朱雀錦
(68-1)南禅寺塔頭「金地院」
 
                        特別名勝金地院庭園・鶴亀庭園

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所在地 京都市左京区南禅寺福地86-12
宗  派 臨済宗南禅寺派南禅寺塔頭
創建等 応永年間(1394~427)、開基 足利義持、        開山 大業徳基)


                              1.歴史
 金地院は、東山三十六峰の一つ南禅寺山(別名独秀峰)の麓にある臨済宗南禅寺派の大本山南禅寺の塔頭の一つである。もともとは、応永年間(1394~1428)室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基だいごうとくき南禅寺68世を開山として洛北・鷹ヶ峯に創建したと伝える。金地院の名称は、釈迦在世時代、須達長者が金を布き土地を買い求めて祇園精舎を造営し釈迦に献上した、その諸堂伽藍の美観が極めて奇麗であったため。金地院と称された、この名を戴いたという。ところが、足利氏と盛衰を共にし、足利氏が滅びるや院門は衰退の一途をたどり、見る影もなくなりました。 
 崇伝が南禅寺金地院に住持した慶長10年(1605)頃、大業の法系に属する彼が南禅寺境内に再興したものと考えられる。崇伝が徳川氏に重用されその権威の増大と共に追々と塔頭金地院の改築増築がおこなわれた。これらの工事のなかでもっとも重要なのは寛永3年(1626)崇伝が国師号を許された直後から着手され3,4年を費やした大工事である。
 この工事は方丈を始め庫裏、お宮(東照宮)、茶室より庭園に及び金地院の面目を一新するものであった。工事が完了したと思われる寛永7年(1630)10月に金地院再興の為に635坪の替地を渡している、このことから、金地院のはなはだしい格調が考えられる。
 工事は先ず新方丈より始められた様である。寛永4年(1627)正月19日の国師日記に「小堀遠州12月13日之返書来、南禅寺作事久右衛門可二申談一由来」とあり、崇伝が江戸より、金地院の工事につき小堀遠州に依頼した返事と思われ、金地院留守役の森久右衛門と相談するとの意である。小堀遠州が金地院の建築に関係し助力したことがわかる。崇伝は金地院作業の吉日、日数を書いて京都に送り、四月10日に、釿ちょな始(事始め)、石居いしずえ(礎石の据え付け時)、柱立はしらたて(柱を立てる時)、棟上むねあげ(棟木を載せる時)等の吉日を書き送った。
 この急速に進捗しつつあった建築が方丈であったことは、五月に崇伝が方丈の書を狩野探幽に依頼し、探幽がこれを承諾している。
 方丈に次いで、寛永4年5月二条城の唐門を拝領し、10月には、これを受取って金地院に引移し、御門として建てた。大方丈に並行して茶室や東照宮の工事も進行した。8月に崇伝が小堀遠州に書を送り「南禅寺金地数寄やくさりの間のさしつ地形なわはり以下頼入由」(数寄は、八窓席、くさりの間は裏茶室のこと)申遣わしている。翌5年の4月には久右衛門から崇伝に「御宮のさしつ」(東照宮の事)を送っている。7年3月には探幽に拝殿の書を申しつけしている。
 庭園は最後に着手され小堀遠州守が指揮したことは崇伝と遠州の庭に関する書状のやり取りが寛永6,7年の日記に散見している。かくしてこの工事は寛永3年に始まり、前後4年を費やして完了した。松平土佐守は膨大な材木を送り、安藤帯刀たてわきは庭石を送ってその工を助けった。諸方の援助にもかかわらず、この大工工事は膨大な費用を必要とした。その為崇伝は秘蔵の墨跡古林清茂筆くりんせいむひつ他一幅を大判三百枚で有馬玄蕃頭に売り工事費の一部にしたのである。
 金地院の現存する大方丈がこの時に竣工したものであることはほとんど疑う余地はない。徳川家光を迎える為に準備した御成殿は、崇伝の歿後、西加茂正伝寺に方丈として移築された。伏見城の遺構を移した小方丈は、崇伝が、金地院を再建する際に使用したもので現在は存在しない。
 この工事は方丈を始め庫裏、お宮(東照宮)、茶室より庭園に及び金地院の面目を一新するものであった。工事が完了したと思われる寛永7年(1630)10月に金地院再興最高の為に635坪の替地を渡している、このことから、金地院のはなはだしい格調が考えられる。
 工事は先ず新方丈より始められた様である。寛永4年(1627)正月19日の国師日記に「小堀遠州12月13日之返書来、南禅寺作事久右衛門可二申談一由来」とあり、崇伝が江戸より、金地院の工事につき小堀遠州に依頼した返事と思われ、金地院留守役の森久右衛門と相談するとの意である。小堀遠州が金地院の建築に関係し助力したことがわかる。崇伝は金地院作業の吉日、日数を書いて京都に送り、四月10日に、釿ちょな始(事始め)、石居いしずえ(礎石の据え付け時)、柱立はしらたて(柱を立てる時)、棟上むねあげ(棟木を載せる時)等の吉日を書き送った。
 この急速に進捗しつつあった建築が方丈であったことは、五月に崇伝が方丈の書を狩野探幽に依頼し、探幽がこれを承諾している。
 方丈に次いで、寛永4年5月二条城の唐門を拝領し、10月には、これを受取って金地院に引移し、御門として建てた。大方丈に並行して茶室や東照宮の工事も進行した。8月に崇伝が小堀遠州に書を送り「南禅寺金地数寄やくさりの間のさしつ地形なわはり以下頼入由」(数寄は、八窓席、くさりの間は裏茶室のこと)申遣わしている。翌5年の4月には久右衛門から崇伝に「御宮のさしつ」(東照宮の事)を送っている。7年3月には探幽に拝殿の書を申しつけしている。
庭園は最後に着手され小堀遠州守が指揮したことは崇伝と遠州の庭に関する書状のやり取りが寛永6,7年の日記に散見している。かくしてこの工事は寛永3年に始まり、前後4年を費やして完了した。松平土佐守は膨大な材木を送り、安藤帯刀たてわきは庭石を送ってその工を助けった。諸方の援助にもかかわらず、この大工工事は膨大な費用を必要とした。その為崇伝は秘蔵の墨跡古林清茂筆くりんせいむひつ他一幅を大判三百枚で有馬玄蕃頭に売り工事費の一部にしたのである。
金地院の現存する大方丈がこの時に竣工したものであることはほとんど疑う余地はない。徳川家光を迎える為に準備した御成殿は、崇伝の歿後、西加茂正伝寺に方丈として移築された。伏見城の遺構を移した小方丈は、崇伝が、金地院を再建する際に使用したもので現在は存在しない。

(1)以心崇伝
 以心崇伝(1569~1633)は、永禄12年(1569)、室町幕府幕臣紀伊守式部少輔一色秀勝の次男として京都に生まれる。 元亀4年(1573)足利義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅亡任官を離れたため、その幼少(当時4歳)の崇伝は、家臣平賀清兵衛に背負われて南禅寺にいたり玄圃霊三でんぼれいさんに託されたと言われている。南禅寺所蔵の名掛帳に天正12年彼が侍者じしゃ(貴人のおそばつき)に転じたことが記されている、まだ16歳であった。鷹峯たかがみね金地院の靖叔徳林せいしゅくとくりんに嗣法(法脈が相続される)、更に醍醐寺三宝院で学ぶ。文禄2年(1593)10月に24歳で摂津福厳寺、11月には相模禅興寺の住職、文禄3年隔厳寺(諸山)、禅興寺(十刹)の公
こうじょう(住持の任命書)をえて、西堂位(副住職)に昇進した、26歳の時である、崇伝が以下に俊才であったか知れる。慶長10年(1605)37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職となり3月には臨済宗五山派最高位南禅寺270世住職となり官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣をたまわった。異例の若さであった。その逸材であったことがしられている。
 慶長12年(1607)円光寺元信と肩を並べて家康に仕え、社寺の問題、外交文書などの事に当たっていた、西笑承兌せいしょうじょうだいが遷化した。翌年慶長13年(1608)崇伝は、相国寺西笑承兌の推薦により徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参画する。慶長17年(1612)元信が65歳で没すると、彼の地位は益々重要なものとなり次第に幕府の中枢に関するようになった。このころから各種法度の制定が多くなったが、崇伝は深くその制定に関与し、諸寺院の法度は悉く崇伝の手になったと言われている。特に」崇伝が大活躍を」したのは豊臣氏の勢力を滅亡させるための大阪両度の役に画策したこと、朝廷勢力の抑圧のための禁中並びに公家法度の制度の制定に当ったことであろう。この問題は江戸幕府に対する」、二大勢力を滅ぼし、または弱めることにあり、幕府の協力な体制確立するためには必要なことであった。このことにより、新知行千石をあたえられ、金地院領は1900石に達し、南禅寺領(892石)の2倍を超える石高となった。
 元和2年(1616)4月17日、家康は駿府で死んだが崇伝は引き続き二代将軍秀忠に仕え、新たに江戸城付近に2000坪の土地を与えられて江戸金地院を築き、江戸の根拠地とした。元和5年(1619)9月15日には天下僧録に任ぜられた。臨済宗寺院管轄権を一手に掌握することになった。

(2)僧録
 鎌倉時代以来臨済宗には二つの大きな流れがあった。即ち、大塔・関山国師の流れを汲む大徳寺・妙心寺の一派と夢窓国師の流れを中心として他の諸流はの結合した五山派がこれである。
 足利氏が政権を掌握すると、禅宗を政治的支配下に置こうとして利用した制度が五山制である。五山派は室町幕府の禅宗支配の封建的組織であつた。
 室町が幕府は禅宗寺院を悉く五山・十刹・諸山・一般寺院の上下関係の組織の中に包括した。大徳寺と妙心寺は幕府からの干渉を逃れるため、自ら「諸山」降格を希望し、それが認められた。
 幕府はこの制度の完成を待って、室町幕府三代将軍足利義満が康暦元年(1379)相国寺内鹿荘院主ろくおんいんしゅ春屋妙葩しゅんおくみょうはをこの僧録司の職に任じて五山派寺院を統括させたことにはじまり、鹿荘院主が代々この職を受け付けて来たものである。戦国時代に入り幕府兼力がの凋落と共に僧録の権威もまた弱まってきたが名目的には慶長末年まで存在した。元和元年(1616)江戸幕府は、僧録を一旦敗死し、やや時間を置いてここで崇伝を新たにこの職に任命した。以後明治維新まで金地院住持が僧録に任ぜられ二十代に及んだ。
 幕府は新しい僧録を頂点として禅宗寺院の強力な統制組織の再編成を行ったのである。寛永6年(1629)大徳寺沢庵以下が紫衣勅許問題によって配流される」事件が起き、これに関連して後水尾は突如譲位される」ことになった、これは僧録の権限強化と兼ねて朝廷の勢力を抑圧するためであった。これより先寛永3年(162610月朝廷より円照本光の国師号をたまわった。家康・秀忠・家光三代に仕え江戸幕府の宝冠体制確立に貢献した崇伝は寛永10年(1633)正月病床につき20日華々しい生涯を閉じたのであった。
(3)紫衣事件
 紫衣事件しえじけんは、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和各室とみなされる事件。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えており、朝幕関係に深刻な打撃をあたえる大きな対立だった。
 紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表すものである。これにたいし、慶長18年(1613)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫及び朝廷と宗教界の関係総体化を図って、「勅許紫衣法度」を定め、更に慶長20年(1615)には禁中並びに公家諸法度をさだめて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授ける事を禁じた。
 このように、幕府が紫衣の授与を規制したにも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に計らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。三代将軍徳川家光は、法度法の違反と見做し、勅許状の無効を宣言した。
 幕府の強硬な態度に対し、朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対しまた、大徳寺住職沢庵宗彭そうほうや妙心寺東源慧等とうげんえとうら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗議した。寛永6年(1629)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪にしょした。
 この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職お一つに過ぎなかった征夷大将軍が、天皇よりも上に立つことを意味している。この、「勅許紫衣法度」や「禁中並公家諸法度」の原稿を作成したのは、崇伝であつと言われている。

(4)明治維新
 明治維新の指導理念は尊王思想であった。尊王思想の発展が倒幕運動となった。最もこの背景には社会経済的発展があったことは勿論でが、強く前面に現れなかった。尊王倒幕の思想は江戸時代の儒学の持つ尊王斥覇のしそうからも、また反封建社会てき性格をもった蘭学にもあったが、主流となったのは、国学の発達がもたらした偏狭な国粋主義的神藤主義であった。それゆえに維新政府の政策は神道偏重に陥ると共に南禅寺で前述したごとく、復古的性格を強くもった。神武の古に帰ることがさけばれ、外来宗教の排斥が無批判に行われた。千数百年来神道と融合し日本文化を形成してきた仏教さえ排斥されいわゆる神道分離の仏教の受難時代が到来したのである。
 明治維新となり260年の永きにわたった江戸幕府も大政奉還により終焉を告げ、王政が復古し、新政府のもと、可庭徳亘かていとくこうは僧録職辞退を願で、事実上の廃止とった。かくして可庭徳亘は五山を統括する役目は終わり、金地院も京都と東京はそれぞれ独立し現在に至っている。
 また、1900石の禄高も上知により無禄となり境内も上知により約半分程に狭められたが、方丈、東照宮、八窓席など重要な伽藍及び庭園は創建当初変わらぬ寺観を保っています。小方丈は明治初年、法縁の神戸の禅昌寺に移築されたが、明治44年に焼失した。

 
 

            対龍山荘庭園・名勝                       無鄰庵庭園・名勝
上知された境内地は地続きの西隣、対龍山荘である。対龍山荘は、明治29年(1896)に薩摩藩出身の伊集院兼常が所有し邸を建築、庭園の一部と茶席は現在ものこる。後に、明治34年、彦根出身の亰呉服商、初代市田弥一郎(1843~1906)が所有して、近代を代表する庭師七代小川治兵衛(通称植治うえじ)による日本庭園(名勝)と贅を凝らした数寄屋造りの建物は東京の大工島田藤吉により建築された。以後「教数寄屋名邸十撰」にも選らばれる名建築となった。尚、敷地面積は約4000坪である。
 2010年11月から株式会社ニトリホールディングスが保有している。
 近隣の旧南禅寺境内の南禅寺塔頭跡には、無鄰菴むりんあん(山県友朋別邸・七代小川治兵衛作庭園・名勝)、何有荘かいうそう(旧稲畑勝太郎邸・第七代小川治兵衛作庭園)、碧雲荘へきうんそう(「二代目野村別邸」(重文)・小川治兵衛作庭園)など現在に残る南禅寺界隈別荘群があり、その主要な庭園の殆どが明治維新後に築造されている。


                              2.建物
(1)本堂(大方丈)重要文化財
 本堂は、桁行11間、梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈の典型的な六間取である。即ち前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」。西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)・手前が「次の間」(檀那の間)東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となる。「富貴の間」の奥は床を一段高めた上段うぇお設け、床、棚、付書院を設けている。
 各室の襖や障子腰板には狩野派による金地の障壁画がある。障壁画の主な画題は「富貴の間」が松、「次の間」が松、梅、牡丹、「室中」が唐人物、「鶴の間」が鶴、「菊の間」が菊などである。
 障壁画制作は崇伝から狩野探幽に委嘱した記録が「本光国師日記」にあり、画題の選定は探幽が行ったものであるが、探幽が自ら作画に携わったか否かについては同日日記は伝えていない。武田恒夫らの研究者は、探幽の指揮のもと、実際の作画は富貴の間・次の間は狩野尚信が、室中・鶴の間は狩野信正が担当したと推定している。
 本堂正面に掲げられていつ「布金道場」の書は山岡鉄舟の筆である。明治初期に巻き起こった廃仏毀釈から守るため仏教寺院ではなく道場である旨を表したものである。

 
 

          大方丈・室中(重要文化財)                大方丈・次の間と富貴の間(重要文化財)
(2)東照宮(重要文化財)小堀遠州作
 徳川家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っている。幕府の公式記録である「徳川実紀」によれば、家康は元和2年(1616)4月2日、則近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にておこなわれ、霊牌は三州大樹寺に置かれ、御周忌終えて後下野の国日光山へ小堂を造営して祭尊すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂を営み、所司代はじめ武家の輩進拝(拝進)せすむべし」と遺言したという。江戸時代には京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていた。
 崇伝と並んで家康の顧問をしていた南光坊天海と家康の死後、神々として久能山に祀る際の神道をめぐって確執がありました。崇伝は吉田神道により大明神として祀るべきであるとし、天海は山王神道によって権現としてまつるべきと主張し、お互いに論戦を繰り広げたが、結果として天海僧正の主張する権現として祀ることになりました。崇伝はこの件により、一時活動を控えておりましたが、すぐにもとに復帰し、以前にもまして将軍の信任をえることになりました。
 その家康公の坐像を祀る東照宮社殿は寛永5年(1693)に造営され、拝殿は総漆塗、相の間・本殿は柱や梁を丹で、壁や扉は白・黄・緑といった極彩色で彩られた。また、拝殿の天井は狩野探幽(1602~1674)の筆による「鳴龍」が描かれており、更に三十六歌仙の額が四方にかかげられていますが、絵は土佐光紀(1617~1691)筆、和歌は青蓮院四十八世門跡尊純親王(1591~1653)筆であう。当時の超一流の芸術家が担当している。しかし、近年、その落剝の度合いが甚だしく、たまたま来訪された大阪在住の黒田正夕しょうせき(1920~2012)画伯がみずからその謹写を申し出られ、その厚意により無償で新しい三六枚の額が見事に完成し、360年あまり、東照宮に彩を添えた元の36枚歌仙の額は修復して収納庫に保管し、装いを新たにした三十六歌仙の人物と和歌が、古い遠い昔のよき時代が蘇ったかのごとく華やかな雰囲気を醸し出しております。

 
 

                    東照宮・重要文化財                             権現造
 建築様式は権現造である。当様式は、平安時代北野天満宮に初めて採用された神社建築様式の一つで、当初は石の間造と呼ばれていた。 その後、時代は下り桃山時代に豊国廟(現存しない)に採用され、続いて江戸時代に入ると、久能山東照宮、日光東照宮等に採用され、以後権現造と呼ばれている。
 構造は、本殿と拝殿の二棟を一体化し、間に「石の間」とよばれる一段低い建物を設けるのが特徴。入母屋造・平入りの三棟を、入母屋造・妻入りの縦の棟で串刺し状に一体化している。

(3)開山堂
 以心崇伝は、寛永10年(1633)1月20日、江戸金地院で示寂し、荼毘に付され、遺命により、1月下旬に京都に遷骨し、この開山塔に葬られました。堂の正面に後水尾天皇の勅額がかかげられている。その奥には五山僧で、俊才の面影のある本光国師像が祀られています。そして崇伝を外護するかのように左右庁側に16羅漢像が安置してあります。

 
 

                開山堂                                 明智門
(4)明智門
 天正10年に明智光秀が母の菩提の為黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したので、それまで金地院にあった国宝級の唐門が豊国神社に移築されたため、大徳寺から明治19年(1889)に買得し、現在地に移築した。
 織田信長亡き後の桃山時代、名だたる戦国武将を打倒し、天下統一の偉業を成し遂げた豊臣秀吉。日本全土を平定したその男は、死後に豊国大明神ほうこくじだいみょうじんという神号を賜り神となった。江戸時代、江戸時代、徳川家康が豊臣宗家を滅ぼした後は、江戸時代を通じて秀吉を神として祀ることが禁止された。
 明治に入ると「天下を統一しながら幕府をひらかなかった尊王の功臣」として評価され、かって秀吉が創建し、大仏殿を築いた方広寺の境内に豊国神社がひらかれた。 その拝殿前に建つ唐門は、伏見城の遺構とされている。漆を塗り、彫刻や飾金具を施した豪華絢爛な唐門は、桃山文化を代表する建築物の一つとして国宝に指定されている。

(5)八窓席・小堀遠州作(重要文化財)
 南禅寺金地院の「八窓席」は曼殊院の「八窓軒」。大徳寺菰篷庵こほうあんの「忘筌席」ぼうぜんせきと共に京都三名席にかぞえられています。

 
 

             八窓席・小彫遠州作(重要文化財)                        同左・躙口
 小堀遠州が金地院崇伝の依頼を受け、金地院に依然あったものに手を加えたもので、寛永5年(1628)ころまでに完成したと考えられています。
 外観は杮葺こけらぶきの片流れ屋根、木造草庵の茶室である。この茶室は草庵造りで、周りは13畳書院、8畳、6畳の室に囲まれています。この8畳の座敷に長谷川等伯の描いた、「「老松図」と「猿猴捉月図」の襖絵があります。
 3畳台目の平面で。亭主の着座する手前座と床の間が並んだ形式となっています。床柱が赤松皮付き、相手柱が檪くぬぎの皮付き、そして床画框とこかまちは黒漆が塗られています。床の間と手前座との境の壁に墨跡窓ぼくせきまどがあけられています。手前座は、いわゆる台目かまえという形式です。台目切に炉が切られ、椿の中柱が立てられ、袖壁には下地窓が開けられています。
 この茶室の特徴は、手前座の迎いに開けれた躙り口の位置です。通常ならば端に寄せて開けられるところが、壁の途中にもうけられています。調度天井も平天井と化粧屋根裏天井を分ける位置です。躙り口は、刀を置き、頭を下げ、体を小さくして入る、客用に設けられた出入口で、侘び茶には欠かせない要素で、平等を表現する物で会う。一方これに加えて遠州は、封建社会の秩序を茶室に体現するため、躙り口の左右で空間の上下、つまり貴人座と相伴席に二分しました。茶の湯の理念と封建秩序をあわせた形式となっています。また一般的に躙り口は露地から直接上がり込む形式ですが、ここでは縁に接して設けられています。
 なお、この茶室には多くの窓があります、外に面しては三つの連子窓と一つの下地、そして床の間と手前座の袖壁です。八窓席と称しながら六つの窓しかありません。八という数字は多くの数という意味があります。 

(6)金地院庭園「鶴亀の庭」(特別名勝)
 寛永3年(1626)から始まった大改造増築工事の最終工事として、寛永6年頃、、造園工事に着手した。以心崇伝はこの金地院の再建にあたり、庭の作庭を小堀遠州に依頼した。しかし、この頃の小堀縁主は江戸城西の丸庭園や仙洞御所の普請で多忙を極めており、小堀遠州が設計し、庭作りの名人賢庭けんていが実際の作業を指揮して、寛永9年(1632)頃完成させた。遠州が細部にいたるまで細かい注文を出し、賢庭がそれを忠実に実現したと言われている。
 金地院の「鶴亀の庭」はとてもシンプルな構成です、手前の白砂には石を全く配置しない枯山水、奥には三尊石や遥拝石ようはいせきなどの蓬莱蓮山と中心に、左右には亀島と鶴島の石組みを配置しているのが特徴てきです。
 金地院の鶴島は鶴の首石がとてもおおきくて迫力があります。この鶴の首石は、もともと石橋にするつもりだったのを、小堀遠州のひらめきで鶴首石に」したそうです。
 そのため鶴島全体が大きく迫力があります。鶴の首石の先端に括れた箇所がある。解説者の説明によると嘴だという。ヒヨコが餌をねだって嘴を開いた形にもにている。この鶴首石は安芸城主・浅野家から送られたもので、船と陸路を牛45頭で運ばれてきたそうです。その右の土盛は鶴島でその岸は羽石が三尊形式で組まれ、その姿は鶴が巣篭もりしている姿だといわれます、見る人により、場所により時間によりイメージが変わるのが日本庭園の特徴です。
 東照宮の高地の山林が大刈込となり深山幽谷を表しています、中心の蓬莱連山に当たる部分で、灯篭の横にある石が三尊石、その前にある平たい大きな石は、位置的にイメージが湧きにくいが、遥拝石です。その左側の石組みは亀島で、亀島は海に潜ろうとする亀の姿をあらわしたものである。その亀島には樹齢400~500年のビャクシンが植えられています。

 
 

            金地院庭園・亀島                          金地院庭園・鶴島

(7)小堀遠州
 小堀氏の本姓は藤原氏で、平将門追討で武功を立てた藤原秀郷(生死不詳)の後裔に当たる。左近将監光道のとき、小堀村を領し、初めて小堀氏を名乗るようにあった。
光道より6代下った小堀正次(1560~1604)は、はじめ縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573)浅井長政滅亡雅後は、羽柴秀長の家臣となった。天正13年(1585)、秀長が郡山城に移付されると、正次は家老となり、3千石を領した。
 この頃、秀長は、山上二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は亰・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務

)小堀遠州
 小堀氏の本姓は藤原氏で、平将門追討で武功を立てた藤原秀郷(生死不詳)の後裔に当たる。左近将監光道のとき、小堀村を領し、初めて小堀氏を名乗るようにあった。
 光道より6代下った小堀正次(15601604)は、はじめ縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573)浅井長政滅亡雅後は、羽柴秀長の家臣となった。天正13年(1585)、秀長が郡山城に移付されると、正次は家老となり、3千石を領した。
 この頃、秀長は、山上二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は亰・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出合長い親交を深めていった。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗圓しゅんおくそうえんに参禅した。
 秀長の死後、文禄4年(1595)に秀吉直参となって伏見に移ることになった、ここで政一は吉田織部に茶道を学ぶことになり、第一の弟子と称された。
 慶長3年(1598)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの劫により備中松山城を賜り、慶長9年(1604)、父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。
慶長13年(1608)には駿府城普請奉行となり、修築の劫により、慶長14年(1609)従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
 晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斉らの口添えにより不問とされた。
 その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、しょうほ年(1647)2月6日、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。
 なお、子孫は松平定信により天明8年(1788)に改易の浮き寝に遭い、大名家としての小堀家は断絶した。文政11年(1828)に300俵小普請組としてむかえられ、茶道を教授するなどして再興した。

 3.その他の文化財

 
 

         猿猴捉月図・長谷川等伯筆                     老松図・長谷川等伯筆

(1)猿猴捉月図・長谷川等伯筆
 金地院方丈の背後に狭い、中庭をへだてて、京都三名席の一つ、八窓席がある。この建物は田字形の四室構成で北側に八窓席とその控え室有る。指図では茶室を数寄屋、裏茶室をくさりの間としている。南側の東に八畳の間。西に十二畳の間がある。
 「猿猴捉月えんこうそくげつ図」の襖絵4面は、南側八畳の間の西側に嵌め込まれている。この「猿猴捉月図」は、摩訶僧祇律まかそうぎりつ[仏教の大衆部]に登場する「猿猴捉月」からくる言葉です。池の水面に映る月の像おつかもうとした猿が池におちて溺れ死ぬという話で、目先の幻影にまどわされて破滅する愚か者の例としての用例です、己の実力を顧みずに手をだして失敗するという意味がある。

(2)老松図・長谷川等伯筆
 老松図は、南側東室の北側(二間)に老松図の主要部を描いた襖絵四面があり、その向かって左側の枝先が西北側の壁面をへだて襖二面に」つながっている。こうっした変則的な配置が当初のでないことは明らかである。現在存在しない建築物の中に、御成御殿と小方丈がありそのいずれかの襖絵であった可能性があるのではなかろうか。この「猿猴捉月図」4面と「老松図」6面の10面の水墨画は近年になるまで無名の存在であったが、土居氏が、「仏教美術」誌上でこの襖絵を取りあげ、様式・手法之』皮革において等伯の傑作の一つであると発表されて以後話題となった。

 
 
 

          渓陰小築図                    秋景山水図             山水ず・伝高然暉筆
       伝明兆帳筆(国宝)                 伝徽宗筆(国宝)             (重要文化財)
(3)渓陰小築図 伝明兆筆(国宝)   紙本本墨画101.5×34.5㎝
 15世紀に入ると水墨画の様相が一転し、それまでの人物画にかわって山水画図が画題上の主流を占めるようになる。渓陰小築図けいいんしょうちくずは、応永20年(1413)作の詩画軸しがじくである。詩画軸は、絵画とこれに関連する漢詩を1つの掛軸に表し、書画一致の境地を表すものである。本図は南禅寺の僧であった子璞しはくの書斎に「渓陰けいいん」となずけたのを祝、知人が子璞の心の中の書斎を描いたとされる。太白真玄だいはくしんげんが序を書き、大岳周崇だいがくしゅうすう、玉畹梵芳ぎょくえんぼんぽうら6人の著 名な五山僧が題詩をよせている。書斎図(書斎を題材とした詩画軸の一種)の現存最古の作品として知られている。これ等は実際の書斎をえがいたのではなく、現実には市中に住みつつも世俗を離れた、いわば理想の心象風景として描きだしている。
 図は水辺に立てられた茅家かややを中心に、右方に巨岩と奥深い森、左方に前景の岩と樹木、折りたたまれるような渓流を描き、視線は後方へ導かれる。画面中央に主計を重ねる構成は、如拙じょせつ(生没不明、南北朝~室町時代に活躍)や周文しゅうぶん(生没不明、室町中期に活躍)の作品と異なる、可翁かおう(生没不明、鎌倉末期~南北朝期に活躍)以来の古い伝統にならう画風を示している。筆致も重厚で、多く用いられる点苔てんたい(東洋画の技法の1つ。岩石・枝幹などの苔を点によって表現すつもの。)がこの図の動きの少ない静かな雰囲気をもたらしている。
                                                          東京国立博物館に寄託。

(4)秋景冬景山水図 伝徽宗筆(国宝)絹本著色127.4×55.0㎝
 秋景冬景山水図ともに中国北宋八代皇帝徽宗きそう筆と伝わる作品であるが、実際には、南宋時代12世紀の作品と推定されている。足利将軍所蔵の東山御物に含まれるからもので、「御物御画目録」にも記されている。山梨県身延町の久遠寺に伝わる夏景山水図(国宝)と今は失われた春景山水図の四幅一対の四季山水であったと言われる。
 秋景は対角線的構図をとり、崖下大樹のもとで、雲中にはなたれた双鶴を遙かに眺める高士こうしが明るく澄みきった大気の中に描かれる。一方の冬景は巨大な岩塊に閉ざされた暗い空間に背をむけて立つ高士が描かれる。自然の猛威に一人立ち向かう人物が大きく、画面を支配するようにみえたのは、画者の非凡な腕を示している。自由闊達な墨線が描出する人物や岩・樹木などの表現のきびしさもさりながら、描き残された空間のもつ余韻・余情の表現は南宋初期の院体画の様式を忠実に示しているとともに、禅味溢れる水墨画をこよなく愛した室町時代の人にとってたまらない魅力であいった。

(5)山水図・伝高然暉筆(重要文化財) 絹本墨画123.5×57.0㎝
 落款も印章もないが、古来高然暉こうねんき筆として有名な図である。高然暉という画家は不思議なことに我が国にのみ知られる画家である。中国の画史画伝には全く知られていない。このような例は張有声とか何人かいる。
 この図は夏・冬景ともに全く輪郭線を用いず、墨色の潤いが広がって形を作りだすような手法で、画面の七割を占める山の姿が異様である。これに対して近景の樹林や家屋に立体感が見られるわけでない。


参考文献
*古寺巡礼京都12南禅寺   著者 杉森久英、勝平宗徹、桜井景雄  発行所;淡交社
*新版古寺巡礼京都24南禅寺 著者 中村文峰、児玉清、高野澄    発行所;淡交社
*南禅寺史          著者 桜井景雄            発行所;法蔵館
*亀山法皇700御忌記念南禅寺   編集:東京国立博物館、京都国立博物館 発行所;朝日新聞
                  朝日新聞
*禅と建築・庭園       著者 横山正             発行所;ペリカン
*辻惟雄集3         著者 辻惟雄             発行所;岩波書店
*亰の古寺から金地院     著者 佐々木玄龍           発行所:淡交社


 


 


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世界遺・西本願寺