京都と寿司・朱雀錦
(49)方広寺関連1・竹島

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島 名 竹島[日本]、独島[韓国]、リアンクール岩礁[第三国]
座 標 北緯度371430秒、東経13152分0秒
島 数 2島37岩礁、主要な島 西島(男島)、東島(女島)
総面積 0.21 西島(0.10)、東島(0.07)、その他(0.04

                          Ⅰ.竹島の歴史
 竹島の帰属をめぐって、日韓が領有権を争うことになったのは昭和27年(1952)1月18日、韓
国政府が「李承晩ライン」を宣言して竹島をその中に含め、昭和
29年(1954)9月以降、韓国側
が武力占拠して以降のことである。

 因みに竹島は、韓国では独島と呼び慶尚北道胡鬱陵郡に属し、日本では島根県起き郡五箇村に
属している。
1.米子町人の竹島(鬱陵島)渡航
 () 竹島(鬱陵島ウルルンとう)渡航許可
   元和3年(1617)池田光政が播州姫路から因幡いなば・伯耆ほうきの二州(鳥取藩)に入府し
  際、米子の大谷甚吉は、鳥取藩に竹島(鬱陵島)への渡航を願いでた。 翌年、幕府は詮

  の上、老中連署による渡航許可の奉書を鳥取藩主
)池田光政に与え、米子の大谷、村川両家
  限って鬱陵島への渡航を許可した。
   江戸に召し出され、将軍との御目見えを許された大谷甚吉は、「空居の嶋、甚吉相顕し、
  日
本の土地を広めた」として賞され、「御紋、御時服、御熨斗目」を拝領した。 その時拝
  領領
した時服と鬱陵島渡航の折、船印として用いた葵の御紋は、今も大谷家と縁の深い米子
  市立
山陰歴史館に保管されている。 
   これ以後竹島(鬱陵島)は鳥取藩の管轄下に入った。
   時服じふくは、毎年春と秋(又は夏と冬)に朝廷から皇族以下諸臣に与える衣服であるが、
  臣下にたいする時服は特定の者に対する褒賞で、同じ時服でも意味合いがことなる。 大谷
  の場合は領土を広げたことによる褒賞と考えられる。

 () 朝鮮漁民安龍福あんりゅうふく
   元禄5年(1692)、年番に当たっていた村川家の船は2月11日、米子を出帆し、途中、出
  雲藩の出張所が置かれた隠岐の島の西郷に寄港した。 風待ちをして同島の福浦(現在の五

  箇村)から鬱陵島に向けて出航したのは、3月
24日である。 一行が鬱陵島に接近するのは
   26
日の午前8時で、船を近くの伊賀島に繋留し、鬱陵島を遠望した。 ところが、島の様子
  がいつもとはちがっていた。 多くの鮑が干されていて、すでに何者かが島で漁をしている

  様子である。 村川家の船頭たちは、どうすべきか話し合ったが結論がでず、その夜は伊賀

  島に停泊し、とりあえず翌朝、鬱陵島に上陸することにした。

   一夜開け、伊賀島から浜田浦に向かって船を漕いで行くと、海辺に異船が二叟見えた。
  そ
のうち30人ばかりを乗せた一叟が村川家の船の八,九間(15,16m)ほど沖を通り抜け、大
  坂浦にむかった。 浜のほうを見ると二人の異国人がおり、これも小舟で近くを通り過ぎよ

  うとするので呼寄せ、村川家の船に乗り映らせることにした。 そのうちの一人は日本語が

  できたので、「いずれの国から渡来せりや」とたずねると、「朝鮮国ノ内カワテンカワグノ
  者」
と答えたという。 そこで「ここは日本の嶋である」と告げ、以後、渡ってこないよう
  もと
めると、次のような答えがかえってきた。
   「我々は最初からこの島で鮑漁をするつもりではなく、国王の命で三年に一度、この島の
  北にある一島で鮑をとっていたのだが、今年は嵐にあってこの島に漂着した」
 村川家の船
  頭たちは、この島では昔から日本人が鮑獲りをしていること告げ、速やかに立
ち去るように
  求めたが、立ち去る様子を見せなかった。 そこで小舟に乗って、鬱陵島に上
陸することに
  した。 すると去年の秋、確かに小屋に残してきたはずの漁労の道具と漁舟八
叟がなくなっ
  ていた。 朝鮮の漁師に問い質すと「我々の輩が浦々に乗り回し、漁猟に用い
ている」とい
  う。 朝鮮の漁師たちは村川家の漁具を無断で使っていたのである。 

   このまま鬱陵島にいると、衝突がおこると判断した村川家の船頭は、日本領侵犯の証拠と
  して、朝鮮の漁師たちが作った串鮑と笠、網頭巾、味噌麹1塊を持ち帰ることにした。 

   元禄6年(1693)、年番に当たっていた大谷家では、鳥取藩の御船奉行から従来手形を受
  け取ると、2月
15日、鬱陵島に向けて出帆した。 船頭以下、総勢21人が乗り込んだ、大
  家の二百石舟が鬱陵島に到着したのは、4月
17日の未の時(午後二時)だった。
   前年、朝鮮の漁師と遭遇したことを聞いて警戒していた大谷家の船頭黒兵衛たちは、浜田
  浦に着岸せずに唐船ガ鼻に繋留し、まず人を上陸させて周辺を伺わせると、かなりの鮑と若

  布が干されており、近くには破れた草履が脱ぎ捨てられていた。 草履は日本のものとは形

  が違うので、朝鮮の漁師がすでに来島していた。

   翌朝(18日)、黒兵衛と平兵衛が壮健の者5人と脚舟にのり、西ノ浦から北浦へと漕ぎ進
  んでいくと、灘辺に居船すえぶね一叟が見えた。 近くにおびただしい量の鮑と若布を保管した

  仮小屋があり、朝鮮の漁師が一人いた。 黒兵衛等はその漁師を船に乗せさらに大天狗まで

  漕いでいくと、十人ばかりの漁師がいた。 その中に、日本語の分かる安龍福がいた。
   黒兵衛等は安龍福ともう一人を本船に乗り移らせ、今回、鬱陵島に渡った理由をききだす
  ことにした。 それによると、自分は
42歳で、もう一人の漁師は蔚山ウルサン出身の朴パク於屯オト
    ン
34歳、鮑を捕獲してくるよう官命を受けて漁にでた。 鬱陵島に渡ったのは、去年、鬱陵
  島に漂着した者がおびただしい量の鮑と若布を持ち帰ったからである。 今回は総勢
42人で
  、その中には去年島に渡った者4人が含まれている。
 
   大谷家の漁師たちは、この事態を深刻に受け止めざるを得なかった。 このままでは鬱陵

  島が「掠奪されるのは必定」と思った黒兵衛等は、安龍福と朴於屯の2人を鳥取藩まで連れ

  帰り、幕府の裁定を仰ぐべきである、と判断した。 

 () 鳥取藩での待遇 元禄6年(1693)4月18日午後2時、安龍福等を乗せた大谷家の二百石
  積船は隠岐の島
に向け、出帆した。 隠岐の島の福浦に着いたのは20日だった。 黒兵衛等
  は、出雲藩の役
所に出頭し、朝鮮の漁師二人を連行した旨を届けた。 二人を連行した顛末
  を書面によぃて
報告するよう命じられたが、関わりを恐れたかれらがことわったので、出雲
  藩の役人が直接、
取り調べた。 取調べ後、安龍福等には酒肴が振る舞われた。 日本領の
  竹島(鬱陵島)を
侵犯した生き証人の二人は、日本に着くと罪人ではなく「異客」としての
  待遇を受けたにで
ある。
   さて、安龍福等を乗せた大谷家の船が福浦を出航したのは、寄港して三日後の4月23日で
  あった。 船は途中、水夫(漁師)の一部を下すため、隠岐の島の嶋前に立ち寄った。 米

  子に帰港したのは
27日の午後2時であった。
   安龍福とはいかなる人物であったか、彼の所持する腰牌(認識票)から漁師でなく軍兵で
  あることがわかる。 腰牌の表面に「長四尺一寸鉄髭暫生疵無」とあるがこれは身体の特徴

  である。 身長を四尺一寸(
124㎝)としているのは、あきらかに誤写である。 裏面に「庚
  午」とあって、「釜山佐自川一里/第
14統三戸」と記されていた。 これは腰牌が作られた
  年が「庚午」(
1690年)で、安龍福の居住地が釜山佐自川一里である。 安龍福が日本語を
  話せるのは、その近くに、対馬藩の出先機関である倭館があり、倭館との関係が考えられる
  。 

   腰牌の表面には「東莱/私奴、用ト、年三十三」とあった。 出身地は東莱トンネ、本名は
    トヨンボク
といい、私奴(賤民)であった。 腰牌が作られたとき、安龍福は三十三歳であり、

  龍福が日本に連れてこられた元禄六年は、三十六の時だったことになる。

   一方、もう一人の朴於屯は、私奴(賤民)であった安龍福とことなり、「釜山/朴於屯」
  と
姓が記入されており、良民であったことがわかる。
   さて、安龍福等は隠岐では異客の扱いを受けたが、鳥取藩ではどうであったか。 「竹島
  考」や「池田家御櫓日記」等の記録によると、大谷家では4月
27日、ひとまず二人を米子灘
  町の大谷九右衛門宅に留め、翌
28日、米子城駐在の荒尾修理に「唐人」の連れ帰りを報告し
  た。 これに対し鳥取藩は、飛脚によって事の顛末を江戸表に急報する一方、江戸からの

  示があるまで彼らを大谷家に留め置いた上、荒尾修理に警備しておくよう命じた。 二人

  大谷家に軟禁されたことになる。

   「池田家御櫓日記」の5月11日条には「気晴らしに外出したい」と「色々わやく申候」
  (騒
ぎ立てる)安龍福に対し、荒尾修理が外出を許さず、支給する酒も「昼夜に三升より上
  は無
用」と申し伝えたことが記されている。 鳥取藩では彼らの処置に手をやいたようであ
  る。 

   その後、鳥取藩は江戸幕府からの指示を受けた。 朝鮮人には以後、竹島(鬱陵島)には
  渡海しないように厳しく申し伝え、長崎に護送せよ、というものだった。

   二人は5月29日、鹿野郷右衛門等に護送され、6月1日の午後4時に鳥取城下の荒尾大和
  宅に到着した。 

   翌2日、二人は改めて本町の町会所に移された。 長崎にむけ鳥取城下を出立したのは6
  月7日のことでる。 その際、二人は駕籠にのせられ、山田兵左衛門をはじめ、御医者、御

  徒方五人、軽率、御小人若干、料理人等、総勢九十余人が随行した。 後に対馬藩の取調べ

  を受けた二人は、浴衣、風呂敷、鏡、布足袋、蚊帳等、十二品目の品々を所持していた。 
   い
ずれも安龍福等の処遇に窮した鳥取藩が与えたものであろう。 長崎に護送されるまで
   20日余り、彼等は「所々で御馳走を仰せ付けられ」「膳部一汁七八菜程宛」の待遇すら受け
  てい
た。 しかし、この晴れもさわるような鳥取藩の対応は、安龍福の態度を傲慢にさせた
  。

 () 外交役対馬藩
   安龍福等の「異客」としての対愚は、対馬藩に引き渡されると一変した。 幕府の命令を

  うけ、朝鮮漁民の越境を朝鮮側に抗議することになった対馬藩は、二人に対して、越境侵犯

  の「質人」として臨んだからである。

   「竹嶋紀事」によると、対馬藩ではすでに元禄6年(1693)老中土屋相模守の指示をうけ
  ていた。 それには二人を長崎で引き取って朝鮮に送還し、朝鮮漁民の越境を朝鮮政府に抗

  議するというものであった。 

   二人は、七月一日、長崎奉行に引き渡されたその日、対馬留守居役の浜田源兵衛等によっ
  て取調べをうけている。 その結果、朝鮮漁民達が鬱陵島に渡ることになった経緯や安龍福

  等の鬱陵島での行動が次第に明らかとなっていったが、それは鳥取藩での証言とは大分こと

  なっていた。 実は鳥取藩では、安龍福の本名も明らかにしていなかった。 鳥取藩では

  龍福の名を「アンヨンボク」等と記録に留めたが、こえは間違いで「アヒチャン」で「裨

  」と表記し、高官が地方を巡回する際に随行する武官のことで、人名ではない。 まして

  将は、私奴の安龍福が唱えられる呼称でなかった。

   七月一日の事情聴取はその日のうちに終わり、翌二日、安龍福等の証言は、「朝鮮人口上
  書」
として対馬藩から長崎奉行い提出された。 そこには次のようにしたためられていた。
  『 朝鮮国慶尚道の内、釜山浦の安ヨクホキ(安龍福)、蔚山の朴トラヒ(朴於屯)は、竹
   嶋
(鬱陵島)で「鮑、若布かせぎ」をするため、慶尚道の蔚山を3月11日に出帆し、同25
  日、慶尚道の寧海に着いた。 寧海では1人が下船し、鬱陵島にむかったのは安龍福を含

  て9人だった。 3月
27日午前8時に寧海を出帆し、鬱陵島には午後6時に着いた。
   鬱陵島で鮑、若布採りをしていると、4月17日、日本人たちがやってきて、我々二人を
  に乗せ、鳥取には5月1日に到着した。 鬱陵島に渡ったのは、常々、鬱陵島には鮑、
若布
  が豊富であるときいたからで、今回、鮑獲りにきた島は、朝鮮では「ムルグセム」(武
陵島
  )と呼ぶ島である。 日本側でその「ムルグセム」を竹嶋と称していることは、今回、
初め
  て知った。                                』

 () 日本の抗議」
   元禄6年(169311月2日、釜山の倭館に入った使臣、夛田與左衛門は、朝鮮政府に宛て
  た対馬藩主宗義倫よしつぐの書翰を携えていた。 そこには安龍福の証言と大谷家の漁師達の
  証
言をもとに作成された、竹嶋(鬱陵島)侵犯の状況と経緯が記されていた。
  『 貴域瀕海の漁民たちは、近年、日本国の竹嶋(鬱陵島)にいたり、密かに漁採をなして
   いる。 日本の漁民が此処は日本領なので再び渡航しないように警告しておいたのに、今

   春、再び国禁を顧みず朝鮮の漁民40余人が竹嶋にやってきて、漁採をした。 そこで日

   本の漁民は二人を生き証人として鳥取に連れ帰り、鳥取藩に訴えた。 

    鳥取藩が事の顛末を江戸幕府に報告すると、幕府は我が藩に漁民二人を本国に送還し、
   決して竹嶋で漁労活動をしないよう朝鮮に厳しく対応してもらえ、と命じた。 そこで我

   が藩は幕命に従って、貴国に報知するものである。 今その二人を送還するのは両国の「
   交
誼」による。 貴国は速やかに各地に政令を発し、漁民たちの渡海を禁ずるべきである
   。 』

   宗義倫のこの書翰は、東莱府使の成璀を経て漢陽(ソウル)に上啓され、同月14日、重臣
  らによって粛宗に報告された。

   一方、朝鮮側に引き渡された安龍福等は。朝鮮でも取調べを受けた。 「辺例集要」の粛
  宗
20年(1694)正月条によると、安龍福は次の様な証言bをのこしている。
  『 3月、租二十五石・銀子9両三銭等の物を載せ、魚を貿あきなうため蔚珍より三陟に向か
   う際漂風によって所謂竹島に到泊』した。
      この安龍福の証言は、明らかに対馬藩での証言とことなる。「備辺司謄録」の粛宗19
   (
169311月条 廟議で左議政の睦来善が、次のような意見を述べた。
  『 対馬藩の申出はもっともなことである。 それに慶尚道の漁民たちは、風に流されて武
   陵島(鬱陵島)に漂着したといっているが、かって地方官である守令達から聞いたところ

   では、漁民らはしばしば武陵島や他島を往来し、大竹を伐採したり、鮑を獲ったりしてい
   るということである。 一切禁止することは難しいが、日本側が禁止を求めるなら、我々
   としても禁止しないわけにはいかない。  』

     そこで朝鮮政府は対馬藩に対し、粛宗1912月付の復書を朝鮮国禮曹参判権瑨堦(禮曹は
  外交や儀礼の担当部署」)の名で送った。 
   ところが、夛田與左衛門はこの復書の受
  取を拒んだ。 復書には「幣境の鬱陵島」の文字があったからである。 夛田の立場からす
  れば、鬱陵島は日本領でなければならなかった。

 () 朝鮮強硬派の台頭
   朝鮮王朝の政治史は党争の歴史であると言われている。 党争とは、儒教を奉ずる官僚た
  ちが学派に拠って朋党をつくり、激しい党派闘争を繰り広げたことをいうが、その対立は峻

  厳を極め、ある一派が政権を掌握すれば他派は死罪をはじめとした徹底した弾圧を受けた。

  粛宗代も例外ではなく、西人、南人、少論の各朋党が、政権をめぐってあい争っていた。 

   初め対馬藩の使臣、夛田與左衛門を迎えたのは、睦来善等の南人派政権だったが、その南
  人派が政権の座に着いたのは、さらに数年さかのぼる
1689年2月のことである。 当時政
  を掌握していたのは西人派だったが、西人派は粛宗の後宮問題で失脚してしまった。 粛

  は西人派の同意を得ないまま、寵妃の昭儀張氏(昭儀は正二品の側室)が生んだ昀を世継

  とし、張氏を禧嬪(禧嬪は正一品の側室)に昇格させたのだが、この粛宗の独断に対し、
西
  人派の宗時烈が上訴して異議を唱えたことから南人派が反発し、粛宗の逆麟に触れ宗時烈

  死を賜るという事件に発展したのである。

   粛宗はこの事件を機に、西人派にかえて南人派の閔黯、睦来善らを登用し、西人派は罷免
   されたり流罪に処されたりした。 しかし、その南人派政権もあっけなく崩壊する。 王妃
  の閔氏を廃したことを後悔しはじめた粛宗が、4月1日、今度は南人派の領袖である閔黯を

  罷免し、左議政の睦来善も失脚してしまった。

   南人派の次に政治の舞台に登場したのが、南人派とも西人派とも違う、少論派の南九萬
  趾完である。 この南人派から少論派への政権の遺構は、鬱陵島を巡る外交姿勢に大幅な

  正をもたらした。

   南人派から少論派に政権が移った際、対馬藩に対する挑戦政府の外交姿勢が激変したのは
  、
少論派の南九萬が、前政権の対応に批判的な態度をとったからである。
   さて、夛田與左衛門を迎えた少論派の接慰官兪集一の対応は、そのわずか数か月前の南人
  派の洪重夏とはまるで違っていた。 8月9日、兪集一との面談の席で夛田は、「幣境の鬱
  陵
島」の削除を求めたが兪集一は拒絶した。
   そもそも少論派は、南人派とは違う認識で交渉に臨んでいたのである。 
   1つは安龍福等に対する認識である。 南人派は安龍福等を「越境の犯罪人」と見ていた
  。 ところが少論派では、彼等を「拉致
された被害者」とする見方に変り、その結果鬱陵島
  に対する姿勢が一変した。 対馬藩が主
張するような日本領ではなく朝鮮領であり、安龍福
  らの越境行為を謝罪して処罰を約束した
南人派政権の復書を迎合的とし、その外交姿勢を問
  題にした。

   第2は、少論派にはもう1つ南人派とは違う認識があった。 それは、安龍福等が鳥取藩
  では異客として厚遇をうけながら、長崎からは一転して対馬藩による本格的な取り調べをう

  けたことを聞き、「対馬藩が鬱陵島を竹島と呼び、日本の領土として主張するのは、江戸幕
  府
の歓心を買おうとせんがためである」と曲解したことである。
   このように、自国民の鬱陵島への渡海を禁ずることで衝突を回避しようとした南人派にた
  いして少輪派は領有権を主張し、逆に日本側の越境行為を非難するのであった。 そればか

  りか鬱陵島を日本領とし朝鮮漁民の出漁禁止を求めた対馬藩にたいしては、道義的にその非を
  せめている。 鬱陵島問題は対馬藩の陰謀で、江戸幕府とは直接関係がないとみていたから
  である。

   その結果、対馬藩では少論派政権の復書を受けとり、夛田與左衛門をしばらく倭館に留め
  て、朝鮮側の状況を見させることにした。

   倭館に止まっていた夛田與左衛門が復書への疑問を四箇条にまとめ、朝鮮政府に返答を迫
  ったのである。 回答の期限は一か月後の六月十五日だった。

   その第一条「朝鮮側は鬱陵島にはていきてきに官吏を派遣しているというが、鳥取や出雲
  の漁師たちはここ八十一年来、貴国の官吏と遭遇したことはないのはなぜか」

   第二条は「今回の復書では『貴国の人自ら犯越を為す』、『貴国の人我が境を侵渉す』と
  あるが、これまで我が国の漁民が鬱陵島に出漁し、三度漂致した。 にもっかわらず『犯越
  侵渉』として抗議しなかったのはなぜか」

   第三条は「今回(少論派)の復書では、鬱陵島と竹島を一島二名としながら最初の復書で
  は『貴国の竹島、幣境の鬱陵島』と二島二名としたのはなぜか」

   第四条は「過去、朝鮮側から対馬藩に送られた文書の中で鬱陵島に関連した者が三通ある。
   12
年前、今回に事件とは別件で、対馬藩が東莱府使に対して鬱陵島のことを確認いた際、東
  莱府からの書状には『本島即我国所謂鬱陵島』『他人の冒占を容れず』とあった。 だが七
  十八年前、鬱陵島に出漁いた日本の漁民が帰国に漂致した際には、領海侵犯として抗議を受
  けていない。 これは『他人の漁労を聞いて許した』のと同じである。

   朝鮮政府の回答を船上で受取った夛田與左衛門は6月12日、再び書状を東莱府に送って朝
  鮮側に反駁撥した。

  『 貴書によると、鬱陵島が朝鮮に属したのは新羅、高麗時代からというが、それは言葉に
   過ぎない。 鬱陵島が日本に属したのはすでに
80年が立つからである。 また、貴国では
   「東国興地勝覧」を根拠に鬱陵島の領有権を主張するが、「東国興地勝覧」は二百年前の
   書
籍で、鬱陵島が日本領になったのは80年来のことである。 時々官吏を派遣して鬱陵島
   を
管轄してきたともいっているが、それも虚偽の説である。 80年来、わが国の漁民は
   鬱陵
島で漁労をしているが、貴国の官吏とは一ども遭遇したことがない。 それに82年前
   に序
文が書かれた貴国の「芝峰類説」には、「近く倭奴の磯竹島を占拠するを聞く」の語
   がある。 
他人の占拠を知ってこれを許し、他人が漁労して事実を知ってゆるしているお
   だから、自
ら捨て、他人の所有にきしたも同然である。 それなのに今回、休に「犯越侵
   渉」とする
のは、あまりにも事情に疎いものの言い分である。    』
 () 幕府の決定
   夛田與左衛門が元禄8年(1695)6月12日、朝鮮側にたいし最後通告ともいえる書簡を送
  り付け、対馬にもどった。 ところが、帰藩した夛田を待ち受けていたのは、方向転換した
  藩論だった。 藩主宗義倫よしつぐの夭折を機に藩論が二分したが、この頃に至ると、鬱陵島
  を朝鮮領と認め朝鮮との領土争いに終止符を打つべきであるとする意見が、体制を占めるよ
  うになっていたのである。

   その論は、15世紀の朝鮮の地誌「東国興地勝覧」の分註に「風日清明なれば即ち、峰頭の
  樹木及び山根の沙渚、歴歴見るべし」の一文があることから、その「歴歴見るべし」を、風
  日清明な日には朝鮮半島から鬱陵島が「見える」と解釈し、鬱陵島は朝鮮領である、と結論
  したのである。
 そこで対馬藩では親藩主(宗義方よしみち)の襲名と参勤交代を機、竹島(鬱
  陵島)は朝鮮領であるとして、朝鮮側との交渉中断を江戸幕府に申出た。

   その結果、幕府は鳥取藩に対し、鬱陵島への渡海を禁ずる措置をとった。 「通航一覧」
  では、鬱陵島への渡海が禁じられた経緯を次のように伝えている。

  『 竹島(鬱陵島)は因幡(鳥取藩)に属しているが、我が国の人間が定住しているわけで
   はなく、将軍秀忠の代に、米子の漁師が願ったから出漁を許したのみである。 鬱陵島ま

   での距離も因幡からは百六十里、朝鮮からは四十里と遙かに朝鮮側にちかい。 従って鬱

   陵島は朝鮮領であることに間違いない。 鬱陵島の領有権問題を解決するため、幕府が軍

   事力でのぞもうと思えばできないことないが、それでは無用の小島を争って、隣国朝鮮と

   の好を失うことになり、得策ではない。 それに朝鮮から鬱陵島を奪ったわけでないので
   、
これを返すというのもおかしな話で、こちらから鬱陵島への渡海お薫ずれば、それで済
   む
ことである。 いま、幕府の立場は依然と同じではない。 そこで朝鮮がわと最後まで
   争
って、決定的な状況になるよりも、事を荒立てず、互いに対立しないのに越したことは
   な
い。       』
   元禄9年(1696)1月18日付で、鬱陵島への渡海禁止を鳥取藩に伝えた。 また、対馬
  にたいしても、この幕府の姿勢を朝鮮政府に伝えるよう指示した。 これを受けて対馬藩

  同年
10月、新藩主を祝うために対馬藩に派遣された卞べん延郁同知(同知は通訳官の官職)
  宋裕養判事に、その方針変更をつたえた。

 () 安龍福の密航
   元禄6年(1693)安龍福等を米子に連行したことから始まった鬱陵島問題はこうして元禄
  9年(
1696)1月28日、大谷、村川家に対する渡海禁止という形で決着をみた。
   ところが、幕府による「渡海禁止」の措置から5か月目の元禄9年6月4日、南人派政権
  が処罰を約束した安龍福等
11名が、密航して鳥取藩の赤崎灘に突如現れた。 安龍福等はそ
  れより先の5月
18日、隠岐の島に着くと出雲藩の代官に自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡航し
  た朝鮮船
32艘の内の1艘で「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為渡来」したと伝えていた。 
   隠岐島の代官からの一報が届いた鳥取藩では6月6日、御船奉行の山崎主馬を赤崎に急派
  した。 しかし安龍福等とは途中の長尾鼻で行き合ったため、青谷に引き戻し、河口に入船

  させ警護することにした。 安龍福等はこのとき「朝鬱両島監税将臣安同知騎/(裏面)朝

  鮮吁安同知乗船」の船印を立て、「鬱陵于山両島監税」という実在しない官職を僭称してい
  た。 
つまり島鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の官吏としてやって来た、と言いたかったの
  だろう。 
問題は于山島である。 于山島は竹嶼と称される鬱陵島の近傍の小島である。 
  しかしここ
で安龍福がいっている于山島は、その竹嶼のことではない。 では、何処をさし
  ていのか、
実は今日の竹島なのである。 安龍福は、于山島を今日の竹島と思い込み、鬱陵
  島とともに
朝鮮領だと主張したのである。
   だが、隠岐島の代官から「伯州(鳥取藩)へ訴訟のためやって来た」との連絡を受けた鳥
  取藩では、安龍福らの渡航の目的を測りかねていた。 そのため儒者の辻晩庵を青谷に派遣

  したが、漢文の分からない安龍福らからは、渡海の目的を聞き出すことができなかった。 

   鳥取藩は612日、青谷に滞泊中の安龍福等の船を加露にうつし、東禅寺を仮の宿所に宛て
  たた。 さらに
21日、安龍福等を加露から鳥取の城下に迎えるため伝馬九疋を遣わし、途中
  の警護には市右衛門等があたった。 この時、安龍福と李仁成の二人は駕籠にのせられ、残
  りの九人には馬があてがわれた。 異客としての待遇を受けた安龍福等十一人は、鳥取城下
  の町会所にうつされ、御吟味役の羽原伝五兵衛には逗留中の馳走が明治られた。 鳥取藩で
  は朝鮮も官吏を僭称する安龍福に翻弄されていたのである。 

   しかし、安龍福ら到着を早飛脚で幕府に報告した鳥取藩の元に、幕府からの沙汰が届くと
  、
彼らの待遇は一変した。 安龍福らをそのまま船中に差し置くように命じられたため、鳥
  取藩ではにわかに湖山池の青島に仮小屋を建ててかれらを移し、異国船は湖中に繋がれた。

   幕府の方針は、異客に「願いの筋」があれば鳥取藩と対馬藩が長崎名で送り届、異客が断
  れば直ちに本国にもどらせよ、というものである。 鳥取安が選んだ位置は「直ちに本国」

  に戻らせる追放だった。

 () 安龍福の証言
   安龍福は鬱陵島だけでなく、于山島も朝鮮領として認めさせたかったのであろう。 安龍
  福が于山島というものの存在をしったのは、鳥取藩に密航する三年前の元禄6年(
1693)4
  月、「鮑と若布かせぎ」の為鬱陵島に渡った時である。 「竹嶋紀事」によると、対馬藩で
  の
取し調べに安龍福は次のような供述をのこしている。
  『 この度参候島より北東に当たり大きなる嶋これあり候。 かの地逗留の内、漸く二度、
   これを見申し候。 彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し聞き候。 お

   わりに参りたる事はこれなく候。 大方路法
1日路余りもこれあるべく候。     』
   鬱陵島に初めて渡り、島の地理に詳しくなかった安龍福は、同行の朝鮮人から于山島の存
  在
を教えられていたのである。 安龍福が「ようやく二度、見た」という于山島は、どの辺
  りにあったのだろうか。 鬱陵島の「北東」にあると証言しているところからすると、この
  于山島は今日の竹島とは無縁である。 今日領有権が争われている竹島は、鬱陵島の東南に
  位置しているからである。 それにも拘わらず、な安龍福は于山島を日本の松島(現在の竹
  島)と思い込んだのだろうか。 「辺例集要」によると、鬱陵島を出帆したのが4月
18日の
  午後2時、隠岐の島に着いたのが
20日、したがって安龍福が言う「翌日の晩食後」は、19
  の晩食後となる。 鬱陵島にいたさい、于山島まで「大方、
1日の道程」と目測していたため
  。 安龍福は、朝鮮が于山島と呼ぶ島と、日本人が松島(今日の竹島)と同じであると思い
  込んだのである。

   当然のことながら、于山島という「すこぶる大きな」朝鮮の島が鬱陵島と日本との間にあ
  るという安龍福の証言は、朝鮮政府の側でも信じてもらえなかった。

   そこで、領土問題で朝鮮側の政権交代で暗礁に乗り上げ、膠着状態に陥ったのを見た安龍
  福は、蛮勇を奮い、イチかバチかの賭けにでたのだろう。 安龍福がいうところの于山島と

  鬱陵島を朝鮮領とみとめさせるため、あえて再び国禁を犯して密航し。前回異客扱いをして

  くれた鳥取藩に訴え出ることに」したのである。

   朝鮮に戻った安龍福は、衝撃的な供述をするのである。 その時の安龍福の証言は、「粛
  宗
実録」の粛宗22年(1696)9月戌虎(25日)条に抄録されており、その後、朝鮮時代を通
  じうえ歴史の事実とされただけでなく、今日、朝鮮側が竹嶋の領有権を主張する際の原点と

  なっているからである。

 ◆安龍福は、次のように証言したのである。
   私どもが鬱陵島に到着すると、倭船が多くおりました。 そこで私は「鬱陵島は、朝鮮領
  だ。 なぜ、倭人はわが領土を侵犯するのか。 おまえら皆縛ってしまうぞ」と、舳先に進

  んで大喝すると、倭人どもは、「われわれはもともと松島に住んでおり、たまたま漁採のた
  め
に来ただけで、ちょうど今、松島に帰ろうとしているところだ」と答えた。 そこで私は
  「松
島は于山島だ。 これも我が朝鮮の地だ。 どうして住むことができよう」と言ってあ
  りま
した。 その翌暁、舟を曳いて于山島に入ると倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮てる最中
  でした。 そ
こで私が杖で叩き破り、大声で叱りつけると、倭人たちはそそくさと辺りの物
  をまとめて船
にのせ、帆を挙げて去っていきました。 そこで追いかけたのですが、途中狂
  風にあって隠
岐島に漂着いました。 
   隠岐島では島主が入来の目的を尋ねるので、先に私がこの地に来たとき、鬱陵、于山等の

  島を朝鮮側の境界とする関白(将軍のこと)の書付があったはずだが、それが徹底していな

  いようで、今また、わが朝鮮の境界を犯すものがいる。 これはどうしたことなのか。 鳥

  取藩に取り次ぐように求めたが、返事はありませんでした。 そこで憤慨した私は直ちに鳥

  取藩に向かい、「鬱陵、于山両島監税」と仮称して、人を通じて鳥取藩につげると、鳥取藩
  で
は人馬を送って迎えてくれました。    
   私は駕籠に乗り、他の者は馬にのって鳥取藩まで行きました。 鳥取藩では藩主と対座し
  、
諸人は中階に控えておりました。 鳥取藩主が「なぜまいったか」と聞くので、「先に両
  島の
ことに関しては、書付をだしたことは明白ではないか。 それなのに、その書付を対馬
  藩主
が奪い取り、朝鮮政府と江戸幕府の間にあって偽りの使臣をおくってよこすのは言語道
  断で
ある。 私としては関白(将軍)に上疏し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思う」と申
  しますと、
鳥取藩主が許すというので、ついに李仁成にかかせました。 すると対馬藩主の
  父親がやっ
てきて、ねんごろに鳥取藩主に語るには「もしこの疏文が幕府にわたればわが子
  は必ず重い
罰を得て死ぬことになる。 どうか幕府には提出しないでほしいというので、幕
  府には上申
せず、その代わり先日、鬱陵島に渡っていた15人は捕えられて処罰されました。
   そこで鳥取藩主が私に言うには、「鬱陵島と于山島はすでに鳥取領となったのだから、再
  び
越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を
  送
ってよこせば重く罰してやろう」と言いまして、帰国に際しては食糧と護衛の使者を付け
  て
やると言ってくれたのですが、差障りがあるともうしまして、御断りしました。  
   この証言のうち、安龍福が「鬱陵、于山両島監税を僭称」したことと、「安龍福が駕籠に
  乗
り、他の者は馬にのって鳥取の城下」に入ったこと以外は全て偽りである。 安龍福が鳥
  取
藩に密航する4か月ほど前の元禄9年(1696)1月28日、既に幕府は鬱陵島への渡航を禁
  じており、
鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。 また、禁を犯して
  出漁した
漁民たちが処罰されたという事実もない。
   さらに安龍福は「倭船が多くいた」と称しているが、鬱陵島に渡航する際、鳥取藩から大
  谷家に発給された往来手形では、船は
1艘で船頭以下21人の乗船が認められていただけであ
  。 それに安龍福は、鬱陵島で遭遇した日本人の漁師が「我々はもと松島(現在の竹島)

  すんでいる」といったように証言しているが、松島では飲料水の確保もみつかしく、人の

  住は困難である。 安龍福は松島がどのような島かも知らずに、朝鮮領の于山島と思い込

  でいる。 事実、安龍福は「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現して

  る。 于山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述しているが、大谷家と村川家が海

  から膏を採取していたのは鬱陵島である。 岩礁に過ぎない松島には燃料となる薪がなく、

  釜を並べて魚膏を煮ることが出来る場所や、舟を曳いて進める浜辺もない。 于山島に渡っ

  たこともなく、松島も知らないままで、安龍福は「松島は于山島だ。 これもわが朝鮮の地

  だ」と証言していたのである。

   偽証はそれだけに止まらなかった。 安龍福は、鳥取藩では藩主と対座し、そこには対馬
  藩主の父親が息子の命乞いに来た、と証言しているが、鳥取藩主池田綱清は当時、参勤交代

  のため江戸に居り、父が命乞いをしたとされる対馬藩主、宗義倫はその前々年の元禄7年

  (
1694927日、24歳の若さで病死している。しかも、安龍福が鳥取藩に密航した時期
  は、義倫の父宗義真は新藩主の後見役となり、参勤交代で江戸にいた。 いずれも安龍福

  は対面の使用がないのである。

 (10) 安龍福の評価
   現在、韓国の歴史的教科書では、供述書の内容を歴史の事実としているが、当時の朝鮮政
  府は、当初、安龍福の証言には懐疑的だった。 

   最初から安龍福の証言を疑っていた柳尚運は、対馬藩新藩主の襲名祝いのため対馬島に渡
  っていた卞同和と宋判事の二人の帰国を待って、結論を下すべきであるとしたのである。
 
   この日、廟議に加わっていた重臣たちの意見も異口同音で、安龍福の証言には一様に不振

  をいだいていた。 兵曹判書の閔鎮長は「(強風のために漂着したといっているが)安龍福
  に
は最初から直接、鳥取藩に行く意思があったのだろう。 もし強風のために漂着したとい
  う
のなら、対馬藩から帰還するのが古例である。 その上、鳥取藩では訴訟までおこしたの
  で
あるから、その罪はまことに許しがたい。 この事実を対馬藩に通知しなければ、我が国
  と
しては誠信の道を保つことができない」と発言した。 
   このように当初朝鮮政府は、安龍福の供述とは認めず、確認を急ぐべきであるとする慎
  論が大勢をしめていたのである。

   情勢が変化する決定的瞬間は1013日に訪れた。 9月30日の廟議に参席していなかった
  領中枢の南九萬と領敦寧府事の尹趾完がその日、新たに廟議に加わったからである。 

   最初に発言したのは、尹趾完であり、次のように述べている。
  『 龍福が私に他国に行き、みだりに国事を説いたことは、日本側が我が朝鮮が使臣を送っ
   たと思い込めば重大問題で、その罪科を言えば死にもあたる。 しかし、一方で、対馬藩

   が我が国を欺瞞してきたのは、我が国が直接江戸幕府と通じていないためである。 もし

   今、鳥取藩という別の外交ルートがあることを知れば対馬藩はきっと畏怖するに違いない
   。 
龍福を誅殺すれば、対馬藩はそのルートがふさがれたことを喜ぶだろう。 龍福の処
   罰は
法の観点からは「正しい」が国家的経略の面では「誤り」である。 法を曲げるのは
   よく
ないが、対馬藩を牽制できる外交ルートを失うのはまことに惜しい。 まして対馬藩
   に通
報し、倭館の外に龍福の首をさらしたりするのは、狡猾な倭を喜ばせるだけであり、
   元も
子も無くしてしまう処置である。                    』
     尹趾完は、鬱陵島問題を対馬藩の陰謀とした安龍福の証言を半ば事実とみていたのである
   。 
続いて発言したのは南九萬である。 前年6月、鬱陵島帰属をめぐる交渉で、夛田與
   左衛門
から一方的にやりこまれ、政府を窮地に立たせたことで、粛宗にその不手際を謝罪
   した人物
である。 その南九萬にとって、安龍福の証言はまさに奇貨と映っていた。 名
   誉挽回の好
機である。 南九萬は次のようにのべた。
   『 先に龍福が倭に連れ去られた際、江戸幕府が鬱陵島を朝鮮領とする書付を発給し、対
    馬
藩がそれを奪ったと証言したときは信じられなかった。 しかし今、龍福が再び鳥取
    藩に
往き訴訟をしたのは、その証言が事実であったからである。 対馬倭が、江戸幕府
    の命に
仮託して鬱陵島を竹島と偽り、鬱陵島への朝鮮人の渡海を禁じようと中間で画策
    していた
実態が龍福の証言で露見したのは快事である。        』
    こうして南九萬は、安龍福の証言を過去の外交的失策の弁明に使ったのである。
 江戸
   幕府が元禄9年(
1696)1月28日、鳥取藩にたいし鬱陵島への渡海を禁じた。 この幕府
   による渡海禁止の処置は、やあて対馬に渡っていた訳官によって朝鮮政府に伝達され
るが
   、それは、安龍福の密航事件から4か月語のことである。 この時間のずれが、事態を

   わぬ方向に導くのである。


                    2.竹島に関する日本政府の見解
1.竹島の位置
 ・竹島は、島根県隠岐の島町に属し、隠岐諸島の北西約158㎞の日本海上に位置する群島です。
 ・東島(女島)、西島(男島)の2つの小島とその周辺の数十の岩礁からなり、総面積約0.21
  ㎞(日比谷公園と粗同面積)

2.竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場
 1)竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国の固有領土です。
 2)韓国による竹島の占領は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓
  国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正統性を有する

  ものではありません。

3.竹島問題の経緯
 1)竹島の領有
   我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していま
  した。

 2)竹島の島根県編入
   政府は、明治38年(1905)の閣議決定をもって島根県に編入し、竹島を領有する石を再
  認しました。

 3)サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
   韓国は、米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の1つに竹島をくわえ
  よう要望しました。 これに対し米国は、かって竹島は朝鮮領土として扱われたことはな

  、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとはみなされない旨回答し、韓国の主張を否

  しました。 このやり取りを踏まえれば、竹島は日本の領土であるということが肯定され

  いることは明らかです。

 4)米国の爆撃訓練区域としての竹島
   日米間の協議機関として設立された合同委員会は、竹島を米国の爆撃訓練区域に指定しま
  した。 竹島が合同委員会で協議され、かつ在日米軍の使用する区域としての決定を受けた

  ということは竹島が日本の領土であることを示しています。

 5)「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
   昭和27年(1952)1月、李承晩韓国大統領はいわゆる「李承晩ライン」を国際法に反し
  一方的に設定して、そのライン内に竹島を取り込みました。 昭和
28年(19537月には、
  海上保安庁の巡視船が、韓国漁民を擁護していた韓国官憲から銃撃を受ける事件も発生、昭

  和
29年(1954)6月、韓国内務部は、韓国沿岸警備隊が駐留部隊を竹島に派遣した旨の発
  をおこないました。 これ以後、韓国は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監
  視所、灯台、接岸施設等を構築しています。

   韓国による竹島の占領は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓
  国がこのような不法占拠に基づいて竹島にたいして行ういかなる措置も法的な正統性を有す

  るものではありません。 この様な行為は、竹島の領有権を巡る我が国の立場に照らして容

   認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置を行うごとに厳重な抗議を重ね
  るとともに、その撤回を求めていきます。

 6)国際司法裁判所への提訴の提案
   我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以後、韓国側が行う竹島の領有権の主張、
  漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積重ねました
  。 そして、昭和
29年(1954)9月、竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを
  韓国側に提案しましたが、同年
10月、韓国はこの提案を拒否しました。 昭和37年(1962
  3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件
  問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受容れませんでした
  。 

 
                   3.竹島に関する韓国政府の主張
 第二次世界大戦の戦後処理に於いて、アメリカ合衆国が主導する連合国軍最高司令官総司令部
(GHQ/SCAP)より様々な指令がだされた。 そのうちSCAPIN
-677は日本の領土範
囲を示すものであったが、竹島と北方4島はこのSCAPIN
-677の外にあった。 
 昭和27年(1952)、9月8日、アメリカ合洲国のサンフランシスコで、平和条約(サンフラン
シスコ条約)が締結されると、SCAPIN
-677の大部分が消滅されたが、竹島と北方四島のぶ
ぶんだけ、消滅せずのこされた。 韓国は、竹島がSCAPIN
-677の外にあることを手掛かり
に朝鮮であると主張しているとおもわれる。

 しからばSCAPIN-677なのものか。 SCAPIN-677の目的は日本から国家主義と軍
国主義を一掃することで、領土に関するものではないとされている。 

 

                   4.竹島に関する韓国の歴史感
() 于山島は独島
   1)独島とは
    独島(竹島)は韓日間の海中にある島で、韓国の東海(日本海)岸に位置する慶尚北道
   蔚
珍郡竹辺から216.8㎞、日本の島根県松江市から220㎞離れた所にある。
    独島は、今から約300年前、つまる、1690年代に韓日間の紛争の種になることがある。 
   そ
れ以降はこれといった問題はなかった。 だが1905年に入り日本が島根県告示をもって
   島
根県に編入されたことで再び問題となる。 しかし、1910年、韓国が日本の植民地と化
   して
その問題は水面下に隠されるようになった。 そして1945年、韓国は日本の支配から
   解放
された。 
    それによって問題が再び浮上した。 さらに、国際連合海洋法協約の発行をきっかけに
   、
韓日間排他的経済区域境界線画定問題と絡んでまたもやイシュウー化され韓日関係は悪
   化さ
れる要因となっている。
 2)韓日両国の認識
   「万機要覧」(1808年)には「興地志に曰く、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于
  山島は倭人のいうところの松島である」という文言があり、于山島が独島であることを明ら

  かにしている。 しかし、多くの日本人は独島ではない、あるいは可能性はたかいと主張し

  ている。川上健三は次のように主張した。 

   しかし、日本には川上健三の様な認識をもっている人ばかりではない。 梶村秀樹、堀利
  生などは于山島は間違いなく独島だという。 因みにいえば、韓国の学者間でも意見は分か

  れている。 呉庠学教授は于山島を独島に比定することに慎重にあるべきだといっている。
   鬱陵島の周辺にあるいくつかの小さな岩礁は、鬱陵島の近い所にある。 空のすみきった

  日だけかすかに見える島は、独島しかない。 島がほとんどない東海であるのでこの記録だ

  けでも于山島が今日の独島であることは、あきらかだ。

  3)鬱陵島と独島の地理的関係
   川上健三は、鬱陵島から独島が見えると強調してのべている。 鬱陵島のどの位の高さな
  らば、竹島が認められるかを先の公式を用いて計算すると、快晴の時でも高島名最頂部の
1
  が見える位置は
130mということになり、これを島として認めえるのは200m以上登必要があ
  る。

   現在、鬱陵島に居住している住民を見れば観光や漁業を生活の手段としている人々は標
   20
mから50mの海岸沿いの谷に居住し、農業を主な生活手段としている人々は標高200mから
   300
mの高い所に分散している。 島の四方周囲はほとんど断崖絶壁をなしており、開眼沿い
  には農業に適した平地はない。 

 4)文献に見える于山島
   六世紀の初めの頃、于山島は新羅に属して朝貢関係を結び土地の産物を治めていた。 高
  麗時代に、高麗の勢力はどんどんおとろえていく。 そのせいか
1022頃まで使われていた
  山国という呼称が 文献から姿を希有様になる。 それ以後は、記録に現れるのは鬱陵島

  いう名称だけになる。

() 竹島渡海免許の不法生
  川上健三は「竹島渡海免許」が元和4年(1616)に発給されたと主張している。 また、そ
 れは由緒の古いことを主張して既得を維持しようとした大谷と村川両家の主張を無批判に受け

 入れた主張に過ぎず、実施には、」寛永元年(
1624) 発給されたとする説もある。 
  「竹島渡海免許」に連署した4人が共に、老中になったのが元和8年(1622)だったので「渡
 海免許」はその後の発給でなければならない。 ところで、寛永
14年(1637)に鬱陵島から
 子に帰る途中流されて朝鮮海岸に漂着した市川市兵衛船の船員たちは「松平新太郎殿参候御

 諸之写」をもっていたという。 池内敏教授は、これを「竹島渡海免許」の写本としている。

  朝鮮側の記録にも「また13年前に関白の前で竹島に渡る許可をもらい、毎年往来して魚を取り
 油を取った」とのことで
1637年の13年前に「竹島渡海免許」をもらった織田という。 
() 安龍福のための解明
 1)安龍福の活動に対応する日本人の主張
   于山島がはたして今日の独島であるか、と言う問題と「大宋実録」などに見える矛盾的記
    述の問題に明確な回答が宛ててくれるのが安龍福の活動記録である。
  川上健三は、彼の著書「竹島の歴史的地学研究」の総296ページのうち36ページを)いて、
  安龍福の活動について次のように分析している。

  『 安龍福の供述について、検討するには、甚だ虚構と誇張に満ちている。 その最も決定
   的、
かつ明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島に赴いたところ、同島に「倭船亦
   多来泊」
と述べるてんである。 しかし、この年、即ち元禄9年(1696)には大谷・村川
   両家はいずれも鬱陵島には渡航していなかったのである。

   ………………………………………………………………………………………………………
   彼が鬱陵島から隠岐を経由して因幡に渡航したこと、おおび加路から鳥取に行く際に駕籠
   に乗り、その他のものが馬に乗ったことだけは日本側の記録と一致するが、他はいずれも
   か
れの作為に架かる虚構に過ぎない。                     』
 2)元禄9年の調査記録で確認された内容
   2005年5月16日、島根県隠岐郡海士町の村上助九郎氏宅で1696年の安龍福関連古文書が、
   309
年ぶりに発見された。 安龍福の第2回目の渡日の際の取調べの記録で渡日の目的などが
  書かれている。 

   この文章の表題は「元禄9年丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」で表紙を含む八枚綴りになっ
  ている。 
1696年5月23日付の記録である。 安龍福が隠岐島に到着した5月20日に安龍福
  らの渡来の報告を受けた石州御用所の代官・後藤角右衛門は部下の中瀬弾右衛門と山本
清右
  衛門を隠岐に派遣して安龍福一行の取調べを行った。 その時作成された報告書の写し
が村
  上家に保管されていたものと思われる。 

   この記録によると、安龍福は当時、1654年、生まれの43歳で、水精貫子付の冠のような
  黒い笠をかぶり、薄い木綿の上着を着て。 通政太夫として東莱に居住していると書かれた
  札を見に付けていた。 

   右安龍福雷憲金可果三人江在番人立会之時朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持仕候ヲ出申候則
  八道ノ各ヲ書写朝鮮ノ詞ヲ書付申候

   当時の朝鮮は外国の侵略に利用されるかしれないという心配から地図を国家機密として管
  理していた。 安龍福一行のような一介の漁師たちが所持できるようなものではなかった。
  それにも拘わらず安龍福一行は朝鮮の8道のそれも詳細に描かれている図面をもって、取調
  べにあたっていた人に提出したのである。これは安龍福一行が鬱陵島と竹島の領有権を主張
  しようと、わざわざ朝鮮8道地図を持参して日本に渡ったことを意味する。 しかも安龍福
  はつぎのように竹島は間違いなく朝鮮の鬱陵島だと言い切ってた。

   安龍福申シ候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋ト申朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ鬱陵島ト申嶋御座候。 是ヲ
  竹ノ嶋ト申由申候即八道ノ図ニ記之所持仕候 松島ハ右同道ノ内小山ト申嶋御座候、是ヲ松

  嶋ト申由是モ八道之図ニ記申候
  この地図には、竹島(独島)についての正確な記述があ
  る。 即ち安龍福は八道地図の中
の小山島を指差して、日本で松島と呼ばれるこの島が朝鮮
  の江原に属する小山島だといった
のである。 それによって、当時においても竹島(独島)
  に対する明確な領土意識があった
ことを立証している。
   また安龍福は鬱陵島と竹嶋(独島)を経由して渡来したと陳述している。 当時朝鮮の本
  土から鬱陵島までは船で二日かかった。 その計算から鬱陵島から竹島までは一日くらいか

  かる距離であった、と思われるが、安龍福も鬱陵島から竹島まで一日かかったと陳述してい

  るのである。 そしてまた、竹島が日本の隠岐の島まで三日かかったということを明確に認

  知していたのである。 

   また安龍福は朝鮮から鬱陵島までの距離、鬱陵島から竹島までの距離を明確にのべた。 
  子
山島(于山島)が鬱陵島の隣にある竹嶋ではないことは、この様に再度はっきりさせれて
  い
る。 例え安龍福が知っていた距離が今日のものと正確に合致するものではなくても、安
  龍
福が独島のことを明確に認知していたことは明らかである。 この陳述は川上健三や下條
  正
男の主張、即ち于山島は鬱陵島であるか、その隣にある竹嶋であるという主張を定するこ
  と
になる。
   龍福は1693年の第1回目の渡海の後に朝鮮の備辺司で取調べを受けた。 その際、伯耆州
  からよくしてもらい鬱陵島が日本の土地ではないという書契までもらったのに、それを
長崎
  で奪われたと陳述した。

   この内容だけでは、その書付が一般的な文章なのか、それとも安龍福が第1回目の渡海の
  際にもらったという「鬱陵島が日本の地ではなくて」と書かれている関白の書契なのか分か

  らない。 なぜなら、書付が一般的な文章を意味することもあるし、幕府の指示を伝える公

  文書も意味することもあるからだ。 ところでそれが前者の意味、即ち大回目の渡海の際も

  らった諸物品を記録した文書であるとしたら、その様な文書を安龍福がわざわざ日本まで持

  っていって役人に差し出す必要はなかっただろう。 反面幕府中老の指示を伝えた書契であ

  ったならば、今回発見された文書または別の文書にそのことについての記録があってもおか

  しきない。 

   安龍福は訴訟のために伯耆州に行くと言い、前述したように日本よりもらったものなどが
  記録されている書付を持参していた。 日本でもらった諸物品を途中で対馬藩主に奪われた

  ことを知ってもらうための証拠として、書付を提示し、又対馬藩主に度量衡をごまかすなど

  の罪があると告訴しようとしたと思われる。 

   文書の終りに朝鮮の八道の名前が全部書かれており、とりわけ「江原道」項目の下に「の
  の道の中に竹島と松島があります」という注記が付されていた。

() 日本の軍事的要請による独島編入
  川上健三は、竹島の編入はもっぱら中井養三郎のアシカ漁を許可するための処置だと主張し
 ている。 しかし、竹島は漁師である中井養三郎の生計手段となるべく編入したのではない。
  
竹島は朝鮮半島を兵站地とすべく起こした日露戦争を遂行する過程において軍事的必要上編
 入
した犠牲物である。
 1) 朝鮮半島での主導権確保のための日露戦争
     1895417日、日清講和条約締結の結果、日本は朝鮮に対する中国の影響を排除し大
  進出の橋頭保である遼東半島まで手に入れることが出来た。 そして朝鮮の兵站化は時間

  問題と思われた。 いかし、日本の急浮上を憂慮したドイツ、フランス、ロシアの圧力を

  け、遼東半島を返還せざるをえなかった。 それによって日本の大陸進出の夢は勿論朝鮮

  站かの計画も挫折したのである。
   競争相手であった日本を追いやったイギリス、ドイ
  ツ、フランス、ロシアなどの列強は中
国での利権を一つ一つ我が物にしていった。 ロシア
  な、
1896年、満州を通ってウラジオストックに繋がる東清鉄道の敷設権を確保し、次いで、
   1898
年には関東州の租借権を確保した。 同じ年にドイツは膠州湾こうしゅうわんを、イギリスは九
  龍半島及び威海街を、フランスも
1899年に広州湾こうしゅうわんを租借した。 この様な西欧列強の
  中国内の利権獲得に苛立ちを覚え
た日本は、義和団事件の鎮圧に鍬倭歌ときをきっかけに再
  び大陸進行を企てる。 しかし、
このような日本の大陸進出企画は、ロシアを刺激すること
  になり、満州と朝鮮半島をめぐる
両国の対立が激しくなった。 一方、三国干渉によって日
  本が遼東半島を返すのを見た朝鮮
政府は、ロシアこそ日本を制圧で来る強大国だと考え親露
  政策を推進することになる。 こ
れによって朝鮮半島でのロシアの影響力が急激に増大し始
  めた。
   中国と朝鮮半島でのロシア勢力の増大に恐れを感じた日本の桂太郎首相と小村寿太郎外相
  は、日英同盟を結んでイギリスを味方につけた後、直ちにロシアとの交渉に入り、満州での

  ロシアの利権を認める代わりに朝鮮半島での日本の支配権を要求するようになった。 しか

  し、ロシア日英同盟を結んだ日本が朝鮮半島を軍事的に利用することを認めるわけにはいか

  なかった。 日本も満州に対するロシアの利権を認めても朝鮮半島は譲歩できなかった。 

   そのような葛藤の末に、1903年龍岩浦事件が起こった。 ロシアが鴨緑江周辺の原始林を
  伐採しようとして、新義州の南側にある親岩浦の租借を朝鮮に要求すると、日本は直ちに激

  しく反発した。 ロシアが伐採のためには軍隊と労働者を派遣すると表明したのに対して、

  これに反撥した日本は朝鮮政府に対して龍岩浦の開口を要求してきた。 勿論ロシアは龍岩

  浦の開港に対し軍事力を動員してかたくに反対した。 
1903年9月、ロシアが龍岩浦の付近
  に望楼と砲台を設置すると、遂に日本政府と軍部はロシアに対する開戦決意をかためた。

  2)鬱陵島でのロシア人強制追放
     1904年2月8日、宣戦布告もなくロシアを奇襲攻撃しロシア軍の追放した。 5月12
  、林公使は朝鮮の外相・李夏永にあって、ロシアと締結した森林伐採の契約を直ちに取消

  よう脅し、彼に承諾させた。

   ところでこの時までに、日本軍部の陸上戦に対する準備は完了していたが、海戦に対して
  はそうではなかった。 開戦と共に機先を制した日本海軍が、
1904年5月15日を前後して
   戦力の致命的な損失を蒙ったところにある。 日本は、日本海上での海上制海権おエッセン
  提督の率いるウラジオストック艦隊に
脅かされ、敷設艦アムールの機雷敷設で、初瀬、八島
  の最新鋭戦艦おうしなうことになる。 
そして、それより7時間前に巡洋艦吉野が装甲巡洋
  艦と霧の中で衝突して沈没し、大島と赤
城などの砲艦が事故にあうなど海軍の戦力が急激に
  弱体化した。 虎の子の戦艦6隻のうち
三分の一の2隻を喪失した、海軍は直ちに、鬱陵島
  を確保して軍事基地化することによって、
戦艦の不足を補完する必要があると判断した。 
  このため鬱陵島で伐木いていた全てのロシ
ア人を強制追放した。
   それに先立つ1904年4月13日、の日本海軍はロシアの旗艦ペトロハプロスクを撃沈し、
  シア海軍最高の戦略家であったマカロク提督を戦死させたが、前述したように、5月
15日を
  前後に急激に戦闘力を失ったのである。 しかも、このような状況下で、6月
15日、ウラジ
  オストック艦隊の装甲巡洋艦グロムボイが対馬海峡に現れ船一杯に武器を積込んだ輸送
船常
  陸丸と和泉丸を撃沈した。 これによって乗船していた近衛後備連隊
1095人が犠牲になり、
  このため旅順陥落は2ヶ月遅れることになった。 

   制海権の喪失により日本は満州に派遣した日本軍の孤立を憂慮せざるを得なくなった。 
  結局日本の軍部は、対馬海峡の制海権確保のためには日本海上を南下するロシア軍艦を早期

  に発見することが最も重要だと悟った。 そこで、日本は「朝鮮に関しては、いかなるばあ

  いにおいても実力をもって我々の権勢の下に置くべきだ」と閣議決定した後、戦争の開戦と
  同時に、
1904年2月23日付の韓日議定書を強制締結し、必要な土地を収用できるようにする
  ための法的措置をたもった。 この様な状況において、軍艦が次々と撃沈され戦力がよわま
  る。 すると切羽詰まった日本海軍は既に締結されている韓日議定書を根拠に6月
27日から
  7月
27日に渡って竹辺、蔚山、巨文島、済州島等の戦略的な地点に望楼を設置することを決
  めた。 それぞれの望楼は海底電線で繋がれる。 

   海上戦力の不足を陸上における望楼の設置と敵艦の早期発見を通じて補完しようとした日
  本海軍は鬱陵島の東南部と、北西部の2カ所に望楼を設置した。 鬱陵島に望楼を設置して

  いる最中である、8月
10日に乃木希典将軍の旅順攻略がはじまった。 8月14日の蔚山開
  においてエッセン提督が率いるウラジオストック艦隊が惨敗を喫することになる。 事態

  こうなると、ロシア皇帝は8月
24日の大海軍会議を開いてバルチック艦隊の極東派遣を決
  た。

   日本海軍は慌てた。 バルチック艦隊の到来も問題になるが、差し当たって最も深刻なこ
  とは戦力を回復したウラジオストック艦隊による対馬海峡の封鎖だった。そうなったら鬱陵

  島だけでは不十分であると思った日本海軍は更に独島にも望楼の設置を企てた。 9月
24
  軍艦新高は独島偵察のため鬱陵島を出発し、独島に向かった。 これは中井養三郎が編入

  いを提出する5日前のことである。

 3)独島の侵奪
   独島は特に強い風の吹く冬には船の接岸の出来ないところである。 さらに淡水がほとん
  ど得られず、工事すらできなかった。 結局日本は望楼の設置に取り組むことが出来なかっ

  た。 結局日本は望楼の設置に取込むことが出来ず、その様な状態ウラジオストック艦隊

  大小の海上戦繰り広げた。 その末、
1905年1月1日に辛うじて旅順を陥落することができた
  。 また3月には日本軍には日本軍
24万人、ロシア軍32万人が奉天で激突する大規模の激戦
  があったが、結局ロシア軍が退却し、日本軍の勝利となった。 

   一方、陸上戦闘で惨敗したロシアは戦勢の逆転をはかった。 バルチック艦隊を太平洋に
  回航させて、一挙に、制海権を取戻した後、陸上部隊を支援させるという方針をとった。

   東海(日本海)がバルチック艦隊の到来で戦場となる場合、自然とUと独島は両国の戦略
  的要衝地となる。 両島はその様な運命を強いられていた。

     19041014日ロジュストネンスキー提督が率いる第2太平洋艦隊はバルチック艦隊の母
  港であるリバラ港を出航した. 
11月4日艦隊は二つに分けられ、ロジュストネンスキー提
  督の率いる本隊はアフリカの喜望峰を回り、フェリエルザム提督の率いる支隊はスエズ
運河
  をとおった。 本隊は喜望峰を回って
1229にはマダガスカルのノシーベ港に到着したんが
  、そこから動くことが出来なかった。 ドイツの協力が得られず、燃料の石炭の補給ができ
  なかったからである。 3月
17日まで何もできず、止まることになる。 この期間は、日本
  海軍には、戦力回復と戦備を整える時間的余裕を与えたがその反面、ロシア艦隊は、赤道の
  強い日差しの射し込む鉄甲板の上で空しく待機した。 それだけでない、
1905年1月1日に
  は旅順陥落、また
22日にはロシア革命の走りである「血の日曜日」と言われる革命が起り、
  ロシア兵士の士気は低下した。 

   5月26日、ロシアのバルチック艦隊で構成された第二・第三太平洋艦隊がいよいよ対馬海
  峡の霧の中から姿を現した。 明りは消されていた、日本の巡洋艦(水雷艇、駆逐艦より大

  きくい高速艦)の偵察をさけるためである。 しかし、最後尾に付けていた病院船だけは国

  際協定に従って明りをつけていた。 5月
27日の午前2時30分ごろ日本の仮装巡洋艦信濃
  (貨客船)は濃霧の中からかすかに明りに気が付いた。 2時間くらい明りを追って行く

  肉眼でロシア軍艦を確認できた。 午前4時
45分 信濃丸は無線で、敵艦発見したと報告
  た。

   第二太平洋艦隊は5月9日、ロシアの同盟国フランスの植民地であるフランス領インドシ
  ナ(現ベトナム)のカムラン湾で遅れて来た第三太平洋艦隊と合流しウラジオストックを目
  指したが、5月
27日、対馬沖で東郷平八郎率いる日本の連合艦隊と遭遇、海戦を繰り広げた
  。

   3日間に渡る海戦の結果、第二、第三、太平洋艦隊のうち、ウラジオストックに逃げ込め
  たのは駆逐艦以上の艦艇はただ2隻のみ。 これに対し、日本側の損害は駆逐艦1隻大破、

  水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すれど無しという、ほぼ無傷といっていい軽傷であった。
  
日本海戦は恐らく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であった。
   最新鋭戦艦(大型で鈍足の艦)4隻を擁し世界最大・最強レベルと思われていた巨大艦隊
  が日本海戦で忽然と消滅した事実は、日本の同盟国イギリスや仲介国アメリカすら驚愕させ

  た。 またこの大敗が反ロシア帝政の植民地や革命檀を大いに活気図桛やがてロマノフ王朝

  倒壊につながった。

() サンフランシスコ講和条約と独島
 1)サンフランシスコ講和条約と韓国
   韓国はサンフランシスコ講和条約の当事国出はない。 韓国が当事国となることについて
  は、アメリカを含む連合国にはんたいされた。

 2)サンフランシスコ講和条約以前の関連文書
   日本は、1945年8月14日無条件にポツダム宣言を受け入れ、8月15日に降伏文を発送、
  月2日ミズリー艦上で降伏文書に署名した。 

   日本の降伏文書を接収して連合国は東京に連合国最高司令部(GHQ)を置き、日本の戦
  後処理問題に取り組むことになった。 ここにおいて「日本降伏後のアメリカの初期対日政

  策」、
19451116日付「日本占領後の管理のための連合国最高司令部に対する降伏後初
  期の基本指令」、「連合国の日本占領の基本目的と連合国によるその達成方法に関するマッ
  カ
ーサー元帥官下部隊に送る訓令」等が作成される。 しかし、このような指令又は訓令は
  、
独島をどのように処理するかについての明白な見解を示すものではなかった。
 3)サンフランシスコ講和条約草案の作成と日本側の努力
    1947年からアメリカを中心とする連合国は戦後の日本との関係を再編成するための講和
  約案を作成するが、この条約に領土条項が含まれる。 
1947年3月201日付の最初の案では、
  第1条に日本の領土、第2条と第3条に中国とソ連に返還される領土、第4に韓国に返
還さ
  れる領土条項が含まれている。 これに拠れば、独島と済州島、巨文島、鬱陵島を含む、

  国沿岸の全ての島々が韓国領土として規定されている。 独島を韓国領として認めたこの

  うな内容は
1947年8月5日付、1948年1月2日付、19491013日付、194911月2日付
  の一連お文書において変わることはなかった。

   ところが、そのようになっていることを確認した日本は当時の駐日政治顧問だったシーボ
  ルトを動かして、
19491114日、国務省に電文を送り、次のように建議させる。 即ち
  リアンクール岩について再考を願う。 この島に対する日本の主張は久しく正当であるよ

  に思われる。 安保の面において、この島に気象又はレーダー基地と建設することも考慮

  きる」と勧めたのであった。 そして
1119日には「以前から日本が領有していた。 韓
  寄りの島々の処理に関連して、リアンクール岩(竹島)を第3条(案)で日本に属するも

  と明示する事を建議するする。 この島に対する日本の主張は久しく正当であるように思

  れる。 この島を日本沿岸の島でないことはこんなんだ。 安保の面において、この島に

  象又はレーダー基地と建設することがアメリカの国益にもなる」という書面意見書が国務

  におくられたMのである。

   シーボルトのこの嫌疑が反映され、194912月8日付の草案では独島の日本の領土に属
  るものとして記述されるようになる。 ところがそれからわずか
11日後に作成された1219
  日草案は
12月8日以前の草案の記述にたちかえって、再び独島が韓国の領土と記述されたが
  、さらにその次に作成され
1950年1月3日の草案では再び日本の領土として記述されるよう
  になるのである。

 4)韓国側の努力
   韓国は、対日講和条約案に韓国の意見を盛り込む必要があると考え、①韓国を連合国の一
  員として明示し、②ポーランドがベルサイユ条約に署名した如く、韓国も対日講和条約に署

  名しなければならない。 ③日本が国際連合へ加入する場合は韓国も加入する。 ④在日韓

  国人の地位を連合国民として規定すること、⑤対馬は韓国に返還されるべきで、⑥韓国はい

  ずれの太平洋安保制度にも入れるべきである。 ⑦韓国と日本の間に決められたマッカーサ

  ーラインは条約の中に含まれなければならない。⑧韓国内にある全ての日本人の資産に対す

  る占有権を認め、⑨日本にある韓国人の資産を取り戻せるように連合国と同等の権利を与え

  るべきで、⑩韓国は国際司法院の当事者となるべき。⑪連合国の具体的一員として入れられ

  るべきである、という
11項目の要求をした。
 5)サンフランシスコ講和条約
   講和条約の草案作成の過程において、韓国も日本もそれぞれ独島(竹島)を自国の領土と
  して明記するようはたらいたが、結局両方とも失敗した。 アメリカはは独島(竹島)を日
  本の領土と明記せず、また韓国に対しては韓国の領土でないという立場をとった。

(6) 韓国の実効的支配と独島
 1)「決定的期日」と独島
   決定的期日とは、領土紛争において「紛争の実質的事実が発生した時期の終点」と定義さ
  れる。 即ち領土紛争事件で紛争当事者が提示する証拠の中で一定の時点以前の事実は考慮

  の対象になり、その時点以降のものは争点に何ら影響をあたえられないとして境界または基

  準とする時点を意味する。 この決定的期日は、占有する側の占有理由の正統性より現在占

  有している事実が有利に作用するという不公正が存在するために設けられている。

   第1に、日本が島根県告示によって独島を編入し領土取得の意志を表示したと主張する
   1905
年2月22日である。 この処理で韓国の独島領有権は明示的に不定されたからだ。 も
  しこの日が決定的期日として採択されるならば、編入以前の独島が無主地であったか否かが

  主要な争点となる。 即ち、韓国にとって、
19058年以前から独島を実効支配していたかと
  う証拠を探すことが必要となる。

   第2に、日本の領土を確定したサンフランシスコ講和条約が締結された1951年9月8日
  想定される。同条約第2条9項で「日本国は韓国の独立を承認し、済州島、巨文島、鬱陵

  を含む各国に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定されているが、この

  項に対する韓日両国の解釈は相違なる。 これにより、この条項に対す解釈が国際司法機

  に要請されることがあるならば、条約の締結日が自動的決定的期間となる可能性が高い。 

 2)実効的支配と独島
   韓国にとって独島は鬱陵島より遠い無人の岩礁だった。 だから独島は、航海の時の目印
  になるような島ではなかった。 いかも耕作地として求めのあったしまでもなかった。 反

  面、日本にとっては、隠岐の島から鬱陵島に渡航する海道の真ん中にある島だったので航海

  の目印にされたりした。 また鬱陵島での漁獲がすくなかった時には独島の近くが格好の漁

  労の場所となったりした。 このように
17世紀の韓日間の漁労形態だけをみれば、日本が独
  島を実効的に支配していたかに見えるかもしれない。
   ところで、日本の鬱陵島渡航の契機となるのは倭寇の侵奪から住民を保護しようとした15
  世紀初めの朝鮮の「住民刷還政策」である。 日本の鬱陵島渡航は、朝鮮の政策によって空

  島になった隙を狙っての渡航だったのである。 それは不法で、原因無効の行為である。 
  そ
のような経緯において島を認知し利用していたから、日本の独島独りようが合法的な実行
  支
配だったとはいえないのである。 これに対して日本側は、朝鮮の「住民刷還政策」が領
  土
権を放棄する政策であったという。 朝鮮が放棄した領土を利用して原初的権原を取得し
  た
と主張するのである。 
   しかし、「住民刷還政策」は領土を放棄する政策ではない。 ただ行政管理上の便宜を図
  っ
た政策であって、その対象は鬱陵島だけではなかった. 他の外洋にある島々や東北の廃
  四
郡地域においても同じ政策がとられていた。 その後、適当な時期に再び住民を元の場所
  に
移住させるという政策だった。 また、住民刷還をおこなっている期間中は定期的に官吏
  を
派遣して異常がないように監視していた。 したがって、領有権それ自体を放棄したとい
  う
のは完全にまちがつた主張である。 なにより、1693年から1696年までの間に、日本人が
  竹嶋と松島にこっそり入ってきて漁労をするとの話を安龍福から聞いて朝鮮政府は、断固と

  した態度で彼らの渡航を禁止するよう日本政府に求めた。 つまり、朝鮮が領有権を放棄し

  たわけでないということは明らかである。 このように、領有権をもっている側が領有権放

  棄でないと言っているのに、領有権放棄だと言い返すことこそ侵略的根性の発現だと言わざ

  るを得ない。
   しかしよく知られているように、独島は人の住めない岩礁だった。 あえて上陸をして
  する必要など全然なかったのだ。 もし独島が陸地と鬱陵島の間に位置していたならば、

  陵島捜討の際、その近くを通り過ぎることもあっただろうが、前述のように独島は鬱陵島

  り外洋にある。 また危険をおかしてまでわざわざ渡海するほどの価値のないしまだった。
 
  したがって、鬱陵島から眺めるだけの主権行使にとどまったのであった。 そのご、官纂
  地
理書に記載することで領有意志を明らかにし、1900年には勅令第41号をもって所属する郡
  及び管轄機関を明示した。 これで主権行使は十分だといえる。 同じことは
1933年の東
  グリーンランドをめぐる紛争においても確認されたことである。 常設国際司法裁判所は、

  東部グリーンランドのような荒廃した無人の地帯では」「主権者として行動しようとする意
  志」
は「国家機能の現実的行使及び発言」の程度が低くても十分だとして、ノルウェーの無
  主地
占有宣言を認めず、デンマークの勝利を認めた。
 3)韓国も実効的支配
   韓国の、日本の不法的編入処置があった1905年以降からは、国権喪失の混乱期をへて日
  の植民地支配下に置かれるようになったために、独島に対する実効的支配はほとんどでき

  かった。

   それから1945年の光復、そしてそれに続く米軍の軍政下であった1947年8月16日、朝鮮過
  度政府の民生長官・安在鴻の指示により、韓国山岳会が鬱陵島・独島学術調査団を立ち
上げ
  て鬱陵島と独島の調査をしたことがある。 彼等は独島を実地調査した後、「鬱陵郡・南

  ・独島」という標柱をたててかえった。 そして、8月
20日、鬱陵島に居住する85歳の
  ン・ゼヒョンから独島は韓国領土だという陳述書をもらって帰ったのであった。

   光復の前から独島近海で漁労をしていた鬱陵島の住民は、光復後も何等制限などを受ける
  ことなく平和に漁労をし続けていた。 ところが
1948年6月30日アメリカ空軍機の独島で
  爆撃訓練で
30余の人がその犠牲になるという事件が起った。 1950年4月25日、韓国政府は
  、犠牲者にたいする賠償金の支払いをうけた。 
1951年6月8日慶尚北道知事ゾ・ゼチョン
  が犠牲者のための慰霊碑をたてた。

   韓国戦争(朝鮮戦争)のっさなかであった1952年1月18日には「隣接海岸の主権に関す
  大統領宣言」を発表して、独島の韓国領土たることを世界にしらしめた。 

   1952年9月18日、韓国山岳会主催の第2次鬱陵島・独島学術調査のための調査団が派遣
  れた。 だがアメリカの爆撃演習により独島に上陸できずに帰って来た。 韓国山岳会は

  のことを韓国政府にしらせる。 この知らせを受けた韓国政府は、
19521110日付で、
  事件に」関する資料提供と再発防止を要求する内容の公文書を駐韓アメリカ大使に送った。
  
これに対して、同年12月4日、独島演習地として使用しないという内容の回答書が駐韓アメ
  リカ大使より送られてきたことがある。
   一方独島では、韓国の漁師と日本の漁師が衝突する事件が起こる。 すると当時鬱陵島に
  住んでいたホン・スンチルは民間人で独島義勇守備隊を組織し、
1953年4月20日、独島に
  陸して国旗掲揚台を設置、
21日の朝には韓国旗掲揚式を挙行した。 独島義勇守備隊は4
  にわたって日本警備艇の独島接近を撃退した。 独島義勇守備隊による独島の実行的占有

  、
19561225日に国立警察がその任務を引き継ぐまで続いた。
   また、1953年6月25日、27日、28日の3回にわたって、日本海上保安官、島根県警察官ら
  による独島への上陸があった。 そして「韓国領土」と書いてあった標柱と慰霊碑を破
壊し
  、「日本領土」という標柱をたてたのであった。 これに対して
1953年7月8日、韓国国会
  は「日本官憲が立てた標柱を撤去し、更に今後、再びそのような不法侵入がおこらない
よう
  に日本政府に厳重抗議すること」という内容の抗議文を採択した。 

   韓国政府は、日本の3回に渡る侵犯に対し、同年8月4日付の抗議口述書を日本政府に渡
  した。 また、同年
713日付の日本側の口述書にたいして9月9日付の反駁はんぱく(反論
  )
口述書を渡し、同年9月17日の日本漁船の独島領海侵犯に対しては同年9月26日付で抗議
  口述書を渡した。 同年5月
23日と28日、日本の武装船(海上保安庁巡視船)が独島領海
  侵犯した事件に対しては同年6月
14日付の抗議口述書をわたした。
   韓国の交通部は、独島近海を航海する船舶の安全を考え、独島に灯台を立てた。 そして
  、
1954年8月18日に「韓国政府は、韓国東海にある韓国の領土に灯台を設置した。 同灯台
  において
1954年8月1012時に初点灯式を行いったことを通告でき、光栄に思う」という内
  容を駐韓各国公館に通報し、同年9月
15日には日本政府にも通報した。 また、8月23日、
  灯台を確認するため日本の武装船舶(巡視船)が侵犯した。 これに関して8月
30日に抗議
  口述書を渡し、灯台撤去を求める同年8月
27日付の日本外務省の口述書にたいしては、同年
  9月1日付の反駁口述書をわたした。

   1954年9月1日、韓国政府は、独島の風景を入れた3種の切手を発行した。 そして1954
  年9月
25日、独島問題の国際司法裁判所への提訴を提案してきた日本にたいして、「独島は
  日本の韓国侵略により
1番最初に犠牲になった地である。 解放とともに独島は再び我々の所
  にもどった。 独島は、韓国の独立の象徴である。 この島に手を付けようとする者はすべ
  て、漢民族の激しい抵抗を受ける覚悟をしなければならない 日本の独島奪取のたくらみは
  観光を再侵略する意図だと理解する」と表明した。 

   19611225日、日本外務省から、韓国政府機関の独島から即刻の撤収と全ての建物の撤
  去を求める口述書が送られてきた。 これに対して在日韓国代表部は同年
1227日付の口述
  書をもって反駁した。

   1962年9月3日に開かれた韓日国交正常化のための正常化予備会談第4回会議において、
  日本外務省の伊関佑次郎アジア局長による独島問題への言及があった。 これに対して主席

  代表だったベ・イハンは、独島問題は韓日会談の議題ではないからその問題は国交が成立し

  た後に議論しようと」いって話を中断した。 同年
1020日東京で大平正芳外相とあった
  鐘泌中央情報部長は、独島問題の国際司法裁判所への提訴を求める外相に「この問題と韓

  会談とは別個の問題である。 国交が正常になった後に、余裕をもって話あおう」といっ

   て断った。 1965年4月13日に開かれた第11回次韓日主席代表会談においても、韓国側は
  本側の独島についての話を聞きず「韓日基本条約」とその他の協定への署名が行われた
1965
  年6月
22日の朝「日本に独島領有権を渡さない限り条約に署名しない」という佐藤栄作総理
  の圧力にもだんじてくっしなかった。
   1965年3月から、鬱陵島の住民チェ・ジョンドク氏が水産物の採集のため、道洞の漁村契
  の一種共同漁場である独島に常住するようになり、
1968年5月には宿舎が建てられた。
  
 19811014日には独島を住所地として住所登録をし、1987年9月23日に死亡するまで、
  独島に居住した。 その後、彼の義理の息子であるゾ・ジュンギ氏が
19877月8日から 1994
  年3月
21日に江原道東海市に移転するまで独島で居住し、漁労活動をした。 
   また、キム・ソンド夫婦が19911117日~2006年まで、独島で居住した。
   19911117日独島は、天然記念物「海藻類保護区域」に指定された。
   19991210日名称を「独島天然記念物保護区域」に変更・指定して嶋そのもの全体 が天
  然記念物となった。
   1991年2月、鬱陵島と独島の間に電話ケーブルが埋設された。
   199711月東島と西島に接岸施設か完成した。
   2000年6月インターネット衛星基地が設置された。

                   5.竹島に関する日本の歴史感
) 安龍福英雄となる
  日本と朝鮮では、過去の歴史に対する考え方、記録に残す際の姿勢が違った。 それは、鬱
 陵島問題を記録した、対馬と朝鮮側の両者の文献においても指摘することができる。

  対馬藩では享保11(1726)、越克明に「竹嶋紀事」の編纂を命じた。 同じころ朝鮮側でも
 粛宗時代の記録が編纂された。 
1728年に刊行された「粛宗実録」である。
 しかし、「粛宗実録」の編纂姿勢は、「竹嶋紀事」とは根本的に違っていた。 「竹嶋紀事」
 が、国書や書簡等の史料を年代順に配列することで、あくまで忠実に過去の歴史を再現しよう

 としているのに対し、「粛宗実録」は政治的な思惑で史料が取捨選択されている。 編纂時に
 時
の政権の政治姿勢が反映されており、記事自体を歴史の事実とすることが出来ないのである
 。 
重要なのは、事実そのものよりも、行為や発言に対する評価なのである。 史料が先か、
 歴史
認識が先かと言えば、朝鮮では歴史認識が優先していたのである。
 朝鮮で鬱陵島問題に関する本格的な歴史が編纂されたのは、安龍福の密航事件から約50年後、
 「竹嶋紀事」の編纂から遅れること約
20年後の、1745年7月のことである。 英狙の命を受
 た李猛休が、禮曹(外交や儀礼を担当する部署)の記録を整理して成った「鬱陵島争界」が

 れである。 李猛休はその中で「倭、今に至るまで、復また、鬱陵を指して日本の地となさ

 。 皆龍福の功り」と記し、安龍福を評価している。 日本が鬱陵島の領有権を主張しなく

 ったのは、みな安龍福の功績だ、というのである。

 しかし、それは歴史の反面にすぎない。 南人派が政権を取っていたころの安龍福は、国禁
 犯して鬱陵島にわたった重犯罪者であり、少論派が政権を掌握した以後でも、その処遇をめ

 って「情実派」と「遵法派」とに分かれて争ったことは「粛宗実録」にも記録されている。 

 江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じたのは、対馬藩が幕府に働きかけた結果だとする、対馬に渡
 った二人の訳官の報告も残っている。 にも拘わらず、李猛休は「鬱陵島争界」にそういう経

 緯は一切記録していない。 記録しているのは、「此れまた日本の意にあらず。 馬島倭、詐
 を
聘す」という「対馬藩の陰謀」であり、」その陰謀を暴いた安龍福にたいする評価のみであ
 る。
  李猛休は、「対馬藩の陰謀」とそれを暴いた「安龍福の功」という歴史的認識に基づいて、
 初
めから鬱陵島問題を見、その認識に合わない記録は捨ててしまったのである。
() ある朝鮮史書の改竄
  韓国は、竹島は「歴史敵にも」「国際法的にも」韓国固有の領土で、それは「明々白々」な
 事
実である、という。 その際、必ず引き合いに出される文献が、18世紀後半に成った「東国
 文
献備考」である。 その「東国文献備考」の「輿地考」で鬱陵島に触れたくだりに、次のよ
 う
な分註がある。
  輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。 于山は即ち倭の所謂松島なり。
 韓国は、この分註から于山島うんざんとうとは日本でいう松島(現在の竹島)である、その于山
 島は、鬱陵島が于山国と称していた時代からすでに鬱陵島の属島だった。 于山国は
512年に
 羅の領土に編入されたのだから、今日の竹島は「歴史的にも」韓国固有の領土である、とい

 解釈をするわけである。
  この解釈を土台に韓国側は、「東国文献備考」より古い文献や古地図、例えば15世紀に成立
 した「世宗実録地理志」(
1454)や「東国輿地勝覧」(1481)から于山島の名を探し出しては
 、
それを機械的に竹島(独島)に読み替えて、領有権を主張する歴史的根拠としてきたのであ
 る。
 「世宗実録地理志」等は、日本政府が今日の竹島を固有の領土として主張する際に論拠とす
 「隠州視聘合紀」(
1667)よりも2百年前後古い。 日本側よりも古い文献にその名がある
 だから、竹島の歴史的権原は韓国側にある、と言うのである。 しかし、それは于山島が鬱

 島の属島で、かつ日本でいう松島(今日の竹島)と同じであるとと、いいかえれば「輿地考」

 の分註が正しい、ということが前提になってくる。 
  この前提こそが問題なのである。 于山国の彊域きょういき(範囲)は、于山国の新羅編入を
 記
す「三国史記」の記事で「地、方一百里」と明記しているように、鬱陵島一島のみで、そこ
 に
属島があったとは書かれていない。 鬱陵島と今日の竹島は92㎞も離れているので、今日の
 竹
島は于山国にはふくまれていないとするのが「三国史記」の記述にそった読み方である。
() その後の鬱陵島
  「東国文献備考」が刊行されると、申景溶らが改竄した分註は官撰の「萬機要覧」や「増補
 文献備考」等に無批判に引用されるなど1人歩きをはじめ、朝鮮社会には「于山島は日本の松

 島である」とする常識が拡散していった。
  さて、近代に入ると、鬱陵島は再び日朝の軋轢の場となった。
 明治9年(1876)「日朝修好条規」締結、明治16年(1883)に「日朝通商章程」が調印さ
 ると、朝鮮半島との往復が容易になると、日本人商人等が海を渡るようになった。
  1881年、5月22日鬱陵島を巡察していた捜討官が無断で木材を伐採する日本人の存在を確
 し、中央政府に報告した。 朝鮮の外交機関である統理機務衙門がもんは、高宗から鬱陵島踏

 の裁可を受けて、副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命し、日本政府に抗議した。 これに

  対し、日本政府は明治16年(1883)3月、鬱陵島への渡海を禁じ、9月には島から日本人254
 人をつれもどした。 一方、高宗は、李奎遠に次の3点の指示を与えていた。
  第1点は、鬱陵島から、その傍らにあるといわれる松竹島及び于山島までの距離を明らかに
 すること、第2点は、鬱陵島で獲れる産物を報告すること、第3点は、将来、鬱陵島に村落を

 設置することができるかどうか判断し、必ず報告書に地図を添えて復命することであった。
  朝鮮社会には「于山島は日本の松島である」とする常識が拡散したが、その常識と、現実の
 地理についての知識は別物である。 于山島が実際どこにあるかは、当時、だれも関心をもっ

 て調査していなかったのである。
  さて、1882年4月29日、3隻の船に分乗した李奎遠ら一行百余人は、江原道丘山浦を出帆
 た。 4月
30日午後6時到着、その翌日から5月11日までの10日余り、李奎遠は精力的に島の
 内部と周辺の属島を踏討した。
  6月4日李奎遠は調査報告書とともに、鬱陵島の内部を描いた「鬱陵島内図」、鬱陵島とそ
 の
属島を描いた「鬱陵島外図」の2種の地図を、政府に提出した。
  高宗が調査を命じた、于山島と松竹島については、「鬱陵島検察使日記」によれば、李奎遠
 は
「松竹于山等の島、僑寓の諸人、皆傍近の小島をもってこれに当たる」と報告した。 この
 報
告は極めて重要である。 なぜならば「鬱陵島外図」に描かれた属島の諸島には、松竹島や
 于
山島の名は記されておらず、「島」とされているのは「竹島」と「島頂」の二島だけで、他
 はい
ずれも「巌」とされた岩礁だからである。 このことは于山島と松竹島はその「竹島」と
 「島
頂」の何れかだったことを示している。 
 事実、18世紀中期に描かれた「鬱陵島図」を見ると李奎遠の「鬱陵島外図」で「竹島」とす
 には「所謂于山島」の注記が施されている。 更に
1831年、鬱陵島の捜討官として島に赴いた
 朴錫昌等が作成した「鬱陵島地図」でも、李奎遠の「鬱陵島外図」で「竹島」とする島「

 于山島
」と但し書きがなされている。
  「鬱陵島検察日記では「竹島」は「雑卉腐生し、高さ数百丈と為す。 広さ数之地と為し、長
 さ五六百歩となす」と記され「島頂」は「稚竹叢有」と描写されている。 この記述と「鬱陵
 島外図」に描かれた「竹島」と「島頂」の位置関係からすると、「竹島」は今日の竹嶼にあた
 り、「島頂」は観音島であったことになる。

  李奎遠は今日、日韓の争点の地となっている竹島(独島)にはいっていない。 現に「 鬱陵
 島検察使日記」や「鬱陵島外図」には、今日の竹島は描かれておらず、その工程からしても李
 奎遠が竹島の存在に気付いた形跡はない。 

   李奎遠自ら「鬱陵島検察使日記」のなかで、鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)に登り、
 「四望し、海中の嚮(先)に一点の島嶼の見形無し」と記している。 今日の竹島を目撃して
 いなかったのである。

   この事実は極めて重要である。 李奎遠の調査では、于山島は鬱陵島の近傍の「竹島」つま
 り「竹嶼」であり、今日の竹島ではなかったことがはっきりした。

   明治33年大韓帝国は1025日、鬱陵島を「鬱陵郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。 
 その際、「勅令
41号」を発布し、鬱陵郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島、石島」と定めた。
  しかし、この「勅令
41号」には、属島の緯度や経度まで明記されておらず、竹島と石島が実
 際にどの島を指すのか、正確さをかいでいた。 

   そのため昭和27年(1952)、日本と野間に今日の竹島をめぐる領土問題が起こると、韓国政
 府が「勅令
41号」の石島を現在の独島(竹島)とし、領有権を主張する根拠の1つとすること
 になる。 石島の「石」ソクの発音が独島の「独」トクに近いことから、石島は現在の独島に違
 いない、というのがその理由である。 

   しかし、兆銭側で今日の竹島を独島と呼称するようになるのは1904年以後で、それまではリ
 ャンコ島と呼んでいた。 「リャンコ島」という名は、
1849年に西洋人として初めて今日の竹
 島を発見したフランスの捕鯨船リアンクール号に由来する。 これ以後、竹島は従来の松島に
 加え、リアンクール島、「リャンコ島」が通称となった。

   あくまでも韓国が石島を独島とするなら、その前にリャンコ島をなぜ石島と表記下のか実証
 する必要がある。 「勅令
41号」が発布される以前に独島がリャンコ島と呼ばれていたか歴史
 的事実を無視して、石島を独島とするのは、牽強付会の説である。

() 李承晩ライン
  1945年8月15日の日本の敗戦は、朝鮮半島にとっては植民地からの解放だった。 しかし、
 独立はすぐには訪れなかった。 
1216日から戦後処理問題を話し合う米・英・ソ連三国の
 相会談がモスクワで開催され、同月
27日、朝鮮半島に関しては、米・英・ソ連・中国の4か
 による最高5年間の信託統治が行われることが決定
した。 植民地統治から脱したはずなの
 、今度は信託統治を受けることになったのである。

  当然、反対の声は上がったが、折からの米ソの対立で、朝鮮半島も三十八度線を境に二分さ
 れ、事実上、朝鮮半島の南部はアメリカの軍政下に置かれた。 竹島の運命もまたその時代の

 流れの中にあった。 
  竹島は昭和21年(1946)年1月29日の連合国軍総司令部(GHQ)「訓令第677 SCAPIN
  677
)」で日本の領土から除外され、同年6月22日、日本列島と朝鮮半島の間に引くれた「マ
 ッカーサーライン」でも朝鮮側に含まれた。

  韓国側が独島(竹島)の帰属に関心をもったのは、米国極東委員会が1947年7月11日に対
 政策を発表した際、日本側が竹島を日本領として主張したことが伝えられてからである。 
  そこで韓国では、同年8月16日から2週間、韓国山岳会主催による第1次学術調査団の独島
 調査が行われ、独島に対する関心がにわかに高まった。
  しかし、朝鮮半島情勢は不安定だった。 1948年8月15日、南に大韓民国(韓国)政府が
 生すると、9月9日には北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、
1950年6月25
 には
38度線を越えて北朝鮮が韓国に侵攻した。 いわゆる朝鮮戦争の勃発である。
 その動乱の最中、竹島は日本領に復帰した。
() 争点の整理
 1)「見える、見えない」が問題ではない。
   鬱陵島の帰属問題以来、約三百年に及ぶ日韓の歴史には、誤解と誤謬が錯綜しており。 
  ま
た一面、過去の歴史を通観すると、日韓の間にはほとんど対話らしいものがなく、そのた
  め
歴史の理解が一方的になり、その独善的な歴史解釈がさらに客観性を欠いた歴史認識を再
  生
を再生産してきたことである。 とはいえ、ささやかではあるが論争はあった。
   まず、韓国側の主張は、これまでの記述を要約すると次のようになる。
   …申景濬による「東国文献備考」「輿地考」の分註では、于山島を日本の松島(竹島)と
  し
ている。 その分註は安龍福の証言より約40年も前の「輿地志」を引用したものである。
  し
たがって、于山島を日本の松島とするのは、安龍福のみならず、当時の一般の認識だった
  。 
当然、それより古い文献である「東国輿地勝覧」(1481)や「世宗実録地理志」(1454
  )に出
てくる于山島も今日の竹島を指している。 それらの地誌は、朝鮮政府が国家事業と
  して編
纂した官撰の物だから、そこに記されている以上、朝鮮政府が于山島イコール松島を
  朝鮮の
領土としていたのは確実である。 また、「東国輿地勝覧」によれば、鬱陵島とその
  属島の于
山島を含む于山国は、512年に新羅に編入されているので、じつに6世紀から竹島は
  朝鮮領
あった…
   これに対して日本側は、韓国側が依拠した「東国文献備考」の分註が、申景濬によって改
  竄されていた事実には気づいていなかった。 気づいていれば、この分註が于山島を日本の

  松島とした安龍福の事実無根の証言に依拠している以上、もっとストレートに韓国側に藩論

  できたはずであった。 だが、今日にいたるまでそれができなかった。
   そこで日本側は、韓国側に対抗するために、「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」に記
  さ
れた今日の竹島だったかどうかを問題にしたのである。
   「世宗実録地理志」や「蔚珍県条」には、于山島のことが次の様にきされている。
   于山武陵二島、県の正東の海中に在り。 (分註)二島相去ること遠からず、風日清明な
   れば即ち望み見るべし。
   この記述を見ると、于山島と鬱陵島(武陵島)は、蔚珍県の正東の海上にあって、二つの
  島の距離は「遠くない」ことになる。 しかし、于山島が竹島だとすると、現実には鬱陵島

  と竹島は
92㎞も離れており、「遠くない」と」する表現は不自然である。 そこで日本は「
  せ
宗実録地理志」に記された于山品は竹島ではなく鬱陵島の近くの竹嶼であるとした。
   また、次に掲げる「東国輿地勝覧」「蔚珍県条」の記述にも、不審な点がある。
  于山島、鬱陵島(中略)。[分註]二島は県の正東の海中にあり。 三峯岌嶫として空を撐え
  、
南峯やや卑し。 風日清明なれば即ち、峰頭の樹木及び山根の沙渚、歴歴見るべし。 風
  便
なれば即ち二日にして至るべし。 一節に于山鬱陵本1島。 
   この記述には、于山島の名は記されているが、その于山島を説明した記述は見当たらない
  、
という問題点がある。 それに于山島を竹島とするには無理ある。 なぜなら、分註には
  快
晴の日に「峯頭の樹木と山根の沙渚が歴々見える」とあるが、岩礁からなる竹島には、砂
  浜
や樹木はないからである。 さらに、「于山と鬱陵は本一島」とする一説が併記されてい
  るが、

   この一説に従えば、于山島と鬱陵島と同島異名となり、于山島を竹島とそる韓国側の主張
  は成立しなくなる。

   こうした日本政府の指摘に対して、韓国側が見えた反撥は熾烈なものだった。 「東国文
  献備考」の分註を絶対的なものとして諸々の文献を解釈するため、彼等にとって于山島は竹

  島に違いないからです。

   そこで日本政府側は苦肉ともいえる策にでた。 外務省調査官の川上健三氏が、「東国輿
  地
勝覧」の「歴歴見るべし」等に注目し、鬱陵島から竹島が「見えない」ことを計算式で証
  明
して、韓国政府の主張を崩そうとしたのである。 川上健三氏は著書の「竹島の歴史地理
  学
的研究」(19665)で、鬱陵島の低所からなら竹島は「見えない」ことを計算式で証明し
  、鬱
陵島からは竹島が「見えないので」、「東国輿地勝覧」等から見えるは、鬱陵島から見
  た竹島
の記述ではないとした。 
   これにたいして韓国の李漢基氏は、その著「韓国の領土」(1969)で、鬱陵島から竹島が
  「見える」ことを証明した。 川上氏が低所からは竹島が「見えない」としたのに対して、

  高所からなら「見える」としたのである。 
   確かに、鬱陵島の高所からは年に数回、僅かに竹島を眺望することが」できるため、この
  「見えない」「見える」問題は、一応、決着がついた形になった。 以後、「世宗実録地理
  志」
と「東国輿地勝覧」の「見える」は、鬱陵島から竹島が「見える」いみとされ、韓国側
  の文
献解釈が正しかったことになってしまうのである。 
   しかし、それは、文献批判とは何ら関係のない、恣意的解釈なのである。 なぜんら、17
  世紀末、鬱陵島の帰属をめぐり朝鮮政府と対馬藩が争った際、その「東国輿地勝覧」の「見

  える」は、朝鮮半島から鬱陵島が「見える」と解釈され、鬱陵島の領有権を主張する朝鮮政

  府の根拠にされていたかれである。
   それでは、なぜ約三百前には、朝鮮半島から鬱陵島が「見える」と解釈されたのか。
   それは、朝鮮時代に編纂された地誌には、当然、編纂方針と言うものが存在し、それに即
  した読み方があったからである。 

   朝鮮時代の政治体制は地方分権的な日本とはちがって、中央集権だった。 地方の統治を
  滑にするには中央政府で各地の事情を正確に把握する必要があり、地方の状況を写した地

  の存在が不可欠だった。
   そのため朝鮮では建国とともに、地図や地誌の編纂が始っていた。 1454年になった「世
  宗実録地理志」や
1481年になった「東国輿地勝覧」の編纂事業がそれである。 その際、
  体の記述の統一を図るために、「規式」と呼ばれる編纂方式が定められていた。 「世宗実

  録地理志」の定本は「新撰八道地理志」という各道の地誌の合冊だが、その一つ「慶尚道地

  理志」の編纂に関わった慶尚道観察使の河演は、次のように編纂の経緯を伝えている。
   『 世宗6年(1424)、春秋館から各道に対して地誌に関連する文献の収集が命じられ、さ
   らに翌年には、各地の名号や沿革に始って、十二に及ぶ調査項目が指示された。 調査に

   は「規式」と呼ばれる基準があり、道よりも下位の行政単位である州、府、県では、その

   「規式」に従って調査が実施された。                      』
   これは鬱陵島のような島嶼の場合も同様であった。 例えば「慶尚道地理志」では島嶼の
  「規式」は次の様なものであった。
   『諸島は、陸地より相去る水路の息数。 及び島中、前に在り手人民の接居、農作の有無』
   これによると、「諸島」が地誌に記載されるときには、陸地からの距離を明記することが
  求
められていた。 慶尚道の晋州牧が所管していた興善島を例に、事実を見てみよう。
   『 1、海島、州の南、興善島。 周廻六十一里、水路十一里、陸地より官門に至る三十八
   里。 田畑六十七結八十七負七束。民家十七戸。                 』
   島嶼は陸地からの距離と、島を管理する地方官庁からの方角を記すことが原則とされてい
  た。 したがって「世宗実録地理志」や「東国輿地勝覧」の「蔚珍県条」で、「県の正東の
  海
中にあり」とあるのは、鬱陵島と于山島が管轄する蔚珍県の東の海中にある事実を示すも
  の
で「風日清明なれば即ち望み見るべし」というのは蔚珍県から鬱陵島までは「見える」距
  離
にあることを示している。
   つまり、「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」の「見える」を根拠に、鬱陵島からは独島
  (竹島)が見えるので、独島は韓国領であるとする今日の韓国側の解釈は、「規式」に従っ
  て
編纂された地誌の資格を無視した、恣意的解釈と言わざるをえないのである。
 2)我田引水的文献解釈
   日本側では膠着状態に陥った竹島問題お打開するため、有志による研究がすすめられた。
  まず、島根県職員お田村清三郎氏が「我が国民の竹島問題お理解がすすめられ、誤りのない
  与論の形成に寄与することができ」るようにと「島根県竹島の新研究」(
1965)を著わした
  。 
続いて外務省調査官の川上健三氏は昭和41年(1966)8月「竹島の歴史地理学的研究」
  を
刊行して、日本側の立場を明らかにしている。 更に昭和43年(1968)大熊良一氏が「竹
  島史稿」を出版した。
   これにたいして韓国側の研究は、田村清三郎氏や川上健三郎氏らの研究を批判する形をと
  ったが、そこで竹島問題はますます混迷の度を深めることになった。 韓国側が新たな「歴

  史認識」で文献を解釈し始めたからである。
   日本政府が竹島の歴史的権原を示す文献としている出雲藩の斎藤豊仙が編術した「隠州

  聴合記」(
1667)に対しても、韓国側は別の解釈を示した。 「隠州視聴合記」の「国代
  」には「日本の乾(北西)の地、此州を以て限りと為す」と記されちることから、日本政

  はこの「国代記」にある「此州」を鬱陵島のことと解釈し、それより東にある竹島は当然

  本領であると解釈した。 ところが、ところが、「韓国の領土」(
1969)の著者である李漢
  基氏は、「(隠州視聴合記を)精読すると、隠州(隠岐)を日本の乾(西北限界)としてい
  る
ことは分明である。 日本側は鬱陵島と独島が西北限界と誤読している」と主張したので
  あ
る。 さらに、慎鏞廈氏も「独島の民族領土史研究」(1966)で「此州」を隠岐島と解釈
  し
「日本側の史料は発掘者の意図とはことなり、鬱陵島と独島が高麗の領土であり、日本の
  領
土でないことを明白に示している」と決めつけたのである。
    しかし、両氏は「此州」が日本の北西限である理由を説明した最も重要な箇所を無視し、
  斎藤豊仙は鬱陵島を日本領としていた、とする日本の解釈を「誤読」としている。

   では、実際の「隠州視聴合記」の「国代記」にはどのように記述されているか、その概要
   次のとおりである。
   ① 隠州(隠岐島)は北海のなかにあり。(中略)
   ② 是(隠岐島)より南、雲州(出雲)美穂(保)の関によること三十五里。
   ③ 辰巳(南東)、伯州(伯耆)赤崎浦に至ること四十里。
   ④ 未申(南西)、石州(石見)温泉津に至ること五十八里
   ⑤ 子(北)より卯(東)に至りては、往くべき地なし。
   ⑥ 戌亥(北西)の間、行くこと二日一夜にして松島(現在の竹島)あり。 又一日の程
    にして竹嶋(現在の鬱陵島)あり。 (中略)此二嶋、無人の地。 高麗を見ること雲
    州より隠州を望むがごとし。
   ⑦ 然らば即ち、日本の乾(北西)の地、此州を以て限りとす。

   従ってこの論法からすれば、⑦に記された「此州」がどこの島を指しているのかは明白で
  ある。 隠岐島を起点に乾(北西)の方向にあって、最も朝鮮半島に近い「州(島)」とい
  えば、「国代記」のなかでは竹島(鬱陵島)の他にはない。 「此州」は、李漢基氏や慎鏞
  廈氏が主張する隠岐島ではありえない。
  3)「良心的日本人」とはなにか
    安永8年(1779)作成された長久保赤水の「日本輿地路程全図」という官撰地図があるが、
   韓国側から良心的日本人の1人とされている堀和生氏は「日本輿地路程全図」では「日本本
  土とその付属地にすべて彩色をほどこしているが竹島と松島は、朝鮮半島とともに彩色いて

  いない」ので「日本輿地路程全図」は鬱陵島と竹島を朝鮮領とみなして描かれたのだという
  。

    これは、崔書勉氏の説の踏襲であう。 ところが、実際に「日本輿地路程全図」を見ると
  、崔書勉氏の主張に根拠がないことがわかる。 日本の付属地で彩色が施されていないの

  、ウルルンドや竹島に限らないからである。 ウルルンドや竹島と同様、沖永良部島、青

  島、沖ノ島などにも彩色が施されていない。 しかも沖永良部島には「是より南百二十里、

  琉球国」とする付記があり、この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本領土

  として認識していたかどうかは彩色の有無だけでは判断できないということであった。
 
  もう一つ重要な事実がある。 それは長久保赤水の「日本輿地路程全図」に描かれた鬱陵島
  の右上に
高麗を見ること、猶雲州より隠州を望がごとし」という付記がある。 この事実から
  長久保は鬱陵島を日本領と認識していたことはあきらかで」ある。

 

 

 

 

参考文献

*史的検証竹島・独島     著者内藤正中、禁柄烈    株式会社岩波書店

*竹島は日韓どちらのもも   著者 下條正男       株式会社文芸春秋

 

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