朱雀錦
(68-5)南禅寺関連琵琶湖疏水
 
 
                            南禅寺・水路閣


            

    1.概要
 車駕東幸しゃがとうこうという言葉がある。これは天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨の威儀を述べたことばである。即ち、天皇は東京で政務を執られるが、都を京都から東京に遷都するという言葉は使われていません。
 慶応4年9月8日、年号は明治と改元された。それより先の7月17日江戸は東京と改められた。天皇が京都御所を発ち、天皇親征という名目で東京に向われたのは、9月20日のことである。天皇は1013日に江戸城に入られた。
 明治元年の暮れ、天皇は一旦京都に還幸された。天皇が京の地を離れていたあいだ市民は活気をなくし動揺していた、そこへ還幸の知らせである、市民は随喜した。しかさい、翌年3月再び東幸が予定されていた。
 鳳輦ほうれんは明治2年3月7日、京都御所を発った。遷都とは言わず車駕東幸といった。天皇が東京に行かれると言う意味で、都を移すということではない。しかしこれが事実上の遷都で有ることを京都市民は気付いていた。
 江戸時代の最盛期には江戸、大阪と並ぶ、三都の一つとして京都は40万人近い人口を擁していた、明治になり、天皇が東京に移られると、京都の人口は急激に減少し、明治8年(1875)には226000人余りと記されている。これは江戸時代の最盛期の半分近い数である。
 この時期、京都府の為政者がまず取組まなければならない問題は「京都再建」であった。京都府の誕生は慶応3年である。大政奉還で京都市を統治していた京都守護職、京都所司代、京都町奉行が廃止となり、代わりに京都裁判所がおかれた。京都裁判所は翌4年4月29日、京都府と改められ府庁は所司代跡の二条城内に置かれた。初代知事には公卿三位長谷信篤が任命された。長谷信篤は激動期の京都知事としては温厚すぎた。実際に縦横の働きをしたのは、各藩選りすぐりの俊英たちであった。彼らの任務は京都再建であったが、その前に処理しなければならない問題があった。車駕東幸を前に、彼等は「来年3月の大嘗祭」を京都で行うことを約束させて民心を鎮めた。市民は約束を信じひたすら還幸をまっている。だから、万一この約束が不履行となればそのとき市民の反動は避けられないだろう。
 そこで、京都府は車駕東幸後直ちに、政府に対して地子銭じしせん(地代)免除と50万石の救窮米の給付を申請した。2月に入って政府から通達が届いた。だがそれは京都府の期待を裏切るものだった。「冗談じゃない」槇村正直権大参事は通達を握りつぶした。「おれは政府が政府が地視線子銭免除と救窮米の交付を認めるまで絶対に還幸延期を市民に通達しない」、これは政府に対する脅迫となった。
 大嘗祭は、天皇か即位の礼の後、初めに行う新嘗祭にいなめさいで、一世一度の大行事で通常の新嘗祭とは区別されていた。新嘗祭は毎年11月に天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食する祭儀である。京都は都であったため特別に地子銭は免除されていたが、京都が都であるなしに関わらず今まで通り地子銭を免除して欲しいという要求である。
 2月に入ってようやく政府から通達が届いた。だがそれは京都府の期待を裏切るものでした。還幸は延期、従って大嘗祭も行わない、事を市民に伝えるよう、政府は一方的に命じてきたのです。槇村権大参事は怒り、通達を握り潰した。「おれは政府が地子銭免除と救窮米の交付を認めるまで絶対に還幸延期を市民に通告しない」これは政府に対する強迫だった。三月に入って参議大隈重信から書翰が届いた。「この度天皇は還幸延引をお申出になりました。それについては、京都市民に同情の念を禁じ得ません。しかしながら先日来御申請の救窮米は昨年不作のため、要求額の50万石の支給は見通しが立ちません。その旨貴府係官に伝えましたところが、貴府でも申請が通らない場合は先の通達を市民に告げ難い由、無理からぬことと拝察いたします。そこで閣議の結果、京都に特例を認めることに決定いたしました。今回取り合えず5万円を下賜し、さらに盆前に5万円、合計10万円を下渡げとします。これを資金として生産の興隆をお計り下さい。特別の計らいによるものですから窮民の一時救済金には当てないようお願いします。50万石の要求に対し、10万円の支給では不足であろうがことは十分承知していますが、予算の目途も立たない現状を御察しの上、この10万円で京都の再建の基礎固めをするよう御尽力ください」
 大隈重信は還幸中止と言わず、還幸延引と表現した、京都市民をなだめるのに苦慮していた槇村にとって「還幸延引」はまさに一筋の藁であった。そして
150年経った
現在も延々と天皇の還幸延引が続いているのである。
 約束の10万円は10月いなってようやく全額が京都府に支払われた。維新に伴って京都に置かれた特殊事情を考慮し京都市民慰撫の性質を持つ金であった。京都市民はこれを恩賜金、又は天皇の御土産金と称した。将軍や大名が京都に滞在し引き上げに際して多額の金を京都に贈る慣わしがあり、この金をお土産金と称していたが、これに倣ったのである。
 一方、東京の新政府は、車駕東幸すなわち、天皇の東京行きを遷都にすり替えることに成功したのである。京都市民が感涙して受け取った天皇の御土産金10万円は、明治23年4月に123万円かけて完成した琵琶湖疏水工事の資金の一部となり、この大事業によって京都は近代都市に蘇ったのである。
 琵琶湖疏水は、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すための水路(疏水))で、第一疏水(1890年完成)と第二疏水(1912年完成)を総称したものである。第一疏水は明治18年(1885)に着工し、明治23年(1890)に完成した。取水口(琵琶湖三保ヶ崎)より小川こかわの堀川放流口(現在の堀川紫明交差)まで約20㎞。
 第一疏水は琵琶湖三保ヶ崎の取水口から第1、第2、第34の4つのトンネルを通り蹴上船溜りに送られた。ここで船はインクラインで下流の南禅寺船溜りまで降ろされます、また蹴上船溜まりまで運ばれてきた水は①南禅寺船溜まりへの放水、②蹴上発電所への水、③南禅寺周辺の庭園への水を次々と振り分けて残った水が疏水分線へと流れていきます。
 第二疏水
 明治30年代に入ると、第一疏水の流量では毎年増大する電力の需要が満たなくなり、また、地下水に頼っていた市民の飲料水が質・量ともに問題となってきました。その為第二代目京都市長西郷菊次郎は、三大事業(第二疏水の建設・上水道の建設・道路拡張及び電気軌道の敷設)を実施し、第二疏水はその事業の中核として明治41年(1908)に着工し、明治45年(1912)に完成した。第二疏水の開削に伴い、流量が増加したため、第二期蹴上・夷川・墨染めの3つの発電所も新設し発電量が増加しました。この電気によって新しく広げた幹線道路に市電を走らせ、市内には電灯が灯された。また第二疏水から取水する蹴上浄水場が完成し、京都市の水道事業が誕生した。

2.歴史
(1)琵琶湖の水運
 近江国は太古の時代より政権所在地の畿内から北国や東国に通じる交通の要となっていた。隣り合う山城盆地に延暦13年(794)平安京が誕生して以降、その重要性も一段高くなり、琵琶湖を挟んで西岸に裏日本に通じる北國街道、東岸に関ヶ原を通り東北に延びる中山道と鈴鹿峠を越えて伊勢、尾張に向かう東海道という三大街道がはしる文字通りの「道の国」となっている。これは近江国という国が宿命的に担っている課題だったといえる。
 それだけでない、近江盆地の中央に横たわる日本最大の琵琶湖そのものが、ごく最近まで重要な水の道として大きな役割を担ってきたのである。山や坂の多い我が国では貨物輸送用の車輛は普及しなかった。つまり、重くて嵩張る貨物でも、労力が大きくて効率の悪い牛馬や人足の背に担がせて運ぶ以外の手段はなかった。これに引き換え船舶による物資の運搬は、海難や破船による損害はある程度覚悟しなければならなかったものの、陸運とくらべて格段に大量輸送がかのうで経済的にもはるかに有利だった。水域から集まる275m3の水を満々と湛えている。人文の開け始めたこの数千年ほどの間は、このような姿を保ち続けてきたであろう。南北70kmに東西約20kmにおよぶ湖上は殆ど完全な静水域なので、どの方向へむけても航行が可能だった。
 琵琶湖の水運は上古代から近世に至るまで、日本の産業交通史上だけに止まらず、政治史上にも重要な役割を担い続けてきた。平安時代律令制秩序の有り方を事こまかに規定した延喜式(927年成立)には北陸道諸国より京都への搬送される貢租米の輸送ルートや手段、さらにそのために支払われる公定賃金などが記されている。これによれば若狭国産米は直接陸路で近江の勝野津(高島市勝野)へ運び、越前、越中、越後及び佐渡からの貢米は、陸路または海路で敦賀津へ集積し、ここから馬の背に積み替えて塩津に陸送し、それぞれ勝野及び塩津から湖上を西岸沿いに大津へ送った。
 琵琶湖唯一の自然流出口である瀬田川は川床に横たわる巨岩わ激流に阻まれて、一方交通てきに木材等を流下させて運ぶことは実際に行われているものの船舶による遡航は不可能であった。そこで、再び馬に積み替えて逢坂山を越え、京都に貢納するように規定されていた。

(2)槇村京都府第二代知事
 慶応4年(1868)9月8日年号は明治と改元された。それより先の7月17日江戸は東京と改められた。天皇が京都御所を発ち天皇親征しんせい(天子がみずから軍を率いて征伐に出る)という名目で東京に向かわれたのは、9月20日のことだった。天皇は1013日に江戸城に入られ、東京市民に酒をふるまわれた。その年、明治元年の暮れ、天皇は一旦京都に還幸かんこう(天皇が行幸先から帰られること)された。天皇が京の地を離れていたあいだ市民は動揺していた。そこへ還幸の知らせがあり、市民は随喜した。しかし翌年3月に再び東幸とうこう(天子が東に行かれる)が予定されていた。じゃsョプヶ崎)より小川こかわの堀川放流口(現在の堀川紫明交差点
 その日が近づいた3月2日、今度は京都市民に酒がふるまわれ、各町内ごとに菊の御紋つき御土器も下賜された。京都市民にくだされた天盃は市民を慰撫する目的の物だった。それは千年ものあいだ天子の御膝元で生を営んでいた京都市民への別れの盃となった。
 鳳輦ほうれんは、明治2年3月7日、京都御所を発った。遷都とはいわず、車駕東幸しゃがとうこうと言った。天皇が東京に行かれると言う意味で、都を移すということでない、しかし、これが事実上の遷都であることを京都都民は察していたものと思われる。
 そして最盛期には江戸、大阪と並ぶ三都の一つとして40万人に近い人口を擁していた花の都・京都も急速に人口が減少し、明治8年(1875)刊行の「共武政表」(陸軍省参謀本部調査)によれば、わずか226000人余りと記されている。
 この時期、京都府の為政者がまず取組まなければならない問題は「京都府再建」であった。京都府の誕生は慶応3年である。大政奉還で京都市中を統治していた京都守護職、京都所司代、京都町奉行が廃止となり、代わりに京都裁判所が置かれた。総督は公卿万里小路博房だった。翌4年4月29日、京都裁判所は、京都府と改められ、京都府は所司代跡の二条城内におかれた。初代知事には公卿三位長谷信篤が任命された。しかし、長谷信篤は激動期の京都府知事には温厚しすぎた。実際に府政縦横の働きをしたのは各藩選りすぐりの俊英たちであった。 彼らの任務は京都再建であったが、その前に、処理しなければならない問題があった。車駕東幸を前に、彼等は「来年3月の大嘗祭だいじょうさい(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭)を京都御所で行うことを約束させて民心を鎮めた。市民は約束を信じ、ひたすら還幸をまっている。だから万一この約束が不履行となればその時市民の反動は避けられないだろう。そこで京都府は車駕東幸後直ちに、政府に対し、地子銭じしせん免除と50万石の救窮米の給付を申請した。地子銭は地租に当たる租税であるが、京都は都であるため特別に免除になっていた。京都が都でなくなっても今まで通り、免除にして欲しいという要望であうった。
 2月に入ってようやく政府から通達が届いた。だがそれは京都府の期待を裏切るものだった。還幸は延期、したがって大嘗祭も行われないことを市民に伝えるよう、政府の一方的に京都府に命じてきた。
 「冗談じゃない」槇村権大参事は通達を握りつぶした。「俺は政府が地子銭免除と救窮米の交付を認めるまで、絶対に還幸延期を市民に通告しない」これは政府に対する強迫だった。3月に入って参議大隈重信から書翰が届いた。宛名は、河田大参事と槇村権大参議となっていた。
 「この度天皇は還幸延期をお申出になりました」それにつきましては、京都市民に同情の念を禁じえません。しかしながら先日御申請の救窮米は昨年不作のため、要求額の50万石の支給は見通しが立ちません。その旨貴府係官に伝えましたところ、貴府でも申告が通らない場合は先の通告は市民に告げ難い由、無理からぬことと拝察いたします。そこで閣議の結果、京都に特例を認めることに決定いたしました。今回取敢えずまず5万円を下賜し、更に盆前に5万円、合計10万円を下渡しもわたしします。これを資金として生産の興隆をお計りください。特別の計らいによるものですから、窮民の一時的救済金には当てないようにお願いします。50万石の要求にたいし、10万円の支給は不足であろうことは十分承知していますが、予算の目途も立たない現状を御察しのうえ、この10万円で京都再建の基礎固めとするよう御尽力ください」
 手紙を読み終えて、槇村は呟いた。彼は還幸中止とは言わずに、還幸延引えんいんと表現した大隅参議の巧みさに舌を巻く思いだったろう。延引の起源は記されていない。京都市民を宥めることに苦慮していた槇村にとって「還幸延引」はまさに一筋の藁にすがる思いであった。約束の10万円は10月になってようやく全額が京都府に支払われた。
 一方、東京の新政府は、これで・車駕東幸すなわち、てんのうの東京行きを遷都にすり替えることに成功したのである。
 京都市民が感泣して受取った天皇の御土産金10万円は、明治23年(1890)4月に125万円かけて完成した琵琶湖疏水工事の資金となり、この大工事によって京都の近代都市に生まれ変わったのである。
 その後槇村正直は京都府2代目知事に任命されたが、個性的強さが災いし辞表を提出した。槇村が元老院議員に転じ、14年間の槇村時代が終了した1週間後の明治14年1月26日,第三代知事としてとして北垣国道が着任した。

(3)田辺朔郎
 田辺家は代々学問を以て幕府に仕えて来た家柄で、祖父石庵せきあんは昌平黌しょうへいこう教授や甲府徽典館きんてんかんの学頭を務めた儒学者だった。
 当時日本の砲術は火縄銃が主流だった。そのころ長崎では高島秋帆しゆうはんは天保12年(1841)江戸徳丸ヶ原(現;板橋区高島平)で幕府の御家来衆を集めて、日本初となる洋式砲術と様式銃陣の公開演習を行ったが、これが、田辺孫次郎を西洋砲術の道に踏み込ませるきっかけとなった。孫次郎は文を棄て武に走った。秋帆に師事し講武所の創設等を行った。
 孫次郎は幕臣花井彦四郎の娘ふき子と結婚し、長女鑑子てるこが生まれ、3年後の文久元年(186111月1日長男朔郎が誕生した。だがその翌年の文久2年8月3日、孫次郎はこの年日本で初めて大流行した異国渡来の病気・麻疹ましん(ハシカ)にかかり42歳で死亡した。朔郎は生後僅か九ヶ月であった。
 慶応4年(1868)が明け「官軍が攻めてくる」噂が江戸市中にひろがった。落ちる先は石庵の門下生であった埼玉県幸手の真中林之助ときめた。二人の「幼い子と姑の梅想、それに中間の山本源七、大島義和の他二,三人の家僕をつれて下谷の屋敷をでた。だが、真中林之助の家は野盗に襲われて家族とともに菩提所の生蓮寺に軟を逃れていた。やむなく、一行もこの寺に奇遇することになった。江戸は平穏になったとの報せをうけて朔郎たちは数か月ぶりに下谷み戻った。しかし、彼等の住まいは焼け野原と化していた。その夜から住む家もない朔郎一行はとりあえず長年田辺家の従僕をしていたものの家に身を寄せることにした。元の使用人はかなりの生計を営んでいたようであったが。徳川家が崩壊した現在では、主家の旧恩など一顧の価値もないと考えたのであろうか、ことあるごとに厄介者扱いした。
 間もなく、徳川家は、駿府に封を得て七十七万石の一大名となった。帰参を許された旧幕臣は静岡に移住した。朔郎たちは、沼津に移った。田辺孫次郎のただ一人の弟・太一たいちが沼津の兵学校で教鞭をとることになった関係であった。
 太一は、孫次郎と十歳も年の離れた兄弟で、昌平黌の秀才であった。横浜錯港談判使節団の一員としてフランスに渡ったものの鎖港不可能の現状を認識させられ、鎖港不可能を建言したため、免職となった。太一の妻己巳子きみこは幕府海軍奉行荒井郁之助の妹で、朔郎より五歳歳下の長男次郎一と生まれたばかりの長女龍子の二人の子がいたが、孫次郎亡きあとの朔郎一家を太一一人で支えていた。
 明治4年(1871)に外務省に任官することになった。そして1112日(18711223日)岩倉具視を大使とする訪欧使節団の第一書記官として、横浜を出発した。太一の外務省任官で朔郎たちは、沼津を引払い、東京に移った。太一の留守家族は下谷に、朔郎は湯島に落ちついた。
 学問に対する真摯さは田辺家の血筋といえる、朔郎は、4、5歳から大久保敢斉から漢文、福地源一郎から英語を学び、明治2年に沼津に同行し、翌年兵学校付属小学校に入学したが、明治4年に太一が外務省に任官すると朔郎一家も湯島に転居し、近くにあった南部藩の共慣義塾で英語・数学・漢学を学んだ。
 田辺太一が帰ってきた。岩倉特命全権大使一行は、アメリカを皮切りにイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリアなどでヨーロッパ諸国の視察を終えて、明治6年9月13日に1年10ヶ月ぶりの帰国でした。 太一を横浜港に出迎えた朔郎はこの日初めて外国の汽船を見た。
 西洋文明に目を開いたとき、日本はあらゆる面でその遅れ思い知らされたのだが、なかでも工学分野での開きは著しかった。そこで新しい知識や技術を導入するため、政府は外国人を雇入した。明治元年から22年までに雇入した外国人は2299人にのぼっている。最も多いのがイギリス人の928人、次いでアメリカ人374人、フランス人259人となっている。しかし、日本人の中に専門家が育っていなかったこの時期、日本の近代化は外国人の手を借りるより他の方法がなかった。しかし、このような方法は、一時的に日本の開化事業を成功させるが、日本の将来のためには発展の基盤とならないことを、伊藤博文は憂慮していた。日本は日本人の手で建設せねばならない。それにはまず人材の養成が必要であり、その為には日本国内に教育機関を設立することが急務であると考えた。
 明治4年(1871)4月、伊藤博文は工部少輔山尾庸三ようぞうと工学校設立を建議した。その結果、その年の8月には虎ノ門延岡藩邸跡に工学校が開校することになった。 そこで山尾庸三は伊藤博文の訪英の際に、英国人教師の雇入を頼んだ。
 一行がイギリスに滞在中、全権副使伊藤博文は、ジャーデン・マゼソンという男にあった。伊藤が山尾庸三、井上馨、井上勝、遠藤謹助の五人で海外脱出を企て、横浜から船で英国に渡ったのは文久3年(1863)五月のことだが、そのとき世話をしたのが英国商会のマゼソンだった。伊藤は日本の工学校に雇入れる英国人教師の斡旋をマゼソンに依頼し、語った。
「英国の科学教育と、それに伴う工業の発達、これが今日の英国の繁栄の基盤となっていることを、わたしはこの目でしかとみました。我が日本の発展のために、どうかあなたのお国の力をお貸しください」マゼソンはあの時の密航青年が、全権副使、工部大輔となって再び英国を訪れたのが嬉しかったのであろう。すぐさま英国工学界の第一人者ゴードンに、日本政府からの依頼を伝えた。ゴードンはグラスゴー大学教授ランキンに協力を求めた。
 工学博士ヘンリー・ダイヤー、理学博士WEエアトン、数学博士DH・マーシャル、化学博士エドワード・ダイバース、英語教師W・クレーギー、製図教師EF・モンデイ、工芸工作雛形師キング、助教Rクラーク、Y・コーラーの九人が選ばれた。ヘンリー・ダイヤーはこの時24歳という若さだったが、教頭兼務で月給は六百五十円であった。これは日本政府の大臣の月給とほぼ同額であった。彼が偶然にも英国留学の際の山尾庸三と同級生であったことは、山尾を喜ばせた。九人の英国人教師は明治6年6月来日した。
 ある日、太一が朔郎に「おまえ、工学寮に入りたいか」と言い、朔郎は咄嗟に言葉がでなかった。横浜でアメリカの蒸気船を見た日に芽生えた工学志向は、年と共にふくらむ一方だったから、工学寮に入りたいのはいうまでもない。ただ年齢が入学資格に満たないだけなのだ。
 「朔郎は幾つになる」「15です」「それなら丁度良い。去年から工学寮に小学校が併設されたのだ」入学資格は15歳だ。それを聞いて、朔郎は、明治8年5月満13歳(数え15歳)で工学寮小学校に入学させてもらった。
 工学寮の新校舎は明治10年に東京虎ノ門に完成した。我が国はじめての西洋式二階建て建築である。その年から工部大学校(東京大学の前身)と改められた。校長は工部省工作局長の大鳥圭介が兼務した。工学寮付属小学校2年過程を終えて、朔郎は大額の入学試験を受けた。入試科目は、世界地理、数学、第数、幾何、物理、英文学、英会話、それに漢文である。合格者は35人いた。
 朔郎は官費生になるつもりだった。ところが、「君の保証人である田辺太一君の地位や経済力からして、君が官費生になることはない」と大鳥校長が口をはさんだ。校長の一言で朔郎は私費生となった。学費は1か月10円だった。学生は全員寮に入った。朝食はごはんと生卵2個に3.4切れの沢庵が付いた。生活様式は全てり、カツレツやフライになった。夕食は肉と魚が隔日交互に野菜と取り合わせであった。
 工部大学の教師は全員イギリス人だったから、授業は英語で行われた。そこで6年のうち、最初の2年は英語に重点が置かれた。工部大学校の第一回卒業式は明治1211月8日に行われたが、二年生の首席を占めていた朔郎は、この席で特別大賞を授与された。賞状は隣席の井上馨工部卿から手渡された。  工部大学では六年間の就学期間を二年ずつ普通科、専門科、実地科に分けていたが、三年になって朔郎は土木科に進んだ。明治初年(1868)までの日本の土木建築の分野は殆ど白紙の状態に置かれていた。河川の流れを変え、港湾を整備し、鉄道を敷設、道路を拓く、政府は外国人技術者を雇入れ、積極的に開発事業に取り組んだ。だが外国人の技術があれば事業は必ずしも成功するとは限らなかった。人は日本の自然を知らない、日本特有の地震の知識にもかけていた。日本の自然に立ち向かうにはやはり日本人の心が必要であった。
 工部大学の設立にはこの要望が強く含まれている。そして学生たちもまた自分達の手で新しい日本の国土づくりをしようとする気概に満ちていた。

(4)北垣国道知事
 北垣国道第三代知事は、府庁税務課地理係に琵琶湖疏水計画に取り組むことに決め、水路を決めるための調査にかかる様指示した。知事就任3ヵ月目であった。
 地理係の調査の結果、琵琶湖面と京都三条大橋の標高差はおよそ45mあり、疏水が可能なことが判明した。疏水路線は四つのルートが選ばれた。地理係はその一つ一つを測量して比較調査を行った。北垣はこの資料を携えて上京した。彼はまず参議伊藤博文に会って、琵琶湖疏水計画を打ち明けた。 参議は「わたしは大賛成だ。遷都によって京都はさびれてしまったが、それで再建できるなら大いに結構なことだ」とこたえた。北垣は、次に内務卿松方正義と会見した。水路開削と動力源の導入を目的とする北垣の琵琶湖疏水計画を松方内務卿は積極的に支持する態度を示した。
 北垣が琵琶湖疏水計画で一歩踏み出した頃、工部大学校生田辺朔郎も彼の将来を決める運命に向って一歩を踏み出していた。工部省工作局は、東海道、並びに京都、大阪で学術研究をするこという漠然とした辞令を出していた。
 湯島の自宅を発ったのは明治14年(188110月の晴れた朝だった。工部大学校の制服に脚絆・草鞋ばき、腰に靴をぶらさげ、振り分け荷姿で出発した。新橋から汽車に乗って横浜まで、その先は歩くほかなかった。東海道を通過し京都をめざした。
 最近になって、太一は破産した。簡単に他人の保証人を引き受けたことから莫大な借財をおわされる羽目になった。太一の援助で私学性になっていた朔郎は太一の破産によって学費を断たれたため朔郎は二百円の借金を背負って学業を続けることになった。
 峠を下ると目の前が急に開けた。「京都に着いた」朔郎は、草鞋を靴に履きかえた。
 二条城にある京都府庁に入り、工作局の辞令を示して来意を告げた。応対に当たった官業課の丹羽圭介から琵琶湖疏水計画の存在をきかされた。出張命令でたまたま目的地に選んだ京都で琵琶湖疏水計画がもちあがっていた。朔郎にとってチャンスであった。朔郎は卒業論文のテーマとすることにきめた。
 次の朝暗いうちに宿を出た朔郎は比叡山に登り、京都府の計画路線を参考に、彼なりの疏水ルートを引いた。三井寺下から藤尾に至るトンネルは約2400mの距離になった。逢坂山鉄道トンネルよりはるかに長い。設計図と実際の位置を確かめるために、朔郎は水準器を担いで周囲の山に登り、測点を置いて測定した、次に長等山がトンネルを抜くのに適した地質かどうか調べなければならない、山には必ず地肌を出しているところがあるので、それによって地層の観察が出来る。ハンマーで叩いて硬さを調べる場合もある。彼はこの調査により、当時の技術で運河建設は可能である結論を出していた。
 そろそろ調査をきりあげようとしたとき、足を滑らせた。そのはずみに手元が狂い、ハンマーを指におとしたのである。
 東京の湯島に戻ったのは、12月の末であった。家に帰るとさすがにどっと疲れがでた。母が敷いてくれた布団に横たわるとまもなく眠りに引き込まれた。眠りに入ってどのくらいの時間が経っただろう、前触れもなく朔郎の右手の中指に激しい痛みを覚えた。指にハンマーを落としたのは二十も前の事であった。朔郎は唇を嚙んだ、暗がりの中に不安の影がひろまった。
敗者から身をおこして地位を勝ちと得卯には学問しかない。卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」は彼の頭の中で大方まとまっている。論文は英文である。何枚もの製図を必要とする。論文の作成は決して容易なものではない。手が使えなければその作成は絶望的だ。元の使用人の家で下女のように働いた母の姿が忘れられない。彼女に安楽の日を迎えさせたいと願ってきた。工部大学校では成績により卒業生は一等、二等、三等の三つのランクに分けられ、第一等(80点以上取得者)は工学士の称号が与えられて、初任給は35円ときまっていた。第二等は卒業二、三年経て工学士の学位が当て得られ初任給か25円であった。第三等になると称号は得られず、初任給も20円と大きく格差がついた。工学士の学位学位得て工部大学を卒業すれば、任官の前途が約束されている。その日まであと一歩というところなのに、右手が聞かなければ卒業論文を書くこともできない。朔郎は左手で字をかく訓練を始めた。
 北垣京都府知事は明治15年(1882)4月上京した際、工部大学校に大鳥圭介校長を訪ねた。北垣は昨年秋琵琶湖疏水調査を行いその調査結果を卒業論文にまとめるという工部大学生に会ってみたいと考えていた。
 大鳥は朔郎を紹介した。「その手はどうしました」北垣は訊ねた「京都出ルート調査中に、私の不注意で怪我をしました」、琵琶湖疏水について意見を聞くと、その答えは農商務省一等属南一郎平と同じ意見であった。朔郎が辞すると、北垣は彼の心に秘めていた考えを大鳥に明かした。
「私はこの事業で雇い外人の手を借りないことを大前提としているのだ。私は南一等属に疏水の設計を依頼した。南はこの方面の第一人者である。しかし、南に仕事を委嘱すると、これは国歌の事業になるおそれがある。私は、疏水事業を京都府の事業に新ければならないとおもっている。だから、工事の主任を誰にするか、まよっている」この話を聞いて、大鳥は朔郎を責任を以て推薦した。
 北垣は京都に帰るとすぐさま高知県から島田道生を「よびよせた。島田の測量技術に信頼を置いている北垣は琵琶湖疏水計画プロジェクトチームの測量主任に起用したいと考えていた。
 明治16年(1883)5月15日、田辺朔郎は工部大学を第一等で卒業した。第5回同期生は全部で35人おり、11人の土木科の学生は朔郎のほか5人が第一等で工学士の称号をあたえられた。卒業式には工部卿代理参事院議員山県有朋が列席して卒業証書を授与した。 卒業式の後、朔郎は帝国退学付属病院で指の手術をうけた。骨膜炎を悪化させた指は、第一関節と第二関節の間を切除され、短いものになってしまった。

(5)琵琶湖疏水工事計画
 「閣下」尾崎一等属が二枚の書類を北垣の前に広げた「上京、下京の区会議員が連名で建議してきました。勧業諮問会を開いて琵琶湖疏水問題を審議する恋とを聞いて、費用の点などもあるので、ぜひ上下京連合区会を開いて欲しいというのです」 勧業諮問会を開いて世論を作ろうとした北垣の策は成功した。諮問委員に選ばれた京都の有力者たちは、京都再建のただ一つの方法は、市民が一致して疏水事業に邁進することだという北垣の案に全員一致で賛成したのだった。 出席議員52名中、49人が原案を可決した。京都府知事の就任以来、2年近い歳月をかけて調査企画した琵琶湖疏水計画案が公的に採択されたのである、
 年が明けて早々、内務省は二人の調査官を派遣して来た。一人は内務省准奏任御用掛田辺儀三郎で1月17日に入洛した。もう一人は土木局お雇いヨハネ・デ・レーケである。デ・レーケは明治6年(1873)に来日したオランダ人土木技師で日本滞在は29年の長期に及びその間、大阪築港など手がけちる。だが、デ・レーケの結論は「NO」であった。京都と琵琶湖間には、現に逢阪山という山があって両者を隔絶しており、これを貫通するには数百メートルのトンネルを掘らねば琵琶湖から京都に水を引くことは不可能ではないが、それに要する費用が膨大なものになる。その他、水路中には水門や堰など設置も必要でこの費用も少なくない」というのだ。
 反対の火の手は隣接の滋賀県と大阪府からもちあがった。北垣は16年5月に両県に対して、あらかじめ文書で疏水計画を漏らしている。「かねて内密にお話しておりました琵琶湖疏水の件につきこのほど実測図漫画完成いたしましたので、当局で路線決定次第、内務、大蔵、農商務三者に上申の運びとなりまた。許可の上は協議すべき問題もありますのでので、ご了承ください。なお、政府の許可の下りるまでは、山師などによる事業妨害を防ぐためあくまでも内密にお願いもう しあげます」、ところが事態は紛糾した。
 滋賀県では勧業諮問会を開いて、琵琶湖疏水問題を協議していた。近畿の水がめを県内にもつ滋賀県では湖辺の村落が疏水取水による減水を心配している。琵琶湖には姉川、犬上川、愛知川、日野川、野洲川など大小数十河川が流入しているが、流出するのは瀬田川ただ一つで、毎秒8千立法尺(2163/S)を流出するがこの量からみると疏水の毎秒300立方尺(8.1m3/S)の取水量が直接湖水の減少につながるとは考えられない。
 天明以来百年間の統計では滋賀県の被った水害は44回、これに対し旱魃は僅か3度である。つまり旱魃より水害の方がはるかに多く、8.1m3/Sの取水は沿岸地方においておそらく影響はなかったであろう。しかし、滋賀県の勧業諮問会の態度を固くしていた。諮問会では出席者44人中、琵琶湖疏水有害説に賛成40名。湖水の満干に関わらず毎秒300立方尺(8.1m3/S)の取水量には賛成ゼロであった。
 一方は水源の水量が減ると言い、他方は下流の水量が増加すると言い、二者が矛さきを揃えて北垣におそいかかった。北垣は勧業諮問会から、高木文平ら疏水特許請願陳情の上京委員を選び、朔郎等を伴って上京した。2月26日のことである。5月になって再度上京した北垣は5日、内務、大蔵、農商務の三卿にあて正式に起工伺いを提出した。
 起工伺いには、京都が日本国内はもとより、諸外国から多くの観光客が訪れる名所旧跡の地であることを強調し、この平安京を永久に維持繁栄させるために琵琶湖疏水計画をたて、上下京連合区会の承認を得たこと疏水実現により、水利をかりて工業を興し、交通を便利にするなど十項目にわたり利点をあげること、京都市民を挙げて事業の早期実施を熱望していることを述べている。
 こうした中で起工する琵琶湖疏水工事は、設計から測量、工事にいたるまで全て日本人だけで行うのだ。竣工後に予定されている水車馬力数は600馬力で。この事によっても京都の近代産業都市化は確実とみられた。
 6月27日、指令書は下りた。それは「特許」ではなかった。「書面伺いの儀については、当省土木局調整の別紙、甲乙2通の設計書の通り、増費並びに将来修繕費に要する費用支出方法等取調べ、貴府連合区会の議決を得た上で再度伺書を提出すべし。内務卿山県有朋」とある。
 甲乙二通設計書と言うのは、土木局の修正案である。これをもとに京都府の作成した設計図を修正し、もう一度手詠出しなおせというのだ。 経費に拘わらず、完全なものを…それが内務省の意向である。しかも一項目ごとに経費が上がる。修正案による増額分は656735円増額し最終的には1256735円となり、京都府計画の2倍の額となった。上下京連合区会は)内務省が司令した議案を全て可決した。 明治18年(1885)1月29日、琵琶湖疏水起工特許がおりた。

(6)琵琶湖疏水工事
 明治18年(1885)(3月府庁内に疏水事務所が置かれた。上京と下京区会議員が各3人ずつ3ヵ月交代で乗務員として詰め、半数が工事現場に出て工事の進捗その他を記録することになった。 工事は大手の土木建築業大倉組、藤田組と京都建築組を採用した。起工式は、6月2、3日ときまった。島田と朔郎は4月22日から工事現場へ出る。まず第一隧道の中心線を定めるために、小関藤尾村で試掘りに着手した。
 起工式第一日目は、大津市三尾神社で北垣知事始め、滋賀県側から中井県令(明治初期知事の称号は、東京都、大阪府、京都府の3都府だけでその他の県でか県令の称号であった)も参加した。第2日目の起工式は、京都市八坂神社で行われた。
 山階やましな宮晃あきら親王が祝分を奉じ、続いて北垣が祝文を朗読した。疏水工事の始まりを市民は熱狂的に祝った。家々の軒に国旗があげられ、祭提灯に火がともされた。
 八坂神社石段したから縄手の辻にかけては、さまざまな興業が打たれた。舞楽、能楽、相撲、都踊りもあった。
 琵琶湖疏水の竪坑(シャフト)の置は藤尾村金堀谷のトンネル中心線上にとられた。この地点にはとんねる東口から1678m、西口から733mのあたりになる。周囲にシャフト工場と火薬貯蔵庫がたった。神戸のイリス商会を通して、英国のノーベル会社に火薬を購入する予定でした。ところが外国に注文すると入手までに1年かかると言う。困っていると、東京の大倉組にストックのあることを聞き、そこで、そこで1箱50斤(30㎏)を500箱購入した。2万130990銭だった。
 シャフトは直径5.5mの円形に掘り始めた。我が国のトンネル工事では初めての試みだ。もともとトンネル自体当時は数えるほどなかった。シャフト着工後八ヶ月になる掘削作業より排水にてこずり、一次は絶望の余り断念を考えたほど難工事であった。2個のドンキーポンプでは追いつかない、もまもなく50m下の隧道線に達しようとしたとき大型のスペシャルポンプが到着した。シャフトが底に到着次第と取り付けを行った、その日が4月17日であった。ポンプの据え付けが終わったとの合図があり排水ホースが身をくねらせてドット水を吐き出した。掘り下げに196日を要した。1日の掘削量わずか20㎝であった。
 7月9日後7時、最後の爆発音が腹に響くようにおこった。733mのトンネルが1本に抜けた、ぽっかと口を開けた向こう側にカンテラの炎が揺れている。
 起工特許い際して、工費予算は
60万円あら一挙に倍の125万円い跳ね上がったが、上下京連合会あこれを可決いた。125万円の疏水工事費あ、産業基立金、府庁国庫下渡金それに市債、寄付金いよって賄われることになったが、なお不足分は課徴金という形で市民から徴収された。明治初年(1868)は以来、京都市民は小学校建営、療病院建設など様々な形で賦課金を課せられた。これは、京都市民が行政当局に依存することなく、自主的に彼ら自身の生活を団結力で守ってきた伝統にねざしている。この伝統が疏水建設にもあてはめられたのである。この負担に耐えかねたのがその日暮らしの貧乏人である。

(7)水力発電
 長等山第一トンネルの掘削工事は順調に進んだ。「米国のマサチュセッツ州」ホリヨークという町では川にダムを造り水を引いて水力工場をやっています。水力は高く売れます。水力は大儲けになると米国ではでは評判でした」川島甚兵衛(大日本織物協会会頭)が上下京連合区階で重大発言をしたのは、明治21年(1888)7月初めであった。
 琵琶湖疏水開削の目的は水力の利用、運輸、灌漑用水をその主なものとしていたが、なかでも最も重要な目的が水力利用であった。水力利用の最初の計画は、通船運河として琵琶湖から鹿ケ谷に至った水を3段から4段の水路をつくり、その間に工業用水車場を設けて第一段の水車に使用した水を更に第2段、第3段と漸次落としながら水車を運転させ最後に白川に落とすという方法であった。これを水力配置方法といった。
 
米国のホチヨークがこの水力配置方法を巧みに行って、一大都市を築き上げたことは疏水関係者のなかでもすでに承知のことであった。
 上下京連合区会はホリヨークへ二名の委員派遣を決議した。一名は工事主任田辺朔郎、あと一名は議員の中から選挙によって高木文平が選ばれた。………… 
 その時、机の上の電話がチリチリとなった。工事用として
20年2月に本部と各出張所の間に架設されたもので、工事用電話は勿論我が国では初めてのものでらる。「もしみし」受話器を取上げた事務所員の顔色が変わった。「大津口のトンネルが崩壊した」朔郎は事務所を飛び出した。「人力を呼べ」朔郎は、風を切ってはしる人力の上で祈った。大津口の掘削に着手したのは19年9月26日だった。すでに400mばかり掘削が進み漸次煉瓦巻工程に入った。崩壊はその箇所で起った。だがその現場で危険を感じるようなことは一度もなかった。朔郎には崩壊の原因がつかめなかった。
 トンネル崩壊という万一の事故に備える処置は予め講じてあっいた。水の流出に差支えないよう坑底中央に掘った下水溝には厚板が敷いてあり、二台の蒸気ポンプの故障が無い限り浸水に侵されることはない。送風用鉄管は安全と思われる場所に設置されている。
 現場に着いた名は昼近かった。大津口主任の山東昶一が目を血走らせていた。「11時に内部と連絡が取れました」「皆無事か」「はい、坑夫23名、運搬人42名、合計65名全員無事であることがわかりました」事故は昨夜十時半に起った。一人の坑夫が爆薬を取に来て、爆薬を持って再び坑内に入り、続いて二人の爆薬取締人が坑内に入ろうとしたとき、トンネル内で轟音が起った。入口から50mばかりのところに、もうもうと土煙があがり、上部から落ちた土砂でトンネルは完全に閉鎖している。崩壊の幅は25m。山東たちは右側の壁に沿って狸穴を掘り始めた。掘削は日夜続いた。15,6mも掘っただろうか土砂」の向こうに人の声がした。
 朔郎達と前後して、中井滋賀県県令も現場に姿を見せた。・北垣が駆け付けた。新聞記者もあつまった、医師団も待機した。 黒い小さな隙間から明かりが見えるのだ、この穴を果たして無事に抜けられるか幸運にすがるのみである、無地に出られたら石を投げて合図する。こうして早木は後方に残る六十余名の者言った。早木平九郎、若杉健次郎、…次々と出てきた。彼らは自ら自力脱出に成功した。10月7日午後6時20分であった。
 大津落盤事故で予定より、二日御くれた朔郎の出発には、北垣や関係者数十人が見送った。四日市から広島丸で横浜に向かった。東京では内務省や特許局、工学会員らが連日送別会を開いた。朔郎と高木を乗せたアビシニア号は1020日横浜を出航した。朔郎と高木はアメリカに約2ヶ月滞在した。ニュージャージー、ニューヨーク、コロラドそしてマサチューセッツを重点に廻った。
 ニュージャージーでは、ニューアーク湾に流入するモーリス運河とインクラインを見た。モーリス運河は全長102マイル、閘門20余、インクラインは23ヶ所あった。最高水位と最低水位の高低差は250mあり、運河から分水して水力利用に供しているところもあり、琵琶湖疏水インクラインに参考になる点も多い。なかでもレールの敷設に朔郎は注目した。疏水インクラインンは英国に注文し4条のレールを敷く計画であったが、レールは2条でも船の上下運搬は狩野である。要するに中央部分だけ4条にしてして、上下する船をすれ違がわせする方法である。ニュージャージーから疏水事務所あてにインクライン設計変更の為工事中止と電報を打っている。
 マサチューセッツ州ホリヨークの水力使用方法は、その高低を数段に仕切り水の圧力を直接水車に受けていた。水車はタービン(流体エネルギーを機械的動力に返還する回転式原動機)を使用しているとハーセル社長は説明した。
30mの水の落差は四段に仕切り、それぞれ7.5mにするのが最も望ましいことが、長年の研究わかった」と語る。「蹴上と鹿ケ谷の落差は30mであるが、それを4段に仕切ると約3万坪の土地が必要であった。京都出続行中の琵琶湖疏水工事に水力配置方を採用しそのモデルをホリヨークに求めてわざわざ日本から視察たが、実際に見たホリヨークのスケールが違い過ぎた。
 ホリヨークで失望している矢先、朔郎は、アスペン山中の銀鉱で水力発電を研究しているデブローの名を思い出した、旅費と時間を捨てる気なら会って見たいと、二人はコロラド州のアスペンに急行した。アスペン電力会社のデブロー氏は二人の手を握り締めて歓迎した。「アメリカ人でさえまだ誰も見に来てくれないばかりか、それなのに、貴方日本人がわざわざ来てくれた。こんなに嬉しいことはない」。デブロー氏は雪深い険しい山奥の水源に2人を案内し、発電方法を図を使って説明するなど、彼の発明した水力発電を教えて、そして「私が水力電気利用を考えついてから1年余り、失敗に失敗を重ね二ヶ月前にやっと水力を電灯や動力に利用することに成功したのです。貴方方は全く運がいい、貴方方のように水力電気に熱心な方なら私は喜んで何もかも残らず教えてあげましょう」
 デブロー氏はペルトン水車で発電を行っていた。これを見た時、朔郎の腹は決まった。いつか工部大学校で一瞬間白昼の輝きを放ったアーク灯の明るさが脳裡にやきついている。電気こそ未来のエネルギーなのだ。もはや水車の時代ではない、琵琶湖疏水に自分の手で最新技術の水力発電を先取りしたいと考えていた。
 水力発電、日本ではまだかって誰も手を染めていない。日本だけでなく、世界でも殆んどれいがない。ペルトン水車発電装置を設置する費用は、約7万5千円となる、これはタービン水車による水力配置の半額である。
 朔郎は熱っぽく語った。「京都の町に電車を走らせたいのです、もうまもなく第一隧道が貫通します、同時に疏水全線が開通します、そして電気動力でインクラインを船が上下します」、1か月後、朔郎はアメリカ滞在中に考案した調整機とペルトン水車を発注した。
 サンフランシスコを出港したのは明治22年(1889)1月15日、同月24日の夜横浜に着いた。二人は、31日、京都に戻った。 22年2月27日午後1120分最後のダイナマイトが炸裂した。東と西から坑夫が一斉に土煙を上げる中央の穴へ駆け寄った。朔郎も駆けた。向こうから島田が駆けて来る。去る18年8月8日、第一シャフトに着工以来3年六ヶ月、日本で一番長いトンネルが貫通した。



                               3.施設
(1)概要


 第二取水口
第二疎水大津制水門
第二疎水トンネル




左:第二疎水連絡
 第一取水口
第一疎水大津制水門
大津閘門





第一トンネルm
 















第二疎水トンネル出口
第一竪坑
第二竪坑
第一トンネル西口



藤尾運河
滋賀県/京都府
洛東用水(旧跡)
諸羽トンネル東口
諸羽トンネル520m
諸羽トンネル西口
山科運河
第二トンネル124m
第三トンネル850m
第三トンネル西口


   蹴上疎水公園
蹴上船溜

インクライン

南禅寺船溜

鴨東運河





 
       第一疎水大津取水口
  
 
              大津閘門

(2)取水口
 琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年)と第2疏水(1912年)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.653/s≒7500万トン/年を大津市三保ヶ崎で取水し、当初は、灌漑、上水道、水運、水力発電を目的とした。現在では、当初より増加し、年間約2億トンを取水しそのほとんどが飲料水に使用されている。
 第二代目市長西郷菊次郎(西郷隆盛の長男)は、京都の三代事業として、第2疏水事業、水道事業、市電開通(1895年、日本で初めて路面電車をはしらせた。これはドイツが1891世界で初めて走らせて4年後であった)及び幹線道路拡張を計画しました。第2疏水は明治41(190810月に着工して、明治45(1912)3月に完成しました。
 琵琶湖三保ヶ崎の取水口から第1疏水の北側にほぼ平行して建設され、水道水源として汚染を防ぐため全線を掘り抜きトンネル又は鉄筋コンクリートの埋立トンネルにしています。水路延長は第1疏水と同じく約7.4㎞であり、蹴上で第1疏水に合流していまあす。
(3)大津閘門
 閘門こうもんは、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させる装置である。北国橋と鹿関橋の間に大津閘門がある。この位置で水路が2つに別れ、北側が水量をコントロールする制水門、南側が通船用の閘門となっています。 大津閘門は、日本人の手で設計された日本最初の様式関門で、田辺朔郎の設計であった。
(4))第1トンネル東口と大津運河
 三保ヶ崎の取水口から第一トンネル東口までの545㍍の水路を「大津運河」と呼称されています。大津運河と三井寺観音寺を含めた辺りは桜の名所と知られています。三井寺駅から第1トンネル東口の間の疏水には北国橋と鹿関橋かせきばしが架り、特に鹿関橋からの眺めは絶景である。
 また、琵琶湖疏水の主要なトンネルや主要な施設の出入口には琵琶湖疏水事業に関与した責任者の扁額がかけられている。第一トンネル東口には、{明治21年(1888)まで首相、琵琶湖疏水開通時には初代枢密院議長}伊藤博文の「気象萬千きしょうばんせん(千変万化する気象と風景が素晴らしい)」がかけられている。第2疏水採り入れ口には久邇宮邦彦王の扁額「萬物資始ばんぶつとりてはじむ(すべてのことがこれによってはじまる)」がある。


      三尾神社・本殿(重要文化財)
 
      長等神社・楼門(大津市指定文化財)


        園城寺・金堂(国宝)
 
      円満院・宸殿(重要文化財)

(5)三尾神社
長等山山麓には、三井寺(園城寺)、三尾みお神社、長等神社という著名な三つの神社がある。このうち琵琶湖疏水ともっとも関係の深いのは三尾神社である。
 琵琶湖疏水事業計画を命じ政府が承認し工事実施の許可が降り、明治18年(1885)1月29日であり、6月2日に長等山第1トンネルの掘削工事を開始した。工事開始にあたり、6月2日と3日の二日に渡り、起工式が行われた。起工式の第一日目は、6月2日午前9時、第1トンネルの竪坑位置である藤尾村試掘現場のダイナマイトの爆発ではじまった。起工式は大津市の三尾神社に移された。北垣京都府知事、中井滋賀県令(知事の名称は、東京、京都、大阪の三都府だけでその他の府県は県令と称した)、来賓は主として滋賀県関係者、起工式の第二日は、6月3日、京都八坂神社で来賓は主として京都府関係者が招かれた。
(6)長等神社
 長等神社は、天智7年(667)近江大津宮の鎮護として長等山岩座谷の霊地に須佐御男命を祭神として迎えたのを起源とする1300年の歴史をもつ神社です。貞観2年(860)園城寺(三井寺)の開祖智証大師が日吉大神を勧請合祀され、園城寺の守護神とした。
 馬神神社(長等神社境内)は馬の守護神として、往古から崇敬されている。楼門は明治38年2月竣工。比較的小柄ながら上下の均等が美しく左右の広がりも適度に、また、各部の曲線も美しく、室町時代の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作で、昭和47年大津市指定文化財に指定された。
(7)園城寺(三井寺)
 園城寺は、比叡山、東大寺、興福寺と並んで本朝四個大寺の一つであり、かつ滋賀県で最大の寺院である。
(8)円満院
 円満院は近畿三十六不動尊第二十五番であり、天台寺門宗三門跡の一つと称している。以前は園城寺に属していたが、現在は天台宗系単立寺院である。重要文化財の宸殿と史跡名勝の庭園がある。

(9)第1トンネル(第1琵琶湖疏水第1トンネル)
 第1トンネルは、標高354㍍の長等山ながらやまを貫通する日本最長のトンネルとして計画された。総工費1256735円は、京都府の通常予算の2倍に相当する巨大な事業であつた、このような大規模土木工事は外国技術者に頼っていた。しかし、日本人の手でやりたいと言う第3代北垣国道知事の強い意思により、工部大学校(東京大学前身)卒業したばかりの田邉朔郎がその責任者に選ばれた。
 第二疏水は、汚染防止なため開口部がなくいきなり第2疏水トンネルに入り、蹴上で第1疏水と合流している。また長等山には西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線の長等山トンネル3037mと国道西大津バイパス長等トンネル1305mの2つのトンネルがある。
 琵琶湖疏水ハイキング観光コースは。取水口からほぼ真直ぐに延びる大津運河沿って造られている。運河を上下する舟は。下りは、水を流乗って進み、上りは運河の両側から綱引きで上ったものと思われる。トンネル内は綱引きは出来ないが、トンネルの側面に縄が一直線に張ってある。この縄を手繰って進んだものと思われる。
 大津運河は長等山にぶつかると長等山トンネルに入るがハイキング観光コースは左にL字にまがりなだらかな山道が小関峠まで続いている。山科~大津宿の旧東海道は2通りのルートがあった。一つは本堂である逢阪越え、もう一つはその北側を通る裏道で、逢阪越えを大関に例えて小関こえとよばれていた。琵琶湖疏水コースはこの裏街道を通っていた。小関峠には、旅の安全をお守りするかのように御地蔵が安置されていた。峠を少し下ると「小関越の道分岐点」の案内板があり、道が二手にわかれる。右の幅広の道は西大津バイパスへ。左の狭い道が琵琶湖疏水にでるみちである

 
             第一竪坑
 
        寂光寺・藤尾摩崖仏

(9)第1トンネル(第1琵琶湖疏水第1トンネル)
 第1トンネルは、標高354㍍の長等山ながらやまを貫通する日本最長のトンネルとして計画された。総工費1256735円は、京都府の通常予算の2倍に相当する巨大な事業であつた、このような大規模土木工事は外国技術者に頼っていた。しかし、日本人の手でやりたいと言う第3代北垣国道知事の強い意思により、工部大学校(東京大学前身)卒業したばかりの田邉朔郎がその責任者に選ばれた。
 第二疏水は、汚染防止なため開口部がなくいきなり第2疏水トンネルに入り、蹴上で第1疏水と合流している。また長等山には西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線の長等山トンネル3037mと国道西大津バイパス長等トンネル1305mの2つのトンネルがある。
 琵琶湖疏水ハイキング観光コースは。取水口からほぼ真直ぐに延びる大津運河沿って造られている。運河を上下する舟は。下りは、水を流乗って進み、上りは運河の両側から綱引きで上ったものと思われる。トンネル内は綱引きは出来ないが、トンネルの側面に縄が一直線に張ってある。この縄を手繰って進んだものと思われる。
 大津運河は長等山にぶつかると長等山トンネルに入るがハイキング観光コースは左にL字にまがりなだらかな山道が小関峠まで続いている。山科~大津宿の旧東海道は2通りのルートがあった。一つは本堂である逢阪越え、もう一つはその北側を通る裏道で、逢阪越えを大関に例えて小関こえとよばれていた。琵琶湖疏水コースはこの裏街道を通っていた。小関峠には、旅の安全をお守りするかのように御地蔵が安置されていた。峠を少し下ると「小関越の道分岐点」の案内板があり、道が二手にわかれる。右の幅広の道は西大津バイパスへ。左の狭い道が琵琶湖疏水にでるみちである
10)第1竪坑
 「小関越の道分岐点」から少し下ると、第1竪坑が見える。ここは通常非公開で近ずくことは出来ないが、外から覗きみることはできる。
 通常トンネル工事は、左右両側の2箇所から掘削されるが、第1トンネルは2436㍍と長いため、田辺は工期を短縮するため、本来は換気孔である第1竪坑を利用し、トンネル工事では誰も行ったことのない、三箇所から同時に掘削する工法を行った、また、トンネル位置の決定に等高線図を用い、最短距離を割り出した。これも今まで誰も行ったことのない設計方法であり、英国土木学会から高く評価され、琵琶湖疏水工事の完成した明治27年(1894)テルフォード賞を受賞した。
 テルフォード賞は、イギリス土木学会の初代会長トーマス・テルフォードが亡くなる直前に英国土木学会に贈った寄付金を基にして、同が学会の論文賞としてもうけられた。最も名誉ある賞である。日本人の受賞者は田辺朔郎唯一である。

 
           第一トンネル西口
 

           藤尾橋・藤尾運河

11)寂光寺
 第1竪坑から少し下ると藤尾磨崖仏で著名な寂光寺がある。寂光寺の磨崖仏は、高さ278㎝、幅566㎝の横長の花崗岩に、大小15体の像と梵字が彫られています。作者は地元では「三井寺開基智証大師円珍一夜の作」と伝えられている。中央には。延応二年庚子二月廿二日[延応2年(1220)2月22]とあり、鎌倉時代初期の作品となる。昭和56年(1995)1月大津市の指定文化財に指定されている。
12)第1トンネル西口
 寂光寺を少し下ると普門寺前の車道に出、さらし車道を少し歩くと右手にコンビニがある。ここには標識がなく、このコンビニが目安となる。このコンビニの前を通り進と第1トンネル西口に出合う。西口の住所は大津市藤尾奥町であるが山科盆地である。第1トンネル西口に架る扁額は「廓其容かくとしてそれかたちあり」(悠久の水をたたえ、悠然とした疏水のひろがりは大きな人間の器量を表している)/山県有朋(内務興で、疏水開通時は内閣総理大臣)。
 第1トンネル西口から安朱橋の開口部は藤尾運河と呼称されている。ここから、第3トンネル東口までハイキングコースは整備されています。
13)藤尾橋
 琵琶湖疏水に架る最初の橋です。疏水に架る橋はかっての舟運のため、水面から高く掛けられている。橋の下の両側には登りの際。舟を引く時の道が付けられている。
 疏水には様々真施設が付随しています。藤尾緊急遮断ゲートもその1つです。地震などの災害時、疏水の堤防が決壊したときみずをせき止め、山科盆地に水が浸入するのを防ぎます。
ながれはやがて池のような四ノ宮舟溜へ。舟運の荷揚げや人の乗降、船頭の休憩場所などの目的で造られたのが「船溜り」です。四角い形から「重箱ダム」と呼ばれています。

 
    諸羽トンネル東口と四ノ宮「船溜」
 
           諸羽トンネル西口

14)諸羽トンネル
 諸羽トンネル522㍍は昭和45年(1970)に出来た新しいであり、したがって扁額はない。建設当時の疏水は四ノ宮のふへ為から安朱東谷まで山地を南に迂回していた。国鉄東海道遷都平衡して走る湖西線をとおすため、疏水をトンネルに変更し、もとの疏水は埋立東山自然緑地公園となった。

 
             諸羽神社
 
          山科聖天「双林院」

15)諸羽神社
 祭神は天児屋根命あめのこやねのみことなど、六柱。貞観4年(862)、清和天皇の勅により、社殿が造営され両羽もろは大明神と称せられた千年以上の歴史を持つ。その後、両羽の文字も諸羽と改称された。社殿は応仁の兵火で、その後再建の社殿も明和年間の大火で焦土化した。その後、三度目の造営がなされ今日に至る。
 当神社境内には、仁明天皇の第4皇子人康さねやす親王の山荘跡とされる場所があり、石碑が設けられている、親王は盲目であったが琵琶の名手でもあった。山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦等を教えた。鎌倉時代は、平家物語が流行し、多くの場合盲人がそれを演奏した。これを当道座と言い、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織であった。江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになつた。江戸時代には座等・琵琶法師等当道の租とされ、当時検校の位にある琵琶法師が毎年当地に集まり琵琶を演奏し親王の霊を慰めた。
16)安朱橋
 当初、安朱あんしゅ橋を中心に第1トンネル西口から安朱橋までが藤尾運河、安朱橋から第3トンネル東口までを山科運河と呼称していたようである。
 安朱橋を右折れして直進すると、天台宗五門跡の一つ毘沙門堂と赤穂浪士と関係の深い瑞光院がある。安朱の名の由来は、この地は往時も山科郷に属し、北方を安祥寺村と南方を朱雀村称していたが江戸時代両村は合併して安朱村となった。安朱地域は、江戸時代東海道の道筋として栄えたようである。
17)毘沙門堂
 毘沙門堂は、三千院、青蓮院、妙法院。曼殊院と共に天台宗五門跡の一つで、格式の非常に高い寺院である。
18)山崎聖天(護法山双林寺)
 当院は、護法山出雲寺、毘沙門堂山内の一院(塔頭)で護法山双林院という。寛文5年(1665)後陽成天皇の勅により徳川4代将軍家綱から安祥寺の寺領の一部をあたえられ、天海僧正、公海僧正に本坊と共に現地に再興された。
 当初、本尊は阿弥陀如来であったがのち明治元年(1868)に聖天堂を建立し、毘沙門堂公遵こうじゅん法親王のご念持仏であった聖天像「大聖歓喜天だいしょうかんきてん」を賜り
本尊とし、その他武田信玄など多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を約80体合祀し、その数は他に類がない程である。願のかなう霊験あらたかな山科聖天やましなしょうてんとして信仰されている。
 本尊阿弥陀如来像(木造坐像)重文級…湖東三山の滋賀県池寺西明寺より勧請されたもので「光坊の弥陀」と号され藤原時代(平安時代中後期)の作である。現在は阿弥陀堂に安置されている。
 聖天像「大聖歓喜天だいしょうかんきてん」の信仰
 御尊像は、頭が象で体が人身という、二体の抱擁身の姿をされたインドから渡来した密教の仏様(ヒンズー教の仏)で、法力が大変強力で、あらたかなところから、その御姿は修行した聖天行者しか拝むことが出来ない秘仏(非公開)として信仰されている。
 聖天様の御利益は現世利益が中心で、御本誓として「現世の苦を除き現世の幸福をます」と説かれ、悩める人の願を全て聞き届られるという有難い御利益があり、ただ一心不乱に念じおすがりして祈ると稼業繁栄、難病平癒、子宝成就など、心願成就や「災い転じて福となす」不思議な「おかげ」が現れ、祈る願望をことごとくかなえていただけることで広く知られている。

 
              瑞光寺
 
             安祥寺

19)瑞光院
 瑞光院は、慶長18年(1613)因幡国(鳥取県)の若狭城主である山崎家盛が、大徳寺の琢甫たくほ和尚を開山者として京都市上京区堀川鞍馬口に建立したが、昭和37年(1962)に現在地へ移転した。元禄時代には、3代目の住職である陽甫ようほが播州(岡山県)赤穂藩藩主、浅野内匠頭あさのたくみのかみの正室と親戚であったことから、浅野家の祈願時となった。
 元禄14年(1701)赤穂事件がおきて浅野内匠頭が切腹になると、境内に供養塔がたてられました。その後、吉良邸討ち入り事件をおこした大石良雄(大石内蔵助)らが切腹すると、その遺髪を納めた供等々がたてられます。
20)安祥寺
 創建の詳細不明。平安時代、848865、第54代仁明天皇女御で第55代文徳天皇の母・藤原順子の発願により、開基・恵運によって創建された。藤原氏北家が天皇家外戚として、仁明天皇、文徳天皇の皇統が継承されることを祈祷するための寺院とされた。
 南北朝時代、永和3年(137721世興雅が高野山の宝性院宥快ゆうかいに継がせ、以後、高野山の兼務となる。
 室町時代、応仁・文明の乱(14671477)の兵火により上寺、下寺ともに焼失、以後荒廃、廃寺となった。 江戸時代下寺が現在地に移転し再建された。徳川家の庇護を受ける。慶長19年(1614)高野山宝性院の支配下にはいる。寛文6年(1666)寺地10万坪が毘沙門堂に割譲された。宝暦年間(17511764)現在の伽藍が建てられた。明治39年(1906)多宝塔焼失した。
かっては31体の仏像、多くは仏画・仏具・経典などを保有していた。本堂に木像十一面観音立像」(重文)「四天王像」。地蔵堂に「地蔵菩薩」を安置している。
 建築は、江戸時代工期に再建された本堂、地蔵堂。大師堂、十二所神社が残る。 境内裏山北1㎞の安祥寺山中腹に上寺かみでらが建てられていた。さらに山麓に下寺しもでらが存在した。僧侶の修行場としての上寺建立後、下寺が建てられたとみられる。

 
            本圀寺の橋
 
           大本山本圀寺

21)大本山本圀寺
 琵琶湖疏水に架る朱色の橋を渡り坂の参道を上ると広大な境内の本圀寺がある。かっては本国寺と記した。日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり、六条門流の租山である。
 本寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まる。貞和元年(1345)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して山科に移転した。68世久村日鑒貫首の発案で、金色の鯱うあ龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となったが、104世伊藤日慈貫首後、旧に復されている。

 
             天智天皇陵
 
              栄興寺

22)天智天皇陵「御廟野古墳ごびょうのこふん
 第38代天智天皇を祀る「天智天皇山科陵やましなのみささぎ」は数多い京都の天皇陵の中での最古のものとされる由緒ある存在で、考古学的には御廟野古墳である。
 本古墳は被葬者が天智天皇であることがまちがいない、数少ない古墳である。他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。
 築造は7世紀末から8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長46㍍、下方辺長70㍍、高さ8㍍である。形状は八角墳で、古墳時代終末期の古墳である。八角古墳は七世紀中葉になると、大王墓のみ営むようになる。現在知られているのは奈良県桜井市段ノ塚古墳(舒明天皇陵)、奈良県明日香村野口王墓(天武・持統陵)である。尚、前方郷円墳は大和王朝特有の墳墓である。
23)永興寺
 琵琶湖疏水に架るアーチ形の小橋(太鼓橋、黒岩橋,第10号橋とも呼ばれている)を渡ると栄興寺の正面に出る。
 鎌倉時代建長4年(1252)8月28日。道元は俗弟子・覚念の屋敷(高辻西洞院)で亡くなる。同日、東山赤辻で荼毘に付される。9月6日、遺骨は孤雲懐奘こうんえじょうにより永平寺に持ち帰られた。 慶長6年(1254)道元の弟子詮慧せんねは、道元荼毘の跡地に永興庵ようこうあんを建立し道元の等身大木像を安置した。庵号は、越前・永平寺と深草興聖寺の二寺から二字を取り永興庵としたという。
 その後、比叡山徒の焼き討ちに遭い、永興庵は各所を転々とした。 正中2年(1325)永興庵は廃絶した。
 江戸時代、寛延元年(1748)面山瑞方めんざんずいほうが永興庵を開いたが、明治5年(1872)廃寺とした。 明治38年(1905)村上素道が鹿ケ谷高原の自炊林に承陽大師(道元)御霊場を開いた。大正8年(1919)永平寺の別院とし、山科の現在に移転した。福寿院より土地譲渡を受け永興寺と改称した。平成8年(1996)本堂、山門が再建された。

 
          第10号橋通称黒岩橋
 
           第2トンネル東口

24)第10号橋、通称黒岩又は山ノ谷橋
 初めこの第10号橋を日本最初の鉄筋コンクリート橋と発表したが、セメント骨材に正規の骨材が無くトロッコ用廃レールを代用したため前言を撤回している。それでは、正規の鉄筋コンクリートとは何だろうか。
 鉄筋コンクリートは「RC」と表示される、「RC」は、Reinforced Conreteの略である。直訳すると、「より強化されたコンクリート」となる。圧縮力に強いコンクリートに、引っ張る力に強い鉄筋を埋めこんだ構造で、木造などに比べると耐久・耐火・耐震・防音性にすぐれている。
 鉄筋コンクリートの主な特徴は下記の通りです。
  ① コンクリートと鉄筋の線膨張係数がほぼ同じなので、温度応力が生じない
  ② コンクリートと鉄筋が一体となって変化し、外的な作用に抵抗する。
  ③ コンクリートに埋設された鉄筋は腐食しない。鉄筋コンクリートに使用する鉄筋には、JIS(日本工業規格)で定められています。JISでは鉄材に含まれるCSiMnPSの5つの化学成分と降伏点、引張強さ。伸び率、曲げ性の四つの機械的性質からSD295ASD295BSD345SD390SD490の材質が決められ、さらに直径、断面積、節の状態等により9つの製品があります。
25)第2トンネル東口
 写真は第10号橋からの眺めです。第2トンネル東口にかかげる扁額は、初代外務大臣、農商務大臣、明治25年には内務大臣を務めた井上馨の「仁以山悦智為水歓じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ」(仁者知識を尊び、知者は水の流れを見て心の糧とする)である。
 第2トンネル東口から西口間のハイキング観光コースは一部市街地に入る。ここには標識がないうえに琵琶湖疏水に入る道が狭く見つけ難い難点ある。

 
           第2トンネル西口
 
          新山科浄水場取水池

26)第2トンネル西口
 第2トンネルは124㍍と非常に短いトンネルでまた第2トンネル西口から第3トンネル東口までの距離も264㍍とこれも短い。
 西口の扁額は初代海軍大臣、明治25年には元老として枢密院顧問官になった西郷従道つぐみちの「随山至水源やまにしたがいてすいげんにいたる」(山にそっていけば水源に辿り着く)である。西郷従道は西郷隆盛の実弟で西南戦争では敵味方にわかれた。しかし、隆盛と従道との兄弟の仲は悪くなかった。隆盛は戦争に反対であった。しかし、隆盛が創設した私学校の生徒が中心となり政府軍の火薬庫を襲い武器弾薬を襲った。隆盛はもう彼らの不満を抑えるのは不可能と考え、体を彼らに預けるた、そして戦争の作戦は一切しなかと伝わる。
27)山科浄水場取水池
 第2琵琶湖取水口より汲み上げ新水山科浄水場へ送水するための貯水池である。尚、京都上下水道局には、蹴上浄水場、松ヶ崎浄水場、新山科浄水場の3箇所の浄水場があるが、その内新山科浄水場は最大の浄水場である。

 
    第11号橋(日本最初の鉄筋コンクリート橋)
 
           第3トンネル東口

28)第11号橋(本最初の鉄筋コンクリート橋)
 第3トンネル東口の約50㍍手前にある橋は、日本最初の鉄筋コンクリート橋で、幅1.5㍍、長さ7.2㍍、明治36年(1903に建設されたもので、現在は鉄製の手すりで補強されています。碑には「本邦最初鐡筋混土橋」と書かれている。
28)第3トンネル東口
このトンネル入り口に架る扁額は「過雨看松色かうしょうしょくをみる」(時雨が過ぎ去れば、一段と鮮やかな緑となる)松方正義の揮毫である。松方正義は、内閣総理大臣を2度、大蔵大臣を7度務め、日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通で、薩摩藩出身の大物の一人である。
 ハイキングコースはここまでである。いままで山側に蹴上に通じるハイキングコースはあったが、山の所有者柵を設置し進入を拒否された。
 第3トンネルの西口、第2琵琶湖疏水トンネルの出口は、蹴上疏水公園の中にある。 蹴上疏水公園に進むためには国道143号線を通る。

 
            ねじりまんぼう
 
           第3トンネル西口

30)ねじりまんぼう(斜拱渠しゃぎょうきょ
 国道143号線を西に進むと蹴上疏水公園(呼称)に出会う。公園は国道143号に面し、1段高い地にある。国道の右(北側)にねじりまんぼうというトンネルがある。このトンネルを潜ると右側(東側)に公園の入口がある。
 ねじりまんぼは通称で、正式には斜拱渠とよばれる。鉄道路線等でレンガを螺旋状に積むことがある。これはトンネルの強度を保つための工法で日本では30例程が確認されている。まんぼうとはトンネルの意味とか。 ここにも北垣国道京都府知事の扁額「雄観奇想ゆうかんきそう」(見事な眺めとすぐれたかんがえである)がある。
31)第3トンネル西口と第1疏水、第2疏水合流池
 第3トンネルを出るとそこ
は蹴上です。しかし蹴上という地名はなく京都市山科区です。ここには、浄水場、船溜、インクライン、発電所、疏水公園、疏水記念館など琵琶湖疏水にかんけいする施設が多くあります。
 蹴上の由来は、安元3年(1177)の秋、牛若丸が金売り吉次に伴われて奥州を目指して下る途中、たまたまここを通りかかった平家の武士関原与市重治の馬が水溜りの水を蹴りかけてしまった。牛若丸がその無礼を咎め与市を切り捨てたことからこの地区を蹴上とよぶようになったという(謡曲では美濃の出来事とされている)。
 第3トンネル西口は、第1疏水、第2疏水合流池に繋がっています。 
 ここの扁額は三条実美の「美哉山河うるわしきかなさんか」(なんと素晴らしい山河であろう・国の宝である美しい山河を守るには、為政者の徳と国民の一致が大切)

 
             蹴上船溜
 
           三十石船台車
 
            インクライン
 
             南禅寺船溜

 32)蹴上舟溜
  琵琶湖から疏水を通ってきた三十石舟は、蹴上舟溜めで台車に乗せられ疎水からきりはなされる。
33)インクライン(傾斜鉄道)
 琵琶湖疏水の主な目的は、飲料水の確保と水運、それに水力発電があった。水力発電には落差が必要です。そのため琵琶湖から、蹴上舟溜までの傾斜は最低の勾配(トンネル内は1/3000=3Km進んで1㍍下ル)にしてあります。その結果蹴上舟溜と南禅寺舟溜間の落差が38㍍になりました。落差の大きい場所は船の運航はできません。そこで、台車に船を乗せて上下させるインクライン(エレベータ方式・傾斜鉄道)で運行したのです。
 蹴上インクラインは蹴上舟溜と南禅寺舟溜を結ぶ延長640㍍、敷地幅22㍍、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転した。通過時間は10分から15分だった。インクラインの全長640581)㍍で建設当時世界最長であった。
(34
)南禅寺船溜

 南禅寺船溜ふなだまりは、インクラインの最下端であると同時に鴨東運河おうとううんがの始点となり、琵琶湖疏水記念館、旧インクライン機械室、噴水等疎水関連の見どころが多い
33)京都市の浄水場

 
             蹴上浄水場
 
            新山科浄水場

 京都市には三つの浄水場がある。1,453,668人の給水人口に対し、1519,9923(平成26年度)の水道水を給水し、その水源の殆どは琵琶湖疏水である。
 3浄水場の概要は以下の通りである。
・蹴上浄水場
   蹴上浄水場は京都市で最初の浄水場す。明治中期の京都では井戸水の汚染が問題となっていまし
  た。当時は、多くの家庭で井戸水を使用していましたが、衛生面で問題が多く、伝染発生していま
  した。しかも、東京・大阪・横浜等の大都市ではすでに安全な上水道を供えていました。

   そこで新市長の西郷菊次郎は、明治39年(1906)に三大事業の一つとして上水道新設打ちだし、
  市会で可決されました。そして明治も終わりが近づいた明治45年(1912)3月、日本最初の急速濾
  過式を採用した浄水場として蹴上浄水場が竣工しました。

    現在の浄水処理能力は、1198,0003で(立方メートル)です。
・松ヶ崎浄水場(左京区)
   施設能力 1211,000 
   昭和2年(1927)6月、緩速濾過式の浄水場として竣工し、その後水需要の拡大に対応するため
  に急速濾過式に海造した。

・新山科浄水場(山科区)
   施設能力 1362,000 
   昭和45年(197011月竣工・同市最大の浄水場で。琵琶湖から取水していりほか、宇治川からも
  一部取水が可能。

・浄水処理法
  水道水を作るための浄水処理法には大きく分けるとイ)緩速ロ過方式とロ)急速ロ過方式がありま
  す。

   イ)緩速ロ過方式は、砂ロ過池を用い、砂層で異物を除去すると同時に砂層の表面 に微生物が付着
   して生物膜を形成しています。そし汚濁物質は微生物の餌ですから、汚濁物質は生物膜で吸着除
   去され、薬品を使用しないため、臭い(カルキ臭)不快味がなく、水質は良好ですが、処理に時
   間がかかり設備が大きくなります。

      

  ロ)急速ロ過方式
   急速ロ過方式は、PAC(ポリ塩化アルミニウム)、硫酸アルミニウム(硫酸バンド)、消石灰(水酸
  化カルシウム)とうの凝集剤を加え、沈殿させて汚濁物質を除去する、化学的処理法で、処理速度
  が速く、処理設備が小さくなり、狭い場所で大量の水道水を作ることが可能になりますが、欠点と  して、薬品を添加するため、不快な味がする、臭い(塩素臭)がすると言う苦情が出る可能性があ
  ります。特に水質の悪い淀川下流などは、しかし、これらの問題に対してオゾン処理、活性炭処理
  、生物処理等の高度処理法で対処されています。

    

34)扇ダム
  琵琶湖疏水で水運用に使われた大量の水運用水は蹴上舟溜で舟を切り離し役割1つを終了する。松ヶ崎浄水場への水源はトンネルで送水され、疏水分線に必要以上の水は、扇ダムで滝となって流下します、その大半が発電に使用される。
35)琵琶湖疏水発電施設群
  イ)蹴上発電所
   琵琶湖疏水を利用した発電所は、蹴上発電所、夷川発電所、墨染発電所の三つ あります。明治23
  年(1890)に通水を開始した琵琶湖疏水第1疏水に関連して、翌明治24年(1891)6月に第1期蹴
  上発電所が運転を開始した。営業用としては
日本最初の水力発電所である。
   世界で最初の水力発電は明治11年(1878)英国のウイリアム・アームストロングで、これは自家
  発規模です。明治23年(1891)米国コロラド州のアスペン社が営業規模水力発電所の開発に成功し
  ています。琵琶湖疏水建設の責任者田邉朔郎は、アスペン社の技術をとりいれ、1年後の明治246
  月に蹴上発電所は運転開始しています。これは営業規模の水力発電所として世界で2番目であった可
  能性があります。

   戦時中の配電統制令により、昭和17年(1942)、蹴上・夷川・墨染の3水力発電所は京都市から
  、関西電力に移管されましたが現在も稼働中であす。

   発電量 最大出力4,500kW 正味年間発電量16.7kWh(2013-2015年3ヵ年平均値)

    
               扇ダム
 
           鉄製水圧管
    
             蹴上発電所
 
           夷川発電所

 ロ)夷川発電所
   明治45年(1912)の第2琵琶湖疏水完成に伴い、大正3年(1914)4月に運 転を開始した。現在
  は蹴上発電所と同様関西電療の管轄かにある。平成13年(2001)に「琵琶湖疏水の発電施設群」と
  して、蹴上発電所、墨染発電所とともに土木学
会選奨土木遺産に認定されている。
   発電設備は水路式(流れ込み式)認可最大出力300kW、常時出力280kW、最大使用用水量は13.91
  m/s、常時使用水量は9.41/s、有効落差3.42㍍である。
 
 ハ)墨染発電所
   夷川発電所と同様、明治45年(1912)の第2琵琶湖疏水完成に伴い、伏見インクラインの落差を
  利用し大正3年(1914)4月に運転を開始した(戦後使用中止、昭和34年撤去)。現在は蹴上発電
  所と同様関西電療の管轄かにある。平成13年(2001)に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、蹴上
  発電所、夷川発電所とともに土木学会選奨土木遺産に認定されている。

   発電設備は水路式(流れ込み式)認可最大出力2,200kW、最大使用用水量は20.00/s、有効落
  差14.31㍍である。

 ニ)水力発電方式
   実用化されている水力発電の方式には、ダム式と流れ菰式の二つの方式がある。
  ・ダム式は、落差を利用する方式で蹴上発電所はこの方式である。
  ・流れ込み式は、ながれる水の力を利用する方式で、夷川、墨染発電所はこの方 式です。

   
          蹴上船溜の貯水池
 
            疎水分線

37)疏水分線
 疏水建設当初の目的は。交通・運輸が第一で、灌漑、水車、飲料、清掃、消化などが視野に入れられていた。なかでも水車の動力による製造業の近代化は京都の経済基盤強化に不可欠であると期待も大きかった。ところが、水力発電の登場によって動力元は水車から電力へと比重が移された。
 水車の動力の必要性が薄まった結果、南禅寺界隈お工業地化は必然的にその根拠おうしなうことになった。鹿ケ谷に予定していた大水車場計画お白紙に戻された。変わって登場したのが風地地区である。蹴上舟溜貯水池には各庭園取水口が多くある。扇ダムで大量の水が発電用水等として放出し、残りの水は、蹴上貯水池に入ります。
 疏水分線の利用目的は当初、水車用水、灌漑用水であったが、灌漑用水、水車用水に代わり、高度を下げながら北に向って流、その先端は高野川、賀茂川を潜り、堀河に接続する。分線には多くの放流口があり、京都市の地形は北から南に傾斜しているから、疏水は自然の傾斜を利用し京都市の広域の灌漑または水車用水として送水している。水車は主として精米所動力源として使用された。
38)水路閣
 琵琶湖疏水の分線にある水路橋で水路閣と呼ばれています。南禅寺境内を通過するため、周辺の環境に配慮して田辺朔郎がローマの水道橋を模して設計、デザインした。全長93.2㍍(幅4㍍、高9㍍)レンガ、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、明治23年(1890)竣工しえいます。

 
             墨染船溜
 
            濠」川伏見運河

39)運河(大津~伏見)
 琵琶湖疏水の最初の主目的は輸送であった。琵琶湖疏水の運河には、大津運河(琵琶湖取水口~代1トンネル東口)、(第1トンネル西口~山科安朱橋)、山科運河(山科安朱は橋~蹴上舟溜)、鴨東運河(南禅寺舟溜~鴨川冷泉放水口)、鴨川運河(冷泉放水口~伏見区堀詰)5つの運河がある。
 疏水運河(大津~岡崎)の使用は明治24年(1891)6月から通船が許可され、明治28年(1895)からは岡崎から伏見までの鴨川運河の使用も開始された。
 運河使用には貨物を運輸船と旅客船、遊覧を目的とした渡航船があった。明治24年には輸送船589船、渡航船814船、乗客数6713人だったが、明治26年(1893)運輸船7217船、渡航船12540船、乗客数108370人、明治31年(1898)には輸送船11718船、渡航船20228船、乗客数166197人だった。
 しかし大正にはいると京津電車や京阪電車の開業により乗客数は急激に減少した。運輸船数は昭和初期には大正期の半数に落ち込、昭和26年(1951)に運輸は終焉を迎えた。
40)産業の発展
 明治初頭、岡崎地区は畑地が広がっいていたという。疏水本船である鴨東運河は、仁王門通り・冷泉通に沿う2箇所で直角に曲折して夷川から賀茂川まで西進することで、広大な空閑地に疏水に縁取られた街区と水辺が誕生した。明治35年京都市はこの地を疏水検閲用地として買収いた。こうした疏水の「人工浜」は商工業の発展を見込まれて民間に払下げられ、舟運、水車動力、水力電機、工業用水、庭園揚水などに疏水が利用され、水辺に多彩な文化と産業が溢れた。明治28年(1895)に京都電気鉄道会社が誕生し、日本最初の市街電車が開業し、京都市内外から多くの観光客が訪れた。
 琵琶湖疏水開発後、鴨東運河沿線の空地には、原料、製品の輸送、工業用水も豊富なため舟運送業や工場が相次いで進出し、蹴上発電所お電力供給とあいまって機械工業や繊維機械などの大規模工場が建設された。蹴上発電所は、明治24年(1891)、京都に日本で初めての事業用水力発電所が完成し送電を開始し、電灯・電気鉄道、時計製造、綿糸紡績、伸銅等さまざまな産業の動力源となった。
 琵琶湖疏水とその後鴨川運河の完成後。岡崎から伏見までの疏水沿線には酒造や窯業等の既存産業に加え、撚糸や伸銅等の工業が新たに登場した。
 明治37年(1904)から昭和16年(1941)までの「全国工場通覧」では、岡崎から伏見までの間で伏見町に最も多くの工場が見られそれに岡崎がつぐ。伏見では明治37年に2者の工場が明治44年に113者に急増している
41)ローマ水道

 
         南禅寺・水路閣
 
        ローマ水道橋ポン・デュ・アール

 田辺朔郎は、南禅寺の境内に水路橋を通すにあたり、そのデザインを重視し、ローマの水道を参考にしたとされています。ローマの水道はどのようなものであったか。
 ローマ水道は紀元前31年から3世紀にかけて古代ローマで建設された水道。これらの水道は古代の土木建築で最も偉大な業績の一つであり、現代においても古代の水道は多くの人に実用されている。
 何百もの類似な水道がローマ帝国で建築されたが、多くは崩れたり破壊されたたが、いくつかは無傷の残っている。中でもフランスのポン・デュ・ガールとスペインのセゴビア水道橋ハ著名である。
 水道の測量と建設の方法はヴィトルヴィウスの本(BC1世紀)に記されている。水路に低い勾配を勧め、更に1:4800以下にしないことを勧めた。この値は現存する石造りの水道測定された傾きと十分に一致する。ポン・デュ・ガールの傾きは1kmあたり34㎝で、全長50kmで垂直に17mした降下しない。これにより1日当たり20,000を輸送できた。
 ローマ市の水道の道管を合わせた長さは780km800kmの中間にある。

 



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