京都・朱雀錦
  (64)「北野天満宮関連大宰府天満宮


大宰府天満宮(重要文化財)
   
所在地   福岡県太宰府市宰府4丁目7番地1号
       主祭神 菅原道真公
       社格等 旧官幣中社、別表神社
 
 太宰府天満宮は歴代皇室を始め全国民から篤い崇敬を受け、今も参拝者は年間650万人にのぼり北野天満宮と共に全国天満宮12,000社の総本山である。 律令制下、日本の国土防衛の拠点であり、大陸文化導入の拠点でもあった大宰府鎮護の古くからの至聖地、竃門山かまどやまの西南山麓に位置し、旧称、安楽寺、天満宮安楽寺、安楽寺聖廟などと呼ばれた。
 祭神は、当地で没した悲運の才人・菅原道真で、朝廷で讒言をうけて左遷され、失意のまま最期を遂げた、当地に埋葬された。 門弟・味酒安行がその墓地に霊廟を建立した、これが後の大宰府天満宮である。 祭神の菅原道真公は、学問・誠心の神、芸能・書道の神、火難・雷除けの神、祈雨止雨の神、農耕の神、子供の守り神などとして広く信仰されています。 
1.大宰府権師
 昌泰しょうたい4年(901)正月7日 時平と道真とは相並んで従二位に叙した。 しかし、破局は早くもこの月の内に生じた。 同年正月25日、道真は突如として太宰権師だざいごんのそつに左遷されることになった。 昌泰4年(901)正月25日、「諸陣警固し、帝(醍醐天皇)南殿(紫宸殿)に御ぎょしたまひ、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権師だざいごんのそつに任じ………又、権師の子息(高視たかみ・景行かげゆき・兼茂かねしげ・淳茂あつしげ)等、各々以て左降さこう」という異常な人事が強硬されるにいたった。 その時の宣命にはには、左遷理由として次の如くきされている。
 ㋑右大臣菅原朝臣、関門
かんもんより俄にわかに大臣に上のぼり収おさまり給たまへり。 
  而
るに止足しそくの分を知らず、専権のこころあり。 佞謟ねいでん(口先がうまい。
  疑う)
の情を以て前上皇の御意ぎょいを欺あざむき惑まどはせり。
 ㋺然しかるを、上皇の御情おんなさけを恐れ慎つつしまで奉行し、御情を敢えて恕おもいやる無く
  て、
廃立を行なひ、父子の志(慈)を離間
りかんし、兄弟の愛を淑破しゅくはせんと欲す
  。

(詳細は「神社9 北野天満宮」参照)
 正月27日、道真に随行する役人は左衛門少尉善友益友と称すると部下二名が任命された。 菅原道真(845903)は、2月1日、京都を発った。 旅装を整える暇もない慌あわただしさであった上に、道中の国々に「食・馬給たまうことなし」と命ぜられていたから酷薄の待遇を受けての西下であった。 
 道真の長男大学頭高視たかみは、土佐介に、式部丞景行かげつらは駿河権介、右衛門尉兼重かねしげは飛騨権掾に、文章得業生もんじょうとくぎょうしょう淳茂あつしげは播磨にと父子は5か所分けられた。 妻室と年長の女子は家に残ったが、年少の男女・隈麿と紅姫は道真と行を共にした。
 道真の大宰府の生活は惨めでたった。 大宰府政庁の南館でありながら当時はあばら家で床も朽ち、縁も落ちていた。 井戸はさらい、竹垣は結はなければならなかった。 屋根は漏って蓋う板もなく、棚の上の衣裳は湿り、箱の中の書簡は」損傷する始末であった。 
 しかも虚弱な道真は健康の不調を訴えことがしばしばである。 胃を害し、石を焼いて温めても効果はなかった。 眠られぬ夜は続き、脚気と皮膚病に悩まされた。 謫居(後の榎社)での生活は不自由な苦しいものであったが、愛らしい幼児二人が由一の心の支えとなったであろう。 しかし、隈麿は謫居は大宰府に到着した翌年に病にかかり、急折した。 紅姫のその後については定かでない。
 彼は身の悲運を嘆き、謫居たっきょの苦しさを歌ったが人を恨むことはしなかった。 まして天皇に対する忠誠の念はいささかの曇りも生じなかった。
 「北野天神御伝」に道真は大宰府にあって念仏・読経を平としその余は時々筆硯を翫
もてあそんだだけと記してある。 延喜3年正月病が重くなり、他国で死んだ者は遺骨を郷里に返すのを例とするが、自分はそのことを願わない、また吉祥院の10月法華会は累代の事であるから将来も絶やさないことと遺言したという。
 道真は、延喜3年(903)2月25大宰府にて薨じた。 享年59歳であった。
2.天満宮安楽寺の建立
 「安楽寺草創日記」などによれば、延喜3年(903)2月25日に道真が謫居で薨じ、大宰府の東北へ葬送する途中四堂(祠堂?)の辺で遺骸を乗せた牛車が動かなくなった。 この牛の奇妙な振舞を「当地に埋葬せよ」との道真公の意志だと解釈した。 亡骸をそのままそこに埋葬した。 
 また、道真に随行し道真の最期を看取った門弟の味酒安行うまざけやすゆきは、道真公の49日に観音堂を立てて祀り、延喜5年(905)に神託によって神殿を建立し、更に延喜10年(910)墓寺・安楽寺を創建した。
  道真公没後、京の都では、異変が相次いだ、旱魃、落雷、疫病、の異変が生じ、世間では、これを道真公の祟りとして恐れたが、大宰府天満宮ではこの怨霊説は取っていなかった。 
 京都で道真公怨霊説が渦巻く中、天満宮安楽寺では墓前の祭祀
さいしを絶やさずにいたが、延喜19年(919)、醍醐天皇は、道真公の生前の忠誠を追慕して勅命により社殿を造営した。 更に、延長元年(923)、本官{右大臣}に復した。 安楽寺または天満宮安楽寺と称するようになるのは、神殿を建立した延喜5年(905)から醍醐天皇の勅命で社殿を造営する直前延喜22年(922)の間と考えられている。
 そして天暦元年(947)に平忠(道真公の孫、淳茂の次男)が天満宮安楽寺初代別当として着任した。  天満宮安楽寺は当初は全くの私建寺院―即ち、菅原氏の氏寺であり、天満宮は道真の廟であった。 その別当職には菅原氏より、道真の子孫が選ばれ、しかもその補任権が菅原氏氏長者に掌握されてこれより発する公文書が効力をもつのであった。 当時の貴族各氏の氏長者の所有していた権限にかっての古代豪族長の有していたとどうような氏神または氏寺の祭祀・管理権が見られる。 
 やがて二代目別当鎮延(道真の孫、兼茂の子)は太政官符をもつて別当職にされた。 太政官符とは日本律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式公文書であり、このことは、天満宮安楽寺は官寺に準ずる取扱いをうけていた。 天満宮安楽寺創立後50年足らずにして、律令的権威を借りて寺の地位を高めたものと考えられる。 大宰府の結びつきも極めて強く期待される。 むしろ大宰府によってその存立、発展を計って行かねばならない寺院であったといえよう。 官寺的性格を帯びてきたことは外護者に大宰府を仰ぐためにも好都合であり、益々隆盛に向かいつつあった天神信仰と相俟って、大宰府官人として下向した中央貴族達と天満宮安楽寺との結びつきを一層緊密にさせたものであろう。 
 寺領もまた大宰府関係の官吏の寄進によって成立し、平安末期に至って最大に達した。 数十町から百数十町に及ぶ荘園三十か所に及んだ。 

3.宮廷文化の移入
 九世紀における大宰府は概して内政・外交に忙しく文芸面での事績には見るべきものが少ない。 十世紀に入ると、菅原道真終焉の地が祠廟・御墓寺として天満宮安楽寺となると、それまで大
宰府が担っていた文化的機能は、大宰府官人自らの手によって天満宮安楽寺に移行されていった。 
 大宰府官人による中央貴族文化の天満宮安楽寺への移入として最も典型的なものは年中行事である。 それは「天満宮安楽寺草創日記」のいわゆる「四度宴」として知られている。 貝原益軒(1630~1714)の「大宰府天満宮故実」には次のように記している。
 「又いにしへ、此御神のため、年毎に、四度の宴を行ハる、内宴、曲水、七夕、残菊是也、お凡そ此の日は、別当以下社人悉く一所に集まり、うたを詠じ、文人詩を献じて、詩歌管弦の会有しとかや、この御神は、きわめて風雅におはしましければ、神の御こころをなぐさめまいらせんとの為成るべし、中略、中比、乱世となりしよりこのかた、四度の宴もたえて久しくおこなはれず、今はただ、七夕の和歌の会のみぞ残り侍る。 」
イ) 曲水の宴
  天徳2年(958)3月3日、前太宰大弐小野好古が安楽寺に曲水宴を始めた。 菅原道真没後、
 大宰府官人が天満宮安楽寺と直接関係を証の初めである。 
  曲水の宴は、水の流れのある庭園などでその流れの淵に出席者が座り、流れてくる
 盃が自分
の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその
 詩歌を披講すると
いう行事である。
  曲水宴も中国渡来の文化である。 中国において古い時代から上巳じょうし節句(旧暦
 3月3日)
に水辺で禊を行う風習があり、それが3月3日の禊と共に盃を水に流して
 宴を行うようになっ
たとされる。 中国古代、周公の時代に始まったとも昭襄王の時
 代にはじまったとも伝えられ
ている。
  日本では顕宗天皇元年(485)に朝廷の儀式として行われたのが初見である。 ただ
 しこの記
事から曲水の宴に関する記録は文武天皇5年(701)まで途絶え、その間も行
 われていたか不明
である。 文武天皇以降史上に散見するようになり、奈良時代後半
 には盛んになった。 平城
天皇の代に一時廃されたが、嵯峨天皇がこれを再開し、平
 安時代には宮廷や貴族の邸宅などで
も行われるようになった。
  天満宮安楽寺に移入された曲水の宴の規模このようなものであったろう。 小野好
 古は天慶
2年(939)、天慶てんぎょうの乱鎮圧の追補山陽南海両道区賊使長官として九州
 下向し、大宰府を
襲撃した藤原純友すみともを博多津にて撃退し武名高かったが、詩
 人として著名な小野篁
たかむらの孫で、三蹟の一人唐風の兄であり、和歌をよくし、「後
 撰和歌集」「拾遺和歌集」「大和物語」
にその歌が見える。 
ロ)残菊宴
  康保元年(96410月、太宰大弐小野好古は、さきの曲水宴に引き続天満宮安楽寺に
 残菊宴
を創始した。 残菊宴とは「平安時代以降江戸時代のころまで、陰暦10月5日
 に宮中で残菊を
観賞して催された酒宴」である。 「草創日記」は、曲水旦那(小野
 好古)始之、御供、酒殿役、請僧四十人、供料土師庄立用、文人二十人
と伝えてい
 る。 酒殿は、筑前国糟屋郡にある天満宮安楽寺自ら長寛2年(
1164)に開発した

 満宮安楽寺所領である。 だから残菊宴が酒殿役となったのはこれ以後である。 供
 料を用
立てする筑前土師はじ庄は万寿元年(1024)大弐藤原惟憲が往生院を建立してそ
 の維持のために
寄進した天満宮安楽寺領である。 だから「草創日記の記述は、小野
 好古創始当時の状況では
なく、長寛2年(1164)以後の状況をきしたものである。 
 その段階での人的規模は、僧四十
人、文人二十人で、大宰府長寛の主催により天満宮
 安楽寺の神官・僧侶達の参加があったこと
が知られる。
ハ) 内宴
ないえん
  長徳元年(995)正月21日、天満宮安楽寺に内宴が始められた。 「草創日記」は「
 大弐有国卿始レ之」としているが、この年次が正しいとすれば、太宰大弐は藤原佐理

  けまさ
の在任中である。 佐理は宇佐宮神人と闘乱して、長徳元年(995)10月18日に大
 弐を罷め、勘解由長官藤原有国がこれに替わり、翌年長徳2年(996)8月2日赴任し
 ている。 「草創日記」の有国創始説が正しいとすればこの時から、長保3年1001)
 2月19日京都に召された時までの間ということになる。 
  内宴ないえんとは、平安時代に1月下旬に内裏にて行われた宮中の私宴である。
  中国(唐)の風習に基づいて嵯峨天皇の時代に始められたとされているが、具体的
 な成立年
については大同4年(809)、弘仁3年(812)、同4年(813)と諸説がある。 当初は特定
 の期日はなかったが、仁明天皇時代以降に原則は1月21日、ただし、1月22日もしくは23日が“子 
 の日”であれば、その日に開催することとなった。 なお、この日程に開催されることになった背景に
 は、一連の新年の儀式が一段落し、天皇がそれらに参加した貴族らを慰労する意味があったと言
 われている。
  天皇は仁寿殿で文人に詩を賦よませしめ、御前においてその詩を披露し饗応となる。 長元
 (1028~1037)以後中絶、「平治物語」によれば藤原通憲によって再興されたと言うが、間もなく廃
 絶している。
  藤原有国(あるいは藤原佐理)は宮廷での右の内宴をほぼそのままの形で天満宮安楽寺に移し
 たものであろう。 「菅家文草」に見える内宴関係の詩は他の曲水宴・残菊宴・七夕宴関係の詩に比
 べると断然多い。 
ニ) 七夕
  七夕は、中国、台湾、日本、韓国、ベトナムなどにおける節句の1つに数えられれている。
  中国 織姫と牽牛の伝説は「文選」の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初
 出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかでない。 その後、南北朝時代の「荊楚歳時記
 」には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針穴に美
 しい彩の糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれている。 
  また六朝時代、梁の殷芸
いんうんの小説には「天の川の東に織姫有、天帝の子なり。 年々に機を
 動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。 天帝その独居」を憐れみて。川西の
 牽牛郎に嫁すことをゆるす。 嫁して後機織りを廃すれば、天帝怒りて、川東に帰る命を下し、一年
 一度会うことを赦す」これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期
 を考証できる史料の一つである。
  日本の七夕は元来、中国の行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津
 女
たなばたつめの伝説と合わさって生まれた。 
  旧暦の7月15日に、水の神が天から降りて来ると言われ、川、海、池のほとりに棚の構えの有る
 機を用意し、その村で選ばれた穢れを知らない乙女(棚機津女)が神聖な織物(神が着る服)を織っ
 て、捧げた。 棚機津女は、村の災厄を除いてもらうために、棚に籠って、天から降りて来る神の一
 夜妻となり、神の子を身ごもり、彼女自身も神になるという話である。
  永承元年(1046)7月、太宰権師藤原経通が天満宮安楽寺天満宮に七夕宴を始めた。 
  藤原経通は七夕宴を始めるとともに、それを含めた5節供を始めた。 「草創日記」には、 5節供
 、永承元、経通始レ之、御供、人供者五綱所司役、七月七日御節供、別当調備也とある。 五節供
 は五季節の行事の意味であろうが、7月7日御節供以外はわからず、右以外関係資料がなく、具体
 的なことは不明である。
4.天満宮炎上
 大内義興よしおき14771528)は明応3年(1494)家督を継ぎ、翌明応4年(1495)9月18日、九州の文化に大きな影響を与えた父政弘まさひろが死去したあと、名実ともに大内氏の当主となった。
 九州筑前国少弐しょうに氏と周防国大内氏は長年対立関係にあった。 応仁元年(1467)からの応仁の乱で、大内氏が西軍につくと、少弐教頼のりより・政資まさすけ父子は東軍についた。 翌応仁2年(1489)九州で蜂起した父・教頼が大内氏に敗れ戦死した。 
 家督を継いだ少弐政資か大内氏に奪われていた筑前、豊前国を奪還し、経済的には大陸と貿易を行い利益をあげ、少弐氏を一時的に中興していた。 
 大内義興は明応5年(1496)12月、少弐政資を討つべく兵を発し、翌6年正月大宰府にはいった。 少弐政資・高経父子は肥前国小城郡晴気城に立て籠もったが、大内軍に攻められて破れ4月19日自害した。
  大宰府天満宮文書によると、大宰府天満宮は明応7年に炎上している。 「筑前国続風土記拾遺」は同年11月22日、少弐政資の残党と大義興の兵との兵火にかかわったものだと伝えている。 
 文亀2年(1502)11月19日天満宮造立日時が勘申かんじん(儀式などの諸事について、先例,典故、吉凶、日時などを調べて上申すること)され、翌年2月20日落成している。 また大内義興は文亀2年11月13日に天満宮安楽寺に筑前早良郡の社領を安堵しており、大内義興によって再興されたのであろう。 
 明応8年(1499)前将軍足利義尹よしただ(義槙よしたね)が大内義興を頼って山口に赴き、約8年滞在した。 永正5年(1508)6月、前将軍足利義尹を奉じて上洛し、義尹を将軍に再任させ、以後10年間幕府の実権を握り永正15年8月帰国している。
1)本殿(重要文化財)
  大宰府天満宮の社殿は、明応7年(1498)、」永禄10年(1567)、天正6年(1578)と三度兵火によ
 り焼失した。 現在の本殿は、筑前国(福岡県)領主小早川隆景が天正19年(1591)再建したもので
 ある。 
  建築様式はどっしりとした五間社流造
ごけんしゃながれづくりで、屋根は伝統的な檜皮葺ひわだぶき。 左右に車
 寄せ、正面に唐破風
からはふ造りの向拝こうはい一間いっけんを備え、桃山時代ならではの豪壮華麗な佇まい
 をみせている。
  太宰府天満宮は、拝殿や幣殿へいでんを設けていない。 道真公の御霊代みたましろは、御本殿
 内部の中央、錦の帳で仕切られた内々陣に奉安されており、礼拝用の場はその前面にしつらえら
 れている。 室内には六本の金柱が輝き、漆や岩絵具で鮮やかに彩られ、随所に美しい彫刻もち
 りばめられている。
2)飛梅と皇后梅
  樹齢1000年を超えるとされる白梅で、本殿前の左近(本殿に向かって右側)に植えられており、根
 本は3株からなる。 太宰府天満宮に植えられた梅のなかで一番先に咲き始めるとされている。 
  飛梅は元来、菅原道真の配所(府の南館)跡に建立された榎社の境内にあったが、太宰府天満
 宮が造営されると本殿前に移植されたといわれている。 このほか後代に道真を祭神とする神社に
 株分けされたものが各地に現存する。 
  飛梅伝説、道真を慕う庭木のうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの
 、悲しみの余り、見る見るうちに葉を落とし、ついにかれてしまったという。 しかして梅と松は、道真
 の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。 ところが松は途中で力尽きて摂津国八部
 郡板宿(兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くの後世「飛松岡」と呼ばれている丘に降り、この地に根を
 おろした(これを飛松伝説という)。 一方、一つ残った梅だけは、見事その日一夜のうちに主人の
 暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという。
  飛梅伝説の現実的経緯は、一説に、道真に仕えて大宰府に同行した味酒保行が株分けの苗木
 を植えたものとも、道真を慕った伊勢国度会郡の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から
 密かに持ち出した苗木を献じたものとも言われている。 
  皇后梅きさきうめ 本殿の右近(本殿に向かって左側)植えられている、紅梅は、貞明ていめい皇
 后大正時代に植えられた梅で、飛梅の反対側に並んで植えられている。 
3) 楼門(楼門と二重門)
  楼門とは、2階建てで、一重目は縁のみを持ち、最上層に屋根を持つものである。 楼門は二階造
 りの門のことで、二重門も本来は楼門といった。 二重の屋根を持つ物と持たないものがあるため、
 現在では、楼門と二重門に分類されている。 
  大宰府天満宮の正門は、やや特殊である。 本殿側から見れば楼門であり、太鼓橋側から見れ
 ば二重門である。 大宰府天満宮ではこれを楼門と呼んでいる。 
  太鼓橋側から見ると、重層の入母屋造、檜皮葺の二重門、全体が朱塗りで、堂々たる風格にあふ
 れた佇まいがみごとである。 慶長年間(1596~1615)に石田三成が再興しましたが、明治に消失
 、大正3年(1914)に再建された。」
4)手水舎
  神社を訪れたらまず手水舎で清めます。 大宰府天満宮の手水舎の手水鉢は、昭和9年に博多
 の豪商石田清氏の奉納したもので、我が国では類例を見ない巨大な手水鉢です。 
  この手水舎の手水鉢は、霊峰宝満山山腹より、切り出された約6メートル×約4メートル×約2メ
 ートルの巨大石をくり抜いたもので、手水鉢の底には全長3メートルの神亀じんぎ(像)が泳いでい
 ます。
5)心字池
  楼門の前に心字池があります。 漢字の「心」の字の草書体を形どって作られた日本庭園のいけ
 です。 心字池は太宰府天満宮固有の物ではなく、桂離宮や西芳寺など各地に存在します。 この
 心字池には黒田如水が寄進した3連の御神橋(通称太鼓橋)が架けられています。 御神橋は太鼓
 橋、平橋、太鼓橋の順続いていますい。 初めの太鼓橋は「過去」、次の平橋は「現在」、最後の太
 鼓橋は「未来」を意味し三世一念の仏教思想を意味しているようです。 本殿にお参りするときは、こ
 の橋を「過去」、「現在」、「未来」の順に渡ります。 後ろを振り向けば、過去に戻り、縁起が悪いと
 言われている様です。 本殿にお参りし、帰るときは、この橋は渡らず、心字池の周り道を通るそう
 です。 
  「現在」を意味する平橋と「未来」を意味する太鼓橋の間の島に志賀社があります。 志賀社の主
 祭神は、仲津綿津見神
なかつわたつみのかみ、底津綿津見神そこつわたつみのかみ、表津綿津見神うわつわたつみのかみ、の3
 柱は綿津見三神
わたつみさんしんと総称されている。 海の神様です。
  正面一間、側面一間の方形。石の亀腹の上に土台を置き、屋根は入母屋造りで正面に千鳥破風
 、その前面に軒唐破風をつけて向拝屋根としていまあす。 長禄2年(1458)建造。 大宰府天満宮
 最古の建物。 国の重要文化財です。
6)榎社
  所在地 福岡県太宰府市朱雀6丁目
  榎社えのきしゃ(別称榎寺)、大宰府天満宮境内飛地にある神社。 菅原道真が昌泰しょうたい4
 年(901)大宰府に左遷されてから延喜3年(903)に逝去するまで謫居たっきょした跡で、当時、府の
 南館であったと言われている。 
  治安3年(1023)大宰府藤原惟憲が道真公の霊を弔うために淨妙院を建立したのが始まりで、境
 内に榎の大樹があったので榎寺と呼ばれるようになった。 
  大宰府天満宮の神幸祭(通称どんかん祭り)で道真公の神輿が雅やかな行列とともにこの社に下
 り、御旅所で一夜を過ごす9月22日も夜、普段は人気のない社は、年に一度の賑わいを見せる。 
 御旅所の後ろに小さな祠があって、御輿はまずその前に行き宮司が奉幣する。 この祠に祀られて
 いるのが、道真公を日夜世話したという淨妙尼である。

                        歳時記
1.神幸式大祭
じんこうしきたいさい 
  平安時代康和
こうわ3年(1101)。大宰府権師大江匡房まさふさによりはじめられ、天神様菅原道真公
 御在背世の往時を偲び、御神霊おみたまをお慰めするとともに、皇室の御安泰と国家の平安、さら
 に五穀豊穣を感謝する秋祭り、
  往古の伝統を経諸するこの「神幸式大祭」は、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
  一般に神社の秋祭りは、御祭神が神輿に乗って氏子地区に出かけ、農作物の出来や氏子の暮ら
 しぶりをご覧になるというのが本義です。 大宰府天満宮の神幸祭はそれに加えて、御神幸で出か
 ける場所そのものに大きな意味があります。 榎社は道真公が生前住まわれていた南館です。 無
 実の罪で大宰府に流され、困窮した暮らしを送っていた道真公は淨妙尼じょうみょうにという女性か
 ら食事をはじめ心尽くしの世話をうけました。 現在、榎社には淨妙尼が祀られています。 年に一
 度の御神幸で、道真公は淨妙尼のもとへ出向かれ、お世話になったお礼にまいります。
  神幸式大祭は、9月21日~25日の5日間に渡って行われますが見どころは、22日のお下りの儀、
 23日のお上りの儀と25日の千灯明・神楽です。
  9月21日15時 神幸式大祭
  22日19時お下りの儀式
     20時御本社出発
      御神輿を中心とする総勢約500人の大行列です。 御本殿から約3km離れた榎社まで約2
    時間半をかけ渡御するお下りは例年午後8時、に出発します。
     22時30分榎社に到着 献饌祭りが行われる
  23日15時稚児の大和舞
     15時30分榎社を出発、御本社に向かう
       行列に奉仕する人達は時代装束をまとい、行列の先頭は、先払いのは鉄杖が務め、騎馬
      した先導の神官、鉾や刀などを持った威儀の者、雅楽を奏する伶人などが続いた後に御神
      輿が静々と進みます。 神輿の後には神馬、神牛、神官、氏子関係者、大宰府市長はじめ
      地元の要職者がつづきます。 神馬が御神幸の行列加わるのは珍しくないが、神馬だけで
      なく、神牛も加わるところは天満宮らしい。 
     18時浮殿御着 献饌祭。竹曲奏上
 9月24日19時 献饌祭
    25日11時 秋季例大祭
       20時 千灯明・雅楽
           天神様の御神霊に捧げるられる神事で心字池の周りに配置されたローソクによる御
          神火が灯されます。 1000本のローソクに御神火ともされると、水上舞台では巫女に
          よる神楽「悠々の舞」等が奏上され、闇夜に浮かび上がる灯明の明かりが池の水に
          映り幻想の世界にさそいます。





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