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熊野本宮大社 所在地 和歌山県田辺市本宮町本宮1100
主祭神 家都美御子大神けつみみこのおおかみ(素戔嗚尊すさのおのみこと)
社格等 官幣大社、別表神社
熊野速玉大社 所在地 和歌山県新宮市新宮
主祭神 熊野速玉大神はやたまのみこと(伊弉諾尊いざなぎみこと)
社格等 式内社(大)、官幣大社、別表神社
熊野那智大社 所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
主祭神 熊野夫須美大神ふすみのおおかみ(伊弉冉尊いざなみのみこと)
社格等 官幣大社、別表神社
Ⅰ.熊野大社の歴史
1.熊野三山
熊野本宮大社、熊野速玉大社と熊野那智大社の3神社を合わせて熊野大社又は熊野三山という。 この三社は別々の1神を主神として祀っている。 これを「根本熊野三所権現」と言う。 熊野本宮大社の主神は家都美御子大神けつみみこのおおかみであり、素戔嗚尊すさのおのみことのことである。 熊野速玉大社の主神は、熊野速玉大神はやたまのみことで伊弉諾尊いざなぎみことの名で知られている。 熊野那智大社の主神は、熊野夫須美大神ふすみのおおかみで弉冉尊いざなみのみことのことである。 つまり、「根本熊野三所権現」は、三社に各々1神づつが祀られて、熊野権現はこの三山を合わせねばならない。 三神が三所に祀られているから三山鼎立している。
しかもこの三つの神社は各社ごとに主神1神があり同時に他の社の主神を互いに勧請して三神をⅠ社内に祀っている。 どの社でも「根本熊野三所権現」が祀られるようになり、更に天照大神である若王子にゃくおうじを含めた五所王子(小守の宮・児の宮・聖の宮・禅師の宮・若王子)と四所明神(武甕槌命たけみかづちのみこと・経津主命ふつぬしのみこと・天児屋あまのこやねのみこと・比売命ひめのみこと)を合わせて十二神となったのでこれを「熊野十二所権現と呼ぶことになった」
三山の創立の時期は、三社とも異なっている。 中でも熊野本宮大社が最も早く、創設されたことが記録されているい。 「扶桑略記」には崇神天皇四十七年(BC51年と、「水鏡」には同65年(BC33年)として「出でまし」の年代としている。 このことは御社殿が新しく作られたことを記したもので創設はそれより前になる。 しかし、三山中で最も早くから現れていつので「本宮」とよばれた。
なお、上古天皇の在位年には疑問があるが、三世紀から四世紀の初めに実在した大王と捉える見方がすくなくない。 古事記では崇神天皇の没年(崇神天皇68年)を干支により戌寅年と記載しているので、これを信用して318年(又は258年)没と推測する説もある。
新宮は「水鏡」や「色葉字類抄」などに出ているところでは、景行天皇58年(128年)新宮を作るとされている。 草創はそれより前であったろうが、御社殿を新しく作ったことで、これによって「新宮」といわれる。 那智は「熊野年代記」に仁徳天皇5年に那智大滝とともに出現されたとなっている。 那智の大滝は開闢以来のものであるから神代よりすでに人々の知っていたことと思われるが、仁徳天皇音御代に社殿が大滝入口の旧地から移されて新しく創建されたように記されている。
神話では、素戔嗚尊は伊弉諾尊と伊弉冉尊に間に生まれた三人兄弟の末子で、兄弟には天照大神と月夜見尊がいる。 伊弉諾尊は伊弉冉尊の兄であり、夫である。 伊弉冉尊は伊弉諾お妹であり妻である。 即ち熊野三山は伊弉家族を祀る社になる。
長寛元年(1163)に書かれた「長寛勘文」の「熊野権現垂迹縁起」が伝えるところによれば、10世紀前半頃から、熊野本宮では主祭神を家都美御子大神けつみみこのおおかみ(本地仏は阿弥陀如来)と呼ぶようになった。 また、同時期の新宮では、神倉社を経て阿須賀社に結神(熊野夫須美大神)・早玉神(熊野速玉大神)と熊野坐神(熊野速玉大神)を祀ったとの記述が同じく「熊野権現垂迹縁起」にみられ、この時期に熊野三所権現が成立したことがわかる。 そして12世紀に入ると、藤原宗忠の参詣記の天仁2年(1109)条にあるように、三山が互いの主祭神を祀りあうようになっており、宗教思想上の一体化がなされ、熊野三所権現が成立していたことが判明する。
三山を統括する役職としての熊野別当の名称は、「熊野別当代々記」によると、9世紀に初見される。 この時期の熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院の寛治4年(1090)の熊野御幸後、事情は一変する。 熊野御幸から帰還したのち、白河院は、先達を務めた円城寺の僧侶僧誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任した。 「熊野別当代々記」では嵯峨天皇弘仁の年(810~823)、初めて快慶が別当となって長快」までの15代の別当名があげられてある。 これまでの別当一山内で私的に推挙し別当と名乗っていたのである。 これにより、熊野三山の社僧は中央の僧綱制に連なるようになった。 この時設けた検校は熊野に居らず統括実務を担ったわけでなかった。
2.出雲の熊野愛車お紀州の熊野本宮大社
島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社の社格等は、出雲大社と並んで出雲国一宮、旧国幣大社、別表神社である。 この島根県は「古事記」「日本書紀」「出雲国風土記」など8世紀初頭に著された我が国に現存する最古の文献に度々登場する神話の舞台の地である。
信仰面では出雲大社(古くは杵築大社きづきたいしゃ)が国譲り神話で有名であるが、歴史的には意宇郡おうぐん(現在の八束郡)八雲村に鎮座する熊野大社とともに考えなければならない。 「出雲国風土記」で熊野神は、野城のぎ、佐田、杵築の神とともに四大神として扱われ、その筆頭が熊野神を祀る熊野大社となっている。 この四大神のうち熊野と杵築の二神にのみ大社の称号が与えられた。
熊野大社の祭神は伊邪那伎いざなぎ日ひ真名子まなこ加夫呂伎かふろぎ熊野くまの大神おおかみ櫛くし御気みけぬ野の命みことで、「伊邪那伎日真名子」とは国生みを始めて生きとし生けるものを生かし、その主宰の神をお生みになられたイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子の意味である。 「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる真美様です。 この御神名は素戔嗚尊の別神名である。
紀伊国の熊野三山も有名であるが、出雲の熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。 社伝では熊野村の住民が紀伊の国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社のもとであるとしている。
3.古代の熊野地方
日本書紀に出ている熊野の最も古い記事は「伊弉冉尊が火の神を生んでお崩れになられたので、紀伊の国の有馬に葬むりまつる」という記事である。 三重県熊野市有馬町にある花窟神社はなのいわやじんじゃである。 日本書紀は続いて「土俗この神の魂を祭るには花を以て祭り、また鼓をならし笛をふき、舞を舞、幡をたててまつる」と記している。 これは今でも巨岩の前で2月2日と10月2日にこのような祭りがおこなわれている。
花窟はなのいわやの祭神は伊弉冉尊であって、万物を産みになった母神であるか「産むすび」の神といい、一名「熊野夫須美神」と申す。 熊野三所権現中の1神であって三山ではともに祀っている。 有馬の花窟は、その古代人が、伊弉冉尊か、後にそう言われるようになった神か、彼らの崇敬していた「神霊」をここに祀っていたに違いない。
熊野の古来からの崇敬神は「熊野夫須美」という方で、のちの熊野三所権現の1柱として祀られた神であるが、「夫須美」は「むすび」と解いているので、「産」の神、即ち神々や人間をも生んだ伊弉冉尊の別の御名前だとされ、花窟の神は伊弉冉尊であり、「産の神」であり「夫須美神」であるとなったと思われる。
熊野の歴史の第二は神武天皇の神話である。 神武天皇が九州日向の高千穂宮を発して吉備の国高島、浪速、紀伊名草を経て、だんだん大回りをして熊野灘から熊野神村に上陸された「古事記」、「日本書紀」に大きく出ている。 天皇の郡は紀伊の名草邑なぐさむら(現在の和歌山市と推定される)に上陸して名草戸畔とべを平定したが、長髓彦ながすねひこの軍に敗れて熊野灘に出られた。
しかし、大暴風雨にあって、稲飯命、三毛人野命の二人が遭難に会いながらも、手研耳てすきみの命と熊野の荒坂津に上陸し、その地の士族の頭であった丹敷戸畔にしきとべを平定された。 その時大きな熊が現れて姿を消したところ毒気によって軍勢一同倒れた、これが「熊野」の地名の起りの因もととされている。 この時、天照大神が武甕雷命たけみかずちのみことに命じて、「韴霊ふつのみたま」という剣を熊野高倉下たかくらじ命になさずけ、天皇に奉らしめられた。 そこで天皇の軍勢もめざめられて、進軍されることとなった。 そのとき天照大神は八咫烏やたからすを遣わして、道案内をさせたので、吉野の菟田下県うだのしもあがたに行くことができ、この八咫烏の霊知・霊脳は後々永く熊野の信仰に大きなしるしを現した。 さて皇軍はそこで大和の長髓彦を平定して、国の統一をはかる基をつくられたと「古事記」にかいてある。
4.熊野本宮大社
現在の社地は山の上にあるが明治22年(1889年)の大洪水で流されるまでは熊野川(新宮川水系十津川)の中州にあった。 明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧地の社殿は破壊した。 現在、旧社地の中州は「大斎原おおゆのはら」と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、幅42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。
この熊野本宮をはじめ、速玉、那智の熊野三社の由来は、それぞれ異なっている。 しかし、川の近い所に造られている点は一致している。 神道の古儀として、最も尊ぶことは清浄であり、潔斎であるので、川の近くに鎮座したものであろう。
次に三社がいずれも同じ神々をお祭りしていることは一致している。 しかし、三社のそれぞれの主神は異なっている。 これは鎮座の由来が異にするからである。 本宮は「家津御子大神」(別名素戔嗚尊)を主神としている。 その外の二神は「速玉神」「熊野夫須美神」である。 後に十二所の神々をまつり熊野神としたが、出雲に関係のある神は、この神のみである。
出雲の神を祀る人々が、ここにきて、ここを安居と定めたとき、先住者と融和を図る必要があったん違いない。 それが、外の二神を合わせてまつるようになった事由と推定される。 速玉神は新宮に早くから住み着いた人々の崇めた神、夫須美神は有馬の花窟に祀る神で、古くこの地に住んでいた人々の崇敬神であった。 この二神を本宮に迎えた事情をわかりやすく物語っているのが「熊野権現垂迹縁起すいじゃくえんぎ」で、次のように書かれている。
「熊野三所権現が唐の天台山を発して鎮西彦山、伊与石槌峰、淡路遊鶴羽ゆずるは峰へと順次天下り、次いで紀伊切目山西海北岸の松の木の下に渡御し、やがて熊野院宮南の神倉峰かんのくらのみねに降臨し、また新宮東阿須賀あすか社北の石淵谷に鎮まり、最後は本宮大湯原の一位の木にとどまった」
本宮の初めの鎮座地は、音無川と岩田川との合流点、熊野川の川べりであった。 この鎮座地について「熊野三巻書」(「熊雄略記」)が語るところによれば、熊野権現が神武天皇戌午つちのえうま(西暦81年)12月晦夜半に摩竭陀まがた国(古代インド十六大国の一つ)より二河の間に飛んで来られた。 二河は東流を熊野川と称し、西流を音無川と号す二河の間の島を新島と号す。
この権現は日本に来られた時は鎮西彦山に、次に四国の石鎚山に、次に淡路の遊鶴羽峰ゆづりはの みね、次に紀伊無漏切目、次に熊野神倉、次に阿須賀社北の石淵に順々に降臨されて、石淵に「結速玉、家津御子」の二宇の社を造ってお鎮りになった。 後に家津御子だけが熊野川の上流本宮の櫟木いちいのきに天下られ、崇神天皇の御代に別に社殿を造って御遷りになった。 このように三神の内一番早く社殿を設けて鎮まりになったので本宮というと伝えている。
当社はもともと「熊野坐くまのにます神社」と呼ばれていた。 熊野坐神、熊野速玉神、熊野夫須美神が世に知られるようになったのは奈良時代からである。
延喜7年(901)10月に宇多法皇がはじめて熊野御幸を催され、貴顕による熊野詣での時代がはじまった。 源平の時代になると、武士は出陣に際して戦功を祈願し、戦地において熊野神を勧請して祈願を続けた。 これが熊野神が全国に普及する大きな原動力であった。
延喜の年「延喜式」に「名神大」として登録されて国家の祭祀を受けられることとなった。 それにより社殿の造営は国費をもって充てられ、歴代の上皇、法皇、女院の御幸は百度を超え、隆盛なものであった。
神仏習合の行われるようになった時、この社は真っ先に権現を唱えて仏教に傾き、神職は僧になって仏事を神事といい、神前で行ったのである。 清僧を「本宮三昧僧」などといったもので、仁王会、修正会、夏経、法華経などを読んだり、護摩を焚き八講などをもっぱらおこなったことが年中行事に記録されている、
しかし平安・鎌倉、室町とだんだん時代が下がるに従い、旧神官の者が復旧を望むようになった。 明和の年にまたまた火災があり、社殿雑舎のほとんどが焼けてしまった。 この時神事を重んじる者が決断して、万事神式にし、社殿の造営など古風に戻した。 神官を本官、中座、西坐に分け、その下に小社人、神楽人、管弦方、語役、堂下、承仕、御供方、地主、祝部、神子、神人、社大工等の制を設けた。 本官の坐を左右に分け、左坐を上官と言ってその長を総検校といった。 一方、右坐うぇお外官といい、その長を別当といった。 総検校と別当は一山を支配した。 本官は神前に出仕する時は五位の装束を着用した。
別当というのは元来有名な寺院の住職が、官符をもって任命を受けた職名である。 熊野では古くから新宮に別当と呼ぶものを推薦して作り、一山(新宮)を統治してきた。 本宮の別当は、新宮の分家(田辺別当家)である。 実際には古くは「熊野御幸」が始まってからで、先達を務めたものに官符で「僧綱」「法印」「法眼」「法橋」などの職名を賜ったものはあるが、「別当」はなかった。 それが長快によってはじめて別当に任ぜられたのである。
白河上皇が熊野御幸をされた時「別当は代重すべきものである。 聖にてかなうべからず、妻うぇおあわせよ」と仰せになられたという。 長快以後妻帯が許された。 これを不浄僧という。 長快以後その子孫が別当に任ぜられた。 長快の後、長範、長兼、湛快の兄弟が相続している。 なかでも四代湛快は本宮にいて、その職をついだ、この時から本宮にも別当が居住するようになった。 湛快(田辺別当家)はさらに田辺に居を移した。 このように兄弟子孫が次々と互いに相続しているうちに、居住も異なり、意見も対立していった。
5.新宮「速玉」大社
本宮が深山の山奥に対し、速水大社は海岸沿いの市街地の郊外に立っている。 景行天皇の御代にこの所に社殿を建てて祀ったとされているが、これは近くの神倉山から移されたことで、創
設はもっと古い昔のことであろう。 神倉から移され、「新宮にいみや」が出来たので、この社を「新宮しんぐう」とよび、それが町の名になったと言われている。
当社の御鎮座は神代であって詳細は不明であるが、愛徳山縁起、熊野権現縁起書では次のように記されている。 熊野権現が中国天台山を飛び出して九州英彦山に天降り、次に四国石鎚に飛び、淡路の由豆留波ゆづりはに飛び、紀州の切部きりめ、次に神蔵かみくらに天降って阿須賀の川向い鵜殿村の石淵いわぶちに移り、最後に熊野川の上流岩田川に天降られたのが櫛御気野くしみきぬ神(素戔嗚)であり、本宮の主神となられた。 石淵より新宮に勧請した神が結・御子速玉之男神であるといわれている。
現在の熊野速玉大社は新宮市北の端、権現山の麓、熊野川沿岸に鎮座されている。 十二所を祀ったのは後のことで、初めは「速玉神(伊弉諾尊)」と「熊野夫須美神(伊弉冉尊)」を主神とし、「家津御子神(素戔嗚尊)」を合わせて熊野三山の主神である三神が祀られた。
もともと新宮は「熊野神邑」と言われたところで、俗に「熊野」とも言った。 ここには弥生式の遺物がたくさん出土している。 これは先住者のあった印である。 それが阿須賀あすが社のあるところである。 ここに熊野三神が鎮座されたということは、「熊野権現垂迹縁起」にかいてある。 三神の中で、家津御子神は本宮に遷られたが、外の二神、特に速玉神はこの阿須賀の)森に鎮まられていた神、熊野の本来の先住者の崇敬の神つまりは海を渡ってきてこの地に来た人々の守り神であったと思われる。 このことは「熊野権現垂迹縁起」に出ている。
「熊野三所権現が天台山から鎮西彦山に降りられ、それから石槌、淡路遊鶴羽、紀伊切目と潮の流れる如くに紀伊にはいられて、庚午こうごの年新宮の神倉峰に降臨し、次に阿須賀社北の石淵谷に鎮まりになった。 この時『結速玉、家津御子』と申す二宇の社也。」
とある。 「結」は「夫須美」のことで「早玉」と一緒に、二宇の社にお祀りされたのである。 この二神を景行天皇の御代に、新しく社殿を造って御遷ししたので、「新宮」という名が生まれたと縁起にでている。 「御子速玉之男神」は伊弉諾尊のことであるとされている。 熊野権現がはるか天台山から九州、四国、淡路、紀伊と海上を渡られたとされていることは、神武天皇が東遷された道順とまったく同じで、自然の潮に流される海路でもあろうか、上代の人々がこの海路を熊野に来るまで、海上の安全を祈って、その「海の神」を波の穂に生まれる水玉にかたどって「速玉」の名で呼んだと想像される(篠原四郎)。
速玉大社が国家の祭祀を受けられたのは、「速玉神」の名で称徳天皇天平神護2年(1424)に封戸ふこ(封禄制度)各四烟えんが充てられ、清和天皇の御代に従五位の上に、文徳天皇仁寿元年に従二位に、延喜」7年には正二位、天慶三年に正一位の極位が送られ、延喜式に「大社」の列にくわえられた。
皇室の御崇敬が厚く、幾たびも法皇、上皇、女院の御幸があって隆盛となった。 白河法皇が寛治4年御幸の時、検校職が補任され、別当がおかれるようになった。 また社殿造営が五畿七道の内の国税で経営されている。
速玉大社の神職は熊野連の子孫の熊野三党の宇井家、鈴木家、榎本家の三氏が継承していた。 しかし、平安時代初期頃奈良の朝永禅師がきて仏説を唱えてから、天下の僧徒が熊野三山を尊んで参詣することが流行し始めたと言われている。 社頭の奉仕も神職が僧侶にならい、仏事を神事と合わせて行うようになったので、神職は社家の名で僧職の役に補せられた。
初めに白河上皇御幸の時、法印大僧都誉が先達を務めた功により、検校職に補せられた。 執行の僧長快が、別当に補せられ、法橋に任ぜられて、新宮一山の衆徒神官社僧等を支配するところとなったのである。
6.那智大社
熊野那智大社の手前に那智滝がある。 那智滝は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川中流にかかる滝である。 石英斑岩せきえいはんがんからなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、滝口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、その姿は熊野灘からも望見することができる。 総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本一位。 華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。 国の名勝に指定され、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の零場と参詣道」の一部である。
小さな鳥居の向こうに那智の大滝がある。 この大滝が神の「御神体」である。 昔は「飛滝ひろう権現」、今は「熊野那智大社別宮飛滝神社」と呼ばれ、「大己貴おおなむじ命」(大国主命)が祀られている。 神社とはいっても本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になる。
社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわからせてくれます。 かっての熊野の自然崇拝の有様を今につたえている神社の一つです。
神仏習合が熊野信仰の特徴の一つですが、那智の滝に祀られた大己貴命の本地仏は先手観音だと考えられ、かっては那智の滝の岸壁には千手観音に見立てられていた岩あり(地震により崩落した)、滝の近くには千手堂がたっていた。
この神仏習合の信仰形態も、明治の神仏分離によって破壊され、那智の滝の近くにあった先手堂は廃され、飛瀧権現の仏教・修験道を廃した「飛滝神社」となりました。
大滝の源流は、那智山の頂上、大雲取おおくもとり山から流れ出ている本流と西側の谷、舟見ふなみ峠からでている西谷の流れがあって60あまりに達する滝がある。 その滝のうち、滝篭修行の行場として扱われた48の滝の総称が「那智の滝」である。
熊野那智大社は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1にある神社である。 熊野三山の一つ、熊野夫須美大神(伊弉冉尊)を主祭神とする。 かっては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。 また熊野十二所根源や十三所権現、那智山権現ともいう。 この権現ははじめに那智大滝入口、鎮守社跡にあったのを、仁徳天皇5年(西暦317、ただし実年は不明)に現在の那智山中腹に遷座したのである。
那智山の熊野権現の社家(神社に仕えてきた神職の家)で最も古いのは高座下命たかくらじのみことの子孫と称する潮崎氏である。 高座下命は天孫の御一人で、天照大神の御子「天押穂耳あめのおしほみ命」の御子「饒速日にぎはやひ命」の御子である。 高座下命は早くから、祖神の命によって、紀伊熊野に天降りになっていた方でる。 また饒速日命も、祖神の命により、大和に天降りになっていて、「長髄彦ながすねひこ」の妹「御炊屋みいや姫」を妃として、「宇痲志摩治うましまじ命」を生んでおられる。 熊野におられた高倉下命の道案内で、神武天皇は熊野に廻り、高倉下命と饒速日命との和睦の談合によって、長髄彦を「刃に血ぬらず」して平定することが出来たとなっている。
尊念が執行法印に叙せられて以来、代々僧侶となり、滝執行を務めた。 那智山は東座、西座の二派に分かれて祭りを行ったもので、東の長官、西の長官とも言って執行(別当に代わるもの)職につく資格の者であった。 潮崎家は那智山権現の東座におかれた。
つぎは藤原中将実方(中古三十六歌仙の一人)の子孫で、第二十九代熊野別当定堪の別れという、米良めらを名乗る道賢以来のもので、那智にあっては高坊ともいい、権現の西座長官で執行職に任ぜられたものがある。
熊野三山の創立を語る時、見逃すことのできないのは「熊野権現垂迹縁起」と「熊野三巻書」である。 「熊野三巻書」は詳細に熊野三山の伝来をのべている。 この三巻書は那智山執行職の尊勝院潮崎家秘蔵の巻物で、他見をゆるさなかったが、近年熊野那智大社に譲られたので公開された。 三巻書は一名「熊野略記」と言われ、内容は第一巻本宮、第二巻新宮、第三巻那智となっている。 神仏習合思想の典型で下記のように書かれている。
第一巻、証誠大菩薩家津美子尊は本地無量寿仏の垂迹である。 我れ摩謁陀国を捨てて大日本国紀州無漏郡に影向す。 一切衆生の利益、二世悉地を成就させる故祈念参詣すべし。 即ち貧苦を除き、富楽を得せしむ、然して後、しばらく垂迹の本国(印度)に送って、貴家に生まれしめ、花の軒を飛ぶ美しい浄土遊宮殿に迎えて蓮台に坐せしめん。
権現は浄飯大王の弟白飯王子の第二の女に宿して生まれたもので慈悲大顕王と号す、その名は家津美尊である。 結宮、早玉宮は父は慈悲大顕王、母は雅顕長者の嫡女である。 中天竺より天降り、神武天皇五十八年に雅顕長者の勧請によって紀伊牟婁郡大峰の入口備前の楠三本の枝に三面の月輪として顕れた。 一所は証誠大菩薩で僧形
一所は西御前結宮で女体
一所は中御前速玉宮で俗体
雅顕長者は熊野権現を勧請してより大峰に斗敷した、是が順峰の初めである。 熊野権現は摩謁陀国から二河の間に飛んでこられた。 二河は熊野川で一名尼連禅河という。 西の流れは音無川で一名蜜川という。 この二つの河の間の島を新山といい蓬莱島ともいう。 熊野権現がここに降下された。 この事を禅洞承認が紀州国の人々に初めて披露した。
第二巻 それ熊野権現は伊弉諾尊伊弉冉尊の垂迹である。
神武天皇が磐船に乗って紀州に来られ、大熊の奇端を拝し、神蔵の宝剣を得られた。 熊野の称号はこの時に始まる。 天皇はこの宝剣を得て大業をおさめられてより権現の神居を造られた。 景行天皇位の御代に宮殿を厳しくせられた。 これが新宮の始まりである。 この宮は日本第一の神、伊勢と同体の宗廟である。 先例のまにまに影向の日を卜し9月15日「中御前」を先ず神輿に乗せ、葦毛馬に唐鞍をおき左右の口に百丈の綱をつけ、別当、権別当、禰宜、祝等従って
熊野河原に出御、御輿を新造船に移し、御船島を廻る事三度、睾おわって神輿を島の上に舁かつぎすえ禰宜建ちが3尺の魚を権現に備え禰宜も直会なおらえを戴き島廻りしてより神輿に水をそそぎ、禰宜も水に 浴して還る。
第三巻
それ那智山は滝の門、雲の洞窟の神秘な所である。 飛滝の垂迹である。 飛滝は先手千眼である。 滝神鎮護して百八十万歳におよぶ。 裸行上人三十一ヶ年神倉に勤行し新宮を興して後那智に至り、飛滝千丈の粧、冷嵐万歳の多肝に銘じ、信仰に入る。 仁徳天皇御宇光ヶ峯に十二所権現が光をさし出す。 権現を那智の山に遷座す。
そのた「熊野三巻書」は那智山の祭事をこまごまと載せている。 那智大社の祭事には他の二社よりも古式をまもっていると思われるものがおおい。
7.熊野もうで
熊野は古くから人々の熱い信仰に支えられた聖域である。 熊野詣とは、紀伊半島南部、熊野にある本宮・新宮・那智の熊野三山を参詣することである。 熊野詣でを考えるときに、古代神道と仏教文化の融合が唯一日本特有の宗教文化として発展したものと思われる。 6世紀から7世紀の仏教は奈良を主体にした都市仏教であったものの、7世紀の中頃には密教系の雑蜜思想が役行者えんのぎょうじゃ(役小角えんのおずの)等によって神仏の習合思想がうまれていた。
その後8世紀の終わりから9世紀初頭には天台密教を広めた最長や、真言密教を実践した空海によって、神仏が一体となった本地垂迹信仰へと進展し、その基盤の最初が熊野権現信仰と思われている。 特に、権現とは、「仏が神の姿となって現れる」ことを意味し、その逆も意味するものである。 一般的には平安京と熊野を結んで法皇や上皇たちの往来が始まったのが10世紀の初頭である。 神武天皇の東征の門出の地が紀伊半島であり、神宮の八咫烏族の頭領の高倉下命が大和へご案内した故事があり、古代日本国家の統一にあたって重要な役割を果たした。
熊野詣の始まる時期の平安時代の中期以降頃から地球規模に長雨が続き、天候の不順は農作物の不作や飢饉を引き起こし、神仙思想などの背景もあり、大自然への畏敬や先祖供養等の鎮魂の思想が芽生えていたことなどから、熊野御幸が始まったものと考えられる。
京都の朝廷から熊野への御幸は平安時代の中期に、宇多法皇の延喜7年(907)が始まりとされている。 その後約80年間の空白があり、朝廷内の政略により早期に退位した花山法皇は、19歳にして播磨の国の書写山円教寺の「性空上人」と結縁を結んで出家した。 その後、法皇は熊野の那智の滝へ来られて修行されたといわれている。 修行場は那智の大滝や二の滝付近が参籠修行の場と伝えられている。
花山法皇の修行から約百年近くを経過した寛治4年(1090)に白河上皇が熊野詣の御幸を行い、その後26年後の永久4年(1116)に2回目の御幸から保安元年(1120)まで毎年の御幸が行われた。 更に元治2年(1125)、大治2,3年(1127,28)と上皇在位43年中に9回の御幸がおこなわれた。 続いて鳥羽上皇21回、崇徳上皇1回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回、後嵯峨上皇3回、亀山上皇1回と弘安4年(1281)の亀山上皇の御幸が最後となっている。 宇多法皇から数えて374年、白河上皇からの頻繁な熊野御幸は約200年の間続いた。
御幸には、上皇、法皇を警護する武士集団が供をして往復30日余の旅を続けることになる。 高家はもとより、音曲を奏でるひと、歌を詠む人、牛車等荷車を引く人夫から食事うぇお担当する職人などまで数百人以上の旅集団となる。
江戸時代に入り、元和5年(1619)、紀州藩主徳川頼宣が熊野三山の復興に力をいれ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期をむかえた。 身分や階級を問わず、多くの人々が熊野に憧れをいだき、救いを求め、蘇りを願って異郷の地とも思える山深いこの地を目指した。
古の人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野の魅力はなんなのか。 その昔の熊野詣では難行苦行の連続であり、苦行の果てに自ら体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれている。 また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉、この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土をみた思いだったのかもしれない。
Ⅱ.熊野大社の境内
1.本宮
熊野本宮大社の旧地は熊野川の中州「大斎原」にあったが、明治22年(1889)の大洪水でほとんどの社殿が被災し、明治24年(1891)に、この旧社地の西の大地に移して社殿が設けられた。 これが現在の社地である。 国道168号線が社頭を南北にはしっている。 バス停留所も「本宮大社前」としてある。
社頭の車寄せ場には一の鳥居、石段など大きな構えに造られている。 鳥居には「熊野大権現」の額束が掛けられ、参道には旗がずらっと参拝者を導くように階段の上まで続いている、この旗は、全国から訪れた参拝者が奉納したものである。 参道から本殿前まで続く階段は158段ある。 参道の途中には祓戸大神はらえどのおおかみ祀られています。 ここはお祓いをする場所である。 祓戸大神は神道において祓を司る神であり、お祓いを行う場所に祀られる神である。
神職が祭祀に先立って唱える祝詞のりとである「祓詞はらえことば」では「伊弉諾大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓ひし時に生り坐せる祓戸大神」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊弉諾が禊をした時に化成した神々の総称である。 石段を上ると、手水舎に続いて宝物殿がある。
当宝物殿には、室町・戦国時代の火災、明治時代の水害など幾度も災害を免れ、国・県の重要文化財に指定された、貴重な宝物が収納されている。 なかでも江戸中期~後期頃の製作と伝える「熊野本宮並諸末社圖繪」は明治22年の大洪水によって流失した大斎原の社殿が威風堂々とえがかれ、往古を語る貴重な資料となっている。
社務所の奥に神門があり、左右瑞垣みずがきに連なって拝殿が左側にたっている。
社務所前にある、多羅葉たらようの神木の木の下に、八咫烏の黒いポストが設置されている。
八咫烏は熊野のシンボル境内のあちこちにいるが、このポストもその一つである。 黒は全ての色を合わせた尊い色であり、神の遣いである八咫烏の色、本宮の大地を象徴する神聖な色でもある。 また、多羅葉の木は、昔紙が貴重な時代、葉の裏に爪などで文字を書いていたことが、葉書の語源となり「葉書の木」「手紙の木」ともよばれ、また郵便局のシンボルツリーでもある。 また、このポストから手紙を出す場合、社務所で「出発地より心をこめて、熊野本宮」というスタンプを押してくれます。
拝殿(銅版権現造)で参拝し、神門(檜皮葺)を潜り、神門内の広場に立って社殿を拝すると、古色ゆかしく、いかにも熊野権現の大社である館を呈している。
左から大屋根の御殿の中に第一殿、第二殿が相殿になっており、第一殿を西御前にしのごぜんと呼び熊野牟須美神むすびのかみ(伊弉諾尊)事解男神ことさかおのかみをまつる。 第二殿は中御前なかのごぜんと
呼び御子速玉之みこはやたまの神と伊弉諾いざなぎ尊をまつる。 第三伝は御本社で家津美御子けつみみこ大神(須佐之男尊)をお祀りし証誠殿しょうじょうでんという。 第四殿は若宮わかみやといって、天照大神をお祀りしている。 以上を上四社かみよんしゃと総称している。
第五殿から第八殿までの中四社なかよんしゃと、第九殿から第十二殿までの下四社しもよんしゃは明治水害後旧社地(大斎原おおゆのはら)の石の祠に残されている。 石の祠とは地方にによくある石でできた小社である。
現在の社地には四つの社殿がならびますが第一。第二殿は一棟の相殿なので建物としては三棟であり、いずれも熊野権現造(通称熊野造)で国の重要文化財の指定をうけている。 中央の第三殿が本社であり、熊野大権現とたたえられる家津御子大神が祀られています。
熊野権現造り(通称熊野造)の特徴は、①屋根が入母屋造であること、②勾欄が周囲をめくっていること、③高床であることである。
切妻造りは、屋根の勾配が2方向であるにたいし、入母屋造りの屋根の勾配は四方向である。
、熊野本宮大社の本殿の屋根は一見切妻に見え、春日造りの類似と思えるが、神社側の説明では、入母屋になっているとのお説明されている。
第三殿と第四殿は同じ造りが並びます。 正面部分は切妻造、妻入り(妻側に出入口がある)で長く突き出た向拝には隅木すみき(軒下の45度方向の材)の入った春日造形式であるが、後ろは入母屋造という特異な形式で熊野造り、あるいは熊野権現造りという。 全国に約8000社の熊野神社の総本社であり、熊野造は各地の熊野神社に散見する。
熊野権現造りは、日光東照宮で代表される権現造りとは全くことなる形式で、むしろ春日造りに類似している。
本宮大社から出て5分くらいの所に旧社地大斎原おおゆのはらがある。 「熊野御幸」の時代、そして「蟻の熊野詣」の時代、熊野の中心地はここ大斎原だったのである。 それが明治22年の水害により流失してしまいます。 明治に入ってから急激な森林伐採が上流の十津川で大水害を呼び、濁流となって熊野川が中州にあった本宮大社の社殿を飲み込んだのです。 かって本宮大社は、およそ1万1千坪お境内に五頭十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍の規模を誇っていました。
熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれかっての本宮大社。 熊野川は別名、尼連禅河にれんぜんか(ブッラガヤーが悟りを開く前に苦行、求道の生活の中で沐浴したインドビハール州にある川の名)といい、音無川は密河といい、二つの川の間の中州は新島とも言われた。
江戸時代までは音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草履を濡らして歩いて渡らなければならなかった、これを「濡藁沓ぬれわらうつの入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入る気とはできませんでした。
今では熊野川の上流にダムができたため水量が減り、音無川も旧社地付近ではほとんど水が流れていない状態である。
現在の大斎原には、第五殿から第八殿までの中四社と、第九殿から第十二殿までの下四社が2基の石祠として祀られているのみである。 しかし、平成12年この地に日本一の大鳥居(高さ33.9m,横42m)が建てられました。
2.熊野速玉大社
熊野大権現熊野速玉大社は、和歌山県新宮市新宮上本町1にある神社で、熊野三山の一つげある。 熊野速玉大社は、神代の頃、神倉山(新宮市西南)に祀られ、景行天皇の58年(西暦B128年)に今の処に新しく境内・社殿をつくって移られたので、神倉山の旧宮にたいして新宮と称した。
境内看板に下記のように書かれている。
―熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃの御由緒ごゆいしょ―
熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点・神倉山かみくらやまの霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾アマノイワタテ)をご神体とする自然崇拝を源としてこの天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神くまのさんしん(熊野速玉大神・熊野夫須美大神くまのふすみおおかみ・家津美御子大神けつみみこおおかみ)を、景行天皇58年の御代(西暦128年)初めの瑞々みずみずしい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。 我々の祖先は、美し国うましくに熊野に坐ましますこの真新しい新宮にいみやに大自然の恵みを献じて神々を斎いつき祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道じんじゃちんとうの特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。 このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀げんぎを、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮しんぐう」と号するゆえんであります。 この尊称は、まさに野速玉大神が、天地あめつちを教典とする自然信仰の中から誕生した悠々の歴史を有することの証あかしと言えるでしょう。 中世、熊野御幸くまのごこうは140度を仰ぎ代四十六代孝謙天皇より「日本第一霊験所」の勅額ちょくがくを賜り、また千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の」総本宮として厚い信仰を集めております。 また、境内には、熊野信仰の象徴たる「梛なぎの大樹」がしげり、熊野)神宝館や熊野詣でを物語る「熊野御幸碑くまのごこうひ」などがあります。 特殊神事 2月6日お灯祭とうまつり、7月14日扇立祭おうぎたてまつり、10月15.16日例大祭・神馬渡御式しんめとぎょしき・神輿渡御式みこしとぎょしき・御船祭みふねまつり
平成169年7月7日 世界文化遺産登録。
JR新宮駅から徒歩15分、鮮やかな朱塗りの鳥居が目に飛び込んでくる。 鳥居の形は神仏混淆の神社に多くみられる両部鳥居(両部とは密教の金胎両部、金剛・胎蔵のこと)。 鳥居をくぐり参道を進むと右手にやはり朱塗りの八咫烏神社と手力男神社たじからおじんじゃがある。 八咫烏神社は建角身命たけつぬみのみことを祀る神社である。建角身命は神魂命かみむすびのみことの孫で神武天皇が大和へ東遷するおり、天照大神の命をうけて、八咫烏に化身して、熊野の山中で停滞する一向を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献したと伝えられている。
手力男神社の祭神は天之手力男命あめのたじからおみことで、武道、健康、海運の御神徳がたかい。
さらに進むと右手に神宝館がある。 速玉大社は国宝・重文を含む計1204点もの古神宝類を所蔵して、そのうちの一部を神宝館で展示しています。
その神宝館の正面、参道をはさんで向かいに国指定天然記念物「梛の大樹」がある。 高さ20m(17.6m)、幹周り6m(5m)、推定年齢1000年、ナギとしては国内最大であるとされている。 平治元年(1159)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。
ナギはマツ目マキ科に属する針葉樹である。 ナギの葉は針葉樹でありながら幅が広く、一見広葉樹に見える。 したがって広葉樹の葉とは構造が異なり、縦方向の平衡脈が主で横方向の葉脈がないため、縦方向には容易に裂けるが、横方向には容易にちぎれない。 この性質にあやかって男女の縁が切れないお守りに使われたという。 またナギは凪に通じることから船乗りが海洋航路安全祈願に用いた。
熊野速玉大社の神門と拝殿には大注連縄が奉納されている。 大注連縄は出雲大社で有名であるが、熊野三山の内、熊野速玉大社のみが大注連縄が奉納されている。
熊野速玉大社は、「権現前」とか「権現山」というように熊野権現速玉大社とも呼ばれている。 昭和21年に制度改革されてからは宗教法人熊野速玉大社となっている。
神門を入った広場の前面に社殿四棟が鈴門の内に建っている。 正面に見えるのが第三殿の証拠誠殿、第四殿の若宮、第5殿の神倉宮が一つの相殿に入りこれを上三殿と呼び、その右手に第六殿から第十二までの八社殿ある。 左側に拝殿があって、その前に本殿が二棟ある。 向かって左側に第一殿「西ノ御前」と呼ばれる「結宮」、」次が第二殿の「速玉宮」である。 普通の神社のように一つだけの本殿が正面に建っているのではなく、横に幾つもの社殿が並んでいるし、鈴門も沢山あるので左側の本殿から順番にお参りすればよい。 即ち二つの本殿は拝殿でまとめてお参りし、上三殿はそれぞれの鈴門でお参りし、第六殿から十二殿までの八社殿は二つの鈴門でまとめて御間しりする。 熊野速玉大社は明治16年に大火災があった時、炎上したので、明治27年に神明造りに改築されたが、昭和・平成の御造営をへて、もとの熊野造り及び流れ造り社殿に再建された。
本殿の主神速玉神及び夫須美神の社殿は、切妻正面に庇を付けた、いわゆる木造銅版葺熊野権現造りである(熊野速玉大社の見解)。 次ぎの上三殿(証誠殿・若宮・神倉宮)と八社殿は神明造りを木造銅版葺流造に改築した。
神明造りは。掘立柱・切妻・平入りで、代表例に伊勢神宮がある。
流造りは、切妻造・平入りであるが、側面から見た屋根形状は対象でなく、正面側に長く伸ばす片流れになっている。 代表例には上賀茂・下鴨神社がある。
拝殿は昭和42年本殿の前に新築された非常に新しい建物である。 拝殿に掲げられている「日本第一大霊験所」の勅額は、元は孝謙天皇より賜ったものである。 平安時代頃までは、熊野本宮大社より格式が高かったことを伝えている。
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社殿名
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祭神
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現在
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上四社
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第一殿
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速玉宮
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熊野速玉大神・伊邪那岐大神
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本殿
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第二殿
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結宮
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熊野夫須美大神・伊邪那美大神
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本殿
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第三殿
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証誠殿
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家津美御子大神・国常立尊
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上三殿
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第4殿
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若宮
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天照大神あまてらすおおみかみ
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神倉宮
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高倉下命たかくらじのみこと
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中四社
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第五殿
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禅児宮
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天忍穂耳命あめのぬしほみのみこと
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八社殿
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第六殿
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聖宮
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瓊々杵命ににぎのみこと
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第七殿
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児宮
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彦火々出見命ひこほほでみのみこと
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第八殿
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子守宮
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鸕鶿草葺不合命うがやふきあえずのみこと
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下四社
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第九殿
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一万宮
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国狭槌命くにさづちのみこと
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十万宮
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豊斟渟命とよくもぬのみこと
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第十殿
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勧請宮
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埿土煮命ういぢにのみこと
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第十一殿
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飛行宮
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大斗之道命おおとのぢのみこと
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第十二殿
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米持宮
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面足命おもだるのみこと
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3.熊野那智大社
熊野那智大社へはまずJR那智駅に下車する。 駅前から神社寺前行路線バスまたは那智山周遊観光バスに乗って約15分で那智の滝、熊野那智大社石段下に着く。 バス道は那智川沿いの曲線の道を上る。 川の対岸右側には「那智原始林」(国指定天然記念物)が屏風のように立っている。
那智原始林は那智の滝の東に広がる熊野那智大社の社有地で、古くから那智大社が保護し、斧を入れたことがなく、昭和3年(1928)、国の天然記念物指定された。 面積は約33.5ha。 平成16年(2004)には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部に登録された。
那智原始林は熊野を代表する照葉樹林です。 照葉樹林の高さは約25m、優占種はクスノキで、この他にツブラシイ、サカキなどを混え、テイカズラ、フウトウカズラなどのつる植物がいぅっそう原始林の風格をそえています。 群生する植物は155種、または300種以上とも言われている。 南方熊楠が研究した蘭類の宝庫でもある。
バスは約15分で那智滝前の停留所に着き、下車した。
那智山中の那智原始林には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。 「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、滝篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった。 一般に那智滝として知られている滝はこれらのうちのうち、一の滝を指している。
那智滝は、那智勝浦町の那智川にかかる滝。 石英斑岩せきえいはんしょう(石英の自形結晶が大きく目立つもの)からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し。落ち口の幅13m、滝壺までの落差は133に達し、その姿は熊野灘からも望見することができる。 総合落差では日本12位であるが、一段の滝としては落差日本一位。 華厳滝、袋田の滝と共に日本三名滝に数えられている。
那智原始林には多くの滝があるが、このうち48の滝に番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとずく名が与えられていた。 これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる裸形上人をはじめとする宗教者たちが滝篭修行をおこなったと伝えられる。 しかし、明治期の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な信仰が失われるとともに、明治初期からは所在や名称も不明となっていた。
一の滝の奥、約45分、二の滝に到着する。 高さ23m、幅7m。静かで上品、女性らしい静かで美しい滝です。 滝壺は広く扇ヶ淵と言われ、滝を要として扇形に広がっている如意輪観音の滝です。 ここで花山法皇が二の滝の断崖上に庵を設けて千日滝篭行をしたと伝えられている。
更に約15分程奥へ進むと三の滝(馬頭の滝)にでます。 落差は15mと二の滝に比べて小さいが滝の勢いがあり滝壺水しぶき激しく、日がさすと虹が現れます、 一の滝は、飛滝神社の御神体です。 鳥居の奥に那智大滝(一の滝)があります、那智滝自体が御神体であり、本殿は存在しない。 拝殿もなく、直接滝を拝むことになる。
熊野那智大社は熊野三山の一つで、熊野権現ともいう。 この権現は初めに那智大滝の入口に、鎮守社跡にあったものを、仁徳天皇5年(317)に現在の那智山中腹に鎮座した。 那智山中腹、標高500m。鎮守山に囲まれ、丹碧に色取られた社殿。それはこうしてできたものである。 社殿のうち、前の礼殿や、いろいろな建物は時代とともに変遷があるが、本殿六棟は大昔のまま変わることがなくたっている。 社殿の右奥には青岸渡寺が建ち、中世の神仏習合の後をのこしている。
第一殿滝宮は鎮守社であって、第二殿以下を熊野十二所権現と呼んでいる。 熊野那智大社は熊野三山の一つであり、「熊野十二所権現」ともいう。 大滝の神「飛滝権現」を合わせて祀るから「熊野十三権現」ともよぶ。 そして三所権現のうち熊野夫須美大神を那智山の熊野権現の「主神」とする。
那智大社は古代の姿をそのままである。 権現造りの特徴である切妻妻入りの社殿が、正面に5殿、左側に平入り社殿が細長く1棟の流造りに建っている。 五殿は南面し、第一殿は前面がやや後退して下がっており、他の四殿は前面一直線に配置されている。 第四殿はやや大きく、各社殿間口1間(背面では二間)、前面向拝を出し、奥行き三間のうち、外陣にあたる一室の一間をやや広くしている。 向かって左側外陣に当たる戸に出入口をつくり、格子戸をはめ、正面は蔀戸をつり、その前に簾をつり、鏡をかけている。 この造り方は熊野三山三社とも同じであるのみならず、熊野神の分身の社殿は多くこの形式を伝えている。
屋根の構造は切妻の妻に庇を付けたものである。 春日造りとよく似ているが、春日造りは奥行きも一間、正面のみ扉を開き、縁勾欄も前面に設けられるのみである。 この社殿は春日造りみ比べると仏教建築の色彩が濃厚である。 しかし、三山の社殿中那智大社の構造が一番簡素で古式を保っている。 天正9年(1581)織田信長に焼かれて以来天正。慶長、享保、嘉永に大改修をしたものである。
八神殿は流造りで、京都賀茂神社の社殿造りと同じである。 正面に簾を垂れ鏡をかけている。
殿内は内陣と外陣とに区切られ、内陣は一段高く床が上がっている。 それに正面に各殿ともそれぞれ鈴門がついてる。 平成7年(1995)、第1殿~第6殿、御県彦社、鈴門及び瑞垣が国の重要文化財の指定を受けた。
宝物殿は、昭和41年(1966)に「熊野那智大社創建1650年祭」の記念事業として建てられたものです。 内部は陳列室と収蔵庫に分かれています。 国指定や県指定の熊野信仰にかかわる文化財、絵画、古文書、尊像、刀剣、古鏡、経塚出土品、祭器具類が展示されています。
神木楠 推定樹齢800年、平重盛が参詣の際、手植えしたものと伝えられている。
樹高27m、幹回り8.5m、枝張(南北)25m、
根元に空洞ができていて、この空洞を通り抜けると、「胎内くぐり」と言って無病息災、長寿を願うことができます。
青岸渡寺せいがんとじは、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。 西国三十三所1番札所。 山号は那智山。 本尊は如意輪観音菩薩。 本堂及び宝篋印塔は国の重要文化財。
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部。
熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺及び隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としない。 伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金属の如意輪観音を本尊として安置したという。 後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末―7世紀初に生仏聖しょうぶつひじりが伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。 以上はあくまでも伝承であるが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。 中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社と共に神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその同舎は、那智執行に代表さsれる社家や那智―山の造営・修造を担う本願などの拠点であった。
明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社。熊野速玉大社では仏道は全て廃されたが、熊野那智大社は如意輪堂が破却を免れ、後に信者の手で青岸渡寺として復興した。 寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌時に由来するといwれる。
Ⅳ.熊野大社の歳時記
1.熊野本宮大社
(1)例大祭渡御祭(和歌山県指定無形民俗文化財)
例大祭は、本宮大社で行われる最大のお祭りで、毎年4月13・14・15日に行われ、そのうち13日に行われる「湯登神事」は和歌山県指定無形民俗文化財に指定されています。
13日午前9時、宮司以下の神職者・氏子・修験者・伶人(神楽人)・氏子総代、稚児(2,3歳の男の子)ら総勢40~50人が列をなして熊野本宮大社を出発し、太鼓に合わせて神歌を歌いながら、潔斎のために湯の峰温泉を目指します。 また、熊野の神は稚児の頭に宿るとされていますので、神事の間以外は稚児を地面に降ろしてはならず、移動の際はウマ役の父親が肩車をします。
当家と呼ばれる斎屋ゆやに到着うると、湯垢離ゆごりによって身を清め、湯粥をたべます。
午後1時からは、湯の峰王子にて祭典を行い、八揆神事やさばきしんじと呼ばれる稚児舞を執行します。 楽人が太鼓・横笛・笙を奏でるなか、「さがりやろー」の唱えごとに合わせて胸に吊るした小さな太鼓を叩きながら右に1回廻り、「あがるやろー」の唱えごとに合わせて胸に吊るした太鼓を叩きながら左に1回廻るという所作を三度繰り返す。 この所作は、稚児に神霊を移らせるものと考えられ、神事の間に神霊が降臨したことを表すため、舞の終了後には稚児の額に「大」の字を記す。 神の宿った稚児は八揆神事のとき以外は地面に降ろしてはならないとされるため、父兄はウマと呼ばれる役となって、肩車に乗せて稚児を移動させる。
湯の峰で神事の後、ウマの肩車に乗せられた稚児は、湯の峰から大斎原を結ぶ大日越えと呼ばれる山道を通り、山中にある末社月見丘神社にて、再度八揆神事うぇおおこなってから、旧地大斎原まで進み、一旦解散する。
夕刻には宵宮行列である宮渡神事みやわたりしんじを執行するが、この神事にまつわる記録は乏しく、わずかに楽譜が現存するのみである。 宮渡神事では一行はまず礼殿での祭式後、旧社地の石祠の前で祭式と八揆神事をおこない、次いで音無川を渡って真奈井社に向かう。 真奈井社は、湯の峰に向かう峠道の麓にある本宮の末社で、真奈井社にある井戸の水が子神を生み出す呪力の源と解せれて、産出力や生産力源とされている。 一行はここでも祭式と八揆神事を行い、本社鳥居前にもどって解散する。
4月14日 船玉大祭
航海の安全と大量を祈念する祭りである。
4月15日 御田祭
4月15日の御田祭おんださいは、本殿での本殿祭と本殿から大斎原へ神輿行列が渡御する渡御祭という、二つの部分からできている。
朝8時から本殿祭が執行される。 大社第一殿(熊野牟須美神)前に神輿を据え、挑花ちょうばなと呼ばれる菊の造花4基2対を飾りつける。 挑花は、熊野牟須美神の鎮座にまつわる重要なシンボルとされ、太い竹竿の上部に木箱を挿して菊の花を盛り上げ造られたもので、渡御の行列にも加わる。 本殿での祭事とそれに続く演舞の奉納が終わり、御輿へ神霊が移されつと、八揆神事が行われる。 その後、氏子の唄う神歌につつまれつつ、榊を奉じた神職を先頭に、熊野山伏、挑花、大和舞、巫女舞、稚児田植舞、御輿、神官、伶人、氏子総代らが列をなして神殿の前から発進し、渡御祭がはじまります。 一行はまず、末社真奈井社に向かい、井戸の前に神輿を据えて八揆神事を行ったのち、大斎原に設けられた御旅所に渡御する。
行列が大斎原の御旅所に到着すると、石祠の前に設けられた祭壇の正面に神輿が据えられ、その両側に挑花が立てられる。 神職の祭式の後、一連の舞が披露されるが、それらは花の窟からの熊野権現の遷座にまつわるものである。 最初に烏帽子に狩衣姿の少年4人による「大和舞」が披露され、熊野権現の遷座にまつわる内容を持つ神歌「有馬窟の歌」「花の窟の歌」が歌われる。 次いで、白地に烏模様の打掛姿の少女4人による「巫女舞」、」そして御田祭の名の由来とされる稚児舞「田植舞」が祭場を田と見立てて演じられる。
舞に続いて八揆神事が行われた後、参列者が挑花に挿された造花を競って奪い合う。 この造花は福を招くと信じられており、かつては挑花を田に挿すと害虫から田を守ると伝えられていた。 また、花は実りの予兆であることから、秋の収穫を予祝する意味があったと考えられている。 これらの神事と並行して、祭壇の前方では採燈大護摩が修され、熊野修験者らが護摩壇も火を焚きあげる。 護摩が終了する午後5時ころ、一同は再び行列を整えて大社に還御し、八揆神事が最後に行われて例大祭は幕をとじます。
2.熊野速玉大社
(1)例大祭「新宮祭」(和歌山県指定無形民俗文化)
熊野速玉大社の例大祭は新宮祭ともいわれ「和歌山県指定無形民俗文化財」の指定をうけています。 昔は9月15,16日に行われたが、今は10月15,16日に三つの祭りがおこなわれる。
10月15日例大祭、神馬渡御式、16日神輿渡御、御船祭りである。 例大祭はもとは「官祭式」といって国家の奉幣事業がおこなわれた。 いまは「神社本庁幣」を献じて祭りを行い、午後に神馬渡御を行っている。
神馬は古来の伝統を重んじて、速玉大社で近年まで飼育していたが、現在は篤志家の方が、田辺市で飼育しながら、祭典に奉仕している。 神馬渡御は新宮市内東方1㎞程の熊野地にある阿須賀あすか神社と御旅所に御渡りする神事である。 阿須賀神社なもと速玉大社の摂社で本社の神職が兼務して奉仕していた。
祭礼は前日の10月14日から始まる。 この日には、神馬を大浜海岸に連れてゆき、潮浴びで体を清めた後、旧摂社阿須賀神社にて豆を食う「豆献ジノ儀」と、串本町大島地区からの供物の奉献を受ける「掛魚萱穂奉献ノ儀かけうおかやほほうけんのぎ」の2つの儀式が行われる。 大島地区から奉献された供物のうち、掛魚は15日の神馬渡御式で、萱穂は16日の御船祭で使われる物である。
神馬渡御式(10月15日)
速玉大神(第二殿に鎮座)に対しての祭典。 10月15日の午後より、宮司以下の一行が阿須賀神社へ行列でむかい、拝殿ないで唐鞍を置いて神馬を飾りつけ、神霊を迎える。 神霊を乗せた神馬が大社に戻ると、神霊を大社第二殿に移し、祝詞・神楽を奏上して神幸祭を執り行う。 その後、宮司が神馬に再び神霊を迎え、警固、楽人、神楽人、神官、随員ほか200名にも達する行列を引き連れ、熊野川の河原を進み、権現山西北にある杉ノ仮宮(御旅所)へ渡御する。 宮司は神霊を仮宮に奉遷し、松明の明かりに照らされながら神楽・祝詞を奏上し、掛魚、神酒、神饌を供え、儀式の終了後は、闇夜(昔は午後12時、現今は午後6時)の中神霊を報じて大社に戻る。
御船祭(10月16日)
夫須美大神(第一殿に鎮座)に対する祭典。 神馬渡御式の翌10月16日朝8時から祭員が、御輿・神幸船・ヒトツモノなどの祭具の準備をすすめる。 熊野速玉大社には足利義満奉納のもので重要文化財に指定された神輿が所蔵されているが、祭礼で用いられるのは代わりの品である。 神輿は準備が終わり次第、第一殿前におかれる。 神幸船は、全体が朱の漆塗で、重要文化財である。 ヒトツモノとは、神馬に乗せる人形で、金蘭の狩衣をまとい、12本の萱穂と12枚の牛王宝印を腰にさし、編笠をかぶり、熊野権現の神霊の憑坐よりまし(神霊がよりつく人間)と解されるものである。
午後からは、第一殿にて祭典が執り行われ、宮司が神霊を神輿に移す。 御旗に続いてヒトツモノが祭りの行列を先導し、熊野川の河原へでる。 覆面をした宮司が神霊を神輿から神幸船に移し、宮司ら神職と楽人が斎主船に乗り込む。 神幸船と斎主船(現今は動力船)をさらに諸手船もろてぶねが曳航し、これを9艘の早舟が先導する。 諸手船の舵をとるのは、熊野川河口の鵜殿の住民である。 これは、石淵谷から新宮への熊野権現の遷座に際して、鵜殿の住人が船で先導したとの伝承にもとずくものである。 また、諸手船には、ハリワイセと呼ばれる、赤衣をまとった女装の男性が櫂を以て舷に立っている。
御船島の下流1kmにある牛の鼻という急流を過ぎたところで、早船の競漕が始まる。 早船は御船島を右回りに3周して勝敗を競い、乙基おとも河原に着岸する。 その後、諸手船以下3艘が御船島を2回ゆっくりと回る。 この時、ハリワイセは「ハリハリセー」と数回唱えながら遠望する姿をとる「ハリハリ踊り」を演じる。 次いで御船島から使者が扇子で3回招くと、9艘
の早船が再び競漕を始める。 今度は、御船島を左から2周まわって、大社裏手の川岸に向かう。
ハリハリ踊りを奉仕するのは鵜殿村の烏止野うどの神社氏子総代が船夫に扮して乗り込み、その中の1人が赤い着物を着てハリハリ踊りを行う。 古来、それも神代の頃、熊野水軍を起源として造船及び降下し技術の熟練が鵜殿で育まれたことに由来があるという。 昔女性の船頭で巫女婆みこばばと呼ばれる人が負ったそうです。 その人が船の行く手bを見晴らし、空模様を呼んでいたと聞かされています。 それが時を経て船は女人禁制となり、男性が女装して踊るようになったと言われている。
他方で神幸船と斎主船は乙基河原に上陸する。 神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、禅やと同様の祭儀を執行したんち、やはり闇夜の中、神霊を奉じて大社に戻り、」神霊を第二殿に納めて、祭りは終了した。
(2)御燈祭り
御燈祭おとうまつりは、和歌山県無形民俗文化財の指定を受けた新宮市の神倉神社の例祭で、勇壮な火祭りとして知られている。
御燈祭は。毎年2月6日に行われるが、もとは旧暦の正月6日に行われていた。 古くは、祭礼で分けられていた火が届くまで、各家で灯明を挙げることが禁じられていたことから、新年における「火の更新」を意味する祭りであった。
祭りの起源について、「熊野年代記」は、敏達天皇3年(574)正月2日条に「神倉光明放」、同4年(575)正月6日条に「神倉火祭始」と記すが、当地の伝承は神武東征神話に起源を求め、高倉下命が松明をかかげて神武天皇を熊野の地に迎え入れたことが始まりであるとしている。 江戸時代には、現行の祭礼とほぼ同じものが確立したものとみられ、正月6日の開帳に合わせておこなわれたとある。 伝来の古文書「社法格式」が記すところによれば、正月6日の祭礼の後、8日に修正会が行われたとある。 このことから、御燈祭とは、新年を迎えるにあたって行われた、神倉聖による火の更新を意味すると考えられている。
御燈祭の祭礼に参加できるのは男子に限られ、参加者は1週間前から精進潔斎を続けなければならない。 精進潔斎の期間中は口にするものも、白飯、かまぼこ、納豆など白い物に限られ、斉戒沐浴ににつとめなければならない。
祭りの当日、「上り子」と呼ばれる参加者たちは、白づくめの装束で街頭に姿をあらわす。 上り子は白襦袢に白の鉢巻や頭巾、手甲脚絆を着け、腰から腹にかけて荒縄をまき、互角形も檜板削りかけを詰めた松明を手にし、上り子同士で行合うと挨拶として松明をぶっけ会いながら、熊野速玉大社、阿須賀神社、妙心寺を巡拝し、神倉神社に向かう。
午後6時、速玉大社前を、鉾を先頭に御幣、宮司以下祭員、長さ1時間半の「迎火松明」、介錯かいしゃくと呼ばれる役目の人の列が神倉神社に向かう。 行列の一行は「中の地蔵」うぇお右手に見ながら石段を登って神倉神社に着き、午後7時過ぎに神前でまず斉火をきりだし、「カガリ御供」という介錯棒でついて細縄でかがった餅や神饌を献じ、祝詞を奏し、「迎火松明0」に火をうつす。 その松明は介錯に護られて「中の地蔵」まで下り、上り子の松明に点火される。 火のついた松明を手に、上り子は山上の神倉神社の山門内に入ってくる。 全員が境内に入るのをまって介錯が入口の門を閉じる。 境内は約2000人の上り子たちでひしめきあい、松明の火の海となる。
午後」8時ころ、介錯が門を開くと、もえさかる松明を手に血気盛んな上り子たちは先を争って538段の石段をかけおりる。 遠くから見ると正に「山は火の滝」の感がある。 山を下りた上り子は途中物も言わず家へはいる。 この時これを迎えるのを「サカムカエ」といって、家では祝宴がはられるのである。神倉を下った祭員の列は阿須賀神社で奉幣行事を行い、」速玉大社へ戻って奉幣を行い、御燈祭を終えるのである。
3.熊野那智大社
(1)扇祭
扇祭おうぎまつりまたは扇会法会おうぎえしきほうえとは、熊野那智大社の例大祭で、那智の火祭りの通称で知られている。 扇祭は、本宮大社の「渡御祭」、速玉大社の「新宮祭」と共に、和歌山県の無形民俗文化財に指定されていたが、本年27年に国の重要無形民俗文化財に指定された。 また、例大祭に奉納される田楽舞(那智の田楽)は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
神事としての扇祭りは、かって夫須美大神を花の窟から勧請した故事にまつわるものであるとされ、かっては寄り木となる木を建てて大神を迎えた後、その木を倒して大神が帰らぬようにする神事があったという。 しかし、扇祭りは例大祭当日の祭礼に見られるように火と水の祭りであり、今日では祭りの意義は、例えば農事繁栄のように生命力の再生と繁栄とし解されている。 水は那智における古くからの崇拝の対象である滝の本体であって、生命の源と解され、一方で火は、万物の活力の源を表す。 そして、滝本から本社への還御の儀式に見られるように、扇祭りの祭礼は神霊の再生復活と、それによる生命すなわち五穀豊穣を祈念する祭りなのである。
また、扇祭りの様式には神仏分離以前の修験の祭りとしての要素も指摘することができる。 祭りの核心をなす扇褒め神事を執り行うのは、17世紀初頭の資料によれば、青岸渡寺の僧房の一つ尊勝院を拠点とする修験者たちの役目であり、彼らは八咫烏帽子をシンボルとした。 神仏分離以後に、扇褒め神事が那智大社の権宮司に委ねられるようになってからも、権宮司は八咫烏帽子をかぶった姿で神事に臨むだけでなく、松明の火を媒介・操作することにより神霊を導き、扇神輿に招くという点で、火の操作者としての修験者の像を読み取ることができる。
例大祭の準備は、6月60日に関係者が参集して例大祭の運営について協議する神約定から始まり、翌7月1日より大和舞・田楽舞の練習が始まる。 7月9日には社殿を清め、那智大滝の注連縄を張替え、11日には那智山住民が早朝から潔斎して白衣に着替え扇神輿を組み立てます。
7月11日(扇神輿張) 祭礼に用いられる扇神輿はs、細長い框かまち(幅1m、高さ10m)に絹緞子を取り付け、その上に装飾品を飾り付けて組み立てるもので、一般的な神輿とは構造が異なる。 扇神輿全体の造形は、那智大滝n姿をもしたもので、俗説として神武天皇東征と結びつけることがあるが、誤りである。
扇神輿の頂上には「光」を表す造形物が頂かれて造化三神の神徳を表し、前面には神威八絋を照鑑する8面の神鏡が取り付けられている。 神輿は12体造られ、1体が1月を表し、12体で1年を表している。 扇神 3.熊野那智大社
(1)扇祭
扇祭おうぎまつりまたは扇会法会おうぎえしきほうえとは、熊野那智大社の例大祭で、那智の火祭りの通称で知られている。 扇祭は、本宮大社の「渡御祭」、速玉大社の「新宮祭」と共に、和歌山県の無形民俗文化財に指定されていたが、本年27年に国の重要無形民俗文化財に指定された。 また、例大祭に奉納される田楽舞(那智の田楽)は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
神事としての扇祭りは、かって夫須美大神を花の窟から勧請した故事にまつわるものであるとされ、かっては寄り木となる木を建てて大神を迎えた後、その木を倒して大神が帰らぬようにする神事があったという。 しかし、扇祭りは例大祭当日の祭礼に見られるように火と水の祭りであり、今日では祭りの意義は、例えば農事繁栄のように生命力の再生と繁栄とし解されている。 水は那智における古くからの崇拝の対象である滝の本体であって、生命の源と解され、一方で火は、万物の活力の源を表す。 そして、滝本から本社への還御の儀式に見られるように、扇祭りの祭礼は神霊の再生復活と、それによる生命すなわち五穀豊穣を祈念する祭りなのである。
また、扇祭りの様式には神仏分離以前の修験の祭りとしての要素も指摘することができる。 祭りの核心をなす扇褒め神事を執り行うのは、17世紀初頭の資料によれば、青岸渡寺の僧房の一つ尊勝院を拠点とする修験者たちの役目であり、彼らは八咫烏帽子をシンボルとした。 神仏分離以後に、扇褒め神事が那智大社の権宮司に委ねられるようになってからも、権宮司は八咫烏帽子をかぶった姿で神事に臨むだけでなく、松明の火を媒介・操作することにより神霊を導き、扇神輿に招くという点で、火の操作者としての修験者の像を読み取ることができる。
例大祭の準備は、6月60日に関係者が参集して例大祭の運営について協議する神約定から始まり、翌7月1日より大和舞・田楽舞の練習が始まる。 7月9日には社殿を清め、那智大滝の注連縄を張替え、11日には那智山住民が早朝から潔斎して白衣に着替え扇神輿を組み立てます。
7月11日(扇神輿張) 祭礼に用いられる扇神輿はs、細長い框かまち(幅1m、高さ10m)に絹緞子を取り付け、その上に装飾品を飾り付けて組み立てるもので、一般的な神輿とは構造が異なる。 扇神輿全体の造形は、那智大滝n姿をもしたもので、俗説として神武天皇東征と結びつけることがあるが、誤りである。
扇神輿の頂上には「光」を表す造形物が頂かれて造化三神の神徳を表し、前面には神威八絋を照鑑する8面の神鏡が取り付けられている。 神輿は12体造られ、1体が1月を表し、12体で1年を表している。 扇神輿の特徴である扇は金地に朱で日の丸が描かれたもので、一体につき30面が取り付けられ。 それら30面の他に半開きの2面を取り付ける。 扇の数の30とは旧暦における1月の日数に等しく、半開きの2面は月の上弦、下弦を表していつ。 これっらを組み立てる際に用いる竹の釘は、古くからの慣例に従い360本、即ち旧暦の1年の日数と同じ本数を用いる。
宵宮祭
7月13日には宵宮祭が執行され、礼殿にて大和舞・田楽舞(那智の田楽)・田植舞が奉納される。 「那智の田楽」は、昭和50年(1975)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた後、平成24年(2012)12月、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
那智の田楽の起源は必ずしも明確ではない。 起源を示すものとして「熊野年代記」応永10年(1403)条の記述に、京から来た2人の田楽法師に習った田楽舞を「六月ノ会式」(今日の扇祭)にて演じたのが草創だという。 しかし、全国にある熊野から神霊を勧請した神社に田楽が数多く伝承されていることから、室町時代の伝は再興を意味するものであって実際の起源はもっっと古い時代に遡らせる説や、今日に伝わる田楽の複雑な構造と室町時代の新座・本座の比較に基づき、京都の田楽法師からの伝来それ自体を否定する説もある。 今日の那智の田楽は幾度かの断絶を経て再興・継承されたものである。 戦国時代には一時断絶し、慶長4年(1599)に再興されたが、明治時代に再度断絶し、大正10年(1921)に復興された。 今日演じられるものはこの大正時代の復興時に確立されたものである。
那智の田楽の演者は笛1人、笛控1人、ササラ4人、太鼓4人、シテテン(鼓役)2人の計12人である。 演目は、21曲と番外の合わせて22曲あり、合計40分をようする。
これらの演目には各地の田楽との共通点、即ち同数の舞手が東西の組に分かれることや、ササラと太鼓が一緒に行う舞の様式などが見られるが、その一方でシテテンに独自の舞や所作があることは特徴の一つである。 今一つの特徴は、その高度な芸能性である。 鋸刃の曲の中の所作にかろうじて田植を連想させるものがあるが、田楽であると意識しなければ見過ごされる程度の者であり、全体に田植えの模倣的表現はほとんど欠いている。 こうした特徴は、専門的な芸能者が草創に関与したことの影響とも考えられる、そもそも農耕とは関係のない所から生じたとする説もある。 例大祭
例大祭の祭礼は、14日朝10時礼殿で開始される。 早朝に扇神輿を礼殿前に飾り立て、本社大前の儀に続いて、大和舞・田楽舞(那智の田楽)・田植舞・巫女舞。斉主舞等が奉納される。
大和舞・巫女舞・斉主舞・審神の舞は子供たちの舞である。
午後からは扇神輿渡御式である。 礼殿にて発輿式を行った後、宮司以下、祭りの執行に当たる祭員全員が扇神輿を拝し神霊を神輿に迎える。 次いで大滝に向かって3度「ザアザアホウ」と鬨声をあげ、礼殿内では大太鼓を連打する。
小型の松明を携えた子ノ使ねのつかいを先頭に、前駆神職、伶人、馬扇、12本の大松明、神役、扇神輿、随員が礼殿お出発する。 扇神輿の担い手は扇指おうぎさしと呼ばれ、かって社領であった山麓の市野々集落の人々が務める。 扇神輿は幾度か伏せられたり立てられたりしながら前進し、大社と大滝の中間にあり、かって拝所跡地とされている。 伏拝と呼ばれる場所ですべての扇神輿を立させる。 扇神輿が立てられる都度、行列の祭員らは拍手をして褒める(扇立)。
その後、伏拝に扇神輿と扇神輿の神役を残し、宮司以下の祭員は大松明と共に。 飛瀧神社へ下る。 御滝本では時刻を見計らって伏拝に向って「ザアザアホウ」と鬨声をあげ、大太鼓が連打し、迎えの使者を3度送ります。 使者の到着に応じ扇神輿は大滝参道を進みます。
権宮司が光ヶ峯遥拝所にて神饌を供えます。 いよいよ火祭りです。 御滝前で御神火が移され、いよいよ松明の登場です。 松明を持った人々は「ハリヤ、ハリヤ」という掛け声とともに石段で扇神輿に出会います。 扇神輿は縦長なので急な石段を降りるのにバランスをとるのが大変でゆっくりと進みます。 大松明は扇神輿前でUターンし、12体の大松明が円陣を組んで石段を廻って扇神輿を清めます(「松明火焔の清め」)。 一方では火払所役が手桶の水を汲んでは松明に浴びせかけ、火の粉を消してまわる。 炎と松明役と扇指が交し合う掛け声が一丸となって祭りは頂点にたっする。
炎の乱舞が繰り返されるうちに松明の炎も消えかかり、松明は火所へ帰って炎を納める。 御滝本に進んだ扇神輿は、権宮司から扇褒おおぎほめの神事を受けて、飛瀧神社祭壇左右に立てられる。
(扇褒め神事とは、神職が翳さしは〘羽状の団扇〙で神輿の第八鏡を打つ所作のこと)
飛瀧神社の前に神饌が供えられ「御滝本みたきもとの大前の儀」が始まった。 神事が終わると御本社前で行われた「御田植式」対になっている田刈式たかりしきが奉納される。 鍬では無く鎌をもって「田刈歌」を歌いながら田に見立てた領域を歩きまわります。 最後に大松明を棒持した白装束の神役12名によって日の丸の扇子をもって「御滝御幸」の歌を歌いながら、「那瀑舞なばくまい」が奉納されます。
滝本祭の神事が執り行われた後、一同は大社へ還御する。 再び礼殿前に扇神輿がかざられて還御祭の神事が行われた後、神役の手で扇神輿が解体され、扇祭は幕をとじます。
参考文献
*熊野大社 著者 篠原四郎 発行所 株式会社学生社
*熊野神社歴訪 著者 宇井邦夫 発行所 巌松堂出版株式会社
*週刊京都を歩く 編集 株講談社 発行所 株式会社講談社
*フリー百科事典「ウィキペディア」
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