朱雀錦
  (66)毘沙門堂関連平氏


厳島神社鳥居
1.臣籍降下
 平清盛を代表する平家は、第50代桓武天皇から出た桓武平氏であるが、その他の平氏には、第54代仁明天皇から出た仁明平氏、第55代文徳天から出た文徳平氏、第58代光孝天皇から出た光孝平氏の四流の平氏があります。 
 皇族が、その身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることを臣籍降下又は賜姓降下ともいう。 臣籍降下は、皇室の財政政策の一つです。 養老令(757年施行)では、天皇の4代目の子孫までが皇族とされていました。 つまり、四世代までが皇族であり、皇室財産で生活していたのです。 5世王は皇親とはならないものの王号を有し従5位の蔭位(祖父のお蔭で叙位する意)。
 第50代桓武天皇には、32人の妻妾と33人の子供がいたと言う。 天皇の子孫の臣籍降下は、3世代、4世代以降に行われていたが、桓武天皇は、平安遷都や東国征伐などで国家財政が逼迫したものと思われる、一部一世代目で臣籍降下を行っています。 
 父である第49代光仁天皇の子で自分の異母弟の諸勝もろかつに広根ひろね朝臣、自分の子・岡成な長岡朝臣、同じく子・安世やすよに良岑よしみね朝臣(良岑安世は六歌仙の一人として有名な僧正遍照の父)を与え臣籍降下させている。 桓武天皇は、一世皇親3人を含む100余名に対して姓を与えて臣籍降下を行った。
 桓武天皇の第4皇子で、第52代嵯峨天皇には50人の子供がいましたが、父の例に倣ってそのうち男女合わせて32人に一律に「源朝臣」を与え一世代目で臣籍降下さ
せています。 

2.「平氏」姓
       ┌ 第 1皇子51代平城天皇  
50代桓武天皇 ┼ 第 2皇子52代嵯峨天皇   ┌ 長男高棟王[平朝臣]
       ├ 第 3皇子 伊予親王    ├ 次男善棟王[平朝臣]
       ├ 第 4皇子  葛原親王  ―┴ 男子高見王・高望王[平朝臣]
       ├             ┌ 次男正行王の子3名[平朝臣]
       ├ 第 5皇子  万多親王  ―┼ 四男雄風王の子2名[平朝臣]
       ├             └ 七男正躬王の子12名[平朝臣]
       ├ 第 7皇子53代淳和天皇
       ├ 第10皇子 賀陽親王  ―― 六男利基王―潔行王[平朝臣]
       ├             ┌ 男子茂世王[平朝臣]
       ├ 第12皇子 中野親王   ―┼ 男子利世王[平朝臣]
       ├             └ 男子惟世王[平朝臣]
       ├    長岡岡成[長岡朝臣]
       └    良岑安世[良岑朝臣]
 桓武天皇の第4皇子・葛原くずはら親王は長男・高棟たかむね王、次男善棟よしむね王、高見王もしくは高望たかもち王(桓武天皇の孫もしくは曾孫)に「平」姓を与え臣籍降下させた。 また、第5皇子万多親王も、次男正行王の子3名、四男雄風王の子2名、七男正躬王の子12名に対し、同じく「平」姓を与え臣籍降下をさせた。 第10皇子賀陽親王も六男利基王の子潔行王に、第12皇子中野親王の生年月日不明茂世王、生年月日不明利世王、生年月日不明惟世王に、「平」姓を与え臣籍降下した。
      ┌第1皇子55代文徳天皇 
54代仁明天皇┼第3皇子58代光孝天皇 
      ├第4皇子人康親王   ─ [源朝臣]
      ├第5皇子本康皇子   ┬ 雅望王 ─ [平朝臣]
      │           ├ 行忠王 ─ [平朝臣]
       ├皇子[源朝臣]源多   ├ 惟時王 ─ [平朝臣]
      ├皇子[源朝臣]源冷   ├ [源朝臣]兼似
      ├皇子[源朝臣]源光   ├ [源朝臣]兼仁
      ├皇子[源朝臣]源覚   ├ [源朝臣]朝鑑
      ├皇子[源朝臣]源効   ├ [源朝臣]朝憲
      └皇子[源朝臣]源融   ├ [源朝臣]由道
        (嵯峨天皇実子)  └ [源朝臣]保望
 仁明天皇の子孫には仁明平氏と仁明源氏がある。 仁明天皇の第4皇子・本康親王の子の中で雅望王、行忠王、惟時王の子で仁明天皇の孫は「平」姓を与え臣籍
皇の孫と仁明天皇の第5皇子本康親王の子で仁明天皇の孫の内、源多、源冷、源光、源覚、源効には「源」姓を与え臣籍降下させている。 また実質嵯峨天皇の皇子である源融にも同様「源」姓を与えている。
       ┌ 第3皇子惟彦親王 惟世王[平朝臣]
55代文徳天皇 第4皇子56代清和天皇
       ├ 皇子8人[源朝臣]
       └ 皇女6人[源朝臣]
58代光孝天皇 59代宇多天皇
       ├ 皇子是忠親王[平朝臣] ┬男子式順王[平朝臣]
       ├ 皇子16[源朝臣]   ├男子式瞻王[平朝臣]
       └ 皇女17[源朝臣]   ├男子興我王[平朝臣]
                              ├男子源和[平朝臣]
                             ├男子忠望王[平朝臣]
                             ├男子今扶王[平朝臣]
                             ├男子英我王[平朝臣]
                              ├次男源清平[源朝臣]
                             ├男子源正明[源朝臣]
                            └男子源宗于[源朝臣]
 第55代文徳天皇の子孫にも文徳平氏と文徳源氏がある。 文徳天の第3皇子惟彦親王の子惟世王に[]姓を与え、臣籍降下させているが、天皇の皇子8人と皇女6人に「源」姓を与え、臣籍皇女させている。
 第58代光孝天皇の子孫にも光孝平氏と光孝源氏がある。 天皇の皇子是忠親王は「平」姓を賜り臣籍降下したとされているが、この説は疑問視されている。 なぜなら是忠親王の子のうち、清平、正明、宗于の3人は源姓を名乗っている。 このことよりこの3人は「源」姓を賜り臣籍降下し、式順王、式瞻王、興我王、源和王、忠望王、今扶王、英我王の7人は「平」姓を賜り臣籍降下されたと考えるべきではなかろうか。 また光孝天皇の16人の皇子と17人の皇女は「源」姓を賜り臣籍降下している。
 「平」という名称の由来は諸説ある。 有力な説は太田亮、藤木邦彦・佐伯有清らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武桓武平氏の祖である桓武天皇が建設した平安京に因んで「平」と名付けたとするものである。
3.坂東平家
 坂東平氏ばんどうへいしは、桓武天皇の第3皇子葛原かずらわら親王の三男・平高望王たかもちおが昌泰しょうたい元年(898)に上総介かずさのすけのかいに任ぜられ坂東に下向し土着したことに始まる一族の呼称である。 現在の千葉県は、上総国と安房国全土と下総の一部構成されており、上総国は現在の千葉県の一部(中央部)である。   上総国と常陸ひたち国、上野こうずけ国の3国は、国主に必ず親王が補任される親王仁国となっていた。 各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき、大国だいこく13カ国)、上国じょうこく35カ国),中国ちゅうこく11カ国)、下国げこく(9カ国)の4級に割り付けられ、上総国の国級は大国にランクされていた。 
 親王仁国の国守となった親王は「太守たいしゅ」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上とされた。 親王太守は現地へ赴任しない遥任ようにんだったため国司の実質的長官か上総介(国司の次官)であった。
 遥任は、奈良時代・平安時代などに、国司が仁国(任命された国)へ赴任しなかったことをさす。 遥任は奈良期のころから行われていたが、ごく稀であった。 奈良時代はまだ、律令制による統治が有効に機能しており、律令制に基づく支配を地方まで貫徹するため、国司が任地へ赴き、現地支配を行う必要があつたためである。
 しかし、平安時代に入ると、弘仁年間には議政官にもかかわらず職封しきふ(給与)が低かった参議に対して国守との兼務・遥任を認める例が慣例として現れ(参議兼国制)、天長年間(824834)に上総国と常陸ひたち国、上野こうずけ国の3国が親王任国に定められた。 親王仁国とは、増加した親王に官職をあてがうため、特定の国の長官(国守)に親王を当てることとしたもので、親王が現地へ赴任することはまずあり得ず、いわば遥任を朝廷公認で制度化したのである。
 高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾だいじょうの源護みなもとまもるの娘を、次男三男良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国、下総国、上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大。おの権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
   ┌長男国香―貞盛―惟衡─正輔─正盛─忠盛┬清盛┬重盛
   │                   └家盛
   ├次男良兼―公雅─致頼─致経
平高望┼三男良将―将門
   └男子良文―忠頼┬忠常(上総氏、千葉氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏)
           └忠光(三浦氏、梶原氏、鎌倉氏)
(1)平国香たいらくにか
  平国香は、上総介に任じられた父の高望ととのに昌泰元年(
898)坂東に下向、常陸
 国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。 源護(嵯峨源氏
 )の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継ぎ坂東平氏の勢力を拡
 大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤をかためた。

  舅・源護は常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていて、真壁を本拠
 にしていたと伝わる。 この領地と接していた平真樹まきと境界線をめぐり度々争って
 いた。 
 平真樹は、平安時代中期の荘園領主、常陸国新治郡の土豪であったとされている。 
 平氏の姓
を冠しているが、平氏としての確認はできない。 真樹の娘は平将門に嫁いでいたとされ、
 将門にとって強力な同盟者であった。 真樹はこの紛争の調停を将門に頼み、将門はそれを受けて真
 樹を援護した。 
 源護と姻戚関係のある伯父平国香が護側の味方であったので、元々因縁があったとされる伯父らと
 更に深く対立することになった。 
(2)平良将たいらよしまさ 
  平高望の三男(あるいは四男)で、平将門の父である。 良将の最初の営所は不明であるが、後に
 県犬養春枝の娘を妻とし、下総国豊田郡を拠点にしたといわれる。 
  父高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず、長兄の国香、次兄の良兼とともに良将は、下総国に
 在って未墾地を開発し、私営田を経営、坂東平氏の勢力を拡大しその後各地に広がる高望王流桓武
 平氏の基盤を固めた。
  県犬養氏は6世紀半ば継体天皇の時代の日本書紀に出てくる古い豪族で、美努王(敏達天皇の子
 孫)との間に橘諸兄たちばなもろえ他を生み、のち藤原不比等の妻(県犬養八千代)となり、長屋王の変を
 引き起す藤原四兄弟を産み、藤原氏の姻戚政治の築いた人を出した一族であった。
  良将の子孫である氏族は、子の将門が将門の乱で戦没すると、その一族は平貞盛等により殺され
 たが、まだ幼少であった将門の嫡子将国は、乳母とともに叔父良文の軍に護衛され、常陸国信田(信
 太)郡浮島(茨城県稲敷市霞ヶ浦)に落ち延びた。 将国の足跡は不明であるが、その子、文国及び
 子孫は信田氏を名乗りその地に留まぇった。
(3)平良正たいらのよしまさ 
  常陸国の筑波山麓水守(現:茨城県つくば市水守)を本経とし源護の娘を妻とした。 護の子源扶みな
  もののたすく
らと甥の将門が争い、扶ら兄弟が討死し、兄の国香が巻き込まれ亡くなった際、父高望亡き
 後上総介を次ぎ一族の長であった良兼は不介入であったが、良正は、一族の将門でなく外戚の源氏
 に真っ先に加勢し将門と争った。 この良正の行動により争いが益々激化する。 承平5年(935)10月
  、良正は将門追討の兵をあげ、それを察知した将門もすぐさま出陣、21日常陸国新治郡川曲村にて
 戦闘となる。 双方激しく戦った末に良正は敗走、将門は翌日本拠の下総本拠の下総国豊田(茨城県
 常総市豊田)に引き上げた。 
  その後良正は、上総の良兼に将門の乱暴を訴える。 将門の岳父でありいわば親権者である良兼
 も放っておけず、承平6年(936)6月、良兼は良正や国香の子貞盛らと共に下野しもずけ国境にて将
 門との対戦した。
(4)平良兼たいらのよしかね 
  平高望の次男良兼は、昌泰元年(898)に上総介に任じられ上総国に下向、武射郡の屋形を本拠と
 した父と供に下向した。 父・高望の上総介の任期が過ぎての帰京せず、父に次いで上総介を務める
 などし、上総下総に勢力を拡大、その後、各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
  良兼も源護の娘を妻にしていた。 甥であり聟でもある将門とはかねてから不仲であり、兄の国香が
 、将門と舅の源護の息子らの抗争に巻き込まれ死亡した蔡に将門と合戦になり数では圧倒的に
 勝も破れ、下野国府に退却。 国府は包囲されるも、将門は包囲の一角を解きあえて良
 兼を逃した。
  その後源護の告状によって、将門は京に召喚され裁きを受ける事となるが、承平7年
 (
937)、朱雀天皇元服の大赦で罪を赦され5月に帰国した。 同年8月6日、良兼は
 将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、将門を
 敗走させた。 すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも、再びそれを撃退させた。 
 その後もその後も将門との争いが続くが、同年
1214日夜襲をかけるも察知され逆襲
 を受け敗走、天慶2年6月、病死した。 

(5)源護みなもとのまもる 
  源護は、平安時代中期の武将。 素性は不明だが、嵯峨源氏で、左大臣源融とおるの曾
 孫源宛あつる(武蔵守・源仕つこうの子)と同族の嵯峨源氏と推測されている。 子には扶
  すく
・隆・繁ら、娘は高望王の子、平国香、平良兼、平良正らに嫁いでいる。

  源護は常陸国真壁を本拠にしていたと伝わる。 この領地と接していた平真樹と境界
 線をめぐり度々争っていた。 

  承平5年(935)2月、将門の戦いで息子の扶・隆・繁は敗死、護の本拠はすっかり
 焼き払われ、その際国香は焼死したとされている。 護は常々息子達の死を嘆いていた
 が、娘婿の良正が将門を討つ為に兵を集め戦いの準備を始めると、護は非常に喜んだ。
  然し良正は破れた。 その後、良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも破
 れてしまう。
  承平6年(936)、護は朝廷に将門と真樹について告状を提出し、朝廷はこれに基づ
 いて将門らに召喚の官符を発したが、承平7年(
937)4月7日の朱雀天皇元服の大赦
 によって結局は全ての罪は許された。 その後、「将門記」にの名は登場せず動向は不
 明だが、ほどなく病死したものと考えられる。

(6)平真樹たいらまき 
  平真樹は、常陸国新治郡の土豪であったとされている。 平氏の姓を名乗るが、同地
 域の高望王流桓武平氏としては確認できない。 真樹の娘は将門の妻(君の御前)とし
 て嫁ぎ、姻戚関係にあり、平将門にとっては「強力な同盟者」であった。

  新治郡にある大国玉に住む領主で、真壁・新治・筑波の広い範囲に領地を保有してい
 たと言われ、源護と土地を巡る確執から度々争っていたとされる。 真樹はこの紛争に
 対し将門に協力を頼み、将門もそれをうけて真樹を援護した。 

  一方、源護と姻戚関係である、国香、良兼、良正らが護側の味方であったので、深く
 対立することになった。

(7)平貞盛さだもり 
  承平5年(935)京都で左馬さめ充在任中、従弟の将門と母方の叔父(源護)たちの
 抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれてなくなる事件がおこる。 それらを伝え
 聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国した。 
 この際貞盛は、そもそも叔父達
 が従弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はない、「互いに親睦をはかるの
 が最も良策である」という態度をみせている。 しかし、将門の抗争に叔父の良兼、良正らが介入
 しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめたものであり、良兼に説得され、これにくわわ
 り、将門と対立することになった。 だが抗争は次第に将
門有利に進展していき、良兼らの勢
 力は徐々に衰退して行く。 承平8年(
938)貞盛は愁訴のために密かに上洛を企てる
 も、これを察知した将門に2月
29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で追いつかれる。 
 旧知の滋野恒成らと共闘し、敗れるもなんとか脱出して京都に辿りついた。 そして、
 将門追討の官符を持って帰国いたものの将門に一蹴され、天慶2年(
939)6月には叔
 父、良兼が病死し、一族の後ろ盾をうしなった。 同年
11月には常陸国での紛争を利用
 して将門を討たんとするが失敗、従弟の藤原為憲と共に再び身をかくした。
  天慶2年12月には将門が「新皇」を自称する。 天慶3年(940)、常陸国北部にて
 5000
の平を率いて貞盛、為憲らの捜索が行われるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛
 と源扶の妻が捕えられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰し
 た。 これを知った貞盛らは、母方の叔父藤原秀郷の協力を得て
4000余の兵を集めると
 将門を攻め、迎撃に出た将門勢を破り、次第に追い詰め、2月
14日「北山の決戦」にて
 、ついにこれを打ち取った。 将門討伐ごの論功行賞では従五位上に叙せられた。 後
 に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。 

     長男維叙
 平貞盛 次男維将 維時 直方(北条氏、熊谷氏) 
     三男維敏
     四男維衡これひら ─(伊勢平氏)
(8)平将門と平将門の乱
  高望王の三男良将の子。 下総、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東
 諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰いんやく(印鑑と鍵)を奪い
 、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによっ
 て、遂に朝敵となる。 しかし即位後わずか3か月たらずで平貞盛、藤原秀郷らにより
 討伐された。 

  父の良将は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という
 地名ものこっている。 母の出身地である相馬郡で育ち「相馬小次郎」と称した。 

 15,6
歳のころ京へ出て、藤原北家の長者であった藤原忠平を私君とする(主従関係)。
  将門は、鎮守府将軍である父を持ったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく
 、人柄を忠平に認められたものお官位は低かった。 将門は
12年ほど在京して、検非違
 使の佐すけや尉じょうを望んだが入れられなかった。 この後将門は東下する。 

  以後「平将門の乱」につながる騒擾そうじょうがおこるのだが、それらの原因についてい
 くつかの説があり、いまだ確定できていない。

 ・  長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香や良兼に独断で分割
  されて
いたため争いが始まった、という説
   常陸国前大掾の源護の娘、あるいは良兼の娘を廻り争いが始まったとうる説
    源護と平真樹の領地争いへの介入にとって争いが始まったとする説
 ・「源護・源護の縁者と将門の争い」
  承平5年(935)2月に将門は源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、
 これらを撃退し、扶らは討死にした。 そのまま将門は大串・取手から本拠である真壁郡へ進軍し
 て護の本拠を焼き討ちし、その際叔父の国香を焼死させた。 同年
10月、源護と姻戚関係にある一
 族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲に陣を構えて将門と対峙するが、この
 軍も将門に劇はされ、良正は良兼に救いを求めた。 静観していた良兼も国香亡き後の
 一族の長として放置できず国香の子の貞盛を誘って軍勢を詰め、承平6年(
936)6月
  26
日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受け、敗走、下野国国府に保護を求
 めた。 将門は下野の国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、
 その後国衙と交渉して自らの正当性をに認めさせて帰国した。
  同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が
 出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(
937)4月7
 日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。 帰国後も将門は良兼を始め一
 族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像えお掲げ
 て将門の常羽御厩を攻めた。 この戦いで、将門は敗走、良兼は将門の妻子を連れて帰
 る。 だが、弟たちの手助けで9月
10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。 妻
 子が戻ったことに力を得た将門は朝廷にたいして自らの正当性を訴えると言う行動出る
 。 

  そこで、朝廷は同年115日に1つの太政官符をだした。 公的には馬寮に属する常
 羽御厩を攻めたことにより、良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が
 受け取った。 これを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良
 兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。 
  天慶2年(939)2月武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基
 つねもと
(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝たけしばとの紛争に陥った。 将門が
 両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させ和解させたが、武芝の軍が俄
 かに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。 京に到着した経基は
 、将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた。 将門の主人太政大臣藤原忠平ただひら
 事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。 驚いた将門は上書
 を認め、同年5月2日付で、常陸、下総、下野、武蔵、上野5か国の国府の「謀反は事
 実無根」との証明書を添えておくった。 これにより、朝廷は将門への疑いを解き、逆
 に経基は誣告の罪で罰せられた。
  平将門の乱
  この頃、武蔵権守ごんのかみとなった興世王は、新たに受領として赴任した武蔵国守百済
 貞連と不仲になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。 常陸国で不動倉を
 破ったため、追補令がでた藤原玄明はるあきが庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸の国
 府から引き渡し要求を拒否した。 そのうえ、天慶
21121日(940年1月)、軍兵
 を詰めて常陸府中へ赴き追補撤回をもとめる。 常陸国府はこれを拒否するとともに戦
 線布告したため、将門はやむなく戦うこととなった。 将門は手勢
1000人余ながら国府
 軍
3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾これちよはあっけなく降伏。 国衙は将
 門郡の前に陥落し、将門は印綬を没収した。 同年
1211日に下野に出兵、事前にこ
 れを察知した守藤原弘雅等は将門に拝礼して鍵と印綬いんじゅ(身分や位階を示す印)を
 差出したが、将門は彼らを国外に追放した。 続いて同月
15日には上野に出兵、迎撃に
 出た介藤原尚範ひさのりを捕らえて助命する代わりに印綬を摂取してこれまた国外に追放
 、
19日には指揮官を失った上野国府をおとし、関東一円を手中におさめて「新皇」を自
 称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。
  将門謀反の報は直ちに京都にもたらされ、また同時に西国で藤原純友すみともの乱の報
 告もあり、朝廷は驚愕した。 直ちに諸社諸寺に調伏ちょうぶくの祈祷が命ぜられ、翌天
 慶3年(940)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位
 下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍ににんぜられた。 
  同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の
 子為憲の行方を捜索している。 10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかった
 が、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。 将門は兵に侮辱された彼女らを哀れみ着物を与
 えて帰している。 将門は下総の本拠へかえり、兵を本国へ帰還させた。 
  間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷ひでさとと力を合わせ兵4000を集めていると
 の報告がはいる。 将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこと
 もあり手元には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考え
 て2月1日をきして出撃した。 将門の副将藤原玄茂はるもちの武将多治経明らは貞盛
 ・秀郷の軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始した。 元来老練な軍略に長じ
 た秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。 貞盛。秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将
 門軍と合戦となる。 将門自ら陣頭に立って奮戦した為に貞盛・秀郷らもひるむが、時
 がたつにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、遂には退却を余儀なくされた。 
  この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起
 死回生の大勝負をしかける為に幸島郡の広江にかくれる。 しかし、貞盛・秀郷らはこ
 の策に乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲(維幾の子)も
 加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払った。 将門は、僅か手勢400を率
 いて幸島郡の北山を背に陣を敷いて味方の援軍をまつが、味方の来援よりのその所在が
 敵の知ることとなり寡兵のまま」最後の決戦の時を迎えた。
  2月14日申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。 北風が吹き荒れ
 、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てたが、後半風向きが南風
 になると、連合軍はここそとばかり反撃に転じた。 将門は陣頭に立ち奮戦したが、飛
 んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。 その首は平安京に運ばれ、晒首
 となった。
  中世、将門塚の周辺で天変地異が」頻繁に起こり、これを将門の祟りとおそれ当時の
 民衆を鎮めるために時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、延慶2年(1309)には神
 田明神に合祀されることとなった。
(9)平良文たいらのよしふみと坂東八平氏
  平良文は、高望の五男とされる。 昌泰元年(898)に高望が上総介に任じられると
  、正室の子のである国香、良兼、良将は従ったが、側室の子である平良文は従わなか
 った。 延長元年(923)、36歳の良文は、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」と
 の勅令を受けて東国に下向し、盗賊をほろぼしたと伝わる。 
  天慶2年(939)4月17日陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し
 、鎮守府である、丹沢城に止まった。 晩年には下総国海上郡、さら阿玉郡へ移り天暦
 6年(952)12月18日に67歳で歿した、。
 良文は坂東八平氏の祖とされている。
    
忠輔           ┌千葉忠頼(上総氏、秩父氏、河越氏
 平良 忠頼 ─   ─  千葉常将┼        江戸氏、渋谷氏)
坂東八平氏の祖              房総平氏の祖 千葉氏の祖千葉忠光(三浦氏、梶原氏、長江氏,
                 (忠常の乱)             鎌倉氏)
10)平忠常ただつねと忠常の乱
  平良文は下総国相馬郡を本拠にし、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力をの
 ばした。 忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に
 振舞い、国司の命に復さず納税の義務も果たさなかった。 
  長元元年(1028)6月、忠常は安房守あわのかみ平維忠を焼き殺す事件を起こした。 原
 因は不明であるが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。 続いて
 忠常は上総国の国衙を占領してしまう。 上総介県犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを
 見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)
 に広まった。 当時、在地豪族(地方軍事貴族)は度々国衙に反抗的な行動をとったが
 、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下
 ることはまれだった。 

  事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補に
 あがったが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少
 志。中原成通が追討使に任じられた。 直方は8月、京都に潜入した忠常の郎党がとら
 えられている。 郎党は、内大臣藤原教通宛の書状をもっており、追討令の不当を訴え
 る内容だった。 

  平直方と中原成通吉日を選び任命か40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵
  200
を率いて京を出発した。 夜中にも拘わらず、見物人が集まり見送ったという。
  追討使の中原成通は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病気を理由に美濃国で滞陣
 している。 合戦の詳細は不明だが、消極的な成通と積極的な直方は仲たがいしたため
 討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。長元2年(
1029)2月、朝廷は東海道
 、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定は進まな
 かった。 同年
12月には都への報告を怠ったという理由で、成通は解任された。 
  長元3年(1030)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を追放した
 。 朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰
 り返している最中で任国へ向かうどころでなかった。 忠常は上総国夷隅郡伊志みの要
 害に立て籠もって抵抗を続けた。 乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、
 安房国の疲弊ははなはだしかった。
  同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召喚し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任
 じて忠常討伐を命じた。 頼信は直ぐには出発せず、準備を整えた上で忠常の子の一法
 師を伴って甲斐国げ下向した。 長期におよぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が
 上総国へ出発しようとした長元」4年(
1031)春に忠常は出家して子と従者を従えて頼
 信に降伏した。 頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常
 は病死した。 頼信は忠常の首をはねて
帰京した。 また忠常の子の常将と常近も罪を
 ゆるされた。 
  この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で
 勢力を広げる契機となった。 

11)平直方とその子孫
  平直方(生没年不詳)は、桓武平氏の当主で、摂関家の家人として在京軍事貴族であ
 った。 本拠地は鎌倉で、直方の官職は追討し、能登の守、上野介、上総介、検非違使
 ・左衛門少尉などを歴任した。 東国で平忠常が反乱をおこすと、朝廷は維時を上総介
 に任命して、その子直方に忠常征伐の勅命を下した。 直方は摩下きかの軍勢と東海、
 東山、北陸の三道の軍を結集して討伐に向かうが。関東を押さて士気の上がる忠常軍を
 攻めきれずにいた。 直方は次休戦で忠常軍を追い詰めるが、朝廷は直方の戦法を手ぬ
 るいと判断して直方を解任した。 代わって、かって忠常が家人であった河内源氏の源
 頼信に討伐を命じ。 直方の持久戦で疲弊していた忠常は頼信にすみやかに降伏した。
  鎌倉幕府の執権などを歴任した北条氏が平直方の子孫を称している。 また「平家物
 語」などで、平敦盛を打ち取り、後に後悔して出家7した熊谷直実も直方の子孫と称し
 ています。
 桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―平国香―平貞盛―平維将―平維時―平直方→*
     *平直方┬平維方―平盛方 ― 熊谷直貞―熊谷直実
         └┄┄┄┄┄┄┄┄北条 -北条時家-北条時形 -北条時政― 
4.武士階級の誕生
(1)武士の起源
  武士発生の歴史的背景としての“公地公民”律令体制の崩壊にある。 8~9世紀、
 元々はと言えば国家の財政拡大のために講じられた百万町歩開墾計画、三世一身法、墾
 田永年私財法などが土地の私有を許し“公地公民”の律令原則に穴をあけた。  
  その動きに乗っかった中央貴族、大寺院、地方豪族などは金に物を言わせて自ら活発
 に農地開発、素早く大農地私有をしていった。
 武士の起源に関しては諸説があり、定説はないが、主要な学説は以下の三つである。
  ・古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
  ・近年流行の、職能に由来すると言う説」(職能論)
  ・律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)
 ① 在地領主論 武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。 
  明治時代の歴史学者三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された
  。 当時の欧米史学には、中世は欧米に特有するもので、近代へ発展するために必須
  な時代とされていた。 アジア・アフリカはいまだ(当時)古代社会であり、欧米の
  様な近代社会に発展することは不可能とされていた。 三浦らは、ヨーロッパの中世
  が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士
  によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺
  境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置付け、アジアで唯一
  「日本に丹中世が存在した」ことを見出し、日本は近代化出来ると主張した。
   武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領
  に対抗するために「武装した大農園主」とする。
   この学説は広く受け入れられ、戦後も学界の主流卯をしめることになった。
 ② 職能論
   しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できない、特に、武士団の主
  要メンバ
ーである源氏、平氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に
  結び付いた武士
の起源を説明できない。
   そこで、佐藤進一㋶によってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起
  源論が
提唱された。
  武士は、一般に「家族共同体あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは英
  安時代
以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。 例えば、武人とし
  て名高い征夷
大将軍の坂の上田村麻呂は、優れた武官であったが、武士であるとは言
  えない。 また、中
国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は
  存在しなかった。 時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は国風文化の成立期にあ
  たる平安中期(
10世紀)に登場する。 つまり、それ以前の武に従事した者は、武官
  であっても武士ではない。
   では、武官と武士の違いは何か簡単に言えば、武官は【官人として武装しており、
  律令官制の中で訓練を受けた常勤の公
務員的」存在」であるのに対してⅤ、武士は「
   10
世紀成立した新式を武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された「下級貴族
  」「有力官人」「有力者の家人」からなる人々】であった。 また、単に私的に武装
  する者は武士と認識されなかった。
   武士の起源については、従来は新興地方領主層が自営の必要性から武装した面を重
  視する
説が主流であった。 そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたっ
  て都から国司
などとした派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、更に
  大規模な組織化が行
われると、清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の
  下級貴族が武士団の上位に
ある武家の棟梁となった。
   しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官
  人層の
側にあるとする見解が提唱あれている。 彼らが平安後期の荘園公領制成立期
  から、荘園領
主や国衙と結びついて所領経営者所領経営者として発展していったと見
  る説である。 つま
り武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとな
  されていったとする。 そ
うした武士の起源となった。 軍事を専業とする貴族を、
  軍事貴族と呼ぶ。
   平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行する
  と、受
領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。 当初、受
  領達は東北制
圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、即ち俘囚を騎馬
  襲撃戦を得意とする
私兵として鎮圧にあたらせた。 しかし俘囚と在地社会の軋轢が
  激しくなると彼らは東北に
帰還させられたと考えられている。
   それに替わって俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経
  験者や
その子弟で、中央の出世コースから外れ、受領になりうる諸太夫層からも転落
  した者達が、
地域紛争の鎮圧に登用された。 おりしも宇多天皇と醍醐天皇が藤原道
  真や藤原時平らを登
用しておこなった国政改革により、全国的な騒乱状況が生じてい
  た。 彼らは諸太夫層への
復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜形太
  刀を身に着けて長弓を操るエリー
ト騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家とじて公
  認を受けた。
   平高望・源経基・藤原秀郷らがこの第―世代の武士と考えられ、彼らは在地におい
  て従来
の富豪百姓層(田堵負名たとふみょう)と同様に大規模な公田請作くでんうけさく
  国衙と契約するこ
とで武人として経済基盤を与えた。 しかし、勲功への処遇の不満
  や国衙側がかれらの新興
の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり
  彼らが武人として自負から地
域紛争に介入した時の対応を誤ったりしたことをきっか
  けに起きたのか、藤原純友や平高望
の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であっ
  た。
 
  この時点では、まだ、武士の経済的基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった
  。 し
かし、11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領しょうえんこうりょう
  で武力紛争が頻発
するようになると、荘園および公領である軍・郷・保の徴税、警察
  、裁判責任者としての荘
園の僧官や公領の郡司・郷司・保司に軍事紛争に対応できる
  武士が任命されることが多くな
り、これらを領地とする所領経営者としての武士が成
  立したのである。
 ③ 国衙軍制論
  「職能」の起源論では地方の武士を十分説明できない。 確かに源平籐橘げんぺいとうきつ
  とい
った貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明できるが、彼らの
  職能を支え
る経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎ
  る。 こうした弱
点を克服する儀トンとして主張されたのが、国衙軍制論である。
  前史
  古代日本の律令国家は、軍事制度として軍団兵士制を採用していた。 軍団兵士制は
  、戸
籍に登録された正丁(成年男子)3人に1人を徴発し、1国単位で約1000人規
  模の軍団を
編成する制度である。 これは7世紀後半から8世紀後半にかけて日本が
  、外国(唐。新羅)
の脅威に対抗するため構築したものだった。 しかし、8世紀後
  半・対新羅外交政策を転換
したことに伴い、対外防衛・侵攻のための軍団兵士制も大
  幅に縮小されることになった。 そ
のため、軍団兵士制を支えてきた戸籍制度を維持
  する必要性お低下していき、9世紀初頭以
降、律令制の基盤戸籍を通じた個別人身支
  配が急速に形骸化していった。 
   原型期
  9世紀中葉における朝廷・国司は、群盗海賊の制圧のために養老年率の補亡令ほもうりょ
    う
ついほ罪人条にある臨時発兵規定により対応しはじめた。 臨時発兵とは、群盗
  海賊の発生
に際し、国司からの奏上に応じて「発兵勅符」を国司へ交付し、国司は勅
  符に基づき国内の
兵を発して群盗海賊を制圧する方式である。
   臨時発兵規定で想定されていた兵とは、軍団兵士や健児こんでい(兵制の1;郡司や
  富裕者の
子弟を採用した)ではなく、百姓の内弓馬に通じた者であった。 
   成立期
    9世紀から10世紀初頭にかけて寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開し
  た。 調
雇・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家は富裕層と結びつき、
  自らの収入たる
封物の確保を図った。 富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進し
  て荘園とし、国衙への
納税回避を図っていった。 かかる危機に直面した国衙行政と
  中央政府を再建させる種に、
院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切ると共に、国司への
  大幅な支配権限を委譲する改革が行
われたのである。 これにより成立した支配体制
  を王朝国家体制という。 

   その結果、調雇・封物京進を狙った群盗海賊は鎮静化することになった。 また受
  領への
東国の乱の鎮静過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国にお
  いて成立した。  
   この軍制は、追補官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押
  領使へ識見が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追補活動にあたる、とい
  うシステムである。 従って、同乱の鎮圧に勲功をあげた「官幣延喜勲功者」こそ最
  初期の武士であったと考えられている。 彼らは、田堵負名として田地経営に経済的
  基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない
  、新たに登場した階層であった。
   一方。西国では承平年間(930代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し、承平6年(
  936)、追補南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を
  奏し、海賊が投稿した。 海賊らの実態は富豪層であり、彼らは以前から衛府舎人と
  ねり(下級役人)の地位を得ていた。 衛府舎人は糧米徴収権の既存権を有していた
  が、朝廷は延喜年間(900)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策をうちだし
  た。 この延喜期の既得権剥奪によって経済的基盤を失おうとしている瀬戸内海沿岸
  の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けたが、承平期に至って海賊行為を展開する
  ことになった。 そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者
  が実は藤原純友であった。 
   海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応の警固使が設置された
  。 この西国の警固使は東国の押領使、追補しに該当する。 追補官符によって兵力
  動員権を得た受領のもと、警護使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編
  成し、有事に際しては指導権を行使した。 ここに、西国においても東国と同様の国
  衙軍制が成立したのである。 
   展開期
   天慶年間(930~940)の承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の庵)は、寛平・延
  喜東国の乱及び承平南海賊での勲功行賞が十分に行われなかったために発生したと解
  釈去れている。 
   結果として、抗議行動に出た者たちは反乱者として鎮圧された。 そして鎮圧した
  武士たちが、勲功をもとに満足のいく恩賞を獲得することになった。 
   ところで、王朝国家体制が成立して以来、11世紀中期にかけて、中心的な税目であ
  る観物の集草については受領が大きな権限を有していた。 受領は郡司・富豪層を出
  目とする田堵負名らの租税納乳の責任を課していたが、税率や減免率などを廻って受
  領と負名層の間には対立が生じていた。 受領は成績を上げるためしばしば法令どお
  りの苛烈な収奪を行った。 
   そのため、田堵負名の中には受領を襲撃したり、太政官へ訴訟する。 といった対
  抗手段に出るものも現れた。 凶党が発生した場合、国衙は直ちに中央の太政官へ報
  告書を送付し、これを受けた太政官では公卿(議政官)会議にて)審議を行い、国衙
  へ対し「追補官符」を出発した。 官符よって正当な軍事動員権を獲得した受領は、
  国衙における軍事指導者であるくに国追補使・国押領使・警固使に経党捜索や犯罪捜
  査などの追補活動を命じた。 追補を命じられた追補使は国内の武士を動員し、実際
  の追補活動を展開した。 凶党を捕縛ほばくした後は、国衙の検非違使が尋問に当た
  り、捜索経緯を纏めた報告書を受領から太政官へ進達した。
(2)武士の身分
  「職能」起源論では、武士とみなされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸
  を家業とする諸太夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていた。 その後、中世
  を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」と見なされる階層が室
  町時代以降拡大していった。 
   発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場で騎馬戦士と
  して活動郎党や、徒歩で戦った従卒が板が、室町・戦国時代になると武士身分の拡散
  が大きくなり、協議の武士同士の主従関係の他に、本来は百姓身分でありながら容疑
  の武士の支配する所領の名主層から軍役を通じて主従関係をもつようになった広義の
  武士としての地侍などが登場する。
   このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階級が成立していたが、これらは
  拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実して
  いる。 
   江戸時代の武士の身分を、「士分」といい。士分は「侍」「徒歩かち」分けられる
  。 「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦いのときは
  馬に乗る者で「御目見え」の資格を持つ。 江戸時代の記録では騎士と表記されてい
  る。 これは徒歩との比較的後である。 また、上土じょうしとも呼ばれ。 「侍」
  のうち1000石程度以上の者を大身だいしん、人持ちとも呼ばれることがあり、戦のと
  きは備えの侍大将となり、平治は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老
  となることもある。 それ以下の「侍」は平侍ひらざむらい、平侍、馬乗りなどとよ
  ばれる。
   「徒歩」は扶持米ふちまい」をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を
  もたない。 下士かし、軽輩、無即などと呼ばれる。 

5.伊勢平氏(1)・平清盛以前
   ┌次男良兼―長男公雅きんまさー致頼むねよりー致経 ┌季衡(伊勢氏)―北条早雲
   │                 ┌正輔 │   ┌忠正
平高望┴長男国香―長男貞盛さだもりー維衡これひら┴正度 ┼正盛┴*1忠盛 ┼*2清盛 ┼

       ┌長男清盛      ┌長男重盛 (維盛、資盛、清経、有盛、忠房、
 *1忠盛家盛┼次男家盛い *2清盛┤        守実、重実、行実、清雲)
       ├三男経盛      ├次男基盛 (行盛)
       ├四男教盛      ├三男宗盛 (清宗、能宗)
       ├五男頼盛       ├四男知盛 (知章、増盛、知忠、知宗)
       ├六男忠度       ├五男重衡 (良智、重度)
       ├七男知度       ├六男維俊、七男知度、八男清房
       └八男清房       └一女徳子(安徳天皇)
(1)平維衡これひら 
  貞盛の四男。 官位は、従四位上、下野守、伊勢守、上野介、備前守、常陸介を歴任
 。 子供には、正度、正済、正輔、正能がいる。伊勢平氏の祖となった。
  維衡は、伊勢国神郡において同族の高望王の次男良兼の孫にあたる平致頼と合戦をく
 りひろげていた。 その後、長徳4年1月28日、に両者とも朝廷に召し出され尋問を受
 け、維衡は、過状(犯罪や業務怠慢等を詫びる書)を提出したが致頼は、提出しなかっ
 た。 同年5月5日、罪名は定かでないが、致頼は位階を剥奪し、隠岐に遠流、維衡は
 位階は」そのままで、淡路へ移郷された。 罪に」軽重があったのは、がわが先に兵を
 動かした、維衡が過状を出したのに対して致頼、提出しなかったなどの理由によるもの
 。
  両人は当代を代表する兵つわものとして知られた人物であった。 諸書には「武士に
 は即ち源満仲、源満正、維衡、致頼、源頼光皆これみな天下の一物なり」などと記され
 ている  長徳の合戦に続いて寛弘3年(1006)1月28日の伊勢国守後退問題で維衡が
 登場する。 右大臣藤原顕光が維衡を伊勢守に推挙するが、「同族の致頼と伊勢国にお
 ける覇権を廻り、数度にわたって抗争を展開していた」ことを理由に左大臣藤原道長が
 強度にはんたいした。 このため、担当のかかりも任官手続きをおこなわなかったが、
 何らかの手違いで維衡の名が書き入れられた状態で清書、奏上されてしまった。 その
 まま一条天皇の裁可が下ったため訂正することもできず、道長も聖人せざるを得なかっ
 た。 この様な経緯があったためか、維衡はわずか二ヶ月で伊勢守の任を解かれた。 
  維衡にとって伊勢国守後退問題は二重のだげきだった。 第1は伊勢守になれなかっ
 たこと。 第2は、受領の任命が道長を首班とする公卿集団に左右されていた状況下で
 は、彼らににらまれたら後々まで響くことであった。 伊勢守解任後、道長に接近を始
 める。 
  「御堂関白期」によると、彼は寛弘7年(1010)11月25日、馬1匹を、翌8年には鞍
 具つき馬11匹を献上した。 馬は最高の献上品であったから相当な贈り物というべきで
 ある。 そして当時の慣例として、馬の贈答は主従関係にあることを含意していた。 
 彼もこのころ道長の家人化したのである。
  一方、道長等の貴人達にとって維衡のような経験豊かな兵はなにかと重宝な存在であ
 った。 維衡は、別の実力者藤原実資さねすけとのいつしか主従関係を結ぶようになっ
 ていた。 こうして彼は、信長、顕光、実資という政界の有力者たちと、夫々別個に主
 従関係を結ぶようになった。 維衡が受領を歴任したのもこれら政界の有力者たちとの
 関係にあったであろう。
  維衡の没年は不明であるが、「尊卑分脈」(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑)類要集)
 には85歳で死去したと記されている。 なお、伊勢国における争いはそれぞれの子息(
 維衡の子・正輔と致頼の子致経)の代まで引き継がれたが、致経が比叡山横川で出家し
 亡くなるに及んで維衡一派の派遣が確立」紙)伊勢平氏として発展した。
(2)平正度まさのり 
  平正度は、伊勢平氏の長男或いは次男である。 従四位下。 「尊卑分脈」には、斎
 宮助、諸陵助、常陸介、出羽守、越後守を歴任し、帯刀長に任じられている。 長男野
 の維盛は検非違使・駿河守、次男貞季は検非違使・駿河守、三男季衡は木工助・大夫尉
 ・検非違使・下総守を歴任し、正五位上ちょなる。 五男の正衡は検非違使・出羽守と
 記されている。 四男貞衡は、帯刀長・左衛門尉・掃部助とあるが、かれについては存
 在そのものの裏付け資料がない。 正度と子たちの大部分に共通している点は、受領経
 験を有する点である。 ただし、同じ受領とはいえ、正度の子達と維衡、正度の間には
 明らかな差違がみられる。 前者の場合、受領経験は官歴の最期を飾るそれで、祖父や
 父のような受領を歴任していないてんである。 
  三男季衡の子孫は伊勢氏と称し室町時代には代々政所執事として幕政の中枢を担った
 ほか、その支流の備中伊勢氏から戦国大名北条早雲(伊勢盛時)をだしている。
(3)平正衡まさひら 
  平正衡は、伊勢平氏の棟梁・平正度の五男。 官位はl従四位下、検非違使、右衛門
 尉、出羽守を歴任。 子には正盛がいる。
  父祖同様に伊勢国を本拠地として活動、正保2年(1075)には天台宗の僧良心と結託
 し、同国桑名郡における東寺の末寺多度宮寺を天台のい別院と称してその所領荘園など
 を押妨(横暴)した。 これは結果的に朝廷の裁定により認められなかった。 
  他方、都では藤原師実に仕え、京周辺の警察活動にも従事する。 承暦3年(1079)
 に起こった延暦寺の僧兵による強訴にししては、源頼綱や兄の季衡らと共に出動し、都
 の防衛に当たっている。 康和元年(1099)の除目で出羽守に就任した。
(4)平正盛まさもり 
  伊勢平氏の武将、平清盛の祖父、北面武士。 隠岐守、若狭守、因幡権守、但馬守、
 備前守、隠岐守を歴任、従四位下。  
  源義親みなもとよしちかは、河内源氏三代目棟梁・源義家の嫡男で、前九年の役、後
 三年の役で活躍し「天下第一の武勇の士」と尊崇を集めた父譲りの兵つわもので、悪但
 馬の守と呼ばれていた。 
  従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して、人民
 を殺害」し略奪を働いた。 康和3年(1101)に太宰大弐・大江匡房から訴えがあった
 ため、朝廷で追討が議論された。 父の義家は郎党の藤原資道を遣わして召喚をこころ
 みるが、資道は義親を説得できず逆に至ってしまい官吏を殺害するにいたった。 
  康和4年(1102)、朝廷は義親を隠岐国へ配流流とする。 だが、義親は配所には赴
 かず。出雲国へ渡って目代を殺害し、官物を奪取した。 このためいよいよ義家が自ら
 息子の追討に赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106)に義家は死去したた
 ま、その後継者の良忠に、義親討伐の敬礼が下るが、義忠は兄を討てないと躊躇した。
  嘉承2年(1107)12月、朝廷は平正盛を追討しに任じた。 正盛は、嘉承3年
 (1108正月29日、都は長期間にわたり西国で乱行を続けた源義家の子、義親の追討を果
 たしてがいせんした平正盛を迎える熱狂的な群衆で沸き立っていた。 
  無名の伊勢平氏正盛が、義親を討取って都に凱旋し、一躍天下に武名を轟かせた。 
  鴨川の東、白河の地には良く知られるように白河天皇の親政期以来法正勝寺(1077年
 落慶供養)を始めとして歴代天皇・女院の御願寺が次々と建てられ、これらはやがて六
 勝治と呼ばれるようになる。 同地における最初の御所が白河泉殿(白河南殿)である
 。 泉殿は法勝寺の西方にあって、ほぼ二町(1町;120m)の四方の広大な地を占め
 ていた。 同御所ないに正盛の手になる白河御願九体阿弥陀堂の造立が永久2年
 (1114)2月20日である。 11月29日に落慶供養がおこなわれるにいたった。 
  堂内に安置された九体の丈六阿弥陀仏は、越前守顕盛の造るところであった。
 建築史家杉山信三は新阿弥陀堂の様相を次のように言う御堂が二回といっても下層は裳
 階もこしであったであろう。 東面して南北は孫庇があり。それに繋がってそれぞれ廊が
 ついていた。 廊は6~7間に渡っていた。 西廊は二棟で御堂の西北にあったらしい
 。 その先に西中門が西に面して位置し、西の築垣に構えられた大門に対していたかと
 思われる。 御堂の東面には池があり、中島があり、御堂の南方にある南廊の先が南釣
 台が構えられていた。 と推定している。 白河泉殿(南殿)内の正盛の手になる院の
 御堂には大治5年(1130)までに新たな一棟の九体阿弥陀堂と三基の塔が加わり、総称
 して蓮華蔵院と名付けられ、数ある院政期の御堂のなかでも群を抜くものであった。
  白河院のあつい「思し召し」を受けて政治的・社会的力量を伸張させてきた正盛であ
 る。 だが、院庁における公的な位置づけそのものは予想外に低く、院殿上人にのぼる
 ことさえなく、院司としては結局下北面にとどまっていた。 正盛が院北面に登用され
 たのは嘉承3年(1108)正月24日以前である、 北面とは、院御所の北面を詰所とし、
 上皇の側にあって身辺の警護或いは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人をいう。 白河院
 政開始後ほどなく総説された。 諸太夫以上の家柄の者(中・下級貴族)を上北面とい
 い、殿上の北面を詰所にする。 衛門尉、兵衛尉などに任ぜられた五位、六位の譜代の
 侍を下北面(下侍)とよび御所の北の築地に沿う五間屋をその所とした。 
(5)平忠盛ただもり 
  平清盛の父。 伊勢平氏で初めて昇殿をゆるされた。 北面武士・追討使として白河
 院政・鳥羽院の武力的支柱の役割を果たすと共に、諸国の受領を歴任、日宋貿易にも従
 事して莫大な富を蓄えた。
 [1] 忠盛の出身
   忠盛は、父の奉公の実績とそれにもとずく家格の上昇によって、出仕の初めから法
  皇に近侍し、身辺の雑事にあたった。 保安元年(1120)3月の石清水臨時祭からあ
  まり時を経ないころ父が果たせなかった殿上人を許された(1096年生まれであるから
  25歳の頃になる)。 白河院政期の院殿上人の数は74人が知られている。 武士で院
  の殿上人となった先例として源義家の場合がある。 しかし、義家の場合は院の強力
  なひきたての結果で、周囲の反感をかったようである。 
   彼の目標は同じ殿上人でも院殿上を通って内昇殿に在ったらいい。 内証殿とは、
  清涼殿南端の殿上の間に上がる資格を得る事で、ここに詰めて天皇に近侍し種々の用
  を務める。 いわば天皇の近臣になるかれ非常に名誉である。 昇殿を許された者を
  殿上人といい、雲客うんかく・雲上人くものうえびとなどの異称もある。 内昇殿にくらべる
  と院昇殿ははるかに評価がひくく、の社会的地位も内昇殿に遠く及ばない。 武士で
  も昔の源頼光、頼国例があるものの百年前とはちがって家格が大きくものをいう時代
  で、内殿上人はまず高嶺の花である。内昇殿みればたしかに院昇殿は初歩的な生かで
  あるが、とはいえ院昇殿とても、これといった功労のない忠盛の場合異例の抜擢であ
  る。
   正盛の3回忌も終わった保安4年(1123)5月のころ、越前国敦賀郡で殺害事件が
  発生した。 忠盛と「所部の人等」が犯人をからめ捕り、検非違使に引き渡した。 
  殺害者は日吉社の神人であったらしく、これを不満とする天台の悪僧らは京都に移送
  中の犯人を途中で奪取する擧にでた。 これに対し朝廷は、延暦寺に牒状(順番に回
  して要件を伝える書状)を送り、張本の悪僧を禁固させたため、怒った大衆は大挙し
  て蜂起、座主を追放、日吉山王の神輿を山上に担ぎあげた。 同月15日になると、延
  暦寺大衆は3社の神輿を先頭に下向、派遣の武士らに阻まれ大衆は、18日あらたに4
  社の神輿を加え下向、大衆と武士らの間に合戦が起こった。 この結果僧)側に多数
  の死傷者がで、大衆は七基の神輿を賀茂川河原にすて遁走した。 
   一方、別の大衆300人ばかりが東山を経て祇園にこのり神輿を担いで訴えんとした
  ので、忠盛と左衛門尉源為義が制止のため派遣され、ここでも合戦が起こり、神殿で
  多くの命がうしなわれた。 
   この強訴事件にあっては、白河法皇も珍しく毅然とした態度をとり、けっきょく宗
  徒の要求をのまなかった、 
 [2] 忠盛の妻子
   忠盛の子清盛については、白河落胤説がある。 白河法皇の子をみごもった祇園女
  御もしくはその妹を妻にして生まれたのが清盛という伝承、それ自体とるに足りず、
  信ずるに足らない。 しかし、そのことは清盛が白河の落胤である可能性まで否定す
  るものではない。 清盛の生年月日は享年から学算で「玉蘂」ぎょくすい(九条道家
  の日記)建暦元年(1211)3月14日の記事により永久6年(1118)正月18日であるこ
  とばわかっている。 従って清盛を産んだ女性が保安元年(1120)7月12日急死した
  「伯耆守忠盛あ妻」だと考えるのは自然だろう。 諸家一致して注目するとうに、彼
  女が「仙院の辺」(法皇身辺)の女性だと記されている事実は重要である。 ことの
  性格上、彼女がみごもったのが忠盛.1法皇いずれかの胤かの決めてはない。 しかし
  、清盛のその後の立身を見てゆくと、常識では理解できない現象が行き当たる。
   清盛は、天治元年(1124)4月23日の伊勢斎宮契日の行列中に雑色としてみえるの
  が史料上の初見で「永昌記」は7歳の清盛が「院の御馬」に乗って供したといかにも
  意味ありげにきしている。 なお上級に行くに従って昇進の速度がにぶるのは公卿い
  りの有るからで、そこまで来ると皇胤だけではすまなくなり、清盛の所属する伊勢平
  氏の家格が問題になってくる。
 [3] 白河院判官代
  忠盛が院判官代の地位についたのは白河院政の末期である。 大治4年(1129)正月
  6日、忠盛は従四位上に昇った。 これは父正盛が懸命の努力で生涯かけて辿りつい
  た従四位下も忠盛については通過点になっていた。 忠盛家の家格も完全に侍から諸
  太夫へと移行、上昇したとみてよい。同じ日、清盛は斎院の御給で従五位下に叙せら
  てれ、ついで同24日には、左衛門佐ににんぜられた。 兵衛佐は、主に親王。摂関家
  。清華家など上流貴族の子弟が任ぜられる職で、侍従とならんで殿上人となるための
  最短コースである。 ここにも、清盛の部門の子弟らしからぬ昇進の様相がくっきり
  とあわられている。 世人の驚きは当然のようにおおきかった。 さらに清盛はその
  2ヶ月後、石清水八幡宮の臨時祭の新舞人に起用された。 人々は彼に随う雑色の装
  束の美麗さと、三宮輔親王の子で白河法皇の養子内大臣源有仁の随身の馬の口取りを
  務める異例さに二度仰天した。 
   それから4か月護の大治4年(1129)7月7日、政界は一大激震に見舞われた、
  77歳の高齢の白河法皇が死去した。
 [4] 鳥羽院政の開始
   大治4年7月25日、白河法皇の49日がすんで鳥羽院政がいよいよ本格的に始動しは
  めると、院の常軌を逸した政治に対する軌道修正がはじまった。 晩年の白河院の専
  制。異常さを端的に物語るのは天治2年(1125)より実行に移された摂政禁断令であ
  ろう。 諸国から集めた膨大な魚網が院の門前で幾度も焼き捨てられ、宇治、桂の鵜
  や洛中の籠の鳥、或いは献上の鷹犬が放ち捨てられた。 海山河に生きる漁労・狩猟
  を生業とする広範な人々よりみれば何にもまさる暴挙である。 
   49日の4日ご殺傷禁止令を解除した。
 [5] 内昇殿
   白河院3回忌の翌日である天正元年(1131)7月9日、火葬場近くの香隆寺に仮安
  置されていた院の遺骨が、遺言通り鳥羽の三重の塔の下に移された。 権中納言長実
  が骨壺を首に架けて鳥羽まで運んだ。 前日には塔に近接した鳥羽泉殿後に建てられ
  た新御堂の落慶供養も行われている。 新御堂は白河院臨終の地三条西殿の材を用い
  て造られたもので、鳥羽院の命を受けて忠盛の労になるものである。
   同じころ、白河の白河南殿東側に、新しく鳥羽御願の御堂の造営が始まった。 こ
  れは忠盛の増進になる堂で、三十三間の瓦葺堂、後の蓮華王院(三十三間堂)と同程
  度の建物で、同じく東向き堂内、堂内中央に丈六の聖観音一体、左右に頭身の聖観音
  像各五百体を治める10月から院庁の沙汰で像の造立が始まり、翌天承2年2月に据え
  付け。3月9日には供養会の習礼(予行演習)が行われ、12日得長寿院の法号が付け
  られ、翌13日落慶法用にこぎつけた。
   「この人の昇殿がほ未曾有のことなり」というのが老宗忠感想であり、おそらく大
  多数の廷臣の気分を大弁しているであろう。
   白河院は、藤原顕季あきすえを深く信任するとともに子の長実と家保の重用した。
  鳥羽院政が始まると一族の権勢は弟家保を経てその三男藤原家成に移った。 家成は
  白河院死去の2ヶ月後、23歳で早くも「天下のこと挙げて一向家成に帰す」と評され
  るほどのいきおいを示した。 一方、無能、無才と罵られながら権中納言性三位まで
  昇進長実が長承2年(1133)死亡すると、翌年春ころから。寵愛を受け始める。 得
  子(美福門院)に対する鳥羽の寵愛は尋常ならざる者があり、彼女は次第に侍賢門院
  璋子を圧倒し、やがて女院に取って代わるようになった。 
   鳥羽院政期の政局の推移は、まさに得子とこれに連携する従弟家斉の動向を無視し
  て語れない。 忠盛は抜かりなく得子に接近するとともに顕季以来のかんけいの延長
  及び正妻むね子の存在を媒介した家成との結びつきを強めて行く。 顕季の子孫と平
  氏の政治的連携は院政期を通して一貫しており、そのことは平氏の政界遊泳にとって
  、利する所大きく、後の平家権門化の一つの前提ともなった。 そして、長い蜜月の
  時代を経て両者の関係が、破綻へと急旋回したのが、治承元年(1177)の鹿ケ谷事件
  でん、同事件によって顕季の子孫は大きな打撃をうけ、平家のための狂言回しの役を
  劇的に終わる。
 [6] 祇園乱闘事件
   忠盛が播磨国に任じた久安2年(1146)嫡子清盛29歳に達し、壮年の仲間入りの直
  前にあった。 清盛は父譲りの中務大輔に加え、保延3年(1137)には熊野本宮造進
  の賞により肥後守を兼ね同6年従四位に、久安2年(1146)には鳥羽皇后得子の御給
  で正4位下に進んだ。 要するに清盛は父忠盛の強力な後押しで、ここまで官位は頗
  る順調であった。 ところが、翌年夏に至り、忠盛・清盛父子は大きな試練が訪れた
  。
   事件は久安3年6月15日祇園臨時祭の当日起こった。 この夜、中務大輔清盛は、
  「宿願」を果たさんとして、田楽を調えて護衛役として父と自分の
  武装した郎党多数を祇園社頭に遣わした。 祇園社の下部(神人)などは、場所柄穏
  当ならずとして武装を解くように要求し、それをきっかけとなって口論・闘争が起こ
  り互いに負傷者がで、騒乱は深夜まで続いた。 また清盛の郎党の中に矢を放つ者が
  あって宸殿の柱などに当たり、祇園社の権上坐降慶以下に障害を与えた。
   事態を重く見た祇園の本寺延暦寺は、鳥羽院に。祇園乱闘の事を訴えた。 状況の
  悪化を恐れた忠盛は先手を打って、下手人の郎党7人を院庁に引き渡し、鳥羽法皇は
  これを検非違使に引き渡した。 
   しかし、その程度では収まらない、28日、比叡山の衆徒や日吉・祇園両社の神人ら
  は忠盛・清盛父子の流罪を求めて強訴に及んだ。 
   そこで院は、7月12日、天台座主行玄に充て、院宣を発し「たとひ日数を経るとも
  、勘定に任せ、暫く成敗を相待つべきなり、なにぞいはんや、感神院はただ天台の末
  社にあらず、また国家の鎮守たり、衆徒の訴訟あらずと雖も、いかでか公家の勅許な
  からんや」と前置きしながら、「早く仏法・皇法を仰ぎ、宜しく(蜂起制止の勅定に
  したがわない)凶類凶徒を停むべし、この旨をもつて僧綱・学頭ら召し仰せ、禁制を
  致すべし」と厳しく命じている。
   15日になると衆徒が洛中に乱入するとのうわさがあり、源平の武士らを招集、要害
  の地に差し向け不測の事態に備えた。 この時、源平の武士らは、3日交代の番を汲
  んで厳重に警固をつずけ、18日には鳥羽法皇が新手の軍平を閲兵した。 新鋭部隊は
  鉾を林立、士卒を巷に充満」させながら、御所から賀茂川を経て西坂本まで行軍した
  。 行軍の間、見物人は垣をなしてこれを眺めたという。 以後8月1日まで3日目
  の軍兵の交替のたび毎に、大規模な閲兵パレードが行われ、僧徒の入洛をゆるさない
  という上皇の決意の固さを、天下に誇示したのである。 7月23日頭弁藤原資信は、
  明法博士より提出された清盛らの罪状勘文を法皇に上奏,法皇は一院において議定す
  べく諸侯に参集を命じ、議定は24日召集された会議において、清盛と下手人の罪名が
  議され、法皇は採決を下し、清盛の罪もようやく「贖銅しょくどう三十斤」と定まっ
  た。 贖銅とは律で官人らに実刑を科する代わりに相当額の銅を納めさせる方式で、
  贖銅三十斤は名例律にとると徒(労務刑)1年半に該当する。
   三日後近衛天皇の名前で奉幣使が祇園社に派遣された。奉幣使が宣命を読み上げ、
  祇園台神に乱闘の発生原因とその後の経過を説明、清盛に贖銅三十斤を科した、と伝
  え乱闘の事をわびた。
 [7] 両院執事別当
   祇園乱闘事件が無事決着していくらも経たない久安4年(1148)2月1日、いよい
  よ藤原忠隆が散三位に昇叙された。 これによって忠盛は、彼の後を追いって待望の
  四位廷臣序列の最上首となり、従って四位別当の最上臈ろう(序列)となった。 当
  然、日ならずして鳥羽院執事別当を仰せつかったのだろう。 
   またこの日をもって、忠盛は諸太夫層の廷臣中、従三位昇進の第一候補となったわ
  けで、 ある以上、白河・鳥羽院政期の例にれば1~4年で公卿の座に昇進できるほ
  ど宮廷世界、貴族の秩序感覚は生易しいものでない。 与えられた可能性を現実に転
  化するためには、あと一息の努力お積み上げが必要であろう。
   同じ月の2月23日、鳥羽法皇は僧正覚崇を先頭として熊野詣でに出立した。 年預
   ねんよ
(院庁の監督と執行の責任者)になったばかりの忠盛も供人ともびとに加わり、他
  に右衛門佐藤原信隆・散位同頼実・忠盛の5男散位頼盛が供奉くぶ(お供にくわわる
  )した。
   9月10日、鳥羽法皇は四天王寺に御幸、内大臣頼長・平忠盛・沙弥しゃみ(僧の資格
  のない出家者)信西らが供奉いた。 四天王寺御幸は前年9月に続くもので、同寺西
  門で御請いなわれている百万編融通念仏に、法皇自ら参加するにを主たる目的にして
  いた。 融通念仏は自他の念仏が融通し合って功徳になると説く説教であるが、彼も
  九月「中旬の番衆」「戌の番の念仏者」の一人として、戌の刻(2時間)を担当、リ
  レー式に10日間念仏を唱えることで、念仏百万編を満たす力の一部になったのである
  。
   法皇は「中旬の番衆」だから21日には非番だったわけだが、その夜遅く頼長は忠盛
  から、「(法皇が)すでに念仏所に幸みゆき」のことを告げられた。 慌てて駆け付
  けた頼長に、法皇は「公の来るや、何ぞ遅き」と問い、頼長は、昨日「朕、中旬の番
  衆として、明日は非番」と言われましたので、参上のつもりがなかったのを、忠盛朝
  臣から連絡がありましたので、参りましたと弁解。 法皇は「聖人(融通念仏のリー
  ダー)が、非番の衆と雖も、時に逢う(参加する)も妨げ無きのこと」奏上してきた
  ので、急に念仏所にむかったのだよ、「とにべている。 ささいなエピソードだが、
  頼長の出身と性格からくる。 臣下としての注意不足を、忠盛が陰で大事に至らない
  能にサポートしている様子がうかがえる。
 
6.伊勢平氏(2)・平清盛
(1)清盛の順調な出世
  平清盛は元永元年(1118)1月18日に誕生した。 この当時正確な誕生日が分かる人
 物は少ない。 清盛は、白河法皇が晩年愛した祇園女御の養子としてあつかわれた。 
 清盛は7歳で初斎院という宮廷の儀式の雑色を務めた。 清盛は若くして、宮廷の華や
 かな儀式に参加する栄誉を与えられたのである。 さらに、大治4年(1129)1月に従
 5位下になり、佐兵衛佐さひょうえのすけに任命された(12歳で5位は異例である)。 平清
 盛の生涯をみるうえで、「清盛落胤説」は避けて通れない。 白河法皇の身近に仕えて
 いた女性が、清盛のははであることは確実である。 彼女は白河法皇の元を持したのち
 平忠盛の妻に迎えられたのいである(藤原為忠の娘ではないか;高橋昌明説)。 この
 母が保安元年(1120)7月に」なくなった。 この時清盛は3歳であった。 
  平清盛が佐兵衛佐に任命された6か月後に、白河法皇が崩御した。 77歳でした。 
 法皇は院政という新たな政治の形式を作り出した。 
  この後鳥羽上皇が後を継いで院政を行った。 鳥羽上皇は白河法皇が樹立した路線に
 乗って、皇室の勢力拡大を勧めた。 鳥羽院の元で、皇室領の多くの荘園がつくられて
 いる。 院の武力として鳥羽上皇を支えたのが平忠盛、清盛父子であった。
  平清盛は忠盛の嫡子として、鳥羽院の側近の武士としての道を順調に歩んでいった。
 14歳で従5位上になり、18歳のときに父の海賊取締りの功績によって一気に従4位下
 に昇進した(1135年)。 さらにその翌年には、父の譲りを受けて中務なかつかさ権大
 輔ごんたいふ(天皇の公務に関する事務を扱う役目)に任命された。 平清盛は鳥羽院
 の近臣として、順調に出世していったのである。
(2)鳥羽院政と平氏
  平清盛は祇園社頭乱闘事件の寛大な扱いを鳥羽法皇に感謝してますます鳥羽法皇との
 つながりを強めていった。 
  鳥羽法皇は皇室の室長として、朝廷で圧倒的な権力をもっていた。 軍事貴族の1つ
 を京都から追い払うぐらいのことは、法皇にとって大したことではなかった。 桓武平
 氏がいなければ、それに代わる者を引き立てればよい。 行政能力のある武士に数か国
 の国司を務めさせれば、たちまち力を付けてくる」このように考えることもできたろう
 。 しかし、鳥羽法皇は、あくまでも平氏をかばった。 
  平清盛が白河法皇の子、つまり鳥羽法皇の叔父であったとしても、鳥羽法皇がそのこ
 とだけでそこまで平氏に肩入れしたとは思えない。 ゆえに私(著者;武光誠)は院と
 平氏のつながりについて次のように考えている。
  「平氏が【皇室を中心に日本を1つにまとめていくべきだ】という信念をもち、その
 信念にしたがって院の軍事力として働いた。 そのために院は、忠誠心のあつい平氏を
 重用した」  平氏のこのような考えは、院政を支えた院近臣の生き方と共通するもの
 であった。 これに対して、清和源氏を始めとする他の軍事貴族は寺家の勢力拡大だけ
 を考え、そのために役に立つ朝廷の官職を得ようとした。 平正盛は藤原顕季らの院近
 臣と親しい交流をもちつつ白河法皇に仕えていた。 院を国の中心におく平氏の政治観
 は、この時期につくられたのであろう。 
  そして平氏と院との結びつきは、正盛から忠盛、忠盛から清盛へと時代が下っていく
 につれてつよまっていった。 清盛は我慢の限界に達するまで後白河法皇や皇室を重ん
 じる立場をとった。 平氏や院近臣は、次に記す形の院を中心に国を纏めていく方向を
 指向していたと考えられる。
  「皇室が、圧倒的な分量をもつ荘園を保有する荘園領主になる。 そして摂関家、平
 氏、院近臣、大寺社なども有力な荘園領主になって皇室を支える」
(3)皇室領の拡大
  白河法皇が亡くなったたあと、鳥羽上皇は白河法皇に仕えていた有能な院近臣の多く
 を受け継いだ。 祖父の白河法皇に倣って院主導の政治を行ったのであるが、鳥羽院政
 は白河院政よりも去らに専制的な形をとった。 
  鳥羽院政の時代に、皇室領の荘園が大幅に拡大された。 大開拓の時代に開発された
 新たな農地が、公領こうりうとならずに院に寄進されたのである。 これは地方の武士が
 、安定した形で自領を支配するために有力な保護者を求めたことによるものである。 
  自分が治める領地を公領にしておくと、国司が代わる度に租税の額や統治の方針が代
 わってしまうからである。 「自領を皇族の荘園にしておけば、武士と荘園の名目上の
 領主との間にほぼ永久に一定の関係が保たれる」 武士たちは、こう考えたのだ。
  この様な皇室領の拡大は、平忠盛、清盛父子が目指した国のありかたと一致する方向
 のものであった。 そのために平氏は、院の武力として院の荘園拡大を支える力となっ
 た。
  鎌倉時代初めにあたる13世紀初頭に、能登の国の農地を調査した文書が残っている。
 そこから、能登国の水田の約7割が荘園になっていたことがわかる。 そしてその荘園
 の中の約4分の3が、鳥羽院の時代に造られていた。 鳥羽法皇のもとで、急速な荘園
 の拡大がおこなわれていたことがわかる。
  白河法皇は荘園の拡大を制限し、農地を国司支配下の公領として把握する方針をとっ
 てきた。 しかし、鳥羽法皇にかわったあと、院庁はおおくの農地を皇室領として囲い
 込む方針に転換したのである。 これは鳥羽法皇の一存で決まったことではなく、地方
 自治に通じた院近臣たちが考えだしたものである。 
  1国単位でみれば、公領にも荘園にも関わる事項がおおかった。 だからそれを扱う
 国司とその下の在庁官人は国政にかかせなかった。 しかし、院近臣たちは、国司に大
 きな権限をもたせるより、院が直接、地方の武士を支配する方が有効だと考えたのであ
 る。 
(4)崇徳天皇
  鳥羽天皇は5歳で皇位を嗣いだが、16歳の時に、待賢門院たいけんもんいんを中宮にたてた
 。 この結婚は、白河法皇の支持によるものであった。 待賢門院はこの結婚の翌年に
 あたる元永2年(1119)に顕仁あきひと親王(崇徳すとく天皇)を産んだ。 ところが
 皇子が生まれるとまもなく宮廷の一部で、「顕仁親王は、実は白河法皇の子である」と
 いう噂がひろまった。 この話が事実なら崇徳天皇は、鳥羽天皇の子でなく叔父になる
 。 源顕兼あきかねが鎌倉時代に朝廷の噂話を集めて造った「古事談」という説話集
 (1212年)がある。 しかし、単なる風聞を集めた「古事談」の信頼性はそうたかくは
 ない。 崇徳天皇は、平清盛より1歳年下である。 このことから彼を白河法皇の子と
 する噂は、平清盛落胤説と対して変わらない不確かなものである。 しかし、真相は明
 らかでない。 待賢門院は美人で賢明で、初めは鳥羽天皇に好かれて四人の皇子と二人
 の皇女を設けた。 
  顕仁親王が5歳になると、白河法皇は強引に鳥羽天皇を退位させて親王を皇位につけ
 た。 崇徳天皇の誕生である。
  この6年後に白河法皇が崩御し、鳥羽天皇の院政がはじまった。 この後鳥羽上皇と
 待賢門院の不和が目立ってきた。 これからまもなく上皇は、藤原得子を女御に迎えた
 。 彼女は院近臣の藤原長実ながさねの娘で、美福びふく門院と呼ばれた。 
  鳥羽上皇は、美福門院を大いに気に入っていた。 そのため永治元年(1141)に。美
 福門院の生んだ近衛天皇を皇位につけたわずか3歳であった。 鳥羽上皇は強引に、崇
 徳天皇を退位させたのである。 崇徳上皇は皇位を奪われたことを大いに怒ったが、将
 来我が子の重仁しげひと親王が即位することにのぞみをかけていた。 
  皇室内でこのような反目が起こった時期に、最上級の貴族である摂関家でも、内紛が
 生じた。 
  その原因の一部は、白河法皇がつくったものであった。 藤原忠実が白河法皇ももと
 で関白を務めていたが、忠実が法皇に逆らう場面も多かった。 そのため法皇は保安元
 年(1120)に藤原忠実を解任し、彼の嫡子の藤原忠通を関白に任命した。 忠通は温和
 な人物で、法皇の言いなりにうごいた。 
  ここで藤原忠実が引き下がれば、摂関家は安泰であったろう。 ところが忠実は嫡子
 の忠通より、その弟の藤原頼長を気に入っていた。 頼長は法律や中国の学問につうじ
 ており、彼の甥にあたる慈円の手に成る「愚管抄ぐかんしょう」という歴史書に「日本第一
 大学生だいがくしょう」と評された人物である。
  鳥羽上皇の院政が始まると、藤原忠実が上皇に接近してきた。 この動きの中で前に
 挙げた祇園社頭乱闘事件(1147)がおきた。 平忠盛・清盛の父子が比叡山に訴えられ
 た一件である。 この時鳥羽法皇は朝廷の評議を開き、事を穏やかに納めようとした。
 評議に集められた公卿は、法皇の意図を察して静かにしていた。 ところが内大臣の地
 位にあった藤原頼長一人が、正論をふりかざして法皇を批判した。 「たとえ皇室の課
 長であっても、朝廷の法(律令)にしたがうべきである」というのである。
  彼は明法みょうほう博士がこの事件のときに朝廷に提出した勘文かんもん(意見書)にした
 がって、平忠盛・清盛の父子を法律通りに処罰せよ、と主張した。 このとき法皇は頼
 長の意見を受けず、頼長を身辺から遠ざけた。 そして関白藤原忠通と謀って平忠盛・
 清盛の父子を軽い刑罰にとどめた。 
  この時から鳥羽法皇は藤原頼長を「油断のできないうるさい人物」とみるようになっ
 た。 この空気を読んだ藤原忠通は法皇お気に入りの美福門院に接近して、法皇の起源
 をとるようになった。
  しかし、藤原忠実は、そのような法皇の心変わりは気に架けずに、藤原忠通のもつ藤
 原氏の長者の地位を奪いそれを左大臣の藤原頼長に与えた、そのために藤原氏のなかで
 、氏長者の頼長と関白忠通との二人の指導者が並び立つことになった。 この様な動き
 の中で、藤原忠実、頼長の父子は院の者とは別の自家独自の武力の育成をもくろんだ。
 清和源氏の源為義や、平忠正に声をかけて、摂関家の警備を委ねたのである。 何れも
 朝廷で不遇な立場にあった人々であった。 
  忠正は平忠盛の弟である。 彼は兄とそりが合わず、鳥羽院から遠ざけられて良い地
 位につけなかった。 源為義は頑固な武人で、鳥羽院に嫌われていた。 こういった中
 で、久寿きゅうじゅ2年(1155)7月に近衛天皇が崩御した。 わずか17歳であった。 
(5)保元の乱の前史
  平忠盛は、この乱の3年前(1153)に没していた。 そのため平清盛が、平氏の家長
 としてこの乱に加わることになった。 清盛は仁平元年(1151)に安芸守に任じられて
 いたので、乱のときの地位は正4位下安芸守であった。 もう一方の義朝は、源為義の
 嫡子で、従5位下下野守と清盛よりはるかに下位にあり、5歳若かった。 鳥羽法皇は
 、清和源氏の武力を評価していたが、貴族社会の作法や慣習に疎い義朝をそれほど好ま
 なかった。
  近衛天皇が亡くなったあと、藤原忠通と鳥羽法皇の接近が目だった。 鳥羽法皇の有
 力な近臣になっていた僧信西が、忠通の肩をもったからである。 忠通は美福門院と共
 に鳥羽法皇に、「藤原頼道が、近衛天皇を呪殺した」と吹き込んだ。 
  源義朝と為義の父子の仲はもともと良くなかった。 そのため、鳥羽法皇と藤原頼長
 か不仲になると、法皇に従う義朝は頼長に従う父。為義に反発した。 
  近衛天皇の崩御後間もない久寿2年8月に、源義朝の長男・義平が武蔵野国で、叔父
 であり為義の次男である義賢よしかたを殺害した。 同年11月に、為義の4男頼賢よりかた
 が義賢に同調して乱を起こした。 この時は、後白河天皇の命を受けて義朝が頼賢を攻
 撃した。 これらは保元の乱の前哨戦と呼ぶべき源氏の内紛であった。
  源氏の内紛の直前の京都では、後白河天皇の即位が実現していた。 それは美福門院
 と藤原忠通の運動によるものであった。 後白河天皇は鳥羽天皇と待賢門院との間の第
 二子である。 彼が皇位につく可能性は、全く無いと思われていた。 しかし後白河天
 皇の嫡子守仁もりひと親王が美福門院の養子になっていたことが幸いした。
  わが子である重仁親王の即位を期待していた崇徳上皇は、大いに怒った。 重仁親王
 も、これ以前に美福門院の養子になっていた。 しかも兄弟順で見れば、重仁親王は皇
 室の嫡系である。 しかし、朝廷で勢力のある美福門院でも、自分の後援者である鳥羽
 法皇が嫌う崇徳上皇の子を皇位に推せなかった。 
  後白河天皇が即位したあと、源義朝は鳥羽法皇の意向を受けて天皇の警備についた。
 それからし、平清盛はしばらく自分の立場を明らかにしなかった。 
(6)保元の乱
  後白河天皇が久寿2年(1155)7月24日即位したあたりから朝廷に「崇徳上皇と藤原
 頼長は危険な不平分子である」という声が広がっていた。 後白河天皇は、宮廷で大し
 た力をもっていなかった。 即位するまで政治に関心を持たず、泊拍子と呼ばれる女性
 の芸人を集めて今様という流行歌を楽しむ日々を送っていた。  政務の勉強を全くし
 てこなかった人物が思いも寄らず即位したのである。 この様な後白河天皇を高名な学
 者である僧信西が支えることになった。 
  信西は、鳥羽法皇の近臣として活躍する中で、藤原忠通と親しくなっていった。 そ
 の一方で、藤原頼長と反目していった。 鳥羽法皇も崇徳上皇や頼長を嫌っていた。 
 そのため法皇は自分の病気が重くなった保元元年(1159)6月1源義朝に院と御所の警
 備を命じた。
  7月2日法皇が崩御すると、後白河天皇はあからさまに崇徳上皇を徴発し始めた。 
 これは信西の助言によるものであった。 信西は鳥羽法皇の遺命と言って、崇徳上皇を
 院の建物に入れなかった。 更に天皇は、7月5日、京都に通じる道路に検非違使を派
 遣し、怪しい人物を捕らえよとめいじた。 その結果、宇治から京都に向かう源親治ち
 かはるを逮捕した。 親治は源頼信も兄にあたる頼親の5台目の子孫で大和に勢力を張
 る武士であった。 京都の不穏な状況を聞いて恩のある崇徳上皇に何かの手助けをした
 いと考えたらしい。 しかし、天皇派はこれを良い機会とみて、「崇徳上皇と藤原頼長
 が謀反を企て各地の武士を集めている」と噂をひろめた。 上皇はこの時点では、反乱
 を起こす意志は全く以ていなかった。 彼らが動員できる兵力は僅かで戦っても)勝ち
 目がないのは明らかであったからだ。 天皇の徴発は更につづけられた。 かれらは、
 7月8日、源義朝に命じて藤原頼長の邸宅である東三条殿を摂取した。 そこで謀反の
 証拠を掴んだと言い。 「頼長を流罪」にすると発表した。 ここに至って崇徳上皇は
 、挙兵せざるを得なかった。 彼らは7月10日に白河北殿に入り軍勢を集めはじめた。
  10日の夜には、上皇方の武士が白河北殿に集まってきた。 源為義と彼の子供たち、
 平忠正らである。 彼らは摂関家の藤原忠実。頼長の父子に仕えていた軍事貴族であっ
 た。 為義の子供の中には、義朝と戦ったことのある源頼賢や為義の八男源為朝は弓の
 人で勇猛な武士として知られていた。
  それ以前に、天皇方の中心となって働いたのは、源義朝、義康の源氏の二人の武将で
 あった。 平氏の中で平基盛だけは動いたが、清盛は事態を静観したままであった。 
  7月10日の夜に、「崇徳上皇が白河殿にはいって兵を集めている」という情報が天皇
 方にはいった。 信西は直ちに味方になる軍事貴族を天皇のいる高松殿に集めた。 平
 清盛は」この時点で初めて高松殿に向かった。 平清盛は、源義朝に「どのような作戦
 を取るべきか」と尋ねた。  「愚管抄」は義朝が夜討ちを進言したという。 そのた
 め、天皇方は夜明け前に進発した。 その兵力は平清盛300騎、源義朝200騎、源義康
 100騎から成っていた。 
  この時源義朝は最短距離を通り白河北殿に向かった。「ところが、清盛は一旦三条大
 路まで南下して南方から白河北殿を攻撃した。 上皇方の兵力は100人もしくは、数十
 人程度と考えられている。 そのため兵力に劣る上皇方は次第に押されていった。 そ
 して辰の刻(午前8時頃)に源義朝が白河殿に火をかけると上皇方が一挙に崩れた。 
 彼らは散って逃げた。 
  崇徳上皇は白河殿から仁和寺に逃れた所を保護された。 このあと、上皇は讃岐へ流
 罪とされた。 上皇の皇子重仁親王は出家された、藤原頼長は自殺した。 上皇方に加
 わった軍事貴族の多くが処刑された。 源義朝と彼の子供。平忠正と彼の子供は斬罪に
 されたが、源為朝だけは人並み外れた弓の名手で惜しまれて伊豆大島に流罪となった。
 さらに藤原忠実・頼長の持っていた領地が没収された、この保元の乱で源義朝等が死刑
 になったのは、平安時代の初期・大同5年(810)の薬子の乱で薬子とその兄・藤原仲成
 が処刑されてから約350年ぶりである。 これは多分死刑が執行されなかった期間とし
 ては世界最長のものであったと思われる。
  保元の乱の恩賞は、命がけで戦った武士たちの恩賞は思いの他すくなかった。 平清
 盛は播磨守に任命された。 播磨守はもっとも格の高い国司である。 源義朝はもっと
 も大きな手柄をたてたが、下野守の地位はそのままで右馬権守を兼務し。昇殿を許され
 ただけであった。 ところが、大した働きのない清盛の親族に、源氏にまさる恩賞がく
 だされた。 平頼盛と教盛の昇殿が許され、経盛が安芸守に任命された。 
(7)平治の乱への流れ
  保元の乱の陰の主役は、信西であった。 彼は崇徳上皇を追い詰めて挙兵に追い込み
 、源義朝を上手に利用して戦いを勝利に導いた。 この功績によって後白河天皇の一の
 近臣として重用されることになった。 信西は国政を握るためには武力が必要なことを
 知り尽くしていた。 しかし、源義朝とは距離を置き、平清盛に急接近した。 保元の
 乱のあと、信西だけでなく多くの貴族が平氏との親交を求めた。 
  平氏はこれ以前から皇族や貴族の荘園支配に力をかしてきた。 清盛に頼めば皇族や
 貴族の立場を理解した気の利く家人を世話してくれる。 
  源義朝は関東の領地の経営によって富を蓄えていたが、関東育ちの彼と彼らの家来た
 ちは貴族社会に溶け込めず敬遠されていた。 これらのことが、保元の乱の恩賞に影響
 されたのであろう。
  そのため清盛は、後白河天皇のもとで信西に次ぐ近臣になっていた。
  信西の出家前の名前を藤原通憲みちのりという。 彼は藤原家の傍流で代々朝廷の学
 者の職務を務める家であった。 彼は楽才を認められて鳥羽法皇の院長の判官代になっ
 たが、まもなく出家した(1144年)。 通憲が自分の運命を占ったところ、俗人のまま
 でいたら剣難にあって長生きできないことがわかった。 しかし、信西は頭をまるめて
 も世俗の俗をすてきれなかった。 
  信西は出家後も、鳥羽法皇に仕えていた。 そして久安4年(1148)に院近臣の有力
 者である藤原顕頼あきよりが没した。 これをきっかけに、実務に通じていた信西が法
 皇第一の近臣になっていた。
  そして後白河天皇が即位したあと、信西は鳥羽法皇の意向で天皇を補佐することにな
 った。 即位まもない後白河天皇は政治向きのことを全て信西に委ねていた。 後白河
 天皇は長期にわたって天皇の家長として朝廷で権力をふるった人物として知られる。 
 しかし天皇は、政治向のことは疎かったように思える。 
  後白河天皇は、即位3年後の、保元3年(1158)8月に譲位し、守仁親王(二条天皇
 )に皇位を譲った。 上皇になって院政を開始するためであった。 後白河天皇は、即
 位の時点では守仁親王への中継ぎとして扱われていた。 しかし、保元の乱(1156)の
 あとで、守仁親王の養母で後援者であった美福門院の地位が急速に降下した。 鳥羽法
 皇が亡くなったあと、院近臣が次第に美福門院から離れていったからである。 
  天皇は信西一人に相談して、退位に踏み切った。 関白である藤原忠通には、なんの
 相談もなかった。 かれれは貴族勢力の頂点に立つ関白である自分がないがしらにされ
 たことを大いにおこりかなしんだ。
  後白河上皇の院政が始まると、信西の一族はつねに院の御所に出入りしてその権威を
 誇示するまでになった。 信西の子の中の俊憲、成範、貞憲の三人が、院庁の重要な職
 に就いた。 藤原忠通は引退し、基実もとざねが関白になった。 基実は信西や平氏と
 したしかった。
  後白河上皇の院政が始まった当たりから、信西に反感をもつ人間が朝廷に増えていっ
 た。 保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇は、こころ静かに仏事に勤しむ日々を送って
 いた。 上皇は3年をかけて大乗経を書写した。 そして、それを鳥羽殿の仏殿か石清
 水八幡宮に納めたいと、朝廷に願い出た。 この時(1159)信西が「犯人の写経を都に
 入れるのは不吉である」と言って反対した。 後白河上皇もそれに同意した。 このこ
 とに起こった崇徳上皇は「死後にお後白河上皇の子孫を呪ってやる」と誓って怨霊にな
 ったとつたえられえう。 
  敵になった相手でも、勝者になったら後は敗者をいたわるのが人間と。 その後。御
 白河上皇は信西の過酷すぎる態度に険悪を感じるようになったという。 しかし、信西
 が私利私欲のために国政を動かした訳でない。 彼は、「皇室の勢力を拡大するために
 よって日本を一つにまとめねばならない」という信念をもっていた。 これは院政をは
 じめた白河法皇や平清盛、それに政策通の院近臣の考えと共通するものであった。
  信西の専権のもとで、後白河上皇は重苦しい気分で過ごしていた。 しかし、信西は
 鳥羽法皇の寵臣であるうえ、保元の乱を勝利に導きその後財政を立て直し立派な大内裏
 を完成させた傑出した近臣である。そのような信西を粗末に扱っては朝廷での上皇の評
 判が悪くなる。 不満を抱えた上皇に、藤原信頼という話上手で遊び事に長じた人物が
 近づいてきた。 信頼は藤原道長の兄・道隆の子孫で院近臣を代々務める家の出である
 が、信頼は政務には明るくなかった。 
  「藤原信頼が上皇のお気に入りになった」という話が広まると、進んで信頼に接近し
 てくる者が増え。後白河上皇の院近臣が二派に別れた。 国家のことを考える政務に通
 じた者が信西派、遊び好きが信頼派にあつまった。
  二条天皇の則近の藤原経宗と藤原維方は、前々から上皇の元で権力をふるう信西を嫌
 っていた。 そなために彼らは藤原信頼の一派に地下づいて信西の追い落としを目論ん
 だ。 取り巻きにおだてられ良い気になった藤原信頼は、分不相応な野心を持ち始め。
 「大将、大臣になりたい」と言うのである。 この時代の名門の貴族は大納言か又は中
 納言野時、最上位武官の左近衛大将か右近衛大将を兼務すると内大臣以上に昇進するこ
 とが出来る。 ため、当時の貴族社会では大将への任官は名誉なことであった。 
  上皇が信西に相談したところ。信西は。信頼は大将になれる家柄ではない」といって
 信頼の出世を妨げた。
(8)平治の乱
  平治元年(1159)12月4日に、平清盛は、熊野詣でに出発した。 平清盛の子の基盛
 。宗盛と主だった家人が、したがっていた。 当時の貴族社会では極楽往生を願う熊野
 信仰が盛んで、白河法皇、鳥羽上皇も何度も熊野に出かけている。 清盛は自分の留守
 中に兵乱が起こることを、全く予想していなかった。 
  藤原信頼と二条天皇はの藤原経宗、藤原惟方が連携して、平治の乱を引き起こした。
 しかし、この乱の表面で活躍した貴族は信頼だけである。
  藤原信頼は最初に、源義朝の軍勢を引き連れて院の御所である三条殿を襲った。 
 12月9日深夜の子ねの刻こく(午後12時)のことであった。 源義朝の軍勢には、義朝
 の弟の源義盛(のちに行家と改名)や源頼政も加わっていた。 彼らは後白河上皇を無
 理やり牛車ぎっしゃにのせて、一本御書所いっぽんごしょどころにお遷しした。 この
 とき源師仲が天皇を連れ出す役目を務めた。 三条殿は、信西の屋敷の東隣にあり、一
 本御書所は大内裏の内裏の隣にあった。
  上皇を連れだしたあと、藤原信頼は兵士に命じて三条殿に火をかけさせた。 軍勢に
 御所を囲ませて、院に仕える者を皆殺しにしようとしたのである。 この時多くの女房
 が、井戸に身を投げなくなったという。 五味文彦の「平清盛」によれば、「日頃から
 信頼は御所の女房や北面の武士に嘲笑されていた」という。 大した能力も無いのに上
 皇の機嫌取りで目覚ましく出世した者が、妬まれ嫌われるのは当然である。 誰もが知
 らず知らずに抱いてしまう小さな悪意。 信頼はそういったものまで許さず、自分を悪
 く言う者を皆殺しにする残酷さをもっていた。 そのような指揮官の命令に黙って従っ
 て罪のない者の命を奪う、源義朝の配下の武士も恐ろしい。
  信頼の軍勢は丑うしの刻(午前2時頃)になって、信西の屋敷に押しと押し寄せた。
 彼らはそこにも焼き討ちをかけ、屋敷から逃げ出す者を皆殺しにした。 しかし信西は
 この時屋敷にはいなかった。 
  藤原信頼は12月11日に二条天皇を大内裏にお招きして、天皇親政をはじめた。 これ
 は藤原経宗、藤原惟方とあらかじめ打ち合わせた策にもとずくものである。 
  信頼は天皇のもとで、公卿の会議を開いた。 この席上で信頼は大臣の大将に出世し
 、源義朝は播磨国守を兼ねたというが、この政権の寿命が余りに短かくこの人事の詳細
 は不明である。 
  信西は12月13日、宇治田原までのがれ、穴を掘って隠れている処を見つかり斬られた
 。 彼は占い通り剣難に合った。 
  平清盛は12月11日に京都における兵乱の知らせをうけた。 源義朝が挙兵した翌々日
 である。 使者は田辺(田辺市)で清盛の一行に追いついた。 この時清盛一行の人数
 は15人程度であった。 清盛は一旦西国に下り、兵を集める策も考えた。 しkし、紀
 伊の武士湯浅宗重が37騎を従えて清盛の援軍に駆けつけてきた。 更に、熊野別当湛快
 たんかいが鎧や矢を献上した。 彼らの応援に力を得た清盛は、京都を目指すことを決断
 した。 
  京都に戻ってみると上皇も、天皇も藤原信頼に抑えられていて、兵を動かすことが出
 来ない。 そのため清盛は自邸を堅く守り、事態を静観することにした。
  平清盛が六波羅に入ったことによって京都の政情は大きく変わった。 平治の乱の時
 の源氏と平家の兵力を正確に伝える文献は残っていない。 しかし、源義朝の軍勢は保
 元の乱の時と同じ200騎程度であろう。 これに対し、平清盛の兵力は500位ではあるま
 いか。それは300程の平氏直属の家人と急を聞いて駆けつけた京都周辺の平氏に心を寄
 せる武士からなる。 「戦いになれば平氏が勝」貴族達はこう「かんがえた。 しかも
 彼らは乱暴な源氏を嫌い、自分たちと同じ上品な作法を身に着けた平氏に好意をもって
 いた。
  藤原経宗、藤原惟方らの二条天皇の近臣たちの気持ちが、藤原信頼から離れはじめた
 。 彼らは二条天皇親政を実現するために、信頼と組んだ。 ところが信頼は政権を取
 ったあとで万事を専断し、天皇親政の要望を聞こうともしなかった。 さらに彼らは「
 上皇の女房や信西の屋敷に仕える女性や子供まで殺す残忍な戦いぶり」を苦々しく思っ
 ていた。 
  彼らはこうも考えた。 さらに京都の人々が源氏の軍勢を恐れ、不安な日々を送って
 いる有様を天皇親政派の貴族に伝わってきていた「藤原信頼と源義朝は、人々の気持ち
 を理解せず、武力で政権を握って得意になっている。 しかも彼らに、今後の朝廷の政
 治を運営していく知恵はない。 それならば平清盛の武力で、源義朝を追い払ってもら
 い、貴族や京都の住民を安心させる他ない。 これまで皇室のために誠実に尽くしてき
 た清盛なら、京都の治安維持をまかせることができる」
  藤原経宗も藤原惟方もこう考えた。 そのため彼らは知恵者である藤原尹明ただあき
 、六波羅に送った。 尹明は藤原惟方の妻の弟にあたる。 
  このあと藤原尹明と清盛は、女房の外出用の牛車で二条天皇をお連れする策を立てた
 。 平氏の家来が二条大宮で火事を起こすので、警備の者がそれに気を取られている隙
 に天皇をお逃がしするのである。 さらに。尹明は清盛に「藤原信頼に名簿みょうぶ(従
 者となることを誓う文書)を差し出して欲しい」と頼んだ。 敵を油断するためであっ
 た。
  12月24日に平清盛は、平家貞に名簿を届させた。 藤原信頼は名簿を見て大喜びした
 。 この夜の丑の刻つまり25日の午前2時、二条天皇が三種の神器を捧げた女房を従え
 て清盛に到着した。 さらに天皇が六波羅に入ったという知らせを聞いた後白河法皇が
 仁和寺に逃れた。 やがて上皇も摂関家の藤原忠通、基実父子も六波羅にはいった。 
 これによって朝廷の主だった者が、平氏の軍勢の保護のもとにあつまったことになる。
 天皇も上皇も院の御所を焼いた乱暴な源氏の軍勢を恐れていた。
  まもなく、二条天皇の藤原信頼・源義朝追討の宣旨(天皇の命令書)が平清盛にくだ
 された。 その少し前、大内裏に居た藤原成親が、天皇不在に気がついた。 成親は院
 の近臣の家に生まれ、後白河上皇に仕えていた、 藤原信頼と親しく、信頼と行動を共
 にしていた、天皇が、脱出したことを知って源義朝は「日本第一の不覚人」と言って藤
 原信頼を罵倒した。 義朝は、言われるままに多くの人を殺した。 その暴力行為はそ
 れまで藤原信頼の指導の基に動くことによって正当化された。 ところが義朝の行動が
 全て、天皇に背く大罪となってしまったのだ。 しかし、義朝は「源氏に裏切りはない
 」といって、藤原信頼と共に戦う準備にとりかかった。
  六波羅で公卿会議が行われた、完成したばかりの大内裏を焼いてはならない、との注
 文を清盛は快く承諾した。 彼は最初に平重盛らの平氏の主力に源氏の拠る大内裏を攻
 めさせる策をとった。 そして決戦に持ち込むと見せかけて、敗れたふりを見せて、六
 波羅を目指して逃げ、源氏をおびき出すのである。
  一夜明けて、12月26日になった。 平氏の軍勢は、辰の刻(午前8時頃)に大宮方面
 から大内裏を攻めたてた。 平重盛は藤原信頼が守る郁芳門を、平頼盛は源義朝が守る
 待賢門を攻めた。 重盛は、信頼の軍勢を破って内裏に向かった。 ところが義朝の長
 男源義平がそこに駆けつけてきた。 義平は叔父の源義賢を討ったことによって悪源太
 の仇名を付けられた猛将である。 
  義平が放った矢が、重盛の馬に当たった。 重盛は急いで家来の馬に乗り換えて、六
 波羅方面に逃げ出した。 同じころに平頼盛も、源氏の勇者、鎌田政清の決死の覚悟の
 力戦に苦しめられて退却していた。 源義朝は全軍に命じて平氏を追った。 先頭に立
 った義平は「このまま六波羅」の屋敷まで攻め込む、平清盛を討取れ」と勇立った。 
 人数でまさる平氏の軍勢をたやすく崩せたので「平氏弱し」と思い込んだのである。 
  源氏の軍勢の前に、六条河原で陣を敷いて待ち受ける平氏の新たな一隊が現れた。 
 源氏がこの新手の平氏を攻め立てると、重盛と頼盛の一隊も勢いを取り戻して源氏に襲
 い掛かってきた。 三方から敵を受けた源氏は次第に苦戦に陥った。 そのころ藤原信
 頼は、大内裏から何処かへ行方をくらました。 源頼政は、同族である源義朝の挙兵に
 従ってきた、 しかし、頼政は大内裏で戦いが始まって以来、ずっと後方あって戦闘に
 加わろうとしなかった。 
  昼過ぎた当たりから源氏方は次第に押され敗色が濃くなってきた。 この状況を見た
 源頼政の一隊が突然源氏の目印の白旗を投げ捨てた。 彼らは源義平の一隊めがけて、
 勢いよく斬りかかっっていった。 
  源義朝・義平父子の戦意が、一気に崩れた。 ずっと休んで英気を養ってきた頼政の
 軍勢は元気が良い。 それに対して義朝も義平も朝から続けて戦い疲れ切っていた。 
 源氏の本陣が、次第に崩れていった。 そして、源義朝・義平父子は直属の家来の十数
 人を連れて敵の囲みを破り、馬に鞭をあて疾風のような勢いで駆け去った。 平氏は、
 それをただ見送った。 そのあと清盛は追跡させなかった。
  翌日、12月27日、仁和寺に逃れとぃた。 藤原信頼と成親は捉えられた。 この時、
 藤原信頼は、乱の首謀者として斬ったが、他の貴族は朝廷の法により、流罪または解官
 になった、源義朝は東国に逃れる途中で、長田忠致おさだただむねと言う者に打たれた
 。 
(9)二条天皇
  平治の乱は、藤原信頼が起こした無謀な乱であったが、その遠因は政治に無関心な、
 後白河上皇にあったと言われよう。 自分の住んでいた館である院殿を焼かれ自分の女
 房を殺すような者を近臣にし、さらに寵愛し、能力があり重要な仕事を任せる人物か、
 そうでないかの判断が出来ない、今何をしなければならないか、何をしてはならないか
 の正しい判断の出来ない人は、天皇になり更に院政を行うこがまちがっていたと言える
 であろう。
  藤原信頼と信西の対立で始まった平治の乱は、最後は信西派の平清盛と藤原信頼に組
 した源義朝の源平の合戦で終わった。 平治の乱に勝利した時点で、平氏は国内の武士
 を束ねて日本を動かす力を得た。 平氏の武力的支えがなければ、皇室も貴族も荘園を
 維持できなかったのだ。 
 しかし、平清盛は、武力を誇ることなくあくまでも上皇や天皇を立てる方針をとった。
 この時期の清盛は、後白河上皇とも二条天皇おの近い立場にあった。 上皇のもっとも
 お気に入りの妃である平滋子は、清盛の妻(平時子)の異母妹であった。 その時子は
 、二条天皇の乳母であり、清盛は乳母の夫として天皇を保護する立場にあった。
  後白河上皇と二条天皇の父子は、前々から反目しあっていた。 上皇は平治の乱で、
 たのみとしていた近臣の信西をうしなった。 しかも上皇の側近である藤原信頼が平治
 の乱を起こしたために、朝廷の貴族たちは上皇から離れた。 そのために乱のあと、二
 条天皇派の藤原経宗と藤原惟方が朝廷の政治を動かすようになっていった。 後白河上
 皇は、そのことを苦々しくおもった。 そのため上皇は、平清盛との結びつきをつよめ
 ることによって、地位の回復をはかろうと考えるようになった。 上皇は平治の乱まで
 は、信西を間に立てて清盛とせっしていた。 しかし上皇は、乱のあとで清盛を第一の
 院近臣として扱うようになってうぃった。 
  二条天皇派が政治を動かしていくのを見て、後白河上皇は大きな不安に捉われた。 
 二条天皇派17歳であったが、天皇は子供の時から賢明で、貴族達から好かれていた。 
 「二条天皇に皇子が生まれれて、二条天皇がその皇子に譲位すれば取り返しがつかない
 ことになる。 二条天皇の院政が始まり、朝廷に自分の居場所がなくなる」  こう考
 えた後白河上皇は天皇派の藤原経宗と藤原惟方が、軍事貴族の力を正しく評価していな
 いことに目をつけた。 彼らはまだ平氏を「自家より格下の人」としか理解していなか
 った。 
  そのために後白河上皇の頭に、次のような策が閃いた。 「二条天皇派は平治の乱の
 ときに、平清盛に十分な恩賞を与えなかった。 今わっしが好条件を提示して清盛を味
 方に引き込めば、朝廷の実験を握れる」
  この後白河上皇は、側室の平滋子を通して清盛と交渉した。 このとき上皇は、平氏
 に破格の条件を提示したらしい。 いずれ平清盛を太政大臣にまで引き立てるとか、平
 滋子の間に生まれる皇子に皇位を継がせるといった話まで出されたのではあるまいか。
  これは上皇と清盛との間の密約であるから、そのことを記した文献は残っていない。
 しかし清盛はこの後貴族社会の慣行を破って、太政大臣に上る異例の出世を実現した、
 その理由を合理的に説明する根拠として、後白河上皇の大きな危機の際の密約以外のも
 のはかんがえられない。 しかしこれは私(「平清盛」著者;武光誠)の推測である。
  私と異なる立場から、「平清盛が白河法皇の落胤であったために太政大臣になれた」
 と説明する研究者(高橋昌明)もいる。
  永暦元年(1160)2月に、平清盛の家人が藤原経宗と惟方を捕らえる事件が起きた。
 後白河上皇の命令によるものであった。 この年の1月に後白河上皇が八条堀川の藤原
 顕長の屋敷に御幸された。 上皇が屋敷の桟敷から大路を通る身分の低い者を見物して
 いたところ、藤原経宗と惟方が桟敷の道路側に板を討ち付けさせて外を見られないよう
 にした。 
  二人は、上皇の下品な行為を諌めるつもりだったのであろう。 しかし、後白河上皇
 は「二人は、皇室に無礼を働いた」といって、経宗よ惟方を流罪に処した。 二条天皇
 を支える有力な近臣が失脚したことによって、再び後白河上皇の院政が行われた。
  平清盛は、これからまもなく同年6月に、正三位に出世した。 さらにその二ヶ月後
 の八月に参議に任命された。 一介の軍事貴族が、名門の貴族以外にはなれない公卿の
 地位に進んだのである。 この異例な人事は後白河上皇が朝廷の実権を握ったために、
 上皇の強い意志によて実現したものである。 清盛は正四位下から、正四位上と従三位
 を飛び越えて、一気に正三位の位階を与えられたのである。
  平清盛な同年8月5日に、安芸国の厳島神社参拝のために京都を出発した。 これは
 、清盛が参議に任命された日(8月11日)の6日前のことである。 この少し前に清盛
 は正3位の位階をうけられた。 3位になれば、参議や中納言に進む資格を与えられる
 。
  そして7月9日になって、議政官(左大臣以下参議以上)の席がが二つ空いた。 内
 大臣の藤原公教きんのりが没し、太政大臣の藤原宗輔むねすけが官職を辞任したのであ
 る。 このときできた空席を上から順に埋める人事がおこなわれた場合には、平清盛が
 参議に任命される可能性がたかかった。 とうじの朝廷の力関係からみれば、後白河上
 皇の後援をうけた清盛が参議の最有力候補であった。
  こういった背景のなかで、平清盛は都を離れたのである。 彼は「私がいなくても、
 参議昇格は確実である」と計算していたのであろう。 軍事貴族が参議になることに反
 発する貴族もいる。 だから清盛は京都の余計な雑音に不快な思いをさせられるのを嫌
 ったと見る。
  藤原経宗は流罪になって二年後(1162)に罪を赦されて、京都に召し返された。 そ
 して中央に復帰した彼は、自ら進んで平清盛に近づき親平氏の貴族の中心人物の一人と
 なっていった。 
  これに対して、藤原惟方は出家して政治の場に戻ってこなかった。 二条天皇が最も
 頼りにした能吏が、藤原惟方であった。 惟方は信西よりは小粒であるが、彼には後白
 河上皇のもとで信西が務めたような位置を占める能力があった。 惟方をうしなったこ
 とによって、朝廷における二条天皇の影響力は大きく低下した。 
  応保元年(1161)9月3日憲仁のりひと親王が生まれた。 親王の母は平清盛の妻の
 異母妹に当たる平滋子である。
  憲仁親王の誕生が、二条天皇お周囲の人々に大きな不安を与えた。 「上皇は、二条
 天皇を退位させて、憲仁親王を即位させるのではないか」というのである。 こういっ
 たなかで事件が起こった。 同年9月15日に右馬権頭うまごんのかみ平教盛と右小弁うしょうべ
  ん
平時忠が解官され、少納言平信範が左遷されたのである。 平時忠は翌応保2年
 (1162)6月になって、別の事件に関連して流罪にされている。 教盛は清盛の異母弟
 で、時忠は清盛の妻・時子の兄、信範は時忠の叔父であった。 この一件は、二条天皇
 派が仕組んだものであった。 
  平清盛に近い人間が、三人まとめて罪を着せられた事件であった。 しかし、この時
 二条天皇派には、平清盛と敵対する気はなかった。 平時忠は憲仁親王の母方の叔父う
 まれて間もない親王の最も身近な貴族であった。 また平教盛は、顕仁親王の守役をつ
 とめていた。 
  この点から見て、二条天皇派が憲仁親王を支える勢力を攻撃の的にしたありさまがわ
 かってくる。 さらに、9月28日には、後白河上皇の側近である藤原成親、藤原信孝ら
 が解官された。 これによりって後白河上皇の勢力が、おおきく後退した。 このあと
 、前関白の藤原忠通を担ぎだした。
  天皇派は、こう発表した。 「平教盛らは、憲仁親王を皇太子に立てようとする陰謀
 を進めていた」
  しかし朝廷の人々の多くは、その陰謀が事実無根のものであることを知っていた。 
 公卿でもない教盛らに、皇位継承を左右する力はない。 しかも彼らに対する罰がかる
 すぎた。
  後白河上皇を排除したあと、関白藤原基実の主導で政務を行う形がとられた。 天皇
 のもとの摂関政治が復活したのであるが、朝廷の実権を握ったのは基実の父藤原忠通で
 あった。 
  しかし、忠通も彼に従った二条天皇派の貴族も、平氏の武力が朝廷に必要なことを知
 り尽くしていた。 そのため摂関家も二条天皇派も、しきりに平氏の機嫌取りを行った
 。 
  そうであっても平清盛は天皇派の目を気にせず、後白河上皇と連絡を取り合っていた
 。 平氏の力を知る天皇派は、そのことに文句をいわなかった。 
  長寛2年(1164)に朝廷の政治の流れは大きく動いた。 この年の二月に、前関白藤
 原忠通が没したのである。 このあと忠通の子の基実が、平氏に接近してきた。 清盛
 の娘盛子を妻に迎え、清盛を後援者としたのである。 このとき盛子はわずか9歳であ
 った。 
  この年に平清盛は、後白河上皇のために蓮華王院れんげおういんの建設に膨大な資金
 を投じた。 それは上皇が院御所のあとに営んだ法従寺殿ほうじゅうじどのという寺院
 の一部をなすもので、1000体の千手観世音菩薩像を安置している。 その寺の本堂は現
 在三十三間堂の名で広く知られているが、そこの建物は鎌倉時代に再建されたものであ
 る。 
  朝廷の政務は藤原基実を中心に行われたが、後白河上皇の発言力が次第に高まってい
 った。 蓮華王院の完成は、平清盛と上皇の結びつきを更に強めるものになった。 
  平清盛は同年9月、厳島神社に写経を奉納した。 これが「平家納経」と呼ばれるも
 のである。 「平家納経」は現在まで厳島神社につたわり、国宝となっている。 それ
 は「法華経」「無量義経」などの三十二巻の経典に、1巻の願文が添えられたものであ
 る。 この納経がなされた時点の朝廷では、二条天皇派から後白河上皇派への勢力交代
 が急速に進んでいた。
  「平家納経」が奉納された次の年に当たる永万元年(1165)4月に、二条天皇が発病
 した。 天皇の病気はしだいに悪化していった。 そのために貴族たちは「これからは
 後白河上皇と平清盛の時代になる」と考えて、にわかに上皇に接近しはじめた。
  永万元年(1165)6月に二条天皇が六条天皇に譲位した。 六条天皇は僅か二歳であ
 った。 二条天皇はこの翌月に崩御された。 六条天皇の実母は、壱岐義盛いきよしもり
 言う中流貴族の娘で、父亡き後6条天皇は極めて不利な立場に置かれていた。 
(10)高倉天皇とその時代
  仁安元年(1166)10月に、憲仁親王の立太子の儀が盛大に行われた。 3歳の天皇の
 もとで、6歳の皇太子が立ったのである。 この立太子は、後白河上皇の強い意志によ
 って実現したのである。 憲仁親王は上皇のお気に入りの平滋子が生んだ皇子で、滋子
 は平清盛の妻平時子の妹である。 後白河上皇は憲仁親王に皇位を伝えることによって
 、平氏との繋がりを強めようとしうたのである。 平氏の武力を背景に思いのままの専
 制を展開しようと考えた。
  平清盛はこのあと仁安元年(1166)11月に内大臣、翌仁安2年(1167)2月に太政大
 臣に任命された。 権大納言から太政大臣になるまで1年6か月という、急速な出世で
 あった。 
  朝廷では、後白河上皇の専権が成立していた。 そして誰もが平氏の武力なしに朝廷
 の全国支配が成り立たないことを知っていた。 そのために貴族たちは、平清盛が内大
 臣から太政大臣へと異例の出世を進めていくことに異論を唱えなかった。
  平清盛は仁安2年(1167)5月17日に、太政大臣を辞任した。 太政大臣になってか
 ら3か月ほど後のことであった。 清盛は太政大臣の地位に、それほどこだわらなかっ
 た。 先太政大臣として朝廷に重きをなすだけで充分と考えたのだ。
  平清盛が太政大臣を辞任する前に、平氏は朝廷から大きな権限を与えられた。 仁安
 2年(1167)5月10日権中納言平重盛に対し「諸国の山賊、海賊を追討せよ」という宣
 旨がだされたのである。 これは、平氏に全国の武士を統一する資格を与えるものでで
 あった。
  平清盛は重盛が全国の武士の長とされたことを見届けたあと、太政大臣を辞任した。
 そして次の年仁安3年(1168)2月11日妻時子と共に出家した。 この直後、同年2月
 19日に高倉天皇が即位した。 正安元年(1171)、高倉天皇が元服すると清盛の子徳子
 入内の話が持ち上がり同年12月2日、院殿上において入内定が行われ、徳子は従三位に
 叙でられ、16日、女御となり、翌承安2年(1172)2月10日、立后して中宮となった。
  平氏政権の時代に、国政の中心が二つ出来ていたことになる。 朝廷と平氏である。
 朝廷は荘園の名目上の領主の集まりであった。 そして全国の武士の多くは兵士の指導
 のもとにあった。 平氏は朝廷から自立」する力なく、平清盛、重盛の父子は皇室を重
 んじていた。 しかし、朝廷は平氏の武力の支えなしには国内を支配できなかった。 
  平氏政権のもとで「地頭」の職がおかれた。 しかし、この時代の地頭の権限は、曖
 昧であった。 下司げし(身分の低い役人)、公文くもん(文書をあつかう役人)など
 と呼ばれていた荘菅しょうかん(荘園の管理者)を務める武士が平氏によって地頭に任
 命されたた。 しかし、平氏政権のもとの地主の権限は、荘園ごとにことなっていた。
  平氏は、平氏と主従関係を結んだ荘官を地頭にしたのである。 しかしその時平氏は
 、平氏政権以前から受け継がれた荘園の名目的領主と荘官との個々の権利関係には手を
 つけなかった。 それでも地頭に任命」された武士は荘官の地位を平氏に守られること
 になる。 そこで多くの武士が進んで兵士にしたがったのである。
  平氏が皇室や貴族を重んじる立場をとつたので、地頭は不法な形で荘園の名目的領主
 に反抗しずらくなった。 この様な平氏が全国の武士を束ねることは、貴族の利益にも
 なった。
  この様な曖昧な形を崩して、朝廷と武家政権とを明確に分けたのが鎌倉幕府であった
 。 平清盛は、応保2年(1162)に、摂津国八部やたべ郡の公領を領有する権利を得た
 。 現在の神戸市の西部にほぼ相当する。 この地を気に入り福原山荘を建設した。 
 山荘の半里(2km)余り南方には、大輪田泊があった。 そこは平安時代の商船が寄港
 した良港で、小さな町になっていた。 大阪湾は浅く大船の出入りが困難であった。 
 そのため江戸時代まで瀬戸内海航路を東上してきた商戦は、大輪田泊(兵庫港)で荷物
 を小舟に積み替えていた。 そこから小舟で淀川を遡って、商品を京都に送り込むので
 ある。  清盛は大輪田泊を押さえ、南宋の商船を呼び込み、日宋貿易を一手に握った
 。
  平清盛が福原に居を定めると、その周囲に一門や有力な家人の別荘が次々に立てられ
 た。 嘉応元年(1169)3月には後白河上皇がわざわざ福原を訪れ、清盛が開いた千僧
 供養(千人の僧侶を招き、彼らに食事をふるまい仏の供養を行う)に参列している。 
  平清盛が本拠を福原に移したあとの朝廷で、後白河法皇の専権が次第に目立つように
 なった。 
  後白河上皇は嘉応元年(1169)6月に出家して法皇になった。 同年12月比叡山僧兵
 の強訴は、後白河法皇の自分勝手な振舞が原因で起こされたものである。 
  法皇は朝廷の先例を無視して、お気に入りの側近を登用してきた。 法皇が最も気に
 入った側近が、藤原成親であった。 成親には政務や学問の才能はないが、彼は話上手
 で歌舞伎などの遊びごとに通じた。 そのため成親は上手に法皇の機嫌をとって、法皇
 第一の側近になりあがった。 
  この藤原成親は、嘉応元年(1169)に権中納言の地位にあり、尾張国の知行国主も兼
 ねていた。 成親が尾張国に送った目代が、比叡山に奉仕していた日吉神社の神人に乱
 暴を働いた。 このことに怒った日吉神社の神人が朝廷に訴えたところ、主だった三人
 の神人が牢屋に捕えられた。 成親が担当の役人に圧力をかけたのである。
  このことに怒った日吉神社は、比叡山を動かして強訴を起こしてきた。 朝廷は三人
 の神人を開放したが、比叡山の僧兵はそれくらいでは収まらない。 僧兵たちは「藤原
 成親を流罪にせよ」と要求した。 彼らは12月23日に大内裏の待賢門、陽明門当たりで
 迫り、そこに日吉神社の神輿を据えて騒いだ。 
  後白河法皇は貴族を集め会議を開き、平氏の軍勢を呼んで僧兵を追い払うことを決定
 しようとしたが反対者が多く、軍の出動は見合わせた。 そのため法皇は、24日「藤原
 成親を備中国へ流罪にする」と発表した。 このことを聞いた僧兵は、日吉神社の神輿
 を奉じて帰山した。 これにて一件落着と思えたが、しかし後白河法皇は、成親が身辺
 にいないのは不満であったのであろう。 法皇は、27になって、前言を翻した。 成親
 を召し返し、比叡山の総責任者である天台座主明雲みょううんの護持僧の地位を剥奪し
 た。 そしてさらに僧兵の強訴の時に比叡山に味方したとして平時忠と平信範を解官し
 たうえで流罪にすると発表した。 
  後白河法皇は理屈抜きで一方的に、比叡山を悪者と決めつけたのである。 右大臣の
 藤原兼実は「玉葉」になかで、この時の法皇のやり方を「天満の所為なり」酷評した。
  平清盛は翌嘉応2年(1170)1月13日になって、弟の頼盛を福原に呼び比叡山の一件
 について詳しく尋ねたあと1月17日に京都に入った。 清盛は前々から比叡山の天台座
 主明雲と親しかった。 そのため清盛は比叡山の側にたって、公卿たちとあれこれ交渉
 したとみられる。 後白河法皇であっても、強大な武力をもつ清盛の意向には逆らえな
 かった。 
  1月22日になって、朝廷の裁断は逆転した。 平時忠と平信範が召し返され、比叡山
 の訴えに基づき藤原成親を処罰することにしたのである。 しかし、成親の処分は、解
 官だけですまされた。 清盛が成親の扱いにかんして法皇に譲歩したのであろう。 成
 親解官によって比叡山の面目は保たれた。
  しかしこの時の強訴の一件によって、朝廷における後白河上皇の評価は大きく低下し
 た。 しかし、この直後に、清盛の知らない所で平氏の評価を落とす事件が起きた。
  比叡山の強訴を廻る朝廷の混乱のあと、約半年後の嘉応2年(1170)7月に殿下乗合
 でんかのりあい事件が起こった。
  同年7月2日に遠乗りの途中にあった平資盛の一行が、摂政藤原基房の牛車に気付か
 ず道を譲らなかった。 間の悪いことに、このとき基房の従者たちは相手が平氏だと知
 らずに、資盛の一行を馬から引きずり降ろして辱はずかめた。 
  このあと基房は事情を知って従者を罰し、資盛の父に当たる重盛に謝罪した。 しか
 し、基房と平氏とは前々から摂関家の領地の件で、互いのことを良く思っていなかった
 。 そのため重盛は、基房が意識的に資盛に乱暴したと思い込んだ。 
 「ここで引き下がれば、武家の棟梁としての実力が疑われる」と重衡は考えた。
  10月21日になって、朝廷の会議に出席しようと内裏に向かった基房の一行が多数の武
 の乱暴を受けた。 この時4人の従者が、馬から引きずり降ろされて髻もとどりを切ら
 れた。 平重盛が、藤原基房を傷つけたわけではない。 しかし、従者を辱められたこ
 とによって摂関家の面目は大きく傷つけられた。 
  慈円は「愚管抄」で平重盛は「心うるわしい」人と評価する。 しかし殿下乗合事件
 、「重盛の生涯の間のただ一つの過ち」と評価している。 
  平氏は「貴族でありながら武士の生き方を理解する。」軍事貴族として成長してきた
 。 しかし、殿下乗合事件が、そのような平氏の有り方を破たんに導くものになったの
 である。
  殿下乗合事件から鹿ケ谷事件までの時期(1170~1177)の貴族僧は、表面では平氏を
 たてていた。 かれらが平氏の力を借りて荘園を支配していたからである。 平氏を敵
 に回すと、荘園村落の小領主である武士と直接たりとり合わなければならない。 
  後白河法皇と平清盛の仲が表面的にうまくいっていたことも、平氏に対する貴族層の
 反発を鎮める働きをした。
  平清盛が福原に還ったあと、後白河法皇が遊び好きの近臣を登用するようになってい
 った。 法皇はもともと歌舞を好んだが、安元元年(1175)に寵臣の藤原成親を権大納
 言、源資賢すけかたを中納言に起用し人々を驚かせた。 資賢は宇多源氏の流れを引く
 郢曲えいきょくという歌曲を代々継承する雅楽家の出で笛や和琴に長じていた。 成親
 は親平氏の藤原隆季の弟である。 兄が勤勉であったのに対し、弟の成親は怠け者で陰
 謀好きの手に負えない人物であった。 成親は二度、朝廷の政争で処罰されていたが、
 すぐに元の地位に復帰している。 
  こういった中で安元2年(1176)後白河法皇の愛妻平滋子が歿した。 このことによ
 って法皇は平氏と距離絵をおくようになり、法皇の側近の活動の場を広めることになっ
 た。
  治承元年(1177)正月に権大納言右近衛大将の平重盛が左近衛大将に、権中納言平宗
 盛が右近衛大将に任命された。 近衛大将を経て大臣になりたいと望んでいた藤原成親
 は、この人事に文句をつけて大っぴらに平氏の専権を批判した。 
  ところが、左右の近衛大将が任命された二ヶ月後の同年3月、内大臣の藤原師長もろ
 ながが、太政大臣に昇進した。 そして平重盛が、空席となった内大臣の地位に任命さ
 れたのである。 藤原成親にとって家柄の良い師長が太政大臣に進むことには異論はな
 かつた、しかし、重盛が内大臣に任命されたことに嫉妬し、焦ったのである。 
  「院の第一のお気に入りのおれが、軍事貴族に過ぎない平重盛、宗盛兄弟の風下に立
 って良いのか」と彼は考えた。 平宗盛は今は権大納言成親より下位の権中納言である
 が、順当にいけば先に大将になった宗盛が成親より早く大臣に昇格する。 
 この時期の人事は、平氏から出された案件と院が主張した案件とを公卿の会議で調整す
 る方で進められていた。 だから道理の叶った人事はすんなりとうけられるが、権力者
 の筋の通らない要求は通りにくかった。 
  後白河法皇も、お気に入りの藤原政親らを早く出世させたいと考えていたろう。 し
 かし公卿の会議が平氏が出した人事を是とした場合には、どうしようもなかった。 
  治承元年一月と三月の人事は、院と平氏との対立の一かけとなるものであった。 し
 かし三月時点では、両者の協調は保たれていた。
  鹿ケ谷ししがたに事件は、信西の弟子で後白河法皇の寵臣・西光の子の加賀守藤原師高
 と白山の末寺である涌泉寺ゆうせんじとの対立に始まるものであった。 師高は弟の加
 賀目代藤原師経もろつねと共に任地で圧制を行い、国司に反抗した涌泉寺を焼き払った
 。 この涌泉寺は加賀の人々の信仰のあつい白山の末寺であり、白山は比叡山の保護の
 もとにあった。 そのため比叡山が藤原師高と師経の処罰を求めて、朝廷に強訴を起こ
 したのである。 
  これに対して後白河法皇は、寵臣西光の子供たちをかばう立場をとった。 そのため
 同年五月に比叡山の長である天台座主明雲を強訴の責任を追及して、明雲を伊豆に流す
 と宣言した。 明雲は前々から平清盛と親しかった。 
  明雲は役人に護送されて伊豆に向かうが、5月23日に近江国粟津を通りかかった所を
 部下の僧兵に助けだされた。 後白河法皇は大いに怒った。 しかし朝廷には、比叡山
 に対抗出来る兵力はなかった。 後白河法皇は、平重盛と宗盛を呼んで、比叡山を攻め
 るように命じた。 しかし、両人は、「父にご相談下さい」と言って動かないため、院
 で5月28日、法皇と清盛との長時間にわたる話し合いが行われた。 この時法皇は意見
 を曲げず、強引に主張を通したと思われる。 そのため清盛は、平氏の軍勢で東西の坂
 から比叡山を攻める事を承知させられた。
(11) 平氏政権と平清盛の最期
  しかし、そのあと平清盛は、誰も予想できない策略を用いて比叡山との戦いを避けた
 。 同年6月1日に、平氏は藤原成親、西光らの平氏打倒の陰謀が発覚したと発表した
 。 これは成親の誘いをうけた、源行綱の密告によって明らかにされた。
  鹿ケ谷事件のとき西光は京都出斬られた。 藤原成親は備前国に流罪になったあと、
 流刑地で平氏に暗殺された。 この他に俊寛ら数人の院の近臣が流刑にされた。 お気
 に入りの近臣を失ったことは、後白河法皇にとって大きな痛手となった。
  しかし、法皇はへこたれず、関白の藤原基房と結ぶことによって平氏と対抗する方向
 を模索し始めた。 基房は、領地(藤原基実が没すると、荘園を2分割し、半分を弟基
 房、半分を妻盛子=嫡男・基通)を奪われたことや殿下乗合事件で恥をかかされた恨み
 を抱いていた。 
  そのため法皇と連携して時間をかけて上流貴族を反平氏陣営に組織していく形成にな
 ったのである。 治承3年(1179)初め頃の朝廷では、公卿全体の3分の1ほどが親平
 氏で残りが反平氏となっていた。
  治承2年(1178)11月12日、平徳子に待望の皇子が生まれた。 言仁ことひと親王日
 の安徳天皇である。 清盛は同年12月9日に、言仁親王を皇太子に立てた。 
 翌治承3年(1179)立て続けに二件の不幸が平清盛を襲った。 6月に平盛子が、7月
 に平重盛ば亡くなった。 
  後白河法皇は平盛子が没した直後に、彼女が官吏していた摂関家領の荘園を強引に奪
 い、皇室の管理にした。 福原にいた清盛はこの件をきいて怒った。
  後白河法皇も焦っていた。 「言仁親王が即位してしまえば、平氏が高倉天皇に院政
 を行わせて日本を思いの、ままにしてしまう。 その前に何とかしなければ」と法皇は
 考えた。
  同年10月9日、後白河法皇は思い切った人事を行った。 関白藤原基房の子で僅か8
 歳の師家もろいえを権中納言に抜擢した。 これは「いずれ師家を基房の次の関白にす
 る」と宣言したことになる。
  つまり、この人事を受け入れたら、松屋家の系統が摂関家の正統になってしまう。 
 近衛家の基通は、生涯にわたって松屋家の下風に建たなければならなくなる。 近衛家
 と結んで貴族達を指導していかなければならない平清盛にとって、このような人事は、
 受入難いものであった。
  同年11月14日、平清盛は、数千騎の大軍を率いて福原を発ち。京都の入った。
  平清盛は15日から20日にかけて改革を断行した。 後白河法皇の執政を攻めて、院政
 を停止したのである。 院は鳥羽に幽閉され、政治への口出しを禁じられた。 そして
 院政に代わって高倉天皇の親政がはじめられた。 
  法皇の側近の処罰も行われた。 関白藤原(松殿)基房とその子師家は辞任せられた
 あと、基房は、備前国に流された。 太政大臣藤原師長の解任された。 平清盛は藤原
 (近衛)基通を内大臣に昇格させ関白とした。 平清盛はやるべきことを済ませると福
 原に帰った。
  院政を停止した時に多くの国が平氏一門の知行国とされた。 後白河法皇から政権を
 奪取した時点で、平清盛は国府の機構を用いて全国の武士を組織することを目論んでい
 た。 そのために政変後、平氏は大臣や大、中納言ではなく知行国の地位を求めた。 
 平氏は全国の約半分に当たる三十余ヶ国の知行国主の地位を独占した。 この後、平氏
 は有力な家人を目代に任じ各地に赴任させた。
  後白河法皇の院政を停止したあと、平氏は朝廷の政務をうまく動かせなくなっていっ
 た。 これは主に、平宗盛に貴族達を指導していく能力がなかったことから来るのであ
 った。 
  親平氏の立場をとる関白藤原(近衛)基通が朝廷の政務の責任者になっていたが、平
 氏に反感をもつ上流貴族はかれの邪魔をした。 朝廷の政務の混乱のなかで、朝廷の仏
 事にもあれこれ不都合が生じた。 そのため、京都周辺の大寺院が平氏に反発するよう
 になった。
  皇族達の間での安徳天皇の人気も、芳しくなかった。 平徳子を母とする天皇は、名
 門貴族の娘から生まれた皇子ではない。 安徳天皇の父の高倉天皇の母も中流の貴族に
 過ぎない平滋子であった。 そのため高倉天皇の親政がはじまり、それが高倉上皇の院
 政になっても、族の多くは後白河法皇を皇室の家長とみていた。 こういった背景の中
 で、平氏系の安徳天皇に代わって皇位を継ごうと考える皇族が現れた。 
  後白河法皇の第二皇子・以仁王もちひとおうである。 以仁王の母は藤原季成すえな
 りの娘で、由緒正しい皇族と評価された。 以仁王は密かに後白河法皇と連絡をとり、
 打倒平氏の承認をもとめた、後白河法皇も院政停止の六か月後の治承4年(1180)5月
 である。 
  王は源頼政や京都周辺大寺院を味方に引き込んだ。 そして、全国の源氏に反平氏の
 挙兵を呼びかける令旨りょうじを発した。
  この令旨が、足掛け6年間に亘る源平合戦を起こすことになった。 源行家が令旨を
 全国の源氏伝える役目を受け持った。 以仁王と源頼政は円城寺をたよったが、園城寺
 には平氏に対抗できるだけの兵力がなかった。 そのため、園城寺から興福寺に向かう
 途中の宇治橋で平氏の軍勢に打たれた。
  この直後、治承4年(1180)5月末に平清盛が、福原への遷都を発表した。 後白河
 法皇、高倉上皇、安徳天皇は6月2日に京都を出て、翌3日に福原に到着した。 法皇
 は平教盛の邸宅、上皇は平清盛の屋敷に入り、平頼朝盛邸が安徳天皇の内裏とされた。
 清盛がこの時期に福原遷都を敢行した理由は明らかでない。 
  背後に山を持つ福原には平安京なみの都市をつくる十分な平地はなかった。 しかも
 同年7月に病気になり、しきりに京都をこいしがった。 福原に移住してきた貴族の間
 にも、平氏の強引な殿とを批判する声がひろまった。 
  同年8月に、伊豆で源頼朝が挙兵した。 彼は、平氏が伊豆国の目代に任命した山木
 兼隆の屋敷に夜襲をかけて、兼隆を討った。 この行為は、国府の権威に対する反抗で
 あつた。
  このあと各地の源氏や、反平氏の武士が次々に平氏に反旗を掲げた。 その中の木曽
 義仲は、治承4年9月に挙兵し、半年余りで北陸地方の大半を支配下に治めた。 
  平清盛は関東地方の反乱を鎮めるために、平維盛が率いる軍勢を派遣した。 そのた
 め同年10月20日に、富士川の合戦がおこなわれた。 このとき平氏の軍勢は数にまさる
 源氏方に脅えて、戦わずに逃げ帰った。 この戦いのあと関東地方、甲斐国、東海地方
 の大半が源頼朝の勢力圏になった。 
  維盛から敗戦の知らせが届くと。福原京は大困難になkつた。 平氏を批判し京都へ
 の再遷都を求める声がたかまった。 安徳天皇が11月11日に福原に新たに建設した内裏
 に遷られたばかりであったが、平氏一門や貴族たちの会議は、11月23日に京都に再遷都
 することが決定した。
  福原の都の建設を中止したことは、平清盛の信用を大きく傷つけるものであった。 
 11月に入ったあたりから、平氏政権を脱けて郷里に帰る武士が目立った。 安徳天皇ら
 は11月26日に京都に帰着したが、その頃には反乱が近江国まで広がっていた。 
  平氏は12月2日に、平知盛を近江に、平資盛を伊賀に、藤原清綱を伊勢に派遣した。
  京都弐近い地域の反乱だけでも鎮めておこうと考えた。 さらに、12月23日には、平
 重衡を指揮官にする大軍を南都に派遣した。 彼らは興福寺の僧兵を破ったが、そのと
 きの失火によって東大寺と興福寺が焼けた。
  朝廷の混乱の中で、治承5年(1181)の正月がおとずれた。 年明け早々の1月14日
 に高倉上皇が崩御した。 そのために平清盛は、後白河法皇に院政の再開を要請せざる
 をえなくなった。 
  東国では、源頼朝が堅固な支配を確立していた。 木曽義仲も、着々と勢力を拡大し
 ていた。 平氏は追い詰められていた。 京都を失って政権のざから負われるのも、時
 間の問題と思われた。 こういった危機の最中に、平清盛が発病した。 病状は回復せ
 ず、清盛は閏2月4日になくなった。 64歳であった。 壇ノ浦の合戦で平氏が滅亡す
 るのは、この4年後の文治元年(1185)2月のことであった。

7.古代時代から中世に
  源平合戦(治承.・寿永の乱)に簡単に破れ、なぜ平氏政権は短期に終焉を迎えたの
 か。 その原因は。 その原因は一つには、「平氏(西国武士)が
 源氏(東国武士)よい弱かった」、二つ目は「古代から中世」という時代の流れを止め
 ることが出来なかった。 と言えるのではないか。 この二点について私見を述べてみ
 たい。
(1)平氏(西国武士)が源氏(東国武士)よい弱かった
 [1] 当時の武器と戦法
   源平合戦時代の戦争は、どの様な武器を使用し、どの様な戦争をしていたのであろ
  か。  
   古代から戦国時代まで日本へ伝播した技術の多くが中国からの伝播であり、武器の
  テクノロジーも同じである。  約3万4千年前に中国から石器が伝わり1万年前頃
  の縄文時代から磨製石器や骨格器、弓が使用されるようになる。 
   弥生時代前期から中期(紀元前300年~紀元後500年)にかけて、大陸から九州北部
  へ青銅器と鉄器がほぼ同時に伝えられた。 青銅は冶金技術の伝来と発達で国産が可
  能になったが、鉄器の国産はおくれた。 4世紀後半のヤマト王権による朝鮮半島南
  部への浸出は、鉄器を生産する技術と資源を求めてのことである、 なぜなら、当時
  朝鮮半島南部(特に南端)は世界最大の鉄生産国でかつ最高品質の鉄製品を生産して
  いた。
   この当時・古代の武器は、青銅製の矛ほこ、剣、戈かや弓類及び盾たてである。で
  ある。 ただし、槍が長柄に垂直に取り付けられているのに対し戈は長柄の先端に直
  角に、ピッケル状にとりつけられ、日本には存在しない武器であり、用途は武器でな
  く祭器として用いたと思われる。
   5世紀、古墳時代中期頃から出雲地方や九州地方で製鉄が始められた。 製法は日
  本独自のたたら吹き製鉄法(ふいごを用いる法)で砂鉄から鋼を生産し、鍛造たんぞう
  (金属加工の塑性加工方法)によって製造で、刃物や武器を製造していた。
   平安時代には、日本独自の武器の発展がみられ、剣つるぎ(長い諸刃の手持ちの武
  器)が廃れ反りを持った刀(片刃)への変化が始まっている。 盾はその機能が鎧へ
  と組み込まれた。 
   武器には、使用する距離により、遠距離用武器と近距離用武器がある。 遠距離用
  武器には、弓類、銃類,礫」(投石))がある。 敵味方間に距離がある場合は。 
  弓や鉄砲類が効果はあるが、敵を全滅させることは出来ない。 接近戦では近距離用
  の武器が必要になる。 
   源平合戦では、遠距離用兵器として、まだ鉄砲はなかった。 礫は、蒙古軍やヨー
  ロッパの戦いでは大砲の代用として実用化していたが、死者の統計に礫の数が見当た
  らないことから、日本では、使用されなかったと思われ、長距離用武器の全ては弓で
  あったと思われる。 
   槍が日本で最初に用いられたには、南北朝時代、建武2年(1335)足利尊氏と新田
  義貞の間で行われた「箱根・竹ノ下の戦い」が始めとされている。 足利尊氏はこの
  戦いで決定的な勝をおさめ室町幕府開設へと進んだ。 以後戦争形態は刀を用いた個
  人戦から槍を持ちた団体戦争に替わった。
   中国でも槍が使用されたのは明の時代(1368~1644)からだと言う。 日本の室町
  時代(1336~1573)と中国の明時代ほぼ同じであり、戦争に槍が用いられたもは、ほ
  ぼ同じ時期であったと思われる。
   このように、源平合戦時の武器は、弓と刀であった。 刀を使う接近戦は、個人戦
  は武士個人の資質が影響する。
 [2] 東国武士は蝦夷であったか
   蝦夷えぞは、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の
  関東地方と東北地方)や北方(北海道)に住む人々を異端視・異民族視した呼称であ
  る。
   一方、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャッカ半島には先住民でアイ
  ヌ語を母語とするアイヌ人が住んでいた。 日本語を話す日本語族とアイヌ語を話す
  アイヌ語族は全く別の民族である。 アイヌ語は日本語、朝鮮語、と共にウラル語族
  のユーラシア東部に含まれている。
   日本書紀等に記載右されている、北方の蝦夷は、アイヌ人である。 そしたら、東
  北の蝦夷は、アイヌ人なのか日本人なのか。
   日本列島の前史時代に弥生文化と縄文文化の二つの文化が存在した、 縄文文化は
  、縄文式土器が使用された時代を指す呼称であったが、次第に生活内容も加えた特徴
  の説がなされるようになった。
   縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として遊行である。 土器形
  式上の区分から、縄文時代は、草創期(約1万5000~1万2000年前)・早期(約1万
  2000~7000年前)・前期(7000~5500年前)・中期(約5500~4500年前)・後期(約
  4500~3300年前)・晩期(3300~2800年前)の6期にわけられる。 
   縄文人の言語については明らかでない。 過去の言語は文字がなければ検証不可能
  であり、「縄文語」の解明は極めて困難である。 
   しかし、現在は、遺伝子学の発達により、遺伝子「ハプグループ」を調べることに
  より、今まで辿ってきた祖先を調べることが可能になったのです。
   ハプグループは、単一の一塩基多型(SNPスニップ)変異を持つ共通祖先を持つよ
  うな、よく似たハプロタイプの集団のことである。 塩基は化学においては酸と対に
  なって働く物質のことであるが、人の染色体にはおおよそ30億の塩基対があると言わ
  れている。 生物はその環境に適すように変化して突然変異を起こし変化しても、変
  化をする前の遺伝子が残存している。 そのため遺伝子即ち、ハプグループを見るこ
  とに祖先を類推することが可能になってくる。 
   ハプグループを見てみよう。 縄文人のSNPはD1b、弥生人のSNPはO1bである。 
  2007年調査の日本人のハプグループは、D1b38.8%、O1b34.35と、夫々3分の1の遺
  伝子を持っており、このことより縄文人と弥生人は、現在の日本人の祖先であること
  が類推できる。
   一方、アイヌ人の2006年のハプグループは、D1b75.0%と多いが、弥生人のSNPは
  O1bは0%である。 このことにより、ヤマト民族と異なり、弥生人の遺伝子はほと
  んどなく、古代縄文人に非常に近い民族であると推定される。
   東国武士のハプグループは、D1b385%、O1b30.8%で、平均日本人とほぼ同じであ
  り、アイヌ人のハプグループと全くことなる。 このことより、東国武士は蝦夷即ち
  、アイヌじんでなく、ヤマト民族であった。

C

D

O

C1a1

C1b

D1a

D1b

O1a

O1b

O2

 

 

 

 

 

OM95

O1b2

 

 

 

 

 

 

 

O47z

O1b2-

 

日本

2007

2.3

3.0

0.4

38.8

3.4

0.8

25.1

8.4

16.7

日本

Hammer

2006

アイヌ

0

25.0

0

75.0

0

0

0

0

0

札幌

3.4

7.3

0

35.0

1.0

1.9

19.9

7.8

19.9

青森

7.7

0

0

38.5

0

0

27.0

3.8

15.4

静岡

4.9

1.6

0

32.8

0

1.6

21.3

13.1

19.7

徳島

10.0

2.9

0

25.7

0

2.9

24.3

5.7

21.4

九州

0

7.5

0

26.4

0

3.8

28.3

3.8

26.4

沖縄

4.4

0

0

55.6

0

0

11.1

11.1

15.6

日本

Sato

2014

長崎s

3.3

5.3

0

30.0

0

1.0

23.3

10.7

23.8

川崎s

5.6

5.9

0.3

33.0

0.9

0.3

24.3

10.0

17.8

金沢a

4.7

5.6

0

32.7

3.0

0

18.5

9.5

21.6

金沢s

3.4

6.4

0

32.6

0

3.7

21.1

11.4

18.5

大阪a

6.2

7.5

0.4

31.2

1.2

0.8

17.8

10.4

22.5

徳島s

5.7

5.9

0

30.6

1.8

2.1

23.2

10.3

17.8

福岡a

5.9

7.8

0

33.3

2.0

0.

26.5

8.8

10.9

札幌s

4.4

5.0

0.3

33.1

1.3

0.3

23.2

8.6

20.3

札幌a

3.4

7.3

0

35.0

1.0

1.9

19.9

7.8

19.9

合計

4.7

6.1

0.1

32.1

1.2

1.3

22.0

9.9

19.7

   東国に居住する蝦夷は、ヤマト王朝に従わない異民族として日本の古代から度々蝦
  夷征伐が行われた。 伝説では日本武命ヤマトタケルみことが蝦夷征伐を行っている
  歴史的には斉明天皇4年(658)から同6年(660)かけて阿倍比羅夫が遠征し約3年
  かけて鎮圧している。 弘仁天皇以降、が仏教の殺生禁止がで、それを名目に支配強
  化を目論んだ。 それに反発し、奥州北部の蝦夷が蜂起した。 宝亀5年(774)、
  按察使あぜち大伴駿河麻呂に蝦夷征伐を命じ、以後光仁年(811)まで、38年間続き
  、三十八年戦争と言われる蝦夷討伐の時代が続いた。 一般的に4期にわけられる
  。 東国の鎮圧に38年もの長期間を要したのです。
 [3] 西国武士と東国武士では武士の質が異っていた。
   長元元年(1028)平忠常は、安房国で乱を起こした。 この乱を「平忠常の乱」と
  いう。 この乱はどんな乱なのか、その目的は何であったのか。
  平安時代は国有地の公領と私有地の荘園を土台とした重層的土地支配構造であった。
   公領と荘園の比率は定かでないが50%程度と推定されており、その管轄は異なって
  いた。 日本全土は分割され、現在の県に相当する物を知行国と称した。 知行国に
  は大小があり、延喜式時代は大国(13ヶ国)、上国(35ヶ国)、中国(11ヶ国)、下
  国(9か国)の68の知行国がありました。
   知行国を治める者を知行国主(または守)と言ったが、その役割も任期は時代によ
  り変わり定かでない。 この知行国は、知行主が直接治めるのでなく、中央官庁(朝
  廷)から派遣された国司(貴族)が納めていた。 公領を治るのが国司の主業務であ
  つた。 荘園の一部は国司が納めたが、荘園の一部は国司が勝手に公領にされたもの
  もある。 
   10世紀に入ると戸籍・班田収授による租税制度がほぼ崩壊し、国司へ租税納入を請
  け負わせる国司請負へと移行しはじめた。 これにより地方行政における国司の役割
  は強くなった。 奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・人民支配が
  実施されていたが、人口や財政需要の増加に伴い、養老6年(722)国家収入を増や
  すため政府において大規模な開墾計画が策定された。 さらに翌年、同7年(723)
  開墾推進政策の一環賭して三世一身法が発布された。 しかし、期限が到来するとせ
  っかくの墾田も収公されてしまうため開墾は下火となった。
   そこで政府は新たな土地推進策として天平15年(743)墾田永年私財法を発布した
  。 同法は墾田の永久私有を認めるものであったため、資金を持つ中央貴族や、大寺
  院、地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有地が発生した、これを初期荘
  園という 。 しかしその墾田は輸疎租ゆそでんであり、納税義務があった。 また
  、当時の荘園の管理は荘園主が直接行ったが、人的・経済的負担が大きかったため、
  10世紀までに衰退した。 日本の律令制において、租税を免除された田・不輸租田が
  あった。 主に、神社用の田である神田、寺院用の田である寺田、官職に応じてあた
  えられた田である官 田等である。 
   平安時代中期になると、開発領主である田堵たと(有力百姓層)はが自らの土地を
  不輸租田にするために寺社や上級貴族に寄進するようになった。 これが寄進地系荘
  園である。 発領主から、寄進を受けた荘園領主を領家と言う。 荘園領主が更に、
  皇族や摂関家に寄進した場合の名目上の支配者を本家という。 
   源平合戦あった平安時代後期には、公領と荘園(主として寄進地系荘園)があり、
  公領は国司、荘園は領家又は領家から管理を委託された荘官が管理を行っていた。 
   国司は、国司請負になっていたが、国司の任期は6年であり、最低でも6年に1度
  は、国司と開発領主の田堵たと(有力百姓層)と租税率の交渉が行われ、しばしば難
  航したいたと推定される。 荘園は一度租税率が決まれば変更不要であったが、武士
  の力が向上し、貴族と武士の力関係が逆転すると、武士側に不満が発生する。 平忠
  常の乱は、この武士と貴族の力関係が原因で発生したものである。
   平忠常の乱は、平安時代に房総三国(上総かずさ国、下総しもふさ国、安房あわ国
  )で長元元年(1028)に起きた反乱である。 平安時代の関東地方では平将門の乱以
  来の大規模な反乱である。 
   将門の叔父にあたる平良文は下総国相馬郡を本拠にし、子の忠頼、孫の忠常の三代
  にわたり関東で勢力を伸ばした。 忠常は上総国、下総国、常陸国に祖父以来の広大
  な所領を有し、傍若無人に振舞い、国司の命に復さず納税の義務もはたさなかった。
   長元元年(1028)6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。 原因は
  不明だが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。 続いて忠常は
  上総国の国衙を占領してしまう。 上総介県為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総
  国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国にひろまった。 当時、在地豪族は
  (軍事貴族)は度々国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な
  関係をつうじて不問になることが多く、実際に追討宣旨が出されることは稀だった。
   国司は、一般に1期6年を務めると相当の財産をのこしている。 特に平清盛は国
  司を歴任し、莫大な財産を築いたと言われる・ 後白河上皇に等身大の先手観音菩薩
  像100体と丈六の本尊像を安置する蓮華王院(三十三間堂)を寄進したが、これも国
  司時代に蓄蔵した財産の一部と思はれる。 国司の収益は、国司請負金(相当米)か
  ら朝廷に納める税金(相当米)、であったが、その額は相当大きかったと思える。 
  忠常は国司に対し租税の大幅な削減を要求したが、国司がそれを拒否し、交渉が決裂
  し乱になったものと推定される。 
   事件は朝廷に伝えられた。 追討使は、平貞盛流の嫡流である検非違使右衛門少尉
  平直方に任じられた。 合戦の詳細は不明だが、討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧で
  きなかった。 
   長元2年(1029)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を
  下して討伐軍を補強させるが鎮定は進まなかった。
   長元3年(1030)9月、業を煮やした朝廷は平直方を召喚し、代わって甲斐守源頼
  信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。 しかし、この時は直方の持久戦で追い詰め
  られ疲弊していた。 源頼信が上総国へ出発しようとした長元4年(1031)春に忠常
  は出家して子と従者を従えて頼信に降伏した。 頼信は忠常を連れて帰還の途につく
  が、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。 頼信は忠常の首をはねて帰京した。
  また忠常の子の常将と常近も罪をゆるされた。 
   平忠常の乱は、武士と貴族の戦いであった。 忠常が、国司の命に服さずの勢義務
  を果たさなかったり、上総国の国衙を占領したことは律令制度の規則を守らなかった
  ことで、国家反逆罪、朝敵となる。 しかし、公領の租税率を下げることは田堵(武
  士)の望むところである。 関東武士の多くから支持された。 
   この平忠常が、戦わずに源頼信に降伏すると、忠常を支持していいた坂東平氏を含
  む多くの関東武士は、源頼信の配下にはいり、清和源氏が東国で勢力を広げる契機と
  なった。 
   これに対し平清盛は、後白河法皇の院政を停止した時に多くの国が平氏一門の知行
  国とされた。 清盛は国府の機構えお用いて全国の武士を組織する企図を目論んだ。
  そのため政変のあとで、平氏は、大臣や中納言でなく知行国主の地位を求めたのであ
  る。
   平氏は、全国の約半分にあたる三十余ヶ国の知行国主の地位を独占した。 このあ
  と平氏は有力な家人を、目代に任じて各地に赴任させた。 そして国ごとに、すでに
  地頭(鎌倉時代の地頭とは異なる)になっている武士を核とする平氏は以下の武士団
  を組織しようとしたのである。
   平氏は、平氏と主従関係を結んだ荘官を地頭にしたのである。 しかしその時平氏
  は、平氏政権以前から受け継がれた荘園の名目的領主(本所など)と荘官との個々の
  権利関係には手を付けなかった。 清盛は、天皇を核とする貴族集団が国を治める形
  が望ましいと考えていました。
   これに対し、東国は「中央の干渉を排して、武士が自領を単位に自立すべきである
  」と考える武士がおおかった。 かれらは前々から国司相手に様々な紛争を起こして
  きた。
   そのため平氏が送った目代が一国単位の武士の統制を強化しようとすると、それに
  反発する勢力が現れた。 このような地方の反平氏の武士が、源平合戦の主力になっ
  ていくのである。
(2)「古代から中世」という時代の流れを止めることが出来なかった
 [1] 中世とは何か
   中世は、狭義には西洋史の時代区分の一つである。 ルネサンスを基準に古代より
  も後、近世より前の時代を中世、近世、即ちルネサンス以後を近世という。 
   日本では律令体制が続いた平安時代までが古代で、鎌倉時代、室町時代を中世、江
  戸時代を近世、明治以後を近代という。 
   また、中世である鎌倉時代と室町時代を前期封建時代、近世である室町時代を後期
  封建時代という。 封建制度とは、上位の君主が、臣下に対して、その領地支配を認
  め、爵位を与え、臣従(貢納[建設工事等を含む]・軍事奉仕等)を義務図蹴る社会制
  度をさす。 漢語の「分封建国」に由来するが、ヨーロッパの封建制度と中国の分封
  建国とは全く異なる。
   ヨーロッパは中世(封建時代)が終わると、近世に入った。 しかし日本は、江戸
  時代に入っても尚、封建時代は続いた。 そこで、鎌倉・室町時代の中世の封建制を
  前期(分権的)封建制、江戸時代の近世の封建制を後期(集権的)とよびわけている
  。
   封建制度は中国にもあった。 しかし、ヨーロッパ及び日本の封建制度と中国の分
  封建国とは全く異なっていた。 中国の「分封建国」は、周王朝を規範とする政治制
  度となっているが、周王朝は紀元前1046年~紀元前256の古い王朝で詳細は不明。
   そのあとの、秦王朝では、中国全土を完全な中央集権的郡県制で支配した。 その
  後の王朝も中央集権国家で、中国にはヨーロッパ型の封建制度の時代は存在しなかっ
  た。 朝鮮もインドもそうであった。 ヨーロッパ型の封建制度を経験した国はヨー
  ロッパと日本だけだったのです。
   ところが、ヨーロッパ型の封建制度を経て近代にい入った国イギリス、フランス、
  イタリア、ドイツ、日本等は、いづれの先進国に入っています。 封建制度を経験ぜ
  ず近代に入った国で先進国の仲間に入った国は1国もありません、いずれも発展途上
  国です。
   鉄砲を例にとってみましょう。 天文12年(1543)ポルトガル人を乗せた中国の密
  貿易船が種子島に到着した。 この船にはポルトガル人が持ち込んだ3丁の火縄銃を
  もっおり、五峯という儒生が通訳したと、記されているが、じつは、彼は汪五峯ワン
  ウーフェンと名乗っていた王直ワンチーという、密貿易商の大親分であった。 この
  3丁の鉄砲を購入した。 これが日本で最初の鉄砲の入荷であった。 
   鉄砲がはじめて日本に上陸してから32年後の天正3年(1575)、武田勝頼と織田信
  長・徳川家康連合軍との合戦で1000丁の鉄砲が使用されている。 
   文禄・慶長の役(1592~1598)で豊臣秀吉が朝鮮を侵略したのは、日本が種子島で
  鉄砲を入手してから50年後です。 秀吉は挑戦に15万人の兵を送りました。 鉄砲隊
  は1割であったと仮定しても、1万5千丁の鉄砲を持ち込んだことになります。 対
  する朝鮮・中国の連合軍には1丁の鉄砲も無かったのです。 
   鉄砲も火薬も世界で最初に発見したのは中国です。 洪武5年(1372)の刻印のあ
  る世界最古の鉄砲は中国に存在するのです。 中国で発明しヨーロッパで改良された
  鉄砲(火縄銃)を50年前中国人の商人から購入したのです。 その鉄砲が中国にない
  のです。
   インカ帝国は、紀元前7500から続くアンデス文明の最期の帝国でした。 1533年当
  時5万人の兵持つインカ帝国軍を、僅か200人の兵しか持たないスペインのコンスタ
  ドールに滅ぼされたのです。 スペイン軍が鉄砲と大砲をもっていたからです。
   薩英戦争は、文久3年(1863)7月2日~4日に英国と薩摩の間で戦われた戦争で
  、その原因は生麦事件です。
   生麦事件は、文久2年(1862)8月21日横浜港付近の生麦村で島津藩の行列をみだ
  したとされるイギリス人4人のうち3人を島津藩の武士が殺傷したことが原因です。
   この時の両者の損害は、イギリス海軍側が、戦死者13名、負傷者の死亡名7名、負
  傷者50名、戦艦大破1隻,同中破2隻。 日本側は戦死者1名、負傷者9名、市街の
  死傷者9人、大砲8門、火薬庫1棟、火災による消失(市街の1割)であった。
   イギリスはこの戦争で、イギリス艦隊館長と副課長最高責任者が戦死していますが
  、敗北を認めていません。 勝敗の見方は色々あるが、戦争損害状況から見れば薩摩
  藩の勝ちです。 
   イギリスは、大国インドを植民地にし、中国を植民地にすることは出来なかったが
  戦力的弱みに付け込み東洋進出の基地として香港を借用、阿片を売り込む当の横暴を
  行った。
   その世界最強の英国のイギリス艦隊が、インド・中国に比べると遙かに小さい日本
  、その1つの県に過ぎない、島津藩になぜ勝てなかったか。 その1つは、陸対海の
  差であった。 
   即ち、船からの鑑砲射撃の精度が低いのに対し陸からの大砲射撃の精度がたかかっ
  た。 イギリス艦隊は、船体の被害が大きく、また弾薬の消耗が激しく長期の戦争続
  行が困難になった。 東洋の1国に過ぎない日本の戦闘の能力は低いと見なしていた
  。 しかし、島津藩の戦闘技術は西欧並、しかも上位にあり、世界を驚かせた。 以
  後、日本の見方がかわった。
   中世、即ち封建制度は国を発展させる原動力になった期間で有ったと思われる。 
 [2] 鹿ケ谷事件とは何か
   安元元年(1175)寵臣藤原成親の強引な登用に人々を驚かせた。 成親は幾度とな
  く失脚、その都度復帰を繰り返している。
   第1回は平治の乱である。
   保元の乱後、後白河天皇は、保元の乱の第一の功労者である信西の政務はまかせた
  。 後白河天皇は、鳥羽天皇の第4皇子として生まれた。 父鳥羽天皇は、祖父堀川
  天皇死後5歳で即位し、白河上皇の養女藤原璋子(待賢門院)が入内5男2女を儲け
  た。 安4年(1123)21歳の時、白河上皇の命により、鳥羽天皇と、璋子の間に生ま
  れた第一皇子崇徳天皇に譲位した。 その時崇徳天皇は5歳であった。 世間には、
  崇徳天皇は白河上皇の子であるとの噂があった。 そのせいか、鳥羽天皇は崇徳天皇
  をきらっていた。 
   白河上皇が太治4年(1129)に崩御するとば天皇が院政を引き継いだ。 白河法皇
  の後ろ盾を失った璋子に代わって、長承2年(1133)ころより藤原得子(美福門院)
  を寵愛するようになった。 鳥羽上皇は、23歳の崇徳天皇を譲位させた。 そして得
  子の産んだ3歳の第九皇子近衛天皇を即位させた。 これにより、後白河天皇の皇位
  継承の望は消えた。
   皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王(後白河天皇)は遊興に明け暮れ
  る生活を送っていた。 この頃、田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも
  入り込み、自由な表現をする今様(民謡・流行歌)盛んとなっていた。 後白河天皇
  は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。 10歳余りの時から今様を愛好して、稽
  古を怠けることはなす、昼は一日歌いくらし、夜は一晩中歌いあかした。 その徹底
  ぶりは周囲から常軌を逸したものと映ったらしく。鳥羽上皇は「即位の器量ではない
  」とみなしていた(「愚管抄」)。 
   ところが、不可能と考えていた皇位継承が、思いかけず転がりこんできたのです。
  近衛天皇が久寿2年(1155)15歳の若さで亡くなった。 皇位継承の順位では崇徳上
  皇の皇子重仁親王である。 その当時、近衛天皇の母である美福門院が権限をもって
  いました。 急遽、後白河天皇の皇子守仁親王(後の二条天皇)が幼きため、その父
  である当時29歳の雅仁親王(後白河天皇)が、立太子をせず天皇に抜擢されたのです
  。 
   これが保元の乱です。 後白河天皇派が勝ちました。 しかし、後白河天皇は、今
  まで自分が天皇になるとは思いもよらなかったし、天皇とは、天皇は何をなすべきか
  の勉強もしていなかったし、その準備もできていなかった。 たまたま政務に優れた
  信西と謂う近臣がいた。 政治向きのことは全部信西にまかせ、今まで通り趣味に保
  元3年(1158)、後白河天皇は二条天皇に譲位した。 これは当初の予定通り、これ
  により二条天皇派と後白河上皇派の対立がはじまった。 
   一方、後白河上皇は、遊び相手の藤原信頼を高く評価した。 26歳の若さで正三位
  ・参議になり公卿に列せられた。 彼は更に上の大臣の地位まで望んだ。 信頼の家
  系は祖父の基隆、父の忠隆とも従三位に叙せられていた。 信西に信頼は大臣になれ
  る家柄ではないと拒否したのである。 このことで信西を恨み、信西派を排除するた
  め、二条天皇派を仲間に引き入れ乱を起こしたこれが平治の乱です。
   平治の乱の前半で、信西を殺害し、信頼の初期の目的は達成した。 後白河上皇の
  近臣には、院政の政務を担当していた信西派と上皇の遊び相手の藤原信頼派がありま
  した。 二条天皇親政派と共謀して院政派の排除に成功しました。 しかし、信西派
  排除後、院政か天皇皇親政派の貴族も信頼から去り、信頼は孤立しました。 これが
  平治の乱です。
   藤原信頼は、立派に院政を行っていた信西以上の寵愛を受けていた恩顧の後白河上
  皇を裏切ったのです。 ①後白河院政を潰した。 ②後白河上皇を大内裏の一室に幽
  閉した。 ③後白河上皇の院御所三条殿を燃やした。 ④三条殿に火をかけて逃げる
  者に容赦なく殺した。 
   警備していた大江家仲、平康忠、一般官人や女房がぎせいとなった。
   藤原成親は藤原信頼派の有力なメンバーであり、平治の乱では武装して参加してい
  た。 重要犯罪人であったが、成親の妹は平重盛の妻であり、処分は軽く解官に止ま
  った。
   第2回目は嘉応の強訴である。
   延暦寺は山門派(延暦寺)と園城寺(寺門派)の対立が続いていたが、後白河上皇
  は円城寺に帰信して庇護者となり肋骨な優遇策を取ったため、延暦寺では不満が渦巻
  いていた。
   嘉応元年(1169)12月尾張守・藤原家教(成親の弟)の目代である右衛門尉・政友
  が延暦寺領美濃国平野荘の神人に暴行する事件おこした。 事件自体は小さなものだ
  ったが延暦寺の反応は早く、17日には延暦寺・日吉社所司が尾張国知行国主藤原成親
  の流罪と目代政友の禁獄を訴えた。 
   成親は32歳の若さで権中納言の地位にあった、院近臣の中心人物である。 朝廷側
  が要求を拒否して使者を追い返したことから、延暦寺大衆の動きが激しくなり22日夕
  刻に山を降り強訴の態勢に入った。
   大衆は内裏に向かい、御輿八基を担いで待賢門、陽明門の前で騒ぎ立てた。 
  夜に入って法住寺殿で公卿議定が開かれた。 内大臣源雅通は「武士を派遣すれば神
  輿が破損される恐れがある」と難色を示し、武士を率いる重盛も後白河の3度にわた
  る出勤命令を拒否した。 強訴の武力鎮圧を諦めた後白河は、政友の解官・禁獄のみ
  を認める事で事態解決を図ろうとしたが、大衆はあくまでも成親の配流を求めて譲ら
  ず、使者となった、明雲を始めとする高僧らを追い返すと、御輿を放置して分散して
  しまった。
   24日、後白河上皇はやむを得ず、成親解官と備中国配流、政友の禁獄を認めた。 
  大衆は歓喜して神輿を撤収し山へ戻っていった。 
   騒動も治まったかに見えた27日、後白河は突如、明雲を「大衆を制しせず、肩入れ
  した」という理由で、高倉天皇護持僧の役から外した。 28日には裁定が逆転し、成
  親が召還され、事件処理に当たった時忠・信範が「奏事不実」の罪により解官・配流
  される。 
   30日、成親が権中納言に還任、翌嘉応2(1170)正月5日には時忠の後任として検
  非違使別当に就任し「世以て耳目を驚かす。 未曾有なり」(「玉葉」)と周囲を驚
  愕させた。 この延暦寺がだまっているはずもなく、7日、13日には大衆の再入洛の
  噂が流れた、院庁と延暦寺の抗争が再燃することになった。
   福原で事態の悪化を憂慮していた平清盛は頼盛、重盛を呼び寄せて状況を報告させ
  ると17日に上洛した。 同日、成親は検非違使別当の辞任を申し出た。 21日には六
  波羅館に「幾多なるを知らず」というほどの武士が集まった。
  22日、法住寺殿で再度の公卿議定が開かれ、延暦寺の要求する成親配流等について話
  あわれたが結論がでず。 27日に僧綱そうこう(大寺院を管理する役職)が再度、処
  分を訴える。 
   これに対し、後白河は、要求は認めるものの「自今以後台山の訴訟、一切沙汰ある
  べからず」と通告したため、僧綱は言い返す言葉もなく、あきれて退散した。 2月
  1日、成親配流と信範召喚を認めるという内意が山上につたえられたが、6日によう
  やく、成親解官、時忠・信範召還の宣下があり、事件は終息」した。
   第3回目が鹿ケ谷事件である。
   殿下乗合事件から鹿ケ谷までの期間(1170~1177)の貴族層は、表面では平氏を立
  てていた。 彼らが平氏の力を借りて荘園を支配していたからである。 平氏を敵に
  回すと荘園村落の小領主である武士と直接話し合いをしなければならない。 後白河
  上皇と平清盛の仲が表面的にうまくやっていたとき、平氏にたいする貴族の反発を鎮
  める働きをしていた。 
   前記の通り鹿ケ谷ししがたに事件は、後白河法皇の寵臣・西光の子の加賀守藤原師
  高と白山の末寺である涌泉寺ゆうせんじとの対立に始まるものであった。
   師高と弟の加賀目代藤原師経は共に任地で圧制を行い、国司に反抗した涌泉寺を焼
  き払った。 この涌泉寺は白山の末寺であり、白山は比叡山の保護のもとにあった。
   そのため比叡山が藤原師高と師経の処罰を求めて、朝廷に強訴を起こしたのである
  。 これに対して後白河法皇は、寵臣西光の子供たちをかばう立場をとった。 比叡
  山の長である天台座主明雲を強訴の責任明雲を伊豆に流すと宣言し、伊豆に向かう途
  中近江国粟津を通りかかった所を部下の僧兵に助けだされた。
   後白河法皇は大いに怒った。 後白河法皇は、平重盛と宗盛を呼んで、比叡山を攻
  めるように命じた。 しかし、両人は、「父にご相談下さい」と言って動かないため
  、院で5月28日、法皇と清盛との長時間にわたる話し合いが行われた。 この時法皇
  は意見を曲げず、強引に主張を通したと思われる。 そのため清盛は、平氏の軍勢で
  東西の坂から比叡山を攻める事を承知させられた。
   しかし、そのあと平清盛は、誰も予想できない策略を用いて比叡山との戦いを避け
  た。
   同年6月1日に、平清盛は藤原成親、西光らの平氏打倒の陰謀が発覚したと発表し
  、関係者を処刑した。 西光は京都で斬られ、藤原成親は備前国に流罪になったあと
  、流刑地で平氏に暗殺された。 この他に俊寛ら数人の院の近臣が流刑にされた。
   国の維持には租税収入が不可欠です、律令時代は国土は統べた天皇家の物で公領と
  称した。 
   平安時代中期になると私有地の荘園が増加します、しかし、開発領主である田堵た
  と(有力百姓層=武士)は不輸租田とするため上級貴族等に寄進した。
   平安時代後期にはいると、開発領主であった武士の力が増強しその発言力強くなる
  と公領の国司や荘園の管理者の荘官とのトラブルが増加する。 武士の棟梁は平氏で
  あり、平清盛は、天皇制は継続すべきあるの考えを持っていたので、貴族側に沿った
  調整し、皇族・貴族から感謝された、誠心誠意貴族としての役割をはたした。 
   一方、後白河天皇、雅仁親王の時代から今様に熱中し、鳥羽上皇から「即位の器量
  ではない」と言われ、即位できる位置になかったが、運命のいたずらで幸運にも即位
  できた。 しかし、天皇としての在位5年と譲位後の院政34年約40年の間、真剣に政
  治に取り組んだ時期はなかったのではなかろうか。
   後白河法皇の近臣の中で寵臣と言われるのは、藤原信頼と藤原成親であろう。 両
  人とも法皇の遊び相手であり、業績と言えるものほとんどない。 藤原信頼は後白河
  の寵愛を受けながら後白河上皇と対立していた、二条天皇派と組み、後白河上皇の院
  政を潰し、恩顧のある後白河上皇を大内裏の1所に幽閉し、後白河上皇の院御所三条
  殿を焼き、さらに三条殿を管理し或いは居住していた官人、女房を全員殺した。 こ
  れ程恩顧を徹底的な仇で返す人も珍しいだろう。 このような罪悪感のない、最低の
  人間を見抜けないようでは、国の最高責任者になる資質問われるであろう。 
   藤原成親は、3度失脚している。 第1回は前記の通り、平治の乱である、 主犯
  は藤原信頼であるが、信頼と親戚になり、重要な協力者であり、後白河上皇に対する
  裏切り者であったはずだ。 この裏切り者を許し寵臣にするのは尋常ではない。 し
  かも一度ではなく三度である。 二度目は嘉応の辺、三度目は鹿ケ谷事件である。 
  この三度目の復帰はさすがに当時の人も驚いたようだ。
   鹿ケ谷事件では、近臣西光の子藤原師高等が白山の末寺を焼いたことに激怒した白
  山の僧が比叡山に訴え、比叡山が藤原師高の配流を求めて強訴した。 後白河法皇は
  近臣西光の子を守るため、逆に天台宗の座主明雲を強訴を起こした責任を追及し伊豆
  への流罪に決めた。
   明雲は逮捕され伊豆に向かう途中近江国粟津で部下の僧兵に助けられ、比叡山に連
  れ戻された。 後白河法皇は怒り、平清盛に明雲逮捕を命じた。 5月28日後白河法
  皇と平清盛とが長い間話し合いをした後、上皇の命令に同意したかにみせた。
   平清盛は真面目な人間である、国のために皇室のために誠心誠意つくした。 しか
  し、その誠意は後白河には通じなかった。 後白河(天皇・上皇・法皇)は約40年間
  の長きにわたり国の最高責任者であった。 
   最高責任者のなすべきことはなにか、それは国を潤し、人民を潤すことでなければ
  ならない而後白河は本来しなければならない業務を放棄した。 そして単なる自分個
  人の趣味に没頭した。 さらにそれだけない、自分の個人的な遊び相手を寵臣として
  取り立て、国の政治に関与さて、国の政治を混乱させた、平治の乱、嘉応事件等であ
  る。 また、人の上に立つ者は公平と正義感を持った政治を行わなければ、世の中乱
  れる。 後白河法皇は、寺院を燃やした犯人がたまたま近臣の子であっただけでそれ
  くを保護し被害者側責任者である比叡山の座主明雲の逮捕を強要した。 この様に、
  公平性を欠き、正義感の途の乏しい人には人はついてこない、後白河法皇の再三の裏
  切り行為に耐え切れずついに清盛は法皇との決別を決意したのではなかろうか。
   5月28日の会談で、後白河法皇は、座主明雲の逮捕を強要した、清盛は反省を求め
  たと思われるが、法皇の懐柔に失敗し、法皇の命令に同意したかのようにみせかけた
  が、この時法皇と決別を決意したものと思はれる。
   6月1日の鹿ケ谷事件その一つである。 当時の朝廷の裁きには死刑はなく、最高
  でも流罪であったが、清盛は藤原成親、西光二人の犯人を殺害した、これは武士のル
  ールに準じたものであろう。このことから貴族からの支持を失い、平氏政権樹立せざ
  るをえなかつた。 これが原因で源平合戦になり平氏があえなく敗北した。
   時代は貴族の時代から武士の時代に流れようとしていた。 平清盛は、天皇家を政
  治の中心にしなければならないと考えていた。 平安時代の後半になると開発領主で
  ある武士が力をつけると、租税率の改善を求めトラブルが多発した。 清盛は武士の
  棟梁として、武士の
   要求を最小限に抑え、武士と貴族との間の調整を図っていた。 即ち平清盛は貴族
  時代から武士時代への流れを食い止めようとしていたのです。 
   平氏が敗れることによって時代の流れを食い止めていた平氏と言う楔が外れ、貴族
  時代から、武士時代、平安時代から鎌倉時代、古代から中世即ち封建事態へとながれ
  たのです。 
   天皇家の長者である後白河法皇は、平清盛を排除することに天皇制である律令時代
  ・平安時代の終結を早めたのです、言葉を変えれば自分で自分の首を絞めたことにな
  ります。  しかし、それは日本の国にとつては良い事でした。 それは世界でも数
  少ない封建時代になったからです。







参考文献
*清盛以前     著 者高橋昌明 発行所 株式会社平凡社
*平清盛      著 者武光 誠 発行所 株式会社平凡社
*源氏と平家の誕生 著 者関 祐二 発行所 祥伝社
*源平興亡三百年  著 者丸山 満 発行所 ソフトバンク・クリエイティヴ株式会社
*平家物語を読む  著 者川合 康 発行所 株式会社吉川弘文館
*Wikipedia(平氏、坂東平氏、伊勢平氏、平清盛,平忠盛,平正盛、白河天皇、鳥羽天皇、
後白河天皇、崇徳天皇、高倉天皇そのた、)





 
 





              [前へ]     [トップページ]     [次へ]