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               同内部・富士の間

             小書院(重要文化財)
                              京都・朱雀錦
  (62)「天台宗五門跡曼殊院

曼殊院

所在地 京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
宗派等 天台宗門跡寺院 山号なし
開 基 是算国師
文化財 黄不動画像・古今和歌集(曼殊院本)[国宝]、庭園[国の名勝]、大書院、小書院等[重文]

     歴史
 曼殊院まんしゅういんは京都市左京区一乗寺竹ノ内町にある天台宗の仏教寺院である。 山号はない。 本尊は阿弥陀如来、開基は是算ぜさんである。 竹内門跡とも呼ばれ門跡寺院であり、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の一つに数えられている。
 曼殊院の起源は比叡山における最澄の開創にまで逆戻る。 延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄が鎮護子国家の道場として比叡山の地に創建されたのが曼殊院の始まりである。
 慈覚・安恵・最円・玄昭と伝えられ、是算ぜさん国師が、天暦元年(947)法橋の頃、比叡山西塔さいとう北谷に移し東尾坊とうびぼうと称した。 是算国師がが曼殊院の実質的な初代門主と考えられている。 是算国師は、天台宗で阿闍梨号(天台密教では特別な資格を有する高位の僧侶の称号)を請けた最初の人であり、密教学者であった。 
また、天暦年間(947~95)、北野神社が造営されると、当院の住持、是算国師は菅原氏の出であったので、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまでこれを兼務した. 
 その後、天仁年間(1106~9)、8世門酒主忠尋ちゅうじん座主が当院の住持であった時、寺号を現在の曼殊院に改めた。 それまで、東尾坊……善法院とも呼ばれていた。 北野別当の事務の必要性から曼殊院別当(里坊)を北山村に建設した。 後には別院が盛んになり、曼殊院はこの別院に移った。 
 北山(右京区鹿苑寺付近)に有った曼殊院は、足利義満が北山殿(後の金閣寺)造営するにあたり、康歴こうりゃく年間(1379~81)、曼殊院を御所の近くに移設しました。 今の相国寺の寺域、現在同志社大学のある当たりであろう。 
明応めいおう4年(1495)ころ、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。 
中でも第29世良尚りょうしょう親王(通称法親王)は曼殊院中興開山と称せられている。 曼殊院を明暦2年(1656)、東山山麓の現在地に移し寺観を整えたのは29門主良尚りょうしょう法親王であった。 良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁としひと親王の御次男であり、修学院理宮を造営した後水尾天皇は従弟に当りました後水尾天皇の猶子ゆうしであった。 
親王は、御所の北から、修学院離宮に近い現在の地に移し、曼殊院の建造物及び庭園の造営を行った。 庭園建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い。 現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。 良尚法親王は、桂理宮を造営した智仁親王と忠仁親王は良尚法親王の父と兄であり、修学院理宮を造営した後水尾天皇は良尚法親王の従弟に当たる、従って良尚法親王の芸術的センスは三氏に準ずるレベルにあったと考えられる。 その良尚法親王が造営した曼殊院の建造物と庭園は桂理宮や修学院理宮に準ずるとまではいかないが江戸初期の建造物として高い評価を受けています。
また良尚法親王は、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であると共に茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。 
(1)茶道 
  日本における茶の起源は極めて古い。 聖武天皇の天平元年(729)は百人の僧を内裏へ召して般若経を講ぜしめられ、そ
 の第2日に行茶の儀があったことが伝せられている。
  その後、延暦24年(805)伝教大師が天台の法を伝えて帰朝し、このとき茶の子を請来せられたという。 伝教大師は、近江、
 丹波、播磨の国々に仰せて、茶を植えしめて貢に奉らしめ給うたと「類従国史」帝王の部に記されている。 その茶園の1つが
 大津市坂本本町京阪電鉄終点の所に残存している。
  嵯峨天皇弘仁元年(810)茶の儀式が始められ、同6年4月に、近江志賀に行幸され、梵釈寺永忠大僧正が自ら茶を煮て奉っ
 たと「日吉の神記」に見える。
  建久2年(1191)には、建仁寺開山栄西が、宋から帰朝の時、茶の子を請来して、筑前の背振山、博多聖福寺の山内に植え
 、また栂ノ尾の明恵上人に送られ、上人はこの種を深瀬の園に植えられてから、永く世に広まったのである(「高山寺旧記」)。
  元禄年間となって唐宋の旧きを尊び、殊に抹茶が盛んになった。 その茶は山城の宇治、近
 江の信楽の山脈を主なる産地とした。 
  このように、寺門に請来された茶風は、僧侶や公家を中心とする顕紳社会の中に受け継がれてきた。 近世には、大名・高官
 をはじめ、武家社会に広がり、更に町人の社会にその中心を移していった。 
  当院第29世良尚法親王が茶道に執心され特に仏道修行に精進される道はまた茶道の奥義を極る道と同一である。 茶禅一
 味とはこれなり。 後に竹ノ内門跡御流という家元になられた。 
  名園・名席を残すのに格別努力なさった後水尾天皇の猶子となり、若くして天台座主となり、多方面に天才の脂質を示された
 親王は、現地に曼殊院をされるにあたって、建築にも、庭園にも茶席にもその粋を集めて完成された。 
  当時、すでに村田珠光・武野紹鷗・千利休によって、詫茶の風が広まりつつあった。 
(2)華道
  華道は日本発祥の芸術ではあるが、現在では国際的に」ひろがっている。 華道の確立は室町時代中期、京都六角堂の 
 僧侶で、小野妹子の末裔である第12代小野専慶師が、華法正しくし、六角堂の池の傍に住居であったので、池坊を姓とするよ
 うになり、第27代専鎮の時元将軍足利義政により華道家元の名称を賜ったと記されている。 そして第32代専朝師のとき、後
 水尾天皇の寵愛をうけ、紫宸殿の御会ある毎に、御代花を奉仕した。 
  維新後今日に至るまで、献花等の栄を受けることしばしばあり、ついに美術中の白眉となり、その道が1300年来全国に普及
 して、その教えを受ける者数十万を数えるようになった。
  江戸時代、寛文年間(1661~73)には、京都御所である仙洞御所で立てた花が写生され、その多くは六角堂池坊や曼衆院
 には、3百枚以上の立花写生としてのこしてある。 花と聞けば、清浄無垢の花草を以て、宇宙の形を表し、仏教精神によって、
 室内を清浄ならしめるのであるという祖先伝来の華道は変わらないが、時世に応じ、進歩し、自然と風姿気品を加えるようにな
 った。 
  このように華道家元となれば、古くから連綿としたいえもとで、全国に多くの支部や門下お有して、花といえば何流というよう
 にたが、いつの間にか諸流派が生まれて、各々家元お称する用になった。
  茶道も華道もともに、仏教によって育まれたもので、殊に京都では仏教の盛大なところで、現在京都では、天台3派、真言8
 派、禅9派、浄土6派、真宗5派、日蓮3派など、各々その本山がある。 直接その宗団が茶・華道を運営している2,3の本山も
 あるが、仏教が道の宗教であるためか、茶・華道には仏教精神によるものが多い。
  例えば、良尚法親王は曼殊院で、72歳の入滅まで、茶と華道の生涯を送り、京都御所に池坊専好を伴い、出向いて、後水尾
 天皇をはじめ、御所の人々とともに、花の稽古・茶の湯のお点前などなされたことが記録されている。 また、「活花写」と称する
 スケッチを多数残している。
(3)香道
  茶道・華道の精神と同じように、香道もその一つである。 一定の作法のもとに、香木を焚いてその匂いを賞玩する芸道であ
 る。 それには供香そなえこう・空薫そらだき・香合こうあわせ・薫物合たきものあわせ・聞香ききこうなどがあり、これらを総括して香道という。 
 供香そなえっこうは神仏や故人に供える香である。 空薫は空間に香りを漂わせる昔ながらの香の焚き方です。 平安時代には
 部屋や衣装に薫物の香りをたきしめる時や部屋の雰囲気を変えたい時に用いられました。 
  香合こうあわせは、茶の湯において香を入れておく器である。 その香合は茶事において重要な存在であり、炭点前の時に客は
 亭主に所望して香合を拝見する。 香御合の中には香を3個入れておき、その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせ、残りの
 1個はそのまま拝見に回すことが多い。 
  薫物合たきものあわせは、種々の練香を持ち寄り、それを焚いて優劣を争う平安時代の宮廷遊戯である。
 聞香ききこうは、文字通り、香炉から「香りを聞く」ということであり、嗅ぐのとは異なり、心傾けて香りを聞く、心の中でその香りをゆ
 っくりと味わうという意味です。 仏教の伝来とともに入ったものであるが、15世紀、足利義政の頃が最も盛んに行われ、発展し
 た。
  曼殊院には、御枕箱・矢数香盤・名所香盤・競香盤・薫物箱等を蔵している。 一つの御枕箱を開ければ、引き出しが6個つ
 いている。 その一つには香の調剤の器具が入っており、雨天の場合は室が湿気のため乾燥の香を焚き、沈香とか伽藍の高
 級な香を焚いてまず心を静める。 隣の引き出しには小さな茶器が入れて有り、思いのまままず一服、上段の細長い引き出し
 には硯と筆、好みのまま書きとめることができる。 
  親王は毎日の生活の中に、茶道・華道・香道を取り入れておられたようである かくして元禄6年(1693)7月6日遷化された。
(4)書道
  日本の書道は、7世紀初めである。 そうして、中国の書法を母胎として生まれたものであったから、我々の祖先は、日本独
 自お書法というものを創造したのではなかった。 その後も絶え間なく大陸から移入される書法(楷書・行書・草書・章書・飛白)
 を栄養素として吸収し成長を遂げ、今日に及んでいる。 
  平安時代になって、日本独自の感覚に基づく書風が誕生している。 鎌倉・室町時代には、の興隆に伴って、禅宗様の書体
 が移入された。 その刺激によって時の和様書道の世界に宸翰様(後醍醐天皇等南北朝時代の宸翰)と呼ぶ一体が残される
 ようになった。 江戸時代に入って、禅宗の一派黄檗宗が渡来し、それに伴い明代の書法がもたらされた。 そうして江戸時代
 を通してますます流行を極めた。 
  この江戸時代初期に、良尚法親王35歳から72歳までの約40年間、画道・茶道・華道・香道・書道に挑戦した形となった。 勿
 論出家の立場にあり、常に身を修め精進され。 いま曼衆院に残存する良尚法親王によって蒐集された書画、また」本人の書
 画等は膨大な数である。
  そうした中で良尚法親王は寛永14年(1637)良恕法親王から入木道じゅぼくどう(書道の意;書聖と言われた王義之の筆墨は板
 の3分[8ミリ]まで浸透した故事)を伝授された。 
  良尚法親王の晩年は天松院宮と号し、この年代の手鑑をはじめ、各書体の墨跡・書籍・和歌・連歌の筆蹟を残している。 自
 ら流派を建ててはおられないが、桑門の人として日日の生活は書道の生活と申しても過言ではない。 
(5)画道
  仏画には一種神秘的な画面もあり、また宗教的な厳しさもあって、一般の鑑賞を目的とするものと異なるものである。 仏画
 は、仏教信仰の発展に伴う要請によって生み出され、仏教教理の教化用とか、本尊的な礼拝用とかのいわゆる神聖な用途に
 当てられるための聖画である。 
  しかも描かれているものが、主として拝まれる仏教諸尊の像、またはこれを中心としたものであってみれば、その表現の厳し
 さや崇高さが優先的に求められ、結果としてあるいは神秘的ともなり、あるいは幻想的ともなる。 仏画にそなわるこのような表
 現上の特質と、それを通して想見される背後の深い思想や信仰にあることこそ、仏画が現代人にアピールするゆえんである。
  わが国の仏画の中でも特に魅力的なものは、その多くが平安時代の後期に集中している。 それは大陸の特に唐絵画の影
 響下で育ってきた日本の仏画が、唐絵画の伝統を咀嚼そしゃくし、かつ醇化じゅんかすることにより、日本人の体質と美的感覚とに
 最も適合した古典様式を創造するに至ったからである。 
  いまその中でも、特に日本三大不動尊(赤不動・青不動・黄不動)の中、赤・黄不動尊は円城寺開祖智証大師円珍の感得し
 た造影をもとに描かれ、不動明王像としては、最も古く異形のスタイルが示されている。 
  これこそ、請来されたさまざまな密教像を前提として創案し、前節に言うような感得像として、独特の新しい不動明王の像容を
 作り上げたものと見るべきであろう・ 
  良尚法親王は、曼衆院を祈祷道場とされたので、幾多の仏画をはじめ、曼荼羅から一般絵画に至るまで、膨大な数を収集さ
 れた。

      境内
 曼殊院の建物、庭園は「小さな桂離宮」と言われる。 桂理宮は17世紀に八条宮智仁としひと親王が造営を開始し二代目智忠のりただ親王が完成した。 その智仁親王は曼殊院中興の祖・良尚法親王の父であり、智忠親王は兄にたる、 また、智忠仁親王は建立に際しても関わったと見られている。 現在、最も有名な古建築は大書院と小書院でいずれも桂理宮と同趣の名建築である。
 最も主要な建物と言われた1656年建立の宸殿は、境内南西にたった。 近代、1872年の京都府療病院(京都の仏教界が中心となって、粟田口の青蓮院内に建設)に際して移築になり現在は失われている。 小堀遠州好みの澆花亭ぎょうかていは1934年の台風で倒壊した。
(1) 勅使門 
  高い石段の上に西に面して立つのが曼衆院の正門・勅使門である。 他の諸殿舎と同じく明暦2年(1656)頃の造営で、構造
 形式は薬医門である。 薬医門やくいもんは近世以後城や武家邸宅、大小寺院などに多く建てられた門である。 構造は前方(外
 側)に本柱2本、後ろ(内側)に控柱の四本柱で屋根を支えます。 特徴は、屋根の中心の棟の位置が中心よりやや前方にくる
 ことです。 従って前方の2本の本柱が後方の控柱よりやや太く、加重を多く支える構造になります。 当院の薬医門は細部の
 絵様彫刻(渦や唐草などの装飾彫刻)が江戸時代初期様式を表している。 
(2) 唐門
  勅使門を入ると右側に唐門が北面して立つ。 唐破風からはふを正面に向けた向唐門むかいからもんで、扉には松、背面には菊の
 装飾彫刻がり、柱頭の木鼻きばなや背面大瓶束たいへいづか(短円柱状の束)に付く笈おい「仏具等を入れた脚付背負い箱」
 形の牡丹彫刻などが、江戸初期の様式を示している。
(3) 通用門
  通用門は北側にあり、拝観客の出入り口を兼ねている。 入って左側に受付のある、管理棟がある。
(4) 庫裡 (重要文化財)
  江戸時代前期明暦めいれき2年(1656)建築。 桁行15.9m、梁間12.3m、一重、入母屋造、本瓦葺、玄関附属、唐破風、檜皮
 葺。 天台宗門跡寺院の庫裡としては比較的類例の少ない入母屋造、平入の形式を持ち、保存状態は良い、国の重要文化財
 に指定されている。 
  現在は通用口となっている。 庫裡入口の「媚竃」びそうの額は、良尚法親王の直筆を刻したもので、論語の一部「その奥に媚
 こ
びんよりは、むしろ竃かまどに媚びよ」の意である。 我々が毎日生活し、活動できるのは竃で焚いた飯やその他の食物のお
 かげである。 それ故にまず媚びるべきは竃であり、竃で働く下々の人達である。 しかし多くの人はそんなところに媚びず「奥
 に媚びる」のである。 奥にいる目上の人や有力者に媚びるのであるが、それは間違っている、「竃に媚びるのが本当である」
 という意味を寓したのがこの扁額である。 
  庫裏とは寺の台所兼事務室のようなところであったが、現在は実質には玄関として、大勢の観光客が一度に来ても、容易に
 入場可能な大玄関として使用されている。 
(5) 大玄関
  拝観客は庫裡を通って大玄関に進む。 玄関は前に車寄せ、式台(上り口)と形通りで、軒唐破風を付けている。 前の土間
 は」六角の塼せん(敷瓦)が敷かれている。 玄関内部には「竹の間」「虎の間」「孔雀の間」がある。
 a  虎の間(重要文化財)
   正面大玄関の間にある襖絵が虎であるところから虎の間とよばれる。 虎の間襖(重要文化財)は狩野派一門、それも伝狩
  野永徳筆であろうと推定されている。 虎の胴が長く描かれているのは、その当時まだ虎の姿が伝わらず、文献その類を参
  考にしたためとみられる。 おそらく想像の絵であろう。 虎の獰猛さを表し、そのすばしこさを十分描いているのはさすが永徳
  である。 
 b  竹の間(木版画による壁紙)
   竹の間と言うのは玄関わきの室である。 一見描かれた竹のように思うが、実際は版画である。 今でいう壁紙で、壁紙で
  装飾した部屋は、曼殊院門跡が竹ノ内門跡に因んだからであろう。 この版画は我が国最初の版画である。
 c  孔雀の間
   孔雀の間襖絵は岸駒が描いたもので、南画風であり、純粋の日本画である。 仔の孔雀と親のバランスがとてもよく取れて
  いているのが微笑ましい。 母親と幼年の時代から死に至るまで人間の一生を孔雀の姿で表現したものであある。中央には
  、須弥檀、一光如来三尊(善光寺型)を祀っています。
(6) 大書院(本堂)[重要文化財]
  大書院は、明暦2年(1656)の建築。 仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから「本堂」とも呼ぶが、解体修理の際に
 発見された墨書等から、建設当時は大書院と称されたことがわかる。 寄棟造、杮葺きの住宅風建物である。 実際の寸法は
 、桁行14.7メートルに梁間10.835メートルの極上品な気の効いた書院造である。 南と東に広い縁が折矩おりがね
 曲がり、内部は、正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「
 滝の間」背後には「控えの間」がある。 建物内の杉戸の引手金具には瓢箪、扇子などの具象的な形がデザ
 インされ、桂離宮の御殿と共通したデザイン感覚がみられる。 「十雪の間」の床の間には木造慈恵大師坐
 像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊阿弥陀如来を中心とする諸仏を安置する。
  縁には軽い感じの低い高欄(手摺)を設け、竪に吹き寄せた戸板か壁で、室と縁とを仕切る。 縁の上は
 疎垂木まばらたるき木舞こまいうらの天井とするが、深い縁に立って静かに眺めると、建築と庭とが、一体となっ
 て、「日本的」な洗練された、上品高雅な良さを最高に味わうことができる。 屋根は小書院とも杮葺こけらぶ
 き
で、起むくり(上にむかって膨れる)で柔らかい感じを与え良くにあっている。 江戸時代初期のこの種の住
 宅風建築によく見られるのである。 
  内部は、十字に間仕切りされ、南は「滝の間」(十五畳、床付)、「十雪の間」(十畳、床・棚付)で北
 は十雪の間の奥に「仏間」、滝の間の奥に「控の間」があり、西には細長い「鞘の間」が取られている。 
 滝の間・十雪の間ともに、床廻りは貼付壁はりつけかべとし、その絵は探幽筆と伝えられている。 滝の間正面
 は二間にわたる床をとり、その左側は控えの間に行く襖をたてるだけであるが、十雪の間は、正面奥が仏間
 なので、襖四枚立てである。 右(東)側は間口の広い床と左に棚を設けてある。 この棚は上に天袋(襖
 四枚立ての物入)、下左に地袋、右に火灯窓かとうまどという構成で、小書院上段の間の棚と同趣の意匠になる
 、珍しいものである。 内部全体として方柱に角の長押を使った本格的書院ながら威圧的なところがなく、
 親しみやすい雰囲気である。 
  それは長押や杉戸の金具にもよくあらわしている。 長押の飾金具は、十弁の菊花に短冊型を付けたもの
 であるが、杉戸の引手金具には珍しい意匠が見られ、普通のもののほか、くびれた紐を結んだ形の瓢箪・巻
 物・扇子があり、また長い矢の姿を意匠した特殊型のも東の縁に見いだせる。 さらに滝の間と十雪の間の
 欄間「月形卍くずし欄間」この特殊な形は桂離宮笑意軒の引手と似ている。 このように、大書院の細部意
 匠には桂理宮のそれと共通したところが多い。
(7) 小書院[重要文化財]























  小書院は大書院(本堂)の東北に老化で連なっており、大書院の縁が折矩おりがねに南側と東側とに伸びて、
 小書院の縁となっている。 大書院と同じく南を正面とし、北に茶室と水屋が付属している。 桁行10メー
 トル、梁間約8.9メートル、大書院と同じく軽快な杮葺き、起むくりの屋根で、外回り板戸なども竪桟を吹き
 寄せにした同様のものであるが、屋根は廊下部分のが延びて縁上を覆い、室内部分の屋根は別に上につくら
 れているので、二重屋根となっている。 
  大書院と同時の造営であるのは意匠や材質などから知られるが、昭和27,8年の解体修理の際には「小書院
 」の墨書も見出された。 平面構成は東北の上段とその前の「黄昏の間」(7畳)は良尚法親王の居間であ
 り、最高の部屋となる。 
  黄昏の間の前室(南)が「富士の間」である。 南北に長い間取りである。 全体として大書院と同様書
 院造りであるが、大書院より、一層数寄屋風な気のきいた意匠になっている。 縁が南と東に折矩に廻って
 いるが、東側は独立柱を立てて深い軒を受け、土庇(下が土間になった庇)を形成している。 これは北の
 茶室のところまで延びるが、このために深い影を宿して一層落ち着きを増している。 縁には大書院とちが
 った。 軽妙な高欄がついている。
  内部には、上段のある黄昏の間と隣の富士の間とそれに茶室がある。 黄昏の間は南を正面とする7畳の
 室で、東北寄りに2畳の上段、その右は住宅にふさわしい形の火灯窓をもつ付書院つけしょいんとしている。 
 上段の天井は格天井ごうてんじょうだが挌縁ごうぶちは規則的な割付をせず、3,1,2本というように配置して変
 化のある構成をとっている。 上段の床も框かまちで床高ゆかだかをあげてあるから、床はいわば「上上段
 」に当たる床柱とこばしらも磨き丸太でザングリと柔らかな扱いとされている。  しかし最も特徴あるの
 は左の棚で、俗に「曼殊院棚」と呼ばれ桂理宮新御殿の「桂棚」と並ぶ名作である。 中央上と右下に物入
 れを取り、両側に三段の棚という、構成で、棚板の高さも形も違っていている。 近世以後になると室内調
 度品として置棚が発達し、貴重で珍しい材料を用いて複雑な形の棚が造られたが、この種の置棚から着想し
 て、これをつくり付け(固定式)にしたのがこの曼殊院棚であり、また桂である。 世俗一般に「三棚」と
 いって桂棚・修学院・醍醐棚を上げるが、それに準ずるものとして西本願寺黒書院のたなと曼殊院棚高く評
 価されている。 
  次に黄昏の間と富士に間の釘隠しを見よう。 これは富士山を象かたどった七宝製で、富士に霞か雲がか
 かったところを表している。 全体の輪郭は同じながら霞や雲の形はそれぞれ違っていて変化あり、またや
 まの緑の色も美しい。 このような高度の工芸作品を釘隠などの装飾に用いるのも江戸初期頃から行われた
 のである。 この、富士の釘隠のある東に面した2室を富士の間と呼び、従って、上段ある室は当院では富
 士の間のなかの黄昏の間と呼んでいる。 
  黄昏の間と富士の間との.とは四枚立て襖で間仕切られるが、その上に格子に菊花を散らした欄間がある。
 これは格子を籬まがきに見立て「籬に菊」の欄間がある。 菊花は朱漆または白漆とし、花そのものは浮彫に
 したり透かし彫りにしたりで表と裏を混え、中には八重のものもある。 
  以上の如く小書院も内外ともに優雅な数寄屋風書院で、大書院とともに江戸初期のこの種の代表的傑作で
 あり、特に桂理宮の諸殿舎と共通したところが多いのも注意すべきところである。
(8) 八窓軒茶室(重要文化財)
  曼殊院には重要文化財指定の茶室が二つあり、その一つが、八窓軒茶室である。 この茶室は草庵式の茶
 室で重要文化財に指定されている。 本勝手の席で内部は桂理宮の松琴亭茶室に似た造りとなっており、こ
 の茶室には八つの窓がある。 即ち①躙口にじりぐち上の連子窓、②その左の下地窓、④化粧屋根裏の突上窓、
 ⑤客座南側の下窓、⑥手前座の風炉先にある下地窓、⑦⑧色紙窓とよぶ二つの窓の八窓です。 窓の障子は
 石垣張と呼ばれる張り方である。 八窓は仏教の八相(御釈迦様の一生における重大な事柄をまとめたもの
 )を表すとされる。
  小堀遠州の作であるとか、良尚法親王が茶道のお相手に来ていた薮内家第二代真翁紹智と協議して作られ
 たとの伝えがあるが、確証はない。 
【茶室の構造】
  茶室は東向きに建てられ、前面の左端死に躙口にじりぐちを開けている。 内部は横長に三畳を敷、台目構え
 の点前座をつけた三畳台目の間取りで、躙口を入ると正面に床が構えられている。 床は台目(一畳の約四
 分の三の長さ)の間口の床で、床柱は釿ちょんなのはつり目を付けた赤松皮付、相手柱は雑木の皮付で、黒の真
 塗り(研ぎ出しを行わない漆塗り)の框かまちを取り合わせている。 床天井は鏡天井で、高さは他の茶室
 に比べて極めて高く七尺二寸5分である。
  床の右に続く壁面には床脇に低い給仕口、右端には茶道口(亭主の出入り口)が並んであけられているが
 、それもこの茶室の特徴の一つである。 給仕口は低くアーチ形に塗り回し花頭口であり、茶道口は鴨居と
 方立を取り付けた高さ五尺二寸三分の方立口である。 それぞれ太鼓張りの襖を一本づつ立てる。
  茶道口を出ると二畳の余りの控えの間があり、その奥の水屋5畳半に続いている。 給仕口の外には少し
 離れて2尺程度の袖壁作られているが、客から水屋が見えないように視線をへ遮るための工夫である。 炉
 は台目切、点前座と客座の境に中柱(桜の皮付)を立てて袖壁をつけ、袖壁に壁留の横木を通して、客座か
 ら点前座の道具の置合が見えるように下方を吹き抜いている。 
  点前座には袖壁の隅に二重棚を吊っていて、上棚は長く、下棚は横木の上に預けている。 上下の棚の間
 に雛束を立て、上棚の端を竹で天井から吊支えている。 この形式は雲雀ひばり棚と呼ばれている。 点前
 座の壁には前方に風呂先窓ふろさきまど(点前座の風呂の前にある窓)、脇に連子窓と下地窓がある。 この二
 つの窓は上下に中心軸をずらし、色紙散らしのように配した色紙窓である。 このような雲雀棚や色紙窓は
 古田織部が考案したと伝えられている。 
  天井は二分され、床前から点前座へかけて菰を張った平天井とし、躙口寄り東側は化粧屋根裏としている
 。 化粧屋根裏の垂木には小丸太と皮付き丸太を取り混ぜており、中央に突上窓をあけている。 壁は藁を
 散らした土壁である。 外の光に直接照らされる場所の壁色は黒く、一説には烏賊の墨を使ったのではない
 かないかと伝えられる。 一方、直接光の当たらない壁は黒くない。 それは静かで沈み込んだ光の調子が
 茶室全体に漂うよう考えられているのであろう。
  点前座の棚や窓と共に、平天井を客座から点前座へ同じ高さで張るのは織部の好みであり、躙口側の壁で
 連子窓の上に下地窓を重ねてあけるのは遠州の好んだ手法である。 また、高い床天井や、雑木の皮付丸太
 を取り交ぜるなどは貴族らしい好みである。 このように優雅な雰囲気に織部や遠州の好みを取り入れて、
 それがうまく調和している。 
【重要な窓】
  躙口右手にある窓は虹窓とも呼ばれている。 その虹窓は、障子に桟の影が写って、虹のような色が浮か
 ぶためそう呼ばれる。 光の回折現象が応用されていて、季節により、時刻により、その晴雲により、また
 外界の色の変化によって様々な色彩が現れる。 外界の新緑がまばゆい頃はその影も鮮やかであり、紅葉も
 終わった晩秋にはその色彩も鈍いようである。 虹窓の鮮やかさは、室内が暗く静寂であるほどひきたつの
 かも」しれない。 なお、突上窓は特に「月見の窓」と呼ばれたとの寺伝がある。
  八つの窓にはめられた障子の神の白さが、宮廷好みを伝えると共に、詫びに沈む室内の静寂に、一抹の明
 るさと和らぎを加える。 
  右手、南側の下地窓からは、書院の庭の一部が目に入る。 ここは広い庭の最も大切な部分である。 即
 ち瀧石を中心にした岩々や木と砂が完璧に配置された庭の中心である。 室内の有限な沈潜した雰囲気と異
 なった、静かで明るい世界がそこにある。 
【茶室の外景】
  小書院の東側の庭には、低い飛石が打たれ、躙口に至っている。 曼殊院椿のもとには正方形の手水鉢が
 蹲踞つくばいとしておかれていつ。 躙口の踏石続いて、更に二個の低い飛石が打たれ、一番奥に一段と高い
 投石がある。 これは刀掛けの踏石で、正面右端袖壁に入隅に刀掛けが設けらている。 上段には太刀、下
 段には小刀と佩刀を預ける。 この席に招かれた人々の社会的地位や身分を思わせるものである。 [曼殊院
 パンフレットより]
(9)  無窓の席(重要文化財)
  富士の間の隣にややもすれば気が付かないくらい小さな部屋があります、これが茶室「無窓の席」である
 。 京都府乙訓郡大山崎町に日本最古の茶室「待庵たいあん」がある。 千利休作と信じうる唯一の現存茶室で
 ある。 また室の広さは2畳しかなく、極小の茶室とされている。 
  この無窓の席も待庵と同じく室の広さは2畳しかない。 従って無窓の席も、待庵と並び極小の茶室にな
 るでしょう。
  無窓の席は、2通りの使われ方をしていたものと考えられる。 一つは、一畳台目(+置床)+茶室として
 。 もう一つは、黄昏の間(当院では富士の間の中の黄昏の間と呼んでいる)と富士の間でくつろぐ親王や
 客人に対し、点たてだしの茶を点前するサービス・スペース「茶立所ちゃたてどころ」として。 東側の庭園に解
 放されるように並んだ黄昏の間と富士の間に対し、2畳の無窓の席は、畳敷きの廊下を含めて西側にまとめ
 られ、客人の眼に触れないよう、使用人の働きやすさにも配慮いた機能的な設計がなされている。 
(10) 上之台所 
  高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房である。 九炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間がある
(11)  護摩堂
  唐門の南、書院の庭の西にあり、三間三間の小堂である。 屋根は宝形造ほうぎょうづくり、桟瓦葺き、寺記に
 よれば明暦、良尚法親王建立という。 両側面の桟唐戸さんからとには木瓜形もっこうがたを透かしている。 内部
 は一室、土間で六画の塼せん敷、須弥檀上に大聖不動明王の立像が安置されている。 
  本尊の行像は青黒い、憤怒の面貌で右手に降魔の利剣を持ち、左手に羂索を執り、褐色の袈裟を着、大磐
 席石の上に立ち、全身火炎に蔽われている。 この憤怒の相は悪魔降伏の姿を示し、利剣は、煩悩や邪悪な
 ものを打ち破る仏法矢知恵のこと。 羂索は、衆生を迷道に落ちいらんとすることから救い出すの標で、全
 身火炎は一切の煩悩を焼き尽くす大悲の徳相を表現したものである。 
  不動明王は本地五仏の転身といって、衆生の剛強難化の者が如来の教えを信ぜざる場合に、如来が憤怒の
 明王の姿に化現して、もし違逆すれば直ちに罰し、かならずその教えに随順せしめるという思想から出た姿
 であ;つて、不動明王は大日如来の憤怒の形である。
  この本尊仏は、鎌倉時代の作で当地に移動の時修理が行われた。 護摩堂の正面に良尚法親王の額「驚覚
  ょうがく
」がかかっている。 驚覚というのは、修法中に疲労のため、緊張をかく場合に、渇を入れると同じ
 ように、仏は常に入定し給う故に、この印明によって、行者も道場の諸仏も覚醒せしむることである。 こ
 の道場で祈願したり、修行する場合は、ただ形式のみにとらわれては」いけない。 真剣勝負で修法しなけ
 ればならないという意である。 
(12)  天満宮
  曼殊院本坊の下に池があり、池畔に天満宮の社殿と弁天堂とが南面してたっている。 天満宮社殿は小さ
 な社殿であるが、曼殊院の建築としては現存最古のもので、様式上室町末期と認められるものである。 構
 造形式は一間社春日造で、屋根は檜皮葺である。 この社殿はもと山中にあったものを明暦2年、曼殊院造
 営に伴い現在地に移したと考えられる。 
  社殿は形通り春日造で向拝中央と身舎もや正面に蟇股を入れ、向拝のは梅に松、身舎のは牡丹の写実的で
 平たい彫刻を入れていて、外形の輪郭も古調をもつ。 向拝組物部の木鼻も室町時代の渦をもつもので、向
 拝と身舎とは海老虹梁えびこうりょうで繋ぐ。 長押に打った鉄製六葉も古式をもっている。 結局、この
 社殿は割に後の変改少なく、古材を残した注意すべき遺構とみられる。 
(13) 庭園
  曼殊院の庭園は雄大な自然を表現した仏教的な枯山水で、五月にはツツジ類、キリシマツツジの赤い花が
 新緑に彩りを添えます。 秋には紅葉して山麓に華やかな雰囲気を醸し出しています。 
  大書院と小書院南面にある国の名勝、枯山水式庭園は江戸時代明暦二年(1656)の作庭である。 庭園は
 遠州好みの枯山水である。 庭の芯に滝石がある。 深山から流れた水が、滝、渓流を流れ、海へ注ぐさま
 が描かれている。 鶴島には五葉の松(樹齢四百年)があって、鶴をかたどり、松の根元にキリシタン灯篭
 がある。 これは親王が母親から頂いたもので、母親は京極高知の女であるからキリシタン信仰者である。
 また右前方の霧島つつじは五月初旬、紅に映えて見事である。
  亀島には地を這う亀の形をした松があって、その前方の島を蓬莱山といい、悟を開いた人の住む島として
 小書院廊下造りは屋形舟である。 悩みの多い、煩悩の多い人々の住む世界を娑婆の世界の人々が悟りの彼
 岸に屋形舟に乗って、枯山水の庭を航海して渡という、仏教思想が織り込まれている。 
  この庭園の中には、見逃すことのできない五つの名作石灯篭がある。 五つの石灯篭とは、五基八燈の灯
 篭といって、釈尊が五十年の説法を五時、八教に分けて説いたものを採り入れ、灯明の光が八つに燈火とな
 る。 正面左の石灯篭には三つの火が入り、正面右に石灯篭に二つの火が入り、合わせて八燈となる五時と
 は、釈迦尊一代の説教を年次の上から五期に分類したもので、天台宗では、華厳時、阿含時(鹿苑時)、方
 等時、般若時、法華涅槃時の五期に分類したものです。
 ① 華厳けごん時 釈迦尊は、30歳の時、中インド・摩訶陀国まかだこくの伽耶城がたじょうに近い菩提樹のもとで悟
  りを開いた後、法慧・功徳林・金剛憧・金剛蔵の四大菩薩や大乗根性の凡夫(平凡な男)に対し21日間に
  渡り、華厳教を説示した、この時期を「華厳時という。
 ② 阿含時(鹿苑ろくおん時) 釈迦尊は、華厳の教えを説示された後、菩提樹の下を発って波羅奈国はらなこく
  の鹿野苑ろくやおんに赴いて、阿若橋陣如あなきょうじんにょ(釈迦の最初の弟子)等の5人の比丘びく(僧)に対し
  て方を説き、その後、12年間にわたり16大国に遊化ゆげ(僧が諸所に出かけて人々を教化すること)しまし
  た。 この期間、釈迦尊は阿含経を説かれました。 
  従ってこの期間を「阿含時あごんじ」といい、また鹿野苑で説き始めたことから「鹿苑時ろくおんじ」とも言い
  ます
 ③ 方等時 方等時ほうとうじとは、釈迦尊が阿含時の次に説法された16年(8年説もある)をいい、ここ
  では、「解深密教げじんみっきょう」「楞伽経りょうがきょう」「勝鬘経しょうまんぎょう」「阿弥陀経」「大日経」等、数
  多くの権大乗の教えが説かれている。 
 ④ 般若時 般若時とは、方等時の次に説法された14年間(22年説あり)をいいます。
 ⑤ 法華・涅槃時 釈迦尊は、72歳より、8年間摩訶陀国の霊鷲山りょうじゅせん及び虚空会こくうえにおいて
  「法華「法華経」を説かれ、さらに涅槃の直前の一日一夜、沙羅林さらりんにおいて涅槃経を説かれた。
  この時期を法華・涅槃時という。
  また「八教」は「化法けほうの四教」と「化儀けぎの四教」とに分けられます。 このうち「化法の四教」と
 は釈迦尊の教えの内容を分類したもので、蔵ぞう教・通つう教・別べっ教・円えん教の四つをいい、「化儀の四教
 」とは衆生を化導する方法を分類したもので、頓とん教・漸ぜん教・秘密教・不定ふじょう教の四つをいいます。
  庭園には見事な建築群のほか、手水鉢・石灯篭等変化のある意匠のものが、庭園と一体になって興味をも
 りあげている。 小書院の縁先には名高い「梟の手水鉢」がある。 しかし、手水鉢として使うわけでない
 。 秋の名月の頃に月の光をこの手水鉢に反射褪せ、部屋の天井や壁に月を取り込むという趣向だ。 その
 ため手水鉢は少し傾けている。 下の台石は亀、傍の石は鶴を象っている。 これも桂理宮の流れを系統し
 たのではなかろうか。
  桂離宮の古書院から池に向かって月見台という施設が張出している。 中秋の名月の晩、満月はこの台の
 正面にのぼる満月は、庭園にある池にその姿を落とし鑑賞した。 当時の貴族は、夜空に浮かぶ満月を直接
 見るよりも池に映る月を好んだ。 
  曼殊院は、親王の住持し給う寺院であるから、江戸初期以降においては、公家の趣味が厚く塗り込められ
 ていて、武家風のものとは異なった高雅な雰囲気を漂わせている点も、その特徴の一つである。 また親王
 の御意向が、庭園の隅々まで具体的に折り込められて、どことなく雅やかな意匠となっている。 本庭が江
 戸初期の作品として、一般の禅宗寺院庭園の意匠と異なるのは、そういった気配の濃い意匠となっているて
 んである。  
  石組などは、さすがに力強い表現となっているが、全体的な意匠が典雅であるなは、意匠の全体的な方針
 として、そういった方向づけが行われたからであろう。 

     文化財
(1)不動明王像(国宝)
  曼殊院には、天台密教特有の仏像・図像・聖教・記録が今日に至るまで多量に保存されており、青蓮院と
 並ぶ台密(天台宗密教)文化の一大宝庫である。 
  青蓮院の青不動、荒野山明王院の赤不動とともに三不動と称される曼殊院の黄不動は、三井寺に今も秘仏
 として人目に触れることのなく厳重に保存されている。 智証大師円珍が感得した黄不動立像(鎌倉時代・
 重要文化財)を平安時代後期に写したもので、画像としては原本に次ぐ古さと平安後期の仏画特有な美しい
 色彩をほこっている。 
  黄不動の像容は極めて特殊なもので、異形の多い不動明王像の中にあっても、ひときわ異彩を放っている
 。 まず身色は、一般的な蒼黒色とは異なり、智証大師の見た金入を写して黄色であり、それによって「黄
 不動」という通称を得ている。 頭髪は一索髪を垂らさず、右旋して螺をなす巻き毛である。 顔は真正面
 を向き、両眼を張裂けんばかりに見開き、通例のやや顔をそむけて、左眼をすがめにした天地眼てんちがん(右
 目は上に、左目は下に)とは異なる。 口の両端に牙を上向けに出すのも通常上下に出すのとは違っている
 。 身部に眼を移すと、上半身裸体で、条帛じょうはく(インドの制服)などを身にまとわない。 またその体
 つきは、童身ではなく筋骨隆々たる青年の身体である。 裳を高くかかげ、膝頭を露わにするところも何か
 若々しい活発さを発散している。 身辺に目を向けると、頭光のみで通常のごとく遍身に火炎を這わせない
 。 足元に盤石はなく、虚空に直立するという点はいかにも夢想によって描いたということをおもわせると
 ころである。 
  智証大師が黄不動像を感得したという記録は大師没後十一年目の延喜2年(902)三善清行が著した天台宗
 延暦寺座主円珍伝に見出される。 それによれば承和5年(838)円珍、25歳の冬、円珍が石龕において座禅
 を修している間に、金色の不動明王が形を表し、「我、汝の法器を愛する故に常に汝の身を擁護せん」と述
 べ、その形を熟視するに、「魁偉奇妙、威光熾盛、手提刀剣、足蹈虚空」というもので、大師は即刻、画工
 に図写せしめたと伝えられ、その像は、「今楢有之」と記されている。 
  曼殊院本は園城寺の原本を忠実に写したものであるが、自ら時代の差が表れている。 園城寺本のもつ力
 強い描線と的確な陰影は既に見ることが出来ないが、新たに美しい彩色と足下に岩座を見ることができる。
  黄不動像は虚空に現じたものであり、それにわざわざ岩座を配するにはどのような意味があるのであろう
 か。 
(2)是害房絵巻(重要文化財)
  この両巻の絵巻は内容もユーモラスであるが、画風も素朴ながら雅味があり、相まって好ましい小巻とな
 っている。 是害房ぜがいぼうとは大唐の天狗の首領である。 日本の僧と法力くらべをしようと渡来した、比
 叡山に登途中に出会う、余慶律師、飯室僧正などの高僧に次々と懲らしめられ、命からがら逃げ出すという
 のが粗筋である。 その主旨は天台宗の偉大さをわかりやすく示すことにあるが、下巻の半分を割いて、傷
 ついた是害房が、湯治する場面や是害房の帰国に際して送別の宴が張られ、天狗たちが歌会をする場面に充
 てられており、大衆の興味を最後までそらさず、風雅な結末が付けられている。 
  この話は平安時代の古今物語巻20に収録されている。 曼殊院本には長文の奥書がある。 末尾が切られ
 ていて確認できないが、素人風ながら鎌倉時代の大和絵の余香が伝わる。
(3)草虫図(重要文化財) 116.×56.4m2
  両幅とも中央にあでやかな花を大きく描き、それぞれ上方に花木が枝をのぞかせ、下方には両隅に可憐な
 草花が置かれ、その間に虫を描き、花のまわりに胡蝶が乱舞するという全く同一の構成をとっていることは
 、本図が極めて職業的な画家によって描かれた物であることを示している。 本図に「毘陵」と「呂氏敬甫
 」の二印がみられることから、中国において南宋以来、草虫図の伝統を誇り「天下奇」、「天下無」、「妙
 天下」と詩文にも謳うわれた常州は毘陵の数多い草虫図の中でも、呂敬甫の作として知られる。
(4)竹虎図(重要文化財)180.4×87.3m2
  曼殊院の玄関の障壁画十一面の内の四面である。 曼殊院の建物は明暦2年(1656)に建てられた建築物
 が中心であるが、玄関は御所の北側の旧地に建てられたもので、襖絵も同時に移
されたものと考えられる。
  画題は竹林の群虎というもので、虎と豹とが同一画面に描かれるのは当時の習いである。 こ
 の雄壮な画題は古くからとりあげられ、大徳寺の聚光院には狩野永徳(15431590)の父松栄の描いたもの
 が伝わる。 それは水墨画である。 金碧画としては本図が最も古い例と言えよ
う。 おそらく桃山時代後
 期の作であろうが、この時期に近い竹虎としては禅林寺に長谷川派
の作と考えられる遺品がある。 
  曼殊院の竹虎図には動きがあり、特にここに掲げる場面の虎がが、噛む竹竿が、襖四面に渡って大きくし
 なっているところは、いかにも桃山時代らしい豪放さに溢れている。
(5)慈恵大師像 像高 84.2
  比叡山中興の祖とたたえられる慈恵大師像は諱いみなを良源といい、延喜12年(912)9月3日に近江国浅井
 郡虎姫(長浜市)に生まれた。 その山際に大吉寺という、一堂がある。 大師の母が嗣子無きを憂えてこ
 の寺に詣で、その夕の夢に海中に坐して天上を向くに、日光が懐に入るという荘厳な景を見て、孕んだのが
 大師と伝えられる。 幼児より霊童の兆があったので仏道を修することを勧められ、
12歳の時に台嶺に登り
 、理仙大徳に師事し、
17歳にて出家を遂げ、受戒前に師が亡くなったため、尊意和尚について登壇して戒を
 受けた。 その後、良源の博学の聞こえが天下に満ちたのは、
26歳の時興福寺維摩会の論議に4人の一人とし
 て出仕し、その才弁と嘉声を称されてからである。 良源はこの時に摂政藤原匡平の知遇と結縁お得、更に
 忠平の没後はその子、師輔もろすけの帰依を受け、その強力な庇護を背に、宮廷にも地歩を占め、康保3年
 (
966)には第十八世天台座主に補された。 そして藤原氏の豊富な財力を得て延暦寺の頭領として二十年間
 に一山の大半の堂塔を造営し、伝教大師の再来と讃えられた。 しかし、その治山の間に一山の間に、慈覚
 門徒として智証大師門徒との対立を激化させ、寬和元年(
985)に没後、8年目に智証門徒は山を下りにいた
 った。 また藤原師輔の子、尋禅を弟子にして、次の座主にするなど叡山の俗化をも引き起こし、後世、そ
 の功績を評価するに功罪半ばする。

  しかし、大師は、正月三日に没したことから元三大師とも通称され、民間の信仰も広く受けているように
 、その肖像の造像は極めて盛であった。 現存する物では、建保6年(
1218)の神戸市現光寺像が最も古く
 、その他重要文化財に指定されているものだけでも
11体にのぼる。 
  曼殊院の大師ぞうには、長文の墨書がある。 それによれば、栄盛なる僧は、慈恵大師の本地仏観音菩薩
 の三十三応身に因んで三十三体の大師像の造像を発願し、この曼殊院は九体目と
いうことになる。
  栄盛の造像になる大師像は比叡山西谷本覚院、愛知県真福寺像等が残っている。 文永11年(1274)に造
 られた真福寺像の銘文では、三十三体が六十六体に増え、日本六十六ヵ国に安
置するべく計画がひろがって
 いる。 
  大師の相躯はすこぶる特徴的で、額が狭く眉が太く、眼はつりあがって大きく、顔の造作が大づくりで、隆々たる体躯を
 もつというように、極めて男性的である。 いかにも精力的な相である。 本体の衣紋は鎌倉彫刻特有の複雑な彫り口で、
 肘の左右に垂れた袖が知に及んで厚くわだかまる点など、重々しい印象を与えて、像主の威厳をうまく表現し得ている。
(6)古今伝授資料(重要文化財)
  古今集は最初の勅撰和歌集でり、後世まで和歌を詠む基本になるものとして尊ばれ、室町時代に入って、前代より歌学の
 蓄積を背景に密事口伝が生じ、それを特定の人のみに伝える古今伝授ということが行われるようになった。 従来、八条宮
 智仁親王が細川幽斎から受けた古今伝授資料が桂宮家廃絶とともに、宮内庁書陵部の保管になったものが知られていたが、
 ここ曼殊院ひも智仁親王の兄、良恕親王が伝授されたものが伝えられており、旧桂宮家本より古態を伝えるものとして貴重
 である。 
(7)教訓鈔28.8×903.4m2
  曼殊院には楽書も伝えられている。 教訓鈔及び続教訓鈔は、南都楽所舞人の手になる鎌倉時代の楽所で、曼殊院本はそ
 の最古写本である。 従来知られているが、文保元年(1317)に書写された巻十の一巻のみであるのにたいして、曼殊院本
 は教訓鈔及び続教訓鈔、その他を両面にして十巻が伝えられている。
(8)立花図58×42m2
  唐絵や唐物を飾り、花を幾瓶も立てる花会は、室町時代に盛んになり、立阿弥・文阿弥等、立花の名手を輩出した。 立
 花に携わる者の多くは、時宗の僧侶で、阿弥号を有する者が多かったが、長禄・寛正(1457~66)頃に六角堂の通称でよく
 知られている天台宗頂法寺の執行、池坊専慶が出て、人気を得、今日の池坊流立花の礎を築いた。 室町時代の末から花伝
 書と言われる理論書がいくつか書かれるようになったが、それとともにその時々の立花を記録することが行われるようにな
 った。 曼殊院には池坊と共に二世専好(?~1658)の立花図がまとまって保存され、そのうちのいくつかは他所に見られ
 ないもので特に貴重である。 二世専好は元和初期から明暦頃にかけて活躍し、特に後水尾院の支持を得て、そのサロンを
 中心に活発な立花を行った。 寛永十四年(1637)にはその功をもって法橋に叙せられた。
(9)花園天皇宸翰御消息33×95.5m2 
  元徳元年(1329)8月30日に崩御した後深草院後宮玄輝門院百ヶ日の一品経供養本尊、普賢像のことについて第十七世曼
 殊院主慈厳大僧正に問い合わせた書状である。 花園院宸記によれば元応2年(1320)5月十九日に父君、伏見天皇の千ヶ
 日の小仏事の本尊、普賢像を故院の御衣を絵絹えぎぬ(絵用薄地の絹織物)として。自身で墨書をし、時の絵所預、高階隆
 兼に彩色させたことが誌されているが、「性本自好後素也」と述べるほど絵を好まれた花園天皇が、もちまえの好学心を発
 揮されて、細々と本尊の彩色や、顕教と密教との供養で本尊がどのように異なるかを問い合わせている。 よく人柄の現れ
 た書状である。 
(10)慈円僧正消息 29.7×90.6m2 
  慈円僧正は九条兼実の弟で、十一歳で天台僧となり、天台座主を四度務めた。 新古今時代の歌人としても名高く、この
 書状には自詠六首が含まれて(11)紺紙金泥般若心経26.3×107.2m2  
  この心経を執筆した後奈良天皇は、皇室が最も衰微の極に達した戦国時代に皇位に就いたため、大永6年(1525)の践祚
 後、10年目にして大内氏などの諸大名の援助によってようやく即位式を挙げることが出来たとかいう。
  即位後は、兵乱の他に天災・飢饉・病気が相次いだため、天皇は心経を度々書写して世の静謐を祈った。
 天文九年の大疫流行に際して書写された心経は、醍醐寺に納められたが、その奥書には
今茲天下大疫万民多
 陀放死亡、朕為民父母隠不能覆甚自位痛焉、竊写般若心経一巻(下略) とあって、天皇としての使命感を
 もっていたことが推測される。 
  天文10年には全国六十六ヵ国に心経を納めることを発願され、天文14年までに河内、伊勢、尾張、三河、
 遠江など十六ヵ国に下向の機械のある公家に携行させて書写時に納めさせた。 天文14年以降は信濃国の他
 、七ヵ国のために書写され、曼殊院に伝えられたものは安房国のために書写されたものである。 一度は安
 房国に納められたのが、何の由縁か曼殊院に入って現在に至っている。 
(12)後柏原天皇宸翰後土御門 33.3×1278.0m2 
  三十四紙に渡って書かれた「霞」以下八十八の題詠による和歌百九十六首に対して飛鳥井栄雅(雅親)が
 合点をして施したものである。 合点を得た和歌はそれぞれ「御製」「勝仁」の読み人の名が明らかにされ
 ているが、その数は奥書に「御製三十二首、勝仁三十四」とあるとおりである。 勝仁とは後柏原天皇の名
 である。 このことは本詠草が後柏原天皇が践祚した明応9年(1500)以前になったものである。 
(13)源氏物語 32.4×25.8m2 
  藍色の表紙に薄紅の題簽だいせんを貼り、「よもきふ並一みをつくしの」「うすくも十四」「せきや
 並二みをつくしの」の外題が書かれ、装幀そうちょうは二ヵ所を紐で閉じたつ綴葉装てっちょうおうである
 。 本文の系統は河内の守光行・親行父子によって校訂された河内本の系統に属する。 奥書にはそれぞれ
 和歌一首と「耕雲山人明魏(花押)」の署名が記されている。 
  耕雲山人とは藤原師賢の孫、長親の号で、明魏は法名である。 南北朝期には南朝方に属し、和歌を宗良
 親王に学んだ。 後醍醐天皇に信任の厚かった三光国師孤峯覚明に師事し、南禅寺禅西院に住し、正平16年
 (1361)に没した。 晩年には足利義教が名を聞き及んで礼をつくし、和歌に絶妙なることを讃えた。 出
 家後に耕雲口伝という歌書を残した。 歌集には耕雲千首がある。
(14)論語総略 29.1×512.7㎝2 
  本書はわが国で編まれた論語である。 著者・著述年代ともに不明である。 本写本にも奥書が見られず
 、書風から鎌倉時代のものと考えられる。 書状の紙背を料紙として用いている。 巻首に「論語総略」と
 題し、その下に二行にわたって「大綱、題名、本之同異、註者姓名、二十篇目録并篇次大意」と本書の項目
 を示す。


参考文献
*古寺巡礼京都(22)曼殊院 著者 山口園道   発行所 株式会社 淡交社
*古寺巡礼京都(22)曼殊院 著者 杉田博明   発行所 株式会社 淡交社
*中世の寺院と都市・権力  編集者 菊池大樹  発行所 山川出版社
*曼殊院門跡        編集者 曼殊院門跡 発行所 





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