朱雀錦
(68-2)金地院関連日光東照宮
                        日光東照宮陽明門(国宝)

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所在地 栃木県日光市山内2301
祭神等 徳川家康 (相殿)豊臣秀吉・源頼朝 社格;別格官幣社


                       Ⅰ日光東照宮の歴史

1)家康の薨去と遺言
 徳川家康は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで親豊臣派を破り、天下統一をなしとげ、江戸幕府を開いた。慶長10年(1605)将軍の座を二代秀忠に譲り、自らは大御所として駿府にあったが、恒久平和のための施策の仕上げは死期を迎えるまで続けられた。
 元和2年(1616)1月21日、駿河の田中(静岡県藤枝市田中)に鷹狩りに出かけた際、田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供された鯛の天麩羅を食した。これが家康の死因とする説がある。その夜俄かに発病し、同月25日駿府へ帰城した。その後小康状態を得た時期もあったが、4月になると病状は悪化の一途をたどり、自ら死期の迫ったことを悟った家康は数々の遺言を残している。4月2日頃には本多正純、南光坊天海、金地院崇伝を呼んで、死後の処置について遺命を伝えている。その内容は崇伝の日記(「本光国師日記」)によれば
  一両日以前、本上州・南光坊・拙老御前へ被為召、被仰置候ハ、御体を葉久能へ
 、御葬礼をハ増上寺ニて申付、御位牌をハ三川之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後、
 日光山に小堂を建て、勧請し候へ、八州之鎮守に可被為成との 御意候。皆々涙をな
 がし候。
とある。即ち「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺には位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」そして、神に祀られることによって「関八州の鎮守になろう」と指示したのである。
 4月4日には外様大名を病室に集め、「現在のところ将軍秀忠がいるから、死後も心配ないが、もし将軍の政治に誤りがあれば、皆が変わって政権を担当せよ。天下は一人のものではなく【天下は天下の天下】であるから恨みに思わない」と言明している。これは、自ら樹立した政権に対する自信のほどを語っただけでなく、政権担当者のあるべき姿勢をも示した言葉である。それは、ほぼ同じころ、秀忠にたいして、「天下の政において、いささか不道あるべからず」と道に外れた政治をしてはならないと訓示していることからも明らかである。その一方、将軍の命令に背くのはたとえ一門や譜代の家臣であろうとも、誅伐せよとも指示している。
 家康は徳川政権の永続を切に願いはしたが、それは単に自分の子孫の安泰だけを考えていたものでないことが知れよう。天下統一に至る過程で、どれだけ多くの血が流されたかをだれよりも知っていたのが家康その人であつた。それ故に再び戦乱の世に逆戻りすることがないよう、考ええるあらゆる策を施したのである。その仕上げとも言うべきものが、神に祀られることであつた。


(2)久能山葬送
 家康は4月17日の巳刻(午前10時頃)駿府城において75歳の生涯を閉じた。遺骸は遺言に従いその夜のうちに久能山に移された。霊柩には本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝の四人が供奉ぐぶ(行列に加わる)、将軍秀忠の名代に土井利勝、徳川義直・頼宣・頼房のそれぞれの名代として成瀬正成・安藤直次・中山信吉田がこれに従った。崇伝・天海・梵舜らが葬送を執行するためこれに供奉した以外は、一切山に登ることは禁じられた。その夜はしとしと雨が降っていたという。
 これより先、駿府の町奉行彦坂光正・黒柳壽学、幕府の大工頭中井大和守正清らは久能山にのぼり、仮殿の経営に従事し、19日には仮殿が竣工した。
 19日の夜に行われた御遷座の儀式は、灯明を一切消した中で、まず将軍秀忠をはじめ家康に近仕した老臣のほか数百人が葬送の行列を整え、家康の柩を仮殿に移した。続いて榊原照久(徳川氏の家臣で久能山の城番)が神饌を供え、梵舜が三種の加持、三種大祓に続いて祝詞を奏上、次いで奉幣を行い、参列した諸老臣が拝礼して遷座祭を終えている。
 22日、将軍は再び久能山にのぼり、中井正清に御本社を急いで建立するようにめいじている。本殿ほかには拝殿・巫女屋・神供所・舞殿・御厩・校倉・神籬ひもろぎ・楼門を供えるようにとのことであった。さらに、これらの社殿が竣工するまでは人々の参拝は禁じられ、山下に番所が設けられることになった。
 一方、法要を営むようにと遺言のあった江戸芝の増上寺では、4月中に霊廟が造営され、安国院殿徳蓮社崇與道和大居士の法号が奉られた。翌5月4日には「七七日の法要」が更に17日から月末まで御法会が行われ、将軍秀忠も参列した。この法要には武蔵国内の僧侶の参加が許され、毎日千人からの僧侶が読経した。しかし、神として祀られることが本来の主旨であるので、仏式の法要は徳川家内々のことであるとして、諸大名からの香華料などの献上も禁じられた。
 一方、三河の大樹寺にも使者が派遣されて法要がおこなわれている。

(3)日光山への遷座
 1年後に勧請せよ、と遺命のあった日光山は、奈良時代から山岳宗教の霊場として栄え、中世には源頼朝が領地を寄進するなど崇敬をささげ、戦国期には壬生・鹿沼と合わせ三千騎の兵力を有していた・そのため度々騒乱に巻き込まれ、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原北条氏攻めのときに、日光山の勢力は北条氏の見方をしたために、秀吉の怒りを受けて領地を没収され、荒廃していた。
 日光山中興の祖と称される天海が、家康の命令で貫主として入山したのは、東照宮が造営される三年前」の慶長18年(1613)のことであった。
 日光山における東照宮の造営は、元和2年1026日「下野国日光山に神廟構造あるべし」との将軍の正式な命が下り、天海・本多正純・藤堂高虎らが日光に登り、社殿を造営する土地の選定が行われている。造営奉行は藤堂高虎・本多正純、日根野義明ら四人が添奉行となり、設計・施工は久能山と同様に中井大和守正清が担当し、工事が開始され、翌年三月十五日に予定どおり完成している。
 これに先立つ2月21日、東照大権現の神号が勅賜され、3月9日には東照宮を正1位に叙せられた。
 日光山における社殿の造営が竣工した元和3年3月15日、久能山に天海が先達となり登山し、遷座のために家康の御尊骨を納めた神柩が金輿に移され、本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝・永井直勝・榊原照久らが三百余騎、雑兵千人を率いてこれに供奉して日光へむかった。将軍名代として土井利勝、御三家の名代の成瀬正成・安藤直次・中山信吉のほか、僧侶や公家も随行している。この行列は、騎馬はもとより行列に従う全てのものがきらびやかに装ったという。
神柩は4月4日、日光山の座前院に着き、同八日に億院の岩窟に安置された。同14日、御神霊は一旦御仮殿に遷され、16日深夜、御本殿に遷宮された。翌17日は将軍秀忠参列のもとに祭礼が行われ、ここに正式に東照宮が鎮座したのである。

(4)日光の東照宮
 日光東照宮は、日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮の区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。

 大御所徳川家康は、元和2年(1616)4月17日に没した。その霊廟である日光東照宮が下野国日光山内に鎮座したのは翌3年(1617)4月のことである。鎮座の根拠は、家康自身が死の直前に本多正純と南光坊天海、金地院崇伝を呼出して述べた遺言にある。
「 家康没後、遺骸を駿河国久能山(静岡県静岡市)に納める事、葬礼を徳川将軍家の菩提寺である浄土宗三縁山増上寺で執行し、位牌を三河国岡崎にある松平家累代の菩提寺浄土宗大樹寺に立てること、さらい一周忌を過ぎた後に日光山に小堂を建立して勧請することが求められた。正純・天海・崇伝はこの遺言に家康自らが「八州之鎮守」すなわち、関東に樹立された徳川将軍の政権を護持する守護神になろうとする意思をみたのである。」
 家康の遺言は、その没後、二代将軍秀忠によって直ちに実行された。そして翌元和3年4月の①周忌には日光への遷宮へと至ることになる。その間の家康の神格化を推進したのは天海である。ただし、神号の勅許は天海や幕府側の意向通りではなかった。神号と院号が同時に出された例はない事、日光山に日光権現(二荒山権現)がすでにあり、重ねて権現の名を有する神を祀ることはできないこと、朝廷側は先例と照らし合わせて議し、最終的に、権現号の勅許を決定したものの院号の授与については拒否することに決した。この結論は、713日天海につたえられた。
 九月になると勅使として武家伝送広橋兼勝・三条西実条が京都から下向した。こうして10月3日江戸城において勅使から将軍秀忠に神号勅許の宣旨が正式に伝えられた。  家康の神柩は元和3年3月15日、久能山に置いて金輿に遷されて出発した。4月4日には日光御留守禅院の屋敷に入り、仏生会(釈迦の誕生日)に当たる4月8日、「奥院石窟」に安置された。そして同月14日、天海が本坊とする光明院内に建設された仮殿に神霊が遷され、宣命使中御門宣衡により、神号を授ける2月21日付けの後水尾天皇宣命が捧げられた。この時後水尾天皇の名の下に東照大権現という神格が成立したのである。元和3年(1617)4月171年忌に正遷宮が執行された。

(5)寛永の大造替
 徳川家光(16041651、在位162351)は江戸幕府第3代将軍で、第2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江、である。
 慶長9年(1604)秀忠の次男として生まれる。長男・長丸がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられた。幼少時の家光は病弱で、容姿も美麗とは言えなかったといわれる。慶長11年(1606)に弟国千代(忠長)が誕生すると容姿端麗才気渙発な忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた乳母のお福(春日局;明智光秀の重臣斉藤利三の娘)がひそかに江戸城を抜けだしては駿府の家康に実情を訴えた。 これを受けて家康は、江戸城に来場した。家康の来場をうけた江戸城では将軍夫妻以下饗応席を設けて、歓迎したそのとき、家康は竹千代と国千代との席が同列になっているのをみて大変機嫌を損じ、国千代つきの女中に向かって、竹千代は将軍の後を継ぐ身であり、国千代はその家来になる身である。それを同席にするのは言語道断である。早速国千代の座をひくように、人間は幼少よりしつけが大事である。もし嫡庶の別が定まらなければそれは国が乱れるもとであると教えたのである。
 家光は、21年周忌に当たる寛永13年(1636)に寛永の大造替を行った。21周忌に合わせたのは伊勢神宮の20年の式年遷宮に習ったものでした、偉大な祖父を深く崇敬する家光にとって受け継いだ徳川幕府の遺構を改めて天下に示し、政権をより盤石にするため、かねてから念願していた大事業であった。同時に家光は、東照宮の祭祀にも積極的に関与し、東照大権現の神格化の強化と祭祀の思想的な意味づけを深化・確立させた。
 この大造替も宗教的・思想的構想は天海が総括し、秋元泰朝やすともが総奉行、幕府仕事方さくじかた大棟梁高良宗広こうらむねひろが一門を率いて設計・施工・彫刻をうけもった。建築内の彩色や壁画の製作は狩野探幽とその一門の絵師たち、鋳物は椎名兵庫しいなひょうご、鍛金たんきんは長曽根俊乗ながそねしゅんじょう、さらに蒔絵、石工などに当代随一の名匠・名工が当たった。
 建物としては、表門、西淨さいじょう(便所)、御水屋みずや、鼓楼、坂下門などを新たに加えただけで、元和創建時の素朴な社殿の規模をはるかに凌ぎ様式を一新して普遍性を供えた絢爛豪華な社殿に造り替えた。建築費用についは、家光から「おかまえなし」いわゆる無制限が許されていた。造営の決算書とのいうべき「日光東照大権現様御造営御目録」によれば工期はわずか1年5か月、総工費56万8千両、銀100貫目、米1000石。建物や彫刻に使われた金箔は2485500枚、材木14万本、述べ454万人が工事に従事した。これらの費用は、現在の価格にして2000億円以上にもなると言われ、全て家光の手元から支払われた。
 この2000億円が妥当かについて各種の意見があつ。
 ① 1両=20万円とすると、約57万両×20万円/両=1140億円
 ② 当時のGNP2.8%あったとの計算がある。現在のGNP500兆円とする
   と  500兆円×2.8%=14兆円となる。
  寛永13年(1636)4月17日、家光を迎え御神体を本殿に遷す正遷宮しょうせんぐうがおこなわれたが、その後も各種の補足工事が続いた。
 今日に見られる東照宮の規模は、ほぼこの寛永の大造替時に形づくられた。東照宮の建造物の特徴は安土桃山の豪壮華麗な手法に加え、江戸時代初期に飛躍的な発展を遂げた繊細優美な手法な美術工芸の新技術を駆使して装飾を施し、かつ強烈な色彩や金具などを用いながらも土地の高低に応じて諸社殿の配置に配慮し、寒冷多湿という日光の気候風土を考慮した工夫がなされている。いわば東照宮は伝統と革新が融合した江戸時代初期における日本文化の集大成である。
 現在、日光東照宮の建造物は55棟、境内にある国指定文化財の建造物は42棟、本社、陽明門など8棟が国宝、他の34棟が重要文化財に指定されている。世界でも高い評価を受けている日光東照宮は平成11年(1999)に二荒山神社と輪王寺、それら周辺の自然環境も含め世界遺産に登録された。

Ⅱ.建造物 
 元和2年(1616)から享保5年(1720)まで約100年に造営された徳川家霊廟建築は実に17に及ぶ。それらはいずれも多彩な彩色・彫刻・金工・石造物によって装飾されている。
 これらのうち共通点は将軍秀忠が造営した紅葉山東照社を除き、中心に配置された霊屋に権現造建築を採用するところにある。権現造建築とは、本殿と拝殿を石の間により繋いだ工字型の複合社殿建築を示す。また将軍の柩を納めた霊廟ではいずれも、権現造建築による霊屋から延びる石段上に宝塔とその拝殿などから成る奥院の建築が配されている。 即ち、権現造建築と奥院建築の二区域から構成されているのが徳川家霊廟建築の基本構成である。
 日光東照宮の中心社殿は権現造建築である。その源流は、北野神社にある。北野神社は大宰府への左遷後恨みを残し歿した菅原道真お怨霊を鎮めて祭神とした御霊信仰の社である。北野神社は豊国神社の造営以前は権現造建築を有す句唯一の神社であった。その社殿建築は当初八棟造と称されていた。
(1)神橋しんきょう(重要文化財)
 日光国立公園の入口となる大谷川の清流に古くから神聖な橋として架けられたのが神橋です。橋の長さは28㍍、幅7.4㍍、水面からの高さは10.6㍍あります。
 神橋はアーチ形の木造反り橋で、その構造から錦帯橋きんたいきょう(山口県岩国市)、猿橋さるばし(山梨県大月市)と並んで江戸時代日本三奇橋の一つに数えられています。
 橋の起源は天平神護2年(766)日光開山の祖勝道上人が大谷川を渡れず困っている時、深沙王じんじゃおう(毘沙門天の化身で橋渡しの神)が現れて2匹の大蛇を放つと絡み合って橋となり、蛇の鱗に山菅やますげ(ヤブランの古名)が生え渡りやすくなったということから「山菅の蛇橋」とも呼ばれています。
 初期の構造は「乳の木」と呼ばれる橋げたを両岸の穴に埋め、補強材で支える「はね橋」形式であったが、江戸時代になって東照宮が造営されると寛永13年(1636)に日光山の表玄関にふさわしいように大造替が行われ石造の橋脚に切石を用いて補強されました。この結果、新しい神橋の形式は一新され、木造反り橋としてほぼ現在の朱塗の形式となった。
 奈良時代、勝道上人(735817)は、7歳の時、夢の中に明星天子という神が現れて、貴方はこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさいと告げられました。勝道上人28歳の時(761年)下野薬師寺で試験を受け僧侶となりました。 天平神護2年(766)3月、勝道上人32歳のとき、大谷川だいやがわの激流を神仏の加護を受けて渡り(現在の神橋)山内地区に草葺の小屋を建て、毎朝、礼拝石に座り、二荒山ふたらさん(男体山なんたいさん)の頂上を拝しておりました。或る日、いつものように霊峰を拝していると、背後から紫雲が立ち昇り悠々と大空に舞いあがって東北方面に吸い込まれました。勝道上人はこの荘厳なる風景に心を打たれ、その地点に急ぎました。その地点が、清龍せいりゅう・白虎びゃっこ・朱雀すざく・玄武げんぶの四神守護の霊地と感じ、この場所に御堂を建て紫雲立寺しうんりゅうじとなづけたのが現在の四本竜寺しほんりゅうじ(後に二荒山神社となる)と伝えられています、これが日光山の歴史の始まりです。
 鎌倉時代、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。

 
 

        神橋しんきょう(重要文化財)                 一ノ鳥居・石鳥居(重要文化財)

(2)一ノ鳥居・石鳥居(重要文化財)
 日光東照宮境内の入口に立つ石鳥居は二代将軍秀忠による創建翌年の元和4年(1618)、筑前国福岡藩主黒田長政によって奉納された。黒田長政は黒田孝高よしたか(官兵衛)の嫡男、父孝高は荒木村重の家老、荒木村重が織田信長に降伏した際、嫡男松寿丸(長政)を人質として豊臣秀吉に出す。秀吉夫妻は長政を我が子に様に可愛がったという。秀吉が死ぬと石田三成の路線対立から五大老の徳川家康に接近する。先に結婚していた蜂須賀正勝の娘を離縁して家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えた。関ヶ原の戦いで最大の功労者として筑前52万石3千石を得られた。
 この石鳥居の高さは9.2㍍、柱間6.7㍍、柱の直径1.2㍍(太さ3.6㍍)間近で石鳥居をよく見ると継ぎ目が見える。これは現地、福岡で切り出し造営ご15個に分割運搬したものと思われる。鳥居の柱には「奉寄進元和四年戌午四月十七日」といった文字や「黒田長政の名前」「日光に至るまでのルート」が刻まれている。
 石鳥居は、京都・八坂神社の鳥居、鎌倉・鶴岡八幡宮の鳥居と並んで日本三大鳥居と呼ばれている。また江戸時代に建立された石鳥居として日本最大の鳥居である。
 石鳥居には扁額が掲げられています、この扁額の大きさは約畳1畳程あります、この扁額に書かれている文字は後水尾天皇の勅筆で、家康の神名である「東照大権現」と書かれています。

   

        5重塔(重要文化財)                 塔心柱

(3)五重塔(重要文化財)
 五重塔は慶安2年(1649)に若狭国小浜藩(123500石)藩主酒井忠勝により奉納された。老中の酒井忠勝は三大将軍家光の信頼が厚く、事あるごとに名代を務めた東照宮に代参している。三代家光・四代家綱で老中・大老を務める。大老の始まりである。家光から、甲府24万石を打診されるも辞退する。理由は、大禄を食めば驕りが出、本多正純のように失脚すると答えた。
 文化12年(1815)落雷による火災によって焼失。そして三年後の文政元年(1818)子孫で10代藩主酒井忠進ただゆきによって再建されたのが現在の五重塔である。
 高さ36㍍、間口、奥行きともに4.3㍍、極彩色の日本一華麗な五重塔で、初層軒下には富田宿(大平町)の名工後藤正秀が手がけた十二支の彫刻がある。
 五重塔の真ん中を貫く芯柱(直径60㎝)は、上に乗る相輪を支えているだけで、各重を構成する他の部材とは全く繋がっていません。飛鳥時代の法隆寺の心柱は地中から立つ掘立柱でしたが、それ以降は地上に据えた心礎しんそ(舎利しゃりを納める穴を持つ)の上に立つようになり、平安時代後期の海住山寺五重塔以降は初重の上に立つものも粟われてきます。
 この五重塔は、心柱が四重目から鎖で吊下げられていて、下まで達していません。ということは、心柱が屋根を抑える重石(「心柱・屋根」)の役をはたし、耐震構造になっています。
 五重塔の各層は一重ごとの箱枠に屋根が付いたようなものを積み重ねただけで、緊結されていません、その中央部を心柱が閂のように貫いています。心柱は相輪を支えるとともに、各層が横に飛び出さないようにする役割を果たしています。
 地震が起きた際に①横揺れ、縦ゆれを振り子のように揺れ、力を逃す役割をはたしています。②二つ目は屋根を支える柱の接合部に杭や釘が使われておらず、上下の凹みに柱がはまり乗っているだけの作りになっています。この耐震構造の原理は東京スカイツリーンでも採用されています。
 その金箔に包まれた初層の心柱を囲むように薬師如来(東)、阿弥陀(西)、大日(南)、多宝(北)の各如来像が安置されている。

(4)表門(重要文化財)(重要文化財)、附簓子塀(重要文化財)
  創 建 元和3年(1636)、建築様式 八脚門、切妻造、桁行三間、梁間三間
 表門は東照宮に入る最初の門で、江戸時代は仁王門と呼ばれていた。正面左右に大仏師法眼康音こうおん作の仁王像が安置されていた。仁王像(金剛力士)は仏教の護法善神(守護神)で、敵を打ち負かす武器を持ち、口を開けている「阿形あぎょう像」と口を結んだ「吽形うんぎょう像」の2体で1対になって、寺院の表門に安置することが多い。ここは神社であるが「神仏習合」思想で仏式の仁王像が安置されていた。面白いことに仁王像の裏には神社の守り神である「阿吽一対の狛犬」が安置されていた。
 この仁王像は、明治4年(1871)に実施しされた神仏分離製作により、3月に仏式の大由猷院だいゆういん(三代将軍家光霊廟)の仁王門にうつされ、表門には裏面の狛犬が表面に移り、裏面には正保元年(1644)に九代琉球王国中山王ちゅうさんおうから奉納された青銅製の花瓶がれた。この時から表門と呼ばれるようになった.
 会津藩主松平容保かたもりは会津戦争の後、諸藩お預けの身となって、不如意な日々をおくられましたが、明治5年には赦免され、同13年に五代目宮司として、日光東照宮に赴任されました。同時に会津藩の家老であった西郷頼母たのもも宮司を補佐する禰宜職に就任した。但し、西郷頼母は明治になって名字を変え、保科頼母と名乗っています。
 その頃の日光東照宮は、幕府からの庇護を失い、経済的に困窮して、社殿修理に困難をきたす有様でした。そうした中で、地元の有志者が、東照宮をはじめ二社一寺を維持するため、明治12年に保晃会を組織します。そして、会の初代会長に松平容保宮司を迎えて、日光山を守るために奉賛活動をおこなったのです。明治13年(1880)元会津藩主松平容保が、宮司に就任することを明治天皇により許され、以後、荒れ果てた日光の景観をとりもどすために「保晃会ほこうかい」という結社を作り資金調達を開始します。この機運を後押しするかのごとく、明治20年(1887)には「古社寺保存法」が施工されることとなり、国から援助金を得ることができるようになります。
 過激な神仏分離の嵐が鎮まった明治30年(1897)になってようやく、仁王像が戻って現在の状態に落ち着いている。
 建物全体は朱塗で、屋根は切妻、銅瓦葺。間口8.3㍍、奥行き4.3㍍、標高9㍍、中央が通路になった三間一戸の八脚門。側面は唐獅子や獏ばく、通路に面しては象頭さらに蟇股かえるまたの麒麟きりんや虎など82の彫刻がある。
 また、表門の左右に接続している延長250㍍の朱塗の簓子塀ささらごへい(簓子で押さえてしあげた下見板張の塀;重要文化財)があり、表門石段の石垣に阿房丸、左には滑海藻あらめ(まなかし;アラメの別名)と呼ばれる巨石が据えられている。

   

          表門(重要文化財)                御水舎(重要文化財)

(5)御水屋(重要文化財)
 参拝者が水で手や口を清めるための御水屋てみずやはかっては自然の川や湧水のある場所に設けられた施設で、手水舎ちょうずしゃ・ちょうずや・てみずしゃ・てみじやともいわれる。神社境内に独立した建物は東照宮が日本で最初で、現在の神社や寺でよく見られる手水舎の第一号である。 御水屋にある水盤は、元和4年(1618)、佐賀藩主鍋島勝茂が奉納。この水盤は当時としては斬新な技術を使い、サイフォンの原理を利用して東照宮背後の恒例山こうれいさんから引いてきた水を湧きたたせるように設計されていう。
 建物は寛永13年(1636)の大替時に建立された。飾金具が付けられた3本1組、計12本の花崗岩の柱が弓形に曲線を描く唐破風の屋根を支え四方は吹き抜けになっている。正面と背面の台輪(柱の上をつなぐ厚板)上に立波、極彩色の虹梁上には水をつかさどる飛龍と波、両側の蟇股には鯉と波の透彫すかしぼりが配されている。御水屋左には山城国淀藩主永井尚政が奉納した東照宮唯一の石造五重塔型灯篭がある。

(6)神厩(重要文化財)
 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿の彫刻で有名な神厩は東照宮の神馬しんめを入れる厩舎の境内唯一の素木造しらきづくりの建物。屋根は切妻・流造。間口9㍍、奥行き5.5㍍、棟高8㍍の建物で、参道をへて、上神庫に向かい合って建てられている。参道に面した北側が側面で、東側が正面である。
 内部は2つに分かれ、手前に馬をつなぐ土間の馬立場うまたてばがあり、奥に馬役人が詰める遠侍とおさぶらいと呼ばれる畳敷がある。これは桃山時代の武家屋敷の厩舎の構造とされている。建物の西と北側の長押上には猿の彫刻が八面施されている。
 三猿さんざるとは、三匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口をかくしている像です。世界的にも、“Three wise monkeys”としてしられ、『見ざる、聞かざる、言わざる』という叡智の三つの秘密をしめしているとされています。
       「見ざる言わざる聞かざる」のストーリー
1.母猿が子猿の今後の人生を見つめている様子。
2.子供の時に悪い事は「見ない・言わない・聞かない」という教訓を身につける。
3、これから独り立ちしようとしている猿。
4.青い雲が「青雲の志」を暗示して空を見上げている猿。
5.失敗して崖っぷちに立つときもあるけれど、支えてくれる仲間や身内いると教えている。6.恋に悩むお猿さん
7.これから人生の荒波に出て行こうとする新婚のカップル
8.身ごもった母さる。 
 昔から猿は馬の病気を治す守り神とされ、日本だけでなく中国にもこの信仰があり、馬屋に生きた猿を繋いでおく習慣があった。それに因んで彫刻されたもので、八面の猿の彫刻が人間の一生を風刺しているかのように表現されている。神社境内に最初に立てられた厩舎である。神馬の初代は、家康が関ヶ原のたたかいで乗った馬である。
 勤務時間は午前10時から正午までの2時間、天候不順は休み、神馬の条件は白馬で雄である。

   

       神厩(重要文化財)                三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)

   

        三神庫(重要文化財)                上神庫・想像の象

(7)三神庫[上神庫・中神庫・下神庫] (重要文化財)
 表門を入って正面に鉤の手状に並んでいる三つの建物は手前から下神庫、中神庫、上神庫と言い三つの建物を総称して三神庫という。「東照宮御造営帳」ではそれぞれ東の御蔵おくら、中の御蔵、御宝蔵ほうぞうと記されている。神庫とは神社の宝物をしまっておく建物のことで三神庫には春秋に催される渡御祭とぎょさい1200人分にものぼる装束や流鏑馬の道具類が収納されている。
 建物は奈良の正倉院の校倉を模しており、屋根は東照宮の他の建物同様全て銅瓦葺で銅板を瓦のように葺いた上に黒漆を塗っている。こでにより銅が錆びず雨漏り火の粉も防ぐ。外回りは、朱塗で、飾金具を付けた断面三角形の横木を重ねて壁体とし、床は高床式である。
 三神庫の中でも特に注目すべきは「上神庫」です。上神庫だけは上述のとり、内部に収納されている物も他の二つと異なり「神宝類」となります。そんなこともあってか、南側の妻にあたる白と黒の像の彫刻は当時日本に象がいなかったため、狩野探幽が想像で下絵を描いたもので「想像の象」と呼ばれている。そのため、耳が外側に向き、尾も実物と異なります。この「想像の象」は「三猿」「眠り猫」と並んで、日光東照宮の代表的な「三彫刻の一つ」とも言われています。上神庫は御宝蔵ほうぞうとも呼ばれています。つまり、御宝蔵の“蔵ぞう”と“象ぞう”の語呂を合わせて「想像の象」を描いたと言われています。
 三神庫の中でも、ひときわ大きい神庫が「中神庫」です。中神庫にも彫刻が施されており、正面に「鶴」「亀」「鳳凰」の彫刻があり、扉の上には青色と白色の牡丹が描かれています。

   

       銅鳥居(重要文化財)                輪蔵(重要文化財)

(8)銅鳥居(重要文化財)
 奉納者は三代将軍徳川家光で、当時の価格で2000両、現在の価格で約1億5000万円から2億円ほどを出資いて造営した鳥居で、名鋳物師椎名兵庫の作である。
 銅鳥居は境内2番目の鳥居で、高さ7㍍、柱上の横木には金鍍金の葵紋が打ち出されています。これはお隣の日光二荒山神社の鳥居にも言えるが、鳥居の両方の柱の根元に「蓮の花弁」が描かれています。このような鳥居の形式を「蓮華座鳥居」とも言う神仏習合の鳥居です。このような神仏習合の鳥居は全国に数カ所あるようです。

(9)輪蔵(重要文化財)と灯篭
 輪蔵は経蔵とも言われ、寛永12年(1635)に御水屋の北側に東面して建てられ、桁行3間(12㍍)、梁間3間(12㍍),棟高さ13.4㍍宝形造り、銅瓦葺、裳階付きです。外壁はベンガラ色で欄間部は金、蟇股には精緻な彫刻が施され、組物などと共に極彩色に彩られています。開口部は花頭窓で内部中央に八角形の回転式書架(輪蔵)があり、一切教(漢訳仏教経典の集大成、大蔵経)(1456部、6325巻が納められている。この一切教は天海版と呼ばれるもので日本で初めて翻訳されたものと言われている。また、八角形輪蔵を始めて採用した中国人の故事からそれに模した中国人親子の木像安置されその子供の像が笑っている事から「笑い堂」の別名がある。
 内部の装飾は華麗で、壁面などには龍や唐獅子、迦陵頻伽かりょうぴんが(上半身が人、下半身が鳥)などが描かれている。
 日光東照宮の境内あちこちに灯篭があります。灯篭の数は121基あります(石造101、銅製17、鉄聖2、石造五重塔型)。当時の諸大名の奉納したもので、しかも身分によって奉納する場所が異なっていました。陽明門真下に譜代大名、陽明門大石段下に外様大名の灯篭があり、陽明門内には後水尾天皇により奉納されたとされる一本灯篭と呼ばれる1基のみある。灯篭の奉納年代は、創建と同年に元和3年(1617)4月の銘のあるものが大半である。陽明門に上る階段に上る鉄製の灯篭は「伊達正宗」が奉納した物で、「南蛮鉄灯篭」と呼ばれています。
 また、鎖国時代にヨーロッパと唯一交易があったオランダからは大造替のなった寛永13年4月17日奉納の銘が刻まれたシャンデリア型(釣灯篭)同17年(1640)のスタンド型(蓮灯篭)とブラケット型灯篭(燭台)12基、同20年(1643)には回転式灯篭が奉納」されて、これらは総称してオランダ灯篭と言う

   

      鐘楼(重要文化財)                 本地堂(重要文化財)

10)鐘楼(重要文化財)、鼓楼(重要文化財)
 陽明門に向って石段を上ると、櫓造りのほぼ同形の建物が左右同じ位置にある。陽明門に向かって右が鐘楼、左が鼓楼です。両楼は寛永12年(1635)に建てられ、桁行三間、梁間三間入母屋造で高欄を付けた回廊があり、袴腰はかまごしとよばれる下層が黒と金、上層は朱、緑、群青を基調とした華麗な建物で配置的には古い寺院形式に習っています神仏混合時代の名残りが見られます。
 一見同じように見えますが鐘楼の方が78体の彫刻に対し、鼓楼には38体しかなく鐘楼の方が格式が高いといえる。鐘楼は正面と背面、中央に枠の内板唐戸、その両側と側面には輪宝と剣花菱紋の装飾された火灯窓がある。入母屋妻飾には鶴(2体)、軒下四方の隅木下持送すみきしたもちおくりに龍頭たつかしら(4体)、平尾垂木鼻と隅尾垂木に飛龍(18体)、柱貫鼻はしらぬきはなに麒麟(4体)組物間には鶴(12)が配されている。
 鼓楼の火灯窓は巴紋と雲だ妻飾は亀(2頭)、隅木下持送に龍頭(4体)、組物には亀(12体)が配されている。

11)本地堂(重要文化財)

 本地堂は東照宮の祭神徳川家康の本地仏薬師如来を祀る建物・寛永の大造替時に建て替えられた建物は、昭和36年(1961)に火災にあって損傷し

昭和43年(1968)に再建された。間口20.6㍍、奥行13.3㍍、棟高15㍍で、東照宮境内最大の建造物です。内陣天井に多盾㍍、横16㍍の龍が描かれているが、東部の真下で手を打つと、天井と床が共鳴し鈴のような音がする。それが龍の鳴き声に聞こえるので、鳴き竜と呼ばれている。元の絵は、狩野真安信しんやすのぶ筆であったが、焼失後に堅山南風かたやまなんぷう18871980)が復元した。

12)陽明門と回廊(国宝)

   

          陽明門(国宝)                 同回廊(国宝)
 陽明門は東照宮の建築物中最もシンボル的な存在となっている。名称は、宮中十二門のうち、東の正門から頂いている。また、全国見回しても固有の名前を持つ門は珍しい。後水尾天皇宸筆の東照大権現の勅額があるので勅額門とも言われる。屋根は入母屋造で四方の棟に唐破風を付けた、二層の十二脚門、間口7㍍、奥行き4.4㍍、棟高11.1㍍でわずか9坪(302)の建物だが、龍,麒麟、唐獅子、獏ばく、鳳凰など想像上の霊獣や霊鳥が265体、虎渓三笑こけいさんしょう(中国の故事)、寒山拾得かんざんじっとく(中国の伝説)西王母にしおうぼ(中国古代の仙女)、琴碁書画きんきしょが(文人が嗜む芸)
などよく知られた故事や中国の聖賢、王子喬おうしきょう(周時代の仙人)などの仙人、唐子からこ(子供)などのあそぶ姿の人物彫刻42体を含め大小508体の彫刻が全て壁面から溢れ出るかのように施されている。
 正面下層には随神像、」背面には狛犬(明治初期の神仏分離以前には風神像と雷神像)が安置されて通路の天井には、画家の羽石光志はねいしこうじの昇龍(八方睨龍)、降龍(四方睨龍)が描かれている。12本のにはグリ紋と呼ばれる渦巻き状の地文が彫られ、全体を胡粉で塗ってある。しかし、背面の西から2番目の柱だけが他とは異なり,上下が逆になっていて「魔除けの逆柱」と呼ばれている。また、下層東西の外壁の牡丹立木は、寛永の大造替時には牡丹唐草だlったが、宝暦2年(1752)に花鳥の桐油蒔絵にあらためられ、寛政10年(1798)に再度改められたものである。
 門全体が無数の色彩で蔽われている様に見えるが実際は白、黒、金を基調として、朱、群青ぐんじょう、緑青ろくしょう、黄土おうどをわずかに使っているにすぎない。精緻さ、豊富な装飾芸術性において他に比類がなく、その圧倒的な量感と豪華絢爛さは海外にも広く知られ、1日中見ても飽きないというのげ日暮門とも呼ばれている。
 本社を含む建築物の基礎は岩盤の上に立っているが、特に陽明門の基礎は地下40㍍の分厚い岩盤に直結しているため、建物自体は巨大な地震に襲われても倒壊することはない。
 陽明門から左右に伸びる回廊は、全長220㍍、正保4年(1647)まで、北側にもあり、本社、唐門、透塀、神輿舎、神楽殿、祈祷殿のある内院全てを囲んでいた。現在は、東西南の三方向からコの字形で囲んでいる。全面床はりで内側は柱を立てただけの吹き抜けで総朱漆塗。南面の外壁には大彫刻、廊下内外の蟇股にも彫刻が施され、総数は364体になる。東側の奥社参道口にある「眠り猫」の彫刻がある。

 13)神輿舎・神楽殿・祈祷殿

   

         神輿舎(重要文化財)              祈祷殿(重要文化財)

 神輿舎、神楽殿、祈祷殿の3棟とも陽明門内(内院)にある建物である。神輿舎は西廻廊に接している背面7本の柱は回廊の柱と兼用になっている。屋根は和洋折衷で入母屋造り千鳥破風の妻飾に鶴と亀、正面軒唐破風には家康の干支にちなんで虎の彫刻が施され、欄間や蟇股には鳥類の彫刻が多い、内部には千人行列で渡御する三基の神輿が納められている。中央は主祭神の家康向かって右が相殿神あいでんしんの豊臣秀吉、左が同じく源頼朝の神輿。天上は鏡天井で、狩野派が描く天女奏楽図がありその下で手を打つと本地堂の鳴き竜と同じく反響音が聞こえる。
 神輿舎、神楽殿、祈祷殿の3棟はともに寛永12年(1635)、江戸幕府三代将軍徳川家光の大蔵替の時建てられた。
 神楽殿は神輿舎と向かう位置にあり、大きさも形もほぼ同じであるが屋根が異なる。 神輿舎の屋根に棟唐破風を採用し和洋折衷になっているが、神楽殿は純和風建築で、幅、奥行きともに3間四方(1間=1.8㍍)の入母屋造りで、内部は二室に分かれている。北向正面の2間分は舞い舞台、後1間分は装束の間、謂わば、準備のためのつまり楽屋になっており、背面は回廊に接しています。もともと春の例大祭で八乙女が神楽を舞う場所であった。部隊部分の正面に両折れ桟唐戸を設けているが、その左右両側は蔀戸を吊り、神楽が行われる時は内部が見えるように作られている。
 春の大祭では、この舞台の上で八乙女が神楽を舞います。現在の東照宮には八乙女の職制はなく、大祭の時は二荒山神社から手伝いにきてもらっています。
 祈祷殿きとうでんはもともと護摩堂と呼ばれていた建物で、江戸時代は神仏混合していたこともあり、寺院建築の要素が強く、往時は本尊として五大尊が安置され日光山門主(輪王寺宮)が天下泰平の護摩修法を行った仏式の建物です。明治時代初頭に発令された神仏分離令で解体される予定でしたが、社務所とすることで免れ五大尊も中尊寺に移されました(日光山内は二社一寺に統廃合され、宗教的)。
 現在は祈祷殿(正式名は上社務所かみしゃむしょ)として使われているため、祈祷殿が通称となっている。神輿舎や神楽殿よりやや大きく、内部には須弥壇が設けられ、背後の壁には松と梅が描かれている。桁行3間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺、1間の向拝付の建物で、正面と左右には朱塗の廻縁まわりえんがある。

14)唐門と透塀(国宝)

   

           唐門(国宝)                   透塀(国宝)
 陽明門を潜って正面に見えるのが唐門である。日光東照宮でもっとも重要な社殿「御本社」の正門で江戸時代には、将軍に拝謁できる身分「御目見得おめみえ」以上の幕臣や大名だけが通ることが許されていた、現在でも正月や大祭などの祭典が催される時や国賓に相当する参拝者しか使うことができない。間口3㍍、奥行2㍍、棟高5.5㍍の建物、尾根は四方に力強い唐破風をつけている。彫刻数は611体あり、本殿、拝殿に次いで3番目で、陽明門の508体より多い。 唐門全体を白く見せているのは、貝殻から作られる顔料・胡扮で中国西方の胡からきたことからその名がついた。唐門には小さな花形文様の彫刻が多数ある。左右の門柱には波の地紋彫が施され、その上に紫檀や黒檀で寄せ木細工された「昇竜」(左)と「降龍」(右)が見える。
 人物の彫刻は陽明門と唐門にしか置かれていないのだが、唐門には6対、64人の人物彫刻がある。唐破風下には、清節で知られた「許由きょゆうと巣父そうふ」の彫刻があり、台輪だいわ(柱の上をつなぐ厚い板)上の「舜亭朝見の儀」は27人の人物が1本の木で列に彫られていて、正面から見ると1つも顔は隠れないようになっている。
 東側面には「八仙人」、西側面には「七福神」、背面の唐破風下には二代将軍秀忠の干支である莵、台輪上には「竹林の七賢人」があり、天井にはケヤキの一枚いちゃに「天女弾琴図」が浮き彫りにされている。柱に龍、両開桟唐戸には牡丹唐草、梅、菊、芙蓉などの唐木からき(紫檀など外国産の銘木)象嵌(寄木細工)が施されている。
 透塀すきへいは唐門から左右に伸びて神聖な本社をくるっと囲む全長160㍍の塀です。石垣の上に石造の土台を据え、柱は角柱で黒漆塗。腰羽目こしはめには鴨、オシドリ、千鳥などの水鳥欄間には花鳥の彫刻を258体施し上下の長押のあいだは、花狭間はなざま格子を付け、長押の表面には亀甲花菱紋を金箔地に密陀絵みつだえ彩色(顔料を桐油等で溶いて文様を描く技法)で描いている。
 白を基調とする唐門に対して、黒漆を主体として金具、極彩色を施した華麗な造りとなっている。右端の灯篭は後水尾天皇が奉納した青銅製の灯篭です。

15)拝殿・石の間・本殿(国宝)

   

         本社外観(国宝)                   拝殿(絵葉書より) 

 拝殿と石の間、本殿の建築物は、東照宮の建物の最も主要な部分で本社ともいう、これは神としての家康、即ち東照大権現が鎮座する場所である。造りは本殿と拝殿とを石の間で結んだ権現造りとなっている。
 拝殿は間口22㍍、奥行き8.5㍍、軒高12㍍の入母屋造で千鳥破風がつき、正面向拝は軒唐破風、柱や梁などに地紋彫が施され、おびただしい数の彫刻や絵画、極彩色の文様で埋め尽くされている。内部は中央63畳の間があり、四位以上の大名の拝礼はここで行われた。中央の天井は折上格天井おりあげごうてんじょうで、格間ごうまごとに丸龍が描かれている。これは「百間百種の龍」として有名だが、実際には。148の丸龍が群青地の格間に金箔と置上おきあげ極彩色という技法を用いて濃厚に描かれ、しかも、それらの丸龍は狩野探幽以下12名の合作によるため全て形が違う。長押の上には後水尾天皇宸筆の和歌、土佐光起筆「三十六歌仙」の額がある。
 拝殿の東(右)に将軍着座間、西(左)に法親王着座間があり、それぞれ18畳で、計99畳の広さがある。この両着座間には、四面づつ額羽目がくはめと呼ばれる彫刻があり、ケヤキ地板に紫檀などの唐木の寄木細工(唐木象嵌)で鳳凰(東)・鷲鷹(西)の装飾が施されている。東照宮の彫刻中、最も芸術性の高い作品の一つである。
 石の間は、間口9.6㍍、奥行き5.5㍍、棟高9㍍で、本殿拝殿より低く、二つの殿舎を結ぶ石の廊下が発達した形式です、以前は八棟造りと言われていまいたが、東照宮が出来てから権現造と言われるようになりました。それは江戸時代、家康公が権現様と尊称されたからです。
 石の間は、神の世界(本殿)と人間の世界(拝殿)をつなぐ重要な空間であるり、この部屋を中心として諸祭典が行われます。
 拝殿との境は2本の柱があるだけで、御簾みすが下がっています。本殿に至る階段は、真鍮板が張ってあります。当時、真鍮は輸入品であり、大変高価なものでした。
 天井は拝殿と同じく折上格天井で格間には瑞鳥の鸞らんが1羽ずつ施されています。
 東照宮の本殿内部は外陣(幣殿へいでん)、内陣、内々陣の三の部屋にわかれており、家康公は東照宮大権現として「内々陣」の「御空殿ごくうでん」と呼称される逗子の中でお祀りされています。
 この「内々陣」を囲むようにして内陣が構成されており、その外に外陣(幣殿)が構成されています。これらの内陣には神職ですら神事の時以外は立ち入ることはできませんから、当然のことながら一般の参拝者は禁足区域になります。
 外陣の天井は格天井となっており、鳳凰の天井画が描かれています。

16)坂下門と眠り猫(重要文化財)

   

        坂下門(重要文化財)                「眠り猫」(左甚五郎)
 坂下門は東回廊の「眠り猫」の下を潜った奥社参道の最初の石段上にある。この坂下門までは神である東照宮大権現の鎮座する神域、これより奥は家康が往生した仏の浄土と考えられている。
 この門は古く「奥社入口御門」と言われ坂下門と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以後である。また、江戸時代は将軍社参のときと50年毎の大祭時、将軍、勅使、祭祀関係者の参拝以外開かれることはなかったので「不開門」あかずのもんと呼ばれた。しかし、昭和40年(1965)の350年祭を機に開かれ、奥社にも参拝できるようになった。
 一間一戸、銅瓦葺、八脚平唐門で、左右には袖塀がある。小さな門だが冠木かぶき上の欄間にある鶴と唐松・バク・雲の彫刻、天井にある菊と白牡丹の浮彫など見所は多い。至る所に施された七宝金具の美しさにも目を見晴らされる。七宝金具は東照宮では珍しく、坂下門以外では本殿と拝殿にしか用いられていない。
 日光東照宮の数ある彫刻の中で最も有名な彫刻といえる「眠り猫」。陽明門から続く東回廊、その奥社参道入口にあり、落語や講談に登場する彫刻名人、左甚五郎作と伝わる。眠り猫の真裏には竹林に遊ぶ雀の彫刻があるが、猫が眠っている限り雀は楽しくすごせる。つまり「戦乱が終り、平和な時代が訪れた」ことを象徴していると解釈されています。眠っている猫の彫刻は平和な世をもたらした家康を祀る日光東照宮にしかない。
 眠り猫は江戸時代に実在した左甚五郎という彫刻家の作品と言われています。この左甚五郎が彫った彫刻は魂が宿ると言われ、その彫刻が夜な夜な動き出すというような噂が出るほど腕の立つ彫刻家であったという。
 この左甚五郎の作品は全国に100以上あるといわれるが、その製作年間は安土桃山~江戸時代後期までと300年もあるため、左甚五郎とは一人の人物でなく、代々受け継がれた名前であるとか、全国各地で腕を振るった、彫刻家達の代名詞である等の説がある。

17)奥社(重要文化財)

   
            鋳抜門(重要文化財)                            宝塔(重要文財)

17)奥社(重要文化財)
 奥社(奥宮)は家康公が眠るとされる日光東照宮で最も神聖な場所です。 戦国乱世を統一し、国内の平和と秩序の回復、いわばこの世の浄土(地上天国)を実現させた東照宮の祭神徳川家康の眠る墓所。元和2年(1616)に家康が亡くなり、久能山に埋葬され、遺言により遺骸が1年後にこの場所に改葬された。
 奥社は坂下門から石畳の参道を通り、207段の石段を登った本社の背後、恒例山の中腹にあり、銅鳥居、銅神庫(宝蔵)、拝殿、鋳抜門、家康の遺骸を納めた墓所である宝塔からなる。
銅鳥居は、元和3年(
1617)2代将軍徳川秀忠による創建時には木造であったが、寛永18年(1641)3代将軍家光によって石造となり、慶安3年(1650)に再び家光によって現在の聖堂製に造り替えられた。この鳥居にも石鳥居や陽明門同様、後水尾天皇の筆による勅額が掛けられている。
 宝蔵と呼ばれる銅板で被われた銅神庫は銅鳥居を潜った右手にある寄木造の小さな建物で永禄3年(
1664)に建立された。江戸時代」には家康の位牌や宣旨類、甲冑、刀剣など、東照宮で最も貴重な神宝類を収納していたが、それぞれ現在は宝物館に納められている。
 宝蔵と呼ばれる銅板で被われた銅神庫は銅鳥居を潜った右手にある寄木造りの小さな建物で明暦3年(1654)に建立された。江戸時代には家康の甲冑、刀剣など愛用の品々や位牌や位記いき(天皇から授けられた官位を証明する書状)など、東照宮で最も貴重な神宝類を収蔵していたが、それぞれ現在宝物館に治められている。
 奥社拝殿は寛永1318年(163841)頃の建立、間口10㍍、奥行6㍍、棟高8㍍。入母屋造で正面と背面に唐破風がつく。建物全体を銅板で包、一部を金箔押し、ほか全て黒漆塗。元和創建当時の拝殿は全体が総鍍金だったためまばゆいほどで、周囲の杉林が小さかったころは遙か遠い宇都宮からもその輝きを眺めることが出来たという。黒漆になったのは、天禄頃と言われているが詳細は不明である。 内部は、小組格天井で、各格間には彩色された菊花、柱は金箔押し、長押など、極彩色で随書に鳳凰、鸞が描かれ、重厚な外部とは対照的、絢爛豪華に造られている。
 拝殿背後にある鋳抜門いぬいもんと呼ばれる平唐門は、寛永18年(1641)に木造から石造りに、慶安3年(1650)に石造鳥居から青銅製に造り替えられた。鋳抜門前には青銅製の狛犬1対が置かれ、門扉には牡丹唐草と輪宝の文様があり、袖塀の笠木には龍に似た霊獣の蜃しんが付けられ、口から蜃気楼しんきろうを吐き出している。鋳物師は幕府お抱えの椎名伊予である。
 宝塔は家康の神柩しんきゅうを納めた真上に建てられて」いる。8角形五段の基壇の上にさらに三段を青銅で鋳造し、その上に乗せている。高さ5㍍、元和8年(1622)完成の秀忠による木造宝塔は二重の仏堂であったが、家光によって寛永18年(1641)に高さ15㍍、笠石の大きさが畳18枚という巨大な石造に改められた。しかし、天和3年(1683)5月17日の日光大地震で破損し、11月に家光の大猷院の宝塔とともに五代将軍綱吉によって現在の青銅製に造り替えられた。
  前には再造された花瓶、香炉、燭台がある。寛永20年(1643)に16代朝鮮王仁租じんそから献上され、社殿修理のため宝物蔵に保管されていたが、文化9年(181212月に大楽院(現在の社務所)から火災が発生し、その炎が宝物蔵に延焼。陽明門の勅額や本殿内の多数の社殿類とともに焼失した、
 東照宮は神社として創建されたが、境内には神である東照大権現を祀る本殿などの神社建築物だけでなく、家康の墓所として宝塔と仏教建築物を配するといった、従来の神社建築の社殿配置ではない構造をうみだした。山王一実神道によるこの神仏習合を取り入れた構成は、その後も見られない独特なもので、東照宮に始まり東照宮で終わる代表的な霊廟建築とされている。
 奥社拝殿は総体を銅板包みとし、一部に金箔が押されている以外はすべて黒漆塗。装飾も外部は飾金具のみで、境内の他の建築物に比べて装飾が極めて少ないが、蟇股の蓮と長押の輪の輪宝の飾金具が建築をぐるりと囲んでいる。創建当初は全体が総鍍金であった。 奥社拝殿内部、柱は金箔おし、長押などは極彩色で、枇杷板には鳳凰と鸞が描かれている。
 鋳抜門扉以外の柱や梁などが一つの鋳型から作られているので鋳抜門と呼ばれている。宝塔への入口の門で高さ3.4㍍、柱間2.5㍍、門前左右には聖域を守護する青銅製の狛犬が置かれ、門柱には葵紋、門扉には表裏とも牡丹唐草と仏法の象徴である輪宝の文様袖塀の笠木に蜃しん(蜃気楼を起こす幻の生物)が取り付けられている。




参向文献
*日光東照宮の成立   著者 山澤学    発行所 思文閣出版
*東照宮の近代化    著者 内田祥士   発行所 (株)ぺりかん
*日光東照宮      著者 須田新太郎  発行所 集英社インターナショナル
NHK国宝への旅    著者 NHK取材班 発行所 日本放送出版協会
*徳川公と全国の東照宮 著者 高藤晴俊   発行所 東京美術
*徳川家と日光東照宮  編集 藪下秀樹   発行所 株式会社宝島社



 

 



 

 


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世界遺・西本願寺