双林院聖天堂

              双林院不動堂

              勅使門参道
              晩翠園
                              京都・朱雀錦
  (65)「天台宗五門跡毘沙門堂


毘沙門堂・唐門と本堂

所在地 京都市山科区安守稲荷山町18
宗派等 護法山出雲寺毘沙門堂門跡 天台宗
開基等 開基 行基、開山 行基  中興の祖 天海僧正

                               歴史
 毘沙門堂は、天台宗京都五箇室門跡の一つである。 寺伝によれば第42代天武天皇の勅願を受けて行基が、平安亰遷都より約一世紀早い大宝3年(703)行基に創建し、当初は鴨川の西畔出雲路にあったことから護法山出雲寺と号しました。 
 当時の出雲路は現在の今出川通と北大路通りに挟まれた東西の通りで、賀茂川に出雲路橋という橋が架かっておりこの橋の延長選上にあったと考えられる。
 また相国寺の東側に、京都市上京区に毘沙門町と毘沙門横町という地名が残っており此の当たりに出雲寺があったものと思われる。 また相国寺の北側に上御霊神社があるが、この神社は出雲寺の境内あったとのことで、最盛期の出雲寺は七堂伽藍の大きな寺院で、例えば金堂七間四面瓦葺き、講堂五間四面瓦葺き、食堂五間四面瓦葺き、経蔵瓦葺き、宝蔵、鐘楼、南大門二階瓦葺き等がある。 平安時代、延暦年間(782805)、伝教大師最澄は、出雲路で自ら刻んだという丈六じょうろく(一丈六尺=4.85m)の毘沙門天像を安置し、出雲寺と名付られ、やがて毘沙門堂と呼ばれるようになった。
 その後、平治元年12月9日(1160.1.19)の平治の乱で出雲寺の伽藍は消失し、その後荒廃していたことが、「今昔物語」の記述などから伺われるという。 
 鎌倉時代の初期、平親範置き踏文(「洞院部類記」)という資料によると、同年平親範は廃絶していた平家ゆかりの三寺(平等寺、尊重寺、護法寺)を合わせ出雲路の旧出雲寺境内に五間堂(間口の柱間が五つある仏堂)を三棟建立したという。 置文によれば平等寺は、桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖でもある葛原くずはら親王(786853)の創建で、太秦うずまさ(京都市右京区)に所在した。 その後、消失し廃寺となったが、本尊はのこった。 
 尊重寺は平安時代の公卿・平親信(9451017・従二位・参議・高棟王流)が五辻(京都市上京区)に建立した。 その後、廃絶されたが。本尊は大原(京都市左京区)に移された。
 護法寺は平親範の父・平範家(11141161・従三位・非参議・蔵人頭)が、伏見(京都市伏見区)創建した。 応保元年(1161)範家が死亡した年、北岩倉(京都市左京区)に移動した。 なぜ移転したのかの理由は不明とのこと、範家の死去と関係があるのか。 長寛元年(1163)護法寺は、比叡山山徒により焼かれ、本尊多聞天たもんてん(毘沙門天びしゃもんてんとも言う)像は大原来迎院に移したのち一堂を建て安置した。  北岩倉の寺領は三井寺すわち寺門派の土地であつた。 比叡山宗徒は山門派であり、寺門派と山門派は不仲で度々騒動を起こしている、そのうちの1つと思われる。 
 鎌倉時代初期、建久6年(1195)、前期の通り平親範(11371220・正三位、参議・高棟王流)は旧出雲寺境内に、「五間の精舎しょうじゃ(仏堂)」を建立し、既に廃寺となっていた平等寺・尊重寺・護法寺を一寺に統合した。 このとき中央に護法寺の本尊毘沙門像を来迎院から移して据え、西に平等寺、東に尊重寺の本尊を祀った。 三寺はいずれも平家ゆかりの寺で、この三か寺が統合された出雲寺毘沙門堂は平氏の氏寺とも言える大寺となり、創建者の平親範(圓知えんち)は毘沙門堂民部入道と称された。
 話は変わるが、延暦13年(794)桓武天皇の平安遷都と時を同じくして、比叡山延暦寺を開いた伝教大師最澄が、根本中堂の本尊薬師如来の残材で2寸2分の毘沙門天の小像を刻み、桓武天皇に献上した。 天皇はこの小像を常に冠の中に収めていたと言う。 それを皇子である葛原親王にあたえた。 その後、親王の子孫である平親範が丈六じょうろくの本尊毘沙門天像の胎内に納めたそれが毘沙門堂の本尊である。
 中世には桜の名所として知られ、その記事が諸書に散見される。 例えば藤原定家の「明月記」、仏教説話集「沙石集」や世阿弥の謡曲「西行桜」に取り上げられている。
 隆盛を誇った出雲寺も応仁の乱から戦国時代にかけての兵火にかかり廃絶状態が続いたが、江戸時代初期の慶長16年(1611)後陽成天皇がその再興を天台宗の僧天海に命じた。 当時の天海はすでに徳川家康の信任篤く、川越(埼玉県)の喜多院や下野しもつけ(茨城県)日光山を主宰していた。 家康没後の寛永2年(1625)三代家光のとき、江戸上野の忍岡に天台宗の関東総本山として東叡山寛永寺を創建してその一世住職となり徳川三代にわたって貢献した。
 柳山と安祥寺山に挟まれた谷奥の幽邃ゆうすいの地、現在の山科安守稲荷山の広大な寺地に七堂伽藍が甍を競う様は、復興というより創建と言うに相応しい壮観を呈した。 正式には護法山出雲寺毘沙門堂門跡と合したが、本尊毘沙門天の御利益により山科毘沙門堂の名で広く知られている。
 しかし、山科毘沙門堂の復興が緒についたころ天海は没し、高弟の公海こうかいがその遺志を継いだ。 公海は花山院忠長の子で元和6年(1620)、14歳のとき天海に乞われてその継嗣となり、寛永20年(1643)天海死後は師と同じ道を進み、東叡山寛永寺2世となり、比叡山・日光の両山を主宰し、慶安4年(1651)大僧正に進む。
 この公海によって、勅命を受けてからおよそ半世紀の寛永5年(1665)、四代将軍家綱のとき山科毘沙門堂の伽藍やようやく竣工。 翌年10月、伝教大師自刻の毘沙門像を遷座し、落慶供養が華やかに執り行われた。 このとき「山科の聖天さん」として名高い塔頭の双林院も建立された。
 京都市上京区にあった毘沙門堂を山科の現在地に移した理由は不明とのことであうが。 
 禁裏(御所)関係の様子を知ることのできる「雲上明覧大全」(文久3年版)には「御領千七十石、御宗旨天台、毘沙門堂御無住輪王寺御兼帯」と記されている。 すなわち日光輪王寺が本寺となっていた。 輪王寺は公海の後、後水尾天皇の第三皇子守澄しゅちょう法親王(16341680)が貫主となった。 輪王寺の称号を朝廷より賜わり、以後、輪王寺は宮門跡、守澄法親王は初代の貫主となった。 江戸幕府は、家康、家光を葬る日光の輪王寺を厚遇し、一万三千石余を寺領とした。 その輪王寺を隠退後、京都に帰り、毘沙門堂に入ったとあるが、現在の宸殿は、後西天皇崩後、後西天皇の御殿を下賜されたもので、守澄法親王存命中は、存在していなかったし、寺院にはその記録が無い模様である。 
 山科毘沙門堂の門主は、天海を一世、公海を二世、後西天皇の皇子公弁こうべん親王を三世門主とし、以来世々法親王が門主の座についたので毘沙門堂は毘沙門堂門跡と称された。 
 公弁法親王(16691716・一品)は、後西天皇の第6皇子。 延宝2年(1674)護法山出雲寺門主公海の室に入り受戒(戒律を守ることを誓う儀式)。 延宝6年(1678)親王宣下を受け7日後に出家得度とくど(僧侶になる儀式)元禄3年(1690)輪王寺門跡に就任し関東に下向した。
 天台教学の整備につとめ論議書の編纂,勧学寮の整備振興に努めた。 公弁の命によって編纂された「台宗二百題」は今日でも基礎文献として重用されている。 
 元禄6年(1693)一品に叙され、天台座主に就任する。 元禄年間(16881704)、産業振興のため日光山に御漆園を造影し漆の植樹を進める。 これにより日光彫、紅葉塗、日光春慶塗などの漆器の製造技術、産業化が確立した。 元禄11年(1698)露座であった上野大仏に仏殿を建立した。
 正徳5年(1715)諸職を辞任して毘沙門堂に隠棲する。 毘沙門堂は公弁以後宮門跡となる。
 また、公弁法親王の父・後西天皇と守澄法親王は兄弟であり、守澄法親王は公弁法親王の叔父であり公弁法親王は守澄法親王の甥にあたった。 
 毘沙門堂は紅葉と桜の名所であり、京の七福神の一つである。 京の七福神の結成はかなり古いが、各寺社の入れ替えが随時行われていたが、昭和54年以降は、毘沙門天(毘沙門堂)―布袋尊(長楽寺)―えびす神(恵比寿神社)―大黒天(松ヶ崎大黒天)―弁才天(三千院)―福禄寿(護浄院)―寿老神(革堂)を言う。

                  境内
 建築
 本堂(本殿)は将軍家綱が大壇越となり、紀州と終の徳川家から材木が寄進されて、寛文6年(1667)竣工した。 和様と禅宗様の折衷で桁行五間、梁間六間、本瓦葺き、単層入母屋造。 全体に朱塗りとなっている。 向拝の木鼻に像、手挟たばみに雲の彫刻がある。 軒下組物間は黒枠の木瓜もっこう型枠内に胡扮下地、薄緑と茶の霊獣の犀・波で飾られている。 
 現在、往時の新書院・古書院・御学問所などの伽藍は失われているが、山腹に開かれた境内には華麗な桃山式彫刻が施された仁王門・唐門・本殿など創建当時の建物が伝えられ。
 本堂に安置される本尊の「毘沙門天坐像」は、平安時代の最澄(767822)作とされる。 秘仏であり、普段は小さな宝塔の厨子内に納められているとの伝承がある。
 一方、最澄は比叡山根本中道の本尊を作った余材で小像を刻んで桓武天皇に授け、天皇はこれを自念仏として冠の中に納めたという。 その後、親王の子孫である平親範が、旧出雲寺境内に、平氏ゆかりの三寺を統合し出雲寺を再興した際、新たに丈六の毘沙門像を造り、この像の胎内にこの小像をこれが現在の本尊であるとしている(寺院の説明)。 
 ところが、現在本堂には丈六の仏像はなく、その胎内に納めたという小像が現在の本尊であるという、しからば丈六の像はどうなったかと尋ねると、当寺は何度も火災に会い、そのうち何回かは全焼している。 その時に全焼したのであろう、当時の資料が全くなく、詳細は不明であるとのことであ」つた。
 江戸時代、天海は本尊・毘沙門天が七福神の一つとして信仰されていたことから、家康を七福神にたとえ再興の道を開いたという。 本尊は、12年毎の寅年に開帳される。 当初、寺は宮中の寅(東北東)にあったため、その名残りとして北の守護神である毘沙門天が祀られた。 
 毘沙門天は、梵名ヴァイシュラヴァナといい、インドでは財宝神であった。 中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれた。 天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられている。 日本では四天王の一尊として造像安置するバ葦は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。
 古代インドでは腰衣こしころもとターバンの貴人姿だったが、中央アジアを経て中国に至る間に、今日見られるような忿怒相も猛々しい、剣をかざし甲冑をまとう神将の姿になった。 厨子本尊前立は、大きな像ではないがたくましく力強い、江戸時代初期作である。 台座には「万暦8年(1580)」と中国の年代が墨書されているが、そのいわれは謎である。 本尊の左に不動明王、右に東照神君坐像(「徳川家康」)が安置されている。
 本殿の前方に建つ唐門は、本堂と同時期寛文5年(1665)に建立された。 唐破風造、杮葺き、朱塗り、木鼻に、象の彫刻が施されている。 中央上の大瓶束両脇の菊水の笈形、中央下には牡丹の蟇股かえるまたがある。
 唐門の前には仁王門がある。 本堂と同時期寛文5年(1665)に建立された。 鮮やかな朱色の門で、唐門と共に和様と禅様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。 仁王門の真ん中には、「毘沙門天」の大文字と寺紋の入った大提灯が架けられ、左右に阿吽の像がある。 
 宸殿は江戸時代元禄6年(1693)に後西天皇旧殿を公弁法親王貰い受け移築再建した。 かっては檜皮葺きであったが現在は桟瓦葺き。書院造、東・西・南に広縁がつく。 出家した皇族が居住していた。 
 宸殿内部には、江戸時代の絵描き狩野洞雲益信どううんますのぶ16251694)筆による、6室に障壁画116面が描かれている。 
 狩野派は、室町時代中期から江戸・明治時代にわたって日本絵画史を支配した最大の流はだが、特に江戸時代は、狩野探幽の一族門弟が幕府・大名の御用絵師として巨大な勢力を誇った。 その探幽の後継者として養子に迎えられたのが狩野益信である。 
 益信は、彫金で有名な京都の町衆後藤立乗りゅうじょうの末子に生まれた。 幼いころから松花堂昭乗しょうかどうしょうじょうに書を学んだこの昭乗との縁もあって、
11歳のとき、まだ実子のなかった探幽の養子にはいった。 益信の絵師としての仕事は寛永16年(1642)の禁裏造営の際の襖絵製作に始まる。 この時18歳であった。 以後活躍を続け、後陽成天皇の実子、後水尾天皇の弟にあたる妙法院門主堯然ぎょうねん法親王もとに親しく出入りし、公家社会においても着実に地歩を築き上げた。 ところが義母が死んで探幽の後妻に男子が生まれたことで益信の立場は微妙なものとなり、結局、35歳のとき、探幽との別居を余儀なくされた。 だが、探幽の弟永真安信の娘と結婚して安信の庇護を受けることになり、永真一門の中心となって御所の障壁画の制作にたずさわっている。 
 寛文7年(1667)、江戸駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野派を開き、この時期を代表するそんざいとなった。 
 この益信の絵を山科毘沙門堂の宸殿で堪能できる。 毘沙門堂の宸殿は三世門主公弁のとき、元禄年間(15881704)ころに、後西天皇(在位16541663)の旧御所を移築再興したものである。 宸殿は宸殿Ⅰと宸殿Ⅱに分かれ、宸殿Ⅰの六室には、大小合わせ116面の障壁画があり、すべてが狩野洞雲益信の筆になり、各部屋は、襖を閉めれば独立した総柄の襖に囲まれ、襖を開けば襖の絵柄は連続して広い座敷に変じる。 また見る人の動きにつれて絵の中の人物や動物、家具なども少しずつ動くという巧みな技法が多用されている。 この技法は永真安信の孫・狩野永叔主信えいしゅくおものぶが描いた霊殿の天井龍にも引き継がれている。 毘沙門堂の宸殿はまさに益信とその流派の名作の宝庫といえる。 
 宸殿Ⅰの東北の間が上段之間(御成之間)、対面の間で、現在の応接室に相当します。 壁画は「帝鑑図」である。
・ 帝冠図は、中国古代から宋代までの君主の事績の中から 善事、悪事を選び出し、一事ごと
 に
挿絵及び解説を加えた帝王教育の書である。 ここでは、帝鑑図のうち、唐の太宗の一事業
 を
描いたものである。 太宗は武をもって乱をしずめ、文をもって天下を治めた人で、客殿の
 傍
らに弘文館を建て、書籍二十四万余巻を集収、学士杜如論等の十八人を選んで三交替で文籍
 を
講論させたという故事を描いている。 太宗や学士の姿も見える。(京都市文化財指定)
  上段之間の南が次之間(四愛しあい之間)である。 四愛図しあい図は、東洋画の画題。 東晋
 
うしんの陶淵明とうえんめいの愛菊、北宋ほくそうの周敦頤しゅうとんい(茂叔もしゅく)の愛蓮あいれん、林通りん
 愛梅、黄庭堅こうていけん(山谷)の愛蘭らんの故事を描いたもので、我が国では室町時代になっ
てか
 ら障壁画に描かられようになった。(京都市文化財指定)
  中央南側の間は、九老之間で、中国の故事にちなむ人物画「九老之図」で老人たちのさまざ
 な姿が淡くのびやかに描かれている。 「逆遠近法」効果効果が最も良く表れている絵です。
 
書を広げている老人の机は、どの位置から見ても絵の正面であるように見える。 例えばなな
 めを向いている老人の絵が、移動しながら見ると正対している。 「動く襖絵」ともいわれ、

 この絵が代表している。
  九老之間の奥、即ち中央北側の間が、裏中りちゅう之間(客人之間)。 客人を接待する間であ
 り
う、外を眺めると、晩翠園が前面に広がっている。 庭を眺めるのに最もいい位置にある。
 特に紅葉の時期は素晴らしい眺めを満喫できる。
・ 鷺之間「雪中柳鷺図せっちゅうりゅうろず」老人之間の隣室である。
 典型的な花鳥図。 連続する雪景の中に柳樹、白鷺、竹雀、岩、枯芦などの景物を適宜配布して図様を構成し
 ている。 特に柳樹では、形状の変化だけでなく、雪の積もった柳の枝が枝が消え、逆遠近法の明確な特徴
 がみられます。
・ 梅之間(梅花禽鳥図)
  梅樹をモチーフとして、これに岩や流水、山鳥やシマ鵯ひよどりなどの禽鳥を配している。 しかし、この絵の鳥
 は意外に思われるであろ。 梅の木に山鳥が止っています。 通常山鳥は梅の枝には止まりません。 梅の木
 に止る鳥はウグイスが選ばれます。 なぜならウグイスは警戒心強い鳥で、藪の中で生活し、樹木の表面に
 は現れません。 ホーホケキョと声はすれど姿は見えない鳥です。 しかし梅の花の咲く時期はまだ葉も茂って
 おらず、この時だけはウグイスの鳴き声と同時にウグイスの姿を見ることが出来るのです。 ウグイスには梅
 が最適の取り合わせになるのです。 
  一方、山鳥はめったに梅の枝に止まりません。 なぜなら、鳥は地上に居る時より、飛んでいる時の方が外
 敵に発見され易いのです、このため鶏、山鳥等の雉科の鳥は、通常地上生活をし、非常時以外飛び立つこと
 をしないのです。 したがって、梅の木に山鳥止まる光景はめったに見ることが出来なく、梅に山鳥は取り合わ
 せの悪い組み合わせです。
  南側襖絵に竹とシマ鵯ひよどりが描かれています。 竹は非常にポピュラーな植物で、日本ではどこにでも存
 在します。 雀は人間の生活圏内で生活していて人間にとって最も身近な野鳥です。 竹は日常よく見かけそ
 の竹に止っている鳥は雀が多く目につきます。 従って竹と雀は取り合わせの良い組み合わせになります。 
  鷺之間では、竹に雀の組み合わせですが、この梅花禽鳥図では、雀に変わってシマ鵯が描かれています
 。 島鵯しまひよどりは、日本では迷鳥に分類されている鳥です。 迷鳥は大きく分けると二種類あらす。 渡り鳥
 の中に旅鳥という分類があり、旅鳥は日本に定住しませんが、渡りの途中日本に短期間宿泊する鳥で、代表
 的な旅鳥に千鳥類がいます。 日本へ現れるの頻度が少ない鳥は迷鳥ですが、旅鳥にも迷鳥にも定義がなく
 どこまでが旅鳥でどこからが迷鳥の境界が不明です。
  第二の分類は、原因は不明ですが外国に定住している鳥(外国の留鳥)が稀に日本に現れることがあります
 。 島鵯は一般の図鑑にも載らない非常に珍しい鳥のようで、多分後者の迷鳥であろうと思われる。 たまた
  ま、狩野益信存命中に、島鵯が現れ一時話題になったのではなかろうか。 習性もわからないシマ鵯と竹と
  の組み合 わせも不適で、取り合わせが良いとはいえません。
  梅之間は来客があった時、主あるじ(後西天皇)との面会まで待ってもらう控えの間であった。 
 ようです。 梅花禽鳥図の絵の鳥の組み合わせはが悪い、すなわち「鳥が合わない」、言葉を変えると「取あ
 わない」、御取次ぎできませんとなる。 この頓知を来客にためしたのでないかとも言われています。
  宸殿Ⅱには、円山応挙筆という杉の一枚板を用いた衝立には木目をうまく生かした、一匹の絵鯉が描かれ
 ています。 鯉は移動しながら見ると正面を向いていて、また、泳いでいる様にも見えます。
・ 円山応挙(1733-1795)は、江戸時代中期~後期の絵師、丹波国桑田郡穴太あのお村(現在の亀岡市)の農
 家の次男に生まれる。 10代の後半に京都に出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に
 入る。 20代の修行の頃「眼鏡絵」の製作に携わる。 眼鏡絵とは風景などを西洋画の遠近法を応用して描く
 手法である。 応挙の画風上の特徴として第一に挙げるべきことは、近世の日本画の画家の中でも際立って
 「写生」を重視したことである。 応挙は、こうした写生の技術を基礎としつつも、日本画家の伝統的な画題を扱
 い、装飾性豊かな画面を創造しているところが特徴である。 当毘沙門堂では、応挙は珍しく逆遠近法を用い
 て鯉を描いている。 
・ 逆遠近法 いわゆる遠近法とは逆の視点で捉えた遠近法のことで、前景におかれた対象を目から遠ざかる
 ほど拡大する、つまり後景にゆくほど逆八字形に開くように描く技法をさす。 
  西洋では、ルネサンス(14~16世紀)以前の絵画に頻繁に用いられ、逆遠近法が主流であった。 遠近法
 は、絵画や作図などにおいて、遠近感を持った表現を行う手法で、次の特徴がある。
  ① 同じ大きさのものでも、視点から遠い程小さく描く
  ② ある角度からの視線では物はひずんでみえる
 ことがあげられる。
・ 最も初期の遠近法は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャで舞台美術に使われていたものである。 哲学者のア
 ナクサゴラスとデモクリトスはその透視図法に幾何学的理論をあてはめた。 ユークリッドは透視図法に関して
 数学的な理論を打ち立てたが、これが現在の画法幾何学と全く同じものであるかについては論争があり定説
 がない。
  11世紀のペルシャの数学者で哲学者でもあったイブン・アル=ハイサムは、その著作で視点に投影される光
 は円錐形をなすことに触れており、これは対象物を写実てきに描画するもっとも基本的な理論であったが、彼
 の関心は絵画でなく光学にあったため、この理論が絵画に利用されることはなかった。 
  中世期以後初めて透視法的表現を用いたのは、13~14世紀のイタリアの画家チマブーエ、ピエトロ・カヴァッ
 リーニ、ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャらであった。
・  逆遠近法(続)西洋では、特にルネサンス以前の絵画に頻繁に用いられ、ビザンテイン美術(5~15世紀)で
 は作例が認められる。 つまり西洋は遠近法の受け入れにより逆遠近法の役目を終えたため、西洋美術より
 も広くアジア地域、特に東洋の美術において多く用いられる傾向にある。
  古代インド美術や中国、日本の美術に見られ、中国では、鳥瞰図法を補充する技法として後漢末(25~220
 年)~魏晋時代(220~420年)頃に登場し、主に人物の背景を広く表現するためにもちられた。 
  日本においては、大和絵、その鳥瞰図法の一端を担うことからとりわけ絵巻物に適していたが、浮世絵や琳
 派の作品にも確認できることから、東洋的、日本的な空間表現にた最も適した技法であったことがわかる。
  絵画に逆遠近が用いられた理由として,従来,遠景に位置する人物を近景の人物よりも画面上のサイズとし
 て大きく描くためという説明がなされてきた.すなわち,例えばお釈迦様のように高貴な人物が鑑賞者の向こ
 う側,すなわち遠景に配置され,近景に世俗的な人物たちが配置される場合,高貴な人物を画面上の絶対的
 な大きさとして大きく描く必要があったからというものである.
  さて,幾何学的遠近法の一点透視図法で描かれた画面において,同じ大きさの2つ図形は消失点に近い方
 が大きく見えるという原理の錯視が知られている.これは,画面の遠近感に画面上の実際のサイズが影響さ
 れた結果という説明がされている。
 「霊殿」は、江戸時代・元禄6年(1693)、宸殿と同じく後西天皇の御殿を公弁法親王のとき移築したものである。 本草は阿弥陀三尊を中心にして、左に皇室歴代の位牌、右に徳川将軍の位牌が安置されている。 手前の拝所には玉座が置かれ天井には龍が描かれている。 天井の龍は、永真安信の孫・狩野永叔主信えいしゅくおものぶの絵で、天井一杯に躍動的に守護龍が描かれている。 見上げる位置に連れて鋭い眼光が動く。 禅宗の多くの法堂には八方睨みの龍が描かれている。 しかし顔の向きまで変わる龍は少ないでしょう。 筆者狩野永叔主信は狩野時信の二男として江戸に生まれ、祖父。狩野安信の後を継いで、奥絵師おくえし(幕府の御用絵師のうち最も格式の高い役職名)中橋狩野家の二代目となる。 
・ 「玄関」も同じく江戸時代・元禄6年(1693)の建立による。 檜皮葺き、軒唐破風の車寄せになっている。
・ 「勅使門」も同じく江戸時代・元禄6年(1693)三世公弁法親王によって建立された四脚門で、通常は使用され
 ない。 勅使が来られた時や、当門跡の大事以外には決して開放使用されることはない。 
・ 「鐘楼」境内の南西側に東に面して建つ。 江戸時代・寛文6年(1666)本殿と同時期に建立された。 二階建
 て、下層は袴腰はかまごし(下層に傾斜の板で袴状に蔽われている)になっている。 
・ 「経蔵」きょうぞう境内東側に建つ。 天和2年(1682)建立。 お経類を収納する、現在で言えば図書館である・ 経蔵前にアジサイがあり、6月下旬から、7月下旬が見ごろ。
・ 「極楽橋」毘沙門堂の境内入口に当たる所に小さな石橋がある。 この橋は「極楽橋」と名付けられてい
 いるが、後西ごさい天皇がこの地に来られた時、橋より上はさながら極楽浄土のような
清浄華麗な霊域である
 と感嘆され、極楽橋の名前を賜ったことに由来していると言われて
いる。















・「晩翠園ばんすいえん」晩翠園は、谷川の水を引いて滝を作った江戸初期の池泉回遊式庭園で、雄大な裏文字を
 形どる
「心字」の池に豊かな水を湛え、亀石、千鳥石を眺めながらの座禅石、しかも山裾迫る
 木立の枝間は暗く、さながら夜目に翠みどりを思わせるところから「晩翠園」と名付られた。

  晩翠園は、2つの中島を持つ池が中央に大きな広がり、池の周囲にはモミジ(イロハモミジ
 )やサルスベリなどの高木、ドウダンツツジやサツキツツジなどの低木が植えられています
 。 
池の北側、観音堂の脇には滝石組みが組まれ、安祥寺山の谷から引き込まれた水が音を立
 てて流れ落ちています。 中島の一方には石塔が建ち、観音堂とともに、庭園を眺める上での
 アクセントとなっています。 護岸の石組みも大石を立てることはせず、全体として穏やかな
 造りとなっています。

  モミジとドウダンツツジが多いため、紅葉シーズンが一番の見ごろですが、大きなキリシマ
 ツツジやサルスベリも植えられ、春や初夏にも目を楽しませてくれます。

  また、弁天堂を廻る小池の回りにもドウダンツツジなどが植えられ、本堂と宸殿の間にある
 霊殿からの紅葉の眺めは
1枚の絵のようで、江戸時代の風情を今に残しています。 その一角
 に公弁法親王が大切にしていた、苔むした趣のある手水鉢がある。

  晩翠園は、眺めの素晴らしさだけでなく、宸殿など江戸時代から残る建物と、観音堂など新
 しく建てられた建物の間を事前な形で繋ぐ庭園ならでの役割を果たしている名園です。

  弁天堂は、江戸時代、元禄3年(1690)高台寺から遷された「不老弁才天(高台弁才天)」
 を祀る。 豊臣秀吉の生母の大政所高台尼(
14131592)が、大阪城内に祀っていたものを
 移したという、

・ 毘沙門堂の桜 
  宸殿前で春毎に白い花を咲かし続けている見事な枝垂れ桜「毘沙門しだれ」は樹高10メートル
 、花の枝を直径
30メートルにも広げています。 「毘沙門しだれ」は「左近の桜」として有名
 で、今は5台目、樹齢
150年を越え、この桜は「山科区民誇りの木」にも指定差されています
 。

  毘沙門堂には本堂の脇で咲くソメイヨシノ、一切経蔵の前で濃い紅紫色の花を付ける枝垂れ
 桜や勅使門の前で咲く桜など
50本以上の桜が植えられていて、4月初めの毘沙門堂は多くの花
 見客でにぎわいます。

 毘沙門堂の紅葉
  毘沙門堂の紅葉は、参道の石段や境内の諸堂などで観賞できる。 境内は無料で散策可能、
 本堂に入るには拝観料金
500円が必要です。 毘沙門堂の参道や勅使門の紅葉だけでも。満足
 できるが、秋の毘沙門堂を
100%満喫したいのなら、本堂へ参拝は必要です。 
  堂内から見る高台弁才天の紅葉は、一味も二味も違います。 その光景は、思わず息をのん
 でしまう美しさです。

  例年の色づき始めが、11月中外旬。 そして例年の見頃が11月下旬から12月上旬です。 参
 道や勅使門の紅葉の写真を写すなら、人の少ない早朝がおすすめです。
 毘沙門堂の紅葉と言
 えば、勅使門の階段を埋め尽くす敷き紅葉の光景を思い浮か
べる人も多いでしょう。
 
 境内の諸堂、高台弁才天、晩翠園などの紅葉が、綺麗で人気です。 堂内からでしか見る事
 が出来ない紅葉もあります。 
 秋の毘沙門堂と言えば、霊殿から見る高台弁才天の紅葉です。 色づ
 き具合や葉のボリュウム、
どちらも最高です。 心行くまで、高台弁才天の紅葉を満喫しました。
 見ごろではあったが、混雑具合はそれ程でなく。 比較的ゆったりと紅葉狩りが、楽しめます
 。


  毘沙門堂塔頭双林院
















 双林院は、毘沙門堂門跡塔頭の一院である。 毘沙門堂は、戦国時代兵火にかかり廃絶状態が続いた。 江戸時代初期慶長16年(1611)後陽成天皇がその再建を天台宗の僧天海に命じたが、 諸般の事情により着工が遅れた。 徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海が再建の緒に就いた途端没した。 高弟公海がその遺志を継ぎ寛文5年(1665)に再建した。 また当双林院も公海により、同年に建立した。 
 双林院そうりんいん(雙林院)は、毘沙門堂門跡の境内、毘沙門堂門跡の西の山間にある。 当初、本尊は、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の一つ西明院より迎えられた阿弥陀如来(藤原時代作「光坊の弥陀」と称す)を安置していた。 現在は阿弥陀堂に安置されている。
 近代に入り、聖天堂を建立し、門主・公遵こうじゅん法親王(
17221788)念持仏の「大聖歓喜天だいしょうかんぎてん」を遷し本尊とした。 本尊歓喜天は象頭人身の双身像が抱擁する姿で、厨子内に納められた秘仏となっている。
 歓喜天は、ヒンドゥー教のガネーシャが仏教の守護神である天部の一つに組み込まれた神で、聖天、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、象鼻天、天尊ともいう。
 ヒンドゥー教のガネーシャは、ヒンドゥー教最高神のシヴァ神を父にパールヴァティ―を母に持ち、シヴァの軍勢の総師を務めたとされている。 インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気がある。 「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めている。
 ガネーシャの頭が象になった理由には複数の神話があるが、最も有名なものは以下のものです。 パールヴァティ―が身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を産んだ(ガネーシャ)。 ガネーシャはパールヴァティ―の命令で、浴場の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。 ガネーシャはそれを父であることを知らず、入室を拒んだ。 シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てた。 
 パールヴァティ―に会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅にでかけるが、見つかりません。 そこで、旅の最初に出会った象の首を切りとってもちかえり、ガネーシャbの頭として取り付け復活させた。 これがガネーシャが
 、旅の最初に出会った象の首を切りとってもちかえり、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。 これがガネーシャが 象の頭を持っている由縁とされている。
 古代インドでは障害を司る神だったが、やがて障害を除いて財福をもたらす神として広く信仰された。 ヒンドゥー教から仏教に取り入れられるに伴って、仏教に帰依して護法善神となったと解釈され、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされ日本各地の寺院で祀られている。
 ガネーシャはインドでは象頭人身の単身像として扱われているが、歓喜天では、単身像と立像で抱擁している双身像の2つの姿の形像がある。  聖天(ガネーシャ)は元人間に害を加える破壊神であったが、それを見かねて観音菩薩が女性の姿をとって近づいて夫婦にとなって以来、逆に人間から外を取り除く神となった。 その抱き合う姿は、死の危機を脱して抱き合って喜ぶ姿だと言われています。 現代でも、男女合体型の歓喜聖天は密造とされ、商売繁盛や夫婦和合など、現世利益の功徳が極めて高い尊像として、日本でも多くの信仰を集めています。
 復興が緒についたころ天海は没し、高弟の公海こうかいがその遺志を継いだ。
 戦国武将・武田信玄(15211573)を始め信徒や寺院から奉納された聖天像70数体も合祀した。
 不動堂の不動明王像は、安土桃山時代作。 比叡山の千日回峰行者・第24代住職が、明治16年(1883)に比叡山無動寺より勧請し安置した。 脇仏は四大忿怒像を従えた五大明王に」なっている。 本尊の不動明王像は、愛染明王、平安時代以前作という馬頭観音を始め、複数の、複数の仏像の300余の部材を組み合わせて造仏されている。 これは戦国時代、(1571)織田信長による比叡山焼き討ちの際に、損傷した仏像の部材を集めたもので、災禍が再び繰り返されることの無いようにとの仏師が祈りを込めて作られたものと言う。 また頭部には如来のような螺髪らはつ突起状のものがあり、それらの頂点には楊枝状の100本の部材が納められているという。
 聖天堂 公遵こうじゅん法親王(17221788)念持仏であった「大聖歓喜天だいしょうかんぎてん」が本尊として祀られている。 本尊歓喜天は象頭人身の双身像が抱擁する姿で、厨子内に納められた秘仏となっている。 大聖歓喜天は仏教の守護神で、頭が象で首から下が人間の姿をしており、男女が向かい合っています。 夫婦和合、子授け、財富の御利益があるとか。 双林院が山科聖天さんと呼ばれるのはこの大聖歓喜天が由来です。




参考文献
*週刊古社名刹巡拝の旅(39)山科・醍醐
*地名で読む京の町(下)洛東・洛北・洛南
*週刊京都を歩く(21)山科
*京都紅葉案内
*毘沙門堂ホームページ
*毘沙門堂・Wikipedia
*その他インターネット情報

 




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