京都と寿司・朱雀錦
(54)新日吉神宮

新日吉神宮拝殿

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                新日吉神宮拝殿

所在地 京都市東山区妙法院前側町451-1
主祭神 日吉山王七神(大己貴命、大山咋命、田心姫神、大山咋神荒魂、白山姫神、玉依姫神
       玉依姫神荒魂)、後白河天皇

                           1.概論
 永暦元年(1160)7月21日、後白河上皇の命により、新日吉神社は、新熊野本宮とともに後白
河上皇の御所法住寺殿の鎮守社として建設された。  

 法住寺は、永延2年(988)太政大臣藤原為光が、妻と花山天王の女御であった娘を相次いで失
ったおり、その菩提を弔う目的で寺院を創建した。 為光死後しばらくの間、法住寺は子孫によ
って守られていたが、長元5年(
1032)火災により焼亡した。 永暦2年(1161)為光が建立し
た法住寺の跡地に後白河上皇の御所を建立した、これが法住寺殿である。 その敷地は十余町、
広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所が作られた。 狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。 南
殿には上皇の住いとともに、東小御堂、不動堂、千手堂が起ち並び、広大な池もあった。 長寛
元年(
1163)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立された。 また
、新日吉神社と新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。

 平安時代の日吉信仰は熊野、八幡信仰と共に極めて盛んなものであった。 天喜元年(1053)は、我が国で
は、末世末法の第1年と信じられていた。 つまり、仏教伝来の欽明天皇の
13年(552という年を釈迦入
滅後
1500年目であると数えられていた。 我が国では、天喜元年の前年の永承7年(1052)をも
って釈迦入滅
2000年目、即ち像法時代の最終年と信じていたのである。 この永承7年に藤原頼
長は平等院の造営と阿弥陀如来像の造顕を果して亡父道長の極楽往生を確信して安心を得たので
ある。

 しかし、この時までに仏との縁が結ばれていなかった民衆は、末世末法の第1年に入ってから
は仏に見放された不安に怯えていた事であろう。 そんな時に新日吉の神が勧請されたと言うこ
とは、当時わが仏教界の重要な地位を占めていた天台宗の根本道場として鎮護国家を標榜した比
叡山延暦寺が、全宗を挙げての守護神と崇め奉った日吉山王七社の神々の威霊に頼ろうとする願
いが、急速に朝野の人々の心に昂まったからである。 熊野の神、八幡の神に対する願いも、修
験道や真言宗がそれぞれの守護神として崇めていたことから、ここに威一般的な強い信仰がよみ
がえったのである。


                          2.歴史
 永暦元年(1160)7月21日 後白河上皇の命により、円融房冣雲法親王が新日吉社の造営を開
  始した。
 7月22日 新日吉社 土木始め
 8月9日 新日吉社 上棟上。
  1016日、近江日吉山王七神を勧請し、新日吉社と命名した。
    初代別当(検校職)は、妙法院の僧・昌雲が任じられた。 以後、新日吉神社は妙法院の管
  轄にはいった。 境内は現在地の南、地積院南にあったとみられている。

 嘉応2年(1170)5月9日 後白河法皇は、新日吉小五月会を初めて行い、これに臨幸した。
  新日吉小5月会の由来
  文武天皇大宝元年(701)以来、毎年5月初めに宮中南殿に於いて駒引きの儀が行われていた
 ものが、平安朝に入って5月2日に定められた。 この儀を「小5月コサキ」と称
した。 然る
 に延喜
17年(917)に停止し、以後中断されていた。 それを後白河が復興したのです。
 室町時代、坂本の日吉猿楽から伝わったと「翁」の曲を観阿弥が最初に上演し、室町幕府第三代
足利義満(13581408)が、観阿弥・世阿弥父子の能を初めて見た地である。
  日吉大社の鎮座する近江には早くから猿楽座が存在したものと推定される。 
  南北朝から室町初期にかけて猿楽者の集団は座の体制を取るようになり、各地に猿楽の座が存
在した。 なかでも大和猿楽の四座と近江猿楽の六座がなだかく、ことに大和の
結崎座の観阿弥
・世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められたのである。 

  能楽「翁おきな」は、「能にして能にあらず」といわれ、まさに別格の一曲です。 どのカテゴ
リーにも属さず、物語めいたものもなく、神聖な儀式であり、演者は神となって
天下泰平、国土
安穏を祈祷する舞を舞います。

 「翁」は古くから伝わる曲で、その源流は謎に包まれています。 世阿弥は、風姿花伝に、「猿
楽の祖とされる秦河勝はたのかわかつの子孫、秦氏安うじやすが、村上天皇の時代(
10世紀)に、河勝伝
来申楽を六十六番舞って寿福を祈願したが、そこから三番を選んで
式三番(「翁」の別称)とし
た」という内容を記している。 

 世阿弥が記した式三番は、父尉ちちのじょう・翁(翁面とも)・三番猿楽という、それぞれ老体の
神が寿福を祈願して舞う三番の曲を指し、三番一組で演じられました。 後に父
尉は演じられな
くなり、現在は千歳・翁・三番三(三番叟さんばそう)の順に舞う形になっ
ている。
 「翁」は舞台上演前に始まります。 「翁」を勤める役者は、上演前に一定期間、精神潔斎の
生活を送り、心と体を整えて舞台にのぞみます。

 明暦元年(1655)後水尾天皇の勅により、新日吉神社を豊国廟参道の中央に移転改築して。廟
への道を閉塞した。 勿論幕府の企画した所である。
 慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉薨するや、19日荼毘に付し奉って、その分骨を阿弥陀ヶ
峰の西岳油山に葬った。 明けて慶長4年の4月、秀吉の廟に豊国大明神の
号を賜り、然して油
山の前方太閤坦に社殿を造営して豊国社を創建した。
 然るに創立よりわずか16年を経た元和元
年(
1615)の5月、大阪城は陥落、秀頼は切腹して豊臣氏が滅亡したのを機として、徳川家康は
、6月直ちに、豊国大明神の号を
停止し、やがて神官社僧を廃し社殿は自然の壊頽に任す事とし
た。

 明治2年(1869)神仏分離令に伴い、妙法院より独立した。
 明治29年(1897)豊国廟再建にともない、現在地へ再移転になる。
 昭和33年(1958)後白河法皇を増祀し、翌昭和34年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改
めた。
                        3.境内
1)本殿は、舞殿の奥側の階段を上がって、一段高くなったところに本殿などの主社殿がある。
  よくある形式であるが、本殿は端垣みずがき(本殿を囲む玉垣)・回廊に取り囲まれ、回廊の
 中
心部は軒唐破風のある拝殿となっている。 本殿は大きな片流造だ。 主祭神は、日吉山王
 七
神と後白河天皇である。 変わったところは、本殿向拝の梁の上と本殿前に魔除け真猿の彫
 り
物が飾られている。
2)舞殿 本殿前、階段下にある。
3)楼門 楼門とは、二階建で上部にのみ屋根が付く門の事をいう。 新日吉神宮の門は、門の
 両側に随神を安置した、桁行3間梁間2間の堂々とした八脚門である。 我が国の寺院では、
 院を守護する金剛力士を安置した門を仁王門という。 新日吉神宮の門は、金剛力士の代わ

 に随神・豊石窓神とよいわまどのかみと櫛石窓神くしいわまどのかみとが安置されています。

  両隋神は、日本神話に登場する神である。 古事記の天孫降臨の段で、天照大神の命により
 、
邇邇芸命ニニギミノミコトは葦原中国を統治するため高天原たかまがはらから地上に降りる際、3種
 の神器
(玉・鏡・剣)に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記されている。
  天石門別神あまのいわとわけのかみ(この神は岩戸隠れの段では見えない)は、古来より天皇の宮
 殿
の四方の門に祀られた神で、天太玉あめのふとだま神の子ともいう。 天石門別神の別名が、豊
 石窓
神と櫛石窓神で、豊石窓神と櫛石窓神は同神で御門の神として門の左右に祀られた。
  また天太玉神は、忌部氏(後には斉部氏)の祖の一柱とされる。 岩戸隠れの際、思兼神が
 考えた天照大神を岩戸から出すための索で良いかどうかを占うため、天児屋あめのこやね命と共に
  太占ふとまに(古代日本で行われていた獣骨を用いた占い)を行った。 天太玉神は天児屋命と
 共
に祭祀を司る神である。 岩戸隠れにおいて「古事記・日本書紀」では太玉命より天児屋命
 の
方が重要な役割をしている。 これは「古事記・日本書紀」が書かれた当時の齋部さいべ氏と
 中
臣氏の力関係を反映している。 齋部氏の齋部広成がかいた「古語拾遺」では、逆に太玉の
 方
が中心的な役割をはたしているという。
  楼門の前には参道がない、歴史の悲劇を物語っている。
4)狛猿  天満宮の神の使いは牛であり、春日神社の神の使いは鹿であるが、日吉大社の神の
 使いは猿である。 新日吉神宮の拝殿の前に一対の阿吽あうんの狛猿が座している。 「阿」が

 最初の音声で、全ての本源を象徴し、「吽」は口を閉じて発音する音声ですべての週末を象徴
 す
らと言われている。 日吉大社の神使猿は、真猿(まさる)=魔去る・勝るなどの意味を重
 ね
て、厄除けの御利益があると言われている。 
  新日吉神宮の狛猿は、金網の檻に入れられている。 京都御所の北東角だけ、塀が凹んでい
 、その軒下に木彫りの猿が祀られている。 この角は「猿が辻」と呼ばれ、この猿も金網に

 じ込められている。 陰陽道では、北東の方角を「鬼門」といって「邪気の来る方角」と考

 られており、「邪気封じ」の為と言われています。 京都御所の鬼門である東北の方向、京都

 市左京区修学院に天台宗の寺院赤山禅院がある。 表鬼門を守護するしるしとして、拝殿の屋

 根の上に鬼門除けの猿が置かれている。  この猿は、鬼門とは反対方向の西南を向き、御所

 の猿と対面しているという。 この猿も金網に入れられている。 なぜ、檻に入れられたのか
 、
  一つは、神の使いが盗まれないように、他の1つは、夜になると抜け出し、暴れたり、い
 たず
らを繰り返したため、懲らしめるため、金網の檻に閉じ込めたのであるという。
5)スダジイ 京都市指定保存樹
  本殿の東側にひっそりとたたずんでいる大木です。 幹周り4.2m、樹高15m、樹齢500800
 年、京都市指定保存樹である。

6)豊国神社(樹下神社このもとのやしろ
  慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉死するとその分骨を阿弥陀ヶ峰の油山に埋葬した。 
  ところが、元和元年(1615)大阪の陣で豊臣軍が敗北し豊臣家が滅亡した。
  元和5年(1619)5月、幕府は豊国社及び大仏殿一切を妙法院の管理とし、社殿は自然の朽
 廃に委ねることになった。 寛永
14年(1637)、幕府は遂に豊国社本殿を毀棄したが、什器や
 宝物類は多く妙法院に」運び込まれた。 丁度その頃、豊公の神体などは、極めて内密に新日
 吉社にはこびこまれ、神饌所しんせんしょ(神への供え物を置く所)に密かに祀られた。

  天明5年(1785)に、更に境内に社殿を造営して神霊を奉還して樹下社このもとのやしろと称した
 。
   天明7年(1787)正月18日にはこの樹下社に「社頭の祝」として豊国神(秀吉)が新日吉社
  境内に祀られたことを祝う御法楽若37首が献納されたという。
  樹下じゅげ社とは、日吉山王「上七社」の一つで、かっては十禅師社とも呼ばれ、主祭神大山
  咋命おおやまくいのみことの妻神(鴨玉依姫命かものたまよりひめのみこと)の別名とされている。 しかし、こ
 にある樹下社は、徳川幕府を憚って上七社の名をもって祭神秀吉公の姓「木下」にかけたも

 で、このような苦心の中で、秀吉公の神霊は幕府の目を盗んで密かに祀られ続けたのである。
   そして、公を祀っている樹下社の祠は小さくても江戸時代を通して絶えることなく神霊を祀
 り
得雨づけたというその意義は大変おおきいと新日吉神宮の由緒は記している。
  明治の時代になり、現在の豊国神社と豊公御廟が再興され、その影響を受けて、新日吉神宮
  が南に移されたが、樹下社も一緒に新日吉神宮境内に移され現在に至っているが、社名は豊国
 神社に変わっている。
7)愛宕神社・秋葉神社
  愛宕神社は、火伏・防火に霊験のある神社として知られている。 また秋葉神社も火防ひよ
 け・火伏の神として広く信仰されている。 後白河天皇が創建時に社殿などの火災除けにお祀
 りしたそうだ。
8)飛梅天満宮
  後白河天皇が菅公遺愛の飛梅の霊を菅公の神霊と共に祀った所で、洛陽天満宮二十五社第2
 番拝所。 道真公は、梅を愛し、飛梅伝説が出来たことから、梅を象徴とした梅鉢紋が多く用
 いられ、また牛にまつわる様々な伝承から、天満宮は牛を神使としており、境内には撫牛なでうし
 が多数置かれている。 北野天満宮と大宰府天満宮が信仰の中心となり、この二社に加え防府
 天満宮の三つの天満宮が日本三大天満宮と呼ばれる。
  その中で「菅公聖蹟二十五拝」とは、京都から大宰府までの道真に由緒深い25社を選んで巡
 拝する風習である。 また京都市内で25社選んだものが「洛陽天満宮二十五社」である。 
9)山口稲荷社
  稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀
 られる食物神、農業神、殖産興業神、商業神、屋敷神である。 氏子の繁栄を願って祀られて
 いる。

                           4.主祭事
 3月13日 後白河天皇祭
  後白河天皇は、平氏・源氏が相次いで興り、国内に争いが続く時代に、国民の安泰と幸福
 のために、産業と文化の発展に尽くされた。 皇位に即かれること3年、上皇(法皇)と
して
 院の御所で政治を行われること三十三余年にわたり、建久3年(
1192)3月13日に六十六歳で
 崩じられた。 毎年3月十三日の聖忌日に後白河天皇聖忌祭を新日吉神宮本殿、
法住寺御陵の
 御前で斎行致します。

 5月第1、2日曜日神幸祭 
  後白河上皇は、新日吉社を創祀された時、かって200年以上続いていた由緒ある宮中の行事で
 、当時中絶されていた「小五月会コサキノマツリ」を、新日吉社の祭として復興した。 

  大東亜戦争の為2年ほどの中断があったが、現在まで神幸祭の名前で継承されている。
  神幸祭は、5月第1日曜日と第2日曜日の二日に渡って行われる。 第1日曜日は、神幸
 「小五月の会こさぎのまつり」の始まりに当たり、舞・音楽・演武などを神様に奉納する行事
である。
 五月第1日曜日
13時~15時におこなわれる。 また観客にぜんざいが振る舞われる。
  5月第2日曜日は例祭である。 その昔小五月会こさぎのまつりと言って、九日に行われ、後鳥
 羽上皇などは常に行幸されたと伝わる由緒あるお祭りである。
  そして何よりも変わっていることは、正午の出立ちの時に、大鳥居前・日吉馬場にて 馬
 御供(御法楽)の儀が執り行われる時、神職だけでなく、お隣の妙法院の僧侶も加わって
馬場
 御供(御法楽)の儀という神仏混淆の祭事がことである。 神宮というのは、昭和
33年(1958
 )後白河天皇が主祭神として祀られため、翌昭和
34年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と
 改めた。 それ故の事だろうと思われるが、いわゆる明治の神仏分離以後は神
仏混淆の祭事は
 なくなり、栗田神社と青蓮院の夜渡り神事くらいしか見ることのない珍しい
行事となった。
  尚、江戸時代まで「神宮」を社号とする神社は、伊勢神宮、厳島神宮と香取神宮の三社の
 であった。 明治以降、天皇、皇族の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とす
る神
 社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めた。

 6月30日 夏越大祓
 1231日 大祓おおはらえ 
  大祓おおはらえは、6月と12月の晦日に行われる除災行事である。 犯した罪や穢れを除き去る
 ための祓の行事で6月の大祓を夏越の祓、
12月の大祓を年越の祓としごしのはらえいう。
  701年大宝律令によって正式な年中行事に定められ、朱雀門前で大祓詞のりとを読み上げ、
 民くにたみの罪や穢れをはらった。 応仁の乱の頃から行われなくなったが、江戸時代に再開。
   更に明治新政により「大宝律令の大祓」の旧儀の再興が命じられ全国の神社で行われるよう
 なった。
  私達が知らず知らずに犯してしまった罪や穢れを紙で作った人形ひとがたに託して祓い清める行
 事です。 人形に姓名・年齢を書き、それで身体を撫でてから神社に納めると、積・穢
れが払
 われると伝えられている。
  新日吉神宮拝殿祭では人形に記された方のお名前を全て読み上げて、神に祈りを伝えます。
  茅の輪くぐりは、茅草の輪を左回り、右回りと八の字に3回通って穢れを払う。
 1114日 火焚祭
  秋の収穫後に今年一年間の五穀豊穣への感謝をあらわす神事で家内安全・厄除開運など様々
 な願いが書かれた火焚串(護摩木)を焚き上げます。 

  まず15時より、本殿にて神事があります。 お祓いや宮司の祝詞のりと奏上がおわると、
 初に、湯立神楽ゆだてかぐらが行われます。 湯立神楽は、日本の伝統的な神楽の形式の一つ
で、
 煮えたぎる釜の前で、塩や米を撒き、最後にお酒をいれます。 こうして釜の湯を清め
ると、
 続いて「杓取の儀」を行い、天上界の水を汲み取り、釜の中に入れるしぐさをします。 

   この語、神前にお湯をお供えします。 いよいよ笹を使ってお湯を一面に振り撒きます、煮
  えたぎる釜の湯を撒き散らして邪気を払うのです。
  続いて、巫女神楽が始ります。 境内には大小二つの護摩壇があり、火が点けられ、二つ
 神楽中も焚きつずけられますが、後半は参拝者も護摩木を投入れることができます。


 参考文献
 * 新日吉神宮略史 著者 藤島益雄 発行;新日吉神宮
 * 日吉神社境内保存管理・環境保全計画書 発行;日吉大社
 * 日吉大社と山王権現






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