権現造
                京都と寿司・朱雀錦
(55)新日吉神社関連日吉大社


日吉大社・西本宮本殿(国宝)

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所在地 滋賀県大津市坂本5丁目
1-1
主祭神 西本宮;大己貴神おおなむちのかみ 東本宮;大山咋神
社格等 延喜式内社(名神大)、二十二社(下八社)、旧官幣大社、別表神社


               1.日吉大社の概要
 日吉大社は滋賀県大津市坂本にある神社で、延喜式内社(名神大社)、二十二社の一社、旧社
格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である。 

 全国約3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。 日吉大社は、多数の社からなる
巨大な神社であり、他に類例を見出しがたい複雑な構成をもっている。 日吉大社を構成する多
数の社は明治の神仏分離以後、社名を変更した。 神社の中心は現在の西本宮で旧称大宮、次い
で重要な社が東本宮で旧称二宮、この二社を両所という。 三番目は宇佐宮で、旧称聖真子とい
い、先の二宮と併せて山王三聖と呼ばれる。 四番目は牛尾神社、旧称八王子、五番目は、白山
姫神社で旧称客人、六番目は、樹下じゅげ神社で旧称十禅師じゅうぜんじ、七番目は、三宮神社で旧
称三
宮といい、以上の七社を山王七社ないし上七社という。 このしたには、中七社、下七社が
あり、
合計21社が日吉大社の主要な社である。 多いときには境内百八社、境外百八社あったと
言われている。 



                 2.歴史
1.東西二つの本宮
  日吉大社の創始は不明であるが、「古事記」以前の社である。 考古学的には周辺の日吉古墳
 群が6世紀とされているのでこのおびただしい群集墳とのかかわりが創建年代はすくなくとも
 この辺りまで遡さかのぼらせることが出来る。
  日本最古の歴史書「古事記」に「大山咋神おおやまくいのかみ亦の名を山末之大主神。 此の
 は近淡海ちかつおおみ国の日枝ひえの山に座し」とあるのが初見だが、これは日吉大社の東本宮の
 祭神・大山咋神についてしるしたものである。 日枝の大和は後の比叡山の事である。 崇神
 天皇7年(在位紀元前9729年・ただし3~4世紀に実在)に日枝山の山頂から現在地に移
 されたと言う。
  また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座いわくらを挟んだ2社(牛尾
 神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えら
 れている。 なお、三宮に対する里宮は樹下神社である。 
  大山咋神は、大年神おおとしのかみと天知迦流美豆比売アメノチカルミズヒメの間の子である。 名前のく
 は杭のことで、大山に杭を打つ神、即ち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神である。
 
比叡山麓の先住民(日吉古墳群を作った住民であったかもしれない)は磐座・金大巌こがねのおお
 い
又は八王子山(牛尾山)を「依り代」として当初は祀ていたのでなかろうか。
  西本宮の祭神大己貴神おおなむちのかみは、近江京遷都の翌年である天智天皇7年(668)、大津京
 鎮護の為、大和の三輪山の大御神から遷座された。 西本宮は、伝教大師最澄が比叡山入山後、
 延暦寺の守護神として位置づけられ「山王権現」とも称されるようになった。 この「山王」
 という号は、最澄が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化
 された地主「山王元弼真君」のおとである。
  こうして、旧来の産土神である東本宮よりも西本宮が上位の中心的存在となりました。 神
 に授けられた位階からみると元慶4年(880)、大比叡神(西本宮祭神)が正二位から正一位に
 昇進したのに対し、小比叡神(東本宮祭神)従五位上から従四位下に登叙された記録が残され
 ている。 そして平安時代前期にあたる仁和年間(885889)に宇佐八幡宮が勧請され、宇佐
 宮(旧称聖真子しょうしんし)が祀られ西本宮・東本宮・宇佐宮の三社で「山王三聖」と称されま
 した。 この三社の本殿のみが背面の軒を途中で切落としたような日吉造(別名聖帯造)と呼
 ばれる独特の屋根の形をしている。

2.山王七社が整う
  平安時代末期には三社に白山宮(旧称客人まろうど)・牛尾宮(八王子)・樹下宮じゅげ(十禅師
  ゅうぜんし
)・三宮(三宮)の四社が加えられた。 この頃、各7社とも神輿が揃ったと伝わり、現
 在との姿に近い山王祭が行われるようになったと考えられる。 
  七社は、西本宮系(宇佐宮、白山宮)の三社と東本宮系(牛尾宮、樹下宮、三宮宮)の四社
 に分かれ、山王祭でも神事ごとに関わる神輿が決まっています。 これは「七」という数字が
 重要で、」北斗七星と地の山王七社が対応すると考えられました。 この天台数学に基づく思想
 は、鎌倉時代に延暦寺の学僧光宗こうしゅうが編纂した「渓嵐拾葉集」けいらんしゅうようしゅうにも記されてい
 ます。  さらに、この七社を「上七社」とし、「中七社」「下七社」を加えた「山王二十一

 社」、境内の霊石や神木を加えて「社内百八社」、坂本周辺や京都付近まで合わせて「社外百八
 社」も定められていました。
  またこの頃、仏を本地とし神を衆生救済のための垂迹(生まれ変わった仮の姿)と考え「本
 地垂迹説」が盛んとなり、日吉社の祭神それぞれに本地物が配されました。 この様な神仏習
 合思想から日吉社境内の景観や本地仏の配置を描いた「山王曼荼羅」が多数作成され、信者の
 講などの場で本尊として用いられるになった。

3.恐れられた神威
  延久3年(1071)に後三条天皇が行幸したのを皮切りに、日吉社へは天皇や上皇が度々詣で
 るようになります。 特に後白河法皇は十数回も参詣しています。 これは平安時代中期以降、
 延暦寺の僧によって日吉社の神威が広く喧伝されるようになった。 その力を借りて延暦寺は
 南都や寺門との対立や荘園をめぐる受領との争いに際して、自らの要求を通すための強訴に日
 吉社の神輿を押し立て入京し、貴族等に恐れられました。 白河上皇のいわゆる「天下三不如
 意」(意のままにならない三つの事柄)に、鴨川の流れ、サイコロの目と並んで比叡山の山法
 師
が挙げられたことは有名です。 

4.坂本の盛衰
  中世の坂本は全国各地に設けられた延暦寺や日吉社の荘園から米などを琵琶湖の水運を利用
 して運び込む門前の港町として、更に諸物資を陸運で京に運ぶ交易の場として発展しました。
 応永元年(1394)三代将軍足利義満が日吉社に参詣した際の記録である「日吉社室町殿御社参
 記」には延暦寺と日吉社側でその準備にかかる膨大な費用をまかなうため、坂本に39軒もあっ
 た土倉」どそう(金融業者)に課税したことが記録されています。

  馬借ばしゃく車借の数も多く、馬や荷車による物資輸送が盛んであった。 坂本の馬借が、徳政
 令を要求して起こした土一揆の多くでは日吉社の社殿を占拠して、徳政令が行われなければ火
 をつけると幕府を脅す方法がとられたため、実施に放火される被害も幾度か受けた。
  応仁の乱(146777)以降は、京都から坂本に避難してくる公卿も多く、戦国の世となると
 生涯近江各地を転々とした12代将軍足利義晴の場合、計7回も坂本に滞在しています。 長
 引く動乱のなかで各地社寺と同様、日吉社に参詣者もまばらな寂れた姿になります。

5.比叡山焼討と日吉社
  元亀2年(1571)9月12日、織田信長は突如として比叡山を攻めた。 積年の恨みを晴ら
 すべく、根本中道、山王二十一社を始めとして山上山下の社堂仏閣はおろか山麓の坂本の民家
 商家に至るまで徹底的に焼き尽くした。 
  ここに至る経緯には、浅井朝倉勢と織田勢の対立を背景とする根深い政治的相克があった。
 信長の主張する所は、山門が、浅井・朝倉への加担を止めること。 そうすれば、諸国の山門
 領は元の通り還す。 もしこれを破れば、一山尽く焼き払う旨、その前年に通告したのである。
  これに従わなかった山門は通告通り一気に焼き落とされたのである。 この比叡山焼討は日
 吉社にとって、延暦寺以上に正に降って湧いた災厄であった。 当時日吉社は山門と一種の共
 同体をなしていたが、その枠組の下」とはいえ、全く災難というほかなかった。 神職行丸は、
 日吉社の総官として焼討に遭遇している。 社蔵の「日吉焼失兵乱記」「日吉兵乱火災之記」
 二
巻は、行丸の自筆と伝えて当時の状況を簡潔にきしている。
  この時大宮(西本宮)内陣にて参籠していたのは一﨟禰宜宣大蔵卿行丸、長子縫殿助行広、
 三﨟神司治部少輔資継・六﨟常陸介成前の四人であった。 予めからの通告といえ、全く意表
 を突いた攻撃であった。 無力に近かった延暦寺僧兵の大慌ての対応からみてもこのことが知
 れる。 
  払暁、一斉に、信長の船団は琵琶湖を渡ったのであるが、早尾社に日参する老父が発見した。
 叫びながら街に知らせたが、慌てふためくうちに坂本への乱入を許してしまった。 延暦寺の
 大衆・公人の防戦虚しくたちまち壊滅してしまった。 
  行丸達も殿内深く神の御側で参候するがまもなく織田の軍兵に押し入れられ、無法も恐れず
 内陣に乱入、四神職の上着、小袖、大小の腰刀など尽く剥ぎ取り、裸で放り出された。 一山
 の高僧が尽く首をはねられたのに比べれば、寛大な処置であった。

6.再建
  天正3年(1575)2月逃亡以来3年半にわたる諸国流浪の末に、神職行丸は、郷里に帰って
 はじめてみる社頭の後は茫々たる光景であった。 「日吉山王記」収蔵の覚書に切々とした行
 丸の心情が記されている。 いっそう再建への意志は塊まった。 祭祀の断絶を避けるべく、
 近郷の伊香立村八所神社において山王七社の神々を勧請した。 伊香立村は日吉大社のある坂
 本より北方約6㎞比叡山北麓に位置し、兵火の折も、先ず先ず行丸が逃れた場所である。 し
 かも、八所神社という社名の由来は、従来より祀られていた氏神に行丸が山王七社の神々を加
 えた所からきている。 そうしてここで取敢えず祭祀の断絶を回避すべく、仮の山王祭を斎行
 したのである。
  また帰郷半年後の天正3年8月に第1回の奏上、続く11月2日行丸は応胤親王に社頭再興の
 奏聞を行い、翌天正4年10月7日には、梶井宮、青蓮院、妙法院三門跡の添状を得て、勧修寺
 大納言の下に参上、社司解(上官に出す書類)を賜り一段と強力な陳情をおこなった。
  この後、本能寺の変に至る数年間の再建活動の拠点としたのは伊香立村であった。 山麓の
 復帰は、一山の僧侶達よりも行丸を始めとする社家関係者がいち早く帰郷している。 しかし、
 一段と封建支配の確立を強めていた、情勢の中では、一山は勿論の事、日吉社の復興は至難の
 技で、行丸による社司解は何れも退けられていた。 しかし、天正7年にいたって明智光秀が
 一時城主となった坂本城の浅野長政が材木を寄進して大宮の再建を助けている。
  天正10年(1585)6月2日織田信長は本能寺にて明智光秀の急襲を受け炎の中で自刃を遂
 げた。 これによって元亀2年以来12年ぶりに再建の最大障害が取除かれ、日吉社は比叡山と
 共に一気に復興へと向うのである。 
  まず日吉社に於いては凄惨な修羅場と化した境内に唐崎の清砂を運び社地に撒いて清めた。
 唐崎は大己貴神が初めて上陸された根源の霊跡であり、一社の故実として汚穢に触れた時、社
 人が御禊を行う場でもあった。 この砂を社地に敷く事は、御鎮座当初の根源に遡るつて祓い清め再出発
 という進行的意味があるのである。

  比叡山では全国に散っていた生き残りの僧徒が多数帰山し、山上山下の再建を企てている。
 この年1212日正覚院豪盛、南光坊祐能などが比恵山再興の勧進を全国に発している。 ま
 同日に毛利輝元が一切経を日吉社に寄進している。 同月青蓮院宮令旨りょうじを以て大宮起立
 
の事を達せられ,27日山王七社の仮殿が造立されている。 明けて天正11年には正親町おおぎ
 
まち
天皇より神体仏像彫刻の勅許が下され、大仏師法印康生のもとで造立することになった。
  山王祭も11年ぶりに復活されたが、唐崎神社は神輿に代えて大榊を以て執り行われた。 7
 15日令旨を横川三光坊に下し、聖真子しょうしんし(宇佐宮)再興を命じている。 天正12
 7月、各地で御供ごくう(供え物)に供する神領などを注進し、8月には浅野長政が社例に準じ
 て比叡辻分を寄進するなど日吉社の経済的基盤は徐々に回復されたのである。 

7.神仏習合
 (1) 日吉社に神宮寺が存在したことは「叡山大師伝」を始めとする最澄の伝記類に述べられて
  いる。 しかし、宗祖の生誕伝承との関わりにおいて天台宗内外に 認識してきた所である
   が、その実際の姿については不明な点が多くすべては伝承の彼方に埋没している。 周知の
   ごとく日吉社における仏教施設は明治元年の全国に先駆けとなって口火を切った廃仏稀釈に
   よって一挙に破却されたのであったが、神宮寺はそれ以前に既に失われており、近世以降に
   存在は確認できなかったようである。
 (2) 日吉神宮寺の創始とその前後
   日吉神宮寺存在をはじめて記す史料として仁忠にんちゅう撰「叡山大師伝」があげられる。
  仁
忠は最澄の直弟子にあたり、本書は、没後まもない830年頃に成立したと推定され、神宮
  寺
の最古の史料である。
   この神宮寺の存在した場所である。 「日吉社参記成尚」に神宮寺の存在を明確に記して
   いる。 必要な部分のみ簡略に順路を示すと、十禅師二宮八王子三宮矢取
  鞍御子
惣社神宮寺十一面大黒天神不動堂
  となっていて、実地に順路を巡ると、明らかに、現在の八王子背後の惣社付近に神宮寺が存
   在したことは疑う余地はない。
   その山中の場所は、はじめて草庵を作ったのが百枝(最澄の父)であり、のち仁忠の時代
   (天長の頃)に神宮寺禅院と呼ばれた施設であった。 
 (3) 神宮寺をめぐる動向
   日吉社が初めてその存在を記すのは「古事記」であるが、具体的なものが、大同元年
  (
806「勅により、比叡神に神戸十戸を加封す」とある。 この年日吉社は初めて経済的
  基礎があ
たえられた。 次いで「三代実録」に記す貞観元年(859)、大比叡神正二位、小
  比叡神従五
位に加列し、さらに天慶四年(880)、大比叡神正一位、小比叡神従五位上とな
  った。 小比
叡が従五位上にそのままであるのに対し、大比叡は20年余りを経て一挙に正
  一位に昇格した、
これは前期の通り延暦寺と古代氏族との関わりが当然予想される。
   こうして生まれた日吉社と延暦寺の関係は、神宮寺との存在とは別に更に具体的な展開を
   見せることになる。 仁和2年(886)円珍による光孝天皇の病気平癒の功に際して、年分度
   社を願い出、翌3年には勅によって大毘慮遮那ひるしゃな経業の神分、更に一人の一字仏頂
   輪王経業を小比叡神の神分に認めたのである。
   即ち民族的宗教の場たる神社において初めてささ屋かであるが、仏教的モニューメントた
   る塔婆(仏舎利を修めた墓)一機が建立され、年度分者を置くなど神祇接近は更に深まるこ
   ととなった。 一般的に神仏習合は本地垂迹理論の下で、いきなり参入、集合が図れるので
   はなく神前読経、年分度者の常置など神祇礼拝を重ねた上でまず社頭の塔婆建立とぃった小
   さな事実の積み重ねが行われる。 
 (4) 習合の実態
   日吉社における仏教化のきざしは、伝教大師の父三津首百枝みつのおびとももえが籠った草庵
  あた
りにあり、それを更に神宮寺として成立せしめたのは大師ないし弟子達に求められる。
  そ
の後9世紀後半より進展してきた神仏習合化の現象は山麓に於いて目覚ましい展開をみせ
  る。
   こうして山麓における多様な仏教施設の造立や法儀の創始は、当初に担った神宮寺の機能
  、
役割を山麓の日吉社周辺へ移したのであった。 ここにおいていわゆる「神宮寺」の概念
  は、
一寺よりなる単一施設より、金堂、多宝塔、護摩堂、夏堂しょうどう、彼岸所、本地堂な
  ど多様
な施設を包摂した広い視野で理解させねばならない。 すなわち当初の「神宮禅院」
  は中世
において多様な諸施設の一部に過ぎない。 これらのスベテを含む広義の「神宮寺」
  は、日
吉社の神殿と共に広大な地域において、あらたな形態として完成を見るのである。 
   その代表例として奈良国立博物館蔵、山王宮曼荼羅を挙げることができる。 この一幅の
   画面に八王子山を大きく描き山王七社を中心とした山王百八社、堂塔の全てが濃い密度で描
   き鳥瞰されている。 ここではすでに山上の神宮禅院は確かめられず、山麓おいて展開を見
   た神仏習合の実態が描かれている。
   a)    根本多宝塔 
      「天台座主記」に、伝教大師入滅120年後、早くも日吉社における造塔として画期的
    意味を持つ、根本多宝塔が天慶5年(942)に創建されたと記されている。 当初の物は延
    慶元年(1308)の塔下彼岸所出火によって被災、元徳元年(1329)に再興されるも再び元
    亀2年(1571)の信長焼討により失われ復興うみなかった。
   b)    金堂
     大宮川ぞいの小高い台地上、西本宮をやや見下ろす位置にあった。 この付近は現在石
    塔一基のみであるが、金堂は華麗な七重塔、多宝塔、社家祈祷所などと共に、大宮周辺に
    おいて最も仏教色の濃密な地帯を形成していた。 創建年次は不明だが、鎌倉後期には存
    在した。 中世末の状況を描いたとされる「行丸絵図」によって凡その構造をことができ
    る。
  c)  七重塔
    大宮の西山林に在って「行丸絵図」では各層の間に朱の高欄を巡らして華麗な姿を描い
    ている。 徳治元年(1306)七重塔焼失のこととみえる。
   c)     大宮多宝塔
    「行丸絵図」によれば石造宝塔と七重塔の間にあり、密教建築の典型的な多宝塔の様式
    である。
  d)西本宮石造宝塔

     西本宮の左手山林中に現存する石造宝塔で、神仏分離による破却から例外的に免れたもの
    である。 造塔の時期は不明であるが鎌倉時代のものと推定される。
   e)護摩堂
    大宮と客人宮の二か所に存在した。 「行丸絵図」に描かれた二つの護摩堂は、ともに
    元亀の兵火で焼失しその後復興はなかつた。
   f)夏堂
    山王七社にだけ付属していた施設で。 元亀の兵火で焼失しその後復興しなかった。
  
 建築としては単独で独立したものでなく彼岸所と複合・併用されたものであったらしい。
   g)本地堂
      聖真子堂の付属施設で「念仏堂」とも呼ばれた。 元亀の焼討で焼失した。 近世に
    はいり彼岸所などと共に復興した。 しかし、明治の徹底を極めた廃仏稀釈で全て焼却さ
    れた。
   h)地蔵堂
     「行丸絵図」では「地蔵院」と記されている。 東本宮参道西側にあった。 
   i)     山上の神宮寺
      断片的資料で連続して把握できないが、最終的に焼討によって壊滅したとみられる。
 (5) 神仏分離
   神仏分離は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり別
   させること。 その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒
   教や国学や復古神道に伴うものをさし、狭義は明治維新政府により出された神仏分離令{正
   式には神仏判然令。 慶応四年3月13日(1868年4月5日)から明治元年1018日(18/68
   12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総
  称}
に基づき全国的に行的に行われたものを指します。
   明治の神仏分離の際、再び日吉社は厄災にみまわれます。 慶応4年3月、それまで延暦
   寺の管理していた本殿の鍵を社司に引き継ぐよう通達が出されましたが、衆議での決着がな
   かなかつかなかった延暦寺側はこれにすぐ応じませんでした。 業を煮やした社司の主道で
   武装した集団100人余りが社殿に乱入、本地仏や仏具・経巻など数千点を焼却したのである。
   現在、参道(日吉馬場)両側に並んでいる44基の常夜灯は、この騒ぎの中で社殿の前から
  運
び出して移建されたものである。 
   分離の経過の中で、延暦寺との実質的な関係を絶ち、神社として独立した体制を取ること
   となり、明治4年(1871)には官幣大社に列した。 明治8年(1875)には、古事記の記述
   にある大山咋神を従来の大宮(現在の西本宮)に祀り、大宮に祀られた大己貴神を東本宮に
   移し、他の社殿でも祭神を容れかえた。 祭神と社殿の関係は昭和17年(1942)に復元し
   た。


                           2.建造物 
1・概要
  日吉大社は古代からの由緒をもった社であり、特に平安時代か中世にかけて比叡山延暦寺と
 一体となって巨大な神社に発展した。 延暦寺・日吉大社はその強大な勢力のゆえに元亀2年
 1571)織田信長による焼討を受け、全ての建造物は消失した。 その後、桃山時代から江戸
 時代にかけて再建された多くの建造物が社殿を構成する中心的建造物となっており、主な建造
 物は、国宝・重要文化財に指定されている。 明治維新で廃仏稀釈が行われ、若干の建造物が
 失われたが、総数からいうと社殿景観を大きく変えるほどの変化はなかった
  江戸時代以前の建造物に関しては、元亀2年焼失依然と以後の二時期に分けて考える必要が
 る。 現在の社殿の木造建設は全て元亀以後に再建された物であるが、絵画資料が何点かあり、
 文献資料と合わせてかなり詳密に中世の社殿を知ることができる。 代表的な絵画資料として
 は次のものがある。 
      A 「山王宮曼荼羅」      B 「日吉山王参社次第」
          C 「日吉神社社頭絵図」    D 「秘密山王曼荼羅」
  A「山王宮曼荼羅」は近年重要文化財になったもので、南北朝期14世紀のものとされている
 文安4年(1447)の銘がある。 中世日吉社の社頭景観を描く最も古くかつ精密な描写の絵画
 史料である。

七社

旧称

現社名

祭神

本殿形態

所在・拝殿

 

 

大宮

西本宮

大己貴神

日吉造+下殿

方三間

二宮

東本宮

大山咋神

日吉造+下殿

方三間

聖真子

宇佐宮

田心姫神

日吉造+下殿

方三間

八王子

牛尾神社

大山咋神荒魂

庇前室三間社流造+下殿

懸造

客人

白山姫神社

白山姫神

庇前室三間社流造+下殿

方三間

十禅師

樹下神社

鴨玉依姫

庇前室三間社流造+下殿

東本宮方三間

三宮

三宮神社

鴨玉依姫荒魂

庇前室三間社流造+下殿

懸造

 

 

大行事

大物忌神社

大年神

庇前室三間社流造

被蓋本宮

牛御子

牛御子社

山末之大主神新魂

厨子、切妻、妻入

牛尾神社

新行事

新物忌神社

天地迦流水姫神

一間社流造

東本宮

下八王子

八柱神社

五男三女神

新築

東本宮

早尾

早尾神社

素戔嗚神

庇前室三間社流造

境内

王子

産屋神社

鴨別雷神

一間社流見世棚造

境外

聖女

宇佐若宮

下照姫神

一間社流見世棚造

宇佐宮

 

 

小禅師

樹下若宮

玉依彦神

一間社流造

東本宮

大宮竈殿

竈殿社

奥津彦神・奥津姫神

新築

西本宮

二宮竈殿

竈殿社

奥津彦神・奥津姫神

新築

東本宮

山末

氏神神社

鴨建角身命・琴御館宇志麿

新築

東本宮

岩瀧

巌滝社

市杵島姫命・湍津島姫命

新築

東本宮

剣宮

剣宮社

瓊々杵命

一間社流見世棚造

白山姫神社

気比

気比社

仲衷天皇

一間社流見世棚造

宇佐宮

2.中世の社頭
  中世の社頭については奈良国立博物館所蔵「山王宮曼荼羅」が絵画史料郡中最も最密な建築
 物が描写されている。 この絵には主要な神社名の書き込みはあるが、付属建物に関しては詳
 密な描写は行われているものの名称が書き込まれていない。 付属建物の道程には、桃山時代
 の再建期に祝部行丸が作成した「日吉社神道秘密記」を近世になって増補した「日吉山王秘密
 社参次第記」をもって同定できる。 

3.近世の社頭
   元亀2年の焼討で建造物自体は失われたが、現在の社殿の多くは位置、形状とも概ね中世の
 状態を崩さずに再建されている。 つまり、主要社殿の社頭構造は大きく変化していないとい

 える。 もっとも大きい変化は、山王二十一社などの有力社に付属して建てられていた彼岸所、
 夏堂、護摩堂などの施設が一切再建されなかったのである。 彼岸所は「日吉社神道秘密記」
 では16ヵ所を数え、かなりの規模のおおきさである。 その跡地は現在も空地となっていると
 ころが大半である。
  日吉社では、いち早く慶応4年(1868)に神仏分離が断行され、仏教的施設、仏像、仏具、
 経巻などが破却された。 この時念仏堂(本地堂)、経蔵が破却された。 

4.境内
  日吉大社は東西両本宮を中心に数多くの社殿が鎮座している。 全国に3800余社の分霊社
 があり、その総本山である。 世に云う山王二十一社とは、上7社・中7社・下7社の総称で
 あり、その中でも上7社は重要な位置を占めている。 すなわち西本宮を筆頭に、東本宮・宇
 佐宮・牛尾宮・白山宮・樹下宮・三宮宮と続き、それぞれに神輿を有する。 境内には八王子
 山(牛尾山)を含む13坪(40)で、国宝二棟(西本宮本殿・東本宮本殿)、重要文化財17
 棟(・西本宮拝殿・西本宮楼門・東本宮拝殿・東本宮楼門・日吉三橋・宇佐宮本殿・宇佐宮拝
 殿・樹下神社本殿・樹下神社拝殿・白山姫神社本殿・白山姫神社拝殿・牛尾神社本殿・牛尾神
 社拝殿・三宮神社本殿・三宮神社拝殿・東照宮本殿・日吉山王金銅装神輿7基)を有し、日吉
 神社境内は国指定の史跡である。 
  かっては境内百八社・境外百八と言われ境内並びに坂本の町々までもが神々の一大拠点であ
 った。
 (1) 西本宮本殿(国宝)・拝殿(重要文化財)
   西本宮本殿本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造ひえずくり、下殿付、檜皮葺の建物である
  。 日
吉造は、一名を聖帝造しょうたいづくりともいい、全国では、日吉大社にだけ見られる特殊
  な構造で
ある。 つまり、三間二間の身舎もやの前面側面の三方に廂が巡らされた形で、側
  面や背面に
その特徴を見せています。 また正面には、一間の向拝(屋根の一部が前方に突
  出し礼拝のた
めに使用される部分)と浜床(向拝の下に用いられる低い床)をつけ、縁高欄
  が周りをめぐら
しています。 床下は下殿となっているため床がやや高くなっています。 
  天正14年(1586)に復興されたものだが、慶長2年(1597)改造されています。 昭和36
  (
1961)に国宝に指定された。
   西本宮拝殿、この拝殿は、方三間(桁行三間、梁間三間)、一重、入母屋造、桧皮葺、妻
  入り
の建物です。 柱間は四方とも開け放して、屋根の妻飾り(屋根の三角部分)は木連格
  子
きつれこうし(縦横の細かい格子)、回り縁は高欄がつき、天上は中央が一段と高くなった折
  上小組格天
おりあげこぐみごうてんじょうとなっている。 日吉大社の他の同じかたの拝殿のうちで
  は一番手の込ん
だ構造となっており、天正14年(1586本殿と同時に建てられたものであ
  る。
 昭和39年(1964)5月重要文化財に指定された。
 (2) 西本宮楼門(重要文化財)
   楼門とは、二階建で階上に縁があり、屋根は上の一つしかない形式の門のことでる。 西
   本宮楼門は、三間一戸さんげんいっこ(戸とは出入り口のこと)入母屋造、桧皮葺の建物です。 木
   部は丹塗にぬりを主としたもので、上下の釣り合いが良く、樹の緑によく映えます。 四隅の
   棟木に神猿の彫刻、前後に極彩色の蟇股があります。 これは四方魔除けの猿、棟持ち猿と
  呼ばれるもので、その謂れは、一家の四方の魔を払いさることによって棟木が上ると言うこ
  とで、これは繁栄することを意味します。 日光東照宮の三猿も同様のものです。 確実な
  史料ないが天正
14年(1586)頃に造営されたものと推定されています。 大正6年4月くに
  の重要文化財に指定されました。
 (3) 東本宮楼門(重要部下財)
   この楼門は、三間一戸さんげんいっこ楼門の形式で、入母屋造、檜皮葺、縁付の建物で、斗栱とき
    ょう
は上下層とも三手先みてさきとなっています。 三間一戸とは、柱間三つのうち中央の一つ
  が出入り口となっているものを言い、楼門とは、二階造つくりの門で、屋根が二階の部分だけ

   
にしかなく一階の上に縁がある型式をいいます。
   西本宮楼門とは、やや違った]比例を以ていて、どちらかといえば一階部分が高く、二階部
   分が低いので、すらっとした均斉のとれた建物で、天正~文禄2年(15731593)頃に建て
   られたものです。 大正12年(1923)3月国の重要文化財に指定されました。
 (4) 東本宮本殿(国宝)・拝殿(重要文化財)
   東本宮本殿は、桁行5間、梁間三間、日吉造・檜皮葺の建物です。 日吉造は、一名を聖
   帝造しょうたいづくりともいい、三間二間の身舎もやの前面両側面の三方に廂が巡らされた形をし、
  側面や背面が特徴のあるものとなっています。 この様式は、全国では、日吉大社にのみ
  現存し現存している形で重要なものです。
   東本宮本殿は、西本宮本殿とほぼ同様の造りですが、背面の三間の床が一段たかくなって
   いるのは、ことなる所です。
   文禄4年(1595)に西本宮本殿に引き続いて復興された日吉造の代表建築です。 昭和36
   年(1961)4月国宝に指定された。
   東本宮拝殿は、本殿の前に独立する方三間、一重、入母屋造、檜皮葺、妻入の建物です。
   四方の柱間は吹放しで屋根の妻飾には木連格子をいれています。 また廻り延には高欄が
   つき、天上は小組格天井となっています。 「文禄5年3月吉」の墨書がある天井の格縁ごう
   
ぶち
が1本残されていて1596年頃の建築であることがわかります。 昭和39年5月29日国
  重要文化財に指定された。

5)樹下神社本殿(重要文化財)、拝殿(重要文化財)
   この本殿は、三間社流造さんげんしゃながれづくり、檜皮葺、の建物で、後方三間・二間が身舎もや
  の前方一間通しの庇が前室となっています。

   数ある流造のなかでも比較的大型のもので、床下が日吉造と共通の下殿方式であることや
   向拝階段前に吹寄格子ふきよせこうしの障壁しょうへきをたてているのは、この本殿の特色となっていま
  す。
   文禄4年(1595)に建てられたことが墨書銘によってわかりますが、細部の様子も同時代
   の特色をよく示し、格子や破風はふ、懸魚げぎょなどに打った飾り金具は豪華なものです。 明
   治39年(1906)4月に国の重要文化財に指定されました。
   拝殿は、桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。 方三間と
   言われる拝殿ですが、他とは、柱間が四方とも格子や格子戸となっている点が異なっていま
   す。屋根の妻飾りは木連格子、天井は小組格天井、回り縁は高欄付きとなっていて、本殿と
   同じく文禄4年(1595)に建てられたものです。
   なお、樹下神社の拝殿の本殿を結ぶ線と、東本宮の拝殿と本殿を結ぶ線が交わるのは珍し
   い。 昭和39年(1964)5月に国の重用文化財に指定されました。
 (6) 摂社宇佐宮本殿(重要文化財)、拝殿(重要文化財)
   この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。 西本宮本殿、東本宮本
   殿と同じ日吉造の典型的なもので、三間・二間の身舎もやの前面、両側面に一間の廂をめぐら
   し、側面や背面に特徴があります。 他とは、ほとんど同じですが、正面の階段前に吹寄格
   子を入れた障壁が設けてあるのが大きく異なります。
   慶長3年(1598)に建てられたものです。 明治34年(1901)8月国の重要文化財に指
  されました。
   拝殿は、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、桧皮葺の建物のです。 典型的
   な方三間拝殿形式をとっています。 四方の柱間は四方とも開け放しで、回り縁には高欄が
   付、天井は小組格天井、屋根の妻飾りは木連格子となっている。
     慶長3年(1598)に建てられたもので、本殿と同じ時期のものである。 明治39
  (
19645月に国の重要文化財に指定された。
 (7)  摂社白山姫神社本殿(重要文化財)・拝殿(重要文化財)
   摂社白山姫しらやまひめ神社本殿は、三間社流造、檜皮葺の建物で三間・二間が身舎もや、その
   前方一間通しの廂が前室となっています。
   この本殿と樹下神社本殿とは、ほぼ同形式となっているが、装飾金具が少なく簡素な造り
  で地味な落ち着いたなかにも、各部の意匠に意を配った建物である。 また、向拝は一間で
  、浜床付、前室の正面は蔀戸しとみどとなっています。

   慶長3年(1598)に建てられました。 明治39年(1906)4月に国の重要文化財に指定
  れました。
   拝殿は、方三間、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。 四方の柱間は、四方
  と
も開け放しで、回り縁には高欄が付、天井は小組格天井、屋根の妻飾りは、木連格子とな
  っ
ている。
   慶長3年(1598)に本殿と共に建てられたものである。 明治39年(1906)5月に国の
   重要文化財に指定されました。
 (8)  摂社牛尾神社本殿(重文)・拝殿(重文)
   本殿は、三間社流造、檜皮葺。 拝殿は、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮
   懸造かけづくり(舞台造)となっている。
   拝殿が後部にある本殿正面縁を取り込むような形になっていて、崖上に建てられ、拝殿の
   入母屋造の妻を正面としていますが、入口は左側に設けられ、軒唐破風がつけられています
  。
 ともに、文禄4年(1595)に建てられたもので、桃山時代の特色を良く粟らしています
  。
 明治40年(1907)8月、本殿・拝殿ともに国の重要文化財に指定された。
 (9)  摂社三宮神社本殿(重文)・拝殿(重文)
   本殿は、三間社流造、檜皮葺。 拝殿は、桁行四間・梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺
   懸造(舞台造)となっています。
   この二棟は、拝殿が後部にある本殿正面の廂を取り込むような形になっていいて、崖上に
   建てられ、拝殿の入母屋造の妻を正面としていますが、入口は右側にもうけられ、軒唐破風
   が付けられています。
   ともに、慶長4年(1599)に建てられたもので、桃山時代の特徴を良く現しています。
   明治40年(1907)8月本殿・拝殿とのに、国の重要文化財に指定された。
 (10) 金大巌こがねのおおい 
   古くから、坂本地区住民は、海奈備山かんなびやま(神の鎮座する山)崇拝されて生きた八王
  山(標高
378m)の山頂近くに「金大巌こがねのおおいわ」と呼ぶ大岩がある。
   神が降臨する聖なる磐座いわくらで、「歓喜天霊石八王子権現、此の大岩へ天降り玉ふ水徳
  の
神にしてまします。 故に相生の理を以て金の大岩と名く」(日吉神社秘密社参要禄)と
  ある
ように、日吉大社の根元となる聖地である。
   「水徳の神」とは、山の神は生命の維持に必要な水を司る水神あることを指し、「相生の
  理」
とは陰陽五行説にいう「金生水」の理を指す。 磐座に天降った神は山の神であると共
  に水
の神でもあり、陰陽五行説で「水は金から生まれる」(いわの割れ目から水が湧く出す
  ことを
指す)から金大巌、ということか(五行説では、相生の理=木生火、)火生土、土
  生金、金
生水、水生土の原理によって、万物は循環するという。)
   琵琶湖を望んで東を向いていることから「朝日輝く金大巌」とも呼ばれてきた。
 (11) 三宮宮遥拝所・牛尾宮遥拝所
   遥拝とは、遠く離れた所から神仏などを拝むことである。 境内から牛尾神社・三宮神社
   のある奥宮までの距離は、約1kmの道のりで、徒歩で片道およそ30分かかり、容易に行け
   る場所ではない。 そのため八王子山登山口の両側に三宮宮遥拝所・牛尾宮遥拝所の2つの
   遥拝所ようはいじょがある。
 (12) 日吉山王金銅装神輿7其(重要文化財)
   山王7社(上7社)すなわち西穂宮、東本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山姫宮、樹下宮、三宮
   宮の7社はそれぞれの神輿を有している。 7社の神輿は度々造り替えられ、現存のものは
  元亀2年(1571)の織田信長による山門焼討の後、順次新造されたものである。 それぞれ
   形姿を異にしているが、桃山、江戸初期の金工の再興技術つくし精巧かつ華やかな造りがほ
  どこされている。 西本宮のそれは、上部には波形に起伏をもたせた屋根を持ち、その上に
  はばたく鳳凰をのせ、下部は高欄を巡らした豪華な造りで、まさに動く神殿の様相をていし
  ている。
 
(13) 山王鳥居(滋賀県指定文化財)
   鳥居形式の一つ、基本は明神鳥居から建立されているが、柱の根元を板や竹で巻き付けて
   ある。 明神鳥居の笠木かさの上の中央に棟柱を立て、木材を合掌形に組渡し、そ
  の頂上に烏頭からすがしらという反りのある木を置いたもの。
   日吉大社の別名は山王さんとよばれ、山王さんの鳥居だから「山王鳥居」と呼ばれている
  。 
明神造りの鳥居の上に山型の破風が取り付けられ、調和のとれた美しい形で「総合鳥居
  」とも呼ばれている。 これは全国唯一のもので、山王とは縦横三本の線を縦横一本の線で
  結んだ字が、山王であるという深い神の教えが含まれているという。 即ち山王の教えと字
  を鳥居に形象したものが、この鳥居です。
 (14) 日吉三橋(重要文化財)
   日吉大社の境内を流れる大宮川に架かる三基の石橋(大宮橋、走井橋、二宮橋)は日吉三
   橋と呼ばれ日本最古の石橋で、国の重要文化財に指定されている。
   大宮橋は、西本宮へ向かう参道の大宮川に架かる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形
  式をそのまま用いています。 幅5m、長さ
13.9mで、川の中に12本の円柱の橋脚をたて、
  貫ぬきで繋ぎ、その上に三列の桁を置き、桁上に継材を並べ橋板を渡しています。

   両側に格座間こうざまを彫り抜いた高欄をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでお
   り、豪壮雄大は構造の代表的な石橋です。 天正年間(15731592)豊臣秀吉が寄進したと
   伝えられているが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文9年(1669)のことです
  。
  大正6年(1917)8月、日吉三橋の一つとして国の重要文化財の指定をうけました。
   走井橋は、大宮橋のすぐ下流に架かるお祓いをするための石造反橋です。 日吉三橋の中
   で最も簡素な構造で、幅4.6m、長さ13.8mで、川の中に方柱の橋脚をたてますが、その数
  6本と少なく、また、桁も省かれ、橋脚の頭に継材をおいて橋板をかけています。 橋板

  反りをつけることで、軽快な感じをよく出しています。 

   走井橋の名は、橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来します。 天正年間
  (
15731592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられているが、木橋が現在の石橋に掛け替えられ
  たのは、
寛文9年(1669)のことです。 大正6年(1917)8月、日吉三橋の一つとして国
  の重要文
化財の指定をうけました。
   二宮橋は、東本宮(二宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩製の石造ですが、木造橋
   の形式によって造られたものです。 川の中に12本の円柱の橋脚を立て、その上に三列の桁
   を置き、桁上に継財を並べ橋板を渡し、両側に高欄を付けている。 上流に架かる大宮橋と
   ほぼ同規模で、幅5m、長さ13.9mを測りますが、構造はより簡単で、橋脚の貫もなく、高
  も板石と擬宝珠付親柱で構成されています。 天正年間(
15731592)豊臣秀吉が寄進し
  と伝えられているが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文9年(
1669)のこと
  す。 大正6年(
1917)8月、日吉三橋の一つとして国の重要文化財の指定を受けました。
 (15) 日吉東照宮(重要文化財)
   徳川家康を祀る東照宮は日光東照宮をその代表とするが、東照宮連合会に加盟する神社は
  全
国に40数社ある。 比叡山の麓、大津市坂本の日吉大社の南300m程の所にも絢爛豪華な
  日吉
東照宮がある。 比叡山の天海僧正が創建したもので明治の御世までは延暦寺の管轄下
  にあっ
た。 明治以降は、神仏分離令の施行により日吉大社の管轄となり、明治9年
  (
1876)に日吉大社の末社に指定され今日至っている。
   当社は規模や豪華さにおいて日光とは比較にならないが、「西の東照宮」と称され注目さ
  れるのは、日光東照宮改築に際して、その雛形として日吉が造営されたと見られているから
  である。 
東照宮の建築様式は「権現造」を特徴とするが、それは雛形として造られた日吉
  東照宮が発祥とされている。
  権現造とは本殿と拝殿を「石の間」で繋ぐ建築様
 式である。 平面図は工の字のになる
配置である。
  徳川幕府が全国各地に東照宮を建立し徳川家康を
 神格化、東照大権現として祀ったこと
から権現造と
 呼ばれるようになった。
  日吉東照宮が日光東照宮の雛型と言わる次のよう
 な経緯からである。
 
 1616 4月家康没、遺言に「我亡き後は、先ず
        久能山に葬り
,一周忌を経て日光山
        に移せ」

  1616 5月久能山東照宮着工 同年完工、遺言通
        り、遺骸を久能山に葬る。

  161611 月日光東照宮着工。
  1617 3月日光東照宮創建、遺言に従い4月の一
        周忌を期に家康の遺骸を日光へ移す。

  1623 9月日吉東照宮を造営
  1634年    日吉東照宮再建に着工、家光上洛途次に天海僧正に命じ権現造を考案させる。
  1634 7月日吉東照宮落成(現社殿)。 造営からわずか11年の歳月で再建に着工、1634
            年秋の日光東照宮大造替の着工前に間に合わせて権現造新社殿を完成してい
            る。 日光の雛型として再建された言われる所以である。
  163411 月日光東照宮の再建に着工、権現造を採用。
  1636 4月日光東照宮完成、「寛永の大造替」と言われ、今日の姿を築く。
  天海僧正が考え出した権現造は、石の間が拝殿、本殿より一段低く設計され、祭典奉仕者が
  祭神に背を向けて奉仕しても非礼にならないよう配慮したものとされる。
  祭神は、三柱で、中央に徳川家康公、相殿神として右手に日吉大神、左側に豊臣秀吉が祀ら
  れている。 この相殿神は日光東照宮では源頼朝公と秀吉公、久能山東照宮では織田信長公と
  秀吉公であり、何故秀吉公が共通して祀られるか不思議である。
(16) 大政所おおまんどころ(別名;宵宮場)
  正面五間を有する大きな建物で、五間ある社殿内は吹き抜けとなっている。 当所は、山
 祭の行事「宵宮落し」の舞台となる御旅所で、4月
12日の夜、東本宮・樹下宮・牛尾宮・三宮
 の神輿4基が山上より当所に担ぎ込まれて壇上に並べられ、同
13日、末ひつじの神事などの神事
 の後、夕刻から「宵宮落し」の祭祀が行われる。 

  そこでは、公人が掲げる大松明の光の中で、大政所壇上での駕輿丁かごちょうによって4基の
 輿を上下左右に振りあげ振り降ろす神事や獅子舞・田楽舞などの舞楽の後、4基の御輿を
大政
 所の壇上から地面に振り落すという荒々しい神事が続き、落された神輿はただちに担ぎ
上げら
 れて、先を争って西本宮に担ぎこまれるという。
  ここで、神輿を振り上げ振り下す所作は、若宮(王子)の誕生を促すとともに出産の神通
 表し、最後に神輿を振り起すのは若宮の誕生を意味するという。 宵宮落しとは、いわば
山神
 の御子神の誕生を現す神事で、これによって東本宮系の神事が終り、御輿は、西本宮へ
と渡御
 する。

(17) 日吉雄梛雌梛
  東本宮境内に日吉雄梛、日吉雌梛と呼ばれる2本の霊木がある。 東本宮楼門より入って
 ぐ右手奥、内御子社のすぐ隣にあるのが雄梛です。 この雄梛は女性が男性の幸せを祈る
木で
 す。 本殿右手にあるほっそりとした梛の木が雌梛です。 こちらは男性が女性の幸せ
を祈る
 木です。
  ナギは「凪ぐ」に通じることから夫婦和合を、また、「薙ぎ払う」にも通じる
 ことから災難
除けを象徴する木として信仰を集めている。
  ナギの木は植物学の上からも事情に変わった木です。 旧植物分類では、裸子植物門・マ
 綱・マツ・マキ科・ナギ属にはいります。 ナギの葉は巾広で広葉樹の葉にみえますが、
実は
 、松や槙まきと同じ針葉樹なのです。

(18) 下殿
  日吉大社の大きな特徴の一つは下殿の存在である。 他社に類例を見ない極めて特異な形
 のものである。 下殿はこれまで単に床下利用の仏教施設とみなされる程度で、構造上、
一般
 的に人の目に触れることがなく、また明治元年の神仏分離により全国に先駆けて廃仏稀
釈によ
 って家伝の施設の一部、及び宗教的儀礼が撤廃されてしまったため一層知られない存
在になっ
 てしまった。
  a)     下殿の名称については、鎌倉時代に成立した「平家物語」などにその存在が記されてい
  る。 「平家物語」や「源平盛衰記」などに、「したどの」「したとの」「下てん」「げで
  ん」
とよばれていたが、現在では「げでん」と呼ばれて既に歴史的な名称になっている。 
   下殿という名称でもわかるように明らかに、上の内陣空間に対す対称概念として生まれ
  もので、上に対する下の施設として構造の基本を示している。 言い換えれば山王七社
は一
  種の2階造りなのである。 床下部分の1階が家殿で階を昇った二階が普通の内陣空
間であ
  る。 そして下殿の基本的な空間構成、即ち間仕切りは七社それぞれ違いをみせて、
一様で
  はない。

















   では畳敷きとなっていたが、明治の時に撤去したのであろう。 中央の空白部分は土間で中心部は下殿の
   拝礼位置となる。 東西本宮及び宇佐宮はほとんど同一で、部屋の間仕切りが少し違うだけであ
  る。 日吉三聖が五間で、樹下宮から三間
となるため、異なるように見えるが、規模が一回
  り小さいだけで、空間構成の基本は変わ
らない。
   これら四社の中央の空白部分は土間で、これを上の内陣でいえば御神座の位置
に当たる。
    外観上床下はそう高く見えないが、下殿内部の高さは直立した姿で歩くことが出来る高
  である。 普通の神殿建築では、床下が土間であるか、もしくは亀腹や石敷を基礎とし
てい
  たか、日吉社の場合は社殿を構成する柱は全て礎石の上に立つことは勿論だが、特異
なのは
、 内陣のましたを除いて板間とするてんである。 外壁は一部が吹き抜けの格子や
板戸となっ
  ているほかは板張りで、外から内部を窺い知ることは出来ない密室である。

  b)    下殿の成立
   山王七社はある時期に同時に創建されたのではなくおのずと順序があった。 従って下
  もまた同時ではない。
   ・山王三聖は仁和4年(888)までに形成されていた(平安前期)。 ・白山宮は長暦3年
   1039)までに創立(平安中期)にしていた。 ・天喜元年(1053)までに八王子宮が創
  。 ・天仁元年(
1108)までに日吉五社が成立、・樹下宮は天仁2年(1109)までに創立、
  ・三宮は永久に(
1115)までに創立(平安後期)。 これをもって山王7社が成立した。
    下殿は本殿の床下を利用した宗教施設であり、社殿の成立後に出来たと見るのが一般的
  もしれないが、筆者は、社殿成立後の単なる床下利用とは考えない。 もっと神祇祭祀
の本
  質にかかわる問題を孕んでいると考える。 下殿の成立の要因は、社殿成立以前の神
祇祭祀
  の古態である自然神道にあると見たい。
   奈良時代(712年)に編纂された古事記に「大山咋神、亦名は山末之大主神。 この神
  近淡か海国の日枝山に座す」とあり、この記述からみて、日枝山そのものに鎮座すると

  念され社殿はなかったと推測される。 一方、最澄によって延暦寺が創建されたのは延
暦7
  年(
788)であるから、その後、相応和尚が仁和の頃(880年代)七宮神殿を大きく改修した
  とあり、一応日吉社社殿は8世紀後半に成立していたとみる。
   一般に神社本殿は地上高く床を春が、床下を吹き抜けにすることは少ない。 大抵の壁
  床下まで張られる。 この壁の効果は床下を隠蔽することにあると言えよう。 本殿の
神聖
  さは単に館の中にあるだけでなく、本殿の建てられている土地に本来の資力があると
言える
  からである。 神社がまだ建築を持たなかった時代は、礼拝の対象となるべき御神
体は自然
  の形象そのものであった。 しかし、結局この2つの見解は1つである。 上下
の内陣と土
  間が重なり合うことは偶然の一致ではなく、その神の大地に直接ヒモロギ等(臨
時に神を迎
  えるための依り代となる施設)を立て、或は床下に霊泉を持つ樹下神社の如く、
露天の神地
  に祀った神霊を風雪を避け、雨露をしのぐための擬人化して社殿内に祀ったの
である。 こ
  うした聖地観によって、もはや不要となった地面を土間としてのこし、結局
これが下殿とい
  う宗教空間を生んだのである。 「社殿神道」の成立は下殿の成立でもあ
った。


                           3.日吉山王祭
 日吉山王祭ひよしさんのうさいは、滋賀県大津市の日吉大社の祭礼のこと。 平安時代以来日吉祭ひよしさい
、江戸時代には山王祭さんのうさい・日吉山王祭と呼ばれてた他、日吉大社の所在地により坂本祭とも
よばれた。
 鎌倉時代の記録では、延暦10年(791)に神輿が新造されて坂本から唐崎に渡御したのが最古と
されている。 古来は4月中旬の午うまの日から酉とりの日までの4日間までの4日間で行われて
3日目の申さるの日が主たる行事が行われていたが、現在では新暦の4月
12日から15日まで行わ
れて3日目の4月
14日に主たる行事をおこなっている。 室町時代までは申の日に勅使が派遣さ
れていた。 また、臨時祭も鎌倉時代から室町時代まで行われていた。 江戸時代には祭の様子
が屏風絵などに描かれていた。 

 ただし、祭の事前行事として3月1日に2基の御輿を牛尾山(八王子山)の山頂に運ぶ「神輿
上げ」と4月3日に天孫神社(四宮神社)に全長8mの榊を奉納する「大榊」の儀式が行われて
いた。
 山王祭の特徴は、日吉大社の歴史が反映されており、次の二点があげられる。
・東本宮系神事と西本宮系神事がある。
・神仏習合の時代の姿を引き継ぎ、僧侶の参加がある。 

               第1章 山王祭前儀
1 鈴縄巻き ――2月最終日曜日――
  2月最終日曜日 当日朝9時日吉大社境内、八王子山の登り口に、四地区の駕輿丁かよちょう
 役員が集合する。 四地区とは、下坂本、中部、広芝、至誠しせいのことで、山王祭は全て四
 地区が順番で、平等に分担して運営されている。 
  鈴縄とは、山王祭の行事の中心となる神輿の屋根の四隅から担ぎ棒に張り渡す赤い縄のこと
 で、神輿の準備作業である。

2 御輿上げ ――3月の第1日曜日――
  先の鈴縄巻きを終えた二基の御輿を、山頂へ担ぎあげます。 3月の第1日曜日、朝9時、
 登り口に集合、神輿、駕輿丁、参列者に清祓きよはらいがなされる。
  準備が整えられ、10時、本年の実行委員長の拍子木の合図で出発、徒歩なら20分の道のり
 すが約1時間かかります。
  
八王子山のほぼ山頂付近、磐座いわくらである金大巌こがねのおおいわを挟んで向かって右が牛尾宮、
 
左が三宮宮で、どちらも急峻な岩盤の上に社殿建っている。 京都の清水寺などと同じ懸造かけ
  ずくり
と呼ばれる工法を用い、桃山時代の末に造られたもので、十四言う文化財に指定されてい
 ます。
  御輿が到着する頃には、すでに二社の拝殿の窓は開けられ、最後の厳しい石段を喘ぎながら
 
担ぎあげて納めます。 この日から二社の神輿は4月12日夜に行われる「牛ノ神事」で担ぎ降
 
ろされるまで、1か月余りの間山頂に安置されます。 牛尾宮が男神、三宮宮が女神なので、
 
山上で「お見合い」とされています。

3 お灯明上げ ――3月1日~4月12日――
  3月1日から八王子山に2つの光がともります。 昔は神輿上げが3月1日であったなごり
 
で、神輿上げが、第1日曜日に変わった現在も昔どおり3月1日から、4月12日の牛ノ神事ま
 での約
1か月半、毎日奥の院に燈明があがります。 

4 直木神事と真榊神事 ――3月27日――
  4月3日の大榊神事に使う榊は3月27日午前10時大津市苗鹿のうかの榊山(安本陽二氏所有)
 から伐り出されます。 枝振りの良い榊が選ばれると、神職が祓詞はらいのことばを上げてから斧で
 切り倒されます。 「切る」「伐る」は縁起が悪く、忌言葉とされるため、「直す」という言
 葉
が使われます」。 榊はこの日の夕刻までに那波加荒魂なはかあらたま神社の神前に安置されま
 す。

  午後6時
30分頃、那波加荒魂神社で出発の祓詞が奏上され、列を組んで、大榊が地面に触れ
  ないように担がれて坂本の広芝まで」すすみます。これを真榊まさき神事といいます。

5 おいで神事 ――3月30日――
  3月30日夕刻、広芝に篝火が焚かれ、二股の松に大榊が置かれ「おいで神事」が始まります
 。
 神降ろしの声が響き渡り、荘厳に神職の祝詞のりとが奏上されます。 続いて大榊出御の声
 で、
行列は日吉大社西本宮まで列を組んで進みます。 この時、大榊は地面を引きずっていき
 ます
が、引きずる大榊が発する音があたかも「神」が歩いている音のようです。 また行列の
 先頭
を歩く童子が叩く太鼓の音が大変変わっています。 これは、太鼓の」革が破れているか
 らで
す。 途中で迎え火を焚いてお迎えします。 到着すると西本宮本殿の榊置き石の上に大
 榊が
置かれます。 この日の行事は終ります。

6 午ノ神事肩組 ―-4月2日
  肩組とは、四地区の駕輿丁の人たちが日吉会館に集まり、神輿をどう担ぐか、まつりをどう
 運営するかの実務的な最終打ち合せをする会合である。
  初めに関係者の挨拶と注意事項があり、このあと、牛尾宮と三宮両神輿に分かれ、今年担ぐ
 場所が山と谷どちらかを決めます。 現在はじゃんけんで決めている。

7 大榊神事 ―-4月3日――
  この神事は西本宮から始まる。 すでに西本宮の脇には台石の上に大榊と鉾が置かれていま
 す。 今日の神事の中心となる大榊には白い小さな沢山の紙垂しでが付けられ、鉾の先は三叉さん
 で根元には神社で毎年描き改められた早尾と大行事権現の絵が下げられています。 大榊の紙

 垂、鉾の2枚の絵像、これはいずれも神様の御宿りになる神聖なものなのです。 
  神職が本殿から御神酒を載せた三方を捧げ拝殿に進みます。 まず神職に御神酒が三献、肴
 のスルメとコンブがすすめられます。 「乾杯の儀」です。 続いて榊宮社の稚児が同じく三
 献をうけます。
  まず本殿右下に正座していた神職が立ち上がって「お松明―」とっ叫びます。 松明は静か
 に左回りで本殿をまあります。 続いて「大榊まのせ―」と叫ぶと、拝殿脇の人達が「おう」
 とこれに応え、松明に先導されて、大榊が本殿を左回りで一周して本殿前に至り、大榊と幸鉾
 が交差しておかれます。
  松明の明かりのなか宮司が祝詞を奏上し、鈴がならされます。 ついで神職が「大榊出御―」
 と叫びますb。 提灯を先頭に鉾と大榊、稚児、榊宮社役員、神職、駕輿丁、それに自治会役
 員の順で出発です。 日吉馬場をくだり、唐崎神社の前を通り、一路大津に向います。
  大津市中央区2丁目にある蛭子えびす神社近くで、天孫神社の総代・役員が出迎えます。 祝
 奏上のあと目的地県庁前の天孫神社に着きます。 境内にたくさんの氏子・町民が待ち受け、

 直ちに大榊と鉾を拝殿に安置し、天孫神社宮司の奉仕によるお祭りが厳かに行われます。
  このあと参集殿で和やかに直会なおらいのもてなしを受け、大榊神事はおわります


             第2章 山王祭第一日(4月12日)
1 禊
  4月12日午前8時、社務所裏を流れる大宮川において、宮司以下神職達が山王祭の無事故を
 願って禊を行います。 春とはいえ、比叡の雪解け水の中に入るのです、まず走井祓殿社前で
 準備体操をして川の中にはいりますが、すぐ神体全体が赤くなり唇も紫色になります。 震え
 ながら「祓戸の大神、祓戸の大神」と唱えながら身を清めます。 
  以前は宮司以下神職だけでしたが、平成元年(1989)から駕輿丁の人も加わるようになりま
 した。

2 清祓い
  4月1210時、日吉大社のお祓いの場である走井橋のたもとの祓殿社のへ駕輿丁の役員と
 者
150人が集合します。 宮司以下神職がお祓いを勤めます。 厳粛な雰囲気に包まれた中、
 まず、神職が大祝詞を奏上。 大麻おおぬさで全員を祓い、更に切麻きりぬさで自祓し、大麻と切
 麻
を入れていた包袋を走井橋の上から大宮川にながします。

3 午ノ神事 4月12日午後5時
  清祓いを済ませた駕輿丁の人々は、夕刻になると三々五々、午ノ神事の鼻(担ぎ棒の先端
 役)
に出る家に集まります。 この家の前には、鼻松明が立てられています。 家の中で振舞
 酒を
頂いたのち、松明の前に置いてある御幣を床の間に置いて「午ノ神事が無事におわります
 よう
に」とお願いします。 同じく前においてある紅白の襷を肩にかけて家族や親せき、友人
 らの
見送りを受け、鼻松明を担いで町内まわりに出発します。 途中氏神様にお参りして集合
 場所
に進みます。 その一行は、鼻の人を先頭に明々と燃える鼻松明で照らし、伊勢音頭の日
 吉崩
しを謳いながら、もう一方の駕輿丁と落ち合う所まで進みます。
  双方の駕輿丁が落合い、数が倍になった一行は読み上げ場である読み上げ場である生源寺へ
 と練り歩きをはじめるその時、生源寺の一番鐘が坂本の里に響き渡り、一番着の受付があった
 ことを知らせます。 読み上げ場の生源寺に近ずくと鼻の人を先頭に二列の形でひな壇に並ん
 だ甲冑の人達の扇を振る中、入場した。
 読み手が、「谷と山に分かれて下さ」と指示が飛ぶ。 谷の表の鼻と山の表の鼻の二人を先頭
 に二列に並び、続いて松明も並び終えると、読み手は「谷の表の鼻が〇〇町の〇〇〇〇」と名
 前をを読み上げてゆきます。 谷の表の鼻の人から11人を読み上げ、続いて山の表の鼻と続き
 同じく11人をよみあげます。 続いて谷の裏鼻と山の裏鼻も同人数の名前が読み上げられ、最
 後に本梶4人と添え梶4人が読み挙げると。一斉に、八王子山を目指して駆けだしてゆきます。
  四駕輿丁が八王子山の奥宮に着き甲冑の人達から御神酒を頂いて奥宮での儀式(復習)をす
 る頃、生源寺の二番鐘が鳴って儀式が始ったことを知らせます。
  ●夜の祭り午ノ神事
   午ノ神事は神輿が二基なので、四駕輿丁が二駕輿丁を一組として一基づつ担ぎ、委員長当番
 の組は牛尾宮の神輿を担ぎ、残りの組が三宮宮の神輿を担ぐことになります。
  日吉馬場を歩く甲冑の松明を振る合図を見て待機場に待機していた鈴振りは、石段を駆け上
 牛尾宮に向って鈴を振ります。 するとまず牛尾宮の神輿が拝殿から担がれて出御します。 

 出御と同時に今年の鼻に選ばれた担ぎ手の若者が肩車され、両手に持った紅白の縄を高々と掲
 げた格好のまま、奥宮の石段をゆっくりと下ります。 牛尾宮神輿の前を照らす高張提灯は二
 ですが、進行方向の右側の三宮宮の高張提灯は大岩辺でけされます。 なぜ片方だけ消すの

 「女神だから恥ずかしいので消す」ともいいますがはっきりした理由はわかりません。 八

 子山を下りる両神輿は七曲りの山道をゆっくりと進み仮屋の石段まで来ると観客と駕輿
丁が一
 体となって祭も最高潮にたっします。 

  二つの神輿は直ちに東本宮拝殿に担ぎ込まれ、一転して静寂の世界になります。 篝火の燃
 える中牛尾神輿は神饌を供える儀式が静かに執行されます。 宮司による祝詞奉幣の後御幣は
 神職から役員に次々と手渡され、本殿の下殿にさげられます。 こうして午ノ神事は終ります。
  午ノ神事は神様の結婚式と言われます。 さて、東本宮拝殿で神輿を安置する場所について、
 鎌倉時代に書かれた日吉社の神道書「耀天記ようてんき」では、午の日、八王子、三宮、が二宮拝
 殿に渡御し、四基の神殿が拝殿に収まる位置を次の様に示している。
       二宮神輿 (丑寅:北東)  十禅師神輿(辰巳:南東)
       八王子神輿(戌亥:北西)  三宮宮神輿(未申:南西)
 つまり、現在の午ノ神事の様に二基が東本宮拝殿に収まるのとは違い後の宵宮と同様の四基
 御輿があったことになる。 この状態であれば「結婚式」という解釈はなりたたない。 で

 何時からこのように変わったのか。
  江戸時代に描かれた「日吉山王祭礼絵巻」になると、東本宮拝殿位」は牛尾宮と三宮の二基
 が戌亥(北西)と未申(南西)に納まっています。 「日吉社年中行事社司中分大慨」(1711 でも同様である。
  現在、二社の神輿は、三宮が楼門(南)を向き、八王子宮が本殿(北)をむいています。 互
 いに後向き、即ち「尻つなぎ」と称します。 このかたから「神様の結婚」という静的名介錯
 の俗説が生まれたのでないか。


             第3章 山王祭第二日(4月13日)
1 神輿出し神事 4月13 日午前9時
  神輿入れ神事 4月13日午前10
  13日午前9時西本宮系の宇佐宮、白山姫宮それぞれの駕輿丁が西本宮の神輿庫前に集まり神
 職によるお祓いを受けて、西本宮拝殿に三基の御輿を並べます。 これが神輿出し神事です。
  引き続き、10時から、今度は東本宮拝殿から宵宮場(大政所、御旅所)への「神輿入れ神
 事」
が行なわれます。 まず東本宮神輿を拝殿の石段下へ北向きにおきます。 昨晩奥宮から
 下し
た牛尾宮を拝殿の西側に南向きに置きます。 樹下宮神輿も庫から出し、同本殿の木階の
 三段
目に轅を掛けます。 三宮は拝殿東側に北向きにそれぞれ置きます。 御輿の方向はそれ
 ぞれ
神輿の出御する順番を守るための配置になっています。
  四社神輿の配置が終わると、宮司以下神職、山王祭実行委員長、伊か駕輿丁が行列を整えさ
 っそく出発の儀式を行います。 宮司は東本宮本殿、禰宜は樹下宮本殿で同時に祝詞を奏上し、
 読み終わると鈴を2回鳴らします。 すると、東本宮拝殿の南西に位置していた実行委員長が
 御の合図の扇を振り上げます。 最初に東本宮神輿、次いで牛尾宮、樹下宮、最後に三宮と

 う順番で宵宮場(大政所)に繰り込みます。 整然と並べられた四基の御輿は、今夕行われ

 宵宮落しをまちます。

  宵宮場は五つの部屋に分かれ、北の間から順に四つの部屋に、三宮、牛尾宮、東本宮、樹下
 宮と東本宮系の神輿がずらりと並びます。 最後に残った南の一間だけが一つあくわけで、こ
 こは稚児の間とよばれていますが、由来は不明です。 

2 献茶祭 4月1311
  御茶は古来より薬としてもつかわれました。 夜出産の儀式を迎える神々に安産の祈りをこ
 めてお茶をお供えするのです。 文字通り、茶を献じる神事ですが、茶を供えるのは、奉安さ
 れた四基の御輿です。 
   宵宮場の前に組み立て式の拝殿が設けられます。 元は常設でしたが今は祭の間だけ臨時に
 造られます。 正装した神職によってお茶がたてられます。 まず東本宮神輿に、次いで牛尾
 宮、樹下宮、最後に三宮と四基の御輿に新茶が献上されます。 祝詞が献上されますとお茶が
 下げられ、最後に宮司が頂き式は終わります。
  この献茶式で用いられる新茶は、立春から数えて八十八夜の日に、京阪坂本駅のすぐ東にあ
 る日本最古の茶園「日吉茶園」で新芽を積んだ茶を献上したものです。
  新茶献上に関する文献上の最も古い記録は社務行丸の「日吉社神道秘密記」(1582)の一部
 に「大政所宿院五間、卯月二番未ノ日、神事有之、神輿御入御茶備進、京都より未ノ御供進御
 茶一番備進」とあり、少なくとも中世末からの神事であることがわかる。
  比叡山を開いた伝教大師・最澄は延暦24年(805)唐より茶の種子を持ち帰り、この地に植
 えたといわれます。 これが日本における茶のきげんであり、日本最古の茶園と言われるゆえ
 んである。
  京都栂尾の高山寺も日本最古の茶園を標榜しています。 栄西が宋から持ち帰った(1191
 茶の実を明恵に伝え、山内で植え育てたという。
3 花渡式  4月13日午後1時
  山王祭の神事中、最も華やかな神事です。 甲冑を着た5歳位のお子様方がその夜に出産を
 迎える神様のお祝いのお花を供える儀式です。
  4月13日午後1時前、日吉馬場に甲冑姿の稚児と花(造花)、お供の人達が続々と集まって
 きます。 桜と出店が立ち並ぶ参道の両側でたくさんの人達が見守る中を稚児たち一行ははり
 ゃかに進みます。 本数の少ない都市で14,5本、多い年で20本の花が出ます。 
  これにはいくつかの決まりがあります。 まず行列の先頭は露払いです。 羽織に草履履き
 手に青竹を持ちます。竹の長さは丈(身長)竹で、桐口の頭を半紙で包水引で括り、竹の節は
 そのまま残します。 次に稚児の両側に位置する金棒曳は、化粧回しを付けた若者で、手にし
 た金棒を地面を叩いてチャリンチャリンと音をさせながら進みます。 警備役は可愛い稚児の
 ガードマンです。
  稚児は4,5歳の男児、出す家にとっては晴れの舞台です。 後には孫を見守る祖父や親戚
 友人がつづきます。 ただし、男だけという決まりがあります。 行列の順番は、当初は先着
 順でしたが、現在はくじ引きで」決められています。 
  一行は、坂本のメイン道路である、日吉馬場の参道を一の鳥居から練りながら歩きます。 
 200m程歩いたところで右折れし、宵宮場に入り、東本宮神輿に一礼、今夜若宮が誕生する
 親神さんに報告と言った感じです。
  このあと、西本宮に進み、お参りを済ませると花を解体してお供してくれ人たちへ記念に一
 本づつ分けて花渡し式は終ります。 花渡の一番花が、お参りを終えた後帰りに二ノ鳥居をく
 ぐると生源寺の一番鐘がなります。 花の家に帰った稚児矢親戚たちはその夜宵宮落しが始ま
 るまで、晴れ舞台を話題に直会なおらい(神祭後の会食)で時を過ごします。
4 未ノ御供献納祭 4月13日午後3時
  未ひつじとは神事が行われる日が卯月(4月)の未の日、つまり本番の2日目に行われていた
 のでこの名がある。 「古式祭記」では京都の山王町日吉社から調進し、小比叡(東本宮)に
 献じたとある。 平安時代、堀川天皇の康和元年(1099)に始り、現在まで続く、この夜生ま
 れる若宮にお供えを奉納する神事です。
  現在では、京都下京区の山王町にある日吉神社の矢役員が奉納しています。 宵宮場で東本
 宮系神輿4基にたいして、京都市室町仏光寺の日吉神社から奉納された特別の神饌が唐櫃に担
 がれ、神職とともに礼服で威儀を正した行列が社務所を出発します。 二宮橋を渡り、宵宮場
 に着くと、唐櫃はカシの木の脇におかれ、御供本ごくもと神職が手際よくお供えを神職に渡しま
 す。
 更に手渡しで宵宮場の四社の神輿に次々と未の御供が供えられます。 お供えは通常の神
 饌と
異なり、色紙の立雛、紙人形、造花、手鏡、紅筆、畳紙、鳥形、洗米などである。
  祝詞奉上の後最後に黒漆塗の箱に入った御宸翰が奉られます。 これには御幣と白矢が載せ
 られています。
  撤饌が終わると、今度は、今度は神職の一人がクルリと産屋うぶや神社に進み出て、神前に
 供えてある御神酒を自分で頂きます。 その跡、北向きになり、その盃を後ろに投げます。 乗
 れは、御子の別雷神わけいかずきのかみが天に還るのを表すとされています。 盃が背後の霊
 に当たるように投げるのですがなかなか当たりません。 ともかく盃がパーンとわれたらお

 まいです。
  列に戻ると宵宮場での未の御供は終りです。 行列は再び来た道を戻り西本宮に戻り、西本
 宮に向います。 行列が社務所前を通過する時、待機していた八乙女(小学校5、6年)達が
 列に加わります。 西本宮に到着すると神職はそのまま本殿に入り、八乙女は木階きざはしの左
 右に二人ずつ並びます。  八乙女は、御供を御供本神職から受け取り、八乙女は順次手渡し
 で本殿の神職にわたします。 献饌が終わると、宮司が内陣から現れ、木階を下って浜床で鈴
 二声、奉幣、そして撤饌の儀を以て未
bの御供献納祭はおわります。

5 宵宮落し祭事 4月13日午後7時
  13日の最も重要で勇壮な神事。 御夫婦の神様より御子神が誕生する儀式です。
  この時ご誕生される神様は上賀茂神社の祭神、賀茂別雷かもわけづちのかみであり、古来はこの山王
 祭(別名:桂祭)と京都の賀茂神社の青い祭は一連の神事であったともいわれ、その関係の深さ
 を表す神事でもある。
  午後5時ころ、生源寺の一番鐘が鳴ります。 これを合図に駕輿丁たちは、「鼻の役」のの
 家に集まり、家族や、親戚、友人達に見送られ町内回りにでかけます。 途中で氏神様にお参
 りして「宮本」に着きます。 「宮本」とは駕輿丁の集合場所のことである。 間もなく、宵
 宮落しの飛び役の二人が着き、甲冑役もつきます。 清めの水を掛けてもらい、御神酒を頂き
 、
読み上げ場へ進みます。 生源寺の本堂前に次々と人々が集まります。 
 その頃、一番駕輿丁の受付を知らせる二番鐘がなります。 それを合図に読み上げ場に「い
 ぎます。 いよいよ読み上げが開始されます。 読み上げとは点呼のことです。 「〇〇町

 〇〇〇〇」と呼ばれたら「よっしゃ」と答えます。 1駕輿丁で
56人、4駕輿丁、合計224
 全員の名が読み上げられます。 その雰囲気は、かって延暦寺の山法師の勇ましさを彷彿さ

 るものです。
   読み上げの終わった駕輿丁が竹松明を担いで生源寺を走り出て、日吉馬場を駆け抜ける姿は
 まさに火祭です。 群衆の待つ宵宮場に駆け込むや神輿に飛びつきその黒棒(轅ながえ)を上下
 に揺すります。 四基の御輿が大政所の床に打ち捨てられ、地響きを発します。 この豪快な
 神輿振りが一時間余りつづくのです。
 その頃、四基の御輿の前にずらりと前張り役の男たちが(互いに腕を組んで並びます。 男前
 若い駕輿丁の晴れ姿です。 この光景を「陣痛の神輿を横一列で隠しているのか」とする説

 ります。
  三番鐘が鳴ると、それを聞いた宵宮場にいる役員はすぐに、揺すりを止めさせます。 飛び
 役の甲冑を待つ間、神輿のスリップ防止のため床板に鎹かすがいを打ちつける。 
  その頃日吉馬場では、飛びつく甲冑を後ろに従え甲冑姿の役員たち約30名が横一列に腕を組
 んで「デンデンガン、デンデンガン」とさけびながら日吉馬場を練り歩きます。 やがて宵宮

 場近くに来ると飛びの8人は役員たちを振り払って、我先にと自分の神輿に向って走ります。
 飛びの走る姿をみて各駕輿丁の松明係りは、飛びの足元を照らしながらどこよりの早く神輿の
 黒棒に飛びつかせます。 御輿の黒棒は前の床に着けているが、飛びが黒棒に乗るやいなや黒
 棒は高くあがり,観衆から「ワアー」という歓声と拍手が湧きなす。 早く、美しく、高く上げ
 るのが見せ所です。 黒棒に乗っていた飛び二人は床におり式の始まるのをまちます。 
  宵宮場に静寂が広まった頃、小満役が「しょうまん、しょうまん」そして「いむろ、よかわ
 、
さいとう、とうとー(飯室、横川,西塔、東塔)四社の駕輿丁そろうたかー」とさけびます。
 すると今度は受け手の小満が「なーかなーか、そろいにくうーて、そろーてござあーると返
 します。 いわゆる聞かせどころです、小満とは点呼役で、飯室、横川
,西塔、東塔とは、
 仏分離までの神輿を仕切っていた山門の四グループをさし、中世の名残をとどめた四社の駕
輿
 丁への点呼にあたります。
  そして、山王祭実行委員長が扇に記された祭文を読み上げます「……かしこみ、かしこみも
 うすー……」の言葉で朗読が終わるや否や扇をさっと揚げるbと同時に、飛びが一斉に地面に
 び降ります。 すると、「宵宮落し」の名の通り、四基の御輿が一斉に地面に落され、すぐさ

 ま神輿に駕輿丁たちの肩が入れられ、約100m先にある鼠宮ねずみのみやまで神輿競争がスタートし
 ます。
  さて、鼠宮まで来ると、今度は一番二番は関係なく、東本宮、牛尾宮、樹下宮、三宮と決ま
 った順番で列を整え、松明の明かりのなか、二宮橋をわたり、西本宮の拝殿に収めます。 西
 本宮の拝殿に収めおわると拍手が起り、この世の神事はおわります。



             第4章 山王祭第三日(4月14日)
1 東本宮例祭 4月14日8時30
  4月14日8時30分頃 楼門前でお祓いし、東本宮本殿前に進んで東西に分かれ、東に宮司
 下、西に献幣使けんぺいし(神社本庁から幣帛を奉献するための使い)が向き合って着席します。

 厳かな「オー」という声とともに御扉みとびらが開かれます。 神饌が供えられ、ほの暗い外陣で
 宮司が祝詞を奏上、ついで、献幣使も祭詞を奏上し、玉串をそなえます。再び「オー」という
 声とともに御扉占め、宮司以下を整えおわります。

2 西本宮例祭 4月1410
  4月1410時、西本宮の例祭は厳かで華やかさが特徴です。ン赤と献と白の神職の正装、
 主の緋の衣などは、平家物語絵巻を彷彿させます。 例祭の始まる1時間まえから参列者や

 王講の人達が集まってきます。 延暦寺にとって日吉大社は護法神であり「一山総出仕」で

 参りするのが慣わしと聞く。 

  座主が一山僧侶を率い、そして宮司以下神職が座主の列に向き合って列立します。 一行お
 辞儀の後宮司を先頭に西本宮楼門横の石畳でお祓いがなされます。 神仏一致の行事が始りま
 した。 うやうやしく清祓いを受け楼門の下に差しかかったとき、天台座主だけ、威儀を正し
 雪駄せったから正式の浅沓あさぐつに履き替え魔す。 座主と高僧たちは献幣使とともに本殿に身
 か
って左側に着座、右側には全国の分霊社や神社関係者、そして一般席が設けてあります。 
 神
職一同は、そのまま本殿に上がり、右側妻戸から宮司が、左の妻戸から禰宜以下の神職が入
 り
外陣の座につきます。  ほどなく御簾が巻き上げられ、内陣の御扉が、「オー、オー、オ
 ー」
のという三声とともにおごそかに開かれます。
  宮司が内陣に進み祝詞奏上し、そのあと献幣使が祭詞奏上を終えると、天台座主以下僧侶に
 よって五色の御幣が納められます。 そして座主が印を結んで、「オン、ココダヤソワカ」を
 繰
り返し唱え、一転して般若経を唱えると、一山僧侶は本殿前庭に一列に並び一斉に唱和しま
 す。
 他の神社では見られない光景です。
  本殿内陣に着座した宮司は祝詞の後、桂(3束)の奉幣があります。 その後神職の一人が
 束を西本宮神輿に1束を、天台座主のいる本殿前に1束、もう1束を参列者全員に配ります。
 続いて玉串拝礼、雅楽の奏でる中で撤饌、の警蹕三声と共に閉扉、そして御簾が巻き下がり
 1時間半の西本宮例祭はおわります。
 この祭礼で重要なのは桂の奉幣です。 大和の国か
 ら大己貴神が来て地面に挿した桂の枝が
大木に育ち、神木となりました。 桂の奉幣では、
 神職によって本殿から出された桂の束を参
列者は勿論の事、駕輿丁全員が鉢巻の間に挟みます
 。 この桂を頭にさすことで神様と一体と
なって神輿を担ぐことができるのです。

3 御浦の神事 4月1412
  この神事は、神馬しんめに乗られた神様が琵琶湖の唐崎まで御出になられる出発の神事です。
 祝部行丸が記した「日吉社神道秘密記」では八頭の神馬でしたが、江戸時代には七頭になりま
 した。 明治初期以降、京都府の乗馬苑から数頭借りていましたが、段々減少し昭和30年には
 1頭だけになりました。 そして昭和50年以降はそれも調達できなくなり、木馬の代用品とな
 
ったのです。 現在は軽トラックの乗った木馬が本殿庭に置かれると禰宜が浜床に立ったまま
 鈴二声、」祝詞、鈴二声、続いて神歌が歌われます。
  山とはば海に西より風吹かばいずれの浦に御船つかなん
  神歌を謳い上げて式はおわります。

4 大榊還御 4月1412
  御浦神事後終る頃、大津・天孫神社から大榊が日吉大社を目指し帰ってくる。 四駕輿丁が
 各町の宮本に集まり、まず、家中が先に出発し、ほどなく駕輿丁も、伊勢音頭の日吉崩しの音
 頭をとりながら出発します。 二の鳥居をくぐり日吉馬場の参道を腕を組み練り長良参道をの
 ぼります。 四駕輿丁が西本宮に付くころ、二の鳥居の上手に歴代委員長がしもてには役員甲
 冑武者が並び大榊の還御を迎えます。 
  一方、金棒曳八名と、甲冑武者、紫襷の役員が大榊を迎えに行きます。 福成神社前に着く
 と甲冑武者と金棒曳は二列で大榊を迎えます。 紫襷の役員は更に進み、天孫神社役員に時間
 が来たことを知らせる。 
  ほどなく、大榊の列が見え二の鳥居をくぐると大榊列の後に獅子奉行、獅子、綾織、一般、
 奉行委員長、そして裃かみしもの大扇の手とこれを守る黒甲冑の武者が続きます。 
丁度日吉
 馬場の中程旧竹林院の前で獅子舞、綾織を一舞します。 さてここから一段と様々な
作法や仕
 来りがありますが、ひよしの神職は関与しません。 大榊列は進み、日吉大社に入口、
二の鳥
 居を潜った辺りに青竹が立っています。 これは、「下の材」と呼ばれる御幣つきの青竹
で、
 駕輿丁が立って待っています。 その後に与丁張よちょうはり(連絡役)の駕輿丁
16名が地面
 座って道幅一杯に広がってまっています。 

  駒札が青竹に当たると、彼等は立ち上がって、音頭を謡いながら歩き出します。 与丁張の
 
16名は謡いながら、8人づつに分かれます。 このうちの1組は旧竹林院前に立てられた「上
 の材」と呼ばれる竹があり、下の材の青竹が上の材の青竹に当たると報せに西本宮まではしっ
 てゆきます。 もう1組は、大宮橋のたもとに待機します。 

  上の材と下の材の青竹を持った駕輿丁を先頭に、大榊列に大宮川を渡り終えると甲冑武者の
 
先騎が橋に縄を張りますが、これを獅子奉行が太刀で切ります。 橋の中ほどに待機していた
 
白襷の駕輿丁は片膝をついた格好で進み出た獅子奉行に「駕輿丁準備万端そろい、お待ち申し
 
ておりました」よ挨拶します。 その前に、大宮橋のたもとに待機していた与丁張の駕輿丁の
 
8人は大宮橋まで来たことを西本宮で待つ全ての駕輿丁に知らせた。
   甲冑武者が橋を渡る祭、先騎が「太刀を上げ」と告げると次々と甲冑武者は太刀の鞘を手に
 
持ち、立ってわたります。
 
 大宮川をわたり、西本宮本殿に着くと大榊と幸鉾を交差して台の上に置きます。
  ここで宮司が本殿の中から浜床に」おりて祝詞を奏上し、本殿前には天孫神社宮司と役員が
 
整列しています。 天孫神社への神幸以来11日間、大榊に宿した大宮様をお預かりし、無事に
 
お帰り頂いた安堵と厳粛な面持ちです。 祝詞が終わると、榊と幸鉾は本殿の後ろを時計回り
 
に移動して右側の榊石におきます。

5 拝殿出し神事 4月14日午後1時
  4月141330分頃。 大榊還御神事が終わると、引き続き拝殿出し神事が始ります。 
 
扇ノ手と甲冑武者が扇を上げると同時に、西本宮神輿の駕輿丁の手持ちで拝殿から後ろ向きで
 
出ます。  御輿は全て拝殿の真ん中から出ます。 東本宮、牛尾宮、三宮の神輿はそのまま
 
出ますが、三番目の宇佐と白山の神輿は拝殿で180度回転してからでます。 
  拝殿からにし楼門を出た直後の春日岡(社務所前)辺りで神輿は西本宮、東本宮、宇佐宮、
 
牛尾宮の順でならべられ金具の飾り付けをします。 
  御輿は本隊もさることながら、ここで取り付けられる金具にかなりの重量があります。 次
 
に7社の神輿の飾りつけがすむと西本宮神輿の前に獅子頭を置き、神職が「東遊歌」を三唱し
 
ます。
6 神輿神幸
  4月14日午後2時30分頃 7社の神輿の神幸が始ります。 最初に出る西本宮の神輿だけ
 山王鳥居をくぐりってから惣合坂と大宮橋との間を七練り半のお練りをしてから下ります。 

 
大宮橋を渡ると普通に担いですすみます。 二番目以降の東本宮以下六社の神輿はふつうに担
 ぎます。 日吉馬場に出ると青空の下数千人の観客の見る中を進みます、駕輿丁たちの晴れ姿
 
であり、一番の見せ所です。 西本宮の神輿を先頭に、東本宮、宇佐宮しんがりは牛尾宮と続
 二の鳥居までかつがれます。
   現在は四基は二の鳥居付近から、他の三基は西本宮付近から大型トラックで「七本柳」と呼
 
ばれる乗船場まで神幸します。

7 船渡御
  七本柳は下坂本の琵琶湖畔にある。 すでに七本柳には、沢山の人々が詰めかけている。
 そこへ神輿七基と駕輿丁たちが到着する。 御輿は琵琶湖の方向に向く形で西本宮を中心に右
 側から東本宮、牛尾宮、樹下宮、左の内側から宇佐宮、白山宮、三宮の順に並んでいる。 

  西本宮神輿の前で神職によって再び「御浦の神歌」が奏上されます。 奏上が終わると、神
 
輿は序列順に担がれて、船奉行の指示で御座船に載せられます。 見物の人々に見送られ、太
 
鼓を打ち鳴らしながら、一路唐崎奥へと御座船が渡御する。 
  唐崎神幸の最も古い記録では「慈恵大僧正捨遺伝」にあるもので、桓武天皇の勅願によって
 
延暦10年(791)4月19日の大比叡、小比叡の神輿が奉納され、唐崎に神幸したと伝えてい
 す。 ただし、同資料では陸路だったのか、海路だったのか不明です。 確実に船とわかる

 崎神幸は良源座主(慈恵大師)の時代の天元2年(
979)4月、両頭鷁の船が唐崎へ神幸した
 という記録が最初である。
  船渡御は平安の昔から行われていたのではなく、室町時代からの様です。 江戸時代には二
 
艘の船に板を渡して神輿1基を載せていましたので、合計14艘の船が必要でした。 現在は大
 
きな台船に七基の御輿が一斉にのせられます。 祭のクライマックスである船渡御への出発で
 
す。
   また同じ頃、湖上での神事でお供えをする粟津御供本ごくもとが唐津沖で御供船にて準備を整え
 
ます。 伝えによると、西本宮の御祭神、大己貴神様が奈良から大津の地にお越しの際、船で
 
琵琶湖を渡ってこられたそうで、その時に膳所地方の漁師である田中恒世という方が神様に粟
 
の御飯を差し上げたところ、神様が大変お喜びになられたとの故事を再現するもので、現在は
 
膳所にある石坐いわい神社・若宮八幡神社・篠津神社・膳所神社・和田神社の五社が輪番で御供
 供本をお勤めしています。 

8 粟津の御供献納祭
  神輿を載せた御座船、お供え物を載せた御供船は午後4時過ぎにそれぞれ船着き場を出発し
 
ます。 七基の御輿を載せた御座船はタグボートに引かれて、20分ほどで唐崎沖に着きました
 。 
本来は唐崎の浜に着岸するのですが、水深が浅く、現在の御座船は着岸が不可能なため
 沖で御
供船をまちます。 唐崎浜に待機していた粟津の御供船が波に揺られながら沖へ進んで
 きまし
た。
 
 やがて唐崎沖で出会い、七社神輿を載せた御座船に小舟(御供舟)が近づきます。 到着す
 ると横並びになって神事を執り行います。小船には七社の神輿に捧げる御供養(神への供え物)
 が並んでいます。 これらは膳所五社が各年交替で調達しているものです。 当番神社の宮司
 による祝詞奏上に続き、日吉神社宮司の祝詞も奏上され、続いて大御幣を立ったまま、左、右
 、
左と3回振ります。 この奉幣が済むと七社の神輿にお供えをします。 神事がおわり、日
 吉
大社の宮司が御座船に帰ると、役目を果たした御供舟は離れます。 全国的にも珍しい特殊
 神
饌は祭典後湖上に散供さんくされ、湖お神様にもお供えされます。 
  七社の神輿を載せた御座船はタグボートに引かれて一路比叡辻の若宮港に向かいます。 

8 神輿上陸と神輿還御
  祭典が終わると御座船は下坂本の若宮港へ、御供舟は唐崎の岸へと向かい、湖上での渡御の
 は結びを迎えます。 若宮港に帰港した御座船から、一番に西本宮神輿を担ぎおろし、駕輿丁
 に担がれて日吉大社に還御します。 他の6基は車に乗せて町内を巡った後それぞれの神輿庫
 に納められます。


             第5章 山王祭第四日(4月15日)
1 酉の神事
  前日で結びを迎えた神輿お神事。 15日は12日~14日の間無事に祭りが行われたことを感
 謝を込めて神々に報告する神事を行います。
 午前10時、社務所前で、神職、山王祭委員長と会長が対面し、1礼のあと、東本宮へしずし
 と進んでいきます。 東本宮境内に入り、本殿浜床に一列に列立します。 ここで桂の小枝

 受取り、烏帽子の左に差します。 やがて神職一名が亀井の水あたりに立ち、八王子(牛尾

 ま)に向いて神歌を3回奏上します。 ついで、笏拍子を2回ならし、元の位置に戻ります。
 
一例の後、再び列を整えて境内の巡拝が始ります。 樹下宮の前を通り、楼門を出ます。 
  宇佐宮の境内を抜け、春日岡(社務所前)から西本宮にはいります。 宮司は西本宮本殿
 大床にすわります。 すると神職の一名が拝殿に上がり本殿に向き神歌をここでも3回奏上。

 笏拍子を2回ならして酉の神事はおわります。

2 船路御供献納祭
  続いて行われるのは船路御供献納祭ふなじごくけんのうさいです。
  いまから400年前(1571年)、織田信長公が比叡山を焼討した際には当社も全て灰燼にきし
 ました。 その際に当時の神職は現在の大津市八屋戸にある八所神社に仮の御殿を設け祭典を
 行いました。 そうした縁から、15日にはこの八屋戸からお供えを献上頂き、神様にお供えす
 る神事をおこないます。
  八所神社の役員は、西本宮の浜床東で西向きに座ります。 本殿で献饌の儀が始ります。
 神
職が祝詞を浜床で奏上、八所神社の役員から玉串を受取って拝礼、役員も拝礼して式は終り
 ま
す。
  これを以て、長い長い二か月半に及ぶ山王祭の全神事は終了です。 華やかな山王祭のため
 に山王祭実行委員役員や各駕輿丁は二月から四月の中頃までの全ての週末を山王祭の準備、会
 合、そして行事に時間を費やします。 裏方も表舞台に出る者もすべて「神様ごと」といって
 互に協力しあい、執り行うのが山王祭の伝統なのです。









 考文献
*比叡山散歩道     編集・発行所 株式会社講談社
*日吉大社と山王権現  著者 嵯峨井建 発行 人文書院
*日吉山王祭      著者 山口幸次 発行 サンライズ出版
*国指定史跡日吉神社境内保存管理環境保全計画 
                   編集 国指定史跡日吉神社境内保存管理環境保全計画策定委員会
                    発行 日吉大社
*週刊古社名刹巡拝の旅 編集・発行所 集英社新書


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