朱雀錦
(67)京都五山「建仁寺」
 
 
                     建仁寺方丈(重要文化財)と前庭

所在地 京都市東山区小松町584
宗名称 臨済宗建仁寺派 東山とうざん建仁禅寺
 建仁寺けんにんじは京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号は東山とうざんと号する。本尊は釈迦如来、開基は源頼家、開山は喫茶の風を伝えた栄西である。
 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松かいほうゆうしょうの襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知れる両足院などがみられる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や「八坂の塔」のある法輪寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。また、九州博多の聖福寺に次いで日本の二番目の禅寺である。

                         Ⅰ.歴史
1.生い立ち
 日本に臨済宗を正式に伝えたのは明庵栄西みんなんえいさいが始めとされている。栄西禅師は永治えいじ元年(1141)、備中国吉備津神社の神主賀陽かや貞遠の子として誕生した。11歳で地元安養寺の静心和尚に師事し、静心が入寂するまでのおよそ6年間、安養寺で天台学を学ぶことになった。
 仁平3年(1153)に栄西は比叡山に登り、その翌年久寿元年(115414歳の時、落髪受戒して栄西と号した。叡山で受戒した後、叡山と備中との間を往来して天台教学を修めているが、保元2年(1157)に師の静心が示寂した。静心は栄西に密教を伝授するつもりでいたが、栄西の年齢が若いのでそれを果たすことができなかった。 結局、静心の遺言によって法兄の千命せんみょうに師事して天台密教を学ぶことになる。翌保元3年(1158)、千命から虚空蔵こくうぞう求聞持法ぐもんじほうを伝授される。
 平治元年(1159)栄西19歳のとき、再び叡山に登り、有弁について天台教学を学び天台の顕密両教学を修め、事実上、天台教学の全体を修学することに成った。ともかく栄西20歳前後の修学は猛烈を極め、仏書を多く読み、才覚は群を抜いていた。
 栄西は、応保元年(116121歳のとき、有弁のもとで大蔵経を閲読して経論を研究していたが、まだ十分に天台の教学を極めることが出来ないので中国に渡って天台教を学びたいという意志を抱くようになった。
 栄西が晩年、自らを回顧して記した「入唐縁起」に「いまだ勤学におよばずといえども、道交の友、必ず名誉あり。然るに予、世上の幻法を見、厭心日々に増す。即ち21にして山を離れ、志、渡海にあり」と語って、比叡山において同学の友が名誉のために学問をしている、余りにも世俗化した比叡山に失望して、山を離れ渡海する決意固めた。

2.郷里での修学
 郷里の備前御能郡銘金山遍照院、次いで津高郡日応山に移り、真言の三摩耶行を修し、これより27歳まで4年間は荒行を積んで心身の鍛練に励んでいる。 
 仁安2年(1167)伯耆国の大山寺に行き、著名な密教学者である習禅房基好の元で修行し、台密だけでなく東密も合わせ伝授され、密教に関しては当時の第一人者となった。

3.第一次入宋
 仁安2年(1167)冬栄西は父母に別れを告げ、九州に下り、豊前の宇佐八幡宮に参詣する。あけて仁安3年(1168)諸国の霊場を巡拝して航海の安全を祈ったのち、博多の津で渡宋の便船をまっていた。この博多滞在中に、宋の通訳官李徳昭という者にあって、宋の地では禅宗が広まり盛んであることを始めて知らされた。宋国に対する予備知識を得た。
 博多において便船を待つこと2ヶ月、4月3日商船に乗って博多の津を出帆し、4月24日に宋の明州に到着した。それは孝宗の乾道4年のことである。船を下りて、まず明州の広慧寺に行き、そこの知客しか(賓客の接待役)の和尚と禅についての質問をかわした。
 丁度その時、明州において前年から渡航していた東大寺の俊乗房重源と出合、5月 19日に共に登り、智者大師の塔を礼拝し、同24日万年寺に参詣する。6月10日明州に帰って阿育王山に赴き仏舎利塔を礼拝し、仁安3年(1168)年9月、初期の入宋目的も達していたこともあり、重源のすすめによって帰国の途についた。
 栄西は帰国後比叡山に登り、在宋中に求めた天台の新章疏三十余部六十巻と宋の名徳の書簡を天台座主明雲に贈呈すると、明雲は栄西が宋の地で日本天台宗の名声をあげたことを高く称賛したという。
 しかし、出帆前に李徳昭から聞いていたとおり、中国では臨済宗がひとり隆盛を究め、天台山、阿育王山はすでに天台宗から禅宗に代わっており、栄西がつぶさに見聞したのは南宗禅の世界であった。

4.禅への道
 栄西は第一次の入宋によって、宋の仏教界における禅の隆盛を目の当たりに見て、禅への強い関心をかきたてられた。帰国してからは、比叡山の日本天台教学の中に禅の伝灯を尋ねることに専念する。延暦寺安然あんねんの「教時諍論きょうじじょうろん」や智証の「教相同異」、伝教大師最澄の「内相仏法相血脈譜」を閲覧すると、天台の祖師方もすでに禅を修学し、比叡山にも宗祖以来、禅の伝承があることを確認する。日本天台を再興するには、禅の興隆をはかることが必要不可欠であると考えるようになった。
 帰国後の翌嘉応元年(1169)から安元元年(1175)まで、栄西29歳から35歳までの6年間は、郷里の備中備前を遍歴し、密教阿闍梨として指導的立場にあって活動したが、生活の本拠は日応寺におかれていたようである。
 安元元年栄西は故郷を離れ、九州に下り、今津の誓願時に移り、栄西は大蔵経だいぞうきょうが宋から舶載されるのを待ちながら、再度入宋の機会を抱くようになる。
 「今津誓願寺孟蘭盆一品経縁起」によると、治承2年(1178)栄西は盂蘭盆の善根を修するために、法華経の書写供養と開講演説の法会を企画したところ、さっそく大旦那の寛智法師および中原氏女の賛同をえて、法会が開講された。この法会には血縁の道俗が参集して市をなしたと言われる。そうして栄西の名声は日々に挙がり、「顕密二門之巨壁きょはく」と仰がれるようになり、王臣道俗の深い崇敬を一身にあつめ、天台教学の権威者として不動の地位を築くようになった。
 大蔵経は漢文に訳された仏教聖典の総称、一切経ともいわれた。木版印刷の技術は唐代に開発されはが、これを大蔵経に応用したのは宋代になってからである。仏教の思想的研究には不可欠のものであった。
 大蔵経の到着を待ち、再度の入宋の準備をしながら、栄西は密教に関する数多くの著述を行っている。それは今までに修学した密教学を集大成し、更に研究を深めていこうとしたのである。

5.第二次入宋
 文治3年(1187)3月、栄西は47歳のとき、郷里の父母に別れを告げ、諸宗の血脈、西域の地理書をたずさえ、4月に宋に向かって出航した。4月25日南宋の臨安府に到着すると、直ちに栄西は安撫侍郎あんぶじろう(当時の中国の官職名)に面会して、陸路天竺へおもむくことの許可を求めたが、宋の朝廷は蒙古の侵略により西域地方はみな隷属し、天竺への交通路はふさがれ、交通は困難であるとの理由で申請は却下された。
 こうして栄西のインド仏蹟巡拝の計画は挫折することになった。結局、船主に帰国を促されて洋上に出たが、三日後、逆風のために南方へ吹き返されて、温州瑞安県(現在の浙江省南部)に漂着したのである。そこで、栄西は十数人の者と一緒に陸路を北に向かって天台山万年寺に入り、虚庵懐敞きあんえいしょうに師の礼をとることになる

 虚庵は臨済宗黄龍おうりゅう派の禅僧であるが、密教にも理解をもち、栄西と密教面で共鳴するところとなり、栄西は虚庵のもとで本格的に禅の修行にはげんだ。虚庵は栄西に対してまず禅門の一大事であるとして菩薩戒(菩薩の特徴となる戒)を授け、ついで四分律(日常生活において守べき規則)に及んだと言われる。即ち中国の仏教界では、大乗戒、小乗戒を伝持するのが常であった。
 栄西は虚庵から臨済禅の正脈を伝える印可を得、伝法衣、応量器、坐具、拄杖などを授けられた。ここに栄西は黄龍慧南おうりょうえなんの流をくむ虚庵懐敞から法をつぎ、28祖菩提達磨より正脈を相承そうじょう(師から弟子へ代々仏も悟りを伝え受け継ぐこと)して第53世の法灯を継いだことになる。
 文治5年(1189)に虚庵が明州の天童山景徳寺23世の住持になると、栄西も師に随って天童山に入り修行を続けた。在宋中のある年、疫病が大流行し、孝宗こうそう帝をはじめ大臣はこれを憂い、高僧数人に疫病退散を祈らしたが、一行に効き目がなかった。そこで栄西に詔みことのりが下ったので、栄西が祈ると、一日で疫病がやみ、二日後には、死者が生き返った。孝宗帝はこれを聞いて、大いに喜んで栄西に千光法師の称号を賜った。また、在宋中の事業として天台山、天童山で寺院堂舎の修造に尽力した。
 栄西の中国における疫病除災の祈祷や寺院堂舎の修復事業は中国の禅僧に大きな感銘を与えることになり、ひいてはそれが日中文化の交流に大きな貢献をなしたことは言うまでもない。
 宋に滞在すること5年、建久年(1191)秋7月、栄西は虚庵のもとを辞するに際し、虚庵から僧伽梨衣そうぎゃりえ(僧の正装衣)と明庵みんなんの称号をあたえられた。そして天童山から明州慶元府に行き、宋人揚三綱の船に乗り、肥前平戸の葦浦に到着した。

6.禅の布教と興隆
 肥前の平戸に帰ると、戸部侍郎清貫きよつらが平戸に小院(のち富春庵)を建てて、栄西を迎える。ひとまず建久3年12月まで入宋前に住していた誓願寺に留まり、法華経を書写している。その後、建久6年に至る3年の間に、九州各地に寺院を開創し、禅宗を広めるための布教活動の拠点をつくっていた。即ち筑前国の報恩寺、妙徳寺、東林寺、筑後国の千光寺、肥前国の知恵光院、肥後の拘留孫くるそん山寺、薩摩国の感応寺、長門国の国護院などである。
 建久6年(1195)6月10日、栄西は、宋人堂舎があった博多百堂の地に、堂舎を建立して、将軍家の安泰、鎮護国家、凶徒退散を祈祷する道場にしたいから、許可願たい旨、将軍源頼朝に申請した。その許可をえて筑前博多に安国山聖福寺が創建された、これが最初の禅寺である。

7.達磨宗の停止
 能忍は天台教学を全面的に否定し、持戒を重視せず、南宋風の大慧派の禅を広めようとした。確かに新時代の到来を告げる新鮮味はあったかもしれないが十分な配慮を欠き、しかも唐突で人々に奇異な印象を与え、かえって人々を反発される結果となった。当然のことながら、能忍の活躍をねたんだ比叡山の衆徒の反対と弾圧も激しくなりつつあった。
 一方、栄西は九州で布教活動を続けていたが、筑前筥崎の良弁という僧が、栄西の禅の広まることをねたんで、比叡山の衆徒をさそって、その禁止を朝廷に訴えた。もっとも能忍の禅と栄西の禅宗では事情が異なるけれども、両者の活動時期が同じであったので、栄西は能忍の巻き添えを食った形になった。
 建久6年(1195)冬朝廷では関白九条兼実に詔して、栄西の禅宗流布についての弁明をきくことになった。そこで栄西は上洛し、九条兼実に召され、九条家の家司である高階仲資たかなしなかすけと藤原宗頼から詰問を受けた。
 その時、栄西は、我が国の禅宗は特に今始まったものではない。昔、比叡山の伝教大師は「内証仏法相承血脈譜」一巻を著して、その中で、達磨大師の禅のことを述べている。しかるに筥崎の良弁は物分りが悪いために天台の宗徒を誘って、自分を訴えたが、禅宗がもし非であるならば、最澄も非である。最澄が非であるならば日本の天台宗は成立しない。天台教学が成立しなければ天台の衆徒はどうして私に反対することが出来ようか。そして天台の衆徒が宗祖最澄の教えに暗いこと甚だしいというべきである、と理論整然と弁明した。
 栄西の禅宗に理解を示す者も一部はいたが、所詮、日本天台に伝承されていた禅は、最澄が翛然しゅくねんから相承した唐代の牛頭ごず宗という禅であり、栄西が伝えた南宋の黄龍派の禅とは異質なものと解釈され、如何に栄西が弁明につとめても、比叡山の承認理解は得られなかった。

8.鎌倉行化
 栄西の布教に対して比叡山の衆徒の弾圧は日増しに厳しくなってきたため、一時京都における布教を断念し、鎌倉に下向して戦線を張ることに成る。栄西の鎌倉への下向は、京都で栄西に好意的であった九条兼実が失脚したことや、鎌倉幕府の新興階級である関東武士が新しい文化を希望していたので、二度の入宋を遂げた文化人栄西に期待を寄せてきたことにもよる。
 正治元年(1199)9月26日、不動尊像の開眼供養に栄西が導師に招かれているのをおはじめ、法華堂における源頼朝の一周忌の仏事の導師、十六羅漢開眼供養の導師など、幕府の内外の仏事法会に出仕し、鎌倉幕府のあつい帰依をうけえる。
 正治二年(1200)2月、北条政子の発願により、福寿寺が創建され、栄西がその開山に拝請されることになった。栄西の鎌倉における活動は、主として幕府の帰依を受け、密教祈祷僧として出仕するにとどまり、当時の関東の武士階級はまだ禅宗を理解し、受容する素地ができていなかった。

9.建仁寺の建立
 建仁2年(1202)6月、栄西は将軍頼家から幕府の直轄領である六波羅の北端、鴨河原以東、五条以北の土地の施入を受け、かねての願いであった京都の地に禅寺の建立を着手することになった。それが建仁寺である、規模は宋の百丈山大智寿聖禅寺に摸された。
 将軍頼家の申請によって、六月22日宣旨が下され、寺域内に台密禅、すなわち止観、真言、禅宗の三宗を置くことが勅許され、この宣旨に基づいて真言院、止観院が設けられることになる。
勅許の後、建仁三年9月将軍頼家が失脚し、弟の実朝が将軍につくという政変があって、造営工事はやや遅れ、実際に工事に着手したのは、建仁3年11月である。

10.純粋禅の確立
 開創以来、「真言・止観・禅門」の三宗兼学の道場として活動を続けてきた建仁寺が、禅宗専門のいわゆる純粋禅の寺院となるのは、第10世・第11世に住持として円爾弁円えんじべんえん(聖一国師、120280)・蘭渓道隆らんけいどうりゅう(大桷禅師121378)の二人を迎えてからのことである。
 鎌倉時代半ば、建仁寺は寛元4年(1246)、康元元年(1256)と相次いで火災にあい堂舎の多くを失っていた。二度にわたる火災で寺は創建以来最大の危機を迎えていたのである。この時にあたり復興のために将軍宗尊むねたか親王の特命を受けて入寺したのが円爾弁円であった。円爾は後深草・亀山両上皇から帰依を受ける一方、建長7年(1255)には九条道家が創建した東福寺の開山となっており、その影響力は鎌倉武家社会に留まらず、広く京都の朝廷にまで及んでいた。
 正嘉2年(1258)5月建仁寺に入った円爾は直ちに堂舎の復興に着手、旧館に復した。
 この円爾による伽藍復興の後を承けて正元元年(1259)第11世の住持となったのが蘭渓道隆である。寛元4年(1246)の来朝以来、建長5年(1253)には北条時頼に招かれて。開山となるなど、その宋風禅は我が国の禅宗寺院に深く浸透しつつあった。幕府が道隆の入寺に期待したのは明らかであった。それまで真言・止観を兼修していた建仁寺は道隆を契機として厳格な規矩のもとに禅宗だけを学ぶいわゆる純粋禅寺となっいた。
 栄西はかって禅宗の未来を予言して「我が没後50年、禅法大いに世に興らん」という言葉を残したと言われる。そしてその言葉通り、栄西の示寂から半世紀、円爾による堂舎の復興と道隆による宋風禅の定着という過程を経て建仁寺は純水禅の寺院として基礎を確立したのである。
11.五山の中の建仁寺
 南宋の官寺制度に倣い、禅宗寺院五寺をもって最上位に位置つける五山制度が我が国でも行われるようになったのは鎌倉時代のことである。初め鎌倉五山として出発したこの制度は、やがて建武政権によって京都の禅宗寺院を中心とした京都五山にも適用されるようになる。康永元年(1342)に幕府が定めた五山制によれば、建仁寺は五山の第四位で。永徳2年(1382)将軍足利義満が相国寺を創建するにともない実施された大改制では第3位に位置づけられている。

12..乱世の終焉と伽藍の復興
 庶民といえば、中世、建仁寺を支えていたのは決して武士階層だけでばかった。京都の三条烏丸に饅頭屋町という町がる。両足院お開山龍山徳見りゅうざんとっけんが宋で修行を終えて帰国いたとき、その徳を慕って我が国にいたつた一人の中國人がいた。林りん和靖わせい(詩人)の末裔林浄因じょういんで、彼は京都三条烏丸に居を構え饅頭造りをもって一家をなした。淨因はやがて日本を去るが、妻子は饅頭屋を続けその屋号が町名となるまで繁盛した。この「饅頭屋」の林家から禅門に入るものが多く、特に縁の深かった両足院には同家から文琳寿郁(三世)以降歴代の住持がはいっている。林家の例は中世建仁寺が京都の上層町衆の圧倒的な支持を得ていたことを物語っている。
 戦乱による荒廃を極めていた建仁寺に本格的な再建の槌音がこだまし始めたのは16世紀の末、慶長年間(15931615)になってからのことである。慶長4年(1599)安国寺恵瓊えけい(瑶甫ようほ恵瓊)が安国寺から方丈を寺内に移築した頃より、山内はさながらラッシュの様相えお呈する。乱世の終焉とともに、長く中絶していた塔頭の再建がようやくはじまったのである。現存する塔頭であれば。禅居庵、常光院、久昌院、西末院、霊源院が慶長年間に再建あるいは創建されている。この建築ラッシュは承応年間(165255)まで続き、延宝8年(1680)の堆雲軒の再縁まで、現在残る塔頭のほぼすべてこの前後に整備されており、ここに装いも新たな江戸時代の拳印時の歴史がはじまった。
 江戸幕府は五山の寺院に対しては、基本的には前代の室町幕府の政策を引き継ぎ、手厚い保護と厳しい統制をもって臨んだが、全く新しい制度もあった。「碩学せきがく」制と「以酊庵いていあん輪番制」である。「碩学」制とは、五山僧「のなかから特に優れた学問僧をこれに指名し「碩学料」を支給する制度で、建仁寺では、最初に古澗慈稽こかんじけい・三江紹益さんこうじょうえき・利峰東鋭りほうとうえいの三人が推薦された。また以酊庵輪番制は対馬の以酊庵において朝鮮との外交いあたる「朝鮮修文織」を碩学(南禅寺を除く)が交代(輪番)で務めた制度である。


                             Ⅱ.建仁寺と茶
1.茶樹
 茶樹は植物学的分類では、ツバキ科、ツバキ属の常緑広葉樹の1種で学名はカメリア・シネンシスである。茶の栽培種は、利用面からみて、紅茶の生産に向けられる熱帯・亜熱帯産のチャと緑茶、半発酵茶に向けられる温帯産のものと二つのグループに大別される。
 前者はインドのアッサム、ビルマなどで1823年以来発見された樹形・葉形は大きくて耐寒性弱いアッサム種であり、中国西南部い分布する大葉種もこの変種に分類する。後者は中国東南部と日本に古くから栽培され、小葉、で樹形は小さく耐寒性の強い中国種である。

2.中国茶
 中国は茶の原産地であり、同時に喫茶の風習の起源は中国である。中国で生まれた茶は、中国で様々に変化し、そして世界に伝播して行き世界中にひろがった。古代に薬として始まり、食する物として存在していた茶はいつのまにか「喫茶」という形態をとり、嗜好品の茶に変化していったために民衆の間にも広く深く根付いていった。
 中国の茶は非常に沢山の種類が存在している。勿論同じカメリア・シネンシスに属する植物の葉を使って製茶する。茶葉に含まれるカテキンの酸化発酵の度合いにより「緑茶」「白茶」「黄茶」「青茶」「黒茶」「紅茶」の6種類にわかれる。

3.日本の茶
(1)古代
 日本の喫茶起源に関する歴史的に信頼できる記録と言えば平安時代初期書かれた「日本後期」が挙げられる。弘仁6年(815)4月22日の条に、嵯峨天皇が近江国の梵釈寺へ行幸した際、崇福寺の大僧都永忠が茶を煎じて献上したことが記されている。
 茶の種や株を日本に持ち込んだのは主に遣唐使などの僧と考えられている。最澄や空海もそのうちの一人とされている。延暦2年(805)に最澄が中国から茶の種子を持ち帰り、比叡山の山麓と滋賀県甲賀郡信楽町朝宮に撒いたという伝承が残されている。比叡山の山麓日吉神社の近くに「日吉茶園」が。甲賀市信楽に朝宮茶園がある。この茶園が1200年前最澄が唐より持ち帰った種子を植えた茶園であると伝承されている。この伝承が正しければ日本最古の茶園となる。
 奈良時代から平安時代初期にかけて唐風茶法による飲茶が貴族や僧侶の社会で流行したことがしられる。しかし、唐文化の退潮とともに飲茶の風もすたれてしまった。

(2)栄西と茶
 栄西は再度入宋された。その再入宋から帰朝のとき、茶を伝来したのであり、建久2年(1191)のことと言われる。再入宋から帰朝後直ちに茶種を肥前(佐賀県)背振山にある霊仙寺の庭に植えました。次いで筑前博多に創建した聖福寺境内にも植えたのである。のち京都にあって建仁寺を創建したり、奈良東大寺造営大勧進職に補された際、栂尾高山寺の明恵上人に飲茶を勧め、茶種を贈った。明恵上人はこの茶種を栂ノ尾の山中に植えた。
 なお栄西は茶の効能を説いた「喫茶養生記」上下二巻を著した。たまたま建保2年(1214)将軍実朝が宿酔に苦しんでいたとき、これに茶を差し上げ、また茶の功徳をたたえた茶書一巻を献上したことが鎌倉幕府記録の「吾妻鏡」に見える。
 「喫茶養生記」上巻は茶は心臓を平静に保つ妙薬であることを説くことに始まり、中国文献に見える医療事例を列挙し、茶の製法や保管法も説く。下巻は桑茶・桑粥の薬劫を説いている。この桑の効能を合わせ説いたのは、桑も茶もともに仙薬(不思議な効き目のある薬)の最上のものだからという。
 鎌倉時代後期になる茶寄合が盛んになり茶を飲み当てる競技と化し、闘茶が武士の間で流行した。闘茶は中国の唐時代に始まって宋時代に発展したと考えるが、日本に伝来後は中国・日本ともそれぞれ独自の形式を確立させた。闘茶は、茶の味を飲み分けて勝負を競う遊びであった。産地間で品質に差があった。最高級とされたのは京都郊外の栂尾で産出される「栂尾茶」で、特に本茶と呼ばれ、それ以外の産地で産出された非茶と区別された。
 これら飲茶の普及の結果、東山時代に茶数寄(和歌の評論にたとえ、諸道具えお美意識を以て所持し、茶の湯を楽しむ人)が創まり、現在の茶道へと発展する。これは禅院茶礼が範とされた。

(3)建仁寺の四頭茶礼
 建仁寺四頭茶礼よつがしらされいとは、毎年4月20日の栄西禅師の降誕会に引続き行われる四頭茶会よつがしらちゃかいにおける喫茶儀礼で、平成24年3月30日付京都市の無形民俗文化財(風俗慣習)として登録された。
 中国では、唐代には団茶(餅茶)による煎茶が主流であった。茶葉を固めた団茶を炙り、碾(薬研)やげんで挽いたあと篩いで篩い、粉末にした茶葉を釜に沸かした湯に塩とともに投じ、腕に汲みだして飲むというものであった。宋代には茶を石臼で挽いた抹茶を茶碗に入れ、湯を注いで茶筅で点てるようになった。即ち、抹茶による点茶法である。一般には、栄西がこの抹茶の点茶法を日本に伝えたと言われているが、歴史的にそれを裏つける資料はない、しかし、栄西の功績は日本で最初の茶書「喫茶養生記」を著し、喫茶普及の素地をつくったことにある。
*抹茶に湯を注ぎ茶筅で練ったり混ぜたりして飲めるようにすることを点てるという。
 建仁寺では、創建当初若しくは鎌倉時代から茶礼との関わりは深い。実際に、現在でも法会や衆評(会議)などの際には喫茶の儀礼を伴うほか、朝夕2回の茶礼がある。これ等の茶礼の多くは番茶茶礼で、番茶が入った茶碗が運ばれてきて、僧侶が一斉に喫するというものである。ところが四頭茶礼は四主頭ししゆちょうと呼ばれる4人の正客及びそれぞれに随伴する相伴客しょうばんきゃくをもてなすために、定められた作法で給仕するもので、建仁寺でも特別な客人のための特別な喫茶儀礼で得為茶とくちゃである。なお、禅宗寺院では一般にふるまう茶を普茶ふちゃという。
 方丈の正面に栄西の画像を中に三幅対が懸けられ、その前に三具足みつぐそっくをのせた大型の卓、部屋の中央には大香炉を据えた卓が置かれている。
 降誕会は、午前8時より催される。方丈の室中に一山の僧が入室し、お経を誦経する。僧が退室した後、檀那間に控えていた四頭茶礼の第一席の会衆が方丈の室中へ案内される。その際、正客わち四頭4人を先頭にそれぞれ相伴客8人が従い、4列で36人が入室し、コの字形に廻らされた畳に着座する。
 一同が着座すると、侍香(香合を持つ役)の僧による献香のあと。給仕が始まる。まずは四頭への給仕で、4名の供給くきゅうの僧が紅白の紋菓・椿の葉に載せた料理を盛った縁高縁高と、抹茶入りの天目茶碗えお、それぞれ四頭へ配り、退出する。次に供給は、板盆に縁高を8つ載せ、それぞれ8名の相伴客へ配って退出する。次に、曲盆に抹茶入りの天目茶碗を載せ、相伴客に配って退出する。その後、四頭から相伴客へと順番に点茶をおこなう。その作法は、まず供給が。口に茶筅を挿した淨瓶じんびんを以て入堂し、客人が捧げ持つ天目台に載せた天目茶碗に湯を注いで茶筅で点て、客はそのまま喫する。その際、供給は正客の前でのみ胡跪こき(左立膝)し、相伴客の前では中腰のまま点てる。
 供給は、逆の順序で縁高、天目茶碗を引き、一同は)退出する。この一席は、おおよそ20分程度で、これが25席程度繰り返い行われる。


                               Ⅲ.境内
 建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山。寺域は約2万2千坪(72,000)。塔頭寺院は室町最盛期には、60を越えたが現在は14ヵ寺。全国での末寺は、この山内寺院を含め70。境内には南の正門のほか、西と北にそれぞれ門がある。その他にも出入口がり、一般者の通り抜けが多い。

1.勅使門「矢の根門」(重要文化財)
 三門の前方、池の南側にある一間一戸いつこの四脚門よつあしもんである。この門を一に矢の根門(又は矢立門)ともいうのは扉に矢のたった痕があるからと言い、伝えるところではもと平教盛の六波羅第ろくはらていから移したものと言う。 

 禅宗寺院にふさわしい、禅宗様をよく表した門である。即ち礎盤そばん・粽ちまきをもつ柱など和様式と違った特徴を示している。しかしこれらは細かい部分における他様式との差であって、それよりも門の構造形式に禅宗ようがみとめられる。それは両側側面中央の柱(本柱)が軒下まで長く伸びている構造であって、このように本柱が長く伸びたのは古い伝統を持つ和様の門には見られない。この太い柱を延ばす結果、和様系の門の様な冠木かぶき(柱に上で柱を左右方面に継ぎ、側面の壁から長く出ている横木)がない。だから側面の印象が和様の柱とまるで違う。また正背面へまわっても控え柱を継ぐ柱頭の頭貫かしらぬき(水平な木)には三ッ斗の組物を二つ入れている。 このように柱の間にも組物を入れるのが禅宗様の特徴でる。それは本柱間でも同様に棟下に二組の組物が入っている。和様なら、蟇股や束を用いるところである。この門では中央扉上、上記の組物の下に簡単な束がたてられている。
 次にこの扉を持たせるのにグリグリした操型くりがたをもつ木が打たれ、それに扉の回転軸が入っている。この木片は藁座わらざと言い、これも禅宗様のものである。しかし扉そのものは框かまち(扉の枠材)と桟さん(横木)に表から板を打ち、魚尾形金具で飾るのは和風様である。
 再び側面を見ると、破風はふに下げた懸魚げぎょは禅宗様の古いものに多い形式で中心の本体から両側に同じような形を二度繰り返した飾(鰭ひれ)がついているが他の禅宗寺院にもみられる。
 以前屋根は桟瓦であったが、昭和28年の解体修理で当初は杮葺きであったことが発見され、原形を保存するため銅葺に変更された。

  2.三門「望闕楼」

                    三門「望闕楼」
 山門というのは、一般にお寺のおもな門を呼ぶ名である。奈良のお寺などは平地仏教などと言われるように、平地に規則正しく伽藍を配置した。しかし、平安時代から密教とともに山中に寺ができるようになりその山の名を寺名の上に付けることが行われ出した。これが「山号」で、例えば比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺などのごとくである。こうしたことから山が寺を意味するようになり、寺の主な門を山門というようになった。ところが鎌倉時代以後、禅宗とそれに属する建築様式(禅宗または唐様)が伝えられ、伽藍はまた平地に営まれることが多くなった。この場合、古代の中門に当たる門を「三門」といい、時に「三門」といい、「三門」とも書かれることがある。この三門は「三解脱門」の略で、禅宗寺院の壮大な二重(二階)の門がそれである。建仁寺の三門(山門)はそうした門の一つであり、前に放生池と石橋、その前に勅使門という具合に、禅宗式伽藍配置が整然とされているのがわかるであろう。この後ろには仏殿(法堂はっとう)、方丈などが一直線に並び、その東西に適当に庫裏・浴室・開山塔などが置かれるのが禅宗式伽藍配置である。

 建仁寺の三門は建仁寺の三門として復興したものではなく大正2年(1923)静岡県浜松の安寧寺の三門を貰い受けた建物である。
 安寧寺は明応年間(14921501:室町時代)創建の名刹、一説に、家康が三方原合戦に敗れ、三河に落ちる際、間道を経て浜名湖へ導き、武田勢より逃れさせたとか。家康は後年これに報いるため寺領47町歩を与えたといわれる。この名刹安寧寺は明治5年の火災で本堂、その他諸堂宇を焼失したが、明治31年(1898)に本堂を再建した。
 建仁寺は大正2年(1923)、明治5年の火災を免れた安寧寺三問を安寧寺より貰いうけている。この門は、左右(東西)に階上に上るための階段がある山廊をもつ三間二間(正面柱間三つ、側面2つ)の二重門で、建仁寺の三門としては、やや小型である。本来ならもっと大規模な五間二間三戸(中三つの戸口)が相応しい。
 正面階上に「望闕楼」の額(竹田黙雷管長筆)を掲げ、池の前に南面して立つ。割に建ち高く、細部様式は江戸末期をよくあらわしている。階上内部は正面に長く壇を築き、その上に木彫観音菩薩、十六羅漢像を安置するが、新しく、ことによれば大正の移築後に造顕されたのかもしれない。裏に寄付者・作者の刻名があり、山本瑞雲という人の作なることがわかる。
 階上外まわりは正面三面とも扉、中の間は牡丹、両脇は麻の葉の彫刻入りの桟唐戸であり、天井は鏡天井、外回りの組物は二手先、これも江戸末期の禅宗様を良く表している。

3.法堂「拈華堂」

             法堂「拈華堂」(京都府指定文化財)
 三門と北の法堂はっとうの間にかなりの空き地があるのは仏殿の跡である。今は延享年間(174448)建立の法堂を仏殿と兼用でしている。
 法堂は勅使門から三門の北に南面して立つ大建築で仏殿を兼ねている。平年は五間四間の身舎もやに四方一間通りの裳階もこし(庇)がめぐっている。この法堂は禅宗の巨おおでらでは普通に見られる構造形式のもので、三門の奥、仏殿や法堂はこの型としたものが多い。
 この法堂は堂々たる姿でそびえるが、裳階正面は両端の間が花頭窓かとうまど、その他が戸口で桟唐戸さんからと(縦横に木を組んで板を入れた扉)で、禅宗様の特徴をあらわしている。その他柱の下部を丸く削って粽を付け、その下に禅宗様独特の礎版、それに接して扉の軸を受ける繰型くりがたの付いた藁坐わらざという木片を打つことなども禅宗様である。上の屋根は裳階の内側に相応する大きさ下より遙かに小さく、これが遠望した場合、落ち着いた安定感を与える。

 法堂では軒下も型通りの組物(斗栱ときょう)がいっぱい並んだ詰組つめぐみである。日本建築の特徴は屋根である。屋根を大きくするために三手先という組物が完成しました。組物は実用性と装飾性を兼ねています。側面に廻れば屋根の大きい破風はふ(三角形のところ)が目立つ。そこは面積が広いからこうせいになると色々と装飾を凝らすようになる。これを妻飾といいます。この仏殿は江戸中期の建築なので、その頃の特徴をしめして破風が大きく妻飾も立派にされているが、その細部は江戸時代造営の特徴を良く現わしている。
 堂の内部は回りの裳階のうち、身舎の広々としたところに高く天井が仰がれる。身舎(内陣)の柱が細く、かつ長く、多くの貫(柱を横に抜け通して連絡する部材)を通して固めているのは、奈良・平安時代の建築には見られないところで、禅宗様、いいかえると鎌倉時代以後の新様式である。この林立する柱の上に簡単な組方(日本建築の様式で亜麻組という)を置き、鏡天井(板を並べて張った平たい天井)を思い切り広く大きく造っているが、これも近年以降流行した禅宗様仏殿の天井様式である。中世の天井なら、柱上から中へ中へと組物を組して中心に小さく鏡天井を造るのが一般で、京都でこの形式を残す江戸時代の物には泉涌寺仏殿がある。しかし、中世にも広い天井を一面に張るものができ、これが近世では一般的になってきたが建仁寺のそれもその一つである。 この天井に雲龍や天人などを描くのが多い。建仁寺法堂は古くより龍は描かれず素木しらきとされてきたが、建仁寺創建800年を記念して日本画家小泉淳作画伯に天井画「双龍図」依頼し、平成14年4月、1年10ヵ月を経て完成した。龍は仏教を守る8神「八部衆はちぶしゅう」であるため、禅宗の本山の多くで、法堂の天井に龍が描かれています。108畳にも及ぶ迫力満点の水墨画です。
 この広い天井のもと、正面に高く須弥壇が築かれ本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉かしょう・阿難両尊者立像などを安置する。床は土間で瓦を斜めに敷いた四半敷である。須弥壇は出入りの多い平面で、その高欄も逆蓮柱をもつ禅宗様と内外とも禅宗様一式とでもいえるものでる。
 このように禅宗様は非常に繊細で技巧的であり、装飾が多いのが日本人の好みにあったのか、その伝来以来、現在に至るまでその様式に大変化なく永く伝えられてきた。
 次に須弥壇まわりの仏具にも注意したい。その第一は正面中央に置かれている前卓まえじょくである。海老のように曲がった脚をもつ机で、上の板は(天板)は両方に筆返し、両脚間には上部全長に流暢な牡丹唐草に獅子、その下の三区画は唐草、両脚のつぎ材は山型で唐草と雲の意匠であるが、それらのどれを取って見ても中国風で、しかも美しい線が用いられている。また前卓の両横の蝋燭立てや六角の台なども卓と同じ様式であるし、天井から吊り下げられた天蓋や灯篭など、これらが集まって一体となり、禅宗様仏殿須弥壇回りが荘厳されている。なお、この法堂は、延享年間(174447)から宝暦(175163)頃にできたという。細部様式もその頃のものとみられる。

4.庫裏
 法堂の北側一帯が本坊である。本坊には2つの意味がある。①末寺から本寺を言う時の呼び名。②寺院で、住職の住む僧坊。建仁寺の場合は後者である。本坊の主要な建物には、庫裏、方丈、大書院、小書院、茶室等がある。
 庫裏は、仏教寺院における伽藍の一つで、庫裡とも書く。寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の台所も兼ねる場所で、一般寺院の事務所と兼用となっていることが多い。
 建仁寺の庫裏は、江戸時代後期の文化11年(1814)にたてられた。桁行東面17.8m、西面19.9m、梁行19.8m、一重、正面切妻造、背面入母屋造、桟瓦葺。大玄関があり、桁行三間、梁行正面一間、西面桁行三間、梁行一間、一重、両下造りょうさげづくり(切妻造の四方に庇をつた型)、桟瓦葺。京都府指定文化財です。

5.方丈(重要文化財)
 方丈は禅宗伽藍配置では法堂の北にあるのが一般的で、他の伽藍が努めて禅宗様に土間とし、細部に禅宗様をもちいたのと違って、和風の建築で、寺の行事の場ともなり、住持の接客や住居を兼ねることもある。そんな関係から内部は仕切りが多く、正面中央の一室(室中しつちゅう)と仏間が板敷であるのをのぞいて他の室はたいてい畳敷きである。この方丈は塀に囲まれた一郭をなし、東よりに玄関が付いている。当山の方丈は、額銘によれば文明
29年(1487)の建築で室町時代に建築された安芸国(広島県福山市)安国寺の方丈で、元安国寺の住持であった安国寺恵瓊が、荒廃した建仁寺復興のため、安国寺の方丈を移動させたものである。
 恵瓊の父は安芸国武田氏の一族で、武田重信の子とも伴繁清の子とも伝わる。天文10年(1541)毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると家臣につれられて脱出し、安芸の安国寺(当時は不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係をもつことになった。僧としては天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1899)、前記のごとく建仁寺の再興に尽力している。
 一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した。天正10年(1582)毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた。恵瓊はその和睦を取りまとめた。また本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦がならず毛利家が滅ぼされたとき、小早川秀包・吉川広家を名目家臣(実質人質)するという条件で毛利氏の領国はみとめられた。毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉をつとめて、秀吉から称賛された。このころすでに秀吉側近となっていた。
 方丈の裏に昭和39年建立の納骨堂がある。その建物の裏で大樹のもとに粗末な無縫塔むほうとう(僧侶の墓塔)一基がある。恵瓊長老の首塚である。長老は毛利候の外交僧から豊臣秀吉の重臣となり、最後には関ヶ原の合戦の首謀者の一人として、六条河原で斬首されるという、60余年の数奇な運命をたどった。自ら移建した方丈の裏でしずかに葬られている。
 桁行27.63m、梁間20.84mの大建築で、禅宗本山伽藍付属の方丈にふさわしい。一重、屋根は現在杮葺きであるが、享保21年(1736)の修理のとき瓦葺に変わり、昭和9年の室戸台風で倒壊し、同15年再建の際杮葺きに戻ったが同37年の修理で銅板葺になり、平成25年(2013)現在の杮葺きに戻った。
 入母屋造で、南と西は幅広く、東と北はこれより狭い縁がまわり、内部は定型通り三行二列の六室に分かれるが、中央の奥はさらに細分されている。南の正面は中の間中央が諸折(二つ折り)桟唐戸さんからと、その両脇が壁、さらにその両脇が桟唐戸で、この型は壁はない。こうしたこともあって、昭和9年の第一室戸台風のとき倒壊し、その後給されたものである、内部はいま全部畳敷となっているが中央南側の室は「室中」で板敷の上に仮に畳を置いたみので、天井もその他が棹縁天井であるのに、この室だけ二重折上小組格天井としている。この室中の奥は前後に間仕切られ、前寄りの仏壇に東福門院寄進の観音像を安置している。以上のごとくでこの方丈は南の塀に向い唐門(唐破風が前後にある門)、東寄りに横から入る玄関(唐門とともに江戸末期の作)を具えた大規模な方丈建築で、その時代も室町という。貴重な遺構である。
 内部はいま全部畳敷きとなっているが中央南側の室は「室中」でいつぁの間の上に仮に畳をおいたもので、天井も他が竿縁天井であるのに、この室だけ二重折上小組格天井としている。この室中の奥は前後に間仕切られ、前よりの仏壇に東福門院寄進の観音像をあんちしている。以上の如くでこの方丈は南の塀に向唐門むかいからもん(唐破風が前後にある門)、東寄りに横から入る玄関(唐門とともに江戸時代末期の作)を備えた大規模の方丈建築で、その時代も室町時代と言う貴重な遺構である。
  各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松かいほうゆうしょう15331615)の筆による豪放な水墨画「竹林七賢図」十六幅、「雲龍図」八幅、「山水図」八幅「花鳥図」八幅「琴棋書画きんきしょが」十幅、合計五十点があったが、昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊した際軸物して、「風神雷神図屏風」(国宝)ともに京都国立博物館にきしんされた。なお、五十点の軸物すべて重要文化財である。 昭和15年(1940)再建となった方丈には晩年の橋本間接(18831945)による障壁画「生生流しょうじょうるてん「伯楽」「深秋」の襖絵60面が入れられたが、その後、海北友松の前襖絵の複製品に入れ替えられ現在に至っている。


                  方丈前庭・大雄苑
5-1. 方丈前庭・大雄苑
  重要文化財である方丈は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊、6年後の昭和15年(1940)に復旧さ
 れました。方丈の南庭は儀式の場として法堂から石敷き通路が縦断する白川砂敷きの広い庭でしたが
 、この頃著名な庭師・顆頭かとう熊吉氏により枯山水式庭園として作庭されました。

  方丈の前庭は白砂に巨岩を配し、前面の法堂を巧みに借景とした枯山水の様式で、大らかな味があ
 る。 中国の百丈山から名をとって「大雄苑だいゆうえん」(百丈山の別名)という。
百丈山は、中国江
 西省奉新県にある山で、元大雄山といった。唐
16代宣宗(846859)がここで避暑し、和泉を引いて
 詩作に遊んだ。
784年に百丈懐海が入山して百丈寺を建立し、黄檗希望運おうばくいうん(臨済宗開祖)が
 参禅して最初の臨済宗寺院となった、臨済宗には非常に由緒ある山である。
中国百丈山を模して建仁
 寺を造営されたという栄西禅師の世界を表現しているようにもみえる。
庭の西南隅、木の茂みの中に
 七重の石塔が見える。 織田有楽斎が兄信長追善のため建てた供養塔である。徳川の時世長い間開山
 塔の溝の底に隠匿してあったものを、明治
31年黙雷和尚がここに移したものである。
5-2潮音庭 作庭・小堀泰厳、監修・北山安夫
  作庭者小堀泰厳は、建仁寺487世・内代管長である、監修者北山安夫は平成の小堀遠州と称されに世
 界的に著名な作庭家である。
本坊の中庭である「潮音庭」は、法堂の阿弥陀如来を中心とした三尊仏
 に見立てた三尊石を中央に置き、その外に、石を時計の渦巻き形にならべ、動きを試みています、ま
 た、また東の大きな石は座禅石と見ることができます。廻りに紅葉を配置し、初夏は、コケの緑、秋
 は楓が紅葉し、大書院からの眺めは額縁の絵になります。四方何処から見ても正面になり「四面正面
 」の中庭となっている。

5-3 ○△□乃庭 作庭・北山安夫
  この庭は、江戸時代臨済宗古月派の禅僧・画家・仙厓義梵せんがいぎぼん17501837)の「○△□」の
 掛軸が元になっている。○△□という三つの図形は、宇宙の根源的な形態を示していると言われ、禅
 宗の四大思想を地(□)、水(○)、火(△)で象徴したもと言われる。庭の中央植木は〇、東側の
 井戸は□、西の廊下の下に△の地形があります。
大書院の床の間に仙厓義梵の掛軸が飾ってあります
 。

5-4茶室・東陽坊
  東陽坊長盛は真如堂塔頭東陽坊の住持で千利休の高弟である。茶室・東陽坊は、天正15年(1587
 関白豊臣秀吉が北野茶会を行った際、紙屋川の土手に建てられた副席です。東陽坊の南に秀吉遺愛と
 言われる烏帽子石が据えられています。
茶室は明治33年(1900)頃まで京都中京区の房家より建仁寺
 開山堂の裏に移築し、さら大正
10年(1921)現在地に移築された。内部は2畳台目である。
 なお、東陽坊には建仁寺垣があります。建仁寺垣は四つ割竹を垂直に皮を外側にして隙間なく並べ、
 竹の押し縁を水平に取り付け、シュロ縄で結んだもの(極普通に見られる竹垣)。

5-5 恵瓊首塚
  安国寺恵瓊は臨済宗の僧侶、安国寺住持、東福寺住持、南禅寺住持をへて禅宗寺院を統括する地位
 につき、安国寺の方丈を建仁寺に移築し建仁寺の方丈にするなど、建仁寺復興に尽力した。
一方、毛
 利家及び豊臣家の外交僧を務めた。関ヶ原では西軍の大将に毛利輝元を引き出の尽力したため、関ヶ
 原の戦いで敗れると、西軍の首脳部の1人とされ六条河原で斬首された。その後首は、ひそかにこの
 地運ばれ、葬された。

6-1浴槽(京都府指定文化財)
 浴室は寛永5年(1628)三江諱紹益さんこうしょうえきによって建立された。七堂伽藍の一つで、内部は、待合・浴室・土間(火炊場)に三分されています。湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められています。
 禅宗の風呂は、食堂・禅堂と並ぶ三黙堂の一つで無言の場です。また町衆にお風呂を開放し、禅の教えを広める役目もありました。浴室では身分の上下はなく、お坊さんも町衆も順番に入浴しました。平成14年(2002)法堂の東から現在の場所にうつされました。

6-2 大鐘楼「陀羅尼鐘」・小鐘楼(京都府指定文化財)
 建仁寺の大鐘楼は、白壁の建物です。平成26年(2014)に栄西禅師800年遠忌を迎えるにあたり、境内整備の第一弾として平成22年(2010)5月から12月まで修復が行われました。この鐘楼は、桁行2間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺で、江戸時代初期元和8年(1622)に建立された物です。内部に吊るされている鐘楼は陀羅尼鐘あらにかねとよばれ、栄西禅師が鴨川の七条の下流にある釜ヶ淵から引き上げたと言い伝えられています。
 小鐘楼は、江戸時代寛文12年(1672)に建てられました。構造は。桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺のなっていまし。両者とも京都府指定文化財

7.塔頭
 五山派寺院では本寺に対する子院、山内寺院のことを塔頭という。禅僧が無くなるとそれを葬ってその上に石塔を建てた。その後、石塔の上に建物を建てるようになり、これを塔院呼び、それを管理する僧を守塔比丘または塔主といった。そして塔頭という言葉は、中国の禅宗の祖師達磨大師の塔だけに使われていた。つまり、一般寺院より寺格が高いという意味が含まれていた。
 室町時代の官寺制度が確立し、山内寺院が増えてくると本来の意味がさらに拡大され、一定の寺格を有する呼称となった。各塔頭が荘園などをもち経済的に独立してくるのもその特徴の一つである。

7-1 両足院
 鎌倉時代、千光派龍山徳見りゅうさんとくけん1241358)が知足院を創建した。龍山徳見は、1305年元に渡り、臨済宗を学び、当時中国で衰微していた臨済宗黄龍派を中興した。元での40年の滞在し、当時、中国最高峰とされていた兜率寺とそつじで外国人として初めて住持を務めた。1349年帰国、帰国後、足利尊氏の弟・義直の招きにより、建仁寺35世となった。
 饅頭は南北朝時代1349年、龍山徳見を慕って渡来いた宋人の弟子林浄因りんじょういんによってもたらされた。中国の饅頭は肉饅頭を意味した。日本では肉食が許されない僧のため餡入り饅頭を考案した。林浄林は初め奈良に住み饅頭屋を開く。やがて寺院に集う上流階級の間で評判になる。室町時代、室町時代1460年4代惟天盛祐は京都に移り、以後林家は奈良の南家と京都の北家にわかれる。京都の林家は応仁の乱の戦火を逃れ一時、三河国設楽郡塩瀬村にに避難し、姓も「塩瀬」に改めた。1477年、乱後、京都に戻り、屋号を饅頭屋「塩瀬」として烏丸三条に見せをかまえた。江戸幕府開闢ともに、江戸に移る。1799年京都の塩瀬家は廃絶したが、江戸の塩瀬総本家は、現在も営業を続けている。
 1428年両足院は龍山徳見入寂後、法嗣知足院三世文林寿郁ぶんりんじゅいくが創建、師を追請して開祖とした。寿郁は、饅頭の祖・林浄因の曾孫にあたり、知足院三世、両足院二世、実質開祖、建仁寺137世である。天文年間(15321554)焼失及び再建された。その際、知足院と両足院は合併になり、両足院と称した。
 「学問面がくもんずら」と言われる建仁寺にあって、両足院は、室町時代中期までは同じく霊源院と共に、「五山文学」の最高峰の寺院だった。江戸時代にはその中核を担う。10世・雲外東竺は、学徳優れた僧に与えられ、最高の名誉とされた「碩学禄」(奨学金)を授与されている。
 両足院は、数多くの建仁寺住持を排出している。
 「以酔庵いていあん修簡職しゅうかんしょく」五山のうち、南禅寺を除く天龍寺、相国寺、東福寺、建仁寺からは、対馬に輪番で僧が派遣されていた。対州修文職(以酔庵修簡職)と呼ばれ、2年の任期の任期(当初は1年)で朝鮮との外交官の役割をになった。外交文書の交信、朝鮮通信使の応接などがその役目だった。
 かって、対馬太守・宗義調(宗氏16代)も請に応じ、博多・聖福寺の景徹玄蘇が、対馬に開いた禅寺「以酔庵」に始まる。その後、豊臣秀吉、徳川家康の命により、朝鮮との外交文書を取り扱うようになる。1635年より、住持を輪番制として、京都五山の塔頭から碩学が選ばれるようになった。1580年から1866年まで、87人、のべ126人、建仁寺からは18人が対馬に赴いた。輪番後は、碩学料として米100俵が支給された。両足院からは12世雲外東竺うんがいとうちく15世荊叟東玟けいそうとうぶん13世高峰東晙こうほうとうしゅん14世嗣堂東緝しどうとういらの住持が人についている。
(建物)
   方丈、書院は江戸時代、寛永年間(16241643)に再建された。書院には桃山時代の画家長谷川等
 伯筆「松に童子図」の襖絵も目を聞くが同院に
所像するが如拙筆と伝えられる重要文化財「三教図」
 等がある。

・   毘沙門天 両足院の北に隣接する毘沙門天堂には、本尊の毘沙門、脇仏に魔王、不動明王が安 置さ
 れている。
毘沙門天像(7cm,5cmとも)は、かって鞍馬寺毘沙門天の胎内仏だった。戦国時代、織
 田信長による比叡山焼き討ち(
1571)の際に鞍馬の僧が、室町将軍の茶屋・比喜多養清宅に疎開させ
 た。
関ヶ原の戦(1600)では、関東方の黒田長政が出陣する際に、この尊像を内兜に納めて勝利した
 という。その後、黒田家代々で信仰された。近代以降、
1877年頃、仏具と共に当院に寄進された。
 茶室)池の北側に二つの茶席がある。右の茶室「臨池亭」は昭和の初め白木屋店主大村彦太郎し寄付
 の梅軒好みの6畳席である。
・   左の「水月亭すいげつてい(暦の席)」は、国宝「如庵」の写しで1912年に建立された茶室である。 「如庵」は、元和4年(1618)織田有楽斉が建仁寺塔頭正伝院に建造した茶室であった。明 治初期、
 明治政府の上知令による寺領没収のため、塔頭の統廃合せざるを得なかった。明治6年(
1873)正伝
 院移動の際、「如庵」は祇園町の有志に払いさげられた。
明治41年三井の重役で著名な茶人益田孝が
 これを貰い受け、解体せず原形のまま
車両で東京まで運搬した。昭和11年(12936)に重要文化財(旧
 国宝)に指名された。その後、昭和
13年三井高棟の別荘、昭和47年(1872)名古屋鉄道によって現在
 地愛知県犬山市お有楽苑に移動した。
(庭園)
 庭園は、
300坪の広さがあり、4面の庭園がある。一つ目は「唐門前庭」です。白砂と青松のコントラストが美しく、立て砂やひし形の踏み石が印象的なにわです。二つ目は「方丈前庭(東庭)」です。桃山時代に作庭された枯山水庭園で、一面に広がる苔に自然石が配置されています。三つ目は「閼伽井あかい庭」は坪庭で、庭にある井戸からその名前がつけられている。
   四つ目は京都府の名勝庭園に指定されている池泉回遊式庭園(書院前庭)です。池を中心に園路が巡らされ、庭園の北側には庭を一望できる二つの茶室が設けられている、水月亭と臨池亭である。池の周囲に様々な植栽、石組み、飛石、石橋がみられる。池を挟み二基の灯篭が呼応するように立てられている。ドクダミ科の植物、半夏生はんげしょうの庭として知られている。半夏生は夏至から数えて11日目に当たる雑節の「半夏生」の頃が見ごろを迎えます。穂のような総状花序に沢山の白く小さな花が咲き、上部の葉は白く変わります。まるで半分だけお化粧したそのようは姿から、「半化粧」と言われることもあります。半夏生の葉は開花の時期にだけ白く変わり、開花がおわるとまた緑にもどります。
(文化財)
 絵画では。重要文化財の伝如拙筆「三教図」が重要であり。人気画家の作品には長谷川等伯「竹林七
賢図」、「水辺童子図」、伊藤若沖筆「雪梅雄鶏図」がある。絶海中津賛「明庵栄西像」、一庵一麟賛「明庵栄西図」は最古の肖像画として歴史的に重要である。

(墓)
 
400坪の墓地がある。朱印船貿易商人末次平蔵、朱子学・陽明学者三輪執斉、白木屋創業者の大村彦太郎、饅頭の始祖林浄因等著名人の墓がある。

7-2 霊源院
 元冷泉院といい一庵一麟が、龍山徳見和尚を勧請開山として、室町時代の応永年間(13941428)創建たものである。従って龍山徳見名目上、両足院と霊源院の開山となる。一庵一麟(13291407)は関白九条道教の子で、弟子である。その後霊泉院の僧である瑞願龍惶ずいがんりゅうせい13841460)の軒名である霊源を用いて霊源院とされ、八坂通り近くにあった。南北朝時代に「妙喜世界」として建立されたものがその後、建仁寺に移築され「妙喜庵」となったものが合併して新たな「霊源院」となったものである。
 霊源院は両足院と並ぶ建仁寺塔頭の代表格です。両足院と共に建仁寺の学問面がくもんずらの中核なし、多くの学僧を輩出したことで知られています。中でも江西龍派の実弟である慕哲龍擧ぼてつりゅうはんは詩名が高く、大徳寺の一休宗純が幼年、師の元で作詩の法を学んだことで有名である。
(茶室)
 霊源院には二つの茶室がある。一つは一般的な四畳半の広さの也足軒やそくけんである。
名前に「足る」「也」とつかっているが、これは、「今ある物に満足して生かし切る」という意味合いがあります。もう一つの茶室は、広さが二畳ほどの小ぶりの茶室妙喜庵である。中厳円月和尚が住持をしていた妙喜庵の古材をつかって建てられた茶室である。
(庭園)
 霊源院は「甘露庭」と呼ばれる枯山水庭園に甘茶の咲く寺としてしられている。アマチャは釈迦の生誕を祝う仏教行事4月8日「花祭り」で仏像に注ぎかけれ「甘茶」の原料である。釈迦の一生を凝縮した甘露庭は菩提樹や沙羅双樹さらそうじゅなどとともにゆかりの深いアマチャ約
250株が植わり、庭園が青々とした甘茶の花で染まる時期に一般公開されている。
 甘茶はユキノシタ科の落葉低木アジサイの変種である。葉を蒸してもみ、乾燥したものを煎じるととても甘いお茶になることが知られています。アジサイ科ガクアジサイに酷似しているため間違えれ場合が多い。また、ウリ科の多年生植物アマチャズルの葉を使った茶も甘茶ということもあるが、前者の「アマチャ」を使った甘茶が本来の甘茶である。

7-3 大統院
 この寺の創建は観応年間(13501352)夢窓派の43代住持青山慈永せいざんじえい13021369)が開いた。天文5年(1536)比叡山延暦寺の衆徒が、日蓮宗21寺を襲った天文法華の乱により焼失した。古澗慈稽こかんじけい15441633)の代に長谷川守尚(大統院殿虎峯宗居士)の発願により再興がはじまる。1637年、その子・正尚が完了した。その頃。儒者林羅山が同院に寓居していたことは有名である。
 明治期、此山妙在しざんみょうざい12961377)創建の如是院を合併するが、大正13年(1924)、表門と唐門を除き建物は全焼した。昭和5年(1930)本堂が再建され、昭和30年(1955)現在の寺観になった。本堂の北・西・南は枯山水の庭がある。その一つ、「耕雲庭」と命名された南庭は、苔地と長方形形の切石による市松模様が美しい。庭というよりもシンプルなデザインの布を大きく広げた印象で、愛知万博日本庭園などを手掛けた作庭家北山安夫の代表作である。
 近年は、書院が建、その中に「松濤室しょうとうしつ」という6畳の茶室がある。
 文化財には、重要美術品の「赤絵十二支4神鏡文皿」奥田熲川作、円山応挙(173395)筆「幽霊図」等がある。

7-4 西来院
 境内の北東にある塔頭。中国僧建仁寺第11世蘭渓道隆らんけいどうりゅう12131278大覚禅師)により応永年間(13941428)に創建され、その住持寺となる。蘭渓は1246年弟子と共に、南宋から渡来した。北条時頼の帰依をうけ、建長5年(1253頼が建立した建長寺の開山になる。正元元年(1259)後嵯峨上皇の詔みことのりにより建仁寺に入り11世となる。建仁寺は「真言・止観・禅門」の三宗兼学の道場と建立されたが、蘭渓道隆により栄西の長年の願いである、禅宗専門の純粋禅の寺院となった。
 応永年中(13941428)、道隆四世の法孫大宗が清本院を再建して西来院と号したのに始まる。以後、輪番寺院(寺役を順番に務める制度)になる。明治5年(1872)、普光庵(開山明覚禅師明窓宗鑑12341318)を合併している。
 享徳3年(1454)室町時代の武将畠山持国が一時寓居した。畠山持国(13981455)は、父満家没後、家督を継ぎ河内・紀伊・越中・山城守護職を得る。嘉吉元年(1441)将軍義教の勘気を受け河内に出奔した。家督は異母弟・持永に与えられた。だが、義教暗殺後、復帰する。嘉吉2年(1442)対立した管領・細川持之の病没後、管領に任ぜられた。以後、細川家と対立を深める。弟・持富を家督後継者としながら、文安3年(1446)実子・義就に変えたため、畠山家分裂の因になる。
 家督争いの最中の文安2年(1445)建仁寺・西来院に一時寓居している。応仁・天文年間(14671555)兵火にかかり類焼。 安土・桃山時代、慶長年間(15961615現在の本堂は延宝5年(1677)の再建である、
(庭園)本堂の南に枯山水式庭園がある。苔に松、楓などの植栽、刈込、石などで構成されている。縁側の先、軒下にサツキ」の密植が一列ある。境内には楓が多く紅葉のころは美しい。

7-5 六道珍皇寺
 六道珍皇寺は、本尊は薬師如来。8月7日~10日の「六道詣り」、小野篁たかむらが冥界に通るったと伝わる井戸で知られる。
 創建は延暦年間(782805年)、奈良大安寺の慶俊による説があるが定かでない。鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所領に転じたことと戦乱により衰退し、貞治3年(1364)建仁寺から聞渓良聡もんけいりょうそうが入寺して再興、この際に臨済宗に改められた。寺の所在地が葬送地と鳥辺野の端にあたるため、現世と冥界の境界として小野篁が本堂裏にある六道の辻の井戸から冥土通いをしたという伝説がうまれ、「六道まいり」の信仰を集めた。寺の寺宝である梵鐘の迎鐘によって精霊がこの世に蘇ると信じられ、亰の盆の始まりとされています。篁堂に小野篁像が安置されている。
 小野篁(802853)は、平安時代前期の公卿、官位は従三位・参議。篁は、昼間は朝廷で官史を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が「江談抄」、「古今物語集」、「元享釈書」といった平安時代末期から鎌倉時代にかけて書籍に紹介された。
(文化財) 主要なものとして以下の2点がある。
  木造薬師如来坐像(重要文化財)藤原期(平安時代後期)の作、坐像は蓮華台の上で結跏趺けっかふざ
 をし、左手を趺座の上に仰向け薬壺を捧げ、右手は施無畏印せむいいんを示す。頭部は古く、他は後補で
 あるが、重厚味のある坐像である。

  珍皇寺参詣曼荼羅(京都府指定歴史資料)206.8×176.32 紙本著色掛幅装

7-6 禅居庵
 開山大鑑清拙正澄いせんせいせつしょうちょう禅師(12741339)は、中国福建省の生まれ、嘉暦元年(1326)禅師の名声を聞いた「海東の壇信が師を日本へ招請した」と伝えられています。翌年、北条高時に迎えられ建長寺等に住山したあと建長寺山内に禅居庵を構えて退隠した。しかし、元弘三年(1333)には京都建仁寺に23代住持として迎えられた。やがて三年を経て南禅寺に住されたが、その間、)小笠原貞宗の帰依を得て信州伊那に開善寺を創建し開山となった。南禅寺住持を辞し建仁寺山内禅居庵に退隠された禅師は暦応2年(1339)正月17日、遷化さてた。66歳であった。禅居庵は、大鑑清拙正澄を開山として小笠原貞宗が開いた建仁寺の塔頭です。
 大鑑清拙は、禅僧が則るべき規範・儀式である「百丈清規」の日本における龍附に力をつくした。師の教化を受けた小笠原貞宗は、その清規を日本の風俗に合うよう改変し「小笠原流礼法」を始めたという。
 禅居庵では鎮守として、ご開山が元の国から将来された摩利支天が秘仏として祀られ700年近くになる。 摩利支天は仏法を護る善神として禅宗では大切にされており、七頭の猪の上に座しておられるその雄型から境内には多くの狛亥こまいのししが祀られています。古来より、開運勝利の御利益、また亥年生まれの方には守り神として深く信仰されています。

7-7 霊洞院
 霊洞院は、高山慈照じしょう(1266~1344)の法嗣海雲禅慧が、高山慈照を追請開山として開創した塔頭である。明治の後半、竹田黙雷禅師の頃から本派の専門道場が設置されている。従ってここでの修行僧の中ら沢山の管長や老師が輩出している。 
 天文21年(1552)の火災後、同23年、希三宗燦によって再建された。なお、幕末の嘉永6年(1853)全室慈保ぜんしつじほが現在の建築を再建に務めているが、庭園は寛政11年(1799)出版の「都林泉名所図会」に図示されたものと殆どかわりない。作庭者や作庭年代に関する文献はないが江戸中期の享保頃の作と推定される。昭和49年名勝指定をうけている。

7-8 久昌院
 三江紹益さんこうじょうえき15721650)を開山として、慶長13年(1608)奥平信昌(15551615)が建立した寺である。もっともこの時は、土地を選定しただけで、慶長19年(16141010日信昌の子家昌が亡くなったため、その菩提を弔うため土地を求め、造営を始めたが、翌年20年(1615)信昌が死亡したため工事を中止した。後、その子忠昌が造営を再開、元和2年(1616)完成した。
 信昌の夫人は徳川家康の娘亀姫である。門の南の鐘楼には信昌の13回忌にその子・忠明が寄進した三江和尚の銘のある鐘が納められている。
 本堂の浮田一恵いっけい筆「長篠合戦図」は、若き日の信昌の武勲を伝えている。天正3年(1575)長篠城にあって武田信玄の子勝頼に攻められたが、18歳の信昌、当時は定昌と言ったが、よく死守して織田信長の援軍によって武田勢を撃退した。この功によって信長の信の一字をあたえられて定昌を信昌に改めた。
 本堂前の庭園は中央に池を設け、三内の法堂と東山を借景としたもので規模が大きい。庭の東南に奥平家の霊屋、その西に雪村和尚・赤松円心の墓がある。本堂西には遠州好みの席と伝える三帖台目の茶席がある。

7-9 興雲庵
 興雲庵は「陀枳尼尊天だきにそんてん」、俗にいう豊川稲荷がお祀りしてあるから、このあたりは「お稲荷さんのお寺」で通っている。陀枳尼尊天(または茶吉尼天)は日本特有の呼び方であり、中国の仏典では陀枳尼尊(茶吉尼)と記され天はない。日本の陀枳尼尊天は一個の尊格を表すようになった。日本では稲荷信仰と混同されて習合、一般に白狐に乗る天女の姿で表され。剣・宝珠・稲束、鎌などを持ち物とする。この辺では「おいなりさんのお寺」でとおっている。
 開山は。一山派(中国僧、一山一寧を初祖とする派、日本禅宗24派の1つ)の中国僧石梁仁恭せきりょうにんきょう(慈照慧燈禅師12661334)。慶長年中(15961614)、興善院を合併、寛政元年(1789)焼失、翌年再建した。

7-10 大中院
 南北朝時代、康永元年(1342)頃、建仁寺27世東海竺源とうかいじくげん12701344)の塔頭として創建された。
 室町時代、応仁・文明の乱によって荒廃し、更に天文21年(1552)焼失した。
 江戸時代承応年間(16521655)雪窓霊玉そうせつれいぎょく(~1669)が中興し、現在の本堂、庫裡などが建てられた。文化年間(18041818)景和竺応けいわじくおう、全室慈保ぜんしつじほらが堂宇を再建する。
 茶室「燕舞軒」は宝暦年間(175163)白堂笠津(俳人)の時に立てられたとみられている。3畳中板台目幅洞床。庵号は陶淵明(365427)の詩句「燕舞春日長」より採られた。北の庭寄り縁を経て貴人口より入る。床の間前に地板があり、雁木形に中板が置かれ、間に炉が切られている。地板の右地丸窓、引違の貴人口がある。床の間左に火灯口がある。草書の扁額は黄檗宗・無染丹崖みぜんたんがいの筆。
 席の南の7畳に遠州流の茶室がある。近代以降に加えられ、炉が切られている。その西の6畳に住職の居室があり、北野の物入れ前板にも丸炉がる。
  文化財には、書院に安土桃山時代の海北友松(15331615)筆紙本墨画「山水図」8面、鎌倉時代絹本淡彩「闡堤正具像自苫賛」、室町時代松屋宏蔭筆絹本淡彩「大黒天像 原古志稽」、江戸時代 狩野安信筆絹本墨画「山水図」、奥田頴川作「赤絵十二支神鏡文皿」などがある。

7-11 正伝永源寺
 正伝永源寺は、元は正殿院と永源寺の二ヶ寺でした。慶応3年(186710月、大政奉還で、諸大名から天皇(国)へ領地と領民が返還されました。明治維新、明治政府は、寺社の所有する領地も国有地と見做し上知令をだしたのです、その領地は拡大解釈され、塔頭寺院が建っている境内地まで波及し、多くの寺院が縮小せざるをえなかったのです。
 建仁寺12世紹仁義翁しょうにんぎおう12641275)が正伝院を建立した。南北朝時代、正平年間(13461370)永源庵は建仁寺39世無涯仁浩むがいにんこう12941359)を開山とし、細川家祖師細川頼春の菩提寺として当初は東山清水坂辺に創建されたという。肥後細川家の最初の菩提寺となる。後に建仁寺塔頭になる。細川家より入寺、住持となるものが多かったという。
 室町時代応永5年(1398)永源庵は、現在地に移ったという。天文21年(1552)建仁寺と共に焼失した。
 江戸時代元和4年(1618)、正伝院は織田有楽斉により再興された。隠居所と茶室「如庵」が建てられた。有楽斉は中興の祖となる。
 近代明治元年(1868)明治政府の上知令により塔頭の多くが廃された。明治5年(1872)京都府による窮民産業所設立のため境内の土地建物を放棄(没収)し、寺号のみを残し替地となった旧永源庵の現在地に明治6年(1873)にうつり、正伝寺は永源庵と合併し、正伝永源寺とあらためた。このとき、重要文化財級の書院、庫裡、総門、唐門、二重閣門等売却されたが、茶室「如庵」は祇園町有志に買い取られた。
 現在ある茶室「如庵」は平成8年(1996)中村昌生の指導により復元建立された写しである。元の「如庵」は「国宝茶席三名席」(山崎妙喜庵内の「待庵」、大徳寺の「密庵」)の一つで、現在「有楽苑」に移されている。
 庭園、池泉式庭園は、創建時のものではない。白砂にハイビャクシン、松などが植えられている。池の周囲に石組みの護岸、対岸に石橋がかかり、低い築山に五重石塔がたてられている。
 墓、織田有楽斉及び一族の墓、福島正則の墓、武野紹鷗の供養塔がある。
 文化財 狩野山楽筆紙本金地著色障壁画「蓮鷺図」16面、襖慧「鍾馗しょうぎ図」、細川護煕もりひろ元首相の襖絵がある。南北朝時代の絹本著色「無涯仁浩」。江戸時代絹本著色「織田長益像」等がある。

7-12 常光院
 関基は温仲宗純おんちゅうそうじゅん(~1511)。天文21年(1552)焼失したが、三世は三江紹益さんこうしょうえきに帰依した北政所の兄にあたるき木下茂叔が慶長9年(1604改築した。三江は、建仁寺内にいわゆる三江派の発展を促し、高台寺及び末寺の創建見るにいたつたた。

7-13 清住院
 開基は蘭州良芳らんしゅうりょうほう130584)。天文年間(153255)火災に逢い焼失。承応2年(1653)に茂源紹柏が再建した。
 開基の蘭州は康安元年(136112月、将軍足利義詮が後光厳天皇を奉じて近江に逃れたとき、その四歳の嗣子義満をかくまい、衣中に隠した播磨の赤松則祐にまで届けたことで知られる。
 明治6年(1873)明治政府の政策により祥雲院跡地に移動した。

7-14 堆雲軒
 霊洞院の正仲が同院の隠退所として貞和2年(1346)に創建した。高山慈照こうざんじしょう12661344)を追請して開基とした。天文の兵火にかかり延宝8年(1680)に再建された。

7-15 法観寺(境内外塔頭)
 八坂の塔として知られていつ。 創建には聖徳太子がかかわったとされ、天台宗系であったが済翁証救ざいおうしょうく(~1260)が、仁治元年(1240)禅寺に改めた。

7-16 高台寺(境内外塔頭)
 豊臣秀吉の正室北政所が秀吉の菩提を弔うため創建した。伏見城の一部を移築、壮観を極めた。現在も表門、開山堂、霊屋と茶室はのこり、何れも重要文化財である。また池泉式庭園は史跡名勝である。


                           Ⅳ.文化財
1.本尊釈迦如来木像
 この像は本来仏殿に安置される本尊であるが、仏は天文21年(1552)の火災で焼失し、現在は法堂を仏殿兼用にしているため、法堂に奉安されている。本尊は両足を互いに組み合わせてお座りの、いわゆる結跏趺坐けっかふざの釈迦如来像と両脇士の迦葉かしょう尊者と阿難尊者とである。迦葉尊者は仏十大弟子の上首で頭陀ずだ第一といわれ、衣食住にわたって小欲知足の行をなされた。
難尊者は多聞第一、言わば知恵第一で、各種の経典も、阿難尊者が、仏から「我かくの如く聞けり」として伝えられたものといわれる。
 これらの仏像は、越前大冶山弘祥寺こうしょうじの旧物を、永源庵の玉峯永宋(154282)が請来したものである。玉峰は細川元常の三男である。弘祥寺は越前の安居あご庄にある、開山は宏智わんし派の別源円旨べつげんえんし12941364)で、開基は朝倉広景という、曹洞宗系の十刹である。なお、別源円旨は、その後京都に出、京都真如寺等をへて建仁寺44世住持となっている。

2.明庵栄西坐像 左京法橋康乗作(江戸時代寛文4年)像高130.8㎝ 開山堂安置
 建仁寺開山堂に安置される明庵栄西禅師みょうあんようさいぜんじの木彫像である。法衣、袈裟を着して法被はっぴをかけた椅子に座し、右手に払子ほっすを持して左手で毛先を摘まんでいる。大きな頭をした禅師の独特の風貌をよく表している。懸裳の裏側の朱漆銘によれば、本像は寛文4年(1664)建仁寺306世顕令通憲が栄西禅師450年忌に際して開山堂を修理し、2月5日に開眼かいげん法要したもので、作者は運慶末葉を名乗る七条仏所の大仏師左京法橋康乗である。

3.布薩(釈迦三本尊)像 伝明兆筆 室町時代       114.0×59.0㎝ 
 毎年7月30日、当寺で行われる布薩会ふさつえのとき、正面にかける釈迦三尊像である。
 布薩は、火または神に近住することを原意とする語。布薩会はバラモン教で行われていた新月と満月の前日に行われていた儀式を仏教に取り入れたものとされる。発展段階に応じて内容や表現に相違がある。基本的には、仏教集団の定期的集会で、同一地域の僧が信奉する教えの相違を越えて集まり、自己反省し罪を告白懺悔する集まりであった。
 布薩本尊の中央の釈迦牟尼仏は、右手を挙げて五指をのばし、外に向ける施無畏せむい印、左手は垂れて掌を上に向ける与願印を示される坐像である、施無畏といわれるのは、恐れ無きことを施す、つまり仏が人々を救済して彼らに安心を与えることをいう。与願印よがんいんとは人々の願求めするところのものを施与するという意味である。
 下方向って左は獅子に乗る文殊菩薩、向って右は象に乗る普賢ふげん菩薩の二脇士である。
 当日は本尊の前に卓を置き、卓の上に香炉・華瓶・燭台の三具足の他、天目茶碗一対で茶湯を献じ、布薩用具の柄香炉と籌ちゅうという黒塗りの長い箸のようなものを用意する。その卓の手前に低い台を設け、白麻布1片ずつを左右の掛台にかけ、黒漆塗の淨瓶に、一器は浄水、他は香湯を準備する。そして法会は、この本尊の前で三時間余にわたって行われる。浄水・香湯の淨瓶を持つ僧、白布を持つ二僧、合計四名の僧が列座の僧衆の前を一巡して清める。次に数十本の籌を持つ僧が、列座の僧に1本づつ与え、随行の小者しょうしゃという役の僧が受け取る儀式がある。これにより列座の僧衆の数を調べることになる。次に散華・焼香の儀が続き、いよいよ戒師の説戒、つまり梵網経ぼんもうきょうの読誦どしょうがはじまる。「若し布薩行われずんば、吾が山また廃せん」という開山の遺誡がまもられ、厳粛に布薩会が行われている。

4.中厳円月木像             南北朝時代 像高;81.2㎝ 霊源院蔵
 妙喜庵の開山・中厳円月(130075)か几案きあん(腰掛)により如意を持って構える等身大の木像。法衣(僧の制服)や袈裟けさの着色が判別しにくい程褪色しており、下部に多少の損傷がある。師の生前もしくは寂後間もない南北朝時代の作と推定されている。師が示寂しじゃくの直前「吾れ平生口少なからず」と侍僧に語った通り、他人との摩擦がおおかった性格、晩年軽度の精神障害を起こしたことをよく知った作者が、これお眉間の二本の縦皺で、その片鱗を示している。
 師は別号、中正子、中正叟、東海一漚子といい、相模の人。曹洞宗系の東明恵日に師事下が、正中二年(1325)入元、東陽徳輝とうようてひに嗣法しほう、元弘2年(1332)帰朝した。延文5年(1360)亰の万寿寺に「妙喜世界」を創建、のち建仁寺に移す。応安8年(1375)正月八日寂。勅諱仏種慧済禅師。「東海一漚集」の著があり、詩文に長ず。

5.薬師如来座像(重要文化財)   平安時代 木像 像高125.3㎝ 六道珍皇寺
 建仁寺の南北朝にある六道珍皇寺ろくどうちんのうじは空海の師大安亥慶俊きょうしゅん、あるいは小野篁たかむらの建立と伝えられる。もとは真言宗であったが、南北朝時代に建仁寺との関係を深め末寺化していった。木像は右掌を外に向け、施無畏せむいの印を結び、左掌上に薬壺やっこを載せる姿に現された薬師如来像であるが、顔の古様さに比べて体部は平安時代以降の一般的な形式の穏やかさを見せ、後世に体部を補したものであろう。本尊として本堂の厨子に秘仏として御座したが英雄保存のため昭和期に薬師堂が建立され遷座(安置)された。

6.開基源頼家木像 辰巳蔵之丞作           江戸時代 73.6㎝ 開山堂安置
 当寺の檀那開基源頼家公の束帯坐像で宝暦3年(1753)公の550年忌を期し、宝暦元年新彫、翌宝暦2年安座点眼したもので、仏師は辰巳蔵之丞である。頼家が頼朝の死後、18歳の若さで鎌倉二代将軍となった正治元年(1199)は、開山栄西が京都から初めて鎌倉へ下向されたころである。幕府の命により鎌倉に置いて開山は仏事供養の導師を行われたことが「吾妻鏡」に記されている。ところが将軍家のご曹司として順調に育ち、武芸にも抜群であったという頼家は、その数年後伊豆の修禅寺に幽閉され、元久元年(1204)7月18日、淋しい山中で23歳の薄幸な生涯の幕を閉じた。北条時政の手兵に暗殺されたという。

 7.開山明庵栄西頂相・絶海中津賛 室町時代 93.0×38.5 両足院蔵
 室町時代前期の絶海中津が賛を施した開山の頂相である。「鹿苑比丘」というのは、絶海が永徳3年(1383)就任した鹿苑僧録(五山派寺院の総元締)の僧といういである。賛詞は絶海の作ったものではなく、仏光国師無学祖元(122686)のものをそのまま書いたものである。しかし、開山頂相としては現存最古のものである。

8・闡提正具頂相(重要文化財)     鎌倉時代 97.7×42.62 大中院蔵
 直庵居士大友貞宗さだむねが絵師に描かせた闡提正具せんだいしょうぐの頂相に闡提が自ら賛を施したものである。大友貞宗は、鎌倉時代末期の武将。大友氏6代当主で、法名顕孝寺殿直庵簡大居士、北九州にあって中国に遊学する五山像を積極的に外護し、本格的なに禅を理解した人である。元弘3年(1333)冬中国から帰国したばかりの中厳円月を伴って上洛したが、同年12月3日京都出客死した。貞宗は闡提正具から「具簡」の法名を受け、「正具」の「具」を付与されている。
 闡提正具(~1329)八坂法観寺第四世、栄西禅師の弟子、天庵源祐の法系に属し、北九州と八坂法観寺に拠る一派で、天庵―済翁証救―月庵救円―印叟救海―闡提と師承する。法観寺住持であった闡提は、貞宗に招かれ豊後の万寿寺に住し、のち筑前の神感山顕孝寺の開山になるなど、北九州地方にあって教化に務めた。元徳元年9月2日寂。寿不詳。

9.無涯仁浩頂相 中厳円月賛           42.2×28.2 正伝永源寺
 中厳円月が讃岐龍光寺の通真のもとめに応じ、その師、無涯仁浩の頂相に賛したもの。末尾の「中正腐衲」以下を除き「東海一漚別集」に収められている。無涯仁浩(12941359)は永源庵の開山。元享元年(1321)入元、在元25年、貞和元年(1345)帰朝した。肥後の浄土寺、相模の東勝寺歴任後延文3年(1358)建仁寺に住し翌年正月5日寂した。
 賛を施した中厳円月は正中2年(1325)入元、元弘2年(1332)帰朝している。無涯より遅れて入元し、無涯より早く帰朝している。

10.布袋図 揚月筆            室町時代 32.4×21.62 禅居庵蔵
 室町時代の画家揚月の布袋図に自賛したもの。揚月は雪舟門下で、秋月等観と同じく薩摩の人。城南の笠置寺にいたから、世に笠置揚月と称した。筆法は粗淡な味があり、柔潤の態だと言われる。
 この図、一指は天を指し、ふくよかな腹を突き出して天真爛漫に笑う。なかなか軽妙酒脱な筆致である。七福神のうち、禅僧の多くがこの布袋を描くのは、天衣無縫で底抜けに明るい性格に引かれているからだろう。

11,12・ 16羅漢図 良詮筆 (重要文化財)各143.8㎝×59.8
 羅漢は仏教における声聞四果の一で、煩悩を断ち、尽智、無生智を得て無学位に住し、世間の供養を受けるに堪える聖者をいう。16羅漢、18羅漢、五百羅漢などに描かれることもあり、主として釈迦の眷属として、仏画の中で実人的描写によるものが多い。
 この16羅漢図は第一尊者(賓ぴん跋ば囉惰闍だーじゃ尊者②図)に「良詮筆」の落款があり、筆者を明らかにする。③図は第16尊者(注茶半吒迦尊者)である。良詮は「良全」と落款する場合もあるが、古くから画史類にかなり混乱した記載を持って居る。しかし、現存作から考えられれる範囲では、二幅の著賛画と書き方の異なる落款と、画中に書きこまれた寺名から、次のことが考えられる。すなわち、墨画の猗獅文殊図の賛の「南禅乾峰(士曇)拝賛」から、乾峰和尚の南禅住山の貞和4年(1348)から文和4年(1355)という京都での活躍が知らされる。またこの16羅漢図に「東福寺常任」、もう1本の羅漢図(フリア美術館蔵)に東福寺塔頭三聖寺の名が見え、乾峰士曇が東福寺を基盤にした僧であることから、良詮は東福寺で画僧として14世紀後半に活躍した人と推測される。また「海西人」や「浮○散人」の肩書から、乾峰和尚に伴われて筑前から京に上ったとするのが妥当のようである。いわば半世紀後に出た有名な吉山明兆の先例になる画人といえる。
 この16羅漢図は、いわゆる李龍眼様の羅漢として典型的な図である。比較的実人的な描写をもつことは、禅月大師様の図容との根本的な相違点である。線描も流暢で、背景に描かれる樹石の描写も舶載宋元画に忠実であり、初期水墨画の手法を示すものとして貴重である。色彩も同時代の詫磨栄賀の図などに較べて控えめで、水墨の描線を主力にすることなどから推して、良詮が新しく禅寺で育った画人であることを示している。

  風神雷神図 二曲一双 俵屋宗達筆(国宝)
314.風神雷神頭 俵屋宗達筆(国宝)         各169.8×154.52
 宗達が美術史上に初めて名を表してくるのは慶長7年(1602)でる。厳島神社に伝わる「家納経」を福島正則が補修し、三十三巻のうち「願文」「化城喩品」「嘱累品」の三巻の表紙、見返し絵を宗達に描かせて、取換えた。宗達の生没年はわかっていないが、この図の素晴らしく単純化された大胆な構図と平安後期の装飾美の極点を示す平家納経の中に挿入しても決して引け取らない色彩感覚などから考えて、この図の制作期は宗達の三十代であったと考えられている。そして寛永十年(1633)過ぎに没したと考えられ、活躍期は桃山時代後半から江戸時代初期とされる。長谷川等伯や海北友松かいほうゆうしょう、狩野永徳ら、いわゆる桃山時代の絢爛たる障壁画時代を担う人たちに対して一世代おくれる画人である。
 永徳が狩野派の伝統の上に立ちながら、画面いっぱいに動的な迫力をもって処し、
等伯がより古法を守りながら美しい色彩と潤沢な墨色を駆使し、友松が減筆体を導入して独特の人物画をよくするなどの特徴をみせながら、装飾性豊かな大画面を描いて、桃山時代の華となった。
 
宗達の大画面は桃山時代障壁画が自然らしさから出発したのに対して、全く画面を作為的に作り上げることから出発した点に新しい価値があった。形象の上からも、色彩的にも明らかに、そこには宗達にしか無い物を持っている。装飾性を完全に純化することを目指したわけである。
 
風神雷神図は、源氏物語から取材した「関屋澪標図」「松島図」などと共に宗達の大画面彩色画を代表する傑作である。二曲一双の屏風に、前面に金箔をおし、右隻に風神、左隻に雷神を描く。緑色の風神は半円状に弧を描く白色の風袋の両端をしっかりにぎり虚空を疾走する。
 
白色の雷神は十数個の小太鼓を丸く金の輪にめぐらして背にし、手には撥をがっちりにぎって宙にしっかりと構える。群青色の天衣と赤い腰ひもは両者に共通しているし、風神の衣の裏地の白、風袋の白は雷神の体の色に等しく、雷神の衣の緑は風神の体の色と同様である。それぞれ実に巧みな色の調和を以ているが、一体として眺めた時に意外に用いられる色彩の単純なことに気が付く。この単純化こそがこの図をより効果的な装飾化に成功させている。 顔のあどけない、一種の不気味さをもつ表情は生き生きとし、風神の駆ける速さと軽やかさ、雷神の静止の状態にある安定感は見事である。 そしてともに力強い四肢の筋肉の張は誇張された嫌味をもたないし、それぞれすぐに次の動きに応じうる自由さをもっている。 また両神の周辺にたなびく雲がこの図に実在感を与えるのに役立っている。 

15.松に童子図 長谷川等伯筆       本紙 各168.0×86.02 両足院蔵
 長谷川等伯(15391610)は海北友松がやや画域が狭く保守性を持つのに対して。狩野永徳とともに全く桃山時代的な華やかさと大きさをもつ画像であると言えよう。出目は能登七尾で、染物業を営む法華経信者のいえである。等伯は30歳頃に上京し、伝統的な著色画や肖像画、あるいは水墨による仏画などに独特の手腕を発揮していたと思われる。しかし等伯は京都の風になれるに従って意欲的に宋元画や阿弥派や雪舟などの画風を学び徐々に狩野派に対抗する実力を具えていった。両足院襖絵は三の間北側の四面であり、西側には草山水図が二面残されているだけで当初の姿は分からない。松に童子図は一室に描かれた人物図の一部であろうが、簡単な筆致の中に古様をつたえる人物描写には初期的な特徴をみせ、角ばった岩の鋭い皺法や、盛り上がるような奔流の表現にやや等伯らっしさを見せている。そしてわずかに見える右端の松樹にも等伯らしさい奥行きの深さを感じさせる。しかし全体として見た場合、やや空間処理にも粗さがあり、当初の全体の失われたのがおしまれる。

1617.竹林7賢図 海北友松筆(重要文化財)   各195.0×186.02 方丈
 桃山時代の画壇の主流は永徳、山楽に代表される狩野派によって占められたが、他にも漢画系の流はいくつもあった。海北派もその一つで、友松はその創始者である。
 海北友松かいほうゆうしょう15331615)は浅井長政の配下の武将、海北右衛門綱親の五男に生まれた。幼い頃に京の東福寺に喝食かつしきとして預けられていたために、浅井家が織田信長い滅ぼされた時にも一人難をまぬがれた。武士としてのたしなみの他に和歌や連歌、茶道にも通じ、優れた教養をあわせもった画人であったと想像される。
 
建仁寺本坊の襖絵の制作年代についても、天正期あるいは文禄期説があったが、現在ではおよそ慶長四年(1599)の安国寺恵瓊による本坊再建時に描かれたという説が確定しており、六十六歳にあたる。
 
室中の東、北、西の三面にわたる連続した図で、それぞれ四面、八面、四面よりなる。
 全面を通じて、いわゆる背景は殆ど省略され、七賢人お一童子の人物、……極めて単純な構成によって成り立っている。しかもいずれもが非常に近接した光景としてとらえられているために、余計に前面制が目立ち、奥行きは意識して殺されている。従って空間の緊張感は乏しいが、人物、景物の巧みな配置は素晴らしいリズムを以ていて、意外に有機的な画面を作りだしている。
 
人物描写はいわゆる友松の袋人物と言われるのもので、柔らかいタッチの筆速のある筆が、諸人物の軽妙な風姿をよく捉えている。竹林七賢とは中国晋代、国難をさけ、俗を離れ、竹林に入って清談にふけった七賢人である。嵆康けいこう、阮籍げんせき、山涛さんとう、劉伶りゅうれい、阮咸げんかん、向秀しょうしゅう、王戎おうじゅうの七人が酒を愛し、樂を好んで、自由な生活をおくったという。この図の人物がそれぞれが誰を指すのかわからないが、歴代多くの画人による好画題とされている。

18.雲龍図海北友松 海北友松筆(重要文化財)         各196.0×186.02 
 
雲竜図は虎図とともに室町時代にもよく描かれた画題であった。またしばしば禅寺の法堂の天井に雲龍図の描かれるのは火難を避けるためとか、仮空の霊獣の飛翔する雄大なすがたから、一種神格化された浄域の表現とも考えられた。南宋時代の博物誌「爾雅翼」では龍の姿を角は鹿、頭はラクダ、眼は鬼、体は蛇、腹はしん(想像上の動物)、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似るとされ、その全貌を知ることができる。 松の雲龍図の遺品としては、他に北野天満宮と勧修寺、大徳寺仏殿にある。中でも北野天満宮屏風の雲龍図はその凄絶さに於いて優れ、空間的奥行きの深さは相当なもので、南宋の牧谿画の域に迫る物がある。これに対してこの襖絵は筆の軽快さと表相的な明快さが特徴である。 障壁画の特性である横への広がりが、意図的に狙われた図と知れる。

19山水図 海北友松筆(重要文化財)              各197.5×186.02 
 檀那の間の山水図、東面、北面計八面のうちの東面の右二面、構図の右端の二図である。全体は両端に岩盤上の楼閣を配し、中央部は広々とした水景を描く。水景の部分は画面下方に僅かに堤と木橋を描き、二、三艘の漁船を象徴的に点じるのみで、極めて簡単な図となっている。竹林七賢図でもそうであったように、むしろ荒く、緊張感に乏しい。
 
画態はいわゆる草体で、玉潤風というべき様式をもっている。潤沢な墨色が美しく、淡墨で岩の外周を描き、内側に濃墨でアクセントをつけ、中心部を素地のままのこしてハイライトにする岩の描写、淡墨の樹葉と濃墨の樹幹をもつ樹木の描写も破墨風山水としてはえいぼんである。 そして視点が低く、高さの表現がないことも、図をおとなしくしている。まず客室としての働きを持つ檀那の間の落ち着いた雰囲気を出すには適した手法といえよう。

 20花鳥図(孔雀図) 海北友松筆(重要文化財)    各225.0×189.02 
 書院の西側の大小四面と北側の四面よりなる。 図版は西側の左二面で、仏間との間の壁貼付けのうち大きい一面で、大きい松の樹幹と堤と僅かの笹、それに羽根を少し広げて逆立て、両足をつっぱり、いまにも飛び立たんとする緊張した一瞬を描く。この方丈襖絵のうちで最も力強く、自然らしい描写をもつ図と言えよう。 感動溢れる孔雀の表現も素晴らしいが、樹幹の描き消された空間の表現が秀逸である。 僅かの点苔と淡墨、濃墨を僅かに刷いて、根元と上方を描き消すリズムをもつことによって、この樹木の大きさを暗示的に表現する技法は桃山障壁画を通じてみても、大胆さにおいて群を抜いている。そして上方から淡墨でかすかに松の枝、葉を描くことによって調和を保っている。

21.琴棋書画図 海北友松筆(重要文化財)         186.0×159.52 
 衣鉢いはつの間の南側四面と東側仏間の境の大小6面からなる。 図版は東南の角を挟む3面で、十面の中心をなす図である。 階体で松樹を二株、大きく枝を張らし、その間の大きな石屏の前に二人の老士が座る。 老士の前に童子が書冊をもって老士に読み聞かせる。 右方岩陰から、もう一人の童子が琴を担いで歩み寄る。琴棋書画の書と琴の部分を表している。 東側には水辺の亭に老士が座り、傍らに囲碁盤をおき、棋の部分を、湖を隔てた岸辺に建ち止まる老士が画軸をもつ童子に語り、画の部分を表している。
 この図に描かれる人物の描写は竹林七賢図に見られる友松独自の袋人物ではなく、謹厳な人物を描く。樹木、岩の描写も他室の襖に見られた描法とかなり手法を異にし、しかも彩色を伴う点もことなっている。構図においても少し俯瞰的視点をもち、景観自体も距離をおいている。何の目的をもってこのようにこの図だけを変化させてえがいたのかは、正確には判じえない。衣鉢の間のもつ日常居住的な性格による物であろうか。
 
なお琴棋書画は中国の文人士大夫の教養であり、趣味生活の骨子をなす四芸をあらわすもので、盛唐頃にはすでにこの組み合わせが行われていたらしい。 我が国でも禅僧が教養として中国文人のそれに倣って四芸を好んだことが知られ、室町時代中期以降にこの画題が描かれ、そして桃山時代の障壁画の格好の画題となったのである。

22.松梅図 海北友松(重要文化財)  173.0×159.52
23.松に叭々鳥図海北友松(重要文化財)117.0×159.52
 現在、襖絵は松に叭々鳥ははちょう(ムクドリ科ハッカチョウ、吉祥鳥)図、松梅図、竹梅図の格四面、慶十二面である。襖絵の現在の位置は松に叭々鳥図四面が一の間の北側(二の間の境)、松梅図四面が二の間の南(一の間の境)、竹梅図四面が二の間の北側(三の間との境)であり、三の間の南側(二の間との境)は明治時代に描かれた竹雀図四面が建てられている。
 松梅図は松に叭々鳥図とは異なって、この梅樹は大きさを表すよりは、明晰な鋭い力強さを表している。丁度部屋の隅に当たる右端の根元から二株に分かれ、一株は上限のカーブをみせながら左上方へ鋭く立ち上がる。対する右方はやや低い位置に横にはう。上方へ延びるというリズムを意識して描かれている。
 松に叭々鳥図の中央の二面である。この襖絵群のうちで最も迫力のある部分で、叭々鳥のような鳥獣の描かれる唯一の場面である。擦筆さっぴつ様の筆づかいが主力で、巨大な松の幹が襖一面を覆うように描かれ、力強い張りをもって立ち上がる。一旦上方へつき抜けた樹幹から左右に斜めに枝が張り、さらに鋭い小枝が反転して下方にむかう。太く古色蒼然とした樹幹は中央が素地のまま残され、両端は濃淡二色の墨で鋭く輪郭を表すために余計不気味な大きさと力強さを見せている。樹幹に止る二羽の叭々鳥は全く同じ姿で、一つが実態で、他は影のような印象すら与えている。全く静止し、鳴き声、羽音一つたてない静けさは、林厳な奥深さの表現う助長している。


参考文献
*古寺巡礼京都6建仁寺  著者 伊藤東慎           発行所 株式会社淡水社
*寺巡礼京都23建仁寺   著者  狩野博幸          発行所 株式会社淡水社
*京都最古の禅寺建仁寺   編集  京都国立博物館    発行所 読売新聞
*建仁寺建仁寺と栄西禅寺 編集 (財)禅文化研究所 発行所 大本山建仁寺

 


 






 


 


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世界遺・西本願寺