた普賢菩薩は、行者を見て歓喜し敬礼する。 
  普賢菩薩の多くが合掌しているのは、このためであろう。 普通普賢菩薩は二通りの表現法がある。 一つは
 本像のように、独尊像である場合えで、もう一つは釈迦如来の脇侍として、文殊菩薩とともに釈迦の左右に侍す
 る場合である。 
  この妙法院像は、鎌倉時代の作品だが、是もほっそりした繊細な体つきや、瞑想しながら消え入るような表情
 に、平安時代以来の普賢菩薩の伝統がしのばれる。 象はこの動物を見たことのない仏師によって作られたた
 め、実際の象とは大分違うがかくあるべしと考えられた象の形を、鎌倉彫刻らしく、現実にあるかのように表現し
 ている。 象の頭上の蓮華上には、三化人もしくは宝珠が載っていたらしい。 また象の横腹から出る蓮華は、
 普賢菩薩が半跏の姿勢になる場合の足の受け台である。 光背と蓮華座は後補で、蓮華座はもと孔雀によっ
 て支えられていたとも考えられる。
2)不動明王立像 木像彩色、平安時代 像高 133.7㎝ 護摩堂安置
   護摩堂に安置。 一木造で、平安時代初期魔で遡る古像。 髪を細かく編み上げることや、 左手をまっすぐ
 垂らすこと、裳裾がめくれて両膝が露出し、左足をやや踏み出すことなど、初期天台系の不道明王の特徴を見
 せる現在最古像である。 回峰行者の道場として知られる比叡山南谷の無動寺本尊を模刻したとの説があ
 る。 護摩堂は、比叡山西搭東谷の常住金剛院を前身とし、江戸時代前期に妙法院に移築されたので、本草も
 同時に移された可能性が指摘されている。
3)大威徳明王像 銅鋳造鍍金 像高120㎝
  六面六臂六足で水牛乗る大威徳明王を中尊とする五大明王の一尊であるが、独尊像として怨霊調伏や呪詛,
 戦勝祈願などの修法しゅほう(密教で行う加持祈祷などの法)で祀られることもおおかった。 この像は金銅製
 の小像で、納める江戸時代の厨子の扉に、比叡山の恵亮和尚(791~859)が惟仁親王これひとしんのう(清和
 天皇)の即位のために奉持した、との墨書がある。
  本像は、恵亮の時代まで遡らないが、精緻な造形表現から鎌倉時代頃の作とている。
4) 後白河法皇像(重文) 鎌倉時代 絹本著色 縦134.2㎝ 横84.5㎝  妙法院は、後白河法皇の帰依をうけ
 た比叡山西搭の妙法院昌雲が、新日吉社いまひえしゃの別当職を任ぜられ、東山の綾小路小坂に住坊を構えた
 のに始まる。 また三十三ま堂も、法皇が院御所の法住寺殿に付属して創建した。 本図は、後白河法皇が法
 衣・袈裟を着し、右手に念珠、左手に経巻を執って座す姿を描く。 やわらかな墨線や、法衣の隈取くまどり、背
 後の北宋画を思わせる花鳥図襖などから、伝存する法皇像の中でも最古に位置する。
5)松図(重要文化財) 桃山時代 紙本著色  玄関
   門跡寺院である妙法院の玄関は、西南側に唐破風を付けた立派な式台を設けたもので、元和5年(1619)
 東福門院入内のとき建造された建物を後に移築したと伝えられている。 その建物を伝承の通り、式台とも東福
 門院御所の御対面所の一部を移築したものと認めているが、その主体は明正院の御所に移築されているので
 襖絵もおそらくは院御所に移されたのであろう。 従って当玄関の内部の襖絵 は、にわかに出所を判断し難い
 。 引手に菊紋もないし、図ようも建物と合致しない点があり建物と別個と考えられる。 襖絵は建物の中央の
 南北に連なる三室に、全部で二十面を数える襖絵、壁貼付け、舞良 戸張付けの形で保存されて形で保存され
 ている。
  玄関の襖と壁・舞良戸まらいどの貼付けには、金地濃彩の松樹が描かれるが、作風から二つのグループに分
 かれれる。 第一は、巨大な幹を画面に一杯に描いたもの、第二は樹幹よりも金雲主体に描き軽やかな印象を
 与えるもので、前者は狩野永徳もしくはその画風継いだ弟子、後者は狩野光信の作とする見解が有力である。
 玄関そのものも古い建物の一部を利用して建てたらしく、永徳本人の筆であれば、それは当然古い部分に描か
 れたもので、秀吉時代に遡ることになる。
6)大書院障壁画(重要文化財) 桃山時代 絹本著色
  大書院は、これも東福門院入内の折の御殿を移したものと伝えられており、 藤岡通夫は奏者所を移し、床、
 棚、帳台構え、書院などを付け書院造りとしての形式を整えたと推定している。 今日では明治に失われた妙法
 院の旧宸殿が東福門院の遺構だったとする意見が有力になっている。 
  四室に分けられた大書院の一の間の襖及び床貼付け「唐人物図」と帳台構えの「群仙図」は、既に土井次義
 氏によって狩野光信筆であることが顕彰されている。 二の間北側から東側にかけての「四季花木図」について
 も、光信の可能性が考えられる。 大書院の障壁画は、建物、襖として何処から移したか不明である。
 6-1)群仙図(重要文化財) 左右122.5㎝×59.2㎝  中央133.5㎝×72㎝  大書院  大書院一の間の北側
   帳台構え張付け四面のうちの中央二面である。 帳台構えは書院造建築の主室の床の脇にあって、武者
  隠しとも言う。 それはこの襖の後に護衛の侍を隠しておいたからだと言われている。 中央二面はこのように
  引 手の所に大きな朱房をさげる。 
   主題になっている中国唐時代の仙人張果老は、常に白驢はくろに乗って旅し、1日数万里も行くが、休息す
  るときは、驢ろばを瓢箪の中に納め、用あるときは瓢箪から水とともに驢を出したという。 向かって右は張果
  老が瓢箪から驢を出したところで、回りの群衆がびっくりしているところ。 俗に「瓢箪から駒が出た」という諺は
  これから出た。
 6-2) 唐美人図(重要文化財) 各177.5㎝×142㎝  大書院  これは大書院一の間にある西側の襖の中央
  二面にあたる。 二の間の障壁画に似た画面で、長身のすらりとした女性像に特徴がある、 金地に描いた
  松の幹は玄関の松ほど太くないが、その屈曲の仕方は力強く、岩の描き方も荒々しい感じがある。 同じ室の
  唐人物図や群仙図とは筆者が異なる感じである。
 6-3) 柳桜草花図(重要文化財) 178㎝×140.5㎝  大書院
   大書院障壁画三十八面のうち、二の間に柳桜草花を描いた14面の襖絵がある。 これはそのうちの北側四
  面の向かって左二面で、金地に春の桜を描き、此処を起点として普通とは逆に、右回り四季花木を配置する。
  粗っぽい筆致で描く点は、前場の玄関障壁が障壁画とよく似ている。 なおこの奥の間(西北の間)には、大
  和絵風の秋草図八面がある。
7)三十六歌仙図 桃山時代 板地箸色  各66.8㎝×43.6㎝
  桃山時代には、狩野派などの絵師が盛んに描いた三十六歌仙の額が、各地の寺社に奉納された。 本図は
 白書院とい御座之間の間の廊下の壁に掛けられる。 三十六歌仙の姿は定型だが、衣裳や几 帳きちょうの柄
 を非常に丁寧に描く。 また上方の歌を書きつけた色紙形も、金銀泥によりじつに様々な植物等の風物を描き、
 縁に打つ飾金具も太い唐草を力強く彫表していて、桃山時代ならではの豊かな装飾性をみることができる。 
8)雄波雌波図屏風 円山応挙筆 江戸時代 紙本墨画 各117.5㎝×277.8㎝
  円山応挙は第38代門主である真仁法親王のサロンに属し、白書院や御座之間の障壁画とともに屏風絵も描
 いた。 本図は写生画を旨とした応挙らしく、左隻に波の大きいうねり、そこから沸き上がる波頭を、細緻な墨線
 と薄墨で描く。 また右隻はその続きなのだが、一転して静かな気配の浜汀を大きな余白中に描写して、対比
 の妙を演出する。 理知的な応挙の面目や躍如たる佳作である。
9)繫馬図 狩野山楽筆 桃山時代
  板地箸色 88.7㎝×125㎝
  豊臣家の滅亡後、豊国社にあった秀吉関係の品々は、同社破却に伴い方広寺大仏殿 に移管され、最終的
 に同寺を管理する妙法院に入る。 天保3年(1832)にそれらは展覧に供され、「豊公遺宝略」なる図録も出版さ
 れた。 繫馬けいば図もその1つで元は豊国社に奉納された絵馬であった。 慶長19年(1614)に狩野山楽が
 作成し、安養寺喜兵衛尉氏親が奉納したで織だした補(ゼッケンのような四角い記章)を付ける。旨の墨書
 が残る。 
10)ポルトガル国印度副王親書(国宝) 桃山時代 羊皮紙墨書著色 60㎝×76.8㎝
  妙法院には豊臣秀吉に関係する遺品が多数つたわっている。 これもその1つである。 天正16年(1588)に
 ゴアにいたポルトガル国印度副王ドン・トワルテが豊臣秀吉送ったてがみである。 当時のヨーロッパの習慣で
 手紙は羊皮紙にかいてある。 文章は、一番初めの言葉の頭文字Cを金文字とし、その中に秀吉が用いた桐の
 紋章を描いている。 また文中秀吉を呼ぶときしばしば用いるVofsa Alteaza またはこの略文V・A(殿下の意)を
 金文字として、秀吉に敬意を表している。 
  文面の上左右の周縁には極彩色の絵があり、下に金銀の糸を組み合わせた房がつく。 周縁 の絵のうち上
 部にはローマの七つの丘を描き、その中央は軍神マルス、向かって右端に雌狼に育てられたロムルスとレムス
 の建国神話、左端にローマの章紋を描き、その間には種々の武器と古代の海神海豚いるかを配する。 左右両
 縁の人物にかつがれた紋章は、五星を三日月が囲む図案であるが、これはポルトガル領ゴアを表すのであろう 。  この手紙は、当時日本で秀吉がキリスト教を弾圧していたので、宣教師たちの要望に寄り、 政策を緩和し
 てもらうための認めたもののようで、親交のしるしとして武器や馬などが贈られ  る。 使者になったのは耶蘇
 会の宣教師アレサンドロ・ヴァリナーノで、大友・大村・有馬等九州諸大名の遺欧使節が帰国するとき、同伴し
 て長崎に上陸し、天正19年閏正月8日に聚楽第で秀吉に謁見して、この手紙と贈物を奉呈した。 この手紙の
 返信は同年7月25日付で発せられたが、京都富岡家所蔵の草庵によると、秀吉はキリスト教の伝道は禁止す
 るが貿易は許可する旨を伝えたようである。
  この手紙は、秀吉の宗教政策を背景にした外交文章として稀に見る遺品であるばかりてなく、同文章の書式
 やその周縁に描かれている絵画も、それぞれの分野で重要な価値をもっている。
  『 貴国が遠方なのでいままで交際もありませんでしたが、殿下の御偉業については、貴国の各地に滞在して
 いる、バテレン(キリスト教徒) たちの書簡で承知しています。 私は貴国の各地にいるバテレンたちが殿下の
 おかげを蒙って、救済にの道を 伝えていることを、深く喜んでおります。 この度、バテレン達が、使節を派遣し
 て、殿下に手紙を贈り、日頃の御 恩にたいして御礼申し上げてほしいと、要望してきましたので、長年貴国に
 滞在して事情に詳しい巡察バテレン に委任して、この手紙を奉呈いたします。 どうか今後ますますバテレン達
 に格別の御愛顧を賜りますようお願い申し上げます。 また当地からなにか殿下のお役に立つことがありました
 ら、喜んで協力たし泰と存じます。 ここ に親交のしるしおして、モンタンテ刀(広刃の)2口・鎧2領・馬3頭・ピス
 トル2挺・テルザト刀(広刃の短剣)1口・金輪の帳帷2対・テント1張りを進呈いたします。  』
11)麒麟服 明時代 丈123.5㎝ 桁102㎝
  妙法院には、秀吉の勅論ちょくゆの頒賜目録に記載されない明服が10点ほどつたわっている。 
 これはその1領で、肩から胸にかけ木瓜形をなし、牡丹唐草を織りだした鮮やかな紅の文紗地に麒麟・雲・波・
 山岳を多色の色糸で表している。 主紋様の麒麟は、常服と同様、番王を象徴した意匠であろうが、「大明会典
 」によれば、公、候、腑馬ふば・伯の身分を示すものであった。
12) 麒麟文円領常服 明時代 丈139㎝ 桁119㎝
  豊臣秀吉が引き起こした朝鮮侵略を終結させるべく、文禄5年(1596)、明の皇帝神宗は大阪城へ使者を送り
 、秀吉を日本国王に封じる誥命こうめい(辞令書)・勅論を伝達した。 妙法院には、この時秀吉に頒賜された冠
 服一式が「豊公遺宝」として伝存している。 これは、日本国王冊封勅諭中の頒賜目録に記す「常服羅一套 大
 紅織金匈背麒麟円領一件」に当たる。 常服は宮廷に上がる際に着る平服で、円領とは丸首のこと。 胸と背に
 蕃王の象徴、麒麟を金欄13)秋草蒔絵文台(重文) 桃山時代 木像蒔絵 58.3㎝×34.2㎝×11.5㎝ この文台
 は、土披どはから繁茂する菊・萩・ススキ・藤袴・女郎花などの秋草を、天板一杯に描く。 黒漆地に平蒔絵主体
 で表すのは、まさに秀吉在世中に流行した桃山振りの作風で、さらに、はな・葉・岩を薄肉高蒔絵・切金で表現
 するという、室町から古様も見せる。)また力のこもった鏨彫で、太く巻き込む菊唐草を表す飾り金具も、桃山時
 代ならではの優作でみのがせない。
14)菊桐紋蒔絵懸 桃山時代
  膳碗と箸が¹一具で伝わるうちの大小懸盤。 黒漆塗を主体に天板のみ朱塗りとする色彩の対比性と、そこに
 意匠を金平蒔絵で表すのは、典型的な桃山時代蒔絵の作風である。」 特に五七桐紋と菊紋の組み合わせは
 、秀吉関係の作品に多くみられる。









参考文献
古寺巡礼京都(14)妙法院・三十三間堂    著者 三崎義泉   淡交社
古寺巡礼京都(18)妙法院・三十三間堂    著者 三崎義泉   淡交社
皇族寺院変革史               著者 村山修一   橘書房
妙法院と三十三間堂             著者 下城 守   特別展覧会

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