(68-4)南禅寺塔頭南禅院
 
                        南禅院・西庭

      Internet Explorer で印刷できない場合はGoolchromeで行ってください

所在地 京都市左京区南禅寺福地町86 
宗 派 臨済宗南禅寺派          南禅寺別院
創建年 弘安10年(1287
開 基 亀山上皇             開山 大明国師
中興年 元禄16年(1703)        中興 塔頭一同

 南禅寺の三門に上り、方丈・庫裏の前を曲がり、南の参道を上ると「水路閣」がある。琵琶湖疏水分線は、蹴上から北に流れて南禅寺境内に入りアーチ状の水路で谷を横切ります。下の石段の上に南禅院があります(水路閣は1888年に完成したが、計画当初から近代的な洋風建築は景観をそこなうとして反対運動がおきました。現在では南禅寺の見どころの一つになっています)。
 南禅院は「南禅寺発祥の地」とよばれ、塔頭ではなく南禅寺の一部(別院)です。


              Ⅰ.歴史
 禅林寺(京都では一般に永観堂とよばれている)南に福地と呼ばれている土地があった。亀山天皇が即位(1260年)の初め母后大宮院の御所としてこの地に離宮を営まれ、大宮御所として建立され禅林寺殿と称した。亀山天皇は譲位後(1274)この禅林寺殿と嵯峨の亀山殿で院の政務をされた。
 然るに弘安9年(1286)8月18日離宮に火災が起き禅林寺殿の一部を焼亡した。亀山上皇は新たに一宇の創建を行い翌10年7月に竣工したこれが禅林寺松下殿で後の南禅院である。従来の禅林寺殿を下御所又は下宮と呼び、この宮を上御所又は上宮と呼んだ。
 亀山法皇は東福寺の円爾(聖一国師)に帰依していたが、円爾が弘安4年(1281)に死亡したため師を失った。誰に相談してよいか師を求めていたが、亀山天皇は正応4年(1291)5月ころ無関普門の徳に引かれ帰依した。 そしてついに禅林寺殿を施捨して禅寺に改装する計画を話し、無関普門に開山をお願いした、これが「南禅寺」である。然るに同年1212日無関普門は、南禅寺の完成を見ることなく80生涯を終えた。
 開山大明国師(無関普門)遷化の後を承けて南禅寺二世に住したのは南院国師(規庵祖円)であった。南禅寺は禅林寺殿を禅寺に改めたものであるが、無関がその後ほどなく入寂されたため、今だ寺院としては一宇の堂塔の建立もみられなかった。このため、国師は一生の大半を南禅寺伽藍建設に捧げ、南禅寺創建開山といわれた。

1.中興
 南禅院の中興は、亀山法皇御四百年忌を無事遂行するため、焼失した南禅院を、南禅寺塔頭が全員一致団結し、元禄16年(1703)再建工事を完成さっせた。
 南禅院は亀山天皇の営まれた離宮の上御所で南禅寺発祥の場所であったが、応仁の兵火で、その境域にあった一山国師塔所大雲院と共に焼失し、その遺跡の土地は一山派の雲門庵の管理するところとなっていた。宝永元年(1704)はたまたま亀山法皇の御四百年忌の年に当たっていた。それに先立つ6年前に、その実現が企てられた。雲門庵は南禅院の土地と付属する土地を南禅院に提供し、南禅院は雲門庵の処置に報いるため銀三十枚を雲門庵に支払った。
 現在幸いに「南禅院再興衆議並差定」なる元禄12年9月の記録が存在しているそれによると。五ヶ条の大綱が決定され塔頭全員の連判が行われた。最初の計画では円成院禅尼の160両の寄付を機として10年計画をたてた。金子を塔頭に7条の利息で貸し付け、最初の5年は利子のみを支払い、5ヶ年目から元金の5分の1と利子とを合わせて支払わせて10年で元利とも完済させる計画であった。
 ところが、円成院よりさらに二百十五両と桂昌院から内密に百両の寄付があった。このように熱意と団結が最初の10年計画が4年で達成された。その間建築物の構造、位置、規模について再三再四打ち合わせが行われ、工事の詳細見積が大工棟梁飛騨仁兵衛、重左衛門の2人に命ぜられ、重左衛門がこの工事を請け負うことにあった。法皇四百年忌を翌々年に控えた元禄15年(1702)8月3日釿始ちょんなはじめ式、元禄16年(1703)工事は完成した

2.元寇
 モンゴル帝国は1231年高麗に侵攻した、降伏と離反を繰り返しした後1259年高麗はモンゴル帝国に降伏した。モンゴル帝国の次の目標は日本であった。
(1)第一回使節 クビライは日本宛国書を作成し文永3年(1266)使節を派遣した。使節団は、高麗
  を経由し、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった。しかし、高麗は、モンゴル帝国の日
  本侵攻の軍事費負担を恐れ、案内を拒んだ。

(2)第二回使節 高麗の非協力に怒ったクビライは文永5年(1268)高麗の責任で、日本宛国書「大
  蒙古国皇帝奉書」(日本側呼称;蒙古国牒状)と高麗国王書状を鎌倉幕府に届けた。鎌倉幕府では
  、この年北条時宗が八代執権に就任したばかりであった。当時の国政は、外交は朝廷の担当であっ
  たため、幕府は国書を朝廷に回送した、院政を布く後嵯峨上皇は、国書への対応を巡る評定は連日
  続けられた。幕府は蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した。

(3)第三回使節 文永6年(1269)日本受入拒否する。対馬の島人2人を連れて帰る。
(4)第四回使節 文永6年(1269)捉えた対馬人の護送目的の使者を送る。今度はクビライの国書で
   なくモンゴル帝国中央機関の国書をたずさえる。朝廷からの返書は、モンゴル国の服属の要求を
  拒否したものであった。

(5)第五回使節 文永8年(1271)、第六回使節文永9年(1272)派遣するも従属 させることが出来
  ずクビライは武力行使を決断した

(6)第一次日本侵略計画
   クビライは文永10年(1273)日本侵略を計画し、侵攻準備を計画した、この時点では、南宋との
  5年に及ぶ戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また、朝鮮半島の反対勢力(三
  別抄)も滅ぼし。軍事作戦を対日本に専念することが可能となっていた。文永
11年1月高麗に戦艦
   300
艘の造船を命じ、6月には完了した。
(7)文永の役
   文永11年(127410月3日、モンゴル人の都元帥クドウンを総司令官として、漢人の左副元帥劉
  復亨りゅうふくこうと高麗人の右副元帥洪茶丘こうちゃきゅうを副将とする、総勢27,00040,000人をのせ
  た726900艘の軍船が朝鮮半島の合浦がっぽ(現在の馬山)を出航した。

   1020日、元軍は博多湾のうちの早良郡さわらぐんから上陸した元軍は、博多の西部に位置する丘陵
  赤坂を占領し布陣した。日本軍の総大将少弐景資しょうにかげすけは博多の息おきの浜に集結に集結して
  、そこで元軍を迎撃しようと待ち構えていた。ところが、肥後の御家人菊池武房の軍勢が、赤坂の
  松林の中に布陣した元軍を襲撃し、上陸地点に近い麁原そはらへと元軍を敗走させた。
麁原一帯に布
  陣していた元軍を見て竹崎季長は先駆けをおこなった。元軍も麁原から鳥飼潟に向けて進軍し、鳥
  飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した。竹崎季長は負傷するなど危機的な状況に落ちった
  が、後続の肥前の御家人白石通泰率いる100余騎が到着したため、元軍は麁原山の陣地に引き返した
  。ところが、早良郡から元軍が上陸したことを受けて早良郡に向かうよう武士らに下知が下り、同
  じ
く肥前の御家人福田兼重が到着、続いて豊後の御家人都甲惟親とごうこれちかが到着した。これ等の武
  士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟において日本軍に敗れ早良郡の百道原へ敗走した。

   鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って日本軍は百道原まで追撃をかけた。百道原の戦いでは豊後の
  御家人日田永基らが奮戦し元軍を破った、更に百道原の西の姪浜めいのはまの戦いの両所で1日で
  2度、元軍を破った。なお、「少弐景資伝では、百道原における矢戦の際に元軍の左副元帥劉復亨
  と思われる蒙古軍大将を矢で射とめられたとしている。

   この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ、この
  戦闘に参加した武士も、豊後、肥前、肥後、筑後等九州各地から武士の参戦が確認されていること
  から、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた文永の役における一大決戦であったという見解がある
  。なお、文永の役の戦闘で、現存している当時の古文書で、記録があるのは、この鳥飼潟の戦いの
  みである。

  ⅰ.「八幡愚童訓」による戦況
     八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である「八幡愚童訓」によると、上陸し馬に乗り旗を掲
   げて攻めかけて来た元軍に対して、鎮西奉行少弐資能の孫・少弐資時がしきたりに則って音の出
   る鏑矢を放ったが、元軍はこれを馬鹿にして笑、太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声を発したため、
   日本の馬は驚き、跳ね狂ったとしている。また、元軍の弓矢は威力は弱かったが、鏃に毒を塗っ
   て雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術すべがなかったとしている。元軍に突撃を試みた者
   は、元軍の中に取り囲まれて皆殺された。
元軍は勝に乗じて今津、百道、赤坂まで乱入して赤坂
   の松原の中に陣を布き、
結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して水城へと敗走した。
    元軍に戦いを挑もうと言う武士が一人もいなくなった頃、肥後の御家人菊池武房「は手勢
100
   を二手に分けて、元軍が陣を布く赤坂の松原の陣に襲撃を駆け散々に蹴散らした。菊池武房の手
   勢の多くはうちとられたが、菊池武房は帰陣した。

    1021日の朝になると元軍は博多湾から撤退し姿をけしていた。 
  ⅱ.「元史」による戦況

    「元史」では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。「元史」日本伝によると「冬
    10
月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境(
   四辺)を虜椋りょりゃく(捕虜にして物資をうばった)としている。

  ⅲ.元・高麗の損害・状況
    文永の役で元軍が被った人的損害は13500余人にもあがった。さらに人的被害だけでなく多くの
   衣甲(甲冑)・弓箭きゅうせん(弓矢)などの武具も棄てて失った。
また、文永の役において戦艦
   ・軍隊・兵糧などを支給した高麗は、国力を極度
に悪化させ疲弊した。高麗からクビライの下へ
   派遣された金方慶、印公秀は、そ
の上表の中で、三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧
   を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、働きざかりの
   男たちはことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の房
   風雨により多くの負傷者・溺死者をだすなどしたtめに、いまでは耕作する者は僅かに老人と子
   供のみであること、さらにひでりと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌
   ぐ者があるなど、「民の疲弊はこの時おり甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子
   お伝えている。

  Ⅳ.神風と元軍撤退理由
    元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜をあかそうとしたその夜に暴風
   雨を受けて日本側が勝利したという言説が教科書等に記載されている。通常、上陸作戦を決行し
   た場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、戦況を優位にすすめながら陸地を放棄して再び上
   陸作戦を決行するなどは戦術的にありえないとされている。また。元側の史料「高麗史」の記載
   によると元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本から撤退
   途上で暴風雨にそうぐうしたとなっている。ただ、この撤退途上に元軍あ遭遇した暴風雨につい
   て気象学的には、過去の統計から、この時期に台風の渡来記録がないため、台風以外の気象現象
   という見解も採られている。

(8)第7回使節 建治元年(1275)2月
  クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服従させるため、モンゴ人杜世忠とせいちゅう
 正使とする使節団を派遣した。

  使節団は長門国室津来着するが、執権北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、滝の口刑場(江の島
 付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した。
クビライは使節派遣と平行して、再び日本侵攻準
 備にとりかかつたが、日本侵攻
の是非を重臣王磐に尋ねた。南宋攻略と日本侵攻を同時におこなうべ
 きでないとする王磐の意見を聞き、日本侵攻を中止した。

(9)第8回使節 弘安2年(1279)2月
  クビライは、建治2年南宋の第七皇帝恭帝が元に降伏し、首都臨庵安を無血開城して3年、再び日
 本侵攻お計画いた。再び使節を派遣し日本が従うか否かを見きわめることとした。今回の正使に南宋
 の旧臣周福を指名した。

  同年6月、日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認する
 と、博多において周福ら一行を斬首に処した。

10)弘安の役
  弘安4年(1281)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,00056,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主
 力とした江南軍約
100,000人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。
 日本に派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。

  東路軍の出航、弘安4年(1281)5月3日、東征都元帥ヒンドウ・ 洪茶丘こうちゃ きゅう率いるモ
 ンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍
30,000人と征日本都元帥金方 きんほうけい率いる高麗軍約
 10,000
人(実数9,660人)の東路軍900艘が朝鮮半島の合浦がっぽを出航した。
  対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし
 、しかし日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾に約
20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築い
 て東路軍に応戦する構えをみせたため、東路軍は博多湾から上陸を断念した。

  6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。
 志賀島周辺を軍船の停泊地とした。
この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を
 行い、張成らは
軍船から応戦した。やがて夜があけると日本軍は)引き上げていった。
  6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の
 東路軍に対して総攻撃を敢行した。張成らは兵を率いて軍船か
ら降りて応戦したが日本軍の攻勢に抗
 しきれず潰走した。

  6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦し
 た。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。この志賀島の戦いで大敗した
 東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。

  江南軍の作戦計画、一方、江南軍は、当初の作戦計画を変え、東路軍が待つ壱岐島でなく、平戸島
 を目指した。その理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島
 が大宰府に近く周囲が海に囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めてお
 らず、ここから東路軍と合流して大宰府を目指して攻め込むと有利との情報を得ていたためである。

  6月中旬頃、元軍総司令官の日本行省左丞相アラカンと同右丞・范文虎、同左丞・李庭率いる江南
 軍は、総司令官アラカンが病気のため総司令官をアタカイに交代し、慶元(浙江省寧波市ねうはし)か
 ら出航した。

  6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍
 勢で総攻撃を開始した。
壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に
 到着
した報せに接したことにより、壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動し
 た。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、鎮西奉行少弐資能が負
 傷し息子資時が戦死するなどの損害もだした。

  7月中旬~27日、平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥張福の軍勢4,000人に守らせ
 、続いて鷹島へと主力を移動さっせた。東路軍が鷹島に到着
し、江南軍と合流が完了する。
  鷹島沖海戦
  7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊にたいして、集結した日本軍の軍船が 攻撃を仕掛けて開戦
 となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き上げた。この鷹
 島沖海戦については日本側に史料はなく、戦
争の詳細は定かでない。元軍もこれまでの戦闘により招
 討使(軍司令官)クドウハスが戦死するなどお損害を出した。そのため、元軍は合流して計画通り大
 宰府目指して進撃しよとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を
 停止した。

  一方、日本側は六波羅探題から派遣された宇都宮貞綱の率いる6万余騎とも言われる大軍が北九州
 の戦場に向けて進撃中であった。尚、この軍勢の先頭が中国地方の長門に到着した頃には元軍は壊滅
 していたため、戦闘に間に合わなかった。

  台風、7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くは沈没、損壊した。東路軍が日本を目指し
 て出航してから約3ヵ月、博多湾に侵入して戦闘がはじま
ってから約2ヵ月後のことであった。なお
 、北九州に上陸する台風は平年
3.2回ほどであり、約3ヵ月もの間、海上に停滞していた元軍にとって
 は、偶発的な台風ではなかった。

 ⅰ.元軍軍議と撤退
   閏7月5日、江南軍総司令官右丞范文虎はんぶんこと都元帥張福との間で、戦闘を続行するか帰還す
  るか以下の議論があった。張福「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮
  士そうし(血気盛んな者)ばかりです。もはや、士卒しそつ(兵士)たちは帰還できるという心境には
  ないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」これに対し
  范文虎は「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張福)は私と共に問われるこ
  とはあるまい
、この様な議論の末、結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったとい
  う。張福は軍艦を失った范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした。その他の諸将も頑丈な
  船から兵卒を無理矢理おろして乗り込むと、鷹島の西の浦より兵卒
10余万人を見捨てて逃亡した。
 ⅱ.鷹島掃蕩戦
   台風の後、鷹島には元軍の兵士10余万が籠っていたが、諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張
  なる者が指揮していた。閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始した。この総攻撃により
10
  万の元軍は壊滅し、日本軍は、2~3万人の元の兵士を捕虜とした。

 ⅲ.元・高麗連合軍の損害
   閏7月9日、日本軍は捕虜2万~3万人を八角島(博多)に連行した。「元史」によると、日本
  軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命をた
  すけ、奴隷としたという。
元軍の内帰還できた兵士は、「元史」のなかでも、全軍の1~4割と格
  差がみうけられる。元軍
140,000156,989人のうちの2~4割とした場合、帰還者の数はおおよそ
   14,000
62,796人となる。


                Ⅱ.境内
1.方丈
 南禅院方丈は、応仁の乱等、戦国時代に焼失して以来再建できなかったが、亀宝永元年(1704)に、亀山法皇四百年忌を迎えるにあたって、南禅院を再建することが南禅寺塔頭全員の決議によって決定し、亀山法皇四百年忌の1年前の元禄16年(1703)に再建されたのが現在の方丈である。内陣には亀山法皇御木像(重要文化財)が安置され、襖絵は狩野養朴ようぼく(常信つねのぶ)とその子如川じょせん(周信ちかのぶ)、随川ずいせん(邦信よしのぶ)の筆になる水墨画です。南禅院再建に当たり。円成院禅尼から四百二十五両、桂昌院から百両の寄付を戴いている。

 
      下池・蓬莱島(鶴島)

 
         下池・亀島
 
         龍門滝
 
    上池(曹源池そうげんち)心字島

    南庭(池泉回遊式庭園)・史跡・名勝(京都の三名勝史跡)
2.庭園
 南禅院には方丈西庭と方丈南庭の二つの庭園がある。
(1)方丈西庭
  方丈西庭は、元禄16年(1703)南禅院再建時に作庭された庭で、北側に勅使門がある、広いコケ庭が
 ある明るい日本庭園である。

(2)方丈南庭園 池泉回遊式庭園・史跡名勝
  南禅院の南庭園は、天龍寺庭園、西芳寺庭園と共に京都三史跡名勝といわれる。鎌倉時代末期を代表
 する池泉回遊式庭園です。

  水門瀑の水は明治の初期に造られた琵琶湖疏水の水ですが。石組みは鎌倉時代の形式です。水は曹現
 地(天龍寺の池と同名)と呼ばれる上池に流、中央には蓬莱島
があり、下池には心字島が設けられてい
 て、池全体が龍の形に造られているという。

  この庭の作庭は、天龍寺・西芳寺と共に伝承は夢窓国師とされていまず。15世紀に作庭された、南禅
 寺の由来や歴史を記した「天下南禅寺記」によれば
築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓等が
 移植され、井出の蛙も放たれた
と記され、往時の優雅な雰囲気が思い起こされます。

 
         亀山天皇分骨所
 
      一山一寧塔

(2)亀山天皇分骨所
  亀山天皇は文永11年(1274)1月26日崩御された。遺体は荼毘に付され、嵯峨天皇の遺言により、天
 龍寺の亀山陵、南禅寺、高野山金剛峰寺、嵯峨野にあった淨金剛院に分骨されたが、亀山殿法華堂を持
 って現陵とされた。

(3)一山国師塔
  一山一寧の記念碑である。クビライはジンギス・カンの孫で、ジンギス・カンの四男トイルの四男で
 、モン
ゴル帝国第五大皇帝で且つ大元王朝初代皇帝である。クビライは文永11年(1274)文永の役、弘
 安4年(
1281)の2回日本侵攻を試みたが失敗したが、それにも懲りず、第3回日本侵攻を計画し第9
 回~
12回の4回使節団を派遣した。
  永仁2年(1294)クビライが死去するとクビライの後を継いだ大元朝第2代テム(成)は、クビラ
 イの意志を継承し補陀落山観音寺の住職一山一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の
 国師を命じた。これが第十三回使節団で元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
  一山は門人一同の他に西礀子曇せいけんしどんを伴って日本にわたった。西礀子曇は文永8年(1271
 から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一山一寧は元の成宗の国
 書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一山一寧の真意を疑い伊豆修禅寺に幽
 閉した。それまで鎌倉幕
府は来日した元使を全て斬っていたが一山一寧が大師号をもつ高層であったこ
 と、滞在経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。

  修禅寺での一山は禅の修養に日々を送り、また一山の赦免を願い出るの者がいたことから、貞時はほ
 どなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。幽閉を解かれた後、一山の明眸は高まり多く
 の僧俗が連日のように一山の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(
1293
 の地震による倒壊炎上によって衰退していた建長寺を再建して住職に迎え、自ら帰依した。

  円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313)には後宇多上皇の懇情に応じ、上洛して南禅寺三世
 となった。
文保元年(131710月、南禅寺で病死。花園天皇より一山国師と諡号された。

 
       亀山法皇木像
     鎌倉時代(重要文化財)
 
  亀山法皇画像
 江戸時代・狩野探幽
 
 一山一寧木像彩色
 鎌倉時代(重要文化時)

(1)亀山法皇像 木造 像高31.1㎝ 鎌倉時代(重要文化財)
  南禅寺開基亀山法皇(14491305)の肖像彫刻で、法皇の廟所である南禅院に安置されている。禅僧
 の頂相に準じるように椅子に座る法体姿で、寄木造り、玉眼をはめる写実性豊かな造出る。納衣には飛
 雲、袈裟には零島と草花の文様を金泥で彩るが、派手でなく落ち着いた雰囲気がただよう。製作時期は
 おそらく没後間もなく製作されたものとかんがえられる。
天皇の法体姿の肖像は後白河法皇を始めとし
 て鎌倉時代以後多く描かれるが、禅宗の頂相形式の彫像は本像画最初である。

(2)亀山法皇画像 絹本著色 173.1×83.1㎝ 江戸時代・狩野探幽
  狩野探幽の筆になる南禅寺開基亀山法皇の画像である。現在は「大明国師無関普門像」「南院国師像
 」「規庵祖圓像」と三幅対となっているが、かってはこれに脇幅として竜虎図が加わり五幅対であった
 という。本像の製作時期は、探幽の書名から寛永一五年(
1638)から寛文元年(1661)までの間とされ
 るが、承応3年(
1654)亀山法皇350年遠忌に際して描かれた可能性もある。なお、同じく探幽筆にな
 る「本光ほんこう国師(以心崇伝)像」は本像とほぼ法量が同一であり、同時期に描かれたものであろ
 うか。

(3)一山一寧国師坐像・木像彩色 鎌倉時代(重要文化財)南禅院
  木像淡色、像高76.0㎝、南北朝時代、14世紀南禅寺第三世住持一山一寧いっさんいちねい12471317
 の調相彫刻。像内に嘉永3年(
1850)の文書と小厨子が納入されている。
  一山は元の皇帝の使節として正安元年(1299)来日した。スパイの嫌疑をかけられて一時伊豆に幽閉
 )されたが、執権北条貞時によって建長寺第
10世に任じられ、次いで正安4年円覚寺第七世となった。
 円覚寺在住4年の後建長寺に再任、その後眼を患い、建長寺に塔頭玉雲庵を営んで引退したが、御宇多
 法皇の招請を受けて正和2年(
1313)南禅寺の住持になった。文保元年(1317)示寂。






 

 
 

 


 


                  [ 前へ ]     [ トップページ ]      [ 次へ ]


世界遺・西本願寺