京都と寿司・朱雀錦
(51)方広寺関連3 銃砲の歴史

方広寺関連3 銃砲の歴史
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                1.火薬の発見
 銃砲発祥の地は中国である。 中国で火薬の発明と共に発展した兵器である。 銃砲に必要不
可欠な「火薬」は紀元前
220年ころ秦時代、煉丹術を用い服用すると不老不死の仙人になれる霊藥
(仙丹)を作る過程で、発見されたとされている。 
 煉丹術は中国古代の神仙思想より発展した道教の長生術の一部をなす。 広義の煉丹術は外丹
と内丹に分かれるが、学術的文脈においては煉丹術と言えば一般に「外丹」の方を指す。 外丹
は丹砂(流化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」などと称される丹藥は、実際のと
ころ人体に有害であり、唐の皇帝が何人もの丹藥の害によって命を落としたことが「新・旧唐書
」(正史)に記載され、外丹術は不老不死の薬を作るという本来の目的では完全な失敗に終わっ
た。 このため、不老長生のために外的な物質を求める外丹術に代わりに、不老不死の素となる
ものを体内に求める思想がおこり、これが内丹の考えに繋がっていいき、現代の「気功」の源流
となる。 その一方で外丹術は中国の医薬学・草本学の発展に寄与し、間接的に中国の化学技術
の発展にも貢献した。
 漢方医学は古代中国(夏、殷)から始り、後漢代になって完成した偉大な文化財である。 漢
方医学が扱ういわゆる漢方薬は、よく知られるように主としてアジア地方に産する植物を中心に
動物、鉱物に及びその数十種に達すると言われ、この中に硝石についての記載がある。 

 天然硝石の産出地となる地方は、有機物の分解に必要な高い気温と適当な湿度があり、更に降
雨量の少ないという気候条件がなくてはならない、中国、インド、アラビアなどと南ヨーロッパ
の一部その条件を揃えていた。 しかし、天然硝石は1ヶ所に大量に集中して存在するのではな
く地中に薄い層をなして存在し、しかもその層も土壌と入り混じっており雑多の不純物が含有さ
れている。 従って純度の高い硝石を得るには、それらの不純物を除去して純粋な硝石を抽出す
るということが必要で、化学的知識が必要であった。 アラビア人は硝石のことを「中國の雪」
と呼んでおり、当時の中国では世界に先駆けて硝石の抽出技術を以ていたのであった。 


                        2.銃砲の起源
(1)アジアでの銃砲の出現
   「武経総要」は宋の仁宗皇帝の時代(1022~1063)に編纂された総合的な兵学書である。 この書に記載さ
 れている火攻め兵器に火車、火鎌、火牛、火人、火禽、火獣、火紅、火資、行煙など多種多様な火攻兵器が記
 載されている。 これらは何れも可燃物を利用した火攻兵器である。 世界で最古の火薬は「武経総要」では火
 毬用火薬、蒺藜しつれい火毬火薬、毒薬煙火薬の3種があり、何れも爆発というより激しく燃える火攻兵器の用
 途に用いられている。 
  一方、投射具のサイドから考えるならば、それは投射物体(銃砲弾)とそれを発射する火薬(発射藥)、それを
 収め、投射される物体に飛行方向(弾道)を与えるものでなくてはならない。 そしてこのような投射具は必然的
 に筒状を呈することになる。 つまり銃砲身と後に呼ばれることになる有筒式の火器でなくてはならないのであ
 る。  それは銃砲の始祖が誕生したことになる。 実祭に何時何処で出現したか。 それは13世紀のやはり中
 国、宋においてそのもっとも原始的なものの出現が見られる。 それは火槍かそうと称する火攻兵器であった。
   1161年、これは宋の紹興31年になるが、この年、揚子江上の采石付近で宋軍と金軍が戦いを交えた。 こ
 の戦いは揚子江を渡河南下しようとする金軍とそれを防ごうとする宋軍との戦いで、当然の結果水上戦となった
 。 これが世に云う「采石の戦」で火薬兵器が初めて実戦に姿を表した。 金軍は40万の大軍をもって揚子江を
 渡るべく采石に軍をすすめ、宋軍はわずか1万8千でこれに対した。 最初、金の大軍に圧倒されたかに見えた
 宋軍は、その持つ軽快な戦闘船「海鱒船」で散々に敵船隊を突き崩し大勝することが出来た。 この対戦に火
 薬兵器「霹靂礟へきれいき」を使用したことが述べられている。 この霹靂礟なる火器がどのようなものであった
 かは、はっきりしない。
  宋、金の創製した火薬兵器のうち最も現代の鉄砲というべきものに近い、或はその祖と言えるものが、宋の突
 火槍であった。 「巨竹を以て筒となし、内に子宷を安んじ、もし焼放せば」焔絶えて然る後子宷発出す。 砲声
 の如く遠く150余歩に聞ゆ」。 この宋の突火槍の系列と思われる火器がヨーロッパの一隅に忽然として姿を表
 した。  ロシア第二の大都市レニーグラードの博物館にマドファと呼ばれるものの写生図が残されている。
 「柄のついた木簡に粉状の火薬を装填し、それに小孔より導火線によって点火するようになっている。 口部に
 は球状の、弾丸又は加熱金属を置き、発火装置の小孔から点火して発射する。 」
(2)火縄銃 
  弓は、銃砲出現以前から7ある代表的な飛道具で、しかも銃砲が実用化された後も比較的近世まで銃砲と
 もに戦場の主役となった。 いわば、銃砲が飛び道具の王座を確立するまでの、飛び道具のチャンピオンと言え
 る。  弩どは弓に似て弓に非ざるものと形容され、その様な武器は我が国では弩と呼ばれるクロスボウがある
 。  英国の製銃家W・Wグリーナーはその著「銃の起源、その発達」の中で「クロスボウはノルマン人の発明に
 よる。  第一次十字軍の戦いで使用されて、その後ヨーロッパ大陸の軍隊に広く取り入れられた」と述べてい
 る。 我々が注目したいにはその後出現する銃器においてクロスボウによって考案された機構を利用したと考え
 られる2,3の点が見られることである。
  まず第一に照準器である、現在の銃と基本的にまったく同一の原理である。 第二に指摘されるのは発射す
 る矢に回転を与える工夫がしてあるものがみられた。 すでにライフルの原理を知っていたのであった。 
  現存する最古の銃(火縄銃)はやはり中国大陸に残っていた。 昭和13年(1938)頃黒田源次博士が北京で
 購入した洪武5年(1372)の銘のある銅銃がそれである。
 現品は黒田博士が購入後、奉天(瀋陽)に出展し、そのまま帰国した。 全長約43㎝、口径
 20mm、藥室を含む銃、身部の長さ32㎝、木柄をつける尾部の長さ約8㎝、全体に4㎝ほどの
 形で、藥室部は5㎝ほどに太く造られて。 銃身下面に「江陰衛全字参拾捌号長銃筒重参斤

 両洪武5年5月吉日宝源廠造」とたて書きで2烈に刻印されている。 またわずかにふくら

 だ藥室の後方には「手拿此処或下用木柄拿」と刻印されている。 これは明らかに用法を述

 ているわけだが、銘とは書体異なるので、後程刻まれたのであろう。 これは木柄を付けて

 れをそれを用いるという説明と藥室の上下に点火用の小孔があることから、銃砲の原点と言

 べき手銃(ハンド・カノン)として最古のものである。 したがって、洪武5年5月、明が

 の王朝を築いてから5年目に、宝源廠という明の鋳鉄所で造られたこの銅銃は、現存する最

 古いものと考えてよいであろう。

             3.ヨーロッパでの銃砲出現と普及
(1)ヨーロッパの最古の銃
  1399年にドイツのタンネンベルグ城は攻略され、破壊され廃城と化したが、その後長年を経
 過した
1849年に、その廃墟から一つの手銃が発掘された。 銅製で全長33㎝、口径1.1㎝、重さ
  1.24
㎏のこの原始小銅銃はタンネンベルグ・ガンと名付られた。 この銃は少なくとも1399
 以前に造られたものであることは明らかである。

  発掘された銃には木柄はついていなかったが、これはあきらかに、基部に木柄を付けて使用
 するもので形式的には、中国の飛火槍、突火槍、マドファという一連の系列に繋がるものであ

 って、中国で誕生した銃砲がヨーロッパに至った経路を証明するものである。 
1399年以前、
 ヨーロッパの何処かで造られたこの銃は、洪武5年(
1372)在銘の中国製銃筒の形式と奇しく
 も一致する。 

  タンネンベルグ・ガンの正確な製造年代作成場所などは知るべくもないが、14世紀にドイツ
 東北部でつくられたとされている。 っそれにしても遠く隔てたヨーロッパ大陸の一隅とアジ

 ア大陸の一隅にさして年代の離れていない同一形式の銃筒が現存していた。

(2)鉄砲の出現と発展の概要
  元の軍隊が中近東からヨーロッパにかけて猛威を振るったのは、必ずしも火薬兵器の力によ
 ったものではなかったが、元軍の一兵器であった火薬兵器は、ヨーロッパにおいて急速な進歩

 を遂げ、今度は白人諸民族の戦力として冒険商人やコンキスタドーレス(探金家)らの手にひ

 っさげられ、そして直接ではないにせよイエズス会士の伝道を支える武器となって海外進出の

 流れとなる。 そしてその結果として成立したのが、彼らの巨大な植民地国家であった。 そ

 して、この植民地主義の膨張を支えたのが、ひとえに銃砲であった。 他のいかなる要素があ

 るにせよ、植民地を獲得し、維持して行くうえに最も大きな力となったのは戦力であり、銃砲

 であった。 換言すれば銃砲の有無優劣が、征服者と被征服者の分かれ道となった。

  紀元500年頃から900年、10世紀頃にかけてのヨーロッパは度重なる民族移動と妄信的なキリ
 スト教信仰のため、一種の記憶喪失症にかかっていた、と言われる。 つまり、科学的な
暗黒
 期だった。 農民はその日暮らしの生活にあえいでいたし、上流社会や指導層は、教会の
教え
 が最も正しいとするスコラ哲学から一歩の踏み出すことはなかった。 
 けれども、13世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパには、科学の目覚ましい復興期が訪れることになる。 学者
 の理論的科学と職人の持つ技術的科学の目覚ましい結合である。 レオナルド・ダヴィンチやガリレオ・ガリレイ
 などは、それを見事になしえた人物である。 このようなヨーロッパの科学的復興期にもたらされた鉄砲は、社会
 的環境に伴って急成長した。 
  1300年のマドファにはじまるヨーロッパ銃砲の成長の過程でタンネンベルグ・ガンが確認された。 15世紀に
 於いてはヨーロッパの火器は前半から後半に移るに従って加速度を増しながら発達し、普及した。 勿論、それ
 らは最初は多くが不完全で実用性も低く、弓やクロスボウなどを駆逐して戦場の主役になるものなかったが、兵
 器としての将来性は有望なものを示していた時代であった。
(3)火縄銃の完成
  15世紀のヨーロッパにおいて、銃と砲とが分化し、個別の路を歩むことになったが、銃と呼ぶにふさわしい実用
 性を持ったものの完成はまず火縄銃という形態であった。 タンネンベルク・ガンのようなタッチ・ホール式では
 安定した照準と発射は出来ない。 そこで考えたのが、サーペンタイン・ロック(S字型点火装置)である。 
 点火孔に火をつけるという動作を、どのようにしたら照準を移動させず、姿勢を崩さずに行えるかという解決法の
 一つに、この方式はかなっていた。 S字型金具、すなわちサーペンタインの一端に火縄を付け、他の一端を指
 で操作して火縄を点火孔に押しつける。 
 引金式の最も原始的な銃である。 しかし火縄銃の実用価値の高い火縄を得るのは意外と難しいものであっ
 た。  まず火縄銃の手順について説明する
 ① 最初に銃口から適量の火薬(発射藥)を注ぎ入れる。 これは銃を立ててやらなければならない。 注入口
  の口を開くと一発分の火薬がそそがれる。 
 ②つぎは、鉛球弾をやはり銃口から詰める。 
 ③弾丸が腔径よりすこし小さい場合は、落とし込むだけでよかったが、銃腔径きっちりだと細い棒(ラムロット;か
  るか)で突き込む必要があった。 
 ④火薬と弾丸の装填がおわったら銃を横に抱えるようにして持ち、
 ⑤伝火孔の周囲を囲むような小さな小皿に点火藥を少量注ぐ。 これを後にプライミング・パウダー(口藥)とよば
  れる。
 ⑥点火藥を注ぎ終わると、火蓋が閉じられる。 そしてつぎが火縄のセットになる。 
 ⑦適宜な長さの火縄の一 端に火をつけて用意しておく、
 ⑧そして火ばさみを起してその先端のU字みぞに火のついた火縄の頭が出るように押し入れ、とりつける。 
 ⑨火ばさみの位置は、引金を引くと火縄の先端が火皿の中央に落ちるようになっている。 起した火ばさみに、
  点火した火縄がつけられたら、
 ⑩銃を目標に向けて構える。 
 ⑪この過程で火蓋が開かれる。 
 ⑫そして照準、
 ⑬そして引金が引かれると点火した火縄の先端が火皿上の点火藥に落ち、
 ⑭これがシュッと燃えた瞬間に火皿から伝火孔を通って発射藥に点火し、弾丸が発射される。 
(4)火縄銃とヨーロッパの近世
  ヨーロッパの近世は何時からはじまったか、簡単なようで難しい。 ある人は、ルネッサン  スから、ある者は
 ルターの宗教改革から、ある者はポルトガル・スペインが開いた大航海時代から始まった説があるが、又鉄砲
 (火縄銃)が完成ししそして急速に普及した時代からとする説もある。 15世紀の半ばから後半にかけて、兵器と
 して基礎を確立した火縄銃によってその時代のヨーロッパの歴史に大きな影響をのこした。 今我々が生まれ生
 活している世界は国家という単位で生活している。 ことヨーロッパの場合、歴史的にみればそれほど古くはな
 いのです。 そしてその時期はあたかも火縄銃となって発達し、普及していた300~400年昔に求めることができ
 ます。
  中世ヨーロッパの封建諸侯と当時の新興勢力の都市国家の対立は、何れも相手に決定的な打撃を与えるこ
 とが出来ず時を経過した。 封建諸侯の勢力は日に日に衰えていた。 そして一方、豊かな生産力をもつ都市
 国家も、自己の生産品をより有利に、より広い市場に送り、それらの利益を得る為に、更に強力な保護者を見付
 けねばならなかった。 
  必然的に第三勢力の台頭をうながし、両者要求を満たす人物が国を統一して国王となった。 こうして、都市
 国家の力に追いまくられていた各封建諸侯は、かっては、自分の仲間であったかも知れない国王に貴族として
 仕え、その軍事力の一端として存在し、また都市国家の中心となった生産者や商人達は、国王の持つ権力の
 庇護によってその利権を保護され、それから得られた利益の一部はその代償として国王の生活を支えるという
 一連の国家形態が成立するのである。 当初このような因果関係から生まれた国家は、時と共にその頂点に立
 つ国王が、政治・経済・軍事・司法などに関する権力を手元に集中してゆき、まもなく誰にも制約を受けることの
 ない絶対的な権力者となって絶対主義という名の国家が誕生するのである。 
  イスパニア、ポルトガル、イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどの近代国家は、みなこのよう
 な経路をたどって絶対主義的な政治形態を示しているのである。 これらヨーロッパ諸国の国家成立の時代は、
 火縄銃が銃器として完成され、そして戦力として広まっていった時代と時がほぼ一致するのである。
(5)近代技術の序曲
  16世紀はあらゆる意味において人類社会が中世から近世へと移動した時代で、近代的な生産技術の誕生と
 そして近代的な自然科学が発生した。 たとえば、生産技術の進歩の結果として波荒い大洋を乗り切る外航船
 の建造が実現する一方、自然科学の発達は、その船をあやつって、目的地に達することのできる外洋航海術を
 確立することになった。 このことは、地理上の発見があいつぐ事態となり大航海時代と後世の歴史家に呼ばれ
 ることとなった。
  年代的に列挙するとかきのようになる。
   1486年 ポルトガル人バルトロウ・ディアスが喜望峰に達する。
   1492年 コロンブス、西インド諸島を発見
   1500年 カラブル、ブラジルを発見
   1511年 ポルトガル、インド・ゴアを占領
   1513年 イスパニア人バルポア、太平洋を発見
   1519年 マゼランの世界一周航海
   1532年 イスパニア、インカ帝国を滅ぼす
   1543年 ポルトガル人、種子島に漂着、鉄砲を伝える
   1565年 イスパニア、フィリピンを征服
   1584年 イギリス人サー・ウオーター・ローリー、アメリカに、植民地を開拓
  こうした一連のあいつぐ地理上の発見は、それまでの市場的限界を打ち破り、商品と貨幣の関係を発展させ
 た。 中世的な自然経済は崩壊し、大資本の商人、企業家、銀行家、冒険商人などが続々と誕生して社会組織
 を一変させたのである。
  このような大きな社会変動のなかにあって鉄砲の与える影響は大きいものがあったと考えなければならない
 。 危険な新発見への冒険航海には新兵器の鉄砲は欠かすことのできない武器であった。

                        4.日本への鉄砲の伝来と和銃
(1)日本への鉄砲伝来と製法の伝習
  中国大陸で産声をあげた鉄砲がヨーロッパに伝わり、その地で大きく成長をとげた。 その鉄砲が戦国時代ポ
 ルトガル人によって極東の日本にもたらされたもので、その記録が日本とポルトガルの両方に残されている。 
  日本側の鉄砲伝来の資料には、「種子島家譜」と南浦文之なんぼぶんしの「鉄砲記」の2てんがある。 「種子
 島家譜」は、「鉄砲記」の原典となるものであるが、その記述が簡単すぎるので、当時の事情を知るのには「鉄
 砲記」に拠らなければならない。 「鉄砲記」は伝来後60年あまりたった慶長11年(1606)に僧南浦文之が種子
 島時久の業績を代って筆録「南浦文集」の一部である。
  そして西欧側の資料によると、ガルワノの「世界新旧発見年代記」とピントの「遍歴記」の2点である。 アント
 ニオ・ガルワノは、1536年から1540年の間、モルッカ諸島の知事を務めた人で、その没後、生前の自己の見聞
 を記した著書が1563年に「世界新旧発見年代記」として出版された。 彼の記述では3人のポルトガル人が1艘
 のジャンクに乗って脱走し、支那に向かう途中で大嵐に遭遇し、北緯32度(種子島、屋久島)のジャポンエスとい
 う一島に漂着したという、簡単な内容で終わっている。 
  「遍歴記」は放浪の旅行家ピントが1537年から20年間アジア各地を旅した旅行記で彼は、俗に5回難破し
、16回売られ、13回奴隷になった男としてしらける。 彼は日本にも渡来しているが、真実性は不明である。
  「鉄砲記」は、現存する日本側の史料として最も重要なもので、概略は以下の通りである。
 『 隅州の南に一島がある。 州を去ること18里、名付けて種子たねという。 我が祖は代々ここに住む。 
 ……… これより前、天文12年8月25日我が島、西村小浦に1隻の大船が入港した。 船客100余人、異形の
 相、通じぬ言葉は奇怪としかいいようがなかった。 その中に大明の儒生が一人、五峯という者がいた。 また、
 西村の主宰に織部通という者がおり、文字をよくした。 
 織部丞が枝で砂上に文字を書いたところ、五峯もそれをかいしたので、筆談がすすめられた。 
 船中の客は異形のものだが、どこの国の者であるか、問うのに対し、五峯も砂上に書いて曰く、これら西南蛮人
 の商人である。 君臣の義はほぼ知っているが、礼節の義はなにもわきまえない。 それゆえ、呑むには容器
 から直ちにのみ、食べ物には手づかみでおこない。  嗜欲の情のみを知って学問を知らない。 しか
 し、所定めず商売をして歩く、物を交換によ
って商いするだけであるので、べつに怪しむべき
 者でないと。

 これを読んで織部丞はまた、砂上に書いていう。 ここから13里の所に1港があり、赤尾木と
 いう。 住民多く、代々住み数千戸ほどある。 人は富、家さかえ、商人などの往来も
多く、
 また港はおだやかで船をつなぐにこれ勝地はない。 告げるとともに、織部丞は、こ
の出来事
 をわが祖父恵時とくときと老父時尭ときたかに告げたのであった。 時尭はただちに小舟
数十隻を
 もってこの大船を曳き
27日に赤尾木の港まで曳航してきた。  
  この頃赤尾木の津には忠主座という者がいた。 この者は、日州竜源の徒で、法律一条の

 を開こうとして、津のほとりに遇虚し、ついに禅をすて、法華の徒となった者で、号して住乗
 院と言った。 経書によく通じ、筆を揮っても優れており、このものが五峯と合って文字を以
 て筆談した。 五峯もまた異郷にあって知己にあった思いであった。 
  ところで、商人の長は二人おり、一人を牟良叔舎ムラシュクシャといい、他の一人を喜利志多佗
 孟太キリシタダマウタといった。 彼らは手に一つの物を携えていた。 長さ
2.3尺、重く、形は外
 直にして、中に穴が通じている。 穴が通じてるといっても、その底は密閉されている。 そ
 の傍に1穴がある。 これは火を通ずる小穴である。 何というか例えようもない形のもので
 ある。 これを用いるには、妙薬をその中にいれ、加えて鉛の小団子をそえる。 まず地上に
 て1小目標をおき、この一物を手にして身構える。 片目をつぶり、その1穴から火を放てば
 、たちどころに中らぬということはない。 電光の様な閃光、雷鳴の如き轟音、聞く者耳を蔽
 わぬ者はいない。 1小目標を置くのは、射る者の眼を1点に集中するためである。 これが
 一度発すれば、銀山といえども砕け落ち、鉄壁といえど打ち抜くであろう。 
  姦悪のもの
 人の国をうかがうとも、これに会えばたちどころにその魂を失うであろう。 その用途はあげ
 ればきりがない。 
   時尭は、これをみてまことに珍しいものと思った。 初めは何と呼
 んだのか分からなかったものの、そのうち、日と呼んで鉄砲とされたのは、あるいは明人の定
 めたものか、はたまたわが島の者が名づけたものだろうか。 
   1日、時尭は通訳を通じ
 、二人の南蛮人に、その技術を学びたい希望を申し出た。 彼等も通訳を通じ、殿がこの術を
 学ぼうというのであれば、われわれは、薀蓄を傾けてお教えしようと答えた。 そして心を正
 しくすること、片目を閉じるまず大切であると述べたのである。  ………………
   時尭
 は………………。 そのうち重陽の節」となったので、吉日として選び、試みに妙薬
と鉛の小
 団子をその中に入れ、
100歩の所に目標をおき、火を発してあ、当たらずと雖も遠からず、とい
 うことで、人々は初めは驚き、次には恐れ、終りには学びたいと申し出る有様
であった。 時
 尭は、その価の高いことを厭わず、南蛮人より、2挺の鉄砲を求めて家宝とした。 そ
して、
 妙薬の製法も家臣篠川小四郎をして学ばしめた。 時尭は朝に夕に練習を重ね、つい
に百発百
 中。 1つとして外れることはないまでに練達した。
 この頃、紀州根来寺に杉坊某というも
 のがあり、これが千里を遠しとせず、わが鉄砲を求
めてきた。
   時尭は、求めることの熱心に感じ、その昔、徐君が李札の剣を欲し、口に出せなかったが、李札はそれを察し
 、その宝剣を与えたという。 我が島は小なりといえどなんで一物をおしむことあろう。 ただ求めて得られずは
 不快であろう。 自分が欲しい物、即ち人も欲しいはずである、とて津田監物を遣わし、2挺のうち1挺を杉坊に
 送り、かつ妙薬の製法と火を放つ術を教授した。 
  時尭はさっらに、鉄匠数人をして構造をみせ、新たに同じものを造るべく命じたのである。  その形はすこぶ
 る同じように仕上がったが、底を塞ぐ方法がなんとしてもできなかった。 その翌年南蛮の商人が再び我が島の
 熊野の地にやって来た。 幸い商人の中に1人の鉄匠がいたので、時尭はこれ幸いと金兵衛尉清定という者に
、その底をふさぐ方法をまなばしめた。 
  これにより、ようやく巻いて納めるということをしり、おかげで1年間に数十の鉄砲をつくることが出来た。 その
 後台や飾りの美麗なるものも造ったが、時尭の意は、その様なものではなく、これを戦に使うことにあったので
 ある。 この故に、」家臣の」中にはこの術に優れ、百発百中の者が沢山育ったのである。』
  以上が、「南浦文集」の中の「鉄砲記」のほぼ全文である。 この後堺の商人橘屋又三郎という商人が来島、
 鉄砲を学んでかえり、人呼んで鉄砲又といわれた。
(2)日本初来の火縄銃について
  天正12年(1543)、ヨーロッパの工業産物の第1号として火縄銃が日本にもたらされたが、これがポルトガルで
 造られたかあるいはイベリア半島の何処かで造られたいわゆるヨーロッパ製の火縄銃であるとされてきたが、そ
 うではないとする説がある。
  一方、「鉄砲記」で明の儒生で五峯と名乗る人物が記されている。 明の海賊(和寇≒密貿易)で汪五峯ワン
 ウーフェンと名のっていた王直ワンチーであったと考えられる。 王直はのちに明国の官憲に捕えられ斬罪によ
 ったと言われるが、彼が天文12年に種子島にことが記録されていることから五峯が王直である可能性は大きい
 。 いずれにしても、日本初来のポルトガル人は、中国の有力海賊(和寇)に拾われ種子島にたどりついた。 そ
 れならば彼等ポルトガル人が持っていた火縄銃はどこで造られた銃であったか。
  そこで、この問題に入る前にヨーロッパ製の一般的な火縄銃と日本初来の火縄銃、そして幕末までその原型
 を保った日本製の火縄銃(和銃)との違いを比較してみる。
  まず火縄を取りつける「火ばさみ」(サーベンタイン「S字金具」)が銃口から銃尾に向かって倒れる後倒型と前
 に倒れる前倒型があり、ヨーロッパ製の火縄銃の殆どが後倒型であった。
  一方、日本初来の火縄銃と伝える銃は、ヨーロッパ製とは逆に前倒型である。 もう一点、日本初来の火縄銃
 の銃床じゅうしょうは肩に当てて支える、いわゆる肩づけ型ではなく、頬に当てる頬づけ型である。 これにもヨーロ
 ッパ製火縄銃は肩づけ型が主流であった。 これらの事から、日本初来の火縄銃はヨーロッパ製ではなく、アジ
 アの何処かで造られたものとしている。
  一方、所荘吉ところそうきちは、世界各地の古銃を調査した結果、東南アジアの火縄銃が日本の種子島銃と
 同形式のものであることを確認している。 ヨーロッパからアジアに鉄砲が伝わったという説については、二つの
 ルートがあります。 海を通ってくる道と大陸を経てくる道がある。 大陸を通るものをルーム型(古トルコを指す
 語)は火ばさみの金具の部分が中央にあり、緩発式と言って何時でも火ばさみが上におります。 引金を引きま
 すと、引金を引く度合いに火ばさみが降りて点火する形式です。 もう一つは瞬発式といい、引金を引くことによ
 って反発力で瞬間的に火皿の火薬に火ばさみがを叩きつけます。 この銃は、東南アジア一帯と日本、日本か
 ら伝わった朝鮮だけで、マラッカから先には全然つながりません。 所氏はこれをマラッカ型と称し、東南アジア
 で開発されたかもしれないとしています。
  しかし、洞富雄等は、日本初来型火縄銃(和銃)がヨーロツパにで全く造られなかった分けではない。 その証
 拠に世界の博物館に数は少ないが、存在している、例えば、徳川美術館にイギリス製で和銃型火縄銃が収蔵
 されていることより、日本初来の火縄銃がヨーロッパ製であることを否定することは出来ないとしちる。
(3)鉄砲の急速な普及と日本史に果たした役割 
  種子島は当時日本の商船が中国や沖縄へ渡航する時の寄港地であった。 そのためこの島へ新兵器が伝来
 したという噂はたちまち畿内方面へ伝わった。 紀州の根来備兵集団や自由都市泉州堺の商人達は直ちに行
 動を開始した。 
  鉄砲の製造と使用は戦国動乱の波に乗って直ちに全国に広まった。 インド副王の使者として豊後の府内に
 やって来たピントはその当時、この地に3万挺の鉄砲があって、全国では30万挺以上にのぼる…………、こん
 な膨大な数字は信じかね、誇張もはなはだしいが、ピントの記述は鉄砲の普及がいかに速やかであったがを示
 す傍証とみなしうる。
  伝承から」6年目の天文18年(1549)に薩摩の島津貴久が大隅の加治木城主肝付越前守を討とうとして伊集
 院忠明を遣したとき、両者の軍が黒川崎で対陣り、隔てること1町ばかりの両陣の間で、銃撃戦が行われたこと
 が「貴久公御譜」に記されている。 これが記録における銃戦の所見である。 
  天文24年(1555)の第2回川中島合戦のとき武田信玄が旭要害に立て籠もった善光寺の堂主栗田氏へ人数
 3000人につけて、鉄砲300挺、弓800張を援助して送り届けたことが見える。
(4)豊臣秀吉の朝鮮侵略における火縄銃
  日本軍が釜山に上陸するや、瞬く間に朝鮮半島を制圧してしまった。 朝鮮側の記録も、日本側の進撃をする
 ところ「無人の境を行くがごとし」といい。このように朝鮮軍ははなはだもろかったのは、あちら側に防衛の準備
 がほとんどで来ていなかったからである。 だが、日本軍の優れた戦術が朝鮮の処女地を舞台に縦横に発揮さ
 れ、これに圧倒されて朝鮮軍が崩壊したことも事実である。 
  明の援軍に経略(政治委員)として参加した宋応昌は、利刀、鳥銃、野戦…………等をあげている。 この様
 に宋応昌は日本軍の戦術の優れた点をいろいろ上げているが、なかでも重視すべき長技としたなは、鳥銃即ち
 鉄砲の友好的使用であった。 
  日本では、鉄砲をヨーロッパ人が伝え、旧来の戦術に革命的変革が生じた。 鉄砲を主戦兵器とする歩兵戦
 術の重視がそれである。 明鮮軍にも小火器はあったが、それは中国や朝鮮で古くから行っていた鋳銅製の原
 始的手銃やヨーロッパ式正鉄銃の形だけ似せて作った鋳銅製の模擬鳥銃であって威力の点で正鉄砲とは比べ
 物にならない代物であった。
  明人や朝鮮側にとってヨーロッパ式小銃を知らないはずはない。 中国人は日本人よりずっと前にヨーロッパ
 人と接触していたので、日本人よりも先に鉄砲の製造に手を付けていた。 でもそれは鋳銅製原始的手銃の製
 なかった。 
  朝鮮の李幼澄が見た明軍の兵は「倭銃筒」をもっていたという。 だが、これは日本人が中国にその製法を伝
 えた正鉄砲だったであろうか、この疑問に答える文献がある。 李如松の率いた4万3千という明軍の兵につい
 て次のように記されています。 「攻撃用の武器としては、彼らが用いた最良品である弓矢と槍、さらに日本人と
 同じく刀剣または多数の鉄砲隊を用いた。 彼等の鉄砲はどのように発射されたのか不可解である。 というの
 は、無数に発砲した後もそのために死傷が一人もでなかったのである。
(5)維新内乱における輸入銃
  上も下も泰平の夢をむさぼって国防の備えを怠っていたときに、ヨーロッパ資本主義の東アジア進攻は漸次そ
 の歩を進めて、北方からロシアが、南方からイギリスが刻々と列島の周辺に迫ってきた。 
  尚、洋式火器への関心は、天保から弘化にかけて、はやくも雄藩を蘭式砲の製造に着手させ嘉永年間になる
 と洋式砲製造技術は長足の進歩を遂げて、反射炉による銑鉄製銃砲の鋳造をさえ可能にした。 この間、火器
 の発火装置が、火縄式から燧石すいせき式に、更に雷管式に改められたことは、火器技術史における著しい進
 歩であった。 
  実際家が様式砲術や銃陣の普及・発達に、あるいは様式砲の鋳造に力を尽くしたとき、一方では、従来西洋
 医学の研究に專従していた蘭学者が、天保の末年いらい一転して、国防科学にその力を傾倒ようになり、彼ら
 は主としてオランダ兵書の翻訳又はその紹介に従事して西洋流の砲術・鉄砲術や兵学一般の理論的研究に大
 きな貢献をした。 
  この時、日本を開国させようとするアメリカの強力な外交攻勢が開始された。 嘉永6年(1853)6月のペリー来
 航は日本の朝野を震撼させ、ここに積極的な再軍備が開始された。 外国の圧力に直面して、国防力増強の必
 要を痛感した幕府は、国内の平和維持のために、諸藩の軍備を抑制しようとする従来の製作をもはや放棄せざ
 るを得なかった。 海国日本の国防力強化が沿岸防備施設として台場の建設と海軍力の充実とにあった。
  火縄銃発火装置には種々の欠点があって、銃砲の進歩には、新しい発火機構の出現をまたなけれ婆ならな
 かった。 ヨーロッパでは16世紀の初葉すでに歯輪銃が創製されたが、やがて燧石銃が出現して17世紀の中
 葉になるとこれが火縄銃や歯輪銃にとってかわり、軍用銃として一般的普及をみるにいたった。 さらに文化4
 年(1807)に雷管式発火装置という画期的発明が行われた。
  鉄砲伝来270年の長きにわたって、火縄で爆薬に点火させるという根本方式を改める試みにについてなされ
 なかった。 このため、幕府の国防力は低下していた。 幕府は当初武器の輸出は絶対に禁止し、違反者には
 厳罰で臨んだ、輸入に対しても実質禁止していた。 しかし、安政の開国以後、貿易が比較的に自由になり、幕
 府の統制力が衰退すると、強藩のうち、幕府の監督の眼を逃れて密かに武器の輸入を企てる者がでてきた。
  長州藩では、万延元年(1860)2月、ゲーペル銃1000挺を長崎で、200挺を横浜で購入している。 同藩が多
 数の洋銃を購入したのは、これが最初である。 長州藩は、元治元年(1860)の蛤御門の事件以後、武器購入
 の道を閉ざされていた。 それでも幕府に対する抗戦力の強化をせがまれていた長州藩としては密貿易のルー
 トによる武器を入手する以外に手立ては無かっ作技法によってヨーロッパ式小銃の銃筒を模造したものにすぎ
 た。 長州藩は薩摩藩の了解によって、その名義で長崎のイギリス商人グラバーと小銃購入の契約おして、ミニ
 エ銃4300挺(7万7400両)、ケベール銃3000挺(1万5000両)を入手することができた。 これらの銃は薩摩藩
 船につみこまれ、この年の8月27日、防府の三田尻に到着している。
  この時購入した4300挺のミニエ銃が翌年慶応2年(1866)の第2回征長役のとき、大きな役割を演じた。 幕府
 軍が長州軍のために打ち破られたのは、長州方にライフル銃があり、この銃の発射する椎の実形弾丸の威力
 に破れたのである。
  幕末・維新期に輸入された洋銃の種類は実に多種である。 前装滑腔式3種、前装施条式13種、遊底扛起ゆ
 うていこうき式2種、銃身元折式4種、低碪ていちん式15種、弾巣式8種、茛嚢ろくのう式(スナイルド銃)5種、
 活庵罨カツアン式10種、遊底偏心式3種、特殊銃2種、直動鎖閂ささん式7種、回転鎖閂式15種計89種にのぼ
 る。 7年間に日本へ輸入された小銃の総量は
      挺数 53万6672挺
      価格 784万987ドル

                         5.燧石銃とライフル
(1)近世ヨーロッパの幕開け
  中国大陸で生まれた火薬、そして銃砲は、ヨーロッパに渡り、その揺籃期を脱して成長してゆく姿を見せてい
 た。 中世の科学的暗黒期を抜け出し、近世ヨーロッパへと発展してゆく時期は、また銃砲の発展の期とのオー
 バーラップするのである。
  ヨーロッパ民族で最初に大洋の彼方に乗り出して行ったのはポルトガル人であった。 彼等は、後に東洋貿易
 で巨利を得る」ようになるが、当初の目的は北アフリカであった。 1415年8月21日アフリカ北端のセウタを
 200隻の船で襲いアフリカ大陸に植民地を築いた最初の西欧国となった(後にスペイン領となる)。 大航海時代
 がこのような暴力的な行為で幕をあけた。 
  このポルトガルの後を追う形となったイベリア半島のもう一つの国スペインは、航路としては、その後を追わず
 に、大西洋の方向にむかう。 そしてそれがコロンブスのアメリカ新大陸の発見となった。 
  この15世紀末にあいついで二つの新航路開拓は、アダム・スミスによれば「人類史上最大の発見」ということ
 になる。 一方は東インドからアジアへ、一方はアメリカに向ったポルトガルとスペイン、そしてそれに続くヨーロ
 ッパ各国の勢力であるが、この2つの地域での以後の植民地経営の形態に大きな違いが見られる。 アメリカ
 はヨーロッパから大量の住民移住が行われ、厳密な意味での植民地経営という形態をとっていたのに対し、東
 インド・アジア方面では少数の武装者によるいわば広義の植民地経営という形式がとられた。 もっともいずれ
 の形をとるにせよ、植民地帝国主義という基本的な姿は同じであり、暴力による搾取と圧制がその基本になっ
 ている点では、違いない。 そしてそれを支えたのが、彼らの手にした銃と砲によるものであった。
(2)燧石発火装置の発明とホイール・ロック銃
  ヨーロッパ文明が中世の教会絶対主義であるすこら哲学的な束縛を脱し、観察する自由、実験する自由等、
 思索する自由を取戻し、科学的復興期をむかえると、銃砲の技術も急速に発展
 した。
  銃砲も誕生以来、その点火には火縄が付いてまわっていた。 いわゆる生火、つまりなんらかの火種が不可
 欠で、それが火縄銃の性能に大きな制約をもたらしていた。 誕生まもない手銃ハンド・カノンでは、点火孔に直
 接手で火種の火を移すいわゆるタッチホールがもっぱらの点火法であった。 その後、火種の保持法の改良が」 重ねられS字型の金具による保持点火装置を持つサーペンタイン・ロックが出現し、それはやがて各型式の火
 縄装置として進歩した。 それら各種の火縄装置では、日本の瞬発式和銃が最高のものとなった。
  これまでの火種による発射を「点火装置」とするなら次に登場する燧石ひうちいしを用いる発射方式を「激発装
 置」と呼ばなくてはならない。 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)は、学者としては物理学、化学、植物学、
 解剖学、軍事学、数学、機械工学などの諸分野において最新の成果を極め、一方、芸術家としては古典主義芸
 術の完成者としてルネサンス画家の頂点にたっている。
  彼の膨大な手記は、後に「絵画論」として出版され、大きな影響をあたえた。 彼の死後270年も後、ナポレオ
 ンのイタリア侵攻(1796)にともなって、フランス人ヴェントリーの手によって初めて詳しく研究され蘇った。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの膨大なノートは、当時の自然科学のあらゆる分野に渡っており、芸術家としてのロナ
 ルドよりも、自然科学の研究者としてのレオナルドの観が強烈である。 1万ページと言われる膨大なノートは、
 約4分の3がこれらのj自然科学お研究の成果に竟や有れてて、絵画に関する部分は残りの4分の1ほどである
 。 彼の生涯あ当時の社会に与える影響の軽重とは逆に自然科学の探求により大きいウエイトが置かれていた
 のであった。 
  この偉大なルネサンスの万能の天才・レオナルド・ダ・ヴィンチは、鉄砲の改良にも無関心ではなかった。 そ
 のレオナルドが考案したのは、火縄の代わりに燧石を使用する発火装置であった。 彼の残した膨大なノート中
 、1483年から85年の間に書かれたものの中に4ページにわたって記されている。 その原理は回転する歯車に
 燧石をすりつけて、火花を散らすという、現在の現在の我々がタバコ用のライターと同じ方法であった。 この時
 期にレオナルドがミラノ公のもとに滞在していた時期にあたり、ミラノ公のために考案したものと考えられる。 
  見方を変えて、現存するこの燧石式(ホイール・ロック)の銃でイタリア製とドイツ製のものがある。 ホイール・
 ロックの銃はそれほど多く製造されておらず兵器としては完全に火縄銃に取って代わった銃ではなかった。 イ
 タリアに残されたホイール・ロック銃が一般的に古いと思われのは、ドイツ製のそれと比較すると、何となく幼稚
 である。 その構造が、レオナルドの第2のスケッチに酷似している。 一方ドイツ各地で残されているホイール・
 ロック銃はそれに比較すると洗練されており、一見して製造年代がイタリアのそれより後期であることをおもわせ
 る。 
(3)激発装置の実用化、フリント・ロック銃
  燧石発火、つまり火打石による発火は、本来が打撃によるものであった。 従って、ホイール・ロックで軍用銃
 としての制約にになっていた機構の複雑さからくる高価、脆弱性などは、激発装置(フリント・ロック)の機構では
 除去っされ、兵器としての使用に十分に耐えるようになったし、集約化されたマニファクチャ―的工業に拠ってか
 なりの量産も可能になった。 
  ホイール・ロックの最初のものがいつどこで、誰の手によって制作されたかということが厳
 密に特定できなかったように、プリント・ロックもそれを特定することは出来ない。 ホイー

 ル・ロック銃は北イタリア地方からドイツ、オースロリアへと生産地が広がり、それがフラン

 ス、スペインへと伝搬していった時代と経路が比較的にはっきりとしているのに対して、フリ

 ント・ロック銃はあまり、時代差がなく、多くのヨーロッパ地方に出現した急速に普及してい

 った。

(4)30年戦争、三兵戦術の確立
  銃砲史で見る16世紀は、マッチ・ロック(火縄)、ホイール・ロックそしてフリント・ロッ
 クの各種銃器の混在が次第に淘汰され、フリント・ロック銃のみになった世紀であり、また銃

 が砲と共に戦場の主役となりうる可能性を示した世紀でもある。 それに続く
17世紀は、その
 鉄砲が主役になってゆく世紀である。それは、いわゆる三兵戦術の確立となって実現する。 

  航空機及び海中を自由に行動できる潜水艦などが戦場に出現する以前、戦いには地上、海上
 で行われる、いわゆる平面戦争であった。 陸上戦争の場合、この平面戦闘の軸となって戦う

 のは歩兵、騎馬兵、そして砲兵の三兵種軍である。 これが明治
37,38年(19045)の日露
 争までの典型的な通常陸戦の姿であった。 

  さて火縄銃からフリントン・ロック銃に移る間い、銃砲の軍事的な用法に新しい路を求めて
 成果を上げた人物がいた。 その名をオーストラリア皇帝マクシリアンⅠ世(
14591519)で
 ある。 ネーデルランド、ボヘミア、ハンガリアを翼下に入れてハプスブルク家隆盛の基礎を

 築いたことで知られているが、優れた砲術家でもあった。 巧妙な政略結婚で家領を拡大して

 いったマクシリアンⅠ世だが、当時のヨーロッパの例外ではなく、各国の緊張は絶えることな

 く戦闘をかさねることもしばしばであったが、彼が重視したのは銃砲とりわけ火砲でありその

 用兵法であった。

  巨大砲はひとまずその実用性を失って戦場から姿をけしている。 一方、戦場の華であった
 重武装の騎士の時代も過去のものとなりつつあった。 鋼板の甲冑に身を固めた騎士は、軽装

 の歩兵の長槍の前に屈した。 またその権威のシンボルである城砦も、火砲の威力の前に往年

 の存在価値を失っていた。 この様な戦闘様式の変化は、必然的に野戦での機動性が重要な要

 素となっつた。 巨大砲はこうした用途に全く不適であったが、砲車に乗せて移動、移動でき

 る大砲が必要であった。 この点に着目してそのような砲、そして砲兵をつくり養成したのが

 マクシリアンⅠ世なのである。

  マクシリアンⅠ世によって歩兵と砲兵の有効な結合戦術が実現した次の段階は、言うまでも
 ない騎兵を有機的に結んで作戦することである。 そしてそれは最後のしかも最大の宗教戦争

 と言われる
30年せんそうである。
  30年戦争(161848)は鉄砲の歴史という観点から見ると、これは確かに歩砲騎の三兵戦術
 を確立した画期的な戦いであるが、文化史の一部である戦争史という立場にたてば、これはパ
 ンドラの箱を開けたことになる。解き放たれた火は第2の火にになって人類の上に宗教戦争と
 いう名を借りてあけくるった。 以前にはみられない最大・最悪の災厄さいやくであった。 一
 説では戦前の
1800万のドイツ人口を戦後700万にしてしまったという。
(5)ライフル銃
  現代の銃砲は、散弾銃や迫撃砲などはべつにして、ピストルから大砲まで、その腔面にラセンを設けて、発射
 する弾丸に高速の回転を与えている。 その目的は、発射される弾丸が不規則な飛躍をせずに、狙った的に命
 中するようにさせるためである。 
   そこで、我々の祖先がある物体に回転を与えるとその物体の運動が安定するという、現象を何時頃から知っ
 ていたのだろうか。 少なくとも鉄砲が発見されるより、以前に多くの人々に知られていた。 この様な現象を生
 活に取り入れた例として「コマ」がある。
  問題は、それがいつ誰によってどのように行われるか、現在の定説ではドイツである。 16世紀の中頃にはす
 でにドイツ各地で多く行われていた射撃競技にライフルのある銃が用いられたことでしめされている。 欧米の
 研究書によれば、ウイーンの銃工ガルパド・コルナーが1498年から1500年、ニュールンベルクの銃工アウグス
 タス・コツターが1520年頃発明したというが定説とまで認知されていない。
(6)新大陸とライフル
  コロンブスが初めてアメリカ大陸に足を入れたのは、1492年10月12日であった。 かれはそこをサン・サルバ
 ドルと命名した。 以後彼は死ぬまで、この地をインドの一角と信じて疑わなかった。 本来コロンビアと命名され
 てしかるべきを大陸が後年アメリゴ・ヴェスプッチによって、インドでない、別の大陸であると断定されると、そこ
 は「アメリカ」と名付けられ、新大陸の発見とされた。 
  一方、南米大陸の先住民らにとって、スペイン人の手にする鉄砲は災厄の源であった。 コロンブスによって
 火のつけられた「黄金への渇望」は多くのスペイン人たちをコンスタドーレス(探金者)としてひたすら暴力に頼っ
 て各地を征服していったからである。 フランシスコ・ピサロやエルナン・コルテスは新大陸の先住者らの知らな
 い鉄砲の威力をたくみに操り、略奪と虐待を極めながら、インカ帝国やメキシコを征服した。
  彼らの矛先は北米大陸にも向けられた。 1539年から42年にかけてエルナンド・デ・リートは北米大陸を北に
 向かってミシシッピー河口まで、フランシスコ・コロナードはメキシコから中央アマリカまで探検を行ったが、求め
 ていた金も銀も得られず、また、貿易に足る資源も得られなかったためんこの地方は放棄しってしまっつぁ。
  1497年から」98年にかけてイギリスのジョン・カボットはヘンリーⅦ世(1485~1509)の特許状を得て、北米大
 陸へ、主として北東部海岸に探査を行った。 この探検を基盤として、イギリスの新大陸における領土権を主張
 をするのだが、実際には、国内の内部事情により、しばらく新大陸に対する進出は行われなかった。 
  こうして、エリザベス女王の命令により最初の本格的な植民が開始されることになり、ウオーター・ローリーなど
 宮廷貴族が任命された。 1585年にローリーはリチャード・グレンビル等の指揮すル隊を送り、恒久的な基地の
 建設を命じた。 彼らはその年の内にヴァージニア海岸ロアノーク島に到着し、基地の建設を開始した。 グレン
 ビル等は15名の隊員を残し英国に帰り、その後を受けたジョン・ホワイトが中1年おいて87年に同地に到着した
 が、残留隊員の全部が消え発見できなかった。 
  ホワイトも前と同様、少数の残留隊を残し帰国、すぐに補給物資を送る予定だったが、あいにく対スペイン戦争
 がおこり彼が再びロアノーク島に戻ったのは90年になってからで、この時 も前回同様に全員が行方不明になっ
 ていた。 たぶんインデアンの襲撃と疫病によるものと考えられている。 
  このような悲劇的なスタートのイギリス植民地経営だが、これによって植民地事業は、一部の貴族などの事業
 としてでなく、より大きな組織によらなくてはならないことが悟られ、それには株式会社組織が最適であることを
 学んだ。 さらに、新しく得られる植民地からは、単にスペイン式の一時的な金銀の略奪や鉱山の開発によって
 富を得るのではなく、農地として開発し、そこに実った収穫を基として植民地が経営されるのでなくてはならない
 ことを知った。 この点、イギリスの植民地経営方針が先のスペイン、ポルトガルの取った方法と大きく異なるの
 に注目される。 銃と砲による力ずくの植民地経営が従来の旧教団のやり方であったが、イギリスの方法は、一
 応、平和的な建設手段によって目的にたっしようという方針であった。
(7)アメリカの独立革命戦争
  オランダは1610年頃から新大陸に進出し、ハドソン河一帯に住むインデアン・イロコイ族と友好関係を結んで
 その地方に、ネザーランドを植民地として創立した。 このとき、現代の入ヨーク市の中心地として世界金融界
 の中心ともなるマンハッタン島をインデアンから24ドル相当の贈り物と交換した。 しかし、イギリスにとって南北
 の植民地の中にオランダの植民地のあるのはなんとしても邪魔になる。 そこで、ヨーク公ジェームズは兵を送
 ってこれを征服し、彼の名にちなんで「ニューヨーク」と改名した。 イギリスにとって次に新大陸で対立したくては
  ならないのはフランスであつた。 
  フランスの新大陸への進出は、16世紀前中頃からのセントローレンス河方面への探索によって開拓している
 。 1608年にはサミュエル・ド・シャンプレーンがケベックに要塞をつくり、これがフランスのカナダにおける中心的
 植民地・ニュー・フランスの基礎となった。 その後のフランスには、有能な探検家が多く出て、五大湖地方から
 ミシシッピー河流域一帯をフランスはルイジアナとしてニューフランスに加えたが、イギリスが執った組織的な集
 団植民地による農業開拓とは異なり、フランスは個人的にインデアンの生活にとけこみ、毛皮交易を行なう者が
 多く、農耕を主としなかった。 このため、広い地域にわずかな事業拠点や交易拠点が点在するという状況で、」
 総合的な植民地経営という面ではフランスはイギリスに1歩も2歩も遅れていた。
  当時の英仏は世界のあらゆるところで争っていたが、新大陸においても両者の関係は悪化して行くばかりで
 あった。 この新大陸における英仏の対立に決着をつけたフランスインデアン戦争はヨーロッパでイギリスがプロ
 イセンを援け、フランスがオーストリアを援けて戦われた7年戦争の一連のもので、1年前、1755年に火蓋が切
 られた。 この戦いでは多くのインデアンがフランス人と共に、イギリス軍に対抗してたたかったので、当初イギリ
 ス軍は苦戦を知られた。 しかし、これに先立って探検家シャンプレーンがかっての協調を破ってハドソン川一
 帯のイコロイ族と対立しこれを敵にまわしていたのが、この場合不利となった。 この戦いは本国の援助を得て
 戦闘がおこなわれたが、英国首相、当時国務相だったピットが援助を強化し、イギリス軍が勝利し、1763年のパ
 リ講和条約で、ニュウ・フランスはイギリス植民地となり、新大陸のフランス勢力は大きく後退した。 
 ところで、イギリスが新大陸のフランス勢力を事実上駆逐し、戦争の勝利が、結果的に新大 陸の独立を早める
 ことになった。 新大陸から敵としての勢力が去ってしまうと、本国軍の存在が疎ましくなり、同時に植民地自身
 の軍事的自身もつよくなると、本国の軍隊が邪魔にさえ感じられるようになった。 
  これに加え、この戦争でイギリスの出費が多くその半分はアメリカ植民地防衛に竟やされた。 7年戦争により
 イギリスの国債はほぼ2倍となり、国王は債務を支払う為の財源として、植民地に新しい税を掛けることにした。
 また、これに加えて、英国政府は他の植民地に対すると同様の重商主義政策が本国と北米大陸との対立をい
 っそう激しくした。 北米植民地では17世紀頃から豊富な開拓地の森林資源によって造船事業が発展していっ
 たが、反面本国の資本家等の利益をおびやかす毛織物などをヨーロッパや他の植民地に輸出されるようになる
 とこれを禁止し、粗鉄の製造は許しても、錬鉄の生産は制限し、植民地の加工業が安い外国の原料を得ようとし
 ても、割高の本国産のものを買わせるなど本国と植民地の利害はいたるところでぶつかりあい、結果的に両者
 の力関係を反映し、植民地の人々が苦汁を呑まされるのだった。 
 この様な状況になってくると、本来は英国王に忠実であろうとした農民や商人も、本国の重商主義がもはや保
 護恩恵でなく、制約と搾取であることに気付く。 
  イギリス正規軍と植民地軍との武力衝突は、1775年4月19日、ボストン郊外のレキシントン・コンコルドで開始
 された。 英軍のゲジ将軍は、これら反英組織がボストン郊外コンコルドに秘密の火薬貯蔵庫があるとの情報を
 キャッチした。 そこで将軍は指揮下のスミス大佐に600とも800とも言われる兵を与え、この貯蔵所を捜索する
 よう命じた。 この命令は地下組織によって探知されコンコルドに知らされたが、知らせを受けた民兵40名とイギ
 リス正規軍が途中レキシントンで正面衝突し、この戦いで8名の民兵が戦死した。 8人の仲間が殺されたことを
 知った民兵は、反転して引き上げようとする英軍を木陰から山蔭から狙い撃ちしたのである。 優れたハンター
 は同時に優れた狙撃者ともなる。 地形を熟知した狩猟地で英正規軍の赤福を狙い撃ちするのは、森で鹿を射
 るより容易であった。
  この間に、イギリスの世論はようやく好戦的にかわっていった。 そして、ボストンに7000の援軍を象はしてい
 る。 一方植民地側はといえば、これは13の各植民地の足並みをそろえるのに懸命だった。 鉄砲は交わされ
 た。 残された道は勝つのみである。 世論を一つにまとめな ければならない。 
  最初の交戦の後、民兵はボストンを囲む線を築いき、英兵はその包囲の内側になって対崎しそのまま6月に
 はいった。 民兵側はようやくその数をましてはいたものの、相変わらず制服もなく、正規に支給された武装でな
 く、持ちよりの銃をかついだ民兵であった。
  将軍は民兵隊がバンカーヒルに陣地を築いているのを知ると、これを奪取する作戦をたてた。 レキシントンと
 は異なり、今度は陣地攻略である。 正規の訓練を受けず、貧弱な装備の民兵集団に、赤服の英帝国正規軍
 が」銃剣をきらめかせて突撃すれば、結果は明らかである。 しかも作戦に必要以上と思われる3500の兵力を
 出動させたのだった。 しかし、結果はみじめだった。 バンカーヒルの砦を守る民兵たちは、赤服の突撃を引き
 付けて一斉にライフルを発射し、この時もヨーロッパ式戦法に固執する英軍が砦の前面に突き寄せるのを射ち
 すえるのだった。 英軍は3回の突撃で辛うじて陣地を占領したが、受けた損害は1000以上と言う大きな痛手を
 おった。 それは1つの丘を手にするにはあまりにも大きな痛手であった。
  この頃、植民地では民兵、今やアメリカ軍となった。 その軍の総司令官として、優れた人材を得るのに成功し
 ていた。 それはジョージ・ワシントンである。 彼が7月3日、ケンブリッジに到着した時、彼の軍隊は17000を数
 えるほどになっていたが、それはまったくのにわか仕立ての集団であり、訓練された職業軍人によって指揮され
 るべき正規の軍隊とはおよそ似つかない18歳から60歳にもおよぶ男たちの集まりであった。 ワシントンは総司
 令官の地位につくやこの民兵の集団に厳しい訓練も課し、急速に軍隊としての内容を持つ者にしていかなけれ
 ばならなかった。 
  一方、イギリスの事情も楽観できぬものがあった。 1775年当時、英陸軍兵力は徴兵制度に反対されていた
 こともあり。55000程度であった。 そのうち12000はアイルランドの守備にかかせず、残りがインド、カナダ、西イ
 ンド諸島など広大な植民地の守備としてばらまかれていたのが実情であった。 このため、ジョージⅢ世はドイ
 ツの諸侯から30000の傭兵を1人7ポンドで雇いアメリカに送ったと言われている。 
  戦争の全期間を通じて、イギリスは優位な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都
 市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。 
  アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側について参戦した。 スペイ
 ンやネーデルランド連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。 1781年にフランス海軍
 がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏
 させ、実質的な戦闘は終了した。 1783年」のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認
 めた。
  アメリカ独立戦争で用いられた銃砲の第一の特徴は、それが従来の最も一般的な形式のものによって戦われ
 たのである。 特に当事国であるイギリスとフランスが主としたものが、そのまま新大陸に移されて使用された。
   この戦いはその当時の制式軍用銃であったフランスのシャビス、イギリスのブラウンべスの両フリント・ロック
 銃に代表される。 基本的に前代の17世紀と大差ない銃によって行なわれた。 アメリカ合衆国が制式とした自
 国製の第1号軍用銃は、スプリング・フィールドM1795という、フリント・ロックの前装銃であった。

                        6.連発拳銃と後装銃
(1)18世紀の科学技術とベルトレ火薬
  1786年ベルトレは塩素酸カリウムを発明した。 塩素酸カリウムによって新しい火薬が生まれ、それが黒色火
 薬と全くことなった性質の火薬であった。 ベルトレは硝石に代わる塩素酸カリウムを75%、木炭と硫黄をそれ
 ぞれ12.5%の割合で混合した、後にベルトレ火薬と呼ばれた混合藥を作って実験した。 このベルトレ火薬はあ
 る意味では成功したが、ある意味では失敗した。 塩素酸カリウムは、黒色火薬のような燃焼(爆燃ばくねん)で
 なく雷酸水銀の様な外力で分解しデイネーション(爆轟ばくごう)を起す性質があった。
(2)雷管の発明とパーカッション・ロック
  このデイネーションを本質とする爆発物が、外力に敏感であるという点に着眼し、これを利用することを試みた
 人物がいた。 それはアレキサンダー・ジョン・フォーサイスというスコットランドの牧師であった。 フォーサイス
 は1781年に父をなくし、その後を継いで同じ教会の牧師を務めた。 彼が銃の発火機構に興味を覚え、その改
 良に手を出したのは、彼の趣味であった狩猟に動機があった。
 かれは教会の近くに沼があった。 そこに冬にたくさんの鳥が集まってくる。 水上に浮かんで羽を休めているカ
 モにそっと忍び寄って銃を向けて引金を引くとパット火花を散らすのをカモ達は目ざとく見つけて飛び立ってしまう
 のである。 フォーサイスはなんとかしてこの遅発性をなくせないかと考え始めたのだった。
  彼は、この失敗を足掛かりにし、いろいろ工夫をかさねたが、ついに雷汞らいこうが外力に極めて敏感という性
 質を利用することを思いついたのであった。 それまで科学者たちが、いずれも厄介な性質として敬遠していた、
 いわゆる欠点を長所としてりようした。 打撃や摩擦など、外力に敏感ならば、わざわざ燧石をつかって着火しな
 くとも撃鉄で直接雷汞を打撃する方法がある。 
  フォーサイスはこのような構想で雷汞を使用する打撃式の発火器を作り上げ、それを試射したところ遅速性は
 まったく除去され、結果は上々であった。 1806年のことである。
  パーカッションは雷菅のことである。 フロントロックはいってみればライターのように、火打石式着火装置が付
 いていて、これで火薬に点火する方式であるが、パーカッションは叩くと爆発する火薬が詰っていて使い捨ての
 雷管をセットし、これを叩いて着火させる方式である。
(3)軍用ライフル時代の到来
                                銃砲の命中率

射程(ヤード)

100

200

300

400

1842(マスケット)

74.5

42.5

16.0

4.5

ミニエ―(ライフル)

94.5

80.0

55.0

52.0

19世紀に入って間もなく銃に関して起った変化の一つは、ライフル即ち、弾丸に回転を与え
 て発射する銃が軍用銃として広く普及した。 ライフルの命中精度が優れているのを知りながらこれまで軍用銃
 としてはならなかった。 
  1742年ベンジャミン・ロビンスにより、回転する弾丸の安定弾道についての理論が発表されたが、こと軍用に
 関するかぎり、その真理論はそのまま捨てさられていたといってよい。 この表を見て、ミニエ―・ライフルの命中
 精度の高いのは勿論、その差は射程が大きいほど急速に開いていくのがわかる。 普通の滑腔こっこう銃(円
 弾)では、400ヤードでは10%未満のため有効射程とは言えない。 これに対し、ライフルでは50%以上の命中
 率を示している。
(4)連発拳銃の実用化
  銃器が火薬によって弾丸を発射する武器・猟具として登場して以来、これを連続して発射しようという工夫は、
 それ以後も続けられていた。 古くからの多銃身・あるいは多銃身回転式連発銃と構想が似て非なる物に、藥
 室のみを複数にしてこれを回転させ1本の銃身から次々に連射しようと考えるもの、同様に古くから試みられて
 いる。 これらは、15世紀にドイツで制作されたと言われている。 しかし、そのようなものは、銃にし
 ろ拳銃にしろ主流にはならなかった。 精密工
業の未発達から複雑な機械の鉄器の試みられた
 が、いま一息という状況であった。 だが、こ
の足踏み状態も、一人の人物によって抜け出る
 ことになる。 それは、サミエル・コルトによ
ってである。 1814年、アメリカ、コネチカッ
 ト州に生まれたコルトは、
1835年に回転式シリンダーの連発銃の特許を申請し、翌年にそれを
 取得している。 コルト・リポルバーのそれまでにない大
きな特徴は、シリンダーがハンマー
 と連動することにある。 ハンマーを起すとシリンダーが
クルリと5分の1回転し、次の藥室
 に通じる伝火孔のニップルにかぶせられた雷管がハンマー
の落ちる位置にくる。 射手はあら
 かじめ全部の藥室に装填されたシリンダーを銃に付ければ、
後は拳銃を持ち帰ることなく、親
 指でハンマーを押して引き続き引金を引けばよい。

(5)後装銃の実用化
  米人ウイリアム・ジェンクスが、1838年に特許を取った最初のジェンクス・カービンは滑腔
 銃身のフリント・ロックで製造されたが、まもなく雷管を使用するパーカッション・ロックで

 ライフリングを持つカービン(短銃身騎銃タイプ)として生産されている。 グリップのやや

 前方、機関部にレバーがありこのレバーを起し更に後方に倒すと藥室を後から押さえて閉じて

 いる部分が後退し、装填孔が頭をだす。 これは明らかに遊底ゆうてい(銃身後部の藥室に入っ
 て
いる弾薬を押さえて閉塞しておく部品)と呼ばれるものの一変型である。 シャーブス・ラ
 イフルは、南北戦争期を通じてよく知られている。 米人クリスチャン・シ
ャーブスによって
 1848
年に特許がとられた銃で、紙製弾薬包を使用し、パーカッション・ロックではあったが雷管
 を使用せず、
1845年メイナードが発明して特許をうけている紙巻火薬を利用した
(6)近代後装銃への脱皮
  南北戦争期において、後装銃は必ずしも前装銃を全面的に駆逐するまでに至っていなかった
 にせよ、後装式の優位は動かしがたいことが実証された。 以後出現すべき近代的な後装銃が

 どれであるべきかという点については極めて大きな示唆をしめしたのであったのである。 
  このことは、南北戦争で実践に供せられ、その適不適を問われた銃が、アメリカ国内で製造
 れた物はもとより、ヨーロッパ各地で製造された各種の外国鉄砲に及んだ。 実際南北戦争

 どのような鉄砲がどれくらい購入されたか調べる途、
43種、2,022,000挺購入されている。 

                  7・大砲の発達

(1)トラファルガー沖海戦
  17世紀から18世紀を通じて帆走艦の銃砲は次第に充実していった。 艦の大型化や帆走技
 の進歩、旗信号の改善などとあいまって、前装式滑腔砲という制約の中であったが、その性

 も操作もまた戦術も高度に集約されていった時代であつた。 それを最高度に発揮されたの

 、
19世紀の初頭、1805年に戦われたのが有名なトラファルガ沖海戦であった。 したがって、
 この海戦の内容をしれば帆走艦時代の代表的な海戦がどのように戦われたかにつてその模
様を
 掴めるのであろう。
 
 ナポレオンの英国本土進攻の夢を砕いたトラファルガ沖海戦の主人公 はネルソン提督である
 。 
その頃、ヨーロッパ大陸ではナポレオンが得意の絶頂にあった。 だがナポレオンの計画の前に立ちはだ
 かったのは、ドーバー海峡であり、そこに浮かぶ強力なイギリスの艦隊であった。  そこで、彼は圧力をかけ仏
 西連合艦隊を結成し、地中海から出撃する計画及び始動した。
  仏西連合艦隊の司令官ハヴィルヌーヴァが任命され、ジブラルカに向ったのは9月末になってからであつた。
 その艦隊が英艦隊に発見されたのは1805年10月20日の午前9時頃トラファルガ岬の沖においてであった。 
  当時の帆走戦列艦を代表する旗艦ヴィクトリー号の諸元は全長57m、前幅16m、排水量約2,200t、最大速度
 約8ノット、吃水きっすい(水面から選定の距離)約5.8m、搭載砲32ポンド砲×30門、24ポンド砲×28門、12ポ
 ンド砲×42門、68ポンド砲×2門、各砲の砲員数は、32ポンド砲で1門当り7人、反舷側の砲員も戦闘舷の砲に
 協力し、砲戦中は14名が1グループを組み戦うことになる。
  舷側のガンポートが開かれると銃口から先端に布スポンジの付いたラムロッド(さく杖)を押し込み砲腔を拭く。
 その間に、他の人が、伝火薬と藥室内に通じる伝火孔を詰りがないかどうか、細い針金を通して点検する。 校
 内にラムロッドが通されると、火薬の入った木綿袋が銃口から入れられ、これとは別のラムロッドで砲尾にむか
 って押し入れる。 火薬袋の装填が済むと砲弾を転がし込む。 この間、砲員の1人は砲尾の伝火孔の細いリー
 マーを差し込み、火薬袋に穴を開け、その後、点火薬を注ぎ作業を終える。 砲架台の両側から舷側内の滑車
 で折り帰るテイクロープを引き砲口を舷側から突出して砲準備は完了する。 実戦ではイギリス艦隊では平均1
 分半であり、一方の仏西連合艦隊では」3分を要したという。 各砲の重点が終わると号笛が吹かれ、砲用意完
 了の報告が司令甲板に知らされる。 「よろしい。 砲撃は500ヤードより開始する。 各員は祖国のためベストを
 つくせ」ところで、トラファルガ沖で会いまみえた艦隊は、仏西連合艦隊が33隻に対し、ネルソン側はネルソン直
 属の12隻の戦列と副将コリンウット提督の率いる15隻、計27隻であった。 仏西連合艦隊の指揮官ヴィルヌー
 ウ提督はトラファルガ沖に出現したイギリス艦隊が意外に大勢力なのを知ると、進路を北西に変える。 これは、
 万一海戦が不利に展開した場合、カデス湾に逃げ込める海域で戦おうとしたからである。 この辺りの両艦隊の
 戦意の差も後の日本海戦と似ている。
  北西に帆走する縦陣の仏西連合艦隊に対してイギリス艦隊はそれぞれ縦陣で接近してゆく。 ネルソン・コリ
  ンウットの2隊が縦陣で、連合艦隊の腹を突くように迫っていったのに対し、2000ヤードで旗艦ビューサントル
 号が我慢しきれず砲火をきらめかせた。 それをきっかけに連合艦隊の観は一斉に火蓋をきった。 砲甲板では
 各砲に1人の砲長が砲尾中心から引いた照準点の一定点を待ち、砲の仰角と射程はあらかじめの算定表とな
 って与えられており、報身はおよその射程応じて砲尾に楔を打ち込まれている。 ゆっくりと接近する敵艦が照
 準に近づくと、砲長は「発射用意」と号令すると片手に火のつけた火縄を先に付けたリンストック(火縄保持杖)を
 もった点火員が砲尾側に立って発射の号令を待つ。 「発射」点火孔の点火薬に火縄の一端がつ
 けら
れ、轟音と共に発射される。   2000ヤードの遠距離から有効な命中は至難である。 
 このことを熟知しているネルソンは、
敵の過早な砲撃開始に迷わされることなく、適を持して
 相手の艦隊に突き進んだ。 ネルソン
提督は敵の隊列を分断する為2列の縦隊で突っ込むネル
 ソン・タッチとうい戦法を使った。 
 連合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっ
 ていたため、指揮系統も複雑で、士気
や練度が低く、艦船砲の射速も3分に1発と劣っていた
 。 一方イギリス海軍は士気の練度も
高く射速も1分30秒に1発と優れていた。 激戦の末、
 連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊
18隻、戦死4000、捕虜7000という被害をうけ、ヴィルヌーヴ提
 督も捕虜となった。 一方イギリス
艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1200という被害ですんだが
 、ネルソン提督はフランス艦ルド
ウタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。 ネルソンは「神に感謝
 する。 私は義務を果たした」と
言い残し絶息した。 
(2)南北戦争と砲

  アメリカ南北戦争(18611865)は、アメリカ合衆国と目理科連合国との間で行われた戦争
 である。 奴隷制度存続を主張するアメリカ南部諸州のうち
11州が合衆国を脱退、アメリカ連
 合国を結成し、合衆国に留まった北部
23州との間で戦争となった。  当時、南部と北部との
 経済・社会・政治的な相違が拡大していた。 南部では農業中心のプ
ランテイション経済が盛
 んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。 プランテイション経済
は黒人労働奴隷によって
 支えられていた。 そして、農園所有者が実質的に南部を支配してい
た。 南部の綿花栽培の
 急速な発展は、英国面工業の発展に伴って増大した綿花需要におうも
ので、英国を中心とした
 自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を
望んでいた。 それに比
 べ、北部では米英戦争(
18121814)による英国工業製品の途絶えでかえって急速な工業化が
 進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制度とは相容れ
なかった。 欧州製の工
 業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められた。 そ
の結果、奴隷制に対する
 態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州(奴
隷制を認めないという
 「自由」)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。
  186011月の大統領選挙では奴隷制度
 が争点の一つになり、奴隷制の拡大に反対した共和
党のエイブラハム・リンカ-ンが当選した
  。 この時点では、奴隷は個人の私有財産であるこ
ともあり、リンカーン自身は奴隷制廃止
 を宣言してはいなかったが、南部では不安が広がった。
  同年12月にはサウスカロライナ州
 が早くも連邦から脱退を宣言。 翌
1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州
 、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦から脱退を宣言した。 2月4日にはこの
 7州が参加した連合国を結成、ジェファーソン・ディヴィスが暫定大統領に指名された。
  3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12に南軍が連邦のサムたー要塞を砲撃し
 て先端が開かれた。 5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロラ

 イナー州が連合国に合流した。 
  4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖
 を宣言した。
  南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備はまったくできてい
 なかった. 合
衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も旧式のものを使用していた
  。 また、合衆国海軍も将兵7600人と船舶42隻程度しか保有していなかった。 しかし、それに対して南部は
 正規軍と呼べるような)兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。
   1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。 南軍の一部隊はこの夏には連邦首都ワシントンD.Cに
 まで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人工、工業力など総合力に優れた北軍が優位に立つように
 なっていた。 さらに西部からウィリアム・シャーマンが大西洋に向かって海への進軍を開始し、9月にはアトラン
 タを陥落させた。 1865年4月3日には」南部の首都リッチモンドが陥落した。 9日にはリーが降伏し、南北戦
 争は事実上終了した。 
  お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦の一つだった。 最終的な動員
 兵力は、北軍が」156万人、」南軍が90万人にたっした。 両軍あわせて62万人もの死者をだし、これはアメリカ
 が」これ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。
  南北戦争がそれまでの戦争とは体質の異なる近代戦の序曲であっあという理由はいろいろと言われている、
 例えば、ジェイムズ・マクファーソンは、その著書の中で次の様にしてきいている。
   ① 鉄道と電信の広範な軍事利用
   ② 装甲艦同士の海戦
   ③ ライフル砲とライフル小火器の普及
   ④ 連発銃の普及
   ⑤ 手動機関銃の実験的使用
   ⑥ 潜水艦の使用
   ⑦ 塹壕戦の展開
   ⑧ アメリカ最初の徴兵
   ⑨ 偵察用気球隊の出現
   ⑩ 軍用品の大量生産
 というものの、一方では、南北戦争は、多くの部分で前近代的な体質を残していた。 例えば三兵戦術の踏襲、
 整然と隊互を整えたり、歩兵隊の横隊前進による白兵戦等がある。
(3)火砲の構造的変革
  銃が前装から後装に代わった頃、火砲においても後装が試みられた。 砲尾から装填できれば、利点が大き
 い。 第1に、装填が簡単になり、発射率が高くなる。 第2に、長いさく杖が不用となり、操砲が簡単となる。 砲
 は銃と違い、射程を大きくするため、大きな仰角を執ることが多い。 この様な場合、1発毎に、砲口を下げ、装
 填を終わればまた元の仰角に戻さねばながない、これはそうとう操作時間を要する面倒な作業である。 第3に
 、後装砲は砲手にとってより安全な砲となる。 前装の場合、1発毎に、防護物の前に出て敵に体を曝して装填 しなければならない。
  砲尾の閉鎖方法で現代であれば誰でも考えるのがネジつまりスクリュウの利用である。 この様なスクリュウ
 型の閉鎖機を実現したのが、イギリスのブレー・クレーで1855年のことである。 彼の閉鎖機は円錐型の尾栓の
 周囲に雄ネジを切り、これが同じピッチで斬られている 砲尾室後端の雌ネジに噛み合うようになっている。 こ
 の円錐型の尾栓がミソであり、この尾栓に付いているハンドルを2回ほど回すだけで閉鎖が説かれ砲尾が開か
 れる。
  この頃同じイギリスのアームストロングはやはり後装の研究に手を染め、一つの考案をあらわしている。  こ
 れはクサビ式とネジ式の混合型で、考案としては巧妙であった。 
  この方式のアームストロング砲を搭載した英艦が、文久3年(1863)7月、前年の横浜、生麦事件に端を発した
 英国と薩摩の紛争である薩英戦争で鹿児島を砲撃し、薩摩藩に大きな打撃を与えている。 イギリス海軍が前
 装から後装のアームストロング砲に切り替え、同海軍によって実践に使用したのは、この戦いが最初であった。
 一方、日本にとっては最初の西欧人種との戦いであったが、この戦いが、同時に英海軍の最初の後装ライフル
 砲との戦いであった。 しかし、多少の欠点は発見されたものの、実践に使用してみて、後装ライフル砲、円錐弾
、そして着発信の組み合わせによる威力は絶大なものがあったのは、攻撃を受けた、薩摩川も攻撃した英国側も
 等しく認めている。 
  ところで、アームストロング砲の発明者だが、彼は1858年、英海軍が彼の発明になる後装砲を採用することを
 決めた翌年、国営銃砲工廠こうしょう(軍需工場)の主任技師に抜擢され、後装砲の改良に専念することになっ
 た。 しかし、前期の薩英戦争の戦闘報告でクーパー中将がアームストロング砲の欠点を明らかにすると、その
 結果、たとえ一時的にせよ、前装砲に逆戻りする。 そして当のアームストロングは失望して退廠し、自力で製
 砲攻城の経営に乗りだした、しかも、その私営工場が後に火砲のみでなく、国際規模の一大軍事企業にまで発
 展した。 
  鉄血宰相ビスマルクによってヨーロッパの一流陸軍国になったプロイセンも同様の動きをみせていた。 同国
 は51年以来、一連の後装砲の検討を続けていたが、58年にまず、要塞守備兵に後装砲を採用することを決定し
 ている。
  一動作で砲尾を開平したいという要求に応え野に下ったアームストロングは、やがて隔螺式という方式」を発
 明した。 この尾栓は、それまでの様に尾栓全体にネジを切っておくのでなく、一部のみ60度に切っている。 
 砲尾室後端には尾栓のネジが切られいな部分は切られているが、切られている部分はきられていない。 しか
 し、両者のネジが切られている部分の面積は使途敷く、又雌雄の関係でうまくかみ合うようになっている。
  その他、カヴァリの閉鎖方式等がある。
(4)炸裂弾と信管
  さて、火砲が後装への道を模索している間、中世から近世に至り、火砲技術が完成期に入ってゆくまでの全て
 の期間を通じて、もう1つの努力が続けられていた。 それは、砲弾の持つ威力を増大させるための力であっ
 た。  
  砲が使われ出したころはいうまでもなく実体弾でありそれは命中衝撃だけで物を壊し、人を倒した。 最初の
 頃は専ら城塞や砦の攻撃に使われていた。 砲弾は大きく、重く、衝撃力を増やして破壊力を大きくしようとした
 。 古くから構想が存在し、また例が的に使用したことのある炸裂弾を19世紀に入ってリバイバルさせたのがフ
 ランスのペクザン将軍であったとされている。 1822年に彼は「新海軍と砲術」という書で、炸裂弾の採用を主張
 し、これが海軍に受け入れられている。 このペクザンの提唱による炸裂弾が実戦で効果を発揮したのは、
 1853年11月のロシア艦隊による国会シノーブ湾で行われたトルコ艦隊への攻撃に於いてであった。 6隻の戦
 列艦よりなるロシア艦隊がシノープに碇泊していたトルコの7隻のフルゲート艦ほか小型船5隻に壊滅的な打撃
 を与えた戦いである。 
  炸裂する砲弾が初めて文献に現れたのは中国の明初期の「火龍経」という軍事マニュアルである。 この本に
 あるように火薬を詰めた中空の砲弾は鋳鉄製であった。 
 このように、南北戦争以前に炸裂弾の威力は知られており、開戦以後、このような砲弾に関する研究が急速に
 進んだ。その主目的は、不安定な導火線型を安定した作動の信管型にすることであった。 それは砲弾の内部
 に充填した火薬(炸藥)に点火する。 つまり砲弾に起爆させる引き金の役をする部分である。 信管による砲弾
  を起爆させる方法には、時間によるものと衝撃によるものの二つの方法がある。 
 当初実用化された各国の歩兵や海軍などで使用された信管は時限信管がほとんどで、それも、発射で信管内
 に伝火薬に火がつき、それが燃え進んで一定時間後、弾内の炸藥にてんかする。現在では「曳火信管」と呼ば
 れる方法が、信管の基本的なシステムであった。 
  右図に示したのは、球形砲弾用の木製信管として最も簡単な構造で、しかも、その割に信頼でき、また安価な
 もので各国で使用された 砲弾が命中する時の衝撃は強烈である。 そのショックを利用し、雷汞らいこう等起
 爆藥に起爆させ、それで砲弾を炸裂させる。 だが、この衝撃式信管の考えも、現実のものとなれば必ず死も容
 易でない。 まず、着弾時の衝撃で確実に起爆すると同時に、発射の衝撃では確実に起爆しない装置でなけれ
 ばならない、という条件があり、これが第1条件である。 次に弾体がどんな部分から着弾しても、その衝撃で確
 実に起爆しなければならないという条件がある。
  信管とは弾薬を構成する部品の一つであり、弾薬の種類と用途に応じて所望の時期と場所で弾薬を作動させ
 るための装置である。 
 現在、以下の4つの機能をもlちゅていて、以下の機能が一つに結合された装置を信管と呼んでいる。
   [1] 起爆時期を感知する機能 [2] 所望の時期以外では絶対に起爆させないための安全装置
   [3] 安全装置の解除機能
   [4] 弾薬の起爆装置
  図(取付不可の為略)は信管の概要図で「弾頭」に装着する「着発式」で「遠心力の安全装置」を持ち、「瞬発」
 と「延期」の切替装置をもっている。 用途としては野砲などの榴弾で使用されるものである。 
 起爆は鋭敏な点火藥が撃発されるこつで起こり、起爆藥から添装填藥へと伝わり砲弾の炸約が 起爆される。
   ① 撃針ブロック 砲弾が発射されると②が作動し、⑨が外れて③から露出することで目標に当たって④に衝
     撃を伝え発火させる。
   ② 遠心力式安全装置 砲弾が発射されるとライフリングによろ回転の遠心力が生じ、①を固定しているこれ
     が外れ、外側に押しつけられて外れることで解除される。
   ③ 構造体、④点火薬 目標に当たるとその衝撃を受けて発火する。 ⑤遅延火薬
   ⑥ 瞬発と延期の切替装置 信管についている小さなマイナスネジの様な部分を90度まわすと④の火は弾
     かれて、ここでは⑤を通じて⑦⑧へ送られるので僅かにおくれ、0.1秒程度の遅延動作をする。
   ⑦ 起爆藥、⑧添装填藥
  
                          8.日本の軍事近代化
(1)幕末溶鉄事業と鋳鉄砲
  安政元年(1854)3月3日、日米和親条約が締結され日本は近代世界史上に身を置くことになった。 ついで
 対英、対露と条約が結ばれ鎖国の鎖は解き放たれた。 そして日本はわずか十数年の間に藩幕体制を解体、
 天皇を中心の立憲君主制の資本主義国へと変容する。
  しかし、安政条約により、幕府が自らその鎖国政策を放棄した時点でこうした変革を予想したのでもなければ、
 ましてそれを望声などはない。 幕府は開国をやむなしとしながらも、幕藩体制維持にしばらく努力を注ぐのであ
 る。 開国により、幕府諸藩が軍備強化に狂奔するのは、先進国の圧力に抗して自己の体制をまもるための努
 力である。 換言すればペリーの黒船艦隊に象徴される欧米諸国の強力な軍事力を眼前にした危機感による
 封建権力者の本能的なうごきである。
  幕府・諸藩主など封建権力者らが先進欧米諸国の軍事力に驚き、強い恐怖を持ったのを突き詰めて考えると
 、綱の時代に入った国々に対して未だ組織的な製鉄工業も保有していなかった後進国日本の焦燥と捉えても
 よいであろう。 あらゆる工業製品の基盤となる鉄と鋼を、ほぼ自由に生産し賀古氏売る段階に達していた彼ら
 の工業技術に接し、その片鱗を知るにつけてもその格差の大きいことを思いしらされた。
  ところで、鉄という金属は最初熔けない物として人間の手にはいった。 これは銅と対照的な性質である。 地
 球上、ほとんど何処にでも手に入る鉄鉱石を炉により木炭で熱すると400~800℃で海綿状から粘りのあるアメ
 状の軟塊となる。 これを鍛錬すると鉄になる。 一方銅の融点は1000℃だが、これに、これに錫を混ぜると
 700~900℃に下がる。 こうして出来た合金が青銅である。 この両者の性質の違いが鉄は熱して叩いて使う
 金属とし、銅は熔かして鋳造して使う金属としてそれぞれ昔の人の手に入り活用されていた。 
  鉄は純粋なものは、1500℃以上の融点で炭素が多い銑鉄でも1200℃でなくては解けない。 この200℃の壁
 が、鉄は熔けぬ金属としたのである。 鉄も粘りのある半熔物ルツべとしてでは なく、ドロドロに熔けた「湯」とし
 て手に入れるのは、高炉の出現以後であった。 細長く建てられた炉も上部から金属を含む鉱石を大量の燃料
 と共に投入し、下の送風口から強力な空気を送り込み加熱する。 炉内に投入された木炭は功績の密度を緩め
、燃焼ガスの通りを良くし炉内の温度をぐんぐん高くする。 鉄鉱石は還元され鉄となるが、温度が高いので木
 炭の中の炭素を活発に吸収すると融点がさがり、1200℃位になり、遂に熔けた湯になって炉底に溜り、流出す
 る。 これが銑鉄であり、鉄は初めて熔ける金属として姿を表す。 
  こうして得られた銑鉄は可鍛性かたんせい(鍛造しうる性質)が全くない。 ハンマーで叩くだけでわれてしまう
 。 だが反面銅と同じように鋳造できる。 炭素含有量の多い銑鉄もこれを再加熱して溶解し、中の炭素を燃や
 して追い出せば、立派な可鍛鉄になる。 藥室内の火薬に点火すると、あたかも巨大なハンマーで砲身を内か
 ら叩くような衝撃が加えられる。 鋳鉄方針は、こんな衝撃に弱く、砲身を造るにはそれ以上の肉厚に寝ねばな
 らなかった。 
  一方、砲弾は鋳鉄の性能が大いに発揮された。 砲弾は砲身のように何度も反復使用される事無く、1度だけ
 の衝撃に堪えればよく、鋳物としても小型で作りやすく、戦争となればまったくの踵腓材であった。
  ところで高炉法による銑鉄の生産が発展し、鋳鉄による工業生産物が砲や砲弾を含めて種類と量をまし、更
 に銑鉄が可鍛鉄の原料として需要が増大するにつれ、製鉄業は国家産業てきな新しい工業としてそだっていっ
 た。 
  反射炉は金属溶融炉の一種である。 熱を発せさせる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴
 である。 最初の反射炉は中世の時代にあったとおもわれる。 鐘を鋳込むために青銅の溶解に使用された。 
 1690年に入ると反射炉は工業用の銑鉄の溶融にもちいられるようになった。
  江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、外国船に対抗するためには制度が高く飛距離の長
 い様式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では大型の様式砲をさくせいすることは不可能であり、外
 国式の溶解炉が求められることとなった。 外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもある。 一冊のオ
 ランダ原書をもとに反射炉添接と銑鉄精錬が進められた。 様式鋳鉄事業の源となった原書は、オランダの「ロ
 イタ国立鉄熕鋳造所における鋳造作業」という書名で副題に「火砲や砲弾などについて」と記されている。 この
 書に着目したのは佐賀藩士杉谷雍介ようすけであった。 当時すでに冶金技術に関心を持ち、知識もあった杉
 谷はこの書を入手、以東玄朴、後藤丈二郎、池田才八らと共に翻訳に着手したのは弘化4年(1847)のことであ
 った。 こうして「熕鉄全書」と懐けられた訳本が完成したのは嘉永3年(1850)のことで、足掛け4年を対やして
 いる。 この書は、当時のヨーロッパでもかなり、高度な技術解析所である。 その内容は鋳鉄砲の製造を叙述
 するのを目的としているが、それに至る不可欠な問題、詰り、鉄鉱石の種類品質、それに関連する銑鉄種類品
 質科学的な蘇生、そdして、高炉、反射炉の構造から操作法、燃料に至るまで、製鉄技術の基礎原理前半に
 及んでいる。
  佐賀藩は杉谷らの翻訳完成に時期を合わせるかのように反射炉建設を開始した。 嘉永3年(1850)7月に第
 1期建設工事を開始11月に完成いた。 16回おこなっている。 1,2,3,4回失敗、第5回2門鋳造に成功する
 。 以後、鉄製大砲製造が可能であることが確認できた。
  佐賀藩の西洋科学への挑戦ともいえるこの事業は、いわゆる雄藩の追随者が後を追う。 その追随者第1号
 が薩摩藩である。 強大な薩摩軍力の基盤となり、倒幕のエネルギー源の役割を果すのである。 その一つの
 軸となるのが、佐賀藩に範をとった反射炉鋳砲工業である。
  薩摩藩が反射炉建設を決定したのは、佐賀藩より、1年後であった。 この決定を下したのが島津第28代の藩
 主斉彬である。 彼は西洋軍事技術の導入に最重点を置いて板のは当然であるが、一般産業にもこれを導入
 しようと試みていた。 例えば、反射炉にしても佐賀藩のそれは、鋳鉄砲製造用以外に何もなかった。 だが斉
 彬は反射炉で作られる鋳鉄を農機具生産などにも向けるのを計画していた、これは封建為政者の枠を超えた
 科学者としての眼を持っていた。 
  薩摩藩の反射炉建造計画が具体的に動き始めたのは嘉永4年(1851)秋である。 そのテキストは、佐賀藩
 から贈られた「熕鉄全書」であった。計画はまず城内の動植物園の敷地に小型の雛型を1基造り、それで銑鉄
 溶解を試みることから開始された。 しかし、これが失敗であったが、失敗のまま本格的な反射炉建造に入った
 のは翌5年であった。 場所は鹿児島郊外の磯庭園敷地内の竹林を切り開き、そこでテキスト通りの規模で建
 設され、翌6年に夏にまず完成した。 しかし、基礎工事不十分で第1炉は取り壊された。 改めて第2炉の建設
 が計画さ
  れ安政元年(1854)9月建設が開始された。 前回の失敗にこり、まず完全な耐火煉瓦の製造から着手された
 。 安政3年(1856)春2号機が完成した。 第2炉の成功を見て、すぐに第3炉の建設に着手した。 これは安政
 4年夏に完成した。 これによって溶解しうる銑鉄はおおよそ1万斤きん(600g)[約6t]に達し、150ポンド砲の鋳
 造が実現した。 炉は鋳砲場に隣接して設けれ、炉底は鋳砲場より高く築かれており、湯口から流出する溶鉄を
 そのまま地上に建てた鋳型に注ぎ込んで凝固させ、すぐ倒して作業に書かれ、運搬できるように合理的な設置
 となっていた。 
(2)薩英戦争
  徳川封建体制の末期、たとえ一部の人々にせよ基幹産業の柱となる製鉄工業の重要性が認識され、その実
 現に苦闘しながら明治に入ってゆくのだが、その間に日本は2度の対外戦を経験し、大いなる教訓をえている。
 いうまでもなく、薩摩藩の対英戦と長州藩の攘夷戦がそれである。 薩英戦争の発端は、文久2年(1862)8月
 21日に起こった生麦事件である。 この結果、幕府は10万ポンド償金を支払い、この事件は幕府に関する限り
 一応決着はついた形となった。 しかし、これでは当事者間の解決ではない。 光栄ある大英帝国としては、な
  んとしても事件当事者である薩摩藩から償金成り、下手人の処罰なりの応分の処置をとり付けなくてはならな
 いのである。 幕府はこれを止めようとしなかった。
  薩摩藩が海防を重視し強化を開始したのは28代斉彬のころである。 万延元年(1860)から薩英戦争の起る
 文久3年(1863)夏以前にかけて、薩摩藩が外国船舶購入に対し支払った金額は51万ドルにのぼる。 その結
 果として、天佑丸(746t)、白鳳丸(532t)、青鷹丸(492t)、永平丸(447t)、平行丸(160t)の5隻が入手された。
   他方、海岸防備への着手はずっと早く、天保15年(1844)に始動している。 これはアヘン戦争の刺激による
 ものであった。 しかし、この当時の強化策は、旧式で従来のものに多少手を加えた域をでず、とても十分とは
 いかなかったが、斉彬の代になり、嘉永5年(1852)から本格的な様式砲台の構築が始められた。 
  大門口台場、祇園洲台場、弁天台場、新波止台場、砂場台場などが主力防備砲台として築造された。 また
 平行して陸兵軍も万延元年に軍制改革を実施し、軍国時代的制度を払拭する努力が払われ、まかりなりにも歩
 騎砲の三兵近代戦闘能力を備える集団として育成が進行していた。 台場では、対艦砲撃の訓練が蔵返され、
 。文久3年正月には3000人近くを動員した大演習が挙行され、電気発火の水雷の実験や非常事態発生の場合
 の藩内の通信連絡網の整備が進められるなど、軍備強化は海陸に渡って実施されたのである。
                       表1 薩摩藩砲台と装備火砲

場 所

装備火砲

1砂場

80斤ポムカノン1門、36斤ポムカノン2門、24斤短砲2門、

18斤短砲2門、20ドイム臼砲2門、8斤野砲2門、     計11

2大門口

36斤ボムカノン3門、20ドイム臼砲1門、野戦砲4門    計 8門

3南波止

 町田小輔

24斤長砲1門、24斤短砲2門、18斤短砲2門、12斤短砲2門、

20ドイム3門、野砲2門、                12

4弁天波止

150斤ポムカノン4門、80斤ポムカノン4門、36斤ポムカノン4門、

29ドイム臼砲1門、20ドイム2門、6斤野砲2門、     計14

5新波止

 川上石膳

150斤ポムカノン1門、80斤ポムカノン1門、36斤ポムカノン5門

20ドイム臼砲1門、6斤野砲3門、             11

6祇園州

 島津権五郎

80斤ポムカノン1門、24斤長・短4門、

20ドイム臼砲1門、                                                    計6門

7桜島横山

24斤短砲1門、18斤砲2門、15ドイム臼砲1門      計 4門

8鳥島

12斤野砲2門、6斤野砲1門、              計3門

9桜島洗出

18斤短砲1門、12斤短砲2門、10斤野砲1門、6斤野砲2門 計6門

10沖小島

3貫目筒5門、100匁目筒10門              15

 総計

                                                                90


                         表2鹿児島来襲の英国艦隊勢力表

艦  名

司令官

砲門数

馬力

重量(トン)

兵員数

速度

ユーリアラス

ジョスリン大佐

46

5250

2371

600

11ノット

パール

ホーレス大佐

21

400

1469

245

 

パーサス

キングストン少佐

6門

200

 

172

10ノット

アーガス

ムーア少佐

6門

200

975

170

 

レースホース

ボクサー少佐

4門

200

 

103

11ノット

コクエット

アレキサンダー少佐

4門

100

670

78

 

ハポック

ブール大尉

3門

60

 

50

 

合   計

 

90

 

 

 

 

  これら10カ所の砲台に供えられた火砲は治岸砲45門、野戦砲(移動可能砲)28門、臼砲きゅうほう(曲射砲の
 一種)10門を含む総計91門である。 一方、鹿児島に向かう英国艦隊は幕府からの情報は得ていたが、実力の
 過信から逆に薩摩藩の力を過小評価していたまま行動にうつった。 日本駐在代理公使セント・ジョン・ニール
 が旗艦ユーリアンスに坐乗し、鹿児島に向い出航したのは文久3年8月6日のことであった。 
  艦隊は総数7隻、率いる提督は英国東インド靱艦隊司令官オーガスタス・クーパー中将で、この艦隊が鹿児
 島錦江湾に姿を表したのは同月11日、御前2時ごろである。 この艦隊の勢力は表2の通りである。 このよう
 に戦闘艦隊としては旗艦ユーリアンのみが当時の一流戦列艦でパールがこれに続き、他はコルベット艦(1層
 の砲甲板かんぱんを持つフリゲート艦)、砲艦級(比較的小型で主として沿岸、河川、内水ないすいで活動する
 火砲を主兵装とした水上戦闘艦)の小型艦で総合的には二流艦隊である。 しかし、注目されるのは、パール、
 ハポックの2艦を除く5艦に新鋭のアームストロング後装ライフル砲が搭載され、実践の機会を待っていた。 さ
 て午後2時頃錦江湾に入航した英艦隊は夕刻の7時頃には鹿児島城下から12㎞ほどの七つ岩付近で投錨、仮
 泊した。 ついで翌12日、艦隊は午前7時に、抜錨、小艦が先頭になり水深を測りながら神瀬と天保山の間を通
 過し、前の浜沖に帰還を中心に単縦陣のまま投錨した。 午前8時30分と記録されている。
  武力を背景とした英国側の要求は強硬であった。 生麦事件のリチャードソン殺害犯人を英国海軍士官の目
 前で処刑し、負傷者に償金2万5千ポンドを支払えさもなくば直ちに先端を開くがその責任はあくまで薩摩藩に
 あるというのである。 むろん強気の薩摩藩がこれに応じるわけがない。 英国側への返答はともかく会談に応
 じるが、公使、提督など上陸されたい。といったものであった。 
  明けて14日公使からバトンを渡された提督は、翌15日から行動に入ることにし、準備にかかった。 文久3年(
 1863)8月15日、英艦隊の実力行使はかねての計画どおり、薩摩藩の持つ、3隻の汽船を拿捕することから開
 始された。 海上まだ暗い払暁、重富沖に碇泊していた天祐丸、白鳳丸、青鷹丸にアーガス、レースホース、コ
 クエツトの3艦がよこずけになり、たちまち3せきとも拿捕された。 
  こうして三船拿捕に成功した英艦隊は、ついて薩摩藩の出方を見守ることとした。 これら三隻の汽船の総額
 は30万8千ドルに達する。 こんな巨額な抵当をとられた以上、いくら強気の薩摩でも多少は折れ交渉は再開さ
 れるだろう。 英国側は」おそらくそう踏んだであろう、だがこの思惑ははずれた。 薩摩はあくまでも強気であり
 、汽船拉致の報が千元治に設けられているには本営にもたらされた。 午前10時には即ち、開戦を決定した。 
 そしてほぼ正午薩摩の砲撃が開始された。 そしてほぼ正午薩摩の砲撃が開始され、七つの大洋に陽が沈む
 ことなしと誇った大英帝国艦隊に薩摩藩のナショナリズムの刀が抜かれた。 初段を放ったのは砂場砲台で、す
 ぐに射程内に英艦隊をおいていると思われる砲台もこれに続いた。 
  薩摩の砲撃は初め遠弾であったが、そこで順次仰角を改めて弾着を寄せて行き至近弾を得るにいたった。 
 この緒戦の砲撃で最も英艦隊を驚かせたのは泊地の近くにあった横山砲台であった。 英艦隊はここに砲台が
 あることをしらずおのほとんどが直下に碇泊していたパーサスはいきなり急射をうけて驚愕した。 こちらは最初
 から弾着がよく、至近弾数発の後直撃を受け館内は大騒動となった。 ともかく急に脱しようと錨の鎖を切って
 錨点をはなれた。
  パールも応戦にはいった。 午前からの風雨はこのころ激しさをまし、艦の動揺は大きく、これは英艦隊側にハ
 ンデイキャップとなって作用した。 パーサスも反転し、応戦の戦列に加わった。 こちらも初段が高く砲台の上を
 飛び去るだけであったが、次第に弾着は正確になり、命中弾が増え砲台側が苦戦に陥っていった。
   一方旗艦ユーリアン(横山砲台の射程内にいたのはこのユーリアンとパーサスの2艦)では正午近く、昼食に
 掛かろうとしたとき砲撃を受け、やはり驚きはひとかたでなかった。 そこで、急遽抜錨した同艦のクーパー提督
 はコクエット、レースホース、ハボックの3艦に捕獲した3隻の汽船の焼却を命じた。 薩摩の強腰にはもはやこ
 れまでと判断したのであった。
  命を受けた3艦は兵を派遣してこれら3艦を焼沈し、ついで、艦隊は、ユーリアン、パール、コクエット、アーカス
 、パーサス、レースホースの順に単縦陣をくみ、先の祇園州砲台の前にせまって砲撃を開始した。 ただし、ハ
 イボックは3艦の焼沈を見届けるため後置されている。 このころ午後2時を少し過ぎていた。 即ち薩摩藩が砲
 撃を開始してから艦隊が本格的な反撃行動に入るまでに2時間以上も経過しているのである。 ことに旗艦ユー
 リアンは初弾を発射するまで2時間近くかかっている。 
  ともかく若干の遅れはあったが、本格的な反撃にはいった英艦隊は、艦隊対砲台戦闘の原則どおり、端から1
 砲づつ順次砲撃し沈黙させようと単縦陣で進航、まず祇園州砲台にせまったが荒天下で陣型保持が困難になり
 、単艦攻撃に近い砲撃となった。 近くは400ヤード、遠いもので800ヤード英艦隊は初めて使用する後装ライフ
 ル砲、アームストロング砲の砲弾を同砲台に集中したのである。 後装ライフル砲であるアームストロング砲は、
 厳密にはこの戦いでの使用が最初ではない、しかし、東洋派遣のクーパー艦隊としては勿論これが実戦で初め
 て使用する機会であった。 祇園州砲台はたちまち沈黙させられた。
  薩英戦争の象徴的な一面は薩摩藩がオランダ伝来の旧式な青銅前装砲で戦ったのに対し英国側が鋳鋼後
 装ライフル砲で対したことにある。 英艦隊はネルソン時代のそのままの旧式砲台を最新の艦砲射撃で叩き潰
 そうとかかったわけである。 
  一方薩摩軍としては前装という不利は陸上砲台ということで装填時間と工夫と訓練でかなり短縮でき、実際に
 1,2分に1発ほどの発射速度で応戦したようである。 これは前装としてはかなりの成績である。 また当日の
 荒天は艦の動揺を激しくし、後装でも命中率の低下はさけられない。 これにたいし薩摩軍側は不動の砲台から
 の砲撃で低速の敵艦に対しては命中率は思ったよりよかった。
  さて、2時10分、砲撃を開始してすぐさま祇園州砲台を沈黙させたユーリアラスは余勢をかって陸上より8町(
 960m)に碇置したあった訓練用の的付近で取り舵をとり、標的内側に入り新波止、弁天波止の両砲台を制圧せ
 んと突進してきた。 だが、これは薩摩軍の火力の過小評価したいささか軽率な行動であった。 祇園を簡単に
 沈黙させたbので、何ほどのことがあるかと次の目標に襲いかかったのである。 一方、薩摩軍にとってこれは
 願っtもない機会であった。 日頃の訓練用標的を通過しようとする敵艦に矢ごろも心得た両砲台から砲撃が一
 斉に集中する。 そしてこの砲撃で機関の艦長ジョスリン大佐と副長ウィルモット少佐が一挙に戦死した、という
 大きな被害をうけてしまうのである。 ユーリアラスは大門口砲台前を通過し
 午後3時30分に砲撃を中止、小池錨地にむかった。 この間、祇園州と新波止の中間、行屋橋
付近を砲撃したⅠ弾が硫黄倉庫に落下火災が発生し、折からの強風にあって延焼、上町の殆ど
が焼失した。 
  かくして雅語島湾をさった英艦隊は、8月22日夜、アーガス、ハボックの2艦が帰港し、その後25日朝ユーリア
ラスを最後に全艦が帰港した。
                               表3英艦戦死傷者数

艦名

ユーリアラス

パール

パーラコース

アーカス

レースホース

コクエット

 

戦死

10

 

   1

 

 

  2

13

戦傷

21

  7

   9

  6

  3

  4

50

合計

31

  7

10

  6

  3

  6

63

                            表4薩摩藩戦死傷者

砲  台

祇園州

沖小島

遊  軍

合  計

戦  死

    1

 

    4

    5

戦  傷

    6

    8

    5

19

合  計

    7

    8

    9

24

  両軍の損害を戦死傷者数で比較すると英艦隊の方がかなり大きい。 しかし、価格30万ドル以上の3隻の汽船
 を消沈され、各砲台の多くは破壊されたばかりでなく集成館や上町一帯が灰燼に帰すという大きな物質的な損
 害を受けている。 
  勝敗よりも、この戦いで何を学んだかがより重要である。 勿論先進の科学文明国である英国の自他共に許
 す世界最強の艦隊と兵火を交わした薩摩藩はその実力の程を思い知らされ、いまさらながら愕然としたことだろ
 うし、一方の英国にしてもそれまで接してきたアジアの国の人々と一味も二味も違う手ごたえを感じたことだろう
 。 以後の英国の対日政策に大きな影響を与えることになり、それは明治にはいっても持続してゆく。 鹿児島
 湾でのほとんど1日でおわった局地戦であったが、近代日本として再出発を目前にしていた我が国にとっての意
 義は誠に大きい。
  ところで、薩摩藩は善戦したものの英艦隊の駆使した火力の前にどうにもならないギャップをみて攘夷が如何
 に現実から遊離した政策かを知ることになった。 一方、英艦隊、ひいては英国にとっての薩摩藩攻撃の教訓は
 少なからぬものがあった。 その一つは武力を背景にした恐喝が必ずしも有効でないことを知った点である。 こ
 の教訓は以後、対日政策に早速反映され、幕末維新の対日外交史の随所に投影されている。 そしてまた戦
 術面でも、英艦隊は誠に色んな事を知った。 その第1は、艦隊による陸上砲台の攻撃は不利であるということ
 である。 クーパー艦隊の質は確かに二流であったが、相手の薩摩藩の防備は洋式と言えどもネルソン時代そ
 のままの旧式なもので、ヨーロッパ水準からみれば、三流、四流といってよい、その様な旧式砲台を相手にして
 さえ旗艦の艦長、副館長が戦死する手痛い損害をだしているのである。 もしこれが対等レベルにある防備であ
 れば、艦隊は大損害を受けていたことは容易に 想像される。
  用兵面では搭載する新型後装ライフル砲とその炸裂弾の威力が確認される一方、アームストロング砲の欠点
 も少なからず発見され、以後の改良研究に大きく寄与した。 
  鹿児島湾攻撃に参加した艦もパールを除き他はみなアームストロング砲を搭載していたのである。 それら5
 艦に搭載したアームストロング砲は次の4種である。 
  1)110ポンド旋回砲、2)40ポンド旋回砲、3)12ポンド砲、4)6ポンド砲 ところが、英海軍が各国に先がけて
 採用した最新後装砲ではあったが、アームストロング砲そのものは砲架も含め、まだ不完全なもの過度的な砲
 であったので、実践でその欠陥を露呈しあまり好評でなかった。 だが半面新型の着発信菅を付けた砲弾はそ
 れまでの時限信管や旧型のモーマンソン着発信菅に比べて確実な作動と大きな破壊力が極めて高い評価を得
 ている。 
  同報告で発射した、榴弾が全て炸裂したように記されているのは誇張である。 というのは、戦闘後藩では各
 所から不発弾を回収しており、着発信菅の不発であるものを32かぞえている。 未発見のものもあったろうい、」
 推定すればおよそ20%が不発と考えてよい。 もっとも当時としてはこれは好成績であるといえる。
(3)長州の攘夷戦
  薩摩藩の対英戦は攘夷戦であったが、生麦事件が契機になっており偶発的要素が強いが、長州藩の対外戦
 は自分から仕掛けたいわば本物の攘夷戦である。 朝廷に働きかけ、コチコチの攘夷論者だった孝明天皇をバ
 ックに文久3」年(1863)5月10日を期限として攘夷決行の布告を実現させ、外国艦船の現れるのを手ぐすね引
 いて待ち受けたのである。 
  この当時の長州藩の軍事力は和洋混合した、旧態を脱するにはまだ程遠い形態で、薩摩藩のそれに比較す
 ればかなり見劣りするレベルにあった。 もっとも藩内の一部では洋式兵学の重要性が認識されて、野戦術論、
 兵站、砲術、航海、火薬学など基礎的な軍事技術の習得が行われている。 この中心になったのが博習堂で、
 その教官の1人に大村益次郎も名をつらねていた。 だが5月10日は博習堂の塾生らが巣立つ以前に到来し
 た。  攘夷戦は当然下関で決行というので、下関周辺に配備された陸上兵力およそ1000名ほどであった。 そ
 の中は久坂玄瑞の光明党も入っている。 また攘夷戦は即対艦戦闘となるので、沿岸の砲台も一応は、強化さ
 れた。 その主なものは以下の通りである。
   ① 壇ノ浦第1台場 18斤長カノン砲2門
   ②    第2〃  12斤長カノン砲4門
   ③    第3〃  80斤ボムカノン砲1門、100斤砲1門
   ④ 前田砲台    24斤カノン砲3門、18斤砲2門
   ⑤ 杉谷砲台  150斤臼砲1門
   ⑥ 亀山砲台  18斤長カノン4門
   ⑦ その他(城山、岡見台、八軒家、専念寺、細江、永福寺、山庄等)
 等が整備されているが、火力となる砲は青銅砲がほとんどで貧弱なものが多く、欧米艦の砲撃には適すでべく
 もない内容であった。
 また長州藩は海上戦力として4隻の軍艦を保有していた。 しかし、その中の2隻、庚申こうしんと丙辰へいしん
 は同藩建造の帆走艦で、他の2隻、壬戌じんじゅつ丸は英国製の蒸気船だが、ほんらいは運送船で装備は小
 砲を2門積んでいるだけであった。 一番軍艦らしきものといえるのは癸亥きがい丸で、やはり英国製、火力は
 18斤砲2門、9斤砲8門である。 いずれにせよ欧米の一流艦には比較すべくもなかった。
  長州藩にとって運命の日5月10日4時頃、見張の兵が対岸の九州田野浦沖に碇泊している1隻を発見した。 
 アメリカ船ペンブローク号で横浜から瀬戸内海を通り、長崎によって上海に行く途中、潮待ちしているところだっ
 た。 対岸、九州側まで砲弾は届かなく、艦で攻撃するしかなかった。 庚申丸と癸亥丸が出撃した。 一方、
 11日明け方の潮変わりに出航しようと蒸気を上げていたペンブローク号は近寄って来た2艦からいきなり発砲さ
 れ驚いたが、ちょうど出航準備にかかっていたのが幸いし、錨を上げると、豊後水道に向け逃げ去った。 長州2
 艦の砲撃は拙劣で12発を発射し、マストに軽微な損害を与えただけであった。
  5月22日夜、フランスの通報艦キエンシャンが関門海峡の瀬戸内側から入口に当たる長府沖に碇泊していた
 。 同艦も横浜から瀬戸内経由で長崎にむかっており翌朝の潮流が変わるのを待つ潮待ちの投錨をしたのであ
 った。 
  「23日午前6時仏艦豊浦を抜錨しまさに海峡を通過せんとせしが、この地を守る長府の兵、本藩の兵と共に壇
 ノ浦、杉谷、前岡、豊浦等、四所の砲台より俄然砲を発して仏艦を撃つ。」 
  キエンシャンが小船を下したのは、長州側が同艦が敵意があると誤発したと思い、敵意の内ことを説明しようと
 便乗していた公使の書記官が陸地に向かうためだった。 まだ事情が呑み込めないのである。 しかし、長州側
 のこのボートに向って乱射し、死傷者が出たため書記官は引き返した。 その間にも砲撃は激しくなりボートは
 放棄じ乗員だけ収容し海峡を通過し、長崎にむかったのである。 キエンシャン号には2弾が命中したが、青銅
 砲の球丸であった為それほどの被害はなく、同艦は翌々日、長崎に到着した。 
  次に長州攘夷戦のとばっちりをおけたのはオランダ艦メデューサであった。同艦は全長184フィート、乗員
 220人、16門の大砲を装備しており、今までのアメリカ船やフランス艦と違い一流のコルヴェット艦だった。 3日
 前にフランス艦が攻撃されたと言う情報は得ていたが、鎖国時代の唯一の許された外国と言うこともあり、まさ
 か攻撃されるとは思わなかった。 
  勢いづいた長州藩にとっては、攘夷一辺倒でオランダもその例外ではなかった。 5月26日朝7時長崎から横
 浜目指して下関海峡を通過しようとしたその時、沿岸砲台から旧式の青銅砲とは言え、かなりの威力のある
 30斤・60斤の砲弾をオランダ船目掛けて、一斉に発射した。 
  海上で待機していた長州藩の軍艦の大砲も同時に火をふいた。  オランダ艦も応戦して戦闘時間は1時間
 半に及び、長州藩は31発発射して17発が命中した。 
 オランダ兵4人を殺し、5人を負傷させた。 長州藩の意外な戦闘力に驚いたオランダ艦は、戦闘を中止して海
 峡から瀬戸内海に向ってにげさった。
  この戦いの後長府藩主毛利元周の元で作戦会議が開かれた。 このままでは済まない事が予想され、諸外
 国の反撃にどう対処すれば良いかが話し合われた。長崎出身で高島秋帆に師事した中島名左衛門が、藩主の
 求めに応じて次の様にのべた。
  「海峡防衛の砲台は急場しのぎのチャチなもので本格的な沿岸防備には役に立たない…、砲術にしてもしか
 り……軍の指揮系統も乱れきっており、これでは優れた組織力の外国海軍に勝利はおぼつかないだろう、」
  というものであった。 多少とも西欧軍事力に目が開かれていれば正論であるのは理解されようが、戦勝に酔
 ったれんちゅうには許されざる敗北主義と映ったのだろう。彼はその夜宿舎で刺客によって暗殺された。 
  この年文久3年、アメリカは南北戦争のさなかであった。 その余波は東洋にも及んでおり、北軍のコルペット
 艦(フリゲートより小さな軍艦)ワイオミングは南軍の武装船アラバマをおって香港を基地に2年も探し求めてい
 た。 北軍の物資運搬戦を襲うのを任務としていたアラバマが東洋方面に逃げたとの情報でその捕獲を命じら
 れていたのである、 そこに日本駐在公使から在日米人保護の為来航を求めてきた。 攘夷の空気が日本を蔽
 い始め、危険が感じられたのである。 これに応じ同艦は急遽横浜に入った。 報復を決意したワイオミングのマ
 クドウガル艦長は、すでに帰国命令が出ていたのを無視し、5月28日未明横浜を出航、長崎にむかった。 ワイ
 オミングは、舷側に32ポンド砲4門、甲板に11インチ砲施回砲2門の火力である。
  28日横浜を出たワイオミングは周防灘を通り6月1日の朝下関海峡に姿を現した。 午前10時頃である。 同
 艦を発見したのは豊浦砲台が最初である。 直ちに号砲がはっせられた。 
 ついで、亀山砲台も同艦を認め、各砲台は戦闘態勢を整えた。 ワイオミングは意識して国旗を上げず、長州の
 号砲を無視するように海峡の奥に制振してゆく。 下関近くになると長州の砲台はたまりかねて散発的に発砲し
 たが砲台の射程の外を通るっため砲弾届かなかった。 ワイオミングも応射せず尚も進行した。 
 門司の明神岬を通過すると眼前に下関が開けそこに長州の3艦が並んでいた。 庚申、癸亥、壬戌である。 
  好餌とみたマクドウガル艦長は、攻撃目標をこの3艦に向け全速を命じ突進していった。 これに慌てた砲台
 から発砲するが、同艦はたちまち死角にはいり、庚申も30斤砲を発射したが、その1弾が綱索を切ったのみであ
 った。 ここでワイオミングは」初めて米国の国旗を掲げ、戦闘の意志表示をしつつなおも応射せず海峡北岸に
 接近、庚申と壬戌の中間に突っ込んでいった。 この間、癸亥から発射した砲弾はワイオミングに当たらず味方
 の壬戌に命中している。 長州艦の砲撃のレベルが分かる。 長州艦の砲手の顔が見えるほどまで接近し、初
 めて砲撃を開始した。 ワイオミングの初弾が壬戌の士官室を貫き、続いて11インチ砲弾が中央汽缶室を破り、
 このため熱蒸気が噴出、火夫5名が即死し5名が重傷という被害を受けた。 被弾はそれに止まらずさらに11イ
 ンチ弾2発を受け壬戌は黒鉛を上げて沈没した。 
  庚申も応戦したが、やはり、2弾を吃水線に受け、1弾は両舷貫通し、たちまち沈んでしまった。 次いで癸亥
 にも2弾が命中、同艦は」沈没は免れたものの再起不能の廃艦となる損害をうけ、結局長州藩の3隻は砲6門
 のワイオミング1艦だけで全滅に等しい損害をこうむった。
  この間ワイオミングも右舷に1発を受け、煙突に大穴があいたなどの被害を受けたが、致命的な損害はなく、
 戦死6人、負傷4人の人的被害をうけた「のみであった。
  一方の長州藩は虎の子の3艦を失っただけでなく、陸上の人家や倉庫も数か所焼失し、亀山砲台が沈黙させ
 られた。 他の砲台への被弾もかなりになる。 この戦闘は、10時半頃から交わされ12時には終わったがその
 間のワイオミングの発射弾は55発だったという。
  こうして第4回の攘夷戦は前3回とはさま変わりの様相で終始し、長州のそれまでの戦傷気 分は吹っ飛ん
 でしまった。 中島名左衛門の予言が早くも的中し、西欧軍事力の一端を垣間見た同藩の一部には少なからぬ
 動揺が生じることになった。 だが長州の攘夷の代償はこれにとどまらず次にフランスによって取り立てられる破
 目になる。
  6月5日フランス東洋艦隊のジョーレス提督が旗艦セミラミスに座乗しコルペット艦タンクレートを随伴して海峡
 に姿を現した。 いうまでもなく砲撃されたキエンシャンへの報復である。 タンクレートは砲4門の小艦だが、セ
 ミラミスは砲35門の強力な戦闘艦だ。 一行は海峡を北上し、長州側の陸上に散発的に砲撃を加えた。 素的
 砲撃である。 長州が応射しないのでまずタンクレートが前田海岸に接近した。 約200mに近づいた時、待ち構
 えていた前田砲台が火を噴く、続いて壇ノ浦砲台が火蓋を切りこのため同艦に3発が命中、うち1発は吃水線
 近くに小孔明けた。これを見たセミラミスは両砲台に猛烈な砲火を浴びせたので何れも沈黙してしまう。 そこで
 セミラミスが4隻のカツターを降ろし海兵100人が前田村東の海岸に上陸した。
  ここにおいて我が国史上初めての対ヨーロッパ軍との地上戦が行なわれた。 このような事態まで予想してい
 なかつた長州側は小銃に切り替え応戦したものの上陸を止めるすべもなく、前田砲台は占領され、前田村には
 火が放たれ、本陣慈雲寺も焼き払われた。 砲台を占領したフランス兵は、火薬庫から弾薬をだして海中に投
 棄い、16門の砲の火門に鉄釘を打ち込み使用不可能にした、夕刻には全員ひきあげた。 長州藩の援軍は猛
 烈な艦砲射撃で阻止された。 陸上においても中島の予言とおりであった。
 イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔(博文)井上聞多ぶんた(馨)は四国連合による下関攻撃が近いこと
 を知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。 イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れ
 た事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。 
 伊藤と井上は3か月かかって6月10日に横浜に到着。 オールコックに面会して藩主を説得することを約束した
 。 オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、アーネスト・サトウを共なわせて豊後国まで送り、長州へ
 帰させた。 二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩ではいぜんとして強硬論が
 中心であり、徒労に終った。
  6月19日、四国連合は20日以内に海峡封鎖が説かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。 
 なお、艦隊の出発前にフランスから幕府の外交使節団(横浜鎖港談判使節団)が帰国したが、使節がフランスと
 取り交わしたパリ約定には関門海峡を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていた。 オールコックは、幕
 府がこの約定を批准することにより、四国連合からフランスが脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不
 満として批准をおこなわなかった。 結果、攻撃は予定通り実施されることとなった。
  8月4日」、四国連合艦隊の来襲が」近いことを知った藩庁はうおうやく海峡通航を保証する止戦砲身を決め、
 伊藤を漁船に乗せて交渉の為艦隊に向わせるが、艦隊はすでに戦闘態勢にはいっており、手遅れであった。
  この4国連合体が横浜を出航したのは7月27,28日の両日にかけてであった。 その艦隊の規模と編成は、イ
 ギリス艦隊、9隻、169門、オランダ艦隊、4隻68門、フランス艦隊3隻49門、アメリカ1隻1門、合計17隻、287門
 になる強力な艦隊の攻撃を受ける長州、この数
字だけで冷厳な結末が予想される。

               表5四国連合艦隊構成表

艦隊名

艦名・隻数

備砲数

艦隊名

艦名・隻数

備砲数

イギリス艦隊

ユーリアランス

46

オランダ艦隊

メトレン・クルーズ

16

 

コンクエラー

35

 

ジャムビ

16

 

ターター

21

 

メデューサ

18

 

バローサ

20

 

アムステルダム

18

 

レオパルド

18

 

4隻

68

 

コクエット

4

フランス艦隊

セミラミス

35

 

パーシュース

17

 

デュプレックス

10

 

パウンサー

2

 

タンクレード

4

 

アーガス

6

 

3隻

49

 

9隻

169

アメリカ艦

ターキャン

1

連合艦隊

17

287

  ワイオミング号が去った後、4国連合艦隊が下関攻撃実施に踏み込もうとしている間に、長州藩内部で日本
 軍史上注目すべき動きが起った。 一言でいうなれば高杉晋作によって結成された奇兵隊とその結成の背景
 ある。 
  長州の攘夷戦を文久3年の一連の戦いを前期戦とすれば、翌元治元年(1864)の4国艦隊の対戦は後期戦
 である。 この前期攘夷戦では最大の被害は物質的損失もさることながら、封建統治者らにとっては、その絶対
 のヴェールが引きはがされたことにあった。それまで絶対的支配階級であった封建武士団が、泰平に慣れたた
 めといえいかに不甲斐無い存在であるかを世人に晒し出したその階級内にいる者にとつて最大の被害者であっ
 たと言うことであった。 その中で高杉晋作はすかさず反応した。 仏艦隊が去った2日後にはやくも「泰平の世
 に慣れた武士ではこの危急を越えるのはおぼつかないよって武士以外からも志が強く身心強健の者を身分を
 問わず集め、隊をつくり、訓練し戦いに参加するべきである。 これらの者に例え凶悪無頼の徒といえども賞罰
 を厳にして臨めば必ずや役にたつであろう」と藩の正兵(正規軍)に対する奇兵による身体の結成を藩主に建言
 しこれが受け入れられた。 
  このことの持つ意味がかなり大きい。 安土桃山時代から徳川時代、藩単位に国防と名のつくことは一切が封
 建武士集団の専業であり、これこそが彼らの階級としての存在意義であった。 
 これがともあろうに当の武士階級の方から「身分を問わない国防の戦いに参加せよ」と門を開いたのである。 
  下関が4国連合艦隊の攻撃を受けた時、正兵の無力に対し最も勇敢に戦ったのがこれら奇兵隊の諸隊であっ
 た。 
  さて、横浜を出航した各艦は翌8月3日、予定の集会地国東半島の南端姫島の沖に集合し、かねてから計画
 によって第1艦隊と第2艦隊を編成し、総指揮は鹿児島湾歴戦の英将クーパーがユーリアラス上でとることとさ
 れた。
  北上する艦隊は縦陣を組み間もなく関門海峡に入りひとまず九州側田野浦沖に」碇泊する。 
 こうして4日は暮れ5日となった。 午後2時、各艦は錨を抜き、かねてからの作戦により行動を開始する。 
 第1艦隊は長州の主用砲台に停止砲撃を行い。 第2艦隊はユーリアラス、セミラミス、コンタエラー、アムステル
 ダム、そしてターキヤンの5隻をのこして海峡を移動航行しつつ治岸に艦砲射撃を浴びせる。 残った5隻はユー
 リアラスが前半の指揮をとり随時火力を増強すべき地域に攻撃を参加して行き、火力の殆どないターキャンは通
 報伝令艦として行動する。という基本作戦であった。 そしてその間長州側の反応を見、可能と思われれば適宜
 沿岸に上陸、特に有力な砲台を」上陸攻撃し、徹底的に制圧する。 と計画されていた。 この上陸作戦を遂行
 するために兵力は5000であった。
  午後3時20分、第1艦隊が前田砲台に向け4000ヤードで砲撃開始、長州攘夷戦に最終決着をつける戦いが
 火蓋を切った。 ユーリアラス、セミラミス、コンクエラー、アムステルダムなどは微速で前田砲台を横航し、片舷
 斉射せいしゃ(一斉に射撃すること)を反復、これに砲台側も応戦したが火力、砲術技能の差は大きく、1発の応
 射に数発から十数発の敵弾を呼ぶという始末で、戦いは最初から苦戦であった。 
 一方、前田砲台の反撃を見タターター、デュプレックス、メトレン・クルーズ各艦は、砲台を横から側射する一を占
 め集中砲火を送った。 陸上砲台が側面に弱く、しかも側方からの縦射と正面の2方向からの砲撃で前田の各
 砲台は被蓋続出、守兵は一時砲台を放棄した。 そこで、ターター以下の各艦は砲撃を壇ノ浦砲台に指向し、こ
 れもまもなく沈黙してしまう。 この間、第2艦隊のバーシュース、メデューサ、タンクレート、アーガスの諸艦は満
 珠島と千珠島の間から抜け城山の全面に出、更に巌流島付近から反転して」彦島砲台を攻撃した。 この第2
 艦隊の攻撃で城山、岡見などの砲台は尽く敵弾を受け大きな被害を出し大きな被害を出して沈黙してしまっ
 た。 
  前田砲台では、砲撃が他の砲台に指向した隙に守兵が戻り、残存の砲を整備して砲撃を再開したが、この発
 砲を見た艦隊が三方から急射を加えたので守兵は再度退去し、これで諸砲台は全て制圧され発砲する砲台は
 なくなった。 これが午後5時頃である。 約1時間半の艦砲射撃で長州の沿岸砲台はまったく沈黙させられた。
  もっとも艦隊の攻撃は一方的な優勢のうちに終始したものの、第1艦隊は試射、負傷者15の被害を受けてい
 る。 このうちターターとパローサは砲台からの小銃によるものである。
 夕刻、全ての砲台が沈黙したのでバーシューズとメデューサの2艦は前田砲台に接近、様子をうかがった。 上
 陸の機を見る為えある。 砲台下の至近に近寄より、両艦はさぐり射ちに、撃ちこんだが反応がない、さらに砲
 台周辺に小銃を加えてみたが、これも反応がないままであった。 実はこの間、砲台から逃げ去った長州兵は
 着弾地の廻りに息をひそめて成り行きを見守っていうたのである。 
  砲台は放置され敵兵は不在とみたバーシューズの艦長キングストン大佐は、思わず20の兵を率いて上陸を開
 始した。 これにメデユーサの小隊も後をおって上陸、置かれていた20門ほどの砲の火門に釘を打ちこみ、全員
 無事に退去している。 上陸中メデユーサが間断なく援護砲撃がおこなわれた。 
  長州兵は、夷人が上陸しても、彼らはひゅそりと茂みに隠れて敵兵が去るのを息を殺してまっているだけであ
 った。 同夜艦隊の攻撃が終わると、各砲台は夜を徹して復旧作業を行い、かなりの機能を回復した。 一部で
 は砲を移動させるなど砲戦のセオリー通りの応戦準備がと
 られている。
  6日の朝、関門海峡一帯は霧に包まれていた。 濃霧であった。 夜のうち、各艦は速い潮流のため投錨位の
 確保に苦心していたが、デュプレックスとターターが錨を引きづられ壇之浦砲台前に迷い込んでいた。 ここは主
 力砲台の1つで、奇兵隊が守備しており、指揮官は山県有朋であった。 陽が昇り霧の切れ間から2艦を認めた
 壇之浦砲台はすかさず発砲し、両艦とも数名の死傷者をだした。 この攻撃に艦隊はすぐに反撃し、被害を受け
 た両艦もすぐ立ち直って同砲台を砲撃した。 長州藩の砲台からの反撃もここまでであった。
  8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和施設の使者に高杉晋作を任じた。 高杉晋作は出された要求を
 何の反対もせず全てうけいれた。 
  18日に下関海峡の外国船の通交の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候の船員の
 下関上陸の巨か許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受容れて講和が成立した。 た
 だし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求するこtにんさった。 これは、巨額すぎて長州藩では支払
 不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸般に通達した命令に従ったまでという名
 目であった。
 
                        9.機関銃戦争の世紀
(1)機関銃の発達と普及
 数多くの挑戦者の先頭を切って完全自動の機関銃(MGマシンガン)を完成したハイラム・マキシムは、その公
 開も新しい方法で行っている。 それは1884年のことで、ロンドンのハットンガーデンでの公開実演がそれで、
 かなりのジャーナリスト達があつまったようである。 
 「著名なアメリカの電気技師ハイラム・マキシムはハットンガーデンでオートマチックのマシンガンの実験を公開
 した。 銃身は1本でスタンダードで、45ミリ口径の弾薬を自動で装填し、 自動に連続発射する。 その動力は
 反動が利用され1分間に600発以上の速度であった」といった記事が各紙に掲載され、かなりの反響を呼んだ。
  その一行の中に兵站総監アンドリュー・クラーク中将がいて、中将は軍事専門の家の眼から、更に軽量化と部
 品数をhwらして分解組立を容易にすることなどを助言し、軍として導入の検討を約束した。
  中将のアドバイスにより彼はすぐ、第1号モデルの改良を開始した。 陸軍からの要求は、1分間で400発、2分
 間で600発を連射できること、総重量を100ポンド(45㎏)以内にすることの2点であった。 これにともない20万
 発の弾薬が供与されることも約束されている。 英陸軍の機関銃取得へのゴーサインである。
  彼は翌年には実用モデルを完成し、量産に移行できるみとおしを付けていたのだが、そこにアルバート・ウイッ
 カースにであった。 当時アルバート・ウイッカースは造船業や鋼材輸出業を経営していたが、主な輸出先であ
 るアメリカの鉄道建設が一段落し、レールの需要が陰りが見え始め、またアメリカの造船業界が力をつけ始める
 などこれまでの経営方針の見直しを迫られていた時期であった。 マキシムのMGが登場、これにウイッカース
 が強い関心をよせたのであった。 このマキシムとウイッカースの出会いは結果としてマキシム・ガン・カンパニ
 ーの設立となる。 
(2)日露戦争
  明治37年(1904)2月、中国大陸で東方進出を目指すロシア帝国と、維新以後一貫した富国強兵路線で植民
 地帝国主義の版図拡大を至上目標とした日本との利害が衝突、日本海軍は仁川沖でロシア艦隊攻撃。日露戦
 争の幕が切って落とされた。 対露宣戦布告富国は10に発せられ、日清会戦争の10年後に日本はまた対外戦
 争を決意したのだった。 旅順要塞の戦いで機関銃が果たした役割はむしできない。 なぜなら、彼我の軍の激
 突がともにこの新型火器を装備していたのである。
  これは近代軍同士の戦闘に機関銃が持ちられた最初であった。 つまり旅順要塞攻防戦は欧米ではポート・
 アーサーの戦いとして世界中から注目されたのである。 この戦闘のデーターは次の第1次世界大戦に活かさ
 れることになる。  もっとも開戦当時日本はもとよ・り、ロシア軍もMGの装備はそれほど多くはあかった。 マキ
 シムが、彼の発明を携えサンクト・ペテルスブルグを訪れたのは、1887年のことであるが、それ以後ロシア軍当
 局はこの新型火器に懐疑的な目を向けており、開戦当時はマキシム社から試験的な購入を始めたばかりだっ
 た。
  一方、日本はこれに比較してやや早くから動きを見せている。 明治23年(1890)に陸軍に既に2挺のマキシ
 ムMGを購入し、これを国産化した試作銃も東京造兵廠でつくられている。 一説にはこの詩作銃は200挺に達
 し、その一部が日清戦争でも」使用されたともいわれるが詳細は不明である。 また、このマキシムMGの評価
 は重すぎる、呼称も多いとされ、芳しいものではなかった。 弾薬は黒色火薬の村田銃の物を用いたので、種々
 のトラブルは避けられず、また当時の日本の工業レベルからしても完全な国産化は無理であったと思われる。 
  その後ホチキス社で空冷の軽量なMGが開発されたのが知られ、明治26年(1893)にサンプルが購入された
 。 このホチキスMGの性能検討の結果この制式となり、30年式歩兵銃お弾薬を使用する口径6.5mmモデルが
 採用あれ、第2次大戦の終まで使用いた。 
  一方ロシア軍は開戦当時極東方面に40挺ほどのマキシムMGを施策的に配備鋳ていたが戦いの進展と共に
 機関銃が重視されマキシム社にまず200挺が発注あれ、翌月更に500挺が追加発注された。 
  乃木第3軍が旅順を包囲し攻撃を開始したのは7月末の事であったからそれほど多数のマキシムMGが要塞
 内に配備されていたとは考えがたい。 おそらく300を超えることはなかっただろう。 しかし、旅順の守備軍がM
 G不足に悩んだのは事実である。 
  旅順要塞の戦いの場合、機関銃の持つ能力はまったくロシア軍に有利に働いた。 旅順要塞の拠点の殆どは
 高地の要衝に配置されていた。 これは攻撃側の日本軍の突進速度の低下を意味する。 これに加えて、防衛
 戦線前面に設置された鉄条網などの障害物が更に攻撃速度を鈍らせる。 機関銃で死角のないよう配置され、
 日本軍の攻撃を待ち受けていつぁのである。
  この様な要塞防御拠点に対して日本軍のとった攻撃法は、戦国時代の遺物としか言いようのない拙劣いうも
 愚かな肉弾攻撃である。 結果は明らかであった。 昼間の強襲にしろ、夜襲にしろロシア軍の火力の前に攻撃
 は挫折をくりかえした。
  この攻防戦では両軍の使用した機関銃の性能の差も守るロシア軍に有利であったのが注目される。 それは
 ロシアぐんのマキシムMGが速射性能はすぐれた水冷式ベルト給弾システムであったことでる。 拠点防御では
 重量の大きさは問題にならず長時間連射の能力が最優先する。
  一方、攻めての日本軍にとつて機関銃はさほど有効な火器とは成り得なかった。 この様に火砲と機関銃で守
 られた場合、攻撃側への防御柄の優位は確実なものとなる。 それに対し、日本軍は攻かなだいしぃうbを支払
 ってかろうじて勝利を得た。
  ところで、旅順では親かを発揮できなかった日本軍の機関銃だが、機動的な野戦ではそれなりの能力が示さ
 れている。 奉天海戦ではロシア軍31万、日本軍25万という、近代戦における最初の最大規模の大会戦だった
 が、この戦闘では日本軍の機関銃も有効にしようされている。 
  この会戦ではロシア軍が補油していた56挺のマキシムMGにたいし日本軍のホチキスMGおかずがかなりお
 おかったと思われ、これも戦勝の一因になったであろう。




 



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