京都・朱雀錦
  (61)「熊野若王子神社」


熊野若王子神社
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所 在 京都市左京区若王子町2番地
祭 神 国常立命くにたちのみこと、位佐那岐神、伊佐奈美神、天照大神、恵比須像
 熊野若王子神社は、京都東山三十六峰の一つ、若王子山(標高183m)の山麓にある。 熊野若王子神社への最寄のバス停は、南禅寺・永観堂で、バス停から東側約750m、徒歩10分の距離にある。 熊野若王子神社へは京都駅前から京都市バス5系統、銀閣寺・岩倉行に乗車46分で到着する。
1.由緒
 当社は、永暦えいりゃく元年(1160)、㈹77代後白河法皇が、紀州熊野三所権現を勧請して創祀され、後白河法皇が祈願所として建立した東山若王子の守護神とした。 社伝により那智分社とされたとされている。 また京都に熊野三山作る意図があったと考えられている。 かっては永観堂に隣接し、鎮守社になり「禅林寺新熊野社」とも称されていた。 また後白河法皇が熊野権現を禅林寺の守護神として勧請したとの説もある。
 祭神として国常立命くにたちのみこと、位佐那岐神、伊佐奈美神、天照大神をまつる。 社名は天照大神の別称若―王子に因んで熊野若王子神社と名づけられた。 
 熊野詣でを京都から出発する場合、まず一番先に寄るのが熊野若王子であった。 社殿の背後にある滝に行きました。 直下型日本一の那智の滝には及びませんが、東山から勢いよく流れ落ちる白糸のような滝は、後白河皇をはじめ、熊野御幸の際、この滝の水を浴びてから出発し、新熊野社で第1回の休憩をとりました。 京都からの熊野古道ルートは、主に伏見から淀川を船で下り、大阪から陸路紀伊路に向かった。 法皇・上皇による御幸は、延喜7年(907)から弘安4年(1281)の亀山上皇まで100回以上にのぼったと言われる。 その中でも後白河法皇の34回が一番おおかった。
以後、武家の信仰を集める。 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝、室町幕府初代将軍・足利尊氏、第3代将軍義満の寄進が相次いだ。 また、花見の名所としても知られ、足利尊氏、寛正かんしょう6年(1465)3月には足利義政により花見の宴が催された。 その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備された。

2、境内
 明治初年の神仏分離によって正東山若王子は廃棄され、当社のみが今日にのこったのである。
 現在の社殿は、昭和54年(1979)一社相殿に改築されたもので、以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。 境内には、末社として恵比須神社、三解社、山神社、滝宮神社、本間社及び福寿稲荷神社等がまつられている。
(1) 恵比寿神社
  恵比須殿は、若王子神社の末社夷川社の祭神である。 恵比須像は木造寄木造で等身大の坐像 で、社宝の御神体として祀られ、現在も多くの崇敬者より篤く信仰されている。 宝暦11年(1761)に  書かれた「亰町鑑」には「古老云、往古西洞院中御門(今の椹木町)に北山の下流あらはれ、叉この
 辺に蛭子えびす社有りしゆえ、恵比須川と号し、「其後次第に人家建つづきしゆえ通りの名とす、応仁
 の乱に此社坊滅し、川も埋れ侍りしが不思議に蛭子の神像残り…云々」とあり。 この神像が当社に
 祀られたとつたえられている。
(2) 宝形ほうぎょう
  明治元年(1868)神仏分離後の廃仏毀釈により、地仏堂が破棄され、屋根の一部である宝形だけ
 が残された。 明治4年(1871)安置されていた薬師如来坐像は、奈良国立博物館に移されている。
(3) 梛なぎ 
  熊野本宮大社、速玉大社、那智大社構内それぞれに梛ナギの大樹(特に速玉大社のナギは樹齢
 千年を超え国の天然記念物に指定されている)があり古来より、ナギは熊野権現の象徴として信奉
 篤く、古来からしの名から凪に通じ、道中安全特に船乗りが信仰した。 この葉を懐中に納めて参りす
 ることが習わしとされています。 熊野牛王くまのごおう(一種のお守り)とナギの葉を戴くことが難行
 熊野詣でを無事果たす支えとなった。
  京都三熊野神社にもそれぞれナギは植えられ神木とされているが、特に当熊野若王子神社のナギ
 は樹齢400年とも言われ京都府下で最も古い。 京都三熊野神社でも、ナギは神木として、昔、紀州
 熊野詣で、伊勢参宮の時等ミソギの木として諸処の罪けがれを祓い清めるお守りとして用いられたも
 のです。 この椥守は、受験・結婚・その他全ての苦難をナギ祓うお守りです。
  ナギは植物学では、裸子植物門・マツ綱・マツ目・マキ科・ナギ属・ナギになる。 ナギの葉形は楕
 円状披針型あるいは卵状楕円形、両面とも不毛、針葉樹であるが、広葉樹の葉型である。 多数の
 平行な葉脈が縦に走っていて、主脈がない。 普通の葉とは違い、一本筋の葉脈であるから「別れな
 い」いう意味で、男女の縁結びとして珍重されている。
(4)滝
  若王子神社の裏山にある滝は那智の滝を表わし、熊野御幸の際、後白河法皇をはじ
 め、修験
者がこの滝で身を清め熊野へまいられた。 現在でも霊験あらたかな主要場
 の滝として、多くの人に使用されています。

(5)諸末社
  境内には「末社・三解社」「末社・福寿稲荷神社」「末社・竜宮神社」「末社・本
 間社」「末社・
山神社」が勧請されている。
(6)東方斎碑
  鳥居前左手人追悼碑「東方斎碑とうほうさいひ」が立つ。 東方斎荒尾精(1859~1896)は明治期
 の陸軍軍人。 日本・清国提携による東アジアの安定を唱えた。 清国内を旅行し、その知見により
 日中貿易の必要性を説き、アジア独立自存の「先覚者」と呼ばれた人物。 明治23年(1890)、上海
 に人材養成のため日清貿易研究所を設立した。 この研究所が明治34年上海に設立された東亜同
 文書院の前身である。 この碑は荒尾が日清戦争期に隠棲した若王子の地に建立された顕彰碑で
 ある。 
  建立年 大正5年(1916)
  建立者 故旧同志及び門人
  玄洋社の頭山満は荒尾の死後つぎのようにかたった。
  余は大に荒尾にほれていった、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと言うとあり、常時最も
 偉人を思うときに荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬
 慕して居った。 
  彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以て独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し
 、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道をたのしみ、毫も一身一家の私事うぇ
 お顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精神に至っては、実にに敬服の外な
 く、感謝に絶えざる所であって、世の功名利欲を主とし、区々たる小得喪にあくせくする輩と、全くその
 選を異にし、誠に偉人の器を」具え大西郷以後の人傑たるをうしなわなかった。 
(7)新島襄之
  熊野若王子神社の脇に山道の登り口がある。 墓所まで登り口から徒歩で約20である。 
  標高183m、東山三十六峰の一つ若王子山のほゞ頂上に同志社共同があり、その正面中央に
    同志社の創立者の新島襄とその妻新島八重の墓がある。 共同墓地の中には同志社関係の方
 々のお墓が並んでいる。 その中には新島八重の兄であり、会津藩士の砲術家、新島襄の協力者で
 ある、山本覚馬の墓石もある。
  新島襄;天保14(1845)2月12日に江戸の神田で安中藩(群馬県)の藩士の家に生まれ、明治8年
 (1875)に32歳のときに同志社大学の前身である同志社英学校を開校、明治23年(1890)1月23日
 に静養中の神奈川県大磯の旅館で死去、48歳であった。
  新島八重;弘化2年(1845)12月1日に会津藩(福島県)で誕生、昭和7年(1932)6月14日に京都
 の自宅(現。旧新島邸)にて死去86歳であった。
  山本覚馬;文政11年(1825)2月25日会津藩で誕生。 晩年は京都府議会議員。 京都商工会議所
 長、同志社臨時総会長などをつとめ、明治25年(1892)12月28日64歳で死去した。
(8)哲学の道
  東山の麓に哲学の道と呼ばれる絶好の散策スポットがある。 熊野若王子神社から、法然院を下り
 銀閣寺に至る疎水べりの小道約1.5㎞の散歩道です。
  京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作くられた人工の水路です。 南禅寺の水路閣も疎
 水の水を流すために造られたものです。 哲学の道に流れている疎水は大津で取水されたあと長いト
 ンネルを経て蹴上けあげに到着します。 蹴上から分水して北上する疎水が南禅寺疎水閣そすいかく
 を経て哲学の道に流れています。 哲学の道は、疎水の西側に散歩用の石畳が敷かれ、日本の道
 百選にも選ばれ散る散歩には最適のみちです。 
  南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散策する人を和ませ
 てくれます。 京都の哲学者西田幾多郎がこの道を思索にふけりながら散歩していたことから「思索
 の小径」といわれました。 その後、西田幾太郎の愛弟子田辺元や三木清らも好んで散歩したことか
 らいつしか「哲学の」道とも言われるようになり、昭和48年(1972)に正式に「哲学の道」と命名されま
 した。 
  哲学の道の中程、法然院のそばに西田幾太郎が詠んだ歌が石碑に刻まれています。
  「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」

3.神事・祭事
(桜花祭)
 若王子神社・哲学の道散策の集いが、月第一日曜日に行われます。 これは後白河法皇の熊野詣での道中安全を祈願して行われたことにちなむお祭りです。
  10時 ~10時40分 神事
  10時40分~16時  琴、大正琴、詩吟等奉納、一般参観者の飛び入り参加は大歓迎される、
賑わいのある祭りである。 また、集いでは、御茶席、野点(有料)が模様されます。
  室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3
月には、足利義正により花見の宴が催された。 その後応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興された。
   哲学の道の桜は、関雪桜といわれた。 哲学の道の近くに居を構えた日本画家・橋本関雪が
大正11年(1922)に京都市に苗木を寄贈したのに始まる。 当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、佐野藤右衛門(著名な造園家)らの手により植え替えれ手入れされ現在に至っている。 
  熊野若王子神社の裏山には、桜の記念樹林「桜花苑」があります。 桜花苑の桜は中心が赤い長徳寺の「おかめ桜」のようにピンクが濃い桜がある。 哲学の道のさくらは、見学者が多く、にぎわっているのに対し、「桜花苑」に訪れる見学者は少ない







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