京都・朱雀錦
  (60)「京都三熊野神社


京都熊野神社
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 「蟻の熊野」という言葉がある。 平安時代の中期から定着し始め、神物習合思想の総本山が熊野三山で、熊野信仰が最盛期を迎えると参詣者が行列のように押すな押すなの有様だったことからきおのようい形容されたのである。 当時の人々はなぜはるかに遠い熊野神社に殺到したのであろうか。
 仏教には輪廻の思想があります。 輪廻とは何か、人間は死んだら終わりでなく、再び生まれ変わるが、生まれ変わる場所は、生前の素行(行動)の良し悪しによって変わった。 すなわち生前の素行が良ければ天界(上位の身分、最上階は神)に生まれ、素行が悪ければ地界(下位の身分、最下位は犬・豚)に生まれ変わるとしている。 これは御釈迦さんの生まれ故郷インドの輪廻であるが、日本の浄土宗では、悪事を働くと地獄に落ち、善行を行えば浄土の国に行けるとしている。 その時の善行とはなにか。 浄土宗での善行うとは仏教を信仰することであるとしたのです。 平安時代の人々は、最も高い信仰とは、熊野三山詣でと考えていたのでしょう。 そのため、多くの人が、我も我もと熊野に押し掛けたのでした。
 平安時代後期の浄土信仰の広がりのもと、本宮の主神の家都美御子大神けつみみのおおかみ(素戔嗚尊)は阿弥陀如来、新宮の速玉大神はやたまのみこと(伊弉諾尊いざなぎのみこと)は薬師如来、那智牟須美神榑隅夫須美大神ふすみのおおかみ(伊弉冉尊いざなみのみこと)は千手観音を本地(本体)とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土。那智は南方補陀楽ふだら浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされた
 熊野は辺境の山岳地帯にあるので道案内が必要とされ、その道案内を修験者がつとめました。 この道案内人を先達せんだちと呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。 熊野詣では出発に先立って行われる精進儀礼から始まります。 熊野詣でを志す者は精進屋(心身を清めるための建物)に数日間籠って精進潔斎しなければならなかった。 肉や魚などを断ち。言葉や行いを慎んで身を清め、道中の加護を祈願した後に、人々は先達の指導もと出発しまう。 精進潔斎の生活は道中でも続けられます。
 院中から出発した熊野御幸はまず熊野若王子で一服し、社殿の背後にある滝へ行きました。 直下型日本一の那智の滝にはおよびませんが、東山から勢いよく流れ落ちる白糸のような滝は、後白河法皇をはじめ、熊野御幸の祭、この滝の水を浴びてから出発し、新熊野社で第1回の休憩をとりました。 京都からの熊野古道のルートは、主に伏見から淀川を舟で下り、大阪から陸路紀伊路にむかった。 法皇・上皇による御幸は、延喜7年(907)から弘安四年(1281)の亀山上皇まで374年間で100回以上にのぼったと言われ、その中でも後白河法皇の34回が一番多く、後鳥羽上皇の28が次いで多い。 熊野に通じる道は幾つもあるが、主な熊野は下記のとおりである。
 「熊野古道」
  ○紀伊路きいじ:京都(伏見)~大阪(摂津)~田辺
  ○中辺路なかへじ;田辺~熊野本宮大社~那智大社~速玉大社
  ○大辺路おおへじ;田辺~那智大社
  ○小辺路こへじ;高野山~熊野大宮大社
  ○伊勢路いせじ;伊勢~熊野大宮大社又は速玉大社
 しかし、紀州熊野大社はあまりに遠く、その旅費は膨大であったと考えられる。 例えば、後白河上皇の熊野詣で(三山)の場合、往復30日をように、そのお着きの御供は100人以上であったという。 そこで遠地の紀州まで行かず、近くの京都で、熊野詣で出来るようにと考えたのは後白河上皇であったようである。 
当初、京都には、左京区聖護院山王町にある熊野神社(速玉大社を勧請)一つであった。 そこで後白河上皇は、東山区今熊野椥ノ森町に新熊野神社(本宮大社を勧請)。左京区若王子町に熊野若王子(那智大社を勧請)つくり、京都で熊野三山詣でが出来るようにしたのである。
 ここでは京都熊野三山の一つ、熊野神社について紹介します。

                  熊野神社
 所在地 京都市左京区聖護院山王町43番地 電話075-771-4054
     京阪三条駅のほぼ北1500mの位置にあり、徒歩25分、近くに熊野神社前のバス停がある
     。 
10系統が泊まり交通の便はよい。
 祭 神 伊弉冉尊、伊弉諾尊、天照大神、速玉男尊、事解男命
       我が国最初の夫婦神である伊弉冉尊いざなみのみこと・伊弉諾尊いざなぎのみことと天照 大神あまてらすお        おみかみ、速玉男尊はやたまのをのみこと、事解男命ことさかのをのみことの五柱を祀り、縁結び、安産、     健康長寿の御利益があるとして信仰されている。


                         1、歴史と祭事
 平安時代の弘仁2年(811)修験道の始祖役小角えんのおずぬの十世僧日円が、国家護持のために紀州熊野大神を勧請したのに始まるといわれている。 寛治4年(1090)白河上皇の勅願により創立された聖護院は、当社を守護神として崇められ別当職を置いて管理された。
野信仰が盛んであった平安末期、後白河法皇は度々熊野詣を行なうと共に当社を厚く崇敬し、紀州の土砂や樹木を用いて社頭の整備に力を注いだ。
 室町時代には足利義満から広大な社地を寄進され、社域は鴨川に至るものとなった。 その後も歴代天皇に崇敬され、庶民の信仰も集めたが、応仁の乱により荒廃した。
 江戸時代の寛文6年(1666)、衰微を嘆いた聖護院宮道寛法親王によって再興され、天保6年(1835)には大修造が行われた。 現在の本殿は、その時に下鴨神社の旧本殿を移築したものである。
 明治26年(1893)丸太町通りの遮断、大正元年(1912)の市電丸太町線の開通、昭和元年(1926)の東大路通の拡張などにより、明治維新当時1800坪であった境内は、約600坪と言われ、約3分の1に縮小されている。 
(1)4月29日神幸祭
  4月29日神幸祭を先導する熊野少年勤皇隊は、昭和3年(1938)に初められたものです。 
 
明治 維新に西園寺公望の要請に応じた山国隊は、官軍に加わって戌辰ぼしん戦争を戦った。 
  平安京造都の木材を供給した伝承をもつ山国郷は古くより皇室との関係は深く、山国一円は
 太閤 検地まで禁裏直轄の荘園であった。 しかし幕末には禁裏御料は郷内の半分ほどで、村々
 の所領関 係が異なることは、山国の諸村が一体となり山国神社の宮座を堅持していく上で問題
 もおおかった 。 そこで名主仲間(宮座仲間)は、かっての荘園「山国庄」の時代と同様に天
 皇から正式に官位 を授かることなどで地域の一円禁裏御料化を目指し、宮座の結束強化を図っ
 ていた。

 1)山国隊の結成
   このような状況のなか、慶応4年(1868)1月3日に鳥羽。」伏見の戦いがあった。 間
  もなく山陰道鎮撫総督西園寺公望から丹波に王政復古の募兵があり、前年末頃から、直ちに
  これに応じて自弁による農兵隊が結成された。 

   農兵隊には荘園時代の古例により四沙汰人さたにん(指示命令の執行者)を置き、第一陣「西
  軍」・第二陣「東軍」の2軍が目的別に編成され、両軍が慶応4年1月
11日山国神社(右京
  区京北鳥居町)に集結し出陣した。

   ●西軍(隊士64人、客士12人、沙汰人;水口備前守・藤野近江守)
    ・山陰道の西園寺との合流を目指したが、道中でこの方面がすでに平定されていたこと
       が判明した。 しかし鳥取藩の伊王野治郎左衛門(後の久美浜県知事)の仲介もあっ
     て、岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受けることが
     でき、山国隊が誕生した。
   ●東軍(隊士27人、沙汰人;鳥居河内守・河原林大和守)
    ・大阪の征伐大将軍仁和寺宮の陣に合流を目指したがうまくいかず、さらに「親兵組」
       と称し御親兵として御所警衛」にあたることに拘ったが最後まで不調のままおわった。
 2)京都出陣と東征
   東征大総督有栖川ありすがわ宮熾仁たるひと親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征
   の指令が下った。 慶応4年2月
123日、山国隊の1個小隊(隊士28人客士2人)が東山道
   軍の鳥取藩部隊に加わり、「十三部隊」として京都を出発した。 隊は鳥取藩士河田左久馬
   が隊長となり、北垣晋太郎、原六郎、千葉
)重太郎らが指揮を執った。 残りの隊士は京都で
   御所警備などにあたった。
    河田は鳥取藩の伏見・京都留守居役を兼ね、一刀流を学んだ人物であり、鳥取藩兵参謀と
   兼務、北垣と原は生野の変の生き残りでありのち鳥取藩に仕官、北辰一刀流桶町千葉道場の
   師範であり鳥取藩剣術指南を務めた千葉は変後の逃亡中の2人を道場に匿っていた。 

    3月、隊は甲州勝沼の戦いに加戦したにち江戸入りし、翌、4月には野洲・安塚の戦いに
   参戦した。 ここで激戦により最初の戦死者2名(および行方不明者1名)を出す。 江戸
   凱旋後、5月には上野戦争で彰義隊と交戦し、ここでも戦死者1名を出した。 6月には隊
   士にうち9人が隊長とともに奥州へ向け江戸を出陣し、常陸平潟に上陸。 8月に相馬中村
   城に入城し、ここで6名の隊士が東京(江戸)に帰営した。 残留した隊長・隊士は9月に
   亘理わたり城、
10月  に仙台城に入城したのち同月東京に帰営した。 明治改元を経た同年
     11
月、隊は有栖川宮の凱旋  に随伴して東京を出発、同月25日、京都に凱旋した。
 3)山国凱旋
    明治2年2月18日、山国隊」は大勢の見物人・出迎えの中、鼓笛を奏して京都から山国へ
  の凱旋をはたし山国神社を参拝した。 2月
25日には死者の慰霊祭を行い、辻村に招魂場(今
  の山国護国神社)を設けた。
   最終的に山国隊はその活躍とともに、戦士4人(行方不明1人含)、病死3人という多大な
  犠牲を出した。 また親兵組とともに軍費自弁のために出来た膨大な借金は名主仲間共有の山
  林を売り払うなどして賄われ、肝心の宮座は維新後間もなく消滅してしまった。 しかし、こ
  れ以来山国隊は郷土の誇りとされ、山国神社の還幸祭祭と京都時代祭では山国隊の行進を見る
  ことができる。
 4)熊野神社少年勤皇隊
   春の祭りを先導する熊野神社少年勤皇隊は昭和3年(1928)から実施されているとのことで
  あるから現在まで途切れることなく続いているとすれば、
88回続いていることになる。 
   熊野神社少年勤皇隊とは何か、慶応4年、鳥羽・伏見の名で知られる戊辰戦争があった。 
  その戦後に西園寺公望公より山国郷に出兵の要請があった。 山国郷は、平安京造都の木材を
  供給した伝承を持ち、荘園時代は「山国庄」といい皇室の直轄地で、古くより皇室と深い関係
  があった。 それゆえ西園寺公の要請を受け、旧山国郷では農兵隊を結成して参戦した。 官
  軍は戊辰戦争に勝利し、明治元年
1125日京都に凱旋した。 さらに明治2年18日、山国隊は
  大勢の見物人の中、鼓笛を奏して京都から山国への凱旋を果たし山国神社を参拝した。 この
  時の様子の一つが、京都三大祭りの一つ「時代祭」で再現し、さらにここ熊野神社の神幸祭で
  熊野神社少年勤皇隊として再現したのです。

   少年勤皇隊は1ヶ月程練習し、本番は4月29日熊野神社で1200分よりおこなわれます。 
   神幸祭は、氏子地区の繁栄や安全をねがって行われます。 鼓笛隊が整列して、本殿前で神事
  が
 1200頃おこなわれます。
   神事が終わると、鼓笛隊の演奏を奉納。 祭列者は、梛ぎかざしをつけます。 熊野神社を
  行列は出て、聖護院にむかいます。 聖護院の庭に入り整列します。 聖護院では、法要がお
  こなわれます。 神仏混合の儀式ではありませんが、神職さんが法要の場に讃歌されるのは珍
  しい光景です。 法要が終わると、鼓笛隊が演奏します。

   熊野神幸祭の行列は、鼓笛隊・稚児・山車・獅子舞・楽人・神職・神輿・宮司です。 業悦
  は、氏子地区を廻っていきます。 途中の休憩所では、神事が行われます。 氏子町を練り歩
  き
16時頃熊野神社にもどってきます。
(2)京都十六社朱印めぐり
   古都の町中に点在する十六の古社を訪ねる旅です。 由緒ある十六社が指定されています。
  京都熊野神社も京都十六社の一つです。
  洛北 今宮神社(健康長寿・良縁海運)市バス206号「船岡山」
  洛中 わら天神宮(安産・厄除・子授け)市バス205号「わら天神前」
    御霊神社(こころしづめ・厄除・学業成就)地下鉄「鞍馬口」
     市比賣いちひめ神社(女人・厄除)市バス20517「河原町五条」
  洛東 京都熊野神社(縁結び・安産・病気平癒)市バス206号「熊野神社前」
    東天王岡崎神社(子授け・安産・縁結び・厄除)市バス5「東天王町」
    熊野若王子にゃくおうじ神社(学業成就・商売繁盛)市バス5「南禅寺・永観堂」
    豊国とよくに神社(出世海運・厄除招福・良縁成就・商売繁盛)
                   市バス206号「博物館・三十三間堂前
    粟田神社(旅立ち守護・厄除)市バス16「今熊野」
    新熊野いまくまの神社(健康長寿・病魔退散・お腹守護)市バス208号「今熊野」
  洛南 六孫王ろくそんのおう神社(出世開運・家運隆昌)市バス16「六孫王神社前」
    吉祥院天満宮(知恵と能力開発の神・受験合格・開運招福)
                          市バス42「吉祥院天満宮前」
    藤森神社(勝運と馬の神)JR「JR藤森」
    御香宮ごこうのみや神社(安産・厄除・病気平癒)近鉄京都線「桃山御料前」
  洛西 西院春日神社(厄除・病気平癒・交通旅行安全)市バス205号「西大路市場」
    長岡天満宮(合格祈願・厄除開運)阪急京都線「長岡天神」

                              2.境内
(1)本殿・拝殿
   御本殿は三間社流造の立派なものである。 これは江戸時代末期に行われた大修造の折、賀茂  御祖神社(下鴨神社)の旧本殿を譲受けたものだという。 そしてその170年余の平成19年に屋根  の吹き替えや老朽化した部分の修理がおこなわれた。 
  拝殿は平入り入母屋造、その妻は唐破風になっている。
(2)稲荷社・金比羅社
   京都熊野神社には、稲荷社と金比羅社があり、稲荷神(稲荷台明神)と金比羅神(大物主命)
  が祀られている。 朱色の鳥居の扁額には稲荷大神と金刀毘羅大神と2神の名前が記されている
  が、拝殿も本殿も一つしかない。 しかも、鳥居も本殿も朱色を多く使用している。 金毘羅神
  社の建築様式には朱色の使用はない。 鳥居や本殿に朱色を多用するのは稲荷神社の建築様式で
  ある。 従って当初は稲荷神社として建設したが、後ほど、何らかの理由で金毘羅神を勧請した
  が、納める場所がないため、稲荷社に合祀し、稲荷社を相殿したのではないか。

(3)神倉社・須賀社・春日社
   稲荷社・金比羅社の左隣に神倉社・須賀社・春日社がある。 この鳥居の扁額には神倉神・須
  賀大神・春日大神と3神が記されているが、鳥居も拝殿も、本殿も一つしかない。 春日社に
  は、春日造りという固有の建築様式がある。 しかし、ここの本殿は片流様式である。 現在日
  本の神社の
7080%がこの片流様式であることから、この神社は当初から相殿として計画されて
  いたものと思われる。
(4)西尾為治像
   西尾為治(18791962)は、京都を代表する和菓子の1つ「八ツ橋」を開発した、本家八ツ橋
  西尾株式会社
12代目の店主である。 西尾家の創業は元禄時代で、「八ツ橋」中興の祖といわれ
  ている。

  1)概要
    菓子の分類としては煎餅の1種であり、肉桂ニッケイ風味であることが特徴である。 当初
   は「堅焼きせんべい」と呼ばれていた、生地を焼き上げた「八ツ橋(堅焼き八ツ橋)とも」、
   生地を蒸しただけで焼き上げない「生八ツ橋」があり、餡をいれた「餡入り生八ツ橋」も有名
   である。 明治時代、京都駅で販売されたことをきっかけとて認知されるようになり、人気と
   なった。 第二次世界大戦後には「生八ツ橋が考案され、現代ではこちらの方が人気がある。
    八ツ橋は京都を代表する観光土産であり、統計調査によると京都観光の土産として菓子類を
   購入する人は
96%にのぼるが、そのうち八ツ橋の売り上げは全体の45.6%(生八ツ橋24.5%、
   八ツ橋
21.1%)を占め、京都を代表する土産物になっている。 
  2)由来
    八橋検校やつはしけんぎょう16141685)は、江戸時代前期、琴の名手であり、作曲家でもあり、
   近世筝曲の開祖とたたえられている。 
    出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779)に記した「筝曲大意抄」よい陸奥国岩城
   (現・福島県いわき市)が定説とされている。 他に摂津国つる説もある。
    八橋検校は、寛永年間(16241644)の初めの頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍
   した。 その後、江戸に下り、筑紫善導寺の層・法水に師事して筑紫流筝曲を学んだ。 この
   筝曲を基に現在の日本の琴の基礎を作り上げた。 独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段も
   のなどの楽式の定型化など、筝曲の発展に努めた。 代表作に組歌の「梅が枝」、「菜蕗ふき
   、「心尽くし」、「雲井の曲」などがあり、また段ものの「六段の調」、「乱みだれ(乱輪舌
    みだれりんぜつ
)」、「八段の調」も八橋の作と伝えられている。 寛永
16年(1636)再び上洛し
   て上永うえなが検校と称し、更にのち、八橋検校と改めた。 

    その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこもある
   。 胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良もおこなっている。 貞享2年(
1685)6
   月
12日、66歳で死去,黒谷の金戒光明寺にある常光院(八はし寺)に葬られたが、墓参に訪れ
   る人は絶えることがなかった。 

    そのため検校没後4年後の元禄2年(1689)、琴に似せた干菓子を「八ツ橋」と名付、黒谷
     参道に当たる聖護院の森の茶店にて販売しはじめた。



参考文献
  *山国隊「ウィキペディア」
  *八ツ橋「ウィキペディア」
  *八橋検校「ウィキペディア」





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