京都と寿司・朱雀錦
(50)方広寺関連2・西南戦争
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                  A,征韓論
 1.大政奉還
 江戸時代末期の慶応3年1014日(186711月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治
天皇に政権を返上し、政権が幕府から朝廷に移動しました。 これが「大政奉還」である。

 江戸時代、徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には朝廷より将軍宣下があ
り、幕府が政治の大権を天皇から預っているという大政委任論も広く受け入れられていた。 幕
末、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における幕府との不一致により幕府
権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し大政委任の再確認を求めるようになった。 
文久3年(
1863)3月・翌元治元年(1864)4月にそれぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確
認が行われ、それまであくまで慣例に過ぎなかったものであった大政委任論の実質化・制度化が
実現した。 

 慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大
政」を朝廷に返上するものであり、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件であった。 しかし、
この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していた。
 慶喜は
1024日に将軍職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、幕府の廃止が公式に宣言される
のは
12月9日の王政復古の大号令においてである。

2.西郷隆盛の登場
() 8月十八日の政変(公武合体派のクーデター)
  幕末、幕府を倒し、天皇制復帰を目指す倒幕派と、朝廷の伝統的権威と、幕府及び諸藩を結
 びつけて幕藩体制の再編成をはかろうとした公武合体派の両派が対立していた。 
  文久3年(1863)は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりを見せた年であった。
 京
都には各地から尊王攘夷志士が終結し、「天誅(天罰)」と称して反対派に対する暗殺・脅
 迫行
為が繰り返された。 朝廷内でも三条実美や姉小路公知きんともら急進派が朝議を左右する
 よう
になり、5月10日を攘夷決行の日とすることを参内した将軍徳川家茂に約束させるに至っ
 た。

  5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃して攘夷を実行に移したが、他藩はこ
 に続かず、長州藩が欧米艦隊から報復攻撃を受けるに及んでも、近隣の諸藩は傍観を決め込

 のみであった。

  この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実
 
行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられ詔は8月13日に発せられたが。 
  8月18日島津藩主島津忠義の父として専権を振るっていた久光は、藩兵を引き連れて京都に登
 り、会津藩と共にクデターを起して尊攘派公卿を一掃、朝議を一変させて京都を公武派の
支配
 する地とした。 久光はその功をもって官位を与えて、朝議参与に任ぜられ、一橋慶喜
しのぶ 
 ・松平慶永よしなが・山内容堂ようどう・伊達正城むねなり・松平容保かたもりらと参与会議を構成し
た。 だ
 が久光が得意の絶頂にあったのもつかの間、公武合体派は内部崩壊し、逆に「薩賊会
さつぞくかいか
  ん
」と非難の声がたかまる。 西郷を嫌っていた久光であったが、この事態に対処
するには西郷
 の手腕に期待をかける途かなかった。

() 西郷隆盛島送りとなる。
  安政元年(1854)にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結
 した。
  その頃、米国総領事館タウンゼン・ハリスが、通商条約への調印を江戸幕府にせまっていた
 。 
しかし調印には朝廷の勅許が必要と言うことになった。 そこで老中堀田正睦が上京した
 。
 当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり
 、
元々攘夷委論者の孝明天皇から勅許を得ることができなかった。
  堀田が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858)4月、井伊直弼なおすけが大老に就任する。
 
井伊は勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。 水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川
 慶勝、福井藩主松平慶永らと連合した。 彼等は(条約調印自体は止むを得ないと考えていた

 が)「無勅許調印は不敬」として、井伊を詰問するために不時登城した。 井伊は「『不時登
 城
をして御政道を見出した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼等お隠居謹慎
 な
どに処した。 これが安政の大獄の始まりである。 京都で逮捕された尊攘志士達は江戸に
 送
られ江戸伝馬町の獄で詮議を受けた後、切腹・死罪などの処分となった。
  この中に清水寺の月照がいた。 西郷は月照を伴い郷里薩摩に逃れた。 しかし、薩摩藩で
 、斉彬の後、斉彬の反対派久光の実子・忠義が跡を継いだが、久光が実権を握っていた。 藩

 では厄介者である月照の保護を拒否し、日向の国境へ永送ながおくりを命じた。 永送りとは切

 り捨てのことである。 
1115日のことである。 殺させる結果になったのは自分の責任で
 る、共に死のうと言うのである。 船は錦江湾に出た、冬の月は凍りつくように澄んでいた

 君のために何かをしからん 薩摩の迫門せとに身は沈むとも
 ふたつなき道にこの身を捨小舟 
 波た々ばとて風吹かばとて
の歌をとりかわして、西郷は月照をだきかかえるようにして海にと
 うじた。 

  助けあげられた二つの死骸の中、西郷だけが蘇生した。 追求する捕吏に対し、前藩主興は、
 隆盛も死人として検死えを断り、大島に流すことになった。

  安政6年(1859)1月12日、大島に着いた西郷は、名を菊池源吾と名乗り。竜郷たつごう村の
 空家を借りて自炊生活にはいった。 表向きは、流罪であるが、藩から六石扶持を受けていた
 。 
村の子供達に、読み書き、算盤を教ええたり、好きな狩りをしたり悠々たる生活であった
 。 島
の有力者の紹介で左栄志の娘アイガナを娶った(現地妻)1男1女をもうけた。 長男
 菊池菊
治郎は初代京都市長となった。
() 蛤御門の変
  直接のきっかけとなったのは、近藤勇率いる新撰組が切り込んだことで有名な池田屋事件で
 あった。 6月5日、京都3条小橋の旅宿池田屋に集まった尊攘派20数名が襲撃され、9人
 死に、多数が逮捕されたのである。 この報が届くと、藩士を殺害された長州藩は激昂した。

 長州藩の三家老、国司信濃・福原越後・益田右衛門介を先頭に長州軍を進発させ、尊攘派浪士
 木和泉・久坂玄瑞らの遊撃隊もこれに加わった。 

  長州藩は京都郊外の要地、嵯峨・山崎・伏見に布陣し、一触即発の空気が漂った。
  出兵の名目は長州落ちしていた三条実美ら尊攘派公卿の「免罪哀訴」攘夷を国是とし、浪士
 沈静させるなどであったが、長州藩の狙いは藩主父子の入京を認めさせることにあった。 

 力を背景に「八月十八日の政変」によって失った長州藩の地位を回復させようとしたのであ

 。
  この威嚇のまえに、朝廷は動揺する。 6月27日の朝議は三条実愛さねなるの主張によっ
 て、
いったん入京を許すことに決定した。 しかし、この決定に一橋慶喜が激怒した。 処置
 に困
った内大臣近衛唯房は、その夜おそく西郷を呼ぶ。 どちらをとるべきか、と意見を聞か
 れた
西郷は、次のように答えた。
  一橋よりの言上の趣如何にももっともの議と存じ奉り候に付き、其の処を以て御達し相成り
 、
若し承知奉らず候て暴発いたし候わば、其の節は長州の罪状を明白に相記し、朝廷より各藩
 に
追討の勅命相下り候わば名義正しく、朝威も相振い、速やかに攻め滅ぼし申すべき。
   こうして朝議は、一橋の論に決した。 滞陣20日あまり、ついに7月19日、三方面から京
 に進撃してきた長州兵と薩摩・会津を主力とする十余藩の兵とが衝突する。 御所蛤御門を

 心に繰り広げられた激しい戦闘で、西郷の率いる薩摩兵の活躍はもっともめざましく、長州

 は敗走をよぎなくされた。 戦闘そのものは事実上一日で決したが、京都の火災は
21日まで続
 き、二万八千戸が焼失した。 この激戦で、足に傷をおいつつ陣頭指揮した西郷の名声も
覆い
 にあがった。

3.戊辰戦争
 戊辰戦争ぼしんせんそう(慶応4年・明治元年~明治2年[1868~1869])王政復古を経て明治政府を
樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本
の内戦である。 明治元年(
1868)の干支かんしが戊辰(60で割って8が余るす数)になる事から
戊辰戦争と言われる。


() 鳥羽・伏見の戦い
  新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と先端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を
 行った。 江戸市中に於いても薩摩藩士及び彼等と通じた浪士により放火・強盗などが繰り返

 され、江戸の町は混乱に陥った。 
1223日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩
 通じた奥女中の犯行と噂された。 同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵

 所への発泡事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、

 江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。 
  この時、大阪城にいた慶喜は、江戸から陸海の兵力を回送、大坂に集中させ、決戦態勢の準
 備を急いでいた。 
1224日には慶喜側近の老中板倉勝静かつきよらが江戸の老中に書簡を送
 て、浪士暴動の本拠が薩摩藩邸にあるとの証拠が明白になった場合には同藩邸を攻撃すべし

 し、当方でも条件整いしだい、討伐を開始するので、東西呼応して薩賊を打てば成功するで

 ろうとのべていた。

  28日、江戸薩摩藩邸焼討の報が大阪城の慶喜ももとに届いた。 城内は湧きあがった。 そ
 の夜、慶喜は京都進撃を決定、開けて慶応4年元旦「討薩の表」を起草し、大目付に持たせて

 京都に差し出しさせるとともに、大阪城中の1万余の軍隊に京都進撃を命じ、諸藩にも出兵の

 指示を行った。 翌二日、1万5千の軍勢は京都京都に向けて進撃を開始した。
 その日の夕刻、その報が朝廷に達すると、松平慶永や山内容堂は仰天し、使いを慶喜のもとに
 急派して挙兵を思い止まらせようとしたが時すでに遅く、一方、
西郷・大久保や長州藩の広沢
 真臣ら武力倒幕派は、鳥羽・伏見で幕府軍を迎え打
つ準備にかかった。 倒幕派は三日午後三
 職・百官の緊急会議を開かせて、幕府
軍が早々に大阪にひきあげなければ、朝敵として断固討
 伐するとの決定を出させ
ることに成功した。 西郷は見事に開戦のきっかけを掴むのである。
  慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫県沖に停泊していた薩
 摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始された。 翌3日、慶喜
は大坂の各国公使に対し、薩摩
 藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩
邸を襲撃させる。 同日、京都の南郊外の鳥
 羽及び伏見に於いて、薩摩藩・長州
藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態とな
 り、ここに鳥羽・伏見
の戦いが開始された。 両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍
 が約
15,000人と言われている。
  新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備してい
 たが、初戦は緒戦の混乱及び指揮戦略お不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。 また、新

 政府軍が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。 翌1月4日も旧
 府軍の淀方面への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍と為し錦旗・節刀を与

 出馬する朝命がくだった。 薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衡隊等を編成し錦

 を賜って官軍に任ぜられた。 逆に旧幕府軍は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は動揺

 た。 こういった背景により1月5日、藩主である老中稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は、

 賊軍となった旧幕府軍の入城を受容れず、旧幕府軍は、淀城下町に放火し更に八幡方面へ後退

 した。 1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯して
 た津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。 旧幕府軍は山崎以東の京阪地区から敗北撤退し、大

 にもどった。

  この時点ではまだ総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍をすてて大
 城から少数の側近を連れて海路で江戸へ退却した。 これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡

 して認識された。 慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を失し、各藩は戦いを停止して兵

 かえした。 また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

() 鳥羽・伏見の戦いの与えた影響
  7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。 10日には藩主が慶喜と共犯者
 とみなされた会津藩桑名藩高松藩備中松山藩大多喜藩の官位剥奪と京屋敷の没収及
 び旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩が藩主の入京禁止
 処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。

 11日には改めて諸大名に対しいて上京命令がだされるが、これはこれもでも諸侯による「公
 衆議」の開催とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的とするものであった。 これによ

 て新政府はこれまで非協力であった藩に対して恭順すれは所領の安堵などの寛大な処分を
示す
 一方で、抵抗すれば朝敵の一味として討伐する方針を付き絎けることになった。 所領の
安堵
 と追討回避のために親藩・譜代も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに加
わつ
 たとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を止めて赦免を求める事となった。

() 江戸城無血開城
  江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府の主戦派の中心人物・小栗忠順を罷免。 さ
 に2月
12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永持に謹慎し、明治天皇にたいして反抗する意志が
 ないことを示した。
 
 駿府に進軍した新政府は3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。 しかし、条
 諸国は戦乱が貿易に悪影響となることをおそれ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に

 戸城攻撃中止を求めた。 新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。 また武

 を用いた関東の平定には躊躇する意見もあった。 江戸城総攻撃は中止とする命令が周知さ

 た。

  恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府
 参謀西郷隆盛の使者として差し向け会談、西郷より降伏の条件として、徳川慶喜の備前預け、
 器・軍艦の引渡しを伝えられた。 西郷は3月
13日、高輪の薩摩藩邸に入り、勝と西郷の間で
 江戸城の交渉が行われた。 翌日3月
14日勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「
 江戸城は明け渡し後、即日田安家に預けること」等の旧幕府の要求事項を伝えた、西郷
は総督
 府にて検討すると説いて
15日の総攻撃は中止となった。 4月4日勅使が江戸城に入り、「慶
 喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家預け」等とした条件を伝えた。 4月
11日に江
 戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。 

  同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。 4月21日には東征大都督である有栖川宮熾仁親王
 江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下にはいった。

(4) 会津戦争
  文久2年(1862)、会津藩主松平容保は京都守護職に就任し、尊王攘夷派志士の取締や禁門
 の変に於いて幕府方の中核となった。 こうした経緯もあり、薩摩藩・長州藩を中心とした明
 政府に徳川幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦いの慶応4年(
1868)、明治新
 府から追討令を受ける。 追討を命じられた仙台藩と米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的

 、会津藩赦免」の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。 奥羽
14では
 会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、明治新政府の九条総督に赦免嘆願
書を
 提出したが、東征大総督府下参謀林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」
とい
 う基本方針は既に決定しており、朝廷へ直接建白を行うことも認められることはなかった。 

  白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。 旧幕府軍は会津藩家老
 西郷頼母たのもを総督として、慶応4年(1868)閏4月20日に白河城を占領。 これに対し新
 府は、薩摩藩参謀伊地知正治の指揮のもと、閏4月
25日に白河への攻撃を開始し、5月1日に
 白河城を落城させた。 

  慶応4年(1868)6月24日に棚倉城が落城、7月16日に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退、
 月
26日、藩兵の大半が白川口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃、落城し、
 主丹羽長国は米沢へ逃れた。 二本松藩は少年部隊を動員しており、彼等は後世、二本松少

 隊と呼ばれた。 特に木村銃太郎率いる
20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦
 争の悲劇の一つとして語り継がれている。

  二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠
 を衝いた。 慶応4年(1868)8月21日、新政府軍は母成峠の戦いで徳川旧幕府軍を破り、40
 
q余りを急進して8月23日朝に若松城に突入した。 新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面
 に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊まで投入するがあえ
なく
 敗れた。 このとき、西郷頼母邸では籠城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子な
ど一
 族
21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊中二番隊の隊士の一
 部は飯盛山で自刃した(最少年隊士飯沼貞吉のみ蘇生)。
  会津藩は若松城に籠城して抵抗
 し、佐川官兵衛、山口二郎らも城外での遊撃船を続けたが、
9月に入ると頼みにしていた米沢
 藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津
藩は明治元年(1868)9月22日、
 新政府軍に降伏した。 同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内
藩が降伏したのはその二日後である
 。
 容保は死一等を減じられ、江戸に蟄居。 本来であれば家老上席に当った西郷頼母、田中
 玄清。神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下で戦闘
 おいて自刃していたため、次席の菅野長修が戦争の責任を一身に負って切腹していた。

() 函館戦争
  函館戦争(18689)は、戊辰戦争の局面の1つで、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘であ
 。 旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれている。 

  慶応4年(1868)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ部隊を移した。 
 5
月、新政府が決定した徳川家への処置は駿河、遠江70万石への減封というものであった。 
 こ
れにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳
 川
家海軍副総裁の榎本武揚たけあきは、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあた
 ら
せようと画策した。
  榎本は新政府への軍艦の引き渡しに応じず、恭順派の幕臣勝海舟の説得で、富士山丸など
 隻を引き渡したが、開陽丸など主力艦の温存に成功した。 

  7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟からの支援要請があり、8月20、開
 陽丸を旗艦として8席から成る旧幕府艦隊が品川沖を脱走し、仙台を目指した。 この榎本艦
 には、若年寄永井尚志、陸軍奉行松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞など彰義隊の残党等

 旧幕府軍事顧問団の一員ジュール・ブリュネ等フランス軍人など。総勢
2000余人が乗船してい
 た。

  9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。 しかし、その頃には奥羽列藩同盟は崩壊してお
 り、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。 庄内藩も援軍が到着する前に降
 し、これにより、東北戦線は終結した。 

  1012日に仙台を出航蝦夷地を目指した。 函館港には諸外国の船が入港しており、開陽
 などが入港すると混乱を招く恐れがあったため
1021日に函館の北、鷲ノ木に約3000が上陸
 した。

  蝦夷地の大部分はもともと幕府の直轄地であったが、新政府は函館の五稜郭に函館府を設置
 てこれを統治しようとしていた。 旧幕府軍は大鳥慶介と土方歳三の二手にわかれて函館へ

 けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱根府知事清水谷公考に使者を派遣

 た。 新政府への嘆願書を携えた人見勝太郎ら
30名が先行するが、明治元年(1868)、峠下
 弘前藩兵などからなる函館府軍の待ち伏せに遭い、先端が開かれた。 人見達と合流した大

 軍が大野村と七飯村で函館軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱根府軍を敗走させた。 各地の

 戦を聞いた清水谷は五稜郭を放棄し、青森へ退却した。 旧幕府軍は
1026日五稜郭へ無血入
 城し、榎本は、艦隊を函館に入港させた。 
11月5日松前城落城。 
  新政府軍は、1127日、清水谷公考を青森口総督に任命し、旧幕府軍征伐を命じた。 陸
 は、山田顕義を海陸軍参謀に任じ明治2年(
1869)2月には8000名が青森に集結した。 一
 海軍はアメリカから最新鋭の装甲軍艦を購入、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を

 めて艦隊を編集し、3月9日出航、青森を目指した。

  蝦夷地を平定した旧幕府軍だったが、かって強みであった海軍は開陽丸を失い、さらに装甲
 艦が新政府の手に渡った為、海戦での苦戦は必至であった。 明治2年3月、新政府軍の艦隊
 岩手県の宮古湾に入るとの情報をうけ、装甲艦奪取する作戦を立案した。 

  3月20日海軍奉行新井郁之助を指揮官として土方歳三以下100人の陸兵を乗せた回天丸、蟠龍
 丸、高尾丸の3艦で宮古湾に向った。 3月
23日暴風に遭遇、統率が困難になり、結局回天丸
 のみで決行した。 回天丸は、宮古湾に突入するとアメリカ国旗を降ろし日本国旗を掲
げて全
 速力で装甲艦にむかった。 奇襲は成功したが、外輪船の回天丸は横付けできず、丁字
形と言
 う不利な体勢になった事や、船高の違いで兵が敵船に乗移りが困難であった上に敵船に
装備さ
 れたガトリング砲や小銃の絶好の的になり、次々に打倒され、作戦は失敗した。

  明治2年4月9日早朝、海陸軍参謀山田顕義率いる新政府軍1500名が江差の北、に上陸し
 。 旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一連隊
150人を派遣したが、上陸を終えた新政府軍に
 よって撃退された。 また春日丸を中心とする新政府軍の軍艦5隻は江差砲撃を開始した。 

 差砲台は反撃を試みるも、敵艦には砲弾は届かず、旧幕府軍は後退し、新政府軍に奪還され

 。 4月
15日には更に黒田清隆率いる2800名が江差に上陸した。 4月17日新たに1500名が
 上陸すると戦力差は歴然としており、福島まで後退を強いられた。 4月
28日新政府軍2000
 が福島へ上陸すると、旧政府軍は総崩れとなり函館方面に敗走した
。 4月28日青森口総督清
 水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降進軍し、有川付近に集結、
函館制圧の体制を整えた
 。 5月
11日、新政府軍函館総攻撃を開始、海陸両方から函館にせまった。
  旧幕府海軍は回天丸と蟠竜丸のみとなっていた。 蒸気機関を破壊された回天丸は意図的に
 陸地に乗り上げさせ、弁天台場と共に函館湾防備の砲台とした。 5月11日、蟠竜丸が新政
 軍の朝陽丸を沈没し、旧幕府軍の士気は甥に高まったが、砲弾を打ち尽くした蟠竜丸も座礁

 上、乗組員は」上陸して弁天台場に合流した。

  総攻撃が始まると、旧幕府軍であ脱走者が相次いだ。 降伏した兵士の数は340余名にのぼ
 た。 5月
13日、新政府軍参謀黒田清隆が函館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告す
 るが榎本はこれに応じなかったが、灰燼に帰するには惜しいとして榎本自身が翻訳した
「万国
 海律全書」という本を黒田に届けた。 これは、海事にかんする国際法と外交に関する書物で
 、このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、その後、榎本の助命に
奔走す
 るのである。

 5月16日夕刻、榎本側から軍使を遣わし、明朝7時までの休戦を願いでる。 政府側はそれを
 了承し、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。 

  休戦の間、幕府軍首脳部は合議の上、降伏・五稜郭開城を決定する。 同夜、榎本は敗戦の
 任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった(介

 錯を頼むため、榎本が呼び止めたといわれる)大塚霍之丞に制止されている。

() 戦後処理
  慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、
 駿府70万石を下賜することを発表した。 その他主なものは以下の通りです。
 戦功章典(永世禄)
   ■
10万石 島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
    ■4万 石山内豊信(土佐)、
   ■3万石池田(鳥取)、戸田(大垣)、大村(大村)、島津(砂
土原)、真田(松代)
   ■2万石 佐竹(久保田)、藤堂(津)、井伊(彦根)、池田(岡
山)、鍋島(佐賀)、
        毛利(長府)、松前(松前) ■1万5千石 ■1万石

 処分藩 仙台藩、会津藩、盛岡藩、米沢藩、庄内藩、山形藩、二本松藩、棚倉藩、長岡藩、
     請西藩、一関藩、上山藩、福島藩、亀田藩、天童藩、泉藩、湯長谷藩、

4.対馬藩の外交
 慶応3年1014日(186711月9日)の大政奉還で、政権が幕府から朝廷に移動しました。 
しかし、この時点では徳川慶喜は征夷大将軍を辞してなく旧幕府の影響力は大であったが、明治
元年(
1868)の戊辰戦争で旧幕府が倒れ、新政府が完全に政権を確立した。
 新政府は朝鮮に対して王政復古を通告するよう対馬藩に命ずるとともに、その書契(国書)に
押す「図書」を新印に替える措置をとった。 明治元年(
186810月対馬藩主宗義達よしたつは家中
に戒諭をだして、新政府のもとで朝鮮との具体的交渉に入る決意を述べるが、その中で、新印を
用いれば「(朝鮮はたちまち)我々を困ぜしむの策に出申すべきや計り難し」との危惧を述べて
いる。 この年の9月末に、対馬藩朝鮮方頭役の川本九左衛門が王政復古を通告する大修大差使
(特使)が派遣されることを予告するため、藩主名義の「先問書契」を携えて釜山に赴いたが、
この予備交渉段階ではやくも暗礁に乗り上げた。 慣例に異なる点が多いとして、朝鮮は予告書
である「先問書契」の受理すら拒否したのである。 そうこうするうち、対馬藩家老樋口鉄四郎
を正使とする大修大差使が到着するが、事態はまったく進展せず、正式文書である「大差書契」
は受け取られようもなかった。 この後の度々の働きかけにもかかわらず朝鮮側は応せず。 大
差使樋口等は動きが取れないまま、明治5年(
1872)まえで「倭館」に滞在し続けた。
 「先問書契」について朝鮮が問題としたのは、名義が「日本国左近衛少将但馬守平朝臣義達」
とあって従来と異なること、「大差書契」には「図書」(「義達」)にかわって新印(「平朝臣
義達」)を用いることを通告していること、そして最も問題だったのは、文中に「皇」「勅」の
字がでてくることであった。 東アジアの冊封体制にあっては、「皇」「勅」の字は宗主国であ
る中国の皇帝のみが使用できるものだったからである。 


 5.外務省の朝鮮政策
 事態が膠着したままの中で明治3年(1870)4月、外務省は太政官弁官(事務局)に対して伺
い書を提出した。 これは、「朝鮮内情探索」を終えて帰国した佐田素一郎と森山茂の「見込」
をもとに作成されたものであるが、当時の外務省の考え方を示す物として興味深いものがある。
 冒頭、「余り書生論に近く候得共、佐田・森山の見込みもこれあり」とした上で、次の様に述
べる。 外務省内部には、三年もたつのに国書を受け取らないのは「不敬至極」であり、国体を
辱めるものだから、「先端を開くべき辞柄」は十分にあるという意見がある。 だが、いままで
折衝してきたのは対馬藩であって、勅使を派遣したわけではない、ただちに開戦するわけにはい
かないだろう、と言うのである。 

 ではどうすべきかと言うことについて、伺い書は三つの選択技をあげる。 第一は、朝鮮との
絶交である。 だがこれは、「列聖の遺烈、豊臣氏の余光、徳川氏の周旋、千載の交誼」を一挙
に失うことになり、「悲嘆かぎりなき儀」である。 それでもこれのまま「歳月遷延」するより
は国力が充実するまで絶交すべきかという。 第二は、「皇使」派遣である。 木戸孝允を正使
とし、「軍艦兵威」をもって交渉する。 交渉が不調で、「彼方不伏に候はば己むを得ず干戈かん
(兵器)を用」いる、というもの。 これは「神武皇后御一征の優績」を継ぐ「御偉業」だとい
う。 第三は、朝鮮は中国に服従し、「その正朔節度だけは受居候事」だから、中国に皇使を派
遣して、中国との間で「通信条約」等を結んだ上で、その帰路、「朝鮮王京」に迫る。 そのと
きは「皇国、支那と比肩同等の格」となるわけだから、「朝鮮は無論に一等下し候礼典」による
。 もし「不伏」ならば「和戦の論」に及ぶことになるが、清国と条約を結んだ以上は「壬辰の
役、明軍、朝鮮を援」けたようなことにならないだろう。 「いわゆる遠く和して近く攻めるの
理もこれあるべっか」というのである。

 政府は、まず第三の道を追求することとした。 翌明治4年(1871)には日清修好条規を締結
した。 しかし、依然として朝鮮の態度はかわらず、政府はあせりはじめた。


 6・征韓論
()  西郷使節
  明治6年(1873)夏、外務省から太政官に朝鮮問題について議案が提出された。 朝鮮の「非
 礼」を糺すため、出兵をも辞さない強硬な談判を行おうというものであった。
  議案が列挙した「非礼」とは、概ね次の様な事であった。 対馬藩を介した修好の書を受け
 取らず、また明治3年の外務卿よりの所に対しては「外務官員の是に来たれるは無前の事」、
 「新
例開くべからず」として交渉を拒んでいること。 日本の漂流民をきちんと接遇せず放置
 した
こと。 釜山にある「草梁倭館そうりょうわかん」の使節の一部を解体してしまったこと。 近頃
 「倭
館」の門に「伝令書」が掲示されたが、そこに「彼れ制を人に受くるといえども恥じず」
 、「近
頃彼の人の所為を見るに、無法の国と言うべし」、「すべからくこの意をもって、彼中
 の頭領の
人を洞論して、妄錯して事を生じ以て後悔あるにいたらざらしめよ」などと、日本を
 侮辱する文言を並べられていること、等々である。

  新政府発足以来、朝鮮との国交は樹立しておらず、政府にとっての重大な懸念事項の1つと
 なっていた。 だが、ここに挙げた「非礼」は、事実かどうかにおいてすでに問題があり、仮
 そうだとしても、朝鮮との間に緊張関係をもたらしたのは、日本の強引な態度であった。 

 こにいう草梁倭館とは、江戸時代以来、朝鮮が日本との外交・貿易のために提供した、広大

 敷地を持った使節である。 元来は朝鮮政府の所有物であり、慣例として、対馬藩吏がその

 理を許されていた。 だが日本政府は、明治5年(
1872)、廃藩置県による対馬藩消滅を機
 、一方的に外務省の管轄の物として接収した。 この行為が朝鮮政府を刺激したことは想像

 難くない。 しかも、この「倭館」を拠点に日本商人の密貿易が始められた。 正式の国交

 樹立されないままの、こうした行動に朝鮮が硬化するのは、理の当然であった。

  閣議の出席者は、三条太政大臣、西郷、板垣、大隅、大木喬任たかとう、江藤新平、後藤象二
 であった。 まず板垣が口を開いていう。 我が良民を見殺しに出来ない、居留民保護を目

 に大隊を釜山に急派すべきである。 これは英仏の軍艦が横浜港に停泊しているごとく正当

 衛にぞくする、修好の談判は後日でも遅くはない、云々。 まくしたてる板垣を西郷がさえ

 っていう。 ただちに兵をうごかせば、日本国は朝鮮国を呑噬どんぜいせんことを謀っている

 思われ不都合である。 だからまず全権の使節を派遣し、京城の朝鮮国政府と談判して「自

 悔悟せしむる」のがよいと。 西郷案に三条がまず同意した。 板垣の翻意してこれに同調、

 他の多くの参議も西郷の意見に賛成した。 
  8月17日 当日の閣議は、西郷の思惑通り、西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定
 た。 三条は箱根の行在所で閣議の次第を上奉したが、岩倉使節の帰朝を待って、熟議のう

 再上奉すべきだということになった。

() 大久保、征韓論阻止に動く
  これより先の3月中旬、ベルリン滞在中の大久保と木戸に、留守政府から召還の通牒が届い
 た。 これは朝議決定であったが、帰国の是非を廻って使節団は紛糾した。岩倉は「進退同一」
 を希望したが、大久保は即時帰国を、木戸は欧州巡歴を主張してまとまらず、別々に帰国する
 とになった。 大久保は、3月
28日ベルリンを発って帰国の途についた。 
  岩倉大使一行は9月13日、長旅を終えて帰国したが、しばらくは水面下で事態は推移した。
  大久保は8月17日の閣議決定を確実に変更できるという保証を求めていた。 大久保が参
 就任を固辞し、木戸にこだわった真意はそこにあった。 だが、木戸は木戸でこの事態を憂

 して「遂に脳病を発し、夜に入りて安眠すること能はざる」という有様となった。 病気と

 らばいたしかたない、大久保は入閣を決意する。 だがその前提として、閣議決定の変更の

 証を得ておかなければならない。 

  大久保は、岩倉大臣に対して、あらかじめ遺使不可の立場を書付にするよう、「恐縮」と言
 いつつ要求した。 閣議では、数の上で征韓派が多く、反征韓派が劣勢であることは承知の上
 あるが、最終決定権は大臣、とりわけ天皇への奏上権をもつ太政大臣にあった。 このとき

 大臣は太政大臣が三条、右大臣が岩倉である。 ここを掌握すれば、数にかかわりなく主張

 貫けるとの判断もっていたに違いない。

  さてこの間西郷は、しばしば三条に遺使問題確定の為の閣議を開くように迫るとともに西郷
 派遣の決定をくっがえすことのないように念をおしている。
  1014日閣議は開かれた。 まず岩倉が発言する。 樺太のロシア人による暴行問題、台
 での漂流民殺害事件、朝鮮への遺使問題の三つが目下の重大事件である。 ……「朝鮮遺使

 みをもって目下の急務として論ずべきものに非ず」、………。 西郷は即座に反論していう。
 どの事件も重要だが、朝鮮問題は「皇威の降殺、国権の消長に関係」するものでおろそかにす
 べきでない、………激しい論戦が繰り広げられた。 結局この日は決するに至らず、翌日閣議
 再開することになった。

  翌15日午前10時、閣議は再開された。 西郷は、書面のみ提出し出席しなかった。 閣議
 再び粉糾した。 大久保は断然反対論を主張し、副島・板垣など征韓派は「西郷氏の意に御

 せこれ有るべし」と詰め寄った。 妥協は見つからず、「この上はなほまた御両人(両大臣

 指す)」にて御治定ごちじょうこれあるべきの付、参議中相扣あいひかへ候様」との沙汰がおりた。 

 大久保は内心占めた、と思ったに違いなかった。 大臣の判断にゆだねることになれば、もは
 結果は明瞭である。 三条・岩倉の「書面」はそのためにこそあったのである。

  しかし、結果はまったく思わぬ展開になった。 三条の裁断は、「実に西郷進退に関係候て
 は御大事に付き、止むを得ず西郷見込通りに任せ候処に決定いたし候」というものだった。 板
 垣・副島は大喜びした。 大久保は、私の意見は「断然相変らざる旨」をいいのこして、「辞
 の決心」をして引取った。 西郷の書面のみ提出して自らは出席しないという戦術は、三条

 対す問答無用の圧力として効果をあげた。 

  三条は全く孤立してしまった。 この日三条は岩倉邸を訪ね「情由委曲に告げ、大いに前議
 を悔」いており、翌18日朝にはさらに便を岩倉に送って、「国の大事に任じ、意見1ならず惶
 こうしょう(恐れる)に堪えの旨を謝し、再び事を執る能あたはざるを告げるのである。 そして
 条はそのまま大病を発し、精神錯乱状態に陥ってしまった。

  この西郷の「残念」は大久保にとって新たな活路の到来を意味した。 この日大久保は、岩
 倉に奮起をうながし、岩倉も「断然奮起すべし」と約束した。 この時すでに大久保の頭の中
 は秘策が巡らされていたのであろう。 翌
19日、三条の病気見舞をした後、黒田清隆に「秘
 」を授け、夜さらに黒田に書を送り手はずを整えた。 即ち翌
20日朝、黒田は宮内少輔吉井友
 美と協力して、宮内卿徳大寺実則を説得し、直接岩倉に太政大臣代行の大命を下さるよう
に取
 り計らんとする段取りである。 そして、ことはシナリオ通り進んだ。 天皇は
20日、岩倉に
 太政大臣の政務を摂行(代行)すべしという勅語を与えたのであった。

  ここにいたり、岩倉の腹は完全にすわった。 岩倉は22日、「使節一条の儀も御評議相成り
 候間、出仕しゅっしいたし候様」と、西郷ら征韓派参議を招集した。 西郷らは閣議決定通りの
 奏を強く要求するが、岩倉はこれに対して、三条とは意見が違うとして動ぜず、明日「参朝

 彼此ひし(あれこれ)の両説を奏陳そうちんし、以て宸断を仰がんと欲す、卿らしばらく勅答の
降る
 をまつべし」といい放つ。 江藤は憤慨していう、摂任者(代行者)は原任者の意を遵行
すべ
 し、「聖上聡明といえども春秋漸く二旬有余なり
[明治天皇はこのとき数え22]。 故を以て
 国務は大小となく、内閣の議定を以て奏聞し、宸断を仰ぐべし」、朝鮮問題の様な大事は
なお
 されではないか、と。 だが岩倉は一顧だにしない。 「三条その人に代わりて職事を理
おさ
 るに非ず。 旨を奉じて、太政大臣の事を摂行するなり。 予が意見を合わせてこれを具奏する
 も、何の不可かこれ有らん」。 「隆盛等辞色激昂、抗論やむなし、利秋臂を攘け、剣
を撫す
 ること再三回」という状況の中で、岩倉は一歩も譲らなかった。 

  岩倉は翌23日参朝、朝鮮問題についての西郷らの論旨を「奏陳」するとともに意見書を呈
 て、裁可を求めた。 岩倉はこの意見書で次の様に述べる。 まず、欧米歴訪によって、条

 定による国権の回復が「意科の外」困難であって、「功を一朝一夕」に奏しえないと痛感
した
 こと、従って「成功を永遠に期し、驟進しゅうしん(早く進む)促成を求るなく、大にこれが
目的を
 定め、不動不撓ふとう(不屈)政治これ理し、民力これ厚からしめ、以てその実効を立て
その実力
 を用い以て国権を復」することが肝要であること、維新以来日浅い今、「軽く外事を
図る」べ
 きではないこと、況や朝鮮に「使を発するの日、すなわち戦いを決するの日」であっ
て取るべ
 きでないこと、等々である。

  今は使節派遣の時ではないという岩倉の上奏により、翌24日、「衆庶同心協力、漸く全国一致
 の治体に至る。 ここに於いて国政を整え民力を養い、勉めて成功を永遠に期すべし。 今汝
 視が奏状、これを嘉納す」との勅語が発せられ、西郷らの企画はついに潰されたのである。


                  B,西南戦争
1.明治6年政変
  明治6年(18731023日、西郷隆盛は、岩崎具視太政大臣代理の上奉を前に辞表を提出
 、急ぎ帰県した。 岩倉は受理をためらったがが、大久保はこれを受けるように勧告し、結

 、陸軍大将については在職のままとし、参議と近衛都督の辞職は受理した。 
24日「使節派
 」が脚下されると、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋の参議6名が辞

 た。 また陸軍少将桐野利秋、近衛局長官陸軍少将篠原国幹をはじめ軍人・官僚約
600人が帰郷
 した、後にこれを明治6年政変と呼んだ。

2.私学校
  西郷隆盛が鹿児島に帰ったのが1110日と言われる。 西郷は、帰郷したこれら非役軍人
 始め県内士族のために、私学校や吉野開墾社を設立して救済の道を講じた。 

 明治7年(1874)6月旧鹿児島城(鶴丸城)内に創設された「私学校」は陸軍士官養成のため
 の「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校がある。 幼年学校は明治維新に功績を挙げた
 者に与えられた賞典禄によって設立されたことから「賞典学校」とも呼ばれる。 西郷隆盛が
 2000石、鹿児島県令大山綱良が800石、桐野利秋が200石を拠出し、また参議大久保利通も
 1800石を拠出した。 残る二校の費用は私学校という名前とは裏腹に、県の予算により支出され
 た。 教務は主に漢文の素読と軍事訓練にあったが、設立の真の目的は不平士族の暴発を
防ぐ
 ことにあったとされている。 そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限
られ
 ていた。 西郷は自ら筆を取って綱領を記し、一致協力することの道義を重んじること、
学問
 の本旨として尊王と民の憐憫れんぴん(憐れむ)を挙げ、危機に応じてその義務を果たすこ
との2
 条を掲げた。 

  このうち銃隊学校は、篠原国幹のもとに旧近衛歩兵5600人を収容し、銃隊学校と、村田新八
 のもとに旧藩砲隊出身者及び
200人を収容した砲隊学校からなった。
  吉野開墾社は、元陸軍教導団(下士官学校)の150人前後の生徒を収容して昼間は原野の開
 、夜間は学問という生活をおくらせた。

3.名分なき反乱
  西郷は自ら開墾に汗を流したり、白鳥温泉あるいは日当山温泉などで湯治をしながら犬を連
 て好きな猟などをして過ごしていた。 

  明治7年(1876)2月に江藤新平が反乱を起こした時には、反乱鎮圧を命じた久光にも従わ
 ず、また鹿児島に潜入して援助を求めてきた江藤も拒絶した。 明治8年(18754)9月政府
 ら江華島事件を起こして朝鮮に迫った報が届くと、征韓論と大差ないはずだが、名分大義な

 して軍隊を派遣した政府の策を非難した。

  西郷は幕末以来、一貫して自らの行動の動機付けあるいは、正統性の根拠を天皇の意思に基
 づく大義名分を求めてきた。 だから、西郷にとって政府に対する実力行動は、天皇の意を体
 てのものでなければならなかった。 そうでなければ単なる逆賊の反乱にすぎなくなる。 

  その西郷は翌明治10年(1877)2月ついに起った。 よく知られているように西郷の挙兵
 、私学校生徒の「暴発」であつた。

  薩摩藩第28代当主島津斉彬なりあきらは、当時東洋一の大国であった清国がアヘン戦争(1840
 
42)で敗戦しイギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国の植民地化された事に、日本人
 かなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感

 ていた。 

  薩摩藩主に就任した斉彬は、積極的に近代的な軍事技術開発が進め、磯の集成館をはじめと
 て火薬、銃器の制作が行われ、火薬庫も藩内各地に設けられていた。 廃藩置県後も、造船

 は海軍省の所轄となり、火器硝薬製造工場も陸軍省の管轄となって、火器弾薬の製造が続け

 れていた。 明治9年に西日本各地で反乱が続発すると、木戸はこれを鹿児島に置いて置く

 は危険であるとして大阪に移すよう主張し、一旦見送ったものの、鹿児島の情勢が不穏の色

 増すなか明治
10年(1877)1月、三菱会社の汽船赤龍丸を派遣し秘密裏に火薬の搬出を実施す
 ることになった。 そしてこれが私学校党の暴発につながった。 

  1月29日夜、私学校党の松永高美、堀新十郎、汾陽尚次郎が酒を飲みながら時事を痛論し
 気炎を上げていたところ、汾陽が、弾薬の搬出を許せば「国家一朝事あるの日、何を以てこ

 に応ぜんや」と発言、機先を制して火薬を押さえるべきだとし、草牟田の陸軍火薬庫を襲撃、

 番人を補縛して乱入したうえで、小銃や弾薬6万発を掠奪した。 
  翌日、私学校党の約1000人が火薬庫を襲撃して倉庫を破壊した上で弾薬を奪い、31日夜に
 、磯の海軍造船所の火薬庫を襲撃、やはり弾薬2万
4000発と小銃を掠奪した。 私学校党は2
 月1日、2日も造船所を襲撃して弾薬を掠奪した。

  火薬引き揚げは私学校側を挑発することになり、事態はもはや引き返せないところにきてい
 た。 桐野利秋、別所晋介は篠原国幹の屋敷に集まった「年少輩、血気、大事を誤る。 真箇しし
  こ
千秋の恨事なり、然れども今や衆志激場矢の弦を離れ、剣の鞘を脱するが如し。 抑えんと欲
 するも押さえゆべからず。 禁ぜんと欲するも禁ずべからず、今日のこと、油断の一字あ
るの
 み」と述べたという。 

  狩猟中の西郷を呼び戻すために弟の小兵衛らが派遣された。 西郷は「かかる挙動を為して
 天下に対して顔なし、事ここに極まれり」と発言したと伝えられる。 もはや抑えることは

 来ない。 西郷は傷心のうちに鹿児島への途を急いだ。

4.戦争準備
  2月9日陸軍卿山県有朋は各鎮台司令長官に警戒を命じた。 政府は熊本鎮台の防備を固め
 ながら全国的な動員体制を強化していく。 翌2月
10日近衛歩兵第1連隊、東京鎮台、大坂
 台に出動命令を発令し、
12日、山県は三条実美太政大臣に軍としての戦略方針を提出した。 
 そこに示されたのは、強い危険意識である。 山県は、鹿児島が起てば、肥前等23藩が起ち
 「天下の大乱」になる可能性があると予測している。 

  2月20日、討伐令発令を受けて編成された第1・第2旅団が神戸を出航し、22日に博多に
 着した。 翌日には両旅団が福岡を出発して南下を開始した。

5.薩摩軍の出兵
  熊本県の密偵の情報では人員およそ4万7,8千人と伝えたが実際は1万6千人であった。
 
薩摩軍はこれを約2000名で構成される大部隊に編成し、大部隊は約200名からなる小隊で構成
 され、その第一小隊長が大隊長を補佐する仕組みであった。

   一番隊篠原国幹長、 一番小隊長西郷小兵衛
    二番隊長村田新八、 二番小隊長松永清之丞
    三番隊長永山弥一郎、三番小隊長辺見十郎太
    四番隊長桐野利秋、 四番小隊長堀新次郎
    五番隊長池上四郎、 五番小隊長河野主一郎
    六番七番連合隊長、別所晋介
    六番隊長越山休蔵、 六番小隊長鮫島敬輔
    七番隊長児玉強之助、七番小隊長坂本敬介
   2月14日、私学校全面にあった旧練兵場で閲兵式がおこなわれ、前衛部隊として別所の率
  いる六番・七番連合隊が出発、翌15日から16日にかけて順次本隊が出発し、西郷も17日に
  発した。

6.熊本城の攻防
  加藤清正は、天正19年(1591)隈本城の有った茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めた。 慶
 5年(
1600)頃に天守閣が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主とな る。
 慶長
 11年(1606)には城の完成を祝い、「隈本」を「熊本」と改めた。 これが現在の 熊本
 城である。
  寛永9年(1632)清正の子、加藤忠広の改易(身分を奪い領地を没収)により豊前小倉城主
 だった細川忠利が肥後
54万石の領主となり熊本城にはいった。 忠広改易の理由は不詳であ
 。 清正の死後、長男、次男が早世のため三男忠広が跡を継いだ。 
11歳と若年であったた
 、重臣による合議制としたが、家臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われる。 

  明治4年(1871)鎮西鎮台が設置され、二の丸を中心に明治8年(1875)歩兵第13連隊が
 属された。 西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。 

   西郷軍の総攻撃2日前、明治10年2月19日午前1140分から午後3時まで原因不明の出で
 大小天守閣などの建物を消失した。

  2月22日黎明、薩摩軍は正面と背面の二方面から猛攻を開始した。 正面攻撃を担当した
 は永山の三番大隊、桐野の四番大隊の一部、池上の五番大隊で、背面は篠原の一番大隊、村

 の二番大隊別府の六番・七番連合隊が担当した。 

  この22日の戦闘で参謀長の樺山が被弾で負傷、第13連隊長与倉知実戦死した。 法華坂は
 戦地の1つで、昇ろうとする別府隊を城兵が猛射して食い止めた。 七番小隊長の宇都宮
良左
 衛門が戦死、城兵がその懐中から帳簿を発見し、薩摩軍の事情が漏れたという。 

  22日夜作戦会議後、薩摩軍の強硬戦略を変更し、攻城戦が続けられた。 23日も天地が振動
 するほどの砲撃と銃撃が加えられ、以後もつづいた。 

  熊本城は司令官谷干城たにたてきの指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃にたえた。
 薩摩軍は城を囲み流れる井芹川と坪井川の合流点をせき止め城外を水浸して出戦を
食い止め長
 期戦の様相が深まり城内では次第に食糧が減少し危機感が強まっていく。 4月
14日ついに川
 尻方面から接近していた背面軍が熊本城への連絡を成功さてた。 籠城開始か
ら二ヶ月、この
 間の死傷者
773人であった。
7.田原坂の戦
  久留米方面から熊本に向かう場合、山鹿を経由するルートと高瀬を経由するルートがある
 、何れも植木で交差していて、植木は両軍に取って戦略上きわめて重要であり、田原坂
ばるざか
 ここに至るために越えねばならない、守らなければならない要地であっつた。

  乃木希典第14連隊長が木葉に集合したのは、2月22日の午後である。 その頃、植木には薩
 摩軍の5番大隊2番小隊と4番大隊9番小隊が到着していた。 交戦が始ったのは午後
7時、
 接近した薩摩軍部隊が政府軍を襲撃した。 支えきれないと判断した乃木は後方千本
桜まで後
 退した。 緒戦で軍旗を奪い有利に作戦を展開した薩摩軍は2月
23日も木葉の第14連隊と衝突
 した。 夕刻まで激戦を繰り返したが、夜になって薩摩軍の急襲を受け壊走し
た。
  福岡を発した第1旅団と第2旅団は、南下の途中で木葉の戦況を知って1個中隊を急行さ
 、
24日に高瀬を押さえた。 25日第1、第2旅団が南席に到着し正勝寺に本営を置いた。 
  山県は、野津静雄少将、三好重臣少将の両指揮官に書簡を送り、三浦梧楼ごろう少将を司令
 官に第3旅団を編成して派遣することを伝え「目下の急務は、熊本城の連絡を通ずるに在
り、
 切に両公の尽力を望」と求めて位る。 

  旅団の到着を受けて体制を整えた政府軍は翌日早朝から反撃を開始し、第14連隊は田原坂ま
 で前進したが、糧食不足にて三好が撤退を厳命した。

  薩摩軍も高瀬の戦局を打開して一挙に勝敗を決すべきと篠原、村田、桐野、別所が大隊を引き
 連れて熊本を出発し大久保に到着した。 
27日高瀬奪取を目指して薩摩軍の総攻撃が開始され
 た。 官軍の三好、乃木ともに負傷する一方、薩摩側では西郷小兵衛が戦死した。 

  木葉から植木に至る途中に広がる田原坂は、麓から1の坂、二の坂、三の坂と上って現在の田
 原坂公園に至る。 曲りくねった厳しい勾配から緩やかな坂道になり頂上に達するが、
坂の脇
 は崖が削られ、守るにやすく攻めるに難い難関であった。 薩摩軍はここに頑強な保
塁を築い
 て防衛した。 

  第二旅団(師団より小さく、連隊と同等またはそれより大きい単位で、15001600名)を率
 いた三好が負傷したため、野津が第1・第2両旅団を統括することになった。 野津は
薩摩軍
 の防衛体制が固まる前に攻撃を仕掛けたいと進言したが、山県はあくまでも慎重で、
進撃部署
 が決定されたのは3月2で、戦闘が開始されたのは、3月3日のことでした。 

   政府軍は第14連隊、近衛歩兵第一連隊を中心とする本隊と同じく近衛歩兵第一連隊、東京鎮
 台兵、大坂鎮台兵を中心とする支隊とによって編成された。 3日の戦闘で政府軍本隊
は安楽
 寺と木葉を奪取した。

  3月4日には吉次峠で政府軍本隊は、田原坂い総攻撃を開始し、薩摩軍の第一塁を突破し
 。 だが坂道にさしかかると高所から猛射を受けて進むことが出来ず、「賊、天然要地に
土塁
 を築き固守して不抜ぬけず、死傷甚だ多し、生還するもの甚だまれ成り」という凄まじ
い戦場
 となった。 また支援隊は側面の吉次峠を攻め激戦となる、1番隊長篠原国幹が戦死
したが、
 薩摩軍の士気は衰えず政府軍は撃退された。 

  官軍は田原坂防衛線突破のために、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。 主力は田原坂
 ・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むために置かれた。 
しか
 し、主力軍は地形を存分に利用した薩摩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に手も足もでず、
田原坂
 の正面突破を諦めて、西側からせめて横平山(那須山)を奪うことにした。 

  薩摩軍の抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵士を当てたが、討ち取られたため、
 3月
13日、警視隊の中から剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成した。 3月14日、
 軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することは出来なかった。 しかし、抜
刀隊
 が薩摩軍と対等に戦えることが分かった。 後にこの時の抜刀隊の功を称えて軍歌「抜
刀隊」
 が作られた。

  官軍は3月15日m薩摩軍の守備を破り、遂に横平山を占領した。 この日に初めて官軍 は、
 薩摩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。 3月
16日は、戦線整理の為に休戦し
 た。 3月
17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。 しかし、地形を生かした薩
 摩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。 この間、
3月4日から
 の官軍の戦死者は約
2000名、負傷者も2000名にのぼった。 
  官軍主力隊本営では3月18日、幕僚会議が開かれた。 これまでの戦いの中で、官軍は多大
 な兵力を注ぎながらも、一向に線かが上がらず、兵力のみが費やされてきた。 この原
因とし
 て挙げられるのは、薩摩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原
坂の防衛
 線を築いているためである。 現状を打開するためには、いち早く田原坂の堅い防
衛線突破す
 る必要がある。 しかし、兵の疲労を考慮し、
19日は休養とした。
  20日早朝、官軍は開戦以来最大の兵力を投入した。 攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、
 二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。 そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原
 坂一帯に未だかってない大砲撃を開始した。 砲撃が止むと同時に薩摩軍の出張本営七
本のみ
 に攻撃目標を絞り、一斉に攻撃した。 薩摩軍は官軍の猛攻撃と、断続的に降り注ぐ
雨のため
 応戦が遅れ、七本では、状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

  薩摩軍は防衛線を築いていながら、突然の攻撃のために徐々に応戦できなくなり、植木方
 に敗走した。 官軍・薩摩軍の田原坂での攻防は
17日間続いた。 植木方面の敗走によって、
 田原坂の重厚な防衛線は破られた。 その後、官軍は田原坂を下って植木までの侵攻
を試みた
 が、途中で薩摩軍の攻撃にあって中止となった。 

  3月23日に官軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣池和戦に突入した。 3月30日官軍主
 力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日は半高山、吉次峠を占領した。 4月8日辺田
野方面
 は激戦となる。 4月
12日に最後の反撃をしたが、」4月15日、植木・木留・熊本 方面に撤退
 した。

8・熊本城開通

  4月8日、熊本鎮台の奥保鞏少佐率いる突囲隊が包囲網を突破し背面軍に合流した。 城
 では食糧が欠乏し、負傷者には軍馬を殺して肉を与えている状態だという。 これを受け
て、
 黒田は進撃の決意を固めた。

  4月12日を進撃開始、14日、別働第2、第4旅団が川尻に突入に市街地を占領した。 川
 から熊本城までわずか7qで、一気に進撃すべきという意見が多かったが、山田顕義はき
かな
 かった。 黒田から、
15日にあげる狼煙を合図に進撃するように命じられていたからである。
  ところが、別働隊陸軍中佐山川浩は川尻の銃声を聞いて「是はもう川尻の陥落であ
るから遅
 れてはならぬ早くやれ」と指示した。 城下に入ると長六橋に敵兵がいないかをみ
て一気に城
 までたどり着いた。 城側では敵兵ではないかと疑って発砲したが、盛んにラッパを吹き、旗
 を振って政府軍の到着をしらせた。 これにより熊本城は開通した。 

  山田は山川の命令違反に激怒して譴責したが、翌日15ひ午前11時に熊本城に入り、牛、鶏、
 酒、穀物、医薬品などを差し入れた。

9.九州各地の転戦そして終戦
 () 孤立する薩摩軍
   熊本城の包囲を解いた薩摩軍は、熊本城の東10qほど離れた木山を根拠地とした。 政
  軍は御船、健軍地域を奪還するため4月
17日から攻撃を仕掛けたが薩摩軍の抵抗を受け苦戦
  した。 兵力の増強させた政府軍が山田顕義指揮官のもと猛攻撃を開始したのは4月
20日で
  ある。 この戦いで政府軍はまず御船を奪還した。 健軍は薩摩軍が善戦したが、御船
が落
  ちたことで形成は一気に政府軍が有利に傾き、本営も木山から南東
20qほど離れた矢部に退
  却した。

   21日本営は矢部郷内に置かれ、次の作戦計画が決められた。 西郷は「熊本に向って決戦
   すべし」と主張したが、結局本拠地を人吉に置き、機会をんみて攻勢に転じることになった
  。 

 () 人吉
   4月22日、西郷は矢部を出発し、輿に乗って人吉に向った。 28日に人吉との中間点に
  る江代で西郷の命を受けた。 桐野は、各地に分散させるべく配置した。 かねて大分進

   出を主張していた野村の奇兵隊は大分方面にへ、振武隊と行進隊は鹿児島へ正義隊と干城隊
  は江代、雷撃隊は大口、堂山隊は神瀬、鵬翼隊は桟敷の防衛に当たらせることになる。 

   人吉は長期防衛戦略を取、人工を調査して課税し、水量食を確保し住民を徴用して弾薬製
   造にあて、2年間は守り抜く計画であった。 西郷の本営は球磨川のほとりに建つ永国寺に
  置かれた。

   山県は各旅団司令長官を招集して今後の作戦を決めた。 薩摩軍の防御を固めさせると攻
   撃が困難になることから、5月6日、人吉攻撃を決定。 政府軍は、熊本方面から人吉に向
   け南下した。 薩摩軍は守備兵を各地に配置して防戦を試みたが、政府軍の進軍は順調で、
   佐敷から人吉を目指した政府軍は、6日から戦闘を開始したが、神瀬方面で険しい地形を生
   かして保塁を築いた薩摩軍の抗戦に苦しみ、政府軍がこの方面の制圧に成功したのは24
  ある。 こうして北と西、東から人吉に迫った。 
26日に、30日をもって人吉に総攻撃をか
  けることを決定した。

   527日から行軍を開始して戦闘が始まり、30日に総攻撃を開始、次第に人吉市街に接
  した。 6月1日払暁、政府軍はついに市街に突入し、薩摩軍が城跡から大砲を連発して

  のように弾丸が降り注ぐなか激しい白兵戦が展開された。 午後1時には、政府軍の砲撃で
  薩摩軍の砲声も沈黙。 全軍退去命令が出て郊外の大畑に退くことになった。 薩摩軍本営
  の永国寺も消失した。 

   二年保予定の人吉は僅か1ヶ月で陥落した。 敗因は兵站と士気の不足で、投降者が続出
   した。 戦況が不利な上、挙兵の名分は明確でなく、食糧事情が逼迫していた。 5月15
  に薩摩兵の弁当を確認したところ、芋類を中心に1日1食だったと証言する投降者がいた。

 (3) 可愛岳突囲
   人吉、大畑おこば、都城、大窪、末吉、延岡と転戦し8月15日和田越の決戦に敗れた西郷
  は宮崎県延岡の北方にある長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営をおいた。

   8月16日、西郷は解軍の令を出した。
  『我軍の窮迫、此に至る。 今日の策は唯一死を奮って決戦するにあるのみ。 此際諸隊に
   して、降らんとするものは降り、私せんとするものは死し、士の卆となり、卒の士となる。
   唯その欲する所に任ぜよ』
   これにより降伏する者相次ぎ、精鋭のみ1000名程がのこった。 一度は決戦と決まった
  、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は8月
17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱
  するため、遂に可愛岳えのたけ
727.7m、延岡市北川町)突破を決意した。 突破隊編成として
  、前軍に河野主一郎しゅいちろう・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をお
き、池上
  ・別所晋介は約
60名を率いて西郷を護衛した。 17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳
  に登り始め、翌
18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。 ここから北側地区にいた官軍をみた
  ところ、警備が手薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を
開始した。
     不意を衝かれた官軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。 このた
   め西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。 
   可愛岳を突破した西郷軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕、19日祝子川の包囲第2線を破
  、翌
20日に鹿川村、中川村を落し、21日三田井へ到着。 
   これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けた官軍は、横川・吉松。加治木などに
  配兵し、西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける西郷軍

   のまえに失敗に終わった。 これは、西郷軍の行動が初めから一定の目的に従っていたわけ
   でなく、その時々の官軍の弱点をつくものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的
   に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったことも一因であった。 
   8月24日、西郷軍は七山・松ヶ平を抜け神門い出たが、ここで別働第旅団松浦少佐お攻
  を受けうも、何とかこれを免れ
26日には村所28日には須木お通過し、小林に入った。 同
  加治木進出を図るが、鹿児島湾、重富に上陸した第2旅団に阻止された。 西郷軍は迂回

  9月1日官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

 () 城山籠城戦
   明治10年(1877)9月1日、鹿児島入りすると、辺見は」私学校を守っていた200名の
  軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。 このとき、鹿児

  の情勢は大きく西郷軍にかたむいており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島

  内をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。 しかし、9月3日には官軍が

  成を逆転し、城山周辺の薩摩軍前方部隊を駆逐し、9月6日城山包囲態勢を完成させた。 

   この時、薩摩軍は350余名であった。
   官軍の参軍山県有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならぬよう、
  「包
囲防守を第一として攻撃を第2とする」という策をたてた。 
   西南戦争げ最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・
  野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を解くためと称し

  、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中佐のもとに出向き、捕えられた。 

   22日、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を告知した。
  『 今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ
   且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発
  、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也』

   翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山
  からの西郷あての自決を進める書状にも西郷は返事しなかった。 

   9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始った。 この
  き桐野・村田新八ら将士
40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した
  。 途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能門前で西
郷も
  股と腹に被弾した。 西郷は、別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう。ここでよか
ろう
  」と言い、将士が見守る中、跪坐し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。 遙拝が終り、
切腹
  の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を
介錯
  した。 その後別府晋介はその場で切腹した。 

   西郷の切腹を見守っていた桐野らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或は私学
  校近くの一塁に籠って戦死した。

   午前9時頃、銃声は止んだ。 戦死をせず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別
   府九郎・野村忍介・佐藤三二・神宮司助左衛門らは降伏した。
   西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。



参考文献
*征韓論  著者 姜範錫   出版社 サイマル出版会
*西南戦争 著者 小川原正道 出版社 中央公論新社
*西郷隆盛 著者 猪飼隆明  出版社 岩波新書
 

 

 

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