京都・朱雀錦
  (57)新熊野神社


新熊野神宮
   当ホームページばホームページビルダー20で作成しています、写真等でずれが生じる場合は互換表示
   (ツール→互換表示設定)することをお勧めします。 
   Internet Explorで見れない場合はGhromeでご覧」ください。
場 所 京都市東山区今熊野椥なぎノ森町42
祭 神 熊野牟須美大神くまのむすびのおおかみ=伊装再尊いざなみのみこと 
由 緒 
 当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦えいりゃく元年(1160)、後白河法皇によって創建された神社である。 後白河天皇は久寿きゅうじゅ2年1155)に即位され、保元ほげん3年(1158)に皇位を皇子の守仁もりひと親王(二条天皇)へ譲り、退位されたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、その時の住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺である。 当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建され、法皇の命を受け、その造営にあたったのが平清盛・重盛父子であった。
 平安時代後期頃、上流社会の間では、盛んに熊野詣りがなされた。 なかでも後白河法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。 そこで、法住寺殿の造営に合わせて、その鎮守として永暦元年(1160)、法住寺殿南殿の南側へ紀州の熊野三山の神を勧請して、祀られたのが熊野神社。 これが熊野神社の始まりで、熊野の新宮・別宮として長らく京の熊野信仰の中心地として栄えた。 「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、昔の熊野に対する今の熊野というのが、その由来。 これらの造営には熊野の土砂を社域に築き、熊野の木材で宸殿を作り、神域には那智浜の小石を敷き詰め熊野権現本宮を再現いたと言う。 以来、天皇や公家も参詣され繁栄したという。 この時合わせて近江坂本に祀られていた比叡山の鎮守社の日吉社も勧請し新日吉社として今:熊野瓦坂に祀られている。 後白河法皇は仁安2年(1167)に南殿に住まわれたが、寿永じゅえい2年(1183)木曽義仲の軍政によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)焼失している。
 法住寺殿はその後350年ほど盛衰を続けたが応仁の乱以後の度々の戦火で衰退し、廃絶同様の状態となっていたが、江戸時代初期の寛文かんぶん6年(1666)、後水尾天皇の中宮東福門院(2代将軍忠久の皇女・和子まさこ)が復興を発願。 現在に至っている。
 現在の本殿は寛文13年(1673)聖護院宮道寛どうかん親王(後水尾天皇の皇子)が再建された建物で、構造形式は、平面構成ともに熊野本宮証誠殿しょうじょうでんと同じで、「熊野造」の代表的な社殿。
 その他、境内には末社がある。
 後白河上皇御手植「大楠」。 今から約830年前、当社草創の時、熊野より移植、国家鎮護と万民福祉とを誓願、御手植えされたのが、現在の大楠である。 また熊野の神々がご降臨になる「影向の大楠」といい、健康長寿・病魔退散特に上皇が常におなかを患っておられたところから「お腹の神様」と信仰され、人々から「大楠大権現」と尊崇されていました。


 当社は、能楽の大成者世阿弥が足利3代将軍義満と初めて出会った「機縁の地」としても知られている。 
 世阿弥の父、観阿弥清次は大和猿楽「結城座」を率い、近畿各地の有名寺社を巡り勧進興業を行っていた。 その頃の世阿弥は藤若丸と名乗り結崎座のスターだった。 当時の猿楽は現在でいう大衆演劇の一つで、その地位は決して高いものではなかった。 たまたま結崎ざが当社の境内で勧進興業(世にいう今熊野勧進興
業)を行っていたとき、当社に参拝に来た足利義満の目にとまり、二人を同朋衆(将軍の近習)に加え、藤若丸を世阿弥と名乗らせた。 その後、世阿弥は義満の支援を受け、猿楽を今日の能楽へと大成させた。 この時、公家の音曲雅楽おんぎょくががくに対する武家の音曲能楽が誕生した。 
 当社が最も隆盛を極めたのが室町時代初中期で、当時の天皇家や足利将軍家の庇護のもと、全国に多数の荘園を所有していた。 
 本殿の左右にあるのが御神木「椥」である。 当社は古来より「椥の宮」とも呼ばれ、当社周辺は今熊野椥ノ森町といいます。 この地名から椥の木が鬱蒼と茂っていた地域であったことが伺われる。
 椥は中国の南海島や台湾島に自生する植物で、一般に黒潮に乗って南紀四国九州などに定着したといわれている。 椥は熊野の神木になっている。
八咫烏 熊野に係る神社は、摂社、末社を含めると全国に3000以上あり、その御神鳥が八咫烏やたからすである。 その姿は神社によりことなる。 咫とは長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18㎝)を1咫と言うが、しかし、ここでは単に「大きい」という意味でつかわれています。
年間の行事
1)例大祭(神幸祭) 5月5日
  年に一度の「大祭」で、氏子中を行列が練り歩きます。 この先頭に立つのが、先導役と氏子中から応募した巫女達で、先導役が行列の道筋を巫女達が左右の見物客を次々と祓ってゆきます。 この人達が神に接する者全てを祓い清めていくわけです。 次に続くのが神輿ですが、その前に御神宝棒持者達が、その後ろを裃かみしも随行者が連なります。 神輿は「葵祭」などに使われる鳳輦ほうれん、次に続くのが「子供みこし」で、一般に言われる「祭りみこし」です。 次が雅やかな衣装に身を包んだ稚児・児武者と同伴の父兄達である。 また途中の御旅所からは保育園のマーチングバンドが先導します。 行列は13時に神社を出発し、16時頃帰還します。 行列の奉仕者は総勢300人程度です。
2)夏越の祓いと茅の輪くぐり 6月30日12時より
  夏越の祓とは、「大祓式」のことで、1月1日から6月30日までの半年間に、知らず知らずのうちに積み重ねた罪・穢れを取り除くための神事です。 茅の輪くぐりとは、京の初夏の風物詩で、その起源は、昔、北海に坐す武塔神が南海の神女の元に向かわれる途中、日が暮れ、一夜の宿お求め裕福な弟の巨旦将来こたんしょうらいの所へ行ったがことわられ、兄の蘇民そみん将来の所へ行くと、貧しいながらも精一杯におもてなしを受けた。 そこで武塔神が「我は、素戔嗚神なり、後の世に疫病あれば汝は、蘇民将来の子孫と言いて【茅の輪】を腰につけよ、ならば免れるあろう」と告げられ、蘇民の子孫はたすかり、巨旦の子孫は消滅したという伝説からきています。






                      [前へ]    [トップページ]    [次へ]