京都・朱雀錦
(69)「京都五山・相国寺




万年山相国承天禅寺・総門(京都府指定文化財)


         京都五山・相国寺
 相国寺は、京都市上京区相国寺門前町701にある臨済宗相国寺派大本山の寺で、正式名は万年山相国承天禅師、本尊は釈迦如来、開基・足利義満、開山・無窓礎石である。足利将軍ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり。画僧の周文や雪舟は相国寺お出身である。また、京都の観光名所として著名な金閣寺(鹿苑寺ろくおんじ)銀閣寺(慈照寺じしょうじ)は、相国寺の山外塔頭さんがいたっちゅうである。全国の末寺は、北は北海道から九州に至る百余カ寺を擁する。


             Ⅰ.相国寺の歴史
(1)相国寺の沿革
 相国寺は、京都市の中心部に広がる京都御苑の北に位置する。御苑の北門、今出川御門から今出川通りを北にわたって、東西に向かい合う同志社大学と同志社女子大学の間を真っすぐに参道が相国寺の総門にのびている。この地は、出雲寺という大寺院のあった場所とされている。
 相国寺創立当時の総門が室町一条にあったといい、一説に、足利将軍家の室町邸の総門と兼用であったともいう。寛正4年(1463)の「蔭凉軒日録」の記事によると、一条を以て南の基準とすることができる。そして北は上御霊かみごりょう神社の森、東は寺町。西は大宮通りにわたり、二十町四方を領有していたということである。坪数でいうと144万坪となる。その後、天和2年(1682)7月の調書によると、東西四町、南北六町とある。
 現在、相国寺の南側にある同志社大学および北にある成安女子学園、烏丸中学などの各学校の敷地の大部分は、天明の大火災後、復興の出来なかった寺院や、明治維新に廃合した寺院の跡である。現在はそれでも約4万坪ほどあり、幕末にようやく諸堂の再建を見、旧観を復するに至ったのである。

(2)出雲寺

 かってこの一帯は山背国愛宕郡出雲郷とよばれ遷都の平安時代以前から出雲族の居住する地域であった。出雲族は。
 古墳時代の出雲郷では、出雲国意宇おう(島根県東部)から移り住んだ集団が稲作を始めた。出雲氏は、出雲国造の天穂日命アメノホヒノミコトを祖神とした。8世紀前半、洛北は山背国(平安時代以降は山城国)愛宕郡に属した。律令制下「里」「郡」「国」が整備され、この地には行政村落「出雲里」(50戸)が置かれた。当時の1戸は、1030人の家族であったから5001500人の村落であったと思われる。人々は農耕、漁業、鋳物、木工。紙漉きなど優れた手工業の技術を持っていたし、また鉄製品を生産していたこともわかっている。奈良時代には文字が書け、計算能力のある者もおり、多数の下級官人を輩出した。
 壬申じんしんの乱の際に出雲狛いずものこまが大海人皇子おおあまのおうじ(天武天皇)の将軍として大友皇子軍を玉倉部邑たまくらべむら(滋賀県米原町)迎撃し。さらに琵琶湖の西の三尾城を陥落させ勝利に導いた。その功績により、「臣」の地位を獲得している。
 奈良時代養老元年(717)行政区域の再編成が行われ、「里」は「郷」になりその下に「雲上里」「雲下里」が新たに置かれる。出雲路橋西岸と東岸(下鴨)には、山背国愛宕郡出雲郷があった。以後、鞍馬口通りを挟んだ南北を出雲路と呼ばれるようになった。
 出雲氏の発展の象徴が「上出雲寺」の大伽藍である。「山城名勝志」によれば、上出雲寺には南大門と中門があり中門を取り囲んで廻廊がめぐらされ、金堂、講堂、食堂、鐘楼、経蔵、三重塔が2基あり、出雲氏の繁栄を忍ばせるものであったが、その繁栄は長くは続かなかった。
 平安時代に下出雲寺が作られた、これが伝教大師開創の出雲寺でないかと言われる。その場所は、相国寺の辺であったといわれるが、特定されていません。 

(3)足利義満
 足利義満(在位13681394)は、室町時代前期の室町幕府第三代将軍である。父は第二代将軍足利義詮よしあきら、母は側室の紀良子きのよしこ。正平13/延文3年(1358)8月22日、京都春日東洞院にある幕府政所執事・義満養育掛かり伊勢定次入道照禅の屋敷で生まれた。祖父尊氏の死から丁度100日目のことである。幼児期は伊勢邸で養育された。義満は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折してその後幸子との間に子は無く。義満は嫡男として扱われた。
 義満が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の攪乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。
 延文3年尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍義詮の最初の執事に細川清氏が任ぜられた。清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り国分の若狭において半済はんぜい(年貢の半分の徴収)を強行するなど強引な行動があり、幕府ないでも仁木義長等政敵が多く、将軍義詮にも逆らうことが多かった。
 正平15/延文5年(1360)義詮は細川清氏を追討した。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武士が南朝勢力に加担し、承平16/康安元年(136112月、細川清氏・楠木正儀まさのり等は京都を奪取した。義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、則祐により義満は養育される。翌年、幕府。北朝側が京都を奪還したため帰京するが、帰途摂津で泊まった際にその場所(明石・須磨あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。
 京都に帰還した義満は新しく管領となった斯波義将に養育され、正平19/貞治3年(1364)3月に歳で初めて乗馬した。正平20/貞治4年(1365)には矢開の儀を行い、6月には7条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。正平21/貞治5年(136612月7日には後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられた。
 正平21/貞治5年(1366)8月に貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚した。斯波高経は、将軍義詮の信任を受け、貞治元年(1362)には4男義将を執事に推薦、5男義種を小侍所、孫の義高(次男氏経の子)を引付頭人、幕府中枢の要職を一族で集中させていった。こういった斯波氏の動きに対して佐々木道誉どうよら有力守護らは反発を強めた。貞治2年(1363)南朝軍の摂津侵入を阻止出来なかったことから、高経は、道誉の摂津守護職を解いた。貞治3年(1364)三条坊門に幕府の御所が造営され、各守護に普請が割り当てられたが、赤松則祐の工期が遅れたとして則祐の所領を等があったなど、道誉らと高経の対立は抜き差しならぬのものとなっていた。
 貞治5年(1366)9月13日、将軍足利義詮は、突然、斯波高経の陰謀が露顕したと称し、軍勢を三条坊門に集結させ、高経に対し「急ぎ(守護国へ)下向すべし。さもなくば治罰する」と命じた。抵抗出来ないと悟った高経は翌9日、自宅を焼き払い、越前に落ち延びた。
 斯波高経・義将父子が失脚すると、細川頼之が後任の管領に任命された。
 正平22/貞治6年(136711月になると父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、1125日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。朝廷は12月3日に義満を正五位下・左馬頭に叙任した。12月7日に義詮は死去し、義満が第三代将軍おして足利将軍を継いだ。
 正平23/応安元年(1368)に評定始が行われ、4月には管領細川頼之を烏帽子親として元服が行われた。こにとき。加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。正平24/応安2年(1369)には正式に将軍に就任した。幕府は管領細川頼之を始め、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統計を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。文中3年/応安7年(1374)には日野業子なりこを室に迎えた。

(4)夢窓礎石(12751351
 夢窓礎石は、鎌倉時代末から室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧、父は佐々木朝綱、母は平政村の娘。伊勢國の出身。幼少時に出家、1283年甲斐市河荘のの天台宗寺院平塩寺に入門して空阿に師事、1292年に奈良の東大寺で受戒する。京都は建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。鎌倉へ赴き、円覚寺の桃渓徳悟、1299年には建長寺の一山一寧のもとで主席を務めるも嗣法には及ばず、1303年には鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び。1305年には浄智寺で印可を受ける。同年甲斐牧の荘の浄居寺を創建。1311年龍山庵(後の天龍山栖雲寺)を結び一時隠棲する。西遊して1313年美濃国に古谿庵、翌年に同地に観音堂を開いた。
 正中2年(1325)に後醍醐天皇の要望により上洛。勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌1326年には職を辞し、かって鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた。北条孝時に招かれ、伊勢國で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高塒や北条貞顯からの信仰を得る。1330年には甲斐に恵林寺を開き、再び瑞泉寺に戻った1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も無窓を師と仰いだ。翌年には再び南禅寺の住職となる。1335年に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられた。
 建武政権から離反した足利尊氏や弟の足利直義らは北朝を擁立して京都室町に武家政権(室町幕府)を設立した。暦応2年/延元4年(1339)に幕府の重臣(評定衆)である中原親秀に請われ、西芳寺の中興開山を行う。夢窓は足利家の内紛である観応の攪乱では双方の調停も行い、この間に北朝方の公家や武士が多数、夢窓に帰依した。後醍醐天皇の死後、夢窓の勧めで政敵であった尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、その開山となった。この建設資金調達のため1342年に天龍寺船の派遣を検索し、尊氏は資金を得ることが出来た。

(5)春屋妙葩しゅんおくみょうは 
 春屋妙葩(13121388)は、室町時代の臨済宗の禅僧である。室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となるが事実上の開山国師である。
 甲斐國(山梨県)の生まれ、姓は平氏、7歳の時、母方の叔父である夢窓礎石について出家、夢窓の下で受戒する。観応2年(1351)に夢窓が77歳で没すると、すでに一流の禅僧に成長していた春屋は、「夢窓国師年譜」を撰し、教えを集めた法語集「西山夜話」を世に出した。室町幕府初代将軍足利尊氏は夢窓の後継者として春屋に目をつけ、延文2年(1357)に等持寺(等持院の前身)に高じ請じている。同3年に天龍寺が焼失した際は、自ら復興の幹事を務め、土木の労役の先頭に立った。その熱意と誠意ではほどなく旧観に復したという。康安元年(1361)に今度は臨川寺が火災にあうと、同門諸老の間に「春屋でなければとても復興の見込みなし」との意見が一致、春屋は再三辞退したものの、11月に住職を托され復興工事を完成させるに至った。天龍寺の住職当時、五山第一の南禅寺造営の命を受けたが、山門の新築に際して三門の造営費を捻出するため通行税を徴収したのですが、そこを園城寺の小僧が通行税を払わずに通行しようとしたため関守と喧嘩になり、小僧は殺されてしまいます。
 起こった園城寺側が今度が、南禅寺の関所へ殴り込みをかけ2名の僧が殺され、まず京都五山対園城寺の抗争になります。その園城寺に延暦寺と興福寺が味方し禅宗対旧宗教というかたで更にヒートアップするのですが。正平22/貞治6年(136712月将軍足利義詮が亡くなり争いは小休止となります。
 ここで、終わっておれば良かったのですが、南禅寺の僧・定山祖禅がその著書「続正法論」の中で「禅宗以外は邪法である」と非難したことから騒ぎは再燃しました。特に、延暦寺の坊主は猿・園城寺の坊主はガマ蛙と名指しで中傷されたから、延暦寺と園城寺の怒りは収まりません。
 平安時代から続くお得意の神輿動座しんよどうざ(日吉神社の神輿を奉じて入京する行事)を行い、建設中の山門の破却と禅宗界の最高責任者春屋妙葩の流罪を要求したのです。幕府は軍隊を動員して内裏や南禅寺を警護しました。
 この時の管領は細川頼之です。もともと南禅寺の建設を幕府が支援していることもありう、最初の内は延暦寺の要求を拒否していたが、朝廷の仲立ちと幕府ないの妥協派の意見におされ、結局祖禅をと遠江に流罪にしました。しかし、それでは延暦寺は納得せず、やむなく山門の破却をみとめたのです。春屋は頼之と対立して天龍寺住職を辞し、勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲しました。
 天授5年/康暦元年(1379)の康暦の変で頼之が失脚した後春屋妙葩は入京し、南禅寺住職として復帰した。
 第三代将軍足利義満の帰依を受け、同年1010日、初代の僧録となる。同年、義満の要請により全国の禅寺を統括。その後。嵯峨宝幛寺を開山。さらに義満は相国寺を創建すると春屋に開山第一世をじたが、春屋はこれを固辞した。やむなく師の夢窓礎石を開山始祖とし、春屋は第二世住持となった。実質的には春屋が相国寺を開きB、五山十刹制度を作り五山派を起こした。五山版の刊行なども行い五山文化の発展に寄与した。また多くの弟子を育て、彼らは日明貿易を行う際に幕府の外交顧問となった。相国寺住持就任以後。嘉慶元年(13879月には鹿王院に移り、ほぼその1年後の嘉応2年8月、同院にて示寂した。

(6)花の御所
 室町時代の初期、後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住み、二代将軍の足利義詮は父の命で鎌倉から京都に戻った際に足利義直が住んでいた三条坊門に入った。将軍就任後に元の三条坊門第は、直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のことである。
 義詮は、室町季顕(藤原北家西園寺庶流室町家6代目・参議・權中納言)から、その邸宅である花亭を買い上げて別邸とし、後に足利家より崇光上皇に献上された。崇光上皇の仙洞御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。
 三代将軍足利義満は、天授4年/永和4年(1378)に崇光上皇の御所跡と今出川公直いまでがわきんなお(従1位・左大臣)の邸宅である菊邸跡地を合わせた敷地(東西1町、南北2町)に足利家の邸宅を造営した。敷地だけでも御所の二倍にも及ぶ規模の将軍邸は公卿社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねていたと思われる。
 また、弘和2年/永徳2年(1382)には花の御所の近くに相国寺が創建され、三条坊門第」の側に会った等持寺(その後衰退し現在の等持院に吸収された)と並んで足利市の菩提寺としての役割をはたした。
庭内には鴨川から水を引き・各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた


(7)相国寺の創建
 京都の真ん中を縦貫する大通り・烏丸通りを北上すると。ほぼ京都の中心あたりに京都御所がある。この御所の北約300mほどのところに位置するのが相国寺である。
 この地はもと出雲寺のあった場所で、相国寺創立当時は総門が室町一条にあったといい、一説には、足利将軍の室町邸の総門と兼用であったとも言われています。
 永徳2年(1382)の秋は、足利三代将軍義満にとって実に記念すべき年であった。かねてからひそかに一禅苑を建立しようと思い続けていたことが、」ついに実現したからである。9歳の時、父義詮の死によって家を継ぎ、翌年わずか10歳で将軍職につき、細川頼之の補佐を受けながら、地方の有力な守護大名を制御して将軍の地位を確立し、室町に「花の御所」を造営して幕府を移し、ようやく幕府の基盤を固め、天下にその実力を示しつつあった時期である。しかし世の中はいまだ南北朝の分裂が続いていた、頼之らの努力で何とか統一の兆しが見え始めていたころでもあった。
 貞治6年(1367)9月29日、義満は天龍寺に参詣し、住持の春屋妙葩しゅんおくみょうはから仏弟子として受衣じゅえ(弟子が師から法を受け継いだしるしとして、僧衣を受けて着ること)していた。9歳の義満と57歳の春屋との初めての出会いであった。以来春屋は少年将軍の心の師として陰に陽に義満を補佐したのであった。義満も、相次ぐ戦乱と守護大名たちの離反等の困難な問題が彼の心を苦しめ続けていたのだが、その心の重圧を跳ね返し、立派な将軍となるべく、坐禅修行の道を選んだのは当然であったろう。夕刻から朝まで座禅道に励む程の熱心な求道者となったのである。そうした禅的讃仰さんごう(教示を受ける対象として仰ぐ)の純真な気持ちの発現が相国寺の創立となったのである。
 永徳2年9月29日、嵯峨の三会院さんねいんにおいて夢窓国師の法要が営まれたが、それに参詣した義満は、春屋妙葩とその弟弟子の義堂周信の二人を招きよせ「私はこのごろ坐禅修行の重要性を特に感じている。一寺を建立して道心堅固な僧侶五十名ないし百名ほどを選んで居住させ、自分もまた何時となく僧衣を着けて寺に入り、皆と一緒に参禅修行したいのだがどうであろう」と相談したのである。勿論二人に異存ははなく、大いに賛成した。
 10月3日、義満は、再び二師を召して、「造寺のことを後小松天皇に奏請して勅許を仰がねばなら。ゆえに寺号を定めたいと思うがなにがよいか案はないか」と二師にはかった。
 春屋妙葩は「貴方はいま左大臣の位にあります。左大臣は中国では相国と言いますゆえ相国寺と名付けたらいかが」。義堂は「中国にも大相国寺という寺があり、大いに結構です。それに、新寺建立を天皇に奏上して天子の思召しを承わるわけであるがゆえに、承天相国寺としたらいかが」ここに三者の意が会い、一応寺号が定まったのである。次いで21日、義満は義堂と新しい寺の規模、僧の人数などをはかったのに対し、義堂は「従来開かれた禅苑としては、鎌倉の建長、円覚、京都には南禅寺。天龍寺などいずれも千人以上の僧衆を入れるだけの規模宏大です。せっかくの発癌ならば、仏種紹隆ぶつしゅしょうこう(先人の起こした、仏の教えを導く事業をさらに発展させること)のために大寺院を建立されよ」と勧告した。
 義満はこの言葉に励まされ、ついに大伽藍の創立を決意したのであった。
 当時義満は室町幕府「花の御所」と呼ばれた室町第だい(立派な家、邸宅)におり、したがって新寺院は当然ながらそのすぐ近くに建てられねばならぬ。そこで幕府の東隣にある安聖寺付近と定められ、早くも屋敷の移転が始められた。当時は御所に仕える公家たちの屋敷が立ち並んでいたのだが、貴賤によらずみな他所に移転され、その有様は、まさに平家の福原遷都にも似た、かなり強引なものであったらしい。
 1029日には早くも法堂はっとう、仏殿の立柱りっちゅう(造作の事始め)が兼ねて行われ、厳命のもとに迅速に工事は進められていった。春屋妙葩が常に最高責任者として工事の陣頭指揮をとったのは勿論、義満自身も度々現場におもむいて、工事の進行状況を視察している。伊予の河野は材木を搬し、また天下の諸侯に課して工役に服せしめている。
 永徳3年(13851213日、春屋妙葩が新住持として入寺。翌14日、大仏殿の基礎工事に、亀山法皇が南禅寺仏殿勅建の際の霊に倣い、また祖父尊氏の天龍寺仏殿建立の先例により。義堂和尚と対担してもっこを担ぎ、土を運ぶこと三度に及んだという。義満の新寺建立にかける熱意のほどがうかがえる。
 義満は相国寺お是非とも五山に列したかったが、すでに五山は定まっており、その点で苦慮していただが。義堂の「唐には五山の上というのがあり、天皇の建立である南禅寺を五山の上位にすれば」との進言に大いにその意を得、さっそく南禅寺を五山の上位とし、相国寺を五山の第二位に列位した。
 春屋妙葩はすでに76歳の高齢であり、相国寺建立も軌道にのり、その見通しもついたので、11月に法灯を空谷明応に譲り退職された。勿論その後も義満、空谷らを支援しつづけたのであるが、嘉慶2年(1388)8月13日未明、相国寺の落慶をみずについに示寂せられたのである。
 一方工事はどんどん進み。嘉慶元年(1387)7月梵鐘を鋳造し、同2年僧堂が落慶、明徳3年(1392)8月、さしもの大工事もついに完工をみる。そして28日、勅旨により慶讃大法会が修せられた。永徳2年着工以来、丁度10年の歳月を費やして完成した。

(8)開山夢窓礎石と春屋妙葩
 新寺創立に伴い、当然起こってくる問題は。開山始祖の件であった。義満は、当然師の春屋妙葩を開山に願っていた。時あたかも春屋は、永徳3年101日、天龍寺の住持を除き、塔頭の金剛院におられた。義満は自ら金剛院に赴き、辞をつくして新寺の開山にと懇願したのである。義満としては仏道修行の師であると同時に。春屋の寺院造営工事における数々の実績に基づいて、その才能を誰よりも高く評価していたので、新寺の開山には彼をおいてはない。と決めていたのである。しかし、春屋は謙譲の徳深く、かたく辞退して受けず、時の名宗匠の幾人かを列挙されたのであるが、いずれも義満の気に入るはずがなかった。そこで春屋はやむを得ず「しからば先師七朝帝師しちちょうていし、夢窓礎石を追請して開山始祖となし給わば、私は喜んで第二世の住持を掌つかさどりましょう」と折れざるを得なかったのである。
 後醍醐、光明。光厳帝にそれぞれ、夢窓、正覚、心宗と生前に、また後光厳、後円融、後花園、後土御門帝に、普済、玄猷、仏統、大円といずれも諡号しごう(死後に贈る名前)を賜り、すなわち七朝帝師としょうされた。
 夢窓の弟子は80数人と言われたが、東陵永璵とうりょうえいよ(中国曹洞宗の僧)が撰した塔銘によると20余人とされている。主な人々を挙げると、無極志玄、春屋妙葩、龍湫周沢、鉄舟特済、絶海中津、観中中諦、無求周伸らである。中でも義堂と絶海は五山文学の双璧とされ、鉄舟は文筆の傍ら元の雪窓の墨蘭を学び優れた墨絵を描き、春屋の弟子の玉畹梵芳ぎょくえんぼんぽうと並んでその代表的な存在としてちょめいである、そして、夢窓の滅後、会下を統括して夢窓派の教団を禅宗の過半数を占める大門派として発展し確立させたのは、相国寺の実際上の開山である春屋妙葩師である。春屋妙葩も全ての面で実に傑出しておられた禅僧である。しかしながら師の夢窓国師があまりにも高名であったたべ、その陰に隠れて、あまりに目立たなかった。

(9)-1・被災と復興(足利義満)
10年の工期をかけ、明徳3年(1392)に完成した相国寺は、それからわずか2年後の応永元年(1394)9月24日のこと、真歳しつすい寮という寮舎から出た火は、義満が精魂を傾けて建立した堂塔伽藍全部を忽ちのうちに焼き尽くしてしまったのであった。直歳寮とは現在の庶務のようなことをする寮舎で、本坊の内部に置かれていた。西隣の室町第にいた義満は炎に包まれる相国寺を見て、駆け付けたが如何にせん手をほどこす術はなかつた。
 その時、等持寺にいた絶海和尚は、知らせを聞くや早駕籠をとばして駆け付け、焼け跡に茫然とたたずむ37歳の将軍を励ますのである。
「昔インドの祇園精舎が「羅災した時、南天竺王は大願を起こして再興せられ、また中国の径山が焼けた時は、宋の理宗皇帝は勅命を降して再建せられた。殿下もまたよろしく復興の大願を発せられるよう」。
 この言葉に勇気づけられた義満は、直ちに再建に立ち上がった。この時、空谷明応が再び入寺して懸命に再建に努力するのである。義満としては、幕府の財政もそう豊かとは言えぬ時、まさに悲愴な決意であったろう。諸国の守護大名たちに段銭を課し、焼失してからわずか5ヶ月目の応永2年2月24日、まず仏殿と崇寿院との立柱が行なわれ、同3年4月には早くも法堂を再建し、6月新たに三世如来殿(旧仏殿)を開き、釈迦如来、無量寿仏、弥勒仏を安座点眼するまでに復興している。
 等持寺にいた絶海もい、資財を投じて昭堂(開山塔)を再興し、懸命に協力したのである。応永6年(1399)9月七重大塔が完成し、高さ三百六十尺(109m)といわれ天下の壮観なりといわれた。そして父義詮の三十三回忌供養が営まれ、義満は上下百官を引き連れて参詣し、行装華美を尽くしたといわれる。この大塔も、応永10年(1403)6月落雷によって焼失した。
 応永12年(1405)8月17日、第十三世在中中淹ざいちゅうちゅうえんが入寺し、その斡旋の力によって北条と蔵殿が相次いで落成した。こうして14年(1407)頃には全く旧観に復したのであるが、15年(1408)北山第(後の金閣寺)にいた義満が薨去した、享年51歳であった。

(9)-2・被災と復興(義持以後)
 ところが復興の歓びもつかのまの応永32年(1425)8月14日、塔頭賢徳院より出火した火は、折からの強い北風に煽られて瞬く間に相国寺を舐めつくしてしまった。輪蔵と勝定院及び大徳院、大智院、法住院、崇寿院等の塔頭諸院を残し、方丈、法堂、仏殿、三門等悉く灰燼に帰してしまったのである。この火災で僧3人と小僧2人の焼死者をだしている。
 今度の復興の重責は当時の31代住持誠中中欵と四代将軍義持であった。 早くも11月3日には仏壇の立柱式が行なわれたのであるが、この頃幕府の財政も苦しく、相国寺の寺領も次第に横領されて減収の一途を辿っていたので、その後の再建は遅々として進まなかった。
 話は戻るが、義持は応永30年(1423)3月1817歳の嫡男義量よしかずに将軍職を譲位した。大御所となった義持はまだ38歳であり、これは自らが父の義満に早く将軍職を譲られた例を踏襲したとされている。幕政においては隠居していた義持や有力管領らの存在もあって実権はないに等しかった。その第五代将軍足利義量は在位わずか2年、応永32年(1425)2月27日父に先立って急死した、享年19歳(万7歳)であった。義量には嗣子しし(跡継ぎ)がなく、また義持に他に男子がんかったため。義持ちが将軍代行として政務をおることになった。相国寺の火災はその後のことである。
 その義持も応永35年(1428)1月に病気になり危篤におちいっても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済や管領畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺寅山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。
 1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義円だった。このことから「籤引き将軍」ともよばれる。結果は19日に諸大名によって義円に報告され、義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため受諾した。
 幕閣は権力の空白状態を埋めるべく、1日も早く将軍就任を望んだが、義円は元服前に出家したため俗人としてはまだ子供扱いであり、無位無官だった。更に法体(僧侶の姿)の者が還俗して将軍となった先例がないと反対し、義円の髪が伸び元服が行えるようになるまでまつことにした。
 3月12日に義円は還俗し義宣よしのぶとなのり、従五位下左馬頭に叙任された。 正長2年(1429)3月15日慶宣は義教よしのりと改名して参議近衛中将に登ったうえで征夷大将軍となった。
 その後の相国寺の復興は六代将軍義教にかかってくる。そして父義満、兄義持の意を受け継ぎ、相国寺の復興に努力した。永享3年(143111月」大仏殿立柱、7年8月僧堂、10月3日山門、どう9年は法堂と各々立柱し、1110月鹿苑院、12年5月大宝塔など暫時再建が進んでいった。
 仏殿に安座する三尊仏を彫刻するに際しては、能登に絵画の面で大きな足跡を残した周文が活躍した。義教の命により、時の僧録宝山乾陳は周文をつれて建仁寺へ赴き仏殿の本尊を拝し、これを手本とすべく決定したのである。そして義教は彫刻に刻んで三尊の眼と鼻と口とにそれぞれ各一刀を打ち込んでいる。永享12年(144012月5日、三門の落慶法要が行われた。三門閣上に安置する十六羅漢のうち五体は義教が出資し、残りは時の抗争十一名に角体、彫刻了十五貫ずつ出資せしめたのである。そして本尊観音菩薩の脇侍、月蓋長者がつがいちょうじゃと善財童子の手本を求めて周文は、仏師たちをつれて奈良の東大寺へ行っている。しかし、このように復興に努力した義教もそれから僅か6ヶ月後の嘉吉元年(1441624日一条の赤松道助の邸で殺されてしまうのである。
 嗣子義勝はまだ8歳の幼年であ、つたが、将軍職に就かざるを得なかったこの幼い将軍も2年後の嘉吉3年7月21日、突如として早世してしまった。
 後継将軍には義教の五男の三春若君が選ばれた。後の義政である。相国寺の復興はこの幼い義政にはとても無理であったろう。義政の成人までは復興も遅々として進まなかった。しかし、義政も足利家の誇りをもって再建に立ち上がった。長禄2年(1458)2月13日、相国寺第63世仙巖澄安を再建奉行として春渓洪曹。順渓等助、徐岡梵詳の三名を評定衆として工事を進行していぅた。そして寛正4年(1463)2月、法界門などが落慶し、再び北の地に大禅刹が出現したのである。
 しかし、義政にしても、相国寺側にしても、間もなくやってくる応仁の第乱によって悉く焼土とかしてしまおうとは知る由もなかった。
*月蓋長者 古代インドの大富豪 仏の教えに従い弥陀三尊像を作り。記念し病気を鎮めたという。
善財童子 インドの長者の子供 仏教に目覚め文殊菩薩の勧めにより様々な指導者53人を尋ね歩いて
 段階的に修行を積み、最終的に普賢菩薩のところで悟りを開く。菩薩行の理想者


10)応仁の乱
 応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1478)までの約11年にわたって継続した内乱である。
 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍義政の継嗣争いもくわって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493)の明応の政変と並んで戦国時代以降の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。応仁元年に起きたことから応仁の乱とよばれるが、戦乱基の大半が文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれている。
●足利義政の八代将軍就任
 鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)などの宿老の影響を強く受けていた。また、同じようにその宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響力を受けていた。こうした環境は当時。家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家、守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を初精させる原因になった。室町幕府は、四代将軍足利義持の弟であり、籤引きによってえらばれた六代将軍足利義教が専制政治を曳いて守護大名を押さえつけ将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺されてしまう
 この混乱を収束させたのは管領細川持之と畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442)細川持之は隠居し翌年死去、七代将軍は義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝。義勝の同母弟である8歳の義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ。文安6年(1449)に正式に将軍職を継承した。
●勝元派と宗全派
管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。しかし、餅国には子がなく弟の持富を養子にむかえた。しかし、持国には子がいなかったため、弟の持富を養子にむかえていた。しかい、永享9年(1437)に義夏(後の8月)が生まれたため・文安5年(1448)に持富を廃嫡して義夏を家督につけ、将軍義政も認めた。しかし、重臣神保氏と游佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持富の子弥三郎を擁立すべきと主張した(持富は1452年に死亡)。このため享徳3年(1454)4月3日持国は神保を誅殺した。この畠山氏の内紛に対して畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下にのがれた。8月21日に弥三郎派が国持の屋敷を襲撃し、難を逃れた持国は8月28日に隠居させられた。義就が京都を脱出したため、将軍義政は屋三郎を家督継承者と認めなくてはならなくなった。1213日に義就が軍勢を率いて上洛すると、弥三郎は逃走し、再び義就が家督継承者となった。
 享徳4年(1455)3月26日に畠山国持は死去し、義就が畠山の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意として軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。長禄3年(1459)には弥三郎が赦免され、い上洛を果たしたが間もなく死去。変わって弥三郎の弟・政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。
 寛正元年(1463)9月2日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。
 足利義政は29歳になって、正室である日野富子や側室との間に後継男子がいないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え・将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門にいれ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年(14641224日。義尋は意を決して還俗し名を足利義視よしみと改めると勝元の後見を得て今出川邸にうつった。
 ところが、寛正6年(14651123日、義政と正室富子との間に男子(義尚)が誕生したのです。富子は実子・義尚の将軍職擁立を切望し山名宗全に接近し。義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を推す宗全の対立は激化し将軍の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。
●応仁に乱勃発と終焉
 文正元年(146612月、かねてから仲の悪かった叡山の僧兵と京極の入道達が、相国寺付近で武力衝突を起こした、荒法師たちが乱入した相国寺はまたたくうちに鹿苑院塔、南門、蔭凉軒東門、総門、鎮守堂等が焼かれてしまった。そこえもってきて、翌応仁元年(1467)かねてより、義政の後継将軍の問題を中心にして義政の弟義視を押す細川勝元と、義政の実子義尚を押す山名宗全とが積年の私憤も交え、互いに反目していたが、ついに正月18日、相国寺の北の上御霊神社のあたりで両軍が戦闘の火ぶたを切ったのである。
 細川方は相国寺に拠り、東の陣としたのに対し、山名方は西の方に陣した。今に残る織物で有名な西陣はこの時の山名方の陣地であった。細川は二十一州16萬人の兵を集め。山名方は十八州11万の兵をそして10月もって激しい戦闘を繰り返したのであるから、細川の拠点となった相国寺はひとたまりもなかった。そして10月3日西軍の激しい、復興まもない諸堂は、大塔を残すのみで、あとはことごおく焼き払われてしまったのである。
 戦いは延々と十一年間も続き、細川、山名が相前後して没したことによって両軍は次第に衰え西軍の投降によってさしもの大乱も終焉を告げたのである。
 この戦乱の際、横山景三、桃源瑞仙、景徐周麟などの名匠は難を避け江州jへ逃れたのだが、独り第42世瑞渓周鳳のみは、すでに引退の身であったが、かくのごとき大乱に処して踏み止まり少しもどうせず、70有余高齢にしてなお壮者をしのぐものあり、法道興隆の念をもって後進をを鼓舞されたことは特筆されることである。瑞仙は前後三回も僧録に任じたのである。
 一方相国寺の再建も徐々にではあるが進んでいた。文明5年(1473)義政は父義教の三十三回忌のため、焼けた普広院を陣中に建立し、鹿苑院塔二三の塔頭が出来ていた程度であったろう。
 文明10年(14781021日、法堂上棟式が行われ、いよいと本格的な工事が進められていった。続いて1115日だい72世維馨梵桂が入院し、法堂、三門等が復興し、1612月、小方丈が出来上がる頃になると、不完全ながらなにとか体裁もととのい、17年4月28日に横川景三が入寺する頃には、どうにか旧観に復していたようである、
 延徳2年(1490)正月7日、義政は自ら造営した東山山荘に置いて、56歳の波乱の生涯をとじた。山荘は直ちに寺となり、その法名慈照院殿により慈照寺()銀閣寺となった。義政は政治家としてよりも、むしろ文化人として数々の業績をのこした。かれの高尚優雅な好みのため美術工芸その他諸般の文化が大いに興り、我が国の文化事情一時期を画したので、これを東山時代としょうするのである。

11)戦国時代以後の被災と復興
 永承17年(1520)6月10日同族の細川高国との争いに敗れ阿波國へ退去していた父の死去により、細川晴元は7歳で家督を継承した。細川京兆けいちょう家(宗家・嫡流)の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の景勝時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。一方、仇敵の高国は将軍足利義稙を追放、変わって足利義晴を将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。
 だが大永6年(1526)7月13日、従弟の細川尹賢ただかたからの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の実兄波多野稙通達に背かれ、勢力の内部分裂を自ら招いた。そんな収拾のつかない敵方の窮状に漬け込むべく13歳の晴元は、三好元長に推された、同年10月に高国打倒の兵をあげた。同年内に記台まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。
 大永7年(1527)2月、桂川原の戦いで大勝し、高国政権は崩壊した。逃亡した高国は摂津國尼崎で捕縛し、尼崎の広徳寺で自害させ、亡父の仇をうった。
 それまでの権力者だった細川高国を滅ぼした晴元だったが、堺公方附としての政権奪取というこれまでの方針を転換。玄将軍義晴と和睦し、その管領につこうとしたために三好元長と対立してしまう。高国を滅ぼしてわずか2ヶ月で内部対立が表面化したであったが、高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆くにしゅう(地頭=領主)が晴元の下に結集した。
 享禄5年(1532)、晴元が肩入れする木沢長政を攻撃する元長を排除すべく。茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして本願寺第10世法主・証如に一向一揆の蜂起以来を提言。証如の承諾で蜂起した一揆軍によって自らの手を汚すことなく元長を境で敗死させただけでなく。不和になった足利義維の阿波國への放逐にも成功した。
 天文8年(1539)、上洛した三好長慶ながよし(三好家本家で元長の嫡男)が同族の三好政長(三 好家の分家であるが晴元の側近)と河内17ヵ所を巡って争い。義晴の仲介で和睦した。
 天文12年(1543)細川高国の養子氏綱が晴元打倒を掲げ和泉國で挙兵がこの反乱は年内におさまったが、天文14年(1545)には山城国で高国派の上野元治・元全・国慶3代と丹波國の内藤国貞らが挙兵、三好長慶・政長らが氾濫を鎮圧した。天文15年(1546)8月に氏綱が畠山政国や游佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津國の殆どを奪い取った。9月には上野國慶も挙兵して教へ入ったため、晴元は丹波國に逃亡した。
 これに対して晴元は、越水城で待機していた長慶と協議して翌天文16年(1547)に反撃、摂津の細川氏綱方を打ち破り摂津を平定、7月21日に長慶が細川氏綱・游佐長教らに舎利寺の戦いで勝利、義晴とも閏7勝ちに和睦して氏綱の反乱をようやく鎮圧した。かって細川氏綱を頼っていた摂津國人・池田信正を切腹させたことより三好長慶と他の摂津國人衆の離反を招き、8月に三好一族の和を乱す三好政長討伐の認可要請を長慶から出されても拒否すると、10月には氏綱側へ転属した長慶に挙兵され、摂津榎並城を攻囲される。その榎並城で籠っていた政長の子・三好政勝を見捨てては畿内の国衆から見限られる恐れがある。晴元は戦力では劣るまま摂津國江口において長慶らと戦うことになった。しかし、正面からの主力決戦を回避し、あくまでも六角軍の到着をまってから決戦に臨もうとしたため、機先を制せられた晴元の主力はたたかわないまま敗北する。晴元は将軍義輝らと近江へ逃れていたのだが、なんとか京を奪回すべく、天文20年(1551)7月13日の夜、細川軍は京へ入って相国寺に陣を敷いた。その翌日山崎から攻め上った三好軍の武将松永弾正久光と細川軍とが相国寺の門前の石橋を中心に激しく戦い、遂に寺内に乱入、日暮れにまず雲頂院を焼き、鹿苑院、普広院、大智院、最後に方丈と法堂におよび、その他諸堂はまたたく間に悉く焼失してしまった。これを天文の乱といい、また門前の石橋を挟んで始まったので石橋の乱ともいう。
 これで内部からの失火で2回、兵火によって2回、全焼したことになる。天文22年3月18日、方丈再建の地鎮祭が行われたが、その後は容易に再建の機運が到来しなかった。それでも永禄2年(1559)に三好長慶が慈照院において終日酒宴を開いたり、また茶道において重要な文献として知られる。「津田宗及び茶湯日記」によると天正2年(1574)3月23日、相国寺において、織田信長公の朝会を開いている。この時はかなりな盛会であったらしく、茶人に紹鴎茄子、犬山天目茶盌、宗陽」の高麗茶碗などを使用し、茶頭には津田宗及をはじめ、今井宗久、千宗易(利休)など大茶人たちが奉仕している。この時の余興に奈良朝から伝わる宮中のスポーツ「蹴鞠」がもようされたというが定かでない。このように少しずつでも普及していたようだが。なんとしても本格的な復興が始まるのは。天正12年2月15日、大92世西笑承兌せいしょうじょうたいが入寺してからである。
 足利最後の将軍義昭も。元亀3年(1572)織田信長によって将軍職を剥奪されて河内に放遂され、建立以来の大壇越、室町幕府もついに滅亡し、その信長も本能寺の変ですでになく、世は日に出の勢いの豊臣秀吉の時代となっていた。
 田舎出身の武将が政権を握った時は、学識者を側近とするのが常であり、当時五山の大表的な学者であった僧録司西笑承兌が秀吉に乱されたのであった。天正17年に相国寺の寺侍、松川なる人物に出した手紙が残っている。利休が住持西笑承兌に重要なよう要件あり、立庵を連れて尋ねたのだが。留守であえなかったからよろしく取りなしてくれるように、との依頼をしている、西笑も利休も秀吉の有力なブレーンである。
 西笑は秀吉の帷幄いあく(作戦を立てるところ、本営)に参与し、専ら外交文書の作成を掌っていた。このことはその後の相国寺復興に有利となったのである。秀吉の後ろ盾で天下の寺社のことは西笑承兌の一存でどうにでもなったということである。その秀吉も慶長3年(‘1598)8月1862歳の障害を終えた。
 秀吉亡き後西笑承兌は徳川家康に従った。家康もまた西笑承兌を重く用い、外国との貿易、御朱印船のことも西笑に任じ、この時の船の通行証ともいうべき「異国通船印鑑」(御朱印状)が十三通も当寺院(相国寺)に残されている。そして慶長6年には寺領1662石を施入し、続いて豊臣秀吉に法堂再建を勧誘し、秀頼は米1万石を寄付してその資金とした。そして慶長10年(160510月8日。三世空谷明応二百年遠忌の日に落成し、盛大慶讃大法会が催された。現在の法堂はこの時に建ったもので、現存の法堂では日本最古のものであり、三百七十余年の歴史をもつ。
 これに続いて家康は米2万石を寄付して三門の建築に着手し、同十一年2月起工、十四年4月3日完成したのだが。西笑はこの落慶を見ずに。慶長十二年1227日遷化したのである。西笑はこのほか鹿苑院を復興し、また開山塔の再建順位資金として銀100枚を寄付したい、地方の守護大名たちに略奪されていた相国寺の領事を回収したりして復興に努力して実をあげ、その功績ははかり知れず、実に西笑承兌をもって相国寺の中興の祖とするのである。
 西笑承兌の寂護。西笑承兌にかわって家康の政治顧問として登場したのが南禅寺の金地院崇伝である。 元和6年(1621)2月28日相国寺の主側に当たる新町辺より出火した火は、ついに相国寺に飛び火し、方丈、開山堂を始め。二堂、十三院が類焼してしまった。この大打撃に打ち沈む相国寺をすくたのは後水尾上皇であった。 文禄5年()6月4日、後陽成天皇の第三皇子としてうまれ、慶長16年()父天皇の譲を受けて即位された。この頃には父天皇の世に回復された権威が徳川幕府の手によって不満とする上皇は 葦原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず
の御製にしめされるごとく、真中の不満を、伝統めんから皇室の隆盛をはかることに専念し、幕府への抵抗の態度をとられたのであった。そしてしきりに禅僧と交流されたのだが、特に相国寺の僧と交わりを深められていった。
 これは公家の日野輝資てるすけの子である第94世昕叔顕晫きんしゅくけんたく、勸修寺晴豊はるとよの六男である第95世鳳林承章ほうりんじょうしょうなど公家出身者が住山したことにもよる。特に鳳林とは外積関係にあたり、上皇は鳳林の住職をしていた解く鹿苑寺ろくおんじ(金閣寺)へもたびたびおしのびで行幸された様子が。鳳林の有名な日記「隔冥記かくめいき」にきされている。
 上皇は寛永8年(1631)旧殿を下賜されて方丈とし、承応2年(1653)、応仁の乱で焼失していた宝塔を再建された。塔は法堂の西側に三層造りでたてられ。出家落髪の時穂神と歯を上奏の柱真に納められたのである。そしてまた、皇子穏仁やすひと親王の死をいたみ、追善のため一寺を建立の思召しであっが鳳林らの奏請によって結局開山塔を再建され。鳳林の撰んだ「圓明」を自ら揮毫され塔号とされた。この時の雄渾な筆跡は今でも相国寺にある。
 その後、百数十年間は比較的平穏な日々が続いたのだが、次の突発する惨禍は。天明の大火であった。 天明8年(1788)正月30日の明け方、宮川町の空家から出火したのである。折からの強風に煽られて鴨川を西に飛び火し、東西南北、風のままに炎症して一日中燃え続け、ついに2月1日、鹿苑院ろくおんいんにいの一番に火がついた。そして見る間に総門、方丈、開山塔、宝塔、並びに塔頭子院21ヶ侍は悉く焼けてしまったのである、しかしながら、慶長10年建立の法堂をはじめ、浴室ほか9院のみはかろうじて難を免れたことは不幸中の幸いであった。
 その後、一代の学僧として有名な第百十三世梅荘顕常ばいそうけんじょう(高僧)及び第百十五世維明周奎いみょうしゅうけん(住職・画家)らの努力により。漸次復興事業はすすめられていった。享和2年(18021111日、梅荘が恭礼門院(桃園天皇皇后)の旧殿の下賜を受けて文化4年(1807)、開山塔として再建。同じく文化4年に、方丈。庫裏なども再建され、現在のものはいずれもこの時のものである。
 そして幕末から明治維新にかけての混乱した時勢によく相国寺を支え、また廃仏毀釈の運動が起こるや日本の仏教界のために大いに気を吐いた人が、第百二十六世、特住第一世独園承珠である。

12)独園承珠と廃仏毀釈
 廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像。経巻を破毀(破棄)し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破棄)し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊(毀)するという意味。日本においては一般に、神仏習合を拝して神道を推し進める明治維新後に発生した一連の動きをさす。
 1)        明治以前の廃仏運動
   仏教が日本に伝来した当初は「日本書紀」の欽明天皇、敏達天皇。用明天皇の各天皇記を基にする
 と物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような
 動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代は、小西行長などキリシタン大名が支配した地 
 域で、神社仏閣などが焼き払われた。江戸時代前期に置いては、儒教の立場から神仏習合を廃して神
 仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光輝や保科正之などの諸大名が、その領域において
 仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。徳川光圀の指導によって行われた
 水戸藩の廃仏んも規模が大きく、領内の半分の寺院が廃された。

 2)        江戸時代後期の廃仏運動
  光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり
、徳川斎昭なりあきは水戸学学者である藤田東湖、金沢正志斎せいしさいらとともにより一層激しい弾圧を加え始
 めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理し
 た。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。また
 同時期に勃興した国学においても神仏混交的あった吉田神道に対して、神仏分離を訴える復古神道など
 の動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。

 3)        明治期の神仏分離と廃仏毀釈
  大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年(1868)3月13日に発せられた太 政官布告(通称「
 神仏分離令」)及び明治3年1月3日に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走
 した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。日本政府の神仏分離令や大
 教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図した門ではなかったが、結
 果として廃仏毀釈運動と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体
 としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが4おこなわれた。祭神の決定、寺院の廃合
 、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。明治4年(1871

 月5日付け太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。 

  一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られたものの。それを除けば、
 全体としては大きな反抗もなく、わずか2,3年後の明治4年(1871)頃には終息した。大坂住吉神社の二
 つの塔をもつ大伽藍は、明治6年(1873)にほとんどが壊された。伊勢國(三重県)では伊勢神宮お膝元と
 いうこともあって激しい廃仏毀釈があり、かって神宮との関係が深かった慶光院など100ヵ所以上が廃寺
 となった。とくに、神宮がある宇治山田(伊勢市)は寺院の数が300近くから15まで減らされた。

  明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教
 であるとして、それまで様々な特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれ
 ていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動をおこし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶
 の中には神官や兵士となる者や寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されて
 いry興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難にあい、25円で売りにだされ、薪にされようとしていた。
  廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され還俗した僧侶は2966にのぼった。そのう
 ち3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強制的に兵科に回されたといわれる

 *兵科 狭義には、直接的な戦闘を担当する。講義には戦闘職務以外の後方職務を含む。
   美濃国(岐阜県)植木藩では明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内のすべての寺院・仏壇・仏
 像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭がほとんどである
 。
  一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代、幕府の関節統治のシステムとして寺社
 奉行による寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、権力から与えられた特権に安住した仏
 教界のに対する民衆の反発による、という一面もある。藩政時代の特権の特権を寺院が喪失したことに
 よってもたらされた仏教の危機は、仏教界への変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついた。

 4)     大教宣布
  明治維新の当所神道によって国民思想を統一し、国民意識の高揚をはかった政策.神祇官が再興さ
 れ、教導局、宣教使が設けられ、明治3年(1870)1月3日には、大経宣布に関する詔書しょうしょがだされた
 。のち、教導職、大教院の設置など、宣教の拡大が図られたが、仏教側の反対により、明治17年(1884
 には終止符がうたれた。

 5)        荻野独園おぎのどくえおん(毒圓承珠じょうじゅ
  荻野独園(18191895)は。幕末・明治の臨済宗相国寺の僧侶。j諱は承珠、字 は独園、号は退耕庵
 、独園承珠ともいう。廃仏稀釈の際に相国寺住持として日本の
宗を守るために奔走した。
  備前国加島郡山坂村(岡山県玉野市)出身。8歳の時に親族がいた同郡の掌善寺に入って13際で得
 度しました。18歳時に豊後國の帆足万里ほあしばんり(儒学、蘭学者)の下で儒学を学んだ。6年後、京都
 に上洛し、相国寺で、「鬼大拙」の異名のあった大拙承演だいせつじょうえんに師事して厳しい修行を積み、10
 余りで印許を得た。

 安政2年37歳で相国寺山内の心華院(現在の大光明寺)住職となり、明治3年(1870)、独園は相国寺第
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世住持となるが、おりしも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて相国寺も敷地の一部を新政府に奪われるなど
 危険にひんしていた。

 明治5年、明治政府は胸部省を設置し、
        敬神愛国の棟を体し、
        天理人道を明らかならしめ
   ③     皇上を奉載して朝旨を遵守せしむきことという3条の教則を神仏ともに布教綱領としました。これ
     によって、仏教は自由に
仏教の宗意を布教することが出来なくなり、新患に隷属する方となりまし
     た。

  このとき当時の教部省に厳然として信教の自由を認めるように広義したのが独園承珠でした。独園は、
 寺は崩されても仏法は壊すことは出来ない、人の立てた寺は人によって壊されてもやむをえぬが、法界
 本有の仏法は、」人が壊すことは出来ないという信念のもとに廃仏稀釈を防ぐには、何人も壊すことが出
 来ない確固たる信念の人物を養成することであるという趣旨のもと各州はに呼びかけて明治5年芝増上」 寺内に大教院を設立しました。後にここから多くの人材が輩出しました。

  総持寺の緒嶽突堂と共に胸部省へ赴き、仏教の宗意を解き明かすことの許可を求めましたが、教部省
 の大輔、宍戸は3条の教則を固守して譲りませんでした。独園は3条の教則は仏教の宗旨しゅうし(宗教の
 教えの中心教義)ではなく宗祖が立した教義がしゅうしであり、もし仏教が宗旨を解くことが出来ないのな
 ら、神官も神道をとくことはゆるされないであろうと訴えました。ほとんど連日のように説いて譲らず、とうと
 う明治6年教部省は信教の自由を認めたのでした。

  また、財政の危機に瀕していた相国寺を立て直すために伊藤若冲の描いた花鳥画30幅を宮内省に献
 じて金壱万円の下賜金を得て相国寺の維持金としました。それを資金に境内地1万8千坪を買い戻しまし
 た。伊藤若冲の不朽の名作は国の内外に流出するという難を逃れ、宮中に宝蔵されています。






                           Ⅱ.境内
 京都五山第二位の名刹、万年山相国寺はいま三門や仏殿などの跡がよく残っており、そこには松や檜が枝を交えて過ぎし日の伽藍の壮麗さを偲ばせています。足利義が創建し、至徳元年(1384)いう仏殿が落慶してから何回か被災と復興を繰り返し、最後に天明8年(1788)の大火災で法堂や勅使門を残して中心伽藍も焼けてしまいました。その直前の安永9年(1780)にでた「都名所図会」にみられる姿は天明羅災以前の有様をよく伝える」ものと思われ、建築配置も現状とよく合っている。
 「蔭凉軒日録」いんりょうけんにちろくの嘉吉元年(1441)2月15日の条に、6代将軍足利義教が鹿苑院へ参詣した際、蔭凉軒日録担当の季瓊真蘂きけいしんずい(将軍と僧録間の連絡役)に「相国寺十境」を選ばせたとある。それによると、①祝釐堂しゅくき(輪造)、②護国廟、③円通えんずう閣(三門)、④大宝塔,⑤洪音こうおん楼、⑥功徳池、⑦天界橋、⑧龍淵水りゅうえん(開山塔前の流水)、⑨般若林、⑩妙荘厳域である。
 このうち祝釐堂、円通閣、龍淵水はすでにない。護国廟も形ばかりのものが法堂の西に昭和になってからまつられているが、創立当時は今出川通りの北にあって、今の今の八幡町はその旧跡という。義満が男山八幡から御神体を奉迎したときは男山八幡から当寺まで沿道にことごとく白布を敷き詰めたという。
 大宝塔 相国寺の七重塔は、足利義満が亡父義詮の三十三回忌を記念して応永6年(1399)9月に建立した古今未曽有の高塔である。これ以前の高い塔といえは、白河上皇が洛東岡崎に建立した法勝寺八角九重塔がある。この党は高さが82メートルで。東山を越え山科からも望まれたというおそろしい高さであったが、諸国寺のはそれ以上であった。」高さは三百六十尺(109メートル)というから。百メートルを優に超す、とてつもない高さであった。因みに。現在日本最高の木造塔は、東寺五重塔で、高さは56メートルであるから、相国寺塔の高さが押し測られよ。宗教施設と言うよりは記念物と言った方がよいであろう。
 日本の木塔は、地震には強くても落雷には弱い。完成4年後の応永十年(1403)多分に漏れず雷火で炎上した。その後北山第に移して新築したが、義満没後の応永23年(1416)またも落雷で炎上している。しかし、下って義政の代には相国寺の地に再建されたようである。しかし、応仁元年(1467)、大乱によって当寺は東軍細川氏の占拠する処となり、同年10月の西軍の攻撃で灰燼に帰した。塔もこの時に焼け落ちたと考えられている。その後、塔は再び建てることはなかった。
 洪音こうおん 鐘楼をいう。寛政元年(1789)4月、古鐘を求め仮楼にかけ、天保14年‘(1843)現在の鐘楼が築成された。
 功徳池 蓮池を言う。創建当時は門前にあったが、応仁の乱に崩壊したことが「応仁記」にみえる。天文の乱の後現在のところに改鑿かいさくされた。昭和の中頃までは白蓮が一面に咲いていたのだが、昭和34年の拐取工事以後幾度となく植えられるのだが、その都度芽の出たところを心内連中に折られてしまい往時の姿にはなかなかもどらなかった。
 天界橋 蓮池に架かる石橋をいう。「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目をはたしてところから名ずけられた。天文の乱にこの橋を挟んで戦った。現在の橋もその時の橋である。
  般若林 創建当時の学林の名称であったが、寮か廃止されてからは、境内の松林の総称となっている。昭和34年、櫪堂管長が宗門の将来を担う青年僧の育成を目的と


   勅使門(京都府指定文化財)
 
       放生池と天界橋


(1)放生池
 勅使門の北にある石橋の架かった池で、禅宗伽藍では三門の前に造られる。この池が放生池ほうじょうち、中国風には泮池はんちといわれるもので、三門へ行くと石橋がかけてあり、当寺では「天界橋」と名付けられ、京都御所との境界を意味する名だという。
 放生地は功徳くどく池などともいい、放生会ほうじょうえを行うため設置されたものと考えられる。放生会は捕獲された鳥類魚類を山野池沼に開放する仏会である。中国においても放生の法会が行われたが、なかでも著名なのが、759年に唐の肅宗しゅくそうが81ヵ所の放生池を設けて行った。日本でも仏教の流布っともに殺生禁断と放生の思想がたかまり、天武5年(676)諸国に放生を行わしめたのが所見である。
 殺生を戒める仏教の教えにより、魚鳥など生き物を放って肉食や殺生を戒める儀式で、慈悲の実践を意味する。日本では旧8月15日に行われる石清水八幡宮の放生会が有名である。
 放生池には通常睡蓮が植えられています。相国寺の放生池も例外ではありません。なぜなら、仏教と睡蓮は密接な関係があるからです。
 「池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし」(阿弥陀経) 極楽には蓮の華がさいていると説かれています。仏様の像(仏像)を見ますと、多くの場合蓮の台(うてな;極楽往生した者が座る坐)にたっておられます。どうして蓮の花が咲いていると説かれるのでしょうか。それは、蓮の花が、極楽へ生まれられる人の心の特色を表しているからです。蓮華の五徳という、五つの特徴で極楽へ生まれる人の心を説明されています。
    ①汚泥不染の徳おでいふぜんのとく 

     ②一茎一花の徳いっけいいっかんとく 
     ⓷花果同時の徳かかどうじのとく 
     ④一花多果の徳いっかたかのとく
    ⑤中虚外直の徳ちゅうこげちょくのとく 

 1)淤泥不染の徳おでいふぜんのとく 
   チューリップやヒマワリは、陸地に咲いています。汚泥とは、泥田ということで、蓮の花は陸地に咲くの
  ではなく、どろどろの泥田にさきます。しかし泥の中にさいても、蓮の花は泥に染まらぬきれいな花を佐j
  課せます。

 2) 一茎一花の徳いっけいいっかんとく 
   蓮の花は1つの茎に1つの花を咲かせます。朝顔は、1つの茎にたくさんの花を咲かせます。チューリ
  ップやヒマワリと同じに、蓮の花も、1つの茎に1つの花を咲かせます。

 3) 花果同時の徳かかどうじのとく 
   蓮の花は一度に開きます。そして、同時に身ができています。桜の花は、三分咲き、五分咲き、八分」  咲き、満開とだんだん咲いていきますが、蓮の花はバサッと一度にひらきます。そして、開いた時には
  実が出来ています。リンゴの花は、花が散って
からだんだん実ができて、大きくなります。
 4) 一花多果の徳いっかたかのとく 
   蓮の花は1つの花にたくさんの実をつけています。リンゴの花は1つの花に1つの実をつけますが、蓮
  の花にはさたくさんの実がついています。

 5) 中虚外直の徳ちゅうこげちょくのとく
   蓮の花の茎の特徴です。茎はレンコンの様に、中にいくつかの空洞があります。これが中虚ということ
  です。外直とは真っすぐということです。朝顔のようにぐねぐねしているのでなく、チューリップのように
  茎は真っすぐです。

 この蓮の花の五つの特徴から、それぞれ極楽へうまれるひとのこころを説明されています。それぞれにたいへん深い内容で細かい説明はできませんが、極楽へ生まれる人の心を、正しい信心といいます。生きていると時に正しい信しんをえた人は、極楽の蓮の台に忽然と生まれると説かれています。
 蓮ハス睡蓮スイレンとは正確に言いますと異なる植物です。睡蓮はスイレン科のスイレン属の初期物。蓮はスイレン科ハス属の植物です。蓮も睡蓮もほぼ同じ花ですが、蓮は根にレンコンを形成するため主として食物として生産されています。睡蓮は花が美しく鑑賞用として栽培されたようです。日本での在来種はヒツジ草と言う白色のスイレン属1種だけが存在していたようです。このひつじ草は元来日本の山野に存在していたのか、仏教と共にインドから中国を経由して日本入ったのか不明です。
  ヒツジ草の名称はひつじの刻(午後2時)頃花が開花することから命名されたようです。また、「琵琶湖周航の歌」の原曲が「ひつじ草」であったことも知られています。このひつじ草種は日本以外では中国及び朝鮮半島、シベリア、インド北部、欧州。北アメリカとほぼ北半球全域に広まっています。
 尚、放生池の真ん中に天界橋がかかっています。御所との境の意味で天界橋と名付けられました。また、戦国時代天文20年(1551)この橋を挟んで細川氏と三好氏の合戦(石橋お戦)があり、この時相国寺は全焼しています。

(2)勅使門と総門
 禅宗の大寺院には南の正面に総門と並んでもう1つの門を作る例が多いが(大寺院と門跡寺院)、この勅使門もそうした一つである、総門の西にこれと並んで建っている、総門が日常の通用門であるのに対してこの方は平常は閉じられています。
 勅使門は、天皇や勅使と呼ばれる天皇の指示や意思を天皇にかわり伝える役割をもつ人のみが通ることの出来る門のことである。天皇は基本的に外出をしないので、天皇の代わりに天皇の意思を伝える勅使と言う役職がありました。そして勅使は天皇の貴い意思を持ってくる人だから、勅使を迎える人は天皇と同等に勅使をもてなしました。勅使を迎えるお寺は、普通の人が通る門とは別に天皇や勅使だけが通る立派な門を造りました。
 総門が江戸末期の建設であるのに対し、この勅使門は相国寺に残る数少ない桃山時代の建築と認められ。構造形式は一間一戸いっけんいっこの四脚門よつあしもん(中心となる2本の太い柱の前後にそれぞれ2本の添え柱が付合計6本のはしらかなる)である。
 四脚門の2本の門柱は円柱、4本の控橋は角柱であるが、相国寺の場合は円柱となっており、通常の四脚門と異なっている。この門に見られる桃山様式の細部は第一に各部分に用いた木鼻きばな(貫や梁の先端)で、四隅の柱の上部に出たもの、本柱から外向きにだしたもの。妻(側面)の組物に用いたものなど、その面に彫った渦文うずもん(渦巻文様)も細く、木口こぐちこに「顰彫しがみぼり」という掘り込みがある。全体の調子とともに桃山様式をよくあらわしている。法堂付属玄関のそれと比べてみると面白く、古都法が一層丁寧なのも勅使門という門としてのことであろう、そのほか背せい(高さ)の高い板蟇股いたかえるまたや更斗さらど(斗ますの下の皿形の繰り出し)を用いた組野のなども興味深い。この門はは法堂などと一連の復旧工事として営まれたものが幸いに現在にまでつたえられた貴重な慶長期の建築といえる。
 勅使門の東に会って一般に通れるのが総門である、禅宗伽藍では、このように三門・仏殿などの中心線を外したところに総門―通用門―を置くがそれは中枢部が見通されないためで中国式の行き方である。この伝統は中国では住宅にまで守られて、表の正門から直接内部が見え名様に障壁を立てるのもこの類である。この総門は構造形式から言うと藥医門やくいもんである。


                           法堂 (重要文化財)

(3)法堂(重要文化財)
 法堂は桃山時代にできた禅宗様建築では最大最優作というべく、豊臣秀頼の寄進で慶長十年(1605)のものである。いま、仏殿亡きため仏殿を兼ね「本堂」と言っている。中心部(身舎もや)の桁行けたゆき(間口まぐち)五間、梁間はりま(奥行)四間で、これに一間いっけん通りの裳階もこし(廂ひさし)がめぐっているので外観では正面七間、側面六間を数える。なた裳階は身舎のそとまわりに別に屋根を作るので外観上屋根が二重になるが、中に入れば一重(一階)であるのがよくわかる。禅宗寺院の仏殿、法堂などはこの形式になるものが多い。
 相国寺法堂は仏殿や法堂などの禅宗様仏堂のうち、現在最大のものである。法堂の正面は裳階が一間通り廻っているので上の屋根はやや小さくなり、安定感のある姿になります。裳階正面七間のうり、両脇の間は花頭窓かとうまど(上部が突頭アーチ状の窓)。残りの五間が戸口で中央の柱間はしらまは特に広く、それぞれ桟唐戸さんからと 縦横に框 かまち を組み,間に薄い板を入れた扉)の扉。柱は円柱で上下は細く丸めてあり、これを粽ちまきといい、下には禅宗建築などに普通の礎盤そばん(柱下にある凸凹のの鏡面をもつ礎石)を置く。このような細部は禅宗様または唐様からようといって、中世以降に中国から伝わり、禅宗の伽藍様式の特徴をなすもので、この法堂はあらゆる点で禅宗様建築の最も典型的な造りである。
 この裳階もこし上に身舎もやの柱で支えられる上の屋根が適当な距離を置いて長くかつ深い軒を造っている。軒下には複雑に組まれた組物(建築物の柱上にあって軒を支える部分。)がいっぱいならんでいる。
 組物の細部も禅宗様(唐様)建築の特色をよくあらわしているが、このようにいっぱい並んだ、詰組つめぐみ(柱の上だけでなく、柱と柱の間にも密に斗栱を組むもの)と言われる方式も禅宗様の特色である。組物から出る天狗に鼻のように沿った尾垂木おだるきの様式も禅宗様で、尾垂木のことを「天狗垂木てんぐだるき」といいます。なお裳階もこしの屋根の途中に別の瓦が数列並べてあるのは直接屋根葺に関係なく、上の屋根から雨が滝のように降り注ぐとき、そこだけ瓦が早く減るので、それをふせぐために置いたもの、だから「捨瓦すてがわら」という。捨瓦が減ればそれだk5取り換えれば良いわけである。
 建築を鑑賞する時には遠く離れて全体を味わうのが一番大切で同時にその環境や色合い、量感や質感も直接感じたい。それゆえ、どうしても巡礼をして印象付けることが一番である。そのようにして細部の理解へと進んできた。勿論建築そのものだけでなく、これが出来た背景(宗教・歴史・文化など)を考えることは言うまでもない。

 

        懸魚・三花懸魚
 
       二重虹梁蟇股

 次に妻の方にまわろう。東でも西でもよいが、西妻には玄関廊が付いている。裳階もこしの側面は六間、柱間はしらま装置は両端が壁、南から二番目は戸口、その他は花頭窓をあけている。低い石積の基壇上に建っているのもよく判るであろう。身舎もしゃの詰め組組の組物もよく見えるが、屋根の三角形に立ち上がったところー破風はふーが特に印象的である。この破風は上で随分ひどく尖っていて、その上に鬼瓦が座っている。この鬼瓦は先年、雷が落ちて大破し、現在の瓦はその後元の形に戻されたものである。そそし、その他の鬼瓦は古いものがよく残っていて、それには慶長3年(1598)その他の刻銘がある。法堂は慶長10年(1605)にできたらしいが、それより前に鬼瓦などは焼きあがっていたのであろう。破風で一番目に付くの は中央頂部と両脇につけた三つの懸魚である。上のは十字型に、両脇のは場所の関係上鍵の手に花、というより松茸の切口のような飾りが付、その左右にも「鰭ひれ」という装飾が彫刻がついている。中央のは三方に花があるので「三花懸魚みつばなげぎょ」という。中心に丸い穴があるが、もとはここに巴文ともえもんかなにかを彫り透かしていたであろう。東妻にはそれが残っている
 切妻造又は入母屋造お屋根の妻部分に装飾が施されています。この部分を妻飾りといいます。城郭では狐格子きつねこうし、神社では豕叉首いのこさす、禅宗寺院では二重虹梁にじゅうこうりょうが多い。相国寺は禅宗の例にもれず二重虹梁が採用されている。二重虹梁は構造材料を利用したデザインである。破風の内側に長い虹梁(上に反った梁)、その上に二つの蟇股を置き、その上に短い虹梁を載せその中央に蟇股を置いて棟木を支えるものである。相国寺の妻飾りは、最後の蟇股が大根を反対にしたような形の短柱大瓶束だいぶんずかに変わり「二重虹梁大瓶束式妻飾」となっています。
 法堂の建物構造は一重でまわりの裳階もこしは勾配のついた屋根裏の形で、化粧屋根裏けしょうやねうらという。これから内が身舎もしゃにあたり、広々とした空間は長大な円柱で区切られ、丸龍がんりゅうを描いた天井が高くあおがれる。
 床は土間で斜めに敷瓦しきがわらが敷かれているが、このように45度の方向に敷くのが45、すなわち「四半敷しはんじき」という敷き方である。禅宗仏堂では三門・仏殿・法堂などは四半敷きの土間であるが、これも禅宗様の一特色で、奈良時代などの仏堂は土間でも敷瓦は前後方向に敷いた「布敷ぬのしき」が用いられた。この四半に敷いた瓦には多くの白い線が漆喰で引かれている。これは「白線はくせん」といわれ、儀式や法会などで坊さんたちが行導ぎょうどうされる時の道を定めるもので、ところどころに矢の頭のような尖ったところがあるが、そこで止まることを示しているのでる。
 正面には高い階段を三方にそなえた須弥壇が置かれ、中央に本尊釈迦如来、阿難あなん・迦葉かしよう尊者(両人とも釈迦の十大弟子)を西檀に達磨・臨済・百丈および開山夢窓国師を、東檀に足利義満、の像が祀られている。須弥壇後方左右の柱は来迎柱と呼ぶ。須弥壇の様式は平安以前の仏堂におけるものと著しく違うところで、禅宗様細部を最もよく表したものの1つである。すなわち中ほどが入り込んで(この部分を俗に「蝦の腰」という)、上下に同じような繰型を重ねた方式で、一般的な家の仏壇でも見られる。その上や階段にある勾欄も親柱が擬宝珠でなく連花を象かたどった逆蓮柱ぎゃくれんばしらである。このような禅宗様須弥壇は鎌倉時代に他の細部とともに伝わって以来、時代と共に大きな変化がなく現在に至ったが、それでも小さな点では次第に変化してきた。その須弥壇の場合、正面が階段を挟んで左右に別れ、それぞれ前に出ているが、この型は近世以後好まれたらしく、古いのは正面一直線のが多いようである。高欄親柱は逆蓮柱頭で、柱面に多くの縦溝を彫り、所々に蓮葉を彫った(握蓮という)短柱があるのも禅宗様式であり、彫刻と塗が美しいが、階段両横の登り木(側桁かわげた)に彫った唐草模様はまた特に美しい。これは花や蕾がなく、葉だけで構成されているが、宣がのびのびとしていて流動感に満ちている。玄関廊の腰掛下にも同種の唐 唐草彫刻があり、室町系統の様式を受け継ぎながら更に一層発展させた形をここにみることが出来る。


                      蟠龍図・狩野光信
 法堂内部ではこの須弥壇を中央に、東には日牌につぱい・月牌げつぱい位牌を安置し、毎日供養することを日牌といい、毎月命日供養することを月牌という)、後方には西に祖師堂、東に土地堂と呼ばれる檀がつくられている。なお仏事法会などの時、一般大衆は西よりに参拝の場が設けられる。
 法堂内部では須弥壇の前に建てば一面に張られた天井(「鏡天井」と言い、禅宗様建築の特徴の一つである)に描かれた丸龍が高く仰がれる。この丸龍の筆者は狩野光信の筆と伝え、京都でも大徳寺・妙心寺などの大作を始め各寺院にみられるが、相国寺のこれが現存最古で、他は江戸時代以後に下るものである。禅宗仏殿においては内部の天井周りが古くは四方からごく複雑精巧な組物(斗栱ときょう)で中央に向かって積み出され、真ん中に小さな平たい天井を造るのが一般の方式であった、ところが室町時代には天井周りの複雑な組物が組み上げられないで、外まわりの軒と同じように出組(一手先ひとてさき)か二手先ふたてさきの組物とし、天井を広く張る形のものあった。しかし、天井が広くなると絵を描くことが考えられ、それが雲龍そのたの天井画へと発展していったのであろう。相国寺法堂は法堂として最古であるばかりてなく、天井の蟠龍(とぐろを巻いた龍のこと)図もともに現存最古の物である。
 なお須弥壇お前に置かれた前机(卓しょく・前卓まえじょく)は様式上時代が下がるとみられるが、これも禅宗様の典型的な机で、牡丹に唐獅子や唐草の透彫りを入れ、海老の様に曲がった脚やそれを繋ぐ八字形の唐草彫刻など、中国からの伝統を受け継ぐものである。
 法堂の西側、南寄りに桁行四間、梁間一間、一重で両妻に唐破風をもつ玄関廊がある。四角い柱に礎盤をそなえ、柱間は四方とも吹放ふきはなし(壁がない柱だけ)で床は土間である。玄関は方丈や客殿などの入り口にあるのが普通であるが、この場合は法堂の西妻にあり、昔どのように使われていたは不明である。
 この玄関廊は法堂と同じく慶長の造営と認められ、細部様式は控え目ながら桃山代の特色がよく出ている。
3-1 法堂天井 蟠龍図・狩野光信 径 約9m
 禅宗の法堂の天井には必ず龍が描かれている。龍は仏法を守護する空想上の瑞獣でその長を龍王、竜神などと称し、八部衆の一つに数えられている。
 慶長10年(1605)相国寺の法堂が五建された際、狩野光信によって描かれた本図は、円相内にその全容をくっきりと描き出されていた。円相外に雲が描かれていたのだが、剥落し、今はわずかしか残っていない。日本美術史研究上重要な文献として知られる「本朝画史」の編者、狩野永納(16311697)は本図を狩野光信(1565~1608)筆としている。無款むかん(署名の無い作品)ではあるがまさしく光信筆である。
 筆者光信は、狩野永徳の長男として生まれ、父と共に信長、秀吉に仕え、父永徳なきあとは狩野一派の棟梁として一門を率いて秀吉に仕え、知行百石を賜っている。豊臣秀頼の再建になる法堂の龍を描くのは光信をおいて他にはないはずてある。光信はこれを画き上げた3年後に没しており、本図は光信にとって最後の大きな仕事となった。光信が精魂込めて描き上げたこの龍が、現在最古の法堂を守ているのである。
 またこれは、堂内中央付近で手をたたくと、天井に反響してカラカラという音が返ってくるので、一名「鳴き龍」ともよばれる。

 
    方丈・京都府指定文化財
 
         方丈・竹の間

(4)相国寺方丈
 禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。

 方丈の語源は、一~二世紀頃に成立した大乗経典『維摩経』に登場する俗人維摩居士の居室が一丈四方であったことからできた言葉であり、住職の住まわれる居室を指しました。又、転じて住職自身のことも方丈と呼んだりするようにもなりました。
 方丈は法堂の北、塀に囲まれた中に南面する大建築で東は庫裏に続いており、禅宗大寺院の典型的な禅宗伽藍配置の一部をなすところである。禅宗建築は唐様建築ともいわれるように、三門・仏殿・法堂。経蔵など、土間で、出来るだけ中国風に造られるのであるが、方丈は住まいに属する領域である関係から室内は「室中しつちゅう」が板敷であるのをのぞき畳敷きであり、四方に縁をめぐらし、南の正面は巾広の広縁ひろえん、落縁おちえん、濡縁ぬれえんと次第に低くかつ巾狭くした縁をつけるのが一般の形である。内部の間取りも禅宗の本山、塔頭ともに共通した形で、南側に三室、北側に三室がそれぞれ東西にならぶ六間取りが普通である。これらの室は一般的にいえば南側の三室は上間じょうかんと言い公的、北側の三室は下間げかんと言い私的ようとに使用される。南の中央が「室中ちつちゅう」で仏画や位牌などを祀る。室中のみ板敷で正面を桟唐戸さんからととして仏殿風である。その西が「旦那の間」と言い檀家の控室に使用される。「旦那の間」の北側は「祖師も間」、祖師没後は「衣鉢えはつの間」として使用する。衣鉢とは、修行者の重要な持ち物である袈裟と托鉢に用いる衣鉢の琴であるが、転じて「師僧が弟子に最も深い真理を伝達する室」となった。
室中の北側は「仏間」、東側は「礼の間」で来客の応接室、「礼の間」の北側は「書院」と言い住職の居室になる。
以上は一般的な方丈のことである。相国寺の方丈は天明8年(1788)の火災は法堂とその付属する玄関廊、勅使門の桃山建築などなどを残して悉く炎上した。方丈も同様炎上し、文化4年(1807)のものである。桁行けたゆき25.5メートル、梁間はりま16メートル、一重、現在桟瓦葺さんがわらぶきであるが、方丈としては大規模な建築で、東南には型通りにこれも大きな玄関が付いています。この方丈は室中も含め現在は畳敷きの室ばかりで間仕切まじきりは襖、それには以下に記すような絵が描かれている。
 これ等の六室は通常の方丈と同じで、南の三室が主に公的、北の三室が私的な使い方をされるので、内部もそのように造られている。例えば、南側では三室を通して棹縁天井に竹の節欄間(竹の節のような切れ込みをつけた短柱の上下に横木を渡し、中をたすきがけの桟でうめたもの)で、各室を通して広々と行事が出来るが、北の三室は鴨居上を二段の小壁として欄間を止め、各室別の棹縁天井としてそれぞれ独立して使えるようにしたごとくである。
そと廻りは型通りに室中正面は、桟唐戸さんからと(縦横に框かまちを組み間に薄い板を入れた扉)とし、内部の尊像に応じた他は住宅風な建具である舞良戸(横に細い桟が多数ある戸)と障子を用いている。
 方丈の東南には玄関がある。この玄関も方丈正面に開いた唐門とともに方丈と同じ頃の建築と認められ、江戸末期様式をよく表している。方丈正面の唐門葉一間一戸いっけんいっこ(柱間一つに戸口一つ)の四脚門よつあしもん(本柱2本、控柱4本の門)である。 

 
  方丈前庭と唐門(京都府指定」文化財)
 
   方丈裏庭(京都府指定文化財

 方丈庭園
 方丈には東西南北、大小四つの庭園があります。
<方丈前庭>
 方丈南部に、前庭が広がります。現在の方丈は文化4年(1807)に再建されたもので、前庭も同時期に作庭されたようです。 前庭は石組を用いず白砂を敷いただけの「無」の空間である。この空間は何を意味しているのでしょう。日本庭園は、禅宗によって発展し、完成したと言われてます。英国のエリザベス女王を感嘆させた庭、それが竜安寺の石庭です。
 なぜ竜安寺の石庭が素晴らしいのか。世界最古の庭園は、紀元前138年、前漢第7第武帝が長安の近くに建設した上林苑じょうりんえんである。上林苑は周囲300里(150キロメートル)の巨大な庭園で10以上の池があり最大の池が現存している世界遺産昆明湖です。昆明湖の面積は220ヘクタールで日本で最大の湖琵琶湖(670平方キロメートル)の三分の一の大きさです。 初期の庭園は巨大でした。なぜ大きいのか! それは、海を見れば水以外になにもない海をみて、多くの人は感嘆します。一方、狭い炭鉱に入ると恐怖に襲われ、酷い場合には閉所恐怖症に襲われます。それは人間の本能は広く大きいことを好み狭く小さいことを嫌うからです。このため最初の庭園は巨大40だったのです。
 しかし、このような巨大な庭園は秦の始皇帝や漢の武帝のような大国の大王でなければ所有は困難でありだんだんと小型化に進みます。中国から朝鮮を経てに本に入った最初の庭園が、奈良県明日香村島庄しましょうで発見されました。これが日本で最初の庭園とされています。この庭園の池の形状は一辺42メートルの四方の池です。この庭園は日本で小型化され、一般庶民での設置できるまでに縮小したのか日本庭園です。日本庭園は禅宗と共に発達しました。禅宗寺院の庭園は無作為に造られたものはありません。禅宗の庭園には、禅宗の思想が含まれています。方丈の前庭は、池も石組も樹木もなく、ただ白砂が広々と広がっているだけです。作庭者は何を考えてこの庭を作庭したのでしょう。単に太陽光線の反射を利用して方丈室内を明るくしようとした、そんなものではないとおもい、そこにはもっと深い意味があるものとおもいます。作庭者は何を考えて作庭したのか、鑑賞者はこの庭を見て何を感ずるのか、私は座禅の無の心を表わしているものと考えます。
 方丈正面の勅使門は、慶長年間(15961614)方丈と共にに建造された。一間一戸の四脚門で、屋根は曲面をなす平唐破風である。これも平成19年に方丈とともに京都府指定文化財に登録されている。勅使門の奥には、豊臣秀頼の寄進により再建された法堂(重要文化財)が聳えます。
<西庭園>
 南の方丈前庭園から西庭園に移ると、景色は一転します。冷たく白一色、無生物の庭から、緑豊かなコケ庭にかわります。苔の中に赤松が点々と植えられています。苔の植物的暖かみが人の心を和ませます、ここでは赤松が主人公ではなくゴケが主人公」です。芸術の基本はバランスと安定感です。緑のコケ庭がどっしりとすわり、構図を安定化させています。
 ここでヨーロッパの庭園と比較してみたい。ヨーロッパを代表する庭園はフランス式庭園である。フランス式庭園の特徴は、幾何科学的構図であり、左右対称バランス宇に重点が置かれている。これに対し、イギリスは、幾何学的構図は、人工的で不自然である主張し、日本と同様自然主義を主張した。イギリス庭園と日本庭園の決定的な違いは選定技術である。日本庭園は、植物の特性を生かしながら、初期の形態を維持できるよう努めた。これに対し、イギリスでは、植物に成長に任せたとおもわれる。
 この西庭園がイギリス式庭園であったら赤松が茂り、苔庭が赤松林に代わっていたかもしれない。
 苔コケについて一言いえば、苔類は蘚苔類せんたいるいと言い、蘚類せんるい、苔類たいる、ツノゴケの三族に分類されるが、コケ庭に使われるコケ例えば、スギゴケ、コスギゴケ、ヒノキゴケ等すべて蘚類せんるいである。苔類たいるいはゼニゴケの類である。蘚類は毛羽状になり蘚類が生え揃うと緑の絨毯じゅうたんになり美しいが、苔類は、葉状で美観が悪く、コケ庭にとっては最悪の有害植物である。従って、コケの字に「苔」を当てるのは、実体に合っていない、コケの字いは「蘚」を当てるべきだとおもう。
<裏方丈庭園)>京都市指定有形文化財
 方丈北部には、東西に細長く後庭が築かれています。後庭も前庭と同じく文化4年(1807)に築かれたようです。中央を深く掘り下げ、栗石を敷き詰め枯流れの意匠とした、珍しい様式の庭です。枯流れは西から東へ流れるよう意匠されていて、西端は枯滝になっています。庭園西端にある枯滝石組。水落石に立石を使用し、その下部には大きめの栗石を置くことで、川の上流のような流れの激しさを表現しています。枯滝のやや東部にも、力強い立石が配されています。枯流れは所々に屈曲を。護岸石組は、江戸末期らしく丸い石が多く、弱い手法になっています。庭園東部には、前方へ
傾斜した亀頭風の立石が見られます。庭園東部は比較的護岸石組が多く、東端には切石橋が架けられています。
方丈後庭は、護岸石組などには弱さが見られるものの、枯流れを意匠の中心にするという、興味深い庭です。芸術性の乏しいものが多い江戸末期の庭園にあっては、非常に洗練された庭と言えるでしょう。
<坪庭>
 方丈東側に坪庭がある。三つの石が無造作に配置されています。二つの大き目の石の根元に笹が植えてある。このことより海に浮かぶ島と見える。作庭者何をイメージして作庭したのであろう、そして観覧者はこの庭から何を創造するだろう。

(5)開山堂 京都府指定文化財
 開山堂はその名の様に開山夢窓国師の木造を安置しています。重要文化財法堂の東にあり、境内で最も重要な場所です。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛政6年(1666)後水尾天皇が、皇子八条宮穏仁はちじょうのみややすひと親王(16431665)のために再建されましたが、又天明8年(1788)天明の大火災で焼失しました。現在の江戸時代末期に桃園ももぞの天皇の皇后恭礼門院きょうれもんいん17431796)の黒御殿を賜って文化4年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部の改造を行った。したがつて現在は前方の礼堂らいどうと、この奥に続く中央の祠堂しどう(祖先の位牌を祀ってある堂)とからなっていっる。
  正面奥には相国寺開山夢窓国師の木造を安置し、西の檀には無学祖元むがくそげん(仏光国師ぶつこうこくし)像、高峰顕日こうほうけんにち(仏国国師ぶつこうこくし)像、春屋妙葩しゅんおくみょうは(普明国師ふみょうこくし)像、足利義満像えを安置し、東の檀には相国寺縁の宮家の位牌や像を安置しています。



  開山夢窓礎石木像
 
   春屋妙葩木像
 
   開基足利義満木像

 前の礼堂は外回りで五間四間。南を正面とし、前に広縁、三方に落縁おちえんをもち、縁高欄えんこうらん(縁側の手摺)を付けた造りで、内部とともに元の御殿であった姿をよくとどめている。中央三間二間が身舎もや、その四方が廂ひさしという形(南の廂は広縁)で、正面中央は方丈のように桟唐戸さんからと(框かまちを組みたて、その間)に薄い鏡板を入れた扉)で、身舎内部との周りと三方の廂には畳が敷かれている。正面奥中央は繁桟の障子を立て、上に後水尾天皇筆の「圓明」の額を掲げる。この辺はもと御殿だった当時の廂にあたるので上の天井は勾配なりの化粧屋根裏である。
 両脇および東側は脇檀が増築され、仏光、仏国および普明の三国師、開基足利義満像、その他相国寺の功績者の像が安置されている。
<開山夢窓礎石木像>像高 114
 開山堂は「資寿院」と号した初建の時、夢窓国師像が安置されていたのであろうが、創建当時のものは既に焼失して今はない。現在の像が何時頃の者かはっきりとは、判らないが室町中期を下らないとおもわれる。従って文正元年(1466)までに再建されていた開山堂に安置された」のがこの像であろう。 本像は、小柄で痩身であるが、当時切っての博識明敏な国師の人柄を、実によく表現している。また国師は「夢窓肩むそうかた」という言葉が生まれるほど、その流れるようなほっそりとした肩が特徴であったといわれ。袈裟が滑りそうな肩(撫で肩)の感じがよくあらわされている。 後ろに大きな屏風びょうぶ(屏風の一種)を立て椅子に座す国師像に、侍真じしん(開山塔に侍す役僧)は毎朝般若心経一巻を読誦しながら浄布で洗面する、これは一日も欠かすことはない。これはから拭きであるが、傷がつかないように軽く拭く。表情が生き生きしているのはそのためれあろう。毎月二十一日を毎月忌として一山総出頭し、榜厳免りょうごんしゅを読誦し行導ぎょうどう(お練り)を行い。また毎年10月には毎歳忌を一派を挙げて厳修する。この日は大徳寺、南禅寺、建仁寺、東福寺のそれぞれの重役方も出頭される。
<春屋妙葩(普明国師))木像> 像高 92
 春屋妙葩(1311~1388)は夢窓礎石の法嗣である。足利義満の深い帰依を受け、相国寺を創建した。相国寺の実質開山であるが、師夢窓を推し、自らは2世となった謙虚な春屋妙葩は、開山塔の西側脇段にひっそりと祀られている。しkさし、夢窓派を五山第一の大門派に発展させたほどの人物である。峻烈な顔貌で、左手は拳を握り、右手に竹箆しっぺい(禅宗で、修行者を打つていまいめるに使う具)を持つ修行者説得の像である。
<無学祖元(仏光国師)木像> 像高 93
 開山堂に向かって左側に、無学祖元、高峰顕日、春屋妙葩の三国師の像及び開基足利義満の僧形の像が安置されている。
 本像は、夢窓国師の法祖無学祖元の木像である。無学祖元むがくそげん12261286)は、1226年、中国南部の主要都市慶元で生まれた。 慶元は唐時代以降明州と呼ばれていたが南宋の時代慶元に改名した。しかし、朱元璋しゅげんしょうが元帝国を倒し明王朝を建設すると、慶元は再び旧名「明州」に変更された。清時代になると、明州は、浙江省せっこうしょう寧波市ねいはしとなり、現在に至っている。
 無学祖元は、中国五山の第一位怪山万寿寺大34世の仏鑑禅師無準範ふじゅんしはんの弟子で逸材として知られ、姓は許氏、字は子元である。
 弘安年2年(1279)8月北条時宗の招きに応じて来朝した。これは南宋が元との戦いで敗れ南宋滅亡の年でした。
 同年8月、鎌倉建長寺へ入る。弘安5年(130012月。時宗円覚寺建立、無学祖元は開山となる。実質的に亡命であったと思われるが、日本に帰化して無学派の祖となる。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。
<高峰顕日(仏国国師)木像> 像高 90
  無学祖元(仏光国師)像の左隣りに安置されているのが高峰顕日(仏国国師)像です。高峰顕日は、開山夢窓国師の嗣法しほう(法統を受け継ぐこと)の師であります。国師は仁治2(1241)、後嵯峨天皇の皇子として城西の離宮に生まれられました。16歳の時東福寺の円爾弁円につき出家。弘安2(1279)暮に世良長楽寺の一翁院豪の仲介により長楽寺において来朝の早々の無学祖元に師事し、以後無学の教えを受け、同49月建長寺において無学祖元より無準師範所伝の法衣(法統)を受けました。
 当山の開山夢窓礎石は嘉元年(1303)京の万寿寺に住していた高峰顕日に始めた絵合った。高峰も夢窓の大器なるを見抜き、大いに弁作を加えられた。そしてついに嘉元3年(1305)鎌倉浄智寺において、仏光国師相伝の法衣(法統)を疎石に与え、印可いんか(証明書)を下されまし。
 
嗣法の弟子には、夢窓疎石をはじめ大平妙準、元翁本元、天岸慧広らが輩出し、蘭溪道隆の大覚派と並び、仏光派は高峰によって関東禅林拡大の基礎を作りました。
  本像もやはり延宝8(1680)1020日、当山第百一世太虚顕霊の寄附により、仏光像と同じく仏師了無に命じて彫刻、開山塔に奉安されました。

<開基足利義満木像> 像高 92
 開山堂西側脇段に、無学祖元・高峰顕日・春屋妙葩各禅師と共に安置されている。頂相ちんそう(肖像画)風の木像で肖像画と同じく法体ほったい(僧体)で表されているが、袈裟の織り方が禅僧の袈裟とは別の仕立てになっている。しかし隣に座す春屋妙葩に一身に参禅に励んだ義満らしく、曲彔きょくろく(法会の際など、僧が座る椅子)に座し禅定印を結んだ姿はまさに禅僧と見紛うほどである。

 
   開山堂」庭園・龍」淵水の庭
 
   庫裏「香積院・京都府指定文化財」

<開山堂庭園(龍渕水の庭)>
 開山堂の南庭園は、手前が白砂敷の平枯山水、奥部が軽くなだらかは蘚こけ地築山となって、その間を幅5尺(約150㎝)ほどの小川が流れていましたが、昭和10に水源が途絶えてしまいました。この流れは上賀茂から南流する(南の方向に流れる)御用水「賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流」取り入れたもので寺ではこれを「龍淵水りゅうえんすい」と称し、開山堂を出てからの水路を「碧玉構へきぎょくこう」と称していた。

(6)庫裏・京都府指定文化財
 相国寺の庫裏くりは。香積院と号し、文化4年(1807)の建立。禅宗寺院に多い切妻妻入きりつまつまいり(屋根の三角形の見える方が正面で出入口のあるもの)りで、大きい破風や壁面が印象的ある。正面に向かって左側にある大玄関は、明治16年(18/83に二世国師の五百年遠忌に際して設けられたもので、それまでは韋駄天いだてんを祀る室であったと考えられています。バランスのよい立面を持つ相国寺の庫裏は、五山の大型庫裏の遺構として。歴史的にも重要なものです。
 庫裏とは、仏教寺院における伽藍の一つ。庫裡とも書く。裡は裏の俗字であり、どちらも“うち”“なか”をいみする。寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の台所を兼ねる場合がある。なお現在では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多い。禅宗の寺院では、伽藍の守護として韋駄天が祀られることがある。

 
  経蔵・京都府指定文化財
 
  鐘楼(洪音楼)・京都府指定文化財

(7)経蔵・京都府指定文化財
 相国寺は、足利義満第三代将軍が永徳2年(1382)着工。明徳3年(1392)竣工したが、その後、何回か焼失、再建を繰り返した。承応2年(1653)後水尾天皇寄進により、三層宝塔が建設された。この時、後水尾天皇出家落髪時の髪と歯が柱心に納められた。
 1778年天明の大火災で三重宝塔は焼失し、その跡地に後水尾天皇の歯髪塚げ築造
された。宝塔の跡地に安政8年(1859)より再建、万延元年(1860)建立されたのが現在の「経蔵」である。その際に経蔵置き場を兼ねることになり「経蔵を兼ねた宝塔として機能」した。そして、「桂昌院けいしょういん(家光の側室、綱吉の母)寄贈の高麗大蔵経を納め」てある。ところがこの経蔵は、「明治23年(1890)、宮内庁により南にうつされ、跡地を後水尾天皇歯髪塚とした」という。その結果現在位置にあるという。

(8)鐘楼(洪音楼) 京都府指定文化財
 開山堂の南に大きな鐘楼しゅろう(一般にしょうろうと言うが、しゅろうが正しい)がある。普通、鐘楼は内向きに傾いた4本柱の物が多いが、この最も一般的な形式のほかに、二重で下の重が城の天守閣の石垣のように下の広がった形の「袴腰はかまごし」の付いた型のものも多くみられ、「袴腰付鐘楼」などという。現存礼で言うと袴腰付は法隆寺東院にあるものが最古で、4本柱のものは東大寺の大鐘のかかっているのが鎌倉時代で古い。
 相国寺の鐘楼は「洪音楼」と号し、袴腰付のものでは大型のもので、袴腰の下に花崗岩の檀をもち、内部は階段により鐘を吊った上の重じゅうへ上がるようになった型通りのもので、縁下と軒下とにそれぞれ三手先の組物を用いる。その細部は江戸時代末期様式で、肘木の端も丸みが少なく、縁下の組物間には江戸末期の特色をもつ蟇股かえるまたを入れている。様式の系統から言うと和様の禅宗様(唐様)とが半々くらいの、従って折衷様ということになるが、この頃には純正な和様がごく少なくなり、禅宗様の入ったのが普通である。それらの中でこの組物は禅宗様をよく表し、普通の上に長手の肘木を重ねているし、尾垂木おだるき(組物から出ている反った斜材)も禅宗様である。尾垂木は和様式でな無しかあっても1本です。これに対し。禅宗様では組物によって0本から2本です。
 楼上には梵鐘を吊る。この鐘はこれも珍しく鏡天井とした天井から吊金具で吊られている姿の美しい古色を持った鐘である。各区画の中にごく多くの陰刻があり、順調な気候で災害や戦争がなく、国が豊かで人民の安らかなことなどを願う、お決まりの文句のあとに
  于時寛永六己巳季卯月七日
とあり、1629年の造立と知る。上部の乳も五行五列四面の合計百で、下端の駒の爪もそれほど出っ張らないものである。寛永六年は法堂の出来た慶長10年から24年後である。
相国寺の鐘楼他を圧倒するし、大きく立派であり、時代劇の背舞台背景として使われている。

(9)天響楼 日中両相国寺友好の鐘
 この梵鐘は、中国・大相国寺から寄進されたもので、平成23年(2011)8月1日落慶法要を営みました。 足利義満は春屋妙葩禅師に。寺の名称を相談した時のことです、春屋妙葩は、「現在貴方は左大臣の地位にあります。中国では、これを相国といいますゆえ相国寺と名付けたらいかがか」するとそばにいた高弟義堂は「中国にも大相国寺という寺があり、大いに結構」賛成しました。
 それから約600年後の平成4年(199211月日中両相国寺友好人の締結調印が行われました。それから20年後の、平成23年8月、中国大相国寺から梵鐘が寄付されました。

 
  浴室(宣明)京都府指定文化財
 
          八幡宮

10)浴槽(宣明せんみょう
 禅宗では、浴室は七堂伽藍の一つとして数えられ、僧堂・東司とうす(トイレ)とともに「三黙道場(会話談話が禁じられている三つの場所)」とされています。
 相国寺の浴場は宣明せんみょうと呼ばれ、創建時或いは創建間もなく(1400年頃)建設されたと考えられています。現在のものは慶長初年(1596)に再建されたもので、平成14年跋(2002)6月に「復元修復されました。宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名である。首樗厳経しゅりょうごんきょうの中に、十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩ばつだばらぼさつを始め菩薩達が忽然として自己と水が一如いちじょ(根本的に1である)ことをさとった。 禅宗の修行は、超能力や特殊な瞑想でもなく、また難行苦行でもなく、トイレ、入浴、食事など日々の行いの中に見出されるものでなろうか。

11)八幡宮
 八幡宮は、観応の乱で死亡した足利直義ただよしの居住の跡に、直義の霊魂を鎮めるため源氏の氏神八幡宮を勧請しました神社でした。

12)宗旦神社
 こちらには宗旦狐と呼ばれる狐の像がありましてこの相国寺には、むかし、古狐が住んでいたそうです。このきつねは夜寒よさむの頃になると、茶人である「千宗旦せんそうたん」という人に化けて、夜ごと近所の茶人の宅へ行き、茶を飲み菓子を食い荒らし、帰っていったそうです。そんな事が度々あって始め気付かなかった人々も、徐々に気付き始め、この宗旦に化けた狐を宗旦狐と名付けてみんなで一緒に化かされて遊んだという。 宗旦狐はとても賢く、その昔このお寺が財政難であった際に。彼の知恵によって救われたという故事が残されています。
 お寺の財政難をすくうために、蓮の葉を沢山あつめてきてこれを打って金に換えて大豆を買うように勧めたらしいです。その後、相国寺はこの寺のために尽くしてくれた宗旦狐に感謝し、境内にこの宗旦神社をつくり守護神として祀りました。




          Ⅳ.寺宝

    本尊釈迦如来木像
 
  夢窓礎石頂相
 
  春屋妙葩頂相

(1)本尊釈迦如来木像 像高 110㎝                       法堂安置
  本像は仏殿に安置すべき像であるが、相国寺の仏殿は応仁の乱で焼失以後はついに再建されることはなく、今日に至っている。従って慶長10年(1605)以来法堂と仏殿とを兼ねているのである。
 本像は、脇の阿雑尊者木像、迦葉尊者木像と同じく、鎌倉彫刻の代表作家、運慶の作と伝えられている。運慶は、父康慶の後をうけ、剛健な写実主義を完成した仏師で、円成寺大日如来、興福寺北円堂の諸尊、東大寺南大門仁王像などがその代表作とされているが、本像もまた優れた作例の一つである。重厚な蓮華台上に結跏趺坐けっかふざして禅定ぜんじょういん(仏像の手方の一つ)を結ぶそのお姿はまことにうつくしく、また力強い

(2)阿雑尊者木像 像高 126㎝                        法堂安置
 阿難は釈迦族の出身で、釈迦の従弟であった。生まれながらにして容姿端正、面は浄満月のごとく、目は青蓮華のごとく、その身は光浄にして明鏡のごとくなり、とある。そして十大弟子中、多聞第一といわれた。インドでは一般に学問は書物ではなく、師から弟子へと口伝で伝えるものであった。多聞とは、正しい教えを多く聞き、それを心に留めることである。だから「多く聞いている」といえば博学多識のことである。阿難は弟子中一番の博学者である。現在のお経も阿難の記憶によってできたとされています。

(3)迦葉尊者木像 像高 126㎝                       法堂安置
 本尊釈迦如来に向かって右側に立つのが迦葉かしょう尊者である。これも運慶作と言われる。迦葉尊者は釈迦十大弟子の一人、仏教教団で釈迦の後継者(第祖)とされ、釈迦の死後。はじめての結集(仏教の経。論、律をまとめた編集会議)の座長を務めた。生い立ち等、伝説が多く、諸説がある。
 8歳でバラモンに入門し修行して全てを得たが、更に出家して求道したいと考えていたが、20歳の頃、家系が途絶えるのを恐れた両親は、彼に結婚を勧めた。彼は仏師に金の美しい女人像を造らせて、これと同じ人ならば結婚居ようと結婚の条件をだした。ある日サーガラ川岸の沐浴場に像を置き休んでいると、妙賢の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから縁談がまとまった。しかし、彼女は16歳で、彼女自身が出家したいと感がていた。そこで両者は使者に手紙を遣わし結婚を断るように要請した。ところがお互いの使者が道で出会い、後々の事を考え両方の使者がそれぞれ
 手紙を破り捨てた。結婚後12年目に父母の死に会い夫人と共に出家した、

(4)夢窓礎石頂相  125×552 
 頂相は、元々三十二相の一つ無見頂相(仏ほとけの頭頂部にある肉髻にくけいの相)に基づき決して覗き見ることのできない崇高な如来の頭頂部の有様を示す。転じて師や祖師の顔姿も貴いとの考えからその肖像を示す用語となった。
 禅宗では言葉や仏典に拠らず、人と人との交流の中で直感的に悟りに至ることを重視しており、師匠の人格そのものが仏法として尊ばれ、弟子は師との厳しい精神的な修練を通じて悟りに至ると考えられた。そして師の僧が弟子の僧侶に対して、法を正しく継いだことを示す印可上の一部として自賛の肖像画を与え、弟子はそれを師そのものとして崇め、大切にしたことから、禅宗の普及と共に多く描かれた
 頂相が制作されたもう一つの大きな目的は、葬礼などの儀式に使用するためである。宋時代の清規(禅宗で、修行僧が守るべき生活規則)の規定では、高僧の葬儀にはその肖像画を掛けることになっていた。また、開山の忌日に行われる開山忌や、歴代祖忌などと呼ばれる儀式では、開山の画像や歴代祖師像を法堂にかけることもおこなわれた。
 さてこの像は普通の痩せ形の夢窓国師とは違い、肩幅のがっちりした像で、紙本であえため、かえって趣あるものとなっている。

(5)春屋妙葩頂相 117×552 
 春屋妙葩は夢窓亡き後の同門を統率して大門派に発展させた実力者である。伯父の夢窓礎石の門に入って学び、天龍寺、南禅寺などの住職を経て、初代僧録司となった。また、五山の刊行をはじめ室町初期の宗教、文化、政治、芸術、あらゆる面で傑出した人物であった。
 この頂相は、そうした春屋妙葩の優れた手腕家らしい一面と。五山僧としてのインテリ的な一面をうかがうに十分なものである。
 上部の賛は中国四明の浄慈寺住持祖芳道聯が。春屋妙葩の弟子の昌繕の依頼によって、永楽2年(日本の応永11年、西暦1404)1月8日に書いたことが知れる。春屋妙葩の寂後17年目であった。
 この像は曲彔きょくろく(僧の椅子)に小法被はっぴをかけ、右手に竹箆を持ち結跏趺坐けっかふざ(座禅で瞑想する際の座法)する修行者説得の状態を描いたものである。
 この像の左隅に「破草鞋はそうあい」印が押されてあり、東福寺の画僧吉山明澄兆の筆であることが知れる。小法被と踏床のみに緑青で彩色されるくらいで、あとは比較的淡彩で地味な調子で描かれている。踏床の上に無造作に乱れて脱がれた沓が、かえって自然で印象的である。 

(6)足利義満   129×742 
 足利将軍の絵画も世に多く伝わるが、これは、禅宗の頂相に倣ったものであろう。
 画像には武将姿、公家姿、僧形などあるが、これは。頂相と同じ形式で、多くは図上に賛語がかからている。
 本像は僧形で賛はない。しかし法衣をまとい、背の低い椅子にかけ、数珠を持つ義満晩年の姿が実に堂々と描かれている。形式はまったく頂相の場合と同じで、法衣姿も堂に入っており、室町幕府の完成もなし遂げ、功成り名遂げた貫禄がいかんなく描き出されている。

(7)西笑承兌頂相 125×522 
 西笑承兌さいしょうじょうたい15481607)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。相国寺の中興とあおがれる。天文17年(1548)生まれ、おさなくして当時伏見にあった大光明寺(現在は相国寺塔頭)の麟甫和尚について得度、また相国寺の仁如集尭にんじょしゅうぎょう14831574)について詩文等を学んだ。同門には、近代儒学の祖で、江戸幕藩体制の思想の支柱となった藤原惺窩せいかがおり、ともに切磋琢磨した中であった。
 天正12年(1584)に荒廃していた相国寺に住する。中華承舜の嗣法となって夢窓派に転じ、相国寺を再建、相国寺中興の祖と呼ばれる。翌年には鹿苑僧録ろくおんそうろくとなった。その後、南禅寺に入ったが、再度鹿苑僧録となり、豊臣秀吉の政治顧問となる。文禄の役後の講和交渉では、秀吉の前で明使節からの柵封状を読み上げたという逸話でも知られている。


  白衣観音像

  釈迦如来像


  文殊菩薩像

(8)白衣観音像 191×792 吉山明兆筆
 この白衣観音像は、観音懴法の「本尊観世音菩薩」として方丈の中央に掛けられるものである。吉山兆民きつさんみんちょうの署名と落款らくかん(号印)がある。
 吉山兆民(13521431)は、淡路国物部郷(兵庫県洲本市物部)にうまれた。字は明兆。西来寺(洲本市)で出家後。臨済宗安国時(淡路市)に入り東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。天性、画を好み参禅を怠り、師の戒めにも改めなかった。かって不動尊を画くを見て深くその才能を知り、師もついに許して画学に専念させ、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元台の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、日本絵画史に大きな影響をあたえた。
 応永年中(13941428)東福寺の殿司とのもづかさ(仏殿その他の仏事法要を司る役)となり、南明院に住し、ゆえに世に兆殿司と称せられた。南北朝時代後期から室町にかけて活躍し、多くの肖像画、仏画、水墨画をのこしている。特に極彩色の大作には優れたものがあり、また水墨山水画を中心とする唐絵の初期の大成者でもある。
 さてこの像は白衣観音と敬礼いわれるもので、白衣を風に靡かせた大輪の蓮華一枝をもって静かに下界を見下ろしながら立つ姿は、幽寂、尊厳な菩薩そのものである。観音菩薩は三十三応身といわれ、いわれ、菩薩の名号をとなえる者あらば、声に応じて即座に諸身を現じ、救うべきは全てことごとく御救いくださるのであり、大慈大悲の權化ごんげの聖者である。この像はまさにその大慈悲の姿を現す明兆の傑作である。

(9)釈迦如来像  210×1112 伊藤若冲筆
  伊藤若冲は京都の中心街高倉錦小路の青物問屋の長男として享保元年(1716)2月8日に生まれた。家業の傍ら狩野派の画を学んだが、その粉本ふんぽん(下書)主義に飽き足らず、尾形光琳やさらに明、清画を学びついに独自の写生を基調とした装飾的趣の画風を完成させたのである。 明和2年(1765)弟の死を契機とし、釈迦、文殊、普賢の三尊像と動植綵絵うしょくさいえ三十幅とを両親と弟と、そして自分自身の永代供養料として当山に寄進した。動植綵絵は、伊藤若冲の代表作の一つであり、江戸時代中期にあたる宝暦7年(1757)から明和3年(1766)頃にかけての時期に制作された、30幅からなる日本がであり、動植物を描いた彩色画である。
 当山第百十三世梅荘顕常は、若冲の真率無垢な性質をこよなくあいして深く交わり、宝暦10年(1760)「藤景和画記」をかいており、また明和3年、若冲の寿塔に偈銘を書している。寛政12年(1800)9月10日、85歳で世を去った若冲の遺髪は法蔵寺と相国寺に埋められている。

10)文殊菩薩像 210×1112           伊藤若冲筆
(11) 普賢菩薩像 210×1112           伊藤若冲筆
 明和2年(1765)寄進された若冲筆三尊仏のうちの文殊菩薩及び普賢菩薩である。この両幅は毎年」の観世音懴法の時、吉山明兆の白衣観音の本尊の両脇侍として掛けられる。
 文殊菩薩は正しくは文殊師利菩薩といい、妙徳、妙吉祥などと訳す。般若の説法と頗る緊密の関係があり、普賢菩薩とともに釈迦の左側に侍して知恵を司る菩薩。常に獅子に乗る。また子供に知恵を授ける菩薩として民間に親しまれて奉信されている。
 普賢ふげん菩薩は一切の仏の利徳、定徳、行徳を司る。文殊の智徳、証徳と相対しているのであり、普賢の理に対し文殊の智、普賢の行に対して文殊の証とされ、常に釈迦如来の両脇侍として、それぞれ仏の理、仏の智を司っている。
 三像とも真正面を向いているのが特徴で、若冲がこれを描くのにいかに真剣に取り組んだかがうかがえる。文字通り驚くべきち密さで精魂を傾けた傑作であるが、明和2年の寄進餓状によると「かって張思恭ちょうしよう(明の画家)画の三尊体を観てその巧妙無比なのに感動して…ついに三尊三幅を完成したのだ」とのべている。張思恭は中国の著名な仏画師であり、濃密な着彩と緻密な装飾が特徴てあり、伝統的様式からは外れたラマ教的なところを取り入れた異色のあるもので、若冲はむしろそれを完全に超越した独自の物を作り上げたのです。この三像と同時に寄贈された動植綵絵もまたこれと同様の極彩色の鮮やかなものである。
 当山では寄進を受けたこれらの両軸を、毎年観音懴法の日に、方丈の室中の白衣観音像の両側に文殊菩薩像、普賢菩薩像を、東の竹の間、西の梅の間の間にそれぞれ十五幅ずつくを懸け並べた。動植物の諸態はあたかも観音三十三応身のごとくに見立てられた壮観は、正に法悦の境そのもののごとく、懴法の雰囲気は、いやが上にも盛り上がるのである。しかしこの傑作も、明治二十二年1223日、釈迦三尊をのこし、あとは宮中に献納され。金1万円を下賜された。そしてそれを資金として、人手に渡らんと仕手いた周囲の廃寺跡を買い戻し、現在の寺領を保ったのである。これは独園禅師の大英断であり、当寺としては、計り知れない大きな利益であった。
 当山では毎年915日に一山総出頭のもとに斗米庵とべいあん若冲居士忌を厳重に修行しており、各塔頭でも、朝課の回向に必ず斗米庵若冲居士の戒名を読み込んである。

12)十牛図 径各14㎝   伝周文筆   
   十牛頒        絶海中津筆
 絶海中津ぜっかいちゅうしん13341405)は南北朝時代から室町時代前期にかけて臨済宗の禅僧、漢詩人。道号は絶海。中津は諱いみな。義堂周信ぎどうしゅうしん13251388)とともに五山文学の双璧と称されてきたが、20世紀後半から義堂より詩風の高さを評価され、五山文学ひいては中世文芸史の頂点をなすと論じられている。
 建武元年(13341113日土佐国高岡郡津野(高知県高岡郡津野)を支配していた豪族津野氏の一族として生まれる。義堂周信とは同郷である。貞和4年ん(1348)に上洛して天龍寺に入った。観応元年(1350)に剃髪する。そして翌年に師匠である夢窓礎石が死去するまでは、その側に仕えたと言われる。
 応安元年/正平23年(1368)には明に渡海し、杭州の中天竺寺に入った。その後も霊穏寺、護聖万寿寺などに赴いて用貞輔良ら明の高僧らと出会い。これらの教えを受けた。洪武9年(1376)には明の太祖である洪武帝(朱元璋)から謁見を許されている。洪武11年(1378)に日本に帰国した。この民への渡海により、絶海中津は多くの高僧らと出会ったことで、俗的詩文の風と四六文の技法を身に着けたと言われている。また、このような明への渡海は、かっての師匠である夢窓と同じく、日本における政治家や武将たちからも一目を置かれる存在とみなされるようになった。



   十牛頒・絶海中津筆(重文)
 

   十牛図・尋牛・伝周文

 ある日義持が、絶海和尚に十牛図に基づいて禅の趣旨を質問したのに対し。十牛図は初心者向きにに無理に筋道を作り、働きのない働きを表わしたもので「これ(悟り)はもともとあなた自身のものであって、人の力をかりて得られるものではない。得てしまってみれば十牛の図などはただ門を叩く瓦で鹿ない」といい聴かせた。かくして義持は大いに納得して、師に十牛頒を書かせ、また画師に命じて自分の禅室の壁に図を画かせ、その上に頌を貼り、坐禅修行に励んだ、という。
 その時に絶海が書いたのがこの幅である。
 まず本紙は中国元時代の緑青の龍文で縁取りのしてある蝋牋紙ろうせんし(中国元の蝋を用いた貴重な紙)を三つ切りにして使っているが、皆が必ずしも一致していないところからみると、この手の紙が何枚かあり、その中から使用したのであろう。本紙の文様は、元青花魚藻文壺せいかぎょそうもんつぼなどにもよく見られる元特有の魚藻文が五枚、女子図が二枚、無地が三枚ある。
 相国寺には天章周文筆と伝える、十牛の図一巻があるが、記名がないので周文と断定できぬまでも、室町中期を下らぬ、極淡い彩色をもつ極めて優れた水墨画であることは論を待たない。
 周文は若くして相国寺に入り、参禅の傍ら画を学び、ついに画僧として一家をなし、宋元水墨画を集大成して日本的な水墨画様式を築いた人である。室町中期の水墨画最盛期の画家たちはみな周文の影響を受けたと言われ、日本水墨画の父とも言われている。雪舟らも相国寺で育ったのである。
 周文は寺院経営にも手腕を発揮しており、また仏像彫刻等にも手掛け、当時の相国寺では極めて重要な人物であつた。
 十牛図とは人間本来生まれながらにして持っている仏性、真如、法性、本心などというもの、それを見失ったのが迷いであり、これを取り戻し、自覚した時が悟りなので、この本有の仏性を牛に象徴して十図に分け、それぞれに序と頜を伏して失った牛を尋ね求め、見つけ出し、つかまえて飼いならす、といった具合に修行者のための修行の手引きとしたものである。

13)観音像   111×562 牧谿
14)寒山捨得図 110×392 可翁筆 一山一寧賛
 牧谿もっけい筆とする観音図と可翁筆、一山一寧賛の寒山捨得図の三幅対が相国寺に伝来されている。 白衣観音図は、立膝を抱えて空間を見つめ、岩上に座す構図をとり、雲の上から天女が舞い降り、岩下の波間から龍が顔を出している。なかなか重厚な量感もある。この図は無款であり、牧谿筆とは断言できないが、古くから牧谿として拝されてきたのである。
 牧谿(生没不)は、13世紀後半、中国南宋末元始の僧。法諱いみなは法常、牧谿は号。俗姓は李。中国ではほとんど無名に近いが、我が国では、水墨画家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されて来たが画家の一人である。
 中国崇慶府(四川省成都市の北西部)の出身、禅宗の高僧無準師範の門下に入ったとされる。中国ではあまり評価されなかったと言われるが、買似道かじどう(南宋の軍人・政治家、)のような大物政治家と関係があったことから、当時は画家として十分評価されていたと考えられる。しかし、中国では死後次第に忘却された。後代の文人画の流行により、牧谿が連なる院体画系の絵師や仏教美術は相対的に低く評価され・牧谿のその煽りを受けたと考えられる。
 牧谿作品は、14世紀始めの鎌倉時代末には日本に伝わった。南宋末元初と元末明初の王朝交代による混乱による作品流出や、日中の禅宗寺院の交流が頻繁で牧谿の同門には無学祖元などが来日した中国僧や円爾の他多くの日本人留学僧がいたことが背景にある。
 独特な技法により描かれる、見る者に湿潤な大気を実感させる水墨画は評価が高く、室町時代の水墨画大きな影響を与え、多くの追従者を生んだ。早い時期では可翁が有名である。15世紀の能阿弥になると「花鳥図屏風」のようにの牧谿の絵のモチーフを屏風の中にちりばめた作品まで登場してくる。牧谿のモチーフの中でも猿は非常に人気があり、雪村など関東水墨画の絵師たちも多くの作品を残している。最も熱心に牧谿を学んだ絵師は長谷川等伯である。
 現在、牧谿の優品はほぼ全て日本にあり、国宝、重要文化財に指定された作品も多い。中国。台湾・欧米にも伝称作を含め牧谿の絵はほとんど存在しない。
 寒山捨得かんざんじっとくは、中国唐の伝説上の二人で、天台山国清寺の豊干禅師の弟子である。捨得は、豊干ぶかん(生没不詳)に拾い養われたのでその名がある。寒山は清国寺近くの洞窟に住み、そのため寒山と称した。国清寺に往還して捨得と交わり、彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。ともに世俗を超越した奇行がが多く、また多くの詩を作ったという。しかし、これ等の業績は全て、天台山の木石に書き散らされた彼らの詩を集めたとされる「寒山詩集」に付けられた閭丘胤りょきゅういん名の序、および五代時代の杜光庭とこうてい850933)の「仙伝捨遺」に記された伝説に発する者で、寒山捨得の実在そのものを含めて真意のほどは確かめがたい。後世に禅僧などが彼のふるまいや生活に憧れ好画題として厚会うことが多かった。日本でも可翁、明兆などがえがいた。その詩は「寒山詩集」に寒山のもの約三百余首。捨得のもの約五十種を納め、全て無題である。 

 
  観音像・牧谿筆
   寒山捨得図・可翁筆
 
  十六羅漢(重文)

13)十六羅漢図 97×51
 十六羅漢とは、仏の命をうけて永くこの世に住し、衆生を救済する16人の大阿羅漢のことである。阿羅漢とは、一切の煩悩を立って尽智を得、世人の供養を受けるに足る聖者のことである。16人にはそれぞれの住居も決まっている。
 わが国には古くから羅漢の名画がおびただしく渡来されているが、陸信忠筆の十六羅漢も古来声価の高いものの一つである。
 浙江省東部にある港、寧波は、日本の貿易船が寄港するところとして貿易史上重要な港であるが、この地方には仏画師の集団があり、羅漢・涅槃、十牛図など寺院で必要とする仏画を制作していた。彼らの作品が日本へ将来されて、各寺院へ納められたのである。この十六羅漢の筆者、陸信忠も元代に寧波地方で活躍した一人である。
 本図には十六幅それぞれに、肉眼では分からないほどの小さな字で、いろいろな場所に「慶基府車橋石坂巻陸信忠筆」と署名がしてある。

 
  琴棋図・達仙筆
 
  鳳凰石竹図(重文)
 
    鳴鶴図(重文)

(16)琴棋図 各158×1032 達仙筆 
 琴棋図は古来中国で画題として好んで描かれたものの一つであるが、日本においても盛んに画題として用いられてきた。中国の文人墨客ぼっかく(詩文や書画などの風流を親しむ人)の間では、琴を弾くこと、碁を打つこと、画をかくこと、書をかくことを合わせてかくよびならわした。つまりこの四つは、風流画人の嗜みとされる四芸なのであり、この四つを熟こなさねば文化人の仲間入りは出来なかったのである。琴は女性のものと思いがちなこの頃と違い、男性も大いに琴を弾いたのである。
 特に注目すべきは、琴を弾く雅人のみが長い爪をしている点である。他の者は指先が描かれていない。当然のことであるが、弾琴の爪として印象づけている。

15)鳳凰石竹図 163×962 林良筆 (重要文化財)
 林良は、中国明時代中期の宮廷画家、広東生まれ、字は以善。同郷の顔宗に山水画を、何寅于に人物画を学ぶ。弘治年間(1488155)押されて宮廷に入り仁智殿に出仕。錦衣指揮の職に任ぜられた。「明画録」という書物には、その著色の花鳥画は精巧を極めたが。また水墨画にも秀で、煙や波の風情、鳥の動きなどを画いて実に精淡の趣があり、樹木の描写に至っては、草書のようにあり、他に及び難いものがあったとの記事がみえる。このように明中期から官邸画院に入り、お抱え絵師として著彩は勿論、水墨画にも抜群であった。日本にもかなり伝来していて、そのほとんどが水墨画であるが、真筆と認めがたいものの多い中で、本図はまさに林良の力量がいかんなく発揮された作で、草書のごとき筆妓の特徴が表れており、真筆を立証するにたる。岩上に立って朝日を観る一羽の鳳凰を画いたもので、その姿は実に颯爽たるものがある。

16)鳴鶴図 122.0×40.02  文正筆    (重要文化財)
 文正は中国明時代の画家で号を泉石と言うが詳しj伝記は明らかではない。現存する作例はこの鳴鶴図めいかくずが唯一のものである。右幅には飛翔する鶴、左幅には月を見上げて鳴く鶴が描かれている。動と静が対照的な画面の中で表現されている。相国寺第六世絶海中津が中国留学から帰国の際持ち帰ったもので、古来より名幅として知られる。六代将軍足利義教が閲覧したとの記録も残り、後の日本の画家たちの手本となった作品である。


  毘沙門天・重文
 
 白雲紅樹・重文
 
    竹林猿猴図屏風

17)毘沙門天図 114.0×28.72 雪舟等楊筆 (重要文化財)
 毘沙門天は、仏教の天部の神で、持国天、増長天、広目天とともに四天王の一つになっています。サンスクリット語でヴァイシュラヴァナと呼ばれていて、毘沙門がその音写です。意味は「全てのことを一切聞き漏らすことのない知恵のある者」と言う意味である。インドでは財宝の神様ですが日本では、四天王の一人として祀られるときは多聞天とよばれ、単独で祀られるときは他の国と同様毘沙門天と呼びます。 一般的に左手に宝塔を載せ鉾を持ち甲冑に身を固め、憤怒の武将形に表されることが多い。この図は衣が風をはらむ様が躍動的で、雪舟ならでは見事な描写になっている。毘沙門天と踏みつけられた邪鬼の面貌がおもしろい。

18)白雲紅樹図 122.0×40.12 池大雅筆 (重要文化財)
 白雲たなびく断崖絶壁から滝が流れ落ち渓流となる。紅葉した晩秋の山中に一人の高士が見える。めぐる季節の妙趣柴い見入っているのか、上流の懸崖に架かっている橋を越え、さらに山中を分け入るか。森閑とした山中の渓谷が見事に表されている。
 池大雅(17231776)日本の江戸時代の文人画家。享保8年(1723)京都の町人として生れる。姓は池野、字あざなを子職、公敏こうびん、貸成と変える。号は子井しせい、為竜いりゅう、大雅など頗る多い。堂号は持買堂たいかどう、大雅堂たいがどう、袖亀堂しゅうきどうなど。父は池野嘉左衛門かざえもんは京都の銀座役人中村氏の下役を務めた裕福な町人であったが、幼い頃死別、教育熱心な母の手で育てられた。6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始めた。習い始めたばかりの頃、宇治万福寺12世果堂元昶こうどうげんちょうからその能書を褒められるなど「神童」と評判をえた。
 絵は始め「八種画譜」などの中国木版画譜を通じて独学、15歳の時には扇絵を描いて生計の足しとするなど、若くしてすでな天賦の才能を示している。やがて中国の明・清の新しい画法、とりわけ南宋画法に傾倒して同好の士と本格的な研鑽を積み。大和郡山藩やまとこおりやまはんの文人画家柳沢淇園やなぎさわきえんの感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになる。26歳のとき江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画しとうがで評判をとった。指頭画は、筆の代わりに手指を使って描く絵である。通常は水墨画であり、指の腹や指先、爪、場合によっては掌てのひらや肘なども使い、様々なタッチを使い分けて描かれる。中国で発祥したもので、古くは唐の張璪が手を使って描いたという。のちの清の時代に高其佩こうきはい16601734)が出て指頭画を大成し、山水画、人物画、花鳥画と様々な画題を指で描いて評判のとり、彼以降様々な画家が指頭画を試みるようになった。
 日本では柳沢 園がとりいれ、南画に影響をあたえ。池大雅が受け継いで大成した。大雅による指頭がとして万福寺襖絵の5百羅漢図などが知られている。
 東北から帰洛後さらに北陸地方を遊歴、28歳の観念年(1750)には紀州藩に文人画の大家祇園南海ぎおんなんかいを尋ねるなど、度重なる遠遊に自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉を持ち、人格を陶治とうやした。29歳のとき白隠慧鶴はくいんえんかくに参禅さんぜん(禅の道に入って修行すること)、このころ祇園の歌人百合ゆりの娘町まちと結婚、真葛まくずヶ原に草庵を結んだ。
 舶載された中国の画論や画譜(絵画を種類別に分類した本)、あるいは真偽取り混ぜ中国画蹟がせきを通じて独習し、来舶清人伊孚九いふきゅうの画法にことに啓発されながら独自の作風を確立した大雅は、30歳代以降、新興の文人画(南画)派の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。
大雅の作風は単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものでなく、桃山以来の障壁画しょうへきがをはじめ、土佐派や琳派りんぱなどの日本の装飾画法、さらには新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容し、総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深い空間把握をそのよき特徴としている。

19)竹林猿猴図屏風 

 この屏風は四十歳半ば頃の作品と言われ、この期に入って本格的に雪舟など室町水墨画は勿論、中国の古画へと進み、牧谿の影響を大きくうけている。 阿弥派風な柔らかく深みのある竹林と。古木に遊ぶ三匹の親子猿を描いているが、明らかに中国の牧谿を学んで、自己のものとしたあとがうかがえ、日本的な情の世界と中国の厳しさとを合わせもつのであり、等伯の歩んだ途を知る貴重な資料である。
 長谷川等伯(15391610)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師で、狩野永徳、海北友松らと並び桃山時代を代表する雅人である。
 能登国・七尾の生まれ、20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀年(1571)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び。牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。
 天文8年(1539)能登国七尾に能登国大名畠山氏に仕える下級家臣の奥村文の丞宗道の子として生れる。幼名を又四郎、幼い頃に一族で染め物業を営む奥村文次と言う人物を介して、同じ染め物を営む長谷川宗清の養子となった。宗清は雪舟の弟子である等春の門人として仏画などを描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。等伯は等春から直接絵をならったことはないと考えられるが、「等伯画説」の画系図では自分の師と位置付けており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春からとったものと考えられる。等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。当時は長谷川信春と名乗っていた。
 現在確認されている最初期の作は、永禄7年(156426歳筆の落款のあるものだが、その完成度は極めて高い。 元亀年(1571)等伯33歳の頃、養父母が相次いでなくなり、それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛、郷里の菩提寺・本延寺の本山本法寺をたより、そこの塔頭教行院に寄宿した。翌元亀3年(1572)には、この年に32歳で死去した本法寺八世住職日尭の肖像画「日尭上人像」を描いている。
 最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、障壁画などを細見する機会を得た。それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していった。この頃も信春号をもちいており、「花鳥図屏風」(明覚寺蔵)など優れた作品を残しており、天正11年(1583)には大徳寺塔頭である総見院に「山水、猿猴、芦雁図」を描いたという記録があり、利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという。天正14年(1586)豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している。
 天正17年(1589)利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たした。等伯の号を使い始めるのは、この頃からである。
 天正18年(1591)前田玄以げんい15391602)の働きかけで。秀吉が道営した仙洞御所対屋障壁画の註文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心がうかがえる。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が受注に成功した。この豪華絢爛な金碧障壁画きんぺきしょうへきがは秀吉にも気に入れられて知行200石を授けられ。長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不孝に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(15931595)頃に代表作である「松林図屏風」(東京国立博物館)が描かれている。
 等伯は私生活では不幸もあったが、絵師としては順調であった。慶長4年(1599)本法寺寄進の「涅槃図」以降、「自雪舟五代」を落款に冠しており、自身を雪舟から5代目にあたると標榜した。
 雪舟・等春・法淳(養祖父)・道浄(養父)・等伯
 等伯によると等春とうしゅんは、雪舟派の画家であり、加賀富樫氏に3年間留待ったことがある。この間に、養父か養祖父が等春から教えを受けていた可能性がある、等伯は、養祖父・法淳が等春からの教えを受けたとして、雪舟派の五代目になると自称したのである。
 これが功を奏し、法華宗以外の大寺院から次々と作成を依頼され、その業績により慶長9年(1604)に法橋に叙せられた。慶長10年(1605)には方眼に叙せられ、この年に本法寺客殿や仁王門の建立の施主となるなど多くの物を寄進、等伯は本法寺の大壇越となり、単なる町絵師ではなく町衆として京都における有力者となった。
 慶長15年(1610)。徳川家康の要請により次男・宗宅を伴って江戸に下向するが旅中で発病、江戸到着後2日目にして病死した。享年72歳。
 

 


 

 

 

 


 



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