京都・朱雀錦
  (63)「曼殊院関連北野天満宮


北野天満宮本殿
所在地 京都市上京区馬喰町
主祭神 菅原道真公、中将ちゅうじょう殿(道真公の子息)、吉祥女きっしょうじょ(道真公の夫人)
社格等 二十二社・官幣中社・別表神社 


               概要
 菅原道真公(菅公)を祀る北野天満宮は全国に鎮座する天満宮・北野神社などの総本社である。 古くは皇城鎮護の神として朝廷の尊崇が篤く、やがて藤原氏や武家の崇敬を集めるとともに、さらに庶民信仰として全国に広まり、江戸時代には、寺小屋に祀られ、現在は学問の神様として人気がある。 ほかにも和歌や農耕、芸能、厄除など、その神徳は幅広い。 春が近づくと、道真公がこよなく愛したという梅の花が咲き誇り、境内では神使の牛たちが静かに参拝者を見守っている。


               歴史
 一、藤原氏
(1)藤原良房
 中臣鎌足は、大化の改新の功により天地天皇から「藤原」の姓を賜った。 しかし、鎌足の嫡男不比等は「藤原」姓を名乗るは許されたが、他は許されず中臣姓を名乗った。 奈良時代、藤原氏は、南家、北家、式家、京家に分かれが、やがて政争や一族の反乱で京家、南家、式家は、平安前期には衰退した。
 北家の藤原良房(804~872)は、嵯峨天皇に深く信任された優秀な廷臣で、左大臣に昇った冬嗣の次男として生まれた。 選ばれて嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁される。 当時、天皇の皇女が臣下に降嫁することは禁じられていたが、潔姫は既に臣籍降下していたためその既定の対象外であったが、それでも異例であった。 妹の純子は皇太子・正良まさら親王(後の仁明天皇)の妃であり、道康親王を生んでいる。また良房は父に引き続き嵯峨上皇と皇太后・橘嘉智子に深く信任されていた。 
 仁明にんみょう朝に入ると、天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて急速に昇進する。 天長10年(833)従五位上、同年末従四位下・左近衛権中将、翌承和元年(834)参議に任ぜられ公卿に列す。 承和2年(835)従三位・権中納言、承和7年(840)中納言と順調に昇進を続けた。
 承和9年(842)7月15日嵯峨上皇が崩御。 その2日後の17日仁明天皇は恒貞皇太子擁護派の伴健岑とものこわみね、橘逸勢たちばなのはやなり、その一味を逮捕した。 伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、伴健岑は隠岐、橘逸勢は伊豆に流罪となった。 恒貞親王は事件とは無関係であるとしながら責任をとらせ皇太子を廃し、道康親王が皇太子となった。 これが承和の変で、藤原氏による最初の他氏排斥事件である。
嘉祥3年(850)に道康親王が即位る(文徳天皇)。 良房は潔姫が生んだ明子あきらけいこを女御にいれた。 同年、明子は第四皇子惟仁これひと親王を生み、わずか生後8カ月で直ちに立太子させた。 これは前例のないことだった。 
 嘉祥4年(851)正二位、斉衡4年(857)太政大臣を拝命し、従一位に進む。 
 天安2年(858)文徳天皇崩御し、良房は9歳の惟仁親王を即位させた(清和天皇)。 
「公卿補任くぎょうぶにん」(朝廷の歴代の職員禄)ではこの時に摂政に就任して貞観6年(864)清和天皇の元服とともに、摂政を退いたとするが、正史である「日本三代実録」の清和天皇即位の記事には摂政に関する記述がないことから、良房は太政大臣として天皇を後見したと考えられている(当時、太政大臣の職掌には摂政と同様に天皇の後見役が含まれており、当時皇族しか就けなかった摂政の職務を太政大臣として行った可能性がある。  両者の職掌が明確に分離されたのは基経の時代である。)。 清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を終始深く信任していた。 
 貞観8年(866)に応天門の変が発生した。 大納言伴善男とものよしおと左大臣源信みなもとのまこと(嵯峨天皇の七男)と不仲であった。 貞観6年(864)伴善男は源信に謀反の疑いがあると言いたてたが、これはとりあげられなかった。 
 貞観8年(866)閏3月10日応天門が放火され炎上する事件がおこった。 朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。 程なく、伴善男は右大臣藤原良相よしみに対し源信が犯人であると告発する。 応天門は大友氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏を呪って火を付けたものだとされた。 藤原良相は源信の捕縛を命じて兵を出し、邸を包囲した。 参議藤原基経はこれを父である太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。 源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げた。 
 8月3日に備中権史生びっちゅうごんのしょう・大宅鷹取おおやけたかとりが、応天門放火の犯人は伴善男・中庸なかつね親子であると訴え出る。 鷹取は応天門前から善男と中庸、雑色の紀豊城の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。 
 天皇は勅を下して大納言南淵年名らに伴善男らの取り調べを命じた。 伴善男、中庸、生江恒山、伴清縄らが捕えられ厳しく尋問されるが(杖で打ちつ続ける拷問を受けた可能性もあり)、彼らは犯行を認めたなかった。 しかし、その後の取り調べで、善男に対し、「中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男も観念し自白したという。 9月22日に朝廷は伴善男らを応天門の放火犯人であると断罪して、死罪、罪一等を減じて流罪となり財産一切を没収された。 首謀者として伴善男は伊豆、伴中庸は隠岐、紀豊城は安房への流罪となった。 また首謀者の親族8人も連座して流罪となった。 
 この事件により左大臣源信は謀反の疑いをかけられ、右大臣藤原良相は大臣邸を包囲するという失策を演じ、このため両大臣は邸に籠り出頭せず政局は混迷した。 清和天皇は元服したとはいえまだ17歳と若すぎた。 この年の8月19日、清和天皇は良房に「摂行天下之政を摂行せしむ」とする摂政宣下の詔を与えた。 これが人臣最初の摂政である。
 この事件は謎の多い事件である。 大宅鷹取が事件発生してから5か月後に訴えたのも不自然である。 この事件をうまく利用した良房の陰謀でなかったかとの説がある。 いずれにしても貞観8年(866)に起きた応天門の変で、大納言伴善男は失脚し、事件に連座した大伴、紀氏の勢力は宮中がら駆逐されてた。 
 ともあれ、ここに古代からの名門大伴氏(821年以降、大伴皇子の名を避けて伴氏と改める)は中央政界から脱落し、藤原良房は藤原氏全盛時代の基礎を固めたのである。
(2)藤原基経(836~891)
 藤原基経は、中納言藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいない叔父良房に見込まれ養嗣子となった。 
 貞観8年(876)、応天門の炎上に際し大納言伴善男が左大臣源信を犯人であると告発し、右大臣藤原良相が左近衛中将であった基経に逮捕を命じるも、基経はこれを怪しみ養父の良房に告げ、良房の尽力によって信は無罪となった。 その後、密告があり、伴善男が真犯人とされ、流罪となり、連座した大伴氏、紀氏が大量に処罰され、これら上古からの名族へ大打撃を当て得た。 同年従三位に叙し、中納言を拝した。
 貞観12年(870)大納言、貞観14年(872)右大臣を拝す。 同年摂政だった良房が薨去、代わって朝廷において実権を握った。 基経の実妹高子は清和天皇の女御で、第一皇子の貞明親王を生んでいた。 翌年従二位に叙される。 
 貞観18年(876)清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)。 まだ9歳と幼少であったため、良房の先例に従い新帝の叔父である基経は摂政に任ぜられた。 元慶4年(880)太政大臣に任ぜられる(同年、摂政を改め関白となると「公卿補任」などにあるが、正史の「日本三代実録」にはない)。  
定省職を申し出るが許されなかった。 その後、辞職は辞職が認められないとみるや、朝廷への出仕を停止し、自宅に引き籠ってしまった。 基経が3度目の辞表を提出中に天皇の騒動がおきたのである。 
 元慶7年(883)11月、宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益まさるが殺される事件が起きた。 それが本当に殺人事件なのか、あるいは過失致死なのか、また犯人も不明とされたが、宮中では、陽成天皇が殴り殺したとの噂されている。 この事件の前後、馬好きの陽成天皇は厩を禁中につくり、卑位の者に世話をさせ。飼っていた事実が明らかになった。 基経は宮中に入り、天皇の取り巻きと馬を追放した。
 元慶8年(884)、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇の第三皇子の時康親王を新帝と決めた。 時康親王の母は、藤原総継の娘で、基経の母の妹で、基経と時康親王とは従弟にあたった。 
 公卿を集めて天皇の退位と時康親王の推戴を議した。 公卿会議の決定を以て陽成天皇に退位をせまった。 孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。 
 光孝天皇は擁立に報いるため、太政大臣である基経に大政を委任する詔まで発した。 これをいわゆる「実質上の関白就任」とよぶこともある。 しかし、天皇はすでに55歳でだった。
 仁和3年(887)、光孝天皇が重篤に陥ると、基経は第7皇子の源定省さだみを皇嗣に推挙した。 定省は天皇の意中の皇子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。 もっとも定省は光孝天皇が即位する以前、尚侍しょうじ(天皇の側近くに使える女官職)を務めた基経の妹淑子の猶子として養育されており藤原氏と無関係ではなかった。 臣籍降下した者が即位した先例がないため、臨終の天皇は定省を親王に復し、東の宮となし日に崩じた、定省は直ちに即位した(宇多天皇)。
 宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねることとし、左大弁橘広相ひろみに起草させ「万機全て太政大臣に関白し、しかるのちに奉下すべし」との詔をする。 関白の号がここで初めて登場する。 基経は儀礼的に一旦辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「よろしく阿衡の任をもって郷の任となすべし」との詔をした。 阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文書は博士藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経は政務放棄してしまった。 
 問題が長期化して半年にもおよび政務が渋滞してしまい宇多天皇は困り果て、真意を伝え慰撫するが、基経は納得しない。 結局、広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布することで決着がついた(阿衡事件)。 これにより、藤原氏の権力が天皇より強いことを改めて世に知らしめることになった。 基経はなおも広衡を流罪とすることを求めるが、菅原道真が書を送り、諫言して納めた。 この事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用するようになる。 
(3)藤原時平(871~909)
 藤原基経の長男として生まれる。 仁和2年(886)16歳で元服する時平に対して、光孝天皇は宮中で最も重要な仁寿殿で式を執り行わせ、自ら加冠の役を果たし、この少年に正五位を授ける。 その告文は学者で知られた参議・橘広相が起草した。 
 翌仁和3年(887)正月には早くも従四位下・右近衛権中将に叙任され、8月に宇多天皇が即位すると、時平は蔵人頭に補せられる。 天皇は先帝引き続いて基経に大政を委ね初めて関白に任ずるが、その詔にあった「阿衡」の文字を巡って紛糾。 最後は基経に自らの誤りをみとめさせる詔をださせて、藤原氏の権勢をしめす(阿衡事件)。 だがこの事件が宇多天皇と藤原氏との間でしこりとなった。 
 関平2年(890)従3位と越階昇叙され20歳で公卿に列した。 関平3年(891)父基経が死去するが、時平まだ21歳若年のため摂関はおかず、宇多天皇の親政となった。 また、藤原氏の長者は叔父の右大臣藤原良世よしよが任ぜられた。 天皇は時平を参議とするが、同時に仁明天皇の孫である源興基おきもとを起用、それ以後も源氏を起用することで藤原氏を牽制した。 そして寛平5年(893)時平とは血縁関係のない敦仁あつぎみ親王を東宮に定め、時平が天皇の外戚となる道を封じた。 同年天皇は菅原道真を参議に起用した。 しかしながら藤原北家の嫡流である時平が排斥されることはなかった。
 寛平9年(897)宇多天皇は譲位し敦仁親王即位(醍醐天皇)が即位した。 醍醐天皇は、権大納言の官職にある道真を起用して時平ともに内覧を任せた。 またこの年に、前年の藤原良世の引退によって空席となった藤原氏の長者に時平は補されている。 昌泰2年(899)時平は左大臣に任ぜられるが、同時に道真の右大臣となり太政官の首班に並んだ。 
 学者の道真と貴公子の時平は気があわなかった。 時平は情に任せて決裁に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて、対立するようになる。 道真は後援者である宇多天皇をしきりに訪ね政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。 これを知った時平の心中は穏やかではなかった。 一方、次の醍醐天皇と時平はとは信頼関係が構築されており、宇多法皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれる。 
 延喜元年(901)時平は大納言源光と謀り、道真を讒言ざんげんした。 醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰員外師に左遷した(昌泰の変)。 道真は2年後に大宰府で病死した。 
時平と道真との確執については、個人的な嫉妬しっとのみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を」摂ろうと時平との政治改革をめぐる対立にもとめる意見がある。 
 延喜9年(606)時平は39歳の若さで早逝そうせいした。 そのため、道真の怨霊による祟りと噂されている。

 二.菅原道真(845~903)
(1)菅原氏の起り
 菅原氏はもと土師はじ氏といい神代以来の名族と伝えられている。 土師氏の祖先は天穂日命あまのほひのみことで、天穂日命の14代の子孫に野見宿禰のみのすくねがいました。 
 昔、第11代垂仁すいにん天皇の時には古代の風習が残っていて凶事の場合の葬儀では、殉死者を生きながら埋葬する習慣ありました。 たまたま皇后が薨去れ、天皇はその葬礼を如何にする科群臣に尋ねた。 多くの群臣は、従来通りと答えらが、宿根は殉死の風習は人生にそむき、国を益し人を利する道ではないことうを奏上し、土師300人を指揮して、埴土はつち(粘土)をもって人や動物等を作って献上しました。 天皇は喜んでこれをもって殉死の人にかえました。 これが埴輪の始まりで、野見宿禰は土師器の製作を世業とする豪族であったが、仁徳天皇から改めて土師はじ連姓をたまわった。 
 また、野見宿禰は力士の始祖とされています。 大和の地に蹴速という強力の人がおり、並びなき天下の力士を誇っていました。 天皇はこれを聞き、蹴速に匹敵する者はいないか探し求めたところ、出雲国に野見宿禰という勇士がいた。 垂仁天皇は出雲国から野見宿禰を召喚し当麻蹴速と相撲を取らせた。 蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏みくじいて勝った。 天皇は蹴速が持っていた大和国当麻の土地を野見宿禰に与え、野見宿禰は以後天皇に仕えた。
 土師氏は、桓武天皇の時、姓かんばねの改姓を願い出てた。 土師氏は三つに分かれ、大枝おおえ(大江)朝臣、秋篠あきしの朝臣、菅原すがわら朝臣の姓が許された。
(2)三代の父祖
 菅原古人ふるひと(750~819)、は道真の三世の祖即ち曾祖父に当たる。 古人・道長ら一族15名が居住地大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓を願いでこれが許された。 延暦9年(791)には菅原朝臣の賜姓しせいを受ける。 延暦21年(802)遣唐使に随って唐に渡り、延暦24年(805)帰国。 宝亀10年(779)外従五位下となり、天応元年(781)従五位下と外位げいから内位に昇進した。 下位とは中央貴族に与えられる内位ないいに対し地方豪族や渡来人等に与えられる。 外従五位下は外位の最高位であり、五位下(内位)との間に大きな壁がある。 古人が内位に上がったことは菅原下が中央貴族の受けていることを意味する。 官位は従五位下で内位にはいっている。 あったが、学問に優れ文書博士・大学頭を歴任し、天皇の側に仕えて学問の教授をする侍読じどくを務めている。 
 古人には四人の男子がいた。 長男道長の官位は従五位下と内位に入っているが、道真の系図には記入されていない。 道真直径の祖父は、古人の第四子清公きよみである。 
 菅原清公きよみ(770~842)は少年時代より優秀であった。 延暦3年(784)15歳の時、東宮に侍して東宮の諮問に答える約となった。 20歳で文章生に合格し、延暦17年29歳で文書得業性(秀才)に合格し、大学少允だいがくしょうじょう(従七位上)を振出しに官途についた。 同21年(802)遣唐判官となり、延暦23年(804)空海、最澄と共に唐に渡り、延暦24年(805)帰国して従五位下、大学助に叙任される。 弘仁9年(818)には朝廷における儀式や服装が唐風に改め、宮殿、院堂、門閣の名を唐風にかえて新しい額をかかげた。 これは嵯峨天皇の唐風模倣の政治を示すものとして有名な事件であるが。 これを主唱し推進めた者は、実は清公であった。 承和6年(839)従3位に叙せられ初めて公卿の列にはいった。 その年は老病で歩行困難のため、牛舎に乗ったまま南殿の大庭の梨の木の下まで進むことが許された。 承和9年(842)10月、文書博士をもって薨じた。 時に73歳であった。 
 清公には四人の男子がいた。 そのうち、第三子の善主よしぬと第四子是善これよしとが優れていた。 善主は聡明で容姿麗しく弁舌さわやかであった。 文書生から弾正少忠となり、承和の遣唐使判官となって唐にわたった。 祖父子三代相次いで遣唐使を出したことになる。 帰朝後は諸官を経て勘解由かげゆ次官・従五位下で卒した。 50歳であった。 学問の上では父清公の後を継いだのは第四子の是善である。
 菅原是善これよし(812~880)もまた幼少より聡明であった。 弘仁年間の末に11歳にして召されて殿上侍し、嵯峨天皇の前で書を読み詩を詠んだという。 承和2年(835)文書得業生となり、承和6年(839)対策に及第して従6位下から正6位上と三階級特進した。 大学允・助・大内記を経て、承和11年(844)従5位下に叙爵じょしゃく(貴族位になる)。 承和12年(845)文書博士に任ぜられる。 後皇太子・道康親王の東宮学士となる。 
 嘉祥3年(850)道康親王の即位に伴い二階級昇進して正五位下に叙せられる。 文章博士を務める傍ら大学頭・左京太夫・加賀権守等を兼ね斎衡2年(855)には従4位下に叙せられ、貞観2年(860)には従4位上に昇級、貞観14年(872)には参議に任じられ公卿に列せられた。 貞観15年(873)正4位下、元慶3年(879)従3位。 元慶4年(880)8月30日薨去。 享年69歳、最終官位は参議従3位行刑部卿。
 3位に昇ったのは父と同じであるが、父の任じなかった参議を長く務めた。 しかし、彼の本領は学者・文化人であった。 著書には「東宮切韻」10巻、「銀牓輸律」10巻、「会分類集」70巻、「家集」10巻などの多数にのぼる。
 是善には三子があり、道真は三子でる。 兄たちの名は伝わらず、早く亡くなったものとおもわれる。
(3)若き時代の菅原道真
 菅原道真の生誕は承和12年(845)、父是善34歳の時である。 貞観元年(859)15歳で元服し、文書生を目指して勉強した。 文章生試験は貞観4年4月14日、5月17日に及第と決まり文書生となった。 時に18歳であった。 文書生となった歳を調べると、一番若いのは18歳で、藤原衛まもる・正躬まさみ王の二人がいる。 19歳から23歳までの年齢が多い、道真の18歳は早い方に違いない。
 当時の制度で文書生20人のうち才学抜群の者二名を選んで文章得業生とし、最高の国家試験である。 方略試ほうりゃくしを請けさせる候補としたが、道真は貞観9年(867)正月7日得業生となった。 その2月29日正6位下を授けられ、下野権少掾しもつけごんしょうじょうに任じた。 文章得業生が諸国の掾を兼ねることも当時の慣例であって、これは掾に伴う俸禄をうけるだけで、実務に携わるものでなかった。 
 さて文章得業生は7年のうちに方略試を受けねばならなかった。 方略試とは考課令に「凡そ秀才は試むこと方略策二条。 文理俱に高くば上々とせよ。 文高くして理平らからん、理高くして文平らかならば上中とせよ。 文理俱に平かならば上下とせよ。 文理ほぼ通ぜらば中上とせよ。 文拙くして理滞れらば皆不第とせよ」とあることにもとずく試験である。
 方略試を受けることは学者の名誉であり、宣旨せんじ(天皇の言葉を述べ伝える文書)によって受験が許可され、問頭の博士が指定される。 試験の判定は最も厳格であって、啓運から承平までの230年ほどの間で65人しか合格していない。 
 貞観12年(870)3月23日道真は方略試を受験し5月17日、上々、上中、上下、中上のランク中、上中のランクで合格した。
 貞観12年9月11日6位上となる。 文書得業生が、方略試に合格すると3階級特進するきまりがあったようだ。 道真は正6位下であったため3階級特進すると従5位上となって五位以上となる。 5位と6位の間には当時の通年で画然たる壁が設けられている。 特殊な家柄の者でない限り、無条件で5位に登ることは不可能とされていた。 この場合もいきなり五位いじょうにあげることは早過ぎるので一応正6位上で待機させるという意味であったようだ。
 貞観13年正月29日玄蕃助に任じ、その3月2日少内記に任じた。 内記は詔勅を起草する任務を持っているので文章道出身の学者の任ずるポストであった。 
 貞観16年(874)正月7日、道真は従5位下に叙せられた。 ついに5位の関門を突破したのである。 時に29歳である。 29歳で叙爵じょしゃくしたのは文人出身の官史としては早い方である。 
 同年正月15日、兵部少輔に任じ、1ヶ月あまりたった二月29日民部少輔に任じた。 
 貞観19年(877)正月15日、陽成天皇代初めの除目じもく(任命式)で式部少輔に転じ、次いで同年10月18日文書博士を兼ねた。 時に33歳である。 式部の輔すけと文章博士は文書道の顕職であって、祖父清公・父是善のいずれも任じた所である。 
 文章博士の定員は、当時二人であった。 道真は巨勢こせ文雄が左少弁へ移った後を継いだ。 今一人は都良香よしかであった。 良香は道真の方略試の問頭博士であり、道真より11歳年長である。 道真との間柄は必ずしも親密とは言えなかかった。 方略試験の判文の厳しさに、道真は不満を抱いていた。 ところが元慶がんぎょう3年正月7日、道真は従5位上と位1階を進めた。 これにて年少の道真が、問頭都良香を越えた。 良香は自分の門地の低いことと、そのようなことを認める社会とに大きな不満を抱いたことであろう。 しかし、幸か不幸か,そのことがって僅か1ヵ月後死去したのである。 これより5年道真一人の文書博士の時代が続いた。
(4)阿衡問題
 学問で身を立てることを「祖業そぎょう」とする菅原の家に生まれ育った道真は、大学寮(文章生もんじょしょう・文章得業生もんじょうとくごうしょう)を経て、早くも元慶元年(877)33歳で式部少輔兼文書博士に任じられるなど文人官吏の道を順調に進み、宮廷内外で文才を発揮することができた。 しかしながら仁和2年(886)42歳で讃岐守に任じられ、4年間都を離れることになった。 ただ、その在任中何度か上京しており、とりわけ同4年(888)10月の入京は大きな意味をもっている。 直接国守の任に関係はないが、阿衡問題に放った道真の一矢は、問題の解決に重要な意義をもち、従って宇多天皇が道真を信頼する重要な契機になったものである。 
 問題は、宇多天皇の即位による基経の処遇のことから起こった。 光孝天皇は仁和3年…王に列し、ついで皇太子とした。 そして天皇の崩御によって定省親王が即位した、これが宇多天皇である。 宇多天皇は基経の推戴を功に感じ、11月21日の即位式直後「万機に関かかわりもうせ」という少を賜った。 これが関白職の始まれであるとされている。
 基経はこれに対し、閏11月26日上表じょうひょう(辞表を提出)して辞退した。 これは当時の慣例であつて、辞退の意志がなくても形式的に上表するのである。 これに対する勅答は橘広相ひろみの草する所で、翌日基経に賜い、辞退の旨を退けた。 その中に、「宜しく阿衡の任を以て卿の任となすべし」という句があったが、式部少輔藤原佐世すけよは,阿衡はただ位であって職掌はないとし、基経に説くに政治に与あずかるべきでないとした。 これより基経は一切政治を見ず、政務は渋滞した。 佐世は基経の家司けいしであって、藤原氏出身の儒士として知られた人であり、橘広相ひろみは文學博士として時めいている人である。 阿衡は「毛詩」「尚書」などの古典に見える文字であって、殷いんの三公の官名であり、とくにまたその宰相伊尹を指すとされる。 太政大臣に職掌ありやなしやについては、元慶8年に議論のあったが、そうした世の空気をうけて佐世は阿衡を問題にしたものであろう。 真意は基経の威をかりて広相を陥れ、己が学会に有利な地位を占めようということにあり、基経も広相が外戚の力によって藤原氏をしのぐ地位に上ることを防ごうとしたものと思われる。 
 しかし、このような状態で窮地に立った橘広相からの書状で知った道真は、ひそかに上京し、基経に対して次のような換言(「政事要略」)を提出したのである。
 これによると、基経の側では、依然「阿衡」の語に拘り、天皇が改勅の宣命を出されたのちも、あえて起草者の橘広相を処罰するように迫っていた。 しかし道真は、その不当性を厳しく批判する。 何となれば、
 ㋑ まず「文を作る者、必ずしも経史けいしの全説を知らず……或いは章を断ちて義を為つくる」のが
  普通であり、今回のように原典との小異を咎めるならば、今後「文章を好む………家学かがくの人」
  はなくなるにちがいない。
 ㋺ ついで「広相、当代のために立つる所は、大功一、至親三」がある(広相は天皇のために精誠を致
  す大功だけでなく、その娘義子が天皇に愛され斎中、斉世の二皇子を生むなど至親の功もある)こと
  を忘れてはならない。 
 ㋩ さらに「藤氏の功勲」は、昔に比べて今や衰えており、「大府(基経)神明の徳」により何とか
  「顕阻不朽の名」を保っているが、それ以上に「才智謀慮さいちぼうりょ」「親故功労しんここうろ
  う」の顕著な橘広相を罰することは、基経のためにも良くない。 従って、「大府先ず施仁の命を出
  し、諸卿早く断罪の宣を止めよ」と訴えている。 
 このように道真はまず自身「文を作る者」(文人官史)として、「阿衡の紛議」に危惧を覚え、「己の業」(文章道)への理解を求めることから説き起こし、ついで勅書を起草した橘広相を弁護するために、彼の「大功」「至親」を特筆するのみならず、さらにそれが藤原氏の功薫よりも勝とさえ指摘して、基経に態度を改めるよう迫ったのである。
 これは一方が当時地方の国守に過ぎず、他方が中央の最大権力者であることを考えれば、誠に破天荒の勇猛果敢な抗議文と言ってその根底には、文人官史としての自信と、広相だけでなく基経のためをも真剣に思う誠意とがあふれている。 
 それゆえに、この書状を受け取った基経は、必ずや心をうごかしたにちがいない。 基経の怒りが収まりようやく事件は終息した。 

 三.昌泰の変
(1)宇多天皇の信任
 「昭宣公に奉る書」は、関白基経の心を動かしただけでなく、むしろそれ以上に宇多天皇の胸を打ったことであらう。 この青年天子は、即位そうそう、一方では基経を関白に任じて重用する姿勢を示しながら他方では近臣たちに建策を求めて親政への意欲を明らかにされた。 仁和4年(888)の1月より2月にかけて左大弁橘広相から「意見14条」、蔵人頭藤原高経たかつねから「意見五条」、中務なかつかさ大輔だいすけ十世王とよおうから「意見六箇条」、弾正大弼だんじょうのだいすけ平惟範これのりから「封事ふうじ五箇条」が各々上奏されたというのも、その端的なあらわれであった。
 しかるに、そのような動きは、元来天皇の即位に一抹の不安を抱いていた基経の神経を逆撫でしたらしく、前年閏11月に頂いた勅答の「阿衡」に難癖をつけて、数か月も政務をボイコットするに至った。 そこで、行政が停滞してしまい、困り果てた宇多天皇は、左大臣源融から出された「詔書を改めて施行すべし」との要請に応じざるを得なくなった。 しかし、それでも納得しない基経が、広相を「有罪の人と称し」処分を求めてやまないので、天皇は「朕の博士(広相)」を救うため、基経に書を0おくられた。 けれども、いぜんt6おして埒が明かず「内心鬱憤」が募るばかりであった。 そんな矢先、讃岐国守の道真が態々上京して、太政大臣の基経に堂々と反省を迫り、しかも直ちに事態が一変したものとみられる。 それを伝え聞かれた天皇が、道真の勇敢な言動に感心され、全幅の信頼を寄せられるようになったのは、けだし当然であろう。
 寛平3年(891)2月、宇多天皇は前讃岐守菅原道真を蔵人頭に抜擢された。 蔵人頭は、天皇の枢機に預かる要職であって、基経の存命中は、その長男時平と基経の実弟高経とが、いわば宇多天皇を牽制するような形で、その座をしめていた。 しかし、すでに即位当初から親政を企図しとられた宇多天皇は、関白基経の薨後わずか1か月半目に、蔵人頭の時平と道真を交代せしめたことは、まさに宇多親政の再開宣言といってよいであろう。
 さて、この時期の公卿人事を見ると、宇多天皇初期15人の参議が10人に減少していた。
 まず寛平3年には、大臣・納言クラスの欠員を補充するために、十年ぶりに参議から一斉に引き上げ行われていた。 大納言藤原良世は右大臣に上った。 齢70歳であった。 左大臣源融は1つ年上の71であった。 新たに大納言となった源能有よしあり(文徳天皇皇子)は40代の働き盛りであった。 一方、中納言には源是忠(宇多天皇同母兄)、源光(仁明天皇皇子)、と藤原諸葛が入り三名の定員を満たした。 5つの空席があったが新任されたのは時平と源興基の二人だけであった。
 同年四月には弁官局の大異動が行われた。 左大弁に藤原保則(南家)、右大弁に藤原有穂ありほ、左中弁に道真、右中弁に源昇が各々抜擢されたのである。
ついで寛平5年(893)2月、時平の中納言昇進お機に、一度に四人の参議が新任された。 しかもそのうち三名は、いずれも一昨年、保則と共に弁官に抜擢された能吏であり、蔵人頭を経緯由した天皇の側近である。 
それから二年後の寛平7年(895)にはいると、中納言諸葛が引退、参議保則が卒去した。 しかし同年10月には道真が中納言に上り、一躍従三位に叙された。 非常な栄進である。 
この時、参議には、高藤(皇太子の外祖父)・源希のぞむ(嵯峨天皇皇子)・源昇(源融男)の三人が新任された。 これで源氏が4人となり、藤原氏北家と数からいえば並んだ。
 さらに翌寛平8年(896)に左大臣良世が隠退、右大臣源能有が没し、左右大臣が相次いで廟堂をさった。
 源能有の薨後11日目寛平9年6月19日、納言クラスの大移動が敢行された。 即ち、時平は大納言、道真と源光が権大納言、高藤と国経は中納言に各々引き上げられ、新たに十世王(宇多天皇外叔父)が参議に任ぜられた。 
 ここに至って、宇多天皇朝の最終的な公卿構成が確立した。 その出目の内容は、源氏6人、藤原氏北家5人、諸王1人、菅原家1人となる。 藤原氏と源氏の比は寛平5年以来大差はない。 最上ポストの左右大臣以後しばらく空席のままになっている。 このような公卿構成と宇多天皇の年齢(31歳)からかんがえれば、いまこそ本格的な天皇親政に着手することが出来る時期を迎えたことになろう。 ところが事実は寛平9年天皇の譲位となって現れるた。 これはいったい如何なる理由であろうか。
(2)宇多天皇の譲位
 宇多天皇の譲位について従来も大別して二通りの見解が行われてきた。
 その一つは「恐らく藤原氏一派の上皇に対する反感」によって「初め生きこんだ理想政治お推進が実行困難と知って急に政治を厭うことになったのか」とされる川上多助や坂本太郎氏などの説である。 それに対して、その挫折の原因を、天皇の意志薄弱とか快楽主義などに求める者もすくなくない。 しかし、「藤原氏一派の上皇に対する反感」は、すでに“阿衡の紛議”以来のことであり、」それが寛平9年に入ってから急に宇多天皇の譲位を迫るほど悪化したという証拠がない。 むしろ「初めの意気込んだ」理想政治の推進も、基経の在世中は確かに「実行困難」であったが、その薨後、皇権の強化と人材の登用という点では、前述の如くかなりの成果を上げつつあったので、やはり、天皇が「急に政治を厭う」気持ちになられたとは考えられられない。 
 さて、もう一つの見解は、「宇多天皇は、藤原氏の権勢が基経に至って詔命を左右した苦い経験から、不祥事を抑える叡慮をかたくし、31歳の壮齢を以て譲位し、13歳の嗣帝を助けて将来を期せられた」「譲位の君が御子今上の御輔導に重大な関心を以て尽くされたことは、宇多法皇に始まった」とされる龍粛すすむ氏などの説である。 
 これは宇多上皇の積極的な政治姿勢を認める点において、前節と対立するが譲位後の延喜・延長年間までの事績を一律に高く評価することは無理であろう。 
 しからば天皇は何故に譲位されたか。 ここで、宇多天皇が、上位に際し新帝(醍醐天皇)に与えた「寛平御遺誡ごゆかい」を見直してみよう。
 即ち天皇はまず時平を「その年、少わかしといえども、すでに政理に熟す」「すでに第一の臣として、よく顧問に備え、その輔道ほどう(補導)を泛うけよ」と推奨したあと、道真について次の如く記されている。
 「 右大将菅原朝臣は、これ鴻儒こうじゅなり。 また、深く政事を知る。 朕選んで博士と為し、多くの諫正かんせいを受うく。 即ち不二に登用し、以てその功に答ふ。 しかのみならず、朕、前年、東宮を立つるの日、ただ菅原朝臣一人とこの事を論じ定む。 
 その時、共に相議する者一人も無し。 また東宮初めて立つる後、いまだ二年を経ずして朕、譲位の意あり。 朕、この意を以て密々菅原朝臣に語る。 しかるに菅原朝臣申して曰く、かくのごとき大事、自ら天の時あり、忽ゆるがせにすべからずと云々。 即ち、あるいは封事を奉り、或いは直言を吐き、朕の言葉に従わず。 又々正論なり。 今年に至り、菅原朝臣に告げ、朕の志こころざし必ず果たすべきの状を以てす。 菅原朝臣更に申す所なく、事々奉行す。 しかるに七日(月か)に至りて行うべきの儀、人口に云々せり。 殆どその事を延引せんとするに至る。 菅原朝臣申して曰く、大事再挙せず、事留まらば即ち変生ぜんと云々。 ついに朕の意、石の如く転ざらしむ。 総じてこれを言へば、菅原朝臣は、朕の忠臣に非ず、新君の功臣たり、人の功を忘るべからず。 新君これを慎めと云々。 」
 ここにいう宇多天皇の皇太子決定は、前述の如く寛平五年(893)4月2日、つまり基経の薨後2年目、道真が参議に」抜擢されてわずか1か月半後のことである。 道真は当時公卿(14名)中、官位の列から最下位、家柄から」いっても最下位に近い。 それにも拘わらず、宇多天皇はその「菅原朝臣一人」に重大な皇嗣問題を相談されたということは、もはや単なる人材登用の域を越えた“忠臣”道真への異常なまでの信任ぶりを示すものである。 先年の阿衡事件によって親政への雄図を挫かれ、摂関藤原氏の猛威うぇお思い知らされた宇多天皇としては「理想政治の推進」を実行して行こうとするに当り、まず処置しておくべき問題は皇嗣の決定であったと思われる。
 なんとなれば、阿衡事件の終際に入内した温子あつこ(基経女)にはまだ皇子が生まれていなかったので、今のうちに皇嗣を決定しておけば、やがて時平によって摂関政治が再開されるような恐れを未然に防げると考えたと思われる。
 しかしながら、いくら天皇の信任が厚く学徳の高い道真でも、参議の末席にいて公卿の動向を制することは不可能である。 2年後の寛平7年(895)10月、道真は譲位5人を越え従3位中納言に挙あげられた。 次いで翌11月、春宮とうぐうすけから春宮権太夫ごんのたいふに進められて、時平と肩を並べられる位置におかれた。 しかも、参議の公認に皇太子の外祖父高藤と嵯峨源氏2人が入り、数的には天皇の外戚と近親が摂関藤原を凌駕するにいたったから、相対的に天皇側道真の立場は安定するはずであった。 宇多天皇がはじめて「譲位の意」を「密々菅原朝臣に語られた」のは、まさにこの年であつた。
このように見てくると、宇多天皇の譲位発意は、世俗的な政治的理由によるものとは考え難く、むしろおそらく仏門入堂の宿願を達成するためではなかったか、と推察せざるをえない。 
 仁和寺は光孝天皇が国家安泰と仏法の興隆を願い大内山山麓にの勅願に仁和2年建て始めましたが、着工直前の仁和3年(884)薨去された。 光孝天皇の後を継いだ宇多天皇は父光孝天皇の意志を継、仁和4年、仁和寺を着工し竣工させている。 天皇はすでに幼時から三宝に帰依され、17歳にいたるまで天台諸寺で修行して母后(中宮班子)ぬ出家入道の意を告げられたところ「善きかな善きかな、三宝好む事。 しかりといえども、しばらく世間を見つくしてから、すべからくこの事を修すべし」と慰留されたという。従って、もし皇嗣の補導を安心して任せられる人物が現れれば、それに一切を委ねて、自らは早く仏門に入りたいと考えておられたのではないか。
(3)昌泰の変の背景と計画
 寛平9年7月3日、宇多天皇(31歳)は醍醐天皇(13歳)への譲位にあたって、左のような詔命をくだされた。 
 大納言藤原朝臣(時平)、権大納言菅原朝臣(道真)等、少主(醍醐天皇)いまだ長ぜざるの間、一日万機の政、奏すべきの事、かつその趣きを誨おし(教)へて、これを請こへ。 宣せんすべく行ふべきの政、その道を誤ることなく、これを宜しこれを行へ。
これは、時平と道真に対して、醍醐幼帝に代わり執政すべきことを委嘱された異例の詔命であって、両者は、“摂政”にも匹敵する“内覧”の権限を与えられたのである。 事実、以後3年半の符宣上卿(役割の筆頭者)は全て時平と道真が務めており、道真と同じ権大納言の源光の名は全く見えない。 源光のみならず他の公卿たちも、道真の急速な栄進や上皇の密接な関係には、かねて羨望と疑惑の念を抱いていたであろうが、さらにこのような異例の特権付与には強い反発を示したことであろう。 翌昌泰元年(898)9月、道真が宇多上皇に奉った奏上によれば、「諸納言等」はこの「詔命」に疑問をもち、「奏請そうせい(天子に奏上して裁可を求めること)も宣行せんこう(広める・行う)も両臣に非あらざるよりんば、更に務べからず」などと曲解して、外記政に出勤しなくなった。 ここに「諸納言等」とあるのは権大納言源光(54)・中納言高藤(61)・同国経(71)などいずれも名門の老臣であう。
 それに対して道真は、上皇の「詔命」は決して「諸納言等」が参政し合議することを否認したものではないのだから、早く相ともに出勤するよう説得して頂きたい、と上皇に懇願したところ、ようやく半年後い諸納言の諒解が得られたという。 
 ここで注目すべきは、上皇の政治力が譲位後も決して消失していないことであるが、その反面、道真の政治的地位は、宇多上皇の絶大な信託にも拘わらず、まことに不安定なものでしか無かったのである。
 そこで、道真の地位を引き上げることによって政局を安定させようとしたのか、翌昌泰2年(899)二月、時平(29歳)を左大臣、道真(55歳)を右大臣に任命し、二年半ぶりに左右大臣の空席が埋められた。 このとき、源光(55歳)は権官から正官の大納言に移ったにすぎないが、天皇の外祖高藤は大納言となって源光と肩を並べ、また高藤の息子定国(33歳)も、源昇(41歳)の中納言進出の跡を追って参議に任じられた。 さらに同年12月定国は早くも権中納言に登り、翌3年正月、父高藤が内大臣に栄進に伴い正官に遷った。 この様な人事も宇多上皇の身内を固める政策の一つだったのではなかろうか。
 菅原道真は、祖業を次いで文人官史の道を歩み、宇多天皇の殊遇により破格の栄進を遂げ、後宮に娘を入れ、また官界に多くの門人を送り出してきた。 決して弱々しい青白きインテリではなく、むしろ強い信念を持った勇敢な文人政治家であったと見られる。 ただ、かなり、精神的で容易に妥協を許さない厳格な性質の持ち主であったらしく、そのため学会でも政界でも意外な反発を招き、やがては敵対者を続出するに至った。 
 例えば元慶5年(881)の方略試で道真は問答博士を務めた。 この際、受験生三善清行の論文に厳しく批判した。 そして、三善清行を推挙した巨勢こせの文雄の書状に「清行の才名、時輩に超越す」とあるのを「超越を改め愚魯の字と為さしめらる」と嘲笑ったという。 自負心の強い清行が道真に反感をもったとしても不思議でない。 
 また、仁和4年(888)阿衡紛議の最終段階で、道真は関白基経に決然と諫言かんげんを呈したが、それ以外の公卿・文人達は基経の側に組している。 具体的にいえば、左大臣源融とおる・左少弁さしょうべん藤原佐世すけよ・少外記しょうげき紀長谷雄きのはせお・大内記だいないき三善清行・明経みんぎょう博士善淵よしぶち愛成あいなり・大学助教じょきょう中原月雄なかはらのつきおなどである。 彼らの中には。基経の異性をも恐れない道真にたいして、内心敬意を懐く者もいたであろうし、佐世のごとき道真の娘を室に迎えていたが、政治的には基経に追従するほかなかったであろう。
 さらに、昌泰元年(898)前年の「譲位詔命」を曲解して外記政に出仕しない「諸納言等」がおり、彼らは明らかに反道真派とみられる。 当時大納言時平(27歳)と権大納言道真(54)の下にいたのは、権大納言源光(54歳)、中納言藤原高藤たかふじ(61歳)、藤原国経くにつね(71)、参議藤原有実ありさね(51)、源直あたい(69歳)、源貞恒さだつね(43歳)十世王とよおう(65歳)、藤原有穂ありほ(61歳)、源湛たたう(54歳)、源希のぞむ(49歳)、源昇のぼる(40歳)及び蔵人頭藤原定国(32歳)などである。
 このうち十世王は宇多天皇の母后班子王女の実弟であり宇多上皇に忠勤を励むとみられるが、それ以外の11名はいずれも源氏(6人)と藤原氏(5人)は、いずれも自分より家柄の低い菅原氏の道真が異例の栄進をとげ時平と並んで“内覧”の特権まで与えられたことに対して多かれ少なかれ反発していたのであろう。 
 しかし、さりとて何の過失のない道真を、単になる反目感情だけで排除することは出来ない。 そこで、故意に持ち出された理由が二つ考えられる。 その一つは、道真が家柄に不相応な高位高官にいることを、当時の社会通念に」照らしてひはんすることであり、いま一つは道真が宇多上皇と依然頻繁に交流していることを、秘密裡の謀議と邪推して非難することである。 そして、この二点から批判、非難の声を上げる役割を担うことになったのが、常に道真と対抗関係にあった文章博士の三善清行にほかならない。 清行は、まず昌泰3年(900)10月、ⓐ 「菅右相府うしょうふに奉る書」を送り、来年が「辛酉しんゆう、運変革に当たる」と辛酉革命説を引いた上で、「尊閤そんこう(道真)は翰林かんりん(学問の家)より挺ていして」槐位かいい(大臣の位)まで超昇ちょうしょうせられ」たけれども、今や「その止足を知り、その栄分を察し」て身を引くべきだ(さもないと来春危険が及ぶ)と勧告している。 
 これは一見、同じ文人官史の立場から道真の行末を憂慮した善意の忠告とも思える。 しかし、当時の道真は、人に言われるまでもなく、自ら“止足・栄分”をわきまえているからこそ、右大臣も右大将も真剣に辞退したいと願い出たが、」もちろん許されず、過重な大任を担い続けるほかなかった。 多分、それを知りながら、清行があえて右の書を呈したのみならず、さらに同年11月、次のようなⓑ「予あわかじめ革命を論ずる議」を朝廷に奉っているのは、かなり意図的と言わざるをえない。
 ここには明年(辛酉)2月が「帝王革命の期、君臣剋賊こくぞくの運」に当たることをあらためて強調し、それゆえ「聖鑒せいかんあらかじめ神慮を廻らし……戒厳警衛したまひ、仁恩、その邪計を塞ぎ、衿荘きょうそう、その異図を抑えたまひ、青眼を近侍に廻らし、赤心を群雄に推したまはば、即ち豕の徒を封じ、自然に面を改めん。 ………」と提言している。
 これは、具体名を挙げていないが、醍醐天皇(16歳)にたいして“近侍”の者の中に“邪計・異図”をもつ人物がいることを仄めかし、それを早く退けて凶禍を未然に防ぐようせまったと解されよう。 
 しかもそのような人物としては、先に辞職勧告を受け取りながら、右大臣・右大将の地位に居座っている道真が、おのずと思い浮かぶ。 さらに、道真は、上皇と依然親密な交流を重ねており、しかも天皇の異母弟・斎世親王に娘を入れているからその即位を企んでいるかもしれない、というような連想をさそう。 
(4)昌泰の変
 昌泰4年(901)正月7日 時平と道真とは相並んで従二位に叙した。 しかし、破局は早くもこの月の内に生じた。 同年正月25日、道真は突如として太宰権師だざいごんのそつに左遷されることになった。 先の両建白書があった2,3か月後のことである。
 昌泰4年(901)正月25日、「諸陣警固し、帝(醍醐天皇)南殿(紫宸殿)に御ぎょしたまひ、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権師だざいごんのそつに任じ………又、権師の子息(高視たかみ・景行かげゆき・兼茂かねしげ・淳茂あつしげ)等、各々以て左降さこう」という異常な人事が強硬されるにいたった。 その時の宣命にはには、左遷理由として次の如くきされている。
 ㋑ 右大臣菅原朝臣、関門かんもんより俄にわかに大臣に上のぼり収おさまり給たまへり。  而しかる
  に止足しそくの分を知らず、専権のこころあり。 佞謟ねいでん(口先がうまい。疑う)の情を以て前
  上皇の御意ぎょいを欺あざむきまどはせり。
 ㋺ 然しかるを、上皇の御情おんなさけを恐れ慎つつしまで奉行し、御情を敢えて恕おもいやる無くて、廃立
  を行なひ、父子の志(慈)を離間りかんし、兄弟の愛を淑破しゅくはせんと欲す。
 このうち、㋑は清行の ⓐを理由としたもの、また㋺も清行のⓑを利用したもの、と言わざるを得ない。 ㋑は相対的な批判であるが、㋺は決定的な非難である。 従って、反道真派の首謀者(藤原時平、源光など)は、この㋺を年若い醍醐天皇とその外戚(藤原高頭、定国)などに信じ込ませて、突然強引に決行したのであろう。
 事実問題として、道真の左遷は、上皇には全く知らせずに断行したのである。 上皇はこれを聞いて、内裏にはせ参じたが、左右の諸陣が警固して通さない。 上皇は草座を陣頭に敷いて終日庭に御おわしたが誰も門を開かなかった。 
 宇多天皇が皇位につく前、陽成天皇に仕え、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。 陽成上皇が復位を画策風説は陽成天皇を悩ませた。 保延年間に書かれた「長春記」によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたため、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、こんどは、この前例を理由に入門を拒否されたという。 
 昌泰4年(901)正月25日、道真の左遷によって、大納言源光は右大臣に任じ、中納言藤原定国は右大将を兼ねた。 
 正月27日の除目において、道真の唐よと目された人は、それぞれ左遷されることになった。 右近中将源禅は出雲権守になどその数は多きに上った。 その上に道真の門弟たちの諸司に当たる者も左遷せられ、学生も追放するとの噂が広まり騒然となった。 三善清行は時平に書を送って。道真の門人は諸司に半ばしており、これをみな左遷したらおそらく善人をお失うお諫言した。 これで門人達を罰するのは止んだ。
 27日道真を送る便は左衛門少尉善友益友という若者と衛士2人と決まった。
 2月1日には京を発した。 旅装を整えるひまもない慌ただしさである上に、道中の国々も食・馬を給うことなしと命せられたから、酷薄の待遇をうけて西下したのである。
 道真の男子の中で、任官していた長子大学頭高視は土佐介に、式部丞景行は駿河権介に、右衛門尉兼茂は播磨にと、父子5か所に分かちやられた。 
 大宰府の生活は、自らの詠じた詞がよくよく物語る。 道真は謫居たっきょ(流刑地の居住)中に詠じた詞を集め、薨ずるにのぞみ封緘して紀長谷雄の下に送った。 長谷雄はそれを見て天を仰いで歎息しっという。 いま「菅け後集」の名で伝わる一である。 これにより道真は前の「菅家文草」と合わせて、自詠の詩を全て自ら編集して、後に残すことが出来たのであって詩人として本懐をとげたものといえる。 
 道真の大宰府での生活はみじめであった。 空き家であった官舎は、床も朽ち、縁も落ちていた。 井戸はさらい、竹垣は結わねばならなかった。 屋根は漏って、蓋う板もなく棚の衣裳は湿り、箱に中の書類は傷んだ。 虚弱な彼は健康の不調を訴えることがしばしばあり、胃を害し、石を焼いて温めても効果なし、眠られぬ夜はつずいた。 
 「北野天神御伝」には、道真は大宰府にあって、念仏・読経を事とし、その余は時々筆硯ひつけんを翫もてあそんだだけと記し、三年正月病が重くなり、遺言して、他国で死んだ者は遺骨を郷里に返すのを例とするが、自分はそのことをねがわない、また吉祥院の10月法華会は累代の家の事であるから、将来たやさないようにといったという。 延喜3年2月25日ついに薨じた。 年59歳である。

 四.北野天満宮の創建
(1)菅原道真の祟り
 延喜3年(903)2月25日菅原道真は配所である大宰府で薨去された。 道真の遺言によりその地で埋葬された、それが)現在の大宰府天満宮である。
 ところが、道真死亡後、京に異変が相次いだ、延喜3年7月に炎日照りが続き、祈りや奉幣読経を行い大事にいたらなかったが、翌延喜4年においては、閏3月に天下に疫病があり4月に雷電が激しく、7月に旱魃が続いた。 延喜5年には月蝕と同時に大彗星が現れ乾の方向に懸ってその光芒30余丈あり、翌月の5月3日まえ10数夜も出現したので、朝廷は罪人などをの宥赦ゆうしゃくする詔を出したほどであった。
 また6年には、4月に雷雨に加え暴風激しくさらに梅の実大の巨大な雹がふった。 翌々8年夏には炎天が続き雨乞いするも降らず、京都及び全国の神社は奉幣するも降らず、感応なきことを慮おもんばかり京中の路傍にある死人の骨を埋葬し、京中の穢れを清めたが、10月には激しき雷雨がった。 また、延喜6年7月藤原定国41歳で薨こうじ、延喜8年4月には参議藤原菅根すがねが薨じ、翌年延喜9年4月には39歳の若さで薨じた。 菅公薨後6年目である。 
 藤原定国と藤原菅根は、「昌泰の変」で、に天皇に対し「天下之世務以非為理」と奏上して菅原道真が失脚するきっかけを作り、さらに菅根は道真の左遷を諫止するため参内しようとした宇多上皇の内裏の門前で拒んだとつたえられる。
 すでに前より天変がある上に、定国といい、菅根といい、時平といい菅公配流の首謀者三人が薨じたことは、時人には怪奇に思い、この時すでに菅公の霊(怨霊おんりょう)の仕業であるという風説があったかもしれない。 しかし事変はこれのみで止まらなかった。 
 延喜13年3月源光が横死を遂げた。 光が鷹狩に出た際、不用意に塹壕の泥沼に落ち込み溺死し、しかも遺体は沈んだまま現在浮上しないとのことである。 光は時平共に道真を陥れた張本人の一人であり、菅公が左遷の日にそのあとを受けて右大臣となったひとである。 
 なお同年8月の有る時、鳶が殿中に飛び込みネズミを取て、一味徒党であった藤原清貫
の肩上にネズミを落としたという。 時人が奇怪な出来事して相伝えた。 また翌延喜14年5月2日は京都左京に大火事があって京都の東部617戸を焼いた。 翌15年疱瘡の流行があり、京都畿内で死する物はなはだ多く、天皇も病気になられた。 8年後延長元年3月皇太子の保明やすあきら親王が御年21歳で崩御され、皇太子の妃は時平の娘であった。 かくのごとく天変の頻出する上に、時平派の不幸はついに皇室におよぶ勢いである。 時人の驚愕は想像するまでもない。 「日本紀略」には「擧世云官師霊魂、宿念為也」とあって世を挙げて悲しみかつ恐れたと考えられる。 
 かくして皇太子の薨じられてから1か月後の4月27日に菅公の太宰権師を本官に復して右大臣とし、生前従二位であったものを正二位に昇級し、なお、昌泰4年(901)正月25日の詔、即ち菅公左遷の時の文章を破棄する詔がでた。
 しかし、さらに延長8年(930)に至って6月炎天続き、その26日に清涼殿祈雨について議論していた時、たちまち黒雲が発生雷声激しく清涼殿落ちた大納言藤原清貫と右中弁平希世が落雷で死亡した、両人とも菅公の左遷にかかわった者である。
(2)北野天満宮の創建
 延喜3年(901)菅原道真は配諸の大宰府で薨じた。 菅公の左遷は人皆いぶかるところである。 藤原一門の専横を憤り、菅公の左遷に対する上下の道場は菅公の一身に集まり、左遷の身で薨去にいたってはますます高潮したのはとうぜんである。 
 菅公薨後約40年後、清涼殿落雷後約10年、天慶5年7月12日に右京7条坊に住む多治比たじひ文子あやこに信託があって「我昔世にありし時、しばしば右近馬場に遊覧せり、城辺閑勝の地、彼の場に如く処なし、我虚構の禍に会い、鎮西に左降せられ、遠く宿報を思うと雖も、中心恨を結ぶの報、還りて肝を焦すの燼じんを作す、帰京期なく、またまた彼の馬場に嚮むかへは、胸炎頗る薄らぎmぬ、今や既に天神の号得て鎖国の思あり、須すべからく彼処に禿倉とくそうを構へて潜寄の便を得しめよ」と。 文子信託を畏み、これを営むには身賤しく叶わず柴の庵の辺の如く小祠を造り私に祀ること5年に及んだ。   その後その後5年を経て天暦元年(947)3月12日に近江国比良宮の禰宜神良種みねのよしたねの子太郎丸という7歳の童に託宣があり「我昔右大臣に住せし時我身に松生ひて即ち折れたりこと夢みぬ、ここ以て我は三公の宮に昇り、また左遷に逢ふことを知りぬ、故に我今より居らむと欲する地には松を生せしむべし」とやがて一夜の中に数千本の松が北野の右近馬場に生じたので、文子・良種及び北野の朝日寺の僧最珍が協力して北野社を創建した。 即ち北野神社の創建に際して二派の人々が連合して事にあたった。 その一つは多治比文子・満増(増日)等であり、他の一つは神良種・太郎丸・朝日寺僧最珍である。 満増死後その弟子増日があとを継寺主と自称した。 最珍は検校を自称したが両者の上下関係は不明確で寺内の統率ができなかった。 やがて貞元元年(976)の頃、最珍は、菅原氏と手を結び安楽寺と同様、菅原氏の後裔を北野天満宮別当にお願いした。 そこで延暦寺の僧でかつ曼衆院の住持是算ぜさん国師が菅原氏の出目であったため勅命により北野天満宮初代別当に指名され、以後菅原氏の後裔に関係なく明治の初めまで曼衆院の住持はこれを兼務した。 また最珍は検校の地位を再確認し従来通り寺務をつづけ、増日一派を追放した。
 天暦てんれき元年(947)6月9日、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。 後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたという。
 永延えいえん元年(987)に初めて勅祭が御かなわれ、一条天皇より「北野天満宮」の称が贈られた。 正暦しょうりゃく4年(993)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。 以後も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。

 五.北野天神信仰に変遷
(1)平安時代
 平安時代は怨恨神であった。 道真の薨去したのは延喜3年(903)であって、その後、45年を経て天暦元年(947)北野天満宮ができ、その薨去の年を去ること91年正暦4年(993)5月に使者を大宰府安楽寺の道真の廟に遣わし左大臣を送られついで11月にさらに使者を遣わし正一位太政大臣を送られた。 この先正暦2年(991)には官幣を北野神社にたまわることになり、後寛弘元年(1004)に初めて北野神社に行幸があった。 
 かくのごとくわずか一世紀の間に太宰権師菅原道真の祠は。神代の時代から続く諸神社にまして朝野の崇敬をうけたのである。 
 この時代、旱魃・雷雨・落雷・疫病等激しい災禍が長期にわたり都を襲い昌泰の変にかかわった者は次々に死亡し、菅原道真の怨霊によるものとして恐れおののいた。 
(2)鎌倉時代
 平安時代には、菅神はもっぱら怨根の神、風雨水火の支配神であって、罪悪の罰すべきものを懲らすという荒神の意味に信じられていた。 しかし、鎌倉時代の中頃より冤罪を救う神として利生りしょうを示し、ついてはいかなる所願でも一心一向に菅神を祈念する者には必ず成就させるという慈悲救済の神となり、転じては後生もすら助かる絶対慈悲の神となった。 いわば菅神は祈祷の対象から信仰の対照へと変化した。 現世的神祇から転じて来世的な神祇にてんじたのである。 
 むろん一方には依然として怨根の神、」悪人懲罰の火電几雨神とする信仰も絶えなかったのではあるが、世人が余りその方向の信仰をもてはやさなかった。
(3)室町時代 室町時代に至って、天満天神ははなはだしく禅宗の影響を受けた。 禅宗の影響と称しても、必ずしも禅の教理的感化を受けたのではなく禅宗文学の影響をうけ、禅宗絵画の影響などの影響をうけた。 
平安時代から菅原道真は文道の太祖と称せられたが、それは道真の歴史的人格に基づいていたのである。 ところが、室町時代に入ると、文道の太祖、風月の本主と称えて、時世の影響を受けて、よほど宗教的意味を有することになった。 文道、風月より転じて諸道芸能の範囲にまで立ち至っている。 実例として、梅花をあげよう。
菅原道真が生来梅を愛したということを、室町時代の頃から、禅僧によってしきりにとなえられた、 梅は古来南方中国人の愛したところで、詩文に詠われるもの頗る多き、我が国の漢文学者も、必然的にも、伝統的にもいたくこれを愛したところから、文道風月の本主たる菅神にも付会されて、多くの詩的な奇跡が生まれたのである。
 道真が特に梅を愛した証拠はない。 道真が特に梅を愛したという説をなす有力な材料となった、筑紫へ左遷される際に詠んだ「東風こち吹ふかば」の歌である。 
 昌泰4年正月29日、太宰権師なしたてまつりて、流され給ふ(中略)、おさなくおわしけるおとこ君、おんな君、だちしたひなきておわしければ、ちいさきはあえなんと、おおやけもゆるさしめ給ひしかば、ともにいてくだり給ひしぞかし、みかどの御おきてきはめてあやにくにおはしませば、此御子どもを、おなじかたにだにつかはさざりけり、かたがたにいと悲しくおぼほして、御まえの梅の御らんじて、
 こちふかば、にほひおこせよむめのはな、あるじなしとて、春をわするな
とある。 道真はわが宿の梅に別れを惜しみたるのではなく、家を出て多くの子女に別れかねて、ふと前栽の梅によせて別れを惜しみ、子女の便りあらんことを祈って詠んだものである。 この歌を根拠として、道真の愛梅説をなすは、事情を究めないものといわねばならぬ、 
(4)文安の麹騒動
京都では鎌倉時代から急成長産業として隆盛していた酒屋だったが、その中から資本力に富む酒屋は、麹造りにまで取り組み始めた。 当時の酒屋は、まだ麹造りまでは職業範囲でなく、「麹屋」という麹の製造から販売まで担う専門業界が別個に存在していた。 麹屋は北野社の神人じにん(下級神職)身分を得て「麹座」と呼ばれる同業者組合(座)を結成しており、北野者の権威を背景に京都西部の麹の製造・販売の独占権を有していた。 当然ながら北野麹座は、酒屋の麹造りに強く反発した。
 その頃、足利義満の治世下で全盛期を迎える室町幕府が、至徳3年(1386)には延暦寺を始めとする京都の有力寺社に対し、京都の地域内における私的な権力行使への制限令を発布すると、今度は明徳4年(1393)に京都の土倉・酒屋に対しても「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」を発布して、座への加入を問わず一律に幕府への課税を義務図桁。 これに対し比叡山らは強く反発したが、当時の義満の勢いのまえにはなすすべもなかった。 
 この情勢に目を付けた北野麹座は、運上金の供出を持ちかけて幕府に接近すると応永26年(1419)には。京都全域における麹の製造販売の権利を瀑布から獲得した。 そのため京都の全ての酒屋は自前での麹造りを禁じ得られ、北野麹座から麹を購入しなければならなくなった。 当然ながら反発した酒屋だったが、兵を動員した瀑布により「麹室」は悉くうちくだかれた。 
 文安元年(1444)4月7日延暦寺は西塔釈迦堂に立てこもり、次いで京都に向け強訴を行った。 その3年前嘉吉の乱以後、政治的影響力を衰退させていた瀑布はこれに屈して、北野麹座も独占権の廃止を認めてしまった。 この決定に今度は北野麹座に属する神人等が北野者に立てこもった為、管領畠山持国は同月13日に鎮圧の兵を北野社に差し向けた。 このため武力衝突に発展して、死者も出したうえ、北野社を含む一帯が炎上したうえ、幕府軍に鎮圧された。 その結果、麹造りは酒屋の一工程となった。
(5)豊臣秀吉の北野大茶湯
 北野大茶会は、天正15年10月1日(1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において関白太政大臣・豊臣秀吉が主催した大規模な茶会のことである。
 この年の7月に九州平定を終えた秀吉は、京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と平行して大規模なイベントを開催することを企てた。 同月末より、諸大名・公家や京都・大阪。堺の茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状をだし、続いて7月28日に京都・五条などに以下のような触書えおだした。
 ▲ 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自ら名物の(茶道具)を数寄
  執心の者(名物マニア)に公開すること。 
 ▲ 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具無い者は替りに
  なる物でもいいので持参して参加すること。
 ▲ 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
 ▲ 日本はいうまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
 ▲ 遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。
 ▲ こうした配慮にもかかわらず参加しないものは、今後茶湯をおこなってはならない。
 ▲ 茶湯の心得がある者に対しては場所・出目を問わずに秀吉が目の前で茶湯を立てること。
初日
 会初日である10月1日は北野天満宮の拝殿(12畳分)を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列した。 また麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。 御触れの効果からか当日は京都だけでなく大阪・堺・奈良からも大勢の参加者が駆け付け、総勢1000人にも達した。
四つの茶席には秀吉と利休・津田宗及・今井宗久という当代きっての茶人3人を茶頭として迎え、来会者には身分を問わず公平に籤引きによって各席3-5人ずつ招きいれて茶を供した。 秀吉は午前中は茶頭として振る舞い、午後には会場各所を満足げに視察して一日を過ごし、その際にノ貫へちかん(戦国時代後期の茶人)の風流な茶席に目が留まり所望したという。
中止
 ところが、翌2日には一転して茶会は中止され、その後も再開されぬまま終了となった。 これは1日の夕方に肥後国に一揆が発生したという知らせが入って秀吉が不快感を覚えたからだという説が当時から噂されており、今日でも通説になっている。
(6)豊臣秀頼の北野天満宮再建とその後
 慶長12年(1607)豊臣)秀頼が父秀吉の遺命により、片桐且元を奉行として再建したのが現在の本殿である。 文安元年(1444)の麹騒動で全焼し、その後北野天満宮は衰退したとなっている。 秀頼が再建する直前の本殿の状態はさだかでない。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格はうすれ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺小屋などで当社の分霊がまつられた。 明治4年(1871)に官幣中社にれっするとともに「北野神社」と改名させられる。 「宮」を名乗るためには祭神が基本的に皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。 旧称の北野天満宮の呼び名が回復したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
 
              境内
1)北門 銅葺き切妻屋根の四脚門である。 門前に西陣名技の碑がある。
  西陣の技術改良に貢献した五世伊達弥助(1838~92)は、ウィーンの万国博に派遣された四世伊達弥
 助の跡を継ぎ、特に美術織物の発展に力を注いだ。 五世弥助は明治23年(1890)明治天皇が名古屋に
 行幸した時に宴に招かれ帝室技芸員の称を賜り、名工として知られる。 明治以降、西陣織物業界は技
 術革新を積極的に追及することで新時代を乗り切ろうとした。 四世、五世の伊達弥助はその象徴とい
 うべき人物で、この碑は五世伊達弥助を讃えることで、同時に西陣の新時代へ向けた努力を後世に伝え
 ようおしたものである。
2)東門 (重要文化財)
  幅5.2m、高さ8.7mの四脚門で、銅板葺き切妻の屋根を持ち、豊臣秀頼が慶長12年(1607)に造営し
 たもの。
3)三光門(中門)(重要文化財)
  現在の三光門は、慶長12年(1607)に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられた
 ものとされている。 後西ごさい天皇御宸筆「天満宮」の勅額を掲げる。 豊富な彫刻の中に日月星が
 あるから三光門の名がある。 
  中門即ち三光門と中門に付属する廻廊の内側が一つの区域である。 中門を入ると、大庭を挟んで奥
 に拝殿があり、さらにその奥が御殿になる。 中門とはここに留まってここから御殿を拝む地点である
 。 中門から入り拝殿前で拝むことが出来る。のに、なぜ中門から拝むのか。 拝殿前ではそれほど長
 い時間祈りを捧げることは出来ない。 神官家では中門参という儀式がある。 そのためであろう。
  北野天満宮には「天神さんの七不思議」と言われる不思議が七つの伝承があり、「星欠けの三光門」
 はその一つである。 三光とは、日・月・星の三つの光のことを指し、それら三つの彫刻があることが
 門の名称の由来となっているが。 実際、門には「日」と「月」の彫刻はあるが「星」の彫刻はありま
 せん。 そのため「星欠けの三光門」といわれる。 
  なぜ、星が欠けているのか?平安時代、大極殿から帝が北野天満宮に向かってお祈りを捧げられる際
 、三光門の上に北極星が輝いていた(既に存在していた)為に星は刻まれなかったと伝えられている。
4)廻廊 (重要文化財)
  三光門の奥に中庭があり、その奥に拝殿がある。 拝殿の前の中庭は、東西南の三方の回廊に取り
 囲まれている。 その廻廊はいずれも重要文化財である。
5)御殿(拝殿・石の間・本殿)[国宝]
  中門の廻廊は左右に方形に伸び拝殿につながる。 拝殿は正面七間奥行き三間の拝殿と左右に二間(
 東の間、西の間、近年には楽の間と称している)を供えた空間である。
 ① 石の間 本殿と拝殿が平行し、その間を石の間と称する正面7間、奥行き三間の土間で繋ぐ構造で
  、北野社の特徴とされる。 これについて黒田龍二氏は「恐らく平安時代のうちに来たのでは、本殿
  の前に別棟の拝殿を造り、その間を石の間で繋ぐ形をとった」としている。 
 ② 拝殿 拝殿は文字通り神を拝む所であり、将軍社参の折には、拝殿の西の間に入る例が見られる。
  「後宇多上皇御幸記」正安4年(1302)2月20日作文の御幸に「拝殿正面に御座一畳敷、次の間ヨリ
  東へ三間、御簾ヲシソラヒ」と作文会にも用いられている。 この様に神拝だけでなく会所的な空間
  としても使われていた。
 ● 天神さんの七不思議の一つに「唯一の立牛がある天神さんのお使いとして、境内には神牛の像や彫
  刻が数多くみられるが、これは道真公が丑年生まれであったことと、大宰府で生涯を閉じられた際、
  道真公の御遺骨をお運びする途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなって、やむなくそこに埋葬し
  たという故事に由来しています。 この伝説から神牛は臥牛の姿であらわされていますが、一体だけ
  が立った姿の神牛が拝殿の欄間に刻まれています。
 ③ 本殿 本殿には外陣げじん、夏堂けどう、内陣、後戸うしろど、内陣、内々陣からなる。北野社の
  中で最も原初の部分に当たる。 天徳4年(960)奥書「北野天満自在天神宮創建山背国葛野郡上林
  郷縁起」のいうところでは、天暦元年(947)に社殿を構え天徳4年に至るまで改め作る事五度、最
  後が「三間三面庇檜皮葺」と記された混本御殿(本殿)が全身である。 現在の本殿は慶長12年(
  1607)再建で、正面五間奥行四間にその四周一間の庇が付く。 この本殿のは中門・回廊部分と異な
  り斎垣いがき(玉垣)に囲まれている神殿建築様式である、」
  ㋑ 外陣 外陣は正面五間奥行四間、内側に内陣、その内側に内々陣をふくんでいる。 大床と称さ
   れる幅一間の縁に取り巻かれた空間で縁の西側の一部は夏堂になっている。 外陣はそれ自体とい
   うよりも内陣との関係において機能すすることが多い。その最たるものが後戸開きである。
  ㋺ 夏堂けどう 外陣の西側に正面二間奥行き三間半の夏堂がある。 
    夏堂とは、夏安居けあんご(夏の期間、外出せず一か所に籠って修行にすること)を行う場所を
   いい、例年4月15日より一夏9洵90日)の供花くげ(仏教用語)まで、神前はじめ諸神に水花を供
   え、ここで法華経読誦や修法を行った。 
  ㋩ 後戸うしろど 
    本殿内陣の後戸には舎利(釈迦の骨粒)が祀られており、背面の後門から礼拝する風習は北野社
   独特のもので、正面から天神を拝するのとはまた別な信仰形態がここには見られた。 
    黒田龍二氏は、初期北野社本殿か三間三面庇の形となったのは、日吉大社東西本宮と同じ三間三
   面庇の形に合わせたからだろうとしている。 これが天徳4年(960)の北野社の本殿の姿であり
   、それから現在までの四面庇へ発展するにあたっては鎌倉末期あるいは文暦の頃から背面庇主たる
   用途は舎利殿の安置奉安であった。 
    日吉大社では本殿の床下が仏教的色彩の籠り場となっていたのにのに対し、北野天満宮では仏教
   的空間は背面に設定され、外部から参拝できるようになっている。
  ㊁ 内陣 内陣は近世本社指図によれば正面三間奥行二間の空間で黒御簾に蔽われ、その内部はさら
   に、東西二座に別れ御帳で蔽われ内々陣が含まれ、内々陣を別にすればそこは宝蔵である。 社頭
   の宝蔵が北野祭や一切経会に用いられる諸道具のいわば収納家的要素を持っているのに対し、内陣
   には神宝が安置されている。
  ㋭ 内々陣 寛文9年(1669)「北野天満宮本社指図・地割図」によると内々陣は、内陣内部に設置
   された東座・西座と称される同じ大きさの別々の二座で、御帳で蔽われたないぶは全く見えない。
    北野社の祭神は三神とされている。 天神・菅原道真と他の二神は誰か。 

 

    中門

     東門     西門

 神祇宝典

 菅承相合祭定義

 英明朝臣

 在良朝臣

 扶桑京華志

 菅神

 宰相殿

 吉祥女

 神道集成

 菅承相

 高視

 吉祥女

 諸社根元記

 菅承相

中将殿源朝臣英川

 吉祥天女

   と諸所説ある。 吉祥女(吉祥天女)は道真北の方、高視は嫡男、英明朝臣と中将殿は孫、在有朝
   臣と宰相殿は子孫である。
 ● 天神さんの七不思議の一つの「裏の社」うらのやしろがあります。
   普通神社は前から拝むように作られていますが、当北野天満宮の本殿は背面にも「御后3柱ごこうの
   みはしら
」という御神座をもっています。 道真公の御神座と背中合わせの形で北向きにお祀りされて
  いるのは道真公の父・菅原是善これよし卿、祖父の清公きよみと、菅原氏・土師はじ氏の祖神である、天
  穂日命 あまのほひのみことの三柱の神です。 そのため北野天満宮参拝者はこの「后3柱」も含めて参
  拝するのを常としています。 
   これは、慶応4年(1868)3月13日に発せられた「太政布告」(通称「神仏分離令」)や明治3年
  (1870)1月3日に出された「大教宣布」などの政策に関係します。 この神仏分離令や大教宣布は
  神道と仏教の分離が目的である。 神仏習合の禁止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的
  要素の払拭などが行われた。 これに原因があります。
   神仏習合は、日本土着の神道と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教
  現象である。 例えば、菅原道真は本当は十一面観音という仏様です地球上も我々の目の前に現れた
  時、菅原道真という人のお姿で現れたという考えかたです。 この十一観音様のことを、本地仏とい
  います。 北野社の祭神は3神ですから、天神様の菅原道真を含め三人の神様が安置され、夫々の神
  様の後には、夫々の神様の後ろには、夫々の神様の本地仏が安置されていましたが、神仏分離令によ
  り、本地仏が撤去され、代わりに「后三柱」が据えられたのです。 
  今までは、祭神と本地仏は同一であり、本殿の前で拝めばそれで十分でした。 神仏分離令後は、三
   主祭神と后三柱の神は別のものであるり、本殿の前から祭神を拝み、后三柱は後からおがまなけれ
  ばならなくなったのです。
6)楼門 
  三つの鳥居を潜ると、北側に堂々とした造りの楼門がたっていつ。 本来は2階建ての門を楼門と呼
 んだが後に、2階建(重層)になった門で、下層に屋根がなく高欄付の縁を楼門、下層に屋根のあるも
 のを二重門と呼ぶようになった。 
  見上げるばかりの巨大な門は桃山時代の様式で、両側には随神ずいしん(貴族の護衛に従事した官
 人)の像が、向かって左側に吽形の神像、右側に阿形の神像が置かれて、正面には、菅原道真公を讃え
 た大江匡衡の言葉「文道大租 風月本主」の額が掲げられ図いる。
 ● 天神さんの七不思議の1つに、「筋違いの本殿」がある。
   参道の正面に本殿があるのが、当神社の正面には、地主神社がある。 北野天満宮が建立される前
  にすでに地主神社存在した。 即ち、地主神社の境内に後に北野天満宮の本殿を建設した。 従って
  、本来の家主に遠慮して地主神社正面にかからぬようにずらしたという説である。
   この説明には無理がある。 楼門は。中門と異なり、本殿の前になければならない理由がない。 
   楼門は単なる境内の入口であり、その地形によりそれぞれの神社によって異なる。 例えば、奈良
  の春日大社は、参道の突き当たりは春日山である。 その突き当りで90度方向転換した先に楼門があ
  る。 楼門の正面には本殿はない。 仏教寺院は中国文化の影響をうけ直線や左右対称を重視するが
  、神社は中国文化の影響がすくなく、非直線。非左右対称のものが多い、日本の代表家的な神社・春
  日大社は、正面ではなくやや斜めに進んで本殿にとうちゃくする。 このように神社の正門はその神
  社の置かれた地形によってことなる。 単なる七という数合わせに用れたと思われる。
7)社務所 神職等職員が控える事務所。
8)神楽殿 狂言や日本舞踊叉毎月25日には神楽舞が奉納される。
9)宝物館 北野天満宮は、創建以来、千有余年の長きにわたり、王城鎮護の神として皇室の尊崇殊のほ
 か篤い二十二社に加えられ、藤原摂関家を始め公家や有力武将、さらに一般庶民の信仰も篤かったこと
 から数多くの神宝類が奉納され、今の伝えられている。 なかでも国宝北野天満宮縁起は数ある同類の
 縁起の中で、根本縁起と称され、最も優れた作品として高い評価を得ています。 
  また、貴重な歴史書「日本書紀」、それに北野社史など古文書類もおびただしい数にのぼっています
 。 更に明治天皇ご覧になられた重要文化財で鬼切と呼ばれる太刀、豊臣家が寄進した堀川国広の名刀
 、加賀藩主前田家から奉納されr田刀剣類、京都を舞台に活躍した絵画や工芸作家たちが奉納した絵馬
 や蒔絵硯箱、屏風、茶道具なども伝存し、その多くは重要文化財に指定されていまっす。
10)絵馬所 
  絵馬は、神社や寺院に祈願する時、あるいは祈願した願いが叶うったそのお礼をするときに寺社に奉
 納する、絵が描かれた木の板です。
  古代の人々の生活は、自然に大きく左右されていました。 その祈願には多くの方法がありましたが
 、生きた馬の奉納もその一つでした。 馬は神の乗り物或いは貴人の乗り物だと考えられていたからで
 す。 また、雨乞いのときには黒馬、雨が止んで欲しいときは白馬を奉納すると良いとされてした。 
 神に奉納した馬を神馬しんめと言いました。 神馬はその後土製の馬が形・木製の馬形・馬の形の板と
 なり、そして、板に馬の絵を描いた絵馬へと変化してきました。 
  個人で奉納するための絵馬として、小型で馬などの絵が描かれて余白や裏面に祈願の内容や氏名など
 を書くものが、寺社で販売されている。 大人数で奉納する絵馬は、大型で、画家に描かせるなどして
 奉納する。 関東では五角形が多く、関西では四角形が主流が主流である。
  北野天満宮の絵馬所は、元禄13年から14年(1700~1701)に行われた修理の際のたてものである。
 「京都御役所向おやくしょむき大概覚書」(京都町奉行の支配地域の状況とその権限について記した奉行所
 役人の手引書)にも「絵馬掛所 桁行拾間/梁間三間」とある。 ここの間数は実際の長さで、約
 18m×5.5mということになります。 ちなみに柱間でいうと、桁行六間、梁間二間です。 これは京
 都では、八坂神社の絵馬堂(桁行七間、梁間二間)に次ぐ大きなものです。
  内外に多くの絵馬が掲げられています。 慶長13年(1608)に製作された長谷川等伯筆「昌俊弁慶相
 騎図」しょうしゅんべんけいそうきず(重要文化財)は京都の有名寺院に伝わる大絵馬の中でも屈指の大きさで
 す。 また、本図(縦275㎝×横407㎝)は大きいだけでなく、京都に残る絵馬のなかでは天正20年
 (1592)に長谷川久蔵が描いた清水寺の「朝比奈草摺曳図」(重文)に次ぐ古いものです。 本図は、
 東伯70歳の時の作で、それは没する2年前にあたるが、等伯の筆力は旺盛で、画面いっぱいに疾駆する
 黒馬、馬上には抗さからう昌俊と弁慶の魁偉な姿が力強く描かれている。 この画題は、平家物語の
 「土佐房被斬」、幸若舞「堀河夜討」などが知られるもので、源義経の命を狙った土佐坊昌俊のもとに
 武蔵弁慶が討ち入ったあげく、昌俊を堀川の屋敷へ引き立てて行く場面である。 現在は宝物殿で管理
 されています。 その他にも注目すべき絵馬はいくつかある。
11)地主社 北野の創建以前からの地主の神で、県内でも最も古い社である。
  地主神社じぬしじんじゃは、北野天満宮の摂社です。 本殿の北東側にあります。 地主神社は、北野天
 満宮の鎮座する以前に創建され、続日本紀には「承和3年(836)2月1日、遣唐使のために天神神祇
 てんじんじんぎ
を北野に祀る」と記されています。
  天津神あまつかみ・国津神くにつかみは、日本神話に登場する神の分類である。 大国主など、天孫降臨
 以前からこの国土を治めていたとされる。土着の神(地神)を「国津神」、天照大神などがいる高天原
 の神を「天津神」という。
 主神は天神神祇で、相殿には敦美あつみ親王(宇多天皇の第八皇子)・斎世ときよ親王(宇多天皇の第3
 皇子で妃は道真の娘)・源英明ふさあきら朝臣(斎世親王の子、道真の孫)が祀られている。 相殿の三
 柱はいずれも菅原道真の血縁者である。 
  地主神社は招福・交通安全・諸願成就の御利益があるとされ、4月16日に例祭が行わ
 る。 地主神社の社殿は、豊臣秀頼の造営である。 
12)明月舎 天正15年(158710月1日、豊臣秀吉公が当宮の松原で催した北野大茶湯
 紀念して毎月1日と
15日に献茶会が催される。
  現在も北野天満宮献茶祭保存会の主催で、毎月1日と15日の月2回行われれいる。
 時間 9時から15時。 臨時会費 1000
13)影向松ようごのまつ 
  表参道の大鳥居(一ノ鳥居)を潜ってすぐ右手に、石の玉垣で囲まれた一本の松が立
 っています。 影向松ようごうのまつと名付けられたこの松は、創建時にあった場所に植え
 ら
れた後継松である。 立冬から立春前日までに初雪が降ると天神様(菅原道真)が降臨
 され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、
 硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っている。 これは天神さんの七不思議

 一つになっている。
  一説には、大宰府に左遷された道真公は延暦寺第13代天台宗座主法性坊尊意より送ら
 た仏舎利を念持仏とし、常日頃から肌身離さず身に着けていました。 初雪の降った
日、
 念持仏は道真公の身から放たれて。遥々京の都へ飛来し、北野社右近馬場の松の枝
にかか
 ったのだと伝えられている。
  影向ようごうとは、仏・神などが仮の姿をとって人々の前に現れることをいう。 
14)松向軒
  豊臣秀吉が北野天満宮で大茶会を催した際に、細川三斎が作った茶室を復元したもの
 す。 影向松の側にあったので「影向軒」と名付けられたと言われている。 北野大
茶会
 の折、茶道三斎流の開祖細川三斎(細川忠興)が水を汲んだ井戸があります。
  「影向軒」という名の茶室は、大徳寺の塔頭・高桐院にもあります。 高桐院は細川
 縁のお寺で、三斎(忠興)と妻ガラシャの墓があるところです。 こちらは、寛永5

 (
1628)に三斎が作ったものを移築したものです。 
  北野天満宮には、月釜が2つあり、松向軒と明月舎です。 松向軒の月釜は毎月第二
 曜日です。 毎年1月だけは新年の行事が少し落ち着いた第三日曜日に開催されます。

15)梅苑 道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に「東風こち吹かば 匂い起こせよ 梅の
  花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌をよんだことや、その梅が菅原道真をしたって一晩のうちに大
 宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから、梅が神紋となっている。 約2万坪の境内に50種
 1500本の縁の梅がある。 例年2月初旬から公開され、2月中旬から3月中旬までが美しい。
16)紅葉苑 苑内には、豊臣秀吉が京都の四囲に築造した御土居の一部が境内に残り、史跡に指定されて
 いる。 御土居一帯におよそ250本、樹齢350年から400年の物が数本あり、赤や黄に見事に染まった木
 々が紙屋川の水面に映え渡り、錦秋の世界へ誘う。
17)神牛の由来
  承和12年(845)丑年の6月25日に菅原道真が誕生したとされています。 しかし、道真の誕生日に
 かんして、道真の伝記「北野天神御伝」「菅家御伝記」のいずれにも没年は記してあるが、生年月日が
 記されてなく正確な誕生日は不明なのです。 ただ、道真自身の年齢認識を見ると。道真の漢詩「菅家
 文草」によれば、11歳の時に詩を初めて作るとある。 この詩は斎衡2年(855)の作であって逆算す
 ると承和12年(丑年)が生年となる。 このように見てくると、中世以前においては生まれ歳の認識は
 薄い。 
  一方、神号由来説がある。 道真の霊は天満天神、北野天神、天満大自在天だいじざいてん、太政威徳天
 だいじょういとくてん
などの神号が与えられている。 このうち、天満大自在天、太政威徳天が牛とのかかわ
 りがある。 
  大自在天はバラモン教の最高神であるシバ神が仏教に吸収されて護法神とされている。 仏教の儀軌
 ぎき
(規則)によればその姿は三目八臂さんもくはっぴ(三つの目と八本の手を持姿)で白牛にのっている
 。 また大威徳天は衆生しゅじょうを害するいっさいの悪蛇・悪龍を征服するとされ、その姿は六面六臂
 六足(六の顔と六本の手六本の足を持つ姿)ですさまじい憤ぬの相で水牛に乗っている。 即ち大自在
 天、大威徳天ともに牛に騎馬するお姿であらわれるところから菅原道真と牛との関わりが説かれてい
 る。
18)大黒天の灯篭
  三光門を出て左側に、大黒さまが彫られた石灯籠があります。 この灯篭は、安政2年(1855)河原
 町正面にあった「大黒屋」をはじめとする質商組合によって奉献された。
  この大黒様の口(頬の穴)の小石を乗せて落ちなければ、その小石を財布の中に入れて祈るとお金に
 困らないと言われている。
19)伴氏社ともうじしゃ (国の重要美術品)
  菅原道真の母君が大伴氏の出身であることから、伴氏社と称する。 石造りの五輪塔が置かれていた
 が、明治維新の神仏分離政策により、当社南隣の東向観音寺にうつされた。 温かい愛情と厳しいまな
 ざしをもって菅公を優秀な青年管吏に育て上げた母君を祀るこの神社は、我が子の健やかなせいちょう
 と大成を願うお母様方の厚い信仰をあつめている。
  国指定重要美術品になっている鳥居は、両側のはしらの台座に蓮の花弁が彫られていることと、鳥居
 の中央の額束がくづかが島木を貫通して笠木に至っています。 この鳥居は、京都三珍鳥居の一つに数
 えられている。 他の京都三珍鳥居は、京都御苑内厳島神社の破風形鳥居と太秦にある蚕の社の三柱鳥
 居です。
20)天狗山(天神さんの七不思議)
  境内の北西方向に「天狗山」と呼ばれる小高い山があります。 室町末期に描かれた「北野天満宮社
 頭古絵図」の天狗山の位置に烏天狗が描かれている。 古くからこのあたりに天狗が住んでいたと考え
 られていたようです。
21)御神徳について
  道真公の御神徳は数えつくせないが主なものは次の通り。
 ① 農耕の神 雨を降らす雷雨を古代人は天神として崇めた。 秋のずいき祭りは天神信仰の姿とされ
  ている。
 ② 正直・至誠の神 「海ならず湛える水の底までも清き心は月ぞてらさむ」
   御歌が示す通り清く明るき誠の心を生涯貫かれた。 また、「9月10n日」の詞・「恩賜の御衣」
  に象徴されるのは忠節心。 配所で天皇から賜った御衣を毎日棒持し、余香を拝された菅公に至誠の
  権化として神格の一面をみる。
 ③ 学問・和歌・蓮歌の神 道長公は早くも5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を造14.5歳で天才と賞賛さ
  れ、後には「文道の太祖・風月の本主」と仰がれた。 また江戸時代に寺小屋が庶民の教育機関とし
  て普及し、毎月25日には「天神講」がおこなわれ書道の上達と学業成就をいのった。
 ④ 芸能の神、厄除の神、免罪の神当


                    年中行事
1.ずいき祭り
  ずいき祭りは各地にあるが、北野天満宮のずいき祭は平安時代中期、村上天皇の御代、天慶てんけい
 年~康保こうほう4年(946~67)、に始まったと言われる。 この祭りに天満宮に所属する西ノ京の神
 人じにん(古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職)
 と呼ばれる人たちが自ら作った野菜や果物などに草花をさしておそなえして収穫を感謝したことから、
 このお祭りは瑞饋祭ずいきまつりというようになった。
  お供えの行事は永く続き、応仁の乱でしばらく途絶えた後、大永7年(1527)からは一つの台に盛り
 飾り、野菜などの材料で人物や動物の形を作って、全体に二本の丸太を添えて担うようにしました。
 これが「ずいき神輿」の原型でしょう。 
  江戸時代に入って世の中が落ち着いた慶長12年(1607)、神人と周辺農家の協力による葱華輦そうかれ
 ん
(天皇が神事や臨時の行幸の際に使う輦。 屋根の上にネギの苞の形の飾りがある)型の本格的な
 「ずいき神輿」造りがはじまった。 芋茎ずいき(里芋の茎=葉柄の集合体)の名に合わせて、さとい
 もの葉柄を並べて屋根を葺き、各種の供え物や作り物でかざった神輿を作り上げ、これを担いで(京都
 市中京区)西ノ京各町を巡航した。
  「ずいき神輿」の形は元禄15年(1702)八角形の葱華輦から六角形の鳳輦型(輦は天皇の乗り物。
 輦には葱華輦と鳳輦の2種類がある、屋根の上にネギ苞が付けば葱華輦、鳳凰が付けば鳳輦となる)に
 変わり、更に享和2年(1802)に千木型に変わっています。
  千木型は、社殿の屋根の両端の所で、交差し高くつきだした部分の事を「千木」という。 千木の起
 源は古代の住居(3本の木材を交差させたものを2組造り、それを建物の両側に立てて、その交差部分
 に棟木をかけ渡した構造)の建築様式からきています。 この様式を採用している神社は、大社造、住
 吉造、春日造、神明造があります。
  北野天満宮のずいき祭は、明治に入って天満宮の神幸祭と西ノ京を中心とするずいき神輿の祭りが明
 治時代に合体したものである。 
 神幸祭
  第1日目、10月1日には午前9時半から鳳輦ほうれんに「御霊みたま」を移す出御祭しゅつぎょさいが行わ
 れた後午後1時導山をはじめ三基の鳳輦と松鋒他が本社を出御、宮司以下神職をはじめ氏子崇敬者らが
 供奉、約150人余が祭列を整え氏子区内お巡行して午後4時頃西ノ京の御旅所に到着、着御祭に引き継
 ぎ氏子地域より選ばれた女児による「八乙女舞やおとめまい」が奉納される。 鳳輦は還幸祭の4日まで
 ずいき御輿とともに御旅所に駐輦され、その間御旅所には多くの出店が連日午後10時まで軒を並べ祭気
 分で賑わう。
  二日目は御旅所で表千家宗匠による献茶祭、
  三日目には、西ノ京七保会による甲御供奉饌かぶとのごくほうせんが行われる。
  甲御供奉饌とは御旅所に鎮座している神様に西ノ京七保会の方たちによる甲の形にした供物をお供え
 します。 その由縁はいかの通りです。
  大永七年(1527)、阿波の三好長基が京都に攻め入った時、将軍足利義晴の管領細川高國が桂川で迎
 え撃ったが敗退した。 しかし、偶然にもその時入洛していた越前守護朝倉敏景が、これを聞きつける
 と、西ノ京の神人と協力して三好勢と戦い、長基を追い落とした。 
  将軍足利義晴は、神人の功を賞し、3月3日と9月9日を吉例の日として、北野天神に甲の御供をし
 ました。 それ以後、西ノ京の神人は甲御供奉饌をお供えしています。 明治6年(1873)神人の御供
 所が禁止された一時中断していましたが、明治40年(1907)、旧神人等の西ノ京七保会によって復興さ
 れ現在、毎年ずいき祭3日目の10月3日に甲御供奉饌が行われれます。 こうして御旅所での三日間に
 亘る神事はおわります。
還幸祭
  四日目10月4日午前10時御旅所で出御祭が執り行われます。
  12時30分頃に、ずいき神輿(大)が御旅所を出ます。 続いてずいき神輿(少)が出て行きます。
 ずいき神輿巡行と、還幸行列は、御旅所~御前上ノ下立売まで、ずいき神輿(大・小)と還幸行列が順
 番に見られる。 それ以後は、別のコースをとおります。
  還幸行列は、最初が獅子舞です。 続いて、太鼓、先駆神職、御榊です。 導山の山車に続き、梅鉾
 ・松鉾です。 その後に、御鉾・御盾。錦蓋・管蓋が続きます。 途中、円町の南に下がった地点で、
 八乙女・稚児袴・童子・汗杉かざみ(本来は汗を吸収する肌着であるが、公家童女の正装になった)・
 水干すいかん(男子の平安装束の一)・半尻はんじり(半尻の狩衣の略、裾を短くした狩衣、公家の日常
 着)などが加わる。 
  稚児袴に続き、童子・御歯車が続き、御剣・御弓・御盾・楽人付太鼓と鉦、神職先導と続きます。 
 汗杉が第一鳳輦の前を行、水干が葱華輦の前を行、半尻が第三鳳輦の前を行きます。 馬車が続き、最
 後に後駆神職が続きます。 還幸行列は、途中にある三条駐輦所で食事屋休憩をします。 神事が行わ
 れ鳳輦三基の前で担ぎ手の記念撮影あおします。 
  ずいき祭還幸祭で一番多くの人が撮られている場所は上七軒です。 ずいき神輿や鳳輦などが上七軒
 を通ります。 通過する床には、舞妓さんや芸妓さんがみられます。 行列は氏子地区を廻り、上七軒
 を16時前後通過します。 
  ずいき神輿は御旅所に戻り、還幸行列は北野天満宮の参道に到着。 本殿前に鳳輦などを置き、門を
 閉めた後で神事(御霊返し)が行われます。

2.北野祭(北野天満宮例祭)
  北野祭は、北野天満宮創建の翌年から始まり、永遠元年(987)に一条天皇の勅使をお迎えしたこと
 から国家の祭祀(直祭)となったかっての北野祭が起源です。 かっての北野祭では村上天皇から賜っ
 た鳳輦などの荘厳。華麗な渡御がおこなわれ、その様子が「北野祭礼図絵巻」にも描かれています。   かっての北野祭は応仁の乱(1467~1477)などの兵火や時流の変化により、一時中断しました。 
 現在、北野祭(北野天満宮例祭)は8月4日に行われている。 これは永延元年(987)に一条天皇の
 勅使を迎えて斎行した日に当たります。 北野祭は当神宮で最も大切な神事とされ、皇室の繁栄・国家
 安泰・五穀豊穣・無病息災を祈願します。 祭典は午前9時はじまり。約50分で終了する簡素な祭典で
 す・
  現在、北野天満宮の祭礼といえば、毎年10月1日から5日間に亘って開催される「ずいき祭」のこと
 である。 数ある京都の秋祭りの先陣を切って開催されるこの祭礼には。西京地区に居住する氏子を中
 心にした祭礼で、なかでも期間中、御旅所で安置されている「ずいき神輿」は中世以来の神供の性格を
 引き継ぎ今でも保存会での手により芋茎ずいきや各種の野菜を神輿の形に取り付け精巧にして仕立てら
 れている。 北野社の氏子がその年に収穫した野菜・果物等を用いて神饌を造り、五穀豊穣成就のお礼
 を行うのがこの祭礼の意義である。 しかし、このような現行の北野天満宮祭礼を古代中世まで遡るこ
 とはできません。 事実、昭和3年4月に西ノ京青年団によってまとめられた「瑞饋神輿略記」には、
 当祭礼の初源は応仁の乱によって従来の祭礼が断絶したことが契機であったと述べられている。 それ
 では古代中世における北野祭礼どのようなものだったろうか。 
  明徳2年(1391)の北野祭の状況を見てみよう。
 一日目(8月1日)
  本社  ① 旬神供 神に対する御供え物。 もとは神を人間と同様に考え、衣類は
        仕立てて、食物は料理して備えた。
      ② 御神楽舞の奉納
      ③ 獅子舞奉納
      ④ 田楽
      ⑤ 神輿出御 内陣に納められていた神輿を境内に
      ⑥ 餝神供 再度神へのお供え物をする
      ⑦ 老松殿備進
      ⑧ 一御鉾参上
  移動  ⑨ 神輿神幸 本社→御旅所
      ⑩ 保々御鉾
      ⑪ 大蔵省御幣
 二日目(8月2日)
  御旅所 ① 内陣御燈
 三日目(8月3日)
  御旅所 ① 内陣御燈
 四日目(8月4日)
  御旅所 ① 北野祭
  移動  ② 神輿還御 御旅所→本社
      ③ 大蔵省御幣
 五日目(8月5日)
  本社  ① 御霊会
      ② 獅子舞
      ③ 田楽
      ④ 舞楽
      ⑤ 法会
      ⑥ 相撲
 六日目(8月6日)
  本社  ① 山門8講
 上記のように、明徳2年(1391)の北野祭は6日なわたって行われており、非常に大きな祭礼であった
 ことがわかる。 
  現在の例祭(北野祭)は、一条天皇の命により初めて勅裁が執り行われ「北野天満宮天神」の神号
 を。得ました。 8月4日に「例大祭」が行われまあす。

3.北野天満宮骨董市(天神市)
  御祭神菅原道真公の誕生日6月25日、薨去こうきょ2月25日に因み、毎月25日は御縁日として、終日
 境内周辺に露店が所狭しと立ち並び、参拝者の人波が絶えません。
  縁日(毎月25日)の中でも特に1月25日は初天神、12月25日は終い天神と呼ばれ京阪神はもとより全
 国からの多数の参拝者でにぎわう。 (例年約15万人の参拝者)初天神は、新春一番の天神さんの日と
 して、国公立・私立大学・高校・中学等の入試を控え、真剣な受験生・父兄等の参拝も多く、合格祈願
 を受けたり、絵馬に願い事を託する真剣な姿に、学問の神として知られる当宮への厚い信仰を如実に見
 ることができる。 
  また境内の梅の花も例年このころには、白梅・紅梅ともちらほらと咲き始め、全体的には2月下旬か
 ら3月上旬が調和のとれたよい見頃になると予想している。
  終い天神市は、正月の祝箸やお屠蘇等が授与され、参道には露店も例月以上に多く、植木・骨董・古
 着・衣料品などの店にくわえて、この日は「葉ボタン」・「注連飾り」・「荒巻鮭」などの正月用品を
 商う店がめだち、境内を行き交う人々の間にも、どことなく慌ただしさが漂っている。





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