京都と寿司・朱雀錦
(47)三十三間堂

三十三間堂本堂

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所在地 京都市東山区三十三間堂廻町65

                            Ⅰ歴史
 三十三間堂は京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。
 この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。 その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
 後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年(11651217日に完成した。 創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、慶長元年(1249)の火災で焼失した。 文永3年(1266)に本堂のみ再建されている。 現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内部も極彩色で飾られていたという。 建築様式は和様に属する。
 「三十三間堂」の名称は、平安時代に流行った間面記法による表記「三十三間四面」に由来する。 「33」は観音に縁のある数字で、「法華経」等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。 
1.後白河天皇
  平家物語では、後白河上皇と平清盛が激しく対立したが、初期には二人の関係は良好であっ
 。  後白河天皇は鳥羽天皇の第四皇子で諱を雅仁まさひとといった。 鳥羽天皇は彼の第一皇子崇
 徳天皇は、院政をひき実権を維持した。 その後藤原得子を寵愛した。 得子の子で第9
皇子の
 体仁なりひとが成長すると、鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位をせまった。 体仁親王が皇位を継承し近
 衛天皇となった。
 () 保元の乱
   仁平3年(1153)に近衛天皇が重病に陥る。 後継者としては崇徳天皇の第一皇子が有力
  あったが、関白藤原忠道が後白河天皇の第一皇子で得子(近衛天皇の生母)の養子・守仁
りひ
  への譲位を法皇に奏上した。 この提案は一旦は拒否されたが、得子と忠道は崇徳の院政を阻
  止するために守仁擁立の実現に向けて動き出した。
   久寿2年(1155)7月23日、近衛天皇は崩御した。 後継天皇を決める王者議定に参加した
  のは源雅定と三条公教で、いずれも得子と関係の深い公卿だった。 候補者としては崇
徳天皇
  の第一皇子・重仁親王、守仁親王、暲子内親王があがったが、守仁親王が即位するな
かでの中
  継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま
29歳で即位することになった、これが後白河天
  皇である。
   ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156)5月、鳥羽法皇が病気にたお
  た。 法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた得子・忠通・院近臣にとっては重大な
政治
  的危機であり、院周辺の動きはにわかに荒さらしくなる。
   関白藤原忠道は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。 しかし、
  治2年(
1143)に基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠通と
  頼長と対立することになる。 忠通が得子側に走ると頼長は崇徳上皇側に付いた。
   崇徳上皇側には、貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長・頼長の母方の縁者である藤
  盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正・源頼憲などが結集する。 
   崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。 こ
  れに対し後白河・守仁陣営は、高松殿を警備していた源義朝・義康・平清盛・源頼政・源重

  ・源季実・平信兼らが続々招集された。
   7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大橋を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義
  康率いる
100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇形との戦闘の火蓋が
  切られた。 
   攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献
  をいれて白河北殿の西隣にある藤原家成に火をはなった。 辰の刻(午前8時頃)に火が
白河
  北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出した。 午の刻
(午後
  0時ころ)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。

 () 平治の乱
   保元元年(1156)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に「保元新制」と呼ば
  る代替わり新制を発令した。 この新制は荘園整理令を主たる内容としていた。 鳥羽院
政期
  は全国に多くの荘園が形成され、各地で国政の遂行を廻って紛争が起きていた。 この
荘園整
  理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図した
ものであ
  り、荘園公領制の成立への大きな契機となった。 その国政改革を立案・推進した
のが、後白
  河の側近である信西であった。 さらに内裏の復興にも着手して、保元2年
10月に再建した。
   その直後にも新たに新制
30ヶ条を出し、公事行事の整備,官人の綱紀粛正に取り組んだ。 
  こ
の過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、また信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼
  長の所領を没収して、後院領にくみ込み、自らはその預かり所となった。
 国政改革推進のた
  め、信西は平清盛を厚遇する。 平氏一門は北面武士の中で最大兵力を
有したが、乱後には清
  盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四
ケ国の受領を占めてさら
  に勢力を拡大した。 また、荘園整理、荘官・百姓の取締まり、神
人・悪相の統制、戦乱で荒
  廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。 
信西は、自らの子・成憲と
  清盛の娘の婚姻によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調
に進行するかに見えた。
   しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在した。 得子を中心に守仁親王の擁立を測る
  ループ(二条親政派)である。 得子(美福門院)は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続し
て最
  大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。 得子はかねて
からの
  念願であった、自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求した。 もともと後白河の
即位は守
  仁親王即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西の得子の要求を拒むこと
ができず、
  保元3年(
1158)8月4日、信西と得子の協議により後白河天皇は守仁親王(二条天皇)譲位
  した。 ここに後白河院政と二条親政派の対立が始まることになる。 二条親
政派は藤原経宗
  (二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟)が中心となり、得子の支援を背景
に後白河の政治
  活動うぃお抑圧する。 これに対し、後白河は近衛天皇急死により突然皇位
を継いだこともあ
  り、頼れるものは信西のみでした.
   そこで後白河は武蔵守藤原信頼を抜擢する。 信頼は保元2年(1157)3月に右近権中将
  なると、
10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月検非違使別当と
  急速に昇進する。 信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながり
を持つ
  源義朝と連携していた。 保元3年(
1158)8月に後白河院庁が開設されると信頼は院の軍馬
  を管理する厩別当に就任する。 義朝は宮中の軍馬を管理す左馬頭であり、両者の
同盟関係は
  更に強固となった。 義朝の武力という切り札を得たよ信頼は、自分の妹と摂関
家の嫡子基実
  の婚姻も実現させている。 後白河の近臣としては他にも、藤原成親(家成の
三男)や源師仲
  がくわわり院政派の陣容も整えられた。

   ここに。信西一門、二条親政派、後白河院政派、平氏一門というグループがそれぞれ形勢
  されることになった。 信西一門の政治主導にたいする反発が、平治の乱勃発の最大の原因と
  おもわれる。 二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という
  点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。 一方、清盛は自分の娘を信西の子成憲
  に嫁がせていたが、信頼の嫡子信親にも娘を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあっ
  た。 平治元年(
115912月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて
  、反信西派がクーデターを起こした。

   12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃うる。 信
  頼らは後白河上皇等の身柄を確保すると、三条殿に火を放ち逃げる者には容赦なく矢を射掛

  た。 警備にあたっていた大江家仲等は犠牲となったが、信西一門はすでに逃亡していた。
  
10日には信西の子息(俊憲、貞憲、成憲、脩憲)が逮捕され、22日に全員配流が決定した。
  山城国田原に逃れた信西は、追撃を振り切れず自害した。

   信西が自害した14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨
  除目を行った。 この除目で源義朝は播磨守、嫡子頼朝は右兵衛権佐となった。 信頼の
政権
  奪取には大半の貴族が反感を抱いたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独
断専行
  をみて、密かに離反の機会を伺っていた。 

   清盛は、紀伊国で京都の異変を知った。 紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快の協力によ
  、
17日帰京する。 帰京までに、伊藤景綱、館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。 
  方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定してい
なか
  った。 京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。 信西
とした
  しかった内大臣三条公教は信頼の専横に怒りを抱き、清盛を説得するとともに二条親
政派の経
  宗・惟方に接触をはかった。 二条親政派にすれば信西打倒をはたしたことにより、
信頼ら後
  白河院政派は用済みとなっていた。 好況と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計
画が練られ
  た。 
25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河上皇は
  すぐに仁和寺に脱出した。 日付が変わって
26日丑の刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て
  清盛の邸である六波羅へといどうした。 藤原成頼がこれを触れて回ったこ
とで、公卿、諸太
  夫は続々と六波羅に終結し、清盛は一気に官軍としての体裁を整え、信頼・
義朝の追討宣旨が
  くだされた。 

     26日早朝、天皇、上皇の脱出をしった後白河院政派は激しく動揺した。 信頼側の戦力は、
  源義朝、源重成、源光基、源季実、源光保の混成軍であった。 保元の乱では国による公的

  動員だったのに対して今回はクーデターのための隠密裏の召集であり、義朝が組織できた
のは
  私的な武力に限られ兵力は僅少だったと推定される。

   清盛は、内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦をたて、嫡子重盛
  弟頼盛が出陣した。 源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は得子の下人で
政治
  的には二条親政派であり、信西打倒のため信頼に協力していたにすぎなかった。 平氏
軍は予
  定通り退却し、戦場は六波羅近辺へとうつった。 義朝は決しの覚悟で六波羅に迫る
が六条河
  原で会えなく敗退する。 

   藤原信頼・成親は仁和寺覚性法親王の元へ出頭し、清盛の前にひきだされた信頼は自己弁
  するが、信西殺害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。 成親は重盛室の兄という理
由で
  助命され、解官されるに留まった。 逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出
頭する
  が処罰は厳しく、下野国への配流が決定した。 義朝は、尾張で殺害された。 頼朝
は捕まり
  処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。 ここに後白河院
政派は事実
  上壊滅することになる。

   合戦の終息した1229日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗森が遠江守
  、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じっられ、平氏一門の知行国は乱の前の5
ケ刻か
  ら7ケ国に増加した。

 () 平清盛と三十三間堂
   平治の乱後、後白河院は二条親政派の中心だった大炊御門おおいのみかど(藤原)経宗つねむね藤原
  惟方の逮捕を清盛に命じた。 経宗と惟方は、藤原信頼とともに信西殺害の首謀者であ
り、そ
  の責任を追及されたものと推定される。 後白河院派と二条親政派の対立は、双方の
有力な近
  臣が共倒れになったことで膠着状態となる。
   蔵人頭中山忠親の「山槐記」によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関
  藤原忠道が諮問にこたえる形で処理されていた。 
10月になると後白河院は、焼失した三条殿
  に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かった。 

   その土地は、永延2年(988)に右大臣藤原為光が自宅を寺として法住寺と称した由緒ある
  ところであった。 この寺は長元5年(
1032)焼失した。 中山忠親の日記「山槐記」によ
  と信西邸(平治の乱で焼失)、藤原清隆・紀伊二位の御堂など大小八十余の建築物があり、

  れを取り壊したため多くの人の恨みを買ったという。 また、別の研究によると、その場
所は
  、賀茂川東の七条末から八条末の十余町で、西は賀茂川東岸から東は東山通りを越え現
在の妙
  法院境内の中程を、南北に貫く線まで達していた。
  
 造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。 
  永暦2年(
1161)9月3日滋子(清盛の妻・時子の妹)は後白河院の第七皇子(憲仁親王、
  の高倉天皇)を出産するが、その誕生には色々な噂があった。 
15日、憲仁立太子の陰謀が発
  覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官さ
れた。
  これにより後白河院政派は壊滅した。 これ以後、後白河院は政治決定の場から排
除され、国
  政は二条帝と藤原忠通の合議により運営されることになった。 平清盛は内裏の
警護して二条
  支持を明確にしたが、後白河院への配慮も忘れていなかった。
  
 後白河院は元来熱心な仏教信者であった。 院政を停止された後白河院は、信仰の世界に
  めり込む。 
1016日後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社。熊野卸を勧進する。 新日吉
  社いまひえしゃは、競馬や流鏑馬やぶさめなど武士の武芸が開催される場となり、新熊野社いま
くまのは、
  熊野詣でに出発する前の精進・参籠の場となった。 
17日に早速、勧進したばかりの新熊野に
  参籠して、
23日、初めて熊野詣でに出発する。 この参詣には清盛も同行している。 熊野詣
  では以後
34回にも及んだ(実際に記録で確認出来るのは28回)。 熊野詣での最中の1123
  得子(美福門院)が薨去した。 即位以来、得子との協調に神経を使っ
ていた後白河院にとっ
  ては拘束からの解放であり、二条を押さえて政治の主導権を握ること
も夢ではなくなった。 
   後白河院は譲位後の永暦2年(
1161)4月13日、後院所を建て移られた。 現在の東山通り
  を挟んで南北に北殿と南殿の両御所が出来、南殿を法住寺殿と呼ばれ、狭義の法住寺殿
は南殿
  を指したようである。
   応保2年(1162)正月の熊野詣では、千手観音教千巻を読んでいた時にご神体の鏡が輝い
  ので「万の仏の願いよりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまち花咲き実成る
と説
  ひたまふ」と今様を詠い、千手観音への信仰を深くしている。
  
 後白河院は、多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を建設、長寛2年(1164)落慶
  た。 造営は清盛が備前国を知行して行った。 法皇は蓮華王院のほかにも、御所内に
たくさ
  んの仏堂を建立した。 まず法皇が出家した懺法堂、不動堂、八幡以下
21社の惣社、千手観音
  堂(中尊は三尺、脇侍千体、
28部衆;小千手堂と呼ばれた)、念仏堂、五重塔、宝蔵(法皇が
  集めた貴重な宝物が多数収納されていた)があり、蓮華法印の南辺には広大な池
がありそれに
  接して東面する最勝光院(滋子住居)があった。

 () 平氏との協力体制
   六条天皇は母親の身分が低いことから中宮育子が養母となり、摂政近衛基実を中心にして
  制の維持が図られた。 しかし、政権は不安定で、後白河院政派は次第に息を吹き返して
いく
  。 
1225日後白河院は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とした。 これにより憲仁
  は皇位継承の有資格者となった。 永万2年(
1166)7月26日に基実が急死すると、嫡子の近
  衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政氏長者ににんじられた。 これで、
主柱であった
  摂関家と平氏が後白河院派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。

    1010日、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王(清盛の義理の甥)の立太子を実現した
  。 立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実が東宮傳とう
ぐうのふ
  、清盛が春宮太夫となり、摂関家と平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなっ
た。 
   11
月、後白河院は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ね
  ずに大臣なったことも極めて異例で破格の人事だった。

   仁安2年(1167)5月10日後白河院は清盛の長男重盛にたいして東山・東海・山陽・南海道
  の山賊・海賊追討宣旨を下した。 これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委
任され
  た。 重盛は憲仁親王立太子の儀式で後白河院の警護に当たり、9月の熊野詣でにも
お供をす
  るなど、後白河院に近い立場にあった。 清盛は家督を譲っても、依然として大き
な発言力を
  有していたが、仁安3年(
1166)2月、病気で倒れる。 後白河院は熊野詣でから戻る途中だ
  ったが、日程を早め、浄衣のまま六波羅に見舞いにかけつけており、その狼狽
りがうかがえる
  。 摂関以外の臣下の病気では異例の大赦が行われ、
19日、反対派の動きを封じるため、六条
  天皇から憲仁親王への譲位が慌しく執り行われた(高倉天皇)。

   病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して隠退した。 仁安4年(1169
  正月、後白河院は
12度目の熊野詣でに向かう。 2月29日には賀茂社、3月13には高野山に詣
  で、帰路の途中の
20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。 この時に行われた千僧供養は、以後
  の恒例行事となった。 帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を
宣下し、6
  月
17日、法住寺殿において出家、法皇となる。 平氏との協力体制は盤石なものに見えた。
 () 政権分裂
   嘉応元年(11691223日、延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)。
   
後白河院が成親を擁護したのに対し、延暦寺と友好関係ある平氏は、武力による弾圧を拒否
  し、事態は紛糾した。 翌嘉応2年(
1170)2月には終息したものの、双方の政治路線の違
  が浮き彫りとなった。 

   後白河院政は内部に利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の」危機をはらん
  いた。 前年のような混乱を避けるためには政権内部の結束が不可欠だったが、そのよう
な中
  で政権の強化・安定策として浮上したのが、高倉帝と清盛の娘・徳子の婚姻である。 承
安元
  年(
1171)7月26日、後白河院は清盛から羊5頭と麝じゃ1頭を贈られる。 1023日には滋
  子とともに福原に招かれ歓待を受けるが、これは清盛による徳子入内の働きかけと
みられる、
  後白河院にとって、院政確立のためには平氏の支援は必要だったが、平氏の発
言力が増大し
  て主導権を奪われることは避けたかったものと推測される。

    12月2日、入内定が法住寺殿でおこなわれ、徳子は後白河院の猶子として入内することに
  った。 白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が持ちられたが、周囲か
らは
  疑問の声があがった。 九条兼実は法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり忌むべきも
のだと
  非難している。 この措置で後白河院は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確
保できた
  。 
14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手によって着裳の儀を行い、大内裏へと向った。
 () 鹿ケ谷の陰謀
   安元3年(1177)6月京都東山鹿ケ谷の静賢法印(信西の子)の山荘で平家打倒の謀議が
  われたとされる説である。

   安元2年(1176)後白河院は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。 平氏一門も法住
  寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。 しかし、6月に建春門院の病状
が悪化
  して、7月8日に死去した。 これにより母の死により皇子のいない高倉天皇の立場
が不安定
  となった。 成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後
白河院の間
  には対立の兆しがあったが、
12月5日の除目において後白河院近臣の藤原定能・光能が、平知
  盛らを越えて蔵人頭に任じられた。 後白河院政派の躍進に対する巻き返しと
して、翌安元3
  年(
1177)正月の除目では平重盛が佐大将、平宗盛が右大将となった。 建春門院という仲介
  者をうしなったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する
院近臣勢力は相争う
  ことになる。

   3月22日、延暦寺の大衆が加賀守藤原師高の配流をもとめて強訴をおこした。 加賀国目
  ・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれ
た紛
  争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、加賀守・藤原師高の父が院近臣の西
光だっ
  たため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。 3月
28日、後白河院は師
  経を備後国に配流するが、延暦寺の大衆はあくまでも師高の配流をもとめ、4月
13日に神興を
  奉じて内裏に向かった。 ところが重盛の軍兵が進興に矢を当てるという失態を
犯したため、
  情勢は一挙に不利となった。 後白河院は神興を射た責任を認め、
20日師高の尾張国への配流
  、神興を射た重盛家人の禁獄の宣旨がくだされた。

   4月28日、安元の大火が起り、大内裏・亰中の多くを焼き尽くした。 5月4日、後白河院
  は天台宗座主明雲を逮捕・座主を解任した。 嘉応の強訴と今回の事件は明雲が首謀者であ

  、「朝家の愁敵」「叡山の悪魔」と紛弾して法家に罪名を勘申させるとともに、所領を全て

  収。 後任の天台座主には覚快親王を任じた。 

    23日、大衆は配流途上の明雲の身柄を奪還する。 後白河院は伊豆国知行国主で配流の責
  者源頼政を譴責し、延暦寺武力攻撃の決意を固める。 ところが兵を率いる平重盛・宗盛
が「
  清盛の指示がなければ動かない」と出動を拒否したため、業を煮やした後白河院は、福
原から
  清盛を呼び出して攻撃を要請する。 
28日の会談で清盛は出兵を承諾する。 
   出撃直前の6月1日清盛の西八条邸を夛田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した。
  「愚管抄」によれば、後白河院が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集
  まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布
30反が与えられたという。
  また「平家物語」では、成親が立ち上がり瓶子へいじがたおれ、後白河院が「れはいかに」と問うと成親が「平
   」氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどう
するか尋ねると、西光が「頸をとるにしかず
  」と瓶子の首を折り割ったという。 

   この会合は比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。
   4日、俊寛、基仲、中原基兼、惟宗、信房、平資行、平康頼など参加者が一網打尽にされ
  」。 成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず」殺害された。

   一方、重宗は、妻の兄が配流されて助命をもとめたにもかかわらず殺害されたことで、面
  を失い、左大将を辞任した。 この結果宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。 

   後白河院の政治力定家に反比例するように、17歳となった高倉帝が政治的自立の傾向を見
  始めた。 もっとも弱体化したとはいえ院政も継続していたため、かっての二条天皇の時と同
  じく二頭政治となった。

   治承2年(11781112日、高倉天皇の第一皇子が無事誕生した。 12月9日、皇子に親王
  宣旨が下り「言仁ときひと」と命名、
15日立太子となる。
 ()  後白河院政停止
   治承3年(1179)6月21日、後白河院は小松殿に御幸し、重病の重盛を見舞った。 重盛は
  平氏一門では親院政派であり、清盛との対立を抑える最後の歯止めだった。 それに先
立つ17
  日、清盛の娘・白河殿盛子が死去している。 盛子の死による摂関家領の帰属問題は、
後白河
  院と清盛の全面衝突を引き起こすことになる。

   前関白・近衛基実没後の摂関家領は後家の盛子が管理していたが、これはあくまで嫡男・
  通が成人するまでの一時的なものだった。 盛子の早すぎる死は、基通への継承という清
盛の
  既定路線を大きく狂わせることになる。 この時点で非参議右中将に過ぎない基通が、
関白氏
  長者の松殿基房(基実の弟)を差し置いて遺領を全て相続することは無理があった。 
そこで
  清盛の打った方策が、盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領である。 この措置
は、基通
  が成長して関白氏長者になるまでの時間稼ぎとみられる。 この措置に不満を募ら
せた松殿基
  房は、氏長者として遺産をそうぞくの権利があることを後白河院に訴えた。 

    後白河院・松殿基房と清盛の対立は、10月9日の除目で決定的なものになる。 清盛の推
  する
20歳の近衛基通を無視して、基房の子でわずか8歳の松殿師家が権中納言に任じられたの
  である。 この人事は、師家がいずれ氏長者となり、後白河院の管理下に入った摂関家
領を継
  承することを意味した。 これに対して清盛は、
1114日にクーデターを起こす(治承3年の
  政変)。 松殿基房・師家父子は直ちに罷免されるが、これは天皇の公式命令であ
る宣命・詔
  書によって執行された。 院政は天皇の後見であることを権力の源泉としていた
ため、天皇の
  側が独自の支持勢力を背景に攻撃を仕掛けてくると抵抗できないという構造的
な弱点を抱えて
  いた。 
20日、住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となった。 ここ
  に後白河院政は完全に停止された。
 
   後白河院は鳥羽殿で厳しい監視下におかれ、藤原成範・脩範・静賢(いずれも信西の子)

  女房2,3人以外の御所への出入りは禁じられた。 幽閉の翌日
21日、清盛は院庁年預・中原
  宗家に院預目録をかきださせ、翌
12月には後庁が設置される。 これは後白河院から院領を没
  収して、高倉天皇陵に組み込むたまに必要な措置だった。 治承4年(
1180)2月21日に高倉
  天皇は、言仁親王に譲位(安徳天皇)し、後白河院に代わり院政をおおなった。 

   高倉上皇は譲位後、初の神社への参拝を厳島神社で行うべく3月17日に出発する予定であ
  た。 その噂が流れると延暦寺衆徒より待ったがかかった。 衆徒の主張によれば、帝が
退位
  される場合は必ず清水八幡宮・加茂社への参詣、後に他の社への行幸が通例であった。 
高倉
  上皇も、その先例に従うべきだと主張した。 清盛がどのような攻め方おしたか不明で
あるが
   、高倉上皇を西八条邸にお迎えすると、3月19日の明け方には上皇を船に御乗せして厳島へ向
  かわせている。 高倉上皇は3月
26日午前2時頃、厳島に到着し、入道相国寵愛の内侍の宿所
  を御所とした。 この御所に二泊される間、上皇は厳島の大宮に参拝し、御神楽
を奉納、宸筆
  の金泥法華経三巻等を供養いた。 夜は社殿を参籠したのち、内侍どもがあつ
まり御神楽を奏
  した。 翌日、上皇は厳島を浦伝いに巡り、海女の潜水もご覧している。 3
29日帰京の船
  に乗り、4月6日には播磨国山田の浦に到着。 新都となる福原を巡覧した
後、4月8日には
  帰京し、清盛夫人時子の待つ西八条邸に帰り着いた。

 () 以仁王の挙兵
   後白河院の第三皇子・以仁王もちひとおうは学芸に優れた才人だったが、平氏政権の圧力で30歳近
  い壮年でなお親王宣下も受けられずにいた。 それでも、莫大な荘園をもつ八条院暲子
きこ
  親王を後ろ盾に、彼女の猶子となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。 だが、
安徳
  天皇の即位によってその望みもたたれた。

   源頼政は源頼光の系譜に連なる摂津源氏で、畿内近国に基盤を持つ亰武士として内裏守護
  任じられていた。 保元の乱では勝者の天皇方につき、平治の乱では、形勢を観望して藤
原信
  頼に与しなかった。 頼政はこの時
70代半ばを超えた老齢で出家し、家督を嫡男仲綱に譲って
  いた。

   以仁王と頼政が反平氏を唱えた挙兵の意思を固めた経緯と動機には諸説あるが、平氏一門
  専横と源氏への日頃の軽侮に対する長年の不満の爆発は、理由として挙げられる。

   治承4年(1180)4月9日源頼政と謀った以仁王は、「最勝親王」と称し諸国の源氏と大寺
  社に平氏追討の令旨を下した。 皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形

  の命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分を偽ってこう称した
 この令旨を伝達
  する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(為義の末子)が起用された。 
行家は八条院の
  蔵人で、以仁王と近い関係にあった。 行家bは令旨の日付と同じ4月9日
に亰を立ち、諸国
  を廻った。 4月
27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館を訪れ、源頼朝に令旨を伝えたという
  。

   行家は4月から5月にかけて東国を廻ったが、五月始めには計画は露見した。 「平家物
  」によると、密告したのは熊野別当湛増である。 令旨によって熊野の勢力が二つに割れ
て争
  乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。 

   5月15日、平氏は以仁王を臣籍降下させ「源以光」と改めた上で土佐への配流を決定した。
  
検非違使別当・平時忠は、300余騎を率いて以仁王の三条高倉帝に向かった。 この中に頼
  の次男・兼綱がいた。 仲綱から知らせを受けた以仁王は、女装して邸を脱出、御所では
長谷
  部信連が検非違使と戦って時間を稼ぎ、以仁王は園城寺へ逃れた。 

   16日、平氏は園城寺に以仁王の引き渡しを求めたが、園城寺大衆はこれを拒否した。 大
  社が相手では平氏も容易に手が出ず数日がすぎた。
     21日、この時点でもまだ頼政の関与は露見していなかった。 その夜、頼政は自宅を焼き、
   50
余騎を率いて園城寺に入り以仁王と合流した。 
   この間に、平氏は調略お行い、延暦寺大衆を切り崩した。 園城寺も危険になったため、25
  日夜、頼政とは
1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へむかった。 「平家物語」で
  は知盛・重盛を大将とする平氏2万8千余騎でこれを負ったとするが、この数は誇張
で、九条
  兼実日記「玉葉」によれば、
26日に平氏家人藤原景高が先発隊として300騎を率いて出動し、
  平等院で頼政・以仁王に追いついて南都入りを阻止している。 頼政の軍はわず
50騎であっ
  たという。 夜間の行軍に」疲れた以仁王は幾度も落馬し、やむなく宇治橋の
橋板を外して宇
  治平等院で休息を取ることになった。 

    26日宇治川を挟んで両軍は対峙した。 「平家物語」では、頼政の軍は宇治橋の橋板を落
  て待ち構え、川を挟んでの矢戦となった。 頼政方の五智院但馬や浄妙明秀、一来法師と
いっ
  た強力の僧兵たちの奮戦が描かれ、攻めあぐねた平氏の家人・藤原忠清は、知盛に河内
路への
  迂回を進言した。 下野国の武士足利俊綱・忠綱父子はこれに反対し、「騎馬武者の馬筏で堤
  防を造れば渡河は可能」と主張した。 
17歳の忠綱が宇治川の急流に馬を乗り入れると、坂東
  武者
300余騎がこれに続いたという。 渡河を許したため、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで除
  き退き、以仁王を逃がそうと防戦した。 頼政方は次第に人数が減り、兼綱は討たれ、仲綱は
  重症を負い自害した。 頼政はもはやこれまでと念仏をとなえ、渡辺唱の介錯で切腹したとあ
  る。

   「玉葉」によれば、先発隊に合流した平氏軍の藤原景高の部隊が橋桁を伝って攻撃をしか
  、藤原忠清の部隊が河の浅瀬から馬を乗り入れ宇治川を渡った。 平等院で頼政軍と戦闘
とな
  り、源氏方は少数の兵で死を顧みず奮戦し、特に頼政の養子・兼綱の戦いぶりは、あた
かも八
  幡太郎義家のようであったという。

   以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出いたが、藤原景高の軍勢に追いつかれ山城
  相楽郡光明山鳥居の前で、敵矢に当たって落馬したところを打ち取られた(「吾妻鏡」)。

 () 福原遷都
   福原亰は、平安時代末期の治承4年(1180)、計画のみに終わった日本の首都の通称である。
    平清盛が約4百年続いた平安京を一時捨て、福原へ遷都を実行したことは史上有名である。
  
一連の行為が当時の平家にとって妥当なものだったかといえば、むしろ失敗だったといえる。
  
しかし、福原遷都も清盛にとって決して無謀な政策ではなく、周囲の状況をみて必然的な行
  であった。

   以仁王の謀反を鎮圧した直後の治承4年5月末、清盛は安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇
  福原遷行を発表した。 この時点ではこの遷行が「遷都」であるとは公表されておらず、
そう
  いう噂はあったものの、なぜ福原へ行くのかということはまだ誰も知らなかった。 し
かし、
  6月2日には福原に入り、同
11日には内裏となった頼盛の邸で遷都について議定が開かれ、漸
  く人々はこれが遷都であったことを知るのである。 三井寺、興福寺が以仁王に加担したこと
  で、寺院勢力の反平氏運動がいよいよ抜き差しならないものになってきていると感じた清盛だ
  ったが、これらの寺院勢力を武力によって弾圧することは避けたかったのである。 

   この時代、寺院勢力の朝政への干渉が頻繁に行われ、朝廷への辛辣な要求は度々に及んで
  た。 何か不満があるごとに、強訴を強行し狼藉を繰り返し、その被害は罪のない都民に
まで
  及んだ。 そして、無法な要求を突き付けられるたびに、朝廷はその対応に苦慮せざる
をえな
  かったのである。 今回、延暦寺は謀反に加わらなかったものの、平家との友好的だ
った上層
  部の力がよわまり、これも何時平家に反旗を翻すかわからないという情勢であった。 
このよ
  うな、有力な寺院勢力に挟まれた京都ではいざという時の防衛もままならない。 遷
都の理由
  の一つはそこにあった。 
 だが、清盛が遷都によってめざしたものは、古い制法の束縛から
  の解放であった。 制法
とは、貴族一般に染みついている古い習慣や考え方のことである。 
  京都では、何をするに
も旧来や慣例や偏見が大きな障害になる。 平安京は法皇を始めとする
  貴族と寺社勢力が団
結して、新しい独裁者である平氏を締め出すための製法の砦であった。 
  新しい政治を始め
るには、制法を生み出し、院政の基盤となる古代的貴族社会そのものを否定
  する必要があっ
たのである。 しかし、この福原遷都は半年で終わりを告げた。 周囲の貴族
  だけでなく、
宗盛をはじめとする一門の多くが京都への帰還を希望したからである。 治承4
  年
1123日には京都への還幸となった。
 (10) 高倉上皇と清盛の死
   同年1221日、高倉上皇の病状が「今においては起き揚り給ふ能はず」(玉葉)というほど
  悪化していたことが、清盛が帰還に踏み切った要因の1つと考えられている。

   治承5年(1181)1月14日高倉上皇が崩御したため「天下万機、法皇元の如く聞し食す」
  とになり、後白河院の院政が再開された。 
16日、高倉院の遺詔(遺言)により、平氏は後白
  河院政下でも軍事的権限を行使することが出来るようになった。 

   1月27日熱病で倒れた。 死期を悟った清盛は、自分の死後は全て宗盛に任せてあるので、
  宗盛と協力して政務をおこなうよう法皇に奏上したが、返事がなかったため、恨みをのこし

  「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平
盛国
  の屋敷で死亡した。享年
64歳。
   清盛の死後、宗盛は「故入道の所行等、寓意に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能は
  。 只彼の命をまもりて罷り過ぐる所なり。 今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存
じ行
  うべく候」と表明して、後白河院に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を討糧、後白河
院は、
  公卿議定を開いて追討の中断を
)決定した。 しかし、このような軍事問題に関しては平氏が主
  導権を握り、後白河院の遺構が反映されることはなかった。 

   4月17日、平維盛を総大将とする10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向した。
 (11) 源義仲の入京
   河内源氏の一族、源義賢の次男。 頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。 母は遊女。 義
  仲の前半に関する史料はほとんど無く、出生地は武蔵国の大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)と

  る伝承もあるが、源義賢が居住していた上野国多胡郡の可能性もある。

   治承4年(1180)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源
  氏に挙兵を呼びかける。 同年9月7日、義仲は兵を引いて信濃の源氏方救援に向かった。 

  平家に味方する信濃の豪族笠原五頼直が義仲討伐のため、木曽への侵攻を企てた。 それを

  した源氏方の村山七郎義直が市原で阻止し合戦となった、弓矢も乏しくなり劣勢の村山は、

  仲に援軍をもとめた(市原合戦)。 それに応じ大軍を率いて現れた義仲軍をみて、笠原勢

  退却した。 義仲はそのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へ向うが、2ケ月後に信
濃国
  に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。 上野から信濃に戻ったのは、頼朝と衝突するこ
とを避
  けるためといわれている。 

   翌年の治承5年(1181)6月、小県郡の白鳥河原に木曽衆・佐久衆・上州衆など三千騎を
  結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道
へと
  進んだ。 寿永元年(
1182)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵
  を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏と
の衝突
  を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。

   寿永2年(1183)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義弘と、頼朝から追い払われた行家が義
  を頼って身を寄せ、この二人の叔父を擁護したことで頼朝と義仲の関係は悪化した。 両
者の
  武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立
は一応
  決着がついた。

   4月、平氏は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。 平氏軍は越前
  火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされた。 だが5月9日明け方、

  賀国より軍を進め般若野(富山県高岡市南部)の地で兵を休めていた平氏軍先遺隊平盛俊
の軍
  が、木曽義仲軍の先遺隊である今井兼平軍に奇襲され、平盛俊軍は退却した。 一旦退
却した
  平氏軍は、能登国志雄山に陣を敷いた。 5月
11日義仲は源行家の兵を志雄山へ向けて牽制さ
  せ、義仲本隊は砺波山へ向かう。 義仲は昼間はっしたる合戦もなくすごして平氏
軍の油断を
  誘い、樋口兼光の一隊をひそかに平氏軍の背後に回りこませた。 平氏軍が寝静
まった夜間に
  、義仲軍は突如大きな音を建てながら攻撃を仕掛けた。 浮き足たった平氏軍
は退却しようと
  するが退路は樋口兼光に抑えられていた。大混乱に陥った平氏軍7万余騎は
唯一的が攻め寄せ
  に方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。 平
氏軍は、将兵が次
  々と谷底に転落して壊滅した。 

   平氏が総力を結集して送り込んだ追討軍は、5月11日の倶利伽羅峠の戦いで壊滅し、これ
  で維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。 7月
22日義仲が延暦寺東塔に城郭を構え
  た。 
24日平氏が後白河院・安徳天皇を擁して西国に退去する方針は決定していたと思われる
  。 夜になると後白河院は宗盛に御書を送り、「若し火急に及ばば何様に存じ御しまさ
むべき
  か。 期に臨んで定めて周章せしめんか。 その仔細をもうさるべし」と探りをいれ
た。 宗
  盛の「左右無く参入、御所に候ふべし」という返事をきいて都落ちの意図を察知す
ると、25
  未明。源資時・平知康だけを連れて輿に乗り法住寺殿えを脱出、鞍馬路・横川を
経て比叡山に
  のぼり、東塔円融坊に着御した。

 (12.) 源義仲の滅亡
   7月27日、後白河法皇は錦部冠者(山本義経の子)を前駆として下山し、法住寺に入る。 
  翌
28日、公卿議定が開かれ、平氏追討・安徳天皇の帰京・神器の返還が議論された。 中山
  親等は追討よりも神器の返還絵を優先すべきと主張するが、義仲・行家軍が都を占領して
おり
  、天皇・神器の回復の目処も立たないことから、「前内大臣が幼主を具し奉り、神器を持
ち去
  った」として平氏追討の宣下を下した。 ここに、平氏は賊軍に転落し、義仲・行家が
官軍と
  して京都を守護することになった。

   7月28日、後白河法皇は義仲・行家に平家追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定
  関東に派遣した。 後白河院にとって平氏が安徳天皇を連れて逃げていったのは不幸中の
幸い
  であり、8月6日に平氏一門・党類
200余人を解官すると、16日には天皇不在の中で院殿上除
  目を強行して、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。 
後白河
  院は平時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に
終わった
  。 やむを得ず、都に残っている高倉院の皇子2人の中から擁立することが決まっ
たが、ここ
  に義仲が突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張した。 九条兼実が「王
者の沙汰に至
  りては、人臣の最にあらず」と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯
だった。 義仲
  の意義を抑えるために御トがおこなわれ、
20日、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が践祚し
  た。 後白河院は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討
のためには義仲の武
  力に頼らざるを得ないのが現状であり、義仲に平氏没官領
140余箇所をあたえた。
   義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、義仲は京都の
  安回復にも失敗した。 連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ
切っ
  た武士たちの大軍が居座ったために、遠征軍による町や周辺での略奪行為が横行する。 
京中
  守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏
などの
  混成軍であり、その中で義仲が最も有力だっただけで全体の統制が出来る状態になか
った。
   たまりかねた後白河院は19日に義仲を呼び出し「天下静ならず。 また平氏放逸、毎事不便
  なり」と責めた。 立場の悪化を自覚した義仲はすぐ平氏追討に向かうことを奏上し、法
皇は
  自ら剣を与え出陣させた。 義仲にすれば、失ったし信用の回復や兵糧の確保のために、
何と
  しても戦果を挙げなければならなかった。 義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨
国へ下
  向した。

   義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原廉定が帰京した。 朝
  に頼朝の申状は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主へ

  返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝

  を大いに喜ばせるものであった。 後白河院は頼朝を本位に復して赦免、
14日には寿永二年十
  月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権をあたえた。 

   そうとは知らぬ義仲は、西国で苦戦を続けていた。 閏10月1日の水島の戦いは平氏軍に
  敗し、有力武将の矢田義清を失った。 戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んで
きた
  のは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。 驚いた
義仲は
  平氏との戦いを切り上げて、
15日少数の軍勢で帰京した。 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼
  朝に代わっていた。

    11月4日、源義経の軍が不破の関にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚
  かためる。 一方、頼朝軍入京間近の報に力を得て後白河院は、義仲軍と対抗できる戦力
の増
  強をはかった。 延暦寺や園城寺、さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に
引き入
  れて、数の上では義仲軍を凌いだ。

     1119日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃、焼き討ちにした。 上皇御所、五重塔、
  宝蔵、阿弥陀堂ななど、三十三間堂を除く全ての堂塔が焼き尽くされたが、不思議に三
十三間
  堂のみが焼けずにのこった。 院側は、土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の
決死の猛
  攻の前に大敗した。 義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河院を捕縛し
た歓喜の声
  をあげた。 義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉した。 この戦闘により明
雲や円恵法親
  王が戦死した。
20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした。
   入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況悪化により脱落者が続出して
  騎あまりに激減していた。 義仲は義仲四天王の今井兼平に
500余騎を与え瀬田を、根井行親
  、楯親忠には
300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。 
   1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦め手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。 
   義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。 佐々木高綱と梶原景季かげすえの「宇治川

  陣の争い」はこの時のことである。 根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に
宇治
  川を突破される。 義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。 義仲が出陣し、義経軍と
激戦と
  なる。 義仲は奮戦するが遂にやぶれ、後白河院をつれて西国に脱出すべく院御所に
向かう。
  義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河院の確保に
成功した。 
  後白河院を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流すべく瀬田へ向かっ
た。
   瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗をしり退却、粟津で義仲との合流に
  功する。 義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲い掛かる。 義仲は奮
戦す
  るが、次々に打たれ、数騎にまで打ち減らされたところで、ついに義仲が顔面に矢を受
け打ち
  取られた。今井兼平も義仲を追って自害した。

 (13)  一ノ谷の戦い
   寿永2年(1183)2月26日、後白河院の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・
  建礼門院・近衛基通・平氏一族を引き連れ急いでかけだした。

   一ノ谷の戦いは、寿永3年(1184)に摂津国福原及び須磨で行われた源平合戦の一つであ
  、「吾妻鏡」「平家物語」などを基にした巷で知られる合戦は以下のとおりである。

   寿永3年(1184)2月4日、鎌倉方は矢合わせを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎
  、義経が搦め手軍1万騎を率いて京都を出発して摂津へ下った。 平氏は福原に陣営を築
いて
  、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防衛陣を築いて待
ち構え
  ていた。
 同日、搦め手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜
  襲を仕
掛けて撃破する。 前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃さ
  せて
山道を進撃した。  2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河院から
  の使者が訪れ、和平を
勧告し、源平は交戦しないよう命じた。 平氏一門がこれを信用してし
  まい、警戒を緩めた
ことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。
   迂回進撃を続ける搦め手軍の義経は鵯越ひよどりごえで軍を二分して、安田義定、夛田行綱らに大
  半の兵を与えて通盛、教経の1万騎が守る夢野口へ向かわせた。 義経は僅か
70騎を率いて山
  中の難路を西へ転進した。 難路をようやく越えて義経ら
70騎は平氏の一の谷陣営の裏手に出
  た。 断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。

   2月7日明け方、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平
  季重らの5騎が忠度ただのりの守る塩谷口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。 

     平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて打ち取らんと兵を繰り出して直実
  を取り囲む。 直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる
7000
  余騎が駆け付けて激戦となった。 

   午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、
  畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。 範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐら

  、逆茂木さかもぎを重ねて陣を固めてまちかまえていた。 平氏軍の雨のように矢を射かけて

  じ坂東武者をひるませる。 平氏軍は
2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。 範頼軍は河原高
  直、藤田行安らがうたれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。 そこへ梶原景時・景
季父子が
  坂茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮
戦を見せた
  。
 義経と別れた安田義定、夛田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。
   生田口、塩谷口、夢野口で激戦がくりひろげられるが、平氏は激しく抵抗して」、源氏軍は
  容易には突破できなかった。

   精兵70騎を率いて一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立つ義経は戦機と見て坂を駆け下る決断を
  する。 崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。 予想もしなかった方向から攻
撃を受
  けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。 平氏の
兵たちは
  われ先にと海へ逃げ出した。

   混乱が波及して平忠度の守る塩谷口の西城戸も突破される。 逃げ惑う平氏の兵たちが船
  殺到して、溺死者が続出した。

   生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、夛田行綱らに責められて危機に
  陥っている夢野口の救援に向かった。 午前
11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大
  手軍に総攻撃を命じた。 知盛は必死に防戦するが兵が浮き足だって、遂に敗走を始
めた。 
   安徳天皇、建礼門院らと沖合の船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向った。
   合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖
  船へ逃れようとする平氏の武者を見付けて「返せ、返せ」と呼びかけた。 武者はこれに
応じ
  て、陸へ引き返して直実と組むが、勇士の直実にはとても適わず、組伏せられた。 直
実は首
  を執ろうとするが、武者の顔をみると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。 武
者は清盛
  の弟経盛の子敦盛
16歳と名乗った。 直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃がそうとす
  るが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることは出来まいと泣く泣
く敦盛を討ち取
  った。 直実は武家の無情をさとり、後に出家して高野山に登った。 史実
でも直実は敦盛を
  高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。 

   平氏敗北の要因について、後白河院が平氏へ講和の提案を行い、大幅に武装解除させる一
  で、鎌倉政権軍と連携して対平氏攻撃を着々と準備した計略であるという説が有力である。 

  この説では、合戦直前の2月6日の後白河院の休戦命令と、合戦後の宗盛の「休戦命令を信

  ていたら、源氏に襲われて一門の多くが殺された、(平氏を陥れる)奇謀ではないか」とい

  法皇への抗議の書状を重視して、法皇を信頼して和解に向けてん坊を開いていた平氏にと
って
  、鎌倉方の突然の攻撃は想定できるものではなく、鎌倉側の勝利は必ずしも源義経の将
として
  の能力などだけに起因しているのではないとしている。

   「吾妻鏡」では源氏の兵力は範頼軍は5万4千騎、義経軍は2万騎とある。 「平家物語」
  も同程度の兵力であり、ほとんどの合戦関係本で、この数字が使われている。 しかし、九

  兼実の日記「玉葉」の2月4日の記事では「源納言(源定房)の話では、平氏は主上(安
徳天
  皇)を奉じて福原に到着。 九州の軍勢は未だに到着しないが、四国、紀伊の軍勢は数
万とい
  う。 一方官軍(源氏)は僅かに1,2千騎に過ぎない」とある。 また、2月6日
の記事で
  は「或る人の話によると、平氏は一ノ谷を退き、伊南野にむかった。 しかし、そ
の軍勢は2
  万騎である。 官軍は僅か・2千騎である。 また別人の話では、平氏が引き上
げたのは誤説
  であり、その軍勢は数千、数万を知らず」とある。

   「玉葉」に従えば、平氏は数万騎であるのに対して源氏は1~2千騎程度のわずかな軍勢
  かない圧倒的に不利な状況にあったことになる。 ここでは
10倍以上の兵力に差があり、常識
  では合戦にならない。 範頼と義経は
10倍以上の平氏の本陣福原に攻撃を仕掛け且勝利してい
  る。 義経が勇士
70騎で一ノ谷の逆落としで勝利したとあるが、逆落としは荒唐無稽であり、
  信ずべきではないという見方が歴史学の専門家では一般的である。 つまり、この
合戦全体が
  政略的な奇襲であり、圧倒的に優勢な平氏はほとんど武装解除に近い状態にあっ
たところを源
  氏に襲われて大敗を喫したことになる。

 (14) 屋島の戦い
   一ノ谷の戦いで、平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。 平氏は屋島に内裏を築いて
  拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。 平氏はこの拠点に有力な水軍を
擁し
  て瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの献納を抑え力を蓄えていた。 一方の鎌倉方は
水軍を
  保有していなかったため、彦島・四国攻撃に踏み切れず、休戦が続いていた。

   一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、
  義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当する

  とになる。 頼朝は後白河院に義経を総大将として平氏討伐したい旨の意見を奉請した。 

  の体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の
惣追
  捕使そうついぶし(軍事検察官の一つ)としその地域の武士達の統制に乗り出した。 

   梶原景時、土肥実平らが山陽道に乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家の勢力が再
  山陽道に及び始め、その他鎌倉御家人達が平家に度々襲撃されるようになる。 そのため
西国
  への大規模な出兵が必要となった。 その山陽道遠征軍の指揮を執るのは当初義経が予
定され
  ていたが、7月に入ると今度は畿内に三日平氏の乱が勃発し、その畿内の反乱を鎮圧
するのに
  義経は専念せざるを得なくなる。 そのため頼朝は山陽への出兵の総指揮者を範頼
に変更した
  。 同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら
1000騎が鎌倉を出立した。
   
 三日平氏の乱は、寿永2年(1183)7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両
  には平氏家人が播居しており、元暦元年(
1184)大内惟義が伊賀の守護に補任されると、平家
  継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。 時を同
じくし
  て伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切塞いで謀反を起こし、
19日には近江国大原荘で鎌倉軍と平
  氏残党が合戦となり家継が討ち取られ、反乱はほぼ鎮圧されたものも、平信兼・藤
原忠清は行
  方をくらました。 源氏方も老将佐々木秀義が討死、死者数百騎に及ぶ大きな損
害を受けた。
   8月3日、事態を重く見た頼朝は、蜂起した平氏勢力の最有力人物である平信県の捜索を
  経に命じる。
10日、信兼の3人の子息、兼衡、信衡、兼時が京の義経邸に呼び出され、斬殺、
  自害へ追い込まれた。 義経はその2日後に信兼討伐に出撃した。 その後の合戦につ
いての
  記録はないが、「源平盛衰記」によると、伊勢国滝野の城に立て籠もる
100騎ほどの信兼軍を
  激戦の末、討ち取ったとされる。 この信兼追討の最中の8月6日、義経は後白河院
より左衛
  門少尉、検非違使に任じられた。 

   8月26日、鎌倉に義経から信兼の子息3人を宿所に呼びよせて誅した事、信兼が出羽守を
  官されたとの報告が届き、9月9日、信兼以下平氏家人の京都における所有地を、義経の
支配
  とするよう頼朝から書状がだされた。 近年の研究では、義経が平氏追討から外された
のは、
  「吾妻鏡」が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に
義経が
  必要であり、法皇の強い反対があったためとかんがえられている。

   8月27日に範頼は入京して追討使に任じられ、9月1日に3万騎をもって、亰を発し九州
  向った。 山陽道を進む範頼軍は
10月に安芸国に達した。 だが、範頼の遠征軍は長く伸びた
  戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられており、船も
ないた
  め九州にも渡れず、進撃がとまってしまった。 範頼軍の将兵の間では厭戦気分が広
まり全軍
  崩壊の危機に陥った。 思わしくない戦況に鎌倉の頼朝は焦燥した。

   一方、亰にとどまっていた義経は後白河院に引きたれられ、9月には従五位下に登り、10
  には昇殿を許されている。 義経は後白河院との結びつきを強めた。

   元暦2年(1185)1月に範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようや
  豊後国へ渡ることに成功した、 範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企画するが兵船
が不
  足して実行ができなかった。

   この苦境を知った義経は後白河院に西国出陣を奏上して許可を得た。 2月、義経は摂津
  の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津
国渡
  辺津に兵あつめた。

  「平家物語」によれば、渡辺津を出港するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、
  時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。 しかし、義経は「そのよ
うな
  ものをつければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。 景時は「進むのみを知っ
て、退
  くことをしらぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をしてかて
るものか
  、私は猪武者で結構である」と言い返した。 逆櫓論争である。 しかし、「吾妻鏡」
「玉葉
  」の記述から、このころ景時は範頼と行動を共にしていたという見解が有力であり、
「平家物
  語」のこの逸話は虚構の可能性がたかい。
 
 2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭も暴風を恐れて出航を拒んだ
  が、義経は郎等に命じて弓で船頭をおどして、わずか5艘
150騎で出航を強行する。 同日午
  前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着し
たとあ
  る。 しかし、これは「吾妻鏡」が出発日または到着日を1日間違え、実祭には1日
と4時間
  の高校時間だったという見方が有力である。

   勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、屋島の平氏は、田口成直が
3000
  を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、
1000騎程しかのこっておらず、それも阿波国
  、讃岐国各地の津に
100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、好機
  と判断した。 まず、義経は平氏方の豪族桜庭良遠の館を襲って打ち破る。 その後、
徹夜で
  讃岐国へ進撃して翌2月
19日に屋島の対岸に至った。
   この頃の屋島は独立した島になっていたがが、干潮期には騎馬で島へ渡れることを知った
  経は強襲を決意。 寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて
大軍
  の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。 海上からの攻撃のみを予想し
ていた
  平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、海上へ逃げ出した。 やがて、源氏軍が意外に少数
と知った
  平氏軍は、船を岸に寄せて激しい矢合戦をしかけてきた。 夕刻になり休戦状態に
なると、平
  氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先に扇の的を射よと挑発。 外せば場源
氏の名折れに
  なると、畠山重忠に命じた。 重忠は那須与一を推薦した。 与一はやむなく
これを引き受け
  た。

   与一は、海に馬を乗り入れると、矢を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もし
  も射損じれば、腹を描き切って自害せんと覚悟し、鏑矢をはなった。 矢は見事に扇の柄を

  抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。 「平家物語」の名場面、「扇に的」である。

   やがて、渡辺津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍がせまり、平氏は彦島へ退い

  。

 (15) 壇ノ浦の戦い
   壇ノ浦の戦いは、元暦2年(1185)3月24日に長門国赤間関壇ノ浦(山口県下関市)で行わ
  れた戦闘で、栄華を誇った平家が滅亡に至った最後の戦いである。 

   彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊
  水軍などを味方につけて
840艘の水軍を編成した。
   「平家物語」では、合戦前の薫魏で梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自
  先陣に立つと撥ね付けた。 景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。 大将の器でない」

  義経を罵倒した。 これが後の景時の頼朝への
言となり、義経の没落に繋がったとされてい
  る。
   平氏軍は500艘で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘の編成であ
  っ
た。 24日、攻め寄せる義経軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、丑の刻(12
  時)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突し、合戦が始まった。 範頼軍は3万余騎をもって陸地

  布陣して平氏の退路を防ぎ、岸から遠矢を射かけて義経雲を支援した。 

   関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平家軍はこれを熟知しており、
  い塩の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。

  ここで、不利を悟った義経が敵船の水手・舵取を射るように命じた。 やがて、潮の流れが
  わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍をおしまくる。 平氏軍は壊滅状態にな
り、
  勝敗はけっした。 敗北を悟った平氏一門は、次々と海上に身を投じた。

   国立歴史民俗博物館科研協力員菱沼一憲は著書「源義経の合戦と戦略」で以下の様述べる。
   文治元年(
1185)2月、屋島の戦いに勝利した義経は、1か月かけて軍備を整えつつ河野
  信や船所正利など水運勢力を味方に引き入れ、瀬戸内海の制海権を握っていった。 一方、

  家の残る拠点は彦島のみであり、兵糧・兵器の補充もままならない状況であった。 豊後
へ渡
  った範頼軍によって九州への退路もふさがれていた。

   正午頃、戦いがはじまった。 両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間
  をえらんだのであろう。 平家方は序盤は鎌倉方が静まりかえるほど矢を射かけて互角以
上に
  戦っていたが、射尽くすと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられる
ままと
  なり、防御装備の貧弱な水手・梶取たちら犠牲となっていった。 この結果、平家方
の船は身
  動きがとれなくなり、平家方不利にと見た諸将は鎌倉方に雪崩を打って寝返った。

 (16) 源頼朝と鎌倉幕府
   鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権である。 かっての通説によると、鎌倉幕
  は、建久3年(
1192)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされていたが、頼朝の権力
  ・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立は
1192年より前の文治元年(1185
  する説が優勢となっている。 

   頼朝は武家政権の成立を明確に宣言したわけでないこともあり、後世の研究家の間に鎌倉
  府の成立時期について論議を呼んだ。 幕府の成立時期について諸説あり、その理由とし
ては
  、鎌倉幕府がその武家政権としての体制を整えるまでにはいくつかの段階を経ているこ
とが挙
  げられる。 まず治承4年(
1180)に鎌倉の大倉郷の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の
  統治機構の原型ともいうべき侍所を設置し関東武士団の代表者=鎌倉殿と称される
ようになっ
  た。 

   寿永2年(1183)7月、源義仲が平氏を京都から追放したが、義仲が皇位継承に介入する
  権行為(北陸宮の天皇即位を迫る)があり、後白河院を激怒させたことや亰内で乱暴な行
動を
  重ねた。 これを憂慮し、頼朝への上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道、東山道、北陸
道の荘
  園・公領を元のように国司・本初に返還させる内容の宣旨の発給を要求した。 朝廷
は、義仲
  に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。 これにより、頼朝
は東海・東
  山両道の支配権を間接的であるが獲得した。

   こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、寿永3年(1184)、行政を担
  当する公文書(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。
  
同時に、頼朝は弟の範頼・義経を派遣し、平氏追討に当たらせ、文治元年(1185)、壇ノ浦の
  戦いで、平氏が滅亡し、内乱が終結した。

   同年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣
  後白河院から獲得するとともに、両者の追補を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。 

  これを「文治の勅許」という。 これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握した

  め、この時期を持って幕府成立とする説が有力とされている。 守護。・地頭には兵糧米の

  収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を広げる契
機と
  なった。 この時の頼朝政権の在地
)支配は、まだ従来の権門勢家による支配権に優越したわけ
  ではなく、地頭の配置も平氏の旧領などに限定されていた。

   文治5年(1189)頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として奥州藤原氏をほろぼし、対
  しうる武家勢力はなくなった。

   建久3年(1192)、頼朝は征夷大将軍に任命された。 征夷大将軍自体は長く任命されてい
  なかった形骸化した令外官の官職であったが、それまで頼朝が持っていた鎌倉殿としての権

  や朝廷から獲得した様々な政治的・軍事的権限と一体視されていくことで新しい意義を持
った
  官職として後継者に継承させることになった。 後に源頼朝は武家政権の始祖として武
士に神
  聖視されることとなる。 これにより鎌倉幕府の形勢はひとまず完了する。

   後白河法皇は、源頼朝が征夷大将軍になった建久3年(1192)に崩御された。 源頼朝は
  らから7年後の建久
10年(1199)没した。
2.建長の京都大火
  建長元年(1249)3月23日午刻うまのこく12時)姉小路室町から出火、火は強風にあおられ三条
 以南、八条以北、西洞院以東、京極以西を炎上、煙と火の粉が空を多い、午後2時ころ賀
茂川を
 越え、遂に蓮華王院に飛火、まず塔に引火、続いて三十三間堂に延焼した、 人々が堂
に飛び込
 んで仏像搬出に努めたが、中尊は、首と左手だけを取出し、千体観音のうち百五十六
体と28部衆
 を取ら出したにすぎなかった。 

  再建は、建長3年(1251)7月24日、法勝寺金堂でおこなわれ、8月10日上棟式があった。 
 建長6年(
1254)正月23日本尊が法勝寺金堂から運び込まれており、その前年末に堂舎落成して
 いた。 落慶供養は文永3年(
1266)であって10年以上時がたっているのは千体仏を揃えるのに
 日時を要したためとおもわれる。

  中尊は一丈一尺五分(335㎝)の丈六坐像で、42手をもつ千手観音である。 大仏師は82歳の
 法印湛慶、小仏師は法眼康円と法眼康清であった。 湛慶は定朝に始まる奈良仏師の嫡系
で、慶
 長8年(
1256)3月にも東大寺講堂の二丈五尺」の千手観音像を造り、勢力旺盛に驚かされるが
 、完成を待たず
84歳で没し、代わって康円が大仏師に任じている。 中尊両側に並び千体千手観
 音は、建長火災で
156体取り出されたとあるが、現存像中、平安末期と覚しき像は124体である。
 仏師についてみると慶派は、中尊にたずさわった湛慶・康円や行快、円派は
隆円・昌円・栄円・
 勢円、院派は院継・院審・院編・院承・院恵・院瑜・院家・院賀・院有・
院海・院玄・院祚など
 が参加した。 これによって蓮華王院観音像の造立は当時の彫刻界あげ
ての大壮挙であったこと
 がわかる。 同時に千体仏の銘から摂政近衛兼経、仁和寺門跡性助法
親王、太政大臣徳大寺実基
 、能筆家藤原経朝、長門守藤原時朝など主に俗人の結縁者があった
ことが分かる。 次に風神雷
 神二十八部衆については作風が鎌倉前期の特徴を示しているため
長寛創立時には中尊千体と同時
 に作られず。 鎌倉時代に入ってから遂次加えられたと考えら
れる。 
3.豊臣秀吉
  織田信長が天正10年(1582)本能寺で落命すると、天下は豊臣秀吉に覇権の道を開き始めた。
 信長に焼かれたままの延暦寺は秀吉が復興することになり、神体や仏像の新造には法眼
康正(定
 朝以来
21代)が選ばれた。 次いで天正14年に秀吉は大仏の造営に着手した。 その場所は、蓮
 華王院北側一帯が選ばれ、文禄4年(
1595)に大仏殿は完成した。
  この大仏殿方広寺建設事業の一環として、蓮華王院の修理と境内整備も行われた。 千体像
 慶長5年から9年まで、二十八分衆は
10年にすべて大仏師康正が秀頼の下命により修復した。
  さらに重要なのは、境内整備であり、境内の南と西に土塀を築き、大仏殿の真南に当たる箇
 に南大門、西壁のうち七条通りに西大門を築いた。 この築地塀が太閤塀と通称される。

4.江戸時代
  慶長20年(1615)5月大阪の陣に敗れ豊臣氏が滅亡した。 7月徳川家康は、方広寺大仏殿、
 三十三間堂、新日吉神社を妙法院の直轄支配とした。 豊国神社を閉鎖し、「豊国大明神」
とい
 う神号を止めて法号「国泰院殿」を用い仏式で祀るべしとし、荒れるに任せ寺地は妙法院
にあた
 えた。

  寛永18年(1641)に蓮華王院で後白河法皇450回忌が行われた。 その後、家光は次の工事を
 蓮華王院大修理にすることを決めた。 慶安2年(
1649)4月着工、大仏師は康正から四代後の
 康知で解体して細部も逃さない徹底的な修復だったが原型を損なうような大改造はくわえなかっ
 た。
5.三十三間堂の通し矢
  弓術の一種。 三十三間堂の南端から北端まで六十六間の軒下をかすめて矢を射通す競技で
 る。 起源については諸説あるが、実際には安土桃山時代天正年間(
1573152)ころから流行
 したとされている。  慶長
11年(1606)浅岡平兵衛が100本中51本通して額に記して堂に飾っ
 た。 それ以来、多くの射手が記録に臨んだが、実施には多額の費用(千両)がかか
ったあめ藩
 の援助が必須であった、記録は更新され、ついに、寛文9年(
1669)、尾張の星野勘左衛門が総
 矢数
10,542本で通し矢8000本という大記録に達したが、後人の励みのためと称して余力を残して
 中止した。 それから
17年後の貞享3年(1686)紀州の和佐大八郎が総矢13,053本、通し矢8,132
 本で初めて星野を凌駕した。 それ以後次第に通し矢の記録は低下す
る。
  妙法院所蔵の「矢数帳」は慶長11年(1606)より嘉永6年(1853)まで260年間の通し矢が記
 録されている。 全矢数の件数は
802件あり、これに嘉永6年から慶応2年(1866)までの「妙
 法院日記」の記載を補うと
810件になる。 本書の時代区分に従って件数を示すと江戸時代初期
 の慶長難関から元禄8年までの約
80年間で572件、全体の約70%である。 それ以後幕末までの
  185
年間で238件の約30%です。 
  通し矢とは「的に当たった矢」と言う意味で、本堂西側の軒下幅2.5m、高さ5.5m、長さ120
 を南から北へ射通す競技で種目は大矢数、千射、五百射、百射の4種あったが、その中でも
通し
 矢の華でもあったのが「大矢数」とよばれる暮六つ(午後6時)から
24時間一昼夜に1万本前後
 の矢を射続ける豪快、壮絶な競技である。 矢の弾道の高さ
55mで120m」を飛ばすとなると
 立射では不利になるため坐して射た。

  前期は通し矢の全盛期で、すべて大矢数であるが、後期になると参加者は減少すると同時に
 数は減少し、千射、5百射、子供を対象にした百射が増加する。


                               Ⅱ境内
1.南門(重要文化財)
  三十三間堂の東南にある築地塀が続く。 桃山時代に豊臣秀吉が三十三間堂の北側に「京の
 仏」(方広寺)を造営したのであった。 最初の物は慶長元年(
1596)の地震で崩れ、慶長3年
 には秀吉も没したので秀頼が再興をくわだてたのが工事中に炎上、さらに慶長
15年に工事を起し
  、同
19年に落慶供養されてものである。 現在の東大寺大仏殿よりも壮大な最大の仏殿であっ
 たが、これも完成
10年(1798)7月に落雷で発生した火が広がり全焼してしまった。
  この方広寺の造営の中心は慶長年間(
15961615)とみられ、三十三間堂も寺域の中に含ま
 、西の正面や南側に大規模な築地塀を巡らし豪壮な八脚門が設けられた。 そして大仏殿は
焼け
 たが大仏殿の西門と南門それに南をかぎる築地塀の一部は今も残り桃山時代の豪華さをみ
せてい
 る。 ただし西門は現在最大の八脚もんであるが、明治中期に東寺の南大門として移さ
れたので
 、現在は南大門とその西に続く塀が残るだけである。

  この南大門(門口18.25m)は虹梁の刻銘で慶長五年の建築と分かり、東寺に移された西門より
 一年早く、西門(門口
18.32m)より少し小さいがそれに次ぐ大規模な門である。
2.太閤塀(重要文化財)
  南大門の西に続く長い塀で、柱間は桁行で二十九間あり、豪壮な塀である。 塀の構造から
 うと。 木骨土造の塀で、この類を築地塀ついじべいという。 両面に斜めになった柱(須柱
すばしら
 を一定間隔に立て、柱間に苦塩にがりを混ぜた土を練ったものをうずめる。 柱上部には
腕木の
 ような梁を伸ばし、先に出桁でげたを架けた屋根構造とするのが普通である。 

  この築地塀は京都御所やその他格式の高い寺や神社に多いが蓮華王院のそれは桃山時代の大
 のもので、昭和
25.6年の屋根修理時、「天正16年(1588)8月」箆書へらがきの瓦が見つかり、南門
 より工事が早かったと考えられる。

3.昭和の大修理
  昭和5年(1930)から9年までの5年間に徹底的な本堂解体復元工事がおこなわれた。 そ
 際、三十三間堂は南の太閤塀以外は境界壁もない無防備な状態であったのを北と西側を築地
塀、
 東側を鎌倉様式の廻廊塀と東大門で囲み広い駐車場をもうけ、防災設備を備えた。

4.三十三間堂(国宝)
  京都は古建築では日本一に恵まれている。 日本一長い建築物はこの三十三間堂、日本一で
 時に世界一大きい木造建築が東本願寺大師堂、日本一高い搭が東寺の五重搭である。 ただ
し、
 日本一古い建築は法隆寺・法起寺である。 京都市内で一番古いのは千本釈迦堂、次いで
古いの
 は三十三間堂である。 

  この長大な御堂は内陣正面の柱間が三十三あり、三十三間堂と言われるが、それは観音菩薩
 三十三化身に因んで三十三間堂とされたのである。 建築的には桁行三十五は、梁間五間、
高配
 間一重、入母屋造、本瓦葺といった構造形式で東を正面としている。

  まず全景を遠く離れて見ると、正面は七間の向拝の左右全て板扉とし、内側に障子を立てて
 る。 その扉が全部開かれて影を落とし、閉じられた障子が白く映える姿はいかにもおとな
しく
 い印象をうける。 この堂が例え鎌倉時代の再建といえ、正面、側面、更に内部の内陣・
内内陣
 などの意匠は平安直系の和様のものであるのが深く感じられる。 正面の七間にわたる
向拝は江
 戸時代、慶安の修理で造り替えされたもので、ここだけは他と様式がことなる。

  内部は、四方一間通りが外陣、その仲三十三間三間が内陣で特に中央三間は内内陣で天井も
 い折り上げ組み入り天井とし、本尊千手観音坐像お安置する。 一般の参拝者は、先ず外陣
から
 本尊両側の内陣に参拝して階段式の十段の須弥檀上に左右五百体づつ計千体の千手観音立
像の姿
 に驚くであろう。 この多くの御仏のためにかくも長い御堂が営まれたのである。 内
陣の天井
 は、山型になり、化粧屋根裏天井でその下は長い大虹梁とその上に二つの蟇股、さら
にその上に
 載る短い虹梁(二重虹梁)とその中央の蟇股などに支えられている。 即ち、「二重
虹梁蟇股式
 」と言われる奈良・平安時代の和様の流れを受け継ぐもので、京都では平等院鳳凰
堂や広隆寺講
 堂に古例を見出すものである。

5.池泉と庭円
  昭和36年、京都の造園家中根金作によつて築庭された庭園。 鎌倉時代の作庭法によって作
 れたもので、庭園には四季折々の花が咲く。
 

                              Ⅲ文化財
1.千手観音坐像[中尊](国宝)                像高 334.8㎝
  作者は、鎌倉時代の名仏師湛慶たんけい11731256)である。 中尊観音像は、建長3年
 (
12517月24日に法勝寺金堂前で造り始め、同6年正月23日に完成し、蓮華王院に運ばれた。
 修
理大仏師は法印湛慶で、時に82歳である。 小仏師として法眼康円と康清の二人が湛慶を助け
 た。 堂々たる巨像であるうえ、光背、台座、天蓋などの付属品も実に立派である。 光背は

 形で、頭光周縁には透彫の雲形、見光の周縁には宝、樹形があり、その表面には観音の三十
三変
 化身を配する。 台座は八角七重の蓮華座で、天蓋は中央に天蓮華があり、その周囲に飛
雲帝と
 八方吹き返の装飾をつけ、そこから長い瓔珞ようらく(垂飾り)を幾筋も垂らすという念の
入れ方
 で、これらの付属品によって、千体の千手観音を統率するにふさわしい中尊の荘厳がす
っかりと
 備わった感じをあたえる。

2. 千手観音立像[長寛ちょうかん仏](重要文化財)    像高165.0168.5
  建長二年(1164)、平清盛は、千体千手観音を安置した蓮華王院を後白河法皇に寄進した。 
 現
存、御堂の中には、長寛の制作と推定される千手観音が124体のこっている。 その他は中尊
 を始めとして、建長元年(
1249)の火災で焼失してしまった。 従って現状から当初の堂内の
 子を完全に再現することは難しいが、ただ建長元年の火災後の復興で、八割を超える千手観
音を
 制作した仏師たちが、中尊を制作した湛慶の―門、即ち慶派だけで構成され他のではなく、
当時
 の仏師の機構を総動員して参加させていた。 しかも数の上では慶派よりもむしろ院派と
円派の
 方がおおかった。 

  長寛期の慶派は康助を頭にして奈良に根拠地を持ち、院派と円派は京都を根拠地として、それ
 ぞれ大きな仏所を構えて活躍していた。 康助は定朝から数えて四代目にあたる。 長寛
仏の中
 にもおそらく康助の作品が残っているに違いない。 しかし、長寛仏は、鎌倉再興時の
仏像と違
 って、作者名を書いていない。 そのうえ千体千手観音として量産されたため、仏師
の個性が抑
 えられて、規格化された仏像になっているので、康助の作品を見付け出すのは至難
ある。 そ
 の中にあって強いて康助の作品らしい仏像をもとめれば
919号像があげられる。 
3.千手観音立像[建長再興仏](重要文化財)       像高165.0168.5
  建長羅災後の復興は、湛慶を大仏師として、慶長3年7月
24日、法勝寺金堂前で開始され、15
 年を費して、文永3年(
1266)4月27日、再興の落慶供養が行われた。 この再興事業で876
 にものぼる千手観音が造立されたが、それは、慶派、院派、円派の三派仏所の協同で行
われた。 そのことは、再興像の中に、足柄あしぼそ(仏像を台座に立てるため、足裏に造った柄、これを台
 座の孔に差し込む)に仏師名のある仏像が
250体もあることで知ることができた。
 () 湛慶(40号) 湛慶の作と分かる千体千手観音は九体ある。
   長寛仏のうちの慶派の仏像と思われる像、例えば、919号の伝統を引く仏像で、その相好
  温和なうちに気品があり、下半身にまとう裳のひだに、写実的な裁き方がみられる。 さ
すが
  湛慶の作だけあって、その出来栄えは
,再建中群をぬいている。
 () 康円(60号) 康円は湛慶の兄慶運の子と言われ、千体千手観音六体が康円の作とわかる。
  湛慶より技量が劣り、湛慶をもって鎌倉彫刻に事実上の終止符を打った。

 () 行快(490号) 快慶の弟子。 安阿弥様あんあみようと称されて、一世を風靡したしの流麗
  な作風を正しく継承した仏師で、千体千手観音のうち一体だけみだせる。

 () 院派 千体千手観音造立に参加した院派の仏師の数は、むしろ慶派仏師を凌いでいたらし
  、銘文のある仏像
250体中139体にも及ぶ。
 () 円派 円派の仏師も銘文の分かっているもので、80体を数える。
4.二十八部衆 (国宝)
  慶長元年の火災の時、二十八部衆は救出されたことになっている。 従ってこの二十八部衆
 は建長再興時の仏ではなく、それより古いことになる。 現存する二十八部衆像を調べてみ
ると
 全て玉眼を用いた仏像であることはその制作年代が鎌倉時代であることを物語っている。 
もち
 ろん創建時にすでに一部の仏所で玉眼は試みられていた。 しかし、同じ玉眼と言っても、
藤原
 彫刻の玉眼、例えば仁平元年(
1151)のなら長岳寺阿弥陀三尊は玉眼の効果を控え目にした出し
 ていない。 

  二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。 二
 十八体の中には四天王、金剛力士のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来
のは
 っきりしないものとが混在する。 「千手観音造次第法儀軌」という経典にもとづく造像
とされ
 るが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。 また、図像てきに
みて、寺
 伝による像名がかならずしも本来の像名でない例もみられる。 これらの像は本来は
本尊像の両
 脇を取り囲む群像として安置されたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に
一列に安置さ
 れるようになり、
20世紀末に現在の様に千手観音の全面に配置されるようになった。 二十八部
 衆像の配置は、堂内北側かれ、安置されている順番に番号を付す。

 () 那羅延堅固ならえんけんご像 金剛力士[阿形](国宝)        像高 167.9
 (28) 密迹金剛みつしやこんごう力士像 金剛力士[吽形](国宝)     像高 160.6
   普通、金剛力士像又は仁王像と呼ぶ守門神である。 鎌倉時代の仁王像の名作として,運慶
  快慶が作った東大寺南門像、定慶が作った興福寺像及び京都万寿寺像が名高い。 前二者
が慶
  派の作品であることは明らかだが、万寿寺像になると慶派と簡単に決めてしまうわけに
はいか
  ない。 その点三十三間堂お仁王像も同様で前三者に匹敵する仁王像の名作だが、作
者は何派
  か不明である。 ただその忿怒の形相、目・口・鼻・各部の筋肉の隆起など、完璧
といってよ
  いほど、揃った形にまとめられているうえ、体躯も仁王像にかならずともなう誇
張的表現が最
  小限に止められ鎌倉時代仁王像の最も洗練された無駄のない姿が完成されてい

 () 大弁功徳天だいべんくどくてん像(国宝)              像高 166.7

   弁財天と功徳天(吉祥天)を1つにした女性神だが、その形は、宝珠(今はない)を棒持
  る吉祥天として現している。 吉祥天には、古来からその時代時代の理想的な女性像が表
現さ
  れている。 薬師寺の画像には天平時代の、法隆寺金堂の彫像には藤原時代の、浄瑠璃
寺の彫
  像には鎌倉時代のそれぞれの女性像がどのような姿であったかが見事に表現されてい
る。 こ
  の三十三間堂の吉祥天は、時代から言うと建暦二年(
1212)の浄瑠璃寺像とほぼ同時代の作品
  である。 ともに鎌倉時代の美人増に違いがないが、浄瑠璃寺のつんとすました
気品の高い女
  性に比べると三十三間堂像は、ふくよかな丸顔の親しみやすい女性である。 

   浄瑠璃寺のような美人はなかなか求め難いが、三十三間堂像程度の美人は仏師の身近にた
  すくモデルを求めることができるであろう。 裾が反り返る裳などの表現に宋時代の影響
がみ
  とめられる。

 () 緊那羅王きんならおう像 (国宝) 
  美しい歌声をもつことで有名で、天界の歌の神様。 これと対になる樂師の神様・乾闥 婆王で
  ある。 八部衆の一つで、毘沙門天の眷属ともいう。 三十三間堂像は、腹前に鞨鼓
っこを構
  え、両手で叩く動作をする。

 () 金色孔雀王こんじきくじゃくおう像 (国宝)
   仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一つ。 衆生を利益する徳を表すと
  れる。 元来はインドの女神マハーマーユーリーの一つ。 マハーマーユーリーは「偉大
な孔
  雀」の意。 憤怒の相が特徴である明王の中で唯一、慈悲を表した菩薩形をもつ。 孔
雀の上
   に乗り、一面四臂の姿で表れることが多い。 4本の手にはそれぞれ俱縁果、吉祥果、蓮華、
  孔雀の尾を持つ。 
   孔雀は害虫や毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災害や苦痛
  を取り除く功徳」があ
るとされ信仰の大将となった。 
   孔雀明王を本尊とする密教呪法は孔雀経法と呼ばれる。 真言密教において孔雀経法よる
  願は鎮護国家の大法とされ最も重要視された。

 () 大梵天だいぼんてん像 (国宝)
   梵天は、仏教の守護神である天部の一柱。古代インドの最高神ブラフマーが仏教に取りい
  られたもので、十二天にふくまれる。 裳をきた女性像として表される。 梵天は、帝釈
天と
  一対として祀られることが多く、両者を合わせて「梵釈」と称することもある。 

  () 乾闥婆王けんだつばおう像 (国宝)                像高 159.7
   三十三間堂の二十八部衆のうちには、上半身裸形で、下半身に短い裳をまとった忿怒像が
  王二体を除いて四体ある。 摩睺羅伽王・摩醯首羅王・阿修羅王とこの乾闥婆王である。 

  のうち摩睺羅伽王を除く三体は、運慶以来の伝統のある幅の広い腰布を巻く。 その忿怒
の形
  相といい、腰を捻って身構える姿と言い、慶派彫刻の特徴を備えている。 しかし、寂
照院四
  天王のような慶派の彫刻と見間違う院派作品があることを考えると、これも確かなこ
とはいえ
  ない。 乾闥婆王は元来釈迦に従う天竜八部衆の一つで、天空に住む音楽神である
が、この像
  にはそのような性格がその姿のうえに現れていない。 右手の上に捧げるのは輪
宝である。 
  () 満善車王まんぜんしゃおう像 (国宝)
   仏経の二十八部衆の一つ。 典拠となる経典「千手観音造次第儀軌」は、一部に二つ三つ
  名前がはいるものがある。 満善車王、満善車鉢真陀ら羅、満善は、満賢夜叉、真陀羅は
緊那
  羅のことであり、満仙王、緊那羅王と重複している。

   三十三間堂では、甲冑姿で右手に槌、左手に蛇を持つ。 古代インドの神ブールナ・パド
  (善や吉祥に満ちた者)が仏教の神になったもの。

 () 沙鞨羅竜王しゃがらりゅうおう像 (国宝)
   八大竜王の一つ。 八大竜王は天竜八部衆に所属する龍族の八王。 法華経に登場し、仏
  を守護する。 古代インドではナーガという半身半蛇の形であったが、中国や日本を経て
今の
  龍の形になった。
沙鞨羅(サーガラ)の訳は、大海。 竜宮の王。大海龍王。
   三十三間堂像は、武装像、頭上に5匹の蛇があり、右手に剣、左手に蛇を持つ。
 () 金大王こんだいおう像 (国宝)
   金大王と言う名称は、三十三間堂の二十八部衆にだけ見られる、由来不明
   右手は脇を締めて肘を深く折り三鈷杵を持つ。 左手は肘を軽くまげて、左腰前で拳を握
  。 口を開けて、話しかけるのか、わらっているのか。

 (10) 金毘羅王こんぴらおう像 (国宝)
   十二神将の一つ宮毘羅王と同体で、弓と矢を持ち、鎌倉彫刻独特のポーズをとって立つ。 
  忿怒の表情も、仏としての神聖さ、守護神としての気品を重んじるより、俗界の勇猛な武将

  モデルにしたかのような神将で、これも鎌倉彫刻の特色にあげられる。 甲冑は簡単、裳
のひ
  だもすくなく、その簡素でまとまりの良い表現は、毘楼博叉天を除く四天王と同趣であ
る。 
  院派の作品である可能性が強い。

 (11) 五部浄居天ごぶじょうごてん像 (国宝)              像高 167.6
 (25) 散脂大将さんいたいしょう像 (国宝)               像高 165.1
   五部浄居天は閻魔大王が地獄を支配するのに対して、上天を支配する天部だといわれる。 
   散脂大将は、別に僧慎爾耶大将とか、正了知大将とか呼ばれ、金光明最勝王経に説かれる神
  像で、奈良時代にその信仰が盛んであった。 両者と賢固な鎧をつけて、爆発せんばかり
の怒
  りを表現している点で共通性がある。 その最も極端な形は、四天王中の毘楼博叉天に
現れ、
  体の屈曲、両袖の翻り方は、三像中最も激しい。 これに次ぐのが散脂大将で、右手
を振り上
  げ、口をかっと開いて極忿の形を表すところに、鎌倉仏師の会心の表現が見られる。 
以上の
  二像に対して、五部浄居天は剣を杖に、両腕を腹の前で交差させて立つ比較的動きの
少ない姿
  勢であるが、内に充実した忿怒の表現は二十八部衆中随一で、東大寺戒壇院扉絵を
はじめとす
  る天平時代の四天王の姿を基本にして、鎌倉彫刻独特の剛健な感じをよく表して
いる。 その
  姿はまた寂照院四天王中の持国天に先例がみられ、寂照院持国天の一層洗練さ
れた表現がここ
  に完成している。 この両像も一見慶派的特徴が顕著であるとはいえ、院派
仏師作成の可能性
  がある。

 (12) 神母天じんもてん像 (国宝)                  像高 169.4
   訶梨帝母かりていもとも鬼子母神きしもじんとも呼ばれる子供の守護神である。 元来子供を取
  っ
て食う鬼だったが、釈迦に自分の子供を隠されてから、子供を失った母親の苦しみが分かり
  、
子供の守護神に転じたという。 彫像や絵画では数人の子供に囲まれた女性神にあらわされ
  るが、この像では神母天の特徴はなく、頭上に馬頭を載せ、むしろシンバルを鳴らす樂神と

  て表されている。 この像が一番上に着ている衣は、丸首半袖の裾の短い「がい襠衣」がい
とう
   え
と言われる一種の作業着で、女性神がよく着用する。 その眉をひそめてやや上を見上げる
  表情には、シンバルの音に耳をすます真剣さがあり、腰を捻って立つ優雅な姿には、湛
慶作雪
  蹊寺毘沙門天の脇侍吉祥天の姿に通じるものがある。 三十三間堂の二十八部衆のう
ちには、
  このように現実によく目に触れる人の表情が、巧みに捉えられている場合が多い。 
それは鎌
  倉仏師が前代と違って、現実社会に深い関心を抱いていたことの証拠でもある。

 (13) 東方天とうほうてん像 持国天(国宝)              像高 166.3
 (14) 毘楼勒叉天びるろくしゃてん像 (国宝)
 (15) 毘楼博叉天びるばくしゃてん像(国宝)                  像高 160.6
 (16) 毘沙門天びしゃもんてん像(国宝)
   二十八部衆のうちには四天王が含まれている。 三十三間堂では、持国天を東方天、増長
  を毘楼勒叉天、広目天を毘楼博叉天と呼んでいる。 毘沙門天だけはそのままである。 毘

  博叉を除くといずれも動きが少なく、片足を軽く踏み出し、反対側に腰を軽く捻る程度の
動き
  をしめす。 東方天の眉が忿怒相の仏像に現れる一般的な太いうねりを持った眉ではな
く、細
  弧線を描き両眉間で繋がる連眉であることは、寂照院広目天と似ているうえ、その若々
しい表
  情までもよく似ている。 一方毘楼博叉天の方は、その極端な体躯のよじり方、爆発
する忿怒
  の表情など、同じく寂照院の増長天の延長上にあり、ともに寂照院像の荒削りであ
るのに対し
  て、都振りの洗練さを加えている。 毘楼博叉天の胸甲が、上半身の急激な運動
でよじれるの
  は、この四天王の力強さを強調するのに大いに役あっている。 

    持国天は四天王の一体で、東方を守る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では
  尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。 その姿には様々な表現があるが、日
本で
  は一般に革製の甲冑を身につけた唐代の武将風の姿で表される。 持物は刀の場合が多
い。
   本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神
として取
  り入れられた。
 増長天は、四天王の一体で、南方を守る守護神として造像される場合が多く
  、仏堂内部で
は本尊の向かって左手前に安置されるのが原則である。 その姿には様々な表現
  があるが、
日本では一般に革製の甲冑を身につけた唐代の武将風の姿で表される。 持物は刀
  (片刃)
や剣(両刃)の場合が多い。 本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)
  の配
下で、後に仏教に守護神として取り入れられた。
   広目天は四天王の一体で、西方を守る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本
  尊の向かって左後方に安置されるのが原則である。 その姿には様々な表現があるが、
日本で
  は一般に革製の甲冑を身につけた唐代の武将風の姿で表される。 持物は各種ある。
  本来は
  インド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取
り入れら
  れた。
   毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王
  の一尊に
数えられる武神である。 四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外
  の広い
地域で独尊として信仰の対象となっている。 日本では四天王の一尊として安置する場
  合は
「多聞天」、独尊として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。 多聞
  天は北方を守る守護神として、仏堂内部では本尊の向かって右後方に安置されるのが
原則であ
  る。 その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身につけた唐
代の武将風
  の姿で表される。 持物は宝搭が一般的である。

   インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージはほとんどなかったが、中央アジアを経
  中国に伝わる過程で武神としての侵攻がうまれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされる
よう
  になった。

 (17) 迦楼羅王かるらおう像 (国宝)                   像高 163.9
   三十三間堂の二十八部衆は、甲冑像あり、力士像あり、老若男女あり、またこの迦楼羅の

  とき鳥頭有翼人身像あり、その姿勢も儀軌にとらわれず、千変万化が面白い。 これは正
面の
  千体千手観音を一堂うちに拝した時の感動とは異なる、一体一体が個別に訴えてくる感
興であ
  る。
   迦楼羅王とは、金翅鳥王ともいい、天龍八部衆の一つで、龍を常食にする鳥を神格
  化した
ものらしい。 この像を笛を吹く樂師として表現いたのは、仏師の自由な発想にもとず
  くの
であろう。 腹部を締めるバンドは、甲冑像の場合、腹部正面につけた獅子の頭部がバン
  ド
を噛むいわゆる獅噛の形に彫ことが多いが、これは上向きの頭部を持った獣皮をバンドで締
  めるといった変わった形をしている。

   (18) 摩和羅女まわらにょ像 (国宝)                    像高 153.6
 (20) 婆藪仙人ばす(う)せんにん像 (国宝)                  像高 154.5
   摩和羅女は大力将軍女ともいい、正体不明で、八大羅刹女の一つかと推定されている。 婆
  藪仙人は、功徳天ともいい千手観音の脇侍になる場合が多いが、その理由もわかっていない。
   
このように、儀軌のうえで曖昧模糊たる仏像は、その制作にあたって、仏師の自由奔放な芸
  術的発想を最大限に可能にする。 摩和羅女の場合は、信仰一筋に生きるひたむきな心情を、

  頬がこけた老婆が合掌する姿であらわす。 前を見るともなく見すえているその表情に、堅

  な信仰のほどが伺われるが、このさりげない玉眼の用い方に、仏師の練達した技量がしの
ばれ
  る。

   婆藪仙人の方は、程摩和羅女のひたむきな姿とは全く逆に、痩せこけた飄々たる老人が、
  手に経巻、右手に杖をもって歩む姿にあらわされる。 皺だらけの顔は、眼窩がんかがくぼ
み、
  口をなかばあけて、千手観音の陀羅尼でも、ぼそぼそとつぶやいているように見える。 
眉毛
  の先は下に垂、顎鬚も細長い逆三角形になって、鋭い先端を下に向け、老残の表情に、
この鋭
  さが一抹の緊張感を与えている。 上半身はあばら骨が数えられるぐらい痩せ、杖を
助けによ
  ろよろと歩む様が、うまくとらえられている。 その両腕の交差する形と、上半身
を傾け、腰
  と両肘を曲げた姿は、右手の杖の位置と相まって、よぼよぼの老人に一瞬の安定
した形を形成
  している。 それは蝉の抜け殻のように、余分な肉がすべてなくなった枯れ枯
れの姿だが、俗
  念の一切を排除しえた後の心の安らぎをも表しているようである。

 (19) 難陀竜王なんだりゅうおう像 (国宝)                像高 159.1  
   三十三間堂の二十八部衆のうちには、竜王が二体あり、沙鞨羅竜王とこの難陀竜王であ
る。
  いずれも天龍八部衆の龍部に属し、八大竜王のうちに入る。 水を司る神で、この神
に祈れば
  、旱魃の時は雨を呼び、大雨の時は雨を止めてくれる功徳がある。 ともに鎧をつ
けるが、沙
  鞨羅竜王若々しい青年像であるのに対して、これは老人像にあらわされる。  大
きな龍が頭
  上に乗り、その長い同体がくねりながら竜王の前に垂れる、という実に奇抜な形
である。 眉
  根を寄せた老竜王の顔には、龍の重さに耐えかねるといいたげな表情がうかん
でいる。 現実
  界でどこでも目につく老人の表情をとらえて、この仏師は自分の構想を楽し
みながら、この仏
  像を造り上げたようである。

 (21) 摩醯首羅王まけいしゅらおう像 (国宝) 
   摩醯首羅王は、ヒンズー教の最高神シヴァ神で、仏教に組み込まれ、二十八部衆の一つに
  っている。 別名大自在天。 仏教においては、シヴァ神と同じく白牛に乗り、三面八臂
で表
  す場合が多いが、三十三間堂では、上半身裸形、右手は肩の高さで掌を開き、左手は頂
部に鳥
  の付いた杖を支える。

 (22) 畢婆迦羅王ひばからおう像 (国宝) 
   八部衆又は天龍八部衆の一つ。 仏法を守護する八神。 武装像、右手腰辺に構え、左手
  剣又は独鈷を執る構えとする。

 (23) 阿修羅王像 (国宝)                       像高 164.8
 (27) 摩睺羅伽王 (国宝)                      像高 154.8
   三十三間堂の二十八部衆のうちには、忿怒の甲冑像によって、仏法の守護神としての力を表現するほか、上半身裸形で下半身に短い裳をまとった力士型によぅて、同様の力を表現する場合もあり、一層複雑である。 阿修羅は天龍八部衆の一つで、インドでは天の神々と争う悪魔の王とされているが、仏教に取り入れられて仏法の守護神となり、六道のうちでは修羅道にあてられている。 その六臂を持った三面各三眼のあらわな激しい忿怒の表情と、天平彫刻の興福寺阿修羅の、純情可憐な少女の思いつめたような表情とを比べてみつと、両時代の彫刻の相違が歴然とわかる。  摩睺羅伽王も天龍八部衆の一つで、大蛇を神格化した天部である。 これは二重にした両眼と額に縦に入れた一眼とを合わせて五眼を持つ偉丈夫が、琵琶を弾く樂師として表される。 その異様な容貌を、重厚極まる表情にまとめた技量と、樂神に転じさせた自由さに、鎌倉仏師の意表をつく奔放な発想がうかがわれる。 
(24) 帝釈天 (国宝)                         像高 153.9
   ヒンズー教の神で、インドラと呼ばれ、仏教では、梵天(ブラフマン)と一対になって、仏法の守護神となり、古くから彫像や画像に登場するが、ここでは帝釈天を男性像、梵天を女性像としている。 帝釈天は鎧の上に衣をつけ、右手に鏡を持つ姿で、眉、目、口、鼻、何れも格好よくまとめられ、引き締まった表情には毅然たる美丈夫の面影がある。 その背をそらして颯爽として立つ雄姿には、鎌倉時代の理想的男性像が表現されているようである。 甲冑を付けた神将像でないこのような作品はあんがい慶派の仏師が手がけたのかもしてない。
 (26) 満仙王まんせんおう像 (国宝)    詳細不明
   武装像、右手は腰辺に構え独鈷杵を持ち、左手で戟を支える。
 





参考文献
*古寺巡礼京都14妙法院・三十三間堂   著者 三崎義泉 発行所 淡交社
*古寺巡礼京都18妙法院・三十三間堂         著者 三浦隆夫 発行所 淡交社
*皇族寺院変革史                              著者 村山修一 発行所 塙書房
*妙法院と三十三間堂                          著者 下城護  発行所 特別展覧会
*国宝三十三間堂                                       著者 三十三間堂本坊 発行所 三十三間堂本坊
 

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