朱雀錦
(68)京都五山「南禅寺」
 

                         南禅寺法堂)

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 所在地 京都市左京区南禅寺福地町86
 宗派等 臨済宗南禅寺派 瑞龍山太平興国南禅寺ずいりゅうさんつぃへいこうこくなんぜんじ 
 開基等 開基;亀山法皇、開山;無関普門、本尊;釈迦如来

1.歴史
(1)離宮禅林寺
 南禅寺は、第90代の天皇、亀山天皇が離宮禅林寺殿を改めて禅寺とされたことに起源を有する。亀山天皇は即位後間もなく、東山の麓福地と呼ばれた土地に、御母大宮院の御所として離宮を造営され、文永元年(126411月完成した。禅林寺の名称は、離宮の北側には平安時代から弘法大師の弟子真紹僧都しんしょうぞうずが開いた禅林寺(通称永観堂)があったからであろうとおもわれる。
 亀山天皇は後嵯峨天皇の皇子であり、兄は後深草天皇であった。後嵯峨天皇は後深草天皇退位の後は弟亀山天皇を即位させると共に、皇位をその子孫に継承させようとされ、皇太子に亀山天皇の皇子世仁親王(後宇多天皇)を立てられた。 持明院統(後深草天皇を祖とする系統)と大覚寺統(亀山天皇を祖とする系統)との両統の起こりである。 文永11年亀山天皇は退位され後宇多天皇が践祚せんそされたが、その皇太子を立てるに当たり問題が起こった。 持明院統の立場を考慮した鎌倉幕府の執権北条時宗が皇位継承に干渉して、後深草天皇の皇子煕仁親王(伏見天皇)を皇太子とした。両統の対立が次第にはっきりし始めた。弘安10年(1287)には後宇多天皇が退位され伏見天皇が即位され、再び立太子の9人選が問題になった。今度も執権定時が干渉して持統院統から伏見天皇の皇子胤仁親王(後伏見天皇)が立太子された。亀山天皇の系統である大覚寺統はこのため政権から全く疎外され、両党の対立は極点にたっしたのである。 
 両院の対立が進む中で、初めて大宮院の御所として営まれた離宮禅林寺殿もいつしか大覚寺統所属の御所となり、亀山上皇と上皇を囲む人々の拠り所となった。弘安9年離宮禅林寺の一部が火災で焼け、そのため新たに一宇の建立された。従来の離宮を下の御所(下宮)、新築の御所を上の御所(上宮)と呼ぶようになった。上の御所の新しい持仏堂に初めて南禅院の名が付けられた。 
 院政の座から降りられた亀山上皇は正応年(1289)9月7日、ここ南禅院で仁和寺の了遍を戒師として落飾し、法皇となられた。時に40歳であった。正応4年(1291)当時東福寺の三世の住持であった無関普門むかんふもんに帰依され、離宮禅林寺を改めて龍安山禅林寺とし、無関普門をこの寺の開山とされた。 これが南禅寺の起源である。

(2)無関普門
 開山無関普門(12121292)は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。諱は玄悟、房号は普門房、諡は大明国師。信濃国の出身、建暦2年(1212)、清和源氏の流れを汲む保科氏の子として生まれた。幼い時から越後正円寺に住んでいた伯父寂円に会づけられ13歳で得度した。 その後東福寺の開山となった円爾弁円のもとに行き5年間参禅した。長い間の勉学と修行にも拘わらずなお満足せず、建長3年(1251)宋に留学することになり、すでに40歳であった。
 入宋した無関は霊隠寺を、ついで浄慈寺を訪れ、この寺に住した断橋妙倫に参禅することになった。 留まること実に十年余、禅の奥義を究め、断橋より法衣・頂相(肖像画)を与えられ弘長2年(1262)薩摩の坊津に帰着した。2年間九州の地に止まった後、京都に上り東福寺の円爾に会い、越後の正円寺にかえって籠居した。
 弘安
3年(1280)東福寺の円爾が老病であることを聞き、自ら70歳の老体をいとわず上洛して病気を見舞い、摂津の光雲寺に入って滞在した。円爾は同年1017日に他界し、2世に東山湛照が選ばれたが、僅か数ヶ月後に退任したので、弘安4年無関普門が第三世としてむかえられた。その後11年間他界の日までその職にあった。
 無関普門が法皇から並々でない深い帰依を受けていたことは次の事実からあきらかである。無関普門は正応41212日の子刻に東福寺塔頭龍吟庵で他界したが、その前夜病の重いことを聞かれた法皇は離宮から密かに東福寺に臨幸され無関普門の病気を見舞われた。 また翌年一周忌の際には無関普門の頂相に宸筆で讃をされ、偈けつ(韻文)の後に「自灑イデ宸翰国師追慕之義歍」と記されている。 この頃はまだ禅僧に国師号を与えるということはなかった。 しかし亀山法皇は無関普門を国師と呼んでおられる。 法皇が無関普門の徳を如何に高く評価していたかを端的に表している。

(3)規庵祖円
 離宮禅林寺は正応4年(1291)禅林寺に改めたが、開山に迎えた無関普門はその年12月に他界し、禅寺とは名ばかりで、伽藍は一宇も存在しなかった。 翌正応五年春亀山法皇は、二世として規庵祖円を選任した。  規庵祖円は、弘長元年(1261)正月、信州長池(長野市長池)に誕生した。清和源氏の支流井上氏の出身で、開山無関普門と同族であると言われている。少年の時から鎌倉浄妙寺の龍江に預けられた。 弘安3年(1280)北条時宗の招きに応じて宋僧無学祖元むがくそげんが来朝し、まず建長寺住し、ついで円覚寺が完工うると円覚寺の開山に招かれた。祖円は直ちに無学の門下に入って日夜参禅に精進した。 祖円の名は祖元から与えられたものである。しかし祖元は弘安9年円覚寺で他界した。師を失った祖円は止む無く新たな師を求めて京都に上り、東福寺の無関普門のもとに移って修行を続けたのである。無関普門の他界後を承けて、わずか31歳の若さで禅林寺第二世の住持に選任されたのである。祖円の後半生は全く南禅寺伽藍の創建に捧げられたといってよい。
 最初に着工された伽藍は仏殿であった。祖円入寺とほとんど時を同じくして着工したのである。同年12月の無関普門の一周忌法要の時は工事中のため仮仏殿で法要が行われた。工期約二年、翌永仁元年(129311月落成し、金剛王宝殿と命名された。永仁3年には僧堂と三門が竣工した。着工より全部の完工まで凡そ15年の歳月をようしている。
 伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)9月15日亀山法皇は嵯峨の亀山電で崩御された。天皇の御身分で深く禅宗に帰依された最初の方であった。

(3)禅林寺祈願文
 南禅寺開創にあたり、亀山法皇は、「禅林禅寺祈願事」という願文を御真筆で書き残された。その一節に「利生ノ悲願ㇵ化物ノ要径也」としたためられています。理生とは利益衆生のことで、衆生即ち人間や他の生き物、そして全ての物の生命を尊び大切にしていくことであり、生きることである。禅林禅寺の寺名は、離宮禅林寺に由来する物ですが、この御起願文が与えられて間も無く寺名も改められました。規庵祖円の意見により、南宗禅の法を伝える寺の意から正安年間(12991302)瑞龍山太平興国南禅寺の名称に改められた。
 長老職の項は寺の住持選定の基準を定めたもので、器量卓抜才智健全の人物で、仏法を重んじ勤行を大切にする人柄を選任すべきことが定められている。かくして南禅寺は開山無関普門による法幢ほうどう(説法する道場)の樹立、二世規庵祖円の手による伽藍の創建、それに大檀那としての亀山法皇の外護、この三者によって強固な基礎が築かれたものと言える。

(4)建武中興
 亀山天皇の御願で創建された南禅寺は、法皇の御子孫の後宇多・後醍醐と大覚寺統の天皇を大檀那として受け継がれた。歴代住持も法皇の「禅林禅寺起願文」の規定に従って選任された。三世一山一寧(一山派)、四世絶断崖宗卓(大応派)、五世約翁徳倹(大覚派)、六世見山崇喜(仏光派)と言うように各法流の代表的な僧が交々住持することになった。まさに各方流を網羅した住持の選任であり、臨済宗寺院の王者的な立場であった。斯様な法流に拘わりなく器量によって住持が選ばれる形が十方住持制である。これに対して法流内の師資相承を度弟院制といった。来朝宋僧を開山とした鎌倉の建長・円覚寺などでは十方住持制が用いられていたが、京都では南禅寺の他は建仁寺のみであった。
 後醍醐天皇の建武中興が失敗に終り、天皇が吉野に遷幸されて南朝が成立すると、南禅寺は大檀那である大覚寺統との縁が全く絶ち切られることになった。しかもなお南禅寺が存続と繁栄をつづけ得たのは十方住持制であったからである。 

(5)五山制と南禅寺
 五山の起こりはインドの五精舎しょうじゃ(伽藍・寺院)に由来すると言われる。中国の南宋自時代になり臨済宗の五大寺を五山と称した。臨済宗が我が国へ伝えられると、五山の称も日本へ伝わった。鎌倉時代から建長寺や円覚寺などの大寺にはこの称が用いられていた。しかし、五大寺の意味で歴史上明らかに用いられるのは建武中興の時からである。
 後醍醐天皇は北条氏滅び隠岐から京都に還幸されると、元弘3年(
1333)大徳寺を五山の1つに列した。「虎関紀年録」によると建武2年には東福寺は五山の列から除外されようとした。そのため虎関師錬等が朝廷に対しその非を訴え公儀を申し入れている。要するにご醍醐天皇の定めた五山は、大覚寺統の関係深い南禅寺・大徳寺えお五山の第Ⅰとし、武士の創建になる建長・円覚をその下位とし、建仁寺・東福寺を加えたものであった。
 足利尊氏が政権を掌握すると五山の位置が幕府の手で再評価されて、暦応5年(
1342)新しい五山の順位が決定された。第1、建長・南禅、第2、円覚・天龍、第3、寿福、第4、建仁、第5、東福寺であった。後醍醐天皇が定めた皇室関係寺院に重きを置いた順位を覆し、武士創建の鎌倉寺院を中心とした序列であった。
 五山制というのは、官寺制の一部である。臨済宗寺院を五山・十刹・諸山・一般寺院の階層に分け、書山以上の寺院を官寺とし、官寺の住持の任命権を官(政権担当者)が手中に納めて臨済宗寺院を政治的に統制する組織であった。
 暦応5年の五山編成の後の五山編成の後、鎌倉では浄智寺・浄妙寺が、京都では万寿寺が五山の列に加えられて合計十カ寺となり、京都五山・鎌倉五山の成立を見た。三代将軍義満は尊氏の天龍寺にならって自ら一大禅寺の建立を企て、至徳二年」(1385)仏殿の竣工を見た。相国寺である。翌年相国寺を五山の列に加えようとし、南禅寺の義堂周信に計った。その結果義堂の意見により、中国天界寺の列にならって、南禅寺を五山の上として、亰・鎌倉両五山の上位に置き相国寺を五山第2位とした。

(6)三度の大火災

 明徳4年(1393)思わぬ不幸が南禅寺を見舞うことになった。 この年8月22日に起きた火災は、仏殿を始め法堂、方丈、南禅院、鐘楼、庫司、饗堂、など寺内の主要伽藍を悉く焼失してしまった。明徳の火災から50余年目に当たる文安4年(1447)4月2日申の刻南禅寺は二回芽の大火に見舞われた。 再び仏堂、法堂、僧堂、三門、庫裏、方丈など中心伽藍と塔頭龍興、天授の二院を焼失した。
 文安の火災から漸く復興した南禅寺は、それから十年も経たないうちに三度び大火事に遭うことになった。今度は応仁の兵火であった。 応仁元年(1467)9月16日赤松氏の兵は南禅寺の南の東岩倉山に陣替し、18日畠山・大内・山名氏らの兵と戦い、七堂伽藍をはじめ悉く焼失した。

(7)新しい寺領
 百年間も続いた戦国乱離の世界は信長・秀吉の出現によって統一された。その間に下剋上の風潮の中で室町時代の大名は悉く没落し、下層から成り上がった新興武士に取って変わられたのである。それぞれの領国内に割拠した大名達は自らの領国を守りまた天下統一を志向するためにも、領国の産業発展に努力し富国強兵に努めた。戦乱が終息するとここに経済的繁栄の華やかな時代が到来した。桃山時代がそれである。
 天正
10年(1582)信長は明智光秀の軍に襲われて本能寺に倒れた。その後を受けた秀吉は、京都を中心として確立する寺社を保護する策にでた。国内の統一が完了すると天正19年南禅寺に新しい寺領を付与した。中世の荘園とは異なる全く新しい形の寺領が、しかも寺の所在する近在近郷で与えられた。 室町時代の盛時には寺領からの年貢が推定五千石を下回らなかったことに比すれば十分の一に過ぎなかったといえ、秀吉の手により再び南禅寺存続のための経済的基盤が保障されることになった。その後徳川家康は三百石を加増し、合計八百九十二石余となった。

(8)伽藍の復興
 家康は秀吉が大阪城に残した莫大な金銀を費消させるため、秀吉にすすめて社寺の復興再建をさせた。この機運に乗じて相国寺では慶長9年まず法堂が再建された。南禅寺では慶長9年には亀山法皇三百年の御忌の歳に相当した。この記念事業として先ず法堂の再建を企画した。秀頼の承諾を得、慶長十年(1605)に着工し、翌11年6月には東西十間半、南北十三間半の大法堂が完工し、7月5日には、盛大な落慶法要が営まれた。
 法堂よりやや遅れて再興をみたのは方丈である。家康は政権が自らの手に移ると早速御所の造営に着手した。天下統一の直後秀吉が造営した御所を廃し、より規模の立派なものにしようというのである。 法堂の再建に貢献した、玄圃霊三はこの機会に御所の古御堂一宇の下賜を願出したが、武家の造営であるとの理由で躊躇し、回答が出る前に慶長
13年に他界した。同年塔頭金地院の以心崇伝は前年死去した西笑承兌の後任として家康の側近に奉仕することになった。崇伝は霊三の遺志をついで、慶長15年再び方丈の再興のため、御所の古御殿下賜の運動を始め、ついに慶長16年(1611)古御殿の下賜が実現した。古御殿は同年4月22日より解体に着手し、三カ月足らずで7月15日には移建が完了した。現存する国宝の方丈がこれである。 
 寛永5年(1628)更に三門が建立された。藤堂高虎と崇伝の間で三門寄進の話がまとまった。高虎の三門寄進決意の理由は、高虎が伊賀・伊勢二国を領する大名になったのは、大阪夏の陣以下の戦に家康のために奮戦した功績の結果であるが、その陰に倒れた多くの将兵があった。それらの将兵の菩提を弔うためであった。寛永5年1月27日に着工、9月15日には落慶法要が営まれた。
 諸伽藍の復興中江戸時代では最後のものとなったのは南禅院の再建であった。南禅院は亀山法皇の営まれた離宮禅林寺殿の上宮の遺構であり、南禅寺発祥の地でもあった。宝永元年(1704)たまたま亀山法皇の四百年御忌を迎えることになり、これに先立って元禄12年(1699)再建の第一歩が踏み出された。元禄15年(1702)8月3日着工、元禄16年5月に竣工を見るに至った。

(9)神仏分離・仏教弾圧
 明治維新の指導理念は尊王思想であった。その背景をなしたのは、国学の発達がもたらした偏狭な国粋主義的神道主義であった。それ故、政府の政策は神道偏重に陥り、千数百年来神道と融合した日本文化形成に主役を果たして来た仏教さえ、外来宗教の一つとして排斥することになった。先ず神仏分離に始まり、やがて排仏・仏教弾圧へと進み、仏教受難の時期が到来した。
 王政復古の直前慶応3年(186712月には早くも門跡法親王の復飾、内裏における仏式廃止の宣言によって神仏分離・仏教圧迫への第1歩が踏み出された。ついで明治元年(1868)3月には神社事務局達示及び太政官布告を持って神仏判然の告示をだし、神社の神体たる仏像の排除、神前に供えた仏具の廃止、神式への僧侶参加の禁止、神宮寺の破毀などを令した。神仏分離の目的が達せられると政府は寺院整理の政策へと進んだ。明治5年11月には太政官は、無人無檀寺院の合廃寺を令し、その敷地の処置は政府が行うこととした。一方財政的基盤を持たない維新政府は明治元年閏4月には各宗代表者を太政官会計裁判所に出頭させ国務御基金と称して莫大な金額を強制的に献金させた。南禅寺も逼迫した経済状態の中から寺内から百五十両、京都付近の末寺から百二十両、合計二百七十両を献金した。明治4年諸藩の版籍奉還が実現すると、寺領にたいしても上知が命ぜられた。以上が仏教への諸種な圧迫であったが、最後は仏教の教義をも否定しようとする思想的な弾圧まで発展した。それは明治5年の大教院設置の問題であった。 
 江戸時代を通じて塔頭は二十五院が存在してきたが、維新の合廃寺の政令によって大寧・慈聖・正眼・少林・岩栖・済北・寿光・牧護・瑞雲・東禅・上生・雲門・金龍等の由緒ある諸塔頭があるいは他の塔頭に号寺し、或いはまったく廃寺されて姿を消すことになった。合廃寺した塔頭の跡地は上知と称して一旦政府の手に収め、改めて有償で払い下げることになり、南禅寺は寺の維持・景観に関り深い部分は寺へ払い下げを受け、その他は民間の手に移ることになった。そのため境内も一段と縮小したのである。
 なによりも大きな打撃は上知であった。明治2年になって幕府が寺領を保障して来た土地権利書に相当する歴代将軍の朱印状などの提出を要求した。いわば権利書の没収であった。その上、領地の石高に対し約4割の租税米をかした。明治4年諸藩の版籍奉還を理由に寺院にたいしても寺領の上知を命じたのである。 ここに寺領は全く消滅した。ただし、寺領没収の代替として蔵米下賜の方針が採られ明治4・5・6の三カ年間は過去6年間の平均年貢収入の約5割の米が交付された。明治7年には蔵米下賜はさらに金銭支給に代わり、翌8年には逓減寺禄制が実施された。逓減寺禄制とは、金銭支給額が年々逓減して行き十カ年間で打ち切りする制度である。明治16年をもって寺領に関連した収入は完全に零になり、寺は維持経営のためには新しい財源を求めねばならなくなった。
 仏教に取って一層重大なものは大教院の設置であった。大教院は、明治時代初年度に設置された、国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするための機関である。明治5年3月、神祇省が廃され、教部省が設けられた。同年4月、教部省は各宗代表者を集め、三条の教則(三條教憲という)を布告し、教則三カ条を定め、かつ僧侶の肉食妻帯・平服着用勝手たるべきことを宣言し、1派教導職官長代理らの早急な決定をめいじた。
 教則三カ条とは、下記のとおりである。
   第1条、敬神愛国ノ旨を体スベキ事
   第2条、天理人道ヲ明ニスベキ事
   第3条、皇上ヲ奉載シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事
 臨済宗各派は大教院設置の方針が明らかにされると時局の重大さに鑑み、五山派と否とに拘わらず従来の面子を捨てて一致団結することとし、南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺の五山に妙心寺、大徳寺が加わって爾後七山と呼ぶことを決定した。七山は政府の指示により夫々官長を定め、うち一人が輪番制で東京に駐在することとし、最初の任に相国寺独園が次に天龍寺滴水が選ばれてその任にあたった。政府の教条宣伝の組織がどのように整えられても、教条そのものが仏教に否定的なものである限り目的を達成することはできなかった。至る所で僧侶の激しい抵抗に遭遇したからである。明治8年4月30日ついに政府は大教院制度の失敗を認め、大教院廃止の宣告を出さざる得なかった。 

2.境内

 

(1)三門(重要文化財)
 三門は「山門」とも書かれるが、禅宗大本山などではほぼ型の決まった門が作られている。中でも南禅寺三門はその最も典型的なものである。また、歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が、「絶景かな、絶景かな、春の宵は値千金と……」と言ったことで有名であるが、実際には五右衛門死後30年以上経た寛永5年(1628)、藤堂高虎の寄進により建立された物である。構造形式は型通りの五間三戸二階二重門、左右山廊付、すなわち正面柱間5つ、中央三つが戸口、二階で屋根も二重、左右には階上にあがる階段の保護とその出入り口を兼ねる一重の山廊をもつもので、純粋な禅宗様からできている。
 門は高い石垣上に西向きに立つ。 上述のように禅宗寺院三門の好典型で、正面から見上げ、また通り抜けて東の方から全体の姿を仰ぐと、上下の均整が良く整っている。 上下二重の屋根の間には二階の縁と高欄が全体の感じを和らげる。 柱は禅宗様の一般方式に従って貫ぬきを多く用いて構造堅固に、柱頭の組物は1階二手先ふたてさき、二階三手先みてさきの詰組など定型通りである。 
 階上は縁が回っているが、内部は南・北に独立柱があるほかは広い一室で、正面と左右に折れ曲がって長い須弥壇を築き、宝冠釈迦坐像を中心に左右十六羅漢などが安置されているのも多く見るところであり、柱や梁・組物・天井などに極彩色を施して荘厳してあるものも他と同じである。 すなわち柱には何重にもかけた金襴巻やその下に波、虹梁には雲に麒麟、波に飛龍(翼の生えた龍、応龍おうりゅうともいう)、あるいは菊唐草、組物の通肘木(組物相互間に長く通る肘木)・天井受肘木には花菱文を入れた七宝繋文つなぎもん(輪や角などの一つの文様を繋いで連続させた文様)、台輪(柱頭をつなぐ平たい材)には熨斗目文や四弁花入りの菱格子文といった華やかな装飾文が描かれ、鏡天井には鳳凰、迦陵頻伽かりょうぴんが(人面鳥身、美声の持主)、空中を翔ける琴・鼓・笙・琵琶などの楽器が見られて、これ等が鮮やかに彩色され散るので極めて美しい。 なお、この彩色は狩野采女正守信かのううねめのせいもりのぶ(後探幽に改名)と土佐法眼徳悦の両人の筆と伝える。

 

          三門(重要文化財)
 
         勅使門(重要文化財)

 2)勅使門(重要文化財)
  三門の前下、南の中門(一般の通用門)と並んで立つ四脚門で、屋根は檜皮葺ひわだぶきで、伽藍の中心線上にあり、正規の位置を占めている。この門は慶長度造営の内裏の日御門ひのみかどもんを寛永18年(1641)に賜ったもので、従来伝えられた日華門にっかもん(紫宸殿南庭の東側の門)だったというのは誤っているのが明らかにされた。いわゆる総欅けやき造りで、細部様式もよく慶長頃を示している。正背面は控柱上に渡した虹梁上に二つ、また扉すじの上には上下三個のいずれも桃山絵画を立体化したような麒麟・龍・雞・孔雀などの動物に雲・波・松・牡丹・万年青おもとなどを添えた活力に満ちた蟇股かえるまたを入れている。 側面では本柱上方にある笈形おおいがた彫刻が見事である。 笈形とは中央の短い束つか(短柱)の両方に付けられた装飾彫刻で、古くは蟇股の二つ割のような形だったが、近世以後はこの門のように美し唐草ないし渦のように巻いた葉を意匠したのが現れた。この門の笈形は桃山様式の活気あるところうがよく出ており、同形のものは大徳寺勅使門にあり(牡丹)、また飛雲閣の舟入の間正面のそれにと受け継がれて行くものである。
 勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)松井康之氏より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたもの。日御門の拝領に伴い、現在地に移築され、幕末までは脇門と呼ばれていた。


(3)法堂

勅使門より三門、三門より法堂へと次第に土地が高くなり、法堂は三門の後ろに西を正面として立つ。 規模五間四間、一重、裳階もこし付、入母屋造、本瓦葺の大建築である。 旧法堂は豊臣秀頼寄進のものであったが明治28年(1895)1月12日焼失、今見る法堂は寺蔵の記録によれば凡そ次のようである。 
焼失後同年3月7日早くも法堂再建を末流寺院へ普告。 再建堂の設計は名古屋の宮大工の名家伊藤平左衛門氏(現在最大の木造建築たる東本願寺大師堂も同氏)に依頼(側面の設計図、50分の1が残されている)、木工、瓦工、石工事などは全てそれぞれ入札形式とし、35年(1902)11月起工、42年(1909)4月落慶したものである。 記録によれば桁行真々八十七尺(約26.3m)、梁行同六十九尺(20.9m)上の重は同じく六十六尺(20m)、四十八尺(14.5m)、高さ七十七尺5寸(約23.4m)で、総工費見積三十四万8千5百二十六円86銭であった。 いま仏殿を兼ね、明治末の再建だけに新しいが、禅宗様(唐様)仏殿の定型を守った欅造りの仏堂である。 裳階は隅の間が火灯窓、その他板壁または桟唐戸お戸口、組物三ッ斗と型通りで、身舎もやの組物は二手先に軒か扇垂木なども約束通りである。
内部はまわり一間通りが裳階、その中が内陣、床は全体を通じて土間である。 正面中央に高く須弥壇を設け、本尊釈迦如来と左右に脇侍、文殊・普賢両菩薩像を安置する。 この須弥壇は相国寺や妙心寺仏殿のように後方へ張出さず、前に別に二本の柱をたてて須弥壇をしつらえているのが上記の仏殿と違っている。 天井廻りは出ぐみ(一手先)の組物とし、広い鏡天井とし、大きな円内に蟠龍ばんりゅう、その外側に雲が描いてあり、妙心寺法堂内の天井と同じ行き方で、明治時代の日本画家今尾景年の筆である。

(4)
法堂への参道となる三門から真っ直ぐに続く両脇に落葉茂林を持つ石畳の緩い坂、その北側に信仰の施設・南禅僧堂がある。 「専門道場」という札の掛けてある一部が禅堂あるいは僧堂と言われるところで、禅の修行に勤め、座禅を組むための設備がある。 現存の禅堂の古いのは東福寺くらいしか残っておらず、当山の禅堂も明治末から大正の始め頃に建てたものである。

(5)庫裏
当山は、明治28年(1895)の法堂火災後、同42年(1909)に復興されたが、これ以後大正・昭和初期に亘って各建物の改築や修理が行われた。 いま見る庫裏もその一つで、大正7年(1918)、8年頃に出来たものである。 形式としては一般の庫裏の姿で切妻妻入、白壁には縦横に交わる柱と貫が鮮やかに浮上って美しい。 内部はそれぞれ目的にあった部屋に分かれるが、事務室や住持室・応接室、それに台所関係の部分などがある。

(6)方丈(国宝)

 
           大方丈(国宝)
 
      方丈庭園・虎の子渡し庭(名勝)
 
          小方丈庭園・如心庭
            庭園・六道庭
 方丈は法堂の奥、西南に、唐破風造の玄関を持ち南面している。 これが大方丈で、これから折矩おりかねに北に続くのが小方丈である。 この大・小方丈はもともと別の建築であったものが一つに纏められたものである。 即ち大方丈は豊臣秀吉が天正17年(1589)から造営した内裏の清涼殿を慶長の内裏造営の際当寺に移されたもので、規模をやや締め、もと東向きのを南向きにしたもので、近世清涼殿の面影をよく伝えている貴重な遺構である。南の正面は広縁を持ち、その西寄りには古調をもつ牡丹に獅子、竹に虎の彫刻をもつ欄間があり、それから玄関へと続く。 内部の間取りは禅寺の一般方丈と同じく、左右三室、前後二室の計六室が中心で、その両側に細長い室が付いている。 いま中央の「御昼の間」が「室中」に当たりその奥、内陣が「仏間」に当たるが、「御昼の間」というのも清涼殿の「昼の御座おまし」と関連があるのであろう。 この室は天井も二重折上小組天井という最高のとしている。 その左右は「西の間」と「麝香じゃこうの間」である。 この三室の北は西から「鶴の間」「内陣」「鳴滝の間」で、鳴滝の間は一間半の床と間中(半間)の違棚がある。 以上の各室は西側の「狭屋さやの間」、東側の「柳の間」などと共に畳が敷かれ、間仕切りは狩野永徳・同元信筆という花鳥・二十四孝・滝、それに鶴や麝香猫に芙蓉・柳などの華やかな襖絵で飾られている。
 小方丈は大方丈の北に続いているが、伏見城の遺構を徳川氏が寄進したとか、寛永頃の増築とか言うが、確実ではない。 大方丈より大味で、「虎の間」の三室は竹に虎や豹の図が狩野守信の筆と伝えて甚だ有名である。 天井は三室とも棹縁天井である。 なお大方丈「狭屋の間」の内側に蔀が吊ってあるが、これも狭屋の間がもと吹放いで、後の変改を現す者であろう。 なお以前に大方丈女院御所移設説がある。
 大方丈南側、築地壁に囲まれた横に長い平庭で、俗に「虎の子渡し」と言って竜安寺の庭と共に知られたもの。 平庭の形式で塀の前、東よりに石と樹を用いるほかは白砂を敷いた明るい感じである。 伝えるところでは慶長に清涼殿が方丈として移された時作られたものという。 法難隅に主石を置き、それから塀に沿って次第に小さい石を配り、白砂の中に平たい石を一個置いている。 いまは松・椿・楓・モチ・サツキなどを適当に植え、それらが石や背景の築地塀、赤松とも一体となって印象深く受け入れられる。 作者は小堀遠州である。
小方丈庭園は、別名「如心庭」と呼ばれる。 昭和41年に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて作庭されました。 その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱(悩みや迷いなどの煩悩の束縛からの解放)した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっています。
六道庭、「如心庭」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は六道輪廻の戒めの庭です。 六道輪廻とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄ほ六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のことである。

(7)南禅院庭園(京都三名勝史跡庭園)
 亀山天皇は、正応2年(1289)離宮で出家して法皇となられ、離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。
 庭園は当時の面影を残し、鎌倉時代の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。作庭は夢窓国師又は亀山法皇とも言われ、天龍寺庭園、苔寺庭園と共に京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されている。 
 向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、方丈正面の上池は曹源池そうげんちと呼ばれ、夢窓礎石作庭の嵐山「天龍寺」の池と同じ名前である。池は龍の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれたと記されている。 
 南禅院方丈は、元禄16年(1703)徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再建され、総桧の入母屋造杮こけら葺きです。内陣中央には亀山法皇木造(重要文化財)が安置され、襖絵は狩野養朴とその子如川隋川の筆になる水墨画です。庭園の東南隅には法皇の遺言により御分骨を埋葬した御廟がある。
 
         南禅院庭園(名勝)
 
      金地院鶴亀の庭(特別名勝)

 (8)金地院
 創建の詳細は不明であるが、室町時代、1400年頃、南禅寺68世大業徳基だいごうとくきを開山とし、帰依した室町幕府4代将軍足利義持が北山鷹ヶ峰に創建したと言う。 その後、南禅寺歴代住持により引き継がれるがが、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけて荒廃する。 江戸時代、1605年頃、南禅寺270世・以心崇殿いしんすうでんが、自坊を現在地に移して再興した。
1)以心崇伝(1569-1633)
  以心崇伝の父は一色秀勝は足利将軍に仕えた。 1605年に南禅寺270世住職となる。 1608年、徳川家康に招かれ
 、幕府の外交関係の書紀を勤めた。 1611年からは、京都所司代・板倉勝重と共に、宗教の統括にも関わる。 伴天連 追放令、寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院制度、方広寺鐘銘事件(1614)にも関与した。 大阪夏の 陣(1614)の発端となっている。
  家康公の死後、家康公の神号を「大明神」とするか「大権現」とするがで論争となり、崇伝は「大明神」を推しますが、
 天海僧正が「大明神」は豊臣秀吉の神号で不吉といいだし、天海僧正の意見が通り、崇伝は失脚した。 諡号は円照本 光国師)
2)方丈(重要文化財)
  方丈は、江戸時代1611年伏見城の一部を、徳川家光より贈られ移築したという。 ただ、近年の研究では1626年の新  金地院作事の際に新築されたと見られている。 将軍迎える為の御成御殿の役割を担っていた。 一重、入母屋造、 書院造、杮葺き。 桁行26.3m、梁間19.6m。
3)鶴亀の庭(特別名勝)
  蓬莱式枯山水庭園の方丈前庭は広大で、1629年よりはじまり1632年に完成したとも言う。 徳川三代将軍家光のた
 めに、小堀遠州が図面を引いた。 遠州作庭の確証された唯一の庭園とされ、造園史上も重要な遺跡となっている。   ただ、遠州は工事中には一度も庭園を訪れることはなかったという。 実際の指揮・植栽は小堀家家臣・村瀬佐介、ま  た、後陽成院が「天下一の上手也」と讃えた庭者・賢庭が石の据付に関わっている。
  背景となる高台地の山林を大刈込とし、深山幽谷を表すという。 奥の正面崖地には、蓬莱連山を表す三尊石組(枯
 滝)を配している。 中央の大きな長形の平面石は、東照宮の遥拝石ようはいいし(礼拝石、3畳)といい、方丈から東照 宮を遥拝する際に祭壇的な役割を果たすという。 ただ、実際に東照宮はその延長線上にはなく、やや右手(南西)に  東面する。 
  遥拝石の右(西)に鶴首石が置かれている。 安芸城主・浅野家より贈られた石は、淀川を遡り伏見港より陸路となり
 牛45頭で運ばれてきた。 その更に右に鶴島がある。 土盛りの胴には羽石が三尊形式で組まれている。 鶴島には  松が植えられている。  遥拝石の左(東)に亀頭石、その左に亀島があり、曲がった枝ぶりのイブキ(別名槇柏ビャクシ ン)が植えられている。 禅の象徴になる。 亀島中央に土盛りの亀甲石(三尊石)が組まれ、島の左端に立石の亀尾  石が立てられている。 鶴 と亀は互いに向かい合う姿になっている。
  その間に、郡仙島を表す石が点在している。 前面の白砂は、宝船と海洋を表す。 右手(西)の飛石で仕切られた白
 砂は、舟の舳先を表している。
4)明智門
   天正10年(1582)明智光秀が母の菩提のために、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものを、明治初年、当院に
 移築した。
5)東照宮(重要文化財)
   家康の遺嘱により江戸時代、1628年に造営された。 小堀遠州が設計した。 京都唯一の権現造様式とされ、本殿
 、間をつなぐ石之間、拝殿からなる。 軒唐破風。 軒の出が深く、屋根の勾配、軒反りが緩やかな曲線を描く。 当初は 、日光東照宮に比するほどの規模があったという。 家康の遺髪と念持仏を祀る。
6)茶室「八窓席」(重要文化財)
  崇伝の依頼により小堀遠州が好んだ三畳台目の茶室。 貴人座の扱い、また赤松皮付の床柱に黒塗框という取り合
 わせなど、小堀遠州の茶室の典型的な作例である。 床と点前座が並んで配置され、これと向かい合って躙口が正面
 に開けられ、外に縁を付し、縁から躙口を入る形式が取られている。 創建当時は名称通り八つの窓があったが、明治
 時代の修築で六つとなった。 大徳寺弧篷庵こほうあん忘筌ぼうせん、曼殊院の八窓軒と共に京都三名席の一つに数
 えられている。 

(9)天授庵
 天授庵は、南禅寺を開山された大明国師を祀る南禅寺の開山塔である。亀山天皇は正応4年(1291)当時の東福寺第3世大明国師に帰依された天皇は法皇となり、離宮を禅寺に改め国師を奉じて開山され竜安山禅林寺としたのが南禅寺の起源である。
 大明国師は離宮を賜り禅寺とされたが、すでに老境にあったことから禅寺として体裁を整える前に正応4年12月に生涯を終えられた。このちゃめ大明国師の開山としての功績はすくなく、開山塔はなかった。暦応2年(1291)南禅寺15世虎関師錬こかんしれんは、光厳上皇へ請願、勅許を得て南禅寺に開山塔の建立を計った。庵は天授と名付けられた、塔を霊光と称し、庭園も作庭された。これが天授庵の開祖である。
 応仁文明の乱(1467~1477)でも焼失、その後荒廃した。安土桃山時代、1602年南禅寺226世玄圃霊三は荒廃していた天授庵再興のため、霊三の知友・細川幽斉の援助を得て、方丈、正門、旧書院、塔などが再興された。以後、幽斉の廟所が造られるなど、細川家ゆかりの寺院となる。
◆庭園
  東庭、南庭の二つがある。 南庭は千坪ほどの広さがあり、南北朝時代に作庭されたと見られている。 ただ、近代、
 1904年か1905年に、僧で作庭家の虎山恭宗師が大幅に手を加えている。 
 ① 本堂前庭(東庭、淵黙庭)
  本堂前庭は、枯山水式庭園になっている。 創建当時、鎌倉時代に造営されたとみている。 もう一つの石畳の部分
  は江戸時代、1610年に新たに造られた。 白砂の中を苔に縁取られた菱型の畳石が横切ることでモダンな印象を与   える枯山水ていえんである。 この切石を組合わせた直線的な構成は小堀遠州の発案である。 特に紅葉の季節に   は、背景の紅葉と、白砂、菱型の畳石とのコントラストが美しい。
 ② 書院南庭
   池泉回遊式の書院南庭は、鎌倉時代末から南北朝時代のもので、創建当時の物と言われている。 明治時代に改
 修されているが、庭園の基本的構想である地割から見ると南北朝時代の特徴を備えている。 東と西の大小二つの池( 東池、西池)が繋がり、滝、出島などが配されている。 東池の出島、滝付近には、作庭当初の石組みが一部残されて いると言われている。 
  東の築山は、江戸時代、慶長期(1596~1615)の改修があり、全池にわたり護岸石組、蓬莱島、石橋、沢飛びが渡さ
 れるなど、近代、明治期初期の改修が行われている。 

 
            天授庵庭園
 
       水路橋(京都市指定史跡)
(10)疎水・水路経
 京都は明治以後のいわゆる近代文化もいち早く取入れたvb土地で、小学校教育・市内電車なども日本で一番早く実現させたのであった。 そうしたなかで琵琶湖から疏水(運河)を開通させたことは明治時代の最大土木工事であった。 この工事は当時若い工学士であった田辺朔郎が中心となって明治18年(1885)8月起工した。 水路閣は、この疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。 幹線(大津三保カ埼より鴨川に至る)、支線(南禅寺より分かれて小川頭に至る)全部の工事を終わったのは9年後の明治27年(1894)8月、工費約139万円であった。 南禅寺水路閣はこの支線の一部に造られた煉瓦造のアーチ橋である。 南禅寺境内の法堂の南、南禅院にいたる坂の上に架けられ、地勢の関係で、大小二段の丸型アーチの上に水路を通している。 下段の大きいアーチは14個が並び上段には小型の盲アーチが多数並んでいて、甚だ壮観である。 
 いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に疎水運河のうち「水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。 また、平成8年6月にこの水路閣およびインクラインに加え第1疎水の第1、第2、第3隧道の各出入り口、第1堅坑、第2堅坑明治36年に架設された日本最初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋、)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺跡として国の史跡に指定された。


3.文化財
(1)聖観音菩薩像(重要文化財)木造 像高 183㎝
 檜材の蓮座を含めた一木彫刻の立像で腰を僅かに左にひねる。 当初は仏身に金箔をおし、衣の部分には彩色が施されていたが、現在はほとんど剥落して金箔で後補されている。 特色の一つは所々に乾漆を薄くかけていることで、背部や額部に目立っている。 面相は重厚で、しかも温和である。 比較的量感の表現に乏しいが、腰から下へかけての衣紋線の彫出に変形された一種の飜波ほんぱ(仏像の衣のひだで、大きいひだと小さいひだが交互にあらわれる)が見られる。 これらの点からみて、この像は貞観時代末期頃の制作と考えられる。
最も特徴的なことは毛筋を表さないで束状に髪をまとめこれを五,六重に巻き上げた宝髻ほうけい(菩薩の髪型)で、他に類をみないものである。 なお宝冠・瓔珞ようらく(仏壇の荘厳具)・光背・両手先などに後補がみられるが、さほどめだっていない。
 禅寺では聖観音菩薩を衆寮に本尊として祀るが、方丈の主尊としても、釈迦像とともに安座されることが多い。

(2)三門楼上内陣
 天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼というこの三門は、寛永5年(1628)に、藤堂高虎の寄進によって再建されたもので、石川五右衛門の伝説で有名な舞台である。 楼上の内陣に宝冠釈迦を本尊として、月蓋長者・善財童子・十六羅漢の像が祀られ、さらに徳川家康・藤堂高虎の小木像と一門の位牌が安置される。 そして天井には狩野探幽・土佐徳悦の手になるといわれる鳳凰と天女の像が美しく彩色されている。
 我が国の彫刻は鎌倉期までの仏像、室町期までの肖像彫刻で一応その発展は終止し、もはや江戸時代初期では全く生気に乏しい像のみが作られたといえよう。 この一群の像においても特に見るべきものがなが、静寂で端麗な本尊、唐人風の両脇侍、そして羅漢像ではやや目新しい中国風の像の雰囲気をよく表しているのが好ましと言えよう。 またこの種の群像に見られることであるが、釈迦の足下の岩座が左右に発展し、羅漢の背後にまでつながり、自然の山岳を表しているのが、より現実感をましている。 なお月蓋長者(向って左)と善財童子は観音菩薩の脇侍とされる例が多い。
 天井の図は群像や柱、木組物の荘厳と相呼応して美しい極彩色で描かれている。 大振りで、あまり形式化されていない点に見所があるといえよう。

(3)亀山法皇像(重要文化財)木造 像高 131.1㎝ 「南禅院蔵」
 亀山天皇の御廟であり、天皇を開基とする南禅院の御霊殿に安置されている。 禅僧の頂相ちょうそう(肖像画)に準じるように椅子に座る法体姿で、寄木造り、玉眼をはめる写実性豊かな像である。 納衣には飛雲、袈裟には霊鳥と草花の文様を金泥で彩るが、派手ではなく、落ち着いた雰囲気が漂う。 製作時期はおそらく崩御の嘉元3年(1305)をあまり距たらに頃と考えられる。 後に南禅寺第三十二世として入寺した天境霊致が晋山式しんざんしき(新たに住職が就任する際の儀式)を行った翌日、天皇の御像にお経を挙げた記録があるが、それがこの像であったとさっしられる。 

(4)南院国師画像 絹本著色 113.2×49.8㎝(重要文化財)
 南院国師(1261~1313)は幼い頃鎌倉の浄妙寺に入って出家、ついで無学祖元の渡来するに及び、その門に参じ、弘安9年(1286)無学が没して後は上洛し、東福寺の無関普門にしたがった。 五年後の正応4年(1291)無関の没後、亀山上皇によって南禅寺第二世を命ぜられた。 時に三十一歳である。 まだ建造の途次であった伽藍の整備につとめ、五十三歳で没するまでの二十年あまりのでほぼ完備された。 南禅寺第二世ではあるが、実質的には開創者であり、覇気に満ちた経営の才能によって南禅寺は大寺としての寺格が完成したのである。
 画像は金襴の花文を散らした薄茶地の衣と同色に銀で花文を浮かび上がらせる田相でんそう(縦横に田んぼのあぜ道のような筋目がついていること)をもつ袈裟を着し、右手には払手をもつ。 椅子に掛けられた法被はっぴは剥落が甚だしいが朱地に金襴の牡丹を散らした美しいものである。 細線で模られる面貌は静かで深みのある慈容の中に、若々しい行動力を秘めた優れた肖像である。 図上の贊は南禅寺第十五世絶海中津の筆と伝える。

 大方丈・小方丈障壁画
 南禅寺の方丈には二つの建物、即ち大方丈・小方丈がつながって一つの建物のような形をなしている。 平面の概略は通常の禅寺の方丈の六室形式に近い大方丈が南面して位置し、そして入口に近い東側に細長い二室が付加された八室と、大方丈の西側の背後に三室からなる小方丈が北へ延びる。 部屋は十一室あり、ここに取り上げた障壁画が立てられる部屋は東北の一室を除く十しつである。 これらの障壁画のうちで最も有名なのは一番北に位置する小方丈三の間の狩野探幽が描いたと言われる水呑み虎の図である。

(5)渓流図 紙本金地著色 184.5×72.8㎝(重要文化財)
 大方丈柳の間は十三面の襖絵がるが、西側南よりの四面の「桜に柳図」と西側北より四面の「柳に椿」、西側最北端の「秋草図」一面と北側の幅のせまい「滝と渓流と白鳥図」が混在している。「秋草図」と「桜に柳」は筆者が異なるが大和絵系色彩の強い作品である。 これに対し「柳に椿図」と「滝と渓流と白鳥図」は狩野元信と永徳の両様を学んだような、かっちりした構図と筆致の図である。 特に後者は近景・遠景がぎっしり組合わされで、襖絵群の中で大変しっかりした風景の一つといえよう。 

(6)群仙・二十四孝図紙本金地著色 183.1×97.8㎝(重要文化財)
 大方丈御昼の間の前面に位置し、主たる仏事などがこの部屋で行われる関係もあり、当然方丈の中心的部屋である。 襖絵も二十八面全てが華やかな人物図でおおわれている。 西側の八面と南側の六面は「二十四孝図」から十孝子が描かれ、他は「群仙図」である。
 「二十四孝図」は、左が「朱寿昌図」、右が「関損図」である。 前者は7歳の時に生き別れた母を追って五十年後再開した朱寿昌の喜びと感激の場面。 後者は継子(関損)を憎んだ継母が父に離縁され、実子二人を連れてさらんとする母、その時父に短気を諌める関損を描いている。「群仙図」の左は「黄初平図」で白石に一鞭くれると羊に化す黄初平の仙術とそれを驚く兄たちを描く。

(7)牡丹麝香猫図 紙本著色 183.1×97.8㎝(重要文化財)
 麝香の間は二十五面から成るが、西側八面と東側北より四面の著色の「水辺花鳥図」と北側の五面の「人物図」東側南よりの四面などの「松に遊猫図」などの混成である。
 「松に麝香猫図」はこの襖絵のうちで有名である。 古来麝香猫は宮廷の襖絵には必ず一箇所は描かれた物であった。 図は州浜の間に描き残される水面を挟んで、左右の岸にそれぞれ親子三匹、二匹の麝香猫が対埼する。 背後には紅白の牡丹が大振りに咲きほこり、上部の松枝、下方の岩組が美しい対照をみせている。 構図的にも豊かで非常に落ち着いた画面を構成している。

(8)唐美人図 紙本金地著色 184.5×98.0㎝(重要文化財)
  大方丈鳴滝の間の「唐美人図」の部分は、永徳画の一連とは画風の異なる物である。 しかし、色彩的には前記の御昼の間の「二十四孝図」などの唐人物画の参考になるであろう。 

(9)松鷹図 金地金雲濃彩 184.5×97.5㎝(重要文化財)
 大方丈西の間の二十面は全て金地金雲濃彩の花鳥図である。 図版の「松鷹図」は大方丈画の中でも最も永徳様式を伝えるもので、雄大な風景である。 左方からゆったり伸びる松の枝、水中の雁を追って急降下する鷹、水辺に生える芦、岩などが混然と描かれる。

10)松に鶴 素地金泥著色 184.5×98.0㎝(重要文化財)
  「松に鶴図」の4面、「芦雁図」「鶏頭に鴛鴦えんおう(オシドリ)図」「桐図」がこの部屋に混在する。  「松に鶴図」はこの素地に金泥を引いた著色の花鳥図が集められた中でもかなり古風な様式をもつ画面である。 左方に根元から分かれた二株の松の大木お描き、その下に首をもたげる鶴、左方には岩と小樹と親子の鶴を配する。 厳格な筆致と格調の高い構図が好ましい。 花鳥画を得意とした、永徳の長男の光信あたりに筆者を求めるのが可能である。

(11)瀑布図紙本金地著色 184.5×72.8㎝(重要文化財)
鳴滝の間の名称はこの床貼付けの大画面の画題に因んでつけられている。 北側の「草花図」四面を除いて一連の図で構成されるこの部屋は慶長年間(1596~1615)に移築された時に描かれた物と思われるが、この大画面にして、非常に非常に細かい筆致で大きな図柄を描かれる特異さを持っている。 左方に水量豊かな瀑布を描き、右方には金雲を背景に二株の松の大木を描き、枝ぶりもおとなしい。 右側の側壁に二人の官人を描いて「観瀑図」の構成をとり、画面のにぎやかさを持たせているが、余有機的に成功した構図とは言い難い。 

(12)岩に梅図 紙本金地著色 184.5×139.4㎝(重要文化財)
 小方丈は寺伝では全て狩野探幽筆と伝えるが、厳密には3人ないし、4人の筆に分れるようである。 もし最も優れた画域お示す三の間の「水呑の虎図」を探幽とすれば、この二の間の「岩に梅図」の筆者は探幽とは別人ということが出来る。 幅の広い四面の中央部に弓なりに鋭く伸びる老梅を描き、根元をがっちり支えるような岩塊を置く。 さらに右端から金地の間をぬって白地に細筆で流水を描く。 さほど写実描写ではないが、意外に自然らしい温か味がある。 そして枝に止まる小鳥と宙に舞う一羽、岩陰の笹と梅樹の根元に印象的な草花をのぞかせる。 わずかに開いた紅梅がやがて到来する春をものがたっている。 大まかな構図の図であり、単純な筆致にも拘わらず、細やかな神経が感じられる好作である。

(13)竹林豹虎図 紙本金地濃彩 184.1×141.0㎝(重要文化財) 
 小方丈の襖は主として竹林に豹虎の画面で覆われるが、なかでもこの「水呑の虎」の場面が有名であり、出来栄えも最も素晴らしい。 直線的で太く密生する青竹を背景に豹虎があるいは躍動し、あるいは水辺に憩う姿はさまざまの姿態を描いて美しい。 水を呑む虎の前肢から首・頭へかけての力を秘めた張のある量感、体をひねるように静かに歩みながらするどい視線をおくる一頭の流動感のある迫力など、歴史的にも他の名作を残した虎と言う画題の処理に於いて十分それらに対抗できる出来栄えといえよう。
筆者と目される探幽は永徳の次男孝信の子としてうまれたが、若年に江戸へ下向して家康に謁見し、元和3年(1617)には幕府の御用絵師となり、元和7年(1621)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。  
 元和9年(1623)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興したが、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師は輩出されなかった。 

(14)薬山李翺問答図 馬公顕筆 絹本淡彩 116×48.3㎝(重要文化財)
右下隅に「馬公顕」の落款らっかん(落成款式の略。 書画を作成した時の署名)がある。 馬公顕は有名な馬遠(南宋の代表的な画家)の伯父に当たる。 紹興年間(1131~62)に画院の待詔たいしょう(最高位の画家)となり、再興の名誉である金帯を賜った。
 図は薬山と呼ばれた唐の惟厳禅師が朗州の刺史李翺と会う禅会図で、仏道の悟りを問う李翺に対して薬山は手を挙げて上と下を指し、「雲は天にあり、水は缾へい(釣瓶)にあり」と答えた有名な故事を描く。 格調の高いかっちりした墨線で松樹・人物・土坡どば(土手)などを描き、淡彩を施して墨色をたすけ、禅会図として落ち着いた雰囲気を表している。 構図は右端に松の大樹をおき、右上から左下方向への線を基本に他の景物を配置するが、後に馬遠によって完成される馬一角、辺角の景と言われる、主景を一隅に纏めて空間を広くとる手法が、ここにそのきざしを見せている点に注目される。 金地院の山水図から、馬遠の典型作への一つの角的位置にある作品として貴重である。 

(15)江山漁舟 蒋嵩筆 絹本墨画 155×102.5㎝(重要文化財)
 蒋嵩は号を三松という。 金陵出身の画家で、三水人物を善くし、元の呉偉を宗とし、焦墨しょうぼく枯筆(膠けのない枯れた墨。 これで書くと筆のかすれを生じる)を用いた。 しかし筆致は粗放であり、多くの場合基準を無視し、節度を越す、というようにあまり高い評価を受けていない。 しかし、この図をみるかぎり、さほど騒がしい感じはなく、他の派と較べても結構すがすがしい透明性を保持している。 潤筆で全体を調子づけ、樹枝・岩肌・人物・芦などに鋭角的なきびしい筆致を見せている。 構図は北宋画を習ったような大観的なものであるが、景物相互間に遠近を表すための墨調や大小の差をあまり描き分けないための意図された大観的な景観に成り得ていない。 これが蒋嵩の一つの特徴でもあり、限界でもあったのであろうか。 

(16)聖僧文殊図 紙本金地著色 184.5×72.8㎝(重要文化財)
 聖僧しょうそうは、聖者として尊敬される高僧。 食堂の上座として安置せられる文殊菩薩をいう。 偶像を持たないと言われる禅宗でも、租師像とともに釈迦如来や白衣の観音、縄衣の文殊などは例外的に好んで描かれた。 ただそれは従来のような礼拝の対称として描かれるのではなく、禅僧の身近な存在として親しみを持って遇された。 これは禅僧が悟りを開く過程での、自らの姿を託した理想の像であった。
この「聖僧文殊像」も言わばその一つで、高僧に姿を替えた文殊菩薩が、教化した胡人から供物を捧げられる姿を描いている。 図は彩色を施さず墨一色で描かれているが、通常の水墨画の元時代にはかなり行われた画風である。 しかし、我が国ではあまりに技術が先行しすぎたこの画風は好まれずほとんど作例がない。 

(17)達磨像 祥啓筆 紙本墨画 93.5×45.7㎝(重要文化財)
 かっと両眼を見開き、口をしっかりと閉じる堂々たる威風をみせる達磨図である。 多くの達磨図の内でも、力強さと宗祖としての意志の強さを示す像として出色の図である。
 祥啓は鎌倉建長寺の僧で書記役にあったので、もっぱら啓書記の名で有名である。 祥啓は文明10年(1478)に京にのぼり、3年間将軍の同朋衆芸阿弥のもとで画の修行をした。 画系は建長寺の仲安真康に手ほどきを受けたが、この上京修学によって鎌倉の地方様式から脱皮し、京のアカデミー画風を身に着けた。 しかし、この図にみられる達磨の頭部の背後に地塗を施して、像を浮き上がらせる手法は明らかに鎌倉画派の特徴を示しているといえよう。 禅宗初伝の地、鎌倉に伝わった伝統の大きさを物語っている。 

(18)扇面貼交屏風
 後陽成天皇御下賜の扇面貼交屏風が八隻残されている。 これらの六曲屏風には各扇に五面の扇面が張り付けられていて、その総数は二百四十面である。 もちろん画題も技法も筆者も異なり、作成年も相当長期に亘るものが集められたもので貴重である。 
 画題から大別すると「人物図」約百二十、「花鳥図」約七十、「山水図」約三十、「走獣果蔬図」十四、その他である。 「人物図」の殆どが中国の故事に関連したののであり、「山水図」中、瀟湘八景しょうそうはっけい(中国山水画の伝統的な画題)を描くものが八面、「花鳥図」中、秋草が九面と近世絵画の画題の好みを如実に反映している。 技法的にも著色画百五十五に対し、墨画八十五であり、著色画も金地に描いた図が百四十とこれもこの時期の金碧画愛好を物語っている。
 筆者と製作年代については画面に印章のある物が六十七点ある。 そのうち元信印が最も多く17、以下直信9、元秀6など狩野諸家のものである。 また三十五面に当時の15人の京都五山禅僧の贊がある。 最も古いのは月舟寿桂(1533年没)、新しいものが集雲守藤(1621年没)でこの間およそ百年が製作年を考える上で重要な手掛かりになる。
1)四晧来朝図 金地著色 20.0×40.1㎝(重要文化財)
   四晧しこう(乱世を避けて商山に入った白髪の四人の先生)が上盈太子に謁見する光景を描いたもので、張良も描か
 れている。 濃厚な原色を多用し、多くの人物をぬって巧みに金雲が流動的に背景になっている。
2)高士観瀑図 白地墨画泥引 19.5×49.6㎝(重要文化財)
   墨画人物中の優品の一つで「□信」印が捺されるが、おそらく元信であろう。 二人の老士と一侍童を右寄りに竹藪
 を背に配し、左端にいきよいよく落ちる瀑布を鋭く描出している。 人物の表情や衣紋線の力強い描写によって表される
 立体感は非凡である。 
 3)四季花鳥図 金地著色 22.9×52.9㎝(重要文化財)
   桜・菖蒲・楓・白雪をおく遠山によって四季を表す。 その間にオシドリ・四十雀・雲雀・雀などの小鳥を散在させ、背
 景の岩や水流などとともに非常に美しい画面を構成している。 手法的には手慣れた伝統的な域を出るものではないが 、当時の貴族的な好みの一つの表れである。

(19)大明国師 絹本著色 107.5×52.3㎝(重要文化財)「天授庵蔵」
大明国師(1212~91)諱を普門、また字を無関という。 はじめ長楽寺の栄朝に学び、ついで上洛して聖一国師(円爾弁円)の門に入る。 そののち入宋した。 在宋十二年の後帰朝、再び聖一国師に従い、法を継いだ。 正応4年(1291)亀山法皇がその徳望を聞かれ、離宮を改めて禅寺とし、無関を開山とされた。 これが南禅寺の始まりである。しかし、無関はその年の12月に病を得て示寂じじゃくした。
 画像は茶色の無地の法衣、田相の薄茶地に金襴の唐草文と黒地の縁によって引き締められた袈裟を着、背の低い黒塗りの曲彔きょくろく(椅子の一種)に坐禅する姿に描かれる。 僅かに朱の隈取を施した細線で表れる面貌は非常に鋭く厳しい像主の性行を描出している。

(20)細川幽斎・同夫人画像 絹本著色 104.2×51.3㎝(重要文化財)「天授庵蔵」
 細川藤孝(1534~1610)は幽斎または玄旨と号した室町時代の武将。 足利義晴に仕え、その没後義昭を奉じて織田信長に頼り、さらに秀吉・家康の時代にも重臣として遇せられた。 慶長5年(1600)その居城丹後国田辺城が石田三成に包囲された時、後陽成天皇がその歌道秘訣の絶えるのをおそれられ、三成に命じ、救命させた。 単なる武将でなく、和歌・古典・有職故実に通じ、古今伝授を受けて二条歌学を大成させた人として著名である。 
 この像は薄ものの単衣をはおり、手にうちわをもち、顔はリアルに描かれている。 一国を領した武人としての威風よりは、和歌の奥義を極めた落付いた風格をもつ。 図上の以心崇伝の贊によると三回忌に未亡人光寿院が描かせた像と知られる。対幅をなす夫人像は、幽斎より数年遅れて描かれた像で、ある。

(21)禅宗祖師図 長谷川等伯筆 紙本墨画 183×143㎝(重要文化財)「天授庵蔵」
 天授庵の方丈は慶長7年(1602)に再興されたが、表側3室の障壁画も同時に描かれたものと考えられている。 室中の「禅宗租師図」十六面、左右の間の「商山四晧図」「松鶴図」各八面の三十二面で、何れも無款であるが、等伯画として認められるものである。
 室中の北・西・南に展開する「祖師図」は「船子狭山問答図」「自宝売薑図」「南泉斬猫図」「懶瓚煨芋図」のそれぞれの画面が山水を背景に連続画面として描かれる。 描線は直線的で剛直で、極めて明解である。 鋭い筆致を用いながら、枯れた描写の良さを持つ樹木、そして、特に岩の皺法は輪郭線と同等の強さで描く、言わば線を用いながらかえって面的な表現を取ると言うような特異性を持っている。 人物はこの南泉和尚の描写がもっとも典型的であるが、衣紋線も当たりが強く、濃淡の墨調の変化が巧みに立体感を助長している。 等伯の晩年にしてなお衰えない迫力を見せながら、真体における人物画の一つの典型を示すものである。
 南泉斬猫の画題は、猫のことで僧たちが争うのを見た南泉和尚が猫が猫を斬捨てたところ、一人の僧が足に履いていた草履を頭にのせて立ち去ったという不思議な禅機の一瞬を描いている。

(22)秋景冬景山水図 伝徽宗筆 絹本著色 127.4×55.0㎝(国宝)「金地院蔵」
 両図ともに図中に二つの中国人の鑑蔵印とともに、足利義満の蔵印「天山」が押されて、正に北山御物ごもつであったことを示している。 現在は秋・冬二幅であうが、山梨県久遠寺に伝わる「夏景山水図」もこれと一連の作品と考えられ、当初は四季山水四幅対であったと思われる。 この「秋冬山水図」には能阿弥の「山水皇帝筆徽宗皇帝の筆という伝承も、全く否定されるものではない。
秋景は対角線的構図をとり、崖下大樹のもとで、雲中に放たれた双鶴を遥かに眺める高士が明るく澄みきった大気の中に描かれる。 一方の冬景は巨大な岩塊にとざされた暗い空間に背を向けて立つ高士が描かれる。 自然の猛威に一人立ち向かう人物が大きく、画面を支配するように見えるのは、画家の非凡な腕を示している。 自由闊達な墨線が描出する人物や岩・樹木などの表現の厳しさもさりながら、描き残された空間のもつ余韻・余情の表現は南宋初期の院体画の様式を忠実に示しているとともに、禅味あふれる水墨画をこよなく愛した室町時代人にとってたまらない魅力であった。 

(23)山水図 伝高然暉筆 絹本墨画 123.5×57㎝(重要文化財)「金地院蔵」
落款も印章もないが、古来高然暉筆として有名な図である。 高然暉筆という画家は不思議なことに我が国にのみ知られる画家で、中国の画史画伝には全く知られていない。 
ところでこの図は夏・冬景とも全く輪郭線を用いず、墨色の潤いが広がって形をつくり出すような手法で、画面の七割を占める山の姿が異様である。 これに対して近景の樹木や土坡どば(土手)・家屋にも特に立体感が見られるわけでなく、ただ何となく強烈に寂莫感が漂った図になっている。 このような点からこの図は中国画には類例を求めることは不可能で、高麗末・李」朝初期の朝鮮画人の手になるものと思われる。

(24)渓隠小築図 伝明兆筆 紙本墨画 101.5×34.5㎝(重要文化財)「金地院蔵」
 十五世紀に入ると水墨画の様相が一転し、それまでの人物画に替わって山水図が画題上の主流を占めるようになる。 それも詩画)軸という独特の図が描かれる。 下方に家屋のある山水が描かれ、図上にはそれに因んだ贊詩が多くの禅僧によって寄せ書きされる。 この図も序文と六人の禅僧の贊が付され、その制作動機などを知ることが出来る。 即ち太白真玄の序文によると応永20年(1413)に、南禅寺にいた純子璞という僧が書斎を新造したのを祝って、渓隠と名付けてこの図を造り、周崇・梵芳・元礼・性智・原沖・周奝の六人の僧が贊をし、贈ったのである。 図の筆者こそ明記されず、また印も款もないが、書斎詩画軸として最も形の整った作品である。
 図は水辺に建てられた茅屋ぼうおくを中心に、右方に巨岩と奥深い森、左方に前景の岩と樹木、折りたたまれるような渓流を描き、霞によって距離を表しながら、視線は後方へ導かれる。 そして突兀とこつ(高くそびえる様)とした山塊に受け止められる。 画面中央に主景を前後に重ねる構成は、梁楷りょうかい(南宋の代表的画家)、馬遠ばえん(同左)等の南宋画院の様式を学んだ新しい水墨画、相国寺の如拙じょせつ、周文しゅうぶんの作品とは異なり、可翁かおう以来の古い伝統にならう画風を示している。 筆致も重厚で、多く用いられる点苔ていたい(山水画の重要な技法で、岩石等に着いた苔)がこの図に動きの少ない静かな雰囲気をもたらしている。 古くから筆者を東福寺の画僧明兆と伝えるが、このような画風の特色と製作年から推して、まず間
違いないところである。

(25)鎌倉彫牡丹文様香合 口径31.4㎝、高さ9.7㎝ (重要文化財)
 身の口縁部の内側に立ち上りを持たせ、蓋と見を密着させる合口あわせぐち造りの香合こうごうで、蓋の中央部に少し盛り上がりをもたせる慎重な木地造が目につく。 その厚さも安定している。 塗の技法は彫刻した木地の上に黒漆をかけ、その上に朱漆を塗る。 蓋の内側・身の内側・身の底は黒漆塗のまま仕上げている。 また上から刀で押さえて切ったような、力強い大まかな彫口が他にみられない大きさを持たせている。 堆朱ついしゅ(彫漆の1種で、油を混ぜた漆を幾重も塗り厚い層を作り、文様を彫刻したもの)や堆黒ついこくを模倣しながら、木彫り漆塗りの折衷的な工芸品として登場する鎌倉彫りの中でも、原型に近いものとして貴重である。 合かに咲き誇る牡丹の花と葉を、蓋上面に三つの中心をもちながら一杯に描き、側面へ流れるようにまわされるデザインの優秀さも類品の中で群をぬくものである。 全体として文様化しながら、細部の写実性はすばらしく、作者の非凡な腕を忍ばせるし、大禅刹南禅寺の仏具としてふさわしいおおらかさを持つものである。 

(26)透彫欄間 
  広縁の外の落縁脇障子の上に、竹節欄間両面透彫がある。 寺伝では左甚五郎作というが勿論確証はない。 慶長移築の際に作られたものらしく、よく桃山彫刻の流動的な面白さがよく発揮されている。 内側の竹藪に虎は狭い場所に大きな構図を善く処理しているし、外側の牡丹唐草の文様もおおらさをもつものである。 






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世界遺・西本願寺