(58)新熊野神社関連能楽
  
Ⅰ能楽概説
 能・狂言は南北朝から室町期にかけて成長発展した中世の演劇であるが、元来は古代に中国か
ら渡来した散楽にその源を発している。 いわば能と狂言は同じ親から生まれた兄弟なのである。 

 能は南北朝期に観阿弥・世阿弥父子によって大成された、足利義満を始めとする将軍・武将の支
持を得て急速に発展を遂げる。 熱狂的な能楽愛好者であった豊臣秀吉の時代を経て江戸時代に
は狂言も能の一部とみなされ、公式行事に広く採用されている。

 現在、東京を中心に殆ど毎日のように能・狂言の上演があり、その頻度から判断するならば、現在
こそ能楽の最盛期である。

 能の美的理念は、いわゆる幽玄である。 世阿弥のいう幽玄とは優雅で上品な美しさのことであ
る。 能は娯楽的な舞台芸能ではない。 無駄な要素を一切取除きエッセンスのみを残して表現しよ
うする純粋芸術である。 わずかな挙動作で緊迫した内なる情念を表現する静寂の芸術である。 
 約600年前に完成された能が、復興された物でなく、連綿と生きた形で受け継がれ、今でも見る人
に感動を与えている。 これはもうほとんど奇跡に近いってよい。 世界中探してもそんな例は見当
たらない。 能は深刻な内容を最小限の動きで静かに荘重に演じる。 しかも、縁語
掛詞・などの
技巧を駆使しながら漢詩など難しい言葉を散りばめた詞章を謡によって表現するわけだから、聴い
てすぐ理解出来るという者でない。 およそ演劇というものは、大きく演技することで、分かり易く演
じることが基本のはずであるが、能はまったくその逆の方向へ進化したものといえる。 

 動いていないことが、なにも表現していないことを意味するわけではない。 むしろ息をつめて渾身
の力をこめながら静止ししている。 能役者の心臓は大きく高鳴り、全身に汗がにじみ出る。 つま
り能役者の微かな動きは表現の極みともいえるのである。 最小限の表現が最大限の感動を呼び
起こすという逆説の手法を追求した舞台表現が能であるといえる。 この様な舞台芸術は世界に類
例がないのである。 模索する現代演劇に影響を与えつつある。 海外の専門家から注目されつつ
ある。

 能の多くが深刻な情念を描くのにたいして狂言は、日常的庶民感覚の滑稽味を表現する。 した
がって先ず何よりも分かり易くて 楽しいと言うことが狂言に親しみを覚える第1点であろう。 しかし
、それだけならば、落語や漫才がある。 他のジャンルにない、狂言の魅力は、狂言役者の技芸の
レベルの高さと芸域の幅の広さにある。
 狂言の技芸には、能同様の舞や謡いの演技も含まれるのにたいして能には狂言の様なセリフの
演技がないので、演技要素の点から見ても狂言役者の方が芸域は広いと言える。 長い伝統の中
で培われ、磨き抜かれた技芸の力が狂言の魅力を支えている。 

 Ⅱ能の先行芸術
1 散楽
 猿楽という名称は、外来の散楽という名称に起源がある。 散楽が我が国に伝えられた時代に
楽を「さるがく」と発音していた。 それが我が国風の滑稽な芸能となって発展するにつれて、動物の
猿の滑稽な人真似との連想から散楽の代わりに猿楽の文字が宛てられた。 村上天皇(在位946~
967)の散楽策問の中に「宜ㇾカ学二ブ峡猿之奇態一ヲ、莫ㇾ泥二ナグム水鳥之陸歩一二という句
が見えるが、この時代に既に散楽は、猿の如き滑稽な動作をするものと認識されていた。

 文献上では平安時代中期から猿楽の文字が散楽の代わりに用られている。
 散楽の起源は西域の諸芸能とされる。 何世紀にもわたって中央アジア、西アジア、アレクサンドリ
アや古代ギリシャ、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で中国に持ち込まれて言った。 そ
れらの諸芸の総称として、また、宮廷の芸能である雅楽に対するものとして、「一定の決まりに無い
不正規な音楽」の意で中国の隋代(581~618年)に「散楽」と名付けられたというが、実際にはもっと
古く、周(前1046~前256年)や漢(前206年~西暦220年)の時代には既に散楽と呼ばれる民間の
俗学(古散楽)行われていたとも言われている。 
散楽はその他の外来楽と共に古代に中国や朝鮮から輸入されたもので

 散楽が我が国に渡来した年代は明瞭でないが、「続日本紀」の天平7年(733)5月の条に雅楽寮
、雅楽生中に大唐楽が置かれ楽人39人と定められた由が見え、職員令には「唐楽師12人、楽生20
人」とあり、令義解りょうのぎげにはその中に散楽師の存在したことを伝えており、奈良時代に既に
散楽の渡来していたことは、天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼供養に際して、唐散楽一舞が
奏せられたことが東大寺要禄に記されている。
 
 当時我が国において奏でられた唐散楽の詳細は知る由もないが、その本元である中国の散楽に
ついては、幸い随書や唐書礼楽志に詳しく記されており、中国散楽を持って奈良時代のそれを想像
することは可能である。 それによれば、散楽と称せられるものの中には滑稽な物真似を含んだ俳
優歌舞伎等の方面、跳鈴すずとり擲剣てきけん等の曲芸軽業の方面、奇術の方面の三種類のもの
が含まれた。
 以上の三種類の散楽は何れも我が国に伝えられたと思われる。 それは曲芸や軽業に類する演
技は平安時代まで伝えられ、また幻術的な芸能は、主として傀儡子くくつし(人形使い)によって伝え
られた


 2 平安時代の猿楽
 平安時代に入ると猿楽は様々に分化し発展して行くのであるが、その本流をなすのは滑稽を中心
とする物真似、即ち俳優歌舞を本業とする猿楽である。 ついで猿楽の徒が農民歌舞の要素をその
芸に取り入れて新しい方面に進出した「田楽」が発生し、また寺奴の散楽者の中からは宗教的な演
技を中心とし、発展文化した「咒師しゅし」という猿楽が発生したのである。 而して本流をなす猿楽
もその所縁者の社会的な地位によって賤民系統の猿楽と近衛官人の演ずる猿楽、貴族遊宴の際の
猿楽との二流に分かれ、両者の芸能には相当な相違が見られるのであり、咒師の芸能の中から翁
猿楽が発生するに至った。

(1)相撲節会の官人猿楽
  相撲の節会の猿楽は、平安時代の貞観時代(859~876)には既に行はれている。 この猿楽は
 近衛府の官人によって演じられたもので、相撲伎が終了した後に、左右近衛府の楽人が音楽を
 奏し、それに伴われる種々の猿楽が演じられるのである。 この場合左近衛府が演ずる左舞が唐
 楽(中国系散楽)に対し右近衛府の演ずる右舞は高麗楽(高麗及び西域の散楽)であった。
  三代実録貞観3年6月の条によると相撲節会の猿楽の状態を見ると、大体40人ばかりの猿楽を
 演ずる近衛の官人が登場し、各々得意とする芸能を演じたらしく軽業曲芸の部に属するものであ
 った。

(2)神楽余興の陪従猿楽
  神を祭る際に滑稽なわざおき(神を招く態)が行われたことは、岩戸神楽の天鈿女命アメノウズミ
 ノミコトのわざおき以来世に有名である。 往古の神楽は神楽と滑稽伎とが結合していたことは、
 平安時代に入って神楽の余興に猿楽が行うに至った元にとなったものと考えられている。
  平安時代に入って、神楽の余興に猿楽の行われたことは、内侍所の御神楽や春日神社や加茂
 臨時際の御神楽の際に行われたことが記録に見える。
 
(3)貴族遊宴の猿楽
  遊宴に際して座興を添えるために、歌舞や笑を催す滑稽な技が行われることは、古今東西を通
 じて変わらぬ処である。 平安時代の豊明節会とよあかりのせちえ(大嘗祭や新嘗祭の最終日に
 行われる宴会)や正月の臨時客の節会には内裏において、貴族殿上人の猿楽が催されるのが流
 例となっていた。 これは、近衛官人や陪従(楽人)の演ずる猿楽が人々の好みに合った結果、貴
 族自身も、その模倣をして、お互いに楽しむに至ったものと考えられる。 しかし、これらの猿楽の
 うち当時の人々に最も親しみ好まれたのは曲芸や軽業などよりも滑稽な猿楽であった。 
  これは平安時代の物語日記随筆等にきっされている。

(4)民間の賤民猿楽
  平安時代において猿楽の本流をなし、その芸能を新保させたのは賤民の猿楽である。 奈良時
 代の楽戸の民は、猿楽戸の廃止に伴い、一部は公民の地位に昇り近衛府の被官人となったが、
 その他は依然として賤民の階級に甘んじで、ある者は寺院に隷属する寺奴の猿楽者なり、あるい
 はさらに下層にさがり、技芸を持って渡世の資とする猿楽法師となった。 猿楽者は京都奈良等
 の付近や淀川沿岸等に散在して、神社や祭礼や寺院の法会等の際に、夫々参詣の見物人を目
 当てに芸を演じ、寺院からの下行物や見物人の纏頭てんとう(祝儀)物をもらって生計の資とした。
(5)
田楽
  田楽に関して、文献上最も古い記事は日本紀略、一条天皇長保元年(999)4月b10日の条に、
 その当時山城の松尾神社の祭礼に淀川沿岸の山崎付近から田楽者がきて、田楽を演じたことが
 知らされている。 農民が田植に際して行う田楽と田植でなく神社祭礼に際して行われる職業的
 な田楽との二つの初見の記事があげられたのである。
  田楽の起源と見るべきものに、太古において農耕お始めるに際して、五穀豊穣を祈願するため
 に行われる祭式に付随した歌舞であると思われる。 かかる行事は我が国だけでなく中国、インド
 、西洋にもこれに類する物があると報告されている。
  次に、職業的な田楽師は、僧刑をなすこと、課役を免れ賤民階級の身となる事、所々の祭礼統
 に雇われその田楽の伎を持って神事に参加することから賤民猿楽の一種と目されている。 彼等
 が猿楽と区別される所は、田植祭等に出勤して農民歌舞取り入れた田楽舞を奏している点で
 る。 

  かくて、唐散楽系の俳優滑稽の中へ我が国古来からの滑稽歌舞の技を摂し、一層我が国民性
 に会わすような滑稽物真似に発展せしめたものが平安時代の猿楽であり、唐散楽の歌舞の中に
 我が国の最も民衆的な田舞系の歌舞を接収して新しい田楽舞の新生面を開拓したのが田楽法師
 であると考えてよい。
 
(6)咒師
  平安時代に入って、寺院隷属の賤民猿楽の中から咒師
しゆしと称する特殊な猿楽が発生した。 
 咒師という名目が記録上に見えてきたのは寛仁元年(1017)8月の条に「人々相共遊二東光寺一
 令ㇾ走二咒師一」が初めてであり、万寿2年(1025)正月の法成寺の修正会の際にも咒師が参勤
 している。 咒師には2つの意味がある。
  ① 呪文を唱えて加持祈祷を行う僧。
  ②  法会の後に、呪文の内容を猿楽などで芸の型で演じる役者。
  院政時代以後になると修正会(毎年1月に行われる法会)や修二月会(毎年2月に行われる法
 会)において咒師と称する役僧の勤仕がある仕事がある。 その仕事の一部を寺属の猿楽法師に
 任せたことから、このような猿楽が発生したのである・。
  猿楽の咒師はかくの如く、国家的な重要な法会に際して役員の一員に加えられ、僧の勤むべき
 仕事の一部を代行した。
 
(7)翁猿楽
  古くは猿楽や田楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝
 言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼おうおう
 を登場させることがあったものと考えられている。 しかし、面を付け舞や語りを演じる芸 能は猿
 楽が最初であり、翁猿楽とが式三番と称された。 翁猿楽の成立については、「法華五部九巻書」
 序品第一に、父叟は仏を、翁は文殊を、三番は弥勒をかたどるなど仏教的解説があり、平安時代
 後期には成立していたとする説もあるが、「法華五部九巻書」を偽書とする節もある。 
  確実な史料としては、弘安六年(1283)の「春日若宮の臨時祭礼記」が挙げられ、舞楽・田楽・細
 男とともに、児・翁面・三番猿楽・冠者・父允を一組とする翁猿楽が演じられたとされており、この
 頃翁舞の一つの形式が正立した。 
  この翁の芸能が、どのような系譜に根ざしているか不明な部分も多いが、「大乗院寺社雑事記」
 や「興福寺明王院記録」によると、興福寺修二会での鎮守神たる春日大宮の前で演じる猿楽が
 咒師走りと称され、また延暦寺の修正会でも、鎮守日吉大社で翁舞が演じられるなどの例があり
 、平安時代中期以降に大寺社の修正会・修二会などに守護神を祀る後戸うしろどで演じられた咒
 師猿楽の芸能として発展したものと推測されている。 咒師の芸と翁舞の内容が「天下安全五穀
 豊穣」を祈願することでは共通している。ことから修二会に奉仕する咒師の芸に始まり後に猿楽者
 が咒師に代わって演じるようになったものと考えられている。 室町時代の猿楽の座は、この宗教
 色の濃い翁猿画を本芸として各地の寺社の祭礼に参勤し楽頭職を得ていたとされ、今日の能楽
 は、その余興芸ともいえる猿楽能が人気をえて集大成されたものとされている。


3鎌倉時代の猿楽
  鎌倉時代は能楽の歴史に取っては大きな転換期であった。 それは、平安時代の滑稽を中心
 生
命としていた猿楽が、滑稽を離れた歌舞中心の能というものへ飛躍し、歌舞と物真似の結合を
 仕上げた時代である。 而して平安時代の猿楽の本流は狂言というものになって一層に喜劇的な
 進歩を遂げたことになる。 これを系列的に眺めると咒師の衰退によって咒師の配下に隷属してい
 た猿楽が咒師の地位に取って代わり、完全な猿楽の座を形成し、咒師系の芸能を受け継いだ。 
  猿楽の間から新しく生まれた能が、世に歓迎されるにつれて、同様な賤民芸能法師であった田
 楽も早速にこれを自己の芸能の一部として取り入れて、ここに田楽の能がうまれた。
(1)能の発生
  能の発生へ直接的な機縁と考えられるものは、平安時代末期に於ける今様の流行と白拍子舞
 の影響であって、これらの歌謡曲の異常な流行は民衆の喜ぶ芸能をもって世人の人気を集めよ
 うとする猿楽の徒によって逸早く彼らの芸能の中に摂取されたと思われる。
  平安末期から鎌倉初期にかけて、猿楽の芸は「猿楽乱舞」という言葉を持って記録されている。
 この乱舞がいかなる形式を具備していたか、今日では不明である。 
  今様は、日本の歌曲の一形式。 今様とは現代風といういみであり、当時の「現代流行化」とい
 う意味である。 歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが特徴で、様々な
 歌詞が生み出されている。
  白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起った歌舞の一種。 主に男装の遊女や子供
 が今様や朗詠を謡いながら踊ったもの。 能の発生のもう一つの古い形態は、咒師の芸能の中、
 仏教的な意義bを寓したという歌舞である。 玉葉ぎょくよう(九条兼実の日記)の中には「大唐文
 殊の手」という秘曲の名称を伝えているが、詳細は不明である。 今日これらの咒師芸の名残をと
 どめているのは翁の曲がある。

(2)延年風流
  延年は南都北嶺の大寺院に於いて、大法会の後に、催す慰労の芸能大会であって、南都の例
 を見ると、例えば興福寺の維摩会の後の延年はその年次の講師の労を慰めるために催すというの
 が表向きの理由になっている。 これには例年延年頭という役僧が任命され、設備万端の世話指
 導に当たることになっている。その芸能を演ずる者は僧侶及び寺院のや稚児であって、僧侶の芸
 能に優れた者は遊僧という名称でよばれていた。 その芸能は各種のものがあり、仁平寺で観応
 4年に演ぜられたものには、俱舎・俱舎舞・歌婆也志・大衆舞・朗詠・若音・開口・返答・連事・狂言
 ・心曲・風流の名目が見え、永享12年の東大寺延年には、僉議・林讃・倶舎舞・乱舞・朗詠・白拍
 子・開口答瓣・伽陀・連事・風流。乱拍子等の名目が見える。 鎌倉時代中期や初期のものを東大
 寺續要録等によって見ると、稚児の白拍子と大衆の猿楽がとくに目立つことが判明する。
(3)田楽能
  鎌倉時代に入って田楽者は、田楽の能を演ずるに至った。 而して鎌倉末期における北条高塒
 の田楽愛好、吉野時代における足利尊氏を始め部下の諸大名の田楽愛好等によって、田楽は武
 家愛玩の芸能となり、名手も多く輩出して田楽能の盛行と隆盛は猿楽能を圧するまでに偉大な進
 歩を遂げたのである。 
  猿楽能が田楽能に先行して発生し、田楽のうは猿楽能を模して発達したのである。 その理由は
 、田楽者が能を演じた場合、一般の人々はこれを田楽者が猿楽を演じたときしている。 即ち「能」
 というものは猿楽者が演ずるものであり、猿楽者によって始められ、猿楽者の本芸となっていた。

(4)曲舞くせまい 
  田楽能に刺激され、…猿楽能の発達進歩に努力を重ねたのは、大和猿楽の観阿弥清次であっ
 た。 観阿弥は能の中に、当時都で流行していた曲舞くせまいの音曲を取り入れた新演出が、当
 時の観客の心に強い感興をおよぼした。 
  曲舞は中世に端を発する日本の踊り芸能の一つで、南北朝時代から室町時代にかけて流行し
 た。 曲舞の起源は不詳であるが、15世紀末から16世紀初頭にかけて成立した七十一番職人歌
 合(中世後期最大の職人を題材とした職人歌合せ)には白拍子と対して描かれており、両者の服
 装や囃子などの共通点から、白拍子と同じ同じ源流と考えられている。 
  曲舞はストーリーを伴う物語に韻律を付して、節と伴奏をともなう歌舞であり、踊り手には稚児と
 男があった。 稚児舞は水干、大口、立烏帽子の服装、男舞は直垂ひたたれを着用して扇を手に
 もったスタイルを基本とした。
  曲舞が猿楽能に取り入れられた結果として猿楽能は従来の猿楽能や田楽能とは格段の進歩を
 遂げた。


 4 諸芸術の隆替
 曲芸や軽業は比較的に元の形を残して平安後期頃まで伝えられ、その後は田楽者によってその
命脈が繋がれたが、室町時代以降はその形式のみ存在するものとなった。 幻術奇術の方面は、
恐らく恐らく平安後期には衰えてしまqったであろう。 平安時代の滑稽猿楽は、鎌倉後期には狂言
として更生し、猿楽の配下としてその芸統を伝える道を開いた。 田楽は平安時代から吉野時代の
頃までは、社会的地位も高く、その流行も猿楽に勝程の勢力をゆうしていたのであるが、室町時代
に入って後は、名手の凋落と共に猿楽に圧倒され、室町時代末にはただその形骸を止めて、寺社
に参勤するのみの微々たるものに衰退した。  
 平安時代には猿楽の上位に立ち最も重要視された咒師は、鎌倉時代中期に及んでは、配下の猿
楽が独立的な座を打ち立て新芸術の能を持って)施人に喝采せられるようになって漸衰の途を歩ん
だ。 これは咒師の芸術が時代民心の好みから遠ざかったものとなり、魅力を失ったためと思われ
る。 咒師の座は鎌倉時代末期には解体して、猿楽の座に合流した。 
 平安末期から鎌倉前期に亘って流行を究めた白拍子舞は、寺院の延年において稚児の白拍子と
して室町時代まで盛んに行われたが、これは舞そのものより稚児愛玩の風習が、かような盛行を維
持させたものと考える。 また遊女方面の白拍子舞も年次が進むにしたがって魅力が衰え、鎌倉時
代末期には曲舞が発生すると、民衆の興味はその方向に移ってしまい室町時代後期には絶滅した
。 曲舞を見ると、その流行は吉野時代から室町初期にかけてでり、観阿弥によって猿楽能の中に
摂取されたことは、曲舞にとっては名誉なことである。 また、曲舞の一分派として室町初期に発生
した二人舞は幸若舞とも称せられて猿楽と相並んで室町時代流行したが、江戸時代職には衰退し
た。 
 以上の先行芸術の衰退に比して猿楽や狂言が一人その盛行を維持し得たことは主として大和猿
楽の功績である。 即ち観阿弥の力によって、田楽能や近江猿楽、曲舞などの長所を採って集大成
せられたこと、世阿弥によつて益々猿楽能が幽玄化せられて、猿楽能が完璧の域に進んだこと、音
阿弥が非常な名手」であり、また金春禅竹もこれに劣らぬ逸材であって、益々猿楽能は刻琢の美を
加えたこち等、これらの人々の努力によって大和猿楽は、当時の支配階級であったた。 武家の愛
玩を独占することに至り、社会的にも安固な地位を築き上げたのである。



 Ⅲ能の発生と発展
 1 能楽の発生とその大成者
 能楽は室町時代の所産であるが、その由来は。すこぶる古い。 その祖芸は猿楽である。 猿楽
の能、田楽の能は鎌倉時代に置いて既に発生していた。 なかでも田楽の能は、鎌倉時代の末期
から吉野時代の中頃に至る間は、隆盛を究め、本座の一忠いっちゅうや亀阿弥の如き名人も出るの
でる。 一忠は、観阿弥から我が風体の師とまで崇敬された。 猿楽の能が発達していわゆる幽玄
の能に成長する過程で田楽能の影響を受けていることは間違いないが、ともかく今日の能楽を大成
したのは観阿弥清次・世阿弥元清の父子である。 
 観阿弥(1333~1384)と世阿弥(1363~1443)は今を去ること約600年前、この長い間に洗練に洗
練を重ね芸術的進展を遂げ、以て今日に至っているのである。 観阿弥父子が体制下能楽は、古い
猿楽とも書yせっれた古猿楽との間に暦意的関連を有するものであるが、それは全然面目を一新し
たものであった。 
 鎌倉時代末期から吉野時代にかけて田楽が盛んであり、北条高塒や足利尊氏などは、その愛好
者であり、有力な外護者でもあったが、それは勿論田楽に名人が排出したからで、そのため演芸の
はあたかも武家式楽の如きものとなり、将軍代始の勧進田楽は言うまでもなく、年々興業される田
楽勧進には、将軍以下諸大名これに臨むと言う状態であった。 ところが、この形勢が一変して武家
の人々が猿楽の能に向かうようにbなったのは、観阿弥父子その他の人々によって猿楽が革新向
上したからである。 
観阿弥の功績の一つは、猿楽に曲舞を摂取したことで、曲舞は、いわゆる曲舞節の歌に合わせて
舞をまうもので、物真似でなく純粋の歌舞であるが、それが鎌倉時代の末から盛んに流行していた
ので、観阿弥はそれを猿楽に取り入れ、能一番の要の部分に据えた。 観阿弥は、百万という曲舞
師の流れを汲んだ乙鶴からこの芸を学んだので、その曲舞節を何程か和らげ、猿楽の謡にあった小
歌節加味して、新しい小歌曲舞を創作し、これを猿楽の能の中に加え、近江猿楽や田楽の田楽節と
は趣を異にした大和節の猿楽音曲を創作したのである。
 
 次に観阿弥の功績一つとして考えられるのは、彼が猿楽の能を貴賤都鄙きせんとひの何れにも面
白く思われるものに作り上げたことである。
 
 観阿弥の後を継いだ世阿弥もまた父に劣らぬ天才であった。 彼は13,4歳の頃から将軍足利義満
の寵遇を受けたので、当時武家文化の中心で生活して相当に貴族的教養を受けると同時に貴族社
会の好尚をよく呑み込むことが出来た。 父観阿弥の没したのはかれが22歳のときであったから必
ずしも十分に父の教育を受けたと言い得ないが、何程かの教育をたので、彼はそうした基礎の上に
更に体験と工夫を積んで洗練を重ねて一代の至芸を作り上げたのである。
 世阿弥の功績の一は、能楽を優麗典雅なものに洗練したことである。即ち幽玄の理想に向かって
芸を向上せしめたのである。 物真似・歌舞・作曲・詞章・いずれの方向にもこうした幽玄化が施され
た。 幽玄の意義については、種々の推移もあるが、「古今集」では神秘的なものに用い られ、そ
れが和歌の世界に導入された。 然し、他の軍記・記録などには単にゆうびの意に持ちられている
ところから考えると、一般的にはやはり優美の意に使われていたようである。 世阿弥の幽玄もまた
その意味に解し、艶麗にして余韻のある地言う意味の詞と観るのが穏当であろう。
 次に彼の功績は、能楽に芸術論的基礎を与えたことで、花の論・幽玄論・物真似論・習道論・作能
論・芸位論・演技論等何れも父観阿弥から教えられた基礎の上に自分の積んだ経験から体得した
もので、人々が言わんと欲して言い難きののを、彼は懇切に説明している。 かくしてかれは能楽の
各方面に渡って組織を与へ整理を加え、持って今日の能を大成したのである。
 世阿弥には数多い作能の外に数々の遺著が現存している。 その中で「風姿花伝」は最も有名で
ある。
 

 2 能楽の諸座
 猿楽や田楽の座が発生した年代は不明である。 「兵範紀」その他の古記録に白河の本座田楽・
奈良の新座田楽・宇治の田楽などの存在が見えているが、平安時代後期には田楽の座が既に出来
ていたらしく、猿楽の座の方はそれより遅れ鎌倉時代に入ってから発生したようである。 というのは
平安時代には咒師の芸団に隷属して大寺院の所属となっていた為座の組織を有する必要がなかっ
たからで、咒師の勢力が衰えてから猿楽人が独立した座を作ったからであろう。 丹波の本座や摂
津の新座や法成寺などが古記録にあらわれ始めたのは文永年間(1264~75)で、その頃には宇治
の若石座、紀伊の石王座、大和の円満井座・坂戸座も既に出来ていたのである。
 座には座長があってそれには長者があたり、また座衆にも年﨟によって階級の上下があり、所得
の配分も差別があった。 長の下には副長即権守があり、その次に太夫があった。 かくして座の
組織が出来るとその道を生業しようとする者がでる。 禄物が出る社寺の神事や法会には座の縄張
りも出来た。 座衆以外の者はそれに参勤することが出来ないのである。
 社寺の神事法会に出勤する座に対しては、社寺の当局からその座の庁に楽頭という名義を与へ
、この学頭職に補せられたものは、その担当する神事・法会の能に関し全て責任を負うのであって、
出勤不能の場合には、他座の者を雇っても、その責任を負うのである。
 世阿弥の頃の猿楽座には下記の所見がある。
一、大和国春日御神事相随申楽四座 外山(宝生)、結城(観阿弥)、坂戸(金剛)、円満井(金春)
一、江州日吉御神事相随申楽三座 山階、下坂、比叡
一、伊勢 主司 二座
一、法勝寺修正参勤申楽三座 新座、本座、法勝寺


 3 室町時代末期から江戸時代に至る能楽界
 足利氏の後を承けた織田信長は、能楽よりもむしろ幸若を好んだ様に世上には伝えられ、それに
は、桶狭間の戦前に自ら立って謡い且つまった、あの「人間僅か五十年、天下のうちを比ぶれば、
云々」の文句が幸若の「敦盛」である事や、天正10年(1582)5月19日安土の総見寺で、幸若大夫
と梅若大夫とに演奏を命じた所、梅若の能が不出来であったので譴責を加えたのに対し、幸若を大
に賞美したと言う事実などがよく引き合いに出るのであるが、信長は決して能を嫌っていたわけでな
く、二条城で将軍義昭の何かの祝賀能が催された時には、信長自ら小鼓を打ったということが、江
村專斎の「老人雑話」に記されているという。また、天正3年(1575)には永らく中絶していた奈良の
薪能を再興したり、同7年(1579)12月には日数能を催したりしている、この時畝若大夫を招いてい
る。
 織田信長亡き後を承けて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、大の能楽好きでもありました。 しか
し、秀吉は能楽に熱中して以来、天皇の午前で配下の大名達を引き連れて能や狂言を演じてたり、
また「明智討」「柴田」「吉野詣」といったような自身の事跡を新作能に仕立てたりと、他に例のない
空前絶後の熱中ぶりを見せたのである。 秀吉はまさに「能に憑かれた権力者」と言えるでしょう。


4 能楽者の生活及び座の維持
 能役者の生活及び座の維持は、都で外護者たる武家や寺社から支給される、米や銭などの物資
、その他出演に対する報酬などであった。 秀吉の頃から俸禄を支給した。 そしてそうした俸禄の
資源は各大名にそれぞれ高を定めて上納せしめたのであつた。 この制度は江戸時代においても
踏襲し、更に一層確実にになった。 慶応2年(1866)の瀑布能役人分限調によって幕末において
シテ方大夫のみの俸禄を示すと次のとおりである。
・ 御扶持方20人配当米二百五十石      観世大夫
・ 御扶持方18人三百石           金春大夫
・ 御扶持方23人配当米一百石御切米100俵  宝生大夫
・ 御扶持方13人配当米一百石        金剛大夫
・ 御扶持方18人配当米二百石        喜多大夫
 以上の外、各座及び流儀付のツレ・ワキ・囃子方・地謡・狂言の諸役、及び座と流儀とによっては
、付属の地頭・物着などで、やはり俸禄を受けている者があり、四座一流の外にも、松井・山田の両
家が觸流といて俸禄を支給せられているから総て是等を合計すると。
 御扶持方            1226人
   配当米             3493石
   地方              1014石余
   御切米             1580俵
                   金39枚
   人員               226人
 となるのである。 この外、諸侯お抱えの能役者が相当いたことは勿論であるが、それらの俸禄は
幕府とは直接の関係がなかった。
 以上によって、能役者の俸禄では配当米がその大部分を占めていたことがわかるのであるが、そ
の配当米は幕府が、御三家を始め諸大名に割り当てて徴収したもので、その率は、幕府創始の頃
には、1万石につき二十石から二十五石という高率であったが、後には、1万石につき関東は平均1
石6斗五升、関西は三石、北國は二石五升となった。
 以上と自余の分とを合算すると、総計4441石7斗4升となる。 要するに、幕府が能役者を召抱え
たとは言うももの、その経費の大部分は諸大名ksらでていたのである。

 5 徳川家康と能楽
 慶長8年(1603)征夷大将軍を拝するや、徳川家康は公武の主たる人々を伏見城に招いて将軍宣
下能を催した。 以来、将軍家に置かる典礼には必ず能楽を催して、これを式楽とする事となつた。
 これは勿論殺伐な戦国の気風を和らげ、天下の安寧秩序を確保し、以て幕府政治を謳歌しようと
いう魂胆であった。 幕府に置いてこのように能楽を公式の礼楽として取り扱う以上、下々の者が、
それにならうのは当然で、能楽はいたるところで盛行し、諸侯の中には、能楽の奨励を持って政府
の猜忌を避けんとする者もあった。 
 慶長10年(1606)4月将軍職を辞し、翌々12年3月駿府に移転したが、以来能楽を楽しみ、同14年
3月には、之まで大阪に在住していた能役者を駿府に詰めさせた。 家康は、この道の達人に能の
故実などを訊ねて、自らの鑑識眼を養うと同時に、能役者に対しては、芸事をおろそかにしないよう
厳重にこれを監督した。

 6 喜多流の樹立
 家康の後を承けた二代将軍秀忠もまた能楽を好んだ。 能楽を武家式楽として用いたことは父と
同様であった。 
 これより先、豊臣家槍組の士北鬼左衛門長宗の養子に亀丸がいて、その実父内堀道春は泉州堺
北庄桜町の眼科医であったが、本業の傍ら能管を桧垣本彦兵衛に学び、屋号を扇屋、名を榮道と
称し、名手であった。 春道には三人の子供があって、長男万之丞は大阪の陣に討死し、次男養仙
が医業を継ぎ、三男八之丞は北鬼左衛門の養子となった。 即ち亀丸で、笛の名手を父に持つだけ
あって、幼少より能楽を好み、金春流の宮王道三等について学んだ。 彼は、幼少より芸才を顕し、
7歳の時、太閤の午前で「羽衣」を舞い、素晴らしい出来栄えをしめしたので、七つ太夫の名をつけ
られたが、後に自ら七太夫と名乗った。
 この様に、太閤の贔屓の下に益々芸道を磨き、金春流の素人としては抜群の才能を発揮し、遂に
、金春禅曲の娘を娶ってその妻とした。 
 北七太夫は太閤以来豊臣家の寵遇を受けていたので、大阪の陣では岳父禅曲と共に眞田幸村の
隊に加わって奮戦し、落城後は、筑前黒田候」の許に身を寄せて、名も江雪と改め、那珂郡堅粕村
に侘住居していたところが、将軍秀忠の時、七太夫はどうした、あの「清経」は面白かったが、もう一
度見てみたいものだ、という上意があったのを機として、黒田長政が、これを推挙し、四座の太夫と
同格の待遇で、徳川家に召し抱えられる事となった。 時に元和4年(1618)1月、七太夫37歳の時
であった。 四座の太夫並というのであるから、座を認められたわけでなく喜多
流と呼ぶよう身になり、五座と言わず、四座一流というのが普通であった。


 7 幕末から東京時代初期にかけての能楽
 十二代家慶の時代、嘉永6年(1853)ペリー提督が浦賀に来て以来、外交関係の粉乱とともに、
幕府の基礎も次第にグラつき、世間は物情騒然たる形勢形成となったが、それにもかかわらず、催
能は行われた。 十三代家定の時代になっても能を挙行することは前代とさして異なることもなく、
安政2年(1855)十月2日における江戸大震災後にも、翌年4月15日には家定誕生の祝能、また同
年末にはすぉの成婚祝能が盛大に催された。 続いて十四代家持の代になっても、また同様で万
延元年(1860)の松には江戸城奥舞台が新築せられ、同12月10日舞台開きの催能があった。 大
名の中でも、大老井伊直弼の如きは、喜多流を愛好し、多くの能役者を召して、家中の士にも能を
観覧させている。
 しかし、慶長2年(1869)の12月に将軍となった十五代慶喜の時代になると、流石に天下は騒々
しく、合戦もあちこちで起こったので、もはや観能どころでなく、能業界は全く火の消えたような状態
で、翌3年には将軍の大政奉還があり、武家政治は互解して、明治維新となったので、この未曽有
の大変革には、能役者連中何れも転倒して、ほとんど途方に暮れたのである。 
 こんな状態であったから、能役者は諸方に離散し、東京に残留した者も、皆衣食に窮し、家重代の
面、装束、楽器などを売り食いする外、小商人、小役人となり、或は測量方の手伝いにも出れば、庭
師の下働きにも雇われ、扇子も貼れば、楊枝も削ったりなどして、漸く露命を繋いでいる有様であっ
た。 売食いをするといっても、唐織1枚がたった2分という、所謂二束三文の投売であったから、明
日をも頼まれぬ心細い暮らしであった。 
 この様に、明治維新から同十年頃まで、その間、明治2年に英国皇太子の来遊があった時、赤坂
の紀州藩別邸に能を催して、その観覧に供したこともあり、また、旧大名の間に饗宴が行われ、そ
の際能役者を読んで能を舞わせたこともあったが、これらは一時的で、旧大名が帰国してからは、
ぱったりと火の消えるような状態で、能役者は変わらず、辛酸をなめさせられるのであった。 その
悲境の中に、ともかく舞台をもって、絶え絶えながら能を催していたのが、金剛唯一父子と梅若実と
であった。
 金剛の舞台は、麻布飯倉のお熊横丁にあって、梅若の舞台よりも古く、明治11年までは維持した
のであるが、建築後五百六十年を経過して居り、大修理を加えなければならぬ状態であったが、む
しろ新築が良かろうと言うことにはり、芝の宇田川町に移転し、そこに新築したが、その後稲葉子爵
の邸内、続いて神田小川町に移転し、間もなく前の長屋からの失火に類焼して、建物はもとより面。
装束・家財道具すべてを消失した。 そのため金剛泰一郎は喪心状態となり、父唯一の歿3年後の
明治二十年にぼっした。 従って世間では梅若実一人が、維新後踏み止まったと思われている。

 梅若家は、もと丹波猿楽であったが、後観世の座付となり、ツレの家として、また観世大夫の「翁」
に千歳を勤める家柄であった。 実は、文政11年(1828)4月13日、輪王寺御用達鯨井平左衛門の
子として、日本橋白銀町に生まれたのであるが天保10年(1840)梅若六郎氏暘の養子となった。
 明治維新後、丹波船井郡の知行を返上して、貧苦と戦いつつ良く能楽道に精進し、明治4年には
、青山下野守邸の能舞台を譲り受けて、それを浅草南元町の自邸内に移した。 爾来、一意専心
この道の為に尽力し、その卓越した技芸を持って明治の能楽界に重きをなし、宝生九郎・桜間左陣
と共に三名人としてその名を喧伝されるようになったのである。
 8 岩倉具視と能楽
 能楽復興の機運を作り、また外護者として偉大な功績を遺した人に岩倉具視がある。 卿は明治
4年大使となって欧米視察の途に昇り、旅行中その国の楽劇を観覧するにつけ、日本固有の能楽
を振興する事の必要を痛感したのであるが、それに就いては、大使に随行した久米邦武も同様の
思いを懐いたのである。 卿は次の様にかたっている。
 私は、外国でこの礼服着用の芝居を日本の能楽を拝見とすると同じであると観じた時までは、能
なるものを余り興味あるものとは思っていなかった。 それのみか、能楽に耽溺する武士を軟弱軽
佻と侮った程である。 然るに欧州の宮殿にあるこの壮麗なるオペラ堂を見るに至って、痛切に国
民娯楽の必要性を感じ、而してかかる精神上の慰籍から種々なる娯楽には、一時流行のもの、又
は外来の浮ついたのものでは、、所詮立派なものは出来ない。 どうしても国民性の奥に根をもって
いるもの、即ち日本国有の歌舞音曲でなければならない。 もしこの選擇を誤ったなら、国民的娯楽
観念から、日本は非常な不幸に陥らねばならない。 そこで能楽の芸術的価値を思うにいたった。
 かくして、岩倉公は久米及び随行員の一人であった西岡逾明等と種々相談の結果、能楽保存の
志を立てて、帰国後その実現をはかり、先ず明治5年自邸に於いて行幸啓の能を催したが、以来大
臣あるいは華族邸への行幸啓には、必ず能を御覧に入れる事となり、次第に能楽復興の曙光も見
え、離散した能役者も漸く帰京し、また、地方から上京する能役者も現れた。
 明治11年青山御所内に能楽堂が新に建築されたが、これは、この道を特に愛護された英照皇太
后の御孝養の為に。明治天皇が建てられたもので、同年7月5日御舞台開きの御能が催され、それ
にはシテ方では梅若実・宝生九郎・観世鐡之助・金剛唯一・同泰一郎、ワキ方で宝生新朔・同金五
郎・春藤六右衛門・東条照政・鈴木誠、その他の諸役にの皆一流の者が出動した。 以来この舞台
では時々御能の御催しがあったので、それが能楽復興に与えた影響は実に非常なものであった



 Ⅳ 室町以後各時代の能
◆ 城辺 吉野時代―安土桃山時代
能楽の歴史を語る時、その期限を何処に置くかが意見の分かれるところである。 ここでは応安7年
(1374)新熊野の猿楽を起点にする。 その理由は、能楽が今日見るがごとき偉大な舞台芸術に成
長し得た原因は歴代の為政者がこれを保護奨励したからであり、その為政者の保護奨励が加わる
ようにになった契機が応安7年の新熊野の猿楽にあるからである。 詳しく言えばこの新熊野猿楽を
見物した足利義満が観阿弥清次の演技にほれ込んで、これに保護の手を加え始めたのが能楽が為
政者の保護を受けた最初であって、以来五百数十年の長きにわたって、歴代の為政者の庇護の下
に洗練を重ねた結果、この世界に誇るべき偉大な舞台芸術ができあがったのである。 


 1 観阿弥と犬王
 観阿弥清次(1333~11384)は元弘3年伊賀国で生まれた。 観阿弥の祖先については詳しいこと
は分からないが「世子六十以後申楽談義」の記す所によれば「伊賀国服部の杉の木」という人の末
孫であるという。 観阿弥が伊賀国の豪族服部の末流であることは間違いない。
伊賀の服部というのは平氏の一族で、壇ノ浦の合戦に新中納言知盛と相擁して入水した伊賀平内
左衛門尉家長という人のながれである。 この人が伊賀国服部村に住んで、服部と称したのが伊賀
服部の始まりであるという。 「三国地誌」によると、家長には五人の男子があり、その四男が同村
湯舟に住んで杉本某と名乗ったとある。 「申楽談儀」に杉の木とあるのは、恐らく杉の本の誤写で
あろうと思われる。 ともかく「申楽談儀」の記す所に拠れば、その杉の木という人の子息が大田備
中という人の養子となったが、京都である女と契って一人の子を儲けた、この子を同国山田村の猿
楽者で山田小美濃太夫という人が養子にした。 この人に三人の子があり、長男を宝生、次男を正
一、三男を観世と言い、何れも山田小美濃太夫の芸統を継いで猿楽者として世に立ったとある。 こ
の三男の観世が後の観阿弥清次で今の観世家の始祖である。 因みに長男の宝生は今の宝生家
の始祖であって、現代能楽5流の強大な観世宝生2流の宗家は元を糺せば兄弟である。

 観阿弥清次は初め伊賀国小波多に於いて一座を組織したが、後に大和国へ進出し、結城村に本
拠を置き、姓を結城と称し座名も同じく結城座と呼称した。 しかし世人は彼を呼ぶのに、少年時代
の呼称をそのままに、観世観世と呼んだので、何時しかそれが彼の芸名の如くになり、ついについ
にそれが彼の姓なってしまったのである。 従って座名も結城座というより観世座という方が通りが
よくなり、結城座という呼称は遂に廃滅するにいたった。 尚、彼が観阿弥と号したのはずっと後の
ことで、恐らく、義満に見出され、同朋衆の格に取り立てれれた後のことであろう推定される。
 さて大和へ進出した観阿弥の一座は、興福寺の庇護を受けて、主として春日神社の神事に奉仕
した。 その当時、春日神社に奉仕していた猿楽の座には観阿弥の率いる観世座」の外に、宝生・
金春・金剛の三座があり、この四つを大和四座と呼んでいた。
なほ当時は諸国に相当多くの猿楽の座があった。 先づ近江には山階やまなし・下坂しもさか・比叡
ひえ・未満寺みまじ・大森おおもり・酒人さかうとの諸座があった。 この内前の三座を上三座と言い
、これは主として日吉神社に奉仕した。 また後の三座えお下三座と言い、これは主地して多賀神社
奉仕したものである。 かた山城の宇治には守菊・藤松・梅松・幸こうの諸座があり、これは何れも平
等院の鎮守離宮明神の神事に従った。 また伊勢には和屋わや・勝田・青苧あおうの諸座があり、
これはb何れも伊勢大神宮の神事に従った。 その外、丹波に矢田、摂津に榎並と殆ど枚挙に堪え
ぬほどの多くの座があった

 その中で最も技芸の傑出していたのが大和猿楽の四座と近江猿楽の上三座とであった。 而して
大和猿楽を代表して建つ者は観世座の観阿弥であり、近江猿楽を代表して建つのは比叡座の犬王
であった。 観阿弥と犬王、この二名手の対立こそ能楽史の言わねばならない。
 大和へ進出した観世座は春日神社の神事に従う傍ら伊賀・伊勢・山城・近江・和泉・河内・紀伊・
摂津などの近国を巡業したこともあった様だ、そうこうする内に観阿弥の名声が漸く京都の人々の
間に高まってきた。 「醍醐寺新要録」によると、その頃観阿弥は醍醐寺において七ヶ日の猿楽を
興行し、非常な好評を博し、以来観阿弥の名声が挙ったという。
 観阿弥が後世に残した業績の中で最も光輝あるものは、大和猿楽の音曲(謡)を改良して他の音
曲(田楽や近江猿楽の謡)の追随を許さぬ立派なものに仕上げたことである。 その当時における
猿楽や田楽の音曲は所謂小歌がかりの曲節で終始したものであったが、観阿弥はこれに曲舞音曲
の長所を取り入れて、両者の渾然たる融合を図ったのである。 所が、これが時人の嗜好に叶って
非常に流行し、その結果、大和猿楽の音曲が断然他の音曲を圧倒してしまったのです。
 従来の猿楽の音曲、即ち小歌がかりの音曲は旋律の美しさを主眼にした音曲で、従ってそのテン
ポも緩慢であったが、曲舞音曲はリズムの面白さを主眼にした音曲で、従って速度も軽快であった。
 それだけに小歌がかりの音曲の様な柔らか味の欠ける欠点があったのであるが、観阿弥はその
曲舞音曲を小歌風に和らげて猿楽能の中に取り入れたのである。 この小歌化された曲舞、即ち所
謂小歌節曲舞であるが、これが非常に持て囃されて大流行したのである。
 この結果大和猿楽は、ここに他の音曲に見ることの出来ない複雑性を獲得して、雄飛することがで
きたのである。 観阿弥の音楽上の業績は実に偉大な物であった。

 観阿弥はこの様に作曲家として大きな業績を残しただけでなく、猿楽能の台本、即ち謡曲の作者と
しても相当の技量を持っていた。 彼の作った謡曲には「布留」・「金札」・「嵯峨物語」・「静が舞の能
」・「四位の少将」・「卆都婆小町」・「自然居士」などの数番があるが、何れも独特の味を持った佳作
で謡曲作者としての技量が凡庸で無かったことが窺われる。 
 観阿弥の作風は、一言にして言えば、現実的であり、平民的である。 従って観阿弥作品は世阿弥
及びその他の流れを汲む作者達の作品とこの点において大いに趣を異にしている。 即ち世阿弥や
その流れを汲む作者達の作品は、古典的であり、貴族的であって、上品ではあるが、やや生気を欠
く憾がある。 これに対し観阿弥の作品は実に溌剌としている。 要するに時代の相違である。 観阿
弥の時代には猿楽の観客は主として平民階級の人々でした。 尤も、将軍義満に見出されてからは
、貴族階級の人々を主な観客とするようになったであろうが、然し作風がそう急激に変化するもので
はない。 その為観阿弥の作品は平民的な」空気が濃厚なのです。
 観阿弥と対照的な地位にあったのが近江猿楽の犬王であった。 彼は観阿弥よりは大分年下であ
ったらしく、観阿弥の死後約三十年も生き延びて、応永20年(1413)5月9日に没した。 犬王は観
阿弥の推薦によって将軍義満の寵幸を受けた。 それであるから犬王は終生観阿弥の恩を忘れず
、毎月19日(観阿弥の命日)には僧二人をして供養せしめたという。 犬王は晩年剃髪して道阿弥
と号したが、これは自分の法名道義の一字を彼にあたえたものである。 この一事を以てみても、
義満の犬王に対する寵幸が如何に深いものであったかが想像できる。 
 犬王も観阿弥に劣らぬ優れた芸術家であったが、その芸風は観阿弥とは大いに趣を異にしてい
た。 かれは「大象は兎径に遊ばず」の見識的な立場で演技をおこなっていた。 観阿弥の如く大
衆の人気を得た人でなく、少数の卓越した鑑識眼の所有者のみがその真価を知っていたというよ
うなことであったらしい。 しかし、その気品の高い芸は識者の高い評価をえた。
 ともかく観阿弥と犬王は能楽史」の黎明期に於ける二大明星で、その対立は恐らく千載稀に見る
壮観であったろう。


 2 世阿弥と元雅
 観阿弥の後を承けて猿楽能大成の偉業を成就したものはその子世阿弥元清であった。 彼は貞
治2年(1363)に生まれた、観阿弥31歳の時の子で、幼名を藤若丸といった。 例の今熊野神宮猿
楽の時には、かれは十二歳の美少年であつた。 この能が機縁となって、観阿弥父子が足利義満
の庇護を受けるようになった。 義満の藤若丸に対する寵愛は非常なもので、日夜自分の側へ置く
というような有様であったらしく、諸大名は義満の機嫌を取るために、競って藤若丸に贈り物したとい
う。
 しかし、こういう度外れな寵愛は若い芸術家に取って決して幸福とは言い得ない。 何となれば、
こういう場合、恐らく十人が九人までその寵遇に押されて自分の芸術疎かにするからである。 
しかし、さすがに世阿弥は義満の寵愛に酔い痴れて、自己の天職を忘れるような凡庸の人物ではな
かった。 ここに世阿弥という人間の偉大さがある。 それだからこそ猿楽の大成という偉業を成就し
得たのである。
 至徳元年(1384)世阿弥は二十二歳の時、父の観阿弥が亡くなった。 二十二歳という若さで、芸
術上の指導者を失ったことは、此の上もない不幸であった。  しかし、世阿弥はこうした悪条件の中
で憤然と立ち上がったのです。
 世阿弥の著書「花伝書」の第1卷に、十七八から二十二三歳までの間が芸道修行の道程における
最も苦しい時代であって、大抵に者がこの難関で挫折するとある。 世阿弥が父を失ったのは、この
最大難関とも言うべき時期であったわけで、世阿弥の難攻苦行は恐らく言語に絶する者があったと
思われる。  応永元年(1394)3月12日、義満は20年ぶりに再興された興福寺の常楽会を見物する
ために南都に下向した。 翌十三日、将軍の宿坊に宛てられた一院に於いて猿楽が興行された。
 この能の主演者が世阿弥であった、 世阿弥が選ばれたのは、勿論、彼が義満の寵遇を得ていた
からであるが、同時に彼の芸の優れていることが広く世間に認められていた証拠となるであろう。
 この時、世阿弥は三十二歳であった。 因みに義満はこの年の12月に将軍職を嫡子義持に譲り、
翌年六月に剃髪して道義と号し、悠々自適の生活にはいった。 
 応永6年(1399)5月下旬、世阿弥は一乗竹鼻に於いて、勧進猿楽を開催した。 能は20日、25日
、28日の3日に渡って盛大に催され、新将軍義持及び青蓮院・聖護院の両門跡は三ヶ日とも臨場し
、非常な盛観を呈した。 時に世阿弥は三十七歳、芸術家として彼の評価はもはや確固たるものと
なった。

 この頃になると世阿弥は漸く一息ついたらしい、若干の精神的余裕を得たであろうことは想像に難
くない。 「花伝書」七巻はこの精神的余裕を利用して編纂されたものと思われる。
 「花伝書」7巻は世阿弥の壮年気に於ける代表的著述で、その奥書に依って、第一年来稽古条条
・第二物学条条・第三問答条条の三編は応永7年(1400)4月なでに出来上がり、第四神儀・第五奥
儀の二編は応永9年(1402)3月以前出来上つたことが知られる。 第六花修と第七別紙口伝とは
其の編纂年代が明らかでないが、相次いで完成したものと推定される。 即ち、「花伝書」全巻の完
成は応永10年(1403)前後と考えてよい。 世阿弥三十六七歳から四十二三歳までに出来上がった
ものである。 
 因みに、彼が世阿弥と号したのもこの頃である。 第5奥義に世阿弥が見えることより、応永7年4
月から同9年3月の間であることが知られている。 世阿弥という号は前将軍義満の上意によって付
けられたものである。
 応永15年(1408)3月8日、後小松天皇は義満の別邸北山殿へ行幸され、同所に於いて十数日御
滞留された。 その間15日と22日に能楽が催された。 この能に世阿弥は道阿弥(犬王)と共に天
覧の光栄に浴した。 世阿弥は四十六歳であった。 しかし世阿弥の運勢も北山における天覧能の
光栄が一代の絶頂で、此れからは次第に下り坂に向かった。 その兆しは天覧能の後、二ヶ月を経
ずして現れたのである。 それは外でもない、世阿弥の無二の後援者であった義満の薨である。

 義満は北山殿行幸の翌月、4月27日から病床に臥した。 5月6日、五十一歳を一期として永眠し
た。 かくして天下の実権は将軍義持の手に帰したのであるが、これから十数年の間というものは
全く観世座の雌伏時代であった。 義持も能の趣味を解せぬ人ではなかったが、どういうわけか世
阿弥を疎んじた。 そして世阿弥に対する面当てかと思われる程に、僧阿弥という田楽法師を寵愛
した。 僧阿弥は新座の棟梁で、田楽能の名手として盛名を謡晴れた芸術家である。 
応永20年(1413)から同29年(1422)までの間に10回の勧進田楽能が興行され、その都度、義持は
見物に出かけているにも関わらず、これに匹敵する程の猿楽の興行には一度もなかった。 少なくと
もこの10年間は観世座の猿楽が新座の田楽に徹底的に圧倒されていたと見られる。
 世阿弥は何故こんなにまで義持に疎んじられるのか。 義持には義嗣という弟があった。 義嗣は
、容姿秀麗にして才気縦横、特に音楽的な天分に恵まれた才子肌の人であったから、父義満の寵
愛もあつく、その勢力は兄義持を凌駕するものがあった。 世人は義嗣を新御所と称し、義持の世嗣
の如く崇めていた。 こういう風だから、義持と義嗣の間は、表面はともかく衷心に於いて面白からぬ
ものがあったのは当然である。 それが義満の薨後に到って表面に現れてきた。
 義嗣は兄に代わって将軍になろうという野望を抱き、或は吉野の北畠氏と気脈を通じたり、鎌倉の
上杉禅秀と通謀したり、画策する所があったので、義持は義嗣を捕えて相国寺の塔頭林光院に幽
閉した。 これが応永22年(1415)2月の事であった。 義嗣は剃髪して道純と称したが、その屈辱
的な生活に堪えられず応永25年(1418)自刄して果てたのである。 世阿弥は義満の寵愛を受ける
と共に義嗣の眷顧をも受けていたことと想像される。 恐らくそれが災いしたものと推測される。
 
 この様な不遇に面しても世阿弥は芸道に対する熱意はいささかも衰えを見せなかった。 即ち、「
音曲声出口伝」「至花道書」「二曲三体絵図」「能作書」「花鏡」などは何れもこの時期に書かれたも
のなのである。 「花伝書」は如何にしてその名望を確保するかについて縦横の機略を説いたもので
ある。 そのいう所に拠れば芸術の生命である「花」と「面白さ」と「珍しさ」とは三位一体であって、永
く天下の名望を確保するためには己の芸が常に珍しさを失わぬように工夫せねばならないと朱鷺、
如何にすれば常に珍しさを保ち得るかを説いたものである。 つまり、流行の波に乗ることを教えた
物である。 それに対してこの時期に書かれた物は主として芸術における「不易」なものの本質を究
明したものである。
 然らば世阿弥は芸術における「不易」なる物は何と考えていたかといふに、それは一言にしていえ
ば「舞歌幽玄」ということである。 即ち猿楽能は舞歌二曲(舞踊と歌謡)を主要な構成要素とし、幽
玄な情趣を醸し出す物でなければならない。 というのが世阿弥の芸術論の根底をなす思想である。
 そして彼は舞歌幽玄を本風とする芸術家は長く天下の名望を得ることが出来るが、然らざる者は
一時的な人気を得ても、軈やがて没落の憂き目を見るであろうと主張している。
 この様に舞歌二曲を重要視することは換言すれば、演劇的な要素を軽んじて詩的な要素を重んず
ることに外ならない。 世阿弥の理想は「俳優の演技によって舞台の上に詩を創造すること」であっ
た、といって宜しい。 そしてその詩の内容が幽玄を基調とする者でなければならないと言うのであ
る。 
 これは大和猿楽の伝統を破る革命的な意見である。 何故ならば、大和猿楽は先ず物真似(演劇
的要素を取り立てて、かかり(様式)を次にするのが伝統的な芸風であった。 かかりとは何か、要す
るに舞歌二曲である。 彼も最初は物真似と舞歌との調和ということを考えたらしく「花伝書」にはそ
の片鱗が見えている。 しかるに、後には「凡そ遊楽の道は一切物真似なりと雖も、猿楽は、神楽な
れば舞歌二曲を持って本風と申しぬべし」(申楽談儀)と喝破して、舞歌二曲を主要な構成要素とす
べきことを主張している。 舞歌幽玄を重んじ、物真似を軽んずることは、近江猿楽の伝統である。
 世阿弥が中年以後に至ってこの様に持説を改めたことは恐らく近江猿楽の影響であったとおもわ
れる。 また幽玄の内容が世阿弥に至って非常に深みをそなえた。
 さて応永三十年代(1423)に入ると、観世座は再び社会的な勢力を盛り返し始めた。 勿論この頃
には世阿弥は第一線を除いていたものと思われるが、彼に代って立った十郎元雅が次第に活躍し
はじめていたのである。

 元雅の生年は明らかでないが、永享4年(1432)、伊勢で客死した時、40歳に達していなかった事
が世阿弥の「却来華」に見えるから、その出生は応永初年(1394)と推定される。 従って応永二十
五六年頃には既に一人前の芸術家になっていたはずである。 元雅が世阿弥の跡を受けて三代目
の観世大夫となったのが、何時であったか、それも明らかでないが、「申楽談儀」の中に、北野聖廟
の霊夢に関する記事(応永29年11月)があるが、そのなかに「其比ははや出家ありし程に、夢心に、
観世とはいづれやらんとおもひし云々」とある。 これによって世阿弥の剃髪が応永29年11月以前で
あることは確かである。 また「観世とはいづれやらん」とあるのを見ても、元雅が既に世阿弥の後継
者として立派にその存在を認められていたことが想像される。 世阿弥は応永29年に丁度60歳にな
る。 恐らくそれを期にとして、出家入道し、元雅に家督を譲ったものと思われる。
 応永31年(1424)4月、新観世大夫元雅は醍醐寺清瀧宮の神事猿楽の学頭職に任ぜられた。 こ
れは元雅が愈々世間的にもその技量を認められた証拠である。 かくして観世座は再び昔日の隆盛
を取り戻すかに見えたが、天はあくまでも世阿弥父子に対し、冷酷であり、彼等の頭上に思いがけな
い大鉄槌が振り下ろされたのです。
 応永35年(1428)正月18日、将軍義持が43歳薨去こうぎょし、義持の弟である青蓮院の義圓准后
が還俗して将軍職に就いた。 これが六代将軍義教である。 彼は義持以上に世阿弥父子を冷遇し
た。 義持はただ世阿弥を疎んじて近づかないだけであったが、義教はそれのみならず世阿弥父子
に種々の迫害を加えたのである。 義教という人は元来が義嗣と仲の悪かった人であるから、世阿
弥父子に好意を持っていなかったのはとうぜんであるが、これに対して積極的に弾圧を加えるに至
ったことについては、色々な事情が伏在していた模様である。 
 義教は青蓮院の門跡であったころから世阿弥の甥の三郎元重(音阿弥)を寵愛していた。 元重
が、応永34年4月、稲荷辺に於いて、京一言観音堂造営のために勧進猿楽を催した時なども、背後
に義圓があって種々の援助為したこと記録に残っている。 これに拠っても両者の間に相当密接な
関係のあったことが知られる。 義圓が還俗して将軍職就き、義教と称してからは、元重に対する援
助は益々積極的になり、応永35年の7月には、元重を室町殿に招いて宝生十二五郎と共に演能さ
せた。 この様に元重が進出して着た結果、その競争者の地位にあった元雅及び父の世阿弥が目
の敵にされることになったらしい。

 永享元年(1429)5月3日、室町殿の笠懸馬場「に於いて多武峰様猿楽が催された。 これは実馬
実甲冑を用いて演ずるという珍しい者であった。 この日の演能は、観世大夫元雅の一座と三郎元
重の一座が合同して一手となり、また宝生太夫と十二五郎の両座合同して一手となり、両派の競演
という趣向で、非常な盛況であった事が記録に見える。 この能があってからまもなく、元雅は仙洞御
所からの御召に預かった。 ところが、義教は断固としてそれを阻止したのである。 
 記録を調べてみると、これまで仙洞御所の御能には丹波猿楽の梅若大夫が召されていたのである
が、後小松法皇は近来好評を博している観世元雅の能を見てみたいと将軍義教に相談した際、義
教は観世とは自分の贔屓しる元重と勘違いし、何時でも御召下さいと言上したが、当能演会の翌日
法皇が要望した観世が元重でなく元雅であることを知って断固反対したと推定されている。
 翌永享2年(1430)、元雅は突然清瀧宮の楽頭職を罷免された。 而して新たに楽頭職に任ぜられ
たのは従兄弟の元重であった。 これは言うまでもなく将軍義教が世阿弥父子の上に加えた第二の
弾圧であった。
 この後の元雅の消息はあまり分からない。 永享4年(1432)正月24日細川陸奥守の若党共が室
町殿へ参入して演能した折、元雅と世阿弥が番外として各一番の能を演じた事が記録に残っている
が、これがその後における元雅の動静を記す唯一のものである。 そしてその年の8月1日、元雅は
伊勢国安濃の津でさみしく死んでいったのである。
 元雅は技芸の達者であったのみならず文筆の才もあって、数番の謡曲をのこしている。 「盛久」・
「隅田川」・「弱法師」・「高野物狂」などはその代表作である。 
  元雅の急死によって問題になったのは誰が観世大夫になるかということである。 世阿弥には元
雅の他に元能という息子がいたがこれは早くから出家してしまった。 従って観世の太夫を継ぐ者は
甥の元重以外にはなかったのです。 しかし、従来の行き掛かり見て世阿弥が元重に好感をもてな
いのは当然である。 元重に家名を相続させるくらいならむしろ断絶したいとおもったであろう。 しか
し、元重の背後には将軍義教が控えているのです。 世阿弥と雖も将軍に背くことは出来なかった。
 結局元重が四代目の観世大夫になったのである。
 永享5年(1433)4月18日元重は観世大夫として初めて清瀧宮の神事猿楽に奉仕した。 また、同
月21日から3日に渡って洛東糺河原に於いて盛大な勧進能を興行した。 勿論、これは将軍義教の
上意に基図いて行われた物であって、元重の観世大夫継承を天下に披露せしめんとするものであっ
た。
 
 こういうことを見聞きするにつけ世阿弥の胸は痛んだであろう。 しかっし、義教は世阿弥を憐れむ
どころか、猶も迫害の手を緩めようとはしなかった。 かくして遂に、世阿弥は永享6年5月、73歳の
老齢をもって佐渡島に配流したのです。 その原因は明らかでない。恐らく世阿弥が元重に好意を持
ちえなかったことが義教の感に触れたものであろう。 世阿弥は佐渡に流寓せしめられている間に
「金島集」1巻をかいた。 これは自己の境遇を題材にした小謡である。
 ともかく佐渡から帰った後は女婿に当たる金春禅竹の許に身を寄せ、そこで余生を送った模様であ
る。 そして家伝の秘書は禅竹に伝えへ、その身は八十一歳の天寿を全うして、嘉吉3年(1443)安
らかに永眠したのである。

 3 音阿弥と禅竹
 観世十郎元雅の死後、能楽界の第一線に立った者は観世三郎元重(音阿弥)と金春彌三郎氏信(禅
竹)とであった。 元重は応永5年生、氏信は応永12年生で、元雅の死んだ永享4年には元重が35
歳、氏信が28歳であった。 これから30有余年の間は、この二人の天下であった。 元重は世阿弥の
弟である四郎太夫の子で、初めは極めて微弱な勢力しか持っていなかったが、将軍義教の後援を得
て次第に勢力を得、遂に元雅の跡を受けて観世大夫となった。
 氏信は謡曲「昭君」の作者として知られている金春権守ごんのかみの孫である。 氏信の父につい
てはほとんど知られていない。 どうも早世したものらすしい。従って氏信が一人前の芸術家に成り
得たのは岳父世阿弥の庇護によるところがすくなくなかったと推測される。 この二人が永享から文
正(1429~1466)に至る約30年間の間、互に芸を競ったのである。 但し、元重の活躍は京都を中心
として行われ、氏信の活躍は奈良を中心に行われた。 所が、この時代の記録は京都方面の者が多
く、奈良方面のものが乏しいので、元重の経歴はほぼ明らかであるが、氏信の経歴はあまり明らか
でない。 尤も、一つには、元重という人が世才に長けた積極的な人であったのに対し、氏信という
人は野心のない消極的な人で人であったためかとも思われる。

 将軍義教の後援と元雅の急死によつて観世大夫になった元重は幸運な人であったが、この幸運
児にも苦難の時代があった。 嘉吉元年(1441)6月24日、将軍義教が赤松満祐に暗殺されたので
ある。 この事件によって観世座の経済的地盤が根底から崩れたのである。 義教の跡を継いだ将
軍は幼少であって芸術に対して深い理解を持っている道理がない。 したがって催能も極めてまれで
あったと思われる。 しかし、将軍義政は後年東山に閑居して風流韻事を事として数奇な生涯を送っ
た程の人ですから、長ずると共に能に興味を持ち始め、やがて窮迫の底にあった観世座に対し救援
の手を伸べるようになった。 
 これから以後は格別の苦難はなく、将軍の庇護の下に芸道に精進することができた。 元重が剃
髪して音阿弥と号したのは長禄元年から2年(1457~8)らしい。 元重は長禄元年に丁度60歳にな
り、嫡子又三郎はすでに29歳なっちるから、恐らくこれを期として剃髪し又三郎に代をゆずり、又三郎
は父の跡を承け四代目(実は5代目)の観世大夫になったものと思われる。
 かくして元重は形式的には第一線を除いたが、事実はそうではなく、相変わらず舞台に出て盛んに
活躍している。 これから、約10年間が彼の一生を通して最も華やかな時代であった。 その技芸は
益々円熟境に入り、音阿弥の名は天下に喧伝せられⅤ将軍義政の寵遇はますます厚くなった。
 文正元年(1466)2月25日義政は飯尾肥前守之種の私宅を訪れた。 この時も音阿弥父子が召さ
れて演能した。 音阿弥は既に69歳の老齢であったが「岩船」・「実方」の2番を勤めている。 この年
の初夏から音阿弥の健康が次第に衰え始めたと「蔭涼軒日録」にきされている。 そして翌応仁元
年正月2日70歳を一期として永眠した

  音阿弥に対抗した禅竹の経歴についてはほとんど何も知られていない。 禅竹は温厚篤実な人で
あったらしく、岳父世阿弥に対しても、よく孝養を尽くしたようである。 こういう消極的な性格の人であ
って、ほとんど一生を大和で送ったらしく、音阿弥のような花々しい演能記録を1つももっていない。
 寛正6年(1465)9月25日の四座立会猿楽の時には、彼は既に第一線を除いていたが、特に召し
出され「小原野花見」を舞った。 恐らくこれが彼の生涯を飾る唯一の輝かしい演能であったらしい。
 しかし、禅竹の後世へ残した業績は、その一生の滋味であったのと正反対に、実に赫足るものが
あった。 禅竹の作書した謡曲は数こそ多くはないが、優秀な作品が相当にあって、彼が世阿弥次ぐ
一流の作者であることは何人も異論のないところであろう。 「雨月」・「芭蕉」・「楊貴妃」・「玉鬘」など
がその代表作と言うべきもので、これらは世阿弥の傑作と比較しても全く遜色のない立派な作品であ
る。 その上、禅竹は数多くの著書をのこしている。 有名な「六輪一露」を始めとして「五音次第」・「
歌舞髄脳記」・「拾玉得花」・「五音三曲集」・「至道要抄」などの芸術論に関する著述は何れも注目に
値するものである。
 禅竹の芸術論は世阿弥の舞歌幽玄尊重の精神から出発してそれを更に奥深く突きすすめたもの
である。 彼の芸術論の根底をなす物は歌舞一心の思想であるが、これは要するに和歌と能楽とを
本質的に於いて同一であるとする思想である。 即ち、歌は和歌、舞は能楽で、この二つは同じく人
の心を種として発生したものであるから、本質に於いて同一である、というのであって、これが禅竹の
持論であった。 言うまでもなくその当時においては和歌は最高の芸術として尊重されていたのであ
るが、禅竹は、その和歌と能楽とが本質的に同一であり、同等の価値を持つものであることを強調し
新興芸術の能楽の為に万丈の気を吐いたのである。
 金春禅竹の歿年は確かには分からないが、文明の初年と推定され、65~6歳で没したものと考え
られる。 かくして能界の二元老は相次いで世を去り、その後は音阿弥の嫡子政盛と禅竹の嫡子宗
筠の対立となったのである。


 4 観世政盛と
 観世又三郎政盛は永享元年(1429)に生まれた。 彼が父の跡を継いで四代目の観世大夫なった
のは長禄の初年、彼が30歳前後の時であったと推定されている。 彼の第一線に立って活躍したの
は大体この頃から始まったものとみてよい。 長禄から寛正(1455~1466)にかけての活躍は、音阿
弥の名声を負ってはいるがかなり花々しいものがある。 有名な糺河原の勧進猿楽は彼が36歳の
時であった。 もはやこの頃には、彼は押しても押されもせず大立者になっていた。 父音阿弥の物
故は彼の39歳のときであった。
 金春七郎元氏(宗筠そういん)は、永享4年(1432)に生まれた。 観世政盛より三つ年下である。
 彼が父の跡を継いで金春太夫となったのが何時頃かは明らかでない。が、寛正6年(1465)9月25
日の四座立会猿楽の折に既に彼は金春太夫であった。 この時彼は34歳、父禅竹は61歳であった
。 応仁(1467)以後は大体この二人の天下に成ったものと思われるが、この状態は余り長くは続
かなかった。 何故ならば、この二人は揃いも揃って短命であった。 

5 観世祐賢と金春禅鳳
観世祐賢ゆうけんの生年は明らかでない。 父政盛が42歳で急死した時、祐賢はまだ20歳未満であ
ったろうと推定される。 本来ならば、観世座は非常な危機に直面せねばならない所であるが、幸い
にも観世座には観世小次郎信光という傑物が居て、この危機を救ったのである。
観世小次郎信光は音阿弥の第7子で、永享7年(1435)に生まれ、政盛の死んだ文明2年(1470)に
は36歳の働き盛りであった。 この人は非常に天分に恵まれた人で、仕手方として立つだけの素質
は十分にあったが、それは長兄の政盛に譲って、自分は太鼓方として身を立てた。 勿論その太鼓
の技量は素晴らしいものであって、報徳元年(1449)、15歳の時、後花園天皇の内宴に召されて太鼓
を打ち、御感に預かり、天皇より玉扇を賜はつたと伝えられている。 また有名な糺河原の勧進猿楽
の折には、州浜の筒と称する名器を携えて登場し、満場の観衆を絶賛させたといわれている。

  この当時、観世座は、ワキの名手刁菊とらぎく三郎を失って、非常に難渋していた。 糺河原勧進
猿楽の折なども、他座の脇役を雇って窮境を免れたような状態で、従って信光はワキとして舞台に立
つこともしばしばあったようである。 
 この様に万能に達した人であったので、遂に衆望におされ観世座の権守
ごんのかみとなった。 権守
というのは、太夫に次ぐ要職で、楽屋にあって万事を主裁し、大夫が病気でもあれば、代わって能を
も努め、またその他の何役でもあれ、俄かに事の欠ける場合には、直ちにその代役なす義務がある
ので、諸芸通達の人手なければ到底勤まらない役であるが、信光はこれを完全に努めたのである。
 文明10年(1478)4月、洛中誓願寺の附近に於いて盛大な猿楽能が興行された。 これは祐賢を主
演者とするもので、勧進能は22,23,25の三日間亘って催され、将軍義尚も臨場した。 これは、従来
の慣例からみて、将軍家の内命を受けて興行したものと推定される。 恐らく祐賢が一人前になった
ので、それを天下に披露し合わせてその前途を祝福してやろうと言うのが、将軍義尚の意図であった
と思われる。 祐賢は、将軍家を始め貴顕の邸宅に於いて演能したことも数多く記録されている。 
祐賢の物故は明応9年(1500)と推定される。 その享年は明らかでないが、この人も決して長命では
なく50歳以前に死んだものとおもわれる。 後世の書物には名人としてつたえられている。 天分も豊
かであったろうが、信光の存在が大であったと推定される。
 禅鳳の父宗筠が死んだのは禅鳳が27歳の時であった。 禅鳳には信光のような後見人がいなか
った。 かれには日吉興四郎という叔父がいた。 興四郎は宗筠の妹婿で技芸に優れ、金春座の脇
師として活躍していたが父より1年前に死去し、かれは天街孤独であった。 その上、金春座は二人
の優秀な楽師を失わなければならなかった。 守菊彌七郎と日吉源四郎である。 この二人は、前将
軍義政の命により観世座に加入させられたのである。 守菊彌七郎は宇治猿楽の守菊太夫の兄で
文明の初年から金春座に属し専ら脇師として活躍していた。 日吉源四郎は日吉興四郎の子で、禅
鳳の従兄弟であっ他と言う。 これも脇師として活躍していたと考えられる。 それでも禅方は挫けず
、無人の一座を率いて奮闘した。 文明16年の2月10日大乗院に於いて金春・金剛両座の立会能が
催されたが、六番を引受首尾よく務めたという。 
 将軍義尚は長享3年(1489)3月26日に薨じ、代わって将軍となった者は、義政の甥(義視の子)義
稙であった。 しかし、義稙の天下は長く続かなかった。 即ち、明応2年(1493)4月、細川政元が同
じ義政の甥である義澄(政知の子)を擁立して義稙を幽閉した。 義稙は密かに忍び出て越中に逃れ
、かくして天下は義澄の手に帰したのである。
 
 かくして京都の情勢はガラリとかわった。 これとともに能楽界の情勢も変わって来た。 今までは
観世座が将軍家の後援によって圧倒的に勢力を振るっていたが、観世贔屓の義尚と義政があいつ
いで薨じた結果、ここに各座の自由競争時代が来たのである。 当時の記録を見ても、延徳以前は
室町将軍家の能と言えばほとんど観世座が独占しているが、明徳以後になると宝生・金春・金剛の
三座の進出が目立って多くなる。 禅鳳もこの風潮に乗って京都に進出したのである。 
 明徳2年(1493)6月21日、将軍家において観世・金春両座の立会能が行われた。 この時の将軍
は義澄である。 能は観世が9番、金春が4番で両座の太夫はそれぞれ5千5百疋を給与せられた。
 これは禅鳳に取って将軍家に於ける最初の演能であった。
 永正3年(1506)2月27日、室町殿に於いて観世・金春の立会能があった。 これも細川政元の主
催であったが、この後、禅鳳の京都方面における演能の記録が一時ぱったりと途絶えてしまった。
 それもその筈で、永正4年6月、細川政元が、家宰香西元良の為に殺され、翌5年6月には前将軍
義稙が入京し、再び将軍に任ぜられ、細川高国が管領となったが、まだ天下が安定するに至らず、
永正8年8月、前将軍義澄が薨ずるまでは、京とは物情騒然たるものがあった。 このため、京都の
能楽界は一時は閉塞状態にあったのです。 
 永正9年4月将軍義稙が畠山邸へ赴いた折、禅鳳は召されて延納しているが、これを最後に禅鳳
の京都方面での演能記録が消える。 禅鳳は永正10年に丁度60歳であるが、この当時の慣例から
見ると、この年頃が、隠居の適齢であるからこの前後に第一線を退いたものと思われる。
禅鳳の歿年は明らかでないが、永正14,5年頃までは健在であったことが知られている。 禅鳳は技
芸に秀でていただけでなく、文筆の才もあって、「毛端私珍抄」・「禅鳳習道目録」などの遺書がある。
 また謡曲も数番かいている。


 6 観世道見と金春宗端
 観世道見の22妻は金春禅鳳の娘であるから、道見と宗端とは義理の兄弟となる。 年齢もほぼ同
じである。 しかし、道見は早くから父に死別し、若年にして6代目(実は7代目)の観世大夫となっ
たのに対し、宗端の父禅鳳は長命であったので、宗端が太夫となったのは10数年遅れている。 そ
の上、道見が短命であったから、両人が観世・金春の代表人物として相対立した時期は余り長くは
なかった。 明応9年(1500)父祐賢の死んだ時は23,4歳であったが、観世座には権守の要職に信
光がおり、万事を主裁していたから、道見はさまで世間的な苦労を嘗めずにすんだ。 
 道見が観世大夫となった頃は、将軍は十一代義澄の代で、細川政元が管領として威勢を奮ってい
た。 彼が観世大夫になって初めて将軍の演能に従ったのは明応9年5月25日である。 この後は、
単独、あるいは岳父金春禅鳳と共に、また禅鳳引退後は宗端と共にしばしば室町殿に召されて演
能している。
 観世座を泰山の安きに置いた功労者信光は永正13年(1516)7月7日82歳の高齢で永眠した。
祐賢・道見の二代に渡って大夫の後見をし、観世座を貧乏揺すりもさせなかった傑物である、その上
彼は豊富な文学的才能を有し、30余番の謡曲を画きのこしている。 その作品の特徴は演劇的要素
の豊かなことで、世阿弥や禅竹と鮮やかな対照をなしている。 これは、彼がワキとして舞台を踏ん
だことが多く、ワキがシテと対抗して活躍する曲を好んで作書したためであろう。 世阿弥、禅竹に対
での大作者であると言ってよいであろう。
 信光の死によって観世座が動揺することは全くなかっつた。 この頃の道見は金春宗端と共に既
にこの界の第一人者であった。 金春宗端が父禅鳳の跡を承けて金春太夫となったのは永正10年
(1513)頃と推定される。 この時彼は恐らく35,6歳であったろうと思われる。 この人は長命で、天文
21年(1552)3月、なお健在あったことが記録の上に明記されている。 推定に拠れば74,5歳の高齢
であったわけでこの人は後世の書物には非常な名人として伝えられている。 勿論、そうであったに
相違ないとおもわれるが、当時の記録によっての社会的な活躍を調べて見ると割合に花やかでない
。 勧進能のごときも記録に残るものは僅かに1回しかない。 即ち大永2年(1522)4月下旬、東洞
院で興行した勧進能の模様が記されているのみである。 また武家方面の演能とても同様で、永正
15年(1518)3月17日及び20日の両日、畠山邸で観世と立会で演能したこと、大永6年(1526)10月
19日、室町殿で同じく観世と立会で演能したことが記録に残っているのみである。 また南都に於け
る演能も恒例の薪能や若宮御能を除いてほとんど目ぼしいものがない。 尤もこれは興福寺の経済
的な窮迫の反映でもある。
 これらの事実から宗端は曾祖父禅竹と同じく消極的な人物であって、出しゃばることは嫌いだった
とおもわれる。 しかし、技芸に掛けては当代無比の名手であり、殊に晩年はこの界の大御所と多く
の人々から崇敬された。
 

 7 観世宗節・宝生重勝・金春岌蓮・金剛氏正
 観世道見が死んだ時、嫡子元忠(宗節)は僅か14歳であった。 彼は道見の第三子である。 道見
には四人の男子がいた。 長男はどうも技芸の素質が余り良くなったらしく越智観世(元雅の家系)
の名跡を継、観世十郎太夫と称した。 この人は三河に下って徳川家康に仕え、その寵遇を承けた
。 後年に至って観世座が徳川家から特別の待遇を受けるようになったのもその基礎はここにあった
のである。 次男の宗顕は左眼がつぶれていたため太夫として舞台に立つことができなかった。 そ
こで三男の元忠が父の跡を継いで七代目(実は八代目)の観世大夫となったのである。 四男の重
勝は宝生将監の養子となって、宝生大夫となった。
 元忠(宗節)が観世大夫となった時は14歳の少年であっが、幸い観世座には、観世弥次郎長俊と
いう名脇師がいて、これが若年の太夫の補佐教導にあたった。 この長俊は小次郎信光の嫡子であ
る。 この人は父の信光に似て非常に技芸の優れた人であった。 観世家に伝わる一切の能及びそ
の習事に通じていたとされる。 さて若年の太夫の補導役を務めた長俊は実によく努力した。 宗節
が一人前になるまでその名代としてしばしば演能し、一座の結束を固めていたばかりでなく、自分が
習い覚えたいたところの観世家伝来の能の故実を一毫も余さず宗節に伝授し、宗節を不世出の名
人に仕立て上げたのである。 信光と言い長俊と言い観世宗家にとって忘れることのできない大功
労者である。 
 享禄2年(1529)5月上旬、五条玉造に於いて勧進も雨が興行された。 この時宗節は21歳であっ
た。 恐らくこの勧進能は宗節が一人前になったことを天下に公表するための催いであっただろうと
想像される。 宗節はこの後しばしば勧進能を興行している。 第2回は天文9年(1540)3月下旬に
京都西陣で催された。 この時宗節は32歳である。 長俊はこの翌年54歳で没した。 第3回は天文
14年(1545)3月上旬相国寺石橋八幡宮で興行された。 初日の7日将軍義晴が微行して見物にき
た。 第4回は天文21年(1552)3月27日27日伊勢邸犬馬場で興行。 第5回は、永禄7年(1564)5
月中旬相国寺鎮守石橋八幡で興行。将軍義輝も見物に来た。 この時宗節56歳、養嗣子元尚(宗
金)が29歳であった。 宗節は生涯独身で子がなく、元尚は弟宝生重勝の子である。

 永禄の末になると、足利将軍の勢力は益々衰退し、観世座にも生活の不安が生じてきた。 そこで
宗節は遂に意を決して、元亀の初年(1570伴って遠州浜松に下り、徳川家康の許に身を寄せた。 
浜松には長兄の十郎太夫がいたのでそれを頼って下ったものと思われる。 家康も能には興味を持っ
ていたし、嫡男の岡崎三郎信康は大変な能ファンであったから、宗節父子が身を寄せるのには誠に
好都合であった。 宗節父子も家康の庇護の下に一生をおわった。
 宗節の弟で宝生太夫となった重勝も兄に劣らぬ名人であったと伝えられている。 宝生ヶにはあま
り名人が出なかった。 この重勝の代になって初めて第一線に進出したかの感がある。 重勝は大変
研究心の強い人であった。 その技芸は非常に堅実であった。 伯父の金春宗端の芸を模範とし、常
に「自分の家伝書は叔父金春宗端だ」と人に語ったという。 重勝も東国に下り小田原の北条家に身
をよせた。
 金春岌蓮
ぎゅうれんは宗端の子である。 岌蓮は父の宗端とは反対に非常に積極的な性格であった
が芸はあまり上手では無かったようだ。 彼が金春太夫となったのは何時頃かは判明しないが、天文
9年(1540)3月16日、石山本願寺に於いて岌蓮が演能した際には既に金春太夫になっていたことの
確証がある。 彼は永正元年(1504)生まれであるから、36,7歳で大夫となったわけである。 しかし、
父宗端がなお10数年後迄健在であったので、岌蓮は父の隠然たる勢力を背後に負うて相当に勢力
を振るったもようである。 尤も、それは、観世・宝生両座の太夫が彼に好意を持っていたからでもあ
る。 
 観世道見の妻は金春禅鳳の娘であるから、道見と宗端は義理の兄弟である。 観世宗節と宝生重
勝とは兄弟である。 即ち、この時代の観世・金春・宝生の三家は宛ら一家の如き状態にあったので
ある。 所が、この三家を向うに廻して、堂々と争った快男児がいた、それが金剛氏政である。 金
剛家も宝生家と同じくこれまで余り大した名人が出なかった。 
 氏政は永正四年(1507)生まれで、岌蓮より三つ年下、宗節より三つ年上であった。 大兵肥満で、
しかも毛深く、手などは熊の手をみるようだった。 鼻が大きく鼻声であったので、世人は氏正を鼻金
剛と呼んだ。 それでいて芸は確りしていた。 しかし非常に剛腹な人で数々の逸話を残している。
 

 8 観世元尚と金剛久次
 観世宗節の跡を継いだ元尚は天文8年(1539)生れ、金剛氏正の嫡子孫太郎久次は系図には天
文7年(1538)とあるがが、実は天文3年(1534)生れである。 この二人とも芸はそうとう出来たよう
であるが、申し合わせたように短命で、父に先立って世をさきだった。
 元尚の死んだ時、嫡子身愛ただちか(黒雪)は12歳であった。 しかし、幸いなことに祖父の宗節が
まだ健在であった。 身愛は宗節の手元に引取られ、その養育を受けて人となったのである。
 宗節は75歳で 歿した。
 金剛孫太郎久次は金剛家の系図によると天文7年に生まれ、永禄7年に27歳で没したことになるが
、彼の出生は実は天文3年であることから死んだのは31歳であった。 この時、父の氏正は57歳であ
るから、無論、まだ第一線を除いてはいなかった。 したがって久次は金剛太夫にならずに死んだ。 
久次が死んだ時、その遺児は3歳であった。 当時は父氏正は健在であったが、その氏正も天正4年
(1576)に死んでしまったので、同座の脇師金剛又兵衛康季が金剛太夫となった。 久次の遺児は康
季の跡を承けて金剛太夫となった。 これが金剛右京勝吉である。
 なお久次の弟四郎左衛門勝政は宝生重勝の妹と結婚しその名跡を継いで宝生道喜と称した。

 9 金春禅曲と下間法印
 天正11年(1583)に観世宗節と金春岌蓮の二元老が没した後は岌蓮の次男安照(禅曲)が斯界の
第一人者であった。 彼は天正17年(1548)生まれであるから、天正11年には36歳であった。 観世
黒雪は18歳、宝生道喜26歳、金剛康季30歳で、禅曲は四座の太夫の中で最年長者であった。 し
かも技芸に於いて群を抜いていた。
 所がここに下間少進法印という妙な人間がいた。 彼は能役者ではない。 本願寺の家老であるが
、金春岌蓮の弟子で、その芸は中途半端なものではなかった。 金春の流れを汲む人の中にこいう
人がいたことは、金春座にとって、非常に幸福なことで、そのため、金春の謡が上層階級の人々の間
にどんどんと広がっていったらしい。 それは勿論、禅曲の声価が非常に高かったことにもよる。 こ
の傾向に益々拍車をかけたのが豊臣秀吉である。
 秀吉は暮松新九郎という能役者について金春の能を学び、折あるごとに、自ら舞台に立って演能し
た。 その熱心さは全く桁外れであって、このために能は非常に盛んになった。 特に金春が世にと
きめくことになる。
 歴代の為政者の中には、能に興味を持ち、これを後援した者も少なくない。 しかし、秀吉の様な人
は後にも前にもなかった。 彼のは後援というより、むしろ耽溺であった。 秀吉は文禄2年(1593)10
月5日から3日に亘って禁中で能を催し、天覧に供した。 この時の曲と演者は以下のとおりである。

  初日  翁     豊臣秀吉
      弓 八 幡  豊臣秀吉
      芭  蕉   豊臣秀吉
      皇  帝   豊臣秀吉
      源氏供養  豊臣秀吉
      千  手   岐府中納言
      野  宮   徳川家康
      羽  衣   丹波少将秀勝
      山  姥   織田常心
      三  輪   豊臣秀吉
  二日  翁  暮  松新九郎
      老  松   豊臣秀吉
      定  家   豊臣秀吉
      鵜  飼   蒲生氏郷
      遊 行 柳   丹波少将秀勝
      大  会   豊臣秀吉
      楊 貴 妃   宇喜多秀家
      東岸居士  丹波少将秀勝
  三日  翁      金春太夫
     呉  服    豊臣秀吉
     田  村    豊臣秀吉
     松  風    豊臣秀吉
     江  口    豊臣秀吉
     雲 林 院    豊臣秀吉
     杜  若    豊臣秀吉
     紅 葉 狩    織田常心
     通 小 町    岐府中納言
     金  札    豊臣秀吉

 即ち、秀吉は初日に6番、二日目に3番、三日目に七番、合計16番の能を舞つている。 ところが慶
長3年(1598)秀吉が薨じて、政治の中心が江戸に移ると同時に,斯界の情勢も次第に変わり始めた
。 記を見るに敏な禅曲は、これは一刻も早く江戸へ下がって徳川家の庇護を頼もうと慶長11年
(1606)4月、一座の者を引き連れて関東にくだった。 しかし、これは少し時期がはやすぎた。 途中
、駿府に於いて家康に謁し、この旨を述べると、いえやすが言うには「それは未だ時期が早すぎる。 
今江戸では江戸城普請でごたついて、能どころではない。 一先ず立ち戻って時26期を待て」とのこと
なので、禅曲もやむを得ずひきかえした。 然し、同年の冬には江戸城の普請も大体完成し11月には
逸早く観世黒雪が一座を率いて江戸に下ったので、もはや大丈夫と禅曲は再び一座の者を共に江戸
にくだった。 これが同年の12月である。 かくして、能楽界の中心は京都から江戸へ移動したのであ
る。

10 観世黒雪
 観世身愛ただちか(黒雪こくせつ)は永禄9年(1566)に生まれ、12歳にして父に、18歳にして祖父
宗節に死別した。 その後も古津宗印について稽古を積んだ。 古津宗印は観世彌次郎長俊の次
男で、外祖父の弟にあたる。 宗印は芸はさほど上手ではないが」、非常な物知りで教育者としては
申し分のない人であった。 宗節は死ぬ前に家康にたいして国設の将来をくれぐれ頼んでおいたが
、家康はそれを忘れず、若い黒雪をいろいろと後援した。 
 慶長11年11月、黒雪は他座の太夫に先んじて一座の者を引き連れて江戸へ下った。 翌12月には
金春禅曲も一座を率いて下って来た。 その後は他座の役者も続々と江戸へ下り、能楽界の中心は
大阪城の落城より、一足早く江戸へ移ってしまった。 

 ◆下編 江戸時代―明治時代
 江戸時代に於いて特筆すべきことは、其の初期に喜多七太夫という傑物が現れて、四座の外に
一流を立てたことである。 しかし、この外には能楽史上に大書せねばならないほどの事件は殆ど
なかったと言ってよい。 能役者はそれぞれ将軍家から俸給をもらって生活しているのであるから、
その生活は全く安定しており、従って前代に於いて見られたような各座の激烈な勢力争いは全く跡
をたった。 能役者はただ己の芸道に精進することができた。 全く江戸三百年の間は能楽界に取
っても前後に比類のない太平無事な時代であった。 そしてこの間に能楽が今日見るが如き洗練
され切った芸術となっらのである。


 1 江戸草創期の能楽界
 慶長12年(1607)以後の江戸及び駿府を中心とした能楽界に於いて幅を利かせたのは観世座と金
春座であった。 観世座の棟梁黒雪は慶長12年に42歳の働き盛りであった。 しかもその一座には、
福王神右衛門盛忠(ワキ)、進藤久右衛門久次(ワキ)、観世又二郎重次(小鼓)、同勝次郎重政(大
鼓)、同新九郎豊勝(小鼓)などという腕達者が揃っていた。 その上、大御所家康の後援があったか
ら、全く鬼に金棒の観があったが、黒雪がつまらぬ事から短慮を起し、高野山に籠居したりなどして、
家康の感情を害したため、一座の繁栄が一時停滞した。 しかし、やがて旧に復することができたの
は幸いであった。
 この観世座に対して互角、若しくは其れ以上の勢力を振るったのが金春座であった。 棟梁たる禅
曲は慶長12年に60歳、老いたりと雖も未だ矍鑠たるものがあり、漸く円熟の極に達した技芸は常に
賞賛の的となっていた。 元和7年(1622)で歿したが、それまでは其界の元老として隠然たる勢力を
もっていた。 禅曲には三人の男子があり、何れも相当の達者であったから、この一座の顔ぶれもな
かなか充実していた。
 これに引き換え、惨憺たる状態にあったのは金剛座であった。 金剛氏正の死後。脇方から転じて
金剛太夫となり、金剛座の危機を救った金剛又兵衛康季は慶長4年に44歳で没し、氏正の嫡孫右京
勝吉が金剛太夫となったが、この人も『短命で、慶長15年(49)歳で死んだ。 勝吉の遺児右京頼勝
は未だ12歳の少年であったが、一族の中に、この少年の輔導に当たる人物がいんかったので、当時
金剛座に属していた喜多七太夫が金剛太夫となり、会せて頼勝の指導に当たることになった。 
 この喜多七太夫は泉州堺の産で、元来は素人であったが、所謂天才であって、七歳の時には立派
に能を舞い、七つ太夫といわれた。 長ずるに及んで豊臣秀吉の寵愛を受け、その計らいで金春禅
曲の娘婿となったが、禅曲はその才能の余り優れているのに恐れ、こういう人に十分に稽古を付け
てやったら子孫の繁栄に妨げになるであろうとかんがへ、余り稽古をいてやらなかったという。 従っ
て七太夫は禅曲と余り仲がよくなく、そのために金剛座に属していたものと思われる。 七太夫は天
正14年(1586)生れであるから慶長15年(1610)金剛右京勝吉の跡を承けて金剛太夫となったのは
25歳の時である。 如何に彼が傑物であっても、25歳では、観世や金春の向うを張ってb互角の勝
負は難しい。 彼が目覚ましい活躍をし始めるのは、勝吉の遺児頼勝に金剛太夫を譲って喜多七
太夫と名乗ってからである。 宝生座の太夫は、金剛氏正の末子であったが、大した技量の持主で
はなく、ほとんど目立った活躍はしていない。
 

 2 観世黒雪と金春禅曲
 慶長11年(1606)冬、観世黒雪と金春禅曲とはそれぞれ一座を率いて江戸に下った。 将軍秀忠は
両座助成の意味を持って翌12年正月七日から三日間に亘って江戸城で両座の立会能を催した。 こ
の能に観世黒雪。金春禅曲・金春氏勝の三人は将軍から白銀百枚を拝領し、その他の役者応分の
金子を拝領した。
 秀忠は更に両座に命じて同年2月中旬、江戸城の本丸と西の丸の間で勧進能を興行させている。 
将軍秀忠・前将軍家康を始めとして諸大名が臨場し、なかなかの盛況であった模様である。
 こうした状況を見て宝生・金剛両座の太夫も江戸に下って来た。  その時期は明らかでないが翌
年13年8月27日の駿府浅間神社の神事能には四座の太夫が顔を揃えて参勤している。 この日の
能は全部で12番あり、観世黒雪が5番、金春禅曲が4番、金春氏勝、宝生道喜、金剛勝吉の3人が
各1番を演じている。 これによって当時における四座の勢力がほぼ推定出来る。
 慶長14年4月28日駿府城内に於いて家康の慈子長福丸(後の紀伊頼信、当時8歳)が舞を舞い、
その翌日には四座立会能があった。 その翌日(5月1日)にも能があり、禅曲父子は丹波猿楽の梅
若や金剛勝久の遺児頼勝などと共に演能した。 これが梅若の駿府における演能の最初であろうと
思われる。 梅若は元来丹波猿楽の旧家で、応永年中に梅若大夫なる物が後小松法皇の寵遇を得、
しばしば仙洞御所に召され演能している。 が、その後、中央の能楽界とは絶縁状態にあったが、織
豊期に至って梅若妙音太夫なる者が現れ、中央へ進出してきた。 この妙音太夫の子に九郎右衛門
(玄詳)という者があった。 これが前記の能に出演した梅若である。 父の妙音太夫もそうであるがこ
の九郎右衛門も観世黒雪のツレを勤めたことが度々あった。 何時駿府に下ったかは明らかではない
が、慶長14年3月26日豊太閤在世の時から能役者が交替で大阪城に詰めることになっていたのを改
めて、」今後は駿府城に相詰むべきことが家康によって発令された。 恐らくこの命令に応じて駿府に
下ったと考えられる。 この九郎右衛門は父の妙音太夫より下手であったが、不思議に家康の気に入
りって、翌慶長15年5月初旬には家康の許可を受けて駿府に於いて5日に亘る勧進能を催し、また同
月15日には浅間神社の神事能を勤めている、この時には家康がわざわざ見物にでかけている。
 かく梅若が家康の寵遇を受けているのをみて甚だ面白くなかったのが、観世黒雪である。 かっては
自分のツレを勤めていた人間が自分を差し置いて単独で能を興行するのさえ面白くないのに、それを
家康がわざわざ見物に出かけていったのだから、黒雪も腹の虫を抑えかねたと見え、とうとうえらい事
を仕出かした。 それは梅若が浅間神社で演能してから丁度8日目、即ち5月23日のことである。

 この日、駿府城内では上杉景勝・伊達政宗の両名を饗応するために長福丸が演能することになって
おり、その「翁」は家康の命にって黒雪が務めることになっていたのであるが、黒雪はその前夜剃髪し
て姿を晦ましてしまったのではある。 これは家康が梅若をあまり贔屓にするので、」それを憤慨してこ
の暴挙にを敢えてしたものと推測される。 駿府を逐電した黒謁あ高野山へ上って籠居していたとい
う。
 この黒雪の暴挙により、観世座の前途は暗澹たるものになってしまったた。 それに引き替え益々
優勢となったのは金春座である。 しかも翌慶長16年には下間少進法印がくだってきたので、いよい
よ多士済々となり、江戸でも駿府でも盛んに演能している。 
 観世黒雪は慶長17年2月に赦免され、翌18年3月5日駿府城内で催された能に久方ぶりに出演し
、翁付脇能及び祝言を勤めている。 なおこの月の28,29日の両日に亘って駿府城内で能があり、両
日に18番の能が演ぜられたが、その内訳は,長福丸が4番、金春禅曲が8番、下間少進が4番、観
世黒雪が3番、梅若玄詳が1番であった。 金春が圧倒的に優勢である。 B金春座の優勢は禅曲
の晩まで及んだ。
 3喜多七太夫の活躍。
 慶長15年(1610)、金剛右京勝吉の跡を承けて、金剛座の棟梁となった。 同年3月下旬泉州堺に
於いて勧進能を興行している。 この勧進能は正に故郷に錦を飾ろうとする意図も元に意図のもとに
行ったと考えられる。 尚、七太夫は引き続いて4月上旬に京都でも勧進能を興行している。 しかし
、この後の七太夫の消息は分からないのである、 彼が金剛勝吉の嫡孫頼勝に金剛座の太夫職を
譲ったのは何時頃であったか、それさえも明らかでないが、伝えるところによれば、七太夫は大阪夏
の陣に豊臣方に属して奮闘し、落城後は筑前博多に忍んでいたと言う。 恐らくこの以前に太夫職を
頼勝に譲っていたと想像される。
 彼が再び世に出るのは元和4年(1619)で、これについては筑前博多の城主黒田如水が色々と奔
走して、将軍秀忠に赦免を乞うたもののようである。 四座の外に喜多が一流として公認されたのも
それから間もなくであったろうと想像される。 何故に喜多のみを座と言わずに流というのか、喜多は
他の四座の如く専属のワキ方・囃子方・狂言方を有しないからで、従ってその棟梁も喜多太夫と称す
ることを許さなかったが、実際に於いては他座の太夫と何ら異なることのない待遇を受けていた。

 かくして青天白日の身となった七太夫も、流石にしばらくの間は目覚ましい活躍をしていない。 しか
し、元和7年(1622)金春禅曲が没し、寛永3年(1626)に観世黒雪が没した後は、彼は名実共に斯界
の第一人者であった。 七太夫は寛永3年に41歳であるが、四座の太夫は何れも彼よりも後輩で、彼
と互角に太刀打ち出来る者は一人もいなかった。 
 時は既に三代将軍家光の代であるが、前将軍秀忠はまだ健在であった。 秀忠は七太夫して喜多
流を立たせたくらいで、もとから七太夫贔屓の人であったが、この人が頻りに七太夫を後援したため
七太夫の勢力は益々強大となった。 「徳川実紀」に記す所に拠れば寛永5年から8年までの間は全
く七太夫一人舞台の観がある。 ここに集めたのは全ての御乞能おこいのうの記事である。
 御乞能というのは予定の能組が全部演了された後に主賓の希望によって追加される能、現在のア
ンコールに相当するものである。 従って御乞能を演ずる者は当日の出演者の中の花形が選び出さ
れるのであって、御乞能を舞うと言うことは非常な名誉である。
 さてここに集めた記事は江戸城及び大名の邸内に於ける演能に関する物であって、恐らく四座一
流の棟梁が総出演して居るものと推定されるが、御乞能出演の度数において喜多七太夫が断然、
四座の太夫を凌駕している。 即ち、寛永5年から同8年に至る四ヶ年の間に御乞能に召し出された
者は喜多七太夫以外には観世左近重成・金春七郎重勝・金春八左衛門安喜の三名があるのみであ
り、しかもこの三名が各々二回しか出演していないのに対し、喜多七太夫の出演度数は21回という
圧倒的な数字を示している。 この七太夫の舞つた御乞能の大部分が前将軍秀忠の所望によるもの
である事を見ても秀忠が如何に七太夫を贔屓にしていたか分かる。 しかし、喜多流の進路に思わ
ぬ暗礁がよこたわっていたのである。

 寛永8年(1631)秋前将軍秀忠が病床に伏し、翌9年正月不帰の客となった。 前将軍の薨去により
満一ヶ年の間は演能が中止されたが、寛永10年(1633)から再び旧に複した。  さて翌寛永11年の
冬の事である。 久しぶりに仙洞御所で御能が催されることになり、初日には観世重成、後日には喜
多7太夫が出演することに決定した。 この能に「関寺小町」を舞ったのであるが、これが大問題にな
ったのである。 「関寺小町」という曲は一子相伝の秘曲であった。 観世では祐賢以来、金春では
禅鳳以来、これを演じた事がない近代では金剛氏正が死の前年奈良で演じたのが最後である。 
歴代の名人上手と言われたいた人でも敢えてこれを演じようとしなかった秘曲を、素人出身の七太夫
が舞ったのであるからである。 甚だ大胆不敵な話である。 七太夫の心中は此の一番によって天下
の名を雲の上まで響き渡らせようと考えたのであろうが、中々そううまくは問屋が卸さなかったのであ
る。 何と言っても伝統の重んじる当時の事であるから、一体七太夫は誰から「関寺小町」の伝授を受
けたのかということが問題にされる。 
 こうなると七太夫の方は甚だ分が悪い。 なぜなら彼が岳父の金春禅曲とはあまり仲が良くなく彼に
対し殆ど稽古をしてやらなかったからである。 彼は恐らく下間少進法印の演出を見るか又は伝え来
て、それをそれを自己の創意を加えて演じたものであろうが、それでは当時の世間はとおらない。 こ
のことが将軍家光の耳にまでたっした。 こうなると問題は益々面倒になって、遂に四座の太夫がめし
だされ、「関寺小町」に関して詰問を受け、七太夫の演出は正当な伝承の上に立ものでないことが明
らかとなったため、七太夫及びその相手をした葛野九郎兵衛(大鼓)・幸小左衛門(小鼓)・森田長蔵
(笛)の四人は芸事を軽々しく扱ったとして閉門を命ぜられた。
 この問題は勿論七太夫にも落ち度があったが、一つには七太夫の躍進ぶりが」あまりに華々しいの
得を嫉妬していた人々が好機逃すべからずとばかりに騒ぎ立てたために重大問題化したもおのであ
つと思われる。 従って七太夫に同情を寄せる者も少なくなかった。 伊達政宗もその一人であった。 
彼は七太夫他三名の者の赦免について色々と骨を折ったようである。 即ち翌寛永12年正月28日、
政宗は江戸城二丸に於いて将軍家饗応の宴を張り、柳生但馬守宗矩を始め能好の大名を総動員し
て翁付十一番立の素人能を催し、将軍の機嫌を取り組んで於いて、七太夫他三名の者の赦免を乞う
たのである。 直ちに聴許せられ、四名の者は御前に召し出され閉門を解かれたのである。 しかし、
以前の如く七太夫だけが特別の待遇を受けるようなことはこの事件を記してなくなった。 
 七太夫は承応2年(1653)正月7日に68歳で死んだ。彼の一生は実に波乱万丈であった。 一介の
素人から身を起して四座の太夫の列に入り、更に一流を創立し、遂には四座の太夫を圧倒して斯界
の第一人者と仰がれるに至った。 彼も偉人と言わねばならない。 

 4 江戸幕府と能楽
 喜多七太夫歿後の江戸能楽界に於いては、特筆に値する事件もない。 四座一流とも非常な繁栄
を見せ、名人上手が続々と輩出した。 能楽が今日見るがごとき洗練された芸術となったのは全くこ
の時代における名人上手の研鑽の結果であると言っても過言でない。 そしてそれは偏に江戸幕府
の能楽保護策が寛厳宜しきを得たためである。 
 江戸幕府が四座一流の能役者に対して俸給を給し、その経済生活を安定せしめたので、能役者は
後顧の憂へなく安んじて芸能に精進することができた。 これが能楽の芸術的向上に依って力あった
ことはいうまでもない。
 しかし、幕府は単なる能役者の保護者では決してなかった。 同時に厳格な監督者であったのであ
る。 即ち、幕府は絶えず能役者の芸道精進の態度を監視し、必要に応じて戒告をを発し、また不心
得な役者は厳重に処罰したのである。 技芸優秀な役者を厚く賞したことは言うまでもない。 これが
能楽が常に正道を踏んで向上の一路を辿り、かりそめにも時流に逆らって邪道にはしることのなかっ
た最大の原因である。 
 正保四年(1647)6月9日幕府から能役者一同に対して将軍家の上位として1通の戒告が発せられ
た。 その要綱は次の如きものである。
『 各家々に伝へし技芸怠るべからず、身におわぬ芸をなさず、専ら家業の古法を守るべし。 万事
 一座の大夫の指揮を守り、もし訴訟の事あらば、大夫を持って有司のもとへ乞ふべし。  又猿楽催
 し給う事、前の日命せらるれば、大夫のもとへ会集し、よく試をなし、其朝に臨み過失あるべからず。
  先々の令の如く、よろず奢らず、倹約を專とし、家屋衣服食物等、分に応じ、事かろくすべし、家業
 をすてて身に応ぜざる武芸など学ぶ事、停禁たるべし。
  猿楽の衣類調度の外に無用の器財たくはふべからず。
  大小名の招きに応ぜるとき、驕恣不禮のふるまいすねからず。
  諸侯及び権貴人々の座に陪せしとき、伴食すべからず                』

 この戒告を見ても、江戸幕府が能楽に取って如何に厳格な監督者であったかが知られるであろう。
 幕府がこう言う態度で臨むのであるから、能役者も生活に不安がないからと言って安逸をむさぼっ
ているわけには行かない。 殊に一座一流の大夫たるものは安閑としてはいられない。 先ず自ら身
を慎むと共に門弟の監督を厳重にした。 かくして所謂宗家制度が確立したのである。 即ち、一般
の能役者はそれぞれ自らの所属する流派の家元の監督を受け、家元は幕府の監督を受け、かくして
能楽界の秩序が保たれていたのである。 従って一般の能役者は勿論の事、大夫といえどもみだり
に私意をもって古来の式法みだりに私意をもって代えることをゆるさなかった。 
 そのために、能楽は芸術としての純粋性を今日に至りえたのである。 能楽は、今日見る如き洗練
された芸術と成り得たのは勿論、時の流れに押されて不純な夾雑物の混入を免れ得なかったであろ
う。 これは江戸幕府の懸命な処置のたまものであると言わねばならない。
 その江戸幕府にも最後の日はきた。 今まで幕府の庇護のもと、あたかも温室に咲き乱れる花の如
く艶姿を誇っていた能楽は、明治維新の大政変と共に、突如として吹きすさぶ嵐の真っただ中に投げ
出されたのである。 明治維新後の数年間こそは、能楽にとって未だかってない苦難のじきであり、ま
た試練の時期であった。

 5 明治維新と能楽
 三百年の太平に馴れた能役者にとっては、明治維新は青天の霹靂であった。 今までは米の値段
も知らなかった人々が、一朝にして生活の脅威に晒されたのであるから、その困惑はまったく言語に
絶した。 
 新政府は樹立されたが、未だ多事多難で、能楽の保護などは思いも寄らぬ状態であったし、世間の
風潮は全く盲目的な欧化主義で、能楽が再び以前の如く行われようなどとは夢にも思われなかった。
 この情勢に失望した能役者達は、或るいは伝木の家芸を捨てて転業し、或は住み慣れた東京を離
れ移住するという有様で、文字通り4分5裂の状態であった。 
 観世家は二十二世(実は二十三世)清孝の代であった。 この人は飽く迄も徳川家と浮沈を共にし
ようというので、明治2年、慶喜の跡を慕って静岡に移動した。 徳川家では其の不心得えをさとし、
帰京を命じたが、昔気質の清孝は頑として応ぜず。 ただ主家と運命を共にせんことを乞うたので、
遂に再び士分として召し出されることになった。 しかし、今まで贅沢三昧の生活をしていた者がわず
かは仮の扶持で暮らして行けよう道理がなく、身上は瘦せ細るのみであった。 これを挽回しようとし
たものであろう、明治4年、清孝は東京から大勢の役者呼寄せて勧進能興行を計画したが、、生憎の
長雨に祟られて、散々の不成績であった。 そのために生活は益々困窮し、重代の能装飾までも売
り払はねばならないような状態に陥った。 こういう酷い目に遭った挙句の果て、再び東京へ帰って来
た。 それが明治8年のことで、能楽もボツボツ復興の機運に向かっていたが、東京は既に梅若一派
の勢力が牢として抜く根からざるまでに伸張していたので、清孝が驥足を伸ばす余地はなく、明治21
年52歳でぼっした。
 金春家の窮乏も観世家の窮乏も観世家に勝とも劣らぬ状態にあった。 旧幕府時代の金春家は誠
に隆々たるもので、奈良の大豆町には1千有余坪の広大な邸宅を構え、領地内へ銀札を発行してい
た。 それが領地内にとどまらず、奈良一帯に通用していたという。 所が鳥羽伏見の戦に幕府軍が
惨敗するや、幕府の威信は地に墜ち、ひいて金春家の信用も失せたので、奈良一帯の郷民が金春家
へ押し寄せ、銀札の両替を強要し、大変な騒ぎになった。 こうして金春家は観世家より一足さきに没
落した。 時の金春太夫は広也と言って、この人は後年東京の能楽界に返り咲き、その鷹揚な芸風を
賞賛された。
 
 宝生家は九郎知栄の代であった。 この人は後年に至って明治の三名人の一人と言われたひとで
あるが、なかなかの人物も確りしていたらしく、遂に東京を離れず、また転業もせず、ひたすら、時勢
の恢復を舞っていたのは誠に賢明で、東京の能楽界はこの人と梅若実の力によって再建されたと言
ってもかごんでない。
 金剛太夫は右近唯一の代であった。 この人も息子の泰一郎と共に東京に残っていた。 当時、金
剛の舞台は飯倉にあったが、唯一父子は此処を牙城として其の伝統を死守し続けた。 明治初年に
演能の行われていたのは、この金剛の舞台だけで在って、金剛父子ののみならず梅若実(観世)、宝
生九郎(宝生)、松田亀太郎(喜多)などもこの舞台に出演していたと云ふから、明治初年の東京の能
楽界はわずかにこの舞台によってその命脈を保っていたわけで、この金剛唯一父子の功績は忘れる
こと話できない。
 この飯倉の舞台は明治11年に宇田川町に移建され、更に神田小川町の稲葉子爵の邸内に移され
たが、間もなく類焼の災いに遭った。 このために泰一郎は発狂し、明治17年39歳で歿した。 次い
で唯一も明治20年70歳で歿し、後には泰一郎の遺児鈴之助が一人残った。 かくして明治の初年に
は最も活発な動きを見せていた金剛流が最も悲惨な運命に晒されることになったのは誠に気の毒な
次第であった。
 喜多は十二代六平太が既に没し、容姿の勝吉という人の代であったが、この人は余思慮の深い人
でなかったらしく、生活の苦しいままに重代の面装束を片端から売り払ってしまった。 同流の重鎮松
田亀太郎は溜池の紀喜真は赤坂署の巡査になってわずかに露命をつないでいた。
 この様な有様で、維新当時の能楽は全く惨憺たる状態にあった。 それが復興の気運に向かったの
は梅若実や宝生九郎の一方ならぬ努力に拠ることは勿論であるが、明治天皇、並びに英照皇太后が
能楽に対して深い御感心を寄せられたこと、岩倉具視が率先して能楽再興に尽力した。
 明治4年、右大臣岩倉具視卿は大使として欧米視察の途に上ったが、欧州の宮廷におけるオペラ
の盛行を見て深く感ずる所があった。帰国するや直ちに能楽の再興に着手した。 その第一着手が明
治9年4月4日から三日間に亘って岩倉邸で催された行幸啓能であった。 
 第一日(4日)は、天皇、皇后、皇太后の三陛下が親臨されて、能楽を御覧なされた。 
  小 鍛 冶 前田利鬯としか(加賀大聖寺藩第14代藩主・宝生流を学ぶ)
  橋 弁 慶 前田斎泰なりやす(加賀藩第12代藩主)
  土 蜘 蛛 梅若実  (観世座)
  熊  坂 宝生九郎 (宝生座)

 第二日(5日)皇后、皇太后両陛下が臨御された。 
  鉢  木 前田利鬯 (同上)
  満  仲 前田斎泰 (同上)
  夜討曽我 坊城俊政 (公家)
  紅 葉 狩 宝生九郎 (同上)
  融    梅若実  (同上)
 第三日(六日)には親王、内親王を迎えて同じく能楽を御覧bに供した。
  鐡  輪 山階瀧五郎(観世座)
  大仏供養 坊城俊政 (同上)
  安  宅 梅若実  (同上)
  望  月 宝生九郎 (同上)
 明治11年に青山御所内に能舞台が建設された。 これは、明治天皇が英照皇太后に対する御孝養
の恩ために建てられたものでらる。 その舞台開きは7月5日に盛大に挙行された。
  養 老 金剛唯一    小 督 観世鐡之丞    道成寺 宝生九郎
  生 尊 梅若実     土蜘蛛 金剛泰一郎
 この日は天皇・4皇后陛下も臨御され、非常な盛儀であった。 この日の御能は維新以来最初の豪
華版で、出演の役者達は何れも再生の喜びを感じたことでろう。
 明治14年、芝山内に能楽堂が建設された。 これによって岩倉具視の能楽再興の工作もほゞ完了
した。 岩倉具視はこれより先に九条道孝、前田斎泰、池田茂政、坊城俊政、藤堂高潔、前田利鬯の
六卿と相計つて能楽社を創立し、能楽保護に就いて尽力させたのであつて、能楽道建設の大事業も
この能楽社の力で成就したものである。 工事は宮内省内匠課の技師白川勝文が担当し、一年有余
の日数と1万8千余円の巨額を費して竣工したものである。 この舞台開きは同年4月16日におこな
われた。 この日は皇太后陛下の行啓があり、勅奏任官(中央省庁本省の次官や局長、府県知事)
が行列して臨場し、未曽有の盛儀であった。 この日の能組は以下のとおりである。

  高  砂 宝生九郎    田 村 観世清孝     桜 川 梅若実
  鞍馬天狗 金剛唯一    加 茂 桜間伴馬
 なお翌17日は華族その他の有志が観覧日で、この日の能組は以下の通りである。
  邯  鄲 梅若実     八 島 喜多文十郎    巻 絹 金剛泰一郎
  野  守 宝生九郎    金 札 梅若六郎
 翌18日は公開演能会が催され、七百余名の来観者があり、非常な盛況であった。 
  咸 陽 宮 金剛泰一郎   巴   観世鐡之丞    胡蝶 宝生九郎
  安 達 原 梅若実     岩 船 松田亀太郎
 この三日の能によって東京能楽界の精粹が一堂に会したのであって、これは明治能楽史上に特筆
大書すべき催しであった。 かくして能楽は再び昔日の隆盛に立ち戻るできたのである。  因みに
芝能楽堂は明治36年、清国神社の境内に移建され、東部随一の大舞台として各流に利用されてい
たが、昭和13年。現在位置に移動され、一般の使用がふかのうになった。

 6 梅若実
 梅若実は文政11年(1828)に生まれた。 実父は鯨井平左衛門と言い、東叡山寛永寺の御用達で
あった。 幼名を亀次郎と言い、後に観世座のツレの家である梅若家に養子に入った。
 梅若家は丹波猿楽の旧家であるが、近世に至って観世座に属し、ツレの家の筆頭として相当の勢
力を持っていた。 公儀の御能にも祝言能のシテを勤める資格があり、また観世大夫の翁には梅若家
の当主が千歳を勤める慣例になっていた。 実が何歳にして芸事に携わり何歳際にして畝若家に入っ
たかについては明らかでないが、ともかく若いころから芸は達者であったとつたえられる。
 明治維新の際、実は41歳であったが、なかなか腹の出来た人物であったから、あの大動乱の中に
あっても泰然として謡をうたっていた。 明治2年に入って世間も大分穏やかになると門弟も次第に集
まって来るようになったので、毎月三度くらいづづ稽古のための袴能を催すことになった。 見物に来
る人も多少はあって、其の人々が相談し合い、弁当代として一人前1朱づつもってくることになった。 
これが能楽で見物人から金をとった最初である、盆節季のに残る金は1両か一両二分に過ぎなかっ
たがこれが積もり積もって能楽再建という大事業の資金となった。
 元来が小身(禄が少ない)で、自宅に舞台を設けるほどの資力も無かったのであるが、慶応元年に
二間に三間の杉板釘付の板敷」に短い橋掛けを付けた粗末な舞台を設けた。 その舞台で、この稽
古能が催された。 しかし、所蔵の装束類は人でに渡してしまっていたので装束能は出来ず、何時も
袴能であった。 いやそれどころか、揚幕さへもなく、萌黄色の5布風呂敷を代用していたのであるが
、見るに見かねた見物人の中の有志が拠金して絹呉絽ごろ(南蛮渡来の毛織物・梳毛の平織で絹の
交織)の三幅の揚幕を実に贈った。 実は非常に喜び、明治3年の春、関岡という装束屋から1両2分
の損料を払って装束を借り、「弱法師」一番の装束能をやり、その時に新調の揚幕を初めて使用した。

 この様な苦戦を津図家手行く中に、次第に見物の人も増え、財政的にも多少の余裕が出来たらし
く、明治四年の正月には「翁」を出すまでになった。 「翁」他の能とは違って出演者も大勢であり、そ
れだけに費用も嵩むのであるが、その「翁」を出すに至ったということは実の苦労が次第に報いられ
始めた証拠と見ることが出来る。 尤も、部隊が狭いため、に囃子方が全員ぶたいへ入ることが出来
なかった。 というのは、翁には小鼓が三人でる。 そのために大鼓方が舞
台へ入ることが出来ないので、橋掛に控えており、翁帰りの後、脇鼓(小鼓の一つ)の退場するのを
待って舞台へはいった。 この様子を見ていた平岡凞一という人が、これは何とかしなければいけな
いと、いうので、色々と奔走し、青山家の邸内にあった舞台を130円で譲ってもらうように話をつけた。
 しかし、移転費やらなにやらで5百円の金がかかった。 その金は、梅若実・観世鐡之丞・葛野九郎
兵衛・幸清次郎・一噌要三郎・金春惣次郎等七名が連盟で借り、ともかく舞台だけは出来上がり、明
治5年にその舞台開きを挙行した。
 かくして舞台は出来たが同時に借財ができたので、勧進能を催してこれを返済しようとした。 第1
回は、中中の盛会で百円余りの純益を得たが、第2回以後は成績が思わしくなく欠損生じ勝ちであっ
た。 そうなると、前記の7名の中では不平えを言う者が現れた。 さすがの実も一時は困り果てた。
 これを聞いた鍋島候は実の立場に同情し、二百円を貸し与えた。 無論、返済させる意志は無かっ
たのであるが、ほどなく当の鍋島候が薨去されたので、件の借金は返さねばならなくなった。 そこで
、実も最後の決意固め、どうせ倒れるなら祖先の祭りを盛大に執行してから倒れようと言うので、明治
8年、祖先歳の能を催した。 所がこれが霊前に供えた金は予想外の巨額にあがり、これによって鍋
島家からの借財も返還することができ、舞台は漸く自分のものになった。 
 彼は、数々の栄えある演能をなし、宝生九郎・桜間伴馬と共に明治の三名人と言われ、さながら斯
界の王者の如き地位を確保していたのである。 実は明治42年1月19日に82歳でえいみんした。 
彼には万三郎、六郎の二子があり、。何れも技芸抜群、父に劣らぬ名手として斯界に重きをなしてい
る。 彼の維新直後に於ける努力は実に大変なもので、能楽再興の基礎は彼によつて築かれたといっ
ても過言でない。 この功績は永く後世に残るであろうが、唯一つ遺憾に思われることは彼が能楽の宗
家制度に対して十分な認識を峡で居たことで、そのために、彼の死後に至って所謂梅若問題がぼっぱ
つし、今もって完全な解決をみず、能楽界の癌として絶えず紛争の因をなすもんである。

 
 7 宝生九郎
 宝生九郎は天保8年に(1839)に生れた。 父は有名な宝生彌五郎友于である。 この人は非常に
芸の出来た人で、将軍家から師範約を仰せつけられたほどの名手であった。 九郎はその人の次男
として生まれた。 兄が夭折したので父の後を継宝生16代太夫となった。
 天保13年(1844)5月15日、江戸城本丸の舞台で「関原与一」を勤めたのが初舞台であるが、この
時九郎は僅か6歳であっあ。 
 また有名な弘化5年(1848)の勧進能には、初日に「箙」「大江山」、。2日目に「巻絹」、3日目「杜
若」、4日目「経政」、6日目「橋弁慶」、7日目「船弁慶」、8日目「忠信」、9日目「住吉詣」、10日目
「乱」、11日目「大仏供養」、12日目「法下僧」、13日目「小袖曽我」、14日目「夜討曽我」、15日目
「羽衣」、「紅葉狩」以上16番を演じている。 九郎は時に12歳であった。 が、世人は其の練達に舌を
巻き、この少年の将来を囑目した。
 嘉永6年(1853)12月29日、九郎は17歳で家督を相続した。 17歳の若年で宝生座の棟梁となり、
他人から指1本も指されなかった九郎は、よくよくの傑物で、技芸は勿論、人間もよほどしっかりしてい
たことが想像される。 
 明治維新の時、九郎は32歳であった。 この大政変には九郎も驚愕したようだが、。さすがに自己
の行くべき道を見失う」様な事はなかった。 尤も、九郎の取った態度は梅若実のそれとは大分趣を
異にしている。 実は渦巻く怒濤を真正面から乗り切ろうとし、また見事に乗り切ったのであるが、九
郎はそうではなかった。 なるべく抵抗を少なくして怒濤の行き過ぎるのをまったのである。 隠忍して
時勢の恢復するのを待ち、時勢が恢復するや再び花々しい活躍をはじめてのである。 実の奮闘もな
みだぐましいものがあるが、隠忍して世間の鎮まるのを待っていた九郎の態度も賢明であったとおも
う。 この様に二人の取った態度は異なっているが、一歩も東京を離れず、伝来の家芸を護り、精進を
怠らなかったことは二人とも同様であって、明治の能楽界は全くこの二人の力で築かれたようなもの
である。 
 

 8 桜間伴馬
 梅若実・宝生九郎と共に明治の三名人と言われた桜間伴馬は天保6年(1837)に生まれた。 桜間
という家は熊本の旧家で、友枝と共に代々藤崎神社の神事に奉仕していた。 即ち友枝が本座で、
桜間が新座であった。  江戸時代になって、友枝が喜多流に属し、桜間は金春に属して互にその覇
を競ったのであるが、幕末に至って両家に二人の名手が出た。 即ち、友枝三郎と桜間伴馬の二人で
ある。 友枝三郎は明治30何年かに上京して、2,3年滞在しただけであったから中央の能楽界に対し
た足跡を止めなかった。 それに引き替え桜間伴馬は明治14年に上京し、大正6年に83歳で歿するま
で37年の長きに亘って東京で活躍し、明治3名人の一人と言われたのである。 
 桜間伴馬は若年の頃から麒麟児の誉れが高く、衆人の賛歌を一身に集めていたが、遂に藩公の命
を受け江戸に上り、当時名人と言われていた中村平蔵の薫陶を受け、この道の奥義極めて故郷へ帰
った。
 伴馬が再度上京したのは明治14年で、彼が47歳の春であった。 東京の能楽界は次第に勃興気に
入らんとしつつあった。 この年の4月には芝の能楽堂が竣工し、16,17,18の3日に亘って盛大な舞台
開きが挙行された。 彼は初日の祝言「加茂」(半能)を舞って英照皇太后の台覧に浴した。 後に実・
九郎と並び称せられた伴馬も当時は一介の田舎役者としてしかその存在を認められていなかった。
 しかし、翌15年5月14日、芝能楽堂で「邯鄲かんたん」を舞うや伴馬の名は都に響き渡った。 彼が
「邯鄲」を舞う直前、即ち同年4月8日に同じく芝能楽堂で梅若実は「邯鄲」をまっていたから、伴馬の
それが一通りの出来であったならば、到底問題にならなかったに違いない。 恐らく実のそれを凌ぐ程
の上出来であったに違いない。  更に翌16年4月29日、同じく芝能楽堂において「道成寺」を舞った
が、これがまた大変な評判で、ここに至って伴馬が実・九郎に比して優とも劣らぬ名手であることが世
人に認められたのである。
 しかし、この様な技物に於いてこそ、実・九郎を士に具程の名声を博したものの、本格的な能に於い
ては未だ実・九郎に一段落ちるとの見方が、概して公平な評言であろう。 これからの数年間が伴馬
が自分の芸に磨きをかける時期であって、その結果、名実ともに実・九郎に遜色のない大芸術家とな
ることを得たのである。
 大正四年12月7日、宮中御能舞台に於いて催された御大典御祝宴には「高砂」の前シテを勤めた。
 この役は宗家金春栄次郎が務めるはずであつたが、急病で伴馬が代役いたものであった。 この
時、かれは81歳も老齢であったので、その舞台を危ぶむ者もあっつたが、流石に年功は争われず、
いささかの不首尾もなかったのみならず、中入の型の大きさなどは識者の賞賛の的となった
。 
 この様に数々の栄誉を重ねて、大正6年6月26日、83歳で大往生を遂げた。 彼は単に技芸練達の
名手であったばかりでなく、宗家に対する忠勤の志が深く、金春広成・八郎・七郎・栄次郎の四代に
仕え、八郎以下三代の輔導にあたった。 その芸風は堅実にして且つ華麗絢爛の趣をそなえていた
。 明治の三名人の中、実は機略に於いて他の二人にまさり、九郎は位に於いて他の二人にまさり、
而して伴馬は技において他の二人に優ると称せられた。 それほど彼は技が達者であったのである。

 9 宝生新朔と金五郎
 明治の3名人の外に是非語らなければならない人物が二人いる。 それは宝生新朔しんさくと金五
郎の兄弟である。 二人は下懸宝生流の脇方で、名人と言われた宝生新之丞の孫に当たる。 二人
とも技芸は群を抜いていたが。殊に兄の新朔は素晴らしかった。 古老の話に拠れば、金五郎が実・
九郎・伴馬の三人と先ず互角という所であって、新朔に至っては一枚上手であったと言う。 明治の能
楽界にこの二人があったことはイカ場kらか仕手方を奮起せしめ、その技芸を向上せしめた事であろ
う。
 

 10 金剛謹之輔
 明治の三名人よりは大分年少であるが、とにかくこの三人と対立して関西に覇を唱えていたのが金
剛謹之輔である。 彼は金剛禎之助の一子で、安政元年(1854)生れである。  父の禎之助は名人
野村三次郎の門人で、一時は三次郎の養子となっていたが、故あって養家を出た。 禎之助は三次
郎んお推挙によって徳島の藩主蜂須賀候に抱えられた。 彼が金剛姓を名乗るに至ったことも蜂須賀
候の計らいに拠る者であって、これは金剛宗家から時に禎之助とその子の二代に限りという条件付き
で許可されたものであある。 その禎之助は元治元年()謹之輔が11歳の時早世した。 謹之輔は蜂
須賀候の命に依って三次郎の元に寄寓し、その指導を受けることになったが、明治二年、16歳の時、
帰国を命ぜられ、徳島へ行き砲術を習い、鼓手生なった。 明治6年、大阪鎮台の設置と共に、藩兵
が廃止されたので、謹之輔は再び京都に上り、芸事に従うことになった。 しかし、三次郎はすでに
明治」4年に没していたので、彼はほとんど独学の状態であった。 かくしては奈良時と明示12年、26
歳の時、意を決して東京へ上り、金剛氏重などについて稽古を励む傍ら、石井一斎(大鼓方)に就い
て拍子方を学んだ。 滞京中、謹之輔は、岩倉邸行幸能に金剛泰一郎と共に「石橋」の和合及び御
乞仕舞「巴」を勤め、翌日の行啓能に「小鍛冶」の白頭を勤め、天覧・台覧の光栄に浴し、溢れるばか
りの冠城と希望を抱いて京都へ帰った。 
 謹之輔の修業時代は能楽の普請時代であったから、その辛労は一通りではなかった。 生活の資
を得るために、彼は煙草屋になったが、生来器用な質であったから、煙草の葉を合わせるのもなかな
か上手だったと言う。 こうした苦労の結果、彼の名声は次第に高まり、遂に片山晋三と並び称せら
れるに至った。 晋三の死後は名実ともに彼の独断場で、関西能楽界の大御所として重きをなし、中
央の能楽界にもしばしば遠征して、高い評価をえた。
 大正5年4月29日、宮中御能舞台における御催能の折には「小鍛冶」の白頭を演じて、天覧台覧
の光栄に浴した。 また大正11年3月、能楽協会が結成され、その発会式能が同月19日から5日間
に亘って九段能楽堂で開催された。 謹之輔はこの式能に「角田川」を演じたが、その芸は漸く枯淡
の域に入りつつあったという。
 同年11月、赤坂表町金剛能楽堂の舞台開きんお折にも東上して「石橋」の和合を舞ったが、これが
東京に於ける演奏の最終で、翌々13年8月2日、70歳で歿した。
 謹之輔は非常に芸に熱心な人で、「朝長」の繊法演出するに当たり、折々京都郊外の寺院で催され
る観音繊法を参観したり、「遊行柳」の「暮に数ある沓の音」の型を充分にこなす為に飛鳥井家の門に
入って蹴鞠を習ったりしてして工夫思考を)重ねたといわれている。 謹之輔の歿後、家芸は嫡子巌が
相続した。この人も中々の達者で、その豊麗な芸風は独特の妙がある。 昭和12年(1937)金剛右京
の死去により板戸金剛家は断絶した。 他の四流お家元の推薦により、弟子筋である野村金剛家
(京都金剛家)の金剛巌が金剛流家元となり、宗家を継承した。


 令和4年01月25日 (28)世界遺産・を全面的に更新しました。
更新内容は以下のとおりです。
 1、文字大きさ 10.5 → 12ポイント
 2、写真 1枚更新 、454金閣寺枚追加
 3、原稿 13ページ → 45ページ
2ヶ月1回程度の頻度で更新予定

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参考文献
* 能楽全書第1巻  編集者  野上豊一郎  発行所  (株)東京創元社
* 能楽全書第2巻         同上      発行所  同上
* 能と狂言      著  者  林和利     発行所  世界思想社
* 能・狂言必衰    著  者  竹本幹夫    発行所  (株)学燈社
* 能楽への招待   著  者   梅若楢彦   発行所  岩波新書


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