京都と寿司・朱雀錦
(52)豊国神社


唐門(国宝)

 当ホームページば旧ホームページビルダー(14)で作成しています、写真等でずれが生じる場合は互換表示
(ツール→互換表示設定)することをお勧めします。
       *印刷する場合クーグルクロムで検索することをお勧めします。

所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町
530
主祭神 豊臣秀吉公
社格等 別格官幣社・別表神社

 1.歴史
(1)豊臣秀吉の死
  慶長13年8月18日豊臣秀吉はその生涯を閉じた。 それに先立つ3月15日醍醐の花見が
 催され、秀吉最後の歓楽となった。 醍醐の山々に茶屋を設け、女房衆1300人の伊達装束と
 して目結絞り・鹿子絞り・金銀摺箔の小袖を用意した。 この花見に際し公卿衆・武家衆は金
 銀の折のほか高麗の珍物、諸国の名酒・菓子等を進上し、それは三宝院の門前に蓬莱のごとく
 積まれたという。 この花見を名残として専制君主秀吉の最後の芯は燃え尽きた。
  秀吉は醍醐の花見が終わったころから体調を崩したといわれている。 6月の終りころ赤痢
 を患い、時ならず胃痛を訴えた。 当初は生命の危険など全く懸念されなかったが、8月5日
 の病状は悪化して生存は絶望的になった。 だが秀吉はこの時に及んでもまるで健康体である
 かのように不屈の剛毅と異常な賢明さで身辺のことを処理しはじめた。 彼は、関東の大名で
 八ヵ国を領有する家康だけが日本の政権を簒奪さんだつ出来る人物であると思い、この大名に好
 意
を示して自分と堅い契を結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれないようにし
 た。
 即ち、秀吉は、居並ぶ諸侯の前で、家康を傍らに召して次の様に語った。
  予は死んで行くが、しょせん死は避けることは出来ない、これを辛いとは思わぬ。 ただ、
 少なからず憂慮されるのは、まだ国を統治出来ない息子を残して行くことだ。 そこで長らく
 思い巡らした挙句、息子自らが国を統治できようになるまでの間、誰かに国政をゆだね場なく
 てはならない。 その任に当たる者は権勢ともに抜群の者であらねばならないが、予は、貴殿
 を差し置いて他にいかなる適任者がいない。 それゆえ、予は息子と共に、日本全土の統治を
 今や貴殿の挙中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したら
 、
必ずや政権を息子に還してくれるものいと期待している。 
  その際、この盟約が一層強固なものとなり、国をあげて慶賀してくれるように次のように取
 り計らおう。 貴殿は嗣子(秀忠)に漸く2歳を数える孫娘を得ておられるが、同女を予の息
 子と婚約させることによってともに縁を結ぼうではないか。 
  この言葉を聞いて家康落涙を禁に得ませんでした。
  慶長3年(1598)8月18日の午前2時頃に息をひきとった(享年62)。 しかし、その死
 は長期間にわたって公表されなかった。 専制君主の死は大きな混乱を引き起こしかねないか
 ら慎重なうえにも慎重を期さなければならない。 五奉行たちが元結を払った。 そうするこ
 とで秀吉の死を披露したのである。 豊臣秀吉の死から五ヶ月近く経てからの公表であった。
 また、大仏の鎮守として秀吉を神として祀ったものであり秀吉の遺骸はいまも伏見城にあるこ
 となどが明らかにされたのである。
(2) 大仏鎮守
  秀吉の死は、このように長期間にわたる厳重な箝口令によって厳密されていたが、その間に
 秀吉を神として祀るための社殿が急ピッチで進められていた。 
  「義演准后日記」に北野社のような「八棟造やつむねずくり」の社殿がつくられたとされている。
 
北野天満宮は菅原道真を祭神とする。 人(道真)が神として祀られた北野社の八棟造は、人
 (秀吉)を神に祀る社殿にふさわしいものとの選択だったのであろう。
  社殿の建築はスピーディに進んだようだ。 9月15日に地鎮祭が行われ、1218日の条に
 「大仏鎮守へ家康始め諸大名参詣、今日太閤御所御忌日〇、テ今無披露故、………」と記され
 ている。
  社殿は出来上がり家康以下の諸大名が参詣している。 ただし、この時期になっても「今に
 披露なし」とあって、豊臣秀吉の死は公表されていない。 この時点でも「大仏鎮守」と呼び、
 豊国神社とは呼ばなかった。
  翌4年4月18日新しい神の遷宮が行われ、同月29日吉田兼見が豊国社の社務となった。
  遺骨は遺命により東山三十六峰一つ標高200m阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ墓所となった。 
  翌年、中腹を切り開き約30万坪の広さの太閤担たいこうだいらを造成、豊国廟、豊国社が造営された
 、豊国神社の前身である。

(3)  豊国大明神となった神名
  秀吉が希望した神名は「新八幡」であった。 イエズス会宣教師の日記に「最後に太閤様は、
 自らの名を後世に伝えることを望み、まるでデウスのように崇められることを希望して、遺体
 を焼却することなく入念にしつらえた棺に納め、それを城内の庭園に安置するように命じた。
 こうして太閤様は以後は神の列に加えられ、新八幡と称されることを望んだ。 何故なら、八
 は往昔のローマ人もとで(軍神)マルスのように日本人の間では軍神として崇められていた

 らである。」

  吉田兼見は、前年の9月から秀吉を神に祀るプロセスに深くかかわってきた。 彼は吉田神
 道を拡充・発展させる立場あら秀吉の神号を考へていた。 その結果、新八幡では「大菩薩」

 となるので不適当だと判断した。 吉田神道では「大明神」号こそが最高の神格である。 秀
 吉には「大明神」こそがふさわしい、そう考えたのではないだろうか。 
  そして、「豊国」という神名は「豊芦原中津国とよあしはらなかつくに」(日本を指す)という神話的
 典」拠と「豊臣」姓にかけたネーミンングである。 

  現在の日本には人(一般人)を神として祀っている神社には多い。 北野天満宮、靖国神社
 、
 坂本竜馬等維新の志士達の霊山護国神社、東郷神社、乃木神社等がある。
  王族や氏族の祖先でなく一般人で最初に神なったのは菅原道真である。 しかしそれは、菅
 原道真が九州大宰府で延喜3年(
903)に死亡して40年後の天暦4年(993)のことであった
 。
 一般人で死んですぐ神として祀られたのは豊臣秀吉である。
(4) 豊国大明神臨時祭
  慶長4年(1599)4月に豊国大明神ほうこくだいみょうじんとなった秀吉には仏教的な葬式や年忌法要
 は行わなかった。 では神様だから祭礼はどうか。 慶長5年8月は秀吉の三回忌にあた
って
 いるが、関ヶ原合戦の直前であったから、臨時祭礼は行われていない。 

  しかし、豊臣秀吉の7回忌に当たる慶長9年8月には豊国大明神臨時祭礼を執り行うことに
 なった。 その時の発起人が豊国社の社務である吉田兼見と弟の豊国社神宮寺別当神龍院梵舜
  
んりゅういんぼんしゅん
であった。
  慶長9年(1604)5月2日、上洛していた将軍徳川家康は、神龍院梵舜を伏見城に呼んで
 「豊国臨時祭」について尋ねられ、家康の承認を得て準備が開始された。 臨時祭礼を行うに
 は、
天下人である家康が納得することが不可欠だったのである。 イエズス会宣教師の報告書
 に次
の様に記されている。 
 「 太閤の諸事を尊重して盛大に行い太閤の恩恵に感謝の意を表すことが大いに自分の助けに
 なるかを見た。 というのは(太閤は)強い信頼感をもって死に先立ち、自身の息子と天下の
 全統治を彼に委ねたからである。 また、これによって、いかにその太閤の家臣であった領主
 たちの歓心を買えるかをみた。 そのために、若君その人とその母(淀殿)及び太閤の正室(
 北政所)を常に大いなる礼節と尊敬を以て遇したのみならず、とりわけ(太閤)を崇め、彼の
 諸事を盛大にしうるような機会を決して失ってはならなかった。 そのため、
1604年に彼を崇
 め、日本の主要な神の一人として奉仕することを決めた(七回忌臨時大祭)」

  5月16日に梵舜は再び伏見城へ行き、家康が「豊国之置目御朱印」を頂いた。
  5月19日梵舜は、慶鶴丸を連れて伏見城にいった。 慶鶴丸は梵舜の甥で、吉田兼治の長男
 れあるが、兼見の養子となり、後に萩原兼従と名を改め豊国社の社務となった。 訪問の口実
 は御朱印の御礼であるが、家康に臨時祭礼次第について申し上げた。
  一番は騎馬30騎、二番は田楽10人、三番は、上下亰の町人の躍り、四番が猿楽の新作能を
 座で1番ずつ行うという四番構成で臨時祭礼を挙行いたしたいと伺うと家康から、よかろう

 いう。家康の「御意」が得られた。

  6月1日梵舜は片桐且元を伴って家康の所に行き、兄兼見の書いた臨時祭礼の「書立」を御
 覧頂いた。 即ち、一番が騎馬二百騎、二番が田楽、三番が上・下京の町人千人による風流躍
 り、四番が猿楽の新作能という次第であった。 
  5月19日のプランと較べるて騎馬二百騎とぐんと大きくなり、風流躍の規模も千人というよ
 うに具体化している。 このプランを聞いた家康は非人施工を指示した。
  8月13日は朝から雨になり、臨時祭礼の挙行できる状態Bでなかった。 そこで急遽順延と
 なった。 ところが、何処でどのような相談の結果なのか不明なのだが、当初は1日で行う予
 定であつた臨時祭礼が翌14日と15日の二日間で執り行うことになった。 そして3番の京踊
 りと五番の非人施行が切り離され翌15日に行うことになった。
  第1に、家康は準備のプロセスの折々にどのような祭礼にするかの説明をきちんと受けてい
 る。 第2に、家康によって了承された臨時祭礼は8月13日の一日であったが、大雨のためや
 むなく順延した。 翌14日は晴れて祭礼行事が行われたが、祭礼次第は変更された。 第一番
 は幣を捧げた神官たちの行列、第二番が騎馬二百騎の行列であり、第三蕃は田楽の奉納であり、
 第四番に猿楽が行われ、午後四時に終了している。 そして第五番の上・下京の町人たちによ
 る風流躍の奉納と第6蕃の非人施行は翌日に行われた。 
  第三に、祭礼の費用に豊臣氏の負担で主催社は秀頼である。 そして第四に、徳川家康は伏
 見にいて、この臨時祭礼には来なかった。 家康は豊国臨時祭礼を掌握しつつ、一定の距離を
 置いていたのである。 「当代記」によれば伏見にいた大名小名らの誰一人祭礼を見に来てい
 ない。 他方、豊臣秀頼と淀殿は大阪城にいて、臨時祭礼にはやってこなかった.
  この秀吉七回忌において豊臣家を代表して桟敷にいたのは,京都にいた高台院(北政所)で
 あった。
(5) 豊国社の廃絶
  大阪の陣で豊臣家は名実共に滅び、反徳川の浪人衆もほぼ壊滅した後、徳川家康らは以前か
 ら計画していた彼のように、次々と幕府体制地盤固めのための法令を出していきました。 そ
 の中で、豊臣時代の全盛期を思わせる壮麗豪華な「豊国社」についても処分が決められます。
  慶長20年(1615)7月9日。 家康は二条城に側近僧侶の天海、京都所司代の板倉勝重を
 召して、豊国社の破却を命じた。 依然として秀吉傀儡だった京都町衆らに、豊臣家の時代が
 終わったことを知らしめる、という政治的な目的がうかがえる。 時代の変革期には、旧時代
 を代表する建物が破壊される、という現象は諸外国の歴史にもよく見られる。 家康も豊国社
 に関しては冷徹な態度で臨みました。 その内容は
 ・豊国社の廃絶。 徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許をえて豊国大明神の神郷は剥奪さ
 れ、秀吉の霊は「国泰院俊山雲流大居士」と名を変えられ以後仏式で祀ることと定めた。 
 秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後朽ち果てるまで放置された。
 ・御神体は、秀吉慕う人たちにより密かに新日吉神社に移され祀られた。
 ・方広寺別当は妙法院門跡を住職としてあてた。 社領を没収し新たに寺領1000石を寄進す
   る。
 というものであった。
  これはつまり、「神」に列せられた秀吉が「仏」に降ろされた、ということである。 後に
 家康が「神」に列せられ神事を執り行ったことに対し、秀吉については、方広寺にて仏事を
 り行うように、幕府が命令しています。 家康を神として祀る以上、滅んだ豊臣家を思わせ

 ような豊国社の存在は、幕府にとって邪魔だったのであろう。

(6) 豊国神社の再興
  明治元年(1868)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府
 は造らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。 同年5月には、鳥羽・
 伏見の戦いの戦没者も合祀するように命ぜられた。 明治6年(1873)、別格官幣社に列格し
 た。 明治8年(1875)萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命された。 明治13年」
 (
1880方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。 旧福岡藩主の黒田長
 成侯爵が
中心となり境内の整備が行われ、明治30年(1897)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂
 に伊東
忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられた。 この工事の際、土中から素焼きの
 壺に入
った秀吉の遺骸と思しきものが発見された。 遺骸は丁重に再埋葬された。 これによ
 り秀吉
はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の町を見守っていることになる。 その西お下方お
 平坦地、
かっての社殿があった太閤坦たいこうだいらには秀吉の孫である国松と愛妾松の丸殿の供
 養塔(五輪
塔)が寺町の誓願寺から移動されて建つ(ただし国松の五輪塔は新造のもの)。

2.境内
(1) 唐門 国宝
  江戸時代、1868年に南禅寺塔頭・金地院東照宮唐門が移築された。 かって伏見城唐門が南
 禅寺に移築され、当社に再移築された物という。 また、二条城から南禅寺金地院を経て移築
 されたともいう異説もある。
  国宝唐門は、桃山時代の雰囲気を色濃く伝える豪華なものであり、その姿をその姿を前にす
 ると立ち尽くしてしまいそうな迫力がある。 日光東照宮もこれをこれをこれを十分意識して
 造られており、その後の唐門建築の手本となった遺構である。
  扉に彫り物が施されている。 牡丹唐草、桐紋、秀逸な鯉の彫り物のある。 欄間に飛び鶴の
 彫刻がある。 左甚五郎作とも云われ、目がないことから「目
なし鶴」と言われた。 目を入
 れると飛び去るためという。 側面入母屋、前後唐破風造(向
唐門形式の側面に入母屋破風)
 、檜皮葺四脚門、蟇股や欄間の彫刻は安土桃山時代の特徴が見ら
れる。
(2) 宝物館
  太閤・豊臣秀吉を祀る豊国神社。 その境内にある神社の所蔵する秀吉ゆかりの品々を展示
 している宝物館。 桃山造り風の建物は大正14年の開館当時からのもので、当時最新鋭の鉄筋
 コンクリート製という貴重な近代建築である。
  重要文化財「豊国祭礼図屏風」や「鉄灯籠(辻与次郎)」を始め、主に桃山時代の、豊臣秀吉
 及び豊臣家や神社に関わる資料を所蔵・展示しています。 展示品の中には生前秀吉が実際に
 戦場で使用していた馬印を始めとした武具類、高台寺蒔絵の唐櫃など歴史的にも貴重な品が多
 数あります。 また、創建時の神社の様子を描いた絵図など、京都の歴史を知る資料も見るこ
 とができます。 他、野村財閥(野村美術館)の野村徳七寄贈の茶道具など茶道に関する品も
 見ることができます。
(3) 泣石
  豊国神社(方広寺)の石垣は、豊臣秀吉が諸将に命じて寄進させたもので、出所や諸将の家
 紋が刻まれているという。 中でも大きいのは西北端の巨石である。 この石は前田加賀守が
 秀吉の機嫌を取るため奉納したが、余りに重いので大大名の前田家も経費が嵩むのに閉口して
 泣いたことか泣き石と呼ばれたという。 一説に、ここに据えられた石が加賀に帰りたいと毎
 夜泣いたので泣石と呼ばれたという。 泣き石を含む豊国神社と方広寺の石塁は延べ300m余
 りにも及び、現在「方広寺石塁及び石垣」として史跡に指定されている。
(4) 馬塚
  豊臣秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰の頂上に葬られた。 後に徳川幕府yはこの墓を破壊し、大仏
 殿の東南に「馬塚」の名で五輪塔を建てて周囲に高塀を巡らし、妄りに域内に入ることを禁じ
 た。 俗に「太閤御馬塚」と言った。 馬塚は現在宝物館の奥にある。
(5) 豊国廟( 阿弥陀ヶ峰五輪塔)
  豊国神社から東方1キロメートル離れた東山三十六峯の一つ阿弥陀ヶ峰山頂に豊臣秀吉を
 葬した豊国廟がある。 智積院の北側から京都女子大などがある緩やかな坂道を登ると新日

 神社側に参道の鳥居が立つ。 そこを進むと太閤坦たいこうたいら即ち豊国廟の境内になる。 広

 い境内の奥に拝殿を思わせる門があり、そこから真っ直ぐに伸びは長い石段が続く。 
  ちなみに石段は有料である。 階段の入口は無人であるが貯金箱が置いてあり、大人50
 子供30円を入れ先に進む。 石段は523段あり、山頂まで登るにわ相当の体力必要である。 
  標高193メートル、余り高くないが、円錐形の優美な山容を持つ。見晴は素晴らしい。 こ
 峰の山頂に、豊臣秀吉を葬った豊国廟があった。 豊臣氏滅亡の後、徳川幕府により破却さ

 た。 明治新政府により豊臣秀吉の名誉が回復されことに伴い。 豊国廟は明治
30年、旧知
 再建された。 廟の中央に高さ三十尺(
12メートル)五輪大石塔がある。 
(6) 接社貞照社
  大正14年、秀吉夫人従一位北政所を境内・貞照社に祀った。

参考文献
* 秀吉と京都・豊国神社宝展
* 民族宗教史叢書・権現信仰
* 豊国祭礼図を読む


                      [前へ]    [トップページ]    [次へ]