京都と寿司・朱雀錦
(56)新日吉神社関連茶の歴史と茶樹
茶の歴史と茶樹

                        A茶の歴史
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 Ⅰ世界の茶の歴史
 中国は茶の原産地であり、同時に喫茶の風習の起源は中国であるが、その時期は明らかでない。 茶が史料
の上に初めて登場するには前漢時代の文学者王褒が、紀元59年に著した「僮約どうやく」の中である。 

                    Ⅰ.ヨーロッパ人の茶の発見
(1) 16世紀の出会い
  アラビアの貿易商人が9世紀に「中國では茶が塩とともに国王の課税品となっており、中国のいたるところで
 販売され、苦味をもち、湯を注いで飲用せられている」と記してある。 しかし、10世紀に確立した中国医学、古
 代ギリシャ医学と共に世界三大医が一つであるアラビアの医学書「ユナニ医学」にも、13世紀中国に旅行した
 マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも茶に関する記載はなく、中世ヨーロッパでは茶の存在は知られていなかっ
 たと考えられる。
  ヨーロッパ人の書物に茶に関する記事が最初に出てくるのは、彼等が海路東洋へやって来て以後のことであ
 る。 1545年頃イタリア人ラムージオの「航海記集成」の中に茶の事が出てくる。 これが最初と考えられてい
 る。 その中で「中國では国中至る所で茶を飲んでいる。 それは空腹の時、この煎汁を一,二杯飲めば、熱病
 、頭痛、胃病、横腹、関節の痛みが取れるという効果がある。 痛風は効験あらたかな病気の一つである。 食
 べ過ぎの時も、少しこの煎汁を飲めば直ちに消化してしまう」とある。 ともかくヨーロッパ人が中国茶と初めて接
 したとき茶は薬又は客をもてなす時の飲み物だというイメージ持ったのである。
(2) 茶の文化の驚き
  オランダの探検家で地理学者であったリンスホーテンは1596年「東方案内記」を書いた。 これは彼が自らイ
 ンドに赴いた際の見聞をもとにインド、東南アジア、中国などの地域の生活、風俗習慣、動植物の有様を詳しく
 記したものである。 その中で日本について興味深い記事を載せている。 「ヤパン島には多種多様の魚がい
 て、彼等は魚を大いに好む。 また、あらゆる種類の果物がある。 家屋は一般に板葺かわら葺きの木造で美
 しく巧妙にできている。 立派なマットで部屋部屋を飾った富裕な、そして有力な人々の家屋が特に美麗な出来
 栄えである」、また日本では銀が豊富で「種々様々な手職を持つ優秀な職人と創意に富んだ名工がいる」し、人
 々は「あたかも官廷で養育されたかのように礼儀作法がすこぶる優雅で」あると日本を尊敬の目でみていた。 
  そして「食事いついてしきたりは、めいめいが自分だけの小卓につき、食卓掛け、ナプキンは用いず中国人と
 同じく、2本の小さな木で食べ、米で醸造した酒を飲むのであるが、この酒で彼らはよく酩酊する。 彼等は食後
 に、ある種の飲み物を飲用する。 これは小さな壺に入った熱湯でそれを夏でも冬でも耐えられるだけ熱くして
 飲むのである。 このチャと称する薬草のある種の粉で調味した熱湯、これは非常に尊ばれ、財力があり、地位
 があるものは皆、このチャは皆この茶をある秘密の場所にしまっておいて、主人自らこれを調整し、友人や客人
 を大いに手厚くもてなすという時はまずこの熱湯を喫することをすすめるほど珍重されている。 彼等はまたその
 湯を煮たてたり、その薬草を貯えるのに用いる壺を、それを飲むための土製の碗とともに、我々がダイヤモンド
 やルビーその他の宝石のように大そう珍重する」と。
  また、イタリアの宣教師で1601年から死ぬまで(1610)北京に滞在したマテオ・リッチは、その書翰の中で「日
 本では最良の茶は1ポンド10金エスク(1ドル相当)あるいは12金エスクで売られている。 そして日本と中国で
 は茶の飲み方が少し違っている。 即ち日本人は茶の葉を粉にしてスプーンに2~3杯茶碗に入れて熱湯を注
 ぎかき混ぜて飲むが、中国人は茶の葉を熱湯入りのホットに入れて熱湯を飲み葉を残しておく」として日本人と
 中国人のの味方の違いを述べている。 
  それを一つの契機としてとしてヨーロッパ人は一層茶にに対する好奇心をかき立てられ、茶を東洋から輸入す
 ることになった。
(3) ヨーロツパ人が最初に輸入したお茶は日本茶であった。
  東洋航路を最初に開いたのはポルトガル人は東洋特産の絹、虹梁(胡椒)などを輸入しポルガル・リスボンま
 で運んだ。 これらの特産物をリスボンからフランス、ネーデルランド、バルチック海に運んだのはオランダ船で
 あった。 ポルトガルが1580スペインに併合されるとオランダ船のリスボン入航が困難になった。 そこで、オラ
 ンダは1595年直接東インドに船を派遣した。 こうして翌1956年オランダ商船隊はジャバのバンナムに到着し、
 東洋貿易の拠点を築いた。 1609年オランダ東インド会社の最初の船が日本の平戸に来航、翌1610年、オラン
 ダは平戸からバンナムを通じてヨーロッパにはじめて茶を輸出した。 これがヨーロッパにもたらした最初のお茶
 であるという。 ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本茶の緑茶だったのです。 オランダは出島において貿易
 を許されたとは言え、その後日本との茶貿易は衰え、それに代わって中国から茶の供給をうけることになる。
(4) オランダの繁栄と日本の銀
  新世界の発見、新航路開拓の先頭を切ったのは言うまでもなく16世紀のスペインとポルトガルであった。 し
 かし、17世紀に入るとオランダの東洋進出めざましく、同世紀中頃までに、マレー半島からジャバ、スマトラ、香
 料諸島(モルッカ諸島)を始め、台湾、さらに日本との独占的貿易圏を手中に納めて、東南アジアの支配権を握
 った。 オランダのアジア貿易の中心は、17世紀前半では云うまでもなくこの地方の特産物である、香料であっ
 た。 しかし17世紀中頃以降は、絹、綿製品、銅、次いで茶が最も重要な商品になる。 
  当時のアジアは豊かな文明国で、特にヨーロッパから欲しい物はなかった。 だからヨーロッパ人がこれらの
 物を手に入れるためにはどうしても銀を持ってこなければならなかったが、イギリスでもオランダでも銀が不足し
 ていた。んそこで、オランダはその不足分の銀をなにによって補ったかと言えば、まさにまさに日本から手に入
 れた銀であった。 
  オランダは商業活動によって繁栄の基礎を築いたことは言うまでもないが、その繁栄を支えたのは実は日本
 の銀であった。 というのはオランダの繁栄期はふつう17世紀中頃、即ち1640~1670年間が最盛期であったと
 言われる。、その最盛期が、日本からの銀輸出の最盛期と符丁を合わせるように一致しているからである。 
  16世紀から17世紀にかけて日本は当時世界有数の産銀国であった。 当時、世界における最大の産銀国は
 メキシコとペルーでその新大陸の銀がスペインを通じて大量にヨーロッパに流入した。 16世紀末の最盛期にお
 ける銀の流入量は平均20万㎏であったが、これに対し、当時の石見・生野の銀産出量は、数字が得られないも
 のの、メキシコやペルーと肩を並べるほどであったと考えられている。
(5) 飲茶はオランダから始まった
  イギリスへ茶が輸入される前に、中国・日本を含め東洋貿易を掌握したオランダにおいてまず飲茶の風習がは
 じまった。 オランダ史の中で飲茶のことが最初に現れたのは1637年1月2日のオランダ東インド会社の総督か
 らのバタビアの商館長宛ての手紙の中の記事である。 
  そこでは、「茶が人々の間で飲まれはじめていますので、すべての船にその積み荷い日本茶のほか中国茶を
 手配して欲しい」と記されている。
  当時のヨーロッパ人の茶の飲み方を正確に述べることは難しい。 一般に中国、日本では緑茶に砂糖などの
 調味料をいれないが、中国でもチベットではバター茶、モンゴルでは乳茶、として、作り、」粟を炒ったものを茶入
 れて入れて食べる。 ヨーロッパでは17世紀末から18世紀になると砂糖とミルクを入れてのんでいる。

                         Ⅱ.中国の茶
◆中国の茶の歴史
 中国で生まれた茶は、中国で様々に変化し、そして世界に伝播して行き世界中に広がった。 古代に薬として始
まり、食する物として存在していた茶はいつの間にか「喫茶」という形態をとり、嗜好品の茶に変化していったため
に民衆の間にも広く深く根付いていくことになる。
 茶は時代ごとにその飲み方やそれにまつわる文化も様々で皇帝に愛されたことから献上茶として「高級な産品」
としてお地位を確立した。 また国の財源として財源の確保するための茶税や北方民族の支配の為の茶馬貿易と
言った政治的ツールとしても用いられた。 
 そんなお茶は何時しか世界各地に広まり、その地域に根差した独自の茶文化を生んできた。 茶の誕生地であ
り、茶文化発展の中心である中国では近年になって文化大革命により茶文化は大きな打撃を受けた。 長く古い
茶文化の存在が見直され始めたのはここ20~30年のことである。
 中国では、現在、日本や台湾では具組まれた茶道や茶芸を柔軟に吸収する形で、再び茶文化が見直されてい
る。 そのため、たまたま認識や考え方が統一されているわけではない。 様々な入れ方や茶芸が存在している
。 しかい、再スタート、したといっても茶の原産地であり、喫茶の発祥の地であるだけに、中国で生産され茶の多
様性やその周辺にある茶文化の奥行は、他国の茶文化を凌ぐほど深い。 
 このように、多様性に富んだ奥深い茶文化を学んでこそ嗜好としての茶により様々な付加価値を追加すること
が出来るのである。 単にお茶を入れて行為にも、歴史や茶文化が生んだ様々な意味が込められておりこれらを
習得することでより「お客様」に満足して頂けるサービスすることが出来よう。
(1) 古代
  茶の木の起源は6500万年前に遡り、原産地は雲南省、貴州省及び四川省の三省にまたがる雲貴高原の山
 間部であると言われている。 2300年前の地質変化と気象変化により茶の木は大葉種から中葉種、小葉種へ
 と形態変化を起しながら、他地域に広く分布するようになった、 「茶のルーツは中国にあり」と言われるように、
 茶をのむ「喫茶」の原点も中国に求めることが出来る。 実際どのくらい昔からお茶が飲まれていたかは不明で
 あるが、唐の時代に茶聖と呼ばれる陸羽りくうが書いた世界最初の茶専門書「茶経」には、茶は神農しんのう
 (古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一、医薬・農業の神とされている)に始まり、魯ろの周公旦しゅうこうた
 んの時代(紀元前1046年頃)に広がったと書かれている。 つまり、とても古い時代から茶は飲まれていたので
 ある。 
  神農は山を巡り歩き、様々な野草や樹木の実や葉を食べて、どれが人間の体に効果があるかを調べた。 そ
 の中には毒であるものもあり、解毒の為に茶の葉を用いたと言う伝説もある。 「晏子春秋あんししいんじゅう」(紀元
 前556年頃)という書物の中にも茶について書かれており、この時代に茶が食物・飲料としてある程度の広がり
 を見せていたことが分かる。
(2)  漢時代(紀元前206~220年)
  王褒おうほうの「僮約どうやく」という書物に、奴隷と取り交わした契約の中に「お茶は武陽へ行って買え」「器具を
 用いて茶を煮る」と記してあり、四川省周辺では身分のある者はすでに茶を飲んでいた。
(3)  三国時代(220~280年)
  呉の末期に王の孫皓そんこうは家臣の偉曜いようが酒に弱いことを知って宴席で酒の代わりにこっそりお茶を
 勧めたという記録があったと言われている。 そのため、この時代宮中ではすでにお茶が一般的になっていたと
 言われる。
(4)  南北朝時代(739~589年)
  仏教伝来に伴ってお茶の役割が仏教の修行の中で重要なものとされ、寺院を中心にお茶が栽培された。 ま
 た王族以外のインテリ階層にお茶が浸透し始めた時代であった。
(5)  隋時代(581~619)
  文帝が大変なお茶好きでで、これが家臣にひろがり、やがてやがて一般社会に広まる原動力となった。
(6)  唐時代(618~907年)
  この時代の茶については、陸羽の「茶経」に詳しく記載されている。 日常的な飲料として中国全土に広まっ
 た。 日本にはじめて茶がもたらされたのもこの時代と言われている。 陸羽の時代の茶は、茶葉を蒸して固め
 る固形の「餅茶へいちゃ」で、これを藥研やけんで粉にして煮出して飲んだ。 唐代中期になると中国の主だった茶
 の生産地で茶の栽培が開始された。 また、辺境の少数民族と馬とお茶の交換(茶馬貿易)も行われており、さ
 らに、お茶に税金をかけられた。
(7)  宋時代(960~1279)
  茶は専売制になり、国家にとって重要な財源になった。それだけ広く喫茶が広まっていた。  街中には茶館
 が並び酒楼に茶給仕が配置されるなど茶は一般の人々の楽しみとして広まっていたと言われる。 またこのころ
 になると茶の豪商などが出現する。 このころ官廷で飲まれる茶は団茶と呼ばれる固形茶が中心であった。 粉
 にした茶を茶碗に入れ湯を注ぐ点茶が一般的になり、これを飲む器として黒秞の焼き物がもてはやされ「建窯
  んよう
」で作られた茶碗がが有名であった。 
  一方、寺院を中心に茶作りも積極的に行われ、日本に伝来した散茶による抹茶作りも寺院で行われていた
 のでないかといわれている。 西北辺境でも茶の市が立つようになり広範囲に茶が伝わったことを物語ってい
 る。  このころの茶文化については蔡襄さいじょう(1012~67年)の「茶禄」に詳しく記録されており、また徽宗
 皇帝の書いた「大観茶論」には製茶技術とお茶の品質について書かれている。
(8)  元時代(1276~1644)
  元になると、北方の蒙古民族がい国を統制したためやや茶が下火になったが、基本的には宋代のころの茶文
 化を引き継いだものだった。 しかし、バター茶などの北方の飲み方が伝わったとも言われる。 なお、寺院を中
 心に中央政権以外ででは散茶さんちゃ(茶葉のままの茶)が広がりつつあった。
(9)  明時代(1368~1644)
  明時代になるとお茶の在り方が大きく変わった。 農民出身の明の太祖朱元璋しゅげんしょうはそれまでの高級で
 贅沢な固形茶を廃して煎茶を奨励した。 そのため製法も従来の蒸す方法から炒る方法に変化した。 それによ
 り各地に多くの銘茶が生まれた。 更に「煮茶にちゃ」「点茶たてちゃ」から「泡茶あわちゃ」(現在の様にお湯を注いで
 抽出する方法)に喫茶形態も変化していった。 それにより茶の製造方法や茶を飲むための道具も変化し宣興
 紫砂ぎこうしさの茶壺が生まれる。 さらに1610年にはオランダ東インド会社がマカオや平戸でお茶を仕入本国に
 持ち込んだことから欧州へ茶が伝播されたことにより、その後の茶の世界地図が塗り替えられた。
(10) 清時代(1636~1912)
  明代から清代に移ると、大都市ならず地方都市も茶館や茶楼が随所にでき、大いに繁盛した。 緑茶に加え
 て、烏龍茶なども注目を浴びるようになる。 特に武夷岩茶ぶいがんちゃ(青茶)は注目を浴び、奥州へ輸出される
 ようになった。 有名な詩人袁枚えんばいは「隋園食単ずいえんしょくたん」の中で天下の茶で最も良いのは武夷山に産
 する茶であると述べている。 
  なおこの武夷山に近い星村の「正山小種せいざんしょうしゅ」が紅茶を生むきっかけと言われている。  第4代康熙
 帝こうきてい(1661~1722)と第6代乾隆帝けんりゅてい(1735~95)はお茶好きの皇帝として知られ多くの銘
 茶が献上茶として生まれている。 特に乾隆帝はお茶に関する詩や逸話を残している。
  18世紀になると英国では喫茶が普及し始め、紅茶(初期は緑茶)が輸入されるようになった。 茶貿易増大の
 ため英国から銀が流出し、その流れを食い止める策として英国がアヘン貿易を始めたため、悲劇のアヘン戦争
 が勃発し、清朝の崩壊へと繋がることとなった。 1823年英国雨人ブル-スによってアッサムで茶樹が発見され
 た後、英国がインドの紅茶プランテイションを成功させた為中国の茶の輸出は大きく減少していくことになる。
(11) 中華民国(1912~1949)
  この時代は戦乱の時代であったが、茶業は引き続き活況であった。 茶の生産地は各地に広がっていた。 
 また宣興の紫砂茶壺は官製のの工場が稼働しておりこの時代に多くの普及品が製造されている。
(12) 中華人民共和国時代(1949年以降)
  戦後、毛沢東時代を経て1966年に始まり10年以上いた文化大革命の粛清の嵐の中で、贅沢品である茶は大
 きな打撃を受けた。 多くの茶畑が伐採された。 また工芸品である茶器なども多く破壊されたと言われてい
 る。 その後、1980年になって国を挙げて農業振興がはかられ茶業も復興した。 現在では中国の各地区の茶
 業研究所などの尽力によって再びブームが到来している。
(13) 台湾の茶の歴史
  台湾では、17世紀には野生茶樹を先住民が自家製のお茶を製造していたと言われるが、清時代に柯朝かちょう
 氏武夷山から台湾北部に茶の苗木を入植(1796年)し、台湾に茶が持たされた。  また鹿谷郷の林鳳池が福
 建省から軟枝烏龍種苗を36本持ち帰り12本を凍頂山に植樹した。 
  1862年にはイギリス人ジョン・ドットが李春生りしゅんせいと逮捕kで商社を作り福建省の製茶技術を導入、
 Formosa Tea」の商品名で北アメリカに輸出した。 更に1881年には福建省の茶商呉福源ごふくけんが包種ほうしゅ
 茶の製造法を伝えことで茶の生産と輸出が大幅に拡大した。
  その後日本統治時代(1893~1945)には、茶製造試験場を設立し、製茶機械を導入して茶の品質を向上させ
 たり、検査機構を確立して茶産業の振興させた結果生産量や輸出量も飛躍的に向上した。
  1912年台湾では中華民国元年とし、1926年にはインドがアッサム種の苗を取り寄せ、南投県魚池区に植え、
 台湾紅茶の生産を開始した。
  1970年以降は台湾の烏龍茶がブームとなった。 都市部には茶芸館が出来台湾茶の作法である茶芸が誕生
 した。 凍頂山烏龍茶とうちょうざんうーろんちゃは高山茶として世界的に有名となり現在にいたっている。
◆中国茶の分類
 中国の茶は非常に沢山の種類が存在している。 勿論これらは日本茶や紅茶と同じカメリア・シネンシスに属す
る植物の葉を使って製茶する。 茶葉に含まれるカテキンの酸化発酵の度合いにより「緑茶」「白しろ茶」「黄き
茶」「青あお茶」「黒くろ茶」「紅こう茶」の6つに分るのが代表的である。 ここではさらに茶葉の加工過程で緑茶
などんじ各種の花の香りを着香したものや鼻そのものを茶として用いる花茶を加えて7代分類とした。
(1) 緑茶りょくちゃ 
  今ある中国茶の中で最も古い歴史を持つのが緑茶であり、中国茶全体の60~70%を占めている。 緑茶は
 摘採後、茶葉の主成分であるカテキンを熱処理して酸化発酵をさせないさせないお茶で、そのため鮮やかな緑
 色が保持されることから緑茶と命名されている。 
  釜で炒って火入れするため茶葉がそのまま復元する。 そのため、香が高く、茶の水色はは淡く渋みも少なく
 、さっぱりとした味わいになる。 直接茶葉をコップや蓋碗がいわんに入れて、そのまま飲むのがポプラ―であ
 る。 
  緑茶は、篭ににいれて炭火で乾燥させた「烘青きょうせい緑茶」、鉄の釜で炒って発酵を止め(「殺青」)乾燥さ
 せた「炒青しょうせい緑茶」、蒸気によって発酵を止める「蒸青じょうせい緑茶」、日光に晒して発酵をとめる「晒青さいせ
  い
緑茶」の4つに区分されている。 
(2) 白茶しろちゃ 
  新芽の白毛が多い品種を使う発酵度のとても軽い茶。 白に産毛うぶげに包まれた茶葉を利用することからこ
 の名が付いた。  白茶の名前が歴史上に現れたのは宋代の徽宗帝(1100~1125)のときだが、当時の白茶
 の製法が異なるようであり、現在の様な白茶は太平天国の時代(1857)に創始されたようである。  「淡香淡
 味」が特徴、水色(湯色)は他より淡く味もあっさりしていて飲みやすい。 主に福建省北部一帯が産地であり、
 福鼎大白種ふくていだいはくしゅなどの品種などの品種を利用して作られる。 茶摘みの方法が芽だけの一芯一葉を
 加工した白芽茶と一芯二葉、三葉を加工した白葉茶の二つに分類されている。 
  白茶は摘んだ茶葉を円形の平らな籠やござに広げ塩らせ(萎凋いちょう)かごに紙を敷いて弱火で乾燥させ、発
 酵を止めるという非常に原始的な製茶法を用いる。 揉捻を行って強制的に発酵をうながすことはせず、しおら
 せて段階的にゆっくりと発酵を進ませるのが特徴。 「弱発酵茶」という。
(3) 黄茶きちゃ 
  黄茶は日本ではあまり飲まれない軽度の後発酵茶である。 一説には古代からあるとされているが、黄茶の
 製法は明代の文献上(1571)はじめて現れたと言われ、18世紀に製法が完成されている。 
  性質は「緑茶」と「黒茶」の中間でどちらかと言えば「緑茶」方に近い位置にあり、「黄渇黄葉」が特徴とされて
 いる。 もともと黄茶は安徽省から湖北省にかけて多く作られるお茶だが、この一帯は雨量が少なく夏に乾燥し
 土壌がアルカリ性傾向だったため葉は硬くなりやすく芽も黄色という特徴があった。 そのため一番茶は高級茶
 として出荷できるものの、二番茶は扱いが難しく、緑茶の製茶工程で半乾きのまま蒸し黄変したものを焙煎し飲
 めるようにしたものが黄茶になったと言われる。 
  芽だけを使った黄芽茶こうがちゃ、若葉で作る黄小茶こうしょうちゃ、少し大きくなった硬い葉を用いた黄大茶こうだい
  ちゃ
の三つに分類される。 製造工程がほかの茶とは異なり悶黄もんこうという湿った茶葉を放置し意図的に軽発
 酵させる工程が加わっている。
(4) 青茶あおちゃ 
  日本でも有名な烏龍茶や鉄観茶に代表される半発酵茶(不完全発酵茶)が青茶である。 清代(1855~)の
 製法が確立され緑茶の「鮮爽滋味せんそうじみ」と紅茶の「濃厚香気のうこうこうき」を併せ持っ福建省、広東省、台湾な
 どで生産されているお茶である。 東南アジアをはじめ各地に広がっていって行った華僑が好むことから青茶が
 世界に広まったと言われている。
  半発酵といってもその幅は広く、8%程度の(包種茶ほうしゅちゃ)から80%(紅烏龍)程度の幅がある。 そのた
 め味や香りのバリエーションも非常に豊で発酵度が高くなるにつれて香りや味も淡いものから芳醇へ変化す
 る。 青茶の主要生産地は福建省北部の武夷山(武夷岩茶)、南部の安渓(鉄観茶)などである。
(5) 黒茶くろちゃ 
  晒青緑茶を蒸して型でで固めた曲型的な発酵茶が黒茶である。 文献上ではじめて現れるのは11世紀末の
 北宋時代であるが、モンゴルなど内陸部への輸送の便を考えて作られたことから、緑茶と同様歴史の古いお茶
 である。
  タンニンの多い大葉種で作られたため、そのままでは飲みにくい緑茶を放置しタンニンを減少させたものがこ
 のお茶の始まりであると言われる。 従って放置している間に自然に麹菌がついて後発酵したお茶だといえ
 る。 近年では故意に菌を付けて黒茶を製造していることから緑茶ベースの物を「生茶」、人為的に菌発酵させ
 たものを「塾茶」と呼ぶ。
  黒茶には、散茶のものだけでなく固形化された茶が多く見受けられる。 大きな皿の様な円盤型に固形にされ
 たお茶を餅茶へいちゃ、お碗型のようなものを沱茶とうちゃ、レンガのような形のものを磚茶せんちゃなどと呼ぶ。
(6) 紅茶
  イギリスの紅茶文化お発展させた、全発酵のお茶出る。 明末期から清初期(1643年頃)に創作された。 そ
 の頃、東洋と接触を始めていたヨーロッパ人の嗜好にあったことから広く普及した。 世界のお茶文化の源泉の
 お茶である。
  中国の紅茶は工夫こんふ、紅茶,小種しょうしゅ紅茶、紅砕茶こつさいちゃに区分できる。 工夫は丁寧に時間と労力
 をかけて作る紅茶という意味で、高級紅茶の代名詞のようになっている。 手間をかけるだけあって生産量は少
 量で高価である。 中国を代表する紅茶の多くは工夫紅茶であり安徽省の祁門紅茶ギーモンコウチャは世界を代表
 する紅茶といえる。 このほかにも雲南省の滇紅てんこう、四川省の川紅せんこう、福建省の三大工夫(坦洋たんよ
 う、政和せいわ、白琳はくりん)などが有名である。 
  一方、小種紅茶は、大葉種を松の木や桐の木で燻焙した煙臭の強い紅茶でヨーロッパに主に輸出し紅砕茶
 は紅茶の茶葉を小さく裁断した茶葉で製茶は工夫紅茶の工程を簡素化したものが主流で、大量生産され、ティ
 ーバッグなどにも利用されています。  しかし、ヨーロッパとは異なり、ミルクや砂糖は一切用いません。
  主たる製茶法は浅く大きな水槽の上部に金網を張った萎凋槽の上に一定の厚みに広げ、下方から送風機で
 風を送って茶葉の水分を飛ばす。 更に揉捻機にかけて撚をかける。 発酵は酸素が充分に行き渡るように、
 発酵棚に10㎝程積重ね、室温25℃、湿度80%程度の環境で数時間おこなう。 最終工程の乾燥は毛火
 (110℃で、10分)、足火(85℃で15分)の2工程に分けて行われ、完成した荒茶を選別した。 後に最後の乾燥
 を行う。
(7) 花茶はなちゃ 
  花と一緒に加熱し、花の香りを緑茶、白茶、青茶などに着香したものやブレンドしたもの、茶葉を糸などで結わ
 えて中に花木を仕込んだもの(工芸茶)など様々な花茶がある。  花茶を代表するジャスミン茶の場合、香りを
 吸いやすい烘青緑茶を原料とし俗に「三●いん一提」という、茶葉とジャスミンを一緒にして花の香りを付ける工
 程をて経て製茶される。 春に摘まれた茶葉は荒茶にした後、ジャスミンが咲くまで倉庫で丁寧に保存される。 
 ジャスミンの蕾が膨らむと蕾の状態で工場に運ばれ、花が咲き始めるのを待って、茶葉に花を包むようにかぶ
 せ5時間程度放置します。 茶葉は自然に50℃弱まで上昇する。 香りが付いたら蒸れないように風を通すよう
 に茶葉と花お混ぜて、約5時間放置し、一定の温度に下がったら再び堆積を作り5時間放置します。 茶葉は花
 の水分を吸収しいるので軽く乾燥させます。 これで1●いんが終了し、これを3~4回繰り返します。 1回の香
 り付けに用いられる茶葉は、茶葉100㎏に対しジャスミン50~60㎏程度使用します。 花の香りが移ったら、篩を
 使って花を取除きます。 
  一方、工芸茶は安徽省の汪芳生おうほうせい氏が開発した茶です・。 工芸茶は一つ一つ職人が精込めて手
 作りした芸術品です。 手済みの一枚一枚を手で揉んで、それを糸で束ねた中に花を入れて、包み込む」ように
 ほぼ円形に揃えます。 この工芸茶をガラスのポットにお湯を注ぐと茶葉が開き、中から色鮮やかな花が顔をの
 ぞかせます。

                           Ⅲ 紅茶
 現在、水を除き世界で最も飲まれている飲み物はお茶であり、世界的飲料の一つである。 生産国は30か国以
上、そして消費国は世界中に広がっています。 カメリア・シネンシスという茶の木からは、紅茶と同じく緑茶、ウー
ロン茶も作られていますが、世界の茶総生産量は年間約340万トン。 その内の約3/4の250万トンが紅茶、約
1/4の90万トンが緑茶、そして数万トンが烏龍茶である。
 茶樹は中国雲南省付近が原産地と考えられており、中国では古くから医薬かたは飲料として利用されていた。
 それが17世紀に海を渡りヨーロッパに運ばれ、特に紅茶がイギリス人の嗜好合い、初めはイギリスに続いて、世
界中に広まった。

  1.イギリスに定着した紅茶
(1) コーヒー・ハウス
  イギリス人が最初に茶について言及したのは、日本の平戸へ来航したイギリス東インド会社の駐在員R・ウイ
 ッカムが、ミヤコの同会社の駐在員に宛てた1615年6月27日付の手紙で、その中に茶を1壺送ってほしいと述
 べている。 オランダ人に次いでイギリス人も日本を通じて茶を知ることになった。 ところで、何時ころ茶がイギ
 リスに入ったか、正確な処は分からないが、オランダ、フランス、ドイツへ入ったとほぼ同じ頃、即ち、1630年代
 中頃にオランダを通じて入ったと考えてよいであろう。 ただ、イギリスで茶が一般に市販されたのはかなり後の
 1657年、トーマス・ギャラウエイというロンドンのタバコ商でかつコヒー・ハウス店主が、茶の葉を売出すと同時に
 店で茶を飲ませたのが最初であるといわれている。
  コーヒー・ハウスは、17世紀から18世紀にかけて、イギリスで流行した喫茶店で、社交場の機能も兼ね、大き
 な社会的役割をはたした。 もともとコーヒーはイスラム世界に発するものであった。 16世紀半ばオスマン帝国
 の首都イスタンブールで世界で初めてカフヴェハーネ(コーヒーの家)が開業し、喫茶店兼社交場の機能を果た
 した。 ロンドンにコーヒー・ハウスが開業したのは1652年である。 多くの客のたまり場となったコーヒー・ハウ
 スでは酒を出さず、コーヒー、タバコを楽しみ、新聞や雑誌を読んだり、客同士で政治談議や世間話をし情報収
 集の場として重要な役割を果していた。
  お茶を飲むのは上流階級の者であったから、値段もべら棒に高く、1ポンド(重量)6~10ポンドという高価な根
 がついた。  ギャラウエイで売られた茶は病気の予防と治療に特によく効くというので有名あったが、、店主は
 1660年、片面刷りのポスターに茶の効用を記して茶の宣伝広告をはじめた。 このポスターは近世イギリス広告
 史の草分けを飾る意味において重要な意味を持つものである。 
  広告は茶に関する一般的な紹介に当たる前半と茶の特効を記した後半の二つの部分からなっている。 まず
 前半に置いて「茶は、古い歴史と優れた知識で有名な諸国民(中国と日本)間ではしばしばその重さの2倍の銀
 と交換されている。 茶がら作られる飲み物は高い評価を受けており、これら東洋諸国へ旅行した各国の知識
 人の間で、茶の性質に関する調査が行われてきた。 あらゆる方法で厳密に検査した結果、茶を飲めば、完全
 に健康を保って驚くほど長生きが出来ると識者たちは茶の利用を進めている」としている。  後半の部分では
 茶の適応症として勢力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風雅な
 ど14の症状を上げている。
  当時のイギリス人にとって中国や日本は優れた文化を持った神秘な先進国で、茶はまさにその代表的な文化
 に他ならない。 だから金持ち連中はもとより、誰もがいくら高い代価を支払っても東洋の霊験あらたかな神秘
 的飲み物を手に入れたいと思ったであろう。
  当時イギリスをはじめヨーロッパ各国にほぼ同時に入った舶来の飲物としてチョコレート、コーヒー、茶の3種が
 ある。 薬の効果から言えば、カフェインの含有量の多いコーヒーの方が覚醒剤としての効果では茶にひけを取
 らなかったであろうと思われるにもかかわらず、茶だけがこんなにもてはやされるのは、彼等の東洋文化に対す
 るコンプレックスからきているのである。 イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し東洋の優れた
 文化、物産の模倣、製造、ついで東洋への攻撃的進出という形で展開して行くのである。
(2) 薬から飲料へ
  薬であった茶が飲物に変わって行くきっかけはチャールズ2世時代の宮廷における東洋趣味であった。
 1662年チャールズ2世のもとへ嫁いできたポルトガル王の娘ブラガンザのキャサリンはその手土産にインドのボ
 ンペイのほか、東洋の飲茶の風習を宮廷にもたらした。 宮廷では女性も男性も飲物と言えば、朝から晩までワ
 イン等に飲み浸っていたのであるが、茶の愛好家キャサリンの影響もあって東洋の茶が従来のアルコール飲料
 に変わってファッショナブルな飲物になった。 
  彼女の茶趣味は広く知られていたようである。 1664年東インド会社の船がバンタムから帰港した際、銀のケ
 ースに入った肉桂ニッケ油と良質茶葉を献上したところ、これが宮廷で非常に喜ばれ、それ以後、大量の茶が
 献上品のリストに載るようになった  女王の趣味に習うように、茶は上流階級の女性の間に次第に人気を集
 め、茶はコーヒー・ハウスから次第に家庭の中に入って行き、17世紀末頃には上流階級の家庭の飲物として普
 及した。 
(3) 生活革命
  チャールズ2世の死後、1685年ジェームズ2世が即位したが、彼は露骨な旧教復活政策を取ったため、イギリ
 ス議会に反対され失脚し、そ後ウイリアム3世とメアリー2世が王位を継承した、これを「名誉革命」と呼んだ。 メ
 アリー2世も東洋趣味であった。 更にメアリーの妹アンは1683年デンマークの王子ジョージと結婚していた。 
 やがて義兄の後を継いでアン女王(1702~14)として王位についた。
  アン女王も東洋趣味の愛好家であったが、とくに飲茶が、ファッショナブルな飲物として宮廷から上流階級の間
 に広がった。 イギリスの貴婦人たちの間では、中国製の小さな磁器碗で中国茶を飲むのが当代の風俗となり
 、たいていの家庭には飲茶用の丸いティ・テーブルが備え付けられていた。 当時は食べ物や飲物を出すのに
 盆に載せて出すのが流行していた。 盆の使用も東洋趣味の一つであった。 また中国産磁器の茶道具一式、
 ティーポット、茶壺、砂糖入れ、ミルク入れなどを揃えていることは、富と地位のシンボルであった。 
  ティとティ・テーブルを中心とする東洋趣味の流行は、イギリスの社会生活に大きな変化をもたらした。 例えば
 朝食は16世紀後半エリザベス一世の時代は牛肉を三切れと言っていたのが、18世紀初めには革命的変化が
 起ってティとバターつきのパンで朝食をとる習慣が確立した。 また宮廷の日常の飲物もエール、ビール、サイダ
 ー、ワインであったものが、今やティが中心的飲物となった。 そのほか18世紀に新しくイギリス人の食卓に登
 場したのがジャガイモ、米、トマト、アスパラガス、ほうれん草があり、18世紀初めからデザート、果物が付くよう
 になった。例えばナツメヤシ、イチジク、レモン、オレンジ、ライム、西瓜、桃、イチゴ、パイナップルといった果物が
 豊富に食卓をにぎわした。 こうした食生活における大きな変化は、インドからの舶来綿布によって引き起こされ
 た衣料革命と合わせイギリスに生活革命をもたらした。
(4) 輸入品品目の主位
  イギリスに東洋の産物を運び生活革命をもたらすのに中心的役割を果していたのはイギリス東インド会社であ
 る。 イギリス東インド会社の記録によると、ティが表れるのは1660年代の初めからである。 
  東インド会社のアジアからの輸入額の最大を占めていたのは、インドの繊維製品で、18世紀初めのまでは、
 全輸入量のほぼ70%を占めていた。 中世以来東南アジア貿易の中心であった胡椒の輸入は17世紀までなお
 20%を越えていたが、18世紀になると5%に満たないほどその重要性をうしなっていた。 それに代わって18世
 紀初めから急速に輸入量として]増大の一途をたどったのが中国からの茶の輸入であった。 茶は1760年には
 総輸入額の約40%、数量にして620万ポンドを占めアジア貿易の重要品目にのし上がっていた。 
(5) 緑茶の輸入
  東インド会社の記録に茶の輸入がはじめて登場するのは1669年143ポンド(重量)の茶がパンダムから輸入さ
 れた。 しかしその後、会社は長い間茶を定期的輸入品の中に入れなかった。 1680年代の中頃になってよう
 やく毎年良質の茶を数箱本国に送るようにとの指令をだしている。  オランダ東インド会社はすでに1637年毎
 年定期的に輸入する様指令を発しているからそれに比べると50年ほど遅れていた。 しかし、イギリスは17世紀
 末まで茶取引を安定的基盤の上に載せることは出来なかった。 18世紀になり本格的な輸入が始まる1713年
 までにイギリスは直接広東港に接近する権利を得て1717年から中国との直接的茶貿易が始った。 
  それではイギリスはどんな種類のお茶を輸入したのであろうか。 1702年の東インド会社の買い付け注文によ
 れば、シングロ緑茶2/3、インペリアル緑茶1/6、ボヘミア紅茶1/6の割合で送るべしとある。 緑茶に対す
 る需要が圧倒的に多かったことが分かる。 ところが、18世紀を通じて緑茶の割合は次第に減少して行く、一方
 紅茶の割合が年々増加して行く。
(6) 茶の入る前の飲物
  茶が入る前にイギリス人が日常の飲物は主として水及び自家製のエールを飲んでいた。 エールは、麦芽とイ
 ーストと水だけで醸造する一種のビールで、ビールと異なるのはポップを使っていないことであった。 イギリス
 の水は軟水で大陸の水とは異なり飲用に適していた。 また緑茶には適していた。
  イギリスにビールが入ったのは15世紀のころであった。 しかし、上流階級でも日常の飲物はエールであっ
 た。 ワインは全くなかったわけではなかったわけではないが、フランスからの輸入の物が主であったし、またリ
 ンゴから作るサイダー(英語圏ではリンゴ酒のこと)もあったが、いずれのも上流階級か特別の行事の時の飲物
 で、庶民の飲物でなかった。 
  ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると水はべつとして最も飲物の貧弱な国であったとい
 える。 だから、フランス、イタリア、スペインと言った地中海のワイン文化圏ではお茶は割り込む余地がなかっ
 たのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入り易かったと言うことができる。 
(7) アラビアの飲物「コーヒー」
  コーヒーは、世界三大嗜好飲料「コーヒー」「茶」「チョコレート」の一つで、何時頃から人間に利用されていたか
 わはっきりしない。 コーヒーのメイン種「アラピカ」の原産地がエチオピアであることは今日明らかになってい
 る。 それがそれがどうして中東特にトルコの飲料として定着したかはまだわかっていない。 11世紀にアラビア
 の医師がコーヒーは眠気を覚まし、胃に特効があると文献に残している。 Hobson-Jobson「英印口語事典」に
 よれば、コーヒーは15世紀の間にアデンからメッカ、カイロ、ダマスカス、アレツポをへて、コンスタンチノーブルに
 広がり、アラビア人の間で広く飲まれていた。 コンスタンチノーブルには1554年最初のコーヒー・ハウスが出来
 た。 ㇾヴァント地方に貿易をしていたのはイタリア商人であったから、ヨーロッパにはまずイタリアに入ってき
 た。  コーヒーがイタリアにはじめて輸入されたのが1580年と言われるが、16世紀後半には、東方へ旅行した
 者を除き一般のヨーロッパ人はコーヒーは知らなかった。 17世紀にアジア、中東方面に進出したイギリス、オラ
 ンダの貿易商人によって注目されるようになったが、コーヒーがアフリカ南端喜望峰回りでヨーロッパへ定期的
 に入ってくるようになったのは、17世紀中頃のことである。
  ヨーロッパで最初のコーヒー・ハウスは1650年イギリスのオックスフォード、次いで1652年ロンドンに出現し
 た。  次いでヨーロッパ大陸は、1671年マルセーユが最初であった。
  ところで、イギリス東インド会社の記録にはコーヒーの買い付けは17世紀末から1730年までは、茶よりコーヒ
 ーの輸入が」圧倒的におおかった。 つまりイギリス人は茶よりコーヒーを愛好したのえある。  16601年代初
 めのことであり、  ところが18世紀初めから世界のコーヒー市場に大きな変化が起こった。 つまり、コーヒーの
 生産・供給麺でオランダが、17世紀末に、ジャヴァ続いてセイロンにコーヒーを移植し、1713年からジャヴァコー
 ヒーををヨーロッパに輸入し始めた。 オランダはジャヴァコーヒーのコストダウンに成功したのです。 
  オランダのジャヴァ・セイロンの栽培コーヒーのコストダウン競争に破れたイギリスはやむなくアジア貿易に力
 点をコーヒーから中国茶の輸入にうつした。
(8) 「神の食料」ココア
  カカオの実であるカカオ豆を発酵、乾燥、焙煎、摩砕したもので液体のものをカカオリカ、冷却固化したものをカ
 カオマスと呼ぶ。 カカオマスから油分を分離した油分がココアバター、油分を除去したものをココアパウダーと
 いう。 ココアパウダーを熔かした飲料の略称がココアである。 チョコレートはカカオマスを原料としこれに差と
 言う、ココアバター、粉乳などを混ぜた物で液状(飲料)と固形(菓子)がある、  茶が中国、コーヒーがアラビア
 からヨーロツパへ導入され、ココアは新大陸からもたらされた。 すなわちココアはスペイン人コルテスが新大陸
 メキシコにおいて発見したものである。 
  16世紀の初めコルテスが発見した当時、カカオはインデアンによって「神の食料」として高い評価を与えられて
 いたばかりでなく貨幣として使われていた。 カカオの実10個で兎1匹、100個で奴隷1人と交換されたし、酋長
 への貢納もカカオで支払われた。  金持ち連中は「チョコラトル」を飲んでいた。 これは、トウモロコシとカカオ
 の実を石臼で挽いて唐辛子を加えて煮沸したもので、ヨーロッパ人が飲めるものでなかった。 
  ココアがはじめてヨーロッパ送られたのはようやく16世紀も終わりになってからであった。 やがて、スペイン人
 はココアに砂糖を入れ、さらにヴァニラと肉桂ニッキ、シナモンを混ぜれば美味しい飲物になることを知った。 こ
 うして新しい飲み方を発明したのはグアナカの尼僧院の尼僧であったと言われている。 この様に鋳て作られた
 ココア及びそれをケーキにしたチョコレート・ケーキはスペインがその秘法を独占していたのです。   ココアの
 使用は、やがてイタリアに、続いてフランスに拡がった。 程同時にオランダ特にアムステルダムでもポピュラー
 な飲物になっていた。 イギリスにも同じころに入ってきたようである。 しかし、ほゞ同時に舶来飲料として入っ
 てきた茶・コーヒー・チョコレート(ココア)のうち、イギリスで最初に脱落したのはチョコレート(ココア)であった。

  2.紅茶文化
(1) 東洋の食事文化
  16世紀に東洋へ渡航したヨーロッパ人を最も驚かせたのは中国や日本の優れた料理と食べ方、マナーであっ
 た。 リンスホーテンは「東方案内記」の中で中国の料理に目を見張った。  中国では「食卓の中央に上手にこ
 しらえた料理を順序良く並べる。 料理はまことにすばらしい出来栄えで美しい磁器や皿に盛ってある。 魚や肉
 は大骨小骨をすっかり抜き取り、どんなものでも料理はあらかじめ切ってだされる。 料理は決して手で取っては
 ならない。 丸く作った2本の黒い木で挟みとるのである。 彼等はそれをフォークの代わりに使うのだが実に手
 慣れたもので、一かけらもおとさない。 だから汚れをぬぐうナプキンとか手拭は全然用いない… 」と彼は中国
 料理に接し畏敬の念をこのように記していた。 
  ヨーロッパ人が始めてみる中国料理に驚いたのもむりはない。 当時のヨーロッパの食事文化は素材といい、
 調理の仕方といい、実に貧弱であったという。 ただやたらに量を多くすることが豪華な食事であって、味付けや
 調理に趣向を凝らした料理というにはほど遠かったのである。 
  すでに料理は中国では5世紀のころから、アラビアでは11,12世紀のころから発達していた。 西洋では、15世
 紀になってはじめてアラビアの影響を受けてイタリアにおいて調理に工夫が凝らされるようになり、ついでフラン
 スが16世紀以降料理の本場となる。 
  いったい中世ヨーロッパ人はどんな食事をとっていたのか。 農牧業に依存していた中世ヨーロッパ人は、牧草
 や資料が乏しくなる冬にh家畜の数を制限しなければならなくなる。 そのため冬に備えて、一定に家畜を屠殺
 し、その肉を塩漬けにして保存した。 塩漬けの肉を1年を通じて食べるわけであるから、いきおいその料理方も
 いかにしてそのくさい臭いと塩辛さを抜くかということが中心であった。 そのために調理のコツというのは、胡椒
 、しやうが、肉桂ニッキなどの香料を混入して美味しいソースやブディング(小麦粉、米、ラート、肉、卵、牛乳など
 の材料を混ぜ、砂糖、塩などの調味料や香料で味付けし、煮たり、焼いたりして固めた料理の総称、プリンの1
 種)をつくる。 ことであった。 いずれにしてもこうした料理には香料が欠かせなく、その香料は何れもアジアの
 産で、東南アジア、インドからはるばるアラビア商人を仲介してヨーロッパへもたらされてきました。 
  塩漬の肉と並んで干物の魚もあったが、それらは、テーブルの上に盛皿でアラカルト(一品料理)風に並べて、
 それを各人は手でつまんで取って食べた。 食卓には、古くからスプーンとナイフはあるにはあったが、スプーン
 は16世紀までは広く使用されなかった。 スプーンの多くは、先の部分が木製で握手の部分は金属製であった
 が、皿から取り分けるるときは、スプーンでなく手でつまんで取った。 ナイフについても同じく、16世紀以前には
 食事によばれる時は、めいめい自分のナイフをもって出かけた。 そのナイフも先の方が幅広で、古いタイプの
 両刃のナイフで、固いパンを切るのに使った程度で、骨の付いた肉にはほとんど役に立たなかった。 水または
 ワインを飲むグラスも主として石のグラス(高級なものは錫製)で1つのグラスを回し飲みして飲んだ。 
  フオークは二本の足の着いたもので、お客に肉を取り上げるときだけ用られた。 個人用のフォークは16世紀
 頃から、ヴェニスで用いられ始め、それがイタリアからスペインに広がった。  しかし、イギリスでは、1660年以
 前にはフォークあ用いられていない。 それがイギリスで一般に使用あれるようになるのは、1750年頃のことで
 ある。 それまでフォークの代わりに指でつまんだ。 指の汚れはナプキンで拭き、卓上のボウルで洗った。 そ
 れを食事中に何度も繰り返した。  
  ヨーロッパ人が茶を東洋、特に日本や中国において発見した背景には、豊かな東洋の食事文化への畏敬と憧
 憬があった。 茶はいわば文化の一つのシンボルで、従って茶の葉だけでなく、茶道具とくに陶磁器のポットと
 茶碗の飲み方、儀礼がセットになって、彼等を魅了したのである。
(2) 中国の磁器
  ロンドン大学のチョウドリ博士は次の様にのべている「17,8世紀における中国陶磁器の輸入はヨーロッパにお
 けるティ、コーヒー、チョコレート」の消費と関連して出現した新しい社会習慣の、文化的側面を代表している。 
 中国陶磁器は、わらで包むと臭いがせず、したがってティと一緒に運ぶには理想的な補助貨物であった。 磁器
 を詰め込んだ茶の包装箱は、酷く重量があり、船に必要なバラストとしてつみこまれた」  中国の時期の名は
 すでに14,15世紀にヨーロッパ諸国の諸王族の調度控えなどに使われたというが、16世紀以降西欧諸国の東ア
 ジア進出につれてヨーロッパの輸出された中国磁器の数は膨大なものとなっていた。 17世紀中ごろから、
 18世紀中頃に至る時代は磁器輸入のピークをなし、当時のヨーロッパにおける中国磁器の流行は凄まじく、中
 国磁器ブームに載って日本からも有田の染付で柿右衛門の赤絵がオランダを経て大量にヨーロッパへ輸出され
 た。 
  ティやチョコレートの舶来飲料を嗜む者は、高価な芸術品である中国製のティ・ポットや茶碗などを使うのが当
 時のナウな風俗であった。 ヨーロッパは、食事文化のみならず、磁器文化においても中国や日本の前に頭を
 下げざるを得なかったのである。 
  こうしたヨーロッパ人の東洋文化の傾倒は単なる美術史上の東洋趣味という以上に重要な意味をもつている
 のである。 というのは、東洋趣味はオランダ、フランス、イギリスなど17世紀から18世紀はじめにかけてヨーロッ
 パ諸国に広く見られたけれどもその中で、茶を選択したのはイギリスだけであった。
  茶とほぼ同時に入ったコーヒーにはアラビア文化の背景があったのにしても17世紀のヨーロッパ人にとってコ
 ーヒーはもはや神秘的な飲物ではなかった。 また、チョコレートについては、ヨーロッパ人の優越感をかき立て
 るのでこそあれ、その文化的背景は問題にしなくなっていた。 ところが、東洋文化のシンボルであった茶はコ
 ーヒーやチョコㇾ-トに比べるとはるかに高いランクを占めていたばかりか、西洋人に強いコンプレックスを」抱か
 せるものであった。  とくにコーヒーはにおいてオランダに破れたイギリスが、風土的条件に適していたこともあ
 って、茶を選択しなければならなかったことから中国のコンプレックスとなり、」それがインパクトとなって逆に文
 化的、経済的、政治的レスポンスへとイギリスをかき立てることになる。 このようにしてイギリス近代史が形成
 されてゆく。
(3) ヨーロツパ人が最初に輸入したお茶は日本茶であった。
  東洋航路を最初に開いたのはポルトガル人は東洋特産の絹、虹梁(胡椒)などを輸入しポルトガル・リスボン
 まで運んだ。 これらの特産物をリスボンからフランス、ネーデルランド、バルチック海に運んだのはオランダ船で
 あった。 ポルトガルが1580スペインに併合されるとオランダ船のリスボン入航が困難になった。 そこで、オラ
 ンダは1595年直接東インドに船を派遣した。 こうして翌1956年オランダ商船隊はジャバのバンナムに到着し、
 東洋貿易の拠点を築いた。 1609年オランダ東インド会社の最初の船が日本の平戸に来航、翌1610年、オラン
 ダは平戸からバンナムを通じてヨーロッパにはじめて茶を輸出した。 これがヨーロッパにもたらした最初のお茶
 であるという。 ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本茶の緑茶だったのです。 オランダは出島において貿易
 を許されたとは言え、その後日本との茶貿易は衰え、それに代わって中国から茶の供給をうけることになる。
  また、イタリアの宣教師で1601年から死ぬまで(1610)北京に滞在したマテオ・リッチは、その書翰の中で「日
 本では最良の茶は1ポンド10金エスク(1ドル相当)あるいは12金エスクで売られている。 そして日本と中国で
 は茶の飲み方が少し違っている。 即ち日本人は茶の葉を粉にしてスプーンに2~3杯茶碗に入れて熱湯を注
 ぎかき混ぜて飲むが、中国人は茶の葉を熱湯入りのホットに入れて熱湯を飲み葉を残しておく」として日本人と
 中国人のの味方の違いを述べている。 
  それを一つの契機としてとしてヨーロッパ人は一層茶にに対する好奇心をかき立てられ、茶を東洋から輸入す
 ることになった。
(4) オランダの繁栄と日本の銀
  新世界の発見、新航路開拓の先頭を切ったのは言うまでもなく16世紀のスペインとポルトガルであった。 し
 かし、17世紀に入るとオランダの東洋進出めざましく、同世紀中頃までに、マレー半島からジャバ、スマトラ、香
 料諸島(モルッカ諸島)を始め、台湾、さらに日本との独占的貿易圏を手中に納めて、東南アジアの支配権を握
 った。 オランダのアジア貿易の中心は、17世紀前半では云うまでもなくこの地方の特産物である、香料であっ
 た。 しかし17世紀中頃以降は、絹、綿製品、銅、次いで茶が最も重要な商品になる。 
  当時のアジアは豊かな文明国で、特にヨーロッパから欲しい物はなかった。 だからヨーロッパ人がこれらの物
 を手に入れるためにはどうしても銀を持ってこなければならなかったが、イギリスでもオランダでも銀が不足して
 いた。んそこで、オランダはその不足分の銀をなにによって補ったかと言えば、まさにまさに日本から手に入れ
 た銀であった。 
  オランダは商業活動によって繁栄の基礎を築いたことは言うまでもないが、その繁栄を支えたのは実は日本
 の銀であった。 というのはオランダの繁栄期はふつう17世紀中頃、即ち1640~1670年間が最盛期であったと
 言われる。、その最盛期が、日本からの銀輸出の最盛期と符丁を合わせるように一致しているからである。 
 16世紀から17世紀にかけて日本は当時世界有数の産銀国であった。 当時、世界における最大の産銀国はメ
 キシコとペルーでその新大陸の銀がスペインを通じて大量にヨーロッパに流入した。 16世紀末の最盛期におけ
 る銀の流入量。
(5) 紅茶の砂糖
  今日、私達は緑茶を飲むときは砂糖もミルクも入れないのに対し、紅茶を飲むときは、砂糖とミルクが一緒に付
 いてきます。 茶が特にイギリスで飲まれるようになってから、イギリス人は緑茶であれ、紅茶であれ、茶には砂
 糖とミルクを入れます方法を開発しました。 茶にミルクを入れる方法は既に蒙古で普通に行われています。 と
 ころが、茶に砂糖を入れる飲み方はイギリス独特の飲み方なのです。
  イギリスにおいて、茶が薬でなく飲料として愛飲されるようにかったきっかけは、ポルトガルから嫁いだキャサ
 リン王妃が船に乗って輿入れした際、持参金として大量の砂糖を積載してきました。 当時さとうは銀塊に匹敵
 するほどの貴重品だったのです。 これにより、イギリスでお茶に砂糖を入れる習慣が定着したのです。
(4) アヘン戦争
  茶が奢侈品から生活必需品になるとともに、茶は「文化」から資本主義「商品」に変わって行く。 17,18世紀に
 おける中国とヨーロッパの貿易は基本的には奢侈品の交換であった。 絹、茶、陶磁器などヨーロッパでは奢侈
 品=「文化」とみなされていた中国産物が、金・銀・時計と交換された。 それでも18世紀末ころは奢侈品交換
 の貿易量は比較的少量で貿易の増大テンポは緩やかであった。 海路はマカオと広東においてだけ貿易を許
 すという。ン中国政府の管理貿易が東西貿易の発展をさまたげていた。 
  17936年イギリス国王ジヨージ三世がマーカートニーを北京に派遣し貿易港を増やし、行商のの貿易独占を廃
 することを求めたのに対し、乾隆帝のイギリス国王への返書には「中國は産物が豊富で、国内に無い物はない
 。  ただ、中国に産する茶、陶磁器、絹などは、東洋各国の必需品であるから、広東において貿易をゆるして、
 必需品を与えて、天明の余沢に潤わしめるだけである」としてとりつくしまにないありさまであった。  ところが、
 このかたくな「天明の恩恵」も19世紀はじめから全面的な変化を余儀なくされた。 その厚い壁を打ち砕いたの
 がアヘンである。
  イギリス東インド会社の東洋からの輸入品の主力は中国茶であった。 18世紀末における茶貿易の増大はイ
 ギリス政府に取って大きな問題を提起した。 一つは、銀の流出、もう一つは密輸の問題であった。 銀流出問
 題というのは、イギリスが中国からの購入する茶に対して見返り品として適当なものがなく、銀を持ち出さなけれ
 ばならないことである。 茶の輸入増大に伴い大量の銀が流出し、銀不足がひどくなってきた。 といって茶の輸
 入をいまさら抑えることはでえきない。
  一方、茶の密輸の問題は、アメリカ独立戦争に対する戦費の財源としてイギリス政府は茶に従来64%から、
 一挙に119%に及ぶ高い関税をかけた。 その結果正規のゆにゅうとほぼ同額の茶が密輸されたという。 そこ
 で政府は1784年一挙に119&から12.5%に引き下げた。 これにより密輸はふせげたが、今度は、
  茶の価格下落→消費増大→銀流出
 というもう一つの矛盾が拡大した。 だから、銀の流出を避け銀に変わる物を何にするか緊急の課題となった。
  そこで採用されたのが、インド植民地を媒介したアヘンを中国に輸出することであった。   このアヘンの栽培
 と輸出というアイデアは別段新しい物ではなかった。 アヘンは長い間、近東やインドで栽培され、ムガール帝国
 が専売制度で支配していた。 ムガール帝国滅亡ご継承していたアラビア商人を追放してイギリスがその権利を
 取得したのである。 
  アヘンはケシの実から作る間藥である。 これを常飲すれば中毒症状によって精神も肉体も共に務嶼ばれ廃
 人状態になってしまう。 アヘンは中国でも古くから痛みをとる薬用とし液状で使用されていた。 だが、タバコの
 様にアヘンを吸引する風習は17世紀中頃台湾から福建省に伝わりった。 しかし、その量は極めてすく中国社
 会では大きな問題にならなかった。 
  ところが、イギリシ東インド会社が18世紀末からインドで大量にアヘンを生産しこれを中国に輸出するようにな
 って、今まで華南にに限られていたアヘンの流行はたちまち華中から華北にまで拡大した。 こうして茶の見返
 り品としてのアヘン貿易が発展したが、それは東インド会社が直接おこなったのではなく、地力貿易と呼ばれた
 間接的な方法を通じて行われた。 
  こうして中国のアヘン輸入は19世紀に入ると急速に増加した。 1767年に1000箱であったのが、1820年
 4000箱、20年代には1万9000箱、に急増し、アヘン戦争直前の1838年には10万箱という異常な増加を記録し
 ている。
  ところでアヘン輸入の増加とともに、銀の流れが大きく変化した。 中国への銀の流出は減少し、逆に1820代
 中頃以降中国から銀が大量に流出し始めたのである。 中国からの正貨の流出は恐らく近代史上未曽有のこ
 とではないかとおもわれる。 
  従来中国は「天朝の恩恵」として茶を西洋人に与えてきた。 しかし人口が18世紀以降急増したことに伴い、
 民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。 いまや、茶と引き換えに大量のアヘンが
 流入し始め、アヘン中毒患者の蔓延、銀保有量の減少し、中国社会を大きく揺さぶった。 清朝は当然アヘン貿
 易に反対した。 すでに、18世紀初めからしばしば勅令によってアヘン吸飲を取締、18世紀末にはアヘン販売を
 取り締まっていたが、官吏の腐敗もあずかり効果を上げることは出来なかった。
  道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し広東に派遣しアヘン密輸の取締にあたらせた。 
 林則徐は非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。 1839年には、アヘン商人達に「今後、一切ア
 ヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。 更にイ
 ギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。 同年6月6日没収しはアヘンを化学処理による処分
 を行った。 この時処分したアヘンの送料は1400トンをこえていた。
  1836年英国外相バーマストン子爵は現地イギリス人保護のため外交官チャールズ・エリオットを清国貿易監
 察官として広東に派遣した。 しかし、急速な事態の進展のため、東インド艦隊の派遣もまにあわなかった。 こ
 れを絶此のチャンスと見た林則徐は、九龍半島でのイギリス船員による現地民殺害を口実に8月15日マカオを
 武力封鎖して市内の食料を絶ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人の毒殺を企てた。
  これによりエリオットたちは8が圧26日にマカオも放棄し船上に避難した。 しかし、漸く東インド艦隊のフリゲー
 ト艦2隻が到着した。 英海軍では6等艦の序列では最下等であったが、エリオットは反撃をめいじた。 1839年
  9月4日に九龍起き砲撃船、11月3日川鼻海戦で清国船団を壊滅させた。  一方、イギリス本国も外相パー
 マストンの主道で遠征軍派遣が決定した。 しかし、「アヘン密輸」という海戦理由で反対し、出兵に関する予算
 は271票鯛262票の僅差で承認された。 
  1840年8月軍艦16隻、輸送船27隻東インド会社所有武装汽船4隻4隻、陸軍兵士4000人が中国に到着した。
 英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めている広東省ではなく兵力が手薄な首都北京に近い天津へ入った。 
 天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を解任し、和平派の琦善を後任に任じてイギリス
 に交渉を求めた。 イギリス軍側もモンスーン」の接近を警戒しており、また舟山諸島占領軍の間に病気が流行
 していたため、これに応じた。
  1841年1月20日には琦善とエリオットの間で川鼻条約(広東貿易な再開、香港割譲、賠償金600ドル、公行廃
 止、両国憲兵の対等交渉)が締結された。 ところが、英軍が撤収するや清政府内で強行派が盛り返し、道光
 帝は琦善を罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した。 
  イギリス軍は軍事行動を再開した。 英国艦隊は廈門,舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制
 圧していった。 一部に奮戦はあったが、完全に制海権を握り、火力に優れるイギリス側が自由に上陸地点を選
 択できる状況下、戦争は複数の拠点を防禦しなければならない清側正規軍に対し一方的な各個攻撃の様相を
 ていした。 特に東インド会社武装船の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャン
 ク船を次々と沈めて後続の艦隊の進入の成功に導いた。 この破滅的状況を前に道光帝らは戦意を完全にうし
 なわれた。
  1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、アヘン戦争は終結した。 アヘン戦争以前、清国は広東、福建、
 浙江せっこうに海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。 南京条約で
 は公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止自由貿易制に改めた。 従来の3港に福州と上海を加え5
 港を自由港とさだめた。 くわえて清国に多額の賠償金の支払いと香港の割譲が定められた。
(7) インド茶
  1823年、イギリスが長年求めていた野生の茶が遂にインドアッサムの奥地で発見された。 発見したのはブル
 ース兄弟であるが、「ビルマ人や中国人が当地で野生のチャと呼んでいる植物の葉と種子を送ることを嬉しく思
 います」と手紙に添えて東インド会社の植物係官N・ウォーリッチ博士に野生茶を送ったのが、1825年6月であ
 る。 しかし、茶樹を見たこともなかった博士は、これを信用せずそのまな放置してしまった。 次いで1831年アッ
 サム地方長官チャールストンもアッサムで同じく茶樹を発見し、現地人はその乾燥した葉を煮出して飲用にに供
 しているという手紙を添えた、これをカルカッタの農業園芸協会に送った。 これらの植物も専門家によって茶樹
 とは」公式に認定されなかった。 これは実は、後でわかったことであるが、中国茶と品種を新しいアッサム種で
 あった。 中国種茶は葉が小さいこれに対しアッサム種は葉が大きい。 両者は同じ茶の変種なのか別種なの
 か議論が分かれていたが、現在では同一種の変種の考えが主流である。
  1828年ウイリアム・ペンティングがインド総督に任命されたて間もなく、ウオーカ-と称する一知識人からインド
 地域で茶樹栽培を始めるべきであるという情熱溢れる「覚書」を受取った。 この傾聴すべき提案を受けて「茶
 業委員会」が1834年2月に発足した。 同委員会では、原生のアッサム種を栽培した。 当初は緑茶であった。
  中国人により中国式製造法作ったアッサム茶の見本が到着したのは1838年11月であった。 ロンドンの業者
 の間でも好評をはくし、ここにインド茶の製造がはじまった。 当初は緑茶ではじまり(「茶の世界史」)、後紅茶
 に代わった(「世界・お茶の基本」)。


                Ⅳ日本の茶の歴史
 日本茶が太古の昔から自生していたのか、中国から渡来したかの説が分かれていたが、近年、DNA鑑定や茶
の花の雄しべ雌しべの特徴の類似性調査などから日本の茶(ヤマチャ)は中国からの渡来し、しかも人の手によ
って有史以降持ち込まれたであろうと言う説が有力である。
(1)  古代
  古代日本の喫茶起源に関する歴史的に信頼できる記録と言えば平安時代初期書かれた「日本後記」が挙げ
 られる。 弘仁6年(815)4月22日の条に、嵯峨天皇が近江国の梵釈寺へ行幸した際、崇福寺の大僧都永忠が
 茶を煎じて献上したことが記されている。 
  茶の種や株を日本に持ち込んだのは主に遣唐使などの僧と考えられている。 最澄や空海もそのうちの一人
 であったとされている。 延暦2年(805)に最澄がが中国から茶の種子を持ち帰り、比叡山の山麓と滋賀県甲賀
 市信楽町朝宮の岩谷山に撒いたという伝承が残されている。 比叡山の山麓日吉大社の近くに「日吉茶園」が
 、甲賀市信楽に朝宮茶園がある。 この茶園が1200年前最澄が唐より持ち帰った種子を植えた茶園であると伝
 承されている。 この伝承が正しければ日本最古の茶園となる。  当時の茶は中国製法にならって茶芽を蒸し
 て挽き固め、団子状にして乾かしたもので、飲用の際は火にあぶって砕き藥研かくけんで粉末にして用いた。
(2) 中世
  鎌倉時代には栄西禅師が宋から帰朝した際、茶の種を持ち帰り、肥前(佐賀県)背振山にある霊仙寺の庭に
 植えました。 そして数年後背振り山の茶園出できた茶種を京都高山寺の明恵上人に送っています。 栄西は
 茶の効果や製法を記した「喫茶養生記」を記し将軍源頼朝に献上した。 これが日本における最初の茶書とな
 る。 
  栄西は茶の実を持ち帰るとすぐ播いたようである。 これは茶種の寿命が短く、夏を越す70~80%は発芽率が
 下がること、茶の栽培にどのような土地が適しているかなどについて心得ていたと考えられている。 茶種を播
 いたと伝えられる場所の調によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められると言う。 栄西は
 布教とともに茶の栽培も積極的に行ったことが分かる。 栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生
 活で茶の養生延命の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗
 の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及を勧める動機であった。
  京都高山寺の明恵上人は、栄西から送られた茶種子を栂尾の深瀬に植えました。 そして明恵上人は栂尾の
 茶園出できた茶種を、その後、宇治・静岡・狭山にも播植したと言う、これらは今日の「八女茶」「宇治茶」「静岡
 茶」「狭山茶」の銘柄で知られる茶産地となっている。 
  京都栂尾における茶栽培はその後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ
 以外の物を非茶と称したほどである。 現在栂尾茶園は宇治市吉田喜三郎氏が引き継ぎ日本最古の茶園と称
 し「日本最古の茶園」の石碑が立てられている。  現在、日吉大社近辺の「日吉茶園」、滋賀県甲賀市の「朝
 宮茶園」、京都市の「栂尾茶園」の3ヵ所が、それぞれ日本最古の茶園と称している。 
  鎌倉時代後期になると茶寄合が盛んになり茶を飲み当てる競技と化し、闘茶とうちゃが武士の間で流行した。
 闘茶は中国の唐時代に始まって宋時代に発展したと考えられるが、日本に伝来後は中国・日本ともそれぞれ独 自の形式を確立させた。 闘茶は、茶の味を呑み分けて勝負を競う遊びであつた。 産地間で品質に差があっ
 た。 最高級とされたのは京都郊外の栂尾で産出される「栂尾茶」で、特に本茶と呼ばれ、それ以外の産地で産
 出された非茶と区別された。 
  最初の闘茶は本茶と非茶を飲み分ける遊びから始められた。 「光厳こうごん天皇宸記」正慶しょうきょう元年6月5
 日条に廷臣たちと「飲茶勝負」を行ったことが記されている。 また「太平記」には佐々木道誉が莫大な景品を賭
 けて「百服茶」を行ったことが記されている。 
  闘茶お方法には複数あり、当初は本茶と非茶を二者択一で選択する単純なものであった。 後に宇治茶の茶
 の質が向上して宇治茶が栂尾茶と並んで本茶として扱われるようになり、その方法も複雑化していった。 闘茶
 の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたのが、四種十服茶ししじゅっぷくちゃ
 であった。 これは、種茶と呼ばれる三種類と客茶と呼ばれる一種類の計四種類を用いるもので、まず種茶を点
 てた三つに「一ノ茶」「二ノ茶」「三ノ茶」と命名して参加者に試飲させて味と香りを確認させる。 次に種茶3種類
 からそれぞれ3つの袋、試飲に出さなかった客茶1種類から1袋の合計10袋の茶袋を作り、そこから点てた
 10服分のお茶を順不同に参加者に提供してこれを飲ませる。 参加者は10服の茶が最初に試飲した「一ノ茶」
 「二ノ茶」「三ノ茶」のうちのどれと同じものか、はたまた客茶であるかを回答し、その正解が最も多い者が勝者と
 なる。 時にはこれを複数回行う場合もあり、前述の佐々木道誉の「百服茶」とは10回分の勝負を行った(10服
 ×10回=100服)ものである。
  武士の遊興の道具となった茶ではあったが、茶遊はやがて宋から伝えられた茶礼さいれいに結びつき茶の湯
 となる。 村田珠光じゅこうは、能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け一休宗純そうじゅん
 参禅し禅を元に茶道の基礎を作るとたちまち茶の遊興の世界から精神の世界へと向った。 その後、武野紹鴎
  じょうおう
、千利休らによって茶道が整えられるようになりこの侘茶が戦国武士の間に流行した。 精神世界と茶
  道の重要性が織りなす日本文化独特の「茶道」がここに完成するのである。 
(3) 近世
  近世に入ると茶が年貢の一品目として扱われてたり、茶の製造技術などの記述が見られるようになり、経済
 の一部を担う農産物として捉えられるようになった。 1628年には、伊予・宇和島で日本最古の農書「清良記」
 が出版され、茶の栽培の記述も見られる。 1679年には宮崎安貞の「農業全書」が著され、当時の栽培、製法
 についての記述がまられる。 近世、茶は生産量も増え、茶産地から主に船などで北國にも運ばれた。 また
 1654年隠元禅師が明より渡来して黄檗宗を伝え、釜炒茶を作ったとの記録もある。 なお、日本茶がはじめてヨ
 ーロッパに輸出されたのは江戸時代の1610年のころである。
(3)  煎茶の起り
  日本では古来「湯引ゆびき」「釜炒」「蒸し」などの製法が行われた。 「湯引」とは、生の茶葉を湯通しして殺青
  つせい
する(酸化酵素の働きを死活させる)こと。ン番茶などは古来この方法で作られたものが多い。 「釜炒」は
 唐茶とも呼ばれ、中国から伝わった製法である。 また「蒸し」は主に碾茶てんちゃを作る時に行われた。 当時は
 比較的簡単な製法で作られた。 16世紀になると、被覆栽培が行われるようになり、高級な日本茶作りの志向
 がたかまった。 そんななか、1738年宇治の永谷三之丞は蒸した茶葉を焙炉ほうろの上で手揉みすることで撚
 れて針状になるいわゆる「煎茶」を初めて作った。 1834年には上坂清一が翌1835江戸の山本嘉兵衛が指導
 して玉露が作られている。 これらの茶は「宇治製法」と呼ばれ優れた茶として認められた。
(4)  開国以後の日本茶
  1858年に鎖国が解かれ、アメリカとの間に日米修好通商条約が結ばれたのを契機に各国の通商条約交わさ
 れた。 日本の全輸出額の8~20%を茶が占めた時期があった。 第二次大戦直後に至るまで、アメリカをはじ
 め中国、イギリス、ロシア、蒙古、モロッコなど多くの国へ日本の茶は輸出された。 それと同時に日本の茶の工
 業化も進み、明治期には外貨を稼ぐために茶の輸出が有効と考えられ、政府は援助を惜しまなかった。 多田
 元吉らをインドなどに派遣し、紅茶などの研究をさせたり、ロシア、蒙古向けの磚茶たんちゃ(茶屑を圧搾し固めた
 茶)製造法なども研究させた。 その結果、日本のお茶としてせん茶のほか紅茶、玉緑茶、磚茶、ウーロン茶な
 ど多彩な茶が明治~昭和初期にかけて作られ輸出された。
(5)  機械化の流れ
  1885年に高橋謙三が茶葉蒸器と茶葉摩擦期を発明したのを皮切りに1896年には粗揉機が発明された。 当
 時は大量の人手を要して、手作業を茶を作っており、大変な省力化につながった。 1896年には望月発太郎が
 揉捻機を発明し、1899年には白井喜一郎が精捻機を1920年には村松練太郎が中揉機を発明した。 また大正
 に入って1924年には回転式の蒸機も開発され、製茶機械の一通りが揃った。 
  これらの機械の多くは手揉みの時の手の動きを忠実に機械に移したものであり、風味を損なうことなく煎茶を
 作ろうと当時の人々の努力がしのばれる。 現代ではこれらの機械の改良が更に進み、茶の仕上げ技術も進
 歩いた。 例えば遠赤外線火入れ機や電子選別機(電気信号で棒茶を取除く機械)など、品質向上のための新
 しい機械も発明された。 一方、茶の栽培に於いても品質向上が行われ、中でも明治末期から大正初期に杉山
 彦三郎が選択し育てた「やぶきた」品種は特筆で、今や全国茶栽培面積の75%以上がこの品種である。 この
 「やぶきた」は、在来種の実生中から選抜した茶樹で、品質は煎茶として極めて良好、独特の強い香気を持ち
 滋味優雅で甘味~がある。 登録番号茶農林6号、登録日時は昭和28年(1953)である。
   「やぶきた」の名は静岡県有渡郡有渡村(静岡市駿河区)の篤農家杉山彦三郎(1857~1941)が、明治
 41年(1908)自己が所有する竹藪を切り開いた茶園の茶樹から優良品種を選択し、北側からのものを「やぶき
 た」、南側のものを「やぶみなみ」と名付けた。 開発した当初はなかなか普及しなかったが、霜に強い上、在来
 品種より早い4月下旬から5月上旬に一番茶の収穫ができ、収量も安定していたことから、昭和30年(1955)に
 静岡県の奨励品種に指定されたととがきっかけで急速に普及した。
  また、茶園も手摘みから機械化が進み大正4年の内田三平の手鋏から戦後は動力摘採機が主流となり、近
 年は乗用型摘採機も開発され、一層摘採能率が向上した。
(6)  明治以降の茶の生産
  明治初期~中期にかけては現代とはやや異なる。 岩手、宮城、新潟など比較的北日本でも茶の栽培比率
 が高かった。 また、明治10年には1万2000tだった茶の国内生産量は、明治25年には2万9000t、大正9年に
 は3万6000tと増え、昭和15年には5万8000tに及んだ。
  戦後は一時減少したが、アメリカからの支援物資の代替え輸出に茶が指定されこともあって生産量が復活し
 た。 指定の打ち切り後も、国内需要の増加に伴い昭和35年には7万7000t、昭和55年には10万tを越えた。 
 尚現在は9万t内外で推移している。
  茶は、明治・大正期には主として輸出に向けられ、戦後は国内需要に向けられた生産がなされた。 このよう
 に国内では第二次大戦前日本人の多くが口にしたのは番茶であり、上流茶の多くは海外向けであった。 日本
 人が煎茶を日常生活で飲むようになったのは戦後である。
(7)  現代の茶業と茶の消費
  明治以降の日本茶の輸出は、原料を上海などに輸出することから始まった。 やがて横浜に「お茶場」ができ
、日本で製品化して海外に輸出するようになる。 清水港の整備とともに産地・静岡の茶は、生産・仕入・輸出と
 産地に集積機能が備わるようになり発展をとげる。 宇治や狭山も同様に茶の産地・集積地として発展してきた
 。  戦後、輸出が激減してもこれらの集積地の卸問屋や工場は残り、国内向け卸問屋としてその地位を確保し
 てきた。 近年は、鹿児島や八女が集積地としての地位を確保しつつある。
  茶の流通が整ってくると同時に、茶の消費にも大きな変化が表れる。 第二次大戦後、しばらくは茶の輸出が
 好調だったが、アメリカの援助物資の見返りとしての茶の輸入りをストップしたことにより輸出が激減した。 しか
 し、昭和30年代の高度経済成長によって国内の需要が高まり昭和40年代頃は特に下級茶の不足により茶の
 輸入という事態も起こった。 しかし、これも一時的で、飲料に対するニーズの多様化から茶の生産量も徐々に
 落ち着き、現在は9万t前後の需給バランスでたもっている。 
  高度経済成長期に「深蒸し煎茶」という新製品も開発され、茶業界も消費者の多様なニーズに答える努力をし
 てきた。 また「やぶきた」品種が長年主流を占めてきたが、多様な品種栽培にも目が向けられ始めている。 
  一方、缶ドリンク茶に続きペットボトル茶の出現によって利便性のある商品も開発され、そのほか粉末茶やイ
 ンスタントティー、ティーバッグなどの茶の流通と消費動向は絶えず変化しているのか現状である。


                          B 茶樹
  1、茶の起源と分類
(1) 植物学的分類
  チャはツバキ科(Theacea)、ツバキ属(Camellia)、の常緑広葉樹の1種で、特有の成分を持った新芽を収穫し
 、この生葉を原料にして「茶」を生産する。 学名Camellia sinensis(カメリア・シネンシス)O.Kuntzeである。 この
 属名については、ツバキ,サザンカなどのツバキ属の1種として「Camellia」とするか、またこれとは独立の「Thea」
 とするかについて古くから種々の議論のあったところであるが、いまでは主要産国においてはすべて「Camellia」
 を採用するようになった。
  このツバキ科にはツバキ属、ナツツバキ属、モッコク属、サカキ属などの日本に生育する7属を含む30属があ
 り、北半球の熱帯、亜熱帯、一部は温帯に分布する。 この科のなかで、茶を含むツバキ属には約90種あるい
 は、近年の中国の調査では弥幾200種が分類されている。
  日本では茶(C sinensis)の他に、ツバキ(C japonica)、ユキツバキ(C rusticana)、サザンカ(C sazanqua)とこ
 れらの変種あるいは雑種とみられる種が分布する。  茶はCamellia属のなかで、明瞭な花柄かへいを持ち、集散
 花序であること、萼は落下しないで残ること、雄ずい、の基部は離散していることなどから「Thea」節に分類され
 ている。
(2) 栽培種の種内分類
  茶の栽培種は、利用面からみて、紅茶の生産に向けられる熱帯・亜熱帯産のチャと緑茶、半発酵茶に向けら
 れる温帯産のものと2つのグループに大別することができる。 
  前者は、インドのアッサム、ビルマなどで、1823年以来発見された樹形・葉形は大きくて耐寒性の弱いアッサ
 ム種(var assamica)であり、中国西南部に分布する大葉種もこの変種に分類する。  後者は中国東南部と日
 本に古くから栽培され、19世紀に入ってからインド、インドネシアなどにも導入された、小葉、で樹形は小さく耐
 寒性の強い中国種(var sinensis)である。
  アッサム種と中国種な樹形の大小について大きな違いがあり、アッサム種は樹高10mを超すものがあるのに
 対し中国種は3m未満である。 葉の大小についても顕著な差異があり、樹形の大小とほぼ対応し、アッサム種
 が大きく、中国種が小さい。 また、葉の大小、形の変異の他に、内部形態、例えば、棚状組織の層数にもはっ
 きりした違いが認められている。 その他製品品質に直接関係するタンニン(カテキン)はアッサム種に多く、中
 国種に少ない。 耐寒性、耐病性についても変異間差は大きい。 このような主要形質の変種間差異は、製品
 適正及び地域特性・分布域の違いには対応していると考えている。 即ちアッサム種の分布は気温の高い熱帯
 ・亜熱帯で用途としては紅茶ようである。 中国種・小葉種は温帯で栽培され緑茶及び半発酵茶の生産に用いられる。 またチャの種内の変異については花器形態の変異がありなかでもアッサム種内の変異は大きい。 日本在来種及びヤマチャ と中国の小葉の間には樹形・葉型の大小、耐寒性では区別できないほど似ているが、花器形態でははっきりした差異のあること指摘されます。 典型的な中国種の雌蕊めしべは雄蕊おしべより飛び出しているのに対し、日本在来種とヤマチャにはそれがない。 また、雌蕊の分岐数・分岐点の深さ及び分類上重要な
子房の毛の有無の変異。
    
  2、茶の原産地
(1) 原種と自然分布
  栽培植物には、それぞれ野生の原種があり、長い年月をかけて多収で病害虫に強く品質がよくなるなどの改
 良が重ねられ、一見して元の原種とは区別できる、イネ、ムギ、馬鈴薯や果樹や野菜類の多くがそうである。 
 一方、栽培化の歴史の浅い工芸作物・飼料作物や野菜・果樹の一部については、野生の原種と栽培化された
 作物の形質差は少ない。 これは作物としての歴史が前の作物に比べて短いことによるとかんがえられるが、
 チャについてみると、明らかに後者の例にあてはまる。
  1823年、イギリスの陸軍大佐ブルース(Bruce R)はアッサムの山中で野生のチャを発見し、その標本をカルカ
 ッタの植物園に送り中国のチャと同種の植物であることが確認された。 その後、続々とアッサム、ビルマの各
 地で茶が発見されるようになった。  ところが、ここで発見された「野生種」が現地民によって植えられ栽培され
 ていたものであることが後に指摘された。
(2) チャの発祥地
 1)インド起源説
   アッサム種の発見により、インド起源説、インド原産説が主張された、しかし、その後は中国起源説が主流と
  なり、特に中国国内の遺伝資源調査が進められて、中国起源説は動かない物となった。
 2)中国起源説
   チャの種内には、小型の樹体と葉も小さな中国種と大型のアッサム種に大きく分けることが出来るが、この2
  変種は同じ起源をもつと考えるか、または、それぞれが別の起源をもつとするか、一元説と二元説に分かれる
  。 Stuart(1919)は、2つの変種の形質の差異が大きいこと、そしてこの両者を結ぶ中間の茶がみられないこと
  などから、インド東北部と中国の2つの原産地を想定して二元説をとった。 これについても、最近の中国の遺
  伝資源調査によって両変種の中間に当たる多種なチャが認められて二元説は否定されたと考えられる。 
 3)日本在来種とヤマチャの起源
   日本の茶園の約6万haは、そのほとんどが古くから伝わる日本在来種によって構成される。 よく知られてい
 る「やぶきた」もこの在来種から選抜された品種である。 また一方で、九州、四国などの山中には野生あるい
 は半野生とみられるチャがしられていて、これを「ヤマチャ」とよんでいる。 この日本在来種・ヤマチャと中国産
 の小葉種(中国種)との間には樹とか葉の大小、耐寒性などについての差異は認められないが、花器形態、製
 茶品質(味、香り、香気成分)についてははっきりとした差異が差のあることが確かめられている。
   特にヤマチャと中国種との花器形態の差異は顕著である。 また同時に、それぞれ諸形質の変異の幅は、
 ヤマチャが最も小さく、在来種よりも中国小葉種の方がさらに大きい変異の幅をもっている。 このことは、
 Vavilovの理論の1つ「分布の中心から末端に行くに従って変異の幅は小さくなる」からみて、ヤマチャが分布の
 端に位置していること、中国種が変異の中心に近いことを示唆している。 

  3、茶の分布(世界の茶の産地)
 コーヒー、カカオと並んで3大嗜好料作物の1つとして、今日ではアジアを中心にアフリカ、旧ソ連、トルコ、南アメ
リカなど33カ国に広く栽培されている。 表2・2は、FAOの統計によって地域別主要茶産国の栽培面積の推移をし
めした。
 茶の栽培種は、カメリア属のなかでも最も広い分布をもち、北は旧ソ連のグルジア地方から南はニュジランドま
での範囲に及んでいる。 温帯から熱帯までのこれらの地域の気象、土壌条件の差は極めて大きい、これに対し
て、熱帯・亜熱帯には耐凍性の弱い大葉種・アッサム種とアッサム雑種が、温帯には、強い中、小葉種・中国種
が分布する。
           表2・2 地域・主要国別にみた茶栽培面積の推移(単位:1000ha)
     地域・国\年次      1961-65     1974-76     1979-81    1991
     世界アジア           1251       2086        2321      2488
      アジア             1082       1819       2022      2156
       中 國             226        919        1078     1122
        インド              335        363         382      419
       スリランカ           239        242         345      220
       インドネシア          134         83          85       96
       トルコ              17         48         54       90
       日本               49         56         61       59
      アフリカ              78        140        169       194
       ケニア              21         49         77        91
      旧ソ連               68         76         79        76
      南アメリカ             22         47         47        58
       アルゼンチン          16         36         37        49

  4、茶の形態
(1) 茶の植物学概要
  茶はツバキ科に属する常緑樹で、我が国に主として栽培される中国種は低木性、インド、スリランカなどに栽
 培されるアッサム種は高木性を示す。 
  葉の形は品種・系統によって異なり、短楕円形から披針形まで種々ある。 若い葉の裏面には毛茸もうじょう
 (繊毛)があり、葉の成熟に伴い脱落する。 気孔は裏面のみにある。 成葉の表面は通常光沢があり、平滑な
 ものが多い。 葉の着き方は互生で葉序は1/2が多い。 葉の大きさは中国種では葉長5~8㎝、は葉幅2.5~
 4㎝、葉柄長は2~5mmで、側脈数は片側で8~13、鋸歯数は片側で20~30で、葉先は尖らない。 アッサム種
 は中国種に比べ葉は大きく、葉長30㎝、葉幅15㎝以上に達する者も多く、側脈数は10~14で、成葉の表面は
 比較的、皺が多い。
  根は木化した太根やその分岐した枝根、細根など種々の太さのものが存在する。 木化した根には木部、髄
 部に澱粉粒が見られ、晩秋から初春かけて増加する。 茶は挿し木や取木により容易に茎から発根が見られ
 る。 
(2) 芽及び葉の形態
 1)茶栽培における芽及び新芽の位置付
   チャでは生育中の新芽が収穫の対象物となるが、その新芽(new shoot)は芽(bud)から生育する。 目には
  成句程度を異にする種々の状態があるが、一番茶の出発点となる冬芽は茶栽培上特に重要な意味を持つ。
  また、2,3番芽の出発点となる摘採後の「芽」についても同様である。 以前は自然に生育された枝条からの
  新芽を手摘みによって収穫する方式がとられていた。 この場合芽は立体的に着生し、新芽は人為的な選択
  に よって摘み取られた。 現在でも、玉露、てん茶などを生産する場合、しばしばこのような方式がとられる。  ところが、近年摘採鋏、そして動力摘採機の導入に伴い、茶樹はそれらに適応する樹形に仕立てられ、株表
  面に生育する新芽を一斉に刈り取る方式が取られるようになった。 
   これらの「芽」から生育した「新芽」は何枚かの葉を開くと、いわゆる止葉を出現し、「出開でびらき」となる。 
  出開きとなった新芽は次第に硬化し、製茶原料として品質は低下に向うのである。 
 2)芽の内部形態
   芽の内部構造を冬芽の場合、外側に通常1~2枚の包葉(俗称「霜かぶり」)があり、内部には発育程度を異
  にする5~7枚の葉がある。 このうち包葉は既に細胞分裂機能を失っており、新芽が伸び出すと間もなく脱落
  する。 
   芽の中心には茎頂、所謂生長点がある。 茎頂の形は作物によって異なり、イネのようにドーム状を呈する
  例もあるが、茶ではほぼ平らでその直径は約0.1mm程度である。 茎頂の組織構造は縦断面に見られるよう
  に、まず上から2層の外鞘があり、層状に細胞が配列されている、外鞘第一層は常に垂層分裂を続け、中央
  部から側方へ新しい細胞を送り出している。 
   第二層も後述するような葉原基分化の際を除き、第一層と同様の垂層分裂を続けている。 また、この外鞘
  は生育状態により第3,第4層目が並ぶこともある。
   これら外鞘に続いて細胞分裂方向の一定しない内体と呼ばれる部分がある。 この部分は細胞分裂活性が
  高く、中央から周辺分裂が各、中央から周辺分裂組織、或は下方の髄状分裂組織へ新しい細胞を送り出して
  いる。
 3)  葉原基の分化と葉の成育経過
   葉は芽の中で分化し、細胞分裂に拠って葉組織を分化し発育し、やがて展開、成熟に向う。
  ① 展開開始時までの経過
    葉原基の分化は他の双子葉植物と同様、外鞘第2層の並層分裂によって始まり、第3層   における並
   層分裂や附近の細胞分裂によって次第に体積をまし、茎頂の片隅に突出してくる。 茎頂の片隅に突出した
   葉原基は、P2(ここでは6枚を内蔵し、最も若い物からP1P2…P6と呼ぶこととする)の段階になると周辺分
   裂組織の活発な細胞分裂によって側方への拡がりをまし、基部は茎頂囲む形となる。 
    表皮系の発達過程についてみると、毛茸もうじょう(繊毛)はP2~P3の段階で背軸側(裏面)に発生を始め
   る。 一方気孔はP4~P5の段階で極少数が分化を始めるが、そのほとんどは展開開始後に形成される。 
   次に」維管束系についてみると、中央脈はP2の段階で分化を始め、側脈はP3の段階で中央脈から分かれ、
   周辺部へ向けて発達し、べつに周辺部で分化していた周縁脈に連絡する。 このようにして展開直前のP6ま
   では、主要な葉脈の配置を終る。
    葉肉組織は次第に層数を増し、P6の段階までに棚状組織は2~3層、海綿状組織は4~5層となる。 これ
   らの葉肉組織はそれをとりまく表皮とは別の始原細胞から送り出されている。 すなわち葉縁の先端に位置
   する周縁始原細胞からは表側並びに裏側の原表皮がつくられ、これらは表皮組織へと発達する。 一方、次
   周縁始原細胞からは向軸側(表側)、中間、そして背軸側へそれぞれ細胞を送り出し、これらはやがて棚状
   組織、維管束、そして海綿状組織へと発達することになる。 葉縁成長がある程度進むと、葉縁には鋸歯が
   形成され、その中央にある維管束は周縁脈に連結する。
  ② 展開開始後の経過
    展開開始後201日目頃まで葉の拡大がつ好き、厚さも増すことがわかる。 表皮系では展開開始後も細胞
   分裂が続き、葉の裏側の原表皮細胞からは後述するように孔辺細胞及び副細胞を分化し、気孔を構成する
   。 また、棚状組織や海綿状組織は1~3日目頃までわずかに細胞分裂が残るが、その後は細胞の拡大が
   進む。 さらに、これら両組織の間にある中間では12日目頃では細胞分裂も終了し、この頃から細胞間隙が
   見られるようになる。
  ③ 気孔の構造と形成の経過
    茶葉の気孔は通常2個の孔辺細胞と隣接する3~5個の副細胞によって構成される。 3個の副細胞で構
   成される気孔は全気孔の約65%、4個の気孔は30%、5個の気孔は5%程度であるが、まれに6~8個の気
   孔もある。 
 4)腋芽の分化と生育経過
   チャでは葉腋に1個の脇芽を有し、頂部が摘除されると頂芽に代わって生育をはじめるもので、腋芽の存在
  は樹冠における枝数、芽数を増加させる上で大きな意義を持っている。
   腋芽の分化は芽に内蔵される葉原基P3の葉腋にはじまる。 即ち、表層から、第3,4層に垂層、あるいは
  並層分裂が起り、次第に芽の原基として発達し、P4の葉腋で腋芽として盛り上がる。 その後芽の中で葉数を
  増やし、P6(最外葉)になるまでに3枚のは原基を分化する。 このように芽内部で形成された腋芽は、それを
  抱く葉の展開12日目頃には芽長約2~2.5mm程度となり、」4葉を構成するようになる。 このうち、外から2葉
  あ通常、比較的早期に細胞分裂機能を失い包葉となり、その腋芽が萌芽すると間もなく脱落する。 
 5)遮光下での」葉の形態的変化
   品質向上などを目的とした茶園の遮光栽培が行われている。 この様な遮光下での生育する葉は、遮光度
  70%程度までは遮光度が強いほど大きくなりそれ以上ではむしろ小さくなる。 
  また、葉厚は薄く、葉肉細胞は表面と平行の方向に広がりをもち細胞間隙は広くなる。 さらに、葉の展開後に
  形成される細い葉脈も、遮光下では生育がおとり分布が粗となる。
(3) 茎の形態
 1)茎の外部形態
   芽内部で形成された茎は葉の展開に伴い外部に現れれ、各節間は約20日間ほど成長を続ける、若い茎に
  は毛茸と少数の気孔がある。 生育終了時の茎の長さは節位、品種などによって異なるが、一番茶枝条しじょう
  の中央節位で2~5㎝、太さ2~3mmである。 若い茎は緑色を呈するが硬化に伴い褐変し、さらに年数を経過
  すると灰褐色となり、太さも増す、茶樹を自然に生育させた場合、樹高は中国種で3~4㎡にもなり、アッサム
  種では30㎡にたっする物があるという。
 2)茎の内部形態
   茎頂の分裂組織に端を発し、茎内部では表皮、皮層、維管束、髄が作られる。 一番茶硬化枝(5月下旬~
  6月上旬)の中~下位節位の内部構造を示す。 外側に1層の皮層と6~8層皮層があり、続いて厚膜組織が
  ある。 さらに篩部、形成層、木部と続き、中心部に大きな細胞の髄部がある。 この時期の形成層は細胞分
  裂活性が高く、外側へ篩部を、内側へ木部を送り出している。 また、多数の放射組織が木部から形成層を貫
  いている。 この様な技を挿し木した場合、篩部内部に達している放射組織付近で細胞分裂が活発となり、や
  がて根原基が形成され不定根の発生に至る。 茎は硬化が進むと厚膜組織の内側に1~2層のコルク形成総
  を分化し、茎の外側を覆う新たな組織を作るようになる。 それにともない表皮及び表層には亀裂を生じ、やが
  て脱落する。 
(4) 根の形態
 1)年の外部形態
   根系は種子繁殖された場合と栄養繫殖された場合とでは異なり、前者ではまず種子根に由来する直根が下
  方に伸び、後に支根が生育する。 一方、後者のうち挿し木の場合は、さし穂から発生した多くの細根のうち数
  本が主要な根として発達し、そこから分岐した根が周辺に分布する。 分布の深さは土壌条件によって異なる
  が、地表から1.5mあるいはそれ以上に達するvもののもあり、一般に栄養繫殖された場合よりも種子繁殖され
  た場合の方が根系は深い。
 2)根の内部形態
   若い細根の断面を見ると外側に1層の表皮と7~10層の皮層があり、その最内層は内皮となる。 内皮は緊
  密に連結した一層の細胞層で中心柱は維管束およびそれに付随する柔細胞からなり、維管束は木部と篩部
  が交互に放射状に配列される。 木部と篩部の数はそれぞれ2~4個の場合がある。 根の発達に伴い木部
  は中心部へ、篩部は周辺部へ配置されるようになり、それら両者の間には形成層が出現し、新たな木部、篩
  部を形成し、肥大することになる。 根の断面を色素で染色することにより、年輪を識別することができ津。
(5) 花及び果実、種子の形態
  茶の花は当年性の枝の先端または葉腋に着生する両性花で、単独あるいは集散花となる。 自然に生育させ
 た場合、春~夏に生育した枝に順次花芽を分化するため、開花期は長期にわたり、8月下旬から11月まで続
 く。 通常の栽培茶園でも秋に着花を見ることがあるが、これらは主に、7~8月に生育した枝の花芽に由来す
 る。 開花の時刻は午前中が多く、開花後3~5日で花弁が落下する。 果実は翌年10=11月に成熟する。 
 1)花の形態
   萼は4~5片あり、花弁は5~8片で白色無毛、基部は癒合している。 稀に花弁、花糸などが淡紅色を帯び
  る種類もある。 雄蕊ゆうずいの数は130~250で葯やくはT字葯で」2室を有する。 花粉の形は湿った状態で円
  形に近い正三角形を呈し、発芽孔が3個ある。 大きさは40~50μ(2倍体)である。 雌蕊しずいは1本で柱頭
  は3~5裂し、その数は子房の数と一致する。 花柱の形態には品種による特徴があり、分類、識別にもちら
  れる。 子房は通常有毛で、各室に4~6個の胚珠があるが、受精するのはそのうち1~2個にすぎない。 
 2)花芽の分化
   花芽は出開きとなった頂芽の包葉の葉腋、あるいは腋芽の包葉の葉腋に分化する。 頂芽の場合は、腋芽
  形成の経過と同様に、4枚の原基が形成され、次いで茎頂がやや広がり、分化の位置が90度移動した位置に
  分化うる。 その後あ次第に花柄かへい(花梗かこう)が伸び、蕾の内部では雄蕊、雌蕊が形成される。 また、原
  基1,2の葉腋に花芽を分化することもある。
 3)果実と種子の形態
   果実は無毛の蒴果で3~4室あり、10月中、下旬に成熟すると裂開して種子を落下する。 種子は1果1~2
  粒の事が多く、まれに4~5粒となる。 種子の形は1果1粒の場合はほぼ球形となるが、1果に複数の種子を
  生じた場合は互いに圧されて、扁平な面が出来る。 種子の長径は13~19mm、短径は11~16mmである。
 4)種子の発育家庭
   受精した子房は翌年4月下旬~5月下旬に肥大がはじまり、7月に入り急速に発達する。 内乳細胞は受精
  後、次第に増加して、5月に最高となり6~7月に各細胞の肥大期となる。 その後、子葉の肥大に伴い細胞
  数を減じ、8月中、下旬に消滅する。 また、吸足細胞が5月下旬~6月下旬に急速に発育し、その後、次第に
  減少、9月下旬頃までに渋皮の内側の皮膜として、その痕跡を止めることになる。 一方、子葉は6月下旬頃
  出現し、8月下旬~9月上旬に急速な肥大がみられ、9月下旬にほぼ完熟時の大きさに達する。 幼芽、幼根
  も同時に完成する。

                 5.茶葉の成分
(1) 主なチャ成分の植物界における分布
  茶はツバキ属植物であり、その新葉にカテキン類、カフェイン、テアニンなどの特有成分を高濃度に含む、これ
 らは茶の重要な構成要素であり、限られた植物にのみ存在する二次代謝物である。 チャの化学成分の特徴を
 明らかにするために、これらの成分のツバキ属各種とチャの雑種における分布の概略を表4.1に示した。
  表4.1から分かるようにチャ節植物は、(-)エピカテキンガレート、(-)エピガロカテキンガレートのエステル型カ
 テキン、カフェインもしくはテオプロミン、テアニンを含有する。 これに対し、ツバキやサザンカなどのチャ節以外
 の植物はこれらを含有しないか、例外的に検出されたとしても、ごく微量である。 従って、これらの成分を多量
 に含有する植物はチャ節に限られているといえる。 なお、中国の文献によれば日本で未入手のチャ節植物が
 多数あり、遺伝資源として注目されている。
                   表4.1ツバキ属植物葉中化学成分の分布
         化学成分    カフェイン  テオプロ  テアニン  カテキン類 カテキン類  カテキン類  カテキン類   カテキン類
    ツバキ属種                ミン          EC    (+)C     EGC    ECG     EGCG
    チャ節茶(中国種)    +++     +    +++     +++     +     +++    +++      +++
    茶(アッサム)         +++     +    +++     +++     +      ++     +++      +++
    ツバキ節(ヤブツバキ)    -     -    -     +++     +      -     -      -
    カワリバツバキ節      -          -      +     -     -     -      -
    サザンカ節         -     -     -      +     -     -     -      -
    ヒメサザンカ節       -          -      -     -     -     -      -
    ヤナギバ゙サザンカ節     -          -     -     -     -     -      -
(2) カテキン類 
  カテキン類は、植物色素のフラボノイドに属する。 通常の茶のカテキン類は乾物当たり15~30%を占め、茶
 に40%前後ある全可溶分の大半はカテキンといえる。 茶に主要な4種のカテキン類は、遊離カテキンとエステ
 ル型化t金に分けられる。 エステル型カテキンはチャ節植物のみから検出されることが検出されるが、チャ節植
 物のみが没食子産と遊離型カテキンの反応によりエステル型カテキンを合成できると考えられる。 茶は、ツバ
 キ属の中で最もカテキン含有量が高く、また茶の2変種の中では、アッサム種が中国種より高含有量である。 
(3) カフェイン
  カフェインを含有する植物は数十種あると言われ,茶、コーヒー、カカオ、マテなどの嗜好飲料は何れもカフェイ
 ンを含有する。 茶はカフェインの類縁化合物であるテオブロミン、テオフィリンも含有し、これら3化合物は共通
 の生理作用を有する。 テオブロミンはカフェインの前駆物質であり、テオブロミンがメチル化されてカフェインが
 生成する。 またテオフィリンはカフェインの脱メチル化により生成する化合物である。 これら3化合物のうち、
 カカオではテオブロミンがカフェインを上回るが、他の飲料では何れもカフェインが最も多い。
(4) アミノ酸
  茶にはアミノ酸も豊富である。 茶のアミノ酸の中では、グルタミン酸のエチルアミドであるテアニンが最も多い
 。 テアニンは一般の動植物には見られないアミノ酸であり、窒素貯蔵の役割を果している。 テアニンは主とし
 て根で合成されるが、これはテアニン合成の原料であるエチルアルコールの合成系が根に存在するためと考え
 られている。 葉中のテアニンは主として根から地上部に転流してきたものである。 
(5) 香気関連物質
  茶の香気成分として、炭水化物、アルコール、アルデヒド、ケトン、エステル、酸、フェノール、環式酸素含有化
 合物、含流化合物、含窒素化合物など多種多様の化合物が同定されている。 茶の香気は、摘採、製茶の各
 段階で葉内成分の変化により生成する。 代表的な茶の香気でるゲラニオール、リナロールは、アッサム種、と
 中国種で両者の比率が異なる。 アッサム種はリナロール、中国種はゲラニオールが多い。 両者は生葉中で
 はグルコースと結合した配糖体といて存在する。 チャ芽が傷つくと、不揮発性の配糖体が加水分解酸素で分
 解され、揮発成分として遊離する。 また紅茶の萎凋処理で増加する。 
(6) 遊離糖
  茶芽の遊離糖組成は、シュクロースが全体の60~80%を占め、次いでグルコース、フルクトースが多く、少量
 のスタキオース、ラフィノースもある。 こうした普遍的な糖とことなる。
(7) フッ素とアルミニウム
  チャ、ツバキ、サザンカなどはアルミニウム集積植物として知られている。 その分布は新葉に少なく古葉に多
 い。 古葉では10000ppmを越えることもある。またチャの古葉はフッ素も蓄積する。チャの古葉のフッ素は500~
 1000ppmも含まれ、場合によっては数千ppmに達することもある。 しかし、新葉は20~40ppmと少ない。
  フッ素は高等動物の必須元素であるが、アルミニウムは動植物とも必須元素ではない、それどころか、一般の
 植物ではアルミニウムは有蓋であり、酸性土壌の障害は可溶化したアルミニウムにあると言ってもよい。 しか
 し、チャにとってはのアルミニウムは有益元素と言ってもよいと言える存在であり、茶葉の緑色維持や根の育成
 促進に有効である。 



参考文献
*茶の世界史     著者 角山栄         発行;中男公論新社
*茶の原産地を探る  著者 松下智         発行 大河書房
*世界・お茶の基本  編者(財)日本ホテル教育センター 発行;プラザ出版
*茶の栽培と利用加工 著者 岩浅潔         発行(株)養賢堂
*茶大百科      編集 農山漁村文化協会    発行 農山漁村文化協会



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