朱雀錦
(68-3)南禅寺塔頭.天授庵
 
                        天授庵方丈前庭

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所在地 京都市左京区南禅寺福地町86-8   開基 虎関師錬
中興年 慶長7年(1602)         中興 細川幽斉


                            1.歴史
 南禅寺開山の無関普門は正応4年(12921212日に東福寺龍吟庵で示寂した。南禅寺山内に関山の塔所がないことを遺憾に思った虎関師錬は、暦応2年(1339)に光厳上皇から塔所建立の勅許を得、翌年天授庵が建立された。戦国時代には衰退したが、慶長7年(1602)に武将で歌人としても知られる細川幽斉により再興された。
(1)大明国師(無関普門)
 無関普門むかんふもん12121292)は、諱いみなは(実名)普門、号を無関と言い別に、玄悟とも言った。大明国師は諡号しごうである。建暦2年(1212)に信濃国保科村に誕生した。信濃源氏井上の一族で、生母が越後平氏の出身であったため、越後国で養育された。 
 七歳の時伯父に当たる越後国浦原郡菅名庄正寺の寂円のもとに託された。幼少より気骨凡庸でなく13歳にして得度、間もなく寂円の勧めにより信州の各地に遊学し、教学の奥義を学び正円寺に帰った。寛喜2年(1230)再び寺を出て上野国世良田の長楽寺に栄西の弟子釈円栄朝しゃくえんえいちょうを尋ねた、菩薩戒を受けた。これが国師の禅宗への出発点となり、国師と円爾との師弟関係が生ずる因縁となったものと思われる。
 その後、栄朝の下を辞して関東・東北の顕密両教の教えを求めて歴遊し、奥義を極めた。後円爾が宋から帰朝すると、直ちに上京しその門に入る。参上して15年、これをもって良しとせず、遂に慶長3年(125140歳にして入宋を決意した。

 
          中国の浙江省
 
        浙江省地図

 入宋し浙江せっこうの地に上陸した国師は先ず四明山しめいざん(浙江省東部の霊山で寺院が多い)を過ぎ会稽山かいけいさん(浙江北部の山)に遊学し、霊穏寺れいいんじ(禅宗五山の一つ)の荊叟けいそんに会い、ここでしばらく滞在した。或る日国師は霊穏寺を出て近くの淨慈寺を尋ね、断橋妙倫だんきょうみょうりんに会見を申し入れしたが、受付で許否された。然し、その夜、断橋は夢に1羽の蒼鷹が来て、肩に止った。和尚はこれは吉兆であると喜んだが、果たせるかな翌日再び、国師が訪れ、今度は申し入れを許可したと伝えられる。景定2年(1261)断橋は病気になり、断橋は在世久しからざるをしった。同年4月25日、臨終に当たり、断橋は、国師に、調相に替えて法衣を与えた。かくして浙江の叢林を歴遊すること前後12年偶々弘長2年(1262)明州に来た我が国の商船に身を託して帰朝の途につき、同年無事薩摩の港に到着した。
 帰朝後九州の地に留まること2年、大永元年(1264)初めて入京し、先ず東福寺の円爾に帰朝の挨拶をおこなった。円爾はその再開を非常に喜び、国師に東福寺の住職の座を引き受けるよう説得したが、国師は名利を嫌い固辞した。鎌倉に下り、次に郷里北越の安楽寺に寓居し、最後に得度のち正円寺に遷居した。
 弘安3年(1280)東福寺の円爾が病になり。自らその余命の幾何もないことを知るや東福寺の後任となさんとした。しかし、東山湛照の東福寺に於ける勢力には巨大なるものがあり、一部の人々にその後継足らしめんとし円爾に推薦した。越後にあって円爾の病を聞いた国師は、遠路の艱難もいとはず70の老体をおして上京しその病床を尋ねた。師の師弟の情が厚かったことがしられる。 然るに国師が上洛すると衆望は俄かに国師に傾いた。このため湛照の徒は穏やかでなかった。国師はこの事を察すると速やかに摂津の光雲寺に逃れた。
 弘安4年(1281)2月、円爾の後を承けて東福寺の住職となった東山湛照は、在住わずか三ヶ月、同年5月退寺して三聖寺に帰った。その理由な不詳である。その後を受けて国師は東福寺の三世となった。正応4年(1291)亀山法皇は深く国師の徳に帰依し、遂に禅林寺殿を施捨して禅寺としたい。ついては、国師に開山となってもらうよう依頼した。
 国師はこの計画を引き受けたが、正応4年12月、東福寺において病となり、正応4121280歳の生涯をとじた。元亨3年(1323)後醍醐天皇より大明国師の号を賜った。

(2)虎関師錬
 虎関師錬こかんしれん12781346)、俗姓は藤原、父は藤原左金吾校尉こうい(武官の官職;部隊長クラス)、母は源氏。京都の出身。
 弘安8年(1285)8歳で臨済宗三聖寺の宝堂真空の室に入り、10歳の時祝髪(剃髪)し叡山の戒壇に登って具足戒を受けた。
 正応4年(1296)師を失った後は南禅寺の規庵祖円きあんそえんや円覚寺の桃渓徳悟とうけいとくこらについて修行したが、この間、菅原在輔から「文選」を、六条有房から「易学」を学ぶど研鑽に務め、該博な知識を得た。その後、円覚寺の無為昭元むいしょうげんや建長寺の約翁徳倹やくおうとっけんの会下に入る一方、仁和寺・醍醐寺で密教を学んでいる。虎関は、所謂五山学僧中学において筆頭に挙げるべき僧であった。
 正応5年(1297)3月2日、二世南院国師南禅寺南禅寺に入寺するや、当時の南禅寺はようやく伽藍の建設が緒に就いた時で虎関もまた二世の下にあって建設の苦労を共にした。
 正慶元年(1332)東福寺15世として迎えられた。暦応2年春、南禅寺住持清拙正澄が職を辞すると光厳上皇は虎関師錬を後任に指名し、虎関は15世住持引き受けとなった。南禅寺開山大明国師入寂されて50年経ていたが、まだ塔所のなきことを悲しみ、これを光厳上皇に奏上し、遂に勅許を得て工事をお越し翌年天授庵が創立された。

(3)細川藤孝(幽斉)
 細川藤孝ふじたかは戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、歌人。幽斉ゆうさいは雅号。天文3年(1534)4月22日、三淵晴員みつぶちはるかず(細川元有の子で三淵氏の養子)の次男として生まれる。7歳で伯父細川元常の養子となった。天文15年(1546)将軍足利義藤(後の義輝)の遍諱を受け、藤孝を名乗る。
 幕臣として将軍義輝に仕えたが、永禄8年(1565)の永禄の変で義輝が三好三人衆に打たれ、弟義輝も幽閉された。兄三淵藤英を始め一色藤長らと協力して、義昭を救出し、越前国朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。
 その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めた。永禄11年(1568)9月、信長が義昭を奉じて入亰し、藤孝もこれにしたがった。
 義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573)3月、軍勢を率いて上洛した信長を藤孝は出迎えた。義昭が信長に逆心を抱くふしがあることを密かに信長に伝えていた。義昭が追放された後山背国長岡の知行をゆるされた。以後は信長の武将として畿内各地を転戦。山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した。
 天正6年(1578)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉ガラシャの婚儀がなる。後に光秀の加勢により丹後南部を平定し、信長から丹後南半国の領有を認められて宮津城を居城とした。
 天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り剃髪して雅号を幽斉とし、田辺城に隠居、忠興に家督ゆずった。その後、光秀を討った羽柴秀吉に重用された。
 幽斉は利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇さだれた。徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598)に秀吉が死去すると家康に接近した。慶長5年6月、忠興が家康の会津征伐に単語から細川家の軍勢を引き連れて参加したため、幽斉は500に満たない手勢で丹後田辺城をった。田辺城は1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斉が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、包囲軍の中には幽斉の弟子も多く戦闘遺徳に乏しかったこともあり、長期戦となった。幽斉の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度に渡り講和を働きかけたが、幽斉がこれを謝絶して籠城を継続したが、使者を通じて「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏錆したことにより三条西実条等が勅使として田辺城に下された。
 忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩399000石の大大名になった。幽斉は京都で悠々自適な晩年を送り。慶長15年(1610)8月20日、京都三条車屋町の自宅で死去。享年77歳であった。


                            2.境内
 南禅寺開祖の大明国師は、南禅寺を創建してすぐに亡くなり、二世の南院国師が南禅寺の基礎を造った。その為,大明国師による開山の功績をたたえる開山塔がないまま、数十年が経過した。この事を嘆いた十五世虎関師錬が暦応二年(1336)に朝廷の勅許を得て、南禅寺の開山塔として完成したのが天授庵である。
 しかしながら、文安4年(1447)の大火や応仁の乱(14671477)の兵火に見舞われたあと、130年余荒廃したままであった。ようやく世情が安定した江戸時代初期の慶長年間(15961615)に再建が始りました。
玄圃霊三が第266世南禅寺住持であったころ。法嗣(弟子)雲岳霊圭を天授庵主にした。知友であった細川幽斉に開山塔天授庵の再建を懇願しました。天授庵主雲岳霊圭は幽斉の正室光寿院の甥に当たることから、慶長7年(1602)幽斉はその要請を受け細川家の菩提所として再建されたのが現在の天授庵である。尚、細川家の菩提所は他にもある。大徳寺の高桐院こうとういんもそうであり、九州熊本県熊本市にある泰勝寺(現在は泰勝寺跡)も細川家の菩提寺であった。
 禅宗寺院は基本的には南向きであるが、南禅寺は土地の関係で(東山三十六峰を背にしている)西向きになっている。通常境内の中心線の入口に勅使門があり。勅使門から真直ぐ本道が東側に伸びている。 最初の建物が歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と言った三門である。その次の建物が法堂である。法堂の後ろが僧侶の生活の場となる本堂等がある。本来であれば三門と法堂の間に仏堂があるが戦国時代に焼失し現在まで再建が出来ていない。
 勅使門の右に通用門(中門)があり、通用門から本道と平行にまっすぐ通路が庫裏までのびている。この通路が実質のメイン道路である。この道路の三門の位置の反対側に天授庵がある。

 
             方丈北庭
 
            方丈前庭「淵黙庭」

(1)方丈前庭の枯山水庭園
 天授庵には二つの庭がある。CMに登場する庭園は、枯山水の方丈庭園である。白壁で囲まれた庭園の小さな門を入るとそこは方丈北側の庭になる。北側庭園の真中を菱型の畳石が整然と並んだ通路で、これは入りの通路になっている。少し進んで右に曲がると方丈正面に奥行きの浅い枯山水の庭園が広がる。白砂の中に苔に縁どられたひし形の畳石が横切る。切石を組み合わせた直線的な構成は、小堀遠州の発案と言われている。この構図は見る人にモダンで垢抜けた印象をあたえる。紅葉の時期になると真っ赤に色づいた紅葉が白砂に映え、言葉にできないほどの美しさである。紅葉で色づいた葉が庭に散って、赤と白のコントラストがたのしめます。寺伝によると枯山水庭園が現在の形に整備されたのは細川幽斉による再建後といわれる。 方丈軒下は鱗敷うろこじきの述段のべだん(大小の平な自然石を一定の幅で細長く敷き詰めた物)が方丈の三方を取り囲み行き返りの通路になっている。還りにこの通路を進むと北側の庭では入りの通路と帰りの通路が分かれそのまま進むと入口と異なる出口に出る。

(2)書院南庭の回遊式庭園
  方丈(本堂)の隣にある庫裏の裏(南側)に書院がある。庫裏と書院は一体となっている。方丈前の枯山水庭園から続く小さな門を潜ると、「澄心庭」ちょうしんていと呼ばれる池泉回遊式庭園に入ります。この庭園は非常に古い庭園で南北朝時代に造られたと推定され、大小二つの池で構成され池の周り回遊して鑑賞しっます。初めに出会う小さな池には「八つ橋」がかけられています。「八つ橋」とは池や小川などに、幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎ架けた橋で、八枚の伊田からなる三河の八橋に由来します。京都には「八つ橋」という銘菓がありますが、こちらは筝曲の祖・八橋検校けんぎょうを偲び事の形を模したことに由来するとの説があります。八橋を渡ると大きな池を周遊します。池は蓮池で時期がよければ美しい睡蓮の花が鑑賞できます、また周囲には紅葉が多く二つの庭園は紅葉の名所としても知られています。また池には美しい錦鯉がおり、人が来れば集まり、結構人気者になっています。

 
       池泉回遊式庭園「澄心庭」八つ橋
 
      池泉回遊式庭園「澄真池」大池

 またここには、千利休が残した唯一の茶室、現在最古の茶室「国宝「待庵」たいあんの写し「松関席」がある。「松関席」は、明治32年(1899)京都市内福本超雲居士邸内に建設した物を、もともと細川幽斉好みの茶室があった跡に移築したものである。


 3.文化財
 天授庵は暦応2年(1339)、南禅寺第15世虎関師錬によって開山無関普門の塔所として創建された南禅寺の開山塔です。明徳4年(1393)、文安4年(1447)に焼失、さらに応仁の乱(14671477)で荒廃、130余年を軽かした慶長7年(1602)細川幽斉の援助を得て再興されました。
 本堂は、細川幽斉の時代再建された杮葺こけらぶき屋根の建物です。中央に開山第一世大明国師像を祀り、細川幽斉夫妻はじめ細川家の位牌諸になっています。この本堂と表門は近世初めの禅寺塔頭の典型的な建築として京都市指定有形文化財に指定されています。また、本堂の襖絵32面は長谷川等伯の晩年の作で重要文化財に指定されています。
その他、大明国師頂相一幅、平田慈均禅師像二幅、細川幽斉像・同夫人像を所蔵しています。これらは全て重要文化財指定です。
 墓地には細川幽斉夫妻の墓、細川忠利遺髪塔、幕末に活躍した勤皇詩人梁川星厳・紅蘭夫妻や坂本竜馬等に大きな影響を与えた蘭学者の横井小楠の墓もあります。

 
  大明国師(無関普門)重文
 
            細川幽斉・同夫人画像・重文

(1)大明国師(無関普門)
 無関普門(
12121292)は鎌倉時代中期の臨済宗の僧、諱いみなは玄悟、房号は普門、諡号しごうは大明国師。出生は信濃国高井郡。信濃源氏井上氏の一族で、生母は越後平氏の出身であった。
 初め長楽寺の栄朝に学び、ついで上洛して聖一国師(円爾弁円)の門に入る。其の後入宋し、浄慈寺の断橋妙倫に参じ、在宋12年の後帰朝、再び聖一国師に従い、法を継いだ。正応4年(1291)亀山法皇がその徳を聞かれ、弟子の礼をとり、離宮を改めて禅寺とし、無関をして開山とされた、これが南禅寺の始まりである。しかし、無関はその年の12月に病を得て示寂した。
 画像は茶色の無地の法衣、田相の薄茶地に金襴の唐草文と黒地の縁によってひきしめられた」袈裟を着、背の低い黒塗りの曲彔きょくろくに座禅する姿にえがかれる。面貌は非常に鋭くきびしい像主の性行を描出している。

(2)細川幽斉・同夫人画像 重要文化財 絹本著色
                    幽斉104.2×51.3㎝ 夫人104.4×53.2
 細川藤孝(15341610)は、戦国時代から江戸初期にかけての武将、大名、歌人。幽斉は、雅号、法名を玄旨という。初め室町幕府13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡藤孝を名乗って丹後宮頭11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝さんじょうにしさねきから古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。
 この像は薄物の単衣をはおり、手に団扇をもち、顔はリアルに描かれている。一国を領した武人としての威風よりは和歌の奥義を極めた地着いた風格をもつ。頭上の慶長17年(1612)の以心崇伝の賛によると三回忌に未号人光寿院が描かせた像である。
 対幅をなす夫人像は、幽斉像より数年遅れて描かれた像であつ、元和四年(1618)の雲嶽霊圭(南禅寺第273世)の賛がある。幽斉夫人(1544~1618)は関ヶ原役後、慶長6年(1601)に洗礼を受け、マリヤという。

 
     禅宗祖師図・長谷川等伯筆(重文)
 
     商山四�皓図・長谷川等伯筆(重文)

(3) 禅宗租師図・長谷川等伯筆(重文)  紙本墨画 183.0×143.0
 天授庵の方丈は慶長7年(1602)年細川幽斉の援助のもと細川家の菩提所として再建されたが、表側三室の障壁画も同時に描かれたものと考えられる。室中の「禅宗祖師図」16面、左右の間の「商山四皓図」「松鶴図」各8面の合計32面で等伯画として認められているものである。
 室中の間の師と弟子の別れの場面を描いた「船子来山」、禅宗の祖である達磨大師より数えて五代目の弘忍の生前の伝説を描いた「五祖栽薑」,五代目に入門した六代目の慧能の修行時代の姿を描いた「六祖挾担」、唐の皇帝が参内を求めて勅使を送りましたが皇帝の求めに応じず芋を焼いている姿の懶瓚らいさんのあだ名を持つ唐時代の僧・明瓚みょうさんを描いた「懶瓚煨芋図」らんさんわいうず、唐代の南泉禅師猫の首根っこを掴んで、猫に仏性があるか否かを争って」いる二人僧の間に入り、猫の首根っこを掴み答えはいかに!という場面を、南泉禅師のみを描いた「南泉斬猫」から後日談の「趙州頭載草鞋」まで等伯晩年の独特の筆さばきのたくみさと人物と猫の心理をとらえて巧みに描いている。
 この年は長谷川等伯64歳の晩年に当たる。等伯は晩年にしてなお衰えない迫力を見せながら、身体における人物画の一つの典型を示すものである。

(4)  商山四皓図・長谷川等伯筆(重文)   紙本墨画 183.0×142.5

 中国、秦の始皇帝の時、国乱を避けて、陝西省んせいしょうの商山しょうさんに入った東園公とうえんこう、綺里李きりき、夏黄公かおうこう。用里ろくりの四人の隠士いんし(世俗を離れ静かな生活をしている人。隠者)を画題とする絵画である。四人は髭眉しゅび(頬ひげと眉毛)みな白かったことから、商山四皓とよばれた。
 高祖(始皇帝)の嫡男恵帝を太子と定めた。高租には寵愛する戚夫人がいた。戚夫人は恵帝を捨て我が子如意を太子にしたいと願った。恵帝の母呂皇后は驚き張良に相談した。張良は国の大事であると高祖に進言した。高祖は国の大事であると、太子を補佐して欲しいと、商山四皓に要請した、しかし商山四皓は、高祖の要請を拒否したのである。

参考文献
*古寺巡礼京都12南禅寺   著者 杉森久英、勝平宗徹等  発行所;淡交社
*新版古寺巡礼京都24南禅寺 著者 中村文峰、児玉清等   発行所;淡交社
*南禅寺史          著者 桜井景雄        発行所;法蔵館
*亀山法皇700御忌記念南禅寺 編集 東京国立博物館、        発行所;朝日新聞
                            京都国立博物館 
*禅と建築・庭園       著者 横山正         発行所;ペリカン
*辻惟雄集3         著者 辻惟雄         発行所;岩波書店

 












 

 
 

 


 


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