京都と寿司・朱雀錦
(53)豊国神社関連・豊臣秀吉
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   53豊国神社関連・豊臣秀吉
 1.秀吉の出世
 秀吉は低い身分から身を起し天下の覇者となったため、その出目から多くの説や異説がある。
秀吉が歴史上に現れるのは、墨俣城からでそれ以前は資料がほとんどなく、歴史家の世界で無く
小説家の世界になっている。 
 秀吉の伝記の一つに「武功夜話」と称する前野家文書がある。 11代前野長義は岩倉城の織田
敏信に仕えた。 14代雄吉の弟長康は蜂須賀小六と共に秀吉にひき立てられ、長康は但馬出石城
主となったが、秀次事件に連座して切腹させられ、一族は前野村に引き揚げ百姓になった。
 「武功夜話」によると秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村の村長むらおの倅で、武士として身を
てようと奉公口を求め、駿河、遠江、三河と転々とし、弘治2年(1556)小折村(江南市)の
駒家長の屋敷の食客となった。 家長の父家宗は犬山城の織田信康のお納戸役を務めた人物で
家長は、木炭、油など多くの奉公人を使い、手広く商っており、野武士、群盗の襲撃に備え屋
内に腕に覚えのある浪人を抱えていた。 秀吉もそうした一人であっが、生駒屋敷の者を相手
猥談ばかりやっていた。
 生駒屋敷の別棟に家長の妹吉野きつのが住んでいて、信長は清州から通い、二人の間にはすでに
奇妙(信忠)、茶筅(信雄)の二人の子がいた。 吉野は合戦で夫に死なれ実家に帰っていたの
信長が一目惚れして通うようになった。 ある日信長は吉野から面白い男がいると聞いて秀吉
呼んだ。 秀吉は早速猥談を始めた。 信長は笑って聞いていた。 信長がご機嫌と見て取っ
秀吉は、その場で平伏すると。 「家来にしてくれ」と言い出した、 居合わせた家長はたま
かね「お前のような小男で力もなく碌な武芸の心得のない者が何を申す」としかった。 秀吉
引き下がらず馬の口取りでもいいですから使ってくださいと言ったが、信長はうんとはいわな
った。
 その後、吉野の付き人の口添えで、信長の使い走りをするようになり、間もなく清州城へ召抱
えになり、十五貫文を与えられた。

 2.墨俣一夜城の謎
 秀吉出世の城として謎の多い城である。 18歳の年に織田信長の家臣となった秀吉がはっきり
頭角を表したのは墨俣築塁の時であるとされている。
 長良川西岸にある墨俣は美濃経営を図る信長にとって重要な拠点であった。 当時長良川は木
曽川や斐伊川と合流する川で、墨俣は湿地帯であり築塁は非常に困難であった。 その上、墨俣
信長に敵対する地点にあり、城塁築造の為の資材運搬は至難であり、しかも築塁は短期間のう
に完成しなければならなかった。
 墨俣城築塁のとき使用される膨大な木材の調達と流送方法である。 この資材を木曽川上流か
ら流送した、これは恐らく秀吉の発案であろう。 当時西日本一帯の桧、杉などの天然林は古代
から千年余にわたる宮殿、社寺建設の需要に応え断続的に伐採され既に枯渇状態に陥っていた。
 このため、中国地方の奥地や四国、九州にまで材を求め、海上輸送をしていた。 その時代にな
って木曽山林が持つ価値に最初に気が付いたのは秀吉だったということになる。 また、流送困
難とされていた木曽川上流の材木を筏にし、木曽川上流から墨俣まで流送、その技術要員を確
したことになる。 

 墨俣一夜城の疑問点として、①「信長公記」には、墨俣一夜城の築城に関する記述がない。
織田信長が永禄4年(1561)に一時的に斎藤氏の「洲股城」を占領した。 ③永禄5年(1562
織田信長が墨俣城を築き秀吉を城主にした記録がある。 ④にもかかわらず永禄9年(1566
墨俣一夜城が築城されたか。 ⑤実際には当時の記録には一切見られない(蜂須賀氏の当時の
録や秀吉が作らせた歴史書)。
 以上から墨俣一夜城の存在が疑問視されている。

 3、姉川の合戦
 永禄3年(1560)織田信長は当面の敵美濃国斎藤氏に対抗するため浅井長政と同名を結んだ。
織田信長は、永禄10年(1567)美濃国斎藤龍興の美濃国を奪い、稲葉山城を岐阜城と改名し信
長の居城とした。 永禄11年(1568)足利義昭を報じて上洛し将軍職就任をたすけた。
 義昭は、信長によって将軍職につけてもらっただけでは満足せず、今度は他人の力を利用して
信長を亡き者にし、群雄の力を相殺させて、室町氏の栄華を維持しようとし、密かに浅井、朝倉
武田の諸氏に通じ、まず信長を陥れる計画をめぐらした。
 信長はそのころ将軍義昭の陰謀に気付いていなかった。 朝倉義景が義昭上洛の後に至って
一度も出仕せず、武命に従わないのを怒り、元亀元年(1570)信長が浅井長政と交わした「朝倉
への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に攻めた。 4月20日織田信長・徳川家康連合軍は3万
の兵を率いて京を出陣した。 25日越前の朝倉義景領・手箇山城を攻撃、翌日金ヶ崎城の朝倉景
恒を下した。 これに対し朝倉軍は後退し木ノ芽峠強化し防衛体制を整えた。 
 この様に当初は連合軍が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である浅井長政が裏切ったと
いう情報がはいった。 浅井長政は織田信長の妹・お市の方を妻とし信長とは同盟していたが又
朝倉義景とも同盟関係にあった。 連合軍は越前と北近江から挟撃を受ける危険にみまわれ、撤退を決意した。 信長は撤退にあたり、金ヶ崎城に木下藤吉をいれた。 信長は越前から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃た。 京都への到着は4月30日、信長は論功行賞で秀吉の貢献を称え黄金数十枚を与えた。 これを金ヶ崎の退き口といい、将軍義昭の策略であったといわれる。
 5月9日、岐阜へもどり軍勢を立て直し長政討伐の準備にとりかかった。
 6月21日信長は虎御前山に布陣すると、森可成等に命じ小谷城の城下町を広範囲に焼き払わせ
た。 
22日は一旦退却。 
 24日信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は龍が鼻に布陣した。
ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた龍ヶ埼に布陣。
 一方、浅井方にも朝倉景健率いる8000の援軍が到着。 朝倉勢は小谷城の東にある大依山
布陣。 これに浅井長政の兵
5000が加わり 浅井・朝倉連合軍は合計13000となった。
 28日未明に姉川を前に軍を二手にわけて野村・三田村にそれぞれ布陣した。 これに対し徳川
勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、及び西美濃三人衆
(稲
葉良通、氏家卜全、安道守就)がむかった。
 午前6時頃に戦闘が始まる。 浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢の海女の潜きして息つぎあえぬ風情成り(信長公記)」という激戦になったが
織田・徳川が1100余を討ち取って勝利した。 織田・徳川方の戦死者800人、負傷者は各々そ
3倍と推定されている。 合戦場付近の血原,血川という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

 信長は小谷城を一気に落とすには難しいと考え横山城下へ後退した。信長は木下藤吉を城番と
していれた。
 元亀元年(1570)9月、信長に敵対した将軍義昭を追放した。
 元亀2年(1571)9月12日 信長に敵対した比叡山の焼討をおこなった。
 「根本中堂、山王21社を始め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一字も残さず。 一時に雲霞のご
とく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往左往に廃忘を致し、取物も取敢
えず、悉くかちはだしぬして八王子山に逃上がり、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め
上げる、僧俗、児童、智者、上人一々に首を切り、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠
れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童員を知れず飯捕り」(信長公記)時されて
いる。

 元亀3年(1572)7月、信長は北近江に来襲した。 長政は朝倉義景に援軍を求め、義景は1
5000の軍勢を率いて近江に駆けつけた。 信長と正面衝突にならず睨み合いが続いたが、浅
・朝倉連合軍は織田軍に数でおとっており、依然として苦しい状況にあった。 

 同年9月将軍足利義昭の要請に応えて武田信玄が甲斐を進発した。 その後、信玄は遠江で織
田・徳川連合軍を撃破(三方ヶ原の戦い)し、三河に進んだ。 長政に堪えられた役割は、北近
江の織田の軍を岐阜に戻さないことである。 北近江に織田の軍を釘付にすれば、信長は全力を
もって信玄の軍勢とぶつかることが出来ず、反信長連合軍の勝機は高まる。 織田の物量に押さ
れ、じわじわと追い詰められていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦で
あった。
 同年12月北近江の長政領に在陣の朝倉義景が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した。 義
景の撤退により、北近江に縛られていた織田軍は、美濃にもどった。 信玄は義景の独断に激怒
し、再出馬を促す手紙を義景におくったが、義景はそれに応ずることができず、黙殺した。 
 元亀4年(1573)2月信玄は進軍を開始し、家康領の野田城を攻め落とした。 しかし、信玄
の急死により、武田軍は甲斐に退却した。 これにより、信長は大軍勢を近江や越後に向けるこ
とが可能となった。
 天正元年(1573)7月信長は3万の大軍を率いて岐阜城を立ち近江に攻め入った。 これにた
いして浅井長政は5000の軍勢をもって小谷城に籠城し、朝倉義景も家中の反対を押し切った上
で自ら2万の大軍を率いて長政救援のため、余呉に本陣をおいた。 義景は小谷城を後詰めすべ
く、小谷城の背後に位置する北西の田上山に戦塵を構築、同時に大嶽砦などからなる小谷城守備
の城砦を築いた。
 12日、近江一帯を暴風雨が襲った。 信長はこの暴風により敵が油断しているはずと判断し、
これを好機と捉えた。 信長は本陣より自ら1000人の手兵・馬廻りのみをひきいて軍をかえし
朝倉方が守る大嶽砦を奇襲した。 この砦は山田山から南に下がった位置にあり朝倉軍の対織田
軍対する前線基地だった。 朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思ってもみなかった
ために降伏してきた。 これを討ち取ることも出来たが、信長は一計を案じ、捉えた敵兵をわざ
と解放した、 義景は大嶽が落ちたことを知れば必ずや撤退すると読み、それを追撃しようとい
うものである。 信長は次に朝倉かたの御津の丁野城を襲って手中に納め、そこでも敵兵を開放
した。 この2城に兵を配置した後信長は「朝倉は必ず撤退する」と言い放ち、千手に佐久間信
盛・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀などを配置。 好機を逃すなと何度も下知した。
 13日、大嶽砦の陥落をしった義景は形勢を判断。 織田軍勢は3万に対し、朝倉軍は2万。
 主
力重臣を欠いだ上に戦意も低く勝ち目がないことを覚った義景は撤退を決断した。  朝倉
軍が
撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を徹底的に追撃した。
 義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向ったが、ここでも信長自らが率いる
織田軍の追討を受けた。 余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中「朝倉軍は織田軍に押され」
3000人以上の死者をだした。 
 織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。 これにより朝倉軍はほぼ壊滅した。 義景
は手勢のみを率いて一乗谷へ帰還した。 
 15日から16日にかけて、信長は味方の兵士を労うと同時に休息をとらせた。 そして17日大
軍を揃え、越前にせめいった。 信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払った。 往時は1
万人余もの人口にて繁栄を誇った町は灰燼に帰した。 一乗谷を逃れ景鏡に促され大野郡へと移
動し、仮に宿舎と指定された六坊賢松寺に入ったが主人を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。 近
習が奮戦討死する中自刃した。 朝倉景鏡かげきら(義景の従兄弟)は義景の首を持参して降参し
た。 

 朝倉氏は滅亡した。 もはや浅井郡は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみ
であった。 ついに本拠の小谷城が織田軍に囲まれる。 信長は家臣不破光治、更に羽柴秀吉を
使者として送り降伏を進めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。 市が信長の陣営に帰
還する際、浅井・織田軍ともに一切の攻撃をしなかったと言われる。
 同年8月27日父の久政が自害。 翌28日長政は小谷城内赤尾屋指揮にて自害した。
 浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め22万石長
浜城の大名となった。 この頃、家内で有力だった丹羽永秀と柴田勝家から一字ずつ貰い受け、
木下氏を羽柴氏に改めている。

 4.三木城の干し殺し戦法
 元亀元年(1570)9月、室町幕府最後の将軍義昭を京都から追放し、越前を平定した後の「天
下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも中国・四国地方の平定であっ
た。 因みに織田信長が目指した「天下布武」とは七徳の武を以て天下を治めることで、七徳の
武とは暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め,民を安んじ、衆を和し、財を豊にするを意味
した。
 天正5年(1577)越後国越後の上杉謙信と対峙していた北陸方面軍団・柴田勝家への救援を信
長に命ぜられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で帰還した。 信長は秀吉の
行動に激怒したがゆるされた。 秀吉は織田信忠お指揮下で松永久秀を滅ぼし功績をあげた。
 その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に侵攻し、かっての播磨守護赤松氏の勢力であ
る赤松則房・別所長治・小寺政職まさもとらを従える。 さらに小寺政職の家臣の小寺孝高(黒田孝
よしたか
)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とした。 一部の勢力は秀吉に従わなか
ったが上月城の戦い(第1次)でこれを滅ぼす。

 天正7年(1579)には、上月城を巡る毛利との攻防の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を
服属させ、毛利との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の
戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。 同年、信長の四男である於
次丸(秀勝)を養子に迎えることをゆるされた。 
 秀吉は卓抜な才能を備えていたが、幸運にも恵まれた。 天正5年頃日本中央部の538万石を
勢力下に収め、そろそろ天下統一の山が見え始めた信長の当面の敵は、越後の上杉、甲信の武田
紀伊の畠山、中国の毛利だったが、その中でもまず叩くべきは腹中の癌と言うべき本願寺を支
している毛利だった。 毛利は187万石だから負ける相手ではないが、四周に敵を控えているか
らすぐ全力を向けるわけにはいかぬ。 
 天正5年10月信長は秀吉を中国作戦の先鋒に任命した。 秀吉は先鋒という任務を信長の性格
や現状を見極めたうえで実に巧みにやり遂げた。 独立指揮官だから疎慢なく処理せねばならな
い。 だが、それは信長の期待の限度内であって絶対に信長の決定事項に立ち入ってはならない
 独裁者に対しては絶対者をないがしろにしていると思われてはならない。 秀吉は、中国作戦
間にしばしば短期で信長に会いにいってその指示を受けている。 これが自分で処理できなく
支持を仰ぎたいのであれば「無能な奴」と首にされる。 信長の期待に背かず、しかも自尊心
傷つけないように「頼りになる奴だ、可愛い奴だ」ということになる。
 これまでの秀吉は信長の膝下で手足となって働いた。 この時は、多少出過ぎても、やる気が
あるとみとめられる。 しかし、信長の性格では、人前でも構わずしかりつける。 すぐあやま
ればよい。 だが、信長の手元を離れ独立指揮官となると行動は慎重を要する。 期待に外れた
らだめだが、やり過ぎると不信感を招く。 この時に秀吉が最も重要な中国作戦の先鋒に任せら
れたのは、信長がそれだけ秀吉を信頼したからである。
 天正三年、毛利の友好国宇喜多家の武将で播磨の領主赤松義弘、別所長治、小寺政職の三将が
織田家に帰属していた。 
 天正5年(15771023日、秀吉は兵を率いて安土を出発した。 既に三将が帰属していた
から12月4日に、上月城、次いで福岡野城を落してほぼ播磨一円を平定し、一旦安土に凱旋した
。 
天正6年2月23日、秀吉は兵7500を率いて播磨に再征して加古川城に入った。 播磨の諸将
は皆御機嫌伺いに来たが、別所長治は叔父の別所吉親よしちか(賀相よしすけとも)と老臣三宅治忠
差し向けただけだった。 
 当主長治の状況判断の甘さが原因だろう。 それは、赤松則村の子孫で東播磨八郡の守護とい
う自負心が、成り上がり者秀吉に頭を下げることに抵抗を感じたのであろう。 何れにせよ三木
城を中心として志方、神吉、高砂、野口、淡河おうご、端谷の6支城計1万ばかりが離反した。
 三
木城にこのうち7500人が立て籠もった。 
 秀吉は3月6日本営を書写山に移し、月末から別所領に放火を始め4月3日にまず野口城を落
した。 総兵力は別所の方が多いのだからまず支城を次々と落して三木城を孤立させてた後に本
城の攻撃を開始するとした。
 ところが、ここに難問がおこった。 毛利が上月城奪回の軍を起して4月中、4万9千余人
(宇
喜多勢1万4千を含む)を以て城を囲んだ。 城には尼子勝久、山中幸盛ら700余人しかいな
った。 せっかく頼ってきた尼子の残党を見殺しにできないから秀吉は援軍を信長に頼むとと
に手持ちの2万(荒木宗重勢「を含む)を率いて救援に急行し、上月城の東側に布陣した。
 信長は滝川一益、明智光秀、丹羽長秀等に秀吉救援のため4月末に出発させ、5月1日には信
忠を三木城監視の為に出発させた。 滝川等の増援隊2万は5月上旬、上月城の左側の高倉山に
布陣したが、彼等は成り上がり者秀吉の協力は消極的だし、総力は依然毛利が優勢だから、上月
城救援はできなかった。 秀吉は密かに東上して6月16日、京都で信長に会い、指示を仰いだ。
信長は「上月城放棄、信忠の指揮で三木城攻略」を命じた。 
 秀吉は上月城に脱出を命じたが不可能としり、6月26日高倉山を撤去し、書写山に移った。 
月3日、上月城陥落し、勝久は自害尼子氏復興の芽は消えた。 
 信忠は北畠信雄、神戸信孝らを率いて5月6日播磨に入り別所方諸城の監視にあたった。 上
月城救援隊が指揮下に入ったので、7月15日夜、神吉城を8月10日志方城を落し秀吉にこの二
の監視を命じ、自らは主力を率いて三木城に迫った。 だが、信忠は地形上速攻は無理と判断

、秀吉に8千の兵を与え長囲を命じ、8月
17日には諸将を行き連れて岐阜に帰還した。 
 長囲を命ぜられた秀吉は、交通を遮断して城を兵糧攻めにする計画を立てた。 本営を平井山
に置き、城の四面に支営を設け本営と支営の間には三重の柵で防御し、交通路を備えて兵力の緯
度の便を図った。 南面の私営は毛利水軍が魚住に場陸した食糧を輸送する経路上にあったので
特に厳重に防護した。
 ここに第2の難問が起った。 荒木村重が毛利、別所、本能寺と通じ、有岡、高槻、茨木、花
隈、能勢、尼崎、大和田の諸城を率いて信長に反抗した。 11月上旬のことである。
 信長自ら出陣し、高槻の高山右近、茨木の中川清秀、大和田の阿部仁右衛門等を招降し、荒木
の本城有岡城を攻囲した。 有岡城は1年持ちこたえ、天正7年1119日陥落した。 村重自
は9月2日に密かに尼崎城に移りのち安芸にのがれた。 勇武を謳われた村重としては奇怪な

動である。

 別所とともに織田に帰属した小寺政職まさもとの老臣職隆もとたかの子孝高よしたかは秀吉の軍師を務めて
いたが村重説得のため有岡城に捕えられて幽閉されたが、織田家の節義を曲げず、落城によ
って
救出された。 

 天正6年12月に佐久間信盛、明智秀光らが食糧弾薬などの補給に来たが攻囲に当たるのは秀吉
8千の兵だった。 この攻囲戦は世界に例がないほど見事だった。 城兵は7500攻囲川8000
ほとんど左がない。 そのうえ魚住に上陸した毛利兵が参加すると城方の方が優勢になること

ある。 

 平井山の戦いは、別所方は賀相指揮の前隊2500余人、長屋村から正面へ長治の弟治定指揮の後
700余人が秀吉の本宮平井を挟撃する計画があった。 この計画そのものはよかったが、意図を
秀吉に密告され、周到な準備をしかれてしまった。 秀吉
1000余人の兵と弟秀長の隊との巧みに
運用し、敵兵
800人余を倒し撃退した。 
 大村の戦いは、毛利方の小早川隆景、吉川元春両将が魚住まで来て三木城に食料を入れたこと
からはじまった。 城からの案内人の先導で毛利の玉石隊が人夫7,8人に食料を運搬させた。 魚
住から加古川左岸を迂回し、大村をへて平田村に到着した。 9月10日秀吉方谷衛好の屯所があ
ったのでこれを攻撃、谷衛好を倒し屯所の外塁を占領した。 この頃、毛利の手島隊は、大村に
到着していたが、狼煙をあげて食料を運搬したことを知らせた。 自分たちは食糧をそこに於い
て谷屯所の攻撃に駆けつけた。 谷屯所は息子衛友らが防戦に努めた。 秀吉は千人の兵を以て
加持村の坂路を占領し、大村と三木城の間を遮断した。 一方城方は賀相が3000の兵を以て食
糧を受領しようと大村に向った。 秀吉は三倍の賀相隊を攻撃撃破して城に追い込み、一部は谷
屯所を攻撃中の毛利軍を駆逐し敵7,8千人の損害を与え、更に毛利軍が運んだ食料を全て奪い取
った。 
 この戦については毛利兵の食糧輸送の愚劣さが目に付く。 また城方も食糧受領隊は三分の一
の敵兵に蹴散らされて城に逃げ還っている。
 秀吉は包囲の塁を城から5600mまで推進し、望楼をたて坂茂木を植え柵を巡らし、川底にも障
害物を置き城兵の脱出と外部からの補給を完全に遮断した、」そのうえ、規律を厳しくすぃて警
を厳重にした。 城中の食糧は尽き果て、城兵は飢餓のためうごけなくなった。 
 15日長治、弟友之、賀相3人が自決ことで、城兵の助命を願い降伏を申しでた。 最後に賀相
の見苦しい行動をして部下に殺されたが、17日、長治、智之は妻子を殺して自決。 三木城は開
城された。 秀吉の政治家と武将としての名声があがった。 
 天正9年3月、改修の終わった姫路城にうつった。
 天正10年6月2日、織田信長が明智光秀に殺された。 この時、織田王国の重臣たちはみな狼
狽して適切な処置がとれなかった。 だが、秀吉だけは直ちに毛利と和睦して中央にとって返し
光秀を倒して主君の仇を報じ、以後昇り竜の勢いで天下人への道を進んだ。 他の重臣たちは王
国の下における有能な将軍ではあったが国王として決断する訓練は出来ていなかった。 秀吉は
信長の死を知って即座に国王としての決断が出来た。 これは秀吉の天性の才でもあろうが、三
木城攻略二年の大権が秀吉の器を育てたことをみのがせない。 

 5.山崎の戦
 山陰方面では、朝来あさご郡の竹田城を根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬政
略が本格的に再開され、天正9年(1581)5月16日山名堯熙の守る有古子山城が落城した。 こ
れにより但馬は再び平定され、秀長には出石城が与えられた。 同月稲葉にも侵攻し、第一次鳥
取城攻めがおこなわれた。 戦後、秀吉は因幡進攻計画を練り直して若狭の商人に因幡の米や麦
を買占めさせた。 6月より稲葉守護山名豊国の居城であった久松山の鳥取城を攻略した。 鳥
取城は秀吉の軍に包囲され、豊国は因幡一国の安堵を条件に開城を迫られたが、降伏に激しく反
対する森下道誉や中村春続らの家臣団と対立し、単独で秀吉に投降した。 家臣団は豊国を見限
り、毛利家に対して山陰地方で声望高く城兵をまとめる求心力を持つ存在として吉川氏の派遣
希望した。 当主吉川元春は一族の吉川経家の派遣を決定した。 

 包囲された鳥取城は山陰地方における毛利方の難攻不落の要塞であったため、秀吉は後世「鳥
取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用した。 先述の穀物買占めに伴う価格の上昇により、鳥
取城中の貯穀さえ売り出す物がいたといわれる。 天正9年7月には、雁金城を攻撃し、城主塩
治高清は丸山城に逃亡した。
 秀吉は、鳥取城の周囲に深さ8mの空堀を全長12kmにわたって築き、堀や柵を幾重にも設け
て櫓を建て夜間も入念に監視させたうえで河川での交通も遮断した。 9月16日、鳥取への兵糧
供給に於ける水上交通の要地、因幡千代川河口の海戦に於いて、細川藤孝の家臣松井康之が毛利
水軍を破り、敵将鹿足元忠を切った。 これにより、鳥取城は完全に食糧を絶たれ、水、草木、
城内の犬、猫、鼠まで食い尽くし、死体の肉まで奪し合う修羅場となった。 1024日、毛利
氏は秀吉方に丸山城を開城、翌25日鳥取城も開城した。 開城交渉では、自らの生命に替えて城
兵の助命を主張する経家と、経家を生かして森下・中村の切腹で十分と考える秀吉の意見がかみ
合わず、結局、経家と城内の有力な将士が揃って自害した。
 秀吉は天正10年(1582)3月、備前・備中に入った。 常山城の戦い、4月備中畑城の戦い、
備前冠山城の戦い、庭瀬城の戦い、賀茂城の戦いで次々と陥落させた。
 秀吉は5月7日、毛利方の勇将清水宗治の守る備中高松城を攻めあぐめ、水攻めにすることを
決意した。 高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっていて、南行不落の要害であった
城の周囲に築ずかれた堤防は、5月8日に造成工事が始まり、19日に終え、作戦は、堤防内に城
の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。 秀吉は救援に駆け付けた吉
川元春、小早川隆景らを将とする毛利の主力と全面的に対決することとなったが、折から梅雨で
城の周囲は浸水し、毛利軍は手が出せない状態となった。 こうした中で秀吉は主君信長にの出
陣を請い、信長は明智光秀にの援軍は兵を決めたほか、自らも中国・四国平定のために出陣しよ
うとしたが、その天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都本能寺において明智光秀の謀反
によって自害し、状況は一変した。
 このまゝ対陣を続ければ、来属した諸将が再び毛利氏に靡きかねない。 秀吉の決断ははやか
った。 6月3日夜半秀吉は安国寺恵瓊を陣所に招き、信長の死を秘したまま清水宗治の切腹を
主張しながら、信長軍団が到着する前に講和を結ぶよう説いた。
 毛利の前途を憂うる恵瓊は秀吉の勧告に応じた。 毛利輝元や両川に相談せず恵瓊は一存で周
囲が湖と化した高松状に小船でわたり、宗治に交渉の経緯を説明した。
 主家の苦境を察した宗治は、四日午前10時頃兄の僧月心、家人難波伝兵衛を伴い秀吉の陣所近
くへ漕ぎよせ、高市之允の介錯で自刃、一同も宗治に殉じた。
 宗治の切腹をお知らされた毛利はその死を無駄にしないため和議を進め、4日中に誓紙を交換
和睦した。 秀吉方から森重正・高政兄弟、毛利方から小早川秀包ひでかね、桂広繁がそれぞれ人質

として差し出された。 

 毛利軍が撤退し始めるのを確かめた秀吉はまず備前岡山城主宇喜多秀家軍を帰陣させ、同時に
杉原秀次に高松城の守備を命じた。 6日午後2時頃移動を開始その夜備前沼城にはいった。こ
れを世に「中國大返し」という。 7日沼城を発ち姫路まで約70kmの道を1日で踏破した。
 し
かも当時は雨、風が強く河川の水位も高かったと思われ、道巾も2間程度が多く、2万人近
くの
人が通行すると大行列が延々と続いたと思え荒れ、当時としては驚異的な速度であった。 
 8日姫路城は休息をとりながら他の軍勢の情報をまった。 秀吉は城中にためておいた金銀と
米穀の数量を調べさせ、これらを身分に応じて配下の将兵にことごとく分与した。 この日、浅
野長政、三好一路」、小出秀正に姫路城の留守居を命じている。 
 9日早朝、鉄砲千手大将の中村一氏、堀尾吉晴を先鋒とする羽柴軍1万数千は姫路を進発する
。 

途中淡路に一隊を派遣し洲本に処る明智方の菅平右衛門をその日に落城させた。 9夜半摂津兵
庫に入り人馬を休めた。 昼夜兼行で11日午前中に尼崎に到着した。 毛緻密秀の与力大名だっ
たが、光秀に加担しなかった摂津衆・有岡城の池田恒興・茨木城の中川清秀・高槻城の高山右近
塩川党らが秀吉に味方した。 四国の長宗我部征伐の為大阪に集結していた神戸信孝・丹羽長
は徳川家康の接待の為に軍をはなれており、本能寺の変の噂を聞いた雑兵多くは逃亡してしま
たが、何とか数千の兵をまとめて合流した。
 一方、光秀は変後の京都の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣し
京都以東の地盤固めを急いだ。 これは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土
城の周辺を押さえるとともに、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優
先したためと考えられる。 
 こうした状況のもとで光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝竜寺城の修築に取り
掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた、 しかし、光秀は予想を超える秀吉軍の進軍に態
勢を十分に備えられず、2倍から3倍とされる兵力さのまま決戦に臨むことになる。
 6月12日、秀吉は諸将を集めて富田で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を押した
が、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場
想定し、13日山崎に集結することにした。 各部署は、左翼(山の手)・羽柴秀長・黒田孝高
神子田征治ら羽柴軍主力、中央・高山右近・中川清秀・堀秀政ら、右翼(川の手)・池田恒興
と羽
柴軍の加藤光泰・木村隼人・中村一氏ら、予備軍・秀吉・秀勝と馬廻りである。 
 12夕刻には高山隊が山崎、中川大河天王山に陣した。 羽柴方が天王山をいち早く占拠した為
この山をめぐる両陣の攻防戦はなかったが、山崎の合戦を世に、天王山の争いという。
 局地的な小競り合いはあったものの、翌13日降雨の中を対峙は続く。正午頃神戸信孝・丹羽長
秀等が合流した。 午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた
中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興が襲い掛かかり、それに呼応して斎藤隊も高山隊
に攻撃を開始し戦端が開かれた。 斎藤・伊勢隊の猛攻を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが
秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。 天王山麓に布陣していた
田秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面をつくべく天王山中腹を進撃
てきた松田政近・並河易家両隊と交戦し一進一退の攻防が続いた。 
 戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰率いる手勢が、密か
に円明寺川を渡河して津田信治を奇襲。 津田隊は三方から責め立てられ、雑兵が逃げ出したこ
ともあり混乱をきたす。 また池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、
光秀隊の側面を突くような形となった。 これを受けて苦戦していた中川・高山隊も斎藤・伊勢
両隊をお仕返し、動揺が全体にひろがった明智隊はやがて総崩れとなった。 光秀は戦線後方の
勝竜寺に撤退を余儀なくされたが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、松田政近、伊勢貞興が討死
する甚大な打撃をうけた。

 一方、羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったことこともあり追撃は散発てきなもの
に止まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城
だったこともあって塀の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。 光秀では勝竜
城を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の落ち武者狩り

遭い、そこで竹槍に挿されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の解釈で自刃し

とつたえられる。


 6.賤ヶ岳の戦
 山崎合戦で秀吉が明智光秀を討つと、その半月後の天正10年(1582)6月27日には、清州会
議が開かれて、織田信長亡き後の相続・遺領配分の問題が協議された。
 その結果、柴田勝家が擁立しようとした名目上の大将でかつ信長の三男・神戸信孝をおさえ秀
吉が信長の嫡男・信忠の嗣子三法師丸(3歳)に決めたことに、信孝等は不満をもった。 彼等
は秀吉が会議の主導権を握って自説を押し通し、天下を思いのままに動かしそうな勢いをみて、
信長の遺臣柴田勝家や滝川一益も不満を抱いて秀吉と対立する動きをみせた。
 秀吉も柴田勝家や滝川一益、それと手を組む神戸信孝らを敵に回すようになり、何れは彼らと
戦わねばならぬと覚悟をして周囲の勢力を自らの協力体制にもちこもうと盛んに調略を行った。
 一方、柴田勝家としては、これから冬に向い、豪雪をおして北國から出陣することの不利を考
えて、一旦秀吉と和解する索をとることにした。 長浜城主となった養子の柴田勝豊から申し入
れさせて、前田利家らを使者として遣る、11月3日秀吉と和を結んだ。 
 ところが、雪解けまで秀吉との対決が伸びたと思っていた勝家の油断を衝いて秀吉は和平の誓
約を無視して北近江に出兵した。 養子でありながら勝家の甥の佐久間盛政が重用されて、権勢
を欲しい侭にしていることに不満を抱いていた長浜城の柴田勝豊を包囲し、1211日服従させ
ると大垣に出陣して岐阜城の神戸信孝を攻め、人質(母)を出させ服従した。 
 天正11年正月伊勢亀山城の関盛信・一政父子蒲生氏郷の仲介で秀吉に下ると、城の留守居岩間
三太夫が滝川一益に通じたのを契機に亀山城に滝川の攻撃を加えさせた。 滝川攻めの口実を得
た秀吉は、近江路から三方面軍を伊勢に進攻させ、一益が占拠した諸城を攻撃させた。 
 神戸信孝が秀吉に降り、伊勢で滝川一益が責められる状況を見て勝家は3月12日前田利家、佐
久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完成させた。 一益が籠る長島城
を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日には10万と
言われる兵力を率いて木之本に布陣した。
 勝家の作戦は北國街道の柳ヶ瀬に布陣して、この付近に来ると予想される秀吉勢を迎え、優位
な体制を保つ。 そして来援が期待される滝川一益や神戸信孝勢とともに三方から秀吉勢を包囲
して決戦する考えであった。 
 秀吉は堀秀政を東野山に登らせ、自らは文室山に登り敵の夫人を観望し、勝家側の布陣を長期
戦の構えとみて、短期決戦の方針に変更した。
 この両軍の兵力は秀吉10万とも言われるが実は5,6万くらい、勝家軍3万とも云うが実は2
万ないし3万くらいと思われている。 
 このように対峙して1か月を過ぎたが、岐阜城の神戸信孝が勝家に呼応して兵を挙げる動きを
示したので秀吉は4月17日2万の兵を大垣に転進し技岐阜城攻めに向った。  この秀吉不在に
隙に、柴田勝家の甥・佐久間盛政は突破口を開こうと大岩山の中川清秀攻略を進言し、反対する
勝家を強引に説き伏せて大岩山攻撃後は、速やかに元の陣に戻ることを条件に許可した。 
 盛政は4月20、大岩山を攻撃、わずか5,6百で守っていた中川清秀を戦死させ、岩山の高山
右近もせめて退かせると、勝家からの撤退勧告にも従わず、大岩山の占拠を続けた。
 4月20日昼頃大垣にいた秀吉は大岩山の中川清秀が戦死し、大岩山も落されたことを聞くと直
ちに軍を返すことを決めた。 そして大垣城に氏家行広を於いて信孝に備え、わずか数騎を率い
て午後2時頃大垣を出発、本陣に向った。 本隊も午後4時頃1万5千の兵が秀吉の後を追って
13里の道を約5間で木之本に着いた。 秀吉は木之本に着くと、しばらく将を休ませ明朝から攻
撃開始することを伝えた。 海津・塩津方面を守っていた丹羽長秀も湖上から余呉に向い、賤ヶ
岳へ救援に駆け付けた。 
 佐久間盛政隊は賤ケ岳を包囲するかたちで布陣していたが8時頃になって美濃街道に続々と松
明の連なるを見て秀吉軍の帰陣を知った。 予期しない早い秀吉の本隊の到着に盛政は驚き急い
で陣払いすることを決し原彦次郎に殿軍を命じ、賤ケ岳の西方にいた柴田勝政に撤兵を命じた。
21日午前零時頃から清水谷へと陣移動を開始した。
 秀吉は自らの率いる軍勢と秀長軍を三路に分けて、陣移動中の佐久間盛政を追撃した。 勝政
の軍勢が堀切の低地に差しかかった所で秀吉軍により、東方の高地から銃撃を加えられてしまっ
た。 秀吉は勝政軍が動揺したのをみて突撃を命じた。 福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野
長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元らの近習が競って突撃した。 午前10時の頃である、この
時一番槍として手絡を建てたのが有名な賤ケ岳の七本槍と言われる上の者であった。 孤塚まで
進めてきた勝家本陣も、秀吉の着陣を知って逃走する者が続出し、盛政隊が崩れて敗走すると、
その勢いに引きずられるように陣を脱する者が多く、小姓、馬廻りなど旗本7千騎が3千騎ばか
りに激減した。 勝家はここで残党を集めて秀吉勢と決戦しようとしたが、一旦、北ノ庄へ戻り
再起されよ、という家臣毛受勝照めんじゅうかつてるの換言を入れて後を毛受に託して退却した。 
毛受
は勝家から受け取った馬印を以て勝家の身代わりの名って激闘奮戦の末自害した。 時に午
後2
時頃であった。
 敗走した柴田勝家は100人余の兵に守られてその日夜半には北ノ庄城にかえった。
 賤ケ岳で勝家を敗走させた秀吉は、柴田をおって22日には、前田利家の府中城に姿を現した。
利家の戦線離脱、勝家の裏切りは、前年、勝豊の仲介で和平施設として秀吉にあったとき、秀吉
との間に内通の約束が」できていたので、秀吉は古くからの親しい友人のように振舞い、利家に
勝家攻めを命じた。  
 前田利家・利長父子を陣営に加え、府中にきて降伏した加賀松任城主徳山秀現ひであきも許して
23日、北ノ庄城を包囲した。 
 23日夜に入って北ノ庄では勝家と妻子及び家臣70余人が最後の宴を貼った。 お市は北ノ庄
城落城を前にして、夫勝家と共に死ぬことを願ったので、茶々、初、督の三人だけを脱出さて秀
吉のもとに送り届けられた。 
 24日午前4時頃から始まった秀吉軍の猛攻にも、城の守備は固く、午後5時頃まで持ちこたえ
た。 もはやこれまでと天守に篭った勝家はお市を)はじめ一族にの子女を次々と殺し後重臣中
村文荷斉の介錯で切腹した。 城に火をつけ勝家お市の遺骸は天守閣と共に焼け落ちた。

 7.小牧・長久手の戦
 天正11年(1583)、4月24日秀吉は宿敵の柴田勝家を北ノ庄城で破った。 また勝家に呼応
して岐阜城で兵を挙げた織田信孝は、兄の信雄に包囲され、尾張知多半島の大御堂寺に送られ自
害させられた。 しかし、秀吉が信長の後継者として天下人を称えるにはもう一人の宿敵がいた
。 
それは徳川家康であった。 
 家康は、秀吉と勝家の戦いこそ中立の立場を守っていたが、その間にも着々と東海・中部方面
に地盤の拡大を図っており、秀吉に従属することを潔とは考えていない。 家康と信長は勢力の
大小はあっても同盟を結んでいた。 その意味で、信長との立場は対等といえる。 対して秀吉
は、あくまでも信長の家来に過ぎない。 その自分がなぜ秀吉の下に立たねばならないのかと反
発するのは当然である。 
 また父信長の後継者を自任する信雄も同盟関係にあったものの結局は織田の名前を利用されて
いるに過ぎないことを知って、秀吉から離れつつあった。 そして、天正12年3月6日、信雄は
秀吉に懐柔された親秀吉の津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3家老を殺して秀吉と断交した。
 こ
こに家康と信雄は秀吉を共通の敵として手を結んだ。
 それを知った秀吉は3月8日出陣を命じ10日大阪から入京、翌日には近江に入った。
 家康は、3月7日に8千の兵を率いて浜松城を出馬し、13日のに清州で信雄と会見しているが
この日、池田恒興が突如、秀吉軍に寝返り信雄の犬山城を占領した。 14日 家康と信雄は軍議
を重ね、15日に、清州と犬山間の小牧山に布陣した。 
 秀吉は27日秀吉は犬山城にはった。 犬山城から楽田城に進出すると、家康も清州から小牧に
おはいり、信雄も長島から合流して、ここに両者は対陣した。 対峙すること2km秀吉軍10
万、家康・信雄軍わずか1万6,7千という。 戦力に劣る家康は・信雄軍は打って出ることも
出来ずまた、秀吉軍もいたずらに攻撃することを避け、両軍の睨み合ったままこう着状態となっ
た。 これを小牧の戦いという。 
 4月7日、秀吉軍は池田恒興の進言によって、家康の本拠三河を襲うべく、部隊がなんかした
。 
総大将に羽柴秀次、先鋒池田恒興、2番隊に森長可、三番隊に堀秀政という必勝を期しての陣容だった。 
 しかし、この動きが家康の知る処となり、9日朝尾張長久手で秀次部隊は急襲を掛けられる。
秀次は辛うじて逃げ帰ったものの池田恒興・元輔親子、森長可らが討死した。 この戦役で最大
の武力戦となった。 
 家康は、この戦闘で将兵1万余を討ち取ったとし、秀吉は、敗戦を認めながらも大きなものと
はうけとめていない。 仮に、1万余の兵力を損失したとしても、それが戦況を宇8御仮すもの
ではなかゅた。 
 5月1日、秀吉は楽田城を堀秀政、犬山城を加藤泰景に守らせ、自らは陣を撤した。 竹ケ鼻
城など美濃の信雄の属城を落しながら6月21日に大阪城に帰着している。
 9月、秀吉は和議に向けて家康の次男秀康を人質として差し出すよう求めたが、家康はこれを
拒否したため和議は決裂した。 ついで秀吉は信雄に手をのばした。 家康がなぜ戦うのか、そ
の大義名分は信雄である。 父信長によって大半を成し遂げた天下統一の道を受け継ぐのは秀吉
ではなく遺児信雄であるし、その信雄を助けるのは織田家への忠誠である。 これが家康の名分
だった。 ならば、その信雄をこの戦いから落籍せば、家康は兵を引かざるを得ない。 
 秀吉は信雄の懐柔に乗り出した。 信雄も、家康と手を組んだものの、膠着状態にある間に、
自領が秀吉に侵食されていく状況に耐えきれず1111日伊勢桑名において秀吉と会見し単独講
を締結した。 

 さて、信雄の脱落で目算通りに家康に戦いの名分を失い、1212日秀康を秀吉の養子にする
という名目で、人質として大阪に送った。 ここで小牧・長久手の戦は、一応の決着はみた。 
表面的には、秀吉は長久手の局地戦で敗れたものの講和戦略では勝利を得たことになる。

 天正14年2月、秀吉は家康と正式に和議を結んだ。 ここから秀吉の家康・臣従工作がはじま
る。 5月14日、秀吉は実妹の旭姫を家康に嫁がせた。 といってもただの結婚でない。 この
とき旭姫に、佐治日向守という夫がいた。 この夫を強制的に別れさせてまで、秀吉は家康と信
頼係結ぼうとした。 上位の者が下位の者に人質を送ると言うことはほかならない。 類例の
い人質工作といえる。

 それでも、家康は臣従しない。 上洛の要請を拒んでいた。 そこで最後の人質を祭出すこと
になる。 実母の大政所がその要因だった。 この申し出に家康も上洛を受諾した。 
 1018日、大政所は三河岡崎にはいった。 名目は娘旭姫を訪れるというものだった。 こ
の旅立ちで、家康にとって小牧・長久手の戦いはおわった。 
 1027日、家康は秀吉と会見した。 場所は大阪城とも聚楽第ともいう。 席上、諸国大尿
達が居並ぶなか、秀吉は家康に向い「徳川三河の守、上洛、大儀」と一声を浴びさせたという。

 8.九州平定
 天正5年(1577)正月、伊東義祐、義益父子は島津に日向を追われ、大友宗麟を頼って臼杵うす
に来た。「宗麟は二人を庇護し領地奪回を約束した。 県あがた(延岡市)の土持親成はそれま
大友氏に服属していたが伊東氏没落をきっかけに急速に島津氏に接近した。 このため、大友

は天正6年3月、3万余の土持追討軍を日向に派遣、4月
10日松尾城を落し親成を捉えて斬っ
。 松尾城以下諸城には各々城番を入れ占領地を管理させた。 

 9日、大友軍は日向・肥後の両面から薩摩を目指して出陣した。 日向方面軍は総勢4万とも
5万とも云われ、総大将は田原紹忍じょうにんである。 10日耳川を越え、島津の前進基地高城に攻
かかった。 大友・島津の戦線は高城をめぐり、1か月余り膠着状態となった。 そのうち島

義久が薩・隅の大軍を率いて救援に駆け付けた。 軍備がまとまらない運命の
1112日田北鎮周
しげかね
が小丸川を強行渡河、それに引きずられ他の大友軍も次々に渡河した。 しかし、腹背
から
島津軍の波状攻撃を受けて宋雪崩となり、数千にお犠牲をだし、豊津に向って壊走した。 

これを世に耳川の戦いと云う。 
 竜造寺隆信は、耳川敗戦と聞くや否や筑後、筑前に侵入し、翌7年には肥後に出陣し、大友分
国の所々を侵した。 また秋月種実・筑紫広門・原田了栄をはじめとする豊・肥・筑の国人等は
次ぎ次と大友氏に反旗を翻し、大友に従う者は築後門注所氏ただ一人となった。 竜蔵寺氏の勢
直派急速に伸び、大友・島津・竜造寺氏の鼎立と言われた九州政治地図のは急速に変貌していら
のである。
 竜造寺氏の肥後、筑紫への進出に対し最初島津氏はこれを認めた。 しかし、隆信は、これに
乗じ、天正9年、天草など島津勢力圏にまで進出し、島津との対立を深めた。 肥後は、北部は
竜造寺方、中南部は島津方と考えていたのである。 島津義久は、天正9年水俣城の相良義陽を
天正10年に御船城の甲斐宗運を下し、ほぼ肥後全域を掌握した。 
 竜造寺氏の圧迫に苦しむ肥前の有馬鎮貴(晴信)は島津氏に援助を求めた。 天正12年3月、
竜造寺隆信は有馬征伐のため島原に出向いたが、沖田畷で島津・有馬連合軍に打たれた。 以後
島津の威令が九州全域に行き渡るようになった。
 大友宗麟は衰退した自家では島津家の侵略を食い止めることは無理と判断し、当時中央に豊臣
政権を築いていた豊臣秀吉に支援を要請した。 秀吉は当時小牧の戦いの最中のため、大規模な
主力軍を九州に派遣することは不可能であり、ひとまずは政治的仲裁を以て大友宗麟と島津義久
を和睦させようと計った。 しかし、義久はこれを拒否した。
 秀吉の出陣もなく、代わりに指揮を任されたのが仙石秀久である。 秀久は讃岐高松10万石の
領主として日が浅く、その中核となる直軍を含めて寄せ集めで団結力に乏しく、島津勢に比べて
兵力も劣っていた。 功に焦った秀久は上京を打開慰すべく、先勝を挙げて士気を高めようとし
た。 無謀にも冬季の渡河作戦を決行し、1212日早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙した。 夕
刻になって最初に交戦したのは島津勢左翼の伊集院久宣と、仙石勢であった。 戦況は、島津戦
法の「釣り野伏せ」に誘われ、初戦は家久が狼狽するほど豊臣勢が押し気味であったが、島津側
の作戦に載せられ深追いしたところ左右両側からの伏兵に囲まれ、人数に劣る仙石勢はあっとい
う間に浮足立たせ遁走することになった。 勢いに乗る島津勢は第2陣の長宗我部・十河勢を包
囲して殲滅した。 長宗我部信親と十河存得そごうまさやすは戦死した。 軍監である仙石秀久は小
城に撤退。
 天正14年(1586)正月島津家の談合の席に、前年10月2日付の秀吉の書状が届き披露された。
それは大友氏と島津氏に対し、国軍境目相論については相互の主張を聞いて後日裁定をおこなう
ので勅命に従い、まず停戦するように命じた者であった。 終日激論がかすぁされた結果、細川
幽斎に宛て、停船命令の勅命は受諾する。 当方は信長斡旋の和平を守っていたが、大友氏が日
向・肥後の国境を侵犯したのでやむを得ず防戦したのであると返書を認め、鎌田政弘を使者とし
て呈上した。
 3月中ころ、政弘を引見した秀吉は、九州の国分(領土裁定)につき肥後半国・豊前半国・筑
後・豊後は大友領、肥前は毛利領、筑前は豊臣氏とし、残余は島図領とする、諾否は7月までに
政弘じしんが上洛して回答せよ、回答がなければ秀吉自ら九州へ攻め下るつもりであると口頭で
伝えた。 
 政弘の復命に接した島津氏老中は6月大友討つべしと談合をまとめ、筑前に軍を進めた。
 島津氏の攻勢に対抗するため、天正14年3月大友義統よしむねは父宗麟を上坂させ、秀吉の援助
を要請した。7月になっても島津氏からの回答がなかった為、秀吉は遂に島津征伐を決定した。
 7月12日、秀吉は義統に対し、仙石以下四国勢の豊後下向を報じ、更に8月25日秀吉本隊の
到着までは島津軍が合戦を挑んできても取り合わず、堅固に籠城するよう、長期の滞陣と包囲戦
について注意を与えた、
 島津家久は近隣の城塞を攻略し、12月初め臼杵城、鶴賀城を攻撃し、12日、戸次川の戦に勝
利し、一気に府内を占領した。 一方、義弘は1022日、豊後に入り、高城を攻撃、連日豊後
南部の城々を攻め落とした。 12月初め本隊は岡城、新納忠元は玖珠郡、新納久時は大分郡へ進
撃した。 しかし、義弘は岡城を落せず、24日杉綱城入り、家久あらの府内参陣お要請お断わり
越年いた。 薩摩と府内の通路を絶たれ、南部衆お説得受け入れたあらである。 このように長
陣の疲れから無敵の島津将兵の群立お乱れが見られるようになった。 天正15年3月13日、義
弘はついに玖珠郡お発って府内へ入った。 談合の上ひとまず豊後から本国に撤退、時節をまつ
のが良作お一致いた。 15日夜、早速日向・肥後方面に撤退作業を開始した。 
 天正1412月1日、秀吉は、諸国に翌年3月の出陣を触れ、15年2月20までに準備を完了する
ことを命じた。 また、小西隆佐りゅうさ(境の豪商、行長の父)に兵
30万、馬2万匹の糧秣1年分
兵庫尼崎に集積させ、石田三成らに兵站を命じ、兵糧
10万石を赤間関(下関)に送らせた。 
 天正15年元旦、年賀祝儀の席で諸国の諸将に九州征伐の部署と軍令を発した。総勢は12万、
都の守備は羽柴秀次、前田利家に託した。 羽柴秀長は2月
10日大和郡山を出発した。 3月
日秀吉は女房を従え、2万5千の兵を率いて悠場迫らぬ威容を示しつつ九州へくだった。 
25
、赤間関で先着の秀長等と軍議を行い、秀長は、豊後・日向を経て、自身は筑前・筑後・肥後

経て薩摩に入ることを決めた。 

 秀長は黒田・蜂須賀・大友等を先手とし、毛利・小早川・宇喜多等を率いて日向を目指した。
4月6日、耳川を渡り、陣を敷いた。 戦いは高城攻防戦から始まった。 17日義久・義弘等は
2万余騎を率いて根白坂に豊臣軍を攻めたが、多くの犠牲をだして敗退した。 一方、秀吉は
3月29日、馬ヶ岳に入り、秋月攻略を開始し、4月1日、岩石城をたった一日で落した。 驚
た種実は3日名物「楢柴の壺」を献上して、降伏を許された。 以後、筑前・筑後・肥後を短
時のうちに平定、19日には八代に陣を進めた。
 21日、秀吉が薩摩川内に入ったとの報を得た義久は諸将と談合し、秀長に降伏の意を伝えた。
 秀長は、先に足利義昭に内意を伝え、前年12月以来、島津氏への和睦の働きかけを行ってきた
のである。 5月8日、義久は剃髪、墨染の衣で泰平寺に駆け込み、秀吉に罪を謝し降伏した。
 秀吉は、降伏を許し、義久に薩摩一国、義弘に大隅、日向の一部を安堵した。 18日秀吉は泰
平寺を発ち帰国の途についた。 
 6月7日、筥崎に着いた秀吉は、諸将を招集して九州の国割りを発表した。 筑前一国・筑後
肥前内各2郡を小早川隆景、筑後上三郡を同秀包、下四郡を立花宗茂、下一郡を高橋直政、後
郡・肥前一郡を筑紫広門、肥前四郡を竜造寺政家、肥後を佐々成政、豊前6郡を黒田孝高、同
郡を森吉成に与え、大友義統には豊後、松浦・有馬・宗氏らにはその旧領を安堵し、秋月種実
高橋元種を日向に添付した。
 また6月19日、キリスト教を禁止し、イエス2会領長崎を募集した。 

 9.小田原攻め
 天正10年(15821027日、本能寺の変により無主の地となった織田氏分国(旧武田領)の再
分割を巡って対抗していた徳川家康と北条氏直との間に和議が成立した。 

 この和議の内容は、①氏直は家康に甲斐・信濃の領有を認める、②家康は氏直に上野の領有を
認める。 ただし、信濃上田城主眞田昌幸の領地である上田沼田領は、昌幸が家康に従うことに
なったので、家康から昌幸に沼田城の代替地を与える。 ③家康の次女督姫を氏直の妻とするの
三つを基本とするものであった。 翌年11年8月15日、三つの条件に従って家康の次女督が氏
のもとに輿入れし、ここに北条・徳川の同名が成立した。

 天正15年5月には秀吉は、九州平定を実現し、いよいよ関東・奥羽の平定へ本腰をいれること
とになり、この年12月3日、二度目の惣無事令(大名間の私闘を禁じた令)を発令した。 この
ため北条氏は豊臣軍の侵攻に備えて15歳から70歳の男子お対象にした徴兵など戦闘体制を整え
いた。 

 一方、秀吉は翌16年4月に後陽成天皇を聚楽第に招き、諸大名を集めて秀吉に服従する旨の起
請文をとった。 これが北条氏に対する一種の圧になったことは否定しがたく、北条氏と同盟関
係にあった家康は、翌5月、秀吉の意を受けて、氏政、氏直父子に対して、①秀吉の前で氏政・
氏直父子を悪様に云うことはせず、勿論北条氏の領国を欲したりしない、②5月中に上洛させる
こと、③上洛しない場合娘督姫を返して欲しいの3点を基本とする起請文をおくった。 
 これに対し北条氏内部では、氏政・氏照兄弟等が、上洛拒否の立場に立ち、氏直と氏則は上洛
を主張し意見が分かれた。 なんとか上洛論がとおり、氏則が上洛することになった。
 上洛した氏則は、8月22日に秀吉と謁見し眞田氏と係争中の上の沼田領問題が解決すれば兄氏
政もすぐ上洛するであろうと述べた。 この上洛は、事実上北条氏が惣無事令を受容れ豊臣政権
に服従することを意味した。 
 その翌17年春頃から秀吉は、上野沼田領問題の裁定をすすめ、このため氏直は家老の板部岡江
雪斎を派遣してその交渉に当たらせた。 その結果、沼田領3分の2を北条氏に割愛、残りの3
分の1に当たる名胡桃の地は真田氏の墳墓の地として安堵し、割譲分の代替地を家康は真田氏に
保障することと言う裁定趣旨を当主氏直の上洛要求とが北条氏に提示された。
 氏直は充分に納得のいく裁定ではなかったとはいえ、6月初めに、この査定を受容れ、12月上
旬に隠居氏政を上洛出仕させる旨の契約書を提出した。 そして7月半ば。秀吉の裁定通り氏直
は眞田昌幸から沼田城を受けとり、こうして北条氏の上洛出仕と沼田領問題は一応の解決をみた
。 
ところが、天正1710月末、沼田城将猪俣範直が眞田氏の名胡桃城を奪取した。 11月初め
事の次第は真田から家康を経由して秀吉に伝えられた。 秀吉はこれを豊臣政権による領土裁定
に対する侵害とみなし北条氏に対し、北条氏に対し使者を派遣し糾明に乗り出した。 これに対
し、これに対して北条氏家老の石巻康敬らを使者として派遣し、名胡桃城奪取は北条氏の関与す
る所でない等、弁明を試みるも、秀吉は北条氏に非ありとして使者の石巻等を抑留し、さらに11
24日、家康を)石手最後通牒を氏直のもとに送りつけた。
 天正18年(1590)2月10日、北条氏「征伐」の先鋒を命じられた家康は東海道軍を率いて駿
城を出発、3月1日秀吉も聚楽第を出発した。 
29日には北条氏の西方防御の拠点である中山
と韮北城への攻撃を開始、その日のうちに
陥落させた。 4月1日、秀吉は東進して、箱根に入
り、足柄城、新城を落城させると3日に小
田原まで進み、小田原城包囲の態勢をとった。 
 一方、上杉・前田の北陸軍は、3月28日に碓氷峠を越え、松井田城、4月中に同国」内の西牧
城、国峯城、厩橋城、松井田城、箕輪城、石倉の諸城が攻略された。 その後降伏や没落がつづ
く。
 7月1日になって、氏直は織田信雄を通じて、秀吉と過剰の交渉を開始した。 五日、氏直・
氏房兄弟は、家康の陣所に行き、開城を申し出た。 これに対し秀吉、氏政、氏照、と家老の松
田憲秀、大道寺政繁は切腹を命じ、6日小田原城受取った。 小田原城は3ヶ月に及ぶ籠城の末
開業した。 11日城下の医師田村安斉宅にて氏政、氏照は切腹した。
 天正18年7月13日、小田原城に入城した英世素は家康に、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・
野・下野七か国(旧北条領国)をあたえることを公表した。


 10.朝鮮侵略(文禄・慶長の役)
() 朝鮮通信使
  文禄・慶長の役は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた戦争で、日本
 の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞
 台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。 この戦争は
 ・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であり、日本と中国の戦争だ

 た。

  天正13年(1585)7月、関白に就任した秀吉は、その年の9月に腹心の武将一柳に明征服
 抱負をのべている。 また、天正
14年(1586)3月、秀吉は、イエズス会宣教師ガスパール・
 クェリョに明・朝鮮征服の意図を告げ、クェリョは軍艦2艘と乗組員を提供してこれに援
助す
 る意向を示した。 

  九州平定を完了した秀吉は宗氏に対馬一国を安堵した。 このころ、秀吉から李氏朝鮮を服
 
属させるよう命令をうけ、小西行長、島井宗室(商人・家臣)らと共に交渉に尽力する。 交
 渉は
思うようにすすまなかった。 秀吉の意向はあくまで朝鮮国王の日本内裏参洛であり、も
 し参洛しない場合は、朝鮮を成敗するというものであった。 

 天正15年(1587)9月宗氏は家臣橘康広を日本国王使と称して朝鮮へ送った。 康広は、戦国
 動乱にあった日本では、この度、新王が立ってこれをまとめたので、通信使を派遣して欲し旨
 を伝えたが、彼等がもたらした書簡には「天下、朕の一握に帰す」の語があり、文章の辞句は
 傲慢であり、この報に接した朝鮮国王は「これまでの国王を廃して、新王を立てた日本は纂弑
  さんし
(臣下が君主を殺して王位につく)の国であり、その使節を接待してはならない。 その
 意を受けた大臣らは、礼儀に従って使節を接待する必要ましとし、水路迷昧を理由にこれをこ

 とわった。 康広は帰国してこれを報告したところ、秀吉は激怒して康広を殺し一族も滅ぼし
 たという。

  天正17年(1589)3月、秀吉は宗義智よしとしに朝鮮国王参洛の遅参を攻め、この夏中に参洛
 させるように督促した。 そのため、同年6月、宗義智は博多聖福寺僧景轍玄蘇を正使、義智
 自信を副使となり、島井宗室等
25名をこれに加え朝鮮へ渡海した。 
  ソウルに到着した一行は朝鮮国王に拝謁ののち、通信師の派遣を要請した。 これより先朝
 鮮側では、日本への通信使派遣を水路迷昧を理由にすれば、宗義智が必ず自分が案内するとう
 であろう、是にどう対応すべきか問題となった。 その結果、日本使節一行に、日本の海賊問
 題の処置を要求しその試責をみてから結論を出すことになった。 即ち、数年前に、倭寇が全
 羅道損竹島を犯し、その辺将李大源を殺した。 そこで、朝鮮の叛民沙乙背同なるものが、倭
 寇の手引きを下といわれている。 宗義智らが沙乙背同を朝鮮に連行すれば日本への通信使
 派遣を検討することになった。
  この条件を内示された宗義智は直ちに家臣柳川調信しげのぶに沙乙背同逮捕に向かわせた。 し
 ばらくして沙乙背同を逮捕し朝鮮に連行した(真犯人かどうかは不明)。 それにより同年9
 月、朝鮮側は秀吉の日本全国統一を祝賀する」通信使派遣を決定し、同年
11月、朝鮮国王は、
 通信
正使に黄允吉を、副使に金誠一を書状官に許筬を任命した。 
 通信使一行は翌天正18年(1590)3月にソウルを発ったのである。 7月に京都に到着して大
 徳寺に宿泊し、小田原」から凱旋する秀吉の帰京を待つていたのである。 
11月7日秀吉は聚
 楽第で朝鮮通信使を謁見し、朝鮮国王の国書をうけたった。 日本
60余州統一の祝賀のために
 来日した朝鮮通信使に対する秀吉の傍若無人な態度は、その使節を遇する者としてはきわ
めて
 礼を失するものであったが、」そこには、秀吉はこの通信使を服属使節と思い込んでいたと
 う事情があった。 

 謁見の後、秀吉は正使黄允吉と副使金誠一に銀400両、書状官・通事らには品物を与えたも
 の、国王の書簡に対する返書を直ちに与えず、一行は堺に待機することになった。 そして

 たらされた朝鮮国王宛ての秀吉の書翰は「辞意悖慢にして吾の臨む所にあらざる」ものであ

 た。

  その書翰の要点は次のとおりである。
  ①    日本は戦国動乱にあけくれ、朝廷の威令は届かなかった。 自分は一念発起して、数年
  に叛臣・叛徒を伐ち、日本全国は勿論のこと、異域遠島に至るまで服属させた。

      自分はもともと微陋身分の小臣であったが、自分が母の胎内に宿った時、母は日輪が懐
   に入った夢をみた。 これについて占い師は「生まれてくる子は壮年に至れば必ず八表仁風
  を聞き、天下に威名をとどろかすであろう」といった。 この奇端により、百戦百勝
し天下
  を治め、百姓を撫育し、民は裕福になら、貢納も増え、朝廷は安泰となり、都の壮
麗さは日
  本開闢かいびゃく以来のものとなった

      しかし、自分はこれで満足していない。 日本が明と山海を隔てているのをものともせ
  、直ちに大明国にはいり、日本の風俗を中国
400余州に及ぼし、日本の政化を未来永劫に植
  え付けようと考えている。

      朝鮮は先駆して自分のもとへ入朝したので憂うことはない。 自分が民へ兵を出す時、士
  卒を率いて軍営に臨めば、さらに臨盟が固まるであろう。

      自分の願いは佳名を三国に顕すことだけである。
   この場合、「佳名を三国に顕す」というのは、秀吉の東アジア征服の目的が功名心にあると
   る学説のよりどころとなる。  堺にて秀吉の朝鮮国王あて書翰を受け取った通信使一行
  は「一
超、大明国に直入し」「貴国先駆」等の語は朝鮮を明征服の先駆とするものとして反
  発した。 そ
して諸翰にある「陛下」「方物」「入朝」の六文字は「辞意悖慢」であり、不
  遜なることを指摘
し、景轍玄蘇等にその書き換えを要求した。 これに対し、景轍玄蘇は
  「陛下」「方物」の四字
は秀吉に上申して書き換え」の許可を得ると約束したものの「入
  朝」は明へ入朝する意味であ
るとすり替え書き換えは拒否した。
  
 正使黄允吉と書状官許筬は玄蘇の釈明に納得したが、副使金誠一は執拗なまでに玄蘇に書
  き
換ええを迫った。 しかし、帰国を急ぐ正使黄允吉と書状官許筬はそれ以上の折衝に消極
  的で
あったため、金誠一も争うことが出来ず。 遂に帰国した。
   
しかし、その書き換えはなかった。
()朝鮮官人の派閥争い
   天正19年(1591)1月、宗義智は朝鮮通信使を伴い対馬に着き、景轍玄蘇・柳川調信に通
  信使一行を朝鮮まで送らせた。 
  正使黄允吉は、秀吉の目は爛爛として恐るべき人物とみて、朝鮮に出兵するであろうと復命
  した。 これに対し副使金誠一は、秀吉の目は鼠のようであり、恐るるに足りない、秀吉の目
  は鼠のようであり、恐るるに足りない、秀吉の出兵はない、黄允吉の報告は大げさであり、人
  心を動揺させるものと、異手を罵倒せんばかりに、是に対立する復命をしたのである。 時の
  実権を掌握していた左議政柳成龍は金誠一の復命をただしいとした。 
   高麗の国教は仏教であったが、李氏朝鮮は成立以来、その国教は儒教であった。 朝鮮の
 人になるためには儒学の学習が必要であり、多数の書院で儒生(官人志願者)の養成が為さ

 た。 彼等官人と儒生らは政権掌握を目的とし、そのために党派を作り、内部の結束援助と

 部に対する排撃を行って政争に明け暮れた。 

  1565年、士林派しりんはは明宗の生母の死を契機に尹元衡一派を追放して、政権を掌握した。
 ところが、1575年、士林派は東人派(改革派)と西人派(保守派)に分裂して党争をはじめた。
 
 官人らはこのいずれかに属したのである。 
  この両派の対立は宣祖(15671608)の時代に一層激しくなる。 黄允吉と金誠一が通信使
 に任命された1589年、己丑の獄(東人派の鄭汝立が朝廷に登用されないのを怨んで謀反を企
 たとされる事件)により、西人派の鄭澈チョンチョルが右議政となり、実権を掌握したのである。

 
これにより正使黄允吉は通信正使に任命されたが、通信使一行が日本へ行っていた1591年、建
 儲けんちょ(王世子を定めるおと)の議を巡って、鄭澈が国王の逆鱗にふれ失脚する辛卯の獄がお
 こり、東人派の柳成龍が左議政となって実験を掌握した。 このため通信正副のあい異なった
 復命のうち、金誠一の復命が是とされたのである。

() 対馬藩宗氏の「仮途入明」要求
  一方、朝鮮国王は通信使の帰国に同行した景轍玄蘇等を接待した。 その接待に当たった宣
 慰使は弘文館翰(宮中の経籍・文書の掌握、国王の顧問を任務)の呉億齢オオクリヨンであった。 
 接待にあたった呉億齢は、玄蘇が、来年、朝鮮の道を借りて民に入犯するというのを聞いて驚
 愕する。 ついで翌閏3月、玄蘇は先の通信副使金誠一に「仮途入明」要求を告げた。 「朝
 鮮王朝実録」は次の様に記している。
  「玄蘇、密かに誠一に語りて曰く、中朝(明)久しく日本と絶ち朝貢通ぜず、平秀吉、此れ
 以て心に憤恥を懐き、兵端を起こさんと欲す、朝鮮、若し先に(明への)奏聞を為し、貢
路を
 して通ずるを得しむれば、即ち必ず無事なり、しこうして日本の民、亦兵革の労を免る、
誠一
 、論するに大義を以て可とせず、又た曰く、昔、高麗元兵を導き日本を撃つ、日本、こ
れを以
 て怨を朝鮮に報ぜんと欲す、勢、宜しく然るべき所なり」
朝鮮国王に対する秀吉の明征服先導
 命令に宗氏は当惑した。 玄蘇は朝鮮側に「秀吉は明と
の朝貢が途絶えているのを恥じ、朝貢
 の再開を望んでいる。 これが受てられなければ兵端が
起きる。 日本は朝鮮に明へ入る道を
 借りたいだけである。 朝鮮は明に貢路の斡旋をして欲
しい」というのである。 これが宗氏
 側の弁明であり、「仮途入明」要求であった。 先に宗氏
は、朝鮮を服属せよという秀吉の命
 令を「秀吉の日本全国統一祝賀の通信使派遣」要請にすり
替えて朝鮮に交渉した。 こんどは
 秀吉の明征服先導命令を「仮途入明」にすり替えたので
ある。
  しかし、朝鮮は宗氏の策略に乗らなかった。 朝鮮側は玄蘇の申し入れに「貴国は朋友の国
  成り、大明は君父なる、若し、貴国に便路を許さば、是朋友あることを知り手、君父有るを知
 らざるなり、匹夫すら是を恥つ、況や礼儀の」邦に於いてをや」と宗氏側の要求を拒絶した。
  朝鮮で通信使の復命をめぐる論議があったころ、明はいち早く、秀吉が日本国王の地位を確
 立し、琉球。朝鮮を席巻して中国お併呑を謀っているという情報を入手していた。 それは、
 薩摩にいた明人お医師許議後や商人陳申等によるものであった。 
  ここに明の藩国朝鮮としては、通信使派遣によって察知した倭情を明に奏聞する必要に攻め
 られた。 朝鮮内部では、倭情の明奏聞の当否について、党派に分かれて論議が起こる。 論
 議の前提には通信使の総意成る復命があった。
  西人派は事態は明に関わる重大事であり、包み隠さず至誠事大の立場に立って即時奏聞する
 ことを主張した。 これに対して東人派は、秀吉の明征服計画が真実ならば、直ちに明に奏聞
 すべきであるが、いまだ実状がはっきりしないまま聴聞すれば、明と朝鮮の関係が混乱すると、
 明への倭情奏聞に反対した。 この論議の結果、朝鮮は賀節使を明に派遣し「従軽奏聞」する
 ととなった。

  明に派遣された朝鮮使臣は、琉球や許儀後の通報は朝鮮への誣告であり、朝鮮は父母の国で
 ある明の藩屏として至誠事大の立場を顕示するものであると陳述したのである。
() 軍事力と軍事情勢 
  当時の各国の人口は1600年の時点で、日本は2200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億
  5000万人、イベリア帝国(スペイン・ポルトガル)1050万人、オランダ150万人、ブリテン
 島は
625万人であったと推定されている。
  秀吉の日本軍は、侵攻軍と予備軍があり、予備軍は新たに建設した名護屋城に集結させた。
  文禄の役の動員は、9軍団にわかれた総勢158000人で、そのうちの2軍団21500人は予備とし
 てそれぞれ対馬と壱岐に駐屯した。 これに諸隊(中川秀政ほか)の
12000人、水9200人、石
 田三成ら奉行
7200人が後図目として名古屋に在陣し、渡海軍と待機軍とを含めると総計187100
 人であった。

  慶長の役では141500人が動員された。
  日本軍の武器・装備 15世紀中頃から日本は長い内戦状態にあったため、豊臣秀吉の指揮下
 には実戦で鍛えられた50万人の軍隊がいた。 これは当時の地球上では明と並び世界最大の軍
 隊であった。 1543年の鉄砲伝来の日本に持ち込まれた火縄銃(マスケート銃)は、その後す
 ぐに国産化され日本国内で普及した。 戦国時代末期には日本には50万丁以上を所持していた
 ともいわれ、当時世界最大の銃保有国となっていた。 尚、当時の日本の武士人口は200万人
 あるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった。

  日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせで使用し、接近戦用には長槍、乱戦
 用には日本刀を用いた。 戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち、弓矢よ
 も貫通力のある銃の集中使用によって優位にたった。 しかし、戦争の末期にになると朝鮮

 明も歯獲下日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やして対抗した。

  明軍
  文禄の役においては、祖承訓率いる5000人、李如松率いる43000人が参戦し参戦し、更に
 「碧蹄館」の戦いの呉に劉綖率いる5000人が増援として新たに到着した。 慶長の役につい
 は、最大動員となった慶長3年9月の蔚山・涙が倭・順天の三方面同時反抗の際の兵力を「宣

 祖実録」では92100、「日本戦史・朝鮮役」では64300、朝鮮資料では両役をとおして明の動員
 数を221500余人とする
  朝鮮軍
  文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は172400人の正規軍を展開し、22400人の非正規軍がこ
 を支援した。 朝鮮にも火縄銃に似た火器があったが、旧式のもので、下記は現代でいう大

 に分類されるものが中心となっていた。 宗義智が
1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物
 として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺に下げ渡したのみで、この新兵器の潜
在能
 力を見抜くことができなかった。

() 第1次朝鮮侵略と朝鮮王の都落ち 
  天正20年(1592)3月13日、秀吉は約16万の兵を九軍に編成して、朝鮮へ渡海することを命
 じた。
  諸大名への陣立て指示に先立つ同年1月、秀吉は加藤清正、・黒田長政・毛利吉成ら第2・
 第
3・第4軍の主将らに、「高麗国へ御使として小西摂津守差遺わされ候条、その返事申し上
 げ候
までは、壱岐島・対馬に諸勢陣取り、相待つべく候」と指示している。 
  第1軍 18700[小西行長(7000)・宗義智(5000)・松浦鎮信(3000)・有馬晴信
              (
2000)・大村喜前(1000)・五島純玄(700]
   第2軍 22800[加藤清正(10000)・鍋島直茂(12000)・相良長毎(800]
   第3軍 11000[黒田長政(5000)・大友義統(6000]
   第4軍 14000[毛利吉成(2000)・島津義弘(10000)・高橋元種・秋月三郎・伊東祐兵
                ・島津豊久(2000]
   第5軍 25100[福島正則(4800)・戸田勝隆(3900)・長宗我部元親(3000
                ・蜂須が家政(7200)・生駒親正(5500)・来島兄弟(700]
   第6軍 15700[小早川隆景(10000)・毛利秀包(1500)・立花宗茂(2500
          ・高橋直次(800)・筑紫広門(900]
   第7軍 30000[毛利輝元(30000]
   第8軍 10000[宇喜多秀勝(1000]
   第9軍 11500[羽柴秀勝(8000)・細川忠興(3500]
  4月13日の夕刻、小西行長・宗義智の第1軍の倭船が海を蔽うようにして釜山浦にせまった
 。
 その時、絶影島チョルヨンドはこれを見て急いで釜山鎮に戻った。 宗義智が釜山鎮僉使鄭撥
 ョンパ
ルハ
、これをみて急ぎ釜山鎮にもどった。 宗義智が釜山鎮僉使鄭撥に兵船を率いて釜山に
 至っ
た理由を「仮途入明」であると伝えようとしたのであった。 鄭撥はこれを無視した。 
  翌14日の早朝、日本軍は釜山鎮を囲んだ。 鄭撥は激戦したが、矢尽き、鉄砲に当たって戦
 死した。 釜山鎮は陥落し、日本軍はその余勢を駆って東萊城トンネに向った。
  日本軍は釜山浦に迫ったことを知った東萊府使宋象賢ソンサンヒョンは軍民ヲ率いて東萊城のま
 りを固めた。
  東萊城を囲んだ日本軍は、城の南門外に「戦わば即ち戦え、戦わずんば、即ち道を仮せ」と
 木札を立てた。 これはあくまで「仮途入明」を要求しようとするものであった。 宗像賢は
 「戦死するは易し、道を仮すは難し」の返書を日本軍に投じ、ここに東萊の戦闘が始まった。
  激戦のさなか宗氏の家臣が象賢を避難させようとしたが、象賢は朝服を着てこれに応じなかっ
 た。 

  釜山鎮と東萊城を陥した小西・宗ら第1軍は、その後、左水営→機張→梁山→密陽→大邸→
 仁同と兵を進め、25日、尚州で慶尚道巡辺使(一道の兵馬統括)李鎰の朝鮮軍を一蹴して慶尚
 道を破竹の勢いで進撃し、慶尚道と忠清道チュンチョンドの境となる鳥嶺チョリヨンを越え、4月28日、
 忠州で三道都巡辺使申●シンリブの朝鮮軍を破った。
 一方、加藤清正の第二軍は、4月18日釜山浦に上陸し、慶尚道を梁山→彦陽オンヤンから慶州キョン
  ジュ
へと兵を進めた。 慶州では慶州判官朴毅長パツイザンはこれを見て逃亡した。 この頃であろ
 うか、沙也可という名の清正の先鋒将が、朝鮮の東土礼儀の風俗、中華文物の盛んなるこ
とを
 慕い秀吉の出兵に大義なしとし、「所領の兵三千を以て、慶尚兵使臣朴晋に帰付」している。

   清正にとってこれは反乱であった。
 この様な問題を内側に抱えながら、清正の軍は、4月29日、忠清北道忠州で第1軍と合流し
 。 また、黒田長政の第3と毛利吉成の第4軍は4月
18日、慶尚南道金海に上陸した。 金
 府使徐礼元はこれを防いだが、敵せざるを知り逃亡した。 そのあと、4月
20日には、小早
 隆景の軍、毛利輝元の軍、それに秀吉の軍師黒田孝高らが釜山浦に上陸した。 さらに福島

 則らの四国勢も慶尚道にはいり、尚州・威昌・聞慶そして忠清北道の忠州などの書状に駐屯

 た。 かくして朝鮮に上陸した日本軍は、釜山と東萊、そして忠州遺骸にさしたる反撃も受

 ずにソウルヘ向けて進撃した。

  4月17日、慶尚左道水軍節度使朴泓パクホンは日本軍釜山鎮攻略の報を国王の本江知らせた。
 同月27日に尚州の敗報が、更に29日には忠州の敗報がソウルに届いた。 ソウルの人心は動
 した。 忠州の敗報は都落ちを決定的なものとし、全体の意向は宗主国明に救援を頼んで国

 の回復を図ろうということになった。 4月
30日の払暁、朝鮮国王一行は大雨の中を都落ち
 た。 従うものは
100人にもみたなかった。
  4月29日忠州で小西行長・宗義智らと合流した加藤清正・鍋島直成の第2軍はソウルへの進
 入路について協議した。 かくして、小西等第1軍は忠州を北進して、京畿道驪州ヨジュからソウ
 ルの東大門へ、加藤ら第2軍は忠州から西進して京畿道竹山、龍仁を北上してソウルの南
大門
 へと進撃することとなった。

  この両軍がソウルへ入ったのは5月3日の払暁である。 ソウルに入った清正はただちに名
 古屋へソウル陥落を注進した。 ところで、この注進状はソウル陥落を5月2日としている。
  ここに清正と行長が先陣争いに端を発し、両者の間に確執が芽生えるのをみる。
() 秀吉の東アジア征服構想 
  天正20年(1592)5月16日、加藤清正からソウル陥落と朝鮮国王逃亡の注進をうけた秀吉
 、清正に九ヶ条にわたる指示を宛てた。

  第1は、朝鮮国王の捜索である(第1条)。 それにつき秀吉は国王に「堪忍分」を認めて
 い
る。 秀吉は、日本の諸大名に対するのと同様に、この「堪忍分」を朝鮮国王にも与えソウ
 ル
での諸経費を保証した。
  第二は、ソウルをはじめ、朝鮮各地で日本軍の占領の在り方、並びに朝鮮民衆への対処の仕
 方についての指示である(第2,3条)。 それは①朝鮮に入った日本兵に禁制をまもり、乱暴
 狼藉なきことを徹底させ、②ソウルに入った日本の兵は「何れも都の外廻りに野陣を仕るべく
 、上様、御馬廻り・其外御番衆計りにて都の中に御座有るべく候条、其意を得、町人を悉く

 住申し付くべき事」(第2条)という。 ③朝鮮各地域の農民を村々に環住させ法度を申し付

 けること、④以上の指示を清正と行長が現地の実滋雨Ⅴを見て推し勧めよという。
  第三は、兵糧の点検と備蓄である(第4条)。 第四は、ソウルをはじめとした秀吉の宿泊
 所の普請ならびに道路整備の指示である(第5条、第6条)。
  これら、朝鮮を足場にして明征服を目指す一連の指示を出した秀吉は、ついで明征服後に東
 アジアに一大帝国を樹立する構想をうちだした。

  秀吉が清正に宛てた5月16日の指示に見られるように、朝鮮に侵入した日本軍の当面の目的
 は朝鮮を明征服の足固めとすることであったそのためソウルに秀吉の御座所を普請し、朝鮮農
 民から兵糧を挑発し、明への道筋を固めることとなる。 そして、朝鮮に渡海した諸大名は次

 のように朝鮮全域に配置された。
  慶尚道 2887790石 毛利輝元       全羅道 2269379石 小早川隆景
  忠清道  987514石 四国衆(福島正則等) 江原道  402289石 毛利吉成
  京畿道  775113石 宇喜多秀家          黄海道  728867石 黒田長政
  咸鏡道 2071028石 加藤清正       平安道 1794186石 小西行長
   この場合の石高は朝鮮八道から徴収すべき租税額見込の総数を示したものである。
() 和議の駆け引きと臨津江の戦い
  5月14日、これより先、ソウルを発った小西行長・宗義智・加藤清正・黒田長政らの軍勢は
 、
この日、臨津江イムジンガンを隔てて朝鮮軍と対陣した。 この時、小西・宗の従軍僧天荊てんけい
 は、
宗義智家臣柳川調信の名をもって「朝鮮国王はソウルに還り、日明間の和議斡旋にあたる
 こと」
を朝鮮側に勧告する短書(手紙)を作成した。 しかし、清正の軍が朝鮮側に戦いを挑
 んだた
め、短書を送ることができなかった。
  翌15日、清正は、臨津江畔に陣する軍勢を一旦覗かせた。 それによって天荊の作成した短
 書は朝鮮側に届いた。 その要点は以下のとおりです。
     自分(柳川調信)は朝鮮と講和を結ぼうとしている。 日本軍が臨津江の南岸にいると、
  鮮側はそれを疑うであろうから、我々はまず臨津江南岸の兵を除かせよう。

     自分はこれまで何度も朝鮮に赴き、「成敗の事」を陳述したが、朝鮮側はそれを聞き入れ
  かった。 だから今日の様な朝鮮の敗亡を見るにいたった。 秀吉は朝鮮に道を借りて民

  復怨しようというのであり、それは先に朝鮮通信使に詳しく告げたはずである。

     しかし、朝鮮側はこれを聞き入れるどころか国の辺境を防ぎ、我々に道を通さず戦いを挑
  できた。 そのため、日本軍はこれを討ち、ついに尚州まできてしまった。 そこで、朝

  朝廷に書翰を送ったが、国王は返事をくれるどころか、ソウルを出奔してしまった。 そ

  で、日本軍はソウルに入ったのである。かかる次第であるから、朝鮮を滅ぼすのは朝鮮自

  であって日本ではない。
④ 自分つぃては
、朝鮮国王がソウルに還り、日明講和の仲立ちをするのが良作と考える。 さ
   すれば、我々は兵を説いて待機する。 疑うなら人質をだそう。 日本と明との和親が成立
  すれば挑戦も股国を復興できる。 さもないと、朝鮮は国を失うこととなろう。

    なかば脅迫にも近い申し入れに対して朝鮮側は」「たとえ江辺(臨津江)に死すとも、和
  行わず」
と、これを拒絶した。
  朝鮮国王のソウル」帰還と日明間の和議斡旋、日本軍はこれを申し入れて置いて、回答がな
  いとみるや、5月
18日臨津江ほとりの陣幕を焼いて撤退の様子をみせた。
  この時朝鮮軍は都元帥(有事の際全国の兵馬を統括する職)金命元キムミヨンウオン、副元帥李賓
 
ビン、京畿監司権徴クオンジンらの率いる兵が臨津江の北岸に1200人の兵が数珠のようにひしめい
 いた。 これより先の
12日、臨津に布陣していた金命元は、李賓等の諸将及びその配下の兵
 臨津を固め、碧蹄へきていなどに伏兵を配置させ、多数の日本兵を討ち取っているので、還

 も間近い旨を国王に報告した。 また
13日、権徴は、日本軍は孤立状態にあり、この機会に
 本軍討滅の命令を金命元に出すべきことを上申した。 ここで、国王は
14日、金命元に速戦
 決を促すべく、諸道都巡察使韓応寅ハンウンインにその意向を含めて臨津江へ派遣した。

  ところで、日本軍の陣幕焼却を退却とみた防禦使申硈は臨津江を渡河して日本軍追撃を図ろ
 うとした。 金命元はこの作戦に批判的であったが、このとき、韓応寅が速戦の王命をもたら

 した為、それに従うこととなった。 あにはからんや朝鮮軍は日本軍の伏兵に遭い全滅した。
 
  申硈も戦死し、敗走する申硈らの配下の兵士は日本軍の撫で斬りにあい、逃れた者は風の中
 の
乱葉のように臨津江へ身を投じた。 これを望見した金命元と韓応寅は気を失った。 
() 小西行長の平城戦拠
  5月29日先に臨津江を渡河した小西行長・宗義智・加藤清正・鍋島直茂・黒田長政らの軍は
 この日、開城を陥した。

  その翌6月1日、ここでも小西行長と宋義智は、朝鮮三大閣下(領議政・左議政・右議政)
 宛てに明征服に加担するか、明との和親斡旋にあたるかを申し入れた。 その要点は次のとお

 りである。
     先に臨津江で朝鮮側に和議を申し入れたが、その回答はなかった。 それのみならず、朝
  軍は「戦闘して雌雄を決せん、必ず此の河在らん」と、決戦を挑んだ。 ここで日本軍は

  時に臨津江を渡河したが、朝鮮軍は逃走してしまった。 その様な朝鮮軍がどのようにし

  勝を決しようというもか。 そこで日本軍はここまでいたった。

      朝鮮は日本の明征服に加担するか、日明間の和議斡旋にあたるかしてほしい。 朝鮮国王
  ソウルに還るか、平安道に留まるかは、国王の考えしだいである。

 ③    日本の諸将は朝鮮8道に分遺されたが、朝鮮のことは良く知らない。 宗義智は祖先以来、
   朝鮮に恩があり、朝鮮をもっともよくりかいしており、平安道に入るのはてきにんである。
 
どうかどうか我々の願いを聞き入れてほしい。 勿論、朝鮮側はこの欺瞞にみちた申し入れを
 無視した。

  開城から更に西北に道をとった小西行長・宗義智・加藤清正・鍋島直成・黒田長政らの日本
 軍は、6月7日、黄海道安城駅に至った。 ここで加藤・鍋島らは咸鏡道へ、小西・宗・黒田
 らは平城をめざした。
  その翌8日、小西・宗・黒田らは平安南道中和を経て、平壌の大同江畔にせまった。 
  6月9日小西・宗らは朝鮮大司憲李徳馨に会談を申し入れた。 この結果、景轍玄蘇・柳川
 調信と李徳馨は大同江に舟を浮かべ、酒を酌み交わしながら会談した。
  玄蘇は「日本は道を借りて中原に朝貢せんと欲す、しかるに朝鮮許さず、故に、事、ここに
 至れり、今また一条の路を借り、日本を中原に達せしむれば、即ち無事なり」といい、「国王
 を避地に奉じ、吾れに向遼の路を開かれんこと」を徳馨に申し入れた。 しかし、徳馨は「若
 し只だ中原を犯さんと欲するの事なれば、即ち何ぞ浙江に向わずして此処に向う乎、是れ実に
 我が国を滅さんとの計也、天朝は乃ち我が国の父母の邦なり、死すとも聴従せず」と、これを
 撥ね付けた。 玄蘇らは「然らば即ち和すべからざる也」といい、ここに会談は決裂した。 
  日本側は大同江の会談の決裂は当初から予想しており、小西行長・宗義智らは平壌を攻撃す
 る口実を得た
  6月11日、朝鮮国王は平壌を脱出した。 平安北道寧辺ヨンピヨンに難を避け、日本軍の動き
 第では義州イジユにまで難を避け、明の援軍を乞うこととした。 一方、平壌に残った左議政

 斗寿ユンドウス・吏曹判書李元翼イウオンイクらは、日本軍へ反撃を試みるも失敗する。 6月
13
 深夜から翌日の未明にかけて、平安道寧遠ヨンオン郡守高彦伯コオンベツクらの朝鮮軍が小西・宗の

 に奇襲をかけたが、黒田勢が救援に駆けつけ、これも失敗する。 その際、奇襲隊の撤退の

 めに大同江に待機していた朝鮮軍の船は高彦伯らが逆襲を受けているのを見て、岸に近ずか

 かった。 このため逃走する朝鮮軍は大同江王城の浅瀬をわたった。 ここで日本軍は大同

 に浅瀬のあることを初めてしった。

  6月14日、王城灘に浅瀬のあることを知られた朝鮮側は平壌撤退を決めた。 左議政尹斗寿
 は城中の軍民を脱出させ、武器を城内の風月楼の池に沈めて平壌をさった。 

  6月15日日本軍は無人の平常に入り兵糧米数万石を入手した。 
() 加藤清正の咸鏡道支配 
  6月10日、小西・黒田らとともに開城から西北に道をとった清正は、この日。黄海道安城駅
 から東北にあたる威鏡道にむかった。 このとき、清正は現地の朝鮮人を道案内にしようとし
 た。 基地案内を強要された一人は、威鏡道の道は知らないと、これを拒んだため、清正にき
 られた。 後の一人はこれにおびえて道案内することとなった。 清正の軍勢は威鏡・江原両
 道の境にあたる老里峴を超え、6月17日、威鏡道安辺アンピヨンにはいった。 
  清正は威鏡南道の安辺を清正自身の本陣に、同じく威鏡南道の威興を鍋島直茂本陣とし、威
 鏡南道の徳源・文川・永興・定平・威興・洪原の6カ所に直成家臣団を在番させた。このあと
 威鏡北道奥地からオランカイへと清正の侵入が始まる。 清正はまず威鏡南道の北青に吉村橘
 左衛門を、利原に小代下総守を在番させ、ついで端川に九龍四郎兵衛を在番させた。 この
 き、九龍は銀山を採掘し、清正は銀
30昧を秀吉にのもとへ進上させている。
  7月半ば、清正は威鏡北道城津ソンジンで威鏡北道兵使韓克誠ハングクハムを破って、近藤四郎右衛
 門を在番とし、ついで会寧に向かい、ここで朝鮮二皇子臨海君イムヘグン・順和訓スンファグンを捕え
 た。 この二王子は、会寧の士官鞠景仁ククギョンインらが清正に叛付するために捕えていたもので
 った。 このあと清正は7月末から8月末にかけて豆満江をわたってオランカイに入り、9

 20日、安辺に帰陣した。 この清正のオランカイ侵入の目的はオランカイから明への道を探るこ
 とにあったと考えられる。 

  オランカイから威鏡道へ引き上げた清正は、威鏡北道明川以北の地質が悪く物資も乏しいた
 
め、明川以北8鎮(穏城・慶源・鍾城・慶興・会寧・富寧・鏡城・明川)の押さえを清正に叛
 付した威鏡北道の在地土豪でもある土官に命じ、清正家臣団の在番地域を吉州・城津・端川・

 
利原・北青とした。
  威鏡道に侵入した清正は、直ちに、威鏡南道百姓宛てに看板を立てた。 それは、①豊臣秀
 吉は朝鮮の国政改易の為、軍勢を派遣したが、朝鮮国王はソウルから退去した。 しかし、我
 々
は朝鮮国王を誅罰しない。 ②我々の行動を理解する朝鮮人には村々での安住を保証する。
 ③
日本軍は諸将を朝鮮八道に遣わしてこれを治めることとした。 威鏡道を治めるのは清正
 あり、道理に外れることはない。 朝鮮農民は速やかに帰宅し、農耕に励め、という。 

  それでは、この勧農の実態はどのようなものであったであろうか。 今に残る「朝鮮国租税
 牒」がその実体をよくものがたっている。 

  威鏡南道の洪原から徳源まで番城を構えた鍋島直茂は、この地域指出さしだしを徴収した。 
 「朝
鮮国租税牒」と題した指出帳には
 *徳源郡 鍋島加賀守 治 徳源郡5村上納員数之事 朝鮮万歴二十年8月初三日 ……
 と、それぞれの府・郡・県ごとに表題及び日図家がついており、その地域ごとの穀類・男女人
 数書上・誓約文及びその日付と地方官史の署名・地方官庁所納物・京上納物・進上魚物・田結

 数が記載いてある。 この「租税牒」の注目点は
その第1は、穀物類の記載である。 それを
 鍋島直茂が本陣とした咸興府の例で示せば、
咸興府内各社上納元穀数「高遷社」
 下造米(20石)・田米(103石)・唐米(15石)・太(230石)・稷きび380石)・
 (
82石)・旧麦(335石)・粟(10石)・小豆(2石)・春牟(24石)・木麦(1石)
 とある。 そして、咸興府二十三社の箇所の最後の部分に、
 以上二十三社各穀都合8万8407石
 下造米(558石)・田米(3961石)・唐米(332石)・太(5886石)・稷きび12149石)
 ・租(3327石)・旧麦(61590石)・粟(39石)・小豆(32石)・春牟(501石)
 ・木麦(32石)
 と集計してある(朝鮮の度量衡は、10匁=1合、10合=1升、13升=1石せき
 日本の1石こく≒韓国の4石せき5斗)。
  「朝鮮国租税牒」の作成に象徴されるように、加藤清正・鍋島直茂らは威鏡道各地に在番衆
 を置き、差出を徴収し、置目・法度を徹底させた。 一方、威鏡道遺骸の地域の経略に当たっ

 た諸大名の場合、これほどの徹底さを見ることはできない。 「朝鮮王朝実録」は清正・直茂

 の経略を「成功」させた威鏡道の状況について、つぎのようにかたっている。

  ①    威鏡道は朝鮮国王の徳化が行き届かず、国王に怨みを懐くものが多かった。 国王が平壌
  から義州へ移駐し、威鏡道には来ないという情報を入手した彼らはこれを好機会とし、欲し

  い侭に反乱した。 また、明川・吉州の民衆は朝鮮王子の逃走路を匿名の啓示を立ててわか

  るようにした。 更に土兵は主将を殺して反乱し、威鏡道の治安は恐怖に陥った。

  ②    清正らの日本軍は鏡城を経て北関の六鎮(穏城・慶源・鍾城・慶興・会寧・富寧)を攻略
  したが、各地の守令・武官は山に隠れ、日本軍に対抗する術もなく、威鏡道は収拾がつかな

  くなった。
 ③ この時、
女真が現れ、北関六鎮をはじめとする地域を治め清正等に伺候しこうした。 こ
  れ
により威鏡道の民は尽く日本軍の手に墜ちた。
(10) 明軍救援要請と国王を遼東逃亡計画
  文禄の役の前夜、朝鮮の対明関係の焦点は倭情奏聞と朝鮮が秀吉の明征服行動に荷担するか
 どうかと言う明の疑惑に対する弁明にあったが、ここから明の救援を仰ぎ国土の回復を図ろう
 とする救援依頼問題が新たに加わり、さらに朝鮮国王の遼東内附(逃亡)問題が持ち上がった。
  一方、明とすれば、朝鮮に対する疑惑を残しており、遼東の防備を固めるとともに朝鮮探索
 を行い、ついで遼東鎮撫をして朝鮮救援の態勢を探らせたのであった。 この救援(参戦)に
 より朝鮮は明軍の犒労こうろう(兵士をいたわる労)に追われることにもなる。 これらの事が
 絡
み合って、文禄の役の勃発期の明と朝鮮の宗藩関係が展開していく。 
  5月3日、左議政尹斗寿は、秀吉の侵略に拠るb事態の急迫を遼東に告げることを朝鮮国王
 に進言した。 そして、5月10日には秀吉の朝鮮侵略の第1報が朝鮮国王から明皇帝のもとに
 届き、皇帝は遼東・山東の防備を指示している。 
  先に平壌を離れた朝鮮国王一行は、6月22日、明との国境に当たる義州に着いた。 ソウル
 から開城、義州と難を逃れた国王は、この間、落ち行く先について、従臣の意見を求めていた。
  承政院都承旨李恒福イハンボクは、国王は義州に駐駕し、朝鮮八道が陥れば明に赴いて救援を依頼
 すべしと主張し、国王も遼東内附の意向を明らかにした。 これに対し、左議政尹斗寿や領議
 政柳成龍ユソンリヨンらは国王の遼東内附に反対する。 それは、国王の遼東内附は国を棄てるも
 であり、全羅道では義兵の蜂起が期待されている状況にあるとき、国王が遼東内附を口にす

 ば人心は瓦解する。 国王は威鏡道に避けるべきであると主張した。 

  さらに、平壌から義州へ落ち延びる途中、国王は「予、天使の国に死するは可也、賊手に死
 するは不可なり」と、遼東内附の意向を従臣に伝え・その準備に掛かろうとした。 しかし、
 承政院右承旨李国は①先の日本へ通信使派遣を巡って明に朝鮮への不振があり、国王の内附を
 許可するか否かは定かでないこと、②国王が遼東に内附すれば日本軍がそれを追跡する危険が
 あり、みんとすれば、国王の内附を許さないであろう。 ③国王が遼東内附すれば王朝の祖宗
 宗社を安置するところもなく、人心の動揺を招くことなどをあげて国王の遼東内附に反対した。
 等により国王はこれを認めざるをえなかった。 その後、国王が遼東内附した場合、遼東の空
 いている役所に国王を置くとする明の意向をきき、義州に止まりる意向に傾いたのである。
  五月10日、秀吉朝鮮侵入の第1報が明皇帝のもとに届いた。 明はまず遼東・山東地域の防
 禦態勢の強化をはかった。 それとともに明は朝鮮救援態勢をとるものの、朝鮮への疑惑を未
 だ捨てていなかった。 
  6月、明皇帝は遼東鎮撫に朝鮮救援とそのための年例銀20万両の備えを命じた。 そして朝
 鮮には銀2万両の犒軍料を賜与した。 その一方で明は朝鮮を探索する。 
(11) 朝鮮義兵の決起 
  平壌ピョンヤン陥落の後寧辺へ落ち延びた朝鮮国王は6月13日、自ら遼東入りを告げた際、王
 子に国事を権摂させる意向を示した。 翌
14日、国王は王世子に「国事、己に此に到れり、更に望み無し
 、吾が父子共に一緒に住し、事、若し混乱あれば、後、為すべき事無からん」といい、領議政
 崔興源チエフンウオンと参判尹自新ユンザシンらに、宗廟・社稷の神主を奉じて王世子に従って江界ガンゲ
 行くべ しという、分朝の命令を出したのであった。

  このあと、王世子は江界へ向かおうとするが、遠隔地の為、従臣の間に動揺もあり、7月9
 
日、江原道伊川に到った。 ここで王世子は義兵将金千鎰を通じて檄を飛ばし、義兵は奮起し
 。 ところが、島津義弘らの江原道侵犯により、7月
28日、伊川を離れて成川へ向かうこと
 なった。
  その後、翌年正月の平壌奪回のあと、王世子は定州で国王と合流することとなり、ここで分
 朝は解消した。 しかしながら分朝となった王世子が義兵に奮起を促したことの影響は大きか

 ったのである。

  破竹の勢いで進撃する日本軍、朝鮮正規軍はこれに抗すべく術もなく、ソウルはいともたや
 すく陥落した。 ところが、この頼りない正規軍とは別に、在野では抗日義兵の組織が芽生え

 はじめていた。
  慶尚道玄風の両班子弟郭再祐は、日本軍が慶尚道を侵犯するや、直ちに家財をなげうち、
 「家
僮(私奴婢)」を率いて決起し、郷民に「賊すでに迫れり、吾が父母妻子は、まさに属の
 得るところとならんとす、吾が里中、年少にして、戦うべき者、数百を下らず、もし、心を揃
 え、鼎津によりて以て守りとなさば、郷曲保つべし、いずくんぞ手を束ねて、以て死をまつべ
 けんや」と訴え、民兵を募集、軍備を揃えた。 ときに4月
22日、これが最初の抗日義兵であ
 った。
  この郭再祐の義兵決起とともに注目しておきたいことは金誠一の存在である。 これより先
  通信使として日本に赴いた金は、日本の朝鮮侵犯はないと復命した。 しかし、文禄。慶長の
  役の勃発により一時、とらわれの身となった。 ところが事態の切迫と柳成龍の弁護により、
  誠一はその罪を許され、慶尚右道招論使(民衆を論じ乱を安定させる臨時の官職)となり、郭
  再祐らと協力した義兵募り官義の諸軍を取りまとめる役割を果たしたのであった。
  郭再祐の決起に次いで、全羅道では高敬命・金千鎰、忠清道ちゅうせいどうでは趙憲と僧侶霊圭
  ギュ
、京畿道けいきどうでは禹性伝ウソンジョン、黄海道こうかいどうでは李廷●イジョンアム・金進寿キムジンス
  金万寿キムマンス・黄河水フアンハス、平安道へいあんどうでは李柱イジュ、咸鏡道かんきょうどうでは柳応秀
  ン
・鄭文妥チョンムンブが日本軍の朝鮮おく地への侵犯につれて、それぞれ義兵を組織して決起
 した。
  日本軍の慶尚道侵犯をみて、郷土防衛を当面の目標として立ち上がった再祐は、同年6月、
  慶尚道宣寧・三嘉・陜川の地域を修復し、南江北岸に位置する鼎津の渡に結陣して、全羅道侵
  犯をはかる安国寺恵瓊らの日本軍を遮った。
  しかし、抗日闘争の長期化は再祐の義兵に武器・兵糧不足をもたらすこととなり、再祐の義
  兵は慶尚道草渓城(空城になっていた)にある官有の武器・兵糧を入手してその場をしのいだ
 。
 ときに慶尚道巡察使金睟は郭再祐に反乱軍の疑いをかけた。
  郭再祐の決起は慶尚道在住の両班たちを奮い立たせた。 高霊コリヨシの金沔キムミヨン、陜川の鄭
 
仁弘チョンインホン、玄風の前郡守郭趄クアクジョ・前佐郎朴惺・幼学権瀁らは郭再祐を見習い、民衆を
 
組織して決起した。 かれらは党争にあけくれる中央政界から離れ、野に下っていた両班たち
 であった。
  全羅道義兵将高敬命は全羅道光州の人。 1591年当時東萊府使であったが、この頃、政権が
  西人派から東人派に移った。 そのためか、西人派に属していた敬命は東萊府使を罷免され、
  郷里に隠居していた。 文禄・慶長の役がおこり、ソウルが陥落し、国王が都落ちした時、全
  羅道にいて、この報に接した成均館柳彭老は高敬命を盟主として挙兵をはかった。 これに応
  えた敬命は「君父に報いるの秋(時)也」と檄を飛ばして義兵を募り、6月中旬、義兵6000
 を結集させた。

  咸鏡北道では、会寧の土官鄭末守らが朝鮮二王子を捕え、清正に突きだして、自らは清正の
 傀儡となって地域支配にあたった。 朝鮮側史料には、「北界の守将、皆叛民に捕えられ」と
  ある、具体的には鏡城の土官鞠世弼が鏡城判官李弘業を捕えて清正のもとに送ったこと。 清
  正と海汀倉で戦って敗走した咸鏡北道兵使韓克誠が女真集落に遁入したが受け入れられずやが
  て、韓克誠は清正にとらえられたこと、咸鏡道監司柳永立が山峡に遁入したところ、叛民が日
  本兵にこれを告げて、柳永立はと囚われの身となったなどがあげられる。 そしてこれらの叛
  民を率いる土官らは清正の傀儡となって鏡城に拠ったのである。 また鍋島直茂の支配する地
  域にも日本軍の傀儡となったものがいた。
  この様な状況の元で、儒生金応福キムウンプは前の咸鏡道監司尹卓然ユンタクヨンに会って義兵の決
 をもちかけた。 尹卓然は咸鏡道監司であったが、先に清正に捕えられた朝鮮二王子一行が

 原道から咸鏡道に入った際、病気と称して三水別外堡に遁入した。 このため、朝廷は咸鏡

 監司を柳永立に替えたのであった。 当然のことながら卓然は義兵決起の誘いを密偵の言と

 て相手にしなかったが、ついで儒生李希禄イヒロクが義兵決起を説得し、義兵将として咸興
ハムフ
  
の柳応秀・李惟一・朴中立・鄭海沢を推薦したことにより、卓然もこれを納得した。 
  159210月柳応秀らは咸興の高遷社に義兵を集結し、日本軍の傀儡となった民族の裏切り
 を血祭りにあげて決起した。 これより先、咸鏡北道でも
,鄭文孚を盟主とする義兵が決起し
 。 9月、明軍救援の報が文孚のもとに届くや、土兵壮士数百人が団結し、文孚を義兵将に

 戴して決起し鏡城に迫った。 鏡城及び領域を支配していた鞠世弼は敵せざるをしり、鏡城

 明け渡して官衙の印を文孚にわたした。 

  吉州城の戦いの前にして義兵たちの戦意は昂揚していた。 鄭文孚は吉日を選んで出兵しよ
 としていたが、その際義兵の将士たちは日本軍を討つ前に日本の傀儡となった民族の裏切り

 をまず誅すべきだ、と文孚に申し入れた。 文孚は鞠世弼ら
13人を斬刑処した。 
  一方、吉州城の日本軍は城の周辺で略奪を重ねており、その一隊が明川海倉の略奪に向かっ
 た。 鄭文孚はその帰路を待ち伏せ、長徳山でこれを破った。 吉州城に逃げ帰った日本軍は

  城門を閉じて外に出ず、文孚らは吉州城を取り囲んだ。 このため、吉州城の日本軍は、燃料
 の取得も出来ず、ここに吉州城の籠城が始まった。 ところで、吉州籠城の報を受けた清正は
 直ちにこれを救援できなかった。
  第1に、清正自身、吉州城などの咸鏡北道の救援を急ぐものの、そこへ赴けば、清正本陣で
  ある安辺の守備固めの兵力を削ぐことになり、救援に赴く兵力は3000人にも満たなく兵力不
 があった。

  第2に、清正が朝鮮二王子を捕えているため、王子を安辺に於いて救援に赴く事は出来ず、
 戦功の証として捉えた朝鮮王子の存在が清正の行動の足枷となっていたのである。
  このため清正は来年の春まで吉州・端川の番城を死守することについて、朝鮮側が番城を攻
 めてきた場合は、城際に引き寄せて討つべきことから、兵糧・馬糧の節約にいたるで細かく指

 示している。 加藤清正が吉州・端川両城を救出したのは、文禄2年(
1593)1月のことであ
 る。
  清正は鍋島直茂に朝鮮二王子を啞つけ、咸鏡北道に孤立する吉州・端川両城を救出した。 

 ここに加藤清正・鍋島直茂の咸鏡道在番支配は破綻した。

(12) 朝鮮水軍の活躍と李舜臣
  李舜臣リスンシンの率いる朝鮮水軍が日本の水軍を撃破し、その補給路を絶った。 それは客
 的には朝鮮各地の義兵党争とも呼応し、秀吉の野望を打ち砕く結果となった。
  文禄・慶長の役の勃発当時、李舜臣は全羅左道水軍節度使であった。 また、慶尚右道水軍
 
節度使は玄均であった。 日本軍が釜山浦に上陸し釜山・東莱が陥落したとき、慶尚左道水軍
 節度使朴泓は水営をすてて逃亡したが、元均もまた日本軍に敵せざることを知り、船と武器を

 沈めて慶尚南道南海県へ難をさけようといた。 

  一方、4月13日に数多くの倭船が釜山浦に迫ったという報告を受けた李舜臣は、歳遺船にし
 ては尋常でないと判断し、その後、釜山・東萊の陥落の報に接し、兵船と武器を揃え戦略を練
 って待機した。 そして5月7日、巨済島玉浦で藤堂高虎の日本水軍を撃破したのを皮切りに

  、連戦連勝を重ねた。
  李舜臣(154581598)はソウルに生まれ、東人派に属する。 柳成龍の推挙いより全羅道
 加里浦水軍僉説使から全羅左道水軍節度に抜擢された。 時に李舜臣は47歳であった。 文
 ・慶長の役が始まるや、戦いにひるむ慶尚右水使元均を助け、亀甲船を駆使した巧みな戦術

 用いて日本水軍を撃破し、日本軍の補給路をたった。 この間、忠清・全羅・慶尚三道水軍

 制使となるが、これが元均の妬みをかい、李舜臣は讒訴さんそされて獄にくだった。 慶長

 役が始まるや、李舜臣にかわって三道水軍統制使となり、朝鮮水軍統制使となった元均は巨

 島きょさいとうで敗死する。 これにより、李舜臣はふたたび三道水軍統制使となり、朝鮮水軍

 再建し、明軍と力を合わせ日本軍と戦った。 
1598年8月秀吉の死を契機に日本軍は朝鮮撤退
 を始めるが、朝鮮水軍と明軍は日本軍の追撃作戦をかかり、同年
11月、慶尚南道路梁津にお
 ける島津勢との会戦で戦死した。 李舜臣は祖国を救った英雄として讃えられ、東洋のネル

 ンとして内外から慕われている。

  1592年5月4日、李舜臣は、板屋船(戦艦・大船)24隻、狭船(中船)15隻、鮑作船(小
 船)
46隻を率いて全羅右水使李億祺イオクギとともに、全羅道麗水の水営を発船した。 5日、
 弥勒島の唐浦沖にでる。 翌日、元均、閑山島より李舜臣の下へ合勢する。 5月7日、玉浦
 の沖に至ったとき、斥候が神機箭を放ち、日本軍が玉浦に停泊すると知らせた。
 これは藤堂高虎の水軍であった。 李舜臣は諸将に軽率妄動をいましれ、「静重なること山
 如くせよ」と伝令し、玉浦沖に船を整列させ、戦鼓をならし一斉に玉浦に突入した。 ここ

 玉浦の海戦がはじまる。  

  日本船は30余隻、大船は四面を帳で囲い、家紋を付け、紅白の小旗をなびかせていた。 こ
 時、日本軍は陸に上がっており焚蕩略奪をおこなっていた。 この奇襲により、藤堂高虎の

 軍は多くの船を失なった。

  巨済島周辺で日本水軍が敗北したとの知らせは脇坂安治らの元にも届いた。 脇坂安治らの
  日本軍は、これより先、京畿道龍仁で全羅・忠清・慶尚三道の朝鮮軍を撃破し、意気を盛り上
 げていた。 脇坂はその余勢を駆って朝鮮水軍を討つため、秀吉にその旨を注進し、九龍嘉隆・
 加藤嘉明らとともに、ソウルから慶尚右道に南下した。 秀吉は龍仁の戦いでの脇坂の戦捷を
 たたえるとともに、朝鮮水軍の撃滅を脇坂らに期待した。 
  脇坂・九龍・加藤らが釜山浦に到着したのが6月14日。 ところが、7月8日、抜け駆けの
 功名をねらった脇坂は、九龍・加藤らが船拵えに掛かっているとき、自分の手勢のみで巨済島
 へ出撃した。 一方、脇坂らの動向を察知した李舜臣は、7月6日、舟師を率いて全羅左道麗
 水の左水営を発船し、露梁津に至った。 ここには慶尚右水使元均が破船修理のために留まっ
 ており、全羅左水使李億祺も程なく到来した。
  7月7日朝鮮水軍は合勢したものの、東風が強く、船を進めることが出来ず、弥勒島の唐浦
 に停泊した。 この時、同島の人金千孫というものが、日本水軍70余隻見乃梁にとの知らせを
 李舜臣につげた。 この日、李舜臣と元均との間で作戦をめぐって意見が対立した。 連戦連
 勝に酔いしれていた元均は直ちに船を見乃梁にすすめて日本水軍を直撃することを主張したが、
 李舜臣は、慎重であった。 見乃梁は暗礁がおおかった。 このため李舜臣は「この処、海港
 隘浅にして、以てもちうるに足らず、まさに大海に誘出してこれを討つべし」と元均を論じた
 が、元均はそれを聴きいれなかった。 李舜臣は「公(元均)、兵(兵法)を知らず」と批判
 した。 
  見乃梁は地形が狭く、朝鮮水軍の船が互いにぶつかりあって戦闘に支障をきたす恐れが相、
 日本軍が陸に登って逃亡する恐れもあった。 そこで李舜臣は日本軍を見乃梁の南に位置する
 閑山島沖に誘い出して戦う作戦をとり、探見船数叟を見乃梁に停泊中の日本船に近付させた。 
   日本水軍は鉄砲を撃ちながらそれを追跡する。 探見線は退却とみせかけて閑山島沖に日本
 水
軍を誘い出す。 ついで島影に待機していた朝鮮水軍が鶴翌の陣を布き、これに壊滅的な打
 撃
を与えた。 このとき、「大船の内三艘、目くら船、鉄にて要害」と日本側の記録にもある
 よ
うに、「目くら船」=亀甲船三艘がこの攻撃に加わっていた。 脇坂安治は辛うじて退却し
 九
死に一生を得た。 また、脇坂の動きを知った九鬼嘉隆・加藤嘉明らは脇坂の救援に駆けつ
 け
たが、劣勢をしり安骨浦にひきあげた。 このあと6月10日、朝鮮水軍は安骨浦に」拠る九
 鬼・
加藤らの日本軍をも襲撃した。
  閑山島沖と安骨浦の海戦は日本水軍に戦略変更をよぎなくさせた。 秀吉は脇坂安治や藤堂
  高虎らに、開戦を中止して、巨済島に城を築き、陸伝いに朝鮮水軍を討つこと、釜山浦から慶
  尚道南岸にかけての地帯の地帯の補給路を維持すること、秀吉の指示があるまで:朝鮮水軍に戦
  いを仕掛けてはならず、相手が迫ってきても深追いしてはならぬこと、水主の休養などを命ぜ
  ざるをえなかった。
(13) 明将祖承訓の出動と平壌敗北
  明の朝鮮救援は天正20年の6月から始まった。 6月13日、遼東鎮撫は先に朝鮮を探索し
 林世禄を再び朝鮮に派遣し、朝鮮救援の意向を伝えた。 翌
14日、義州にいた朝鮮礼曹判書
 根寿ユングンスが明軍は恩賜犒軍銀二万両をもたらし、まさに鴨緑江を渡江するとの報を朝鮮国

 のもとに伝えた。 国王はこの報を朝鮮の諸国に伝えて勇気づけ、清川江にて日本軍を食い

 め、明軍の到来を待つことを指示した。

  6月15日から19日にかけて、参将戴朝弁、遊撃史儒、参将郭夢徴、遊撃主守官、副総兵祖
 訓らの遼東兵間が鴨緑江を渡河し、平安北道宣川の林畔官に到着した。 これを出迎えた朝

 国王は「一国の存亡、大人の進退に係わる、凡そしきする処、願わくば謹んで領受す」と郭

 徴に軍事指揮をねがったが、国王の従臣らは「天兵(明兵)進みて」都元帥(金命元)と合

 するを可と為す」というなど、軍師指揮権を巡っていざこざを起した。 来援する明軍と力

 あわせて日本軍と戦おうとする朝鮮従臣らの主体的な姿勢を主張したが、史儒・郭夢徴はこ

 を無礼として義州へ引き上げた。 このあと参将郭夢徴は義州竜湾館にて朝鮮国王の行礼を

 け、皇賜銀2万両を朝鮮にもたらし「吾が軍まさに進撃すべき」旨を伝えた。

  ところで朝鮮内部では遼東兵について「遼東の人は性甚だ乱暴成り、若し天兵鴨緑江を渡り
 て我が国を跳躙せば、即ち、諸郡尽く赤地とならん」と早くから危惧されていた。 それが現

  実のものとなり、………乱暴狼藉をおこした(「朝鮮王朝宣祖実録」)。
  遼東兵馬の朝鮮救援により朝鮮側は明軍の兵糧と馬糧を調達し、明兵への労いに追われるこ
 ととなった。 
  平安北道嘉山に着陣した祖承訓そしょうくんは、平壌に迫った。 朝鮮側からは都元帥金命元ら
 これに従軍した。 この時、柳成龍と金命元は「天雨、路滑り急騰に宜しからず」と忠告し

 が、これを無視して祖承訓は平壌七星門より強硬突破した。 馬は泥寧に足を取られ、明軍

 日本軍の銃撃を浴びて敗北した。 明将屍を平壌に曝し、祖承訓は安州に遁れ、遼東に還る

 うとした。
  このため、朝鮮側は兵曹参知沈喜寿を遼東の九連城の副総兵楊紹勲の下へ派遣し、祖承訓に
  平壌奪回をねがった。 ところが楊紹勲は楊紹勲に叱責を加えた。 「鮮兵の1陣、賊陣に投
  降す、故に利せず」と祖承訓の朝鮮を誣告(事実を偽る)したものであった。 これを知った
  左議政尹斗寿は楊紹勲に、でっちあげあると講義した。 
  将祖承訓の平壌敗北は明に衝撃を与えた。 8月半ば、明遊撃沈惟敬しんいけいが皇賜銀をもっ
 て義州に来た。 
  9月1日、沈惟敬は、平壌城北方で小西行長と会談した。 行長は惟敬に、日本が兵を出し
 たいきさつについて。日本は明に「封・通貢の事を求む」と説明した。 これにたいして沈惟
 敬は「これ乃ち天朝の地方なり、爾等退屯し、以て天朝の後命を待つべし」といい、地図を示
 して「明らかにこれも朝鮮の地成り」という行長の反論に「常時此処に迎詔する。・故に許多
 の宮質有り、是れ朝鮮の地と雖も乃ち上国(明)の界なり、此れ止まるべからず」とはねつけ
 た。 その上、行長の封貢要求には皇帝の許可を必要するといい、さらに朝鮮は「明の堺」=
「門庭」であり、そこから日本軍は退去せよと勧告した。 この勧告に行長は「ただ平壌を退
 するを許とし。大同江を以て界となす」、「大同江を以て堺となし、平壌以西は尽く朝鮮に

 す」と平壌から退出するも、大同江以東を日本の領域とすることを主張した。

  この沈惟敬と小西行長の会談により、朝鮮・日本・明三国間の朝鮮領土割譲問題が浮上して
 きた。 これが明・朝鮮それぞれの内部で物議を醸しだす。 この会談の結果、行長の要求し
 た要求した明への封貢bにつき、沈惟敬が明皇帝にその許可を仰ぐために50日を必要とすると
 いうことになり、その間の停戦協定が締結されたが、その裏に沈惟敬の策略が進行していた。 
  先の祖承訓の平壌攻撃失敗により、1592年8月明皇帝は兵部宋応昌を備倭軍務経略に任命し
 さらに10月提督李如松を朝鮮に派遣することにした。 かくて李如松らの朝鮮救援をみるが、
 それにより再び朝鮮側では明軍兵馬の兵糧負担問題が起った。 明軍7万の兵馬の山海関から
 出兵する。 鴨緑江以西の兵糧の負担は明、以東の負担は朝鮮であることを継げている。 こ
 れに対する朝鮮の東面する兵糧・馬糧負担は、明兵4万8585人の1日分の兵糧米720石(1
 1人1升5合 朝鮮枡)、その
2ヶ月分の米4万3730石、馬2万6700匹の1日分馬糧大豆801
 その2ヶ月分の大図4万
8060石であった。 これに対し義州・平壌内と平壌近在3県の米穀は
 5難
1488石、大豆3万3127石で、馬糧が」不足し、先々の兵糧の見通しもたたない現状であっ
 た。
  これより先、祖承訓が平壌を攻撃して失敗したものの、明軍のいち早い朝鮮救援は日本軍に
 大きな衝撃をもたらした。 調度祖承訓の平壌攻撃があったころ、ソウルに朝鮮奉行として着
 陣した石田三成らは、その直後の8月ソウルで軍議を招集した。 これには加藤清正と鍋島直
 成を除くほとんどの大名が集まった。 これから予想される明軍の攻勢をどう対処するか、此
 れが軍議の題目であった。 秀吉派遣の黒田孝高は日本軍の兵力と兵糧の限度を考えてソウル
 より、1日路の所に砦を築き日本軍の本拠地となっているソウルの維持を第一に考えるべきで
 あると主張した。 しかし、祖承訓を撃退して意気上がる小西行長は明日への進撃に備え固守
 し、行長は平壌にもどることになった。
  15921225日、明提督李如松は平3万を率いて鴨緑江をわたった。 よく93年1月5日
 李如松は平安南道順安に駐屯する。 そして先鋒の副総兵査大受に命じ、明皇帝は日本と
の講
 和を許し、沈惟敬も程なく来るであろうと伝えさせた。 喜んだ小西行長は部下の竹内吉
兵衛
 ら
20余人を査大受のもとに遣わした。 ところが、竹内らは軍営に誘って酒を勧めこれをとら
 えた。 竹内と共に捕えられた日本兵数名が軍から脱走した。 これによって、平常の日
本軍
 は、初めて明の大軍の到着を知ったのである。 

  翌1月6日李如松は約4万の兵をもって平壌城を囲んだ。 都元帥金命元の率いる8000の朝
 鮮軍もこれにしたがった。釈休静ら
2000の僧軍は大同江の南に陣をとり、日本軍の往来 を遮
 断した。  

  一方、日本軍は城北の牡丹台に青白旗を立て鬨の声を上げて銃撃を開始した。 李如松は索
 をこらし、一分隊を牡丹だいに向けて迎攻の様子を見せた。 絶たせるかな、
高台の優位に
 ある日本軍は鉄砲を乱射する、明は退却する。 日本軍は城を出て追撃する。 
そこで計画ど
 おり明軍は兵をめぐらして日本軍に逆襲を加え、日本軍は城内に退却した。 そ
の夜、今度は
 、日本軍数百名が明の軍営に夜襲をかけた。 これを予知していた明軍は一斉
に火矢を放った
 。 それはさながら光明昼の如きであった。 日本軍は城内に退却した。 

  この様な小競り合いのあと、1月8日、李如松は全軍をあげて平壌城の西北面を囲んだ。 
 李
如松は大砲1合を発した。 それを合図に各陣一斉に、大砲と火箭を乱射した。 日本軍は
 鉄
砲を乱射し、城壁に迫る明兵に熱湯をかけ、大石を落した。 ここで、李如松は士気高揚の
 為、
一番に城に登った者に賞金5000両を懸けた。 一番乗りは、浙江省の兵であった。 日本
 軍
の旗を折、明軍の旗を立てた。 李如松は七星門を砲撃し、城内に突入した。 小西行長は
 練
光亭(平壌城内の中心楼閣)の土堀に避難した。 七星門と普通門の土屈は陣取るも。日本
 軍
の銃撃は激しく明軍の死者は続出し、李如松の乗馬も撃たれた。 ここで李如松は再び策略
 を
用いる。 兵を一旦退かせ、通事張太膳を通じて小西行長に「我が兵力以てせば、るに足らん、しか
 るに、尽く人命を殺すに忍びず、嬉しく退舎をなし、汝の生路を開かん、速
やかに諸将を領し
 て、轅門へ来詣して我が分付を聴け」と論じた。

  行長は「俺等、退軍を情願す、後面を欄截らんせつ(遮り止める)すること、なからんことを
 請
う」と、退路の保証を求めた。 李如松これを承諾し、中和への道筋に配置していた朝鮮の
 伏
兵を撤回させた。 その夜半、小西行長等は大同江を渡って平壌を脱出した。 1月17日ソ
 ウ
ルに帰陣した。
(14) 碧蹄館へきていかんの戦い
  平壌の敗北はソウルに在陣する日本軍にも衝撃を与えた。 明軍寄せきたるとの注進を受け
  軍議を開く。 ソウルを出て明兵を迎撃するか、ソウルに籠城するかが問題となった。 こ
 時の日本軍の兵糧米は1万
4000石、兵力全体の二ヶ月分しかなく、籠城が長期化した場合兵糧
 不足に陥る危険があった。 このため軍議は迎戦ときまった。 

  朝鮮半島北部に展開していた諸将をソウルに集めて戦力を立て直し、宇喜多秀家を総大将、
 小早川隆景を先鋒大将として総兵力41千をほぼ二分し碧蹄館の戦いに臨んだ。 一方の明軍
  は、24日開城にいたると歩兵と火器の大部分を残し、李如松本来の部下である遼東の騎兵を基
 幹とした約
2万の兵を先行させた。 李如松は日本軍の精鋭は平壌で壊滅し、ソウルには弱兵
 がのこるのみとの報告を信じ、日本軍の戦力を下算して全軍を集結させないまま
攻撃をし掛け
 た。

  日本軍は迎撃の先鋒は立花宗茂と高橋統増となり、午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら
 軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍するとの予測で、午前6時頃碧蹄館南面の礪医
 師嶺北側二所に布陣した。 先方500を率いた十時練久と内田統続を正面に少ない軍機を立て
 ことで、査大受の率いた明軍
2000を誘致して越川峠南面にて正面で十時羅と交戦した。 午前
   10
時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の陣形で押し寄せた。 日本軍先発隊は全軍を碧蹄館
 南面に埋伏させ、同時に三方包囲策を信仰し立花、高橋と広家が左方、秀包、元康、筑紫
と秀
 家が右方から迂回進軍する。 正面に出た小早川隆景の先陣二隊の内、明軍の矢面に立っ
た粟
 屋景雄が次々に繰り出される新手を支え切れずに後退をはじめると明軍はすかさず追撃に
うつ
 る、このころは午前
11時頃。 しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景定
 が其の側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱になった。 その機を逃さず、立花、

 橋勢が左方から小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、孝景本隊と吉川広家が

 方から側撃、隆景本隊と吉川広い絵、宇喜多家臣戸川達安も正面より進撃し、明軍前衛を撃

 して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった、この際立花の家臣安東常

 と一騎打ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて安東は戦死した。 落馬した

 如松は小早川の武将井上景貞の手勢に迫られたが、側近の李有聲が楯となってこれを助け、

 如梅、李如柏らが救出した、如松の親衛隊も李有聲など
80余名ほど戦死した。 そこに明軍
 総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を曳いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦につとめ

 が身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始める、この頃は午

 1時頃であった。

  かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、小早川隆
 景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠に午後2時から4時まで追撃し深追をやめたが
 、
立花宗茂と宇喜多秀家の軍勢はより北まで追討し、午後5時頃ソウルへ引き上げた。
  この戦いで明軍の被った損害は戦死者6000余人に上るとされる。 この戦いの敗北によっ
 戦意を喪失し提督交代を願い出た。 李如松は武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉

 と転換する。 その一方で、日本軍も3月に明軍にソウル近郊・龍山の兵糧倉を焼き払わ
れ、
 食糧調達が最も困難なときに兵糧面で甚大な損失をだしたため長期戦がむつかしくなり、
石田
 三成、小西行長らは明との講和交渉を開始した。

(15) 幸州の戦い
  先に李如松率いる明軍が開城に着陣したのに呼応して、朝鮮側の全羅巡察使権慄クオンユルは南
 
からソウルの日本軍を挟撃しようとはかった。 ところが、碧蹄館の戦いで敗北した明軍が戦
 
意を喪失したため、独力で日本軍と戦うこととなった。
  権慄は全羅道兵使に命じて配下の兵を光教山を拠点に4000人を集めた。 権慄みずからそ
 うち精兵
2300を率いて幸州山城に陣を移した。 この幸州山城はソウルから漢江北岸に沿った
 約
14.5㎞の丘陵にあり、南は漢江に面する絶壁、東西二面はなだらかな尾根、北面は沼から続
 く急斜面となっており、日本中世の山城さながらの天然の要害である。 

   権慄はこの幸州山城に鹿角(逆茂木)を設けて、土石の城を築き、ソウル奪回の勢いを見せ
  た。 当然のことながらソウル在陣の日本軍は幸州山城攻撃にかかった。
  2月12日の黎明、宇喜多秀家を総大将とし、小西行長等が率いる約3万の兵が幸州に向う。
  これに対し権慄の率いる朝鮮軍は軍民僧兵さらに女性も含めて約1万といわれている。 戦闘
 は早朝の卯の刻(6時)から始まった。 日本軍は権慄の率いる朝鮮軍を囲んだものの、
攻撃
 目標が山城であるため、いきおい城を仰ぎながら鉄砲を放つこととなった。 一方、高所
に陣
 取った朝鮮軍は、日本軍を引き付け、大小銃筒・震天雷(一種の爆弾)などの火器、」さ
らに
 火車を以て迎撃した。 火車は全羅道招募使辺中が
300台を作って権慄に提供したものである。
 さらに弓矢と投石を用いた。
 日本側はこの日三度攻めて三度退いた。 朝鮮軍は矢が欠乏し
 かかったが、忠清水使の丁傑
が漢江伝いに舟で補充した。
(16) 清正と朝鮮奉行の確執
  清正の咸鏡道経略が行き詰っていたころ。 朝鮮奉行の間で清正の行動への避難が持ちあが
 っていた。 文禄元年(15921220日、鍋島直茂の家臣下村生運がソウルに在陣する朝鮮
 行の下へ使者として発ち、翌年正月松、朝鮮奉行からの撤兵司令を直茂のもとにもたらした。
  
その際、増田長盛と大谷吉継は直茂に宛てた書状で清正を非難していた。 増田長盛は清正
 の咸鏡北道における敗北は周知の事実となっているにもかかわらず、清正は
咸鏡道は静謐せいひ
  つ
(静かで落着いている)であるといい、朝鮮奉行の談合にも応じない、こと
を責め、さらに
 清正の敗北が明軍にしれわたり、それに勢いずいた明軍が平壌の戦いで勝利す
る結果となった
 といい、また、大谷吉次は直茂に対し、清正に荷担せぬように伝えている。
 もっとも、朝鮮
 奉行らが清正をこのように非難したことにはすでにその伏線があった。 先
にも上げたが、前
 年9月、清正は肥前名護屋に宛てた注進状で、①小西行長の経略する平安道
では置目・法度が
 徹底せず、不穏な状況下にある、②そのため、(清正を除く)主な武将らが
「各都にて相談」
 (ソウルの軍議)の結果、秀吉の明への動座は困難出会うと注進したが、清
正は一切存ぜぬと
 いい、③さらに、秀吉が明へ動座するためには朝鮮八道が咸鏡道のように静
謐になれば可能で
 あり、平安堂の道筋が不穏であるからには明への動座は清正としても請け合
いかねる、と述べ
 ている。

  このソウルの軍議の前提には、先にもあげた遼東副総兵祖承訓らの平壌攻撃があり、さらに
 これからも予想される明の援軍襲来に対処するため、石田三成ら朝鮮奉行と秀吉の軍師黒田孝
 高が諸大名をこの軍議に召集したのであった。 この時点で清正はオランカイに出陣しており
 、
軍議への参加は事実上むりだったのである。 それ故、清正自身は軍議の内容は一切、預か
 り
知らずというが、問題は注進状の後半部にあり、朝鮮全域が清正の経略する咸鏡道のように
 置
目・法度を徹底させ静謐にすれば、秀吉の動座も可能であるといって、自らを誇示し、小西
 ら
を非難したところにあった。
  文禄2年(1593)2月、加藤清正・鍋島直茂はソウルへの帰陣にかかる。 帰陣に先立つ2
 15日、清正は安辺で明の参将憑仲纓と会談した。 仲瓔は清正に講和の締結都朝鮮二王子の
 釈放を勧めた。 清正は朝鮮領土の割譲が講和の条件であるといい、王子の返還については、
 すでに生け捕ったことを秀吉に報告したため、自分の一存では釈放出来ないと突っぱねた。 
 清
正・直茂は同月29日朝鮮二王子を引き連れてソウルについた。 その兵力は清正配下が5492
 人、直茂が7644人であった。 前年3月、朝鮮)渡海の陣立てによれば、清正の兵力は1万人、
 直茂の兵力は12000人であった、 清正の兵力の約45%、直茂の兵力の約36%が異国で帰
 ぬ人となったのである。

(17) 日明講和交渉
 17-1和議転換の明と和議反対の朝鮮
   159211月、小西行長と停戦協定を結んだ沈惟敬が義州に戻ってきたとき、朝鮮国王の
  では沈惟敬が日本との講和をするとの風聞が問題となっていた。 沈惟敬を接見した国王

  「朝鮮は日本と万世必報の讎しゆう(憎み)」ありと、講和に拒絶反応を示した。 これに

  し沈惟敬は先に休戦協定を結んだのは、日本の立場を考えたのではなく、日本に和議のあ

  ことを示しながら朝鮮二王子と朝鮮人捕虜を返還させ、そのあと明の大軍を派遣して一挙

  日本軍を討滅する作戦である、と答えた。

   ところが、碧蹄館の戦いで明軍が敗走してから、明軍首脳も和議策に傾き始めた。 李如
   松の戦意喪失により、経略宋応昌は沈惟敬を通じ日本軍を説論して撤退させようと考え始め
   たのである。
    日本との和議についての宋応昌の意図は、平壌の戦いで敗北した日本は明への入貢を臨ん
   でおり、秀吉を日本国王に封して寧波からの貢路」を許せば朝鮮から兵を引き上げるであろ
   う。 というのであった。 これに対し、朝鮮側は日本は不倶戴天の敵としてそれを追撃し
   ソウルを回復することを強く主張した。 
   この朝鮮の姿勢にたいし明は、朝鮮を「詩賦を尚び武備を修めぬ国」(文章の国であって
   も、武威の国におあらず)と決めつけ、朝鮮独自で礼儀を知らぬ蛮国日本と戦うことは無理
   であり、それには明の威力を以て初めて対処できるものと、決めつけたのである。
   この場合、日本が明への入貢を望と言うのは、前年9月、小西行長が沈惟敬に、朝鮮へ兵
   を出した理由について説明した口実であし、それが明側の戦意喪失による和議案への転換の
   転換のなかで、既成事実として持ち出された。
17-2朝鮮を無視した日明和議折衝
   日明間の和議条件について、明の経略宋応昌は腹案を持っていた。 日本軍の朝鮮国土か
   らの撤退、清正が捉えた朝鮮二王子の返還、秀吉が明皇帝に謝罪を上疏じょうそ(上書)する
  こ
と、この三条件を実行すれば、明兵部は秀吉を日本国王に封する旨を明皇帝に上奏すると
   いうのである。 これを日本軍に認めさせるためには荒治療が必要となった。 
   1593年3月13日、宗応昌の指示を受けた副総兵査大受は、配下の金志貴と朝鮮の倭通事
  善慶らをソウルに先行させ龍山にある兵糧倉
23箇所を火矢を以て焼討させた。 この龍山
  はもともと朝鮮国家の租税の蔵所であり、ソウル陥落後日本軍の兵糧米として使用されて

  た。
   事、ここにいつぁって小西行長は玄蘇に命じて、明側と和議の女意見につき相談させ、
   さらに、龍山の朝鮮水軍に和を求める書簡を送らせた。 これにより李如松は沈惟敬をソウ
   ルに遣わした。
   3月15日、小西行長と沈惟敬の会談が始まる。 沈惟敬は先に宋応昌の提示した三条件を
   通告した。 ……………….
   日本軍総大将宇喜多秀家及び石田三成らの朝鮮三奉行の報告を受けた結果、4月初旬、行
   長と清正が再び龍山で沈惟敬と会談することになった。 そこで、清正の捕えた朝鮮王子と
   その陪臣は朝鮮に還すこと、日本軍はすぉうるから釜山浦まで撤退すること、開城を守る明
   軍は日本軍のソウル撤退を見て明へ帰国すること、そのうえ明側から和議使節を日本へ派遣
   する事が決められたのである。
 17-3 偽りの「明使節」
   日本軍がソウルを撤退したのは1593年4月18日である。 それに先立ち、宋応昌は日本
  の要請に応じて、明皇帝から任命されてもいない幕下の索士謝用梓・徐一貫等を「明使節」

   と詐称して日本の陣営に送り込んだのである。 この場合、徐一貫は、朝鮮が秀吉の明征計
   画を先導していないか朝鮮の探索に来た人物であり、いわば明軍の諜報機関である。 彼ら
   の任務は秀吉のもとに行き、肥前名護屋の様子を探り「関白降表」を取って来ることであっ
   た。
   和議は明軍の提督李如松の方から申し入れたこと、そのため「勅使」が日本に渡りやがて
   和平となること、一行の内主だった「勅使」・官人5人であり、下々の随行者は約100人で
  り、「勅使」・官人には振舞をほどこし、下々の者は食事だけをあたえておけばよいとい

  ものであった。
 17-4 秀吉の和議の条件
   文禄2年(1593)5月15日、石田三成らの三奉行と小西行長は「明使節」をともなって
  前名護屋に着岸した。 これより先の5月1日、秀吉は浅野長政、黒田孝高、増田長盛、

  田三成、大谷吉次の五人に腹案をしめしている。

   秀吉の外交ブレーン承兌は表面に出ず、折衝は景轍玄蘇と南禅寺の玄圃霊三があたった。
   第1は、日本軍が全羅・慶尚両道の南岸に拠点を築き駐屯していることの理由の説明であ
   る、それは、朝鮮側が日本軍の追撃をはかったからだ。 第2は、日本が朝鮮に兵を出した
   動機の説明。 第3は、「大明」帝王の姫君、日本帝王の后として相渡さるべき由」とい
   う条件と第4の朝鮮南四道の日本割譲要求を基にして公主降嫁と朝鮮八道中分が和議折衝の
   核心であるとし、このいずれかによって明の誠意を示せと主張した。 明はこの何れも拒否
   した。 公主降嫁はかっての中国ではあったものの、明はそれは行わないという。 また朝
   鮮八道中分については明に属しているものであり、明はその朝鮮の危機を救おうとしている
   のである。 朝鮮を中分したら朝鮮国王は何処恵ゆくのか、そうなれば、明は中華の主どこ
   ろか、不仁不義の国となる。 秀吉が明との通好を望なら、朝鮮から撤兵せよ、と反論した
  、
霊三は要求した二点が受容れられねば、朝鮮再派兵もありうるとおどかしたが、折衝は平
  行
線をたどった。
   この折衝のあとの6月23日、秀吉は「明使節」を名古屋浦遊覧にさそい、武者揃いを見物
   させた。 そして6月28日、秀吉は石田三成らを通じて「明使節」に和議条件7ヵ条と「大
   明勅使に対し、告報すべきの条目」を提示させた。
   第1条     和平制約相違なくば、天地、従え尽きると雖も、改変有るべからざる也、然らば即
       ち大明皇帝の賢女を迎え、日本の皇后に備うべき事、
   第2条     両国年来間隙により、勘合、近年断絶す、この時、之れを改め、官船・商船往来あ
       るべき事
   第3条     大明・日本、好を通じ、変更あるべからざる旨、両国朝権の大官、互に誓詞を題す
       べき事
   第4条     朝鮮に於いては、前駆を遣わし之を追伐す、今に至りていよいよ国家を鎮め百姓を
       安んぜんが為、良将を遣わすと雖も、この条目の件々、領納に於いては、朝鮮の逆意
       を顧みず、大明に対し、八道を割分し、四道並びに国城(ソウル)を以て、朝鮮国王
       に還すべし、且つまた前年、朝鮮より三使を差し、木瓜の好を投ずる也、余蘊ようん
       四人の口実に付与す。
   第5条     四道は既に之を返投す、然らば即ち朝鮮王子並びに大臣一両員、室として、渡海有る
     べき事
   第6条 去年朝鮮王子二人、前駆の者之れを生捕りす、其の人、凡間に非ず、混和せざらん
        乎、四人として沈遊撃に度与し、旧国(朝鮮)に還すべきこと、
   第7条 朝鮮国王の権臣、塁世違却有るべからざるの旨、誓詞、之を書すべし、此の如くの
      旨趣、四人、大明勅使に赴いて縷々陳説すべき者也、
     文禄2年癸巳6月二十八日 御朱印
                     石田治部少輔
                     増田右衛門尉
                     大谷刑部少輔
                     小西摂津守
(18) 日本軍の南朝鮮駐屯
  これまで見たような経緯で日明和議折衝が進んだが、秀吉はその傍ら、慶尚南道晋州城攻略
  の指示を出している。 晋州は慶尚南道から前羅道へ通じる要衝の地である。 晋州城の南面
  は晋陽湖に源を発する洛東江へそそぐ南江が流、他の三面は高い石壁をめぐらした「朝鮮国第
  一の名城」である。 前年10月、細川忠興・長谷川秀一・加藤光泰らがこの城を攻撃したもの
  の晋州城牧使金時敏らはこれを撃退した。
  秀吉が晋州城の攻撃をあらたに指示したのは1593年の2月であり、それは黒田孝高・浅野
 政がもたらした。 これは石田三成らが平壌の敗北を注進するなかで、今後は全羅・慶尚両

 を抑える必要のあることを説いたことによる。
  秀吉は、晋州城を攻撃して全羅・慶尚を抑えよ、という指示を3月10日、4月22日と矢
 ぎ早に出している。 さらに平壌の戦いの際番城を放棄して逃亡した大友義統は臆病者とし

 攻め豊後の領地を改易処分にした。 また、薩摩出水の島津忠辰、肥前の波多信時にもその

 病・怠慢をせめて改易にし、朝鮮軍役を果たさねば改易となる無へを諸大名に示した。
  5月20日、秀吉は晋州城攻撃の陣立てを定めた。 それによると、鍋島直茂・黒田長政・加
  藤清正。島津義弘配下の兵力2万5624、小西行長・宗義智配下の兵2万6182、1番備えとし
 宇喜多秀家配下の1万
8882、2番備えとして、毛利輝元・小早川隆景配下の2万2344、計9万
  2972、これらを直接晋州城攻撃の兵力とした。
   一方、朝鮮側は、日本軍が慶尚南道から全羅道へ侵入すると知った都元帥金命元・全羅道巡
  察使権慄は朝鮮の官義兵を率いて慶尚道宜寧に集結した。 幸州の戦捷で意気上がる権慄は直
  ちに兵を進めようとしたが、義兵将郭再祐らは、権慄の軽率妄動を戒めた。 
   晋州倡義使金千鎰は、晋州城が陥落すれば禍は全羅道に及ぶと主張して、晋州城に日本軍
 引き寄せこれを叩こうとしたが、朝鮮側の意見はまとまらなかった。
   6月21日日本軍は晋州の東北馬峴峯に陣を取り晋州城を囲んだ。 これより先、金千鎰は明
  副総兵劉綖のもとへ配下の梁山璹を遣わし援軍を要請した。 しかし、劉綖は日本軍を恐れて
  援軍を出そうとしなかつた。 結局、金千鎰らは独力で戦うことになった。 指揮官は金千鎰
  のほか、慶尚右兵使崔慶会、忠清兵使黄進らであった。 6月22日日本軍は肉迫してきたが、
  朝鮮軍はこれを撃退したものの日本軍の勢力は強大であり、救援を必要とした。 武将の一人
  林遇華なるものがその使者となったが城を潜り抜け程なくして日本軍に捕えられた。 日本軍
  は林遇華を縛り付けて晋州城の朝鮮軍に示し、その式を砕こうとした。 
   ところで朝鮮軍の晋州城籠城作戦の甘さがあった。 晋州城の南は南江に面し絶壁であり
  、
ここからの攻撃はあり得ないと考え、高い石壁に囲まれた西北面には濠を掘って水を巡ら
  した。
 そして東側の一面で日本軍を撃退すればいいとの戦術をたてていた。 ところが、こ
  の日の日
本軍はその濠を決壊させて南江に流し、郷の乾くのを待って、濠に土砂を埋めて大
  路としてし
まった。 この濠の埋め立てに朝鮮側は動揺したが、23,24日は一進一退がつづ
  いた。 そ
して、25日、東門外に土山を築き、晋州城内を俯瞰ふかんしながら鉄砲の一斉射撃
  をくわえた。
  
 これに対し黄進も土石を積んで城内に丘を築いて対戦した。  27日、晋州城北面の石壁
   崩しにかかった。 石垣の角の大石を引きはねくずしたのである。 李宗仁は朝鮮軍を督戦
  し
て防戦に努めたが、その夜、西門の防禦に当たっていた徐礼元は日本軍が潜入して石壁を
  崩す
のにきがつかなかった。 翌28日の夜明け、日本軍は西門に攻撃を集中した、この時黄
  進は鉄
砲に当たって戦死した。 そして、29日、日本軍は晋州城内になだれ込んだ。 激戦
  の末、朝鮮軍は矗石楼に集結するも、ある者は討死し、ある者は南江に身を投じた。 ここ
  に晋州城は陥落した。
   晋州城を落した日本軍は直ちに全羅道へ侵犯した。 7月5日、全羅北道求礼クレを焚蕩
ふん
   と
(焼けて無くなる)し、7日には谷城を焚蕩し、駱尚志、査大受、宋大斌らの率いる明軍
  と平
安道巡辺使李薋・忠清道助防将洪季男の朝鮮軍を撃破して南原に迫る気配を見せた。 
  8日、
先に慶尚北道大邱を発した明副総兵劉綖が、この日、南原に入った。 ついで駱尚志
   、査大受の明軍と李薋・洪季男の朝鮮軍も南原の守りについた。 このため、翌9日、日本
  軍は晋州に
ひきあげた。
   ここに至り、秀吉は朝鮮在陣の諸大名に朝鮮南岸一帯に渡る城普請を申し付けた。 これ
  に
もとづき、諸大名は次の様に在番することとなった。 
  西生城ソセンポ(加藤清正)、                  林浪浦城オムラン(毛利吉成のか)、
   機張城キジャン(黒田長政)、                  釜山城プサン(毛利秀元)、
   東萊城トンネ(毛利秀元ほか)、              加徳島カドクド(毛利秀元ほか)、
   竹島城チユクド(鍋島直茂)、                  熊川城ワンチョン(小西行長)、
   安骨浦城アンドクホ(九鬼嘉隆)、            巨済島城コセド(島津義弘)
(19) 和議の破綻
 19-1 偽りの降伏使節内藤如安
   肥前名護屋で「明使節」と景轍玄蘇・玄圃霊三らが和議折衝を行っており。一方、朝鮮に
  駐屯する加藤清正・小西行長らの日本軍が晋州城攻略にかかっていた
15593年6月後半、小西
  行長は沈惟敬と画策して、家臣内藤如安を偽りの降伏使節に仕立て、「納款表」をもたせ

  明皇帝のもとへ派遣することとした。 これには宗義智の家臣早田四郎兵衛尚久ら
30名ほ
  が同行した。 この「納款」とは誼を通じることであり、「表」は明皇帝に奉る文章のこ

  である。
   名古屋に派遣した謝用梓・徐一貫等が偽りの「明使節」ならば、内藤如安らもま
た偽りの
  「降伏使節」である。
  安藤ら一行は7月8日、沈惟敬に率いられてソウルに致着した。 9月初旬、安藤一行は平
  壌を経由して遼東に至った。 遼東には明経略宋応昌がいた。 宋応昌は和議実現のために
  は
「関白降表」が必要であるとして、安藤らを遼東に留め、小西行長に「関白降表」を催促
  した。 
その「関白降表」とは、
        日本は明朝の赤子になろうとしている。 その気持ちを朝鮮を通じて民に伝えようと
   たが、朝鮮はこれを握りつぶしてしまった。 秀吉はこれを怨み兵をおこした。

        平城において小西行長と沈惟敬の間に停戦協定がむすばれ、小西はこれを守ったが、
   鮮は戦争をしかけてきた。

        沈惟敬との約束により、日本は城郭・兵糧・(朝鮮の)領土を朝鮮に還した。
   ④     皇帝のもとに安藤如安を送る。 安藤は日本側の気持ちをありのまま伝えるであろう。
     秀吉としては、明皇帝から冊封藩王の名号をいただきたい。 それがゆるされれば、今
   「藩籬の臣」として貢物を捧げる。

  というものであった。
 19-2 日本冊封使の北京出発と冊封正使の逃亡
   15941230日、明皇帝は、成租永楽帝の冊封bを先例とし、秀吉を日本国王に封ずる誥命および冠
   服・金印の作成を命じ、臨淮侯勲衛李宗城を冊封日本正使に。五軍営右副将
署都督僉事楊方亨を副使
  に任命した。
   翌95年1月30日李宗城・楊方亨らの明冊封使一行は北京を発った。 このあと2月3日、
   明皇帝は、沈惟敬を釜山浦へ先行させ、小西行長に①日本渡航の船舶の準備、②釜山浦周辺
   の日本軍の撤退、③内藤如安が制約した3件について、日本・朝鮮間の調停をさせることと
   した。
   その後、明冊封副使楊方亨は、正使李宗城より一足先に慶尚南道居昌へ来た。 ここで楊
   方亨は慶尚道南岸一帯の城々に布陣する日本軍の撤退をせまった。 しかし、日本軍には完
   全に撤退する意志など毛頭なかった。 やむを得ず楊方亨は密陽から1010日釜山浦の日
  陣営に着いた。 しかし、小西行長は病と称し楊方亨に会わなかった。 同月
12日楊方亨
  小西行長と会見し、日本軍が朝鮮南岸から撤退しなければ和議はならず、大事に至るもの

  。これをせめた。

   同年11月末明冊封正使李宗城が釜山浦の日本軍営に入る。 12月1日、小西行長・景轍
  蘇等は冊封正使・副使に行礼し、明皇帝が秀吉にもたらした金印と誥命に拝礼した。

   ところが、このあと事件が起こった。 翌96年4月「秀吉は明皇帝の冊封を受ける意志が
   なく、明冊封使が日本へ渡った場合、拘囚困辱されるだろう」との流言が釜山浦一帯に流れ
   た。 これに恐れた冊封正使李宗城は、4月3日の夜半、印章・冠服・輜重(旅行用の荷
  物)、
僕従人などをすて、変装して軍営から逃亡したのである。
 19-3 和議決裂
   文禄5年(1596)5月、先に李宗城が釜山浦から逃亡したことにより、明は、副使であっ
   た楊方亨を冊封正使に、沈惟敬を副使として、改めて日本へ派遣することになった。 同年
   6月12日、副使沈惟敬は、正使に先んじて、大阪に着き、6月27日には伏見城で秀吉に拝
  している。
   秀吉は明使節の参着に備え、伏見城での武者揃いを計画した。 しかし、畿内の大地震に
   よって、その計画はご破算となり、明使節引見の場所は大阪城となった。
   一方、冊封正使楊方亨は、6月半ば、対馬にむかった。 このあと。 朝鮮国王は行護軍
   敦寧都正黄慎を通信正使、」大邱府使朴弘長を副使とし、309人の通信施設団を構成して楊
  亨に随行させた。

   慶長元年9月1日、明冊封使楊方亨・沈惟敬らは大阪城で秀吉に拝謁し、明皇帝からの誥
   命・金印・冠服を進呈した。 この場合、秀吉は朝鮮通信使の接見を許さなかった。
   事件はその翌9月2日に起きた。 秀吉は明使節を大阪城に饗応し、その席にて西笑承兌
   に明皇帝の誥命を読み上げさせた。 その誥命には「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」
   の語があるものの、秀吉が提示した和議条件7ヵ条についての回答は片言隻句もなかった。
   秀吉は激怒し、ここに日明講和交渉は破綻した。
(20) 第2次朝鮮侵略の再開
  慶長2年(1597)2月、秀吉は朝鮮再派兵の陣立てを定めた。 それは、第1に、加藤清正
 の率いる1万の兵力、小西行長の率いる1万
4700の兵力を先鋒として、二日交替で先手を努
 、非番は2番手とした。
  第2に、清正・行長に続く者として、3番手黒田長政・毛利吉成らの兵力1万、4番手に鍋
  島直茂・勝茂父子の兵力1万2000、5番手に島図義弘の兵力1万、6番手に長宗我部元・親藤
  堂高虎ら兵力1万
3300、7番手に蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治らの兵力1万1100、8番
 
手に毛利日でR元・宇喜多秀家らの兵力4万を配置することとした。 
   第3に、釜山浦城に小早川秀秋を配置して、太田一吉を釜山浦城の軍目付とし、安骨浦城に
  立花宗茂、加徳城に高橋直次・筑紫広門、竹島城に小早川秀包、西生浦城に浅野幸長をそれ
  ぞ
れ配置し、その在番衆は全体で2万3901人とした。 全兵力は141500人とした。 
   第4に、先手の軍]目付として、毛利重政・タケナカ隆重・垣見一直・毛利高政・早川長政
 ・
熊谷直盛ら秀吉の馬廻り衆を配置した。
   第5に寺沢広高を船奉行とした。 そして、第6に「赤国(全羅道)残らず悉く1扁に成
 敗
申し付け、青国(忠清道)その外の議は成るべき程、相動くべき事」というように、全羅
 道の
攻略に東面の狙いを絞ったのである。
(21) 漆川梁の海戦
  明軍が朝鮮に再び駐屯することは、兵糧の供給などにより朝鮮の民の疲弊を招くことにな
 る 。
 朝鮮は再び救援を願ったものの、ここに朝鮮側にの悩みがあった。 文禄の役の際思
 い知った。
 明に再び救援を願ったものの文禄の役の時のような疲弊を引き起こさないために
 は日本兵船の海路を遮断することが最全の作であった。

  慶長2年(1597)6月10日、水軍にその指示が出た。 同月19日、勇躍した元均は、朝鮮
  水軍を率いて安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃したが、平山万戸金軸丸と宝城郡守安弘国らは
 戦
死し、朝鮮水軍の作戦は失敗に帰した。
  同年7月8日、藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治の日本水軍600余艘が釜山沖に集結し、熊川
  から巨済島にせまった。 慶尚右水使裵楔は兵船を率いて熊浦で接戦するも、これもまた敗
 れ
た。 ところがこのとき、水軍統制使元均は出陣しなかったのである。 都元帥権慄はこ
 れを
とがめ、元均を呼び出して杖罰を与えた。
  権慄の叱責を受けた元均は、憤懣やる方なく、閑山島を出船し釜山浦一帯に停泊する日本水
  軍の襲撃に向った。 このとき、日本水軍は朝鮮水軍を疲労させる作戦をとり、朝鮮の兵船
 に
近づいては離れ、近づいては離れて元均の水軍を焦らしたのである。 元均は勢いに乗じ
 てこ
れを追い、止まることを知らなかった。 しかし、朝鮮の兵船は四散し、全羅右水使李
 億祺の
船七艘は元均の兵船と離れ離れになっていた。 元均は周りの船をまとめ、とりあえ
 ず加徳島
にたどり着く。 このとき、日本水軍は朝鮮水軍の士気の衰えを察知しており、兵
 船
500余艘をもってこれを襲撃した。 このため、元均は永登浦に退いたが、ここにも朝鮮
 水軍の給水を
予測して、日本軍がすでに伏兵を置いて板。 襲撃を受けた朝鮮水軍は、温羅
 島に退却する。
    ところがここでも日本の兵船数艘が元均らの兵船をとりかこみはじめた。 これが7月15
 日夜
半のことである。 翌16日払暁、日本軍は休息を取っていた朝鮮水軍を奇襲する。 こ
 こで、
李億祺・忠清水使崔湖らが戦死した。 元均は陸地に逃れたものの、陸地には島津勢
 がまって
おり、元均はその襲撃を受けて敗死した。 一方、先に元均らの主力から離れた慶
 尚右水使裵
楔は配下の兵船12艘を率いて遁走した。
(22) 日本軍の南三道の侵略
 22-1南原の戦い
   漆川梁海戦直後の7月半ば、小早川秀秋が総大将として釜山浦に着陣した。 ここで同年
  8月初め、日本軍は総大将小早川秀秋を釜山浦に留め、軍全体を左右二手に分け、慶尚・全

   羅・忠清三道へ兵を進める。 宇喜多秀家を対象とする左軍の武将は小西行長・島津義弘・
   加藤嘉明・蜂須賀家政・生駒一正・長宗我部元親らであり、慶尚右道から全羅道の雲峰をへ
   て南原に迫る。 また毛利秀元を大将とする右軍の武将は加藤清正・浅野幸長・黒田長政等
   であり、この軍は慶尚道を北上して忠清道へと兵を進める。
   左軍は、漆川梁の海戦のあと、慶尚道固城に上陸した島津義弘らの日本軍は、8月5日、
   慶尚道昆陽から露梁に進み、山中に逃避した朝鮮農民を捜索し、殺略・焚蕩ふんとう(焼き尽
  く
す)・鼻切をほしいままにした。そして7日には全羅道求礼にいたり、その先鋒は南原境
  に
迫った。 また水軍の藤堂高虎らも南原に迫っていた。
    8月8日、南原の防禦にあたる明副総兵楊元は、配下の兵3000を分け、800名を城壁の上
   に、1200人を土塀の中に。1000名を遊軍とした。 ついで朝鮮軍にも南原城の防備を指示
   した。
   一方、日本軍は8月11日、南原城付近を偵察し、翌12日に小西行長の先鋒が、南原城近く
  で放火を始めた。 そして
13日には南原城の東西南の三面を包囲し、飛雲長梯を作って登城
  の具とし、草と土石を濠に埋めて城壁に迫る路を作った。 8月
15日、楊元は日本側に会談
  を申し入れたが、行長は楊元に直ちに退城することを要求した。 このため会談は最初から
  成り立たなかった。 

   8月16日、日本軍は南原城の四方を取囲んだ。 そして日本軍は袋の鼠となった明・朝鮮
   軍目指して突入を敢行した。 激戦のすえ、配色濃厚とみた明軍副総兵楊元は真っ先に南原
   城を脱出した。 一方、全羅兵使李福男、助防将金敬老、別将申浩、防禦使呉応井、南原府
   使任鉉、南原判官李徳恢、求礼県監理元春、順天府使呉応鼎のひきいる朝鮮軍の殆どは戦死
   し、ここに南原城は陥落した。 この戦闘には南原周辺の庶民から婦人子供まで参戦したが
  、
降倭も参戦しており、「今に至りて降倭等、皆な先登力戦し、多数賊を斬す、其の身に至
  り
ては、傷を被りても顧みず、これ降倭、独りよく忠を効す也」といわれるように、勇敢に
  戦
った。  この戦いでかなりの朝鮮人が囚われのみとなった。 
 22-2 黄石山城の戦い
   宇喜多秀家を大将とする日本の左軍が南原城の攻略にかかっていた頃、日本右軍の先鋒加
   藤清正も慶尚道黄石山城の攻略にとりかかっていた。 右軍は昌寧より西に折れ草渓、陜川
   を経て安陰にむかう。 すると所在の朝鮮軍は皆逃散し、黄石山城がただ独り堅守していた
   黄石山城は安陰の西北約2里に在り四方斗絶し険峻甚だしく慶俊。全羅2道の咽喉をなし
   ていた。 安陰県監郭シュンが入ってこれを守り、金海府使白土霖、全咸楊郡守趙宗道は兵
   を率いてきてこれを助け安陰、居昌、咸楊3郡県の軍民数千人を募り、城の各所に分置する
  。 
西南二方面は郭シュン自らこれにあたり、東北二方面は白土霖が指揮し、趙宗道は遊軍
  とな
る。 白土霖は武官の出身であったため城兵はこれを頼みとした。
   8月中旬日本軍は、加藤清正は南面より、鍋島直茂は西面より、黒田長政等は東面よりこれを囲み、竹
  束楯を連ね、柵を結って城に迫り、
16日の夜、月明かりに乗じて総攻撃を開始した。 この時白土霖は逃
  走した。 郭シュンは持ち場を離れずたたかったが、加藤の士森
本義太夫等が南門に先登し、神田対
  馬が郭シュンを討ち取った。 郭シュンの子、郭履常、郭履厚及び趙宗道東は皆ここで戦死
  し、日本軍は
350余の首級を上げ黄石山城は陥落した。
 22-3 全州の陥落
   南原を落した小西行長の先鋒は侵略を重ねながら、8月17日、全羅北道任実に達し、翌18
   
日、行長等は全州に向った。 このため、全州の守将明遊撃陳愚衷は城を棄てた遁逃し、
  の翌
19日、日本軍は戦わずして全州城を落した。
   一方、黄石山城を落した清正等は、全羅北道雲峰、智異山、全羅北道鎮安を経て8月25
  全州に入った。 ここで軍議があった。 

   軍議の結果、水陸の兵を分けて全羅道を抑え、毛利秀元・加藤清正・黒田長政等の右軍は
   忠清へ北進して京畿道をめざし、左軍のうち、宇喜多秀家・小西行長は軍を南へ回し、島図
   義弘等は全羅道の左路を下って列邑に分屯することになった。
 22-4 稷山の戦い
   1597年9月初め、毛利秀元・黒田長政・加藤清正らの日本右軍は全州を発ち忠清道を北進
   した。 途中、清正は道を東にとり、清州を占領したが、右軍の主力である秀元と長政等は
   忠清道公州から天安へと兵を進め、忠清道稷山に迫り、ソウルを窺う気配をもみせた。
   一方、明副総兵解生は稷山の金鳥坪に兵を左右両翼と中央の三隊に分けて配置していた。
   ここに黒田長政の先鋒黒田図書助・栗山四郎右衛門らが夜中に到着し、9月7日の夜明け
   になって明の大軍の前に陣取ったことに気が付いた。 ここに日明両軍が衝突し、稷山の戦
   いが始まった。 後続の黒田長政・毛利秀元は直ちに救援に駆けつけ、激戦を展開したが、
   決着はつかず、被害が双方ともかなりの死傷者を出し、日暮れに至って両軍とも引き上げた
  。 
   尚、「朝鮮王朝実録」など朝鮮側史料はこの戦いにより、日本軍のソウル再侵入を阻止し
   たものとみなし,「平壌の戦い」,「幸州の戦い」についで、「稷山の戦い=金鳥坪の戦い」
   を「朝鮮三大戦」としている。
(23) 朝鮮・明の逆襲
 23-1 李舜臣の復帰と
   漆川梁の海戦における元均の敗死により、1597年7月22日、李舜臣は全羅左道水軍節度使
  兼慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使に再任されることとなった。

   9月16日鳴梁の海戦が始まる。 日本水軍の陣容は、藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治・来
   島通総・菅達長、それに、軍目付の毛利高政らの率いる兵船133艘であった。
   これに対する朝鮮水軍は、漆川梁の海戦の際遁走した裵楔が率いていた12艘兵船とそれに
   鹿島万戸宋汝悰の戦船の13艘であった。
   日本側の記録では、①日本海軍は鳴梁海峡の全羅右水営に朝鮮軍の兵船13艘を襲撃しよう
   とした。 ②朝鮮の兵船は潮流の激しい鳴梁海峡の中で「しほのやはらき申し候」ところ、
   すなわち、鳴梁海峡の珍島側の碧波津に停泊していた。 ③鳴梁海峡の潮流を見た日本水軍
   は、大型の安宅船で突入するのを避け、中型の関船を揃えて突入しようとしたのである。
   一方、李舜臣は「彼(日本軍)衆(多)く、我れ寡なるを以て、以て力勝するは難し、謀
   を以て破るべし」と作戦を立て、乱を避け漁民らの船を兵船に偽装して布陣させた。
   海戦が始った頃、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流となっていた。 李
   舜臣は海峡の中流に舟を連ねて碇を下し船が流されるのを防ぎ日本水軍を迎撃した。 日本
   の兵船は「(鳴梁は)地、迫峡にして、潮、方さに盛んなり、水は益々盛んなり、賊は上
  流
より、潮に乗じて之に揜えん(迫る)すること、勢、山を圧するが若(如)」く襲来し、
  「(これを見た朝鮮の)士卒、生気無し」となった。 ところが、戦闘が続くさなか、「時
  に早潮、方さに退ひ、港口湍悍たんかん(水の流れが速い)」となった。 潮流が西から東に
  変わった
のである。 攻守所を変えた朝鮮水軍は潮流に乗って逆襲した。
   来島通総戦死、その家老たちの多くも負傷した。 僅か船13艘を持つにすぎなかった朝鮮
   水軍は水路の険と潮流を熟知していることによって勝利をおさめ、船133艘の日本水軍は」
  退の憂き目にあった。
 23-2 日本軍の南下と朝鮮側の反撃
   稷山の戦い、京畿道竹山境への侵入を北限として、日本軍は慶尚道と全羅道南岸へ兵を移
   動させ倭城を拠点とするようになる。
   城普請の必要性がある蔚山ウルサンの島山は清正家臣加藤清兵衛と毛利家臣および九州衆が
  の普請に当たり、普請完成のあと、清正が蔚山に入って、黒田長政は清正が蔚山普請の間

  居城した西生浦へ移ることとなったのである。
   この陣替をめざして日本軍は南下するが、それを朝鮮軍が追撃する。 その動きの中心と
   なったのがこの年の9月、金応端にかわって慶尚右兵使となった鄭起龍である。 
(24) 蔚山の籠城
 24-1 第1次蔚山城の戦い
   釜山周辺には、既に文禄期から倭城軍が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部
   に位置し、東から、蔚山城、梁山城、昌原城、唐島瀬戸口城、固城城、洒川城、南海城、順
   天城の8城である。 これら倭城群の最東端に当たる蔚山の地には、加藤清正自らが縄張り
   を行い、慶長2年(159711月中旬から、毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心とし
   て、久留の計(恒久陣地化)をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始めた。
  築城を急ぐ日本軍に対し、この頃明・朝鮮では、加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、
  蔚山をせめて清正を捕えたなら日本全軍の士気をくじくことが出来ると考え、明将楊鎬、

  貴らに率いられた明軍及び、都元帥権慄率いる朝鮮軍、合わせて約
56900の兵を建設中の
  山倭城に差し向けた。
  蔚山倭城では、突貫工事の後、40日程で完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀
  は兵糧・武器類を釜山に輸送し蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かっていた。 また加

  清正は西生浦に出張中で蔚山にはおらず、浅野幸長・太田一吉らが城外の仮営駐屯してい

  。 そこへ
1222日、明軍の先峰、擺寨指揮の軽騎兵1000に急襲され、冷泉元満等が討死し
  、仮営が焼き払われた。 当初浅野幸長らは仮営からの銃声を白鳥狩りしていると思
い込ん
  でいたため、救援が遅れるた。 敵の襲来の報がはいり浅野幸長、太田一吉が反撃に
移るが
  、擺寨が偽りの退却をし、浅野勢をおびき寄せ、楊登山・李如梅らが三方から合撃し
たので
  浅野勢は苦戦に陥った。 
460名の戦死者をだし太田一吉も負傷するほどの激戦の後、蔚山
  城内に撤退して籠城戦が始まる(「清正高麗陣覚書」による籠城兵は
10000人)。 
 24-2 攻防戦と生き地獄
   蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聴いた加藤清正は即座に兵船に座乗して蔚山に帰
   還、城内に入った。 これより籠城する日本軍は加藤清正の指揮のもと明・朝鮮連合軍を迎
   え討つこととなる。 23日、未完成であった城の総構を明・朝鮮軍に突破され660余の戦死
   者を出した日本軍は、内城に撤退して防衛線を展開し、この日の日暮れに迫った明・朝鮮軍
   を撃退した。
   1224日早朝、明・朝鮮軍は四面から蔚山城を攻撃したが、城を守る日本軍から無数の
  弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。 
25日、楊元は朝鮮軍の都元帥権慄を呼び「今
   日、明軍は休息するが、朝鮮軍は城を攻めよ」と命令する。 故に権慄は朝鮮軍単独による
   城攻めを行ったが、日本軍から雨の如く銃弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。 26
   日は終日風雨だったが雨を冒して速攻し、27日もまた軍を進めたが、前の如く死傷者を出し
   た。 28日柴草を集めて、城を火攻めにしようとしたが、明軍と朝鮮軍は甚だ多くの死傷者
   を出し、城の下に達することさえも出来ず、退却した。 
    25日この日辺りから投降する日本兵が続出するようになった。 明・朝鮮軍の間で、城内
   の日本軍の兵糧と水の欠乏が明るみになった。 26日、此の日の雨は恵みの雨であった。 
   27
日、城内から逃げ帰った朝鮮人捕虜から城内の様子を聞く、城中には水も米も無く、日本
  兵
は焼けた米を拾って食べ、雨を衣服に濡らしてその水をすすっているという。
 24-3 援軍到来
    籠城開始10日後の1月3日、西生浦から毛利秀元・黒田長政らの率いる援軍が蔚山城南方
   の高地に到着した。 また会場には長宗我部元親らの水軍が到来した。 このため明・朝鮮
   軍は急速に蔚山城を陥落させる必要に迫られた。 その夜、楊鎬、麻貴は全軍を自ら督戦し
   て最後の攻城戦を開始するが、来援を知った蔚山城兵は生気を取戻して迎撃し、攻めかか
  敵兵に雨の如く銃弾を浴びせかけた。 明・朝鮮軍は多くの死傷者をだして、最後の攻城

  は失敗した。

    翌4日、楊鎬、麻貴は城攻めの失敗と援軍の到来により退路を失うと判断し、擺寨、楊登
   山、呉推忠、茅国器の4隊を後衛として遂次慶州へ撤退を開始した。 日本の救援郡では毛
   利秀元の陣所より、吉川広家が真っ先に進み出て明軍に向って突進し、続いて総勢が一度に
   突撃した。 その時明軍の敗走がはじまる。
    明軍の内、箭灘を守っていた浙江の歩兵及び騎兵には、楊鎬、麻貴の撤退が伝わってお
  ず、慌てて転倒しながら逃走を始めた。 ここにおいて蔚山城の日本兵は山を駆け下り、

  気に敵兵を撃ち殺した。 明軍の歩兵の生還者は多くなく、騎兵の戦死者また幾ばくか知

  ず、また朝鮮軍からも多くの死者がでた。

   更に、日本軍は敗走する明・朝鮮軍を30里に渡って追撃する。 この戦いで明軍は2万も
   の損害をだした。 戦いは日本軍の勝利となった。 この戦いで明軍は2万もの大損害をだ
   し、戦い、戦いは日本軍の勝利となった。
 24-4 関ヶ原への影響
   蔚山攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放
   棄する戦線縮小を秀吉に上申しているが、3月には秀吉の不興を蒙り脚下された。
   この合戦について、軍目付の福原長堯・熊谷直盛等は蔚山救援軍の陣所に一部の明軍部隊
  が攻撃を仕掛けた時、先方の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかったと」と秀吉に報告

  した。 このため両者は秀吉の不興をこうむり、とくに蜂須賀家政は3城放棄案の件と併せ

  て秀吉の逆鱗にふれ、領国での謹慎を命ぜられた。 一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直

  には豊国の褒美として豊後国内に新地が与えられた。 また秀吉は筑後・筑前国を石田三成

  に与えようとした。 これは三成が辞退したものの、筑後国・筑前国に置ける蔵入地の代官

  に三成を任じ筑前国名島城を与えた。

 24-5 第2次蔚山山城の戦い
   前回の敗戦後、明軍では本国からの増援をえて兵力は約10万となり、慶長3年(1598
  月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍の4軍に分かれて南下を開始する。

  東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。 こ
   のうち麻貴総兵が指揮する東路軍29500(明軍24000、朝鮮軍5514)は9月21日に慶州を出発
  。 
22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが、今回は籠城準備がなされており、
  中の清正は守りを固めて出てこないため、麻貴は
25日に挑発を行ったあと29日には撤退し、
  
10月6日に慶州に帰還した。
   明史によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入ったとき
  、
伏兵がおこり明軍は敗北した。
   この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は極秘にされたまま10
  月
15日に帰国命令が出された。 加藤清正は1118日に蔚山城より撤退を完了して帰国し
  た。
 慶州に撤退していた麻黄は日本軍の撤退後の蔚山城を接収し、これを自らの戦功とし
  たと報告した。 このため、明では、陳璘、劉綖についで3番目に麻貴の功績が評価されて
  いる。

(25) 豊臣秀吉の死と日本軍の撤退
 25-1 秀吉の最期と朝鮮撤退命令
   慶長3年(1598)8月18日、秀吉はその生涯を閉じた。 それに先立つ3月15日、醍醐
  花見が秀吉にとって最後の歓楽であった。 この花見を名残として、先生君主秀吉の最期

  芯は燃え尽きた。 秀吉が病にかかったのは花見のあとらしい。 6月に入って春からの

  がひどくなり、秀吉は食も進まなくなった。 朝鮮の処置については、朝鮮側から謝罪が

  れば許す旨、清正に伝えたというのである。 

   ついで7月にいたると「太閤御所不例(病気)」の風聞は巷に広まっていく。 7月15
  、醍醐寺三宝院の門跡義演は秀吉の病平癒の祈願を結願した。 また同日、西笑承兌は秀

  亡きあとの豊臣政権の安泰を考慮し、豊臣秀頼に対し秀吉同前の忠誠を誓う起請文の案文

  徳川家康と前田利家に示している。
   敬白起請文前書之事
    一、秀頼様にたいし、奉り御奉公の儀、太閤様御同前ニ粗略に存ずべからず事、
       付り、表裏別心毛頭存ず間敷事、
    一、諸法度置目の儀、今迄仰付らるる如く、弥いよいよ相背くべからず事、
    一、公儀の御為存じ候上は、諸傍輩(主君を同じくする同僚)ニ対たいし私の遺恨を企くはた
    
存分(思うままの行動)に及ぶべからずこと、
    一、傍輩中、其の徒党をゑこひいきの儀を存ぜず、御法度の如く覚悟致すべき事、
    一、御暇の儀、申し上げず、わたしとして下国仕る間敷事、
      右条条相背くに於いては、此の霊社御罰罷り蒙るべき者也、仍て件くだんの如し、
     慶長3年7月15
      武蔵大納言殿
      加賀大納言殿
   これに基づいて、諸大名は同文の起請文を徳川家康・前田利家宛てに提出している。 
    同月25日、秀吉も死期をさとっただろうか、禁中及び公家・諸大名に遺物を配分する。
  前
代未聞の儀なり、凡そ幾千万ト云う、数を知らず。
    そして8月5日、秀吉は徳川家康ら五大老に遺言をしたためた。
    秀頼事なりたち候やうに、此書付け候衆(家康ら5大老)として頼み申し候、何事も此れ
   ほかに思ひ残す事なく候、  返々秀頼事頼み申候、五人の衆頼み申候々、委細五人の者
  (前
田玄以ら五奉行)ニ申し渡し候、なこりおしく候
    このあと、秀吉の容態は急変する。
   慶長3年(1598)8月18日、秀吉は波乱に満ちたその生涯を閉じた。 これにより、豊
  五奉行・五大老は朝鮮の在陣日本軍を撤退させることとした。 秀吉死後の直後、御奉行

  鍋島直茂に宛てた連署状には、……秀吉の死去については触れていない。 のみならず、

  吉の病気は回復に向かっていることになっているといい、詳細は徳永・宮本の使者が口上

  るというのであり、ここで秀吉の死去が伝えられた。 

  徳永・宮木が和平の条件を伝えるので、それを踏まえて和平をまとめる事とし、その条件
  、朝鮮王子を人質とし、朝鮮から米・虎皮・豹皮・約種・清密を調物として日本絵出させ

  という内容であった。 ここに朝鮮撤兵に際してのぎりぎりの名分を必要としたのである。
   ところが、秀吉の危篤とか死去の風聞はすでに朝鮮につたわっていた。
    ここで明・朝鮮軍の戦略は撤退する日本軍追撃に転換し、明軍は東路・中路・西路・水路
   の四軍に編成した。
 25-2 泗川の戦いと島津氏の功名
    島津勢が慶尚南道泗川サチヨンに倭城を完成させたのは前年の暮れであり、これを拠点とし
  て
島津勢は周辺地域の侵攻を重ねていた。 泗川は慶尚南道の晋州から南に約12㎞の地点に
  在
り、南海島に通じる要衝であった。 そして、晋州の麓から流れる南江が泗川湾に注ぐ入
  江(船津浦)に面したところに、かっての朝鮮側が築いた泗川城があった。 島津氏は泗川
  倭城をその旧城から南下した船津浦の東側に位置する船津に築いたのである。

   この泗川に向け、中路提督菫一元が明・朝鮮連合軍を率いて、慶尚南道の星州・高霊を経
   て晋州に陣を構えた。 
    一方、島津勢は泗川倭城より内陸に入った南江面した地点の望晋に寺山久兼を、永春に河
   上久智を配置し、船津浦の対岸から内陸に入った陰陽に、それぞれ出城を設けていた。 明
   提督菫一元は「進みて賊城を囲み連日攻戦」して島津勢の出城を落し、島津義弘は望津・永
   春・昆陽の兵を本城に引き揚げ「登城して禦を揃え、日々弱きを示」したが、これは島津氏
   の策略であった。 余勢を駆った菫一元は9月28日夜半から翌朝にかけて川上忠美の拠る泗
   川旧城に迫った。 9月30日、川上忠美は泗川旧城を脱出した。 
    10月1日、菫一元の率いる連合軍が泗川倭城に迫った。 島津勢はこれを城下に引き付け,
   鉄砲で撃退した。 蔚山倭城の場合は普請半ばであったが、泗川倭城は鉄砲隊の戦術に見合
   
  た城郭普請が完了していたのである。 

    島津氏の「於朝鮮国泗川表討取首注文」によれば、討ち取った首は3万8717級とある。 
  島津勢はこの首から鼻を削ぎ、大樽に詰めて日本へ送った。 慶長4年(
1599)6月、島津
  
義弘・忠常(家久)が高野山に建てた「為高麗国在陣之間敵味方鬨死軍兵皆令入仏道也」と
  名のある朝鮮陣戦没供養碑によると「泗川表大明人八万余兵撃亡畢」とある。 これは泗川

  の戦いのさいの捕虜が明軍の兵糧8万人分と供述したことから、討ち果した明兵八万人とし

  て誇張したものである。
    泗川の戦いは、漆川梁の海戦、南原の戦い、そしてこのあとの露梁津の海戦とともに、島
   津家の誇りとして「征韓録」にまとめられるが、朝鮮撤退が日程に上っている時、領国の総
   力をあげて参戦した島津氏にとっては、戦功の誇示が何よりも重要であった。
 25-3 順天の戦いと小西行長・劉綖の和議密約
   全羅南道東南部の順天は麗水半島から外洋に通じる要衝であり、全羅南道への門戸であ
  た。 小西行長がこの順天倭城に入ったのは
159712月のことであり、その倭城は、
       順天倭城は四国・中国衆の大名が、秀吉の命令で築いた城である。 
       順天倭城は、南向きであり、南に大手門があり、城の西側は陸地であって、その石垣の
     高さは2間程、堀口は5間ほど、堀は空堀であり、その深さは1間半である。 城の北
     東は海に面しており、30間の崖でその下の海は深い。 城の東側は海が浅く船の出入り
     も自由である。 船入りには索を設け、その内へ船を停泊させる。 小寺丸という大
   宅船もここに停泊している。
     ここに小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・五島玄雅・大村喜前らの諸大名が在陣していた
  、秀吉の死去の報を受けた彼等は撤退の準備にかかっており、そこを・朝鮮軍が包囲し
たの
  である。
   1598年9月半ばから10月はじめにかけて、順天の戦いが始まった。 明軍は西路提督
  綖、水軍都督陳璘、朝鮮軍は都元帥権慄の率いる陸軍と統制師李舜臣の率いる水軍であ

  た。 ところが、この戦いが始まる前から小西行長と劉綖の双方に和議で解決しようと

  意向があった。 同年8月、行長は秀吉のもとに人質と貢物を出せば和議を結んで引陣

  ると朝鮮側に伝えて位いる。 かた、劉綖は行長の意向をくみ、会見して和議を結ぼう

  したが、明軍内部では、意見がまとまらなかった。

    9月20日、これより先、劉綖のもとへ行長の和議申し入れ状がとどいた。 ここで、劉
   綖は和議の会談と称して、小西行長を捕えようと画策した。 ところがこの日、会談の前
  発砲した民兵があって、行長はこれを怪しんで自陣に走入し、行長生捕りの画策は失敗

  た。
    10月1日から順天の攻撃が始まる。 この日、明水軍都督陳璘と李舜臣、及び権慄は提
  劉綖の幕営で作戦の打ち合せをする。

    翌2日、明・朝鮮連合軍は順天倭城を水陸から挟撃した。 明水軍都督陳璘は1000艘を
  率い、李舜臣の朝鮮水軍はその先鋒となった。 しかし、日本軍の銃撃が激しく、多
くの明
  兵と李舜臣配下の兵が戦死した。 ところが、戦意を喪失していた劉綖は号令を出
さなかっ
  た。 日本軍は浮足立った明軍を追撃し、飛楼・砲車など、明軍の武器をやいた。

   ここで劉綖と陳璘は明日、日本軍に夜襲をかけることを約束した。 
    10月3日夜、明・朝鮮水軍は麗水海峡に結集した。 陳璘は潮流を利用して日本軍を攻
  たが、劉綖はただ鼓奏相応するのみで兵を出さなかった。 陳璘の水軍は劉綖の陸兵が
既に
  順天倭城に入ったものと思い込み、争って城に登り戦闘を繰り広げた。 深夜に至り、
李舜
  臣は引き潮になったことを陳璘に告げたが、意気盛んとなった陳璘は、今夜こそ日本
軍を全
  滅させると息巻いて督戦を続けた。 ところが、初め満ち潮であった潮流が引き潮
となった
  ため、明水軍の船
20余艘が浅瀬に乗り上げてしまった。 日本軍はこれに攻撃を加え明水
  軍の船を焼いた。
   10月4日、陳璘は、劉綖の約束違反をせめた、一方李舜臣は日本軍を攻撃した。 5日
  び6日風が強く船を出すことができなかった。 7日、明・朝鮮軍は順天倭城を攻撃し
たが
  鉄砲と槍で撃退された。 8日、港の船囲いを襲撃したが、鉄砲の集中攻撃で城に近
ずくこ
  ともできなかった。 9日明軍は順天を撤兵し、順天倭城の攻防は明・朝鮮軍の失
敗となっ
  た。
 25-4 露梁海戦ろりょうかいせん 
   露梁海戦は慶長の役における最後の大規模海戦である。 慶長3年(1598)日本軍最左翼
   の要衝である順天城守備の小西行長は南下してきたみん・朝鮮軍の9月19日から10月4日
  渡る陸海からの攻撃を避け、
10月9日には明・朝鮮水軍も拠点であった古今島へ退いた。 
   その後、李舜臣は部下を集めて順天倭城に拠る日本軍の帰路遮断作戦を練っていた。 そ
   の作戦会議で軍官宋希立は次のような意見をのべた。 ①順天倭城は地形の有利な処に陣を
  
かまえており、力づくでこれを執ることは無理であること、②明・朝鮮両軍の水陸軍が一挙
   に順天に迫り、水軍が慶尚南道の海岸線に通じる拠点を抑えれば、日本軍を内外ともに拒む
   ことができる。 ③そうなれば泗川に拠る島津勢も小西等を救出することができない。 連
   絡が通じなければ、やがて小西等の兵糧も欠乏し、気力もなくなり、小西行長らを生捕りに
   することができよう、というのであった。
   李舜臣はその意見をとりあげ、陳璘に作戦を進言し、ともに猫島洋口に水軍を進め、慶尚
   右水使李純信に露梁の水路を抑えさせたのであった。 
   一方、小西行長ら順天在陣の日本軍は、朝鮮側から人質を受取って、1110日に釜山浦
  退くこととなっていた。 その期限に遅れた行長は
10余艘を先発させた。 13日先発の兵船
  が順天沖の獐島に差し掛かった。 ところが、それより先
11日、獐島の東にある柚に明・
  鮮の水軍が結陣しており、日本の先発船は撃退され、順天に戻ってしまった。 

   釜山浦に向けた先発船が明・朝鮮水軍に行く手を阻まれたことにより、行長は撤退の為の
   評定をもった。 その結果、明水軍都督陳璘とその副総兵鄧子龍へ使者を派遣し、提督劉綖
  との間に日本へ無事に帰国させるとの約束があって、人質も取っており、退路を保証して欲
  しい旨を申しいれた。

   これに対し、陳綖らは順天倭城の二の丸を渡すことを交換条件とした。 しかし、行長は
  、
帰国撤退の条件として既に劉綖に順天倭城すべてを渡すとの約束したことを述べ、宗義智
  の
拠る南海の倭城を渡すとつたえた。
   これには陳璘も鄧子龍も不満であった。 10月3日の海戦に死刀を尽くした彼等にして
  れば、そのとき戦意を喪失していた劉綖が順天倭城と武具・道具を受取、自分たちが南海

  城(端城)を受け取って、帰路撤退条件を呑むというのは許せなかったのである。 そこで
  彼らは、せめて二の丸なりとも渡さなければ小西等に海路を通さないと伝えた。 

   陳璘らのこの通告を巡って、小西は松浦・有馬らの諸大名と対策を検討した。 そこで、
   劉綖と陳璘は不仲であること、小西と劉綖との間の帰国撤退保障の約束を陳璘はしっていな
   い、ということがはっきりした。 しからば陳璘の望みはなにか、これも論議の的と今後の
   対策として、松浦・有馬は順天の包囲を強行突破することを主張したが、行長は全員の無事
  帰国が第一であり、知略をもってその方策を執るべきであると考えていた。
   その知略とは賄賂であった。 これより先、行長はすでに提督劉綖に賄賂を贈っていた。
   劉綖は陳璘に行長はまさに撤退しようとしており、それを拒んではならないと伝えたのであ
   る。 劉綖は暗に治璘への賄賂をほのめかした。 そこで行長は「銀貨・宝剣を以て、璘に
   遣わして曰く、兵貴くして血ちぬらず、願わくは我に道仮されんことを」と懇願したのであ
  る。
 ところが、李舜臣にもこの賄賂の誘いがかかる。 陳璘の持ちかけた相談に李舜臣は
  「将
は和を云うべからず、讐あだ(日本軍)は縦遺じゅうけん(逃がす)べからず、此の賊亦天
  朝赦し
難きの賊なり、しかるに大人(陳璘)反つて其の和を欲せん耶」と激怒した。 陳
  璘は黙し
たままであった。 かたや行長は李舜臣にも賄賂を贈ろうとした。 「行長、又は
  舜臣に宝
貨を遺わす、舜臣、怒り之を却けて曰く、讐賊、何ぞ敢えて爾しかせんや」と李舜
  臣はこれを
一蹴した。
   このころであろうか、行長は泗川の島津氏のもとへ一艘の小船を出した。 その船には順
   天の急を告げる小牒(連絡の文章)を持参していたことは言うまでもない。 陳璘はこれを
   黙認したのである。 李舜臣はこれを聞いて大いに驚いた。 
   かかる事態にいたって、李舜臣の軍官宋希立は次の様に進言した。 ①順天倭城の日本軍
   を撤退させるために、島津らの日本軍の救援があること。 ②順天を包囲した形で援軍に対
   処すれば、腹背に敵を受けることになるため、外洋に兵船を移して決戦すべきである、と
  うのである。 李舜臣はこの進言を聞き入れ、出撃をさだめ、これを陳璘につげた。 

   16日、島津義弘・家久は兵船を引いて泗川から昌善島に到着した。 ついで立花宗茂・高
   橋統増・寺沢正成・宗義智らも南海付近に行動を開始した。
   17日、島津義弘らの日本軍が南海から露梁に迫る。 これに対して李舜臣と陳璘は夜襲を
   企てる。 李舜臣は船上で、香を焚き天を祝してもしこの讐を殲(滅ぼす)すれば、死する
   もまた憾まず」と祈った。 李舜臣は兵船を左右に分けて日本軍を待機した。 この時、劉
   綖はすでに戦意を失っており、兵を動かさなかった。
   17日夜半、島津らの率いる兵船が露梁津の海峡にいたった。 ここで明・朝鮮の水軍は左
   右から砲撃を加えた。 ここに露梁の海戦が始まった。 激戦は天すでに曙となるまで続い
   た。 18日、激戦はこの日も続いた。 先頭に立って督戦する李舜臣の船を日本の軍船が囲
   む。 陳璘は危険を犯してこれを救った。 今度は日本の軍船が陳璘の船に襲撃を加え、陳
   璘は防戦にこれつとめる。 慶尚右水使李純信は日本の兵船10余艘を焼き李舜臣は大楼船に
   乗って督戦する日本の指揮官3人に襲撃を加え、その1人は倒れた。 日本軍はそれを見て
   陳璘の船への襲撃を止めて救援に駆け付けた。 ここで陳璘は記紀を脱する。 その跡銃弾
   が李舜臣の左脇にあたった。 李舜臣は部下に「戦いまさに急なり、我が死を言うなかれ」
   といい「急ぎ防牌を以てこれを蔽うを命じ、言終わりて(息)絶」えた。
   この会戦のさなか、行長等は順天からの脱出に成功した。 
  文献では双方が勝利として記述している。 しかし、明・朝鮮側は、待ち伏せであったに
  かかわたず、結局は小西行長軍をとりにがしてしまった上に日本側の将クラスの首級を一

  もあげられず、逆に李舜臣ら諸将を戦死させて失った。 一方、日本側は小西軍の撤兵は

  功さ出たものの、夜間の待ち伏せから開始された戦闘は終始不利であった。 双方の部隊

  も被害は甚大で、痛み分けであったといえるが、戦術的には苦戦を強いられた日本軍の勇

  が目立ち、しんがりの任を果して血路を開いて脱出して多数の捕慮をを得ようとしていた

  ・朝鮮の戦略の意図を破綻させた。

 

 



 参考文献
*豊臣秀吉             著者;山路愛山  、発行所;岩波文庫
*秀吉と京都  編集;京都文化博物館  、発行所;豊太閤四百年祭奉賀会豊国会
*豊臣秀吉天下人への道       著者;歴史と文学の会  、発行所;勉誠社
*豊国祭礼図を読む         著者;黒田日出雄  、発行所;KADOKWA
*フロイス日本史・豊臣秀吉扁    著者;ルイス・フロイス 、発行所;中央公論新社
*豊臣秀吉の朝鮮侵略        著者;北島万次  、発行所;吉川弘文館
*豊臣秀吉             編集・発行所;新人物往来社

 

 

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